さいたま地方裁判所 平成18年(ワ)192号 判決 2007年6月29日
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,4486万3789円及びこれに対する平成18年2月28日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
1 原告は概ね次のとおりの事実経過を主張する。
原告は,原告が勤務していた学童保育所(以下「本件保育所」という。)での勤務中,本件保育所の生徒であるA(以下「A」という。)と接触し,転倒して頭を打った(以下「第1事件」という。)。原告は,同日,B外科胃腸科医院にて第1事件による負傷について頚椎捻挫と診断され,治療を受けた。原告は,第1事件による負傷について治療を継続したものの症状が回復しなかったため,C総合病院へ転院し,頭部のMRIの撮影を受けたところ,外傷性硬膜外血腫と診断され,頭部の手術を受けた。その後,原告は,D大学医学部脳外科において診断を受けたところ,前頭葉に水が溜まっており,事故後40日以内に手術していれば後遺症は残らなかったと診断された。このため,原告は,B外科胃腸科医院の頚椎捻挫という診断及び治療が誤っていた(以下「第2事件」という。)ために原告に後遺症が残ったと考えた。そこで,原告は,弁護士である被告に対し,第1事件についてAの両親から損害賠償金の支払を受けることを依頼し(以下「本件委任契約a」という。),第2事件についてB外科胃腸科から損害賠償金の支払を受けることを依頼した(以下「本件委任契約b」という。以下,本件委任契約aと本件委任契約bを併せて「本件各委任契約」という。)。
2 本件は,被告が本件各委任契約に基づく第1事件及び第2事件(以下「本件各事件」という。)の解決に向けた措置を執らなかったためにいずれも消滅時効が完成してしまった(以下「本件弁護過誤事件」という。)として,原告が,被告に対し,債務不履行に基づき,本件各事件について原告が得られたであろう金員相当額等の損害賠償及びこれに対する遅延損害金の支払を求める事案である。
3 前提事実(証拠を掲記しない事実は,当事者間に争いがない。)
(1) 原告は,昭和5年5月21日生まれの女性である。(甲3)
(2) 被告は,弁護士である。
(3) 原告は,平成5年2月1日,当時原告が保育所指導員として勤めていた本件保育所において,本件保育所の生徒であるAとの間で第1事故に遭った。
(4) 第2事件について
ア 原告は,平成5年2月6日,B外科胃腸科医院から,2週間の休養加療を要する見込みの頚椎捻挫と診断された。(甲2)
イ 原告は,平成5年3月19日に初診を受けたC総合病院から,平成13年11月20日,両側慢性硬膜下血腫と診断された。(甲3)
ウ 原告は,平成7年7月29日,E大学附属病院から,完全には改善不可能と考えられる外傷性硬膜外血腫後遺症と診断された。(甲4)
(5) 原告から被告に対する金員の支払等
ア 原告は,平成6年11月2日,被告に対し,10万円を支払った。
イ 原告は,平成6年11月14日,被告に対し,20万円を支払った。
ウ 原告は,平成8年1月25日,被告に対し,10万円を支払った。
エ 平成8年1月25日付の被告から原告宛の領収証が2通あり,1通(甲12)には件名欄に「医療過誤事件(証拠保全)」,報酬金襴に「100000」,もう1通(甲13)には件名欄に「医療事件」,実費欄に「¥100000」,その備考欄に「証拠保全の申立費用として」との記載がある。(甲12,13)
オ 平成10年1月29日付の被告から原告宛の領収証が1通あり(甲11),件名欄に「医療事件」,着手金としての報酬欄に「¥400000」との記載がある。(甲11)
(6) 被告の本件各委任契約に基づく任務の処理について
ア 被告は原告に対し,労働者災害補償保険から支給される金員が,どのような名目で支給されるか教えていない。
イ 被告は,本件委任契約bに基づく原告のカルテ等の証拠保全を行っていない。
(7) 本件各委任契約締結後の原告・被告間のやりとりについて
ア 原告は,平成15年4月17日,被告に対し,消滅時効を心配するとともに,第1事件についての相手方との話の進展具合の報告を求める内容の内容証明郵便を送った。(甲8)
イ 原告は,平成16年1月13日,被告に対し,消滅時効を心配するとともに,労働基準監督署の返事の件,示談に応じるならば解決できるのか否か,被告との面談の機会設定などの事柄について連絡を求める内容の内容証明郵便を送った。(甲9)
ウ 原告は,平成16年2月5日,本件各委任契約につき,被告を解任した。
エ 被告は,平成16年3月5日,原告に対し,本件各委任契約の着手金等として原告が被告に支払った40万円を返還した。(甲5)
オ 原告は,平成17年8月13日,被告に対し,本件弁護過誤事件に関し,最低1000万円の損害賠償を求める内容証明郵便を送った。(甲10)
(8) 本件訴状は,平成18年2月27日,被告に送達された。(当裁判所に顕著である。)
4 争点
(1) 本件各委任契約の内容
(原告)
ア 本件委任契約aでは第1事件についてAの両親から損害賠償金の支払を受けること,本件委任契約bでは第2事件についてB外科胃腸科医院から損害賠償金の支払を受けること及びそのための証拠保全を,それぞれ依頼した。
イ 本件各委任契約の内容の詳細は決まっているわけではなかったが,弁護士である被告に委任した以上,被告が適切に対処するのが当然である。
(被告)
ア 本件委任契約aを締結した段階では,原告が誰に対しどのような請求をし得るか確定的ではなかったし,本件保育所指導員の立場にある原告がAの両親に対して損害賠償請求できるか疑問があった。また,第2事件については,B外科胃腸科医院に対する責任追及が可能かどうか疑問があった。むしろ,当初の本件各委任契約の内容は,労災保険等各種保険の適用等を含め,原告が何らかの補償を受け得る手続を進めること及びその手続について原告に必要な助言・指示を行うことに主眼があった。
イ 証拠保全については,必要があれば申し立てるという条件付で受任し,様子を見たが,必要があるとは感じられなかった。
(2) 本件各委任契約に基づく被告の弁護活動に過誤があったか。
(原告)
ア 第1事件に関しては,原告にも過失があったかもしれないが,Aの両親に対する責任追及を行うべきであったことには変わりはない。被告は,弁護士として,勝つことができなくても,Aの両親に対し責任追及を行い,原告に有利な結果をもたらすべきだったが,それをしなかった。
イ 本件委任契約a後,原告は,被告に対し,原告が入院・通院した病院名の一覧表を送った。その後,被告から原告に対し5,6枚の診断書が送られてきて,被告は電話で「証拠保全をやったから安心して」と言った。しかし,実際には証拠保全は行われていない。
ウ 本件委任契約a後,原告は被告の事務所に何十回も電話を架けたが,裁判中,外出中,来客中などと言われて連絡が取れず,事務所から指定された30分後に再び電話し直すなどしても,被告が不在で連絡が取れないことが度々あった。被告とは,10年間の間に面談が2回,電話が2回しか満足に連絡が取れなかった。
エ 原告は,平成15年4月17日と平成16年1月13日の2度にわたって,被告に対し,消滅時効の心配を伝えるとともに,事件の進捗状況の報告を求めたが,被告からの返事はなかった。
オ 原告は,労災保険の適用を受けるため,春日部労働基準監督署(以下「労基署」という。)へ行った。労基署は原告の病状を尋ねるために何度か被告に連絡をしたが,被告は全く返事をしなかった。また,被告は原告に対し,労災保険から治療費が支給されることなど,どのような名目で支給されるか指導していない。
(被告)
ア 被告は,本件委任契約aについて,原告の代理人として本件保育所が加入していた保険会社の代理人と補償についての交渉をしたが,双方の提示補償額に余りにも差があり,交渉は合意に至らなかった。
イ 被告は,原告から連絡があったときは,何回かに一度は原告に連絡し,そのたびに1時間を下らない時間,電話ないし面接した。
ウ 被告は,本件委任契約a締結当時,原告の症状が治癒ないし症状固定していなかったため,原告に対し,原告の症状が治癒ないし症状固定に至ったら被告に連絡し,「公的事故の証明書」を添えて労基署に手続を申請するようにアドバイスした。また,労基署から被告に連絡があったときは,被告が知り得る限りで対応し,被告が労基署に出向くこともあった。さらに,「公的事故の証明書」が必要といわれたために被告が用意して労基署に持参したこともあるが,そのときはその「公的事故の証明書」(乙1)は既に提出済みといわれた。なお,被告が平成16年2月5日に解任された後,同月6日,当該「公的事故の証明書」(乙1)を新たに原告が委任したという弁護士に渡したところ,間もなく労災保険給付がされている。
エ 証拠保全については,B外科胃腸科医院に対し,必要があれば申立手続をするという条件付で,証拠保全申立手続費用の実費として10万円を受領した。しかし,その後,原告は時々被告に電話してきて,症状が改善しないので別の治療を受けるといって新たな治療を開始し,パンフレットや治療内容を書いたメモ用紙,領収書類を段ボール箱いっぱいに詰めて被告の事務所に送ってきた。また,面談の際に原告は元気な様子であるにもかかわらず,病状が拡大していった。そのため,被告は原告の病状が第1事件や第2事件と関係があるかどうか疑問を抱き,証拠保全の申立てをするかどうかについても様子を見ることとした。
(3) 被告の弁護過誤が認められた場合の損害額及び因果関係
(原告)
第1事件については,症状固定日が平成14年1月10日であるから,消滅時効は平成17年1月9日に完成している。第2事件については,消滅時効は原告がB外科胃腸科医院で治療を受けたのは平成5年2月1日であるから,消滅時効は平成15年1月31日に完成している。これらにより,被告の過誤のために原告は第1事件及び第2事件で取得し得た合計4486万3789円(内訳は別紙請求額一覧表(省略)のとおり)の金額を取得することができなくなる損害を受けた。
(被告)
争う。
第1事件については,原告は代理監督者の地位にあるから,原告自身に責任があり,Aの両親に対してもともと責任追及はできなかったのだから,原告に損害はない。また,事故態様がサッカーなのか相撲なのか等,不明である。
第2事件については,第2事件でB外科胃腸科医院の責任が認められることが必要であるところ,B外科胃腸科医院の診断及び治療行為と原告の損害発生との因果関係等がないから,もともとB外科胃腸科医院の責任は認められず,原告に損害はない。また,原告は「外傷性硬膜外血腫」と診断されたことを主張するが,別個の症状である「両側慢性硬膜下血腫」と診断されていることもあること,慢性硬膜下血腫は頭部外傷以外によっても発症する可能性があることから,因果関係が不明である。
後遺障害等級の認定は平成16年4月6日ころになされているから,消滅時効の起算点は平成16年4月6日ころというべきであるが,これ以前の平成16年2月5日に被告は解任されている。したがって,消滅時効完成による損害につき被告は責任を負わない。
時効の起算点を平成14年1月10日としても,消滅時効の完成時には既に被告は解任されているから,やはり責任を負わない。
(原告の反論)
原告の後遺障害の症状固定日は平成14年1月10日である。
時効の完成時に被告が解任されていたとしても,被告が解任された原因が被告の弁護活動の不手際にあるのだから,解任後も被告は責任を免れない。
また,被告が受任している期間中に,第2事件の証拠となり得るカルテ等の保存期間が経過してしまったのだから,証拠保全をしなかったことによる損害についての責任は免れない。
第3争点に対する判断
1 認定事実
前提事実及び後掲各証拠並びに弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
(1) 第1事件について
ア 平成5年2月1日夕方ころ,本件保育所において,原告らと相撲をして遊んでいたAが,立ってズボンを直していた休憩中の原告に飛びつき,その反動を受けて原告は,後ろに倒れ,後頭部や背中を地面に打ちつけ,負傷した。(前提事実,甲1,乙1,7)
(上記事実認定の補足説明)
第1事件後まもない平成5年7月14日に原告は被告に対し相撲をしていたといったこと,当時本件保育所の指導員であったF(以下「F」という。)はサッカーとも相撲とも述べているが,相撲であるとの供述の方が先になされており,かつ,公的事故証明書としての供述であることから,相撲をしていたと認められる。
イ 第1事件について,加害者側とされるG外9名は,弁護士H(以下「H」という。)に交渉を委任した。Hは,原告と面接交渉を行おうとして,平成6年2月28日付で原告に対し受任通知を行うとともに,近いうちに面接交渉をしたいと申し入れた。(甲14)
(2) 第2事件について
ア 原告は,平成5年2月1日,第1事件による負傷の治療のため,B外科胃腸科医院へ行き,治療を受けた。(甲2)
イ 原告は,平成5年2月6日,B外科胃腸科医院の医師I(以下「I」という。)から,第1事件による負傷について,頚椎捻挫,2週間の休養加療を要する見込みとの診断を受けた。(甲2)
ウ 原告は,平成5年3月19日に初診を受けたC総合病院から,平成13年11月20日,両側慢性硬膜下血腫と診断された。(甲3)
エ 原告は,平成7年7月29日,E大学附属病院から,完全には改善不可能と考えられる外傷性硬膜外血腫後遺症と診断された。(甲4)
(上記事実認定の補足説明)
原告は,D大学医学部脳外科において,事故後40日以内に手術していれば後遺症は残らなかったことを診断された旨供述するが,これを裏付ける客観的証拠はなく,原告の供述は後述のとおり全体的に信用性が低いため,この原告の供述はにわかに信用できない。
(3) 本件各委任契約が締結される経緯,本件各委任契約の内容,被告の事務処理等について(乙2,5,原告及び被告各本人尋問の結果)
ア 原告は,平成5年7月14日午後2時ころ,元市議会議員J(以下「J」という。)の紹介で,被告と初めて会い,第1事件について相談した。被告は,相談時に,第1事件の事故の内容,原告がいまだ治療を続けていることなどを聞き,原告に対し,そのような事故に遭ったときには今後どのようなことができるかという一般的な手続,原告個人が損害賠償責任保険に入っているならば請求の手続をした方がよいことなどを説明した。この日は,着手金は支払われていない。(乙6の1ないし3,7)
(上記事実認定の補足説明)
原告は,乙6の1ないし3などの証拠の信用性を争うが,乙4,6の1ないし3,7にはいずれも外観上及び内容上不自然な点はなく,これらの信用性を疑わせる証拠は見当たらないから,これらを信用するのが相当である。
イ 原告は,平成6年2月28日ころ,第1事件についてHから通知書(甲14)を受け取り,その後間もない時期に,被告と2度目の面接をした。この日も,着手金は支払われていない。その後,被告は,原告から本件保育所は学童保育に関する事故に備えた保険に加入していると聞いていたため,当該通知書を見て,Hと連絡を取って当該保険から原告が支払を受けられるよう交渉したが,Hは,原告が既に治癒しているので,その範囲での損害賠償にしか応じられないという態度だったため,交渉はそれで終わった。被告は原告に対し,このような交渉結果を電話で伝えた。
ウ 平成6年11月2日,被告は,原告と面談し,Hとの交渉結果からすると,原告がこのまま治療を続けて,完治又は症状固定した段階でもう一度Hと話し合い,まとまらなければ裁判所に調停申立をする可能性などがあることを伝えた。被告に委任したいということで,原告が被告に対しお金を支払いたいと言ったが,原告の損害額が確定していないため損害額に応じて決まる着手金も確定できなかったので,被告は,損害額が確定できない場合に行う通常の場合と同様に,着手金として原告にとりあえず30万円を支払ってもらうこととし,原告と被告との間に本件委任契約aが成立した。本件委任契約a締結当時,被告が早期に行うべき受任事務が明確に決まっていたわけではなく,将来原告の症状が固定したらHなどの加害者側の者と交渉をすること,それまでの間に原告から相談したいことがあれば被告に相談すること,原告が受けられる補償制度などがあれば助言することなどが被告がなすべき事務の内容であった。このようにして,平成6年11月2日,被告は原告から,着手金の内金として10万円の交付を受け,領収証(乙3)を交付した。また,原告は,平成6年11月14日,被告に対し,銀行振込の方法で,着手金の残金として20万円を支払った(甲5)。
エ 時期は不明であるが,原告と被告とが電話しているときは,なかなか原告が話を止めずに,1時間近く話し続けることが何度もあった。また,被告の事務所で会ったときに,原告は被告に対し,第1事件や第2事件とはほとんど関係のない話をしたことがあった。一方,原告から被告の事務所に電話を架けると,事務員が出て,被告は電話に出られない旨言われて被告と電話で話せないことが何度もあった。被告は,原告と電話で話すと長時間電話から離れられないと考え,原告から電話があったことを事務員から聞いても,毎回原告と電話で話をしようとしたわけではなく,数回に1回の割合で電話に出た。
オ 原告は,自分が受ける治療のパンフレットや,治療を受けたことによる治療費の領収証等を,長くとも3,4か月くらいの間隔で,何年にもわたり間断なく,被告の事務所に送り続けた。原告が被告に送った書類の中には民間療法に関するものも多く含まれていて,その量は1回に段ボール箱一杯ほどの量に達することもあった(弁論の全趣旨)。また,被告は,原告と会うと元気なように見えるが,原告が被告に申し述べる症状は回復しないどころか一層拡大していることから,原告の症状が本件各事件と関係があるか疑問を抱くようになった。
カ 被告は,本件委任契約a締結後,本件委任契約b締結ころまでの間に,知り合いの複数の弁護士やJから原告の言っていることはちょっとおかしいので注意した方がよいなどと聞かされた。
キ 平成8年1月25日,このころ原告がB外科胃腸科医院に医療過誤があったのではないかということを強く訴えていたため,被告は,証拠保全をしてみなければ医療過誤があるかどうか分からないといって,証拠保全をすることを提案した。そこで,原告は被告に対し,証拠保全申立手続の実費として,10万円を支払い,被告から被告の事務員が記載した領収証(甲13)の交付を受けた。このとき,本件委任契約bが成立した。本件委任契約bの内容は,証拠保全を申し立てるというものであるが,どの場所に所在しているどのような証拠の保全を求めて,どの時期に申し立てるかということは明確には決まっていなかった。その後,原告から平成8年1月25日の10万円の支払について領収証の再発行を求められたため,被告は同日付の被告が記載した領収証(甲12)を再発行した。原告は,証拠保全申立費用が10万円で足りるとは考えておらず,必要があれば後から請求されるだろうと考えていた。また,被告は,B外科胃腸科医院が頚椎捻挫と診断したことが医療過誤であるとすれば診断書があるのだからあえて証拠保全の申立が必要性があるか疑問を抱いていた。(甲12,13,乙5)
(上記事実認定の補足説明)
原告は,被告が証拠保全をしたから安心してと述べた旨主張し,原告本人尋問においてこれに沿った供述をする。しかし,後述するとおり,全体的に被告の供述は客観的証拠に整合し信用性があるところ,被告はかかる発言をしたことはない旨供述していること,他方後述するとおり,原告の供述はあいまいで,矛盾する点が多く全体的に信用性が低いこと,特に証拠保全に関してはどこの病院に対する証拠保全か不明確であって極めてあいまいであること,証拠保全をしていないにもかかわらず証拠保全をしたとの明らかに虚偽の供述を被告が行う動機が認められないことなどから,被告が,証拠保全をしたから安心してと述べたとは認められない。
また原告は,本件委任契約bが成立した時期は平成8年以前である旨供述するが,客観的証拠(甲5,12,13)に比して信用性が乏しいため,信用できない。
ク 被告は,平成10年1月ころ,事務員から,原告がそれまで支払った分の領収証をまとめてほしいという要請をしていたと聞いたため,事務員に40万円の領収証(甲11)を再発行させて原告に送らせた。
ケ 被告は,平成9年から平成10年ころ,遅くとも平成10年7月25日よりは前の時期に,原告の治療期間が伸びているので後遺障害や因果関係について公的な判断を残しておいた方が良いと考え,原告に対し,労災申請の手続をするように助言した。(甲25)
コ 原告は,平成14年ころ,被告に電話し,症状固定しそうであることを伝えた。これを受け,被告は,原告に対し,症状固定したら医者から後遺症診断書をもらい,労基署に申請をするよう助言した。
(4) 本件各委任契約が解約されるに至る経緯について(原告及び被告各本人尋問の結果)
ア 原告は,平成15年4月17日,被告に対し,労基署が第1事件の事故当日の状況の分かるもの及び第1事件の相手方との話の進展のあらましの説明を求めているので同月25日までに労基署に連絡するよう求めるとともに,消滅時効を心配する内容の内容証明郵便(甲8)を送った。被告はこれを受け取った後,同月25日ころ,労基署へ行き,原告の担当官と会い,事故当日の状況が分かるものとして,公的事故証明書(乙1)を提出しようとした。しかし,労基署の原告を担当する担当官が当該公的事故証明書は既に出ていると言ったので,被告は帰った。被告は,自身が労基署へ行ったことなどを原告に伝えなかった。(甲8,乙1)
イ 原告は,平成16年1月13日,被告に対し,消滅時効を心配するとともに,労基署から資料の請求を受けているはずなので返事をすること,原告が示談に応じるならば解決できるのか否か教えてもらいたいこと,同年2月末までに被告と面談の機会を持ちたいので日取りを設定してほしいことなどの内容を記載した内容証明郵便(甲9)を送った。被告は,これを受け取った後,原告が求めている同年2月末までの間に,原告と面談の機会を持とうとしたが,具体的な日程を決めたわけではなく,原告に連絡することもなかった。(甲9)
ウ 原告は,平成16年2月5日,怒鳴り込むように被告の事務所を訪れ,他の弁護士に頼む,被告に預けてある書類と着手金を返還してもらいたいなどと言って,本件各委任契約につき,被告を解任した。
エ 被告は,平成16年2月6日,原告に頼まれたK弁護士から連絡を受けた。K弁護士によると,第1事件の公的事故の証明書があれば原告に労災保険給付がなされるとのことで,被告が公的事故の証明書を持っていれば送ってほしいということだったため,被告は,K弁護士に対し,公的事故証明書(乙1)を郵送した。(乙4)
オ 被告は,平成16年3月5日,原告に対し,本件各委任契約の着手金及び証拠保全申立手続費用として原告から受け取った合計40万円を返還した。(甲5)
カ 原告は,平成17年8月13日,被告に対し,本件弁護過誤事件に関し,最低1000万円の損害賠償を求める内容証明郵便を送った。(甲10)
キ 平成17年10月ころ,原告と被告は,2,3回,被告の事務所において話合いを行った。その際に,被告は,原告が平成14年1月10日に症状が固定したということで平成16年4月6日付で労災保険の一時金支給決定通知(甲6)を受けたことを知った。
(5) 労災保険及び傷害保険関係について
ア 原告は,平成5年7月27日,東京海上火災保険株式会社(以下「東京海上」という。)から,診断書2通,診療報酬明細書2通及び施術証明書の送付を受けた。(甲18)
イ 原告は,平成6年12月29日,東京海上から,保険金20万円の支払を受けた。(甲17)
ウ 原告は,平成14年1月10日に症状が固定し,後遺障害等級12級の12に該当する後遺障害が残った。原告は,平成16年4月6日付で,労災保険に関して一時金支給決定通知を受け,平成14年1月10日に症状が固定したことを知った。(甲6,7)
2 検討
前提事実及び認定事実を踏まえ,以下検討する。
(1) 各供述証拠の信用性について
ア 被告供述の信用性について
被告の供述は,原告が提出する客観的証拠(甲5,6,8ないし14,17,18,25)と不自然な部分なく整合していること,被告や被告の事務所が弁護士業務のために日常的に作成しているため一般的に信用性が肯定され,かつ,作成経緯に疑問があるとも認められない客観的証拠(乙4,6の1ないし3,7)に裏付けられた供述であること,供述内容自体に不自然・不合理なところがとりわけ見あたらないこと,被告自身,保険会社との交渉は良く覚えていない,弁護士として原告に対し不親切な対応があったなどと自己に不利益なことも真摯に供述していることなどから,全体的に信用することができる。
イ 原告供述の信用性について
原告の供述は,供述内容自体いつごろに何があったのかという点等であいまいなことが多いこと,原告から被告に対する着手金の内金10万円,着手金の残金20万円及び証拠保全申立費用10万円の支払時期,本件委任契約aでの委任内容等様々な点で供述が変遷しており原告の記憶は不鮮明になっていると認めざるを得ないこと,証拠保全申立費用の支払時期及び本件委任契約b締結時期が平成8年以前であったと供述するが客観的証拠である2通の領収証(甲12,13)に反しており,かかる2通の領収証(甲12,13)が後日作成されたと認めるに足りる証拠はないこと,原告が自分の供述に信用性があることの理由として挙げる証拠(甲10)は事後に原告自身が作成した平成17年8月13日付け内容証明郵便であって原告の供述の信用性を高めるには足りないことなどから,全体的に信用することができないといわざるを得ない。
(2) 本件各委任契約の内容について
ア 本件委任契約aについて
認定事実によれば,原告と被告は平成5年7月14日にJの紹介で初めて会ったが,そのときには原告の症状が固定していなかったこともあり,被告は正式に原告から本件各事件について受任することはしなかったが,知己である元市議会議員のJの紹介もあった手前,原告の相談に乗り,賠償責任保険や労災保険についての助言を行ったこと,原告は被告からの助言を受けて東京海上に連絡をして保険金を請求する手続を行ったこと,その後も原告と被告は連絡を取ることがあったこと,平成6年2月28日ころ原告はHから受任通知を受け取り被告に相談したこと,相談を受けて被告は第1事件での原告の補償に関しHと交渉を行ったこと,同年11月2日に被告が原告にHとの交渉結果を伝え今後の方針なども伝えると原告はお金を払って正式に委任したいと述べたところ,請求額が未確定であるため着手金30万円として本件委任契約aが締結されたこと,その当時原告の症状は固定していなかったことが認められる。このような経緯からすれば,本件委任契約aは,第1事件に関して加害者であるAやその両親,本件保育所が加入していた保険の保険会社などに対して,原告の症状が完治又は固定した段階で,損害賠償や保険金等の請求をするとともに,労災保険給付等の原告が受けられる補償について相談・助言を行う内容であったと認めるのが相当である。
イ 本件委任契約bについて
認定事実によれば,原告と被告が電話をした際には1時間近く原告が話し続けることがあったこと,原告が被告と被告の事務所で会ったときには事件とほとんど関係のないことを話をすることがあったこと,本件委任契約a締結後,原告が申し述べる症状は回復しないどころか拡大しているように見えたため被告は原告の症状と本件各事件との因果関係に疑念を抱いていたこと,被告は知人の複数名の弁護士やJから原告の言っていることはちょっとおかしいので注意するよう聞いていたこと,原告はいろいろな民間療法を行うようになり,段ボール箱一杯にもなることのあるほどの量のパンフレットや領収証等を,被告の事務所に長くとも3,4か月に1回の間隔で送りつけてきたこと,平成8年1月25日ころには原告はB外科胃腸科医院に医療過誤責任があると強く訴えていたこと,そのような原告の様子を見て被告は原告を安心させたいと思うとともに原告に煩わされたくないとも感じていたこと,そして平成8年1月25日,被告が原告に対し証拠保全を行わないとB外科胃腸科医院に医療過誤責任があるかどうかが分からないと言ったことで,明確にどのような証拠保全を行うとは決めずに,原告が被告に対し証拠保全申立手続費用として10万円を支払い,本件委任契約bが成立したことが認められる。このような事実経過からすると,本件委任契約bはB外科胃腸科医院に対する医療過誤責任追及のために証拠保全の申立を行うという内容と認められるが,B外科胃腸科医院に対して証拠保全を申し立てるかということを含め,具体的にいつ,どのような証拠を求めて,どこに対して証拠保全を申し立てるかといったことが決まっていたわけではなかったというべきである。
さらに,被告はB外科胃腸科医院に医療過誤責任があるかどうかについてかなり疑問を抱いていたこと,また被告はB外科胃腸科医院が頚椎捻挫と診断したことが医療過誤であるとすれば診断書があるのだからあえて証拠保全を申し立てる必要性があるか疑問を抱いていたこと,本件委任契約bについての原告から被告に対する10万円の支払に関する領収証1通(甲13)は証拠保全の申立費用としての実費とされ,再発行されたもう1通の領収証(甲12)は証拠保全の報酬金とされていて,支払の名目が確定していないことなどの事実関係も加えると,本件委任契約bの内容は,仮にB外科胃腸科医院の責任が認められそうであると被告が判断したときなど必要があると被告が認めたときに,適切な時期・対象等を被告が決定し,証拠保全を申し立てるという内容の契約であったと認めるのが相当である。
(3) 本件各委任契約に基づく被告の弁護活動に過誤があったか。
ア まず,一般的に弁護士が委任契約に基づき負う債務の内容について述べると,弁護士は依頼者に比して高度な法的専門知識・技能を有しているのだから,受任した業務について,善良なる管理者としての注意を払い,専門家として通常有する水準以上の事務処理を行うとともに,その過程で依頼者に対し適切に説明・助言・報告等を行うべき債務を負っていると解される。
イ 本件委任契約aについて
前記の本件委任契約aの内容からすれば,被告が行うべき主たる業務は,原告が症状固定してからのAら加害者側の者との交渉ということであるが,本件委任契約a締結前に被告はHと交渉をしたが原告の症状が固定しないと話はまとまりそうもなかったこと,被告は解任されるまで原告の症状が固定したことを知らなかったこと,原告から被告の事務所へは定期的に民間療法のパンフレットや領収証等が送られてきていたことなどの事情に照らすと,本件委任契約a締結後解任までは時間的に10年近く経過していることや解任前に原告の症状は既に固定していたこと,被告は原告に症状固定の見込みについて頻繁には尋ねていないことなどの事情があるとしても,本件委任契約a締結後,被告が解任されるまでの間に,被告がAら加害者側の者と交渉すべきであったとまではいえない。
また,本件委任契約aの内容としては,原告に対し助言するということも含まれているが,被告は本件委任契約a締結前から損害賠償責任保険や労災保険について原告に対し必要な助言していること,本件委任契約a締結後にも電話で対応することがあったこと,被告の知る限り原告の症状は固定していなかったことなどの事情に照らすと,原告に対する助言としては十分すべきことをなしていたというべきである。なお,原告から電話がかかってきても被告が出ないことや原告からの内容証明郵便に答えないことがあったとしても,既に当時の状態の原告に対して行える助言は一通り尽くされているといえるし,原告の内容証明郵便を受けて被告は労基署を訪問するなどの行動をしているから,被告に債務不履行があることにはならないというべきである。また,損害賠償責任保険や労災保険の手続を被告が行わなかったことについては,そもそも被告が負っている債務は助言にとどまるというべきであるから,債務不履行とはならない。
以上より,本件委任契約aについて,被告に債務不履行はない。
ウ 本件委任契約bについて
(ア)前記の本件委任契約bの内容からすれば,被告が行うべき業務は,B外科胃腸科医院の責任が認められそうであるなど,必要性があると被告が判断したときには適切な時期・対象等に証拠保全を申し立てるというものである。そして,本件委任契約b締結時から本件各委任契約が解約されるまでの間,原告が申し述べる症状が拡大している点や原告がいろいろな民間療法を受けている点から被告としては原告の症状が本件各事件とどこまで因果関係があるか疑念を抱いていたこと,かかる疑念は弁護士として本件各事件について調査をした上で抱いていること,2週間の休養加療を要する見込みの頚椎捻挫とのIの診断書が存在していたこと,被告はこの診断書があるのだから重ねて証拠保全をしてIが頸椎捻挫と診断したことの証拠を保全する必要はないと考えていたことなどの事情からすれば,必要性があると判断せずに証拠保全を申し立てなかったとしても,債務不履行があるとはいえないというべきである。
(イ)なお,たとえB外科胃腸科医院の責任がないとしても証拠保全の申立は可能なのであるから,本件委任契約bの内容にかかわらず,被告はとりあえず証拠保全の申立はすべきであったと考えられなくもない。しかし,上記の認定事実に照らすと,本件委任契約bが証拠保全の申立に主眼があったというよりも原告を安心させることにあったと認められること,具体的にどのような証拠保全の申立をすべきかは決まっていなかったこと,医療過誤責任が認められそうもないにもかかわらず,B外科胃腸科医院,C総合病院,E大学附属病院といった関係のある場所複数に対して証拠保全を行うとすると費用がかかるだけで原告に利益にならないおそれがあることなどの事情が認められるのだから,結局,被告に本件事実の下で証拠保全を申し立てておくべき債務があったとは解されない。
(ウ)本件委任契約bについては,被告は原告を安心させるため,原告が本件委任契約bの内容を十分に理解していないことを認識しながら本件委任契約bを締結したことになるが,そのような事情が本件事実関係の下では本件委任契約bの内容や被告の債務履行状況に影響を及ぼすわけではないというのが相当であるところ,その理由について付言する。上記認定事実からすれば,被告は,本件各事件について調査し,原告に対し適切な助言をなし,本件各事件について弁護士として見込みを持った上で,本件各事件の解決として,B外科胃腸科医院への医療過誤責任の追及は難しく,Aら加害者側への責任追及も容易ではないが,原告の症状が完治又は固定すれば,その状態を前提としてAら加害者側と新たな交渉の余地があると考え,証拠保全をしなかったとしても原告に不利益が生じないことを見越し,原告の症状が完治又は固定するまでの間原告と接することの煩わしさを回避するために十分な説明をせずに本件委任契約bを締結したと認められる。本件委任契約b締結当時の状況下におかれた被告としては,説明を十分にせずに本件委任契約bを締結するという方法ではなく,原告と説明・相談等の機会を多く持つ方法や,被告としては適切な解決が見あたらないなどと言って委任契約の解約を勧める方法などもあったというべきであり,また,説明を十分にせずに本件委任契約bを締結するのは,必ずしも相当な行為とはいえない。しかし,本件事実関係の下では,説明を十分にせずに本件委任契約bを締結するという被告の行為に違法性があるとまではいえず,被告の債務不履行の成否に影響をもたらすものではないと解するのが相当である。
(エ)したがって,本件委任契約bについて,被告に債務不履行はない。
エ よって,被告は本件各委任契約について債務不履行はない。
(4) 以上より,その余の点を判断するまでもなく,原告の被告に対する債務不履行に基づく損害賠償請求及び遅延損害金請求には理由がない。
第4結論
以上のとおり,原告の請求には理由がない。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 片野悟好 裁判官 岩坪朗彦 裁判官 佐久間隆)
別紙請求額一覧表
項目
内訳
小計
逸失利益
2,950,000
慰謝料
労災認定に関する慰謝料
2,900,000
通院慰謝料
3,680,000
入院慰謝料
640,000
被告の不作為に対する慰謝料
1,000,000
弁護士費用
340,000
8,560,000
休業補償
5,980,000
医療費
平成5年
2,325,110
平成6年
1,843,582
平成7年
1,804,248
平成8年
2,806,730
平成9年
1,348,158
平成10年
2,423,390
平成11年
2,476,409
平成12年
1,840,612
平成13年
1,637,961
平成14年
1,578,413
平成15年
1,547,836
平成16年
2,957,030
24,589,479
旅費,宿泊費,交通費
平成5年
167,980
平成6年
512,360
平成7年
159,700
平成8年
184,330
平成9年
201,000
平成10年
227,040
平成11年
176,880
平成12年
382,210
平成13年
180,260
平成14年
158,740
平成15年
260,280
平成16年
173,530
2,784,310
合計
44,863,789