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さいたま地方裁判所 平成16年(ワ)1301号 判決 2007年3月28日

主文

1  被告は,原告に対し,200万円及びこれに対する平成16年7月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  反訴原告の請求を棄却する。

4  訴訟費用は,本訴反訴を通じ,これを3分し,その1を被告(反訴原告)の,その余を原告(反訴被告)の負担とする。

5  この判決は,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  本訴請求

(1)  被告は,原告に対し,9690万4420円及びこれに対する平成14年8月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(2)  訴訟費用は被告の負担とする。

(3)  仮執行宣言

2  反訴請求

(1)  反訴被告は,反訴原告に対し,1000万円及びこれに対する反訴状送達の日の翌日である平成16年8月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(2)  訴訟費用は反訴被告の負担とする。

(3)  仮執行宣言

第2事案の概要等

1  事案の概要

本訴請求は,亡A及び亡Bの長女である原告が,Bとの間でAの相続財産を含めBの全財産を原告に譲るとの合意が成立していたことから,平成7年5月11日,被告に対し,原告が確実にBの全財産を取得するために,後日裁判で争われても同合意が有効と認められるように公正証書遺言又はこれに代わる的確な書類を作成することを委任したのに,被告は委任の趣旨に反し適切な措置を講じなかったため,原告が取得すべき財産を取得することができなかったとして,原告は,被告に対し,主位的に,債務不履行による同財産相当額の損害賠償を,予備的に,平均的な弁護士の技能水準に適った相当な方法によって誠実に職務を遂行することを期待していたにもかかわらずこれに反したという債務不履行により又は説明義務違反という債務不履行により精神的損害を被ったとして慰謝料を求めるというもので,反訴請求は,反訴被告(以下「原告」という。)の本訴請求は事実無根の不当訴訟であり,反訴原告(以下「被告」という。)の名誉ないし名誉感情を著しく毀損されたとして,被告が原告に対し,損害賠償を請求するものである。

2  前提となる事実(当事者間に争いのない事実及び証拠又は弁論の全趣旨によって容易に認定できる事実)

(1)  Aは平成4年1月28日に死亡した。同人の相続人は,妻B,長男C,三男D,五男E,六男F,七男G及び原告である。

(2)  Bと原告がAの相続に関してBの相続分の2分の1を原告に譲渡することを合意したとの内容が記載された,平成4年3月28日付けの相続分譲渡証書(以下「平成4年証書」という。)が存在する。

(3)  BがBの資産のすべてをFに相続させるとの内容の公正証書遺言(以下「平成4年遺言」という。)が存在する。

(4)  原告は,平成5年7月,原告以外のAの相続人を相手にAの遺産について遺産分割の調停を徳島家庭裁判所に申し立てた。

(5)  BとFがAの相続に関してBの相続分のすべてをFに譲渡することを合意したとの内容が記載された,平成5年8月5日付けの相続分譲渡証書(以下「平成5年証書」という。)が存在する。

(6)  A及びBの遺産全部を相続人全員に平等に分けるようにとの内容のB名義の平成5年10月20日付けの「ゆいごんしょ」と題する書面が存在する(乙第29号証)。

(7)  Bの財産をすべて原告に贈与するとの内容のB名義の平成6年5月25日付けのメモが存在する(甲第4号証)。

(8)  Bは,平成3年から平成7年5月まで博愛記念病院に入院していたが,原告が,同月12日夜,同病院関係者に無断で,同病院からBを連れ去って原告の自宅に搬送し,以後,Bは原告の自宅で看護され入院することもなかった(乙第23号証及び原告本人尋問の結果)。

(9)  前記の遺産分割調停は,BとFがBの相続分を全部Fに譲渡することを合意したとの内容が記載された平成5年証書の有効性等をめぐって紛糾し,平成7年2月,調停成立の見込みがないとして終了した。

(10)  原告は,同年5月8日,埼玉県弁護士会所属の弁護士である被告と会い,A及びBの相続問題等を相談し,法律相談料として5000円を支払った。

(11)  原告は,同月11日,着手金の一部等として60万円を被告に交付し,同月16日,委任契約にかかる実費として10万円を被告に交付した(甲第14及び第15号証)。

(12)  被告は,同月,Bの財産のすべてを同人の死後,原告に贈与する旨の「死因贈与契約書」(甲第7号証)の様式を作成のうえ,被告法律事務所の事務員に原告宅まで届けさせた。原告は,Bに署名,指印させた同契約書を日付欄を空欄にしたまま,被告に届けた。

(13)  被告は,平成7年6月,同年5月作成の死因贈与契約書と同様の趣旨で,死因贈与契約書(乙第2号証)の様式を作成のうえ,被告法律事務所の事務員に原告宅まで届けさせた。原告は,原告がBの署名を代筆し,Bの実印を押した同契約書を,被告に届けた。

(14)  被告は,同年7月18日,原告とBの訴訟代理人として,板野郡農業協同組合を被告とし,Aの遺産であった預金の払い戻し等を求める訴えを徳島地方裁判所に提起した(徳島地方裁判所平成7年(ワ)第309号預金返還等請求事件)。

(15)  被告は,同年8月お盆のころ,原告宅の2階で布団の中で横臥しているBと面会したが,原告がBに対して「Bの物を全部原告が取得することでよいか」「藍住の土地のBの分を売却してよいか」「農協等に預けてあるBの預金について被告にBの代理人として裁判をやってもらい,取得することでよいか」という趣旨の審問をし,これに対してBはいずれについても「はい」と返答するのみであった(被告本人尋問の結果)。

(16)  被告が,同月24日,Bの訴訟代理人として,Fを被告として平成5年証書が真正に成立したものではないことの確認及びB名義の預金がFに横領されたことによる損害賠償請求等を目的とする訴えを浦和地方裁判所に提起した(浦和地方裁判所平成7年(ワ)第1506号損害賠償等請求事件,その後,徳島地方裁判所に移送された。)。

(17)  Bは,平成7年12月12日,原告の自宅で死亡した。同人の相続人は,長男C,三男D,五男E,六男F,七男G及び原告である。

(18)  原告は,同月15日,被告事務所を訪ね,原告及び被告間の委任契約を解消した。

(19)  被告は,平成8年7月26日,原告,G,D及びCに対し,前記徳島地方裁判所平成7年(ワ)第309号預金返還等請求事件及び浦和地方裁判所平成7年(ワ)第1506号損害賠償等請求事件等にかかる着手金等を請求する訴えを浦和地方裁判所越谷支部に提起した(乙第35号証)。

(20)  上記着手金等請求事件訴訟において,平成9年7月28日,原告が被告に50万円を支払うこと等を内容とする裁判上の和解が成立した。

(21)  徳島地方裁判所は,平成12年3月31日,平成5年証書,平成4年遺言を有効と判断し,平成4年証書及び平成7年5月作成の死因贈与契約書(甲第7号証)を無効と判断して,FがBの相続財産を取得する権利があるとする判決を言い渡し,これに対して,原告は控訴したが,平成14年8月9日,高松高等裁判所においても,上記判断がほぼ維持された。

3  争点

(1)  本訴請求に関する原告の主張

ア 被告の債務不履行

(ア) 主位的請求

原告とBとの間で,Aの相続財産を含めBの全財産を原告に譲るとの合意が成立していたことから,原告は,平成7年5月11日,被告との間で,原告が確実にBの全財産を取得するために,後日裁判で争われても同合意が有効と認められるように公正証書遺言又はこれに代わる的確な書類を作成することを委任したにもかかわらず,被告は,適切な措置を講じず,被告法律事務所の事務員に死因贈与契約書の様式を原告宅まで届けさせたにとどまった。

(イ) 期待権侵害(予備的請求)

原告は,被告と委任契約を締結し,平均的な弁護士の技能水準に適った相当な方法によって誠実に職務を遂行することを期待したが,被告は,期待に適った職務遂行を行わなかった。

(ウ) 説明義務違反(予備的請求)

被告が,原告に対し,甲第7号証が死因贈与契約書として通用しない書類であり,甲第7号証の代わりに乙第2号証を作成したことを説明しなかったこと,弁護士費用の総額について概算的にも説明しなかったこと及び原告の代理人として提起した訴訟について,その内容について説明をしなかったことは,説明義務違反を構成する。

ウ 損害額

(ア) 徳島地方裁判所及び高松高等裁判所による判決による損害

a A所有の土地売却代金に関するFに対する保管金返還請求権

徳島地方裁判所及び高松高等裁判所の判決においては,Fが保管していた,A名義の土地の日本道路公団等への売却代金合計2億4124万6875円から必要経費を控除し,Bが取得すべき7950万0961円について,BがFに対して無償譲渡する旨の平成5年証書を有効と認め,保管金返還請求権が混同により消滅したと判断されたが,平成4年証書が有効である措置がとられたならば,原告は,少なくとも同額の2分の1の3975万0480円を取得することができたので,同額が原告が被った損害といえる。

b A名義の土地のうちBの相続分に相当する部分

A死亡時に別紙物件目録記載1から10の各土地が同人の遺産として存在し,同目録記載1から7及び10の各土地(評価額1億3148万9200円)のBの相続分は2分の1であり,平成4年証書が有効である措置がとられたならば,原告は,少なくとも同土地の4分の1の持分を取得できたはずであるが,実際には,12分の1の持分しか取得できず,その差額である2191万4867円(1億3148万9200円×4分の1-1億3148万9200円×12分の1)が原告が被った損害といえる。

また,同目録記載8及び9の各土地(評価額2430万5196円)のBの持分は6分の1であり,平成4年証書が有効である措置をとられたならば,原告は,少なくとも同土地の12分の1の持分を取得することができたはずであるが,実際には36分の1の持分しか取得することができなかったので,その差額である135万0289円(2430万5196円×12分の1-2430万5196円×36分の1)が原告が被った損害といえる。

c Bの固有財産の損害

高松高等裁判所の判決においては,Fが保管していた,B名義の土地を日本道路公団等に売却し,Bが取得すべき残金5809万5057円について,平成4年遺言を有効と認め,BのFに対する保管金返還請求権が混同により消滅したと判断されたが,Bの遺産をすべて原告に相続させる旨の公正証書遺言を作成していれば,5名の兄弟の遺留分を考えても3388万8784円を原告は取得できたはずである。

したがって,原告の合計損害額は,9690万4420円である。

(イ) 仮に上記損害が認められないとしても,原告は,受任弁護士が平均的な弁護士の技能水準に適った相当な方法によって誠実に職務を遂行することを期待していたにもかかわらず,かかる期待が侵害され,又は,前記説明義務違反により9690万4420円の慰謝料請求権を有する。

(2)  本訴請求に関する被告の主張

ア 債務不履行の不存在

被告は,原告からBの公正証書遺言の作成の依頼を受けたことはなく,依頼を受けたのは,甲第7号証及び乙第2号証の死因贈与契約書様式の作成のみであり,同書面の交付によって債務の履行は終了した。被告は書面の交付に当たり,原告に日付を記入すること,署名は本人にさせること,実印を押すことを指示したが,原告がこれを守らなかったに過ぎない。仮に,原告から公正証書遺言の作成の依頼があったとしても,被告はこれに応じていないのであるから,委任契約は成立していない。

被告は,原告から,Fが意味不明の書類を使ってBの預金を勝手に引き出している,B名義の不動産を自分のものにしていると聞かされ,これを辞めさせて欲しいと頼まれたのであるから,「着手金」の額は不確定で未定であるものの,預金に関する訴訟や抹消登記手続請求訴訟を提起することが念頭におかれていたのであって,贈与契約書の作成は委任契約の内容に入っていなかった。弁護士が書類作成等の依頼を受ける場合にもさまざまなレベルがあるのであり,贈与契約書の作成については,書面の作成のみを行ったもので,立会人となることまで承諾したものではない。

被告はBから前記訴訟追行の委任を受けていたのであるから,被告がBの全財産を原告に移転するように行動することは双方代理に該当し,弁護士倫理上問題であるから,できることでもなかった。そのようなことを踏まえ,被告としては形式的な契約書の様式の作成等にとどまった。

原告とBは,裁判の印紙代や郵券代も支払えない状態であったのであり,費用の点から,公正証書遺言と同様の効果がある死因贈与契約書を作成することになったのである。被告は,平成7年5月8日の段階では,公正証書遺言を作成しなければならないとは判断していないが,それは,BがAから相続した財産をFに対して譲渡する旨の書面が存在する可能性があることをわずかに認識していたに過ぎなかったからであり,この判断は正当なものと評価できる。

イ 説明義務違反

被告は,原告に対し,甲第7号証が死因贈与契約書として通用しない虞があると説明して,乙第2号証の書式を交付しているし,弁護士費用についても,平成7年5月8日の段階では,相続財産の価額もそれらにかかる事務負担も全く分からなかったことから,とりあえず原告とBが支払える上限ということで登記費用と着手金の一部等として70万円となったもので,後日,訴訟印紙代や弁護士報酬についても説明していた。

ウ 損害との因果関係

(ア) 公正証書遺言を作成したとしても,Bに遺言能力はなかったのであるから,後日,作成された公正証書遺言が有効とされ,原告が確実にBの財産を取得したという保障はない。

(イ) 原告が,徳島地方裁判所の訴訟において,乙第2号証を提出し,甲第7号証及び乙第2号証の作成経緯について誠実に説明していれば,Bに意思能力がある限り有効とされ,原告がBの財産を取得することができたはずであるから,公正証書遺言の不存在と原告がBの遺産を取得できなかったことには因果関係がない。

エ 過失相殺(抗弁)

仮に被告に責任があるとしても,徳島地方裁判所の訴訟において敗訴判決を受けることになったのは,原告の訴訟活動の不適切によるところが大きかったのであるから,過失相殺されるべきであり,本件の場合には原告に全面的な過失がある。

オ 信義則違反(抗弁)

原告と被告は,平成9年7月28日,浦和地方裁判所越谷支部平成8年(ワ)第414号事件において,清算条項付きの和解をしたが,当該訴訟においては,被告が原告から公正証書遺言の作成を依頼されたかも問題とされていたのであって,本件訴訟で問題とされている損害賠償請求については,蒸し返しであり,信義則上,原告が権利主張することは許されないものである。

(3)  反訴請求に関する被告の主張

本件訴訟は,不当訴訟であり,原告に故意又は重過失があり,被告の名誉ないし名誉感情が害された損害は1000万円が相当である。

(4)  反訴請求に関する原告の主張

被告が公正証書遺言まで作成していれば,仮に同遺言が無効と判断されたとしても,原告は被告の弁護過誤を問題とすることはなかったが,被告が不完全な贈与契約書しか作成しなかったことから,本訴請求をしたものであり,反訴請求は失当である。

第3当裁判所の判断

1  債務不履行について

(1)ア  前記前提となる事実,甲第8号証の2,甲第14,第15号証,乙第48号証,原告本人尋問の結果によれば,原告は,平成7年5月8日,被告事務所を初めて訪れ,同月8日から11日の間において,被告に対して,第1に,Bの死後,Bの財産全部を原告に取得させるために必要な書類を作成すること,第2に,Aの相続財産について,徳島家庭裁判所で遺産分割の調停をしていたが,Bの相続分全部がFに譲渡された旨の証書が提出され,裁判所から前提問題を解決しないと調停を進められないと言われて同調停は不成立となったため,同証書が無効であることの確認訴訟を提起すること,第3に,FがB名義の預金や不動産を勝手に自分のものにしているので原状に戻すこと,B名義の預金及び原告名義の預金を払い戻すこと,第4に,Bの看護費用や裁判費用などのために,一部の不動産持分を売却する予定であるから,それが可能となるようにAの全ての不動産について法定相続分に応じた相続登記をすることを委任し,原告は,同月11日に着手金の一部等として60万円を,同月15日に実費として10万円をいずれも被告事務所に持参して支払ったことを認めることできる。

イ  被告本人は,法廷において,Bの代理人であって,原告の代理人としての意識はなかったこと,甲第7号証及び乙第2号証は,書面作成の限度で原告の依頼に応じたものであり,B死亡後にBの財産を原告に取得させることまでの委任は受けていない旨を供述する。しかしながら着手金等請求事件において,被告自身が作成し提出した準備書面である甲第8号証の2では,前記認定の事項について原告から委任を受けたとしており,甲第14及び第15号証の領収書も原告宛で作成されていることからしても,被告は,原告との間で,Bの死後,Bの財産全部を原告に取得させるために必要な書類の作成の委任契約を締結したものと認めることができ,この点の被告本人の供述は採用しない。

(2)  そして,委任を受けた被告としてはどのような書面を作成すべきであったのかが次に問題となるが,甲第6,第7,第9,第10号証,乙第2,第4,第8,第74号証及び原告被告各本人尋問の結果によれば,次の事実を認めることができる。

ア 原告は,被告に対し,原告が被告事務所を最初に訪ねた平成7年5月8日に,Bの公正証書遺言を作成して欲しいと依頼したこと,同時に,BがAの相続にかかる相続分全部をFに無償譲渡した旨の証書が作成されているとして同証書の写しを示し,同証書についてBは全くあずかり知らないことであると説明した。

イ 被告は,平成7年5月ころ,「死因贈与契約等」と題する様式を作成して原告に交付し,これにBが「B」と署名のうえ,指印を押したが,被告は,実印を押捺することが必要と考え,同年6月ころ,再度「死因贈与契約等」と題する様式に住所を印字のうえ,原告に交付し,原告がBに代わって署名のうえ,Bの実印を押捺した。

ウ 被告がBの訴訟代理人として,平成7年8月24日に,平成5年証書が真正に作成されたものでないことを確認するとの訴えを浦和地方裁判所に提起し,Fは,平成7年10月9日ころ,原告,C,D,E及びGに対し,平成5年証書が有効であることを確認する等との訴えを徳島地方裁判所に提起し,いずれも被告が原告の訴訟代理人となった。その後,前記浦和地方裁判所の事件が徳島地方裁判所に移送され,以後,併合して審理されることとなった(以下併合して審理された事件を「徳島訴訟」という。)。

エ 被告は,平成7年8月お盆のころ,原告宅の2階で布団の中で横臥しているBと面会したが,原告がBに対して,「Bの物を全部原告が取得することでよいか「藍住」の土地のBの分を売却してよいか」「農協等に預けてあるBの預金について被告にBの代理人として裁判をやってもらい,取得することでよいか」との趣旨の質問をしたところ,これらに対してBはいずれについても「はい」と返答したのみであった。被告は,Bの様子からBの意思能力に疑問を持った。

オ Bが,平成7年12月12日,死亡し,同月15日,原告が被告事務所を訪ね,原告と被告間の委任契約は解約されるに至った。

カ 徳島訴訟において,徳島地方裁判所は,平成12年3月31日,H弁護士及びI医師立ち会いの下で作成された平成5年証書及び平成4年公正証書遺言について,いずれも有効であると判断し,他方,Aの相続に関してBから原告への相続分2分の1を無償譲渡するとの記載のある平成4年証書については,立会人としてI医師の署名があるものの,I医師によると同医師はその場に立ち会っておらず,原告から迷惑は掛けないと執拗に署名を求められたことから署名してしまったもので,無効であると判断し,平成7年5月作成の死因贈与契約書についても作成経緯に不自然な点があり,真正に成立したものと認めることができないと判断して,FがBの相続財産を取得する権利があるとする判決を言い渡し,これに対して,原告が控訴したが,平成14年8月9日,高松高等裁判所は,前記死因贈与契約書については,Bが同契約書に署名,指印した日時,場所,その際の具体的状況等を明らかにしていないこと,また,原告が弁護士にBの財産を全部自分がもらえるような書類を作りたいと相談し,弁護士が,前記契約書の様式を作成して原告に交付したこと,Bが平成7年5月当時,博愛記念病院に入院中であり,自力で歩行できず介護を要する状態であったところ,原告が,同月12日夜,病院関係者に無断で同病院からBを連れ去って東京の自宅に搬送し,以後,Bは入院することのないまま,同年12月12日,原告の自宅で死亡したことを認定し,前記死因贈与契約書がBの意思に基づいて作成されたか否かについて合理的な疑いが残ると判断し,徳島地方裁判所の判断がほぼ維持された。

(3)ア  以上の事実を前提とすると,被告としては,まず,平成7年5月の段階で,早期にBと面会のうえ,Bの意思を確認すべきであった。そして,平成5年証書がBの意思に基づくものでないとすれば,これを覆すための訴訟活動に向けた活動をすべきであったというべきである。Bの意思が,原告が依頼したようにBの全財産を原告に譲渡しようというものであれば,裁判においても財産譲渡の効果が揺らぐことのないように,Bが原告に対しBの全財産を譲渡することの意思が明確になるような書面を作成すべきであったといえ,公正証書遺言書を作成するか又は死因贈与契約書を作成するのであれば,作成経過やBの意思の確認ができるように証人を立てる等の手立てを考えるべきであった。また,実際に,Bと会って,同人に意思能力が存在しないと考え,そのような手続を取ることができないのであればその旨を原告に率直に説明し,場合によっては委任契約を解消することを考慮すべきであったというべきである。被告は,Bと面会することもなく,死因贈与契約書の様式を手渡したのみで月日を経過させ,Bを原告とする訴訟をBの代理人として提起した後に一度Bを訪ねているものの,そのころには,被告としてはBの意思を確認できないのではないかと考えたが,何ら手だてを講じることもなく,ついにはBが死亡するに至ったというのであるから,弁護士として委任を受けた事項について,真摯に対応したものといえない。

イ  なお,被告は,法廷において,公正証書遺言の作成には費用がかかることから,原告と被告との間で,死因贈与契約書を作成するという話になり,平成7年5月及び同年6月に死因贈与契約書の書式を作成して交付したのであるから,原告と合意した内容は既に履行した旨を供述する。しかしながら,他方で,公正証書遺言を作成する場合にどの程度の費用を要するかの話もしていないことを被告自身認めており,また,前記前提となる事実及び原告本人尋問の結果によれば,平成7年6月の死因贈与契約書作成後においても原告が被告に対し公正証書遺言の作成を要請していたことが窺われ,B死亡後である同年12月15日,原告が被告事務所を訪ね,被告の事務処理について苦情を述べ,原告と被告間の委任契約を解消させるに至ったことを認めることができるので,甲第7号証及び乙第2号証の契約書の様式を手渡したことで被告が原告に対する債務の履行を終えたことを原告が了解していたとは考えられないし,仮に死因贈与契約書の様式だけを交付することのみで原告が了解していたとしても,被告は,Fが平成5年証書を持っていたことを認識していたのであるから,相続分の譲渡について紛争が生じる可能性があることを踏まえて,事後の結果の予測について,甲第7号証及び乙第2号証のような死因贈与契約書では紛争が紛糾することがあり得ることも説明して,そのうえで原告が納得したのであれば格別,そうでないとすれば,被告の事務処理は弁護士としての一般的な水準に到底至っていないというべきであり,そのような説明をしたことも認定できない。

ウ  また,前記認定事実,甲第5号証,被告本人尋問の結果によれば,被告は,Bと一度も面会しないまま,平成7年7月19日,原告のほかBの訴訟代理人として,板野郡農業協同組合を被告とする訴えを徳島地方裁判所に提起し,訴え提起後の平成7年8月お盆のころに,原告宅を訪れ,Bと面会し,Bの意思能力に疑問を持ったにもかかわらず同訴訟をそのまま進行させ,さらに,平成7年8月24日,Bが作成したものでないと認識しながらB名義の訴訟委任状を裁判所に提出して,Bの意思確認を何らしていないにもかかわらず,平成5年証書がBの意思に反するとして,Fを被告とする平成5年証書の無効確認等の訴えを浦和地方裁判所に提起したことを認めることができる。このような弁護士としての活動は,Bの権利を侵害するものであって容認しがたいものである。被告は,法廷において,被告はBの代理人として行動していたのであって,原告の代理人という意識はない趣旨の供述をしているが,むしろ,原告の利益確保のために活動し,利益相反行為についてBの利益の擁護については何ら顧慮していなかったものと推認できる一方,被告の活動は前記のとおり原告に対する事務処理としても不十分というほかない。なお,乙第55号証,乙第79号証の1,2によれば,被告事務所においては,裁判所に提出する委任状について,依頼者に署名押印させずに事務所において作成し,そのために事務所においては「めくら判」と称する印鑑を100本以上用意していることを認めることができ,被告は,Bから署名押印をしてもらうことなく委任状を作成することが正常な業務であると主張するが,基本的にはそのような業務活動自体非難されるべきものである。

エ  以上によれば,被告の事務処理は著しく不適切で不十分な対応であるといえる。なお,原告は,甲第7号証及び乙第2号証の意味合いや弁護士費用の総額について説明しなかったことを説明義務違反として主張するが,前者については,上記認定の委任事務処理違反に包摂されるものと考えられる。後者については,弁護士としての活動もそれに応じて変化せざるを得ないのであって,紛争が動態的に変化することがあり得ることを考えると,直ちに債務不履行になりうるものか断定できないというべきであり,被告が原告の代理人として提起した訴訟について説明をしていないとの主張については,これを認めるに足る証拠はなく,かえって,被告本人尋問の結果によれば,逐一説明をしていたことが窺われる。

2(1)  次に,原告は,Bの公正証書遺言等を作成することによって,Bの相続財産を全部取得することができたはずであるとして損害額を主張するので,この点について検討を加える。

前記認定のとおり,Bが相続財産をFに取得させるとする平成5年証書や平成4年遺言が存在する一方,Aの遺産分割についてBの相続分の2分の1を原告に取得させるとする平成4年証書,Bの財産全てを原告に贈与するとする平成6年5月25日付けのメモや平成7年5月及び6月作成の死因贈与契約書,さらには平成5年10月20日付けのA及びBの遺産全部を相続人全員に平等に分配するようにとするメモが存在することが明らかであり,また,被告が平成7年8月お盆のころに原告宅を訪ね,Bと面会したときは,Bは自発的にかつ明確に意思を表明できる状態ではなく,同年12月12日に死亡しているのであって,被告が原告から委任を受けた平成7年5月上旬ころ,Bの意思能力があったか疑問が残る。

原告は,平成7年5月12日,Bを無断で博愛記念病院から連れ出し,自宅に搬送したが(前提となる事実),甲第10号証及び弁論の全趣旨によれば,Bは,平成3年8月5日から平成7年5月13日まで,高血圧症,冠不全,多発性脳梗塞,変形性関節症などにより博愛記念病院に入院していたものの,意識清明で特変がないこと及び平成5年証書を作成した平成5年8月5日当時は署名押印を自らできる状況にないことを認めることができる。そして,乙第23号証によれば,前記平成4年証書作成の際,原告は,強引に博愛記念病院のI医師に立会人として署名するように求め,立ち会っていないI医師に署名指印させたこと,I医師は,医師として,Bの精神状態について,相手の質問に対して返答することはできるが,財産等の処分に関する判断能力があるかについては断言することはできない旨の証言をしていることを認めることができ,さらに,乙第31及び第33号証によれば,C及びEが,平成5年10月20日,博愛記念病院に入院中のBに対し,Bの相続財産全部をFに譲渡したのかを問い質したところ,そのようなことはしていないと言って同日付けの「ゆいごんしょ」と題する書面を作成するとともに,歩行できない状態で退院などできないにもかかわらず「もうすぐ退院できるからもう来なくてよい」などと述べたことを認めることができ,Bが自己の状況を正しく認識できていなかったことを推認することができる。

そうとすると,Bは,博愛記念病院から退院した当時,意識清明であったとしても,法律的な問題についてその効果がどのようになるかを判断する意思能力を有していたかについては疑わしい。

したがって,被告が原告の求めに応じて,Bの公正証書遺言を作成したり,又は,被告が立ち会うなどして原告及びB間の死因贈与契約書を作成したとしても,Bにおいて,全相続財産を原告に遺贈又は贈与する意思が存在したことを認定するまでの高度の蓋然性は存在しないというべきであり,原告が徳島訴訟で敗訴したことによる損害と被告の弁護活動と因果関係を認めるには足りない。

(2)  次に,原告は,期待権侵害を理由に慰謝料を請求している。原則として,期待権は,主観的な期待というに止まり,法的に保護に値する利益とは考えられないというべきである。しかしながら,適時に適切な弁護活動を受けることは弁護士に委任した者が誰しも願うことであり,信頼関係を基礎にし,専門的な事務処理を弁護士に委ねる委任契約にあっては,弁護士の事務処理について,委任者としては受任者たる弁護士にある程度の裁量を与えざるを得ないという構造を有しているのであり,そのような弁護士が一般的に期待される弁護士としての事務処理から著しく不適切で不十分な対応しかしなかったと認められる場合には,損害賠償請求を認めることができると解する(最高裁判所第一小法廷平成17年12月8日判決民集島田仁郎補足意見)。

そして,本件における被告の弁護士としての事務処理は,前記認定のとおり,著しく不十分であると認定できる。ただ,原告が平成7年5月12日にBを博愛記念病院から連れ出すなどの経緯及び当時のBの状態等をも踏まえ,原告に200万円の限度で慰謝料請求を認めることが相当である。

3  被告の過失相殺の主張は,徳島訴訟における原告の訴訟活動をいうものであるから,徳島訴訟で原告が敗訴したことによる損害と被告の弁護活動との因果関係を認めない以上,関係がなく,また,他に原告に過失相殺すべき事情は認められない。

4  被告の信義則違反の主張については,乙第35号証によれば,被告が原告に対して弁護士報酬を請求した事件において,裁判上の和解が成立したのは,平成9年7月28日であり,和解条項の第3項に「原告と被告らとの間には,本件に関し,本和解条項に定めるほか,何らの債権債務のないことを相互に確認する」との清算条項があることを認めることできる。同清算条項としては,「本件に関し」という限定が付されており,甲第10及び第11号証によれば,徳島訴訟の1審判決の言渡日が平成12年3月31日であり,控訴審判決の言渡日が平成14年8月9日であることを認めることができるから,少なくとも原告の意思としては,本件損害賠償請求を含め,被告との一切の権利義務関係が消滅したことを確認したものと解することはできない。したがって,この点の被告の主張は理由がない。

また,原告の本訴請求を一部認容するのであるから,これを不当訴訟として損害賠償を求める反訴請求が理由がないことも明らかである。

5  よって,原告の請求は,200万円の慰謝料及び訴状送達の日の翌日から遅延損害金を請求する限度で理由があるからこれを認容することとし,原告のその余の請求及び被告の反訴請求は理由がないので,主文のとおり判決する。

(裁判官 近藤昌昭)

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