さいたま地方裁判所 平成15年(ワ)2888号 判決 2006年11月17日
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,2200万円及びこれに対する平成16年1月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
原告は,平成10年3月31日以降,出産のため,被告が開設する川口市立医療センター(以下「被告病院」という。)産婦人科で診療を受けた。原告は,平成10年9月12日,被告病院の医師から子宮内胎児死亡と診断され,経膣分娩の処置を受けた。原告は,同月14日,全身状態が悪化し,帝王切開手術で死亡胎児を娩出したが,出血が止まらず,さらに子宮摘出手術を受けた。
本件は,原告が,被告に対し,被告病院の医師が糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスの検査・治療を行わなかったため,上記の胎児死亡及び子宮摘出に至ったなどと主張して,診療契約の債務不履行に基づき,損害賠償として2200万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成16年1月23日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
本判決で用いる主な医学用語は,別紙医学用語一覧表のとおりである。
1 前提事実(証拠を掲記しない事実は当事者間に争いがない。)
(1) 当事者等
ア 原告(昭和○年○月○日生まれ)は,平成6年12月4日,A(昭和○年○月○日生まれ,以下「A」という。)と婚姻した。原告は,平成10年3月28日に自宅近くの寿康会病院で診察を受けて妊娠が判明し,その後の被告病院の健診により出産予定日は同年11月21日となっていた。原告に出産の経験はなかった。
イ 被告は,被告病院を開設する地方自治体である。被告病院は,内科,外科,小児科,産婦人科,眼科,救急外来など多数の診療科目を有する埼玉県南部地域の基幹病院である。(甲1,22,弁論の全趣旨)
(2) 原告は,被告病院の産婦人科で出産することとし,平成10年3月31日(以下,平成10年の年月日については「平成10年」を省略し月日のみを記載する。),被告病院の産婦人科を受診し,被告との間の診療契約が成立した。原告の担当医は,被告病院に勤務するB医師(以下「B医師」という。)となった。
原告の診療には,B医師のほか,いずれも被告病院の勤務医である,産婦人科のC医師(以下「C医師」という。),D医師(以下「D医師」という。),E医師(以下「E医師」という。),内科のF医師(以下「F医師」という。),G医師などが関与した。
(3) 原告の診療経過は,次のとおり要約するほか,別紙診療経過一覧表の「診療経過」欄及び「検査・処置・データ」欄記載のとおりである(ただし,網掛けした部分は当事者間に争いがある。)。
ア 3月31日,原告は,被告病院産婦人科を受診し,B医師の診察を受けたが,妊娠の有無ははっきりしなかった。
イ 4月7日,原告は,B医師の診察を受け,妊娠が確認された。
ウ 4月7日から8月25日までの間に8回,原告は,被告病院産婦人科で,B医師の妊婦健診を受けた。出産予定日は,4月28日の診察の際に11月21日と分かった。この間の診療において,胎児が骨盤位(いわゆる逆子)であることが判明したが,そのほか特段の異常はなく,6月16日,7月7日,7月28日,8月25日の各尿糖検査も陰性であった。胎児の骨盤位は,投薬で正常になった。
(甲1の28頁から34頁,甲16,乙11)
エ 9月10日(木曜日),原告は,体重が2.5kgから3kg減少したこと,食欲不振を訴えて被告病院の産婦人科を受診した。B医師は,原告を診察したが,異状を認めず,内科を受診するよう指示した。
原告は,内科のF医師の診察を受けた。F医師も,特段の異状を認めず,経過観察とし,再度,産婦人科を受診するよう指示した。
B医師は,原告に対し,脱水と栄養状態の改善のため点滴をし,翌9月11日にも点滴を受けにくるよう指示した。
(甲1の6頁及び35頁,甲16,乙11)
オ 9月11日(金曜日),原告は,被告病院の産婦人科を受診し,点滴を受けた。B医師は,産婦人科の休診日である9月12日及び13日にも,救急外来で点滴を受けるように指示した。
(甲1の35頁,甲16,乙11)
カ 9月12日(土曜日)午後2時ころ,原告は,被告病院の救急外来を受診し,点滴を受けた。
同日午後5時ころ,原告は,腹部緊満感を訴えて,産婦人科のE医師の診察を受けた。E医師は,超音波検査で胎児の心拍音が消失しているのを確認した。E医師は,B医師に連絡をとった。
同日午後6時30分ころ,B医師は,原告を診察して,子宮内胎児死亡と診断した。B医師は,原告に対し,経膣分娩により死亡胎児を娩出させること,その処置のために約10日間の入院が必要であることを説明し,入院の同意を得た。同日午後7時ころ,原告は,被告病院産婦人科に入院した。
(甲1の38頁,甲2の1頁,3頁及び175頁,甲16)
キ 9月13日(日曜日),産婦人科のC医師が子宮口を開大させる処置をした。原告は,この日,看護師に対して,度々倦怠感,嘔気や腹痛を訴えた。
(甲2の33頁,183頁及び218頁)
ク 9月14日(月曜日)午前9時45分ころ,D医師が,さらに子宮口を開大させるための器具を挿入し,分娩を誘発するためにアトニン-O5単位を点滴した。
同日午後1時ころ,原告の呼吸数が1分間当たり30ないし40回と多くなり,血尿もあったことから,内科のG医師に診察を求めることになった。
同日午後1時30分ころ,内科のG医師が原告を診察し,その指示で胸部レントゲン検査,心電図検査,血液ガス検査が行われた。
同日午後4時ころ,上記各検査の結果が判明した。G医師は,これらの検査結果を踏まえて,原告の多呼吸の原因は代謝性アシドーシス(体液が酸性に傾く状態)で,播種性血管内凝固症候群(以下「DIC」という。)も生じており,産科的に緊急の処置を要する状態になっていると診断した。
(甲2の15頁,29頁,33頁,169頁及び220頁)
ケ 9月14日午後4時過ぎころ,B医師は,このまま経膣分娩を継続することは危険であり,帝王切開により死亡胎児を娩出させることにし,意識のない原告に代わって夫であるAに対し,このことを説明し,Aからその旨の同意を得た。
同日午後5時5分,B医師は,原告に対する帝王切開手術を開始した。間もなく,死亡胎児が娩出された。B医師は,その後,子宮の縫合及び止血を試みたが,出血傾向は収まらなかった。また,術中に初めて,原告が糖尿病を発症していることが判明し,血糖値を下げる処置がされた。
B医師は,子宮を摘出しなければ原告の予後を悪化させるおそれがあると判断し,A及びAの両親の同意を得て,午後6時55分,原告の子宮のうち約3分の2にあたる体部を除去してこれを摘出した。手術は午後8時に終了した。
(甲2の19頁,31頁,179頁及び181頁,甲6,証人B)
コ 9月15日から10月10日まで,原告は被告病院に入院し,術後の経過観察及び糖尿病に対する治療等が行われた。
(甲2の1頁,3頁,205頁及び207頁,甲3)
(4) 原告の糖尿病は,その後にⅠ型糖尿病(インスリン欠乏型糖尿病)と判明した。原告は,現在,さいたま市立病院において糖尿病の治療を受けている。
(5) 前提となる医学的知見は次のとおりである。
ア 子宮内胎児死亡は,胎児が何らかの原因により死亡する病態をいい,その原因は様々である。子宮内胎児死亡は,DICの原因疾患のひとつである。
イ 糖尿病性ケトアシドーシスは,糖尿病による代謝異常の極限状態をいい,代謝性アシドーシスのひとつである。インスリン作用の絶対的な不足により,血中に弱酸性のケトン体が増加し,体液が酸性に傾く。激しい口渇,多飲,多尿,全身の倦怠感,体重減少,悪心,嘔吐,腹痛等の症状があり,クスマウルの大呼吸(過呼吸)が出現し,呼気はアセトン臭(果実臭)を帯びる。意識混濁,糖尿病性昏睡に陥り,死に至ることもある。
糖尿病性ケトアシドーシスの診断は,ケトン尿,300mg/dl以上の高血糖,血中ケトン体の上昇,pHの低下などによる。
(甲11,17,乙6)
ウ DICは,重症感染症,外傷又は産科的疾患など様々な基礎疾患及び病態(末梢循環不全,アシドーシス,低酸素血症等)により,血管内の血液の凝固性が亢進し,生体が本来持っている抗血栓機能を圧倒して,全身の広い範囲で微小血栓が形成される病態である。DICにより,多臓器不全が生じたり,微小血栓の形成過程で血小板や凝固因子が多量に消費されて出血傾向を呈する。
DICに対する治療は,DICの引き金になっている原因疾患の治療を行うことが基本であり,このほか,薬剤投与による抗凝固療法,濃厚血小板等の投与による補充療法などがある。
(甲10)
2 争点
(1) 被告医師の診療契約上の義務の違反について
ア 9月10日及び11日の時点で糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスの検査・治療をする義務があったか。(争点①)
イ 9月14日午前6時の時点で糖尿病性ケトアシドーシスの治療をする義務があったか。(争点②)
ウ 9月14日の帝王切開手術開始前に糖尿病性ケトアシドーシスの治療をする義務があったか。(争点③)
エ 9月14日午前6時の時点でDIC発症を予見してDICに対する治療をする義務があったか。(争点④)
オ 9月14日午後5時の時点で帝王切開手術以外の子宮内死亡胎児分娩術によりDICに対する治療をする義務があったか。(争点⑤)
(2) 胎児死亡又は子宮喪失との因果関係について
ア 被告病院医師が9月10日及び11日の時点で糖尿病性ケトアシドーシスの治療をしなかったことにより胎児が死亡したか。(争点⑥)
イ 被告病院医師が糖尿病性ケトアシドーシス又はDICの治療をしなかったことにより子宮摘出手術をせざるを得なくなったか。(争点⑦)
(3) 原告の損害について
原告の損害額はいくらか。(争点⑧)
3 当事者の主張
(1) 争点①(9月10日及び11日時点の糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスの検査・治療義務)について
(原告)
ア 原告は遅くとも9月10日までには,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた。これは,原告の下記症状から明らかである。
(ア) 原告は,9月8日,全身の倦怠感,食欲不振を覚えた。原告は,頻繁に水分を欲するようになり,水,麦茶及び清涼飲料水などを度々飲み,多尿の症状もあった。記憶もあいまいで,原告は,この日のことをほとんど覚えていない。原告の上記症状は,9月9日,さらに悪化し,体重も前日に比べて2.5kgから3kg減少した。
(イ) 原告は,9月10日,バスで被告病院に向かったが,全身がだるく,立っているとバランスを崩してしまうような状態であった。
(ウ) 原告の胎児は,9月12日までに死亡した。妊婦の糖尿病性ケトアシドーシスは,母体の血圧低下による子宮胎盤循環の悪化,電解質異常による胎児の低カリウム血症による胎児の心筋抑制などにより胎児死亡に至る可能性があるとされており,本件の症状の経過と整合的である。
(エ) 原告は,9月14日午前6時の採血時に963mg/dlという異常な高血糖を示しており,相当以前から糖尿病であったと推測される。
(オ) まとめ
以上のとおり,原告には,多飲多尿,意識障害,体重減少,全身の倦怠感等糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスの症状が現れており,遅くとも9月10日までには,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた。
イ 糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスは,糖尿病性昏睡の原因となるほか,妊娠中に生じると胎児死亡に至る危険性があるから,このような患者を診察する医師としては,診療契約上,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスに必要な診察検査を実施するとともにインスリン投与などにより血糖値を下げるなどの治療をすべき義務がある。
しかるに,9月10日に原告を診察したB医師及びF医師は,原告の糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスの発症を看過し,適切な治療を行わなかった。
すなわち,B医師は,9月10日,原告が予約なしに被告病院の産婦人科を受診しているのに,原告の体重減少や食欲不振等の主訴を聞いたのみで,口渇や多尿等の症状の有無について何ら質問をせず,翌11日には診察もしなかった。また,F医師は,9月10日,B医師の依頼で原告を診察したが,原告に対し,口渇や多尿等の症状の有無について何ら質問せず,尿検査や血液検査もしなかった。
(被告)
争う。原告は,9月10日当時,糖尿病及び糖尿病性ケトアシドーシスを発症しておらず,これらに対する治療をすべき義務はない。
ア 原告が,9月10日当時,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた事実はない。これは,次の原告の各症状から明らかである。
(ア) 原告は,9月10日の診察の際,食欲不振及び体重減少のほかに異状を訴えておらず,口渇や多尿等の症状の訴えもなかった。
(イ) 診察を行ったB医師及びF医師は,糖尿病を疑わせるような異常所見を認めておらず,糖尿病性ケトアシドーシスの典型症状であるクスマウル大呼吸やアセトン臭を認めていない。
(ウ) 原告の胎児が死亡した原因は,娩出された胎児の臍帯がうっ血していることから,臍帯過捻転であることは明らかであり,胎児の死亡を糖尿病性ケトアシドーシスと結び付けることはできない。なぜなら,仮に原告主張のように原告が糖尿病性ケトアシドーシスに罹患したことにより胎児死亡を招いたとすれば,胎児死亡が先行しているから胎児側からの血流はなく,ひいては上記のうっ血も生じることはない。上記のうっ血が認められることからすると,胎児死亡が先に生じ,その後原告に糖尿病性ケトアシドーシスが生じたというほかない。
(エ) 原告の血糖値は,9月14日午後1時35分ころの小型血糖測定器デキスター(以下「デキスター」という。)による測定によれば169mg/dlであって,糖尿病とはいえない。(糖尿病の場合,随時血糖値が200mg/dlを超える。)
原告が9月14日午前6時の血糖値と主張する値は,同日午後4時45分の採血時の値である。診療録中,同日午前6時の値と記載されている(甲2の109頁)のは,当時設定されていた電算装置のシステム上から生じるずれであり,実際の採血された日時とは異なる。
(オ) 原告のHbA1c(ヘモグロビン・エーワンシー)の値は,9月17日の時点で5.8%であった。HbA1cは,近い過去の平均血糖値を反映しており,通常は過去1か月の平均血糖値の動きを見るために使用されている。日本糖尿病学会の基準によれば,正常値は4.3%から5.8%であり,6.5%以上が糖尿病と診断される。つまり,原告のHbA1cは正常値の範囲内にあり,8月18日ころから9月17日ころまでの平均血糖値は正常であったことを示している。
(カ) 現在の医学的知見によれば,高血糖が極めて短期間に進行する病態として,劇症Ⅰ型糖尿病が知られている。この劇症Ⅰ型糖尿病は,妊娠後期に発生することが多いと報告されており,原告の血糖値が短期間に上昇したこともこの劇症Ⅰ型糖尿病で説明できる。
なお,劇症Ⅰ型糖尿病は,平成12年に大阪医科大学の今川彰久教授により世界で初めて報告された病態であり,平成10年当時は一般に知られていなかった。
(キ) まとめ
以上のとおり,原告は,9月10日当時,糖尿病を発症しておらず,糖尿病性ケトアシドーシスを発症していなかった。原告の糖尿病は,9月14日午後1時35分以降に急速に発症した劇症Ⅰ型糖尿病である。
イ 原告が9月10日当時,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスを発症していない以上,B医師又はF医師において,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスに対する検査・治療をする義務はない。
(2) 争点②(9月14日午前6時の糖尿病性ケトアシドーシスの治療義務)について
(原告)
原告は,9月14日午前6時までに,糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた。すなわち,原告は,9月12日に入院した後,倦怠感や嘔気を訴え,嘔吐するなどし,意識障害も現れており,9月14日午前6時の血液検査によれば,原告の血糖値は963mg/dlであったから,糖尿病性ケトアシドーシスを発症していたことは明らかである。
したがって,前記(争点①・原告の主張イ)のとおり,被告病院の医師としては,9月14日午前6時の時点で,インスリン投与などにより原告の血糖値を下げるなどの治療をすべき義務がある。
(被告)
争う。前記(争点①・被告の主張ア)のとおり,原告が糖尿病を発症したのは9月14日午後1時35分以降であり,同日午前6時の段階では糖尿病を発症していおらず,糖尿病性ケトアシドーシスも発症していなかった。したがって,被告病院医師において,9月14日午前6時の時点で,糖尿病性ケトアシドーシスに対する治療を行う義務はない。
(3) 争点③(9月14日の帝王切開手術開始前の糖尿病性ケトアシドーシスの治療義務)について
(原告)
原告は,遅くとも9月14日午後4時45分の時点で糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた。
糖尿病性ケトアシドーシスは,DICを促進することがあり,帝王切開手術を開始すれば止血が困難になることが予想されるから,被告医師としては,手術を開始する前に糖尿病性ケトアシドーシスに対する治療を行うべき義務があった。
(被告)
争う。原告は9月14日午後4時45分ころまでに糖尿病を発症していたが,糖尿病性ケトアシドーシスは発症していない。原告のアシドーシスは,胎児死亡を原因とする代謝性アシドーシスである。
また,原告は,この時すでにDICを発症しているところ,DICの治療は原因の除去を最優先にすべきであるから,DICの原因と考えられた死亡胎児を早急に娩出させるべく帝王切開手術を行うのが適切な治療であり,帝王切開手術の開始前に代謝性アシドーシスに対する治療を行うべき義務はない。
(4) 争点④(9月14日午前6時の時点でDIC発症を予見してDICに対する治療をする義務)について
(原告)
原告の血液中の血小板数は,9月12日午後5時20分に38.7万/μl,9月13日午前9時47分に29.7万/μl,9月14日午前6時に17.2万/μlであり,減少傾向にあり,被告病院医師としては,DICの発症を予見することができた。しかし,被告病院医師は,これを看過し,DICに対する適切な処置を行わなかった。
(被告)
争う。DICの診断基準では,血小板数が12万/μlを下回る場合にDICと認められるが,原告の血小板数はいずれもDICの診断基準を満たしていない。また,その他フィブリノーゲン量の減少,プロトロンビン時間の延長等もみられない。
このような状況において,DICの発症を予見することは不可能である。なお,9月14日午前6時の血液検査の結果が判明したのは同日午前10時から午後0時ころであり,この点からしても同日午前6時の時点でDICの発症を予見することは不可能である。
(5) 争点⑤(9月14日午後5時の時点で帝王切開手術以外の子宮内死亡胎児分娩術によりDICに対する治療をする義務)について
(原告)
9月14日午後5時の時点で,原告に対し帝王切開手術を行う必要性及び緊急性はなく,帝王切開手術はDICを促進させるおそれがあるから,被告病院の医師としては,帝王切開手術以外の子宮内死亡胎児分娩術によりDICに対する治療を行うべきであった。
(被告)
争う。DICの治療は原因の除去を最優先にすべきであるから,DICの原因と考えられた死亡胎児を早急に娩出させるべく帝王切開手術を行ったことは正当であり,帝王切開手術以外の子宮内死亡胎児分娩術によりDICに対する治療を行う義務はない。
(6) 争点⑥(胎児死亡との因果関係)について
(原告)
原告は,9月10日までに糖尿病性ケトアシドーシスを発症しており,これにより,9月12日,原告の胎児は死亡した。被告病院の医師がインスリン投与等,適切な処置をしていれば,胎児の死亡は回避することができた。
(被告)
争う。原告の胎児の死亡原因は,臍帯過捻転であり,糖尿病性ケトアシドーシスによるものではない。
(7) 争点⑦(子宮喪失との因果関係)について
(原告)
帝王切開手術中に出血傾向が収まらなくなった原因は,帝王切開手術前に発症していたDICの悪化であるところ,本件においてDICが発症・悪化した機序は次のとおりである。すなわち,子宮内で胎児が死亡したことにより発症したDICが,既に発症していた糖尿病性ケトアシドーシス及び帝王切開手術により悪化した。
すると,9月14日午後5時の帝王切開手術前に,糖尿病性ケトアシドーシスに対する治療が行われるか,DICに対する帝王切開手術以外の適切な治療が行われていれば,DICが悪化することはなく,子宮摘出手術を回避することができた。
よって,上記各診療義務の違反と子宮摘出手術との間には相当因果関係がある。
(被告)
争う。子宮内で胎児が死亡したことにより発症したDICが,そのころ急速に発症した劇症Ⅰ型糖尿病と相まって悪化し,子宮摘出手術をせざるを得なくなったと考えられる。
(8) 争点⑧(原告の損害額)について
(原告)
ア 胎児死亡の慰謝料 1000万円
胎児を突然失ったことによる精神的苦痛を慰謝するのに相当な金額は5000万円であり,そのうち1000万円を請求する。
イ 子宮喪失の慰謝料 1000万円
子宮を喪失して子供を産めなくなったことによる精神的苦痛を慰謝するのに相当な金額は5000万円であり,そのうち1000万円を請求する。
ウ 弁護士費用 200万円
弁護士費用のうち,上記請求額の1割である200万円は,原告の債務不履行と相当因果関係のある損害である。
エ 合計 2200万円
(被告)
争う。
第3争点に対する判断
1 前記前提事実及び当該認定箇所に掲記する証拠によれば次の事実が認められる。
(1) 被告病院等について
ア 被告病院は,内科,外科,小児科,産婦人科,眼科,救急外来など多数の診療科目を有する埼玉県南部地域の基幹病院である。被告病院の産婦人科では,平成9年の統計によれば,年間979名(1か月平均約82名)が出産している。被告病院の産婦人科は,周産期センター及び新生児集中治療科を併設しており,産院等で対応困難な母体や新生児の受入れを行っている。
(前記前提事実(1)イ,甲22)
イ B医師(昭和○年○月○日生まれ)は,昭和51年に日本大学大学院医学博士課程を終了後,米国留学,日本大学医学部助手を経て,昭和58年,被告病院(当時の名称は川口市民病院であった。)の産婦人科医長に就任した。平成6年に被告病院産婦人科部長に昇任した後は,平成10年に周産期センター長,平成15年に診療局長,平成18年に副院長をそれぞれ兼務している。
B医師は,日本産婦人科学会評議員を務め,周産期医療等を専門としている。(乙11)
ウ F医師(昭和○年○月○日生まれ)は,昭和59年に日本大学大学院医学博士課程を修了後,日本大学医学部第3内科助手を経て,平成元年,被告病院の内科医長に着任した。平成11年に内科部長(兼健康健診科部長)に昇任した後は,平成13年に総合検診センター長,平成18年には診療局長をそれぞれ兼務している。
F医師は,日本内科学会認定医,日本消化器病学会指導医,日本消化器内視鏡学会指導医及び日本糖尿病学会専門医である。(乙12)
(2) 入院までの診療経過について
ア 原告は,結婚後,Aの家業である書店の手伝いをしていた。原告は,平成10年に糖尿病と診断されるまで,糖尿病との診断を受けたことはなく,健康診断でも異常は指摘されていない。原告の親族にも糖尿病患者はいない。
(甲2の232頁,甲16,弁論の全趣旨)
イ 原告は,3月28日に妊娠を知った後,書店の手伝いをやめて,安静に努めた。原告は,3月31日から8月25日までの間に合計9回,被告病院産婦人科で,B医師の診察を受けた。
この間の診療において,原告の胎児が骨盤位であったことを除いて,特段の異常はなく,6月16日,7月7日,7月28日,8月25日の各尿糖検査も陰性であった。
(前記前提事実(3)アからウ,甲13,甲16)
ウ 原告は,9月5日ころから,食欲がすぐれず牛乳やヨーグルトしか摂取できなかった,9月9日夜,入浴後に体重を計ったところ,前日に比べて2.5kgから3kg程度体重が減少しているのに気付いた。原告は,Aと相談の上,翌9月10日に被告病院で診察を受けることにした。何らかの病的疾患に結び付くような多飲多尿の症状は現れていなかった(この点は後記で補足して説明する。)。
(甲1の12頁,35頁及び209頁,11,12,16,証人A,原告本人)
エ 原告は,9月10日(木曜日),一人でバスで被告病院に行き,産婦人科を受診した。原告は,B医師に対し,食欲がすぐれないこと,体重が2.5kgから3kg減少したことを訴えた。B医師は,原告を診察したが,問診にも普通の受け答えをしており,呼吸数に異常があるとか,呼気にアセトン臭が混じっているなどの糖尿病性ケトアシドーシスをうかがわせるような症状はみられなかった。
B医師は,食欲不振は消化器系の症状で専門外であったので,念のため,原告に内科を受診するよう指示した。原告は,自分で歩いて内科に赴き,F医師の診察を受けた。F医師も,原告につき糖尿病性ケトアシドーシスをうかがわせるような所見を認めず,経過観察とした。
B医師は,再度,原告を診察し,脱水と栄養状態の改善のため,電解質の輸液とビタミン剤の点滴をした。原告が,点滴を行う看護師に対し,体調の不調等を訴えた事実はうかがわれない。B医師は,原告に対し,翌日も点滴を受けにくるよう指示した。原告は,午後5時過ぎ,タクシーで帰宅した。原告は,就寝前に胎動があるのを確認した。
(前記前提事実(3)エ,甲16,乙11,12,証人B,証人F,原告本人)
オ 原告は,9月11日(金曜日),一人で被告病院に行き,産婦人科を受診した。原告は,前日と同様に電解質の輸液とビタミン剤の点滴を受けた。B医師は,原告に対し,9月12日及び13日も被告病院に点滴を受けに来るように,ただし,産婦人科が休診なので午後2時ころ救急外来を受診するようにと指示した。B医師は,原告と会話した際,特段の異状を感じなかった。原告は,帰宅後,就寝前に胎動があるのを確認した。
(前記認定事実(3)オ,甲16,証人B)
カ 原告は,9月12日(土曜日)午前8時30分ころ,胎児が動いていないことに気がついた。後記の診療経過からすると,原告の胎児は,9月11日深夜から9月12日午前8時30分ころまでの間に,臍帯過捻転により死亡したと認められる。
原告は,午後に被告病院に行けば診てもらえると考えて,すぐには被告病院に行かなかった。同日午後1時ころ,Aが仕事を中断して帰宅し,原告を自動車で被告病院まで送った。Aは,原告を被告病院の救急外来の出入口で降ろすと,仕事に戻った。原告は,救急外来の受付で点滴の予約があると申し出た際,赤ちゃんの動きがよくないので,診察もしてほしいと言った。しかし,受付の看護師は,すぐには産婦人科の医師に連絡をとらなかった。原告は,点滴中及び点滴終了時にも再度,赤ちゃんの動きがよくないので診察してほしいと訴えた。同日午後5時ころ,看護師は,産婦人科のE医師を呼んだ。
同日午後5時ころ,E医師が原告を診察したところ,超音波検査で胎児の心拍が停止していることを確認した。E医師は,B医師に連絡した。また,E医師は,午後5時20分ころ,血液検査(血算,生化学及び凝固)を行った。この時,血小板の数値は,38.7万/μlと正常であり,その他の数値にもほぼ異常はなかった。
同日午後6時30分ころ,B医師は,原告を診察して,胎児の死亡を確認した。B医師は,原告に対し,経膣分娩により死亡胎児を娩出させること,その処置のために約10日間の入院が必要であることを説明し,入院の同意を得た。
同日午後7時ころ,原告は,被告病院産婦人科に入院した。
(前記前提事実(3)カ,甲1の38頁,2の83頁,甲16,原告本人)
(3) 入院から帝王切開手術前までの診療経過について
ア 9月13日(日曜日),原告は朝食を全部食べた後,午前9時47分ころにB医師から血液検査(血算及び生化学)を受けた。この時,血小板の数値は29.7万/μlと正常であり,その他の数値にもほぼ異常はなかった。
午前11時ころ,産婦人科のC医師が子宮口を開大させるためにダイラパン1本を子宮頚管に挿入した。同日午後8時ころ,C医師がダイラパンの入替えを行い,ダイラパン4本を子宮頚管に挿入した。
原告は,この日,看護師に対して,度々倦怠感,嘔気や腹痛を訴えていたが,看護師と会話するなどしており,意識障害等をうかがわせる事情はなかった。
(前記前提事実(3)キ,甲2の9頁,33頁,83頁,91頁,95頁,183頁及び218頁,乙11)
イ 9月14日(月曜日),原告は午前6時ころ,C医師の採血で血液検査(血算,生化学及び凝固)を受けた。午前7時ころ,原告は,息切れしたような呼吸をし,顔色が悪く,朝食も摂取できなかった。
同日午前9時45分ころ,D医師が,ダイラパンを抜き,さらに子宮口を開大させるためにオバタメトロを挿入し,分娩を誘発するためにアトニン-O5単位を点滴した。
同日午後1時ころ,原告の呼吸数が1分間当たり30ないし40回と多くなり,血尿もあったことから,内科のG医師を呼んで診察を求めることにした。後の検査結果からすれば,原告は,この時点で代謝性アシドーシスを発症していたと推測される。
同日午後1時30分ころ,G医師が原告を診察したところ,原告はもうろうとしてG医師の質問と答えが合わない状態であった。G医師は,胸部レントゲン検査及び心電図検査をするように看護師等に指示するとともに,午後1時35分ころ,動脈血採血を行い,血液ガス検査を指示した。また,このとき採血した血液を用いて,デキスターで血糖値の測定をしたところ,169mg/dlであった。この169mg/dlという血糖値は,原告に対して点滴等が行われていたことを勘案すると糖尿病を疑わせる数値とはいえない。
同日午後4時ころ,上記各検査の結果が判明した。G医師は,これらの検査結果を踏まえて,原告の多呼吸の原因は代謝性アシドーシスで,DICも生じており,産科的に緊急の処置を要する状態になっていると診断した。
(前記前提事実(3)ク,甲2の15頁,29頁,169頁及び220頁,乙4,5,11,証人B)
ウ 9月14日午後4時過ぎころ,B医師は,原告に出血傾向があり,その原因が子宮内胎児死亡であると考えられるため,このまま経膣分娩を継続することは原告の生命にかかわる危険があると判断し,帝王切開により死亡胎児を娩出させることにし,意識のない原告に代わって夫であるAに対し,このことを説明し,Aからその旨の同意を得た。
(前記前提事実(3)ケ,甲2の31頁及び181頁)
エ 9月14日午後1時35分ころから次に採血が行われた午後4時45分ころまでの間に,原告は,急速に血糖値が上昇し,糖尿病を発症した。原告の糖尿病は,インスリンの欠乏によるものと推測されるが,具体的な医学的機序は確定することができない。もっとも,超急性に糖尿病性ケトアシドーシスを伴って発症する劇症Ⅰ型糖尿病という病態が平成12年ころ報告されており,この劇症Ⅰ型糖尿病は妊娠との関係が指摘されていることのほか,9月17日のHbA1cは5.8%と正常値の範囲内であったことを考慮すると,原告の糖尿病も劇症Ⅰ型糖尿病であったのではないかと考えられる。
(甲2の29頁,31頁,34頁,83頁,109頁及び167頁,乙7,8,証人B,証人F)
(4) 帝王切開手術の経過について
ア 9月14日午後4時45分,D医師により採血が行われ,血液検査(血算,生化学,凝固,FDP,血糖)に回された。上記検査結果は,手術開始後に判明し,血糖値が963mg/dlと非常に高いことが分かった。
(甲2の15頁,19頁,83頁,91頁,95頁及び109頁,証人B)
イ 9月14日午後5時5分,上記血液検査の結果を待たずに,帝王切開手術が開始された。執刀医は,B医師であった。
間もなく,死亡胎児が娩出された。死亡胎児は,女児で1288gであった。胎児の臍帯には,黒くうっ血した部分が見られ,臍帯の起始部で臍帯過捻転を生じたため,臍帯静脈がうっ帯したと判断される状態であった。上記死亡胎児の状態からすると,原告の胎児の死亡原因は,臍帯過捻転であった。
(前記前提事実(3)ケ,甲2の5頁,甲5,乙1から3まで(枝番含む),証人B)
ウ 死亡胎児の娩出後,子宮の収縮が収まらず,B医師は子宮収縮剤を投与するとともに術部を縫合したが,出血傾向は収まらなかった。原告が糖尿病に罹患していることが判明したこともあり,子宮を摘出しなければ母体である原告の全身状態を悪化させ,ひいては生命の危険を招くおそれがある状態に陥った。B医師は,A及びAの両親に対し,子宮収縮が起こっていないこと,糖尿病があることを説明した。
B医師は,さらに子宮を収縮させるよう試みたが,うまく行かず,再度,A及びAの両親に対し,DIC発症に加えて糖尿病もあるため,収縮しないままの子宮をそのままにするのは原告に生命の危険を生じさせるおそれがあり,子宮を切除する必要があると説明し,同人らの同意を得て,午後6時55分,原告の子宮の約3分の2にあたる子宮体部を切除して摘出した(子宮頸部,膣及び卵巣は温存されている。)。手術は午後8時に終了した。手術中の出血量は470gであり,補液量は2150mlであった。
(前記前提事実(3)ケ,甲2の19頁,21頁,31頁,179頁,181頁,222頁及び224頁,甲5,甲6,乙11,証人B)
(5) 帝王切開手術後の経過について
ア 原告は,帝王切開手術後,10月10日まで,原告は被告病院に入院した。原告は,その間,術後の経過観察や糖尿病に対する治療を受けた。9月17日には,糖尿病に関連して血液検査が行われたが,過去1か月間の平均血糖値を示すHbA1cは5.8%と正常値の範囲内であった。
原告は,手術中に子宮摘出手術に踏み切ったことなどから,子宮摘出手術についての説明を受けていなかったが,容態が安定した9月28日午後にB医師から子宮摘出手術についての説明を受けた。
(前記前提事実(3)コ,甲2の167頁及び248頁,甲21)
イ 原告は,輸血後の経過観察及び糖尿病の治療のため,平成11年9月ころまで被告病院で診察を受けた。糖尿病については,平成11年3月ころから浦和市立病院(現在のさいたま市立病院)で治療を受けており,糖尿病の症状は改善する傾向にある。
(前記前提事実(4),甲3の9頁,原告本人)
2 争点①(9月10日及び11日時点の糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスの検査・治療義務)について
(1) 前記認定事実のとおり,原告が糖尿病を発症したのは,9月14日午後1時35分ころから同日午後4時45分ころまでの間であると認められ,したがって,9月10日及び11日の時点で,原告が糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた事実は認められない。
以下,このように認定した理由について補足する。
ア 原告は,前記認定事実のとおり,妊娠するまで糖尿病と診断されたことはないこと,妊娠中の健診において,6月16日,7月7日,7月28日,8月25日の各尿糖検査の結果も全部陰性であったこと,9月17日に採血された血液検査でHbA1cが5.8%と正常であり,少なくとも過去1か月間の平均血糖値が正常値の範囲内にあったと推測されることなどから,8月25日の時点では糖尿病を発症していなかったと認められる。
イ 原告は,9月10日のB医師及びF医師の診察時,食欲がすぐれず,体重が2.5kgから3kg減少していたことが認められるものの,激しい口渇,多飲多尿,全身の倦怠感,悪心,嘔吐及び腹痛等や,糖尿病性ケトアシドーシス特有の症状であるクスマウル大呼吸や呼気のアセトン臭といった症状もなく,糖尿病性ケトアシドーシスを発症していたとは認められない。
原告は,9月初めころから,多飲多尿の症状が現れていたと主張するが,9月10日のB医師の診察及びF医師の診察の際,食欲不振と体重減少の症状を訴えているのに多飲多尿の症状の訴えはされなかったこと,原告は従前から水分を多くとっていたことがうかがわれること(原告本人)からすれば,何らかの病的疾患に結び付くような多飲多尿の症状が現れていたとは認め難い。原告は,9月10日のB医師の診察時までに意識障害が現れていたとも主張するが,9月10日朝まで原告はAと通常の会話をしていたこと,診察時にもB医師及びF医師の問診を受けており,両医師が異状を認めていないことからすれば,意識障害が生じていたとは認め難い。ちなみに,原告に日常的に付き添っていた夫のAは,9月9日から11日まで,いずれも平常どおり午前8時30分に自宅を出て午後6時ないし午後9時ころまで勤務しており,Aにおいても原告の全身状態について格別の異状を感じず,ふだんどおりの生活を送ったことが認められる(証人A,原告本人)。これらの事情は,9月11日の時点で,原告にいまだ意識障害等を始めとする糖尿病性ケトアシドーシスを疑わせるような異常な兆候がみられていなかったことを裏付けるものと言わざるをえない。
ウ 原告の血糖値は,9月14日午後1時35分ころに採血された血液をデキスターで測定したところ,169mg/dlであったこと,この数値は,原告に対する点滴等が行われていたことを勘案すると糖尿病を疑わせる数値とはいえないことが認められ,これらの事実によれば,原告は9月14日午後1時35分ころにおいても糖尿病を発症していたとは認めることができない。
原告は,上記デキスターによる血糖値が不正確で実測値よりも低値を示すことがある旨主張する。しかし,甲第18号証から20号証によれば,デキスター等の簡易血糖測定器は糖尿病患者が血糖コントロールを行うために使用する医療機器であること,不正確な値を示す原因は使用方法の過誤にあることが認められ,本件全証拠によるも,デキスターによる検査を行ったG医師において使用方法を誤ったとの事実はうかがわれないから,被告の主張は前記認定を左右しない。
エ 原告の血糖値は,9月14日午後4時45分ころに963mg/dlと極めて高く,糖尿病を発症していると認められたが,劇症Ⅰ型糖尿病のように超急性に糖尿病を発症することがありうるから,それ以前の時点で糖尿病であったとの判断に結び付くとはいえない。
原告は,上記血液検査が9月14日午前6時に行われた旨主張し,診療録中の血液報告書時系列(甲2の109頁)にもこれに沿う記載がある。しかし,① 診療録中の血液報告書時系列(甲2の83頁)には,同日午前6時の採血が2つ記載されており,前者はC医師の提出,後者はD医師の提出によるとの記載がある。これらの検査結果は大きく異なっており,別の時刻の検査結果であることが明らかである。② 診療録の記載(甲2の15頁)によれば,午後4時45分に採血が行われ,血液検査(CBC,生化学,凝固,FDP,血糖)に回されたことが認められるが,上記血液報告書時系列には該当する記載がない。③ 午後4時45分の採血は,経膣分娩の処置に立ち会っていたB医師,D医師又はE医師のいずれかによってされたと推認できる(甲2の15頁)。④ 電算装置のシステム設計上の問題から採血時間が正しく記録されないことがある(証人B)。⑤ 血糖値が963mg/dlであった検査はD医師提出の血液によるものである。
以上を総合すれば,血糖値963mg/dlとの検査結果は,午後4時45分にD医師により採血された血液によるものと認められ,原告の主張は前記認定を左右するに足りない。
オ 上記各認定事実を総合すると,原告が糖尿病を発症したのは,9月14日午後1時35分ころから同日午後4時45分ころまでの間であると認められ,これを覆すに足りる証拠はない。
(2) そうすると,原告が9月10日及び11日の時点で,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた事実が認められない以上,被告病院の医師において,上記各時点で,糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスに対する検査・治療を行うべき義務があったとはいえない。
3 争点②(9月14日午前6時の糖尿病性ケトアシドーシスの治療義務)について
前記第3・2(1)において説示したとおり,原告が糖尿病を発症したのは,9月14日午後1時35分ころから同日午後4時45分ころまでの間であると認められ,したがって,9月14日午前6時の時点で,原告が糖尿病を前提とする病態である糖尿病性ケトアシドーシスを発症していた事実は認められない。
すると,被告病院医師において,上記時点で,糖尿病性ケトアシドーシスに対する治療を行うべき義務があったとはいえない。
4 争点③(9月14日の帝王切開手術開始前の糖尿病性ケトアシドーシスの治療義務)について
(1) 前記認定事実によれば,9月14日午後4時45分の時点で原告の血糖値が963mg/dlと非常に高かったこと,原告に発症した可能性のある劇症Ⅰ型糖尿病は,糖尿病性ケトアシドーシスを伴って発症する特徴があることが認められ,そのころ,原告が糖尿病性ケトアシドーシスをも発症していた可能性がないとはいえない。
(2) 一方,原告は,同日午後1時ころには,既に代謝性アシドーシスを発症していたこと,同日午後から出血傾向が認められ同日午後4時過ぎころにはDICと診断されたこと,DICの治療には原因となる原因疾患の治療をすべきこと,子宮内胎児死亡は代謝性アシドーシス及びDICの原因疾患となりうることがそれぞれ認められ,これらを総合すると死亡胎児を娩出させるために帝王切開手術をする必要があったと考えられる。
また,9月14日までに原告が糖尿病に罹患していることをうかがわせる事情がなかったこと,同日午後1時35分ころの採血に基づいてされた検査で血糖値が169mg/dlと糖尿病とはいえない値であったこと,平成10年当時,妊娠に伴い劇症Ⅰ型糖尿病が発症することがあるとの医学的知見は知られていなかったことに鑑みると,9月14日午後5時の帝王切開手術の開始時点において原告が糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスを発症していることを疑うべき事情があったとは認め難い。
このような状況において,帝王切開手術の開始を遅らせてでも糖尿病ないし糖尿病性ケトアシドーシスの有無を診断し,これらの疾患が認められればこれらに対する治療を優先して行うべきであったことを認めるに足りる証拠はない。
(3) 以上のとおりであるから,被告病院の医師において,9月14日の帝王切開手術開始前に糖尿病性ケトアシドーシスの治療をすべき義務があったとはいえない。
5 争点④(9月14日午前6時の時点でDIC発症を予見してDICに対する治療をする義務)について
前記認定事実のとおり,原告の血液中の血小板数は,9月12日午後5時20分に38.7万/μl,9月13日午前9時47分に29.7万/μl,9月14日午前6時に17.2万/μlであり,減少傾向にあったことは認められるものの,これらの数値はいずれも正常範囲内であり,本件全証拠によるも,上記の血小板数のみから,DICの予見が可能であったとか,DICに対する治療を行うべきであったことを認めるに足りない。
したがって,被告病院の医師において,9月14日午前6時の時点でDIC発症を予見してDICに対する治療をする義務があったとはいえない。
6 争点⑤(9月14日午後5時の時点で帝王切開手術以外の子宮内死亡胎児分娩術によりDICに対する治療をする義務)について
争点③につき判断したとおり,DICの基礎疾患が子宮内胎児死亡と推測されること,DIC治療の基本は基礎疾患の治療であり,子宮内胎児死亡については死亡胎児を娩出させる処置であることがそれぞれ認められるところ,帝王切開手術以外の子宮内死亡胎児分娩とは経膣分娩を意味するのであれば被告病院においてその努力を尽くしたことは既に認定したとおりであるから,これ以外の方法が何を指すかはさておき,帝王切開手術の開始を遅らせて,この方法によるDICに対する治療を行うべきであったことを認めるに足りない。
したがって,被告病院の医師において,9月14日午後5時の時点で帝王切開手術以外の子宮内死亡胎児分娩によりDICに対する治療をする義務があったとはいえない。
第4結語
以上のとおり,被告病院の医師が診療契約上の義務に反した事実は認められないから,その余の点(争点⑥から⑧まで)につき,判断するまでもなく,原告の請求は理由がない。よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 小島浩 裁判官 岩坪朗彦 裁判官 小野寺健太)
別紙医学用語一覧表
子宮内胎児死亡
胎児が何らかの原因により死亡する病態をいい,その原因は様々である。子宮内胎児死亡は,DICの原因疾患のひとつである。
糖尿病
インスリンの作用不足により,血液中の糖,アミノ酸及び脂肪の消費が減少することにより,腎症,網膜症,単神経障害等をきたす病態をいう。糖尿病には,インスリンの欠乏を原因とするⅠ型糖尿病と,肥満等を原因とするⅡ型糖尿病がある。
糖尿病性ケトアシドーシス
糖尿病による代謝異常の極限状態をいい,代謝性アシドーシスのひとつである。インスリン作用の絶対的な不足により,血中に弱酸性のケトン体が増加し,体液が酸性に傾く。激しい口渇,多飲,多尿,全身の倦怠感,体重減少,悪心,嘔吐,腹痛等の症状があり,クスマウルの大呼吸(過呼吸)が出現し,呼気はアセトン臭(果実臭)を帯びる。意識混濁,糖尿病性昏睡に陥り,死に至ることもある。
糖尿病性ケトアシドーシスの診断は,ケトン尿,300mg/dl以上の高血糖,血中ケトン体の上昇,pHの低下などによる。
代謝性アシドーシス
代謝性の異常により,血液等の体液が酸性化する病態をいう。
播種性血管内凝固症候群(DIC)
重症感染症,外傷又は産科的疾患など様々な基礎疾患及び病態(末梢循環不全,アシドーシス,低酸素血症)により,血管内の血液の凝固性が亢進し,生体が本来持っている抗血栓機能を圧倒して,全身の広い範囲で微小血栓が形成される病態である。DICにより,多臓器不全が生じたり,微小血栓の形成過程で血小板や凝固因子が多量に消費されて出血傾向を呈する。
DICに対する治療は,DICの引き金になっている原因疾患の治療を行うことが基本であり,このほか,薬剤投与による抗凝固療法,濃厚血小板等の投与による補充療法などがある。