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さいたま地方裁判所 平成12年(わ)1968号 判決 2002年10月01日

上記の者に対する殺人、殺人未遂、詐欺、傷害、公正証書原本不実記載・同行使被告事件について、当裁判所は、検察官星景子、同佐久間佳枝、同髙橋理恵出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人を死刑に処する。

理由

【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】

第一章被告人及び共犯者の身上、経歴等

一  被告人

1 被告人は、昭和二五年一月一〇日、現在の埼玉県本庄市内で出生し、地元の中学校を卒業後、トラック運転手助手として働いたが、その後、独立して、「a建材」の屋号で利根川等の河川敷の砂利をダンプで運搬する仕事等に従事し、その傍ら、同四八年ころから、自宅で個人の貸金業を営むようになった。被告人は、やがて「a建材」を廃業し、同五五年四月ころ、同市<以下省略>所在の建物において、ナイトレストラン「b」を開店し、B、C、Dらをホステスとして雇い入れて平成六年ころまで営業していたが、経営不振から店舗を他人に貸して経営からいったん身を引くこととなった。同所では、パブ「c」の名で飲食店の営業が行われていたが、被告人は、同一〇年四月ころ、この店舗をDに賃貸し、以後、同人が「c」を経営することとなった。その一方で、被告人は、昭和六三年ころ、「b」に隣接する同市<以下省略>所在の建物で、ろばた焼き「d」を開店し、平成四年ころ、その店名を一杯屋「d1」に変更したが、同七年に同店舗をCに売却し、以後、同人が小料理「e」と名を変えて経営することとなった。また、被告人は、同年九月、有限会社「a商事」を設立し、「e」の店舗の一部を改築して事務所とし、同社の代表取締役として貸金業を営んでいた。

2 被告人は、昭和四四年二月、Fと婚姻し、同女との間に長男G、次男Hの二子をもうけたが、「b」のホステスであったフィリピン人女性のIに在留資格を取得させるため、平成二年一〇月にFと協議離婚して、同年一二月にIと婚姻し、その後離婚と再婚を繰り返したが、最終的に同七年五月に離婚して以来、今日に至るまで戸籍上は独身の身となっている。

しかしながら、被告人は、Fと協議離婚した後も、同女とは同居を続けて夫婦同然の生活をしており、その傍ら、「b」のホステスであったJとの間にも三子をもうけて家庭を構え、また、C、B、Dとも情交関係を持つ間柄にあった。

二  C

1 Cは、新潟県柏崎市内で出生し、本庄市内の中学校を卒業後、群馬県前橋市内の美容学校に入学したが、途中で辞め、その後、本庄市内の美容室に勤めたが、これも数か月で辞めて、昭和五九年ころから、被告人の経営する「b」でC1という源氏名を用いてホステスとして稼働するようになり、その後、一時「d1」の手伝いもしていたが、被告人から勧められて、自ら「d1」の店舗を被告人から賃借し、平成七年八月ころから、「e」を開店して経営するようになった。その後、被告人が「a商事」の経営を始めると、Cは、昼間は、その事務員として働いた。

2 Cには、戸籍上、二度の離婚歴があるが、これらはいずれも被告人と相談の上、偽装結婚したものであり、婚姻の実態を伴うものではなく、一六歳であった昭和五九年ころから、被告人との間で情交関係にあった。

三  B

1 Bは、本庄市内の小・中学校を経て、群馬県内の高校に進学し、同校を卒業した。その後、本庄市内のスーパーマーケットでレジ係として働く傍ら、夜間は母親が経営していた小料理店の手伝いをしていたが、昭和五五年八月から、「b」でアルバイトのホステスとして働くようになった。その後、スーパーマーケットを辞めて、「b」が閉店する平成七年まで、そのホステスとして働いていたが、その間の同六年一一月ころから、昼間はスーパーマーケット「f」本庄店で食品売場のレジ係として勤めるようになった。そして、被告人が「a商事」を設立すると、同七年一〇月には「f」を退職して「a商事」の事務員として働くようになったが、被告人との間の子供を妊娠し、その出産が迫ったことから、同八年四月、「a商事」を辞めた。長男出産後、被告人から勧められて、同年一二月から、同市内でスナック「g」を経営したが、経営不振のため、同九年三月ころ閉店し、その後は「a商事」の事務員として働くことによる給料と被告人から与えられる生活費で暮らしていた。

2 Bは、平成九年五月八日付けでEとの婚姻の届出をして、偽装結婚したものの、同一一年五月にEが死亡したため、戸籍上独身の身となっているが、昭和五六年から、被告人と情交関係にあり、数回にわたり、妊娠して中絶した後、平成八年○月に長男を出産し、この長男と二人で暮らしていた。

四  D

1 Dは、フィリピン共和国で出生し、ハイスクールを卒業後、マニラ市内の大学に入学したが、大学在学中にダンススクールに通うようになり、昭和六〇年ころ、「興行」の在留資格で初めて来日した。以来、六か月間の在留期間に合わせて、フィリピンへの帰国と来日を繰り返し、その間、広島県、群馬県、新潟県でそれぞれダンサーとして働いた。その後、本庄市に来て、被告人の経営する「b」でダンサー兼ホステスとして働くようになり、被告人や、当時「b」のホステスをしていたC、Bと知り合った。

2 Dは、平成二年九月ころ、フィリピンに帰国した際、被告人に言われて、日本における在留資格を得るため、Kと偽装結婚することとし、同年一一月二日、マニラ市内で同人との婚姻手続をした上、同年一二月一二日来日し、同月一九日、本庄市役所に婚姻届を提出し、同三年二月には「日本人の配偶者等」の在留資格を取得して、D1と名乗り、「b」等でホステスをしていた。

3 この間、平成二年八月ころから、Dは、被告人と情交関係を持つようになっていたが、同七年一月、出産のためフィリピンに帰国し、同年○月に長男を出産した後の同年五月一九日、長男を姉に預けて単身日本に戻り、同年六月二日、本庄市役所に赴いて、この子供をKとの間の長男として届け出た。同年六月にKが死亡した後、同年八月、フィリピンに帰国したが、同年一〇月には長男を連れて来日し、一時、被告人の世話で群馬県高崎市内のマンションに住んだ後、同八年一月ころ、本庄市内に転居し、同市内の「h」、「c」、「i」などでホステスとして勤務し、その後、自ら「i」や、「j」を経営したが、同一〇年四月からは、被告人から店舗を借りて「c」を経営するようになった。

4 Dは、定住者の在留資格で在留期間の更新を重ねていたが、被告人の指示で、平成一〇年七月、L(身上・経歴等については、後述する。)と偽装結婚をし、以後、Dと名乗るようになったが、ホステスとして働く際などには、D2等の源氏名を用いており、被告人らからも日ごろそれらの名で呼ばれていた。

第二章トリカブト事件について

一  被害者Kの身上、経歴等

Kは、昭和二五年○月○日、岩手県内で出生し、地元の中学校を卒業後、群馬県伊勢崎市内で生活していたが、そのうち本庄市内の「b」に客として通うようになり、同店を経営していた被告人や、そのホステスであったC、B、Dらと知り合うようになった。Kは、被告人の世話で、平成元年、同市<以下省略>のk荘に転居し、被告人の長男であるGの口利きで同市内のl社に勤務するようになり、橋梁の仮組作業等の仕事に従事していたが、同三年八月からは、l社の仕事が終わった後や仕事が休みの日に、同市内のパチンコ店でも働くようになった。同七年初めころ、被告人に言われて、k荘から、同市<以下省略>所在のm荘に転居した。

二  過労死作戦、成人病作戦と保険契約の状況

1 被告人が経営していた「b」は、昭和五〇年代には繁盛していたが、同六三年ごろから徐々に経営にかげりが見え始めたため、被告人は、平成元年ころから、フィリピン人ダンサーとしてプロモーターから紹介を受けたD、Iらを雇い入れてショータイムを設けるなどのてこ入れをすることで「b」の経営を維持しようとした。

2 Kは、昭和六〇年代の初めころから毎週一、二回の割合で「b」に客として通うようになっていたが、一晩の飲み代が、当初は一万円から二万円程度であったものが、フィリピン人が働くようになってからは三万円から五万円くらいの金額に上ったため、支払が追いつかなくなり、つけをためるようになった。被告人は、平成元年ころ、三〇〇万円近くのつけをためたKから、他に借金がないかどうか、実家の所在地、両親や兄弟がいるのかどうか、実家に帰ったのはいつが最後であるのかなど様々な情報を聞き出すなどした上、Kが、Cに好意を抱いていたことなどを利用して、「本庄へ引っ越してくれば、いつでもbに来られるし、Cちゃんともいつでも会えるから、本庄に来た方がいい。」、「本庄に引っ越してくれば、仕事も世話してやるし、アパートも探してやる。」などと申し向けて本庄市内への転居を勧め、Kを同市内のk荘に転居させた。k荘に転居したKは、一時期を除いてほぼ毎晩のように「b」で飲酒するようになり、l社で働いて得られる給料の中から、毎月二、三十万円の金額を「b」のつけ分ということで入金したが、毎月の飲酒代金が大きかったため、つけの金額は増える一方であった。

3 被告人は、当初、プロモーターを通してDらフィリピン人ダンサーを雇用していたが、コストが高いため、DにはKの、Iには被告人の戸籍を利用して日本人の配偶者としての在留資格を得させ、プロモーターを通さずに直接雇用しようと考え、Kの承諾を取り付けた上、平成二年一一月二日、両名でフィリピンに帰国中のDとIのもとを訪れ、婚姻の手続をした後、同年一二月一九日付けで日本においても婚姻届を提出した。

4 ところで、「b」の経営は、フィリピン人ダンサーを入れたことにより、一時的に上向きとなったが、その後再び客足が遠のき、平成三、四年ころにはつけで飲む客が大半を占めるようになったため、資金繰りが苦しくなり、被告人が自腹を切ってホステスに給料を支払わねばならない事態に陥った。そこで、被告人は、同四、五年ころから、飲食代金徴収の方法を変更し、ホステスが呼んだ客がつけで飲食をした場合には、一か月以内にそのつけが支払われなければ、ホステスがこれを肩代わりするようにしたが、これにより、C、B、Dら「b」のホステスは、被告人に対して多額の借金を負うようになっていった。

5 被告人は、KとDとの偽装結婚の話が本決まりとなった前後ころ、Kに対し、「保険に入らないか。セールスの人が付き合いで入ってくれと言っているので、名前を貸してほしい。」とか、「お守りだと思って一本ぐらい掛けていた方がいい。一回目の保険料は知人の外交員が払ってくれるので、二回目から払えばいいから、一回分もうかる。」などと言って、生命保険に加入することを勧めた上、平成二年一二月、日本生命の五〇〇〇万円の生命保険に加入させ、これを手始めに、その後も、「名前を貸してくれ。」などと言ったり、Kの名義を勝手に用いるなどして、同六年五月までの間に、Kを被保険者、Dを保険金受取人とする生命保険合計八口(死亡保険金総額三億二〇〇万円)の契約を成立させた。被告人は、これらの保険の契約をするに当たり、Kがk荘で独り住まいをしていることや、k荘のみすぼらしさを保険会社の担当者に見られると疑いを招くとして、当時、Dが住んでいたm荘がKとDの夫婦生活の場であるように見せかけるため、急須や湯飲み等を持っていないDにCが貸し与えてこれらの物を備えたり、KとDの写真を飾るなどの偽装工作を行った上、保険担当者をこのm荘に呼びつけて契約をした。このようにして成立させた多数の生命保険に対する保険料の総額は、多いときで月二〇万円を超える状況であったが、被告人は、「b」のつけ分としてKが入金する金をこれらの保険料の支払に充てたほか、Kが死亡した場合、Cに対し二〇〇〇万円、Bに対し五〇〇万円の分け前をやると約束した上で、同年ころから、Cに毎月七万円、Bに毎月三万円をそれぞれ負担させるなどした。

6 その一方で、被告人は、平成四年ころまでに、Kを過労死させてこれらの保険金を取得することを企図し、そのころ、度々「b」の店内で、当時勤めていたC、B、Dらのホステスに対し、「Kを疲れさせて病気にさせる、寝かせないで酒を飲ませろ。毎日bに来させろ。栄養を取らせないようにしろ。」などと指示した。Kは、前記のとおり、本庄市に転居してきてからは、仕事先からの帰宅途中、被告人の誘いを受けるなどして、ほぼ毎晩、午後一一時半ころ、まず「d1」に顔を出し、午前零時で同店が終わると、「b」に移り、それから「b」が閉店する午前四時まで飲酒するのを習慣とするようになっていたが、被告人の指示を受けたCらホステスは、Kが疲れて、「d1」には寄っても、「b」に移らずに帰宅してしまうと、自宅まで迎えに行ったり、電話をかけるなどしてKを「b」に呼んだ。そして、そのようにして来店させたKに対して、Cらは、つまみを食べさせないようにした上、ウイスキーを普通の客より濃いめに作って飲ませるなどしたほか、Kが疲労を見せても、カラオケが好きなKにカラオケを歌わせるようにしたり、足を踏みつけたり、背中に氷を入れるなどして、「b」の店内では寝かせないようにしていた。寝不足になったKは、職場に遅刻することが度重なるようになったが、そうすると、被告人は、Kに対し、「ちゃんと仕事しないから、俺がGに怒られる。」、「酒は飲んでも構わないから、仕事だけは休まずに行け。」などと言って精勤するよう指示した。

7 このようなことを続けているうち、さらに被告人は、Cに対し、「ニコチンが一番多いので、ショートピースを吸わせる。」、「ニコチンを多く取ると、血液がどろどろになって、動脈硬化になり、脳出血や脳血栓などのいわゆる成人病になる。」などと言い出し、平成四年のうちに、セブンスターを吸っていたKに対して、ピースは香りがいいから吸ったらどうだともちかけ、ショートピースのカートンを買ってきてはKに与えてそれを吸わせるようにした。

8 そのころ、被告人は、CやB、Dを前にして、「Kさんが勝手に自殺でもしねえかな。Kさん、病気になって死んじゃえばいいのに。このままだと俺の方が先にくたばっちゃうよ。」などと繰り返し発言し、Cが抱く罪悪感を薄めるため、「Kさんが勝手に病気になって死ぬのは犯罪じゃない。」とか、殊にDに対しては、「旦那の保険を掛けてるのなんか当たり前だ。旦那に保険掛けて、旦那に早く死んでもらいたいと思っている人なんか幾らでもいる。そう思うのは全然犯罪じゃない。」などと付け加えた。そして、「俺についてくれば大丈夫だ。俺の計画どおりにやっていれば、完全犯罪だから、絶対に捕まらない。」などと述べた。

9 平成五年に入ると、被告人は、Cに対し、自分はもう何回も読んで頭に入れたので読み終わったら捨ててもいいとして二冊の本を渡した。一冊は過労死の本で、もう一冊は成人病についての本であり、このころから被告人は「Kを過労死させる」と言うようになった。これに対して、Cが本の知識をもとに、肉体労働者であるKは過労死するタイプではないのではないかとの疑問を呈すると、被告人は、「人間は体をとことん疲れさせれば死ぬ、寝かせちゃいけないんだ。」などと述べた。

10 平成五年三月ころになると、被告人は、Cに対し、たばこは吸うだけでも体に悪いんだから、ニコチンのエキスを飲ませたら、もっと体に悪いとか、コーヒーに含まれるカフェインが体に悪いが、色が黒いからニコチンのエキスを煮出した色がごまかせる。ガムシロップを入れて糖尿病にさせることもできるなどと言って、コーヒーにニコチンエキスとガムシロップを入れた液体をKに飲ませることを提案した。そして、何回か作り方を説明した上、五リットル入りくらいの大きなやかんを「d1」に持ってきて、それを用いてニコチン入りのコーヒーを作るようCに指示した。添加するたばこは一本から始めて、二週間おきに半分ずつ増やせという指示で、最終的には五本になった。できたニコチン入りコーヒーは、冷ました後、一・五リットルのウーロン茶のペットボトルに移し(一本半)、「b」で使うものは、更にラブスターという焼酌の瓶に入れて準備した。Cは、この作業を「d1」に出勤してすぐの午後六時か七時ころ、一回三、四十分かけ、ほぼ一日おきに繰り返した。たばこが三本目くらいになったとき、被告人に言われてCがこの液体を一滴なめると、舌が激しくびりつく感触があり、その旨被告人に伝えると、被告人は、「ガムシロと酒を入れれば分からないだろう。」などと言った。

11 このような作業をさせるについて、被告人が「これはほかの人には内緒にする、二人だけの秘密だから。」などと言ったため、Cは、内心気に染まない作業ではあったが、被告人と二人だけの秘密を持つことができれば被告人との仲がより親密になるだろうなどと考え、一人でこの作業を行った。したがって、Bら他のホステスは、だれもこの液体の中身を知らなかったが、被告人は、それらの者に、「これは体に悪いから絶対に飲むな。」などと注意していた。

12 Cは、このようにして準備した液体を、「コーヒーが好きだって聞いたから、私が入れたんだよ。」などと言ってKに勧めたが、その際、Kが、あんまり甘くないと言ったことを耳にした被告人が、「ガムシロを一杯入れると糖尿病になる可能性があるから、うんと余分に入れてもかまわないから、一杯入れろ。」などと指示した。そこで、Cは、ラブスターの瓶の三分の一くらいまでガムシロップを入れるようにした。

13 飲ませ始めて二、三日目くらいに、被告人がKに向かって、アイリッシュコーヒーの話をした上、「ちょっとコーヒーにウイスキーを入れて飲んでみたら。」などと言ってウイスキーを入れたところ、それを飲んだKが「うまい。」と言ったことから、被告人は、すかさず、「じゃ、今度からずっとそれを、Kさん、飲んだらいいじゃない。」と言って、ウイスキーをこの液体で割った飲物を飲ませるようにした。その後、被告人が、「たまには変わったもので、焼酌でも入れて飲んでみたら。」などと言って、今度は焼酌(三五度)をその液体で割った飲物を作ると、これについても、Kが「飲みいい。」と言ったため、それからは、Kには焼酌をこの液体で割った物を飲ませるようになった。被告人は、Kにラブスターの瓶を示して、「Kさん、これを一本飲んだら、帰っていいから。」とか、「飲み切れなかったら帰っちゃ駄目だからね。」などと言い、氷は入れず、その液体と焼酌が半々くらいになるようにして飲ませた。Kは、目の前に被告人が座って監視しているため、無理をして飲み干す状態であった。

14 このようにして、Kは、毎晩、この飲物を飲むことを習慣とするようになったが、これについて、被告人は、Cに対し、ニコチンで動脈硬化を招いて成人病になり、アルコールで肝臓を悪くし、ガムシロップで糖尿病になるので、一石三鳥だと自慢していた。

三  トリカブトの利用

1 こうして計画を進めるうち、被告人は、あるときから、Cに対し、沖縄で起こったトリカブトを利用した殺人事件についての話をするようになり、事件の内容などを説明した上、その犯人は福島でトリカブトを七〇鉢買ったとか、トリカブトは高山植物で北海道や福島などの寒いところに生えているなどと言うようになっていたが、平成五年の八月ころ、Kが一向に衰弱する様子を見せないことにいらだちを示し、「トリカブトを使うべえ。」と言い出した。そして、沖縄のトリカブト事件の犯人は、福島でトリカブトの鉢を買ったことでその入手経路から犯人であることが発覚したので、自然に生えている物を採ってこようなどと言い、Cに対して、トリカブトの写真が載っている図鑑や、トリカブトの詳しい解説書などを入手するよう指示したので、Cは、本庄市の市立図書館に行って、「毒草の雑学」、「八ヶ岳の花」と題する本などを借り出して被告人に届けた、これらの本には、山菜と間違ってトリカブトをみそ汁の具にして食べた夫婦が二人とも死んだ話や、すずらんを挿していた一輪挿しの花瓶の水を飲んで死んだ話、アコニチン、アルカロイドなどの毒物の名前、トリカブトの毒が神経性麻痺を起こし、心臓に悪いことなどが書かれていた。

2 平成五年九月、実際にトリカブトを採りに行くことになったが、当初、読んだ本の知識をもとにして白馬で採取する予定をしていたところ、その少し前になって、被告人は、Cに対し、「KとDを夫婦に見せるために、写真を撮ってKの実家に送る必要がある。トリカブトはあとで二人で採りに行けばいい。」などと言って、予定していた白馬旅行にKとDの二人を同行することを決め、あらかじめ「n」という白馬にある県民共済のペンションに予約を入れた上、同月九日、自動車で本庄を立って長野に向かい、途中、松本城に寄った後、予約したペンションに向かい、一泊した。この間、KとDが夫婦で旅行をしているように見える写真を何枚も撮った上、後日それらをKの実家に送ったが、被告人は、これについて、Cに対し、Kが死んだあと、DがKの実家に連絡を取りやすいようにしておくためとか、Dの顔を実家に知らせておくためなどと説明していた。

3 被告人とCは、KやDに気づかれないよう、旅行の帰途に寄った白馬山や戸隠の自然園などで、それとなくトリカブトが生えているかどうか探してみたものの、発見に至らなかったため、その二週間後の平成五年九月終わりころ、被告人の提案に従い、今度は二人だけで八ヶ岳に行って探してみることにした。トリカブトを持ち帰るためのごみ袋や軍手などを用意した上、被告人とCが交互に運転をして、自動車で八ヶ岳に向かったが、途中、園芸用の小さなスコップが道に落ちていたのでそれを拾うなどした。八ヶ岳では、まず、本にトリカブトが生えている場所として紹介されていた八子ヶ峰周辺に赴き、被告人の知識により、葉がヨモギに似ている紫色の花をつけた植物を目印にしてトリカブトを探したものの、発見することができないまま、被告人が予約した宿に一泊した。

4 翌朝、これまたトリカブトの自生地として本に紹介されていた美濃戸に向かおうということになり、被告人の運転で美濃戸地内に入ったが、進入禁止の標示のある別荘地内の橋の架かった沢付近に達したとき、沢のふちにトリカブトが生えているのを被告人が見つけた。被告人は、上の方に行けば、もっと一杯生えていると言い、その先のT字路を左にとって山へ登って行く道を進んだところ、左側の斜面にトリカブトが生えているのを被告人が見つけた。被告人は、根の部分が毒が強いので根が必要である旨Cに説明した上、Cとともに、自動車を降りると、軍手をした手でそこに生えていた植物を一本根ごと引き抜き、「これと同じものを抜け。」とCに指示した。被告人とCは、同所で、根の付いた状態のトリカブトを五、六十本、手で引き抜いてごみ袋に入れ、これらをトランクに納めると、沢の地点まで戻り、先に見つけていた沢のふちに生えていたトリカブトを同様の方法で五、六本引き抜いて採取し、さらにロープで区画整理がされている別荘地内にもトリカブトが生えているのを見つけて、そこでも数本のトリカブトを採った。美濃戸を出て帰途につくと、被告人は、「俺は美濃戸が気に入った。美濃戸は宝の山だ。」などと発言した。

5 こうして採取したトリカブトについて、被告人は、当時建設中だった埼玉県秩父郡東秩父村所在の被告人の別荘で根と葉に分ける作業をすると言ってその別荘に向かったが、あいにく大工が工事をしていたため、そのまま本庄へ持ち帰ることとなった。本庄に着くまでの自動車の中で、被告人は、Cに対し、根は一つずつ、葉は二、三枚ずつにしてラップに包んで冷凍しておくことや、作業は下にごみ袋を敷いて風呂場でやること、トリカブトの根に付いている泥を落とすのに水道の水を使うと周りにはねるので、洗面器の溜め水を使うことなどこと細かく指示した。Cは、当時の自宅である本庄市内のo荘に戻ると、被告人の指示に従い、早速、風呂場にごみ袋を三、四枚と新聞紙等を敷いて作業にかかった。Cは、まず、根に付いた泥を洗い落とす作業から始めたが、被告人から指示されたとおり、洗面器の水を何度も汲み代えてはそれで泥を落とし、その水は飛散しないようそっと排水溝に流した。次に、自宅にあった普通の裁ちバサミのようなハサミを用いて、根に付いているひげを切り落とした後、さらに根、葉の順で茎から切り落とすと、被告人の指示どおり、それらを、根は一つずつ、葉は二、三枚ずつラップに包み、根と葉に分けてそれぞれコンビニの袋に入れて冷蔵庫の冷凍室に入れて保管した。これらの作業には、全体で二、三時間を要した。

6 旅行に使った自動車について、被告人はCにトリカブトを積んだトランクを掃除しておくよう指示したため、Cは、ガソリンスタンドに洗車の依頼をした際、店員にトランクもきれいに掃除するよう頼んだ。

7 被告人は、トリカブトの使い方について、以前から、体を弱らせ、病気にさせるだけで、それで死んでは困る、生命保険に入ってすぐに死亡すると疑われるので、長い期間をかければかけるほどいいなどという考えを口にしており、Kにこれを摂取させるについては、Kが甘い物を好むことを利用し、あんこに混ぜて食べさせれば分からないだろうとCに言っていたが、Cがトリカブトを切り分ける作業をした翌晩、o荘のC方を訪れた際には、「まんじゅうに入れろ。」と言い、混ぜ込むトリカブトについては、タマネギをみじん切りにするよりも、もっと細かく粉のように刻むこと、トリカブトの根は固いので、普通の包丁ではなくて出刃包丁を使うこと、まんじゅうの底に穴を開けて、底の方から詰めること、これらの細工は必ず「d1」の厨房でやること、トリカブトを刻むのに使った包丁、まや板や、流しは念入りに洗うこと、用いる量については、Cから切り分け作業をしたときに確かめた根の大きさを聞いた上で、細くて小さい根っこの四分の一ぐらいの量から始めることなどをいちいちCに指示し、「明日からやってくれ。」と言った。

8 指示を受けたCは、その後、「d1」に出勤する際、o荘の冷凍庫に保管してあるトリカブトの根のうちの細めの物を一個取り出し、これを「d1」に持参し、目分量でその四分の一くらいにした物を細かく刻んで、前日、被告人から渡されていた温泉まんじゅうの底に穴を開けて詰め込んで準備し、午後一一時半ころ、Kがいつものように店を訪れた機会に、Kに対し、「これ、お土産にもらったんだけど、Kさんも食べる。」などと言って渡すと、Kは喜んでこれを食べた。横でこの様子を見ていた被告人は、少しして、Kに、体の調子はどうだなどと聞いていたが、Kの体調に余り変化が見られなかったことから、その後、Cに対し、「少なすぎて効かなかったんだ。少し量を増やせ。」、「間違えて増やしすぎると死んでしまうので、ほんの少しだけだ。」などと指示し、これを受けて、Cは、翌日から、少しだけ量を増やした。

9 その日以後、Cは、毎日「d1」でトリカブトを刻んでは、これを大福や、どら焼き、あんパンなどのあんこ製品に詰め、店を訪れたKに対して、まず一番にこれを食べさせるようにした。Cは、初めのころは、こしあん製品を使ったこともあるが、被告人から、「なるべく粒あんの物を選ぶようにしろ。」と言われたこともあって、途中から、トリカブトが入っていることが感触の上で分かり難い粒あん製品を主に使うようにしており、また、パンの大きさについては、被告人が、Kに余分な栄養を取らせず、細工をしていることがばれないようにするため、なるべく一口で食べられる物にしろと言われていたので、これに従った。トリカブトを詰め込むまんじゅうなどについては、Cは、和菓子屋でまんじゅうを一つだけ買ったり、パン屋であんパンを一つだけ買ったりすると目立つと考え、それらの店を避けて、出勤する途中の道沿いにあるファミリーマートやセーブオンを主に利用し、たまにヤマコウというスーパーで買った。食べさせていた全期間を通じて、Kは一度だけ苦いと言ったことがあったが、それ以上に疑うことはなく、被告人自身も、細工した後のまんじゅうの底を見て、「これなら全然分からない。うまいもんだな。」と言ってCをほめたことがあった。被告人は、トリカブト自体をさす用語としても、また、トリカブトを詰めるのに用いる物が大福やどら焼きであっても、それらの区別をすることなく、すべて「まんじゅう」と呼んでいたが、Kがこの「まんじゅう」を食べるのにいつも立ち会っていたわけではなく、立ち会えなかったときには、Cに対し、「まんじゅう」を食べさせたか、全部食べさせたか、何時に食べさせたかなどを必ず確認していた。

10 Cは、前記のとおり、二日目以降は少しだけトリカブトの量を増やしたが、そのうち、Kが、手のひらを閉じたり開いたりしながら、「手がしびれる。」などと言うようになり、それを聞いた被告人は、Cに対し、「あれはまんじゅうのせいだ。」、「今ぐらいの量でやれ。」と言った。その後も、Kは、「しびれている。」と言ったり、黙って手のひらを開いたり閉じたりという動作をしたが、被告人は、Kにこの効果が見られるときには、「その根っこの量を続けろ。」とCに指示し、効果が見られない場合には、「どのくらい入れたんだ。」とか、「今日はどういう根っこを使ったんだ。」などといってCに確認した。Kは、上記のような症状のほかに、便所で吐いたり、「下痢をしている。」とか、「頬の辺りや唇がしびれる。」などと言うことがあり、それに対して、被告人とCは、酒の飲みすぎのせいだなどとして適当にごまかしていたが、被告人は、Cに対しては、「あれもまんじゅうが効いているからだ。」と説明していた。

11 被告人らは、このようにKにトリカブト入り「まんじゅう」を食べさせるようになる直前ころ、その効果を見るため、前記のニコチン煮出しのコーヒーをKに飲ませることを止めており、その後、たばこの替わりに、トリカブトの葉二、三枚を煮出した液でコーヒーを入れて、これをKに飲ませるようになった。

12 Cは、被告人から、常々、沖縄のトリカブト事件を引き合いに出して、入手経路を二人がしゃべらなければ、どこから採ってきたか分からないとして、「トリカブトのことはだれにも言うな。」、「入手経路は俺とCしか知らないから、絶対に言うな。」と口止めされており、Cはこれに従い、トリカブトを採取してきて日ごろKに食べさせていることは他人に口外しないようにしており、また、Cは、被告人に指示されたとおり、「d1」でトリカブトを刻むのに使った包丁やまな板などは、毎回流しで念入りに洗ったが、その下水が流れ込む部分にトリカブトの痕跡が残ることを心配した被告人は、駐車場の部分に設けられた下水の溜まる場所について、自らあるいは店の男性従業員に命じて、マンホールの蓋を開け、下の方にヘドロのように溜まった下水を長いひしゃくのようなものですくっては本管に捨てるなどの作業をして、そうした部分にトリカブトの痕跡が残ることのないよう注意していた。

13 平成五年一〇月ころ、被告人の少し増やせとの指示に従い、Cが再びKに食べさせるトリカブトの量を少し増やし、いつもと同じように午後一一時半ころ、「d1」でCがKにトリカブト入りのまんじゅうか大福を食べさせたところ、その後「b」に移動したKが、まだいつもの帰宅時間に達していない午後零時を少し回ったころ、ふらつきながら「b」を出ていったため、その姿を認めたCが、いつもと様子が違うことを被告人に報告したところ、その後しばらくして、被告人は、「Kさんの様子を見に行こう。」と言い、CとDを伴い、三人で当時のK方であるk荘へ行った。被告人らが部屋に入って様子を見ると、Kは便所で吐いている様子であり、被告人は、便所と台所を行ったり来たりして、洗面器で水を運ぶなどしてKを介抱した。そして、被告人は、その間、分量を少しでも間違えると大変なことになると思い呆然としていたCに対し、「どうするんだ。今死なれちゃ困る。病院へは連れていけないじゃないか。出たらどうするんだ。」などと怒鳴りつけた。やがて便所から出たKは、ワイシャツとズボンを脱いでパンツ一枚になり、万年床にしている布団の上に寝たが、水をかぶったように汗をびっしょりかいており、唇はたらこのように腫れ上がって紫色になっており、荒い息をしていた。その後もKは何度も便所に行って吐いていたが、途中からその場に来たBの前で、被告人はCに「どういう根っこを使ったんだ。」と聞き、Cが太った丸い根であった旨答えると、「そういうのが毒が強いんだ。いつも言ってるだろうが、気をつけろって。」などとCを強く叱責した上、「まだ早い。一年たってないから保険が下りないんだぞ。」、「トリカブトが出たら困るんだから。」などと言った。Cが、被告人に怒られたことに驚き、量を間違えたかもしれないとの虚偽の言い訳をしたところ、被告人は、さらに、「集中してねえからそういうことになるんだ。ちょっとでも量を間違ったら死んじゃうんだから、ちゃんと集中してやれ。」、「俺の計画なんだから、俺の言うとおりにしろ。」などと厳しく注意を与え、「明日はまんじゅうやらなくてよい。明日から量を減らせ。」と言った。被告人らはKが自分で救急車を呼んだり、近所の人に見つけられて病院に運ばれたりすることのないよう、夜が明けるまでk荘にいてKの様子を見張った上、午前八時ころ帰宅することになったが、その際、被告人がKに、「今日は仕事に行かなくていいからね、そのまま寝てないね。」、「会社には俺が連絡しておいてやるから。」と話しかけると、何も事情を知らないKは、「いろいろすまないね。」などと感謝の気持ちを述べ、その日の夜、店に来たときにも、Cに、「昨日は大変だった。マスターのお陰で助かった。」などと述べた。

14 この一件のあった直後ころ、被告人は、自己の負担で業者を呼び、くみ取り式になっているk荘の便所のくみ取り作業を何回か行わせたが、これにつき、被告人は、Kに対しては、「きれいな方がいいだろう。」と説明していたものの、Cに対しては、トリカブトの成分が出たら困るので証拠を隠滅するためくみ取りを頼んできれいにさらってもらった旨打ち明けた。そして、「この仕事は仕上げなくてはならない。これはCの仕事だと思ってやれば苦じゃないだろう、頑張れ。」などと言ってCを励ますとともに、しばらくの間、太い根は使わず、細い根だけを使うよう指示した。

15 Cは、翌晩から、保管してあるトリカブトの根のうちの細いものだけを用い、量も少なめにしてKに与えていたが、一〇日くらいすると、被告人が、太い根と細い根のそれぞれの効き具合を知りたいとして、それぞれの根を同量ずつ使って試してみるよう提案した。Cが太い根と細い根を交互に使ってみたところ、太い根の方が症状が強く出ることが分かり、報告を聞いた被告人は、これをもとに、Kの手がしびれる程度で、一日に一、二回吐く程度の量を理想的として、k荘事件から一か月弱くらいたったころ、Cとともに太い根と細い根のそれぞれについてその理想的な量を決めた。そのころ、被告人が、しばらくは細い根の方だけにして、太い根はいざというときのために取っておけと言ったため、Cは、細い根を使ってその理想的な量を毎日与えるようになったが、この間、Kには、手がしびれるとか、少し吐き気があって一回吐くという程度の症状が続いていた。

16 その後、平成六年五月、被告人、C、B、D及びKは、「b」の客や従業員らとともに、政治家の後援会の親睦旅行に参加して鬼怒川に出かけることとなったが、出かけるに当たって、被告人は、Cに対し、「みんなで一緒に行く旅行だから、俺のアリバイは完璧だ。Kさんがこの旅行で死んだら、アリバイは完璧だ。」などと言った上、「まんじゅうを持っていけ。太い根っこを使え。」、「宴会のときに酒をうんと飲ませておくから、宴会が終わってからまんじゅうをやれ。」と指示した。そこで、Cは、旅行前日の夜、「d1」を閉めた後、大福にトリカブトの太い根を刻んだものを詰めて準備したが、そのころは、専ら細い根を用いていて、その量が身についていたため、詰め込んだトリカブトの量は、効き目の強い太い根についての理想的な量を超える結果となった。

17 ホテルに着いて、宴会となったが、CとDは、被告人から、Kに酒を飲ませるよう指示され、Kの両脇に座り、料理を食べさせないようにしつつ、樽酒やビールを次々と勧めてKを酔わせた。そして、宴会が終わり、各自の部屋に引き取る機会をとらえて、Cは女性部屋にKを呼び、持参していた大福を食べさせた。その後、Kは風呂に入ったが、風呂場で倒れたため、Cらはその介抱をした。

18 平成六年八月、被告人とCは、再びトリカブトを採取するため、美濃戸に向かった。被告人は、去年一杯あったから、今年もあるだろうというような話をしていたが、二人が前年五、六十本採ったのと同じ場所に直行したところ、やはり一杯生えており、そこでまた五、六十本くらい引き抜いて、ごみ袋に詰め、その後、沢の所でもまた数本採って、これらを自動車のトランクに納め、被告人が予約していた「p」という宿に一泊した。採取したトリカブトの根と葉を切り取る作業は、本庄に戻って後、o荘でCが前年と同じ手順で行い、それぞれラップに包んで冷凍庫に保管した。保管した段階では以前採取したトリカブトの残りもあったが、被告人の指示で、古いものの方から先に使っているうちに、一か月たつかたたないかでそれらはすべてなくなった。

19 このようにして、「まんじゅう」については、平成七年五月の初めころまで続ける一方、トリカブトの葉を煮出したコーヒーについても、毎日「まんじゅう」とともにKに飲ませていたが、同年の初めころ、被告人は、「葉っぱは効かねえから、もうやらなくていい。」と言ったため、それ以降、CはKに飲ませるのを止めた。

四  自殺偽装計画

1 被告人は、このようにトリカブトを使ってKを病気にさせるという考えで「まんじゅう」を食べさせていたが、他方で、保険金が出るのであれば、死に方は問わないとして、Kが勝手に自殺してくれてもいいということを口にしており、平素から、高額の借金を抱えていることをKに意識させるように振る舞ってプレッシャーを与えていたが、平成七年の初めころになると、Cに対し、Kに自殺の演技をさせて利根川から飛び込ませるなどと具体的な方法を口にし始めた。そして、しばらくしてKに対し、「このままいっても借金だらけで、どうにもならないから、Kさん自身が自殺のふりをして死んだことにして、保険金を請求し、保険金が下りたら、Cとどこか遠くへ行ってひっそり暮らせばいい。」などと言ったところ、Kは、「俺は泳ぎは得意だ、カッパだから大丈夫。」と答え、「マスターからもらったあの革ジャンで飛び込むよ。」などと言った。被告人は、Kに対しては、「それはいいアイデアだね。」などと受け答えしておき、Kが席を外すと、Cに対し、革は水を含むと動きづらくなる、重くなって浮かなくなると説明した上、「本人が勝手に革ジャンがいいと思ってるんだから、余分な知恵をつけるな。」と口止めし、さらに「Kさんが幾ら泳ぎが得意でも、坂東大橋から飛び降りたら絶対に死ぬ。」、「もう保険を掛けて二年たっていて調査も入らないから、絶対に保険が下りる。」などと話した。毎日同じ話を繰り返しているうちに、話は徐々に具体性を帯び、被告人はKに対し、自宅から自転車で本庄駅まで行き、駅南からタクシーに乗って坂東大橋まで行くこと、二通の遺書を作成し、一通を自宅と本庄駅の間にあるポストに投函し、他の一通を自宅に置き手紙にすることなどを次々と指示した。

2 その後、平成七年三月ころ、「b」におけるCの客であったMが、会社の金を持ち逃げしていなくなってしまうという事件が起こり、被告人は、約束に従い、約一〇〇〇万円ほどの飲み代のつけを背負うこととなるCに対して一括で支払うよう厳しく督促していたが、Cが払えないでいると、同年四月終わりころになって、「Kさんの保険じゃなきゃ払えないだろう。安田生命や日本生命の大きい保険は、掛けてからもう二年たってるから、調査も入らねえ。自殺でも何でも下りる。大丈夫だ。」などと言い出し、同年五月の初めころにKに自殺させて保険金を取る計画でいることを告げた。被告人が語る計画とは、①まず、Kが自転車で自宅から本庄駅まで行き、駅からタクシーで坂東大橋まで行く。②Cは、眼鏡をかけ、黒っぽい服を着て、いつも上げている前髪を下ろすなどして変装した上、いつも使っているCのマジェスタではなく、被告人が他へ売却する予定でいたマークⅡに乗って坂東大橋に行き、Kと落ち合って、ビールと焼酌を混ぜたものを飲ませ、川の下流の方で待っているからとKに伝える。③決行する時間は、昼間は高さがあってKが怖がるかもしれないので、夜の八時か八時半ころにする。④Cは、Kが飛び込むところを確認してからその場を離れる。⑤Kが飛び込む時間帯についてのアリバイが必要なので、Cはどこかに出かけて必ず目撃者を作る、などというものであった。

3 ところで、遺書については、平成七年の初めころKに自殺の演技をさせる話が出た際、被告人が、Kに対し、自殺には遺書が必要だとして、便せんと封筒を買ってくるように指示し、翌日、Kがそれらの物を買って「b」に持参すると、早速Kに遺書を書かせたが、被告人は、横から「遺書だから、死ぬ人の気持ちで遺書らしく書かなくちゃ駄目だ。」とか、「借金のことを書け。」などと口添えした。一通目を書き終わった時点で、Cが、「奥さんが外人ということになってるんだから、漢字が混ざってる遺書じゃおかしいんじゃないの。」と被告人に言うと、被告人は、「それはそうだ。奥さんが外人なんだから、全部平仮名の方がいいな。」と言って、さらに全文平仮名の物を書くようKに指示し、二通目の遺書を作らせた。その際、Cがうっかり便せんに手を触れようとしたところ、被告人は、「触るんじゃない。Cの指紋がついてたらおかしいんだから、絶対に触っちゃ駄目だ。」などと怒った。書き上げた二通の遺書は、Kが持参した封筒に入れた上、表に「D様」などと宛先を記し、被告人の指示でCが預かり、「b」店内のボックスの中に保管した。これらの遺書の実際の使い方について、被告人は、Kに対して、一通は自宅に置き、もう一通は自転車で駅まで行く途中にあるポストに投函するように言っていた。

4 被告人とCは、平成七年五月のゴールデンウィーク中に利根川に行き、Kに飛び込ませる場所などを下見した。常々、被告人が、保険金を請求するには死体がいると口にしていたことから、Cが、水のない所に飛び降りさせれば、死体がその場に残るのでちょうどよいのではないかと意見を述べると、被告人は、坂東大橋程度の高さだと絶対に死ぬという確証がないが、川の真ん中で飛び込めば必ず溺れる旨述べ、坂東大橋を支える橋脚を数え、ちょうど利根川の真ん中辺りになるように、本庄側から何本目と何本目の橋脚の間で飛び込ませればよいなどといってその場所を決めた。その後、「b」でKと顔を合わせた機会に、被告人はKに対し、本庄側から何本目と何本目の柱の間から、手すりの上に立って飛び込めなどといって場所と方法を説明した。

5 被告人は、Kが自殺後、解剖されるのに備え、Kの体からトリカブトが検出されることがないよう、Cに対し、トリカブトは自殺させる二、三日ぐらい前から食べさせるのをやめろと言っていたが、下見に行って間もなくのころ、Cに対し、「明日からやらなくてよい。」と指示してKに「まんじゅう」を与えることを中止させた。

6 そして、平成七年五月の一〇日前後ころ、被告人はCに電話をかけ、「今、Kさんの家に行って話してきた。今日の夜八時半ころやるから、Cは利根川でKさんと落ち合ったら、今までの話のとおりに焼酌を混ぜたビールを飲ませ、Kさんに、あっちの方で待ってるからと言って、下流の方で待ってると思わせて帰ってこい。」などと告げた。Cは、午後八時半ころ、中ジョッキに焼酌とビールを注いで被告人が指定した飲物を作り、ラップに包むなどしてこれをマークⅡに載せ、利根川の河原に向かった。Cが、坂東大橋の本庄側で橋の下流側の待ち合わせ場所に行くと、打合せどおりKがおり、CはKを自動車に乗せて、持参したビールを渡し、「景気づけにこれ飲んで。」と言った。Kは、そのビールを一気に飲み干したが、その後、助手席の椅子を倒して寝てしまったため、Cは、「Kさん、Kさん。」と呼びかけながら、Kを揺すったり叩いたりして起こそうとしたが、Kには起きる気配がなく、Cは、Kが飛び込むのが嫌なので寝たふりをしているのだと考え、仕方なくm荘まで連れ帰り、自動車から引きずり降ろして、m荘の玄関の前に座らせた。そして、「b」に行って被告人を呼び寄せ、「今行ってきたんだけど、Kさん全然やる気ないから駄目だよ。」、「Kさん、寝たふりしちゃってるみたいで、起きないからm荘の玄関の前に降ろしてきた。」などと言った。すると、被告人は、「駄目だ、何でかんで今日やらなくちゃ駄目だ。」、「もう一回行ってこい。」、「今度はCが車に乗っけていけ。」と言い、Cとともに「b」を出て、Kのもとに向かい、玄関前に座り込んでいるKに対し、「今日しかチャンスがないんだから、ちゃんとやらなくちゃ駄目だよ。今日のチャンスを逃したら、ずうっと先になっちゃうから、ちゃんとやりなよ。」などと言って、ぐったりしているKをCの自動車に乗せた。

7 Cは、被告人から指示されたとおり、再び利根川に向かって自動車を走らせたが、Kは、自動車が動き出すと、Cに対し、「今、マスターが今日のチャンスを逃したら、ずっと先になると言ったけど、ずっと先っていつなんだろうね。」などと聞いた。これに対してCは、「今日しかチャンスがないということだから、今日やらないと駄目なんだよ、きっと。Kさんも頑張ってね。」などと言って、Kをその気にさせようとしたが、Kは黙って返事をしなかった。河原に着くと、Cは、Kに対し、下流の方を指さして、「あっちの方で待っているから。」と言ってみたが、Kはなかなか車から降りようとしないため、さらに、「Kさん、いい加減に降りてやってくれないと、私もずっとここにいるわけにもいかないんだから。」と繰り返し言うと、ようやくKは自動車を降りて坂東大橋の方に向かった。Cは、五分ほどその場にとどまった後、自動車で坂東大橋を二、三回往復し、坂東大橋から飛び込むKの姿を確認しようとしたが、Kを発見することができないまま「b」に帰った。被告人は、Cから、何とか自動車から降ろしたが、飛び込むところは確認できなかった旨の報告を聞き、「まあ、いいから、」などと軽く聞き流した。

8 Kは、結局、坂東大橋から飛び込むことはせず、一日か二日して、「d1」に顔を出した。被告人は、飛び込みを決行しなかったことについてKを責め立てると、Kが怖じ気づいて逃げ出してしまうかもしれないと考え、その後は、Kを叱りつける替わりに、飛び込んだ後に支払われる保険金から被告人の借金を払った残りを使って、Cと一緒に暮らせばよい旨甘言を用いてKをその気にさせようとしたが、Kは、以前とは異なり、余り乗り気になって聞くことはなかった。

五  計画の変更(自殺偽装計画からトリカブト殺人計画へ)

1 その後、被告人は、CやBとともに、Kを自殺させる方法について、「富士の樹海におっ放してきたらいいんじゃないか。」とか、「城ヶ崎の海岸から飛び込ませても、自殺の名所だから確実に死ぬ。」など二、三の場所を例に挙げて検討してみたものの、いずれも死体の発見が困難であるとなって取り上げるところとならず、結局、当初の計画どおり、坂東大橋から飛び込ませることとなった。しばらくして、被告人は、Cに対し、「六月七日に伊豆に旅行に行くことに決めたから、その日にKさんを坂東大橋から飛び込ませる。その日は俺が本庄にいないから、俺のアリバイは完璧だ。」などと告げて、平成七年六月七日に再度Kを利根川に飛び込ませる考えでいることを示した。そして、被告人は、「Kさんが死んだら疑われるのは俺だから、俺のアリバイだけちゃんとあれば、絶対に大丈夫だ。」とした上、「Cもアリバイを作っておけ。」と言ったので、Cが、「私が利根川にいるのに、その時間に違う場所にいるというアリバイはできない。」と反論すると、被告人は、「何でもいいから、その後、外に出かけていって、目撃者を作れ。」と言った。

2 一方、Dは、出産のため平成七年一月二四日にフィリピンに帰国していたが、同年○月○日に男児を出産した。被告人は、電話でその旨連絡を受けると、同月中には日本に戻るようDに強く促したものの、Dは、母親の勧めもあって、日本に戻る時期を遅らせ、ようやく同年五月一九日に至って来日した。被告人は、成田空港に出迎えた際、来日が遅くなったことに文句を言い、フィリピンで遊んでる場合ではないと強く叱責した。

3 被告人は、m荘でDをKと同居させることにしており、帰国したDに対し、Kさんはもう長くない、Kさんが死ねば保険がもらえる、部屋は別々だから心配はいらない、保険をもらったらちゃんとあげるなどと言って説得し、Dの承諾を取り付けて同居させることとなったが、その後もKが汚いので一緒の風呂に入るのは嫌だなどと何かと不満を漏らすDに対し、「あと少しの辛抱だから我慢しろ。」とか、「Kさんが死んだら、保険が下りる前にみんなに一〇〇万円ずつ先にやるから、ぱあっと使っちゃえ。」などと言って、同居を続けさせた。

4 被告人は、Dが帰国したころ、Kに対し、「Kさんは自殺するんだから、周りの人にノイローゼになって仕事が嫌になったとか、働く意欲がなくなったとか思わせなくちゃならないから、会社を辞めた方がいいよ。」などと言って、平成七年五月一九日を最後にKをl社とパチンコ店から退職させ、さらに、「b」や「d1」で毎日飲んでいるのを他の客に見られると、ノイローゼになった人間がなぜ毎日飲み屋で酒を飲んでいるのかと不審に思われるなどとして、Kに対し、自宅に閉じこもっているように指示し、Kの気晴らしのためなどでたまに呼び出す程度にしたことから、それ以後、Kは「b」や「d1」にはほとんど来店しなくなった。そしてその裏で、被告人は、周囲の者が、Kの死後、Kについて酒浸りでどうしようもない男だったとの印象をもつようにするため、Dに対して、「bの酒を勝手に持って帰ってよいから。Kさんにどんどん飲ませろ。」などと指示したほか、自らCを伴ってm荘を訪れ、Kに酒を飲ませたりした。

5 被告人は、そのころ、Kからの最後のプレゼントという意味を込めて、Kの名でKの実家にうどんを送るなどして着々と計画を進めていたが、たまたま、平成七年六月三日に埼玉県児玉郡<以下省略>にある「q」で行われるディナーショーのチケットを入手したことから、同年五月の中旬から下旬にかけてのころ、Cに対し、「俺が本庄にいた方がいいから。」などと言って、実行日をディナーショーの当日である同年六月三日に変更することを告げた。そして、さらにその後、被告人が、Cに対し「あいつは駄目だ、まんじゅうでやるべ。」と言い出し、利根川に飛び込ませる計画からトリカブトによって殺害する計画へと変更することをもちかけてきたので、それまでのいきさつから、どうせそれを実行させられるのは自分だろうと考えたCは、「まんじゅうは弱らせるだけって言ってたじゃない。出たら困るって言ってたじゃない。」と難色を示したが、被告人は、「だったら、Mのつけはどうやって払うんだ。Mのつけ払うのに、Kさんの保険金じゃなきゃ払えねえだろ。どうやって払うんだ。」などと迫る一方で、沖縄のトリカブト事件を引き合いに出し、「あの犯人は、福島でトリカブトを買ったことで入手経路が分かり、死体と犯人の家からトリカブトが出たことで捕まったのであり、この条件が三つそろわなければ、絶対に逮捕されない。俺たちは入手経路は分からないし、トリカブトは証拠を残さなければ、絶対に大丈夫だから。」と言って、Cを説得した。しかし、Cはなおも反発を示したことから、被告人は何度もCと話し合ったが、その過程で、被告人は、さらに、Cのかねてからの夢であるマイホームを持つことやクイーンエリザベス号による世界一周旅行に触れ、「Cには家を買ってやる。クイーンエリザベスは世界一周の旅だから、旅費が一か月四〇〇万円だ。世界一周だから、約一年だから、一人四〇〇〇万円かかる。俺と二人で行くから、二人分で八〇〇〇万円だ。その金は俺が出してやる。」などと言って取り入り、「二人の夢だから、俺たち二人の夢のためにKさんに死んでもらうんだ。Kさんにとってもその方がいいんだ。Kさんだって生きてたって、借金だらけで苦しいだけなんだ。Kさん本人のためにも死んだ方が楽なんだ。俺たちのためにKさんに死んでもらうんだ。」としてCの説得に努めた。Cは、このような被告人の説得を受け、殊に被告人の「二人の夢」という発言を聞いて、言うとおりにすれば、被告人を独占できるとの思いにも駆られ、ついにK殺害役を引き受けることを承諾した。

6 被告人は、そのころ、連日のように、「b」が終わった後の時間帯にo荘に赴き、Cに対し、殺害の手順を説明して教え込んだ。被告人は、まず、保管してあるトリカブトの根を見せるようCに指示し、Cがその時点で冷蔵庫に保管してあった物すべてを被告人に見せると、被告人は、「k荘のときに使ったような太っている根っこを選べ。」と言った。Cが、そのときの物と最もよく似ている物を選び、「これが一番似てる。それでもk荘のときのは、これよりもっと大きかった。」などと言うと、被告人は、その根について、「別にしまっておけ。」、「k荘のときよりも小さいんだったら、その根っこを丸々一個全部使え。」、「残しておいてもしょうがないんだから、全部使っちゃえ。」などと言った。被告人はさらに、その重さを量ろうとしたが、少量を量ることのできる秤がなかったため、正確な重さを知ることはできなかった。被告人は、「こんな秤しかないのか。」と文句を言いつつ、「はっきり重さは分からねえけども、まるまる一個使えば大丈夫だろう。」と言った。Cがその根を他の根とは分けて冷凍室に保管すると、被告人は、「実行日に忘れたら困るから、その日よりも二、三日前に店に持っていっておけ。」と指示した。被告人は、さらに、平成七年六月三日当日の行動について、①まず、Cは昼ころDを迎えに行って、一緒に買物に行き、何でもいいから買物をして、そのレシートをとっておく、②買物に行く途中で、遺書のうちの一通をポストに投函し、他の一通はm荘に置き手紙にする、③午後三時までにm荘に戻り、Kにトリカブト入り「まんじゅう」を食べさせる、④「まんじゅう」を食べさせたら、Cはすぐ自宅に戻る、⑤Dは、ディナーショーに出かけるまでm荘にいる、⑥被告人とC、D、Cの客でディナーショーのチケットを買わせてあるL、Nの五人は、夕方「b」で待ち合わせをし、Cのマジェスタでディナーショーに行く、⑦ショーから戻ったら、「d1」を開けて、LとNをそこで飲ませ、Dが二人の相手をする、⑧その後、被告人とCとで、Kの死体を利根川に捨てに行く、⑨午前零時に「d1」を閉め、Nを帰した後、Lを「b」に連れていき、「b」で少し飲んだら全員で東秩父の別荘に行く手順とすることなどをこと細かに指示した上、「疑われるのは俺だから、俺のアリバイがあれば絶対に疑われない。」、「Lさんが俺と一緒にいたと証明してくれる。」として、Lを伴ってディナーショーに出かけることや、その後「d1」などで飲ませたり別荘に連れていったりすることが、被告人のアリバイを証明することになると説明した。

7 被告人は、また、「まんじゅう」の細工をする時間について、午後三時に食べさせる際に、「まんじゅう」が乾いて硬くなっているということのないよう、以前食べさせていたときにはCが夕方「d1」に出勤した際に行っていた作業を、当日の早朝である午前四時過ぎに「b」が閉店してから「d1」に移って行うよう指示し、それをBら「b」に残っている者に悟られないよう、「一度帰ったふりをしろ。」などと注意を与えた。トリカブトを詰め込む「まんじゅう」については、当初、被告人は、細工をする午前四時ころ購入しろと言っていたが、その時間帯だとコンビニでは何も売ってないかもしれないので、前日の夕方買った方がいいとのCの提案に従い、Cが前日の出勤前に買って「d1」に持ち込むこととなった。

8 死体を利根川に捨てる理由については、被告人はCに対し、Kが利根川に飛び込んで自殺したと警察に説明し、併せて、トリカブトが検出され難いように死体を腐らせるためである旨述べた。被告人の計画は、「川の中にずっと入れてたら、顔も腐るし、内臓も腐る。顔だってだれだか全然判断ができないぐらいに分からなくなる。」という考えから、以前、被告人がKに贈った革のジャンパーを死体に着せて、それを身元確認の決め手にするというものであり、六月に革ジャンパーを着ることの不自然性については、Kがノイローゼで頭がおかしくなったと思わせるのにちょうどよく、革ジャンパー以外の死体の服装については、パチンコ屋にアルバイトに行くときに着ていたワイシャツを着せて黒いズボンをはかせ、Kが普段靴下を二重にはいて、ゴムの部分を紐で縛って留めていたことから、死体もそのとおりの状態にするというものであった。

六  別荘における謀議

1 平成七年六月一日夜、被告人は、「大事な話がある。」と言って、いつもより早めに「b」を閉店し、C、B及びDの三人を伴って東秩父の別荘に向かった。別荘に到着し、一風呂浴びて飲み始めると、早速、被告人は、「D中心の大事な話がある。」と言い、それまでにCと話し合ってきた前記①から⑨のK殺害計画の概要を説明し始めた。何度も聞いてきた話なので、Cが席を外してたばこを吸いに行こうとすると、被告人は、「大事な話をしているのに、たばこを吸うなんて言っているんじゃない。Cも黙って座って、ちゃんと聞いてろ。」とCを厳しく叱りつけた。そして、殊に外国人のDに対しては、「DとCは、ニチイへ買物に行け。そしてレシートをとっておけ。」とか、「Dが帰ったら三時、三時にはKさんがいなかった。」などの部分をいちいち復唱させて念を押した。「まんじゅう」を食べさせる件では、「まんじゅうはCが食べさせろ、Dじゃ食べないから、Cじゃないと駄目だ。」と言い、Cが「Kさんはまんじゅうに飽きているからパンでもいい。」と聞いたところ、被告人は、「何でもいいよ。CはベテランだからCに任せるよ。」と言い、トリカブトを詰めるのにあんパンを使うことが決まった。トリカブトの量については、被告人が以前o荘でCに指示していたのとは異なり、「いつもの二倍を入れろ。」と指示した。遺書については、被告人は、「一通は昼間のうちに出しておけ。そしてもう一通は夜にCが持っていけ。」と言い、遺書が届いたら警察に捜索願を出すので、Dは遺書が届いたらすぐ被告人に連絡すること、警察にはそれを持ってDとBが行くことを指示した。Dに対しては、さらに、「Dは奥さんなんだから、Kさんのことを覚えなくちゃならない。Kさんには盲腸と十二指腸の手術の傷がある。奥さんなんだから手術の跡くらい覚えていないとおかしいんだから」と言って、具体的にその傷の場所を示してDにKの身体的特徴などを教え込んだ。

2 このようにして、被告人、C、B及びDの間で、K殺害についての共謀が最終的に成立した。

七  犯行の準備及び犯行状況

1 平成七年六月二日午後七時ころ、Cは、「d1」に向かう途中、コンビニの「ファミリーマート」で○○製パン製の「十勝あんパン」を購入し、通常どおり「d1」と「b」で勤務した。被告人は、「b」店内で、Cに対し、「根っこ、持ってきたか。一個全部入れろよ。」、「Cは一度、自分の家に帰ったふりをしろ。」と念を押した。

2 平成七年六月三日午前四時ころ、「b」を閉店すると、Cは、保管場所から投函用の遺書を指紋が付かないように注意して持ち出し、マジェスタのコンソールボックスにしまった後、被告人から指示されたとおり、いったん「d1」と反対方向にある自宅の方へ帰るふりをして、付近を自動車で走って時間をつぶし、Bが帰るころを見計らって再び「b」の駐車場に戻り、Bの自動車がないことを確認した後、自動車を止めて、「d1」に入って鍵を閉めた。被告人の指示で二、三日前に自宅の冷凍庫から持ち出して「d1」の冷凍室にしまってあったトリカブトの根を取り出し、これをみじん切りにすると、大さじに一杯(約六グラム)くらいの量になったので、それをまな板の中央に集めて山になるようにした。その後、あんパンを袋から取り出し、手のひらに乗せて、中のあんこの偏り具合を調べ、あんこが多い部分を使えるように半分に分けた。そして、左手にパンを持って、右手の人差し指であんこに穴を開け、刻んだトリカブトの根を指でつまんではあんこの中に押し込んだ。Cが夢中で作業をしている最中、人の気配を感じて横を向くと、被告人が立っていたため、驚いたCが叫び声を挙げると、被告人は、「何、びっくりしてんだよ。てめえの男なのに。俺しか入ってくるわけねえじゃねえか。」などと言った。被告人が見守る中でCは作業を続けたが、Cが細工をし終わると、被告人は、「うまいものだな。全然分からないや。」、「ちゃんと、全部食べさせろよ。」と言った。できあがったパンをサランラップにくるんで、買ってきたコンビニのビニール袋に入れ、作業に使った包丁、まな板などをいつものように念入りに洗い流したあと、被告人とCは、「d1」を出てo荘に行き、就寝した。

3 平成七年六月三日昼ころ起床したCは、打合せどおり、マジェスタでm荘にDを迎えに行き、二人でニチイに買物に行ったが、その途中、「<省略>屋」という酒屋の前のポストで、Kの遺書をコンソールボックスの中から取り出して投函した。ニチイ等で、それぞれ化粧品や洋服を購入した後、時間を見計らってニチイを出発した。m荘の前でDを降ろすと、Cは、マジェスタを「b」の駐車場に止め、「d1」に行って、トリカブト入りのあんパンを取り出し、「d1」の駐車場に止めてあったマークⅡに乗り換えてm荘に行き、午後三時少し前ころ、あんパンを持ってKの部屋に入った。Kは、そのころ、頬がげっそりとこけてやせ細っており、その日もとても疲れてだるそうな様子で、今起きたという感じで布団に座っていたが、Cは、Kに、「元気。何していたの。」、「何か飲む。」などと話しかけ、Dに声を掛けてビールを持ってこさせたが、Kは「今日は飲みたくない。」と言って飲まなかった。Cが、持参したあんパンを袋から出し、「あんパン買ってきたんだけど食べる。」と言うと、Kは「うん」と言ってこれを受け取った。続いて、Cが、「Kさん、お腹空いているの。」と聞くと、Kは、「うん、何も食べてない。」と言い、自分でラップをむいてあんパンを食べ始めた。Kは、多くの歯をなくしており、食事のときはいつもよく噛まずに飲み込むようにしていたが、このときも余り噛まずに飲み込むようにしてパンを食べ、半分くらい食べたところで、胸をどんどんと叩き始めた。パンを胸に詰まらせたと見て焦ったCは、すぐDに、「水を汲んできて。」と頼み、Dが持ってきた水をKに手渡すと、Kはそれで詰まっていたパンを飲み下し、またパンを食べ始め、水を飲みながらCの与えたパンを全部食べた。

4 ちょうどKが食べ終わったころ、その場に被告人が現れ、Kに、「元気かい。体の調子はどうだい。」などと話しかけ、何か食べたかというようなことを聞くと、Kは、「Cからパンをもらって食べたよ。」と答えた。それを聞いた被告人は、計画どおりだと満足そうに肯き、「何か飲むかい。」と聞いたが、Kは、やはり、「今日は飲みたくない。」と答えた。しかし、被告人は諦めず、「じゃあ、みんなで飲もう。」とか、「みんなで飲むんだから、一杯ぐらい付き合いなよ、Kさんも。」などと言って、Dに缶ビールを四本持ってこさせて、Kにも飲ませようとした。Kは、口を付けた程度であったが、そのうち、「体が変だ。」、「しびれてる。感覚がない。」と言い出し、少しして、「気持ち悪い。」と言った。それを聞いた被告人は直ちにDに、「洗面器を持ってこい。」と言ったが、Dには洗面器の意味が分からず、バスタオルを持参するなどしたため、Cが風呂場を探してみたが、手おけしかなく、Dにボールとかなべはないかと尋ねると、底の浅いフライパンしかないと言うので、部屋に戻って被告人に「洗面器もなべも何もないよ。この家。」と告げた。被告人は、「何だ。洗面器も、何もないのか。」と怒っていたが、「ごみ箱でも、何でもいいから深い物を持ってこい。」と言った。その後、Kは強い吐き気に襲われ、苦しそうに、座った状態でごみ箱を両手で抱えてその中に嘔吐し、さらに、布団の上に横になった状態でのたうち回り始め、荒い息づかいで、ウウッとうなり声を発してもがき苦しんだ。被告人は、CとDに対し、「押さえろ。」と指示し、Cはとっさに付近にあった掛け布団をKの体全体を覆うようにかぶせ、布団の上から手でKの肩の上辺りを押さえたが、それだけではKが動き回るのを止めることができず、さらに、Kの肩を両手で押さえ、胴体の辺りに馬乗りになって押さえ込んだ。Dは、被告人から「お前も早く押さえろ。」と言われ、当初、足でKの足を踏みつけるようにして押さえていたが、被告人から「ちゃんと押さえろ。」などと言われ、四つんばいになって、手でKの足の辺りを押さえた。Kは、そうして押さえ込むCを振り落とすなどしてしばらく暴れていたが、やがて力が緩んだため、Cが横に立って様子を見ていた被告人に「もう弱まってきたみたいよ。」と言うと、被告人は、「もういいだろう。」と言い、CとDが布団から離れると、「Kさん、おーい。」と声を掛けた。そして、反応を示さないKを見て、「分かんねえから、もう大丈夫だよ。」などと言って布団を元に戻した。このとき、Kの唇は紫色に変わって強く腫れ上がり、口からよだれを垂らしていた。

【罪となるべき事実の第一】

被告人は、C、B及びDと共謀の上、K(当時四五歳)を被保険者とする生命保険契約に基づく死亡保険金等を取得する目的で同人を殺害しようと企て、平成七年六月三日、埼玉県本庄市<以下省略>所在のm荘の同人方において、同人に対し、トリカブトの根約六グラムを刻んであんに混ぜたあんパンを食べさせ、よって、そのころ、同所において、同人をトリカブトに含有するアコニチン系アルカロイド中毒により死亡させて殺害した。

八 その後の状況

1  その後、被告人とCがDを残して帰ろうとすると、Dが、「動いたらどうするの。」と聞いた。被告人は、「死んでるから大丈夫だよ。死んでいる人間は怖くねえ。生きている人間の方がよっぽど怖いんだ。」と言い、Cは、「そんなに心配だったら、紐で縛っておけばいいじゃないの。」と言ってm荘を出た。

2  夕刻、打合せどおり、被告人、C、D、N及びLの五人は、「b」の駐車場に集合し、Cの運転する自動車でqに向かった。qの建物に入ると、被告人が写真を撮ると言い出し、喫煙コーナーのような場所で何枚か写真を撮った後、会場に入り、飲食しながら演歌とお笑いのショーを見た。

3  qから戻る途中、被告人が、「今日は、d1は開けなくてもいいや。bだけ開ければいいや。」と言ったので、Cは、予定を変えて、LとNを「b」に案内し、Cがカウンターの中で準備した両名の飲物をDが別々のテーブルに座った両名のもとへ運ぶなどした。やがて、被告人は、「行くぞ。」と声を掛け、Cを伴い、赤茶色のワゴン車を運転してm荘に向かい、Kの部屋に入ると、布団をまくってKの左頸部に手を当て、脈を診て、「動かねえ。」と言った。その後、その場に来たDとともに被告人らは、Kの着ていた黄色のスウェットを脱がせ、パンツ一枚の裸にして体を拭き、再び布団を掛けたほか、Cは被告人の指示で布団の下やその周囲を雑巾などで拭き掃除をし、D一人を残して、被告人とCは「b」に戻った。

4  被告人らが「b」に戻ると、Bはこの間に出勤しており、しばらくして、被告人は、Bに、「Dを迎えに行くから、一緒に行こう。」と言って、Bを伴ってワゴン車で再度m荘に行った。被告人は土足で部屋に上がると、布団の横に立ってKを見下ろし、布団の上から足でKの体を揺すぶった。そして、「Kさんは死んだ方がよかったんだ。借金まみれになるなら、死んだ方が幸せなんだ。」と言った。Bは、警察に通報しようと言ったが、被告人は、「そんなことするわけにいかない。川へ連れていって、おっ放してくる。」と言った。

5  その後、被告人ら三人は「b」に戻り、被告人が、Nを帰すよう顎をしゃくって合図したのを受けて、Cは、「Nさん、明日早いんでしょう。もう帰った方がいいよ。」などと言ってNを帰した。その後、被告人は、Cに対し、「C、ちょっと来い。川へ行くぞ。」と言い、Bに対しては、「B、Lと留守番しててくれ。お客が来ちゃ、しようがないから、街灯を消して、玄関の鍵を閉めておくように。」と指示して、Cと駐車場へ向かった。自動車に乗る前に、Cは被告人から、「川へ行くから、何か長い物を持ってこい。」、「つっこくるために使うんだ。」と言われ、「b」の便所掃除用のモップを持ち出して、ワゴン車の後ろの荷台に載せた。m荘で死体にワイシャツと黒ズボンなどを着せる段取りになっていたが、CにはKの衣類の置場が分からず、「Dがいないと洋服が分からない。」と言うと、被告人も、「DにもKさんの着ている服を見せた方が早いな。よし、Dを連れてこよう。」と言い、被告人らはDを呼びに「b」に戻り、Dを呼び出した上、三人でm荘に行った。

6  m荘に着くと、三名とも用意した手袋をした後、Cと被告人がまずKに黒色のズボンをはかせ、次にDとCとでそれぞれ片足ずつ受け持って靴下をはかせた。靴下は、まず一枚はかせ、間に死者にはかせるわらじ代わりだと被告人が言っていた靴の中敷きを挟み、その上からもう一枚靴下をはかせてゴムの部分を紐で縛った。Cは蝶々結びにしたが、Dはそれができずに固結びにした。その後、ワイシャツを着せようとしたが、腕に硬直があってうまく着せることができず、被告人が、「いいや、革ジャンをじかに着せよう。」と言うので、ワイシャツは着せないことになった。Cが、「革ジャンをじかに着せたらおかしいよ。」と言うと、被告人は、「Kさんは自殺することにするんだから、ノイローゼになったとか、頭がおかしくなったと思われるから、何でもいい。」と言った。そして、素肌にジャンパーを着せることとなったが、被告人は、死体を利根川に捨てた場合、襟が何かに引っかかって脱げたら困ることを心配し、「襟を切り取ろう。」と言ってDにハサミを持ってこさせ、ジャンパーの襟を切り取った。その上で、被告人とDがKの上半身を起こして支えている間に、Cが硬直しているKの左腕を何とか持ち上げてジャンパーの肩口から腕を袖に通し、肩の部分までジャンパーを引き上げた。しかし、硬直したKの手先が袖口からうまく出せなかったので、Cの「袖口も切った方がいいんじゃない。」との提案に従って袖口が切り落とされた。次に、CがKの背中側からKを支え、被告人が無理やり右腕をジャンパーの袖に押し込むようにして通し、Kを寝かせて、前のファスナーを上げた。寝かせたKの姿を腕組みして見ていた被告人は、「このままだと襟を切り取っちゃったから、首からすっぽりジャンパーが脱げちゃうかもしれない。」と言い、ジャンパーが脱げないようにする方法を思案した末、「上からセーターを着せて脱げないようにする。」と言って、Dにセーターを持ってこさせてそれをジャンパーの上から着せた。

7  死体の服装を整えた後、被告人らは、被告人が死体の両脇の下を持ち、CとDが片足ずつを持つようにして、死体をm荘の玄関正面に停めたワゴン車の二列目のシートに運び込んだ。そして、被告人の運転でm荘を出たが、出発して間もなく、Cが、Kの靴を忘れたことに気づき、被告人にその旨告げたが、被告人は、「川に流れちゃったと思われるから、いいだろう。」と言って、取りに戻ることはせず、そのまま利根川に向かった。Cの同級生が経営している美容室の横を通って利根川の土手に上がり、土手から河原に下りてしばらく走り、広いスペースの所に出て自動車を止めた。そこで、被告人が両脇の下に手を入れて上半身の方を持ち、CとDがそれぞれ片方の足を持つようにして死体を自動車から降ろした。被告人が、「脱げちゃしょうがねえから、頭を下にする。」と言って下流側に立ち、川に向かって横歩きの状態で進んでいったが、途中、Dがつまずいてバランスを崩したのを見て、Cは、「じゃまだからどいて、いいよ、私が持つから。」と言い、Cが両足を持って川に近寄り、転がすようにして川に死体を入れた。しかし、死体はスムーズに流れず、浮いたままになっていたため、被告人は、「モップを持ってこい。」と言い、Cがワゴン車に取りに戻って被告人に渡すと、被告人は、「Cがつっこくれ。」と言って戻したが、Cが適当に手を伸ばしただけで、「届かない。」などと言っていると、いらいらした被告人は、「モップ寄こせ、俺がやる。」と言って、自らモップを持って死体を押し流した。死体が見えなくなると、被告人は、「もう大丈夫だろう。これで流れたろう。」と言い、自動車に乗って「b」に戻った。

8  「b」に戻る途中、「b」の客らしき人物の運転する自動車とすれ違ったため、Cが気づかれなかったかと心配すると、被告人は、「大丈夫だよ、見えてねえよ。」とか、「こんな時間にこんな所にいるなんて思うわけねえから。」などと言ってCの不安を打ち消し、「Cの仕事は終わった、これからはD中心だ。」と言った。「b」に着くと、Dは川でバランスを崩した際、足が濡れたと言ってBからサンダルを借りたが、CはそのDに対して、「ちゃんとしっかり持っていないからだ。」と非難した。一息つくと、被告人が、山へ行くと声を掛け、Bを除く四人が被告人の別荘に出発することになったが、そのころになってm荘に置いておく手はずになっていたKの平仮名の遺書がそのままになっていることにCが気づき被告人にそのことを話すと、被告人は「そんな大事なもの、忘れるばかがいるか。」とひどく怒ったが、「でも、忘れちゃったんじゃしょうがねえ、それも郵便で出すことにするから、出かけるときに一緒に持ってこい。」と言った。その後、Cの運転する自動車で本庄を出発して別荘に向かったが、その途中、本庄郵便局の前にあるポストでその遺書を投函した。

9  別荘に着くと、一休みし、日が昇ってから、四人で近くの牧場まで自動車で遊びに行ったが、その帰り道で被告人とCは、自動車から降りて付近の林道(埼玉県大里郡<以下省略>付近の山林)を歩いた。このとき、被告人がCに、「布団とか服とか、早く片付けなくちゃなんねえ。どこに捨てるかな。」と言ったので、Cがその辺に洗濯機や冷蔵庫などが捨ててある場所があるとして案内すると、被告人は、「ここなら、だれが捨てたか分からねえだろう。」と言い、その場所にm荘にあるKの持ち物を捨てることにした。

10  本庄に戻ると、被告人とC、Dは、ワゴン車に乗り換え、m荘に向かい、Kの布団や黄色スウェット、ごみ箱のほか、被告人との関係が分かるネーム入りの衣類、「b」の請求書の類を荷台に積み、Dにm荘の掃除を命じた上、被告人とCは、あらかじめ投棄場所として決めておいた別荘付近の林道に行き、これらのものをすべて投げ捨てた。

11  平成七年六月五日になってm荘に遺書が届いたことから、被告人はDに、本庄警察に行って写真と遺書を添えて捜索願を出すよう指示し、Bが同行してそれをサポートするように言いつけた。Dは、前日、被告人から、「Dが出かけて帰ってきたら三時、三時にはKさんがいなかったと警察に言え。ちゃんと忘れずに言うんだぞ。」などと念を押されていたが、警察官の前では、時間を言い間違えたほか、服装についてもグレーのズボンとポロシャツと答えてしまった。Dが打合せと違う説明を警察にしたことを知った被告人は、Dに対し、「おめえは何でちゃんとしないの。」などと強く叱責した。その後、被告人は、妻のDが心配して探すふりをしないといけないとして、CとDに対し、「駅南のタクシー乗り場で、運転手に、この人を利根川か坂東大橋まで乗せませんでしたかと聞いてこい。」と指示してCとDを本庄駅に行かせ、翌六日には、BとDに指示して、再度本庄駅にKを乗せたタクシーとKの自転車を探しに行かせた。被告人は、Cらから結果の報告を受けたが、その際、Cが本庄駅の北口でも聞き込みをしたことを知ると、「何で北側でなんか聞くんだ、俺が南側って言ってたろうが。」とCを叱りつけ、さらに、Bのいる前で、Cに「Cが押さえたから、こんなことになっちゃったんじゃねえか。」と言い出した。Cが「だって、マスターが押さえろって言ったから、押さえたんじゃない。」と反論すると、被告人は、「人聞きの悪いことを言うんじゃない。お前は、俺がしろって言ったら、何でもするのか。文句があるんだったら、借金を返してから言え。」などとCを怒鳴りつけた。

12  平成七年六月六日、被告人は、Cに、トリカブトを処分するから「d1」に持ってこいと言い、Cがその時点でo荘の冷凍庫に保管してあったトリカブトの根と葉をすべて持って、「d1」に行くと、被告人は「d1」の駐車場に置いてあった焼却炉にそれを投げ込み、焼却した。被告人は、「この煙は吸わない方がいい。」と言って少し離れた所でCとともにそれが燃えるのを見届けた後、今度は、「警察は下水もきれいにさらっていくから、ちゃんと掃除しなくちゃならない。」と言って下水掃除をすると言い、Cと二人で、以前男性従業員としたのと同じように、マンホールの蓋を開け、長いひしゃくで、溜まった下水をすくっては本管に流し込んだ。その後、被告人とCは、m荘に出かけ、そこにいたDとともに再び部屋の中の掃除をしたが、その際、被告人は、CとDに、「指紋という指紋を徹底的に拭け。」とか、「Kさんが吐いたゲロとか、そういうものが畳にしみ込んでいると、畳から出ちゃうから。」などと言い、念を入れて拭き掃除をするよう命じた。また、洗濯機、電話、テレビなどは夫婦で二台持っているとおかしいとして、Kの古着などとともに、ワゴン車に積み、Cとともに、布団などを捨てた別荘近くの林道に運んで投げ捨てた。

13  平成七年六月八日、被告人は、「これから死体を探しに行くぞ。」と言い、CとDを伴って利根川にKの死体を探しに行った。坂東大橋と下流の上武大橋の間の両岸の土手を自動車で走って探したが、発見には至らなかったため、その日の夜、「b」で被告人、C、B、Dの四人が顔を合わせた際、ビラを作って配ろうということになった。翌九日、被告人方に四人で集まって相談し、ビラにはKの写真を貼り、身長、体重、服装等を書くことになったが、被告人は、ビラの中に「この人を見つけたら五〇〇万円差し上げますという言葉を書け。」と提案した。Cらがもったいないと反論すると、被告人は、「死体が出ねえとらちがあかねえんだから、金なんか幾らかけてもいいんだ。」として上記の言葉を入れることにこだわった。下書きができあがると、同月一〇日か一一日ころ、Bがワープロで清書し、これに写真を貼り付けて、コンビニで五〇枚コピーしたものを持って利根川に行き、水上バイクで遊んでいたグループの者に渡しながら、坂東大橋から川に飛び込んだ場合、死体はどの辺に上がるかなどと尋ねたりした。

14  被告人は、Lにもこのビラを見せて、「Kさんは利根川に飛び込んで自殺した。Kさんの死体を探さなくちゃならない。」、「そのビラに書いてあるように、Kさんの死体を見つけたら、五〇〇万くれるから、Lさんも小遣いになるだろう。よかったらLさんも利根川に来ないか。」などと誘いかけ、その翌日、被告人、C、B及びLの四人で坂東大橋の上を本庄側から歩いて渡った。被告人は、「Kさんが橋の上から飛び降りたという証拠がないか、探す。」、「手すりをよく見て、手の跡とか、何か跡がないか、歩いてみろ。」と言っていたが、橋の途中で、「あった、あった。よく見てみろ、ここに手の跡がある。」と言って、Lら同行した者にその跡を見せた。そして、「俺がさんざん、手すりつかまるなと言ったのに、全然言うこと聞かねえで、つかまってら。」などと言った。

15  平成七年六月一四日夜、行田市内にある利根川の導水路において巡視員がKの死体を発見して行田警察署に通報し、これを受けた警察官は、翌一五日、Dに連絡した。被告人は、警察から連絡があったことを聞くと、CとDにもう一度指紋などが出ないよう徹底的に掃除することを命じ、Dには、警察官と対応する際、捜索願を出すときにはKの着衣を勘違いして話していることを伝え、生命保険のことを聞かれたら、郵便局に一〇〇〇万、国民共済に四〇〇万入っていると答えるようになどと指示した。同月一六日、警察官が革ジャンパーなど死体の着衣を持ってm荘を訪ね、Dは、それらがKのものに間違いない旨確認した。警察官が帰った後、Dの報告で、警察官がKの指紋がないと言っていた旨耳にした被告人は、「指紋が取れないほど全部拭いちゃうばかがいるか、Kさんの指紋ぐらい残しとけ。」と怒ったが、やがて機嫌を直し、「今日は店を休みにして、うちで飲もう。」と言った。

16  その後、被告人はDを伴って行田警察署に赴いたが、その際死体が着用していた革ジャンパーを見て、「二、三年前に私がKさんに差し上げたものに間違いないと思うが、私が差し上げたときには、襟首、袖口はついていたものですが、これにはありません。よく見ると、はさみか何かで切ったあとがわかります。」などと説明した。

17  平成七年六月二〇日過ごろ、連絡を受けたKの父親Oがm荘を訪れると、被告人とDがその応対に当たり、「これが来たんです。」と言って、同月三日の消印のあるKの漢字仮名交じりの手紙を出してきて見せたが、その手紙の末尾には、「短い間だったけれども僕は幸せでした」というような趣旨の言葉が記載してあった。そして、被告人は、Kの死亡前後の状況について、「平成六年の秋の辺りから体調がすぐれないってK君が言ってるので、病院に行って診てもらった方がいいよって、僕が言っても、言うこと聞かないんですよ。」とか、「平成七年の二月ごろから、俺何だかもう何にもやる気がなくなったと言っていた。」、「解剖の結果、胃がんの末期だったそうだ。」、「六月三日にDがいないとこから出かけて、男物と女物の自転車が二台あるのに、女物の自転車で出かけた。利根川まで距離が多いので自転車で行ったはずがないと思って、私がタクシー会社に方々電話したら、それらしい人物を利根川のそばまで乗せましたというタクシーがありました。」などと虚実取り混ぜてもっともらしく説明した。

九 保険金請求及び支払の状況

平成七年七月七日、被告人は、CとDを自宅に呼び、まず、Cに県民共済の死亡共済金支払請求書及びこくみん共済・共済金支払請求書に必要事項を記載させてこれらを投函した後、三人で安田生命や日本生命、郵便局などを訪れ、順次、保険金請求の手続をした。その後、同月一一日、被告人は、約束に基づき、CとBに現金で各一〇〇万円ずつを与えた。

Kの生命保険金は、その後、D名義の普通預金口座に振り込み入金され、あるいは現金で被告人に交付された。

【罪となるべき事実の第二】

被告人は、C、B及びDと共謀の上、Dを受取人とし、Kを被保険者とする生命保険契約に基づく死亡保険金等名下に、生命保険会社等から金員を詐取しようと企て、別表記載のとおり、平成七年七月七日から同月一〇日ころまでの間、前後五回にわたり、埼玉県児玉郡<以下省略>所在の日本生命保険相互会社熊谷支社児玉営業支部外四か所において、同会社外四法人の担当職員に対し、真実はKが被告人ら四名の共謀による殺害行為により死亡したものであって、各生命保険契約等上、Dに死亡保険金等の請求権が発生していなかったにもかかわらず、その情を秘し、同人に死亡保険金等を請求する正当な権利があるかのように装って、死亡保険金請求書等の関係書類を提出して死亡保険金等の支払を請求し、同会社埼玉契約サービスセンター長P外四名をしてその旨誤信させ、よって、同月一一日から同年八月一八日までの間、前後六回にわたり、同会社担当職員らをして、合計三億二三五万八八〇九円を、同県本庄市<以下省略>所在の株式会社あさひ銀行本庄支店外一か所に開設されたD名義の普通預金口座に振込入金させ、あるいは、同市<以下省略>所在の本庄郵便局において現金で交付させ、もって、人を欺いて財物を交付させた。

十 保険金分配の状況

平成七年八月一一日ころ、被告人は、保険金の取り分を渡す旨告げてCとBを被告人方に呼び出したが、Cに対しては、前記Mのつけの分を約束した分け前から控除するなどと言い渡し、現金は交付せず、既に渡した一〇〇万円と、後日Cが住むことになった本庄市<以下省略>の家などをCの最終的な取り分とした。また、Bに対しては、同様にそれまでの借金を控除するなどと言い渡し、現金で一五〇万円を交付し、既に渡した一〇〇万円との合計二五〇万円をBの最終的な取り分とした。Dに対しては、被告人は、これに先立つ同年七月二六日ころ現金で二〇〇万円、次いで同月二八日ころ現金で一〇〇万円をそれぞれ渡し、これとは別にフィリピンに家を買ってやるなどと話していたが、この点は結局実行されなかった。

第三章風邪薬事件について

一  被害者らの身上、経歴等

1  Lについて

Lは、青森県内で出生し、その後秋田県本荘市に転居して地元の中学校を卒業後、職業訓練校に入学して塗装の技術を習得し、埼玉県本庄市内のs株式会社に就職し、同社の寮に入って塗装工として稼働していたところ、昭和六〇年ころから「b」で客として飲酒するようになって被告人らと知り合った。当初は毎月一、二回通う程度であったが、平成二年に母親を亡くしたのをきっかけに、心の寂しさを紛らすため頻繁に「b」に通うようになり、つけで飲むうちに被告人に対する借金が増加し、同八年一二月ころ、被告人から、「a商事」で働けばs社の倍以上の給料を出すからと誘われ、被告人に対する借金を返済するため、s社を退職した。そして、同九年一月から、被告人が紹介した本庄市のアパートの一室に居住し、「a商事」でペンキ塗りの仕事などをしたが、一〇日ほどでくびになり、同月下旬から、Gを通じて、l社で工員として働く一方、その間、同八年六月から、夜はパチンコ景品買取業を営むt社でアルバイトをして生活費を得ていた。その後、同一〇年末ないし同一一年一月ころから、被告人が「c」の横に建てた家屋(プレハブ)に単身で住むようになり、同年三月末日でl社を退職し、同年五月一四日にはt社も辞め、以後は被告人に言われて被告人の弟方のペンキ塗りなどの作業をした。

Lは、同一〇年七月六日付けでDと婚姻届出をし、また、同月九日付けでDの長男を養子とする縁組届出がなされているが、後記のとおり、Dとの婚姻は偽装結婚であり、その長男との養子縁組はL本人の知らないうちになされたものであった。

2  Eについて

Eは、茨城県日立市で出生し、農業高校を卒業後、u社に就職したものの、やがて退職し、パチンコ店等で働いていたが、昭和六〇年ころからBを指名して「b」に客として出入りするようになり、被告人らと知り合った。その後、平成五年七月、それまで勤めていたパチンコ店を辞め、埼玉県加須市内のパチンコ店「パーラーv」で住み込みの店員として働くようになったが、同一〇年七月には同店を退職し、被告人が世話をした本庄市内のw荘に住み、「c」の従業員(チーフ)などとして働いていた。

Eは、同三年八月七日、フィリピン人女性と結婚したものの同四年七月三〇日には離婚し、同九年五月八日、Bと婚姻届出をしたが、Bとの結婚は、後記のとおり、偽装結婚であった。

二  BとEの偽装結婚

1  被告人は、平成九年四月上旬から中旬にかけてのころ、経営難からスナック「g」を閉店し、金員に窮していたBに対し、「毎月一〇万円もらうのと、多額のお金をもらうのと、どっちがいい。」などともちかけた。Bが、「毎月一〇万円なら、多額のお金をもらった方がいいよ。」と答えると、被告人は、「それじゃ、Eさんにでも籍に入ってもらって、保険でも掛けてもらえ。その保険料を俺が全部払ってやるから。」と言った。Bは、保険金殺人の片棒を担ぐことに躊躇を覚え、直ちに返答はしなかったものの、自分にできなかったことを子供にさせるには金が必要だと考え、また、被告人から、「籍だけ貸せ、あとのことはこっちで考えるから。」と言われたこともあって、籍を貸すだけなら悪いことをするわけではないと自分に言い聞かせ、翌日、「お金がもらえるんならいいよ。」と言って、Eと偽装結婚することを承諾した。Bが承諾したのを受けて、被告人は、「とりあえずEさんは年配なので、保険に入れるかどうか分からないから、まず保険に掛けてみる。」と言って日本団体生命の五〇〇〇万円の生命保険の申込みをし、Bが付き添ってEに健康診断を受けさせるなどし、Eが生命保険に加入できることを確認した。そして、被告人は、「保険はパスしたから、あとはBが、うまく籍を入れてもらうように丸め込め。」とBに指示した。

2  平成九年四月下旬ころ、Bは、「大事な話がある。」といって電話をかけて、Eを本庄駅に呼び出し、同市内の喫茶店に連れていって、Eに対し、「子供の父親の欄が空欄になっているので、籍を貸してくれないか。」などともちかけた。Eは、「俺でいいのか。Bちゃんは、俺なんかよりもっと若い男が一杯いるじゃないか。」と言ったが、Bが、「Eさんしか、こんなことは頼めない。」と粘ると、Eはこれを承諾した。その後、Eの署名・押印を得た婚姻届をBが本庄市役所に提出して手続が完了すると、被告人は、「第一歩が進んだな。今度はEさんを加須から呼んできて、アルコール漬けにしろ。毎週、遅くまで飲める休みの前の日に呼び出せ。」などと言った。

【罪となるべき事実の第三】

被告人は、B及びEと共謀の上、平成九年五月八日、埼玉県本庄市<以下省略>の本庄市役所において、同市役所の係員に対し、真実はBとEには婚姻する意思がないのに、内容虚偽のB及びE作成名義の婚姻届を提出して、両名の合意による婚姻が成立した旨虚偽の申立てをし、そのころ、同市役所において、情を知らない同係員らをして、権利義務に関する公正証書の原本であるBの戸籍原本にその旨不実の記載をさせ、そのころ、これを真正な戸籍簿として同市役所に備え付けさせて行使した。

三 DとLの偽装結婚

1  一方、Lは、前記のとおり、「b」で頻繁に飲酒するうち、被告人に対するつけが増大し、「b」が閉店した後、その借金は「a商事」に引き継がれた。Lは、l社やt社から支給される給料のほとんどを上記借金の返済に充てていたが、到底追いつかず、返済の目処は全く立たなかった。そこで、Lは、自分に万が一のことがあった場合、妹に迷惑が掛からないように、生命保険に加入しようと考え、被告人に相談したところ、被告人からも、「事故にでも遭ったら、借金も払えねえやあ。」などと言われたため、平成九年九月、Cの紹介で、妹を受取人とする第一生命の死亡保険金三〇〇〇万円の生命保険に加入した。しかし、第一回の保険料を支払っただけで、すぐに保険料の支払に窮したことから、解約しようと考えて被告人にその旨告げたところ、被告人は、「もったいない。外交員にも悪いから一年ぐらいは俺が立て替えて払ってやる。」などと言って、保険料を肩代わりすることを申し出た。

2  他方、被告人は、平成九年終わりころから同一〇年初めころ、Cに対し、「だれかいねえかなあ、保険に入れられるやつ、ばかで、金の計算ができなくて、言うことを聞くやつ。」などと相談した。発言内容から、被告人が保険金殺人のターゲットを探していると察したCが、「Lさんがいるじゃない。」と提案すると、被告人は、「Lさんじゃ若すぎるから駄目だ。」と言っていったんは難色を示したが、その後しばらくして、「Lさんのばかさ加減だったら大丈夫だろう。」、「Lさんは若いから、保険料が安いから、何年かかって、長く掛けてても大丈夫だから。」などと言って、Lを新たな標的とする考えを示した。その際、被告人は、受取人を探す必要があることを述べたが、Cは、当時、年金をもらうという話でNと婚姻届を出したものの、Nが執拗に同居を要求したりすることに辟易して同九年七月に離婚届を提出しており、待婚期間である六か月が間もなく過ぎようとしていたことから、被告人に対し、自分が受取人になることを提案したが、被告人は、「そんなに待てねえ。」などと言って反対した。

3  その後、被告人は、Lの偽装結婚の相手をDとすることに決め、Cにもそのことを告げた上、平成一〇年六月ころ、Dに対し、「a商事」に対する三〇〇万円ほどの借金を帳消しにするから、Lと籍を入れないかともちかけた。Dは、嘘の結婚は嫌だと言っていったんは断ったが、被告人は、Lの生命保険の受取人が同人の妹になっており、これをDに変更したい、受取人を変更した後は、LとCとを結婚させるから、Dは離婚してもいいなどと説明してDを説得した。Dは、トリカブト事件の保険金の分け前を使い果たし、逆に被告人に対する借金が膨らんでいたことから、その借金が帳消しになる上、すぐに離婚してもよいというのであれば引き受けてもよいと考えて、被告人の依頼を承諾することとした。被告人は、Lからなぜ結婚するのかと聞かれた場合には、ビザのために結婚してほしいと答えるようDに指示した。そして、同じころ、被告人は、Lに対しても、Dに戸籍を貸してやってくれれば借金を棒引きにしてやる、いつでも籍を抜くことができるなどと言って偽装結婚をもちかけ、Lは、五〇〇万円ほどと考えていた借金がなくなって自由になれるなどと考えてこれを承諾した。

【罪となるべき事実の第四】

被告人は、C、D及びLと共謀の上、平成一〇年七月六日、埼玉県児玉郡<以下省略>所在の児玉町役場において、同役場の係員に対し、真実はDとLには婚姻する意思がないのに、内容虚偽のL及びD作成名義の婚姻届を提出して、両名の合意による婚姻が成立した旨虚偽の申立てをし、そのころ、同役場において、情を知らない同係員らをして、権利義務に関する公正証書の原本であるLの戸籍原本にその旨不実の記載をさせ、そのころ、これを真正な戸籍簿として同役場に備え付けさせて行使した。

四 生命保険加入状況

1  L

被告人は、前記のとおり、第一生命の死亡保険金三〇〇〇万円の生命保険の保険料をLに代わって支払っていたほか、Lを保険金殺人の標的とすることを決めた後の平成一〇年四月ころ、Lを「a商事」の従業員に仕立てて、被保険者をL、受取人を「a商事」とする死亡保険金五〇〇〇万円の日本団体生命の生命保険に加入させた。さらに、同年六月以降、Cらに指示して、県民共済等、無審査で加入できる生命保険について、Lに無断で契約を締結し、その後も、Lに対し、「名前を貸してくれたら、小遣いやるから。」、「外交員の成績もあるし、外交員がこの保険に関しては払っていくんだから。」などと言って、次々と生命保険に加入させた。

その結果、同九年八月から同一一年三月までの間に契約締結に至った生命保険合計二三口の死亡保険金総額は約一〇億円に及んだ。Lを被保険者とする生命保険の毎月の保険料は、最終的に総額約三九万円にも及び、被告人は、Lが死亡して保険金を取得したときの取り分として、Cには一億八〇〇〇万円を、Dには最終的に五〇〇〇万円程度を、Bには一〇〇〇万円をそれぞれ渡すと約束するのと引換えに、Cに約五万円、D及びBには各数千円程度の保険料をそれぞれ負担させ、その余を被告人が負担した。

2  E

また、被告人は、BとEを偽装結婚させた後、Eに対し、BがEの将来の面倒をみるから、受取人とその住所等を変えなくてはならないなどと言って、同人に加入させた前記日本団体生命の生命保険の受取人を、Eの姉から戸籍上の妻となったBに変更する旨の変更手続書に署名させるとともに、二口目の生命保険契約の申込書を示して、「こっちにも名前書くんだよ。」などと偽って新たな生命保険契約の申込書に署名させるなどした。

その後、被告人は、Bに対し、「入れる保険はすべて入れ。」などと指示して、Eを被保険者とする生協、県民共済、外資系の通信販売の保険契約の申込みをさせたほか、E自身にも、「名前だけ貸してくれ。」などと言って、保険契約の申込みをさせるなどし、その結果、Eを被保険者とする生命保険合計七口の死亡保険金総額は約二億円に及んだ。毎月の保険料は、最終的には三〇万円近くに上り、被告人は、Eが死亡して保険金を取得した際には分け前を与えることを約束し、Cに七万円余り、Bに四〇〇〇円程度の保険料を負担させ、その余を被告人が負担した。

五 総合感冒薬等を飲ませた状況

1  被告人は、Cに対し、Lを新たな保険金殺人の標的とする考えを示した後の平成一〇年七月中旬ころ、「a商事」の事務所で、「体を弱らせるいい薬はねえかな。トリカブトは使わねえし。」と言って、トリカブト以外で、Lを衰弱させるのに適した薬物がないかとCに相談した。Cは、その場では「そんないいものあるわけないじゃん。」と答えたが、すぐに、前年父親が市販薬の飲みすぎで薬剤性肝炎になって入院したことを思い出して、市販薬であっても大量に摂取すれば人体に有害なのではないかと思いつき、数日後、被告人に対し、「この間の薬の話、市販の痛み止めとか風邪薬とかいろいろあるけど、そういうのも飲みすぎれば体に悪いんじゃないの。うちのお父さんもあんなになっちゃったし。」などと提案すると、被告人は「薬も毒だしな。まあ、体に悪いってことだ。」と答えた。その後、被告人は、「a商事」で、Cに対し、「Cんちのおやじは何の薬飲んでたって言ったっけ。」と聞き、Cが、「◎◎と■■の鼻炎の薬、あとは分かんない。」と答えると、被告人はさらに、「薬を食べ物に混ぜて食べさせられねえかな。ミルサーで粉にして振りかけて何とか食べさせることはできねえかな。」などと言った。Cは、料理に混ぜるのは難しい旨答えたが、日ごろ「e」でLに夕食を摂らせる際、クエン酸を錠剤にした健康食品の「▲▲」をLに与えて飲ませていたことから、「▲▲なら飲ませてるけどね。」と言うと、被告人は、「中身を入れ替えられればなあ。」などと言った。Cは、自己が日ごろ愛用している◎◎錠と「▲▲」が、いずれも白色の錠剤で形状が類似していたことから、被告人にその旨指摘すると、被告人は、実物を見比べた上、「ああ、似てる、似てる。これなら入れ替えても分からないや。」と言い、「▲▲」の容器の中に◎◎錠を入れて混ぜ合わせた。そして、さらに、「◎◎を二、三個買ってきて、混ぜといてくれ。今日からやってくれ。」と言い、日ごろLに飲ませている「▲▲」の錠数が一〇粒程度を目安にしていることをCから聞き出した上、「一〇粒くらいで様子を見ろ。毎日やってくれ。」と指示した。Cは、言われたとおり、薬局で◎◎錠を二、三箱購入し、これを「▲▲」の容器に混ぜた上、その夜、「e」に来店したLをカウンターに呼び寄せ、素知らぬふりをして、◎◎錠を混ぜた「▲▲」の容器から一〇錠ぐらいを取り出し、Lの手のひらの上に載せた。Lは、日ごろから強い酸味を呈する「▲▲」を楽に飲む方法として味わわず素早く飲み込むようにしていたが、このときもコップの水とともに素早くそれを飲み込んだため、味の変化には気づかなかった。

2  Lに毎日◎◎錠入りの「▲▲」を飲ませるようになって数日後、被告人は、イブプロフェンの副作用として肝臓障害や腎臓障害になることなどが記載された薬の成分に関するもの、食べ物と薬の飲み合わせの善し悪しに関するもの、薬剤師から見た薬の飲み方について触れたものなど三冊の本をCに渡し、「この本、俺も読んだんだけど、Cも読んどけ。イブプロフェンのところを重点的にな。」などと言った。

3  Cは、その後も、Lに対し、連日◎◎錠と「▲▲」を混ぜたものを与えていたが、やがて被告人から、「これが終わったら、◎◎だけにする。」との指示があり、使用していた「▲▲」の容器がいったん空になった後、その容器に◎◎錠を入れて、Lに飲ませるようになった。しかし、Lは、これにも全く気づく気配がなかった。

4  他方、被告人は、前記のとおり、Bに対し、Eを毎週加須から本庄に呼び寄せて酒を飲ませるよう指示していたが、Bは呼出しの連絡を忘れることもあり、それを知った被告人は、「どいつもこいつも、らちがあかねえ。何やっているんだよ。俺の方が干上がってしまうじゃねえかよ。俺の方がくたばって、先に死んじまう。」と厳しくBを叱責し、「薬をアルコールか何かに混ぜて飲ませる。一気に飲ませると、司法解剖で分かってしまう。栄養剤と言えば、本人も分からないで飲むし、少しずつ飲ませれば、本人も分からないで飲むだろう。」とか、「Eさんが加須にいたんでは自由にできないから、本庄に来てもらった方がいい。」などと言っていたが、平成一〇年六月ころになると、Cに対しても、「Eさんを本庄に引っ越しさせられねえかな、近くに置いた方が便利だから、いろいろと都合がいいから。」などと言った。その後、Bは、被告人から、「Eさんが本庄に引っ越してきたら仕事を世話してやるから、本庄に引っ越しするように言え。」と指示され、満六〇歳を迎え、正規の従業員からパート扱いに降格されて給料の下がったEに、「店の方では辞めてもらいたいんじゃないの。それなら、自分から辞めるって言った方がいいんじゃない。」などともちかけ、同年七月末日ころ、加須市内から本庄市内のw荘にEを転居させた。Eが転居してくる二、三日前、被告人はCに対し、「Eさんが本庄に来たら、Lさんと同じように、毎日「す」をやってくれ。」と指示し、さらに、Eが転居した翌日、「今日からEさんがCの所に行くから、今日からやってくれ。」、「一〇粒ぐらいやれ。」などと指示した。Cは、その日の午後七時半ころ、「e」に来店したEに対し、そのころは中身がすべて◎◎錠にすり替わっている「▲▲」の容器を示して、「これ、「す」の薬なんだけど、体にいいから飲んでみる。」ともちかけ、Eに嫌がる様子が見られなかったことから、容器から約一〇錠を取り出して渡し、飲ませた。こうして、Cは、その日以降、Eに対しても、連日この◎◎錠を飲ませるようになった。

5  平成一〇年八月上旬ないし中旬ころ、被告人は、Cに対し、「Lさんの様子はどうだや。」と尋ね、Cから何の変化も見られないことを聞くと、「少し増やせ。」と指示した。そこで、Cは、Lに飲ませる錠剤の量を一五ないし二〇錠程度まで増やした。他方、Eについても、被告人は、同月末ころ、「一五粒くらいにしろ。」と指示し、Cは、Eに気づかれないよう二、三回に分けて、与える錠剤の量を徐々に一五錠程度にまで増量した。

6  しかし、その後も、E及びLの体調には変化が見られなかったことから、被告人はCに、「もっといい薬はねえかな。」と言っていたが、やがて、「アセトアミノフェンてえのが体に悪いんだ。風邪薬に入ってるやつだよ。」、「アセトはさ、肝臓に悪いっつうで。肝臓が壊死するっていうんだ。」などと言い出し、Cにアセトアミノフェンの入った風邪薬を買うよう指示した。Cが、「e」に常備薬として◇◇錠を置いている旨教えると、被告人はCにそれを持参させて確かめた後、「とにかく何でもいいから、風邪薬を何種類か買ってこい。」と言った。Cが、◇◇錠以外の風邪薬として薬局で勧められた◆◆を買って被告人に見せると、被告人は、「何だ、これはイブプロフェンじゃねえか、ばかか、お前は。」などと言って怒ったが、その後「◇◇がアセトアミノフェンが多いんだよな。」と言い、◎◎錠に代わる薬剤として◇◇錠を使うことが決まった。そこで、Cは、◎◎錠を全部使い終わった後、今度は◇◇錠を「▲▲」の容器に詰め、LとEに対し、「▲▲の新製品が出たんだけど飲んでみる。」などと嘘を言ってこれを勧めた。両名は疑う様子もなくこれを飲んだが、殊にLは、「今度の新製品は飲みいいね。」などと言った。両名に与える錠数については、被告人が、Lには二〇錠、Eはそのままと指示したことから、Lに対してのみ一回二〇錠前後に増量した。

7  平成一一年に入ると、被告人は、Cに対し、「全然弱らねえみてえだから、何とか三〇錠ぐれえ飲ませられねえかな。」、「Lさんは若いから、ちんたらやってたんじゃ弱らねえ。」などと更に増量することを指示し、Cは、数回に分けて徐々にLに与える◇◇錠を三〇錠程度まで増やしたが、Lがすぐに吐いてしまったため、それを被告人に報告すると、被告人は、「すぐ吐いちゃうんじゃ効かねえや、それじゃ全然駄目だ。それでもなるべく多めにやってくれ。」と言った。Cは、その後、自己の判断で元の二〇錠程度に戻してLに飲ませ続けた。

8  この間、被告人は、LとEに飲ませる薬剤を◎◎錠と◇◇錠に決める過程で買いそろえた薬剤を、Lに追加して与えることを思いつき、Cに対し、「前に買った薬があったよな。もったいねえから使っちゃうべえ。」、「ビタミン剤とか何とか言って飲ませらんねえかな。」などともちかけたため、Cは、Lに対し、ビタミン剤の空き瓶に●●か◆◆を入れ、一回に二、三錠程度をビタミン剤と偽って飲ませたり、また、カルシウム剤である□□Caの空き瓶に▽▽を入れ、やはり一回に二、三錠程度をカルシウム剤と偽って飲ませるなどした。これらは店にあった薬剤を一時的に飲ませた程度でその補充などはしなかったが、その後、平成一一年初めころになって、被告人は、さらに「前にビタミン剤って言って、飲ませてたろ。ああいう風に▼▼飲ませられねえかなあ。」と言い、健康食品を多数入れたかごの中から△△の瓶を取り出し、「これがいいや。中身も似てるぞ。この瓶を使え。Lさんには精力剤と言っとけ。そうすれば、やつは喜んで飲むだろう。俺からもLさんにはよく話しとくから。三錠から五錠ぐらいをやれ。」などとCに指示した。そこで、Cは、△△の瓶に▼▼特続性錠を入れ、□□Caの瓶に入れた▽▽に代えて、一回に三ないし五錠程度を精力剤と偽ってLに飲ませた。

9  Lは、▼▼持続性錠を飲まされるようになったころから、飲んだ直後に「e」の便所で頻繁に吐くようになり、Cは、胃薬を与えた上、「吐いても大丈夫だよ。薬の栄養があるから。」などと言ってごまかしていたが、その点を被告人に報告すると、被告人は、「胃薬も薬だから、一杯飲ませれば体に悪いからどんどん飲ませろ。」と言った。そこで、Cは、本来一回一錠服用すべきガスター10という胃薬を一回に三錠渡してLに飲ませるようにしたが、そのころからLはげっそりと痩せてきた。一方、Eは、薬を吐くということはなかったが、やはり痩せ衰え、年寄り臭い印象を与えるようになっていた。

10  ところで、これらの薬剤の補充は、基本的に被告人が行っており、被告人はある程度まとめ買いをしては「e」店内に持ち込むなどしていたが、被告人は、平成一一年三月ころ、Cに「なあ、C、分かったか。」などと言い、Cがその意味を尋ねると、「Cが分からなかったら大丈夫だ。あの「す」の瓶の中に◇◇が入ってるだろう。その中に▼▼を混ぜておいたんだ。似てるから分からないだろう。」、「Cが分からなかったらやつらにも分からないだろう。敵を欺くには、味方からだから。」などと言って、◇◇錠を入れた「▲▲」の容器に、更に▼▼持続性錠が混入されていることを教えた。その後、Cが錠剤を出して確認すると、確かに▼▼持続性錠が入っており、それ以降も、Cは、E及びLに対し、この◇◇錠と▼▼持続性錠を混ぜ合わせたものを飲ませ続けた。

六 高濃度のアルコール等を摂取させた状況

1  被告人は、E及びLに、「e」で◇◇錠や▼▼持続性錠等を摂取させるのと並行して、Cに、「体に悪い油っこいものを食べさせろ。挽き肉はとんでもない血栓を作るから、メンチとかハンバーグとかそういうものを多く食べさせろ。」、「しょっぱいもの、味の濃いものを食べさせろ。」などと指示するほか、両名を酒漬けにするなどと言って、当時Dが経営していた「c」に来店させて両名にアルコールを多量に摂取させる考えを示した。そして、Lに対しては、代金はいらないとして、t社でのアルバイトが終わったあと「c」に寄るよう仕向け、また、Eに対しては、前記のとおり、平成一〇年八月ころから、「c」のチーフとして働かせるようにした後、客を呼ぶためのさくらとして飲んでくれると助かるなどと虚言を申し向けて場を設定した上、同年九月ころ、被告人は、Cに対し、「三五度の焼酌を仕入れて、cに持ってって置いといてくれ。あとはDがやる。」と指示する一方、Dに対し、LとEには、「c」で一般の客に飲ませている二〇度か二五度の焼酌ではなくて、三五度のものを飲ませるよう指示した。Dは、被告人の提案により、一般客用の二〇度二五度の焼酌のボトルに、Cが仕入れてきた三五度の焼酌を詰め替え、そのボトルを他と区別するため、Eのあだ名であった「E1」のイニシャルである「T」や、Lのあだ名であった「L1」のイニシャルである「K」の文字等を適宜ボトルに書いて、これを両名専用のボトルとし、EとKにはこのボトルから注いだ酒を飲ませるようにした。

2  その後、平成一〇年一〇月終わりか一一月初めころ、被告人は、「ウオッカだったら透明だから、焼酌と混ぜても分からないだろう。」と言って、Cとともに酒屋で度数の高いウオッカを探し、何本かのウオッカを仕入れると、Cに命じてそれらを「c」に届けさせ、前記Eらの専用ボトルに三五度の焼酌とウオッカを半々ずつ混ぜてLとEに飲ませるようDに指示した。

3  このようにして、被告人は、Dに対し、EとLにこれらの高濃度のアルコールを勧めてしっかりと飲ませるよう指示するとともに、Cに対しても、「e」を午前零時で閉店した後は、できるだけ「c」に行き、Dに協力して両名に酒を勧めるよう指示したほか、EとLがより一層多量に飲むための手段として、カラオケを休まず歌わせてのどが乾くように仕向けたり、じゃんけんをして負けるとグラスの酒を一気飲みさせたり、バーボンウイスキーとアルコール度数九六度のウオッカとを混ぜて作った飲物をワイングラスやブランデーグラスに一杯に注ぎ、それを一気に飲んで二〇分間吐かなかったら二万円を支払うなどというゲームを考え出してこれをやらせるなどした。

4  Dは、このような被告人の意を汲み、EとLがテーブルに出されている水差しの水でアルコールを薄めてしまうことを防ぐために、平成一一年三月か四月ころから、テーブルに置く水差しの中にもアルコール度数三五度の焼酌を混ぜておき、二人がそれと気づかずに高濃度のアルコールを飲むように細工した。被告人は、それを知ると、「それはいい、Dちゃん任せるよ。」などと言って喜び、Dを褒め上げた。

七 Eの死亡直前の状況

1  Eは、平成一一年三月末ころまでは、毎晩のように「e」に来店していたが、同年四月に入ると、Cが呼出しの電話をかけても生返事をするだけで、ほとんど来店しなくなり、中旬までに三、四回来店したにとどまり、同月後半に一度同店を訪れた際には、Cが「す」の薬を勧めてもそれを飲もうとせず、脇腹を押さえて、「腹が痛いんだけど、痛み止めくれないかね。」とCに言った。Cが、自分が医者から処方されていた痛み止めを二、三錠与えると、Eはそれをポケットに入れて、「c」に行った。

2  他方、Eは、「c」には、平成一一年四月に入ると、「今日は行けない。」などと電話をすることはあったものの、その後、呼出しを受けて結局来店し、相変わらずさくらの役割を演じていたが、そのころになると、Dに対し、腰が痛いとか、腹が痛いとか言って体の不調を訴えるようになった。そして、同年五月に入ると、痩せ衰えて元気をなくし、飛び飛びに来店する状態になった挙げ句、同月九日を最後に来店が途絶えた。

3  一方、平成一一年四月か五月ころ、Cは、被告人から、Lが仕事をさぼったのでLの家に「す」を持っていって飲ませろと指示され、自宅にあった「▲▲」の容器に、「e」に置いてあった「▲▲」の中の錠剤(前記のとおり、◇◇錠と▼▼持続性錠を混ぜ合わせたもの)を一回分より多めに取り出して入れ、これを持ってマジェスタでL方に行き、飲むように勧めたが、Lがいらないと断ったので、容器ごとマジェスタのコンソールボックスに入れた。

4  平成一一年五月二〇日過ぎころ、Eは、青白い顔色をして全身痩せ衰え、頬もげっそりやせこけた状態で「e」を訪ね、Cに対し、「腹がいてえんだけど、痛み止めくれねえかな。」と言った。Cが、「どこが痛いの。」と聞くと、Eは、下腹部の辺りを押さえながら、「下っ腹の方が痛い。痛いところがあっちこっちに移るんだ。日によって、あっちが痛かったり、こっちが痛かったりする。」などと訴えたので、Cは、そのとき手元にあった痛み止めの座薬を二、三個与えた。その後、Cが被告人にその顛末を報告すると、被告人は、Eがどこが痛いと言っていたかなどを根ほり葉ほりCに問いただした上、医学事典で、痛みが動く理由などを調べた。

5  平成一一年五月二四日の日中、被告人は、「Eさんの様子を見に行ってこよう。」と言って、CとBを伴い自動車でw荘に出かけた。被告人が外から「調子はどうだい。」などと声を掛け、Eと二言三言言葉を交わしたが、その間、Bがその場から離れると、「ちゃんとこっち来て、よく見ろ。」と言って、Eの様子を確認させた。帰りの自動車の中で、Eの足がまだら模様のようになっていたことが話題に出ると、被告人は、「血の循環がわりいってことだよ。」などと説明した。翌二五日、Eは、Bに電話をかけてきて、「何も食べてないので、足がふらついて歩けないから、そばか寿司を買ってきてくれ。」と依頼した。Bは、このことを被告人に報告して了解を得た上、コンビニのミニストップでいなり寿司を買ってEに届けた。さらに翌二六日にも、EはBに、「横っ腹が痛い。前にCちゃんに痛み止めをもらったことがある。もし、その痛み止めがあるんなら、もらってもらいたい。すごくよくあの薬は効くんだ。」と言って電話をかけた。Bの報告を受けた被告人が、Cを呼び、以前渡したという痛み止めの説明を求めたところ、Cは、前記の座薬と、そのとき一緒に置いてあったカプセルタイプの痛み止めを示し、カプセルタイプの物について用法は一回に一個飲むことになっている旨説明した。すると、被告人は、「じゃあ、封筒に二個って書いとけ。」と言い、Cが表に「二コ」と書いた封筒に両方の薬を一緒に入れ(座薬二個、カプセル一〇個くらい)、Bに渡してEに届けさせた。

6  平成一一年五月二八日、BはEから、「咳が止まらない。風邪引いたみたいだから、風邪薬と咳止めシロップを買ってきてくれ。」との電話を受け、被告人に報告した。被告人は、再び医学事典を開いて調べ、「Eさんは膵臓が悪いんだろう。」などと言っていたが、とりあえず薬を買って様子でも見に行こうということになり、被告人とBは、本庄市内の「※※ドラッグ・<省略>店」に出かけ、応対に当たった店員に対し被告人が、「六〇過ぎの男の人なんだけど、横っ腹が痛くって、ときどき呼吸困難にもなるんですけど、どんな病気ですかね。」などと聞いた。店員が病院に行くことを勧めると、被告人は、「病院嫌いでね。病院行くかどうか分からないんですよね。がんこでね。来たんだから、とりあえず薬だけ買って、あとは説得するか。」などと応答した。そして、××と咳止めシロップを買うことにしたが、その際、店員から風邪薬と咳止めシロップは一緒に飲まないよう注意されたのに対し、被告人は、「はい、分かりました。」と答えた。w荘に着くと、被告人は、「Eさん、どうだい。風邪薬買ってきたよ。」などと話しかけた上、持参した風邪薬と咳止めシロップを一緒に飲むように説明した。「a商事」に戻ると、待っていたCを交えて三人でたばこを吸いながら、雑談をしたが、その中で、被告人が、「Eさんも長いことない、あのまま医者にも連れていかない、だから、いつかは寝たっきりになる。そうすれば、そのまま衰弱して死ぬだろう。」、「死ぬ日が当たった人には一〇〇万円くれるから。」などと言い出し、Cは同日から同月三〇日、Bは同年六月五日前後の三日間、被告人は同月一〇日前後の数日をそれぞれ予想した。被告人は、それぞれが予想した日をたばこの空き箱に記載した上で、「これで、また一つ楽しみができたなあ。」などと言った。その後、被告人が、「だれか、Eさんの所に様子見に行かねえかな。」と言い出し、Cがジュースを買って見舞いに行くことになったが、CがEさんを訪ねると、Eは、起き上がるのも大儀な様子を示しつつ応対し、「風邪引いちゃったみたいで、咳が止まらなくて、苦しいんだ。買物にも行けなかったんだ。」と言って喜んでジュースを受け取った。

7  平成一一年五月二八日夜、Jが珍しく「c」に来店し、被告人に対し、「久しぶりにEさんに会いたい。」と言ったことから、被告人は、Eに呼出しの電話をかけた上で、DにEを迎えに行かせた。顔は真っ白で、歩くのも大変そうなEをDが自動車に乗せて「c」に連れ戻ると、被告人は、Eに、「一杯飲むか。」などと声を掛けたが、Eは声も出さずに動作でこれを断った。そして、一〇分ほど「c」にいただけでEは帰ることになり、被告人の指示で、再度DがEを自動車で家まで送ることになった。同月二九日午前一時半過ぎころ、Dが自動車にEを乗せて、「c」を出発し、w荘付近で自動車を止めて、「Eさん、もう着いたから、鍵ちょうだい。」と声を掛けたが、返事がなく、様子からEが死んでいるかもしれないと思ったDは、携帯電話で被告人に連絡した。連絡を受けた被告人は、Lを伴って現場に急行し、Eの体を揺するなどして反応がないことを確かめると、「アパートの中に運ぶ。」と言って、Lに手伝わせてEを家の中に運び込んだ。部屋の中にEを寝かせた後、被告人に言われて、LがEの心臓の音を聞いたり脈を診るなどしたが、脈はなかった。Dが、救急車を呼んだ方がいいなどと言ったが、被告人は、「もう死んじゃってるんだから、このままにしておいた方がいい。あとでBちゃんが呼ぶから。」などと言い、三人は、Eの遺体をそのままにして「c」に戻った。

【罪となるべき事実の第五】

被告人は、C、B及びDと共謀の上、E(当時六一歳)を被保険者とする生命保険契約に基づく死亡保険金等を取得する目的で同人を殺害しようと企て、平成一〇年八月ころから同一一年五月下旬までの間、埼玉県本庄市<以下省略>所在の「小料理e」店舗内及び同市<以下省略>所在の「パブc」店舗内において、同人に対し、殺意をもって、反復継続してアセトアミノフェン等を含有する総合感冒薬等及び高濃度のアルコールを含有する飲料を多量に嚥下、飲用させるなどし、よって、総合感冒薬等の過量長期連用による副作用等によって好中球の減少及び低栄養状態等による抵抗力の低下を惹起させ、同月二九日午前二時ころ、同市<以下省略>付近において、同人をこれに伴う化膿性胸膜炎、肺炎等により死亡させて殺害した。

八 Eの死亡後の状況

「c」に戻ると、被告人は、CとBに、Eが死亡した際の状況を説明し、取り乱していたLを帰宅させた後、「警察がBに事情を聞くだろうから、Bは暴力が原因でEさんと別居したことにしておけ。Bが様子を見に行ったら、Eさんが家の中で死んだことにしておけ。」、「Cが付いていってやれ、Cがいると、変に思まれるから、Bが様子を見に行った後、心配になって、Cを呼びに行って、それでCが付いていったことにしろ。」などと次々に指示を出した。その後、被告人は、「何かやばいものないか、見に行こう。」と言い出し、C、B、Dを伴ってEの家に行き、Cらに「a商事」に関係した書類などを探させる一方、Dには指紋を拭き取るよう命じて拭き掃除をさせるなどした。作業が終わり、Dと被告人が帰った後、Cとともに現場に残ったBが一一九番通報したことで、救急隊や警察官が到着したが、Bは、警察の事情聴取に対し、「夫の暴力で別居しているんですが、具合が悪いと言っていたので、たまたま様子を見に来たら息をしていませんでした。」などと、被告人の指示どおりの話をした。

九 Lが保護された状況

一方、Lは、Eが死亡した平成一一年五月二九日、「c」から自宅に戻って休んだ後、午前一一時ころから被告人に指示されていた「c」周辺の草むしりなどして、いつものように午後九時前ころ「c」に行ったが、Dから、「今日は早く閉める。」と言われて、自宅に戻り、眠ろうとしたところ、Dの声で、「逃げろ。」という幻聴が聞こえ、次いで、被告人の声で、「逃げても無駄だ、外へ出ても捕まえてやるから逃げても無駄だ。」という幻聴が聞こえたため、寝間着姿のまま自宅から外へ飛び出し、付近の病院に救いを求めるなどしたところ、同月三〇日午前三時ころ、警察官に保護され、深谷市内の深谷赤十字病院に収容された。

【罪となるべき事実の第六】

被告人は、C及びDと共謀の上、L(当時三九歳)を被保険者とする生命保険契約に基づく死亡保険金等を取得する目的で同人を殺害しようと企て、平成一〇年七月ころから同一一年五月下旬までの間、前記「小料理e」及び「パブc」の各店舗内において、同人に対し、殺意をもって、反復継続してアセトアミノフェン等を含有する総合感冒薬等及び高濃度のアルコールを含有する飲料を多量に嚥下、飲用させ、これらの過量長期連用による肝障害等により同人を殺害しようとしたが、同月三〇日、同人が体の不調を訴えて病院に収容されたため、同人に急性肝障害、好中球等の減少による抵抗力低下等の傷害を負わせるにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。

第四章新聞記者に対する傷害事件

平成一一年五月二九日深夜、Eが死亡し、翌三〇日早朝、Lが病院に保護されたことから、保険金目的殺人等の容疑で被告人らに対する捜査が開始され、同年七月ころから、被告人らは、いわゆる本庄保険金殺人疑惑事件の中心人物として、新聞を始めとするマスコミ各社の取材を受けるようになったが、被告人は、取材に来るマスコミ関係者を「c」と「e」に集め、料金を取って有料記者会見を行い、自己の主張を発表するなどしていたところ、同一二年三月八日、「c」において、取材に来ていた毎日新聞のQ記者と話をするうち、以前、毎日新聞の記者が、Cの父親に取材した際、被告人から青酸カリを渡されたのではないかと質問をしたことを非難し始め、これに対し、Qが「取材ですから。」などと答えたのを不満とし、さらに、「取材なら何をやってもいいのか。ばかやろう。」、「俺を侮辱しやがって。」、「毎日は駄目なんだ。勉強してから来い。」などと怒鳴りつけて激高した。

【罪となるべき事実の第七】

被告人は、平成一二年三月八日午後七時一五分ころ、前記「パブc」店舗内において、Q(当時二七歳)に対し、平手でその顔面を一回殴打する暴行を加え、よって、同人に全治約五日間を要する下口唇挫傷の傷害を負わせた。

【証拠の標目】<省略>

【法令の適用】

被告人の判示罪となるべき事実第一及び第五の各所為はいずれも刑法六〇条、一九九条に、同第二の所為は、同法六〇条、二四六条一項に、同第三及び第四の各所為のうち、戸籍原本に不実の記載をさせた点はいずれも同法六〇条、一五七条一項に、これを行使した点はいずれも同法六〇条、一五八条一項に、同第六の所為は同法六〇条、二〇三条、一九九条に、同第七の所為は同法二〇四条にそれぞれ該当するところ、同第三及び第四の各公正証書原本不実記載と各行使との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条によりそれぞれ一罪として犯情の重い不実公正証書原本行使罪の刑で処断することとし、各所定刑中、同第一及び第五の各罪についていずれも死刑を、同三、第四及び第七の各罪についていずれも懲役刑を、同第六の罪について有期懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四六条一項、一〇条により、刑及び犯情の最も重い同第一の罪の刑で処断し他の刑を科さないこととし、被告人を死刑に処し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

【争点に対する当裁判所の判断】

弁護人は、判示罪となるべき事実の第一から第七の事実すべてにつき、多岐にわたる論拠を挙げて争い、同第一ないし第六の各事実については被告人が無罪である旨、同第七の事実については暴行罪が成立するにとどまる旨主張する。そこで、以下、それらの点に関する当裁判所の判断を示す。

Ⅰ  トリカブト事件

一  トリカブト事件(判示罪となるべき事実の第一及び第二の犯行)では、被告人が、自己の経営する飲食店のホステス等として雇い入れる前後から長期間にわたって情交関係を保ち、日ごろ愛人として親しく交際してきたC、B、Dの三名の女性が、捜査段階の取調べにおいて、紆余曲折はあるものの最終的にはいずれも被告人とともに本件犯行を犯したことを自供し、各人それぞれの公判廷においても基本的にその供述を維持した結果、三名とも既に有罪判決を受けて、その刑が確定していることが認められるところ、この三名、殊にCの当公判廷における証言内容は、その一部に記憶が定かでない部分や曖昧な部分があるとはいえ、全体としてみれば、長い年月を経た以前の出来事であるにもかかわらず、極めて具体的且つ詳細で、迫真性に富んでおり、死亡したKの臓器からトリカブト毒が検出された旨の鑑定結果や、Cがトリカブトの採取場所として特定した美濃戸高原別荘地において現実にトリカブトが自生することが確認されたことなど、証言を裏付ける客観的な事実が存在するのである。さらに、これら三名の証言する内容は、基本的な筋道においてよく合致しているばかりか、例えば、次のように、本件の骨格をなすとみられる重要な場面における一見極めて些細と思われる部分においても、相互によく符合している。すなわち、

1 前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】の第二章の六の項で認定したとおり、被告人らは、平成七年六月一日、東秩父にある被告人の別荘で、K殺害についての謀議を行ったが、その謀議内容等に関するC、B、Dの当公判廷における各証言をみると、三名全員が、①被告人がDに対し、Kの手術痕の位置を説明してこれを覚えておく必要があると発言した旨証言しており、また、CとBが、②CとDがニチイに買物に行き、アリバイのためにレシートをもらうことになっていたこと、③遺書は二通あるという話だった旨証言している。

このうち、①については、保険金を請求する前提として、戸籍上の妻であるDが警察に被害者の捜索願を出す際、人相、着衣のみならず、その手術痕の位置を覚えておいて指摘するよう指導するなどということは、通常人が容易に思いつくような発想ではなく、このような面において被告人がいかに奸智に長けた用意周到な人物であるかを示す特徴的な出来事ということができ、また、②については、被告人が厳密な意味におけるアリバイとは異なる用法で「アリバイ」の語を用いる場合があることを示す、これまた特徴的なエピソードであり、さらに③についても、Kの遺書は実際には一通しか発見されていないにもかかわらず、CとBは遺書が二通ある話であった旨証言しているのであり、このような点を踏まえて検討すると、この部分において先のように証言が一致していることは、実際にCらがこの謀議を体験したことを如実に示すものといえる。

2 K殺害の状況は、前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】の第二章の七の項で認定したとおりであるが、Kがトリカブト入りのあんパンを食べさせられた後、体の異常を訴え、嘔吐する気配を示した際、Cは、被告人から洗面器を持ってくるよう指示されたDが、洗面器の意味が分からず、もたもたして何か違う物を持ってきたような記憶がある旨証言しているところ、Dも、「Yから「何とかメンキ」持ってきてと言われたが、意味が分からず、バスタオルを持っていったところ、Yから「それじゃねえんだよ。」と怒られた」旨証言している。殺害実行の緊迫した場面において、洗面器の意味が分からず、指示と異なる物(バスタオル)を持参したなどというのは極めて特徴的な出来事であって、このようなことを体験してもいないのに証言するということはおよそ考えられないことといえる。さらに、Kが動かなくなった後、被告人とCがm荘を立ち去る際、Dが動いたらどうするのかと尋ねたのに対し、被告人が、「死んでいる人間は怖くない、生きている人間の方がよっぽど怖い」旨の発言をしたという点についても、CとDは一致して証言しているところ、この発言も極めて特徴的なものであって、空想の産物であるとは到底考え難い。

3 Kの死体を利根川に遺棄した状況は、前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】の第二章の八の項で認定したとおりであるが、CとDは、その際、Dが河原でつまずいたことや、利根川の川岸でKの死体を被告人とCが長い棒(モップ)で突いて流したことを一致して証言しているところ、さらに、Bも、被告人らが戻ってきた後、Dがカウンターの中の椅子に座って足を拭きながら、「Bちゃん、足濡れちゃったからサンダル貸して。」と言ったことや、CがモップでKの死体を突っついたら流れていった旨発言したとして、これと合致する証言をしている。これらも、それなりに特徴的な出来事であって、三名が三名とも、全く経験していないことを創作で証言したなどとは到底考えられない。

二  一方、被告人は、本件に関し、当公判廷において、次のように供述している。

1 Kの一か月の飲み代が六〇万円から八〇万円になるほどの状況にあったため、Kに万一のことがあった場合にその回収に充てようと考え、Kが入金してくる三〇万円くらいの金を保険料に充てることにして、K自身の了解も得た上、Dを受取人として三億円くらいの生命保険に入ったが、後日保険金が実際に支払われた場合に、飲み代との精算をどのように行うのかについては、受取人であるDとの間で特別の取決めはしていない。

2 その後、Kが気力をなくして、自殺をほのめかすようになったので、どうせなら早く死んでくれればいいのにと思っており、平成七年五月末ころには、タクシーで利根川に行ったりするのに金がないような話をするので、今日にでもタクシーに乗ってほしいという思いで五〇〇〇円を渡したこともある。Cと二人で、Kが自殺するのは今日か明日かと毎日のように話し合っていたが、その過程ではKは泳ぎがうまいので、泳ぎづらくする方法などを話したこともある。

3 平成七年六月三日は、qから「b」に戻ると、Cが出ていったが、しばらくして「b」に戻ったCから「来てくれる。」と言われ、Cについてm荘に行くと、KがK方ベランダの柱に背中を預け、魂を抜かれたようにボーッと座り込んでおり、Cが「早く乗りなよ。」と言ってKを自動車に乗せた。Cは、Kを乗せて再びどこかへ出ていったが、自分は、そのとき、Kが飛び込んでくれればいいという気持ちでいた。その後、Cが戻って、「坂東大橋の土手の所で降ろした。」と言うので、もしかしたら飛び込んだかもしれないと思って、Cと二人で坂東大橋まで見に行ったが、Kの姿はどこにも見えなかった。

4 「b」を閉店した後、C、Dらと東秩父の別荘に行き、一泊した翌朝、牧場に行った帰り道に、車から降りてCと二人っきりになった際、Kを坂東大橋まで連れて行ったことはだれにも話すなと口止めした。

5 平成七年六月五日にKの遺書が到着したので、警察に捜索願を出す傍ら、同月三日にKを乗せたことがあるかどうかを聞くため、タクシーの運転手などに聞き込みをしたり、Kの乗り捨てた自転車があるかもしれないと考えて、駅の自転車置場を探すなどした。同月九日には坂東大橋に飛び込んだ形跡が残されていないかと思ってCやDらと橋を見に行ったところ、欄干などに手や服、靴の跡などを見つけることができたので、やはりKは坂東大橋から飛び込んだんだと思った。

この被告人の供述によると、被告人は、Kの飲み代の回収としては異常に高額と思われる三億円もの多額の生命保険に加入し、Kの死亡前においては、その保険金が手に入ると考えてKが死亡するのを待ち望む日々を過ごし、また、m荘でKの姿が見られなくなってからは、Cに対して口止めをしたり、Cが坂東大橋まで送った際にKが飛び込み自殺をしたのであれば、Kの行方を知るのにとりたてて意味のないこととなるタクシー運転手に対する聞き込みや自転車置場の捜索をしたりするなどの不審な言動が認められるのである。

三  これらの証拠を総合すると、被告人が本件を犯したのではないかと考えざるを得ない状況にあるといえるが、弁護人は、共犯者の証言、殊にC証言は、検察官による偽計、脅迫及び量刑を巡る約束に基づく極めて違法性の強い取調べによって得られたものであって、プランクトン検査の結果や、死後硬直に関する客観的証拠とも矛盾しているから、証拠能力も信用性も認められないと主張するほか、その他の証拠についても、その証拠能力、信用性等に疑義がある旨るる主張するので、以下、それらの証拠に関し、弁護人が提起した主要な問題点に対する当裁判所の検討結果を示し、これを通じて、本件について被告人が有罪である理由をさらに説明することとする。

第一C証言の証拠能力

まず、弁護人が、Cの自白には証拠能力がないと主張する点についてみるに、弁護人の主張する、検察官によるCに対する偽計、脅迫及び量刑を巡る約束等は、まず捜査段階における捜査手法を問題とするものであるところ、Cの捜査段階における供述調書については、当裁判所は、同人の供述経過を知るための証拠として採用したにすぎず、犯罪事実の存否を判断するためのいわゆる実質証拠として採用したわけではないから、Cの捜査段階における供述調書自体に証拠能力が認められるか否かは、本件における直接問題とならない。

そして、Cの当公判廷における証言についてみると、Cは、当公判廷に証人として出廷し、宣誓をして、供述拒否権を告げられた上で証言したものであって、その過程に任意性を疑わせる事情はないといえるから、C証言の証拠能力は当然に認められるのであって、弁護人の主張する、偽計、脅迫及び量刑を巡る約束が行われたか否かという問題は、それによりCが捜査段階において虚偽の自白を行い、当公判廷においても、その影響下においてそれと同内容の証言を行ったのではないかという問題に帰着するが、これはC証言の証拠能力の問題ではなく、信用性の問題として検討すべきである。

第二C証言の信用性

そこで、以下、C証言の信用性について検討するが、弁護人は、まず、C証言は、検察官が、一方では、否認したままでいると死刑になると脅迫し、他方で、自白すれば死刑にはしないとして量刑取引を行って引き出した「偽りの記憶」であると主張する。

なるほど、弁護人が指摘するとおり、Cが捜査段階において記していた日記には、「あなたを生きて帰したい。このままいったら、生きて帰れない。そんな道を選んでほしくない。」、「あなたの自白は関係ないの。ただ自白しているとしていないのは、裁判のときに、判決がすごくちがうの。だから、あなたを助けたいの。」、「このままいけば、Yはまちがいなく死刑だ。あなたも同じだということ、あなたが話せば二人とも助かるかもしれない。もしこれがうそだったら私検事やめるよ。」、「検察側は、Yさんと私を差をつけると言った。Yさんには、死刑しかないと。」など、取調べに当たった検察官の発言が推測される記述が至るところにみられるほか、本件の第一回公判後、Cが被告人の長男G(Cにとっては幼なじみの人物)宛に出した手紙(平成一三年五月一三日付け)の中には、「私自身、早くても一五年と思っています。私は、最初に自白する時に無期になることを覚悟して、証人となることも覚悟して正直に話すことを決意したのです。その時点で、極刑は免れたと検事に言われました。その後で、夏頃にKさんの事件を自白し始めたことから事件として立件できた、ということで、捜査に協力したと認められたから、更に一つ下がるそうなので、有期になればいいかナ、と今は思っています。」などの記載があることが認められる。

そして、C自身は、検察官と刑の話をしたのは二回にとどまり、一回目は、第一回公判を前にした平成一三年三月二八日のことで、刑はどのくらいになるかと質問したところ、検察官から一番重いことを考えておけと言われた旨、二回目は、当裁判所における証人尋問が迫った同年八月のことで、検察官から死刑だと思って公判で証言をするように言われた旨証言しており、それ以前の出来事を書き留めた先の日記の記載は、いずれも自己の創作であるとし、日記にこのようなことを書いた理由は、自白しようとしている自分に対して、検察官からこういう風に言われたんだから大丈夫だと自分を元気づけるためであるとか、検察官がそう言ったんなら、それは本当なんだと思えるとか、検察官から言われた形にした方が、納得できると思ったからであるとか、刑に対する恐怖に打ち勝つ勇気をつけるため、自分を慰めるためであるなどと説明しており、Gに対する手紙についても、他人に宛てて検察官に言われたこととしてこれを書くことによって自分を励ますためであるとか、死刑は覚悟したものの、死刑になりたかったわけではないので、それとは反対の言葉を書いた、などと説明している。

しかしながら、先の日記の、具体的で、取調べ検察官の言い回しの癖をよくとらえた自然な表現ぶりからは、Cがそこに記載されたような内容をすべて思いつきで創作できたとは直ちには考え難く、また、そのような記載をしたことに関してCが説明する内容についても、一見してこじつけの弁解めいた趣があって、容易に信じ難い部分がある。同年九月四日から同年一〇月二六日にかけて、当裁判所においてCに対する証人尋問が行われている間、検察官が、主尋問中のみならず、弁護人による反対尋問に移行してから後も、連日、さいたま拘置支所のCのもとを訪れ、その機会に、法廷における証言内容について話題にしたり、さらには、Cに対する無期懲役の判決が宣告された後、直ちにCのもとを訪れ、判決理由中でCが反省していないと指摘されたことなどについて不満を口にした上、控訴を勧めるものとCに受け取られるような言動に出るなど、重罪を犯した犯人と、これを訴追する検察官との間には通常みることのできない異様に緊密な状況と度を超した気遣いが看取されることも考え併せると、C証言の信用性を吟味するに当たっては、弁護人が指摘する観点をも十分に踏まえた上、極めて慎重に検討することを要するものと考えられる。以下、このような観点から、C証言の信用性を吟味する。

一 平成一四年のC証言の信用性

1 前記のとおり、Cは、当公判廷においては、概ね【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】にそう事実を証言したが、関係各証拠によれば、Cは、捜査段階の当初、Kは、坂東大橋から利根川に飛び込んで自殺したという趣旨の供述をしていたにもかかわらず、その後、平成一二年一〇月に至って、Kをトリカブトで殺害した旨供述を変遷させたことが認められる。そして、その理由について、同一三年に当公判廷で証言した際には、事件後、K殺害の記憶に蓋をしており、Kは自殺したのだと思っていたが、捜査の過程でK殺害についての記憶を回復したからである旨証言したが、その後、同一四年に再度証人として出廷した際、記憶に蓋をしていたという証言は嘘であったと述べて、概ね以下のような証言をした。

逮捕前、被告人から、Kは自殺したことにする。K殺害は遺体もなく証拠がないと言われていたが、平成一二年五月終わりころ、検事から、Kの臓器が保管されていることを聞いて愕然とし、臓器を鑑定されればトリカブトが出ると思ったことから、鑑定結果と矛盾しないように、トリカブトを毎日少しずつ与えていたということまではしゃべって、Kの最終的な死因については自殺の演技をさせたという供述をしようと決めた。同年六月に警察官を呼んで、トリカブトの話をしたところ、警察官は、トリカブトの話には乗ってきたが、自殺の話は最初から全く相手にしてくれなかった。

同年一〇月二四日、検事から、同年九月ころ作成された、Kを自殺に見せかけて利根川に飛び込ませたという内容の警察官調書について、自殺教唆というのは、本人が死ぬつもりになっている場合をいうのであり、死ぬつもりがない人間を川に飛び込ませるのは殺人である。また、この調書の内容は、被告人に全部罪をなすりつけているなどと指摘されたため、「げっ、一生懸命苦労して、必死になってKさんを殺したことを隠してきたのに、結果が殺人で同じなんじゃないかと思ったら、どうしよう、私は保険金殺人三件だよ、しかも、Kさんの事件はお金下りてるよ、保険金下りてるよ、どうしよう、もう駄目じゃん、これは本当のことをしゃべらなくちゃいけないんじゃないか」と思い、自分の弁解が無意味で、被告人に罪をなすりつけるという予期せぬ結果になっていることが分かり、真相を話そうと思った。もっとも、自分は正直者であるということを一生懸命アピールすれば死刑にならずに助かるかもしれないとも思い、否認をしていたことだけは何とか隠そうと思った。その後、検事から「Kさんに最後に食べさせた物は何。」という質問をされ、じっと一時間近く下を向いて、本当のことを言おうかどうしようか迷い、どうやって自分がK殺害を否認していたことを隠そうかと考えた。Kに自分がやったことを思い浮かべてみたら、Kを殺す前のことは鮮明に覚えていたが、Kを殺した後の細かい部分について分からないところがあることに気づき、これを利用して、記憶がなくて忘れていたということにすれば、自分が否認してたということを隠せるとひらめいて、全然忘れていないのに、いかにも忘れていたかのように話をすることを思いついた。

それ以降、犯行態様について、実際には覚えていたことを、ばらばらに思い出したかのように供述するなどして、忘れていたという供述を信用してもらおうと思った。

しかし、この供述については、検事からずっと疑われており、さらに、平成一三年に証人として出廷した際、裁判官からも、「あなたはここにずっと大さじ一杯のトリカブトが焼き付いていたんでしょう。それがずっと覚えていたということじゃないですか。」などと尋問されたことから、裁判官にも信用されていないと思っていたところ、再度出廷する機会を与えられたので、真相を証言した。

2 弁護人は、この平成一四年のC証言は信用することができず、Cの日記の記載等に照らせば、K殺害に関するCの記憶自体が、捜査官による偽計、脅迫及び量刑を巡る約束等によって作り出された「偽りの記憶」であると主張する。そこで、以下、日記の記載等と対照しつつ、供述変遷の理由に関する同年のC証言の信用性を検討する。

(1) まず、弁護人は、Cが、K殺害を忘れていたことにしようと考えた理由として、「死刑の恐怖」を挙げていることについて、先にみた平成一三年五月一三日付けのGに宛てた手紙の内容や、同一二年六月の日記に、「もしかしたら、再逮捕もあると言ってたけど、私は、それは、大丈夫みたいだ。」とか、「保険金殺人の場合は、罪が重いから、一〇年前後と思っていた方が、ショックを受けない、と思っている。」などと記載されていることを指摘して、Cには、死刑の恐怖は微塵も窺われないから、C証言は信用できないと主張する。

しかしながら、Cが、「もしかしたら、再逮捕もあると言っていたけど、私は、それは、大丈夫みたいだ。」と記載しているとおり、同月の日記は、K殺害が立件されないという前提に立ってのものであって、これが立件された場合に刑が一段と重くなることは何人にも容易に想像がつくことであるから、K殺害を自白した場合には死刑になるかもしれないという恐怖感があったとのC証言は決して不自然なものではない。また、Cは勾留中の身であり、居房で記載していた日記は、秘密を保持することのできるようなタイプのものではなく、差し入れを受けた市販の大学ノートに記載したにすぎないものであることに照らすと、この日記の内容はいつ捜査官の目に触れるとも限らない状況にあったと認められる。そうすると、CがK殺害を隠していた場合に、日記に、「K殺害がばれたら死刑になってしまう。」などと記載できないことは明らかであって、日記の記載と同一四年のC証言とは何ら矛盾しないといえる。

次に、G宛の手紙についてみるに、この手紙が発信された時点でCに対する検察官の求刑は未だ行われていないから、仮にそれ以前に検察官との間で量刑に関する何らかの約束があったとしても、Cが、公判廷で、従前証言を翻して、捜査段階においてK殺害を否認していたことを証言した場合、検察官の心証が悪化して、死刑を求刑される可能性が高くなると考えたとしても必ずしも不自然とはいえず、CがG宛の手紙に「早くても一五年」と記載しつつ、内心では、もしかしたら死刑を求刑されるかもしれないという不安を持っていたことは十分にあり得るところと考えられる。

Cは、無期懲役刑が確定した平成一四年に至って、初めて死刑の恐怖から解放され、真相を証言したとみるのが自然な見方というべきである。

(2) 次に、弁護人は、平成一二年五月三〇日のCの日記には、「今日で満期で、取調べが終わりだ。検事には、「あとで思い出したことがあったり、相談したいことがあったら、いつでも呼んで下さい。それと、こちらからも、話を聞きたい時は、行くか呼ぶかもしれません。」と言われた。明日からチョーヒマ人になってしまう。」などと記載されており、Kの臓器が保管されていることに関する記載は全くないから、同一四年のC証言は信用できると主張する。

確かに、このころのCの日記の中にKの臓器に関する記載がないことは弁護人が指摘するとおりであるが、このことは何ら不自然でなく、むしろ同年のC証言にそうものというべきである。なぜなら、C証言によれば、Cは当時、Kをトリカブトで殺害したことを隠し、自殺をしたことにしようと考えていたというのであり、前記のとおり人目につくおそれのある日記に、Kの臓器が保管されていることを聞いて動揺したなどと記載するはずがないことは明らかだからである。

弁護人はまた、Cの同一二年七月二八日の日記には、取調官であるR警察官から、Kの体内からトリカブトが出たらどうする旨聞かれて、「私はあげてない。もし入ってたら、それは、Yさんが、うちから持って行ったのだろう。だから、出ても、私がウソをついたことにはならない。」と答えた旨記載されているところ、上記会話は、トリカブトを死亡の直前に与えなければ、鑑定をしても出ないとの前提に立ってなされているのに対し、Kの臓器が保管されていると聞かされて動揺し、トリカブトを少しずつ与えていたことを認めたという同一四年のC証言は、長期間与えたトリカブトがKの臓器に蓄積され、それが鑑定で検出されるという前提に立っているから、両者は矛盾すると指摘する。

しかし、上記日記の記載は、これを素直に読めば、CはR警察官の質問を、「Kがトリカブトによって殺されたことが分かったらどうする。」、つまり、Kの直接の死因がトリカブト毒によるものであったと判明したらどう弁解するのかという問いと理解し、これに対して、「私はあげてない。もし入ってたら、それは、Yさんが、うちから持って行ったのだろう。だから、出ても、私がウソをついたことにはならない。」、つまり、死因に直接結びつくトリカブトが検出されたとしても、それは被告人が行ったことで、自己の日ごろの行為とは関係がないとの新たな弁解を思いつき、それを述べたものと理解することができる。このように考えれば、この記載は平成一四年のC証言と何ら矛盾するものでないことは明らかである。なお、弁護人は、Cが同一二年六月にトリカブトについて供述した点について、CにはK殺害に関する記憶がなかったにもかかわらず、信頼していた検察官から、「否認を続けると命はない。」、「あなたの命を救ってあげたい。」、「あなたが自白すればYの命も助かる。」などとC自身の量刑に絡めて利益誘導されたため、検察官を信じて、トリカブトの使用を認める供述をしたものである旨主張するが、仮に当時のCにK殺害に関する記憶が全くなかったのであれば、たとえ検察官から上記のような働きかけがあったとしても、トリカブトの使用を認める供述を敢えてする必要は全くないと認められる。これに対し、K殺害を隠そうとしていたCが、捜査官からKの臓器が保管されていると聞き、そこからトリカブト毒が検出された場合に備えて、Kに連日トリカブトを与えていたことだけは自白し、最終的な死因についてのみ自殺説を述べて刑責を回避しようとしたとの説明は極めて自然というべきである。

以上のとおり、臓器が保管されていることを聞かされたため、トリカブトが検出されても矛盾がないようなシナリオを考えようと思い、Kに毎日トリカブトを少しずつ与えていたが、最後はKを坂東大橋から飛び降りさせて自殺させたというストーリーを考えついたとのC証言は、極めて合理的であって日記の記載とも矛盾せず、十分に信用することができる。

(3) 次に、弁護人は、平成一四年のC証言によれば、Cが、同一二年一〇月二四日の日記を書いたのは、K殺害を忘れていたことにしようと思いつくよりも前の、取調べ中の休憩時間だったとされているのに対し、日記には、「みんなは、その日、ディナーショーに行く前に、トリカブトまんじゅうをあげてから、ディナーショーに行って、その後、死体を捨てに行った、ということらしい。私の記憶の中には、そんなことはなかったのに。」などと記載されているから、C証言は信用することができず、Cは本当にトリカブト事件の記憶がなかったのでそのことを日記に書いただけであると主張する。

しかしながら、日記をいつ書いたかに関するC証言は二転三転しており、トリカブト事件を忘れていたことにしようと思いついた後の二回目の休憩時間のときであったかもしれないとも証言しているところ、K殺害を自白するか否かの決断を迫られたことで、同日の取調べ経過に関するCの記憶が混乱したことはやむを得ないことである上、Cが、同年六月以降、日記に虚偽の事実を書いて捜査官に見せることで捜査官を欺こうと考えていたと証言していることにも照らすと、同年一〇月二四日の日記の記載も、自己弁護又は捜査官を欺く等の目的で記載したものとみるのが自然である。

3 これに対し、弁護人は、C証言は検察官の意向にそってなされた虚偽のものであって、日記の記載こそ、CがK殺害の場面を真剣に思い出そうとする様子をよく反映している旨主張する。また、仮に、Cが日記に上記のような偽装工作をするような人間であるとすれば、その証言もおよそ信用に値しないとも主張する。

しかしながら、犯行自体は認めつつも、情状面について少しでも有利になるよう虚偽の供述をするということは往々にしてみられることであって、本件の如き重大事件においてはその犯人が一層強くそうした思いに駆られるであろうことは十分に考えられるから、Cが、K殺害を自白しつつも、それまで否認していたことを隠すため、実際に記憶が欠落している部分があることを利用して上記のような偽装を行うということもあり得るところである。そして、Cが、情状面で上記のような偽装工作を行ったからといって、それによって犯罪事実自体に関するC証言の信用性が失われるものではないことは明らかである。

4 平成一三年のC証言によれば、CはK殺害の記憶に蓋をしており、Kは自殺したものであると思い込んでいたが、その後の捜査の過程で徐々に真実を思い出していったなどとされていたところ、心理学者である証人Sが当公判廷で証言するとおり、人を殺したという衝撃的な体験を特別な理由もなく忘れてしまうなどということは考え難いから、同年のC証言が不自然で信用できないことは弁護人が指摘するとおりである。これに対し、同一四年のC証言の内容は、重大犯罪を犯し、死刑と隣り合わせの状態にあった同人の心情を語ったものとして極めて自然であり、十分信用することができる。そして、同年のC証言によれば、CはK殺害の記憶を失っていないのであるから、S証言にいう「偽りの記憶」の問題は生じないということになる。

二 捜査官の言動

1 ところで、弁護人は、Cは捜査官から、自白と引換えに量刑上有利な取扱いをするとの約束をされており、この自白の内容も、単に「自分がやった」というだけではなく被告人の関与を認める内容の自白をすることが要求されていたことが明らかであって、いわゆる引込みの危険があるとも主張するので、次に、Cに対する取調べの状況とその点のC証言に対する影響の有無について検討する。

2 この点に関するCの日記の記載と、これについての当公判廷における説明は、既にみたとおりのものであって、公判廷における説明をたやすく信用することは困難であり、捜査段階において、日記の記載そのままではないにせよ、これに関連する量刑をテーマとした何らかの会話が検察官との間でなされた疑いは濃厚といわねばならない。

3 もっとも、Cは、風邪薬事件を自白した心境について、平成一二年四月二六日の日記に、「「証拠、証人で、裁判所にすいていで、あなたがやったと認定される」という言葉で、私の腹は決まったと思う。検事を信用してみようと。今日は聞けなかったけど、次のときには聞こう、私は間違っていないよね、検事さんを信用して良かったんだよねということと、自白をして貰うための駆け引きじゃなかったんだよねということも。私は今までYさんのためにだまっていた。私が認めるとYさんが大変なことになると思って。だけど、実際はちがうようだと気づいた。ここ何日か悩んでいたけど、私が話そうが、話すまいが、何も変わらないということ。変わるといえば、判決が少しちがうということ、私が話した話さないは関係なくYさんも有罪で、今のままだとまちがいなく死刑だということらしい。私は、Yさんを助けたいと思う。私が話しても、Yさん本人が話をしないと助からないらしい。私はYさんに生きていてもらいたい。」と記載しているところ、この記載からは、風邪薬事件の犯人であるCが、否認を続けることと自白することとを天秤に掛けて、自白をする道を選んだことが窺われるのであって、死刑に対する恐怖から、身に覚えのない犯罪を自白したものとは到底認められない(仮に身に覚えがないのであれば、「検事さんを信用して良かったんだよね」とか、「自白をして貰うための駆け引きじゃなかったんだよね」などという記載はしないであろう。)。また、この記載によれば、Cは、自己の自白がきっかけとなって被告人にも罪を認めて反省してほしいとの動機から自白したものと認められるのであって、日記やC証言によって認められる平成一二年四月当時のCの被告人に対する思い、心情等に照らせば、弁護人の主張するような引込みの危険があるとは考え難い。

4 次に、トリカブト事件について、弁護人は、平成一二年一〇月二四日の日記の記載を根拠として、検察官が、①トリカブトにより死亡したことが鑑定により明らかになったとの偽計、②犯行中のCを目撃した者がいるとの偽計、③被告人がC一人でやったと供述しているとの偽計を用いて、Cの自白を引き出しており、この取調べは違法であると主張する。

そこで、捜査官が偽計を用いて取調べをしたことにより、公判廷においてCが虚偽の証言をしているのか否かを検討するに、まず、①については、C証言によれば、検察官が取調べの過程で、Bが、殺害の前日、ディナーショーに行く前にトリカブトまんじゅうを食べさせ、戻ってから死体を捨てるとの計画について話し合ったと供述している旨告げ、それとともに「今は科学捜査の時代だから、その結果で全部わかるんだよ」などと発言したことが認められるところ、本件では、科学捜査の結果によっても、Kの死因がトリカブト中毒によるものと一義的に明らかになっているわけではないことも考え併せると、検察官のこのような発言は穏当とはいえない面もあるが、発言内容は極めて概括的、抽象的なものであって、要するに科学捜査でかなりの事実が判明するとの一般論の範囲に属する見解を述べたものとみるべきであり、敢えて偽計を用いた取調べと非難すべきものとまで考える必要はないといえる。②については、日記に「みんなは、その日、ディナーショーに行く前に、トリカブトまんじゅうをあげてから、ディナーショーに行って、その後、死体を捨てに行った、ということらしい。」との記載があるが、Cは、この部分は、取調べ検察官に対して、「Kさんのことを思い出したいので、何かヒントを下さい。」と頼んでみたところ、検察官から、別荘での共謀状況に関するBの供述内容を聞かされたので、それを記載したというのであり、上記記載内容を精査しても、格別その証言に疑わしいところはないから、捜査官が犯行自体の目撃者がいるとの偽計を弄したものとは解されないし、C自身も、「それを聞いて全然ピンと来なかったので、B供述は相手にしなかった」旨証言しているところである。

他方、③については、日記に、「Yもひどい! 私が全部やったって、誰かに話していると言ってた。(前に)。私がまんじゅうを無理やり食べさせて殺したと。死体も私が一人でかついで川に捨てたと言ったんだそうだ。たぶんBに……。」との記載があり、この点についてCは、検察官から告げられたのは、「死体も私が一人でかついで川に捨てたと言ったんだそうだ。」という部分であり、「私がまんじゅうを無理やり食べさせて殺した」という部分は、被告人が二人だけの秘密を他人に話すのであれば、こんなことも話しているのではないかと、想像して書いた旨一応証言している。しかし、Cと検察官の前記の異様な関係に照らすと、「私がまんじゅうを無理やり食べさせて殺した」との部分についても、検察官が、被告人の取調べ中における発言としてCに告げた可能性も視野に入れて検討せざるを得ず、被告人が実際にそのような発言をしていないのに、そう述べているかの如くCに告げたとすれば、その捜査方法は相当に違法性が高いものということができるが、この点、Cは、当公判廷においては、自己の過去の供述が被告人一人に責任を押しつける内容のものになっていると検察官から言われて動揺したことを証言しており、これがそれなりに信用できることは既にみたとおりであって、Cが被告人から責任を押しつけられたとして恨みに思うなどしているのであればこのような証言がなされるはずはなく、弁護人の反対尋問を経たC証言にこの捜査方法が未だに影響を及ぼしているなどと考えることは到底できないところである。

三 客観的証拠との整合性

次に、弁護人は、C証言は、客観的証拠と矛盾しており信用できないと主張し、以下のような主張をするので検討する。

1 まず、弁護人は、C証言によれば、Kがトリカブト入りあんパンを食べてから死亡するまでの時間は長くても二時間弱となるところ、文献等によれば、トリカブトを摂取して死亡するまでには約四時間程度かかるのが一般的であると認められるのであるから、文献等に紹介されている事例よりも少ない量のトリカブト毒を摂取したにすぎないKが二時間弱で死亡したというC証言はこれと矛盾すると主張する。

しかしながら、弁護人が前提とするKの死亡時刻は、Cが「Yさんに、Kの力が弱まったことを教えると、Yさんは、「もういいだろう。」と言い、「Kさん、おーい。」と声を掛けたが、Kは何の反応も示さなかった」旨証言する部分をとらえてのことと思われるが、Kが実際にこのとき死亡していたのかどうかについては、これだけの事実からは必ずしも明らかではなく、死亡が明確となるのは、その後、午後九時前後ころにディナーショーから「b」に戻り、被告人とCが再びm荘に行って、Kの左頸部に手を当てて脈がないことを確認したときのことであって、Kはこのときまでのいずれかの時点で死亡したとみるのが正確というべきである。そうすると、死亡までの推移において文献等と矛盾があると考える必要はなく、また、元来、毒物の効き目には個人差がある上、前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】の第二章の二及び三の項に記載したとおり、被告人らがKに対し、過労死作戦や成人病作戦などと称して長年にわたって多量のアルコールを飲酒させたり、睡眠不足となるよう仕向けたり、さらには、少量のトリカブトを一定期間継続的に摂取させるなどしたため、同人が痩せ細って(死後計測した体重は四六キログラム)、毒物に対する抵抗力を低下させていた可能性があることも考え併せると、仮にトリカブトを摂取してから二時間弱で死亡したとしても別段合理性を欠くことはないといえる。

2 次に、弁護人は、C証言によれば、m荘でトリカブト入りあんパンをKに食べさせた際、Kはそれを畳に嘔吐したというのに、m荘の畳を鑑定しても、畳からはアコニチン系アルカロイドもその分解物質も一切検出されなかったのであるから、C証言はこれと矛盾すると主張する。

しかしながら、関係証拠によれば、Kが死亡したm荘の部屋の畳の上にはカーペットが敷かれていたが、そのカーペットは事件後持ち出されて投棄されており、カーペットが敷かれていなかった部分はもとより、敷かれていた部分についても、CとDがその後念入りに拭き掃除をしていること、さらには、事件から鑑定までに五年以上の年月が経過していることなどが認められることに照らすと、畳からトリカブトの成分が検出されなかったからといって、C証言の信用性が否定されるものではないといえる。弁護人は、現に死亡したKの臓器から微量のトリカブト毒を検出した高速液体クロマトグラフィー分析法の精度に照らせば、この鑑定によって検出できないとは考えられないと主張するが、資料の保管状況が臓器とは全く異なることを考えると、臓器からトリカブト毒を検出できたからといって、畳からも必ず検出できるなどという保証は全くないというべきである。

3 次に、弁護人は、日本医科大学教授A1作成の回答書によれば、Cが証言するような形で死体に革ジャンパーやセーターを着せることは不可能であると主張する。

この点については、死体の上半身を九〇度近くまで起こすことができるかということ及び革ジャンパーの片袖に片腕を通した状態で、もう一方の腕をもう一方の袖に通すことが可能かということが問題となる。まず、前者についてみるに、同回答書によれば、複数の人間がいれば、一人が大腿部を押さえ、もう一人が頭部方向から肩等を支えて持ち上げるなどの方法で起こすことが可能であるとされているところ、CやBの証言によれば、Kの死体の上半身を起こす作業は被告人とDの二人がかりで行ったとされているから、同回答書と矛盾はしない。後者については、同回答書によれば、本件のように栄養貧の死体の場合には硬直の程度は弱く、外力による緩解は比較的容易であり、肩関節及び肘関節の硬直を緩解させれば、袖を通すことは可能であるとされているところ、C証言によれば、被告人らは、まずワイシャツを着せようとしてKの腕を動かした形跡があり、その後ジャンパーを着せる段になって、被告人がKの硬直した腕を無理やりジャンパーの袖の中に押し込むように通したというのであるから、これについても回答書と何ら矛盾することはないというべきである。

また、弁護人は、C証言によればKの死体をワゴン車に乗せた際、足が伸びて宙に浮いていたとされているが、ワイシャツやジャンパーを着せた際、既に腰部の硬直は緩解していたはずであるから、運搬中、死体が「く」の字に曲がらず一直線になり、自動車に乗せた死体の足が宙に浮くということはあり得ないとも主張する。

しかし、Cは、運搬中死体が完全な一直線になっていたなどとはおよそ証言していないし、Cが証言するような態様で死体をワゴン車の座席に乗せた場合、膝と足首の関節が硬直していれば、腰部が硬直しているか否かに関わらず、足が伸びて自動車の床から持ち上がり、宙に浮く格好になるのは当然であって、C証言に何ら不自然な点はみられない。

4 次に、弁護人は、C証言によれば、Kの遺書の封筒の住所部分の文字は、Kの死後、被告人ないしその家族によって書かれたものであることになるが、A2作成の鑑定書によれば、その文字はKの筆跡であると認められるから、C証言はこれと明らかに矛盾すると主張する。

しかし、本件の鑑定資料はコピーであるところ、A2自身、原本による対照が望ましく、本件が弁護人からの依頼ではなく一般人からの依頼であれば原本の入手を促したと述べていること、日ごろ、鑑定不能という判断はできるだけ避けて、一致か不一致かのどちらかの明確な結論を出すようにしているという趣旨の証言をしているところ、本件ではもう少し文字数が多い方が理想的で、同一文字であれば最もよいとしながら、住所部分の「県」、「本」、「番」と、宛名部分の「○」、「様」、「△」の文字のそれぞれ一部ずつが符合していることを根拠にして一致するとの結論を導いており、異なる文字の一部についての符合から筆跡の同一性を肯定するには余りに文字数が少ないことなどの点に鑑みると、同鑑定結果の信用性には疑問が残るものといわざるを得ない。

他方、A2鑑定を前提とすれば、住所部分を後から書いたというC証言が記憶違いであったことになるが、C自身は、平成一四年証言において、切手が後から貼られたことは間違いないが、住所はもともと書かれていたかもしれないと証言を訂正するに至っている。したがって、この点はいずれにしてもC証言全体の信用性には影響しないというべきである。

なお、弁護人は、Cが同年の証言において、住所部分を後から書いたという前年の証言について自信がないと述べるに至ったのは、検察官からA2鑑定の結果を聞かされたからであると主張する。その可能性も決してないとはいえないが、仮に、Cが、鑑定の結果を聞かされてこの点の証言を変更したのだとしても、他の証拠関係をもとに自己の記憶違いを正すということはあり得るところであって、証言を変更したとの事実だけから検察官に迎合して記憶の如何に関わらず証言を変更したものと即断することは困難である。

5 次に、弁護人は、C証言によれば、平成七年六月四日、東秩父の被告人の別荘の近くにある山林の林道脇に、m荘にあったKの布団、黄色スウェット等を投棄し、その後、さらに洗濯機、電話、テレビ、古着を同じ場所に投棄したとされているところ、同一二年一一月二九日と翌三〇日に行われた上記山林の捜索の結果、これらの物は一点も発見されておらず、C証言はこれと矛盾すると主張する。

布団や衣類は風雨にさらされた状態で五年半もの長期間放置されれば、分解飛散して判別不能になる可能性があるとしても、洗濯機やテレビなどは、真にそこが投棄場所であれば、警察による捜索の際発見されてしかるべきであって、C証言を裏付ける証拠物が一点も発見されなかったというのは、確かに腑に落ちないところである。

しかしながら、関係証拠によって認められる現場の状況に照らすと、検察官が主張するように、投棄物が現場の土中に埋没したり、捜索範囲外に移動していて発見不可能となっている可能性を全く否定はしきれない上、同年一二月二三日付け実況見分調書(甲二九五号証)によると、「(Cが、)「ここみたい。捨てたときに冷蔵庫や洗濯機がありました。」と申し立て布団等の投棄場所を案内した。」と記載されており、Cは、投棄場所自体をそれとして明確に記憶していたわけではなく、同年になって捜査官を同行して現場を訪れた際、現に冷蔵庫や洗濯機が投棄されている場所を目にして、その地点を投棄場所として特定したものであることが推測される状況にもある。この点、C自身は、当公判廷において、「そこの道を何度も通っていたので、地形は分かっていた」旨一応証言してはいるが、現場は同様の風景が連続する林道中の一地点であり、格別特徴のある地形を構成しているというわけではないから、同年に訪れた際の現況をもとに投棄場所を特定した可能性はなお残されるのであって、寄居町の職員であるA3が当公判廷において、この林道沿いには不法投棄場所が散在していたと証言していることにも照らすと、投棄場所がこの林道沿いの別の場所であったこともあり得ることといわなければならない。

したがって、Cが特定した場所から布団や洗濯機等の投棄物が一点も発見されなかったことは、C証言に不審を抱かせる一つの事情であることは否定し得ないが、上記のような事情も考え併せると、そのことから直ちにC証言全体の信用性が決定的に否定されるものとまでいうことはできない。

四  秘密の暴露の不存在

弁護人は、C証言には本来あるべき秘密の暴露が存在せず、このことはC証言の信用性を著しく低下させると主張し、以下の点を指摘するので検討する。

1 まず、弁護人は、Cが、Kの死体からスウェットを脱がせて体を拭いたと証言しているにもかかわらず、その証言内容が具体的でないのは、証言が虚偽であり、死体が最高度に硬直していない状態について語ることができないからであると主張する。

しかしながら、当時、Cらは、m荘の部屋の掃除や、衣類を着せ替えた後のKの死体を利根川に流すという作業を、「b」にいるL及びNに怪しまれないようにしながら速やかに行う必要があり、慌ただしく行動していたものと認められる上、C証言によると、必ずしも、Kの死体からスウェットを脱がせ、死体を拭くなどの作業をした後、部屋の掃除をするというように順序立てて作業をしたのではなく、これらの作業を同時に並行して進めたのではないかと窺われる状況もあり、その場にいた被告人、C、Dの三人で作業を分担して行ったことも考えられるから、事件から長期間が経過した後にその際の状況について逐一Cが記憶していないとしても無理はないと考えられる。よって、この点に関するCの記憶が曖昧であるとしても、直ちにC証言全体の信用性が否定されるものではない。

2 次に、弁護人は、C証言によれば、Cがアリバイ工作のために入手したはずのニチイのレシートについて、被告人は、Cに対し、保管方法についての指示はおろか、レシートをもらってきたかどうかの確認すらしておらず、極めて不自然であると主張する。そして、実際にレシートも発見されていないことにも照らすと、この点のC証言は虚偽であると主張する。

しかし、C証言によれば、Cは、確かにレシートをもらって買物をしたことの証明に使うことを自ら提案したことが認められるものの、一方で、たとえレシートをもらったとしても、殺害行為を行うのとは別の時刻の行動についての証拠が犯行のアリバイになることはないと考えていた形跡もあるので、C自身はもともとレシートについてそれほど高い関心を有していなかったとしても不自然ではない。一方、レシートをもらうことを提案したのがCであったために、被告人もまたレシートにそれほどの関心を有していなかったと考える余地がある。

仮に、被告人らが、事件直後に捜査機関からアリバイを尋ねられていれば、被告人がレシートのことを思い出してCに確認したかもしれないが、実際には、Kの死は当時自殺として処理されているから、被告人らが、レシートに対する関心を失ったままこれを放置し、時間の経過とともにその後散逸したとしてもやむを得ないというべきである。

3 次に、弁護人は、証人Tの当公判廷における証言によれば、Cが平成一二年七月に警察官を美濃戸に案内した際、トリカブトを採取した地点を明確に特定することはできなかったのであって、美濃戸にトリカブトが生息していることは「八ヶ岳の花」という本にも載っているのであるから、警察官を美濃戸に案内したということで秘密の暴露になるわけではないと主張する。

しかし、同月の引当たりの状況に関する捜査報告書(甲一七二号証)及び上記T証言によれば、警察官はCの案内、指示によって美濃戸高原の別荘地内に到達し、同所で実際にトリカブトを採取したことが認められるところ、トリカブト自生地として美濃戸の地名が載せてある本を見た程度のことで、別荘地内のトリカブト自生地まで警察官を実際に案内し、同所に生育している植物の中から誤りなくトリカブトを選別して指示することができるなどということは考え難く、Cが案内した美濃戸高原別荘地に現実にトリカブトが自生していたことは、C証言の信用性を大いに高める事実といえる。

なお、弁護人が指摘するとおり、Cは、美濃戸高原別荘地内の具体的な採取場所までは特定できなかったことが認められるが、これは、建物の建築が進むなどしたことで、同五、六年当時とは景観が変化したためと考えられるのであって、これがC証言の信用性を失わせる事情となるわけではないことは明らかである。

4 次に、弁護人は、Cがm荘でKにトリカブトを食べさせて殺害したことを供述したのは、臓器等の鑑定よりも後であるから、この点も秘密の暴露には当たらないと主張する。

しかしながら、CがKにトリカブトを与えていたことは、捜査官があらかじめ知り得なかった事実といえる。すなわち、Kの死体から取り出した臓器の鑑定を行った証人A4の当公判廷における証言等の関係各証拠に照らせば、平成一二年六月の時点で、八種類の薬毒物についてスクリーニングと呼ばれる低感度の分析を行ったものの、薬毒物の検出には至らなかったが、Cがトリカブトについて捜査官に供述した後の同年七月一七日に、Kの肝臓、腎臓及び肺にトリカブト毒が含まれるか否かについての鑑定嘱託を行い、これに基づいて埼玉県警察本部刑事部科学捜査研究所(以下、科捜研という。)で鑑定を行ったところ、同年八月一三日、それらの臓器からトリカブト毒の加水分解物であるベンゾイルメサコニン及びベンゾイルアコニンが検出された旨の中間回答がもたらされ、また、同月一一日のKの毛髪についての鑑定嘱託に基づき、国立医薬品食品衛生研究所所属の厚生省技官A5が鑑定を行ったところ、同年一〇月二四日付けでKの毛髪中からトリカブト毒であるメサコニチンが検出された旨の鑑定書が作成されているのである。

もっとも、Cは日ごろからKにトリカブト入りの「まんじゅう」を与えていたというのであるから、Kの臓器や毛髪からトリカブト成分が検出されたからといって、それが直ちに死因であると証明されたわけではなく、特に、毛髪鑑定の結果検出されたトリカブト毒は、K殺害の直接の原因となったトリカブトのものとは認められないが、少なくとも、本件の犯行の過程でトリカブトが用いられたことは、Cの供述によって初めて明らかになったといってよく、このことはC証言の信用性を高める事情であるといえる。

5 次に、弁護人は、Cが、捜査当初の供述から大きな変遷を経た末、最終的に犯行に使った「十勝あんパン」をファミリーマートで買ったと供述したにもかかわらず、その裏付けがなされていないことを指摘し、これも秘密の暴露には当たらないと主張する。

確かに、「十勝あんパン」を実際に犯行に用いたかどうかについて客観的な裏付けがあるわけではなく、Cも捜査の当初から「十勝あんパン」を犯行に用いたと供述していたわけでもないことは弁護人指摘のとおりである。しかし、犯行日ころ、Cが供述するファミリーマートにおいて、「十勝あんパン」が実際に販売されていた事実は、関係証拠により裏付けられている上、平成七年六月五日まででその販売が中止された事実も認められるところ、仮にCの供述が捜査官の誘導によってなされた虚偽の供述であるとすれば、単純に現在も販売されているあんパンを使用した旨供述すれば足りるのであって、Cが、犯行当時販売されており、その直後に販売されなくなった「十勝あんパン」を使用したと証言していることは、その信用性を裏付ける事実であると認められる。

6 最後に、弁護人は、Cが証言する漢字仮名交じりの遺書は発見されておらず、この点について客観的裏付けがなされていないことを指摘する。

漢字仮名交じりの遺書が発見されていないことは弁護人指摘のとおりであるが、これが存在したことは、Cのみならず、D及びOも一致して証言しているところであって、仮に遺書が一通だけであったとすれば、Cらが故意に漢字仮名交じりの遺書もあったなどという虚偽の証言をする必要性は全くなく、また、Cらがそろって記憶違いをしているとも考え難いから、この点のC証言の信用性は高いと認められる。

五  他の者の証言との整合性

弁護人は、C証言は、信頼できる他の証人の証言と矛盾しているとして、以下の諸点を挙げるので順に検討する。

1 まず、弁護人は、C証言によれば、平成七年六月三日、qに到着した際、ディナーショーは既に始まっていたとされているところ、ショーの主催者であった証人Uは、当公判廷において、この日のショーについて、「午後五時半ころ会場が開いて客が入場し、まず食事をした後、午後六時ころからショーが始まった」旨証言し、被告人らが到着した時刻については、「客が入場していたときであるから午後六時一〇分前ころだと思う」旨証言しているから、C証言はこれと矛盾すると指摘する。

確かに、Cは、ショーは既に始まっていた旨証言しているものの、この日はK殺害の直後で気が動転しており、ショーの内容も覚えていないし、ショーの途中で帰ったのかどうかもはっきりしないとしており、既にショーが始まっていたとの証言も、甚だ漠然としたものであって、実際にショーがどの段階にあったなどの具体的な状況は一向に明確でない。Uはディナーショーの主催者であるからショーの内容はもとより、その開始時刻やその後の進行状況に関する同人の証言の信用性は高いものと認められるところ、そのU証言によれば、当日の飲食物は客の入場前に既にテーブルに用意されているので、午後五時半ころ会場が開いた後、ある程度そのテーブルに人数がそろえば客は勝手に飲食を始める状況にあったというのであり、午後六時一〇分ころ会場に到着したCが、食事が始まっているのを見て、既にショーが始まっていると認識することも考えられるところであり、この点についてのC証言がU証言と矛盾するとまではいえない。

なお、U証言によれば、Cが本庄を出発した時間について午後六時を過ぎていたと証言している点も、Cの記憶違いと認めざるを得ないが、これによりC証言全体の信用性が否定されるものではないことは明らかである。

2 次に、弁護人は、C証言によれば、ディナーショーから帰った後、NとLを「b」に待たせておいて、Kのスウェットを脱がせたりm荘の掃除をしたりし、「b」に戻ると、Nから「人がせっかくディナーショーに連れて行ってやったのに、こんなに長い間放っておいて何なんだ。」と怒られたとされているのに対し、証人Nは当公判廷において、そのような会話はなく、待たされたのはせいぜい三〇分程度であると証言しているから、C証言はこれと矛盾すると指摘する。

両証言の内容は弁護人指摘のとおりであるが、Nは当時「b」の常連客であり、本件当日はNにとっては日常の一場面にすぎなかった上、飲酒もしていたと認められることにも照らすと、約七年経過した証言時においては、もともとそれほど正確でなかった記憶が更に一層減退したということも十分考えられるところであり、現に、ディナーショーの開始時刻が三、四十分遅れていたなどと関係証拠に明らかに反する供述をしている状況にもあるのであって、Cとの会話を忘れている可能性も否定できないものと認められる。他方、Cにとっては当日はK殺害の実行日であって、当日の印象的な出来事についての記憶の信頼性はNに比して格段に高いと認められるが、ホステスが、客を待たせたことで不満を言われるということは、この日以外でもあり得ることであるから、Cが別の日の出来事と混同している可能性も全くないわけではない。このように証言に齟齬が生じ得る理由は様々に考えられるところではあるが、いずれにせよ、上記の会話があったか否かについてC証言とN証言との間に矛盾があり、事実の有無が明確にならなかったからといって、C証言全体の信用性に根本的な疑念を抱かせるほどのものではないといえる。

弁護人は、また、Nが長時間「b」に放置された事実はなかったとも主張するが、そのN自身も、三〇分程度待たされたことはあると供述しているのであり、Nが時計を見ていたわけではないことに照らすと、この「三〇分程度」には相当の幅があるものと認められるところ、他方で、被告人とCがNを待たせていた時間というのは、死体のスウェットを脱がせ、その体を拭いたり、m荘の掃除をするなどしていた時間であって、それほど長時間であったとも考えられないから、三〇分程度待たされたというN証言と別段矛盾するものではないといえる。

3 次に、弁護人は、C証言によれば、Nを平成七年六月三日の午後一一時半から午前零時までの間に帰した後、利根川にKの死体を捨てにいったとされているが、Lは、当公判廷において、Nが帰ったのは別荘に向かって出発した同月四日午前四時過ぎよりも一時間くらい前であると証言しており、殺人未遂事件の被害者とされているLが殊更被告人に有利な証言をするとは考えられない上、Cを争ってライバルの間柄であったNが先に帰ったことは印象に残っているはずであるから、Lの証言の信用性は高く、これに反するC証言は信用できないと主張する。

しかしながら、Nと同様、Lも「b」の常連客であり、本件当日は同人にとって日常の一場面にすぎないこと、飲酒をしていたこと、証言までに約七年が経過していることなどを考慮すると、本件当日の「b」での状況についてのLの記憶の正確性については疑問があり、現に、BとCが一致して被告人らが利根川から戻った際、BとLがカラオケを歌っていた旨証言しているのに対し、Lは、Bとカラオケを歌っていたかと言われればそういう風な感じもする旨述べるに止まり、否定も肯定もできない状況にある。Lは、時計を見ていたわけではなく、感覚的に、Nが帰ってから別荘に行くまでの時間は一時間くらいであったと証言しているにすぎないから、この「一時間」には相当の幅があるものというべきである。

これに対し、Cは、同月一日の謀議の際、「d1」の閉店時間である午前零時にNを帰すよう被告人から指示されていたが、当日になって被告人から「d1」を開けなくてよい旨言われたので、Nを「b」に誘い、午後一一時半から午前零時までの間ころ、「b」からNを帰した旨具体的に証言しているのであって、Lに比してその証言の信用性は高いというべきである。

この点に関する他の者の証言をみると、Bは、Nが帰ってから別荘に行くまでの時間について、Lとかなりカラオケを歌ったので一時間以上あったと思う旨証言しているところ、これも時計を見ていたわけではないから「一時間以上」には相当の幅があるとみるべきであって、少なくともC証言と矛盾するものではなく、「YがCにあごをつん出すような感じで合図を送ったら、CがNさんに、「今日はディナーショーに行ってくれてどうもありがとう。明日、仕事早いんでしょう。」と追い立てるようにして、私に「Bちゃん、お愛想。」と言った」旨証言している点は、Cが、「Nさん、明日早いんでしょう。今日はどうもありがとうね。私、ほかのテーブルにチェンジするから、もう帰った方がいいよ。」などと言って、Bさんにお愛想を頼んで、それで会計して、Nさんを帰した。」と証言しているのと一致している。また、Dは、m荘の掃除をした後、被告人やBと「b」に戻ると、既にNはいなかったと証言しているところ、これは、C及びBの上記証言には反するが、早い段階でNが帰ったという限度ではC証言と一致している。さらに、B及びDは、いずれも同月一日の謀議の際に、Nを早く帰すことが決まっていた旨、C証言にそう証言をしている。

なお、Nも、「b」を出て自動車の所に行った際に時計を見たら午前零時から零時半だったと、C証言にそう証言しているが、上記のとおり、本件当日の出来事に関するNの記憶は相当に曖昧なものと認められる上、早く帰されたことは、同一四年二月に突然思い出したというのであって、捜査段階でCがNを早く帰したと供述していることを捜査官から聞かされていたと証言していることなどにも照らすと、この点のNの記憶が確実なものとしてその証言を信用することは困難といわざるを得ない事情も認められるが、少なくともC証言と矛盾しないとはいえよう。

以上のとおり、関係証拠を総合すると、L証言が曖昧で茫漠としているのに反し、Nを帰したのが「午後一一時半から午前零時の間」というC証言には相当の根拠と関係証拠とのそれなりの整合性が認められるのであって、これを信用すべきであるということができる。

4 次に、弁護人は、被告人の長男であるGの当公判廷における証言によれば、平成六年暮れころから、同七年一月ころにかけてKの革ジャンパーには既に襟がなかったとされていること、Kのl社における職場の同僚だった証人Vの当公判廷における証言によれば、Kの革ジャンパーの袖口がぼろぼろだったので、周囲の者数人がそのまま作業をすると危険だと数回注意したところ、同六年の一一月か一二月ころ、Kが自分で袖口を切ったと言って示したことがあるとされていることに照らすと、Kを殺害した後、革ジャンパーの襟と袖口を切ったとするC及びDの当公判廷における各証言は信用できないと主張する。

G及びVの証言内容は弁護人が指摘するとおりのものである。しかしながら、C及びDは、「d1」及び「b」で数年にわたって毎日のようにKと会っていた上、Kの革ジャンパーにはもともと襟やゴム編みにしたニットの袖口がついていたことを知っているのであるから、仮に犯行よりも以前にKの革ジャンパーから襟や袖口がなくなっていたのであれば、当然そのことに気づいたはずであり、そうであれば、逮捕後、捜査官からKの革ジャンパーの襟と袖口がない理由を追及された場合にも、以前Kが自分で切ったと説明すれば足りるはずである。にもかかわらず、C及びDは一致して、Kの死体に革ジャンパーを着せる際に襟と袖口を切り取ったと証言しているのであって、かかる状況に照らすと、このC及びDの各証言の信用性は高いというべきである。

一方、G及びVは、いずれも、Kの死体に着せられていた革ジャンパーの写真を示されて、同じジャンパーだと思う旨証言してはいるが、同五年五月に撮影された写真(甲一三五〇号証)によると、革ジャンパーはその時点では格別着古した状態には見えず、もとより襟と袖口は原形を保持しており、Kが、その二シーズン後に突然襟を切り落としたり、ぼろぼろになった袖口を切り落としたりしたというのは不可解である。本件で問題となっているジャンパーは、革ジャンパーといえば常識的に思い浮かべることができるごく平均的な色とデザインの物であり、現に、Vは、Kの名前を出さずにだれの物か分かるという質問を受けたら、Kの物だとは分からなかったかもしれないと証言しているのであって、GとVが別の衣服と混同している可能性を否定できず、両名の証言をにわかに信用することは困難というほかない。

5 次に、弁護人は、C証言によれば、Kに漢字仮名交じりの遺書を書かせた際、被告人が「借金のことを書け。」と指示したとされているところ、遺書を見せられたとされる証人Oは、借金のことは何も書いていなかったと証言しており、C証言はこれと矛盾すると主張する。

しかし、Cは、被告人が「借金のことを書け。」と指示していたと証言したに止まり、漢字仮名交じりの遺書にその記載があったとまでは証言しておらず、同じときに作成された平仮名の遺書には実際に借金に関する記載があるのであるから、この点に関するC証言の信用性は何ら減殺されないといえる。

弁護人は、漢字仮名交じりの遺書の存在自体証拠上疑わしいと主張するが、Oは、死亡の報を聞いて平成七年の六月二〇日過ぎに本庄を訪れた際、被告人から遺書だと言われて同月三日の消印が押された漢字と平仮名が混ざったKの手紙を見せられたと証言しているところ、元郵便局員であるOの消印に関する証言は信用性が高いと認められる上、消印の日付は同日の昼ころポストに遺書を投函したとのC証言とも一致しており、また、その場に同席したKの弟であるWの供述内容に照らしても、現在、証拠としてそのコピーが残されている平仮名の遺書以外に、Kの遺書がもう一通存在したことは疑う余地がない。

なお、O証言によれば、同人は被告人から、Kは末期の胃がんだったと聞いたとされているところ、関係各証拠に照らせばこれは虚偽であることが認められるが、Kが本当に自殺したのであれば、被告人がこのような虚偽をOに告げる必要はないのであって、これは、Kを自殺に見せかけて殺害したとするC証言を裏付ける間接事実であるといえる。また、C証言によれば、被告人は、平成七年になってから、Kからの最期の贈物と称してKの実家にうどんを送ったとされているところ、O証言によれば、同年五月末ころ、現実にうどんが届けられており、この点でもC証言はO証言と一致しており、信用性が高いといえる。

6 次に、弁護人は、C証言によれば、Kがm荘に住むようになったのは平成六年終わりか同七年初めころとされているのに対し、m荘の大家であるA6は、長男が結婚した同六年一一月の少し前である同年九月か一〇月ころからKがm荘に住んでいたと供述し、また、Kの弟であるWは、同年秋ころ、m荘にKを訪ねたところ、Dと一緒に住んでいた旨供述しているから、Kがm荘に引っ越した時期に関するC証言は信用できないと主張する。

確かに、長男の結婚の時期を基準にその当時の出来事を特定したA6供述の信用性は高いとも思えるが、A6の供述する同年九月か一〇月ころと、Cのいう同年終わりか同七年初めころというのはたかだか数か月の差であり、それから供述調書が作成されるまでに約六年が経過していることに照らすと、両名の時期についての認識に数か月程度の誤差が生じたからといって敢えて異とするに足りず、さらに、A6は、入居に際しKから挨拶があったわけではなくいつの間にか住んでいたと供述しており、他方で、C証言及びD証言によれば、Kは、転居以前から何度かm荘に出入りしていたことが認められるから、A6がその様子を見たことでKの入居時期を認識したことも十分考えられる状況にある。

また、Dは、同六年にKの弟がKを訪ねてきた際、被告人に指示されて、KがDと夫婦としてm荘で生活しているように見せかけるため、m荘でKが自宅でくつろいでいるかのように振る舞わせ、お茶を出すなどして応対したことなどを証言しているのであって、Wは、このDの芝居を真に受けて、Kがm荘に住んでいると誤認したものと認められる。

よって、A6及びWの各供述によっても、Kがm荘に転居した時期に関するC証言の信用性が否定されるわけではない。

7 最後に、弁護人は、C証言によれば、平成六年に被告人らがKを伴って鬼怒川に旅行に行った際、宴会が終わってからKにトリカブト入りの大福を食べさせたところ、Kが体調の異変を訴え、旅館の中で倒れて部屋で寝かされていたが、暴れ出したため、その場にいた「b」の従業員だったA7がKにおしぼりを噛ませ、CとDがKを押さえた、そのときのKの様子は、水をかぶったように汗をかいており、息が荒く、唇が紫色で、たらこ様の唇になっていたなどとされているが、これは、A7供述及びD証言と大きく異なっており、信用することができず、K殺害の証言に迫真性を持たせようとしてなされた虚偽の証言であると主張する。

確かに、このときKを介抱した状況については、C、D及びA7の各供述がすべて相違しており、ことの真相を明らかにすることは不可能というほかないが、上記三名のほかB証言を総合すれば、少なくとも、風呂場で倒れたKを部屋に連れ戻して同行者が介抱したという事実については優に認定できるのであって、鬼怒川旅行の際、CがKにトリカブト入りの大福を食べさせたというC証言の根幹が揺らぐものではない。

六  供述の変遷

弁護人は、また、Cの供述は、平成一二年の最初の取調べのときから、同一三年、同一四年の証言時にかけて、大きく変遷しているところ、真に体験した者であれば到底記憶違いなどするはずがないと考えられる事項について供述が変遷していて信用できないと主張し、以下の諸点を指摘するので検討する。

1 まず、弁護人は、Cの供述経過をみると、一回目のトリカブト採取旅行に関して、平成一二年一二月一日付け検察官調書では、Cから被告人に対し八子ヶ峰に行けばトリカブトがあると話したとされているのに対し、公判廷における主尋問では八ヶ岳に行くという以上に細かい場所の説明はなかったと証言し、さらに、反対尋問では、被告人から八子ヶ峰を含む幾つかの場所をあらかじめ言われていたと証言しており、供述に変遷がみられるのであって、トリカブト採取旅行に関するCの証言は、捜査官からトリカブト関連書籍を示されて得た知識をもとに創作された物語である可能性が高いと主張する。

この点、確かにCの供述には、一応弁護人が指摘するような変遷があるといえるが、しかしながら、Cの証言を子細に検討すると、Cは反対尋問において弁護人から、詳細な行く先の特定がなければ不自然であると決めつけられたために、いったん「図書館で借りてきた本から、幾つか行こうという場所は言われていたと思う。」と証言したのであるが、更に追及されて、「多分、言われていたと思うということです。本を見たときに、トリカブトの花が咲いているとか、そんなようなことが書いてあったのを覚えているのですが、そういう話を本を見たときにYさんとした記憶があるので、決まっていたのかもしれないと思ったのです。」と言い換えているのであって、結局、C証言によれば、八子ヶ峰という地名については、図書館から借りてきた本の中にその地名が記載されていたことが明確にCの記憶にある一方、被告人との間で本を見て採取先を検討していた際、一例としてその地名が話題に上ったこともあるため、Cは、実際に被告人とトリカブト採取旅行に出かけるに当たって、目的地をどちらが言い出したのか、また、その地点として八ヶ岳というにとどまらず、八子ヶ峰という点まで出ていたのかどうかについて記憶に混乱を来したものとみることができる。したがって、この点については、もともとのCの記憶に混乱があるために、問いの在り方などによって見かけ上供述に変遷が起こったというのがことの実態と考えるべきであって、創作であるが故に不自然な変遷を遂げたものと非難するには当たらない。

次に、弁護人は、二度のトリカブト採取旅行について、その時期や、宿泊場所、日帰りだったのか宿泊を伴うものだったのかなど、真にトリカブト採取のための旅行であったのであれば到底忘れるはずのないことについてまで供述が変遷しているのは不自然であって、年に三、四回被告人と旅行をしていたCが、その旅行とトリカブトを無理やり結びつけようとしてぼろが出た結果であるなどと主張する。

しかしながら、年に三、四回という頻度で被告人と旅行をしていたCが、捜査の時点の約七年前である同五年のトリカブト採取旅行について、詳細な日付や泊まった旅館の名前などを忘れてしまったとしてもやむを得ないところであって、このことから直ちにトリカブト採取旅行に関するC証言が虚偽であるなどと到底いうことができない。

そして、同六年八月のトリカブト採取旅行については、Cが宿泊した旅館の特徴等を捜査官に供述し、これに基づいて捜査した結果、pという旅館の予約帳に、「番号<省略>」というCの自宅の電話番号とともに「埼玉 Y様 一泊二日 車」という記載があることが発見されて、被告人とCの宿泊の事実が客観的に裏付けられたのであるから、その信用性は十分に認められる。

2 次に、弁護人は、Kの革ジャンパーの襟と袖を切った人物について、Cは、平成一二年一〇月下旬ころの取調べの際には、Dが黒い服をハサミで切っている映像が浮かんでいる旨供述したが、その後、同年一一月下旬に至り、襟を切ったのは被告人だが、袖口を切ったかどうかについては記憶がないと供述し、さらに同年一二月に入ると、袖口を切ったのは、被告人か自分のどちらかだと供述を変更し、当公判廷では、主尋問で、袖口を切ったのは被告人だと断定するに至るが、反対尋問では、結局袖口を切ったのはだれか分からないという証言になっており、この点に関する供述がめまぐるしく変遷しているという。さらに、捜査段階では、被告人かCのどちらかが革ジャンパーを広げて持ち、もう一人が袖口を切ったと述べていたにもかかわらず、当公判廷においてはKの腕に袖を途中まで通した状態で切ったと証言しており、この点についても供述が変遷していると指摘する。

Cの供述経過は弁護人指摘のとおりであるが、Kの死体の死後硬直が始まっており、当初予定していたワイシャツを着せることを諦めた後、さらに革ジャンパーにも手を通せない事態が生じて、その場における発案で袖口を切り落とすことにしたというC証言の説明はそれなりに合理的であって信用できるところ、これによれば、被告人らは時間の制約がある中で行動中、革ジャンパーの袖口を切る段階では、想定外のアクシデントが続き、狼狽した末、その場の思いつきで行動していたことが窺われるから、Cの記憶に混乱が生じたとしても無理はない状況にあったといえる。よって、この点のCの供述に変遷がみられるからといって、C証言全体の信用性が否定されるとまではいえない。

3 最後に、弁護人は、C証言によれば、一通目の遺書はCが、二通目の遺書は被告人がそれぞれ投函したとされているのに対し、取調べの当初は遺書が二通あったことすら供述されておらず、その後、平成一二年一一月末ころの取調べでは、一通目についてはDかCのどちらが投函したか分からない、二通目についてはだれが投函したのか分からないという供述になっており、この点にも変遷がみられる上、最終的に自己が投函したと証言している遺書について、Dが出したのか自分が出したのか分からないなどというのは異常であると主張する。

しかしながら、先に述べたように、遺書が二通存在し、そのどちらもがポストに投函されたものであることは、D証言、L証言及びO証言等、他の関係各証拠とも合致し、優に認められる事実であって、この点に関するC証言の信用性は極めて高い。そして、実際に遺書をポストに投函するのがC自身であるか、Dであるかという点は、事柄としてそれほど重要とは思われず、CがDに渡して遺書を投函するよう指示してもかまわなかったのであるから(D証言によれば、同七年六月一日の謀議の際には、被告人が、Dに対し、「買物行くときにCがDにやるから、そのときにDはポストで出しなさい」と言ったとされている。)、Cにとってもだれが実際に投函したかとの点は特段印象に残る出来事とならなかったために、この点に関する記憶に混乱を来したものと考えられるのであって、供述に変遷が生じたからといって、C証言全体の信用性が否定されるものではない。

七  証言内容自体の不自然性

弁護人は、C証言はその内容自体が不合理であるとして以下の点を挙げるので検討する。

1 まず、弁護人は、m荘は、周囲に一般住宅や集合住宅が建ち並ぶ住宅地にあり、隣家との距離は三・一メートルないし六・一メートルしかないところ、このような場所で、午後三時という時間帯に、大きな声を出して吐かせたり、暴れているKを押さえつけるなどの修羅場を演じ、その後Kの死体を放置してディナーショーに行った上、深夜、共犯者四人が代わる代わる現場に駆けつけて部屋の掃除をしたり、死体の着替えをさせてm荘に横付けした自動車に運び入れたというのは極めて大胆な振る舞いであるが、当時付近の住人が不審な物音や話し声を聞いたという証拠はなく、不自然であると主張する。また、二年間もかけて衰弱死計画を地道に続けてきた被告人が、それを台無しにしてしまいかねないことをするとは到底思えないとも主張する。

確かに被告人らの行動は大胆極まりないといえるが、関係証拠によると、大家であるA6ですらKがいつの間にかm荘に住んでいたなどと供述している状態であることに照らすと、付近の住人がKの住むm荘の様子に無関心であった状況が看取される上、共稼ぎの所帯が多いなど付近の状況如何によっては深夜の犯行の方が却って人目につくとも考えられるのであって、犯行が白昼行われたことをとらえて一概に不自然であると断じることはできない。そして、Kには当時、被告人ら以外に、日ごろから付き合いのある親しい友人はとりたてていなかったと認められるから、被告人らは、とりあえず鍵をかけて外出すれば、他人が入り込んでKの死体を発見するおそれはないとの判断のもとにアリバイ作りのディナーショーに出かけるなどの行動をしたとも考えられるのであって、Cの証言する犯行態様が不自然であるとまではいえない。

また、被告人が、日ごろ、生命保険に入ってすぐに死亡すると疑われるので、長い期間をかければかけるほどいいなどと発言する一方で、過労死作戦、成人病作戦によっても一向に弱らないKにしびれを切らし、CやBらの前で、「Kさんが勝手に自殺でもしねえかな。Kさん、病気になって死んじゃえばいいのに。このままだと俺の方が先にくたばっちゃうよ。」などと繰り返し発言していたことは、前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】の第二章の二の8や同三の7の項でみたとおりであり、当初長期間計画を立てて余裕を示していた被告人が、やがて時間の経過とともに事態が思いどおりに進展しないことに焦りを感じ、ついに殺害に踏み切るというのは極めて自然な推移であって、格別違和感を抱かせることはない。

弁護人は、さらに、Dが、Kは自転車に乗って出かけたりしていた旨証言していることを挙げ、平成七年六月三日にKがm荘にいなければ殺害計画は崩壊するにもかかわらず、その点に関する謀議が行われた形跡が全くないのは不自然であるとも主張する。

しかし、関係証拠によれば、当時、Kは仕事を辞めて日中もm荘でぶらぶらしていたというのであり、弁護人が指摘するD証言によっても、Kの行き先は、たばこを買いに行く程度だったというのであるから、当日Kはm荘に在宅するか、仮に出かけていたとしてもすぐに戻ってくる状況にあったことはほぼ確実というべきであり、被告人らがKがm荘にいることを前提に計画を立てていたとしても何ら不自然ではない。もとより、Kが長時間外出していればこの日の計画は失敗に終わったであろうが、その場合にはまた次の機会を窺えばよいだけのことであって、Cの証言する犯行計画が一分の隙もない完全なものではなかったからといって、その証言が虚偽であることの証拠になるというわけではない。

2 次に、弁護人は、Cが、平成七年五月一〇日ころ、Kを坂東大橋から飛び込ませ、自殺に見せかけて殺害する計画を決行しようとしたが失敗したと証言している部分について、肝心の遺書に関する証言がないことや、失敗した後、Kが再び「d1」に姿を現した際、Kがなぜ決行しなかったのかについてこれを追及する会話がないことなどの不自然さを挙げ、Dの来日を待たずに計画を実行しなければならない事情の変化も説明されていないとして、C証言は信用できないと主張する。

しかし、遺書についてはKが飛び込んだ後に置き手紙としてm荘に置いておくことでも十分にその役割を果たせるから、あらかじめ遺書をどうするかに関する会話がなくても不自然とまではいえないし、Kが決行しなかった理由についての会話がなかったことについては、Cは、「飛び込みを決行しなかったことについてKを責め立てると、もともと余り乗り気でなかったKが怖じ気づいて本当に逃げ出してしまうかもしれないから怒らなかったとYさんから聞いている」旨証言しており、関係証拠によって認められる当時の状況に照らすと、この態度もあながち合理性を欠くものではないといえる。Dの来日を待って実行に着手するかどうかの点についても、D証言によれば、被告人は、同年四月九日にDが出産した後は、早く日本に戻るよう強く促していたというのであるから、Dが早晩来日することを見越した上で、保険金を請求する時点でDがいれば不都合はないと考えて実行に移したということも考えられる。よって、いずれの点もC証言の信用性を失わせるものではない。

3 次に、弁護人は、C証言中、実行日を、被告人が伊豆に旅行に行くことに決めていた平成七年六月七日から、同月三日のディナーショーの日に変更した経緯について、①伊豆旅行に出かけることで「完璧なアリバイがある。」と言っていた被告人が、計画を変えた途端、「俺が本庄にいた方がいい。」などと言ったというのは明らかに矛盾する態度である、②トリカブトが検出されることを恐れていた被告人が、その危険が十分に予想される方法に計画を変更したというのも不自然であるなどと指摘する。

①については、C証言にいうところの被告人の「確認癖」が高じて、被告人が自ら犯行現場に臨んで手落ちがないかどうかなどを見届けることができる計画に変更したとも考えられるし、C証言によれば、被告人はアリバイの概念について誤解しており、被告人自身は、同月三日の計画についても、ディナーショーに出かけることで「一連のアリバイ」が成立すると思っていたというのであるから、犯行地となる本庄市内にいながらにしてアリバイを確保する妙案を考えついて計画を変更したとも考えられる。

②については、C証言によれば、被告人は、自然に生えているトリカブトを採取してきたので入手経路がばれないこと、トリカブトを処分すれば自分たちの周囲からトリカブトが発見されることはないこと、死体が水中で腐ればトリカブトは検出されないことなどをCに告げたというのであるから、この考えに科学的根拠があるかどうかはともかくとして、被告人としてはそのように考えて計画変更をすることもあり得ることといえる。弁護人は、そうであれば二年間もトリカブトを与えるという迂遠な方法にこだわる必要はないとも指摘するが、被告人が、病死に見せかける方がより犯行発覚の少ない方法であると考えていたとすれば(現に、その後の風邪薬事件でも迂遠な方法にこだわっている)、当初その方法にこだわったことに何ら不自然な点はなく、死体を水中に投棄すれば一応安全であろうと新たに思いついて計画を変更するということもあり得るものと考えられる。

4 次に、弁護人は、被告人が、o荘ではCにトリカブトの根をまるまる一個全部使えと言っていたのに、別荘での謀議の際にはいつもの二倍を入れろと言ったことや、詳細な謀議をしていながら、「d1」でトリカブトをパンに詰める場面をBに見られないようCに指示したというのは不自然であるなどと主張する。

確かに、C証言によると、犯行に用いるトリカブトの量について、被告人の表現が時期によって異なっているのは弁護人指摘のとおりであるが、その点を指摘するC証言は、むしろ経験したとおりの事実を述べていると考える方が合理的といえる。

Bに見られないように指示したとの点については、C証言によれば、被告人は、「入手経路はCと俺しか知らないから、二人がしゃべらなければ絶対に分からない。」と言うなど、トリカブトに関する事項については基本的にC以外の共犯者にすら秘密にしていたことが認められるから、上記の被告人の言動も何ら不自然ではない。弁護人は、そうであれば最初から二人で実行すればよいとも主張するが、Dは保険の受取人等として不可欠であるし、Bについても、過労死作戦や成人病作戦にはその実行者として関わらせているので、更に一段と犯行に巻き込み罪悪感を持たせてその口封じなどを図る一方、司直の手が入った場合を想定すると犯行に関する知識は最小限にしておいた方がよいと考えることはごく常識的なことといえる。

5 次に、弁護人は、Kの死体の服装に関するCの説明は不自然であると主張し、①靴の中敷きをわらじのかわりに使うというのは余りにも突飛な発想である、②Kの革ジャンパーの襟の形状に照らせば、襟が何かに引っかかるかもしれないから切るという発想は不自然である、③革ジャンパーが脱げないように襟を切ったにもかかわらず、その直後に、襟を切ったから脱げちゃうかもしれないと言ってセーターを着せたというのは矛盾している、などと主張する。

①については、確かに、C自身も、意味不明と証言しているほどであるが、それだけに、Cは被告人の発言を聞いたまま証言しているものと認められる。仮にCが偽りの記憶を想起したのだとすれば、このような意味不明な記憶が想起されることはおよそ考えられないことといえる。この点、弁護人は、Kは、利根川に飛び込む際、川を泳ぐために坂東大橋の上であらかじめ靴を脱ぐ必要があるが、飛び込んだ後は、川底や河原を歩かなければならないことから中敷きを入れていたと考えられる旨主張するが、それはC証言による偽装自殺を前提にした上でのことであって、被告人が供述するとおり、Kが本当に自殺するつもりであったのであれば、川を泳ぐ必要も、川底や河原を歩く必要もないのであるから、弁護人の説明は成り立たない。

②及び③については、襟が何かに引っかかるかもしれないという考えは、弁護人が主張するほど不自然な発想ではないし、襟を切ったことによって、却って首の周りが脱げやすくなったと感じてセーターを着せることも理解できなくはない。

他方、Kが日ごろ靴下二足を重ねてはいたり、ゴムの部分を紐で結ぶなどのことをしていたといっても、革ジャンパーの上にセーターを着ているところを見た人がいるわけではないのであって、仮にKが真に自殺をしたのだとすると、革ジャンパーの上にセーターを着ていたことの説明がつかない。

なお、前記の被告人の当公判廷における供述を前提とすれば、被告人は、自殺する直前のKの姿を見ているはずであるにもかかわらず、「CだけがKさんの服装を知っていたのではないかと思う。」などと供述しており、明らかに不自然である。

6 次に、弁護人は、C証言によれば、Kの靴は自殺を仮装するための重要な小道具であり、坂東大橋の上に置いておくことをあらかじめ打ち合わせていたのに、Cが靴を忘れた際、被告人が取りに戻らなかったというのは不自然であると主張する。

この点、C証言によれば、被告人は、「川に流れちゃったと思われるから、いいだろう。」と言って、靴を取りに戻らなかったとされているところ、靴がなければ絶対に自殺説が成り立たなくなるわけではないから、被告人がかかる発言をしたというのもあながち不自然なことではなく、Lを「b」で待たせていたために、早くKの死体を川に捨てて、店に戻らなくてはならなかったことと、被告人自身の引き返すことを嫌う性格との二つの理由から、靴を取りに戻らなかったのだと思うとのCの説明もそれなりに首肯することができる。

7 次に、弁護人は、C証言によれば、計画ではm荘に置き手紙として置いておく予定だった遺書について、Cがm荘に置くのを忘れたため、被告人の指示でこれについても郵送することとなり、切手を貼った上で郵便局から投函したとされているが、m荘と被告人方とはすぐ近所であり、D証言によればDは別荘に行く前に着替えを取りにm荘に戻ったというのであるから、わざわざ切手を貼ってポストに投函する必要はなく極めて不自然であると主張する。

確かに、手紙を置きに行くことも可能であったことは弁護人の指摘のとおりであり、この点は、極論すればm荘に置いてあったものとして警察に届ければ足りるのであって、実際にm荘に置いておく必要すらないことになるが、反面、遺書を投函して消印を得ることによって、行方不明になった時期と遺書が投函された時期を客観的に一致させ、より本物らしく見せるという効果があることを新たに思いついたとも考えられるから、被告人が置き手紙をやめてポストに投函することにしたとしても、特段合理性を欠くとはいえない。仮にCが故意に虚偽の証言をしているのであれば、当初置き手続にするはずだったなどという複雑な証言をする必要は全くなく、単にポストに投函したことだけを証言すれば足りるのであるから、Cは被告人から聞いた言葉をそのまま正直に証言しているとみるのが自然で素直な見方といえる。

8 次に、弁護人は、死体を腐敗させる必要があるにもかかわらず、被告人がすぐに死体を探している点は不自然であり、むしろ、死体に重りをつけるなど、発見され難い方法をとるのが自然であるとも主張する。

しかしながら、自殺に見せかける場合に、死体に重りをつけることができないことはいうまでもない。また、被告人らは、Kの死体を発見した場合に直ちに警察に届け出る必要はなく、死体の腐敗状況等を見た上で、しかるべき時間をおいた後に届け出ることも可能なのであるから、届け出ることとは別に、Kの死体の在りかを把握しておきたいとの思いから捜索に乗り出したとみれば、被告人らが殺害後四日目から死体探しに乗り出したことは特段不自然ではない。

9 最後に、弁護人は、C証言によれば、被告人は、平成七年六月一日の謀議のときから、「Kさんは自転車で駅まで行って、駅からタクシーに乗って坂東大橋に行って自殺したんだ」と具体的な自殺の内容を断定的に話したとされているが、一方で殺害計画の謀議を練りながらこのような話をしても、共犯者が信用するはずがないから不自然であると主張する。

しかし、この点は、仮に本件が発覚した場合を想定して上記のような説明を思いつき、あらかじめ共犯者間の口裏合わせをしていたと考えれば何ら不自然なことではない。そして、その際、共犯者間の約束ごととして「自殺したことにする」などと言わずに、警察に説明する場合の表現方法を端的に用いて「自殺したんだ」として共犯者に言い含めることも十分に考えられることである。

第三B証言の信用性

弁護人は、Bの証言も「偽りの記憶」であり、信用することができないと主張するので、以下検討する。

一 Bの記憶

弁護人は、Bが当公判廷において、K殺害の記憶について、「m荘の玄関から先の出来事は、何日も真っ暗でした。」との証言をしていることに照らすと、Bにも、m荘でのK殺害の記憶はなかったのであり、B証言も「偽りの記憶」であると主張する。

しかしながら、この点に関するB証言をみると、以下のとおりである。

平成一一年の六月に、任意の調べのときに、Kさんを知っているかということを警察から聞かれたということを証言しましたよね。

はい。

で、そのとき、自殺したということを言ったと言っていましたが。

はい。

当時のあなたの記憶では、Kさんは、どうしたと思ってたんですか。

記憶ですか、自殺に見せかけてないと駄目だと思っていました。

自殺に見せかけて殺したんだという記憶だったんですか。

はい。

それは、間違いないんですか。

(うなずく)

その時点で、Kさんの死体を見たということは覚えていたんですか。

覚えていません。

具体的に、いつどこで見たかは覚えてないが、見たという漠然とした記憶があったとかいうんじゃなくて、もう見たこと自体、全く覚えていなかったんですか。

Kさんの死体………、覚えてないんじゃなくて、自分が、それを忘れるように努力してたんですよ。言ってしまうと、Yに自分が、その保険金のお金も自分がもらってるわけじゃないですか、もらってるお金もパーになってしまう、どうになるか分からないから、言ってはいけないと、自分の中に、常に言ってはいけないんだということはありました。だから忘れてた、記憶をなくしたんではなくて、言ってはいけないという思いの方が強かったのです。

言ってはいけないというのは、頭の中にあるんだけど、それを言っちゃいけないということだから、忘れてるわけじゃないですよね。

はい、違います。

(中略)

Kさんの死体を見たという記憶があるのを隠していたということになるんですか。

そうです。だって、しゃべっては、自分がもう常に言われていましたから、見たことは忘れるって、自分では忘れようとしてるだけであって、忘れることはできません。

だけど、あなた、頭の中はm荘に入った以降はブラックになっちゃってて何も出てこないというような、入り口から先はもうブラックだというようなことを証言してましたよね。

はい。

そうすると、それはどういうことになるんですか。

だから、言っちゃっていいんだかどうだか、自分の中に迷いというか、見たって言ったらどうなるんだろうという……なんて表現したらいいんだか分からない、残ってるんだけど、自分だけでふさいじゃってるんですよ。しゃべっちゃいけないんだという、常にYから、いいか、しゃべるんじゃない、しゃべるんじゃないというのを常に言われてきたんですよ、それを自分の中に。だけど、私が見てるんだから、うまく説明できないんですけど、言っちゃいけないという思いの方が強かったんですよ。だから、何て言ったらいいのかな、難しいんですけど……証言がちょっと難しいんですけど、毎日のように、Kさんの死体を覚えてるわけじゃないんですよ。何て言ったらいいか……。

しかし、思い出そうとすれば、すぐ浮かんでくる状況にはあったということなんですか。

あったというか、そのときに、ずっとあったんですけど、何て説明したらいいのかな……なんて言ったらいいんだろうな……。

だけど、あなた、三日間も黙ってたというのは、正にその場面のことなんでしょう。

はい。何て説明したら分かってもらえるのか、死体のところは、自分も怖かったので……忘れて……忘れてたでいいのかな……そこの部分のとこって、自分の中ですごく怖い部分なんですよ。それを、自分の心の中で、言わば、閉じちゃってるんですよね、怖かったので。で、刑事さんに、結局、普通、人のうちに行くときにはどうやって入るのって言われて、普通、靴脱いで入りますよね、そういうことから、自分の中で、もう、自分、分かってるんだけど、もう言わなくちゃいけないんだなって、でも、怖いし、どうしようって、見たって言えば、どうになるんだろうって、だから、それをずっと、はっきり言って隠してたようなものがあって、でも、やっぱり話さなくちゃいけないって、どうになってたんだって、忘れてたんじゃなくて、記憶を消してただけであって、自分の中で、何て言ったらいいのか、難しいんですよね。

以上の証言内容に照らすと、Bのいう「真っ暗」とは、厳密な意味で記憶がなかったという意味とは考えられず、要するに、毎日のようにK殺害のことを考えていたわけではなく、むしろ、恐ろしい記憶だったのでできるだけ思い出さないようにしていたため、警察官からトリカブト事件について聞かれた際、すんなり供述できなかったという意味であると理解するのが相当である。

もっとも、当然のことながら、時間の経過とともに出来事の細部について記憶を失うことはやむを得ないところであり、B証言中の、「ガラスのかけらを川に投げたのを拾うような形で、一つ一つ思い出してきた」との表現は、そのような細部の記憶を喚起する過程をBなりの言い回しで説明したものとみるのが自然である。

また、Bは、上記証言のほか、三日間黙っていたうち、思い出そうとしていたのは最初の一日だけであり、残りの二日間は、Kの死体を見たことを供述するべきか否かで悩んでいたものである旨の証言もしているのであるから、これに照らしても、Bの記憶が、捜査官の誘導や脅迫によって作り出された「偽りの記憶」であるなどという弁護人の主張は到底採用することができない。

二 証言内容の不自然性

弁護人は、B証言はその内容が不自然、不合理であるとして以下の点を挙げるので検討する。

1 B証言によれば、Bは、被告人から「大事な話がある。」と言われて、平成七年六月一日の別荘での謀議に参加したとされているところ、弁護人は、この証言は信用できないとし、その根拠として、Bは、この謀議で自分は何も役割を与えられなかったと証言しているが、これは、K殺害後、Bが、Dに付き添って警察に捜査願を出しに行く役割を指示されていたとするC証言やD証言と矛盾するし、一方、B証言を前提とすれば、Bが謀議に参加する必要はないことになり、いずれにしても不自然であると主張する。

しかしながら、関係各証拠によれば、K殺害後、Bが、Dに付き添って警察に捜索願を出しに行く役割を担ったことが認められるのであるから、CやDが証言するように、同日の謀議の際にも、Bがこの役割を指示されていたとみるのが自然であって、C証言、D証言の信用性は高く、Bは当時被告人の指示を聞き落としたか、記憶違いをしているものと考えざるを得ない。弁護人は、仮に何らかの役割を与えられたのであれば忘れるはずがないと主張するが、これについては実際に警察に捜索願を出しに行った際のBの行動を見れば説明が可能である。すなわち、C及びDの各証言によれば、Bは、被告人から、Dに付き添って捜索願を出しに行き、Dをサポートして警察に詳しい説明をする役割を与えられていたにもかかわらず、全くその役割を果たさず、結果として、日本語の能力に乏しいDの説明によって、Kが黒色ポロシャツと灰色のズボンを着用していたという内容の捜索願を提出してしまい、Kの死体が革ジャンパーと黒色ズボンを着用していることと矛盾してしまう結果となったことが認められるところ、このことは、Bが、K殺害後の自分の役割を理解していなかったことを端的に示しているといえる。つまり、Bは、被告人の話を耳にはしていても、自己が本件で相応の役割を与えられていることがよく理解できていなかった(Bが、犯行計画の詳細を知らされておらず、自己が主役でないということも影響していよう。)とみるのが相当であって、C証言及びD証言との相違は、このようなBの認識、理解の不十分さから生じたものと考えれば何ら合理性を欠くものではない。

2 次に、B証言によれば、Bは平成七年六月一日の謀議の際、被告人とCとの間で、「まんじゅう飽きてるからパンでもいいか」、「いつもの倍入れろ」という会話がなされているのを聞いて、Kにトリカブト入りのパンを食べさせて殺す計画であることを知ったとされているところ、弁護人は、かかる会話だけから、この計画を想定することは不可能であると主張する。

この点については、B自身は、トリカブトを用いて殺すのだと理解した理由は、Kがk荘で倒れたときに被告人の口から「カブト」という言葉が出るのを聞いたことと、日ごろKに飲ませていたコーヒーの中に「トリカブト」が入っていると被告人から教えられたことがあるからであると説明しているのであるが、弁護人は、Bがトリカブトについて供述したのは、Cがトリカブトについて捜査官に供述した後の同一二年九月になってからであり、またコーヒーにトリカブトが入っている旨の供述をしたのは同年一二月に入ってからであって、Bは、Cの自白内容を捜査官から繰り返し示唆され、それに見合う「記憶」を甦らせるように圧力をかけられたものであると主張する。

しかし、Bは、トリカブトのことを忘れたことはあるかという弁護人の質問に対して、「忘れようと努力をしていただけ。」とか、「生活に必要ないから忘れてはいる。」などと答えているところ、その前後のやり取りを総合すれば、これは記憶を失っていたという意味ではなく、自己にとって忌まわしい思い出であり、思い出す必要もないので頭に浮かべないようにしていたという趣旨であると理解できる。そして、トリカブトについて供述した経緯については、Bは、捜査官から、Kの死体を解剖したことを聞かされ、また、Kは何を飲んでいたのかなどと聞かれたため、トリカブトのことがばれてしまったと考えて自分から進んで供述したのであって、捜査官からトリカブトという言葉を聞かされて供述したのではないと明確に証言している。この点、Bが共犯者の中で最も早く自白を始めたからといって、犯行のすべてにわたって細大漏らさず正直に供述するとは限らないのであって、現にB自身、Kの死体を見たことについても、話すべきか否か二日間迷ったなどと証言しているのであるから、トリカブトについてもできれば供述したくないという思いに駆られる時期があったとしても何ら不自然なことではない。その後、捜査官とのやり取りから、既に捜査官がトリカブトのことを知っていると察知し、隠しても無駄であると考えて供述したというのも極めて自然な流れであって、供述経過に関するB証言の信用性に疑念を容れる余地は乏しい。

3 次に、弁護人は、Bが、Kの死体を見た際、被告人が足でKの横腹の辺りを揺すったところ、Kの足がバサンバサンという音を立てて、左右に揺れたと証言している点について、このようなことは法医学的にみて不可能であると指摘する。

しかし、B証言にいう「横腹の辺り」というのは、布団の上から見た大体の位置を述べたものにすぎず、文字どおりの「腹」とは限らないのであって、腰や大腿部を含むやや広い範囲を想定すべきである。そして、前記A1回答書によれば、腰部や大腿部を揺すった場合には足先が動くことは当然あり得ると認められるから、B証言が法医学的にみて不可能とまではいえないと考えられる。

4 次に、弁護人は、B証言によれば、m荘へ向かう車の中で、被告人に対し、「捕まらないの。」と聞いたところ、被告人は「捕まるようなことはしていない。」と答えたとされているが、この被告人の発言の意味について、B証言では、「捕まるようなへまはしていない」という説明と、「捕まるような悪いことはしていない」という矛盾する二つの説明をしており、不自然であると主張する。

確かに、Bが証言した二つの説明は、意味がまるで違うが、それまでの事態の推移をも踏まえて考えれば、被告人の発言の趣旨は、要するに、証拠は残していないので警察に捕まる心配はないということであり、当時のBの理解もそのようなものであったとみるべきである。

5 最後に、弁護人は、B証言によれば、Kの死体を見たBが、「警察に通報しなければ。」と話すと、被告人は「そんなことするわけにいかない。」と言ったとされているが、謀議ではKの死体をその後利根川に流すことになっていたというのであるから、Bの発言は明らかに不自然であると主張する。

この点、Bは、この後Kの遺体をどうするのかが分からなかったので、被告人に聞いてみたと証言しているところ、Bの表現能力の問題もあってその趣旨は明確でなく、この発言の意味を一義的に明らかにすることは困難であるが、これまで犯罪経験のなかった者が現実に死体を目の当たりにして、怖じ気づいてとっさに上記のような言葉を口にしたところ、被告人からたしなめられた、とみてそれほど大きな相異はないものと考えられる。いずれにせよ、逆に謀議自体の存否を問題としなければならないほどの重大なやり取りとは考えられない。

第四D証言の信用性

一 Dの記憶

弁護人は、Dが当公判廷において、K殺害の事実を忘れ、自殺したと思っていた時期があったと証言したことをとらえて、D証言も「偽りの記憶」であると主張する。

確かに、DがK殺害の場面に立ち会っている以上、その記憶をその後失い、Kは自殺だと思っていたなどという証言は、Cの場合と同様、到底信用することができない。しかし、D証言をみると、反対尋問の途中まで、K殺害を忘れたことはなかったと証言していたにもかかわらず、弁護人から、Kがパンをのどに詰まらせた際、水をあげたという事実を忘れていたのではないかなどと尋ねられたのをきっかけとして、忘れていた部分があると証言するようになり、最終的には、K殺害の事実を忘れており、自殺したと思っていた旨証言するに至っていることが認められる。かかる供述経過に照らすと、Dの忘れていたということの意味も、Bと同様、日ごろ考えないようにしてきたので、記憶が断片化していてすらすらと筋道立てて話すことができなかった、あるいは、いざ話そうとすると細かい部分を相当忘れていたという意味にすぎないとみるのが妥当である。

Dの証言には、日本語能力が十分でない中で、被告人らとの間で日本語でやり取りをした経緯を証言するという特殊性があり、また、証言態度全体を通観してみるとやや自己に有利になるよう証言を場当たり時に変遷させている形跡も否定できないから、その証言の信用性については慎重に検討する必要があるが、少なくとも、K殺害に関する事実の核心部分についてはC証言と一致しており、相応の具体性、迫真性を備えているということができるのであって、これらがすべて捜査官による捏造であるとは到底考えられない。

二 他の者の供述との整合性

1 まず、弁護人は、Dは、Kの死体を利根川に運んだ際、m荘を出てすぐに右折し、突き当たりを左折したと証言しているところ、本庄市役所の職員である証人A8の当公判廷における証言によれば、Dが供述した部分より先の道路は当時未だ一般の通行の用に供していなかったと認められるから、D証言は信用できないと主張する。

しかし、A8証言によれば、弁護人の主張する道路は、バリケードで完全に封鎖されていたわけではなく、通行しようと思えば可能であったと認められる上、付近には、その道路以外にも利根川へ通じる道路は幾通りも存在することが認められるから、D証言が客観的状況に反するということはない。

2 次に、弁護人は、Dが、出産後フィリピンから日本に戻ってくるとKがm荘に住んでいたと証言している点について、A6及びWの各供述によればそれ以前からKはm荘に住んでいたことになるから、D証言は信用できないと主張する。

この点は既に検討したとおりであって、C証言と同趣旨のD証言は信用することができる。

これに対し、弁護人は、W供述によれば、同人は、KとDが同居していることを知らなかったとされているから、Wに対する偽装工作など必要ないと主張する。しかし、m荘を訪問するまでにW自身が同居の事実を知っていようといまいと、被告人としてはこの段階で夫婦として同居生活を送っている様子をWに見せつけておけば、後日保険金の受取などを妻としてのDが円滑に行うことができるなどと考えて偽装工作をするよう指示することはごく自然な成り行きであるから、偽装の必要がないとの弁護人の主張は採用できない。

また、弁護人は、Dが、Kは灰皿が一杯になっても捨てない癖があり、そのことを被告人に告げると、被告人がKにちゃんと灰皿を片付けるよう指示するから大丈夫だという趣旨のことを言ったと証言している点について、Kが灰皿の灰を捨てない癖があるというのは、同居していなければ分からないはずだと主張する。しかし、CやDの証言等によれば、KはDと同居する以前から何度かm荘を訪れており、また、Dもk荘を訪れて、Kの行動様式や部屋の様子を見ていたことが認められるから、同居していなくてもKが灰皿の灰を捨てない人物である程度のことは知っていたとしても何ら不自然ではない。

三 供述の変遷

弁護人は、D証言には、以下のような変遷がみられるので信用できないと主張する。

1 まず、弁護人は、Dが別荘における謀議の際に被告人から受けた指示のうち、Kがいついなくなったことにするかという点について、当公判廷においては、買物から帰ったときにいなくなったことにするという指示だったと証言したのに対して、平成一二年一一月の取調べ当時は、ディナーショーに行っているときにいなくなったことにするとの指示であったと供述しており、その後の同年一二月の取調べでは、何か教えてくれたことを覚えているが、内容が余りよく理解できなかったということになっていると指摘する。

この点、謀議における被告人の指示は、前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】の第二章の六の1の項で認定したとおり、「午後三時に買物からm荘に帰ってきたら、Kがいなかった」というものであったと認められるが、関係各証拠によれば、Dは、謀議の際、通訳を介さずに日本語で被告人らと会話をしており、D証言によると、当時のDの日本語理解能力をもってしては、もともとこのときの謀議の内容を正確に聴取することができず、理解が不十分であったことが看取されるから、この点についてDの供述に混乱がみられたとしてもやむを得ない。

なお、家出人捜索願によれば、Dが「午後五時ころ、お店(スナック)に出勤し、翌午前三時ころ帰宅してみると、置き手紙もなくいなくなっていた。」とされているが、これは、既にみたように、服装が、実際とは異なって「黒色ポロシャツ、灰色ズボン」と申告されたのと同様、D及びBが被告人の指示を正確に理解していなかったために生じた齟齬であるとみるべきである。

2 次に、弁護人は、Dが、m荘でのK殺害後、ディナーショーに行く前に被告人の家に寄ったことについて、当公判廷では、被告人方にいた時間は数分間と証言しているのに対し、平成一二年の取調べのときには、まだディナーショーに行く時間が早すぎるということで被告人方でCと三人でビールを飲んだと供述していたことを指摘する。

この点、D自身、当公判廷において捜査段階の供述は誤りであったと明確に証言しているところ、Cは、自動車で自宅から「b」に向かう途中、被告人の自宅の前を通り、被告人とDを乗せたと証言しており、被告人も、ディナーショーの前に被告人方でDらを交えてビールを飲んだとは供述していないから、そのような事実はなかったものと認められるのであり、Dの捜査段階の供述は別の日の出来事と混同したものとみることができる。

3 最後に、弁護人は、D証言は、Kの死体に衣服を着せた点について、捜査段階における供述と着せる順序が変わっており、また、捜査段階では靴を履かせたと供述していたのが、当公判廷では誤りだったと訂正しているが、これはC証言の内容を知って矛盾に気づいたからであって、このようなD証言は信用性がないと主張する。

しかし、仮にDが明確に記憶にない事項について他の者の供述と適当に合わせてその場を逃れようとする人物であれば、捜査官はそれを利用して、捜査段階からC証言と一致する供述を得ることも可能であったであろうが、実際にはそのような結果にはなっていないということは、Dが不正確ながらも一応自己の記憶に従って供述、証言していることの証左というべきである。そして、m荘でKの衣服を整えるという慌ただしく緊張した場面で、着せた順序や、靴を履かせたか否かなどについて記憶の乱れが生じたとしても、ある程度やむを得ないことといえるから、これをもってD証言全体を虚構と断じることは適当でない。

四 証言内容自体の不自然性

弁護人は、D証言は内容自体が不自然であるとして、以下の点を指摘する。

1 まず、弁護人は、D証言によれば、遺書が届いた後、被告人がDから渡されてそれを読み、Dにも内容を告げたとされており、二人ともそこで初めてその内容を知ったという様子であるが、これがオリジナルの記憶であり、Kは自殺だったのだと主張する。また、投函前には指紋を付けないように細心の注意を払っていた被告人が、この場面では素手で手紙に触れており不自然であるとも主張する。

しかし、開封せずに警察に届けるわけにはいかないから、届いた手紙を開封して文面を見ることは当然であるし、D自身は開封する時点まで遺書の詳しい内容を知らなかったのであるから、被告人が内容をDに告げることも何ら不自然ではない。また、指紋の点については、遺書が無事に配達された後は、そこに被告人の指紋があっても、その説明はどのようにでもできることは自明であり、被告人が懸念したのは、到達以前の段階でこの遺書を関係機関が手にした場合のことであると考えれば、容易に了解可能であり、被告人の行動は全く不自然ではない。

2 次に、弁護人は、Dは、平成七年六月三日にm荘でCがKにパンを与えるところを見たと抽象的に述べることはできても、それを絵に描くなどして具体的に表現することはできないのであって、このようなD証言からKにトリカブト入りのパンを食べさせた事実を認定することはできないと主張する。

しかし、D証言によると、パンの絵までは描くことができないものの、CがKにあんパンを食べさせていたという点は明確であり、その前後の証言も具体的且つ迫真性に富み、C証言とも主要部分において合致しているのであって、十分に信用することができるというべきである。

3 次に、弁護人は、Dが、Kを殺害した際、Kの顔は見なかったと四回も証言したにもかかわらず、検察官が再三尋問したことによって、「ちらっと見た。ほっぺたのところが汚くて、口が腫れていた。」と証言を変更しており、このことは、Dが捜査官に迎合する性質であることを示しており、その証言は信用できないと主張する。

しかしながら、Dは、CがKの掛け布団を引っ張るのを見たと終始証言しているのであり、そうであれば、DはKの顔を見ているのが自然であって、Kの顔を見なかったという当初の証言よりも、「ちらっと見た。」という変更後の証言の方が合理的であるといえる。Kの顔を見なかったとのD証言は、よく見なかったとの趣旨を表現するものと理解すべきであり、変更後の証言はそれなりの具体性も備えていて信用してよいと思われる。

4 最後に、弁護人は、D証言によれば、①DがCにハサミを渡してから便所で吐いているわずかな時間に革ジャンパーの襟を切ったことになり不自然であること、②Dが襟がないことに気づいたのは、セーターを着せ終わってからとされているが、セーターを着せてしまえば襟の部分は見えないから不自然であること、③平成七年六月一七日に、行田警察で死体の写真を見てそれがKであると確認した帰り道、自動車の中で、Dが被告人に「何で襟がないの。」と尋ね、被告人は「本人が切ったんじゃないの。」と答えたとされているが、被告人が襟を切ったのだとすればこの受け答えは不自然であることなどを指摘する。

まず、①については、Dが便所で吐いていた時間が明らかでなく、Dが見ていない間に襟を切った可能性がないとはいえない。②については、確かに証人尋問におけるやり取りを表面的に見れば、セーターを着せ終わってから気づいたと証言したようにとれるものの、これは言葉の問題であって、前後の証言を精査すれば、Dは、要するに、セーターを着せる段階になって襟がないことに気づいたと証言しているものと理解するのが妥当である。③については、Dは、「襟」という日本語の意味を尋ねようとして誤って「何で襟がないの。」と発言してしまったものである旨証言しており、既にみたところのDの当時の日本語の理解力、表現力に照らせば、この点に特段の不自然性はなく、これに対する被告人の発言は、口裏合わせの指示として、「被害者が自分で切ったということにする」という趣旨のことを述べたものとみれば、何ら不自然ではない。

第五共犯者間の証言の整合性

弁護人は、C、B及びDの当公判廷における各証言には、以下の点で齟齬があると指摘する。

一 平成七年六月一日の謀議

1 まず、弁護人は、C証言によれば、遺書は一通はCが投函し、もう一通は置き手紙にするとされているのに対し、B証言では「先に着いた方を警察に持っていく」などと二通とも郵送するという趣旨になっており、さらに、D証言では一通しか存在せず、それをDが投函することになっていたと指摘する。

この点に関する証言に齟齬があることは、弁護人指摘のとおりであるが、前記のとおり、CやDにとっては、投函者がどちらであるかは特に重要な事項として認識されていなかった可能性があり、C、Dのいずれもが自己が投函するものだと考えていたとしても合理性に欠けるわけではない。一方、置き手紙用の遺書については、それを置いておくのはCの役割であるから、Dが聞かされていなかったとしても不思議ではない。また、この点についてのB証言の信用性が低いものと考えざるを得ないことは既にみたとおりである。C証言等によれば、被告人らは、K殺害後も、保険金取得に向けて謀議を重ねていたことが認められるから、Bの「先に着いた方を警察に持っていく」という証言は、実際に遺書を二通とも投函した後か、それらが配達されて入手した後になされた会話を、平成七年六月一日の会話と混同して証言している可能性が高い。

2 次に、弁護人は、C、B及びDがいずれも謀議の際、被告人が「Cはベテランだから。」と言ったと証言しているにもかかわらず、ベテランのCに何を任せるのかについては、C証言では、パンにするか、まんじゅうにするかを任せるとされているのに対し、D証言では、Kにパンを食べさせる役割を任せるとされており、さらに、B証言によれば、パンに入れるトリカブトの量を任せるとされていて、齟齬があると指摘する。

しかし、C証言とD証言は、いずれもKにパンを食べさせることに関してCに任せるという発言がなされたという意味であって、C証言においても、被告人が問題の発言の直前に「まんじゅうはCが食べさせろ。」と発言したとされているのであって、内容において実質的な差異はほとんどない。

また、B証言を子細にみると、Bは、「Cが、Kさん、まんじゅう飽きてるからパンでもいいかと言ったら、固い物じゃ食べられないからいいだろうとか言って、そして、Yが「いつもの倍入れろ。Cちゃんはベテランだから、Cちゃんに任せておけば大丈夫だろう。」と言いました。」と証言しているのであり、Cに任せるという発言は、「まんじゅう飽きてるからパンでもいいか」というCの問いに対する答えとして述べられたとみる余地は大いにあり、C証言と一致するとの解釈も可能である。結局、この点で三名の証言に実質的な齟齬はないといえる。

二 m荘でのK殺害の場面

1 まず、弁護人は、m荘でKが苦しみ出した際、C証言によれば、Dがフライパンを指して「これしかない」と言ったとされているのに対し、D証言によれば、バスタオルを持っていったとされているところ、バスタオルとフライパンは形状も性質も大きく食い違っていると主張する。

しかし、C証言を子細にみると、Cは大要、「YさんがDに向かって、「洗面器を持ってこい。」と言ったが、Dには洗面器という言葉の意味が分からなかったようで、もたもたして何か違う物を持ってきたような記憶がある。そこで、私がm荘のお風呂場まで行って中を見たが、手おけしかなかったので、手おけでは駄目だと思って、台所に戻ってきてDに、「ボールとか、なべとか、そういった物はないの。」と聞くと、Dは、フライパンを指さして、「これしかない。」と言った。そのフライパンは浅い普通のフライパンで、使い物にならないと思い、Yさんの所に戻って、「洗面器もなべも何もないよ。この家。」と言った」旨証言しているのであって、Dが洗面器の意味が分からずにフライパンを持ってきたと証言しているわけではない。そして、D証言によれば、C証言にある「何か違うもの」がバスタオルであったことが明らかになるのであって、C証言とD証言とは完全に整合しているということができる。

2 次に、弁護人は、D証言によれば、Dは、もがき苦しむKを片足で押さえたとされているのに、C証言ではそのことが何ら述べられていないと指摘する。

この点、C証言によれば、Cは、Kの頭側を向いて馬乗りになってKを押さえていたところ、少しして、被告人が、Cにではなく、「ちゃんと押さえろ。」と怒鳴った声が聞こえたので、後ろを見たところ、DがKの足の所に四つんばいになって押さえていたというのであり、他方、D証言によると、Dは、被告人から「足で早く押さえなさい。」と言われて、片足でKの足の辺りを踏んだところ(「足を押さえろ」の聞き違いと認められる。)、「それじゃないんだよ、手が、押さえてんだよ。」と怒鳴られて(「手で押さえるんだよ」の聞き違いと認められる。)、手で押さえたというのである。

両者の証言を対照するに、CはKの頭側を向いていたのであるから、Dが背後で足でKの足を踏んでいる場面を見なかったとしても不自然ではない。そして、C証言にある「ちゃんと押さえろ。」という怒鳴り声が、D証言の「それじゃないんだよ、手が、押さえてんだよ。」という怒鳴り声であると考えれば、両証言はよく整合しているといえる。

なお、「手で足を押さえろ」という被告人の指示を、「足で押さえろ」と聞き違え、足でKの体を踏んだというのは、Dが外国人であるからこそ生じた特徴的な出来事であって、このようなエピソードを含むD証言はこの部分においては迫真性十分で信用性が高い。

三 ディナーショーから帰ってきた後の行動

弁護人は、ディナーショーの後、被告人、C、B及びDがいつ、だれと、どのようなタイミングでm荘に行き、「b」に戻ってきたかについてことごとく証言が相違しており、また、Kの死体に革ジャンパー等を着せた順序についても、C証言とD証言とが相違していることを指摘して、順番について記憶違いをしただけだなどという弁解は到底通用しないと主張する。

しかしながら、関係証拠によれば、このときの被告人らは、N及びLに不審の念を抱かせないよう、組合せを変えては、「b」とm荘を小刻みに何度も往復し、短時間のうちに証拠が残らないよう様々な工作をした上で、Kの死体を利根川に投棄しようと焦っており、また、死体の服装を整えるについても、本来ワイシャツを着せるつもりであったのに、死後硬直のためにうまく着せられなかったことから、急遽素肌に革ジャンパーを着せることになったり、袖が通らなかったのでハサミで切ったり、最終的には革ジャンパーの上からセーターを着せることになるなど、予定外の事態が次々と生じていたというのであるから、被告人らは、この間、相当に興奮、緊張し、慌ただしく作業を進めていたものと認められるのであって、これに証言時までの時間の経過を考え併せれば、「b」とm荘の行き来の状況やKの死体に革ジャンパー等を着せた順序について証言が乱れたとしてもやむを得ないともいえるのであり、この点の証言に齟齬があるからといって、直ちにCらの証言が虚構であるということにはならないと考える。

四 k荘事件

最後に、弁護人は、平成五年秋ころ、k荘でKが嘔吐するなどした場面について、C証言とB証言のいずれによっても、被告人が、「トリカブト」ないし「カブト」という言葉を発したとされているが、C証言によれば、「トリカブトが出たら困る。」という文脈で発言したとされているのに対し、B証言によれば、カブトの根っこか茎の「どの部分を入れたんだ。」という文脈で発言したとされており、両者は矛盾すると指摘する。

この点、Cは被告人の指示に従ってトリカブトの根を使っていたのであるから、被告人が、Cに対して根っこか茎の「どの部分を入れたんだ。」などと問うことは極めて不自然であって、これはBの聞き違いか、記憶違いであろうが、そもそも、Bは、トリカブト入り「まんじゅう」をKに与える部分には直接関与していないのであるから、k荘における被告人とCとの会話を完全に理解し、表現することができなかったとしてもやむを得ない。むしろ、この場面において被告人が「トリカブト」あるいは「カブト」という言葉を使ったという点や、保険を掛けてから一年たっていないから、今死なれると困ると発言したなどの特徴的な部分が一致していることこそ重要であって、この部分に関する両名の証言の信用性は高いということができる。

第六情況証拠の有無

弁護人は、m荘におけるK殺害の事実がなかったことを裏付ける情況証拠として、以下の点を挙げるので順次検討する。

一 まず、弁護人は、株式会社生保リサーチセンター調査員A9の安田生命宛報告書によれば、「平成七年七月二〇日、行田警察署長殿談」として、平成七年六月三日午後五時ころ婦人用自転車によって出かけていくKの姿を目撃した人がいるという情報を得ていたと記載されている点を指摘する。

しかし、同報告書には、警察確認と同日付け(同月一〇日付けと読めなくもないがはっきりしない)の家族確認の欄にも、被告人同席の下でのDの談話として、全く同じ情報が記載されているところ、被告人が同席していることにも鑑みると、被告人がアリバイ工作の一環として、上記の虚偽情報を流した可能性が高いと認められる。

二 次に、弁護人は、被告人らがKを殺害したのだとすれば、Cがタクシーに聞き込みに行った際、わざわざタクシーのナンバーを控える必要はないのであり、このことはCが真剣に聞き込みをしていたことの証拠であると指摘する。

しかし、聞き込みが偽装であるか否かに関わらず、同じ運転手に何度も同じことを尋ねる愚を犯すことのないよう、タクシーのナンバーを控えるということはそれほど不自然なことではない。なお、被告人の当公判廷における供述を前提としても、Kは、最終的にはCの自動車で坂東大橋に行ったことになり、本庄駅で、タクシー運転手に対し、Kを坂東大橋まで乗せなかったかという質問をすることは無意味ということになるから、被告人らが真剣にタクシー運転手からKの情報を得ようとしていたなどという弁護人の主張は成り立つ余地がない。

三 次に、弁護人は、C証言によれば、同人らは、Kの死体を遺棄したとされる場所よりも上流でKの死体を探していることになり、不自然であると主張する。

しかしながら、関係証拠によれば、被告人には、Kの死体を探し出して保険金取得に結びつける目的とともに、家族らが心配してKを探しているという様子を関係機関にアピールする意図もあったと認められるところ、後者の目的からは、実際の遺棄場所よりも下流ばかりを探して、坂東大橋の近くを探さずにいたのでは不審を招くなどと考えて、投棄場所よりも上流の坂東大橋に近い地域も探したのだとすれば、何ら不自然ではない。

四 次に、弁護人は、C証言等によれば、被告人らは、坂東大橋にKが飛び込んだ痕跡を探しに行き、手の跡を発見したとされているところ、仮に被告人らがKを殺害したのであれば、この捜索は無意味であると主張する。

しかし、関係証拠を総合すると、坂東大橋から飛び降りる際、手すりにLが見たような手の跡(甲三〇六号証添付の写真九参照)がつくとは考え難い上、仮についたとしても、それが数日間にわたって残っていたとも考え難い。手の跡の捜索にLが同行させられていることや、C証言から窺われる発見時の状況の不自然さなどに照らすと、これは、Kが坂東大橋から飛び込んだことをLに印象づけるために行われた偽装工作であると認められる。

五 最後に、弁護人は、被告人らが作成した、Kを捜索するためのビラには、セーターを着ていたという記載も、平成七年六月三日の午後三時から行方不明という記載もなく、逆に、黒い靴を履いていたという記載があるのであって同月一日の謀議に関するC証言等とは矛盾していると指摘し、このことは、謀議に関する証言が虚偽であることの証拠であると主張する。

しかしながら、CやDの証言によれば、当初の計画では、被告人は、Kの死体が発見された際には、革ジャンパーによってKの死体であることを特定しようと考えていたというのであり、セーターを着せたのは、Kの死体に革ジャンパーを着せ終わった後、このままでは革ジャンパーが脱げてしまうかもしれないとのとっさの思いつきによるものであることが認められるから、ビラを作成する際にはあくまで革ジャンパーを強調する余りセーターの点を書き落としたか、あるいはそれを不要として無視したということが考えられる。また、家出人探しのビラに裸足であったと記載するわけにはいかないから、Kが日ごろ常用している黒い靴を履いていたと書くことも別段不自然ではない。

なお、前記のとおり、被告人の当公判廷における供述によれば、被告人及びCは、坂東大橋に飛び込む直前の、セーターを着たKの姿を見ているはずであるから、被告人の供述を前提とした場合にも、ビラにセーターの記載がないことの説明はつかない。

第七その他の証拠

弁護人は、Kの死因は溺死であるとし、①Kの肺及び腎臓から利根川に生息する特異な珪藻類が検出されたといういわゆるプランクトン検査の結果は、Kが利根川で溺死したことを示す決定的な証拠である、②Kの遺体を解剖し、死因等を鑑定したA10医師は、Kの死因は不明であり溺死であるとは断定できないと鑑定し、その旨当公判廷で証言したが、Kの遺体が発見された時点では死因は溺死であると断定していたのであって、その後マスコミ報道などの影響を受けてその意見を変えたものであり、A10鑑定は信用できない、③Kの臓器からアコニチン系アルカロイドが検出されたとする科捜研の鑑定は資料の同一性についての証明がなされておらず、鑑定の結果にも疑問があるので信用できない上、仮に鑑定結果が信用できるものであるとしても、検出されたアコニチン系アルカロイドはごく微量であり、Kが生前に致死量以上のトリカブトを摂取していなかったことを示している、④Kの頭髪からトリカブト成分が検出されたとするA5の行った鑑定も、同様に資料の同一性についての証明がなされておらず、鑑定の結果にも疑問があるので信用できない上、仮に鑑定結果が信用できるものであるとしても、被告人らの殺人の実行行為としてのトリカブト投与を裏付けるものではない、などと主張している。そこで、以下検討する。

一 プランクトン検査の結果

1 証拠によれば、Kの臓器について、いわゆるプランクトン検査(臓器中の珪藻類の存否、数等を検査すること)が行われた経過は次のとおりである。

Kの遺体については、発見された翌日の平成七年六月一五日に、埼玉医科大学法医学教室所属の医師A11、同A10に対し、死因等につき鑑定嘱託がなされ、同月一七日A10の執刀のもとに解剖が行われた。Kの遺体が水中死体であることは一見して分かる状況にあったが、A10は死因が溺死であるかどうかを判定するについて、プランクトン検査の有用性を認めていなかったため、遺体を解剖し臓器の一部を保存するに当たり、特段の汚染防止手段をとることなく、概ね、心臓、肝臓、腸、脾臓、腎臓、肺の順に臓器を摘出し、摘出した臓器をそれぞれ切開し、肝臓及び肺についてはスライス片にし、腎臓については周囲の皮膜を取り除いた後二枚の薄いスライス片にし、それをさらに薄くスライスしたものを作り、これらを一個の蓋付き容器にまとめて入れ、水道水で希釈したホルマリン液に浸漬して保存の措置をとった。そして、被告人らが逮捕された後の同一二年五月一九日になって、保存されていたKの臓器のうち、ホルマリン水溶液約五〇〇CCに浸漬されていた肝臓三八〇グラムが警察に任意提出され、その後同年七月一八日に腎臓約二六・八グラム(これもホルマリン水溶液に浸漬されていた。)が、同月二八日に肺約一二・七グラム(ホルマリン水溶液から出された状態のもの)が、それぞれ警察に任意提出された。そして、それぞれの臓器がそのころ科捜研に薬物の存否等についての鑑定を嘱託するのとともに送付され、以後、科捜研で保管されるようになったところ、その後同年八月一日になって、本庄警察署長から科捜研に対し、上記の肝臓、腎臓、肺について、プランクトン検査のための試料調製依頼がなされ、これに基づいて同月九日までに科捜研所属の技術吏員A12によってその作業が行われた。A12は、ホルマリン水溶液に浸漬されていた肝臓、腎臓についてはそれぞれホルマリン水溶液に接していたと思われる外表部分を包丁で切り取り、ホルマリン水溶液に直接接していないと思われる部分それぞれ一一・四二グラム(試料(1))、一〇・四三グラム(試料(2))を取り出し、ガラス容器に入っていた肺については、三塊のうち、そのままの状態のもの一塊(二・二七グラム、試料(3)―1)、外表面部分だけを切り分けたもの(三・二四グラム、試料(3)―2)、内側部分だけを切り分けたもの(二・三九グラム、試料(3)―3)を作り、これらを更に包丁で細かく裁断した上、発煙硝酸及び硫酸を用いて加熱分解するなどして試料を調製した。同日、右各試料中の珪藻類の有無についての鑑定嘱託が日本歯科大学歯学部生物学教室所属のA13助教授に対してなされ、同助教授は同年九月二二日付けで鑑定書を作成した。同鑑定書によれば、A13が各試料につき、カバーグラス上に滴下するなどしたものを観察した結果、試料(1)については珪藻類は検出できず、試料(2)については試料(3)の1ないし3から検出された珪藻類と同じ種類と思われる珪藻類三種類五個体の存在が認められ、試料(3)―1からはかなり多くの珪藻類一六種類の、試料(3)―2からは試料(3)―1から検出されたものと同様の種、組成の多数の珪藻類一五種類の、(3)―3からは試料(3)―1、2と同様の種、組成の多数の珪藻類二六種類の、それぞれ存在が認められ、さらに、(2)の試料から検出された珪藻は、試料(3)―1ないし3から検出された珪藻の一部と同一種であることが認められる。また、その後さらにA13によって行われた鑑定により、試料(3)―3の〇・五ミリリットルないし二ミリリットル中から検出されたクノジケイソウの個体数とKの遺体が発見された季節とほぼ同時期に利根川で採取した河川水を調製して作成した試料〇・五ミリリットルないし二ミリリットル中から検出されたクノジケイソウの個体数がほぼ同数であることなどからして、Kの遺体の肺の中に入っていた水は利根川水系の水と同じものと考えて矛盾はないものとされている。

2 以上の事実に基づき、弁護人は、本件のように腐敗が進行した死体において、死因が溺死かどうかの判断をするについては、プランクトン検査の結果によるのが最良の方法であり、且つ、Kの肺と腎臓から利根川水系に特有の珪藻の殻が検出されたことはKの死因が溺死であることを示す決定的証拠であると主張する。

しかしながら、前記のとおり、Kの遺体を解剖したA10がプランクトン検査の有用性を全く認めていないことからも窺われるように、プランクトン検査が溺死かどうかの判断をする上において決定的、あるいは有効であるかどうか自体がなお法医学会で議論の対象とされているようであり、そのことは、A10が当公判廷で披瀝した見解や、弁護人の提出した外国文献(バーナード・ナイト「法医病理学」)において、「溺死の診断における珪藻類の使用ほど議論の対象とされたトピックはない。」と記述され、さらに、デンマークの学者が溺死した死体と溺死でない死体を詳細に調査して、プランクトン検査は溺死判定に全く根拠とならないと結論付けた例が挙げられていることなどからも明らかである(弁護人が挙げるその他のプランクトン検査の有効性を主張する日本語文献は比較的古いものが多く、且つ、特定の学派が主張している見解であることが窺われ、それが法医学会の定説であるとまでは認め難い。)。したがって、プランクトン検査の結果により溺死かどうかの判断をすることができるとする弁護人の主張はそれ自体に疑念があるといわなければならない。

その点はさておくとしても、プランクトン検査が溺死判断において有効であると主張されているのは、人間が珪藻類を含有する水中で溺れた場合、肺の中に吸引された水に含まれる多くの珪藻類が肺胞壁を浸透し、血液循環により、脳、腎臓、肝臓、骨髄などの遠位の器官に運搬されることを前提としており(A10はこのメカニズム自体が検証されているわけではないとして疑問を呈しているが、その点はおく。)、そのため、プランクトン検査が有効であるためには、組織の適切な標本作成が開始される検死の段階において、技術的に細心の注意が払われなければならず、汚染があってはならないことが指摘されている。すなわち、臓器摘出に当たっては、死体の外部を十分に洗浄して汚れを取り除いた後、きれいなメス等を使って切開等をし、摘出した臓器を洗浄した上、その深部の組織からきれいなメスで取り出して試料を作成することが求められているのである。ところが、前記のとおり、プランクトン検査の有効性を認めていないA10は、その証言するところによれば、メス、ハサミ等の器具や、ゴム手袋の上につけて直接臓器に触れることになる軍手は、汚れがひどくなれば水道水で洗うことはするものの、臓器ごとに取り替えるというようなことはなく、同一のメス、ハサミ、軍手等を最後まで使用していたというのであり、プランクトン検査のために必要な細心の注意を払った上での摘出保存措置を講じていないことは明らかであるから、摘出保存された臓器に遺体の外表等に存在したプランクトンが付着するなどして汚染された可能性は十分にあったものと考えられる。したがって、前記の前提はこの時点で既に崩壊しているといわなければならない。

3 弁護人は、A12は、臓器の内側部分だけを摘出して試料を調製しているから、A10の行った臓器の摘出保存過程に関係なく、プランクトン検査の対象とされた資料が汚染された可能性はない旨主張するが、前記文献が、摘出保存過程における厳密な汚染防止対策を要求しているのは、試料調製過程においていかに慎重な処理をしても、摘出保存過程において十分な汚染防止策をとらなければ結果として試料が汚染される可能性を否定できないからであると考えられる。A12による試料調製過程だけを問題とすれば足りるとする弁護人の主張は失当というほかない。のみならず、それぞれの臓器について、それまで外表に出ていない部分を取り出してプランクトン検査に適する試料を調製したが、腎臓には窪みがあり、肺、肝臓に比較すると十分な試料調製ができなかったというA12証言にも照らすと、A12のした試料調製自体が、その深部の組織から試料を取り出す必要があるとする前記文献の要求する基準を満たしているものとはいい難いものであったと認められる。

4 また、当該珪藻類の殻が血液循環にのって臓器に達したものであるとすれば、一つの臓器だけから検出されて、他の臓器からは検出されないということは通常あり得ない事態と考えられる。現に、弁護人が挙げる文献(弁一七四号証)によれば、五体の溺死体における珪藻類検出結果において、いずれの溺死体についても、肝臓と腎臓の双方から珪藻類が検出されたとするデータが示されている。しかるに、Kの遺体については、肺と腎臓だけから珪藻類が検出され、肝臓からは検出されなかったというのであるから、腎臓から検出された珪藻類は、血液循環によって腎臓にもたらされたものではないとの疑いを十分にもたせるものといってよい。

弁護人は、腎臓から検出された珪藻類の形状が、いずれも肺胞壁を通過しやすい形をしているとして、この珪藻類の殻は汚染されたものではなく血液循環によって腎臓に到達したものである旨主張するが、腎臓から検出された珪藻類の数は肺から検出されたそれと比較して極めて少数であることなどに照らすと、たまたまそのような形状の珪藻類が検出されたにすぎない可能性もあり、血液循環によって腎臓に到達したものと断定することができないことは明白である。

5 以上のとおりであるから、A13によるプランクトン検査の結果からはKの死因が溺死であると断定できないことは明らかといわざるを得ない。

6 なお、検察官は、死体の状況からKは少なくとも溺死ではないと判断できるとする医師A14の当公判廷における証言と同人作成の「捜査関係事項照会回答書」を援用しており、弁護人はこれが信用できないものである旨主張するので、この点についても若干の検討を加えておくこととする。

A14によれば、Kが少なくとも溺死ではないと判断する根拠は、①溺死する際いったん川底に沈んで流されたときにできるはずの擦過傷がない、②二八キロメートルも水中に没して流されている間に硬直が緩解して脱げてしまうはずの着衣が脱げていない、③錐体内に出血、うっ血がない、④胃内容が三〇ミリリットルと少ない、⑤肺重量が比較的軽く、胸腔内液の量が少ない、という点にあるという。このうち、③については、A14自身、溺死体においてこのような症状が認められるのは約半分にとどまるというのであるから、これをもって溺死か否かの判断要素とすることができないことは弁護人主張のとおりと思われる。また、①②についても、状況によっては傷が生じない場合も、着衣が脱げない場合もあり得ると考えられるから、この点を溺死かどうかの判定に使うことには疑問がある。④⑤は、一応溺死を否定する方向に働く要素であるということができるものの、例外があり得ないものではないと考えられるだけに、これらの事実だけから溺死ではないと判断することは困難というべきである。そうすると、A14鑑定をそのまま採用することはできないといわざるを得ない。

7 以上のとおりであるから、結局遺体解剖の結果及びプランクトン検査の結果によっては、Kの死因が溺死であるかどうかの判定は困難ということに帰着するのであり、これだけからでも溺死と判定できるとの弁護人の主張は採用できない。

二 遺体解剖当時のA10の見解

次に、弁護人が、Kの遺体が発見された時点ではKの死因は溺死と判断されていたと主張する点について検討するに、この主張は、Kの遺体が利根川に浮かんでいるのが発見された平成七年六月一四日の翌一五日に死体を検視したA15医師が死因を溺死と判断していること(甲三二五号証)、行田警察署から鑑定嘱託を受けたA10により同月一七日に死体解剖が行われているところ、その結果をふまえて作成されている同月二七日付け捜査報告書(甲一一号証)において、「(Kの遺体について)解剖をなしてその死因等を捜査したところ溺死であることが判明した。」と明記されていることを根拠としている。

しかし、そもそも、その遺体の死亡原因が何であるかについては、あらゆる情報、証拠に基づいて判断されるべきものであって、得られた情報が異なってくればそれが変化することがあるのは当然であると考えられる。水中から発見された遺体について、死亡に結びつく外傷などを発見できず解剖もしていないA15がこれを溺死と判断したことはその時点での判断としては無理からぬことであったと認められるが、このA15の診断だけを根拠にKの死因が溺死であるとすることができないことは明らかである。

また、甲一一号証の捜査報告書に上記の記載があることは事実であるが、A10作成の鑑定書及び同人の当公判廷における証言によれば、Kの遺体解剖の結果からは、溺死を排除する根拠は見当たらないものの、他方で、積極的に溺死であると判定する理由も全くなく、かつまた、解剖時点においてもそのような判断をしており、溺死と断定したことはないというのであるから、捜査報告書の記載は誤りであったというほかない。A10証言によれば、A10の鑑定書は、死体解剖から五年以上経過した同一二年九月になってから作成されたものではあるが、A10は、解剖時にA10が口述したままに助手がワープロに打ち込んだ文書を解剖終了時に打ち出してチェックした上で保存し、鑑定書を作成する段階で、この記録と保存されていたKの臓器などを改めて検分した結果に基づいて考察(説明)を加え、鑑定主文を導いて鑑定書を作成したというのである。したがって、その記載は正確なものと認められ、かつまた、解剖検査記録が動かすことのできないものである以上、これに基づく鑑定主文が恣意的に変更される余地などないと認められるから、A10の証言は十分に信用することができる。上記捜査報告書は結局、その時点での行田警察署の捜査の結論として、Kの死亡については犯罪性がないことを認めるに至った経緯を示したものであり、全体として読めば、被告人らから得たKが自殺した旨の情報も加味してKが犯罪性のない死因である溺死により死亡したとする結論に至った旨を記載したものと理解することができる。

弁護人の主張は失当というほかない。

三 Kの臓器の鑑定結果

1 次に、Kの臓器から検出された物質に関する弁護人の主張を検討するに、科捜研所属の技術吏員A4、同A16及び同A17作成の平成一三年五月一四日付け鑑定書等によれば、捜査官が同一二年七月に美濃戸高原別荘地内において採取してきたトリカブトの葉及び根についてのアコニチン、メサコニチン、ヒパコニチン、ジェサコニチン及びそれらの分解物の有無、含有量を鑑定した結果、トリカブトの比較的大きめの根を乾燥させたもの(乾燥させた結果、重量は乾燥前の約〇・四八グラムに対し、乾燥後は約〇・一一グラムとなっており、重量比は一〇〇対二二・九となる。)一グラム当たりから、約〇・一八六ミリグラムのアコニチン、約〇・七〇五ミリグラムのメサコニチン、約〇・〇五〇ミリグラム以下のヒパコニチン、ベンゾイルメサコニン、13―デオキシメサコニチンが検出されたことが認められる。そして、Cの証言及び実況見分調書(甲六三号証)によれば、Cが同七年六月三日にKに食べさせたトリカブトは、同六年八月ころに美濃戸高原別荘地内で採取してきて冷凍庫に保管していたトリカブトのうちの大きめの根を刻んだもので乾燥前の状態にあったものと考えられ、その重量は約六・一グラムであったことが認められる。したがって、このときKが摂取したアコニチン系アルカロイドの量は、前記の重量比に従って換算すると、アコニチン約〇・二六〇ミリグラム、メサコニチン約〇・九八五ミリグラム及び微量のヒパコニチン、ベンゾイルメサコニン、13―デオキシメサコニチンと推定される。そして、トリカブト毒について研究している東北大学医学部教授A18作成の捜査関係事項照会回答書及び同人の当公判廷における証言によれば、トリカブトは、根などに含まれるアコニチン、メサコニチン、ヒパコニチン、ジェサコニチン等のアコニチン系アルカロイドが強い毒性を発現するのであり、その致死量は、通常人(体重五〇ないし六〇キログラム)において、アコニチン類一ないし二ミリグラムとする見解が多くの文献等において述べられていて学界の定説となっていることが認められる。そうすると、前記認定のKのアコニチン、メサコニチン、ヒパコニチン等の合計推定摂取量一・二四五ミリグラム以上というのは、当時のKの健康状態、体重等をも加味すれば十分に致死量に達していると認められる。

2 これに対し、弁護人は、我が国におけるトリカブト摂取による死亡例等からすると、メサコニチンの致死量は四ミリグラム以上と推定され、また、A18が引用する外国の文献においても、人における致死量は「純粋薬物で多分二ミリグラム」あるいは「一ないし六ミリグラムあるいはそれ以上」とされているのであるから、A18の見解は不当で信用できないものである旨主張する。しかし、弁護人の挙げる死亡例については、そこから検出計測された摂取量は致死量以上の数値を示しているにすぎず、それをもって致死量となし得ないのは当然であり、胃洗浄により一命をとりとめた例についても、摂取されたアコニチン類は未だ血管内に吸収されていない可能性があるから、この例から致死量を推測することもできないというべきである。また、外国の文献における「純粋薬物で多分二ミリグラム」とか、「一ないし六ミリグラムあるいはそれ以上」などの記載は、A18の見解よりやや多めの印象を与えるものであることは確かであるが、曖昧さを含んだ表現からすれば、未だA18の見解と相反するものとまではいえない。A18の見解には格別不自然なところはなく、トリカブト毒を研究している専門家の見解として十分に尊重すべきであり、弁護人の主張は根拠がないことに帰する。

3 次に、A18の捜査関係事項照会回答書及び同人の証言によれば、人の体内に摂取されたアコニチン類は加水分解による脱エステル化反応によりベンゾイルアコニン類に変化し、加水分解が更に進むとアコニン類に変化するが、ベンゾイルアコニン類からアコニン類への変化は起き難く、アコニン類に変化した後は加水分解は起こらない、例えばアコニチンは、ベンゾイルアコニン、アコニンへと加水分解により変化するが、別系統のベンゾイルメサコニン等に変化することはない、脱エステル化反応には非酵素型と酵素型があるが、非酵素型の加水分解は強酸やアルカリによって加速され、また温度が高いほど加速される、アコニチン類を人工的に合成する手法については未だ報告はなく、動物の生体内で合成することも不可能であると考えられる、植物においてアコニチン類の含有が報告されているのはトリカブト属に限られていることがそれぞれ認められるところ、科捜研所属の技術吏員A4及び同A16作成の鑑定書によれば、Kの遺体の肝臓から組織一グラム当たり〇・一ナノグラム未満のベンゾイルアコニン及び組織一グラム当たり〇・二六ナノグラムのベンゾイルメサコニンが、腎臓から組織一グラム当たり〇・一ナノグラム未満のベンゾイルアコニン及び組織一グラム当たり〇・二〇ナノグラムのベンゾイルメサコニンが、肺から組織一グラム当たり〇・一ナノグラム未満のベンゾイルアコニン及び組織一グラム当たり〇・二二ナノグラムのベンゾイルメサコニンが、それぞれ検出されたが、いずれの臓器からも、測定限界値である一グラム当たり〇・一ナノグラム以上のアコニチン、メサコニチンなどのアコニチン類及びアコニン、メサコニンなどのアコニン類は検出されなかったことが認められる。そして、前記A18回答書及び同人の証言によれば、死後半日くらいは各臓器にある酵素により加水分解が進み、死亡後腐敗が進むと繁殖する菌の持つ加水分解酵素が働くことが考えられること、腐敗した臓器は弱アルカリ状態にあった可能性が高いこと、他のトリカブト死亡例における分析結果等に照らすと、ホルマリン浸漬により、臓器内にあったアコニチン類及びその加水分解物はそのほとんどがホルマリン水溶液に浸出し、わずかにベンゾイルアコニン類が残る傾向にあることが認められる。

以上によれば、Kの臓器からベンゾイルアコニン及びベンゾイルメサコニンが検出されたという事実は、Kが生前にトリカブトに含有されているアコニチン類を身体内に摂取したことを示していると認められ、その摂取の時期が死亡直前であったとしてもそれと矛盾することはないといえる。

4 これに対し、弁護人は、①A4及びA16が行った前記鑑定について、A4らが鑑定した臓器がKの臓器であることの証明がなされておらず、別人の臓器を鑑定した疑いが残る、②鑑定書に、鑑定資料が汚染されていないことを示すデータ(ブランクテスト・データ)が添付されていない以上、資料が汚染されていた可能性を否定できない、③定性分析の判断基準が極めて主観的で曖昧である、などと主張し、その信用性を強く非難している。

しかしながら、①A10証言、同人作成の任意提出書、領置調書、鑑定嘱託書及びA4証言等によれば、A4らが鑑定の対象とした臓器が、外観、重量(一部誤記があったことは認められるものの)などに照らしても、A10のもとにあったKの臓器であることは優に認められるところであって、この間に臓器がすり替えられたとか細工が加えられたとかの同一性を疑わせる事情は特段見出すことができない。臓器の保管、移転に関わった者全員の証言によって「保管の連鎖」が証明されなければ同一性を認めることができないとする弁護人の主張は独自の見解であって採用できないものというほかない。②鑑定書にブランクテスト・データが添付されていないのは弁護人指摘のとおりであるが、A4証言等によれば本件の鑑定を実施する過程においてブランクテストを行っていることは明白であり、このテストで汚染が確認されれば、そもそも鑑定自体が成り立たないものであって、鑑定書自体にこれに関するデータが添付されていないからといって、そのことから直ちにその鑑定書の信用性が否定されるというものではない。③弁護人の主張は、別の不純物のピークを示している可能性があるものを当該物質のピークであるかのように判断し、ひいては当該臓器に含まれている物質の有無に関する判断を誤っているというものである。しかしながら、前記各鑑定書及びA4証言によれば、含有物質の判定は、保持時間のピークが一致するかどうかだけではなく、ピーク時におけるスペクトルの比較も行い、特徴的なフラグメントがあるかないかの観察もした上でなされていることが認められる。したがって、主観的で曖昧な判断で物質の存否が決せられているものでないことは明らかであるから、弁護人の主張は失当である。

5 弁護人は、事件後、捜査機関が美濃戸高原別荘地内で採取したトリカブトからは13―デオキシメサコニチンが検出されているのに、Kの臓器からはこれが検出されておらず、逆に、Kの臓器鑑定によればジェサコニチンの存在を窺わせるデータが示されているのに対し捜査機関が美濃戸高原別荘地内で採取したトリカブトからはこれが検出されていないことに照らすと、Kの摂取したトリカブトは美濃戸高原別荘地内に生息していたものではない疑いがあると主張する。しかしながら、A16及びA4証言並びに同人らが作成した鑑定書によれば、捜査機関が美濃戸高原別荘地内で採取したトリカブトから検出された13―デオキシメサコニチンの重量はアコニチン、メサコニチンと比較して微量であり、これあるいはこれの分解物がKの臓器から検出されなかったとしても何ら不自然ではない。のみならず、13―デオキシメサコニチンはこれまでにその存在が知られていなかった物質で、今回の美濃戸高原別荘地内で採取したトリカブトについての鑑定の過程で新物質が含まれているかもしれないと考えたA4らがこれを抽出精製し、東京医科歯科大学生体材料工学研究所所属のA19にその構造決定を依頼して、平成一三年二月ないし三月ころ、構造決定がなされた結果、検出することができるに至ったものであるところ、Kの臓器についての鑑定作業は同年一月初めころまでに終了していることが明らかであるから、Kの臓器からこの物質が検出されなかったのはこの点からも当然であると認められる。また、弁護人のいうところのジェサコニチンの存在を窺わせるデータというのは、実際にはジェサコニチンの存在を示すものでないことは当公判廷においてA16が明確に証言しているところであって、その判断に格別疑念を容れる余地はなく、美濃戸高原別荘地内で採取されたトリカブトの根の成分とKの臓器からのアコニチン等の検出結果とは矛盾するものではないといえる。

四 Kの毛髪の鑑定結果

1 次に、Kの毛髪から検出された物質に関する弁護人の主張を検討するに、国立医薬品食品衛生研究所所属の厚生省技官A5作成の鑑定書及び捜査関係事項照会回答書並びに同人の当公判廷における証言によれば、A5は長く毛髪中の薬物の分析、研究を行い、数々の研究論文等を学会あるいは学術雑誌に発表してきている者であるが、平成一二年八月一一日に本庄警察署長からKの頭毛約〇・一六グラムについて、その中にトリカブト草成分が含まれているか否かについての鑑定嘱託を受けて鑑定を行い、頭毛中にメサコニチンが含有されていることを認め、その頭毛が頭皮近くで採取された約一センチメートル前後のものであり、日本男性の頭毛の成長速度が通常一か月に一ないし一・四センチメートルであることなどに照らして、Kの頭毛から検出されたメサコニチンは死亡前約一か月の間に摂取されたものであるとの結論に達し、同年一〇月二四日付けでその旨の鑑定書を作成したことが認められる。同鑑定書などによれば、この鑑定の経過及び結果に疑問を差し挟む余地はなく、その結論は十分に信用することができる。

2 これに対し、弁護人は、①A5が鑑定した頭毛がKのそれであることが証明されておらず、他人の頭毛とすり替えられている疑いがある、②A5の鑑定書にはブランクテスト・データの結果についての記載がなく、鑑定の経過を記載したものとはいえない、③A5は水中死体の毛髪について鑑定をした経験がないから鑑定人としての適正を欠く、④一つの分析方法だけに依存して複数の分析方法を用いていないのは鑑定としての信頼性を著しく損なう、⑤国際的に検出限界以下とされている数値のメサコニチンしか検出されていないのにこれがあったとする判定は科学的とはいえない、⑥全量を消費し事後に検証する余地を残していないのは信頼性を損ねる、などと主張している。

しかし、①については、前記A4・A16鑑定について述べたと同じく、A10証言、同人作成の任意提出書、領置調書、A5証言などにより、A5が鑑定の対象としたのはKの頭毛であると認めることができ、これを疑うべき特段の事情を見出すことはできない。②についても、前記A4・A16鑑定について述べたと同じく、その記載がないからといって、鑑定の経過を記載していないとはいえず、鑑定の信用性に影響を与えるものではない。③については、前記のとおり、A5は毛髪鑑定の専門家であり、その鑑定手法等に照らして、その毛髪がどのような死体のものであったかによって専門性の有無が別れるなどということは考え難い。④及び⑥については、複数の分析方法を用い、且つ、全量消費しない方が望ましいことはA5自身認めているところであるが、頭毛の量が僅少であったために、一つの分析法で全量消費せざるを得なかったというのであるから、やむを得ないものとして是認することができ、鑑定の方法、経過等に照らしても、そのことから鑑定の信用性が左右されるものとはいえないことは明らかである。⑤について、A5証言によれば、一般的には、毛髪一ミリグラム当たり〇・一ナノグラム以上の薬物の存在が認められたときに陽性とするとの申合せがあるものの、例外として、非常に特殊な物質で、そのデータから見て、それ以下でも存在の判定ができるだけの十分な科学的根拠があって、しかも、その結果が、非常に重要なものであれば、例外として、その存在を指摘するかどうかは研究者の判断に任されていると認められるところ、メサコニチンは分子量が際だって大きい等の特質を有していてまさにその特殊例外的な物質に該当するというのであるから、弁護人の非難は当たらない。

3 また、弁護人は、死後頭毛が伸びることは通常考えられず、Kの頭毛から検出されたメサコニチンはKが死亡した当日に摂取したものではあり得ないから、A5の鑑定結果は、Cの殺害行為を裏付けるものではないと主張している。この点は、A5も、表皮よりも先の部分の毛髪から検出された物質というのは、少なくとも、三日間くらい前に、体内に摂取された物質と考えられる旨述べており、この点の弁護人の主張は首肯することができる。A5鑑定は、Kがその死亡した当日にトリカブトを摂取したことを裏付けるものとはいえず、せいぜい死の約一か月から三日くらい前にトリカブトを摂取したことを示すにとどまるといえる。

Ⅱ  偽装結婚事件

弁護人は、判示罪となるべき事実の第三及び第四の各事実につき、最低限婚姻届出意思の合致があれば婚姻は有効であるとする説を前提とした上で、BとEの婚姻について、Eには実質的な婚姻意思があり、Bには少なくとも婚姻届出意思があったのであるから虚偽の届出をしたとはいえず、また、LとDの婚姻についても、L、Dとも少なくとも婚姻届出意思があったのであり、さらに、いずれにしても被告人がEとBあるいはLとDが偽装結婚をするについて共謀したことはない旨主張する。

しかしながら、婚姻が有効となるためには、婚姻届出意思だけでは足りず、実質的な婚姻の合意が必要であることは我が国の確定した判例実務であり、弁護人の主張は独自の見解であって採用の余地がない。そして、EとB及びLとDが婚姻の届出をするに至った経緯は、前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】で認定したとおりであるところ、これによれば、E、B、L、Dらに実質的な婚姻意思がなかったことは明らかであり、虚偽の届出をしたものであることは疑う余地がない。関係証拠によると、Eには、Bに老後の世話をしてもらう希望があったとみることもできるが、それはあくまでもBに戸籍を提供することの見返りとしての主観的な願望にすぎないものであって、Bが被告人の愛人であることを十分に認識していたEにおいて、Bと真実夫婦になれると思っていたものでないことは、Eの婚姻届出後の行動に照らしても明白であるといわなければならない。

Ⅲ  風邪薬事件

弁護人は、風邪薬事件(判示罪となるべき事実の第五及び第六の犯行)についても、多岐にわたる論拠を挙げて争い、被告人が無罪である旨主張するので、以下、それらの点に関する当裁判所の検討結果を示し、これを通じて、本件についても被告人が有罪である理由の詳細を明らかにする。

第一Eの死体の発見と解剖所見

一 関係証拠によると、Eに関する事件は、平成一一年五月二九日午前四時ころ、戸籍上の妻であったBによる一一九番通報に基づき、救急隊員が本庄市<以下省略>所在のE方に駆けつけてEの死体を発見したことから発覚したことが認められる。差し押さえられたEの死体について、捜査機関から埼玉医科大学法医学教室のA10医師に対し、死因等を解明することを目的として鑑定を嘱託し、翌三一日、同医師がこれに基づいて解剖をしたところ、Eは身長一五七センチメートルに対して、体重四〇キログラムとるいそう(高度のやせ)の状態を呈しており、高度の低栄養状態にあったこと、左肺表面に化膿性胸膜炎が、左肺実質部分には肺胞内に軽度から中等度の好中球主体の炎症細胞浸潤(肺炎)がそれぞれ認められたこと、肝臓には軽度の慢性肝障害を示唆する所見が見られたこと、心臓には化膿性心外膜炎に相当する所見が認められたこと、これらを総合すると、Eが死亡したのは、高度の低栄養状態に伴い、免疫力を低下させたことにより、口内常在菌により日和見感染的に左肺に化膿性胸膜炎及び肺炎を起こしたことによることなどが明らかになった。

ところで、実践女子大学生活科学部食生活科学科教授で免疫のメカニズムなどに関する研究者であるA20の証言及び同人作成の捜査関係事項照会回答書によると、Eがこのように弱毒の口内常在菌に感染して肺炎等を引き起こした要因としては、人体においてこれらの細菌を殺菌する役割を担っている好中球の数か機能、殊に好中球の数の点で何らかの異常を来していたものであることが可能性として最も高いことが認められるのであり、この点は、Eの肺炎病態部の一部を撮影した肺炎極期と認められる組織写真を検査した杏林大学教授で感染症の研究者であるA21の証言及び同人作成の捜査関係事項照会回答書及び、東京大学助教授で血液学、臨床判断学の研究者であるA22の証言によっても裏付けられているということができる。

一方、A17県立医科大学教授で肝臓疾患に関する研究者であるA23の証言及び同人作成の捜査関係事項照会回答書によると、Eの肝細胞には慢性肝炎の所見があり、ウィルス検索の結果によると、EがB型肝炎ウィルスに感染していた疑いは否定できないが、ウィルス自体の量が少ないことから、先の所見がB型肝炎ウィルスに起因するものかどうかの判断はつけ難いこと、他方で、アセトアミノフェン等、肝臓に障害を及ぼすことのあり得る成分を含有する薬剤をアルコールとともに長期間服用すると、本件のような慢性肝障害を発現する可能性は大きいことなどが認められる。

二 以上の認定につき、まず、弁護人は、A10医師がEの死体を解剖するについての鑑定処分許可状が証拠調べされていないことを理由として、裁判所の許可を得て解剖を行ったとの証明がなされていないと主張するが、捜査機関がA10医師に解剖を依頼するにつき裁判所の発付した鑑定処分許可状を得ていたことは、関係証拠、殊に解剖の執刀医である証人A10の当公判廷における証言等に照らして明らかというべきであって、鑑定処分許可状自体の証拠調べがなされていないことが、その点に疑義を生じさせるものではない。弁護人の主張は失当である。

三 次に、弁護人は、解剖に当たった上記A10医師が、鑑定書の鑑定主文の項において、Eの死因を、「低栄養状態に伴う化膿性胸膜炎・肺炎」とし、組織学的所見の項において、炎症を起こしている肺実質部分の組織像を検査したところ、「肺胞内に好中球主体の軽度ないし中等度の炎症細胞浸潤がみられる」としていることや、当公判廷に出廷して、「肺の組織像を見た際、Eの好中球が異常に少ないという印象をもったことはない」旨証言していることなどを挙げて、Eの好中球が減少していたとの証明はなされていないと主張する。

しかしながら、Eが化膿性胸膜炎などを引き起こした原因が何であるかについて、同医師は、当公判廷において、弁護人の質問に答えて、「低栄養状態や何らかの原因による抵抗力の減退というようなもんだと思います。」と証言しており、低栄養状態だけが抵抗力を減退させた原因であるとは必ずしも証言していないことが明らかであって、先の鑑定主文もそのような趣旨のものとして理解すべきである。

また、一般論として、炎症を起こしている部位の組織像を見ることで、好中球の数や機能についての異常の有無を診断することが困難であることは、弁護人指摘のとおりであって、上記A21証人も、当公判廷において、好中球減少症の者でも、無顆粒球症でない限り、肺炎になれば局所に好中球が集まるのであるから、局所の好中球を数えるという方法で好中球減少症の診断をすることは無理である旨証言しているところである。しかしながら、他方において、同証人は、当公判廷において、患者が好中球の数に異常を来しているかどうかは、単核細胞(リンパ球とマクロファージの合計)との比率を調査する(好中球の数自体を計測するのではなく)ことによって推測することは可能であるとした上、通常人であればリンパ球に対する好中球の比率が七〇ないし九〇パーセントに達するはずのところ、Eの組織像ではそれが四一ないし五一パーセントにとどまっていることを指摘した上、その原因としては、末梢部血液の好中球が減少しているか、又は肺炎が治癒期に近づいているかの二つが考えられるが、組織像に照らして後者は考え難いとして、本症例は前者に該当すると判定し、A10医師が、局所の組織像を見て好中球の絶対数が少ないと感じなかったこととの間に矛盾はない旨証言しているのであり、これによれば、Eが死亡前、何らかの原因によって好中球の数を減少させていたことは明らかであるといわねばならない。

第二Eの死体から採取された血液、毛髪等の鑑定結果

一 関係証拠によると、解剖の際、Eの死体から、胃内容物、心臓内血液、末梢部血液等が採取され、これらの資料について、さらにそこに含まれる薬物成分等の鑑定が行われた。その結果は、科捜研において鑑定した胃内容物、心臓内血液、末梢部血液からそれぞれアセトアミノフェンが検出されており、また、毛髪については、平成一一年八月一一日にEの遺体から採取されたものについて、前記A5が、資料を概ね成人の一か月の成長部分に該当する一・二センチメートルごとの七分画にして分析した結果、同年五月後半ころに相当する分画からさかのぼって同一〇年一一月後半以前ころに相当する分画に至るまでのすべての部分からアセトアミノフェンとイソプロピルアンチピリンが、同一一年五月後半ころに相当する分画からさかのぼって同一〇年一二月後半ころに相当する分画にイブプロフェンとジヒドロコデインが、どの時期の分画から検出したものか特定はできないが、クレマスチンとその代謝物であるカルビノールが、それぞれ検出されたことが認められる。さらに、最も毛根に近い部分の一・二センチメートルの分画について、これを二分してアセトアミノフェンの濃度を調べたところ、先端側の同一一年四月後半から同年五月中旬に相当する部分は根本側の同年五月中旬から同月後半に相当する部分の二倍以上の濃度のアセトアミノフェンを検出した。

したがって、Eは、死亡直前にもアセトアミノフェンを含有する薬物を摂取したばかりか(これを更に細かくみれば、死亡直前の二週間は、それ以前の二週間に比べて摂取量は減少していたものとみられる。)、死亡のときからさかのぼって数か月間にわたり、アセトアミノフェン、イソプロピルアンチピリン、ジヒドロコデイン、イブプロフェン、クレマスチンを含有する薬物を継続的に摂取しており、殊にアセトアミノフェンについては、毛髪中の濃度がかなりの高濃度であることから、大量のアセトアミノフェン薬剤を長期間にわたって摂取していたものであることが推認されることとなる。

二 以上の認定につき、弁護人は、死体の保管状況や、鑑定用の資料を採取した経緯が明らかにされていないから、上記鑑定結果は本件の証拠としての関連性を欠くと主張するが、関係証拠を精査しても、鑑定に至る経緯や鑑定資料の同一性の確認の点などについて特段の疑義は見出せないのであって、上記鑑定結果が本件の証拠として関連性を有することは明らかといわねばならない。

三 弁護人はまた、Eの毛髪を鑑定したA5作成の鑑定書は、鑑定の経過を記した書面とはいえないので、証拠能力・証明力がなく、毛髪中の薬物の濃度を鑑定したところで、摂取した薬物自体の濃度や、その使用時期を特定することはできないと主張する。

しかしながら、関係証拠を総合すると、毛髪鑑定自体は、明確な科学的根拠に基づくものということができる上、本件鑑定は、この分野に関する多数の鑑定経験を有する鑑定人が行ったものであるから、その信用性は十分であって、その証拠能力、証明力に疑義を容れる余地はない。弁護人は、また、汚染のないことを示す上で肝心なブランクテストのデータが添付されていないとか、検量線などの定量分析に関する資料が全く添付されていないとか、鑑定資料である毛髪が全量消費されており、鑑定の正確さを科学的に検証することができないなどと主張してその信用性を争うが、A5の当公判廷における証言その他の関係証拠によると、本件の鑑定の過程において資料の汚染が発生しないよう慎重に配慮されていたことが明らかであり、ブランクテストのデータや定量分析に関する資料が欠けていること及び鑑定資料を全量消費したことなどが、A5鑑定の信用性を損ねるものとも考えられないから、弁護人の主張は失当というほかない。

四 弁護人はまた、アセトアミノフェンが毛髪中の多くの分画に高濃度で検出されたからといって、Eがアセトアミノフェン薬剤を大量にかつ長期間にわたって連用していたことの証明となるものではないと主張するが、上記A5証人は、アセトアミノフェンの毛髪中への移行率について、動物実験を踏まえて検討した結果、非常に低いとした上で、実際に検出された濃度を元にして証言しているのであって、信頼するに足りるものということができる。

第三L事件の発覚の経緯

一 関係証拠によると、Lに関する事件が発覚したのは、次のような経緯であると認められる。すなわち、平成一一年五月三〇日午前三時ころ、本庄市内のr病院から、「パジャマ姿のLと名乗る男性が「だれかに追われている」等意味不明の言動をし、助けを求めている」旨の通報があり、警察官が急行したところ、男性は、両腕を内側に硬直させ、全身を震えさせながら、「だれかが追ってくる。」とか、「警察に連れて行ってくれ。」などと述べたため、警察官は、同日午前三時七分ころ、本庄警察署に任意同行して更に事情を聴取したところ、男性が、「eのママでCから薬を飲まされて、体がしびれている。医者に連れて行ってくれ。一緒にYもいて、みんなグルになって薬を飲まされた。」と述べて保護を求めたので、直ちに、深谷赤十字病院に同行して診察を求めたところ、入院治療の必要があると診断された。入院時点におけるLの身長は一五九センチメートルであるところ、これに対して体重は四四キログラムと痩せており、入院後、血液を採取して検査したところ、GOT等の肝機能の数値が正常値よりも高く、軽度の貧血等の症状が見られたが、B型肝炎、C型肝炎等のウィルス性の可能性はなく、その後、同病院で取り寄せた同九年一一月と同一〇年一〇月の同人の検査結果においては肝機能の数値に特段の異常が認められなかったことから、同月以降、深谷赤十字病院に入院するまでの間に、その数値に変動を来したものであろうことなどが判明した。

そして、前記A22の証言等によると、上記入院期間を挟む同八年六月から同一一年一一月にかけてLから採取した各血液から得られた生化学データ等を分析した結果、Lには、上記入院の時点において、軽度の栄養障害があり、それぞれ薬物性と推定される中程度の急性肝障害、軽度の貧血、異常値とはいえないものの好中球の減少と推定される白血球の減少が認められること、その時点の症状としては、生命が危ぶまれるような状態ではないが、薬物の摂取がより増加したり、期間がより長引いたりすると、肝障害や貧血等の障害をより悪化させ、好中球の減少が進むことが予想される状況にあったことが認められる。

二 以上の認定に対し、まず、弁護人は、入院時点において、Lが薬物性の急性肝障害や肝機能障害を起こした状態にあったとは認められないと主張するが、上記A22証言等によると、入院前後のLのGOT、GPT、LDH、γ―GTPの数値のレベルやそれぞれの数値の変動状況、さらにはそれらが特別の治療もなく基準値内に戻っていることなどから、Lは薬物性の中程度の急性肝障害と判断されるというのであって、この判断に特段疑義を容れる余地はない。

三 また、弁護人は、薬物の影響により、Lが貧血を起こしていたとか、好中球が減少し、これによって健康状態を悪化させていたなどということは証明されていないと主張するが、上記A22証言等によると、HCB(ヘモグロビン)の数値がやや低下しており、軽度の貧血に該当するが、MCHC(平均赤血球色素濃度)やMCV(平均赤血球容積)などの数値の状況及びその他の身体状況などを勘案すると、その原因は薬物性とみるのが合理的であるというのであり、また、確かに、細菌感染の危険性を問題にするほどの異常レベルではないにしても、Lの血液像の検査結果では、入院時から、一〇日間くらい白血球の数値が落ち込んでおり、その理由は白血球中の最大の分画である好中球の減少によるものと考えられるが、Lの身体状況や一〇日間程度の入院で特別の治療もなく白血球の数値などが平常値に戻っていることなどに照らすと、その原因は薬物性とみるのが合理的であるというのであって、Lが、軽度の薬物性の貧血の状態にあり、且つ、薬物の影響により好中球の減少を起こし、平常時に比べれば、細菌感染に対する抵抗力が減少した状態にあったことは明らかというべきである。

第四Lの身体から採取された血液、毛髪等の鑑定結果

一 関係証拠によると、平成一一年五月三〇日、深谷赤十字病院において採取されたLの血液と胃内容物からアセトアミノフェン、イソプロピルアンチピリン及びノスカピンが、胃内容物からさらにクレマスチンが、それぞれ検出されており、また、同年八月六日に採取された毛髪については、前記A5が、Eの場合と同様の思考のもとに、一・二センチメートルごとに八分画にして分析した結果、同年六月前半ころからさかのぼって六か月間以上にわたる分画から、アセトアミノフェン、イソプロピルアンチピリン、ジヒドロコデインが、さらに、どの時期の分画から検出したものか特定はできないが、クレマスチンの代謝物であるカルビノールが、それぞれ検出されたことが認められる。

したがって、Lは、入院直前にアセトアミノフェン、イソプロピルアンチピリン、ノスカピンを含有する薬物を摂取したばかりか、そのころからさかのぼって数か月間以上にわたり、アセトアミノフェン、イソプロピルアンチピリン、ジヒドロコデイン、クレマスチンを含有する薬物を継続的に摂取していたものであることが推認されることとなる。

二 弁護人は、これらLの血液や、胃内容物、毛髪に関する鑑定書についても、その関連性、証拠能力、証明力等を争うが、前記第二に記載したところにより、弁護人の主張は失当といわざるを得ない。

三 次に、弁護人は、Lの血液から検出されたアセトアミノフェンの濃度は、平成一一年五月二九日に服用した薬剤に関するC、Lの証言を前提とすると、計算上得られる推定血中濃度の二倍以上と異常に高く、捜査機関による作為が介入している疑いがある旨主張するが、弁護人はその主張の前提として、アセトアミノフェンの半減期を二時間として計算しているところ、東京薬学情報研究所所長で薬物治療学の研究者であるA24の当公判廷における証言及び捜査関係事項照会回答書等によると、大量投与や繰り返し投与の場合には半減期が延長される場合のあることが指摘されており、Lのアセトアミノフェンの血中濃度のデータに関し、半減期を二時間とした数値を前提にして論ずるのは当を得ないものと考えられる。

第五証拠物の発見とその押収手続

一 関係証拠によると、平成一一年五月三〇日と同月三一日に行われた「e」の捜索の際、厨房奥に備えられた三段式黒色カラーボックスの中段から、蓋に黒点が記入され、白色錠剤入りの「▲▲」の容器と、白色錠剤入りの「□□Ca」の容器が、同カラーボックスの下段から、白色錠剤入りの「▲▲」の容器と、白色錠剤入りの「△△」の容器が、同店内の四段式白色カラーボックスの上から三段目から、◇◇錠の空の容器三個、開封前の新品の◇◇錠二瓶、シート状の▼▼持続性錠入りのプラスチック製薬箱、シート状の▼▼持続性錠入りの箱二箱が発見され、また、同月三一日、Cの使用していた自動車であるマジェスタを捜索したところ、コンソールボックス内から白色錠剤三〇錠入りの「▲▲」の容器一個が発見されたことがそれぞれ認められる。

二 弁護人は、「e」店内やマジェスタの車内に上記薬物は存在せず、これらは捜査機関による証拠の作出ないしはすり替えの疑いがあると主張する。

しかしながら、関係証拠、殊に「e」やマジェスタの捜索に当たったA25やA26及びCの当公判廷における証言等に照らすと、これらの場所の捜索は、裁判所から捜索差押令状の発付を得た上、C又はこれに代わる地方公務員(「e」においては本庄消防署所属の消防士A27、マジェスタについては同消防士A28)の立会を得て適正に行われたものであることが明らかであり、また、関係証拠を精査しても、押収した証拠物についてその場で直ちに領置番号が記入されず、それから八か月以上経過した後になって記入されるなどの不適切な処理がなされている点はあるものの、捜査官によって証拠の作出やすり替えが行われた形跡は特段認められないから、弁護人の主張は採用できない。

三 ところで、これらの容器に入れられた白色錠剤が何であるかについて、科捜研において鑑定を実施したところ、「e」店内において発見されたもののうち、「△△」の容器に在中していた白色錠剤は▼▼持続性錠であり、蓋に黒点が記入された「▲▲」の容器に在中していた白色錠剤は◇◇錠であること、また、マジェスタの車内において発見された「▲▲」の容器に在中していた二種類の白色錠剤については、小粒のものが◇◇錠であり、大粒のものが▼▼持続性錠であることが認められた。

第六被告人による総合感冒薬等の購入

一 関係証拠、殊に被告人の当公判廷における供述や、証人A29及び同A30に対する当裁判所の尋問調書等によると、被告人は、平成一〇年秋ころから同一一年春ころにかけて、相当量の総合感冒薬等の薬剤を購入したことが認められる。すなわち、まず、本庄市<以下省略>所在の「※※ドラッグ・<省略>店」においては、同一〇年一〇月ころ同店を訪れて、鎮痛剤と風邪薬を二、三個ずつくらいまとめ買いしたのを手始めとして、それから同一一年五月にかけて多数回同店を訪れ、この間、鎮痛剤である◎◎錠や▼▼持続性錠を一度に二個以上購入したり、ときには同店に在庫していた▼▼持続性錠を全部購入したりしたこと、最後に訪れた同月終わりころにはBを同行し、被告人が「六〇歳くらいの男性が夜になると咳がひどくて呼吸困難になる。医者が嫌いで行きたがらない。」などと述べたので、感冒薬××錠と咳止めシロップを勧めたところ、被告人が両方とも購入したこと、その際、店長から、これらを一緒に飲まないよう注意されたことが認められる。また、埼玉県大里郡<以下省略>所在の「○○薬局・<省略>店」においては、同一〇年八月ころから同一一年五月ころにかけて多数回同店を訪れ、この間、同一〇年八月一八日に▼▼持続性錠(二七錠入り)五個、◎◎錠(三六錠入り)五個、同(四八錠入り)五個、同年九月六日に◎◎錠(二六錠入り)七個、同(四八錠入り)四個、同月一五日に◎◎錠(四八錠入り)五個、同年一〇月二二日に◎◎錠(四八錠入り)四個、○●七個、同年一一月一日に○●一〇個、同年一二月八日に◎◎錠(三六錠入り)八個、同(四八錠入り)五個、◇◇錠(一一〇錠入り)五個、同一一年一月九日に◇◇錠(一一〇錠入)三個、同年三月二八日に◇◇錠(一一〇錠入り)一一個、▼▼持続性錠(二七錠入り)二個、同年五月二日に◇◇錠(一一〇錠入り)八個、▼▼持続性錠(二七錠入り)五個をそれぞれ購入したことが認められる。

二 弁護人は、被告人がこの二店舗において大量の薬剤を購入したことはなく、被告人の来店状況に関する薬店関係者の証言は信用できないと主張するが、被告人自身、当公判廷において、これらの薬局で、「五つ、六つとか、何回かに分けて買ったことはある」旨述べていることや、前記A29及びA30の各証言内容に照らし、上記認定に疑義を入れる余地はない。

三 被告人は、これらの薬剤を購入した理由につき、当公判廷において、Eから薬を買ってきてくれと頼まれたので、薬局で買って届けたものである旨弁解するが、風邪薬や鎮痛剤等をまとめ買いする理由について、前記A29証言によると、被告人は初めて「※※ドラッグ・<省略>店」を訪れた際、「うちには若い衆が一杯いる。」などと述べ、また、A30証言によると、「○○薬局・<省略>店」に来店した際には、「店の子がしょっちゅう痛がる。」などと述べたことがそれぞれ認められる上、被告人の供述に従うと、E方には被告人が届けた相当量の薬剤の痕跡が残されるのが通常であろうと思われるが、関係証拠によれば、E死亡後の同人方に残された物の中にはその形跡を窺わせる物が見当たらず、これらの事実に照らすと、Eに頼まれて届けた旨の被告人の先の弁解は相当に疑わしいといわざるを得ない。

第七総合感冒薬等の生命に対する危険性

一 関係証拠によると、各薬剤の主たる含有成分、一五歳以上の者についての用法・用量は、以下のとおりと認められる。

1 解熱鎮痛剤◎◎錠については、二錠中、イブプロフェン一五〇ミリグラムなどで、その用法・用量は、一日三回、一回二錠。

2 総合感冒薬◇◇錠については、九錠中、アセトアミノフェン九〇〇ミリグラム、ノスカピン三六ミリグラム、リン酸ジヒドロコデイン二四ミリグラム、フマル酸クレマスチン一・三四ミリグラムなどで、その用法・用量は一日三回、一回三錠。

3 総合感冒薬▼▼持続性錠については、三錠中、アセトアミノフェン二二五ミリグラム、イソプロピルアンチピリン一五〇ミリグラム、リン酸ジヒドロコデイン九ミリグラムなどで、その用法・用量は、一日二回、一回三錠。

4 消炎・鎮痛・解熱剤○●については、一錠中、イブプロフェンのみ一〇〇ミリグラムで、その用法・用量は、一日三回、一回二錠。

5 感冒薬××錠については、三錠中、アセトアミノフェン三〇〇ミリグラム、塩酸ブロムヘキシン四ミリグラム、リン酸ジヒドロコデイン八ミリグラムなどで、その用法・用量は、一日三回、一回三錠。

二 そして、これらの薬剤の成分中、解熱鎮痛薬であるアセトアミノフェンについては、アスピリンに比較して安全性が高いため、総合感冒薬における配合量が比較的多く、事故例、臨床例が豊富に集積されている薬剤であるところ、極量は一回一グラムで一日三グラム、最小中毒量は成人で五ないし一五グラム、肝障害発現量は七・五グラム以上(一五〇ミリグラム/キログラム以上。二五〇ミリグラム/キログラムで五〇パーセント、三〇〇ミリグラム/キログラムでほぼ一〇〇パーセント発現)、ヒト経口致死量は成人一三ないし二五グラムとされており、これを過剰に摂取すると、下痢、胃痛、胃・十二指腸のびらんや嘔気・嘔吐、食欲不振から、やがて黄疸、肝障害を発現し、肝壊死を引き起こして重篤な劇症肝炎等に至る危険性があり、最悪の場合、肝不全により死亡する危険性もあること、さらに、アセトアミノフェンを摂取した場合の副作用として、まれに(〇・一パーセント未満)好中球の減少を起こすことがあるとされているところ、好中球が減少すると、細菌感染に対する抵抗力が減少し、容易に細菌感染を引き起こして、死の危険と直面する可能性があること、イブプロフェンについては、アセトアミノフェンと同様、多量に摂取すると、肝障害や好中球の減少を起こすほか、常用量の服用でも、胃粘膜及び消化管障害による食欲不振、嘔気・嘔吐、胃部不快感、腹痛、下痢等が起こること、イソプロピルアンチピリンについては、再生不良性貧血、無顆粒細胞症などの血液障害や肝臓・腎臓に対する副作用があるほか、胃痛、食欲不振、嘔気・嘔吐、下痢等の消化器障害を起こすことがあることなどが関係証拠によって認められる。

ところで、前記A24の当公判廷における証言及び捜査関係事項照会回答書等によると、これらの成分を複数含有する配合剤を服用した場合、各成分間の相互作用により副作用が増幅される危険があり、したがって、例えば、◇◇錠と▼▼持続性錠を併用すると、その成分であるアセトアミノフェンとイソプロピルアンチピリンの相互作用により肝障害が発生する危険性が増加し、◇◇錠と◎◎錠や○●などを併用すれば、それらの成分であるアセトアミノフェンとイブプロフェンの副作用により、肝障害のほか、好中球の減少から無好中球症や再生不良性貧血などの血液障害を引き起こす危険性が一層高まることが推認されること、既に肝臓や腎臓に障害を有している状態で、通常の用量の薬剤を繰り返し投与すると、肝臓での代謝の遅れや腎臓からの排泄の遅れにより、薬物が体内に蓄積し、過量投与したのと同様の副作用や中毒が発現すること、これらの配合剤を大量(常用量の二倍以上)に長期間連用(添付文書に記載された服用注意期間を超えて服用する場合、概ね二週間以上)した場合には、薬物の有効血中濃度域を超えて毒性発現域に到達したり、副作用による障害の遷延化、悪化を招くことなどが認められる。

第八EとLの薬剤やアルコール摂取の状況

一 関係証拠を総合すると、被告人らがEとLについて、それぞれBやDと偽装結婚させて、多額の生命保険に加入した上、総合感冒薬やアルコール等を長期間にわたって連日摂取させた状況は、前記【犯行に至る経緯と罪となるべき事実】の第三章の一ないし六の項で認定したとおりであると認められる。

二 上記認定の基礎をなすCの自白の一般的信用性については、既にトリカブト事件の項において検討したところであり、関係証拠を総合すると、風邪薬事件についての自白は、既にみた鑑定結果などともよく符合しており、トリカブト事件の自白に比して一段とその信用性は高いものと考えられるが、弁護人は、風邪薬事件についてのCの自白には、EとLの両名に一定期間毎日総合感冒薬を飲ませていたとの証言部分が毛髪鑑定の結果と矛盾するなど不自然であり、供述内容に著しい変遷も認められるとしてその信用性を争うほか、L証言についても、Cから飲まされていた薬剤が総合感冒薬であるとの証言は疑わしいとしてその信用性を争う。

まず、弁護人は、Cの証言を前提とすれば、摂取させたアセトアミノフェンの総量はLがEの約二倍程度であるのに、前記A5による毛髪鑑定の結果では、逆に、Eの毛髪から検出されたアセトアミノフェン濃度が一〇・五八ナノグラム/ミリグラムであるのに対して、Lの毛髪のそれは〇・二ナノグラム/ミリグラムであり、両者の差が五二・九倍にも達するとして、C証言の信用性を争う。

しかしながら、関係証拠によると、薬剤の人体に対する吸収の仕方や、消化器官から吸収された薬剤成分が毛髪へ移行するにしても、その割合については相当に個人差のあることが窺われる上、Cは、平成一一年の一月ころ、△△の瓶に入れた▼▼持続性錠を飲ませるようになってから、Lが頻繁に吐くようになったとし、吐くタイミングはその時々で異なるが、飲ませた直後ということもあったし、一〇分から二〇分ぐらいたってからということもあったが、二〇分以上たってからということはなかったように思う旨証言しており、Lもほぼ同趣旨の証言をしているので、Lは薬剤服用後早期に嘔吐していたことが認められるのであり、一方、Eについては、Cはこのような状況を何ら証言していないばかりか、既にみたように、EはCから飲まされる薬剤に加えて、被告人が届ける薬剤をも飲んでいた形跡があるから、これらの点を考慮すると、EとLのアセトアミノフェンの毛髪濃度に弁護人の指摘する差異のあることが直ちにCの証言の信用性を失わしめるものとはいえない。

三 次に、弁護人は、A5鑑定によると、Eの毛髪からCの与えたと証言している薬剤以外の成分が検出されていることや、「※※ドラッグ・<省略>店」と「○○薬局・<省略>店」において購入された薬剤の種類とCがEやLに与えたとする薬剤の種類が合致しないことを挙げてC証言は信用できないという。

しかしながら、既にみたとおり、Eに対しては、Cが与えるのとは別に被告人が自ら薬剤を購入してEの自宅に届けるなどしていたことが証拠上明らかであり、前記のとおり、被告人が購入に当たって店員に対して実体とは異なる理由を述べており、使用目的について不審の念を抱かせる言動をしていることなどにも徴すると、被告人が「※※ドラッグ・<省略>店」と「○○薬局・<省略>店」以外の薬局においても薬剤を購入している可能性は十分にあり得るところであり、購入した薬剤の種類もこれらの薬局で購入したものだけにとどまらない可能性があるから、Eの毛髪からCが与えたと証言している薬剤以外の成分が検出されたことや、E、Lの両名にCが与えたと証言する薬剤の種類と上記二店で購入された薬剤の種類が合致しないことは、何ら異とするに足りない。

四 弁護人は、Cの証言は、Lの証言との間に、飲んだ薬剤の種類や量、その容器、飲ませた際のCの言動などの点で食い違いがあり、信用できないという。

しかしながら、C証言が全体として合理的で内容も明快なのに反し、Lは、その証言内容や態度に照らすと、物事のあった時期や順序、その内容などの点で自信がもてず、証言内容が曖昧で漠然としていたり、明らかに客観的事実と相違する証言をした後、問い直されてそれを訂正するなどの部分が多くあり、その認識能力や表現能力などは必ずしも十分ではないといわざるを得ないので、このようなL証言との間に弁護人が指摘するような部分において矛盾する箇所があるからといって、Cの証言が信用できないというものではない。

五 弁護人は、Cの証言には、EやLに対して◎◎錠を与えたのかどうか、平成一一年四月ころEに◇◇錠などを与えていたことがあるかどうか、Lに◇◇錠とは別に▼▼持続性錠を与えたことがあるのかどうかとその錠数、本物の「▲▲」が入った容器と中身を◇◇錠に入れ替えるなどした偽物の「▲▲」の容器の保管場所などの点に不合理な変遷があると主張する。

しかしながら、EやLに対して◎◎錠を与えていた時期があることや、Lに対して◇◇錠とは別に精力剤と偽って△△の瓶に入れた▼▼持続性錠を三ないし五錠与えていたことについて、Cは、捜査当初隠したり、供述を始めてからも与えた錠数については少な目に話したりした旨証言しており、また、Eに対して平成一一年四月にも◇◇錠を与えた点については、Cは、自己が与えた薬のせいでEが死んだと思われたくなかったので、自白に転じた後においても、一時、死亡時期に近いころの薬剤投与の事実は隠していたという趣旨の証言をしており、C証言全体の趣旨に照らして、これらの点に疑義を抱かせる事情はないと認められるので、供述が変遷したことに理由がないとはいえない。本物の「▲▲」の容器と偽物の「▲▲」の容器の保管場所を同年の初めに入れ替えたことがあることについては、Cは当公判廷で初めて証言したことを認めており、その点、これに触れていない捜査段階の供述から変遷があるとはいえるが、この部分に関するCの証言内容や態度には、検察官に迎合した作話であることを疑わしめるような特段の事情を見出すことはできないから、これまた供述が変遷したことについて合理性がないということはできない。

六 弁護人は、Cの証言が、Lが「▲▲」に◎◎錠を混入しても気がつかなかったとか、被告人がC自身も知らないうちに「▲▲」の瓶に▼▼持続性錠を混入させたなどという作話を混ぜていること、白い錠剤恐怖症になったと言いながらその後も白い錠剤である「△▲」を飲み続けているなどの点で、その証言内容自体において不自然な箇所があると主張する。

しかしながら、C証言によると、Lはもともと「▲▲」一〇粒くらいを飲む際にも、一度口の中でなめて酸っぱい思いをしたのに懲りて、それ以降は味わわないで素早く飲み込むことにしていたというのであり、この点に加えて、C証言やL本人の証言内容、態度から窺われるLの性格などをも勘案すると、「▲▲」に◎◎錠を混ぜ、さらには一〇粒すべてを◎◎錠にすり替えても、Lがそのことに気づかないということはあり得ることと思われる。

次に、被告人が「▲▲」の容器の中に▼▼持続性錠を混入させたことを知った経緯については、Cは、平成一一年三月ころ、被告人から、「なあ、C、分かったか。」と聞かれ、「何が。」と聞き返すと、「Cが分からなかったら大丈夫だ。あの「す」の瓶の中に◇◇が入ってるだろう。その中に▼▼を混ぜておいたんだ。似てるから分からないだろう。」と言い、その時期については、「幾日か前。」と答えた、その際、被告人は「敵を欺くには、味方からだから。」という発言もしていた旨証言しているところである。この証言内容は、迫真的で自然なものであって、前後の証言内容や態度等を子細に検討しても、作話であることを窺わせる事情は特段認められない(なお、弁護人は、被告人が「幾日か前。」と答えた旨証言している点が、毛髪鑑定の結果と合致せず、合理性を欠くと主張するが、「敵を欺くには、味方からだから。」などという発言をしている人物がこの部分について嘘をつかないという保障はないのであって、被告人がなお虚言を交えて打ち明け話をしたということは十分にあり得ることといえるし、EがCが飲ませるのに加えて被告人の届ける薬剤をも飲んでいた形跡があることに照らしても、証言が合理性を欠くことはないといえる。)。

また、Cが白い錠剤恐怖症になったという後も「△▲」を飲んだ点については、Cの証言を子細にみると、「Lに「▲▲」と偽って◎◎錠を飲ませ始めてからは、容器も中身もとても似ているものは、たとえ本物と分かっていても飲めなくなり、それからは、色も形も違う「△▲」を飲むことにした」旨証言しているのであり、必ずしも錠剤の色自体が違うと証言しているわけではなく、関係証拠によって認められるように、体によいと聞いて、「▲▲」を通信販売で取り寄せて愛飲してきたCが、錠剤の色自体は同じ白色であるとしても、容器の色が異なり、大きさが一回り小さいことで、それほど抵抗感を覚えることなく「△▲」を飲み続けたとしても、白い錠剤恐怖症に陥っていたという状態と全く矛盾するとまではいえない。

第九総合感冒薬等やアルコールの過量長期連用と生命侵害の危険との間の因果関係

一 総合感冒薬等に含まれる成分のうち、アセトアミノフェンが、その副作用として、嘔気・嘔吐、食欲不振を招き、ひいて肝障害を発現したり、好中球の減少といった事態を引き起こす可能性があることについては既に第七の項でみたとおりであるが、他方、関係証拠を総合すると、アルコールも、その刺激が消化性潰瘍を悪化させ、高濃度の場合には収斂作用によって胃の充血や胃炎をもたらしたり、その代謝物であるアセトアルデヒド中毒により、嘔気・嘔吐、食欲不振を招くことがあるほか、一般に薬物の吸収を促進する効果を有しており、また、それ自体においても、好中球減少や機能の低下、肝障害等を発現することなどが認められる。そうすると、アルコールとともにアセトアミノフェンを長期間にわたって過量に摂取した場合、慢性的な胃粘膜病変や食欲不振を招き、やがて重篤な肝障害や好中球の減少などを引き起こす危険性が増大することが明らかである。したがって、本件が不能犯などといえないことは当然である。

二 すなわち、まず、東京都教職員互助会三楽病院の名誉院長で消化器官に及ぼす薬の副作用についての研究者であるA31の当公判廷における証言及び捜査関係事項照会回答書によると、◇◇錠と▼▼持続性錠の一回服用量の五倍以上の量を高濃度のアルコールとともに飲み続けると慢性的な胃粘膜病変や食欲不振を招く危険が高く、殊にそこに◎◎錠が混入することになると、その成分であるイブプロフェンが強い胃粘膜障害をもたらす薬剤であることから、嘔気・嘔吐、食欲不振は早期且つ高頻度に発生するものと認められる。

三 次に、肝障害の点についてみると、関係証拠によれば、アセトアミノフェンをアルコールとともに摂取すると、アルコールによりアセトアミノフェンの代謝酵素が誘導され、中間的毒性代謝物の産生量が増大するため、アセトアミノフェン自体の摂取量が「極量」に達していなくても、重篤な肝障害を生ずることがあり得ること、アセトアミノフェンを連用すると、血中アセトアミノフェン代謝物濃度が徐々に高まり、軽い肝機能障害から徐々に壊死を伴う肝障害へと進展し、肝障害が慢性化し、やがて劇症肝炎を発症する危険性も否定できないことが認められる。

四 そしてさらに、アセトアミノフェンを過量長期連用した場合の好中球に対する影響の点をみるに、関係証拠中、前記A24証言やA22証言等を総合すると、アセトアミノフェンの好中球に対する副作用は用量依存的にその障害の程度が高まることが明らかであり、その増加の程度は証拠上必ずしも確定し難いものの、大阪府立健康科学センター健康度測定部医長で情報医学の研究者であるA32の証言等によれば、大阪大学医学部付属病院受診患者を対象とした調査結果では、アセトアミノフェンの処方を受けていた三八七例中一〇例に好中球減少が認められる状況にあり、この場合のアセトアミノフェンの処方が、治療行為として行われたもので、せいぜい一週間か二週間程度の連用にとどまっていることにも照らすと、アセトアミノフェンを過量連用した場合の好中球減少を惹起する危険性は相当に高いといわざるを得ないことが認められる。

五 弁護人は、アセトアミノフェン中毒として報告されている症例は配合剤によるもので、特に、死亡例の根拠とされている二・四グラムという数値は配合剤中のアセトアミノフェン量を計量したにすぎず、当該例においては同時に含まれていたエテンザミドやブロムワレリル尿素による影響を否定できないから、アセトアミノフェン自体のヒト経口致死量については成人で一三ないし二五グラムと考えるべきであって、◇◇錠に換算すると一三〇錠から二五〇錠もの大量摂取をした場合に初めて死の危険が発生する旨主張する。

しかしながら、前記第七の項で認定したアセトアミノフェンの最小中毒量やヒト経口致死量などは、一回の服用による人体に対する危険性に着目した数値であって、これを大量に長期間連用した場合や、既に肝臓や腎臓に障害を有している状態で摂取した場合には、薬物の有効血中濃度域を超えて毒性発現域に到達したり、副作用による障害の遷延化、悪化を招くことがあることは先に認定したとおりであり、大量に長期間連用した場合には、アセトアミノフェンのヒト経口致死量の数値は、一三ないし二五グラムという数値を大幅に下回ることが想定される。

なお、弁護人は、アセトアミノフェンを含有する▽▽錠を七年間にわたり連用した症例を引用し、末梢白血球数は全く減少していないとして、アセトアミノフェンが好中球に及ぼす影響が乏しいことを指摘するが、当該症例においては、服用した薬剤の量と服用の仕方が本件とは異なることが明らかであるから、同症例をもって本件を論ずるのは適当でない。

六 弁護人は、副作用として好中球の減少が生ずるとしても、その頻度は、「まれ」(〇・一パーセント未満)とされており、問題視する必要のない数値であって、A24証言や同人作成の回答書等において、アセトアミノフェンの過量長期連用が好中球の数の減少をもたらす頻度を高めると説明する部分は、単なる推測で根拠に乏しい旨主張するが、弁護人指摘の頻度は、医薬品副作用情報に記載された一回の服用がもたらす危険性の頻度であって、過量長期連用の場合にはその危険性が増加する旨のA24らの証言は、単なる推測にとどまるものではなく、薬剤に関する専門的知識、経験に裏打ちされた合理的なものといえるのであるから、弁護人の主張は採用できない。

七 最後に、弁護人は、EもLも大酒家か、少なくとも常習飲酒家に該当する人物であり、大量のアルコール摂取が両名の健康に影響を及ぼしたと考えるべきであるところ、ホステスであるCやBが客に酒を勧めたとしても、無理やり口に流し込んだというわけではなく、E、Lが自らの意思で飲んだ以上、殺害の実行行為とはなり得ないと主張する。

しかしながら、関係証拠を総合すると、被告人らは、過量長期連用が人体に有害となる薬剤を、健康食品などと偽って服用させるのと並行して、判示の如き態様でアルコールの摂取を勧めたのであり、無理やり口に流し込むのでなくとも、これらの行為全体が殺害の実行行為になり得ることは明らかであるといわねばならない。

第十結論

以上の事実を総合すると、被告人がCらとともに本件を敢行したものであることに疑いを容れる余地はないものといわねばならない。

Ⅳ  記者殴打事件

弁護人は、被害者の負った傷は極めて軽微で傷害罪にいう傷害に該当しないから、暴行罪が成立するにすぎず、そもそもこのような軽微な犯行について起訴するのは不当である旨主張する。しかし、被害者であるQ証言及びQを診察したA33医師の証言などによれば、平成一二年三月八日夕方被告人の暴行により下唇付近に痛みを覚えたQは直ちにA33医師の診察を受けたこと、A33医師はQの下唇の真ん中辺りが赤く傷になっていることを認め、下口唇挫傷、全治三日間と診断し、その旨の診断書を作成したこと、翌九日、診断書を受取に現れたQを見たA33は、腫れがひどくなっていたことから三日では治らない傷であるとの印象を持ったが、作成してあった診断書はそのままQに渡したこと、Qは、五日間くらい患部に痛みを感じ、処方された薬などをそこに塗っていたが、その間に他の医師の診察は受けていないこと、A33医師はその後同年四月二七日に検察官からQの病状照会を受けたのに対し、翌日、全治五日間と答え、さらに、同年六月一二日には、診断書の記載と照会に対する回答との間に特段の違いはない旨説明したこと、以上の事実が認められる。これらの事実によれば、Qが、判示のとおり、全治五日間を要する傷害を負ったと認めることができ、これが傷害罪における傷害に該当することもまた自明というべきである。本件につき、被告人を傷害罪で起訴した検察官の措置に違法不当な点は全くなく、弁護人の主張は独自の見解であって到底採用することができない。

【量刑の理由】

本件は、判示のとおり、被告人が、自分の愛人であるC、B、Dと共謀の上、まず、自己の経営する飲食店の常連客であったKを言葉巧みに欺いてDと婚姻させて同女を受取人とする多額の生命保険に加入させた挙げ句、トリカブト毒によって殺害し、これを自殺であるかのように仮装して三億円余の生命保険金等を詐取した事案、次いで、その約三年ないし四年後に、同じく店の常連客であったE、Lの両名を、それぞれB、Dと偽装結婚させて多額の生命保険に加入させた上、連日高濃度のアルコールを摂取させるとともに、市販の総合感冒薬及び解熱鎮痛剤等を健康食品であると偽って長期間大量に摂取させるなどしてEを殺害したが、Lについては未遂に終わったという事案、及び、被告人らがこれらの事件の容疑者としてマスコミに取り上げられていた当時、取材に来た新聞記者の態度に腹を立てた被告人がその顔面を殴りつけて傷害を負わせたという事案からなる。

まず、トリカブト事件についてみると、被告人は、Kがそれまで結婚したこともなく親族とも離れて生活していて孤独な境遇にあったことにつけ込み、職場と住居を紹介するなどし、さらには実体生活を伴わない戸籍上のものだけにすぎなかったもののDとも婚姻させるなどして同人の信頼を得る一方、自己の店における高額の飲食代をつけにして多額の借金を背負わせ、収入の大部分をこの借金の返済に充てさせる状態にして同人の生活を支配した上、多数の生命保険契約を締結し、過労死ないし病死に見せかけて殺害が発覚しないようにするため、約二年間にわたって、Cらに指示して、連日連夜明け方まで飲酒させたり、たばこの葉を煮出したコーヒーを飲ませるなどしたが、Kが一向に健康を害する気配を見せないことに業を煮やし、Cとともに長野県内の山中に出かけて猛毒のトリカブトを採取し、Kの好物であるまんじゅうやパンの中に少量の根を刻んだものを混ぜて毎日食べさせることにより、Kが病死するよう仕向けたが、更に長引くとみるや、最後の手段として多量のトリカブトで一気に毒殺することを決意し、事前に共犯者との間で謀議を尽くした上、トリカブト入りあんパンを食べさせて殺害し、その死体を利根川に遺棄し、あらかじめ被害者を欺いて書かせておいた遺書を持って警察に捜索願を出すなどの周到な自殺仮装工作を行って保険会社のみならず捜査機関をも欺き、まんまと三億円余の生命保険金等を手にしたというものである。

その犯行の動機は、専ら多額の生命保険金を入手することにあるところ、被告人は、共犯者に対し、被害者が借金の返済として被告人に支払う金を保険料の原資としている状態を「自給自足」と称して自慢げに話したり、被害者について「生きてたって借金ばっかりで大変なんだ。」、「死んだ方が楽に決まってる。」などと言い放つなど、自らの金銭的欲求を満たすためには人命を奪うことにも何らの躊躇もみせない非人間的で冷徹非道な性格を露わにしている。殺害態様も、長期間にわたりあの手この手を用いて衰弱させてきたKに対し、致死量以上のトリカブトを仕込んだあんパンを食べさせた上、強烈な嘔吐発作にもがき始めた同人に布団をかぶせて押さえつけ、苦しみ抜かせて絶命させたというものであって、極めて冷酷且つ残忍極まりないものである。

Kは、周囲に身寄りや親しい友人が乏しく、被告人の店で飲酒することが数少ない楽しみの一つであるという孤独な境遇にあったために、被告人らの保険金殺人計画の標的とされたのであって、もとより何らの落ち度もなく、元来の人のよい性格からやすやすと被告人らの術中に陥り、連日トリカブト入りのまんじゅうを食べさせられていることなどにも全く気づかず、ついに被告人らの手によって命を奪われた上、トリカブトが検出されないよう死体を腐敗させて自殺に見せかける必要があるとして利根川に投棄され、一〇日間以上も放置された挙げ句、変わり果てた無惨な姿になって発見されたのであって、Kが味わった苦痛及び無念さは筆舌に尽くし難い。Kの死後、被告人はその遺族に対し、虚言を用いてKに書かせた偽の遺書を示し、Kがサラ金からの借金に苦しんでおり、末期の胃がんであったために自殺したなどと虚偽の事実を述べてその死を自殺であると信じ込ませ、戸籍上の妻であったDを伴って平然と葬儀に出席するなどしたものであって、最愛の息子の命を奪われた上に虚言によって欺かれた遺族の怒りは極めて強く、当然のことながら、被告人に対する極刑を望んでいる。

他方、風邪薬事件は、トリカブト事件で多額の保険金を入手するのに成功したことに味を占めた被告人が、更なる金銭的欲求を満たすため、K同様に独身で近くに身寄りのいないE及びLの二名を新たな標的と定め、言葉巧みにもちかけて、それぞれB、Dと偽装結婚させ、受取人をこの両名とする多額の生命保険契約に加入する一方で、E、Lを病死に見せかけて殺害するため、ほぼ同時進行の形で、一年近くにわたって、連日高濃度のアルコールを摂取させるとともに、健康食品と偽って市販の総合感冒薬等を大量に服用させた結果、Eについては殺害に成功したが、Lについては同人が病院に駆け込んだため失敗に終わったというものである。被告人は既に敢行したトリカブト事件を悔い改めるどころか、あくなき金銭欲を満たすため、更に二名の者に対する殺害計画を実行に移し、あまつさえ衰弱したEの死期を予測して共犯者と賭けを行い、その死を楽しむかのような言動をするなど、誠に人を人とも思わぬ鬼畜の所業というほかはなく、Eの死亡という結果は誠に重大である。同じ手段を反復して用いると犯行が発覚しやすいとして、健康や医薬品関係の本を読みあさり、その知識をもとに、トリカブトから一転して市販の総合感冒薬やアルコールを凶器として使用することとし、病死に見せかけることができるように長い時間をかけてじわじわと計画を進めるなど、これまでの犯罪史上に例を見ない巧妙で悪辣な犯行態様は、被告人の冷徹で非道な性格とともに、奸智に長けた著しい犯罪性向を如実に物語るものといわねばならない。

風邪薬事件の被害者であるE及びLもまた、たまたま被告人経営の店の客となり、孤独な境遇にあったのに目をつけられて被告人の犯行の標的とされたもので、殊にEは、被告人らの行動に全く疑いを抱かず信頼していたために、ボトルの中身が高濃度のアルコールとすり替えられていることや、健康食品の容器の中身が総合感冒薬等とすり替えられていることなどに全く気づかず、被告人らから勧められるままに、連日これらを摂取し続けたことにより、徐々に衰弱して低栄養状態に陥り、ついには肺炎を発症して死亡したものであり、その無念さは察するに余りある。Eは七人兄弟の五男であったが、そのうちの三人が既に死亡し、二人が病気による入院生活を余儀なくされており、健康にそれほど問題のなかったEを失った姉の失望は大きく、同人が、「自分が殺してやりたい。」として、被告人に対する峻烈な処罰感情を有しているのも誠に無理からぬところである。

また、幸いにも命をとりとめたLも、連日嘔吐を繰り返すなどの苦痛を味わった挙げ句、コーヒーに覚せい剤を混ぜたものを飲まされるなどしたため、幻覚、幻聴の症状を来して警察に保護され、入院を余儀なくされたのであり、仮に警察に保護されなければ、やがてK、Eと同様に命を落とす危険は高かったのであって、真相を知った同人の精神的衝撃や恐怖感には深刻なものがあり、被告人に対して、極刑を望んでいる状況にある。

被告人は、店に出入りする常連客の中から、人を疑うことを知らず、生活環境を変える能力や意欲に乏しい境遇にある者に目をつけ、自分の愛人と偽装結婚させてこれを保険金受取人とした上で多額の生命保険を掛け、自殺ないし病死に見せかけて殺害するという本件各犯行の手法を自ら発案し、実際にその対象とする相手方をも自ら選定する一方、三人の女性共犯者に対しては、多額の分け前等をえさに巧みに犯行に誘い込み、自らはほとんど手を汚すことなく、殺害行為の大部分をこれらの共犯者に行わせたものであって、犯行全体の首謀者であり、被告人の存在なくして本件が敢行され得なかったことは明らかである。なおかつ、被告人は、トリカブト事件で入手した約三億円もの多額の生命保険金について、それまでの貸金と相殺するなどと手前勝手な理屈を並べ立てて、共犯者らにそれぞれ一〇〇万円から三〇〇万円程度の分け前を与えたにとどまり、その余の金員をすべて自己の手中に収めるなど共犯者に対してすら狡猾な態度を取る始末で、反社会的性格や犯罪性向は余りにも甚だしく、その刑責は、他の共犯者らと比較して格段に重いものといわなければならない。

しかるに、被告人は、これらの犯行がマスコミに取り沙汰されるようになるや、厚顔にも、マスコミ関係者を自己の経営するスナックに集め、連日、有料で記者会見を開催して無実を訴えるなどし、さらには、共犯者三名がいずれも証人として当公判廷に出廷して犯行状況等を子細に証言し、その余の関係各証拠も取り調べられて本件各犯行が明らかになった今日においても、被害者及び遺族に対する被害弁償はおろか、一言の謝罪の言葉すら口にせず、トリカブト事件については、被害者は利根川に飛び込んで自殺したのであり、トリカブトを触ったことも見たこともなく、保険金で借金を返済してもらうことを被害者との間で合意していたなどと弁解し、風邪薬事件についても、共犯者らに殺害を指示したことはなく、死亡したEに風邪薬を届けたのは同人から頼まれたからであり、Eは覚せい剤を吸引していたのでそれによって死んだのではないかと思うなどと弁解し、虚言を弄してでもあくまで刑責を回避しようと画策しているのであって、かかる被告人の態度からは本件に対する反省、悔悟の情は微塵も窺うことができない。

以上の事情に照らすと、被告人の刑事責任は余りに重大であり、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも、被告人を極刑に処することはやむを得ない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 若原正樹 裁判官 大澤廣 裁判官 田中邦治)

別表

請求年月日(平成7年)

請求場所(埼玉県)

被欺罔者

交付年月日(平成7年)

交付場所(埼玉県)交付方法

金額

1

7/7

児玉郡<以下省略>日本生命保険相互会社熊谷支社児玉営業支部

同会社埼玉契約サービスセンター長P

7/24

本庄市<以下省略>株式会社あさひ銀行本庄支店D名義普通預金口座振込入金

1億8019万2247円

2

同上

本庄市<以下省略>本庄郵便局

郵政省東京簡易保険事務センター第2支払部関東第3支払課長A34

7/28

請求場所と同じ現金手渡し

1007万4428円

3

同上

同市<以下省略>安田生命保険相互会社本庄営業所

同会社契約管理部保険金課企画査定係担当課長A35

8/3

同市<以下省略>株式会社あさひ銀行本庄支店D名義普通預金口座振込入金

1億8万2734円

4

7/8頃

与野市<以下省略>埼玉県民共済生活協同組合(郵送)

同組合共済金サービス部部長A36

7/11

同上

800万7400円

5

7/10頃

浦和市<以下省略>全国労働者共済生活協同組合連合会埼玉県本部(郵送)

同本部審査部次長A37

7/14

同上

400万円

8/18

本庄市<以下省略>埼玉信用組合本庄支店D名義普通預金口座振込入金

2000円

金額合計3億235万8809円

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