さいたま地方裁判所 平成11年(ワ)699号 判決 2001年9月26日
原告
甲野花子
外2名
上記3名訴訟代理人弁護士
鳥生忠佑
同
青木護
同
村崎修
被告
学校法人自治医科大学
同代表者理事
大林勝臣
被告
乙川一郎
上記2名訴訟代理人弁護士
加藤済仁
同
桑原博道
同
松本みどり
同
岡田隆志
主文
1 被告らは、連帯して、原告甲野花子に対し、3125万3264円、原告甲野一子及び原告甲野一太に対し、それぞれ1252万6632円並びにこれらに対する平成9年11月14日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用はこれを7分し、その6を被告らの負担とし、その余を原告らの負担とする。
4 この判決は、主文第1項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
被告らは、連帯して、原告甲野花子に対し、3606万円、原告甲野一子及び原告甲野一太に対し、それぞれ1447万5000円並びにこれらに対する平成9年11月14日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
原告らは、亡甲野太郎の相続人である。太郎は、被告学校法人自治医科大学(以下「被告法人」という。)が運営する附属大宮医療センター(以下「医療センター」という。)において診療を受けたが、死亡した。担当医師は、同被告の被用者である被告乙川一郎であった。原告らは、被告乙川に過失があった(呼吸器感染症の症状を呈していた太郎に対し、病原菌を特定するための検査を行わず、医療センターに勤務する他の呼吸器専門医の診断を受けさせることもなく放置し、太郎が肺アスペルギルス症を発症していることが判明した後も緊急入院の措置を怠るなどして、太郎を肺アスペルギルス症により死亡させた)と主張し、被告法人に対しては診療契約上の債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づき、被告乙川に対しては不法行為に基づき、損害の賠償を求めている。
1 前提となる事実(証拠の摘示のない事実は、当事者間に争いがない。)
(1) 当事者
ア 原告甲野花子は太郎の妻、原告甲野一子及び甲野一太は子であり、いずれも太郎の相続人である。
イ 被告法人は、自治医科大学を設置し、同大学の附属機関として、医療センターを設置、運営する学校法人であり、被告乙川の使用者である。
被告乙川は、同大学の教授であり、太郎の診療が行われた当時、医療センターの内科医長及び第一総合診療科科長を務めていた医師である。
(2) 太郎の死亡に至る経緯
ア 太郎は、昭和62年に肺がんと診断され、防衛医科大学校病院において左肺上葉切除の手術を受けたことがあり、平成7年7月10日、被告法人との間で診療契約を締結して、同日から、高血圧、糖尿病、高脂血症の治療のため、医療センターの第一総合診療科に通院するようになり、平成8年5月21日から、同科の主治医を被告乙川が担当することになった(甲第6号証)。
イ 検査の結果によると、太郎の平成9年6月4日の急性反応物質であるCRP(C反応性タンパク・C-reactive protein)の値(ミリリットル/デシリットル)は、1.2であったが、同年7月2日には、7.1に上昇していた。CRPの値は、1.0以下が基準とされており、それを超える値の場合は、炎症の有無を調べる必要があるとされている(甲第6号証、第11号証)。
同日以降、以下のとおり、CRPの値が高い状態が継続した。
(ア) 平成9年 7月30日 8.3
(イ) 同年 8月6日 8.6
(ウ) 同年 8月13日 7.0
(エ) 同年 8月27日 7.0
ウ 太郎は、平成9年7月12日風邪で咳、のどの痛み及び発熱で他院を受診したが、症状軽快せず、同月16日被告乙川の診療を受け、被告乙川は、咳がひどくて治らない旨太郎が訴えたところ、ポンタール(鎮痛・消炎・解熱剤)、スパラ(抗生物質)、メジコン(鎮咳剤)及びダーゼン(抗炎症剤)の各薬剤を処方した(甲第6号証)。
エ 太郎は、同様の症状を訴えて、同月24日にも同じ薬剤を処方された(甲第6号証)。
オ 太郎は、同年8月6日に受診した際、咳が続き、動悸、倦怠感も続いている旨訴えた。
被告乙川は、上気道炎、気管支炎などの呼吸器感染症を疑い、同日、胸部レントゲン検査を行った。そして、ポンタール、メジコン、ダーゼンを処方した。
カ 太郎は、同月13日に受診した際、だるさ及び息切れを訴えた。
太郎の肺がん再発を疑った被告乙川は、同日、胸部単純CT検査を予約し、同検査は、同月25日に実施された。その検査報告書には「左肺には残存肺があるのですが、気管支の同定ができず、どこの肺が残っているのか、CTでは評価不能です。左胸膜が肥厚し、胸腔内にニポーを形成しています。オペ後の気管支瘻か胸膜浸潤を考えたいです。左残存肺に結節を認めますが、炎症性変化と思います。精査をお願いします。」と記載されていた。(甲第6号証)
キ 被告乙川は、同月27日、太郎が同年9月7日から同月14日まで中国へ旅行することを認めた(甲第6号証)。
ク 同年9月16日、太郎に対し、胸部造影CT検査が実施された(甲第6号証)。
ケ 被告乙川は、肺がんの再発を疑い、同月17日、要旨「風邪様の症状が出現し、CRPが高値を示している。胸部造影CT検査の結果、結節様陰影の増加が認められた。再発結節の可能性を否定できないので、よろしくお願いする。」との内容の防衛医大病院の第2外科の医師である尾関雄一(以下「尾関医師」という。)にあてた紹介状を作成し、太郎に交付した(甲第6号証、乙第1号証の1)。
コ 尾関医師は、同月22日、被告乙川に対し、肺がんの再発とは考えにくい、炎症による変化の方が考えやすく、同年10月3日に気管支内視鏡を予定している。呼吸器に関しては防衛医大病院の側でフォローアップする旨報告した(甲第6号証、乙第1号証の2)。
サ 尾関医師は、同年10月3日、防衛医大病院において、太郎に対し、気管支内視鏡検査を行い、気管支肺胞洗浄液を採取して細胞診、培養検査に回した。同月13日、培養検査の結果、アスペルギルス菌が検出された(乙第15号証)。
シ 太郎は、医療センターを再度受診し、被告乙川は、同月22日の診療の際、医療センターへの入院を指示した(甲第6号証)。
ス 尾関医師は、同月27日、防衛医大病院において、太郎に対し、胸部レントゲン検査を行った。太郎は、その際、医療センターに入院することになった旨を告げた。(甲第25号証)
セ 太郎は、同月30日、医療センターに入院した。
ソ 太郎は、同年11月1日及び3日、医療センターにおいて喀血した。
タ 太郎は、同月14日、医療センターにおいて、肺アスペルギルス症により死亡した。
(3) 肺アスペルギルス症について
ア 肺アスペルギルス症は、真菌であるアスペルギルス菌により引き起こされる。我が国で最も多く見られる肺真菌症が肺アスペルギルス症である。肺アスペルギルス症は、肺感染症に関する内科学の基本疾患の一つとして、医学生の段階で学び、かつ、家庭医学書にも登載されており、広く知られている。肺アスペルギルス症は、おおよそ侵襲性と非侵襲性とに分けることができる。侵襲性肺アスペルギルス症は、白血病を中心とした血液疾患患者や悪性腫瘍患者、あるいは副腎皮質ステロイドや免疫抑制剤投与中の免疫不全宿主に発症する。非侵襲性肺アスペルギルス症は、先行肺疾患により肺既存構造が破壊された部位(空洞)等に多く発症する。ここにいう空洞とは「ある臓器が炎症を起こし、死んで崩れた組織を臓器の外に排出したために後にできる空間」のことであり、したがって、その周囲には炎症が存在することが多い。非侵襲性肺アスペルギルス症は、この肺の空洞にアスペルギルス菌が感染し、終局として肺に広範囲の強い破壊性病変をもたらす進行性の疾患である。
イ 非侵襲性肺アスペルギルス症の治療は、アムホテリシンB(AMPH―B)、フルシトシン、ミコナゾール、フルコナゾール、イトラコナゾール等の抗真菌薬の内服、点滴、空洞内注入(気管支鏡による経気管支注入など)又は外科的切除(根治的治療)によってなされる。
2 争点及び争点に関する当事者の主張
(1) 争点1
被告乙川には、太郎の診療を行うについて、医師としての注意義務違反があったか、否か。被告乙川は、太郎の死亡につき、不法行為責任(民法709条)を負うか、否か。被告法人は、太郎の死亡につき不法行為責任(民法715条)又は診療契約上の債務不履行責任を負うか、否か。
(原告らの主張)
ア 被告乙川は、平成9年7月2日以降、太郎が呼吸器感染症を発症していることを疑っていた。また、太郎の以下の症状等からして、呼吸器感染症の中でも特に肺アスペルギルス症を疑うべき状況にあった。
(ア) CRPの値が7月2日以降高い状態で推移していたこと
(イ) 7月2日以降8月27日まで咳と痰を訴えていたこと
(ウ) 長期間にわたり、動悸、倦怠感、だるさ及び息切れを訴えていたこと
(エ) 抗生物質であるスパラや鎮咳剤が効かなかったこと
(オ) 同年8月6日に撮影された胸部レントゲン写真に、肺アスペルギルス症の特徴的所見である空洞周囲の浸潤影や空洞壁の全周囲にわたる肥厚が見られること
(カ) 太郎は、昭和62年に肺がん手術を受け、肺左上葉を切除した既往歴を有すること
イ ところが、被告乙川は、以下の事実から窺われるように、太郎の症状等を正確に認識・把握せず、平成9年10月22日に入院を指示するまで、肺アスペルギルス症に罹患しているのではないかと疑わなかった。
(ア) 同年8月6日に至るまで肺がん手術の既往歴を認識していなかったこと(聴診器を当てさえすれば手術痕が見えるのに、被告乙川は、太郎に対して聴診器を当てたこともない。なお、診療録には聴診器を当てて胸部エラー音があった旨の記載があるが、この記載は、後日書き加えられたものである。)
(イ) 肺アスペルギルス症の症状を看過し、単なる風邪と誤診していたこと
(ウ) 同年9月7日からの中国旅行を認めたこと
ウ 病原菌を特定するための検査を行わなかった過失
被告乙川は、呼吸器感染症の発症を疑っていたのであるから、その病原菌を特定するために必要な検査を行うべきであり、とりわけ、肺アスペルギルス症の発症を疑うべき状況にあったのであるから、同症の鑑別のための検査を行うべき注意義務があった。具体的には、検痰、気管内採痰、気管支肺胞洗浄液からの培養検査や血清学的検査を行うべきであった。
それなのに、被告乙川は、容易にできるこれらの検査を行わなかった。
エ 呼吸器専門医の診断を受けさせなかった過失
仮に、被告乙川が自ら上記ウの検査を行えない事情があったとしても、当時の医療センターの医療体制と被告乙川の置かれていた地位に鑑みれば、被告乙川には、太郎に対し、医療センターの呼吸器専門医師の診断を受けさせるべきであった。
それなのに、被告乙川は、自ら診療を行うことに固執し、そのような措置をとらなかった。
オ 早期入院ないし緊急入院措置をとらなかった過失
仮に、被告乙川が上記ウの検査を行わず、呼吸器専門医の診断を受けさせないのであれば、被告乙川は、太郎に対し、平成9年8月及び9月の段階で入院措置をとり、若しくは、同年10月22日の時点で、緊急入院の措置をとるべきであった。
それなのに、被告乙川は、早期入院措置をとらず、かつ、同年10月22日の時点で入院を決めてから実際に入院をさせるまで、8日間も放置した。
カ 因果関係
本件において、被告乙川が、感染症の病原菌を特定するために必要な検査を行っていれば、肺アスペルギルス症と診断できた可能性は高く、診断ができれば、イトラコナゾールの投与等による内科的治療や患部の切除等の外科手術により治癒できた可能性が高かった。したがって、被告乙川の上記過失と太郎の死亡との間には相当因果関係がある。
(被告らの主張)
ア 肺アスペルギルス症を疑うべき状況にあったことは否認する。
(ア) CRPの値は、感染症のみならず、悪性腫瘍などによっても上昇する。
(イ) 咳や痰は、ほとんどの呼吸器疾患において認められる非特異的一般的臨床症状であり、肺アスペルギルス症に特徴的な症状ではない。
(ウ) 発熱の訴えはなかった。
(エ) スパラの使用中止は、呼吸器症状の消失によるものであり、その後症状が出た際に再使用していないのは、原告らが使用に反対したためである。また、スパラが効かないことは、同薬に感受性のある病原菌の可能性が否定されるにとどまり、肺アスペルギルス症を疑うべき理由とはならない。
(オ) 平成9年8月6日に撮影された胸部レントゲン写真に関する原告らの主張(アの(オ))は否認する。また、その写真には、肺アスペルギルス症に特徴的な所見である菌球の存在が認められない。
イ 被告乙川が太郎の肺がん手術の既往歴を認識していなかったこと、太郎に対して聴診器を当てたことがないことは、否認する。
ウ 被告乙川は、呼吸器症状が続いていることや肺がん手術の既往歴から、肺がん再発の可能性を疑い、その鑑別のため、平成9年8月25日に胸部単純CT検査を、同年9月16日に胸部造影CT検査をそれぞれ行ったが、肺がんの診断に至らないものの、肺がんの可能性も排除できなかったことから、太郎が受診を希望する防衛医大病院あての紹介状を作成して、太郎に交付した。その後、防衛医大病院において、肺がん鑑別のための気管支内視鏡検査が行われ、アスペルギルス菌が検出された。
被告乙川が太郎の症状等から肺がん再発の可能性を疑ったのは当然であり、同被告が行った検査は、肺がん再発の可能性がある患者に対するものとして、適切であった。
また、太郎の症状は、呼吸器感染症のみならず、呼吸器疾患全般の可能性を否定できないものであった。その場合の検査としては、胸部レントゲン検査及び胸部CT検査(造影検査)があるが、被告乙川は、いずれも実施している。
エ 病原菌特定のための検査を行わなかった過失について
以下の理由から、被告乙川が原告らの主張する検査を行わなかったことについて、過失があるとはいえない。
(ア) 喀痰からの培養検査は、口腔及び気道内の常在菌を排除することができず、仮に菌の存在が認められたとしても、病原菌としての意味を持つものかは判別できないから、実施しても診断に結びつき難い。
(イ) 気管内採痰、気管支肺胞洗浄液からの培養検査は、表面麻酔をかけるなどして気管に内視鏡を挿入して実施する検査(気管支鏡検査)であり、医的侵襲が大きい。
(ウ) 喀痰や気管支鏡で得た検体の培養検査、血清学的検査は、肺アスペルギルス症の診断にとって、感度の高い検査とはいえない。
(エ) そもそも肺がんが疑われた本件において、胸部CT検査等に先んじてこれらの検査を実施しなければならない理由はない。
オ 呼吸器専門医の診療を受けさせなかった過失について
他の専門医の診断を受けさせるべきなのは、検査を実施しても診断がつかないときである。被告乙川は、上記のとおり、レントゲン検査、CT検査等を行ったが、診断がつかないことから、防衛医大病院(呼吸器外科)へ診療を依頼している。
したがって、被告乙川が医療センターの呼吸器専門医の診療を受けさせなかったことについて、過失があるとはいえない。
カ 早期入院ないし緊急入院措置をとらなかった過失について
以下の理由から、被告乙川の措置について、過失があるとはいえない。
(ア) 緊急入院措置義務については、そもそも根拠が不明である。
(イ) 入院を決めてから実際の入院までに8日間ほどかかるのは、やむを得ないことである。
キ 因果関係について
(ア) アスペルギルス症に対する内科的治療としては、イトラコナゾールではなく、臨床効果の低いフルコナゾールが投与された可能性が高い。イトラコナゾールの有効性についても、疑問がある。
(イ) アスペルギルス症に対する外科手術は、合併症の可能性も高く、適応が限られている。
(ウ) 平成9年8月6日に気管支鏡検査を予約し、その結果有意な所見が得られたとしても、アスペルギルス症の治療開始は、同年8月末か9月初めであり、実際の治療開始日と1か月余りの違いしかなく、結果に有意な影響を及ぼすとはいえない。
(2) 争点2
太郎及び原告らに生じた損害の額は幾らか。
(原告らの主張)
ア 太郎の損害
(ア) 逸失利益 2930万円
太郎は、死亡当時60歳の男性であり、既に定年退職していたが、複数の企業から、経験を生かして勤務して欲しい旨の要請があり、再就職が予定されていたから、賃金センサス平成8年男子労働者「高専・短大卒」の514万9700円を基礎年収とする。また、太郎は一家の支柱で被扶養者が1人であったから、生活費控除率は40パーセントが相当である。就労可能年数は、平均余命の2分の1である10年とすべきである。中間利息控除率は、公定歩合や預金金利が極めて低水準である昨今の金融情勢を踏まえ、年1分とすべきであり、この場合の新ホフマン係数は、9.4857である。したがって、その逸失利益は、次のとおり、2930万円となる(1万円未満切り捨て)。
5,149,700×(1−0.4)×9.4857=29,309,105
なお、予備的に、ライプニッツ方式により年1分(係数9.4713)、年2分(係数8.9825)、年3分(係数8.5302)、年4分(係数8.1108)とすることを主張する。
(イ) 慰謝料 2860万円
被告乙川は、一般の内科医より高度の水準の医療を提供する義務があったにもかかわらず、毎回の診療が極めて杜撰であり、その必然的結果として、呼吸器に関する感染症検査を何ら行わないという一般の内科臨床医としての初歩的な注意義務違反を犯した上、自らの過ちを繕うためにカルテを改ざんした。したがって、慰謝料は、懲罰的に増額されるべきであり、一家の支柱であった者の慰謝料の基準額である2600万円に1割を増額するのが相当である。
(ウ) 原告らは、太郎の死亡により、同人に生じた損害(逸失利益、慰謝料)を法定相続分に従って、原告花子が2分の1、その余の原告らが各4分の1の割合で相続した。
イ 原告花子に固有の損害
原告花子は、以下の費用を自ら負担した。
(ア) 葬儀費用 120万円
(イ) 弁護士費用 591万円
(被告らの主張)
争う。
第3 当裁判所の判断
1 争点1について
(1) 前記前提となる事実に甲第6号証、第21号証、乙第3号証、証人下出久雄の証言及び被告乙川本人尋問の結果に後掲各証拠を併せると、以下の事実が認められる。
ア 肺アスペルギルス症について(本項全体について甲第4号証、第5号証、第8号証、第21号証、第22号証、第27号証、乙第36号証、第38号証)
(ア) 呼吸器感染症には、病原菌が真菌(カビの一種)であるもののほか、細菌であるものなどがある。細菌に対しては、当該細菌に感受性を有する抗生物質の投与が有効な治療法となるが、抗生物質の投与には、真菌や当該抗生物質が効かない細菌を異常に増殖させる現象(菌交代現象)を引き起こす副作用がある。したがって、呼吸器感染症の疑いがある場合、その病原菌を特定するための検査が必要であり、喀痰検査等が重要となる(甲第9号証)。
(イ) 肺アスペルギルス症は、真菌であるアスペルギルス菌が肺の中で異常に増殖して引き起こされる、呼吸器感染症の一種(肺真菌症)である。肺アスペルギルス症は、我が国で最も多く見られる肺真菌症であり、同症の症状としては、肺真菌症に共通して見られる咳、痰、発熱のほか、吐血や呼吸時の喉鳴りなどがある。
(ウ) 同症は、前記第2の1の(3)のとおり、おおよそ侵襲性(肺炎型)と非侵襲性(菌球型)とに分類することができるが、宿主の状態により相互に移行しうる。侵襲性肺アスペルギルス症は、白血病を中心とした血液疾患患者や悪性腫瘍患者、あるいは副腎皮質ステロイドや免疫抑制剤投与中の免疫不全宿主に発症する。非侵襲性肺アスペルギルス症は、先行肺疾患等により肺既存構造が破壊された部位(空洞)等にアスペルギルス菌が感染して発症する。アスペルギルス菌が増殖し、菌球を形成することが多い。なお、空洞の周囲には、炎症が存在することが多い。
(エ) 肺アスペルギルス症の診断は、胸部レントゲン検査のほか、喀痰、気管内採痰又は気管支肺胞洗浄液からの培養検査や、血清学的検査(血清沈降抗体の寒天ゲル内拡散法による検出)等によって行われる。
非侵襲性肺アスペルギルス症の発症を知る最も重要な所見は、胸部レントゲン写真の変化である。非侵襲性肺アスペルギルス症は、胸部レントゲン写真に菌球(菌球はレントゲン写真所見上の名称であり、形態上はアスペルギルス菌塊がこれに相当する。)が見られることが多く、この場合は、比較的容易に診断が可能である。しかし、菌球が形成される過程の段階にあるものや、そもそも菌球を形成しないものなど、菌球の所見が認められないものも少なくない。
もっとも、菌球の所見が認められないからといって診断が不可能というわけではない。非侵襲性肺アスペルギルス症のレントゲン写真初期像の特徴は、①空洞壁の局所軽度肥厚(空洞壁周囲の浸潤)に次いで全周性肥厚や胸膜肥厚様陰影の出現であり、②この肥厚は次第に増強したり、一時的に軽減することがあり、③次いで、肥厚した空洞壁内層の不整化がみられ、④末期には空洞周辺部への広汎な浸潤影が出現する。しかし、初期像は、古くは、アスペルギルスのみの特異的所見とされていたが、他の日和見感染症、特に非定型抗酸菌症の研究により類似の所見が見られることが明らかになったので、鑑別が必要である。この両疾患は、胸膜炎後や人工気胸後の肺尖部に発生する点でも類似しており、合併して発症することもあるので、一方の菌の検査のみで診断するのは相当ではない。
アスペルギルス菌は、環境中に常在しているから、非定型抗酸菌などと同様に、喀痰中から微量に検出されても感染巣からのものではなく気道の汚染による可能性もあるから、確定的な診断にはならない。逆に、感染が成立していても、早期には喀痰培養陰性のことが多いから、菌陰性でも感染を否定し得ず、繰り返しの検痰や気管支鏡による病巣局所からの検体検査が必要である。(甲第24号証)
(オ) 非侵襲性肺アスペルギルス症に対する治療としては、根治的治療法として、病巣の切除手術という外科的手法があるほか、アムホテリシンB、ミコナゾール、フルコナゾール又はイトラコナゾールなどの抗真菌薬の投与(空洞内注入又は服用)といった内科的手法がある。これらの治療法の効果については異論もあるが、外科手術が適応になる場合もないわけではなく、内科的手法については、特にイトラコナゾールの効果が良好であり、また、菌球の所見が認められるものよりも認められないものの方がより良い効果が期待できる(甲第23号証)。
イ 太郎の症状等について
(ア) 死因及び発症時期
太郎の死因は肺アスペルギルス症であり、死亡の約4か月前である平成9年7月ころには発症していた(甲第2号証)。同症が非侵襲性のものか否かについては明らかでないが、後記の症状に照らすと、侵襲性のものよりも非侵襲性のものであった可能性が高い。
(イ) 肺がん手術の既往歴
太郎には、昭和62年11月25日に防衛医大病院において肺がん手術を受け、肺左上葉を切除した既往歴がある。
前記のとおり、非侵襲性肺アスペルギルス症は、肺切除後の空洞に発症することが多い。
被告乙川は、平成8年3月27日、太郎に対し、胸部レントゲン検査を実施しているが、同レントゲン写真からは、第5肋骨の欠落や細かい金属チェーンの存在を見てとることが可能である(甲第21号証、乙第6号証)。したがって、被告乙川としては、その時点において太郎の肺がん手術の既往歴を認識し得る状態にあったというべきところ、平成9年8月6日、太郎が肺がん手術の既往歴を告げた際、驚いた様子で「えっ、肺がんやってたの。」等の発言をしていることが認められる(甲第25号証、原告花子本人尋問の結果)から、同被告は、同日に至るまで、太郎の肺がん手術の既往歴に留意していなかったものと認めることができる。
(ウ) スパラの使用中止
被告乙川は、平成9年7月16日及び同月24日の2回にわたり、太郎に対し、抗生物質であるスパラをそれぞれ5日分ずつ処方したが、効き目が現れなかったことから、以後、処方を中止した。スパラは、呼吸器感染症に対して広域に作用する抗生物質であるから、これが効かない場合、速やかに使用を中止した上、真菌や同薬が効かない細菌を特に病原菌として疑い、これを特定するための検査を行う必要がある。
(エ) 胸部レントゲン写真等の所見
太郎の平成9年8月6日における胸部レントゲン写真からは、菌球の存在が認められないものの、平成8年3月27日のレントゲン写真に比べて、透亮影を含む壁が厚くなっていること、浸潤影が見られること、新たな透亮影が見られることなどから、残存肺への二次感染が明らかであり、必ずしも肺アスペルギルス症には限定されないものの、同症の可能性を主とする感染症の発症が強く疑われることから、起炎菌の検索が必要と考えられる(甲第21号証、乙第7号証)。
ウ 被告法人の医療体制及び被告乙川の置かれた地位について
被告法人は、教育基本法及び学校教育法に基づき、へき地等の地域社会の医療の確保及び向上のために高度な医療能力を有する医師を養成するため、医学の教育及び研究を行うことを目的とする学校法人であり、その目的を達成するための学校として、自治医科大学(大学院医学研究科及び医学部医学科)及び自治医科大学看護短期大学看護学科を設置し、医療センターを運営するものである。医療センターは、12の診療科目を設け、地域における医療への貢献と、へき地等の地域医療に従事する医師に対する生涯教育の確立を図ることを目的に設置されたものであり、医師126名、看護婦229名を含む総数479名の従事者を擁し(平成9年4月現在)、病床総数308(一般293床、ICU、CCU15床)、1日平均の外来患者数749名、入院患者数288名(平成8年度実績)の、循環器病を主体とする高度医療に対応する病院であり、地域医療の中核をなす総合病院である。(甲第15号証)
被告乙川は、昭和48年5月に医師免許を取得した医師であり、平成元年10月に自治医科大学助教授に就任し、同時に医療センターに勤務するようになり、平成9年4月には同大学教授となった(乙3号証)。
被告乙川は、本件事故当時、医療センターの第一総合診療科科長であるとともに、内科医長を務めていた。当該内科には呼吸器科が含まれるが、本件事故当時、内科医長は4名おり、被告乙川はそのうちの1名である(甲第18号証)。
(2) 被告乙川の過失及び被告らの責任の有無について
太郎について、平成9年7月ころに肺アスペルギルス症が発症していたことは、先に認定したとおりである。そして、前記前提となる事実及び上記認定の各事実によると、被告乙川は、平成8年3月27日に実施した胸部レントゲン検査の結果から、太郎が肺ガン手術の既往歴があることを容易に認識し得る状態にあったのに、この既往歴に留意しないまま太郎の治療に当たっており、平成9年7月16日及び24日の2回にわたり、抗生物質であるスパラをそれぞれ5日分処方したのに薬効が現れず、そのため以後の処方をとりやめ、同年8月6日の診察の際には、太郎が呼吸器症状を訴えたことから、呼吸器感染症等を疑って胸部レントゲン検査を実施したが、その際に、太郎から肺ガン手術の既往歴を告げられてこれを認識したものと認められるところ、同日の胸部レントゲン検査の結果からは、以前のレントゲン検査の結果と比較して透亮影を含む壁が厚くなっていること、浸潤影が見られること、新たな透亮影が見られることなどの残存肺への二次感染を示す所見が認められたことからすると、太郎には、同日の時点において、肺アスペルギルス症を含む感染症の発症が強く疑われる症状が現出していたものと認められるから、被告乙川としては、残存肺への二次感染とその起炎菌が真菌ではないかを疑い、肺アスペルギルス症の発症を疑うべきであったというべく、喀痰、気管支内採痰又は気管支肺胞洗浄液からの培養検査や、血清学的検査(血清沈降抗体の寒天ゲル内拡散法による検出)等により、起炎菌の鑑別を行えば、太郎が肺アスペルギルス症に罹患しているとの確定診断に至った高度の蓋然性があったというべきである。しかして、太郎が肺アスペルギルス症に罹患しているとの確定診断に至ったとすれば、その後の内科的治療(イトラコナゾールの投与等)又は外科的手術によって、これが治癒するに至った蓋然性が高いと認められる。そうすると、被告乙川は、遅くとも平成9年8月6日ころ以降、呼吸器感染症の病原菌を特定するための検査、とりわけ肺アスペルギルス症を鑑別するための検査として、喀痰、気管内採痰又は気管支肺胞洗浄液からの培養検査や、血清学的検査(血清沈降抗体の寒天ゲル内拡散法による検出)を行うべき注意義務があったということができる。それなのに、被告乙川は、これらの諸検査を何ら行わなかったため、太郎は、肺アスペルギルス症に対する適切な治療を受けることなく、病状が悪化し、同年10月22日に入院を指示されたが、時既に遅く、肺アスペルギルス症により死亡したものと認められる。したがって、被告乙川は、上記諸検査を行わなかったことにつき過失があったものというべきである。
被告らは、被告乙川が太郎の症状から肺がん再発の可能性を疑ったことに不合理な点はなく、被告乙川がとった処置は、肺がん再発の可能性がある患者に対するものとして適切であったから、過失はない旨主張する。しかしながら、仮に被告らの主張するとおり、被告乙川が太郎の症状から肺がんの再発を疑ったことに不合理な点がないとしても、同被告が平成9年8月6日に呼吸器症状の訴えから感染症の疑いをもってレントゲン検査を実施したこと及びレントゲン検査の結果等から肺アスペルギルス症を含む感染症の発症が強く疑われる症状が現出していたことを考慮すると、被告乙川としては、当然に肺アスペルギルス症の感染を疑うべきであったというべきであり、肺がん再発の可能性のある患者に対して前記の諸検査を行うことが不可能又は著しく困難であるなどの前記諸検査を回避すべき特段の事情は認められないから、被告乙川において前記諸検査を行うべき注意義務を免れるものでないことは明らかである。被告らの上記主張は採用することができない。
したがって、太郎は、被告法人の設置、運営する医療センターに勤務し、医療センターの業務を行う医師である被告乙川の注意義務違反により、死亡したものというべきであるから、被告乙川は民法709条の規定に基づき、被告法人は、同法715条の規定に基づき、太郎及び原告らが被った損害を賠償すべき義務がある。争点1に関する原告らの主張は理由がある。
なお、原告らは、上記過失のほか、医療センターの呼吸器専門医の診断を受けさせなかった過失及び早期入院ないし緊急入院等の措置をとらなかった過失をも主張する。しかし、上記諸検査は、呼吸器専門医でなくとも容易に行い得るものであり、呼吸器専門医の診断に委ねるまでもなく、被告乙川自ら行うべきものであるから、前者の過失を問題とする余地はない。また、後者の過失については、被告乙川が太郎の早期入院措置ないし緊急入院措置をとるべき注意義務の存在を認めるに足りる証拠は見いだし難いし、被告乙川において、太郎につき上記諸検査を行うべき注意義務違反があったことは前記のとおりであって、なにも太郎を入院させなくても上記諸検査を行うことは可能であったというべきであり、入院させたからといって上記諸検査を行うべき注意義務がなくなるわけではないのであるから、太郎を入院させなかったことと太郎の死亡との間に因果関係があるとは認められない。原告らの上記主張は採用することができない。もっとも、被告乙川の上記諸検査を行うべき注意義務違反と太郎の死亡との間に相当因果関係が認められ、被告らが損害賠償の責に任ずべきことは前記説示のとおりであるから、この点の判断は、結論に影響を及ぼすものではない。
2 争点2について
(1) 太郎の損害
ア 逸失利益
証拠(甲第1号証、第25号証)によれば、太郎は、昭和12年4月28日生まれの男性で、短期大学卒業の最終学歴を有し、被扶養者は1人であり、死亡当時60歳で、既に退職していたが、それまでの経験を生かして企業への再就職が見込まれていたと認められる。そうすると、本件医療事故がなければ、向後少なくとも平成9年簡易生命表による平均余命の2分の1である10年間は労働に従事することが可能であったと認めるのが相当である。そこで、賃金センサス平成9年第1巻第1表産業計、企業規模計、男子労働者、高専・短大卒、60歳以上64歳以下の平均年収額520万3200円を基礎として、生活費を4割控除し、ライプニッツ方式により年5分の割合による中間利息を控除して、上記10年間の逸失利益の本件事故当時の現価を求めると、次のとおり、2410万6529円となる。
(計算式)
5,203,200×(1−0.4)×7.7217=24,106,529
原告らは、年5分よりも低い中間利息控除率によって逸失利益の現価を算定すべきであると主張する。しかし、かなり高い金利水準が何年も続いた時代もあったことからも明らかなように、将来における預金金利の利率を予測することは容易なことではない。原告らは、いったんゼロ近くまで下げてしまった金利を再び年5分に戻すことはあり得ないといってもよいし、仮に戻るとしても、それは気の遠くなるような先であると主張する。けれども、例えばいわゆるバブル経済の時代において、突然バブルがはじけ、その後これほどまでに長期間の低金利時代が続くなどと予測できたひとは少なかったと思われる。バブル経済の時代には、多くのひとはいつまでも高金利が続くような感覚を持っていたのであり、それでも中間利息の控除は年5分で計算されていた。このように考えると、法定利率を用いて計算するのはひとつの合理的な方法である。原告らの上記主張は採用できない。
イ 慰謝料
本件不法行為の内容、その他本件に現れた一切の事情を総合考慮すると、太郎の死亡による慰謝料は2600万円が相当と認められる。
原告らは、慰謝料の額は懲罰的に増額されるべきであると主張する。しかし、慰謝料は被害者に生じた精神的苦痛を慰謝するためのものであって、「懲罰」を目的とするものではない。なお、2600万円という慰謝料の額は、過失の態様なども含め、本件に現れた諸般の事情を考慮して定めたものである。
ウ 相続
前記のとおり、太郎は平成9年11月14日死亡し、原告花子は太郎の妻、原告一子及び同一太は子であるから、太郎の被告らに対する合計5010万6529円(逸失利益2410万6529円、慰謝料2600万円)の損害賠償請求権は、その法定相続分に従い、原告花子が2505万3264円、原告一子及び同一太がそれぞれ1252万6632円ずつ相続したと認められる。
(2) 原告花子に固有の損害
ア 葬儀費用
本件不法行為と相当因果関係のある葬儀費用は、原告明美につき、120万円と認めるのが相当である。
イ 弁護士費用
弁論の全趣旨によると、原告らが原告ら訴訟代理人弁護士らに対し、本件訴訟の提起及び追行を委任して、報酬の支払を約したことが認められる。そして、本件事案の内容、難易度、審理経過、認容額等に照らすと、本件不法行為と相当因果関係のある弁護士費用の額は、原告花子につき、500万円と認めるのが相当である。
3 結論
よって、原告らの不法行為に基づく本件損害賠償請求は、被告らに対し、連帯して、原告明美については3125万3264円、その余の原告らについてはそれぞれ1252万6632円及びこれらに対する不法行為の日(太郎の死亡の日)である平成9年11月14日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからいずれもこれを棄却し(被告法人に対する債務不履行に基づく損害賠償請求については判断しない。)、訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条、64条本文、65条1項本文を、仮執行宣言につき同法259条1項をそれぞれ適用し、仮執行免脱宣言の申立ては相当ではないから付さないこととして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・渡邉 等、裁判官・村上正敏、裁判官・芹澤俊明)