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さいたま地方裁判所 平成13年(わ)1790号 判決 2003年2月06日

主文

被告人を懲役8年に処する。

未決勾留日数中250日をその刑に算入する。

押収してある包丁2丁(平成14年押第280号の1,2)を没収する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は,

第1平成11年5月ころから,肩書記載の自宅に独りで住むようになり,同所に引き籠もる生活を続けていたが,自動車修理,整備業を営むAは,被告人方に隣接して工場を有し,騒音を発していた上,被告人方敷地内に自動車部品などのゴミを投棄し,表通り側の車庫シャッター前に頻繁に車を駐車させるなどし,近所迷惑を全く顧慮せず,嫌がらせ行為に及ぶ一方,工場拡張のため,被告人方敷地を取得するよう地主の代理人と交渉を続けていたところ,Aに不満を募らせていた被告人は,地主に提案した土地の交換案が拒絶され,また道路の拡幅改良事業が決定されたことから,精神的に追い詰められ,前夜から,Aの嫌がらせを考えるうちに,鬱積した感情が一気に爆発し,同人を殺害しようと決意し,平成13年6月28日午後3時45分ころ,埼玉県a市先路上において,所携の包丁2丁(刃体の長さ約21センチメートル及び約21.3センチメートル,平成14年押第280号の1,2)でA(当時48年)の胸腹部や頸部等を多数回突き刺すなどし,よって,そのころ,同所において,同人を胸腹部及び頸部の刺切創群に基づく失血により死亡させて殺害し,

第2業務その他正当な理由による場合でないのに,上記日時場所において,上記包丁2丁を携帯したものであるが,被告人は,本件各犯行当時,異常な精神状態により心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目) 略

(補足説明)

第1弁護人は,(1)検察官は,医師B作成の鑑定の結論を否定する何らの資料を有しないまま,被告人を起訴したもので,このような起訴は,検察官の訴追裁量を著しく逸脱するものであるから,本件公訴の提起は違法無効であって,公訴は棄却されるべきであり,(2)被告人は,本件当時統合失調症(精神分裂病)破瓜型に罹患し,本件当時,幻覚妄想状態にあった上,緊張病症状を呈し,心神喪失の状態にあったもので,無罪であると主張する。以下,被告人を心神耗弱と認めた当裁判所の判断等を示すこととする。

第2公訴棄却の主張について

第3で検討するとおり,被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあったものであるから,弁護人の主張は前提を欠き,採用できない。

第3責任能力について

1  関係各証拠によれば,以下の各事実が認められる。

(1) 被告人の生活状況等

被告人は,高校2,3年生ころから,気に入らないことがあると母親に物を投げ付けるなどの家庭内暴力や長時間かけて手を洗うなどの不潔恐怖が始まった。昭和54年4月,大学法学部に入学したが,殆ど学校に行かないまま,同56年5月,中退し,その後,両親と自宅で同居していたが,自室に引き籠もり,家庭内暴力や不潔恐怖は改まらず,仕事もせず,その一方,両親に執拗に自己の話の相手をさせるなど,その生活を束縛するなどした。結局,両親は被告人との生活に疲れ果て,心臓病の持病のある母親が平成8年ころ,高血圧,糖尿病の持病のある父親が同11年5月ころ,それぞれ自宅を出て被告人と連絡を絶った。被告人は,自宅の南西隣に位置する父親が経営していたタクシー会社の元社屋(以下「被告人方」という。)に独りで住むようになり,深夜に食券方式の牛丼屋で一日一食の食事をし,その後ゴミ集積所等を回って捨てられた雑誌や電気製品,衣類,自転車等を拾い集めたり,近くに住む叔父と共に病院等に赴く外は,明かりもつけずに,殆ど被告人方に引き籠もる生活をしていた。被告人が収集した自転車は99台に上る。

(2) 被告人の通院歴等

被告人は,昭和56年ころ,親戚方で興奮状態となり,救急車でC病院に運ばれ,数か月間入院し,精神障害と診断された。

同62年ころ,約6か月間,Dセンター(以下「センター」という。)でカウンセリングを受け,平成7年4月から同8年1月までの間,両親と共に約20回カウンセリングを受けた。

同8年1月,高熱を出してEに入院し,気管支炎と不潔恐怖,洗滌強迫と診断された。

同月から同年3月までの間に7回,同9年8月,同11年9月,同12年8月と同年9月に各1回,F病院に通院して医師Gの診療を受けた。同医師は,統合失調症の症状が認められないわけではないが,統合失調症とはいえず,強迫観念の症状が変わらず,所見としては,人格障害と診断した。同医師は,何度も入院を勧めたが,被告人は応じなかった。

同12年7月から同13年5月までの間,叔父と共に二十数回センターでカウンセリングを受けた。同年6月26日,叔父と共にセンターを来訪したが,予約していなかったので,カウンセリングを受けられなかった。

(3) Aとの関係等

Aは,自動車修理,整備業を営んでおり,被告人方の隣に工場を有していた。Aは,被告人方敷地内にドラム缶や自動車部品,オイル缶などのゴミを投棄し,また,表通り側の車庫シャッター前に頻繁に車を駐車させるなどした。Aは,工場を拡張するため,被告人方の土地の取得を強く望み,これを管理する不動産業者に依頼していた。被告人方は借地であり,被告人は,借地権と所有権とを等価交換したい旨申し出たが,地主は,この提案に応じなかった。

同11年9月,市の事業として被告人方前道路の拡幅改良事業が決定され,同14年度工事施工区域となり,看板が補償対象物件となって,補償金額は約12万円と算出されたところ,被告人は,同事業に係る説明会の通知等からこの計画を知っていた。

(4) 犯行状況等

被告人は,同13年6月28日午後3時45分ころ,両手に滑止め付きの軍手をはめ,刺身包丁2丁(刃体の長さ約21センチメートル及び約21.3センチメートル)を持って,被告人方を出た。道一つ隔てた寿司屋「H」の駐車場付近道路において,Aが南東方向から自転車に乗ってやって来たところ,被告人は,上記駐車場から突然飛び出し,Aに体当たりし,揉み合いとなり,上記包丁でAの上半身を突き刺すなどし,更に,仰向けに路上に倒れたAの傍に立ち,前屈みになって同人の胸腹部や頸部等を多数回突き刺すなどした。そのころ,Aは,同所で,胸腹部や頸部などの多数の刺切創群による臓器,血管損傷に基づく失血により死亡した。

Aの遺体には,頸部及び胸腹部を中心に,頭頂部,顔面,上肢,下肢に合計数十か所の刺切創がある。頸部には,前頸部をほぼ水平に走る創口の開いた損傷1個の外に複数の切創が,胸腹部には,16個の刺創群及び皮膚にとどまる浅い切創又は小刺創が相当数あり,胸腹部の刺創群中,心窩部右半,前創右創角の下方1.5センチメートルのところから下わずかに右方に向かう創口の開いた創傷の創洞は,約14センチメートルに及び,創洞10センチメートルを超える創傷が数個ある。

(5) 犯行後の状況等

警邏中の警察官が駆け付け,止めろと怒鳴ると,被告人は警察官に気付き,呆然と立ち尽くしており,警察官が包丁を捨てろと言ったが,ぶつぶつとうわ言を繰り返し,包丁を離さなかったので,警棒で包丁を叩き落とし,被告人を現行犯逮捕した。被告人は,体を極度に硬直させ,仰向けの状態で上空を見つめ,問いかけにも唸るだけで,会話が成立しなかった。警察署に連行後も,被告人は,自力で歩行せず,訳の分からないことを言い,白目をむいて顔を左右に振ったり,時に笑うなどしており,警察官の弁解録取時も机に顔を伏せた状態で,取調時も床に寝転んだままで,弁解録取書に署名しなかった。同月29日夕方,被告人は,F病院で,栄養剤の点滴,安定剤の投与を受け,その際,警察官に,見える,見える,今まで何も見えなかった,一人で恐かった,みんなぼやけて同じ人に見えたなどと言い,警察官が何をしたか分かるかと聞くと,自分が何をしたか分からない,包丁を持ったことも分からないと答え,急に下顎部が震え出し,硬直状態に陥ったが,安定剤を投与すると,正常に戻った。同日の司法警察職員に対する供述調書にも署名をせず,翌30日の検察官の弁解録取書,勾留質問調書も同様であった。7月4日以降,被告人の署名のある司法警察職員及び検察官に対する各供述調書が作成されている。

(6) 両親に精神病の病歴はないが,母の妹と同女の娘は,躁とうつの気分変動があり,精神科への通院歴がある。

2  被告人の供述概要

(1) 捜査段階の供述

Aは自宅の正面に毎日のように車を置いた。そのため私はシャッターから出入りすることができなくなった。また,Aは私の自宅の敷地内にドラム缶や車のバンパー,マフラー,ドアなどを投げ入れるなどした。私はこのようにAからひどい嫌がらせを受けていた。自宅南東側道路の拡幅工事がなされると,車庫の柱を切らなければならず,そうすると車庫が壊れてしまい,私は自宅に住めなくなる。Aは,工場を大きくしようと,私の自宅と自宅の敷地が欲しくてたまらず,道路の拡幅工事がなされるのも,地主がこれらの敷地の借地権について私の等価交換の提案を断ってその買取りを言ってくるのも,Aが嫌がらせをするのも,Aを中心にして,地主や市まで巻き込んでの,私を追い出そうとする陰謀だ。しかし,Aは高級車を乗り回しており,怖いやくざと思っていたので,とても文句を言うことなどできず,一人で思い悩み,耐えていた。

前日の夜から,Aの数々の嫌がらせを思い,眠れず,当日になっても,ずっとAのことを考え続け,これからどうすればいいのか,どうなるんだろうと悩み苦しむうち,自分一人ではどうすることもできないと気持が段々と追い詰められ,袋の鼠状態になり,とうとうAの今までの傍若無人な振舞いに堪忍袋の緒が切れ,自分を守るためには戦うしかない,このままではやられてしまう,やられる前にやるしかないと考え,窮鼠猫を咬むの言葉どおり,これまでの感情が一気に爆発し,これからやってやると決めた。

刺身包丁2丁を持って,自宅から出た。Aは工場か中古車販売の方のどちらかにいると思い,まず工場の方を見たが,停めてある車が邪魔で見えず,中古車販売の方かと思って,寿司屋H駐車場付近に行き,工場の方を見てから南東方向に振り返った時,Aと目が合い,私があっと言うと,Aもあっと言った。今だと思って包丁で刺した。夢中だったので,どこを,どのくらい刺したかは覚えていない。次に覚えているのは,左手の指を怪我して出血していたことである。逮捕され,病院で精神安定剤や点滴治療を受けて,やっと自分の置かれている状況が分かった。

平成13年7月8日付の司法警察職員に対する供述調書(乙3)では,このままではやられてしまう,やられてからではやり返せない,それでもいいのかという幻聴があったと供述しているが,その後の捜査段階での供述調書(B医師との面接後の司法警察職員に対する供述も含む。)には,幻聴の記載はない。

(2) B医師との面接

Aは,約2年前から,自宅の前に車を置いた。そのため私はシャッターから出入りすることができなくなった。また,Aは私の自宅の敷地内に車のバンパー,マフラーなどを投げ入れるなどした。私はこのようにAからひどい嫌がらせを受けていた。自宅南東側道路の拡幅工事がなされると,車庫の柱を切らなければならず,そうすると車庫が壊れてしまい,私は自宅に住めなくなる。道路の拡幅工事がなされるのは,地主,Aや隣近所などが,私を追い出そうとする口実だ。しかし,Aは高級車を乗り回しており,怖いやくざと思っていたので,とても文句を言うことなどできず,怖くてしようがなかった。約2年前から,Aの会社の社員に拉致され,どこかに捨てられて殺されると思った。

平成13年6月20日ころから眠れなくなり,事件当日朝から,ずっとこのままではやられてしまう,やられてからでは取り返せない,それでもいいのか,おまえができないなら俺がやると聞こえた。おまえができないなら俺がやると何回も聞いて嫌になった。やるとは,つぶされてしまう,やり返すとは,つぶす(やっつける,玉砕)ということで,相手はAである。シャッターを開けて飛び出し,工場の方を見たが,bの方へ10メートル位歩いて車道へ少し出,振り返ると,Aがいた。白髪頭と赤いつなぎを着ていた。Aと目が合い,私があっと言うと,Aもあっと言った。その時頭が真っ白になり,その後の記憶がない。無我夢中で刺した。おどそうとか,傷つけてやろうとか,中途半端な気持ではないが,殺そうという考えもなかった。どこをどう刺したか覚えていないが,自分の指が切れて血が噴き出したのは覚えている。最初に来たのは消防隊で,救急車に乗り,病院で指の傷を縫った後,警察に行った。翌日まで寝かされた。同日午後,点滴を受け,ほっとして周りが見えて,喋れるようになった。それまで人の顔が同じ顔に見えた。

家を出たのは何となく覚えているが,いつかは覚えていない。包丁を持っていったことは覚えていず,自分を追いつめることがあり,無意識に包丁を持って飛び出した。刺した理由は分からない。自分の衝動と偶然が重なった。Aが自転車に乗っていたのは覚えていない。Aを待ち伏せていない。人を刺したとの実感がなく,反省の気持は出てこない。特に事件前日,当日,翌日の3日間の実感がない。

(3) 公判

Aは,入口2か所の前に車を置いた。私は出入りが出来なくなった。工場は,残業が多くてうるさい。Aや工場の社員が自宅の敷地内に大量のがらくたを山積みにし,Aに侵略されたと思った。Aは傍若無人で誇大妄想の人で,人の敷地に踏み込んでくる人だと思った。私はAに追い出されるか,工場の若い従業員達に拉致されて殺されると思った。Aに文句を言わなかったのは,Aが高級車を乗り回していたので,Aの一家がやくざだと思っていたからだ。この悩みは,無駄だと思ったので,医師やセンターの人には相談しなかった。

事件の1週間前から眠れず,いらいらし,頭の中が騒がしくなった。当日昼ころから,このままではやられてしまう,やられてからではやり返せない,それでもいいのか,お前が出来ないなら俺がやるという幻聴が聞こえ,お前ができないなら俺がやるというのが波状攻撃になった。波状攻撃になったのは初めてだ。それで,我慢ができなくなり,シャッターを開けて飛び出した。やる相手は,Aではなく,私を攻めてくる世の中すべてで,市長や県会議員である。白髪頭の赤いつなぎを来たAを見付け,あっと言うと,Aもあっと言った。何故Aを刺したのかは,分からない。包丁2丁を持ち出したこと,Aを包丁で刺したことなどは覚えていないが,刺す直前までは覚えている。次に覚えているのは,消防隊が来たことと,指から出血していたことだ。

警察官にも検察官にも,当日朝から幻聴があったと言ったが,調書に書いてくれなかった。しかし,警察官も検察官も優しい人だったので,内容が違ったが,優しさに気を許して,後で訂正できると思って署名,指印した。調書の傍若無人,窮鼠猫を噛むという言葉は,私が言った。

(4) I医師との面接

Aが自宅のシャッター前に車を置いたので,私は出入り出来なくなり,また,ドラム缶などのがらくたを自宅の敷地の中に捨てられるなどの嫌がらせをされ,嫌だと思ったが,頭には来なかった。道路の拡幅工事をすると,自宅の車庫の柱2本が切られてしまうが,これは市長,県会議員,地主やゼネコンが組んでやっている侵略と謀略で,私を追い出すための策略だと思った。敵が多すぎて困っていたが,怒ってはいなかった。近所中が敵で,みんなが私を追い出そうとしており,文句を言っても無駄だから,誰にも文句を言わなかった。

当日昼ころから,このままではやられてしまう,やられてからではやり返せないという幻聴が聞こえて,お前が出来ないなら俺がやるが波状攻撃になった。やる相手は,Aかどうか分からない。事件を起こした実感がない。Aを殺そうと思っていない。Aに個人的な怒りはない。病院,センターを含め,自分に対して何の救いもない世の中に対して怒りがあり,頭に来てしようがなかった。何故家を飛び出したのか分からないが,幻聴から飛び出した。その後,左の人指し指から血が出るまでの間のことは覚えていない。Aを刺したのは,向こうからAが来たからだ。Aが来たのは分かったが,包丁を持っていたこと,刺したこと,どうやって刺したか,逮捕されたことは覚えていない。警察官にやめろと怒鳴られていない。来たのは救急隊員だと思った。

3  検討

(1) 犯行状況について

(一) 動機

被告人の供述は,前記2でみたとおり,本件犯行の動機について,捜査官に対する供述とB鑑定以降の供述とは大きく食違っている。被告人は,公判で,捜査段階の供述調書について,勝手に作成されたかのようにいうが,公判でAの嫌がらせの点について供述するところは,これらの供述調書の記載と同様であるし,また,取調官が優しく,それに気を許し,後で訂正できると思い,軽い気持で署名指印したなどというに過ぎず,捜査官の作文とは認め難い。

B鑑定は,被告人は幻聴に支配されて本件に及んだものと解しているが,被告人は捜査官に対しては乙3に同旨の記載があるものの,その後の調書においては,幻聴があることは供述していない(精神鑑定後の司法警察職員に対する供述調書においても同様である。)のであって,典型的な精神分裂病者が幻聴により凶行を犯した場合は,相手方が誰であれ,幻聴内容を真実として供述することと対比すると,明らかに異なる供述といえ,I鑑定が指摘するように,被告人の幻聴は存在するとしても,内因性というよりは心因性の要素が強いものと解される。

そうすると,被告人が捜査官に供述するように,Aの言動を自分を追い出すための嫌がらせと受けとめ,同人に不満を募らせていた被告人が,道路拡幅工事も重なり,いよいよ自宅に住めなくなるとの不安を抱き,精神的に追い詰められていたところ,これまでのAの嫌がらせを考えるうちに,同人に対して鬱積していた感情が一気に爆発し,本件に及んだと考えられる。他方,被告人は,本件に至るまでの間,AやAの父と直接的な交渉をもったことはなく,本件前日にAの父が被告人方の枝を切ったことも知らず,Aを見たこともなく,Aらとは没交渉の生活をしていたものであって,本件前も,平成13年6月26日,叔父と共にセンターを訪れ,帰途スーパーでパンを大量に買い込んで帰宅し,その後引き籠もり生活を続け,突如本件に及んだものであって,上記のとおり被告人がAに対する不満を鬱積させていた事情があるとしても,本件の直接的な引き金となる出来事は全く認められないのであって,本件は突拍子のない犯行との観を拭えない。被告人は,捜査官に窮鼠猫を噛むと供述しているが,それだけでは説明のつかない犯行といわざるを得ず,被告人が,元来社会不適応で,内向的,消極的な性格を有していることから,Aに抗議することもできず,一人で思い悩み,Aのことばかり考え続けるうち,いよいよ精神的に追い詰められ,それまでひたすら我慢してきて鬱積した感情を一気に爆発させ,激情的に殺意を生じさせたことを考慮しても,不自然さは残る。

(二) 態様

被告人は,前記1(4)で認定したとおり,白昼,公道上でAに襲いかかり,身体の枢要部に20か所を超える刺切創等の重傷を負わせ,深いものでは,10センチメートルをこえており,間もなく同所でAを失血死させている。このように,被告人は,Aに過剰ともいえる攻撃を加えており,その態様は残忍かつ執拗であって,異常さが窺われる。

(2) 通院歴

前記1(2)のとおり,昭和56年からC病院,センター,E,F病院で治療を受けているが,担当医は,被告人をいずれも精神分裂病とは診断していず,強制入院の必要性も認められなかったため,任意の入院を勧めた医師もいるが,被告人が入院を拒絶したため,通院治療するにとどまっている。このように,被告人は,約20年間の精神科医の治療歴を有するが,いずれの医師も被告人を精神分裂病と診断していなかったとの事実は,注目すべき点といえる。また,被告人には,精神分裂病の遺伝的負因はない。

(3) 本件までの引き籠もり生活

被告人は,前記1(1)のとおり,昭和56年大学中退後,自宅で引き籠もり生活を続けたが,平成8年ころ,持病のある母が被告人との同居に耐えきれず別居し,同11年5月,父も同様別居し,被告人と連絡を絶った状況となった後,自宅で明かりを消して,様子を見に行った父が被告人が在室しているかも知り得ないほど,ひっそりと生活をしており,自宅にはゴミ集積場から拾い集めたおびただしい量の自転車,電化製品,ゴミ等が散乱しており,通常の神経の持ち主では住めないような状況である。他方,被告人は,気の許す人達とは最小限の付き合いをしており,完全に世間と没交渉の生活をしていたものではない。

(4) 犯行直後の昏迷

前記1(5)のとおり,被告人は偶々通り合わせた警察官に現行犯逮捕されているが,その後正気を失い,いわゆる昏迷状態に陥った。被告人は,平成13年6月29日,F病院で心因性の昏迷状態と診断されたが,B鑑定は,精神分裂病特有の昏迷状態と判断し,I鑑定はF病院と同様の診断をしている。しかし,被告人は,犯行現場で昏迷状態に陥った後,同年7月4日までまともな取調べがなされなかったのであるから,単なる心因性のものとしては長期に及んでいるものともいえ,心因性との判断には疑問が残る。

(5) 公判における供述態度

被告人は,当公判廷において,審理中傍聴席をきょろきょろと見回したり,一点を見つめて動かないなど,通常人とは異なる挙動を示している。他方,被告人質問においては,質問に対して的確な応答をしており,自己防衛的意識も強い。また,鑑定人の問診においても,不審な挙動は認められず,I鑑定人も当公判廷における証人尋問中の被告人の挙動について,問診の時とは異なる態度で非常に驚いていると評するものの,被告人には詐病の疑いはないと明言している。そうすると,被告人の当公判廷における挙動は,自己防衛的な意識からそのように振る舞っているものと解するのが相当である。

(6) 心理検査の結果

B鑑定における心理検査では,知能は,言語性は普通域,動作性は境界域と差が大きく,現実的,実際的な処理に劣り,動作の敏活性が低下している,内的な恐怖は強く,その投影が活発なため,外界を客観的に捉えることが困難になっている,人格面では,内向的,非社交的,更に神経質で強迫的な傾向があり,消極的,受動的で現在は意欲も活動性も下がった状態となっている,認知の逸脱,思考障害が疑われ,精神病水準であると推測されるとされている。

I鑑定における心理検査では,知的能力は,平均と知能障害の間の「境界線」に分類される,情緒不安定で消極的かつ内向的,受動的なパーソナリティーの持ち主で,現在抑うつ感情や不安,無力感に苛まれている,了解しがたい独特の偏執的な考えと共に,否定的な意味合いを含んだ推測や疑念が確信に変わるという思考過程を有している,外界への敵意の衝動は抑圧されているに過ぎず,統制力も十分とはいえないため,時に強い情緒的反応を直接的に行動に表す傾向があるものと思われる,強迫行為や幻聴といった自らの病的体験を客観的に受け止めている可能性がある一方で,訂正不能な誤った信念,すなわち妄想も同時に抱いている疑いがある,全体として,人格の統合水準は適応不良水準であって,現実吟味力には問題があり,環境への適応は良好とはいえないだろうとされている。

両検査において,矢田部・ギルフォード性格検査の結果,E型,すなわち情緒不安定で,社会的に不適応で,内向的,消極的な性格特徴を有する典型と判断されている。I鑑定においても,知能分類段階では,平均と知能障害の間の境界線に分類されることに注目すべきである。

(7) 鑑定書の検討

B鑑定は,犯行時,Aに対する被害妄想,その妄想に合致した幻聴などの病的体験を有しており,本件犯行の犯行動機及び犯意の発生はこの病的体験より生じ,この病的体験に基づき本犯行はなされたもので,精神分裂病(破瓜型)に罹患し,被害妄想,幻聴,思考障害,意欲低下,感情鈍麻,自閉などの症状を有し,幻覚妄想状態であった上に,緊張病症状を呈していたとし,精神分裂病で心神喪失状態であると鑑定する。

I鑑定は,被告人の本件犯行当時の精神状態は,重症の分裂病型人格障害であり,幻聴は存在したとしても統合失調症に典型的なものでなく,統合失調症のその他の診断基準に合致する症状を有さず,自己の行為を理非善悪の基準に従って正しく判断し,その判断に従って自己の行為を制御する能力に少なからぬ障害があったとは思料できるものの,著しい障害があったとは考えられないとし,重症の分裂病型人格障害で心神耗弱にもあたらないと鑑定している。

まず,B鑑定についてみるに,前記(1)で検討したように,被告人の幻聴は典型的なものとはいえない。次に,犯行直後の昏迷も病的なものとはいえても,B鑑定のいうほど重篤なものとは認め難い。更に,妄想の点については,被告人が自分を追い出そうとする陰謀だと考えた基礎となった事情のうち,Aの嫌がらせの点は客観的事実であり,Aは被告人方敷地の取得を強く望んでおり,地主の回答からAを中心に地主も一緒になって被告人の追出しを図ろうとしていると考えたとしても,特に突飛なこととはいえず,道路の拡幅改良事業を追出し工作に関係があると考えたとしても,必ずしも了解不能とまではいえない。結局,被告人の妄想とする点は,概ね事実の基礎を有していると解され,本来の妄想とはやや趣を異にしているように思われる。B鑑定は,被告人はAに拉致されて殺されるといった拡がりのある妄想を抱いていたとするが,被告人は捜査官にはそのような供述を一切しておらず,同医師の前だけでそのような供述をしたものであって,不自然というほかはなく,この点に関する被告人の供述自体が信用できない。また,(2)でみたように,他の精神科医は,いずれも被告人を精神分裂病と診断していない。これらの点からすると,B鑑定には左袒し難い。

次に,I鑑定についてみるに,(1)でみたように,本件犯行に異常な面のあることを否定できない。また,(2)(3)でみたように,本件に至るまでの被告人の生活歴は,通常人とは明らかに異なっており,いわゆる引き籠もりの中でも度を超しており,異常性が窺える。(4)でみたように,犯行直後の昏迷も単なる心因性のものとするには問題が残る。I鑑定は,これらの点を十分に吟味したものとはいえず,全面的には信用し難い。

(8) 結論

以上検討したところを総合考慮すると,被告人は,本件各犯行当時精神分裂病に罹患していたものとは認め難いが,単なる分裂病型人格障害にとどまるものともいえず,両者の中間領域の状態にあったものと解するのが相当である。そうすると,被告人は,そのような精神状態のもと,是非弁別能力及び統御能力を著しく欠いていた疑いを払拭できない。

(法令の適用) 略

(量刑の理由)

本件は,被告人が,自宅の隣で自動車修理,整備業を営むAを,包丁2丁で突き刺すなどして殺害し(判示第1の事実),その際包丁を携帯した(判示第2の事実)という事案である。

被告人は,上記の経緯でA殺害を決意するに至ったものであるが,その動機に酌むべき点はない。確かに,Aは,被告人の立ち退きを強く望み,被告人の自宅敷地内に自動車部品などのゴミを投棄し,被告人方の表通り側の車庫シャッター前に頻繁に車を駐車させるなどの嫌がらせ行為に及んでおり,社会人としては非常識な言動といわざるをえず,現に近所では顰蹙を買っていたものではあるが,これらの点があるからといって,本件犯行を甘受すべきものとはいえない。被告人は,両手に滑止め付きの軍手をはめ,刃体の長さが20センチメートル以上ある刺身包丁2丁を携え,白昼,通行人のいる公道上で,自転車に乗って通行中のAにいきなり襲いかかり,逃げるAを追いかけ,両包丁でその頸部や胸腹部を中心に,顔面,上肢,下肢に合計数十か所の刺切創を負わせる,いわば滅多刺しともいうべき執拗かつ強力な攻撃を加えたもので,警察官が制圧したため漸く攻撃を止めたに過ぎず,正に凄惨な犯行である。Aは,当時48歳の働き盛りで,事業を拡大しようと意欲的に仕事に打ち込んでいたのに,突然の凶行により志半ばにして落命したその無念さは,察するに余りある。Aの妻は,反応性鬱病に罹患するなど,遺族に深刻な打撃を与えており,その悲しみは深く,処罰感情は大変に厳しい。また本件凶行を目撃した通行人はもとより,地域社会にも大きな恐怖をもたらしており,その社会的影響も大きい。本件は,被告人の性格に根差したものであって,被告人の社会的危険性は高い。

以上によれば,被告人の刑責は重い。

他方,被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあり,その刑事責任能力は限定されていること,前科前歴がないことなど,被告人にとって酌むべき事情もある。

よって,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 金山薫 裁判官 山口裕之 裁判官 嘉屋園江)

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