さいたま地方裁判所 平成16年(わ)1590号 判決 2005年5月13日
主文
被告人は無罪。
理由
1 本件公訴事実
本件公訴事実は,「被告人は,平成14年12月23日午後6時ころ,埼玉県上尾市ab丁目c番d号所在の居酒屋「I」店内において,A(当時63歳)に対し,その左胸部に肘打ちをするなどの暴行を加え,よって,同女に加療約3週間を要する左肋骨不全骨折等の傷害を負わせたものである。」というのである。
2 検察官の主張
証人A,同B,同Cの各証言によれば,被告人が,①前記居酒屋「I」(以下,単に「I」といい,その建物の1階店舗部分を「本件建物」という。)の出入口付近でAの胸のあたりを押す暴行を加え,これによってAが引き戸の縁に腰をぶつけ,②「I」のトイレ前でAの左肋骨あたりに1回肘打ちをする暴行を加え,③「I」のカウンター内でAの胴体部分に1回肘打ちをする暴行を加え,これによってAが流し台の方へよろめき,腰の部分を流し台のあたりにぶつけた事実,②の肘打ちか③の肘打ちによってAが左肋骨のあたりを痛めた事実が認められるし,証人D(以下「D医師」という。)の証言及びAの外来カルテ(以下「本件カルテ」という。)によれば,Aは,加療約3週間を要する左肋骨不全骨折,腰部打撲及び骨盤打撲の傷害結果を負ったことが認められ,また,前記各暴行行為とこれらの傷害結果との間の因果関係も認められると主張する。
3 被告人及び弁護人の主張
一方,被告人は,Aに対して暴行を加えたことは一切ないと主張し,弁護人もA,B,Cの各証言はいずれも信用することができないとして暴行行為の存在を争うとともに,被告人の公判供述,証人E,同Fの証言によれば,Aが「I」店内において体を痛そうにしていたそぶりを一切見せていなかったこと,証人A及び同Bの証言によれば,「I」での荷物運び出し作業中,Aは誰にも体の痛みを訴えるようなこともなかったことが認められる上,D医師の証言,本件カルテ及びAのレントゲンフィルム(以下「本件レントゲン写真」という。)によっても,骨折線や皮下出血・腫脹等の他覚的所見がなく,もっぱらAの主観的な愁訴に基づく診断がなされたにとどまるから,Aの傷害結果の存在自体も疑わしいと主張する。
4 本件当日の事実経過について
証拠(略)によれば,まず,以下の事実を認めることができる(以下「本件事実経過」という。)。
(1) Aは,かつて,本件建物において居酒屋「J」を経営しており,被告人はその店員として稼働していた。Aは,一時期被告人に店を任せていたところ,平成14年3月ころ,大家の亡Gから無断転貸だと言われて本件建物の賃貸借契約を解除されてしまった。
(2) その後,被告人が,Gとの間で本件建物の賃貸借契約を締結し,店名を「I」に変えて店を経営するようになったが,店内の冷蔵庫や食器等の多く(以下「冷蔵庫等」という。)はAの所有物であった。一方,Aはその後,卵売りをして生計を立てるようになった。
(3) Aは,知人のB,C,Hという3人の男性とともに,冷蔵庫等を運び出しに行くことにして,平成14年12月23日午後6時ころ,自らが運転する自動車で「I」に赴いた。なお,その後,同じくAを手伝うために,Kという男性が,冷蔵庫等を運搬するために軽トラックを運転して「I」にやってきた(以下,前記3人の男性あるいはこれにKという男性を加えて「男性陣」ということがある。)。
(4) 「I」店内には,まずAが,次にやや時間をおいて,水道の元栓等をチェックしていたBとHが,最後に被告人の自動車のそばで待機していたCが立ち入った。その際,店内には開店準備のため被告人とEがいた。なお,Eは被告人の前夫の母親で,被告人は,離婚後も前夫やEとの交際があり,Eは,偶然,本件前日から被告人宅に泊まりに来ていたため,当日の開店準備も手伝っていた。
(5) Aが「I」店内に立ち入って間もなく,被告人が,大家として冷蔵庫等の運び出しの様子を見てもらおうと思って「I」の2階に住んでいたGに電話をしたことから,Gが2階から降りてきて店内にやってきた。また,同日午後7時ころ,本件建物の管理をしている不動産業者のFが,その後,酒屋のLという人が,「I」にやってきた。なお,途中,店内に入ってきたときのCの言葉を怖く思ったという被告人が呼んだ警察官も「I」にやってきたが,結局,被告人は,警察官には帰ってもらうことにした。
(6) Aは,主に,男性陣に対して運び出す物の指示をしたり,棚から食器等を取り出したり,冷蔵庫内の食料品等を取り出そうとしたりしており,BとCとは,主に,冷蔵庫等の大きなものを店内から運び出したり,段ボール箱に食器等を詰めて店内から運び出したりしており,Hは,主に,店外で荷物を車に積み込んだりしていた。
(7) Aは,このほか,ビールサーバーも運び出そうとしたが,被告人やGから,それはAの所有物ではないと指摘されたため,酒屋に来て説明してもらうこととし,前記のようにLが来て,これはビール会社の物であるとの説明を聞いたため,運び出すのをやめることにした。また,Aは,カウンターやボトルの棚等を取り外して運び出そうとしたが,被告人やGから,このままにしておいて欲しいと言われたため,Fと交渉し,かつての賃貸借契約時の保証金10万円の返還を受けるとともに,カウンター等の造作買取費用として15万円の支払を受けることで解決することとなり,書類にサインをした。
(8) Aらは,午後8時ころ,Aが運転する自動車とKが運転する軽トラックで,運び出した荷物をいったんAの自宅まで運び,その後,Aは,荷物の運び出しを手伝ってくれた男性陣をねぎらうため,露天商の仕事に戻る必要のあったC以外の男性陣を連れて近所の和食処に赴き,食事と酒をごちそうし,その後,午後11時ころに帰宅した。
5 Aの診察経過と受傷診断の根拠の確かさの程度について
(1) まず,証拠(略)によれば,以下の診察経過を認めることができる。
① 平成14年12月24日午前0時50分,Aが,他人に転ばされたことによる左脇腹のあたりと左腰部の痛みを訴えて上尾中央総合病院のMという医師の夜間診察を受けたところ,同医師は,肋骨及び第五腰椎左横突起部の骨折を疑い,1日分の痛み止めや筋弛緩薬等の内服薬,湿布薬1パック,バストバンドを処方した。
② 翌25日,Aが,他人に肘打ちを食らったことによる痛みを訴えて上尾中央総合病院のD医師の診察を受けたところ,同医師は,深呼吸をすると左胸の脇の下のラインのところが痛むと訴えていることや,レントゲン検査の結果では骨折線がみられないこと,叩打痛や体動痛等を確認した結果,加療約3週間を要する左肋骨不全骨折(臨床上,骨の内部構造が破壊された状態)と腰部打撲・骨盤打撲の診断を下し,7日分の痛み止めや抗炎症剤等の内服薬,2種類の湿布薬6パックを処方した。
③ 平成15年1月16日,Aは,上尾中央総合病院のD医師の診察を受け,腰の痛みが続いていることや,少し動くと胸が痛むと訴えていること等から,14日分の痛み止め等の内服薬,2種類の湿布薬6パックを処方し,バストバンドの着用を指示した。
(2) しかしながら,一方で,前掲証拠によれば,D医師は,Aの胸部を視診したが皮下出血や腫脹は見られなかったこと,不全骨折は,レントゲン写真上骨折線が明らかでないことから,触診・問診時に,叩打痛や体動痛,深呼吸時の痛みの有無を患者から聞いて判断するのが一般的であるとのことであり,結局は,触診・問診時の患者の愁訴から診断すること,したがって,患部付近を医師が叩いたとき,患者自身が体を動かしたり深呼吸をしたときに,患者が虚偽に痛いと言えば,医師がその嘘を見抜けずに不全骨折と診断してしまう可能性もあることはD医師も自認していることが認められる。したがって,前掲証拠のみからAに本件公訴事実のような傷害結果が発生したものと即断するのは相当でなく,本件事実経過や,具体的に主張されている暴行行為の有無を併せ考慮して傷害結果の有無を判断する必要があるというべきである。
(3) そしてまた,本件事実経過によれば,Aが被告人に店を任せているうちにGから無断転貸を指摘されて追い出されてしまったと感じ,また,被告人に店を乗っ取られてしまったと感じて被告人のことを疎ましく思い,嫌がらせをしてやろうと思っていた可能性も充分に考えられるところである。このことは,被告人が「I」を経営するようになったことについて,Aがこれを乗っ取り行為だと当公判廷で証言していることに加え,特に,一般に小さな居酒屋にとってはかき入れ時とされるクリスマスイブ前の休日,しかも開店直後に,多数の来客に備えて食材がたくさん入っている可能性の高い冷蔵庫や冷凍庫等を運び出し,ビールサーバーをも持ち出そうとしたのみならず,Aが,営業妨害をしたくないという配慮があったと供述しながらも,実際には「I」店舗内に造り付けてあったカウンターやボトルの棚まで取り外して持ち出そうとしていたことを併せ考えると,より明らかということができる。このように,本件事実経過前から被告人とAとの間に対立関係があったことや,A側の半ば強引とも思われる本件当日の荷物等の持ち出し行為の態様に照らすと,一方で,被告人が,検察官主張のような前記暴行行為に及んだ可能性も充分に考えられる反面,他方で,Aが,例えば本件事実経過時に被告人との間で些細な押し問答や小競り合い程度のやりとりがあったこと等を奇貨として,医師に虚偽の疼痛を申告し,あるいは大げさに疼痛を申告することで,真実とは異なる診断結果が導き出されてしまった可能性も充分に考えられるというべきである。したがって,特に,Aの供述内容については,それが捜査段階から大筋で一貫しているからといって,直ちにその信用性が高いと即断するのは相当でなく,他の証拠との関係も踏まえて,この点を慎重に吟味する必要があるというべきである。
6 「I」の出入口付近における暴行行為の有無について
(1) この点,Aは,被告人から胸のあたりを押される暴行を受け,これによって引き戸の縁に腰や背中といった後背部右側をぶつけたと証言している。ただし,このことを目撃した証人はいないから,Aの証言の信用性が問題となるところ,検察官は,Aの供述内容は捜査段階から大筋で一致しており,前記診断内容とも符合することから信用性は高いと主張する。また,目撃者の点については,Cが,最初はAが1人で店内に入って行ったと証言していることや,Bが,自分は最初,店内に入る前に店外のクーラーの屋外ユニットや水道メーターの様子を見に行ったと証言していることから,CやBがこの暴行行為を目撃していなくても当然であると主張する。
(2) しかしながら,Aの供述内容が捜査段階から大筋で一致していることをもって直ちにその信用性が高いとはいえないことは前記のとおりであるし,また,診断内容との符合をいう点についても,本件カルテ上,腰や背中といった後背部の右側に打撲等の所見は見られず,本件診断書上も,そのような部位の負傷は診断されていないのであるから,むしろ符合していないのであって,所論は失当である。さらに,Bについては検察官指摘のとおりであるとしても,Cについては,Aが自動車を止めた場所で自動車を降りて少しその場にいて,それから店の方にゆっくり歩いていったというのであり,Cが当初いた位置は,「I」と道路を挟んだ側の,「I」出入口から少し西側の位置だったことになるのであって,そこから「I」の出入口を目撃することに何ら障害物となるものがあった形跡は窺われないこと,だからこそ,CはAの合図があるまでその場で待っていたものと思われ,いつになったら「I」の出入口方向からAの合図がなされるのかといった心境で,多少なりとも「I」の出入口の方向を気に留めていたはずであると思われること,本件事実経過から窺われるような被告人とAとの対立関係をも考慮すると,Aが「I」の出入口付近で腰を打ち付けるような強度の暴行を被告人から受けたのだとすれば,思わず大声をあげたり,被告人に対して文句を言ったり,自らの負傷を周囲に訴えたり,男性陣に助けを求めたりしてしかるべきであるし,また,Cもそのような不穏な事態を察知してしかるべきと思われるのに,Aがそのような行動に出たり,Cがそのような事態を察知したりしていないことに照らすと,やはり,A主張のような暴行行為があったとすることには疑問が残るというべきである。
7 「I」のトイレ前における暴行行為の有無について
(1) この点,Aは,被告人から左肋骨あたりに1回肘打ちされる暴行を受け,その際,スキーで骨を折った時のようなボキッという音がして一,二秒ギュッとくる痛みを感じたと証言している。ただし,このことを目撃した証人はいないから,Aの証言の信用性が問題となるところ,検察官は,Aの供述内容は捜査段階から大筋で一致しており,その内容も自然かつ具体性・迫真性を有していること,前記診断内容とも符合することから信用性は高いと主張する。また,目撃者がいないことについては,Bが,出入口方向へ向けての荷物運びに集中していたのでずっとAと被告人の方を注意して見ていたわけではないと証言していることや,Cも,Aと被告人のことを終始注視していたわけではなく,B同様,荷物運びに従事していたことが認められるから,BやCがこの暴行行為を目撃していなくても当然であると主張する。
(2) しかしながら,Aの供述内容が捜査段階から大筋で一致していることをもって直ちにその信用性が高いとはいえないことは前記のとおりであるし,診断内容との符合についても,レントゲン写真上骨折線が見られない不全骨折と,Aがスキーで骨を折った時のようなボキッという音がしたと証言していることとの関係が不明である上,そもそも肋骨不全骨折という診断内容自体が最終的には触診・問診時のAの愁訴に基づかざるを得ないものである以上,結局はAの供述内容の信用性同様の問題点があるというべきであるから,検察官指摘の点はいずれも決定的な根拠とはいえない。また,前記のように,本件カルテ上,初診時には他人に転ばされたことによる痛みを訴えていたものが,翌日はそれが他人に肘打ちをくらったことによる痛みを訴えるに至っていることが認められるところ,このようにAの医師に対する受傷原因が変遷している理由が不明である上,Aが主張するトイレ前における暴行行為は,初診時の医師に対する訴えからは導かれ得ない行為であり(Aはこの暴行を受けても転びはしなかったことを自認している。),この点で,負傷部位の中で最も痛みが強かったとAが主張する左脇腹の痛みがトイレ前における暴行行為によるものである可能性を指摘する検察官の主張には疑問がある。さらに,Aの証言によれば,この暴行行為時,Aは「I」店内の北側を向いており,被告人はその左側斜め前に南東方向を向いて対峙するような状況下で,被告人が右肘を前方向に突き出してAの左肋骨付近を肘打ちしてきたというのであるが,右方向や後方向に肘を突き出すような場合ならいざ知らず,格別屈強なわけでもない当時40代の女性である被告人が肘を前方向に突き出しただけで,Aの肋骨に不全骨折を生じさせるような強度の暴行を加えることができるのかについては甚だ疑問であり,この点においてもAの証言の信用性は極めて疑わしく,自然かつ具体性・迫真性を有する証言ということができるのかについても疑問をぬぐい去れない。そして,D医師の証言によれば,この時点で肋骨の不全骨折が生じていたのだとすれば,高いところから物を取ったり,かがんだ姿勢で物を取ったり,酒瓶を持ったりして腕を動かしただけでも痛みがあるはずだというのであり,一方,Aは,被告人からこのような暴行を受けた後も,特に男性陣に痛みを訴えることなく食器をカウンターに出す作業をしていたことや,本件事実経過に挙げたように,Fとの間で本件建物の賃貸借契約時の保証金返還やカウンター等の造作買取費用の交渉をして書類にサインをしたり,自ら自動車を運転して運び出した荷物をAの自宅まで運んだり,その後,男性陣に食事と酒をごちそうしたりといった行動に出ていることを自認しているのであるから,これらの点からも,Aの肋骨に不全骨折が生じていた可能性については疑問なしとしない。加えて,本件事実経過から明らかなように,BとCとは,冷蔵庫等を運び出したり,荷物を段ボール箱に詰めたり,これを店の出入口付近まで運んだりといっ,た作業を主に「I」店内において行っていたのであり,「I」店内の狭隘さや,トイレの位置がカウンター客席側の通路奥であって,出入口からトイレ付近方向へ向かっての視界を遮るものが特にないことは証拠(略)からも明らかであるから,本件事実経過から窺われるような被告人とAとの対立関係を考慮すると,Aが,スキーで骨を折った時のようなボキッという音がして一,二秒ギュッとくる痛みを感じるような強度の暴行を被告人から受けたのだとすれば,思わず大声をあげたり,その場に倒れ込んでしばらく動かなかったり,被告人に対して文句を言ったり,自らの負傷を周囲に訴えたり,男性陣に助けを求めたりしてしかるべきであるし,また,BやCもそのような不穏な事態を察知してしかるべきと思われるのに,Aがそのような行動に出たり,BやCがそのような事態をまったく察知したりしていないことに照らすと,やはり,A主張のような暴行行為があったとすることには疑問が残るというべきである。
8 「I」のカウンター内における暴行行為の有無について
(1) この点,Aは,被告人から背中の腰からちょっと上の辺りを1回肘打ちされる暴行を受け,これによって流し台の方へよろめき,腰の部分を流し台のあたりにぶつけたと証言している。そして,検察官は,Aが胴体部分に肘打ちを受けたとの供述内容は捜査段階から大筋で一致しており,その内容も自然かつ具体性・迫真性を有していること,前記診断内容とも符合すること,B及びCの証言と完全に一致していることから信用性は高いと主張する。また,B証言についても,その核心部分が一貫していること,証言内容が具体的で詳細であること,AやCの証言と一致することから,信用性が高いと主張する。さらに,C証言についても,第三者的な立場にある者であり,虚偽供述の動機がないこと,証言内容が自然であり,具体性・迫真性に富んでいること,AやBの証言と一致することから,信用性が高いと主張する。
(2) しかしながら,Aの供述内容が捜査段階から大筋で一致していることをもって,直ちにその信用性が高いとはいえないことは前記のとおりである。特に,カウンター内における暴行行為については,A自身,本件事実経過のようなできごとがあった日からわずか4日後の平成14年12月27日には,警察官に対して全く供述していないのであって(証拠略),平成16年4月13日の検察官に対する供述内容も「胸に」肘打ちされたとなっており(証拠略),当公判廷における「背中の腰からちょっと上の辺り」を肘打ちされたとの証言ともだいぶ異なっているのであるから,その証言内容が大筋で一致しているとの主張にも疑問が残ると言わざるを得ない。また,診断内容との符合についても,A自身,当公判廷において,左胸部に痛みを感じたのはトイレ前での暴行行為時のことであること,カウンター内で受けたという暴行行為が背中の腰からちょっと上の辺りに対する肘打ち行為であり,左胸部に対してのものではないこと,肘打ちを受けた後,よろめいて流し台のあたりにぶつけたのは腰の部分であって,左胸部ではないことを自認していることに照らすと,そもそも,カウンター内で受けたという暴行行為と左胸部不全骨折という診断内容とは符合していないのであって,仮に,カウンター内で暴行を受けたというAの証言が真実であることを前提としても,公訴事実で明示されている最も重要なはずの傷害結果を,カウンター内での暴行行為から認定することはできない。検察官は,被告人によるトイレ前での肘打ちあるいはカウンター内での肘打ちにより,Aが左肋骨不全骨折の傷害を負ったことは明らかであると主張するようであるが,カウンター内での肘打ち行為の対象部位については,その論告において,「胴体部分」とあえてぼかした表現を用いているかのようでもあり,この点も疑問が残るところである。
(3) ところで,Bは,カウンター外側,中央よりややトイレ側付近から,被告人が,冷凍庫から冷凍食品を取り出していたAの左脇腹付近に肘打ちをし,またそれと同時くらいに足蹴りをし,それらの暴行によりAが突き飛ばされてしゃがんだのを目撃したと証言している。しかしながら,このようなひどい暴行行為を目撃していながら,Bが被告人に対してそのような行為をやめるよう声を掛けたり,あるいは,これ以上被告人がAに暴力を振るうことのないよう,例えば自らカウンター内に入っていって被告人とAとの間に割って入るような行動に出たりすることなく,これを単に傍観していたかのようなB証言には迫真性を感じ取ることができない。また,証言内容についても,この肘打ちの対象部位自体,背中の腰からちょっと上の辺りを1回肘打ちされる暴行を受けたと主張している当のA本人の前記証言と食い違う上,足蹴りの点やAが突き飛ばされてしゃがんだ点については,それが印象的な事柄と思われるにもかかわらず,Bの捜査段階の供述調書においては何ら触れられていない(証拠略)。この点につき,検察官は,Bが今回,証人として出廷するということが決まった後,当時のことを思い出そうとして,当時つけていた手帳を発見して記憶を喚起したのであるから,捜査段階において触れられていないのは当然であると主張するが,本件事実経過のようなことがあった日からわずか4日後の平成14年12月27日の時点で,警察署に呼ばれて目撃者として事情聴取をされた際には,自ら手帳に書いたようなことをすでに忘れてしまっていて警察官に話しそびれたといったこと自体,想定しづらいことであるし,また,記憶力の点はともかくとして,当時のことを手帳に日記のようにつけていて,証人尋問前にこれを読み返したというような几帳面な人間が,前記事情聴取時には,その手帳を読み返さずに事情聴取に応じたとか,あるいは,わずか4日の間に偶然にもその手帳をなくしてしまって読み返すことができないまま事情聴取に応じたといった事態も想定しづらいというべきである。さらに,Bの他の証言部分を見ると,Bは,Aの裸を見たわけでも,病院まで付き添って行ったわけでもないのに,Aが被告人と擦れ違うたびにあちこちやられたようだとBが証言したことがどういう趣旨かを問われた際,「病院に行ったときに,体中,あざだらけでしたから。」などと証言したり(しかも,このような医学所見上重要と思われる事実は,Mという医師やD医師も本件カルテに書き記していない事柄であって,伝聞証言だとしても到底信用することができない。),証拠(略)によれば,例えば,カウンターの外からカウンター内の足下付近の様子が見えるはずがないと思われるにもかかわらず,被告人がAを足蹴りしていたのを目撃したというように,自分の想像を交えた事実をさも実際に目撃した事実であるかのように証言していたり,Aが体験したと主張している事実を,さもB自身が直接体験した事実であるかのように証言したりしている部分が多数あるのであって,しかも,時として興奮状態に陥ることもあったほどなのであるから,その目撃状況や目撃内容に関するB証言は客観性に欠け,到底信用することができない。
(4) また,Cは,カウンターの内と外とを結ぶ店内北側中央付近から,被告人が,冷蔵庫と同じ並びにある食器棚の中から何かを取り出そうとしていたAの左脇腹付近に肘打ちをし,その暴行によってAが流し台の方へよろけていったのを目撃したと証言している。しかしながら,このようなひどい暴行行為を目撃していながら,Cが被告人に対してそのような行為をやめるよう声を掛けたり,あるいは,これ以上被告人がAに暴力を振るうことのないよう,例えば自らカウンター内に入っていって被告人とAとの間に割って入るような行動に出たりすることなく,これを単に傍観していたかのようなC証言には迫真性を感じ取ることができない。また,証言内容についても,背中の腰からちょっと上の辺りを1回肘打ちされる暴行を受けたと主張している当のA本人の前記証言と食い違う上,Aが暴行を受ける直前のAの行動についても,冷凍庫から冷凍食品を取り出していた際のことであったとする前記B証言とも食い違っている。さらに,目撃状況については,Cの目撃位置やその際のAや被告人の位置からすると,被告人が肘打ちをしたというAの左脇腹付近は南東側を向いていたはずであって,Cからは死角となるはずであるから,その目撃証言内容は,被告人やAの他の行動から推測を交えて供述されたものであることが明らかである。加えて,Cは,Aが被告人からの暴行を受けた後,Cの横を通ってカウンターの外に出る際に,脇腹が痛いという旨をボソッと言っていたとの証言があるが,これは,被告人から暴行を受けた後も,特に男性陣に痛みを訴えることなく食器をカウンターに出す作業をしていたことを自認する当のA本人の証言と食い違っている。以上を総合すると,その目撃状況や目撃内容に関するC証言にはいくつもの疑問を差し挟む余地があり,信用性が高いとはいえない。
(5) ここでAの証言内容を検討し直すと,そもそも,「背中の腰からちょっと上の辺り」の肘打ち行為なるものが果たしてあったのかについても疑問なしとしない。すなわち,前記のように,その証言内容は,B,Cの各証言と食い違いがあり,しかもその食い違いは身体の前側か後ろ側かといった大きな食い違いであること,Aによれば,その暴行を受けた時,被告人は南側を向き,Aは北側を向いていたとのことであって,Aが被告人よりもやや西側にずれた形ではあっても向かい合っていたとのことであるが,そのような位置関係は,Aの「背中の腰からちょっと上の辺り」に肘打ちをすることができる客観的状況とは考えられないこと,肘打ちをした腕が被告人の左右どちらの腕かという点についても,Aについては明らかではないが,B,Cによれば,被告人は左腕で肘打ちをしたのを目撃したとのことであり,そうであればなおのこと,被告人がAとの位置関係で遠い方の腕で,Aの「背中の腰からちょっと上の辺り」に肘打ちをするのはあまりに不自然と見られること,本件カルテ上も,腰部ではなく,「背中の腰からちょっと上の辺り」の肘打ちに該当する部位に打撲等の所見は見られず,本件診断書上も,そのような部位の負傷は診断されていないことに照らすと,そもそもそのような部位に対する肘打ち行為があったというAの証言についても信用性が疑わしいと考えられるのである。そうすると,このような肘打ち行為によりAがカウンター内でよろめいて腰を打ち付けた結果であるという腰部・骨盤打撲も,果たして本当に被告人の暴行行為によって生じたといえるのか,そもそも腰部・骨盤打撲という傷害結果が本当に発生していたのかについても疑問が生じてくるが,これらの疑問を解消することのできる事情は本件全証拠に照らしても見当たらない。
(6) 以上を要するに,A主張のような暴行行為があったとすることには,証拠上,未だ疑いを差し挟む余地があるというべきである。
9 E証言の信用性とこれに付随する被告人供述に関する検察官の指摘について
(1) 以上によれば,被告人供述を含む弁護側証人の証言の信用性をことさら検討するまでもなく,検察官側の立証には様々な疑問点がぬぐい去れないと考えられるが,なお,念のため,弁護側証人の中でも,最も長い時間,被告人やAの行動を目撃していたEの証言の信用性につき,若干検討を加える。
(2) 検察官は,Aが主張するような被告人の暴行行為を一切見てない旨のEの証言内容は,被告人にとって,自己が無罪であることを主張するに当たって重要な根拠となるものであり,本来であれば,起訴前の段階で,被告人が,警察署や検察庁にEを同行するか,少なくとも同人の存在を捜査官に告げて,同人から話を聞いてくれるよう依頼するのが普通の行動というべきであり,その結果,Eの取調べが行なわれ,その証言内容が明らかになっているはずであるから,本件ではEの証言が出てきた時期が不自然であると主張する。また,被告人がそのようにしなかった理由について,高齢のEに迷惑をかけたくなかったと供述したことについても,捜査官に電話でEに事情を聞いてもらうことくらいであればEの迷惑などさほどのものでもないはずであり,また,裁判にならずに終わるのと,裁判になってから争うのとでは,被告人やEの負担に歴然とした差があることは明白であるから,Eに迷惑をかけたくなかったなどという言い訳は不合理であるなどと主張する。そして,これらの事情のほか,Eが高齢で視力・聴力・記憶力に問題があることが窺われることを理由として,Eの目撃証言は信用に値しないとか,公判段階に至るまでEに証言してもらおうとは思わなかった点に関する被告人の言い訳は虚偽の弁解に過ぎず,Eの証言内容は口裏合わせによって作り出された虚偽のものである可能性が高いなどと論難する。
(3) しかしながら,まず,刑事手続について必ずしも詳しくはないであろう一般人である被告人が,裁判にならずに終わるのと,裁判になってから争うのとでは,被告人やEの負担に歴然とした差があることがわかっていたのかどうかは不明であり,そのような知識が被告人にあることを前提として被告人の行動は不自然であるなどと論難するのは失当である。また,本件事実経過当時,「I」店内にEがいたことは,通常は捜査の過程で注意を払えば容易に分かることであって(現に,証拠(略)には,当時,被告人のほかにもう1人,年配の女性がいたことが記載されている。),本来,捜査機関がこの点に着目して被告人にEの氏名や住所を問い質し,Eに対して取調べへの協力を求めるのが筋というべきである。とりわけ,本件においては,被告人が捜査当初から被疑事実を否認していたのであるから,なおのこと,目撃証言を得ることのできる可能性のある人物に対する捜査を尽くしておくべきことは明らかである。しかるに,今回,捜査機関側が自らの怠慢でそのような捜査を尽くすことなく(なお,本件においては,通常,この種の事件であれば証拠調べ請求されていてしかるべきはずの,Aによる被害状況の再現実況見分調書やBによる目撃状況の再現実況見分調書すら証拠請求されていないから,そもそも,それらの実況見分さえ実施されていなかった可能性が高いと見られるが,このことがAやBの供述内容の信用性判断と事実認定とを困難にしている側面がある。),Eの供述が出てきた時期が公判段階に至ってからであることが不自然であるなどと主張し,また,被告人の側から積極的にEの取調べを起訴前に要求すべきであったのにこれをしなかったことが不自然であるなどと論難するのは極めて理不尽かつ不相当である。
(4) そして,Eの視力の問題点については老眼によるものであって,主に細かい文字を見るときのことであり,実際に法廷内においても証人席から検察官の顔はぼやけることなく見えているようであって,狭い「I」店内における被告人やAの行動についての目撃状況に特段問題があったとは思われないこと,聴力の問題点については病院に行くほどのものではないとのことであって,実際に証人尋問時に質問を何度も聞き返すようなことはしておらず,狭い「I」店内における被告人やAの行動に付随して聞こえる音,とりわけ,A主張のような強度の暴行行為があったならば通常発せられるであろうはずの音が聞こえないほどではなかったと思われること,記憶力の問題点については,E自身,自己の記憶していることと記憶していないこととをはっきりと区別し,記憶していないことまでことさら記憶しているかのように供述することなく,誠実に答えている節が窺われること,さらに,例えば,自分はずっと「I」店内にいたが,被告人の暴行行為は一切見ていないと証言すれば,被告人に有利になることが明らかであるのに,実際には,一時期,屋外に出ていたことがあり,その間の被告人とAとのやりとりは見ていない旨を平然と証言するなど,その証言態度には一切の作為が窺われないこと,証言内容にも不自然な点が見当たらないことに照らすと,少なくとも,Eが見聞きし,かつ記憶している限りにおいては,との限定つきではあるものの,被告人がAに対してA主張のような暴力を振るっていた事実は目撃していないとのE証言の信用性には特に問題がないと認められる。
10 結論
以上検討してきたように,本件においては,本件事実経過やそこから窺われる被告人とAとの対立関係に照らすと,被告人がAに対して暴行行為に及んだ可能性を検察官が疑うのも無理からぬ点はあると思われるものの,証拠上は,検察官主張の被告人の暴行行為,被害者の傷害結果,暴行行為と傷害結果との間の因果関係のいずれについても,様々な疑問を差し挟む余地が未だ残っているといわざるをえない。そうすると,被告人に対する本件公訴事実については,その証明が不充分であって,犯罪の証明がないことに帰着するから,刑事訴訟法336条に従い,無罪の言渡しをする。
(裁判官 吉川昌寛)