さいたま地方裁判所 平成13年(わ)2349号 判決 2002年8月20日
主文
被告人を懲役8年に処する。
未決勾留日数中160日をその刑に算入する。
押収してある牛刀1丁を没収する。
理由
(犯行に至る経緯)
被告人は,中華人民共和国a省で出生し,中学校(日本の高等学校)を卒業後,土木作業員などのアルバイトをしていたが,父親や友人から勧められて,本邦で日本語の勉強をして日本で仕事に就こうと決意し,就学資格を取得して平成12年6月8日来日し,埼玉県b市にあるc学園で日本語の勉強をする傍ら,夜間はアルバイトをする生活を送っていた。一方,被害者も,被告人と同じ中華人民共和国a省の出身で,同年5月29日就学資格を得て来日し,c学園で日本語を学ぶ傍ら,アルバイトをして生活していた。
c学園には被告人や被害者のほかにも多数の中国人就学生が在学していたが,就学生らは,アパートの家賃の負担を少しでも軽減するために,数名でアパートを借りて共同生活をするのが例になっており,被告人も,数回転居した後,b市内にあるアパートdで,中国人就学生のAらとともに生活し,被害者も,同市内のアパートeで,中国人就学生B及びCとともに生活をしていた。
被告人と被害者は,同郷の出身で,同じころに来日してc学園でも同じクラスになったことから知り合いとなり,一時期同じアパートで共同生活したことがあったが,性格的に合わないことなどから特に親しい付き合いをしていなかったところ,平成13年7月17日,c学園で行われた日本語の試験の最中に,被害者が被告人に教科書を貸してほしいと言って,カンニングの手助けをしてくれるよう頼んだのに対し,被告人がこれを断ったことから,被害者が被告人に暴言を吐くなどして殴り合いのけんかとなり,駆け付けた教師らの仲裁によってその場はいったん収まったものの,被告人は,被害者の理不尽な要求を断ったのに,同人から殴られるなどしたことから同人に対して憤まんの念を抱き,同居していた同級生に対して「あした行ったら,もう1回やっつける」などと口走ったりしていた。しかし,被告人は,来日したのは日本で勉強するためであると思い直し,被害者とのけんかを水に流そうと考えて,その後,被害者に対して仲直りすることを申し入れたものの,被害者に拒絶され,更にその後,被告人の携帯電話に被害者から挑発するような電子メールが送られてきたことから,被害者が先のけんかを根に持っていることが分かったが,自分の気持ちを抑えて,被害者とトラブルを起こすまいと考えていた。
被害者との間でこうしたトラブルがあった後の同年11月27日,被告人は,c学園で授業を受けて帰宅し,同居していたAとともに,翌日被告人の住むアパートに引っ越してくる就学生Dの荷物を運び入れるなどし,同人らと夕食をともにした後,午後11時過ぎに,Aがアルバイトに出掛け,Dもいったん帰宅したことから,翌月に迫った日本語の能力検定試験の受験勉強をし,翌28日午前1時30分ころ,床に就いた。
一方,被害者は,同月27日午後9時30分ころから,同居していた就学生らと飲酒し,その後,他の就学生2名を電話で誘って,翌28日午前零時30分ころから,東武東上線b駅近くの居酒屋で飲酒を重ねていたが,被害者は,後輩の就学生であるEや被告人をかねてから嫌っていたことを話題にし,酒の勢いから,「Eを殴りに行こう」などと言って,一緒に飲酒していた就学生に持ち掛けるとともに,Eの次には被告人を殴りたいなどと言い出し,これに同調した就学生2名とともに同日午前2時30分ころ,同店を出て,E方に向かった。そして,被害者らは,E方で同人を殴るなどし,さらに,同人をタクシーに乗せて付近の公園に移動してそこでも同人に暴行を振るうなどしてけがを負わせ,その後,同人を連れて被害者の居住するアパートに向かったが,途中で,被害者は「別のところに行くから」「もう一人いるから」などと一緒にいた就学生に告げて,一人で被告人の居住するアパートに向かった。
同日午前4時過ぎころ,被告人方アパートに着いた被害者は,施錠されていないドアから居室内に入り,台所から牛刀を持ち出すと就寝していた被告人を起こし,右手に持った牛刀を被告人に突き付けながら,「お前は俺をばかにしているのか」などと言って,抵抗できないでいる被告人の顔面を左手で数回殴打した上,被告人に外に出るように命じ,包丁を突き付けながら,被告人に着替えをさせ,「今日はお前を殺さないではおかないぞ」などと言い,被告人をアパート前の路上に連れ出し,被告人に牛刀を突き付けて,「土下座をしろ」などと申し向けた。一方,被告人は,尊敬できる相手でもない被害者から「土下座しろ」などと侮辱的な言葉を吐かれたため,大いに屈辱を感ずるとともに,被害者がカンニングをしようとしたことが原因で同人とけんかになって同人から殴られたことや,その後も同人が被告人を挑発してけんかを仕掛けようとしてきたこと,その上,就寝中にアパートに押し掛けられ,牛刀を突き付けられて殴られるなどしたことから,同人に対する憤怒の念を募らせ,反撃の機会をうかがっていたが,被害者が近付いて来た機に乗じ,牛刀を持っている被害者の右手首を両手でつかんでねじり上げ,牛刀をたたき落とすと,被害者と素手で殴り合いをし,被害者の股間を蹴り上げ,その顔面を殴打したところ,被害者は地面に倒れた。その後も,被告人は,横たわった被害者の顔面や腹部を何度も蹴り付けたり,踏み付けたりし,動かなくなった被害者に対し「早くここから消えろ」と言って怒鳴りつけた。ところが,これに対し,被害者は「あとで学校でみてろ」などと,学校で仕返しをするかのような捨てぜりふを吐くとともに,腰を浮かして右手を伸ばし,被告人からたたき落とされた牛刀を拾おうとしたので,こうした被害者の言動に被告人は激高し,とっさに被害者に対する殺意を抱き,先に牛刀を拾い上げると,身体を丸めて,両手を首の前にして攻撃を避けようとして横たわっている被害者に立ち向かっていった。
(罪となるべき事実)
被告人は,以上のような経緯で被害者(当時23歳)を殺害しようと決意し,平成13年11月28日午前4時30分ころ,埼玉県b市(番地略)アパートd先路上において,同人に対し,所携の刃体の長さ約20.3センチメートルの牛刀で同人の左側頸部等を数回突き刺し,よって,そのころ,同所において,同人を左側頸部刺創に基づく左総頸動脈切断により失血死させて殺害したものである。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法199条に該当するところ,所定刑中有期懲役刑を選択し,その所定刑期の範囲内で被告人を懲役8年に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中160日をその刑に算入し,押収してある牛刀1丁は,判示殺人の用に供したもので被告人以外の者に属しないから,同法19条1項2号,2項本文を適用してこれを没収し,訴訟費用は,刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
なお,弁護人は,情状として,被告人が被害者を攻撃した際には,過剰防衛的な状況にあったと主張するので,若干付言する。
被告人が,被害者に連れ出されたアパートの前の路上で,被害者を攻撃するに至るまでの経緯及び状況は,先に「犯行に至る経緯」で認定したとおりであるところ,上記の事実によれば,被告人が,アパートの居室で就寝中に,無断で上がり込んできた被害者から起こされて,牛刀を突き付けられ,顔面を殴打された上,外に出るように命じられ,その後,路上で,被告人が,被害者の持っていた牛刀をたたき落として,被害者と殴り合いのけんかをし,被告人が被害者の股間を蹴り上げて,顔面を殴打したため,被害者は路上に倒れ,さらに,倒れた被害者の顔面や腹部を被告人が蹴り付けたり,踏みつけたりしたため,同人は動かなくなっており,この時点で,両者のけんかは終息しているものと認められる。その後,倒れたままの被害者が,落ちている牛刀を取ろうとして手を伸ばそうとしたことが認められるものの,被害者が牛刀を拾い上げる前に被告人が先に牛刀を拾って手にしているのであって,その時点においては,被害者は,被告人に対して抵抗するような行動に出ておらず,新たな加害行為に出るような状況になかったことが明らかである。それにもかかわらず,被告人は,路上に横たわり,身体を丸めて,両手を首の前にして攻撃を避けようとする体勢の被害者に対し,その頸部を目掛けて,牛刀で複数回突き刺すなどの攻撃を加えているのであるから,防衛の意思に基づく行為であるとは到底いえない。そうすると,本件犯行が,正当防衛的状況の下で行われたとは認められないから,これを前提とする所論は採用できない。
(量刑の理由)
本件は,中国人就学生である被告人が,同級生の被害者と殴り合いのけんかをした末,被害者の持ち出した牛刀で,その頸部を突き刺して殺害した事案である。
被告人は,同級生である被害者から,かつて試験の際にカンニングを依頼されたのを断ったことから,殴打され,同人とけんかをするなどしたことがあり,同人に対して芳しくない感情を抱いていたところ,未明に,アパートの居室内に勝手に入って来た被害者から起こされて,牛刀を突き付けられて殴打されるなどした上,路上に連れ出され,「土下座をしろ」などと侮辱的な言葉を吐かれたため,大いに屈辱感を覚えるとともに,同人に対する憤怒の念を募らせ,被害者が手にしていた牛刀をたたき落として同人と殴り合いとなるや,倒れた被害者を蹴り付けたり,踏み付けるなどした後,被害者に先んじて牛刀を拾い上げ,抵抗する様子もなく身体を丸めて攻撃を避けようとしている被害者に対し,殺意をもって,その頸部を多数回にわたって突き刺しており,犯行の経緯には酌量すべき余地がないではないが,被告人は,牛刀を手にするや,激情の赴くまま,抵抗する気配のない被害者の頸部をねらって執ように突き刺すなどして被害者を殺害しているのであって,犯行は短絡的で,冷酷,かつ,残忍である。しかも,被告人は,被害者を殺害した後,犯行の発覚を遅らせるために,被害者の遺体を付近の駐車場の自動車の下にまで引きずって隠した上,友人のところまで逃走しており,犯行後の情状も良くない。勉学のために訪れた異境の地で,わずか23歳でその一生を閉じた被害者の無念の情は察するに余りある。借金をしてまで被害者に留学を勧めた父親や母親ら,被害者を失った両親の悲嘆は大きく,被告人に対して極めて厳しい処罰感情を抱いている。ところが,被告人から,遺族らに対していまだ慰謝の措置等は何もなされていない。これらの点からすると,被告人の刑事責任を軽くみることはできない。
そうすると,被害者にも,本件犯行を招いたことについて相当程度の落ち度があること,被告人が,事実を認め,遺族に対して謝罪の言葉を述べて反省,悔悟の態度を示していること,いまだ22歳の若年であり,日本語学校では優秀な成績を修めるなど勉学に励んでいたこと,学校関係者から嘆願書が提出されていること,前科がないことなど,被告人のためにしん斟すべき事情を十分に考慮してみても,主文掲記の科刑は免れない。
(求刑 懲役12年,押収してある牛刀の没収)
(裁判長裁判官 川上拓一 裁判官 森浩史 裁判官 片岡理知)