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さいたま地方裁判所 平成18年(ワ)2714号 判決 2011年2月04日

主文

1  被告は,原告X1に対し960万円,原告X2及び原告X3に対し各405万円,並びにこれらに対する平成21年1月24日から各支払済みまで年5分の割合による金員をそれぞれ支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は,これを10分し,その3を原告らの,その余を被告の負担とする。

4  この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告X1に対し1363万9285円,原告X2及び原告X3に対し各550万円,並びにこれらに対する平成21年1月24日から各支払済みまで年5分の割合による金員をそれぞれ支払え。

第2事案の概要

1  本件は,被告が設置,経営する特別養護老人ホームに入所していたA(大正15年×月×日生まれ。死亡時の年齢は78歳。)が誤嚥により窒息死した後記2(3)の事故(以下「本件事故」という。)について,Aの相続人である原告らが,被告に対し,主位的には不法行為,予備的には債務不履行に基づき,A及び原告らに生じた精神的損害,葬儀費用,弁護士費用相当額の賠償並びにこれらに対する遅延損害金の各支払を求める事案である。

2  前提事実(争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)

(1)  当事者等

ア Aは,平成7年ころ,多発性脳梗塞を発症し,その後,認知症の症状が現れてきたため,被告が設置,経営する特別養護老人ホームB(以下「本件施設」という。)のいわゆるデイサービスやショートステイサービスを利用していたが,平成16年2月1日,被告との間で,本件施設に長期入所して,その居室及び共用施設等を利用して生活すると共に,被告が提供する介護老人福祉施設サービス等を利用すること等を内容とする介護老人福祉施設利用契約を締結し,同日,本件施設に入所した。

イ 原告X1は,Aとその夫C(平成17年×月×日死亡)の子であり,原告X2及び原告X3は,AとCの子であるD(昭和59年×月×日死亡)の子である。(争いがないほか,甲5,弁論の全趣旨。)

(2)  Aの異食癖

Aには,紙おむつなど食物以外のものを口に入れてしまう異食癖があり,このことは被告においても認識していた(争いがない)。

(3)  本件事故の発生

Aは,平成17年6月11日,疥癬に感染していると診断され,他の入所者への感染を防止するため,同人の居室が相部屋から個室に変更された。Aは,同月20日午後5時45分ころ,同人の居室であった215号室(以下「本件居室」という。)内で,誤嚥により喉を詰まらせているところを本件施設の職員に発見され,救急車でE病院に搬送されたが,同日午後6時42分,死亡した。Aの死因は,誤嚥による窒息と診断されている。(争いがないほか,甲1,乙21,弁論の全趣旨。)

(4)  被告は,本件施設の入所者であるAに対し,安全配慮義務を負っていた(争いがない)。

3  原告らの主張

(1)ア(ア) Aは,本件事故当時,身に着けていた紙おむつ及び尿取りパッド(尿を吸収するための紙製のもので,おむつやパンツに重ねて使用するもの。以下,紙おむつと尿取りパッドを併せて「紙おむつ等」という。)を口に入れて喉に詰まらせたことにより死亡した。Aにはこのように異食癖があったので,原告X1は,Aが本件施設に長期入所する際に,被告に対して,Aに紙おむつを使用しないよう要求していた。また,Aは本件施設に長期入所した後も何度も異食行為に及び,特に平成16年12月12日には,本件事故と同様に紙おむつ等を口に入れて誤嚥し,本件施設の職員が吸引するなどの措置を採っている。したがって,被告は,Aに紙おむつ等を使用した場合には,同人が紙おむつ等を誤嚥し,ひいては命を落とす可能性があることを十分認識していたから,紙おむつ等を使用せずに同人を介護すべき義務を負っていた。それにもかかわらず,本件事故当日,被告はAに紙おむつ等を使用し,本件事故を発生させた。なお,Aに紙おむつ等を使用することについて,原告X1は被告から報告を受けていないし,被告に対して承諾してもいない。

(イ)  布おむつを頻繁に取り替えれば皮膚のかぶれを防ぐことはでき,Aは特段肌が弱い方でもなかったから,被告がAに対して紙おむつ等を使用する必要性はそもそもなかった。たとえAが疥癬に感染していたとしても,布おむつを使用しながら他の入所者への感染を予防することは可能であるから,紙おむつ等を使用すべきではなかったことに変わりはない。

イ(ア) 被告は,異食癖のあるAが異食行為に及ぶことを予防する措置を採るべきであったのに,本件事故当時,同人に後記4(1)イ(イ)のつなぎ介護服(以下単に「介護服」という。)を着用させていなかった。本件施設では,平成11年ころから介護服を使用していなかったから,本件事故当時,本件施設に介護服があったとは考えられないし,本件施設の職員が記載していた「申し送りノート」が改ざんされていることなどからも,Aに介護服を着用させていたという本件施設の職員らの供述は信用することができない。その他,本件事故当時,Aが介護服を着用していたという裏付けはない。

(イ)  仮に,本件事故当時,被告がAに介護服を着用させていたとしても,日常生活に他人の介助を要するような高齢者である同人が自分の力で介護服のファスナーをこじ開けることができるはずはない。本件施設の職員がAのおむつを交換する際に,介護服のファスナーを閉め忘れたか,又は最後まできちんと閉めなかったために,同人は紙おむつ等を口に入れて誤嚥し,本件事故に至った。また,被告がAに着用させていた介護服は,いずれも本件事故時から6~8年前に購入されたものであり,介護服の耐用年数が毎日洗濯して半年から1年とされていることからすると,仮に同人が介護服のファスナーをこじ開けたとしても,それは被告がAに耐用年数を大幅に超えた欠陥のある介護服を着用させていたことを示すにすぎない。

(ウ)  なお,被告は,本件事故当時Aに着用させていたという介護服を証拠として提出していないが,その不提出は証拠の隠匿ともいうべきものであって,証明妨害として評価されるべきである。したがって,介護服の存在を前提とする被告の主張については,原告らに有利に事実を擬制するか,証明責任の分配に当たり十分にしんしゃくされるべきである。

ウ 被告は,本件事故前,異食癖のあるAの居室を目の届きにくい個室に変更したのであるから,万が一同人が異食行為に及んだ場合でもこれに対処することができるよう,少なくとも15分に1回,巡視を行う義務を負っていた。それにもかかわらず,本件施設の職員は,最後にAのおむつを交換してから約1時間30分にわたり巡視をしなかったため,同人が誤嚥したことの発見が遅れ,本件事故を発生させたのであるから,被告に巡視義務の懈怠があることは明らかである。なお,被告がAに介護服を着用させていたとしても,ファスナーの閉め忘れ等により同人の生命に危険が生じることを防ぐために,被告が巡視義務を負うことに変わりはない。

エ 本件事故を発見した本件施設の職員であるFは,Aが誤嚥しているのを確認して看護師に助けを求めているが,発見後,直ちにナースコールを押した上,紙おむつ等をかき出す等の救命活動を行っていれば,同人には救命の可能性があった。被告は,救急時に救命活動を行えるように本件施設の職員を監督すべき義務があったにもかかわらず,FはAが誤嚥した紙おむつ等をかき出すなどの救命活動を行っていないのであるから,被告には上記監督義務の懈怠がある。

(2) 原告らの損害

ア Aの慰謝料  2000万円

(ア)  Aは認知症であったが,肉体的には健康であり,死期が切迫しているわけではなかったのに,被告の過失によって突然の死を迎えなければならなかった。被告は,Aが異食行為に及び誤嚥する危険性を十分に認識していたにもかかわらず,本件事故を発生させたものである上,原告ら遺族や行政機関に対する被告の本件事故後の対応も不誠実極まりないものである。しかも,被告は,本件事故の原因をAが介護服のファスナーをこじ開けたと主張して,その責任をすべて同人になすりつけようとしている。このような被告の態度からすると,Aの精神的損害を慰謝するためには,上記額が相当である。

(イ)  そして,前記2(1)のとおり,Aの夫Cは既に死亡しており,原告X1はAの子,原告X2及び原告X3はAの子であるDの子であるから,原告X1は2分の1の,原告X2及び原告X3は各4分の1の各割合で,それぞれAの上記慰謝料請求権を相続した。

イ 原告X1固有の損害

(ア)  原告X1固有の慰謝料  200万円

原告X1は,被告に対してAに紙おむつを使用しないことを要求していたにもかかわらず,被告は本件事故を発生させた。その上,本件事故後の原告X1に対する説明も不誠実極まりない。このような原告X1の精神的損害を慰謝するためには,上記額が相当である。

(イ)  Aの葬儀費用  39万9285円

原告X1は,Aの葬儀費用として上記額を支出した。

(ウ)  弁護士費用  124万円

ウ 原告X2及び原告X3固有の損害

弁護士費用  各50万円

(3) 原告らの請求のまとめ

よって,原告らは,被告に対し,上記(2)のアの損害については,主位的には不法行為,予備的には債務不履行に基づく損害賠償として,上記(2)のイ及びウの各損害については不法行為に基づく損害賠償として,前記第1のとおりの支払を求める。

4  被告の主張

(1)ア  本件事故は,Aが当時着用していた介護服のファスナーを相当な力でこじ開け,身に着けていた紙おむつを破り,紙おむつの中の尿取りパッドを口に入れ,これを誤嚥したために発生したのであり,被告はこのような事態を予見することができなかった。

イ(ア)  Aには異食癖があったため,被告としても,Aに対して,なるべく布おむつを使用するようにしていたが,同人の皮膚の状態はよくなく,褥創,湿疹,かきむしり傷などがあり,継続して布おむつを使用すると陰部や臀部にかぶれが生じる可能性が高かったために,皮膚の状態に合わせて紙おむつと布おむつを交互に使用していた。なお,Aが本件施設に長期入所する際に,原告X1から被告に対し,紙おむつを使用しないでほしいという要望は特になかったし,平成17年6月17日に原告X1が本件施設を訪れた際には,本件施設の職員は,Aが疥癬に感染したため個室に移動させ,紙おむつを使用していることを原告X1に告げたが,同原告は,紙おむつを使用しないでほしいとは特に述べていなかった。

(イ)  平成17年6月11日,Aは疥癬と診断された。被告は,他の入所者への感染を防止するため,Aの居室を相部屋から個室に変更した上,同人に対し,治療や感染予防のために紙おむつを使用し,併せて同人が紙おむつの異食行為に及ぶことを防ぐため,介護服を着用させることとした。介護服は,頭部及び両手足を除く体全体を覆うもので,上半身の襟元から腹部にかけてと片方の下肢の裾から股下を経由して他方の下肢の裾にかけての2か所にファスナーがあり,これらのファスナーを開けない限りは手を中に入れることができないようになっている。そして,いずれのファスナーも被着用者が自分では開けることができないようになっている。Aは個室に移動してからはこのような介護服を着用していたために,本件事故に至るまで異食行為に及ぶなどの問題行動は見られなかった。

(ウ)  本件事故当日の午後4時30分ころ,本件施設の職員らがAのおむつを交換しているが,その際には,同職員らは介護服のファスナーをきちんと閉じており,ファスナーに破損等もなかった。

(エ)  したがって,被告は,Aの異食行為を防止するために必要な措置を採っていたのであり,被告に安全配慮義務の懈怠はない。Aは両上肢,両下肢とも麻痺や拘縮はなく,ベッド上で上半身を多少起こすことができた上,介護服のファスナーは相当な力で左右に引っ張れば強引に開けることができた可能性はあるから,同人が介護服のファスナーをこじ開けることがあり得ないわけではない。

ウ  また,介護施設においては,人的にも物的にも限界があり,入所者を24時間監視することは不可能であり,社会通念上相当と認められる範囲で監視義務を負うにとどまるから,被告が職員に本件居室を15分に1回巡視させるべき義務を負っていたとはいえないし,仮に15分に1回の頻度で巡視していたとしても,本件事故を回避することができる可能性はなかった。

(2)  原告らの損害については争う。

第3当裁判所の判断

1  認定事実

前記前提事実のほか,証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(1)  Aは,平成7年ころ,多発性脳梗塞を発症し,その後,認知症の症状が現れてきたため,本件施設のいわゆるデイサービスやショートステイサービスを利用していた。ショートステイサービスは,平成14年ころから平成16年2月1日にAが本件施設に長期入所するまで利用していたが,その期間中,着用していたおむつをいじって外したり,紙おむつ等をいじってぼろぼろにしたりすることがあり,平成15年11月27日や同年12月12日には,尿取りパッドを口に入れるという異食行為に及んだ。(乙12,13,弁論の全趣旨)

(2)  平成16年2月1日に本件施設に長期入所した後も,Aは,おむつを外したり尿取りパッドや紙パンツ等をちぎったりすることが頻繁にあり,同月16日,同年3月27日,同年10月6日,同月7日,同月12日,同月20日,同月21日,同月31日,同年11月23日,同年12月8日,同月12日,同月28日ころ,平成17年1月5日,同月14日,同年4月14日,同月15日,同月16日,同月29日,同年5月4日,と多数回にわたり尿取りパッド,おむつ,紙パンツ,ガーゼ,薬の袋,便,湿布等を口に入れるという異食行為に及んだ。これらのうち,平成16年12月12日の異食行為は,ちぎった尿取りパッドを多量に口に入れるというものであり,本件施設の職員がAの口からこれを取り出そうとしても,同人が暴れてしまうため,二人がかりで取り出し,取り出した後も同人に冷や汗や顔色不良などの症状がみられたので,酸素吸入の措置が採られた。また,平成17年1月14日の異食行為も,紙パンツを多量に口に入れて喉に詰まらせるというものであり,本件施設の職員がこれをかき出した。

本件施設では,2か月に1回,「苑だより」と題する書面を入所者の親族に送付していたが,平成17年2月ころ本件施設から原告X1に送付された「苑だより」(以下「本件書面」という。)には,上記平成16年12月12日の異食行為について,「紙オムツを食べてしまい,吸引等行いました。」という記載がある。これに対して,原告X1から特に連絡等はなかった。

なお,Aは,平成17年2月7日,本件施設の職員に誘導されて便所に着座した後,職員らが目を離している間に転倒して左大腿骨を骨折し,翌8日から同年3月1日までE病院に入院していた。(甲2,乙9,12,13,22,証人G,原告X1本人,弁論の全趣旨)

(3)  本件施設の職員は,Aがおむつをいじって外したり,異食行為に及んだりすることがあるため,同人におむつを使用する場合には,原則的には布おむつを使用することとしていたが,同人の臀部や腰部に褥瘡が生じたり,陰部にかぶれが生じたりしたこと,布おむつでは吸水性が高くないことなどから,肌の状態が悪いときには紙おむつを使用させるなど,同人の皮膚の状態に応じて布おむつと紙おむつを併用していた。Aの褥瘡や皮膚のかぶれについては,本件施設の看護師が処置していた。なお,本件施設では,布おむつは業者のリースのものを使用しており,使用済みの布おむつは,そのまま業者が回収していた。(乙9,12,13,18,22,28,証人H,同I,同J)

(4)  平成17年6月11日,Aの全身に湿疹があったことから,医師の診察を受けたところ,疥癬と診断された。このため,本件施設の職員らは,Aの居室をこれまでの4人部屋から個室に変更するとともに,湿疹の悪化と他人への感染を予防するため,同人に紙おむつを使用し,併せて,紙おむつの異食を防ぐため,介護服を着用させることにした。本件施設では,Aの他に疥癬に感染した入所者はおらず,感染経路は不明であった。

当時,本件施設には,平成11年までにその当時の入所者が購入した介護服が複数着あった。

Aは,疥癬と診断されてから,その治療のため,本件施設の職員の介助により毎日入浴し,介護服は入浴の際に交換されていた。使用後の介護服は本件施設で洗濯されていた。

なお,平成10年9月3日付けでK県のL福祉事務所長が管内の老人福祉施設の長あてに発出した「施設内における疥癬の予防対策について」と題する通知(以下「本件通知」という。)においては,疥癬の感染者に対しては紙おむつを使用するよう求めている。(乙6~8,10,11(乙7以外はいずれも枝番を含む。),乙16,18,24,証人G,同I,同J,弁論の全趣旨)

(5)  平成17年6月20日,Aが入浴を終了した後である午後4時15分ころ,本件施設の職員であるHとLが本件居室を訪れ,Aの紙おむつ等を交換した。(乙4,29,証人H,同I,弁論の全趣旨)

(6)  同日午後5時45分ころ,本件施設の職員であるFが,食事の配膳と介助のため,本件居室を訪れたところ,Aが身に着けていた介護服の下肢部分が開いており,紙おむつが破れているような状況であった。そして,Aの口に何か詰まっている様子であったため,Fは直ちに看護師を呼びに行った。

本件施設の職員である准看護師のJは,本件居室に赴いたところ,Aの口からちぎれた紙おむつ等があふれていたので,直ちにFに応援を呼ぶように指示するとともに,これらをAの口からかき出し,その後,応援に来た他の職員と共にAをベッドから床に降ろし,心臓マッサージを実施した。このときAの脈や呼吸は既に停止していた。本件施設の職員によるAに対する心臓マッサージは,JからIに交替しながら,救急隊が到着するまで続けられた。

同日午後5時46分には本件施設から119番通報がされ,同日午後5時52分には救急隊が本件施設に到着した。Aは,引き続き救急隊により救命措置を施されながらE病院に搬送された。

一方,原告X1は,同日午後6時ころ,Iから電話連絡を受け,自宅に迎えに来た同人とともにE病院に向かった。原告X1が同病院に到着した後,同原告は,同病院の医師からAが窒息死したことを伝えられた。(甲13,35,乙5,12,22,証人F,同I,同J,原告X1本人)

(7)  本件施設では,夜間は1時間おきに各居室の巡視をしていたが,昼間においては,なるべく入所者に居室から出てもらうようにするほかは,食事やおやつの配膳,介助,おむつ交換などが巡視を兼ねることとされており,個室の入所者に対しては,一定の時間に巡視するという態勢は採られておらず,これらの間隔が1時間から1時間30分程度開くことがあった。

また,昼間のおむつ交換は,朝食後,昼食後,午後3時のおやつの後,夕食後と計4回行われていた。(乙21,証人G,同I)

(8)  本件施設に長期入所したころのAは,食事,排泄,入浴や衣服の着脱には介助が必要であったが,寝返りを打つこと,座位をとること,起立すること,手すりを使ったり手をつなぎながら歩行することは可能であり,身体に麻痺や拘縮はみられなかった。また,このころの認知症の程度は重度と判定されている。

上記(2)の入院後は,Aは,ほぼ寝たきりの状態となり,一人で起き上がることはできなくなったが,両上肢,両下肢ともに麻痺や拘縮はなく,車椅子に乗ること,物を持ち上げたり,つかむことは可能であり,寝ていたベッドの柵を外したり,身に着けていた布おむつをちぎったりしたということもあった。また,おむつを交換する際には,Aは本件施設の職員の腕をつかみ,抵抗を示すことがあるため,一人が同人の気を引きながら腕を押さえ,その間にもう一人が同人のおむつを交換していた。(乙4,12,15,28,29,証人G,同H,弁論の全趣旨)

(9)  介護服は,頭部及び両手足を除く体全体を覆うもので,上半身の襟元から腹部にかけてと片方の下肢の裾から股下を経由し他方の下肢の裾にかけての2か所にファスナーがあるが,これらのファスナーのスライダーにはつまみがなく,ファスナーが閉じた状態ではスライダーを動かしてファスナーを開けることはできず,ファスナーを開けない限りは介護服を脱いだり,手を中に入れたりすることもできない構造になっている。そして,専用のフックをスライダーに引っかけてファスナーを開ける仕組みになっている。(甲15,25,乙10の3・4,乙11の3,証人Nの供述書,検乙1)

2  被告が,本件事故当時,Aに紙おむつ等を使用していたことが安全配慮義務違反に当たるかどうか

(1)  原告らは,Aには異食癖があり,これを被告も認識していたのであるから,被告は,Aに対し紙おむつ等を使用せずに布おむつを使用すべき義務があった旨主張する。そして,前記認定のとおり,ショートステイサービス利用時から本件事故に至るまでAは紙おむつ等を含む種々の物を何度も口に入れるという異食行為に及び,重大な結果になりかねないこともあったのであるから,被告において,Aに紙おむつ等を使用した場合に同人がこれらについて異食行為に及ぶ危険性については十分に認識していたことが認められる。

しかしながら,前記認定のとおり,本件事故前,Aは疥癬に感染していたのであって,本件施設においてこれに対応する必要があったところ,本件通知の存在及び異食行為を防止するために介護服を使用することとしたことを勘案すれば,湿疹の悪化及び他人への感染を予防するために,Aの居室を個室に変更した上,紙おむつ等を使用することとしたのはやむを得ない措置であったということができ,本件事故当時,被告がAに紙おむつ等を使用していたこと自体をもって,同人に対する安全配慮義務の懈怠に当たると認めることはできない。

(2)ア  原告らは,原告X1は,被告に対し,Aに紙おむつを使用しないよう要求していた旨主張する。

しかしながら,前記認定のとおり,原告X1は,「紙オムツを食べてしまい,吸引等行ないました。」という記載のある本件書面を平成17年2月ころ本件施設から送付されたにもかかわらず,本件施設の職員に対して何ら連絡をしていないことからすると,原告X1が被告に対しAに紙おむつを使用しないよう要求していたと証拠上認めるに足りない。本件書面がB5判の大きさであり,上記記載が視覚に障害のある原告X1にとって読みにくかったとしても,同原告がその本人尋問で陳述するところによれば,上記記載について同年4月ころには気付いたというのであるから,上記認定は左右されない。

イ  原告らは,Aは特段皮膚が弱い方でもなく,布おむつを頻繁に取り替えれば皮膚のかぶれを防ぐことができたのであるから,同人に紙おむつ等を使用する必要はなかった旨主張する。

しかしながら,Aが本件施設に長期入所していた際に褥瘡や皮膚のかぶれがみられたことは,同人のケース記録(乙12)や看護サマリー(乙13)等の記載に照らして明らかであり,このような状況の中で吸水性の悪い布おむつを使い続ければこれらの症状を悪化させることにもつながりかねない上,布おむつの中が湿潤状態になるのを防ぐためには,常時同人が排尿又は排便しているか確認しなければならないことになることからすると,布おむつだけを使用すべきであったということはできない。

ウ  原告らは,Aが疥癬に感染していたとしても,布おむつを使用しながら他の入所者への感染を予防することは可能であるから,同人に紙おむつ等を使用すべきではなかったとも主張する。

しかしながら,前記認定のとおり,本件施設では,布おむつはリースのものを使用していたところ,証拠(証人J)によれば,Aが着用した布おむつをそのまま洗濯に出すと,他の施設にも疥癬の感染が広がりかねないというのであるし,新たに同人のために布おむつを購入して本件施設で洗濯することにしたとしても,そのような対応は疥癬の治療のための期間に限られるものであって,その後は購入した布おむつは使用しないことになると考えられることからすると,異食行為を防止する措置を採った上で,同人に対し紙おむつ等を使用することが不合理であったということはできない。

エ  以上によれば,原告らの上記各主張は,いずれも採用することができない。なお,被告が,平成19年8月,K県の福祉保健総合センター所長あてに提出した「再発防止策報告書」(乙9)には,本件事故の再発防止策として,異食行為のある者については紙おむつを使用せず,布おむつで対応する旨の記載があるが,この記載は,本件施設において改善を検討した結果のものであって,この記載があるからといって,本件事故当時,被告がAに紙おむつ等を使用せず,布おむつだけを使用すべき義務を負っていたことにはならない。

3  被告が本件事故当時Aに介護服を着用させていたかどうか

(1)  原告らは,被告は,本件事故当時,異食癖のあるAの居室を個室に変更しておきながら,同人に介護服を着用させていなかった旨主張する。そして,Aが介護服を着用していなかったことの根拠として,下記(2)の「申し送りノート」の記載が本件事故後に改ざんされているなどと主張している。

(2)ア  証拠(乙24,証人F,同G)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(ア) 本件施設には,入所者に変化があった場合や,職員への連絡事項がある場合にその内容を記載するものとして「申し送りノート」(乙22,24,25の1~5。以下「本件ノート」という。)がある。

(イ) 本件ノートの平成17年6月11日の欄には,Aについて,当初は別紙記載1(省略)のとおり記載されており(この記載を,以下「旧記載」という。),これによれば,「今まで同様布オムツを使用し,そのまま業者に出して下さい。便が出そうだったり,○○(注・判読不能)のときに応じてつなぎを着せてもかまいません。」と記載されていた。しかしながら,その後,旧記載の上に別の紙が糊付けされ,これには別紙記載2(省略)のとおりの記載(以下「新記載」という。)があり,その中には「疥癬が良くなるまでつなぎ服を着用し紙オムツでお願いします。」といった部分もある。

イ  これによれば,旧記載の上に紙を糊付けするという方法で新記載に改められており,旧記載と新記載とでは,Aに対する介護服についての対応が異なっている。また,被告は,本件事故当時Aが着用していた介護服を特定することができない。

しかしながら,証拠(乙24)によれば,本件ノートの平成17年6月12日の欄には,「A・・・変更事項,追加事項あります。前のページみて下さい。」,「Aさんの注意事項変更してます。もう一度前のページよんで下さい。」という記載があることが認められるところ,これはAに対する対応が旧記載から新記載に変更されたことを指すものと理解されるし,上記証拠によれば,同月20日の欄には,Aについて「17:45 食事の為,来室すると,つなぎ服のズボンのファスナーが外れ,足,口にチアノーゼがあり,尿とりパットを異食していた様子。」とAが介護服を着用していた旨記載されていることも認められるのであり,これらの本件ノートの記載部分は,その記載の位置等からして,本件事故後に書き加えられたものとは考え難い。また,本件事故当時,Aが紙おむつを着用しているという点では,新記載に沿った対応がとられていたことになるのであるし,本件事故当時,同人が介護服を着用していたこと自体は,当時本件施設の職員であったF,G,H,I,Jの各陳述書(乙4,5,27,28)及び各証人尋問における陳述が一致しており,そのことについて格別不自然な点があるとはいえない。そうすると,原告らの上記主張は採用することができず,本件事故当時,Aは介護服を着用していたことが認められる。原告X1の陳述書(甲35)及び本人尋問における陳述中,この判断に反する部分は採用することができない。

4  本件事故当時,Aが着用していた介護服について,ファスナーの閉め忘れや損傷があったどうか

(1)  Mは,その陳述書(乙29)において,本件事故前のおむつ交換の際に,Aの介護服の裾から股にかけてのファスナーをフックを使用して開け,紙おむつ等を交換した後,再度同ファスナーを足首のところまで間違いなく閉めた旨陳述する。

(2)  しかしながら,上記陳述どおりに介護服のファスナーが完全に閉められていたとすれば,そのままでファスナーを開けて紙おむつ等を取り出すことができないのが本来の介護服の構造であって,証拠(検乙1,証人Nの供述書,O株式会社,P株式会社に対する各調査嘱託の結果)に照らしても,介護服の製造業者等において介護服を引っ張ってファスナーをこじ開けるという事例は把握しておらず,少なくとも相当強い力で継続的に介護服を引っ張らない限りは上記ファスナーをこじ開けることはできないものと認められるが,Aが当時78歳で一人では起き上がることができなかったことにもかんがみると,同人が故障がなく完全に閉じた状態のファスナーをこじ開けたことは,全くあり得ないことではないとしても,その可能性は相当に低いものといわざるを得ない。

(3)  他方で,Mの上記(1)の陳述は反対尋問を経ていないものであり,紙おむつ等の交換を手伝ったHは,その証人尋問において,Mが介護服のファスナーを閉めたかどうかは確認していない旨供述している。また,証拠(証人I)及び弁論の全趣旨によれば,本件事故当時Aが着用していた介護服は,E病院から被告に返還されたものと認められるが,被告は,既に処分され現存しないとしてこれを提出しないし,Aは平成17年6月11日から同月20日までの間毎日入浴後に介護服を交換していたことからすると,本件事故当時本件施設には介護服が複数着存在していたものと認められるものの,どのような介護服が何着存在していたかすら被告は正確に把握しておらず,証人Iは,本件事故直後に本件施設にあった介護服をすべて廃棄した旨供述していて,結局,本件事故当時Aが着用していた介護服を含め,当時本件施設に存在していた介護服がどのような状態であったかという本件事故の発生の原因に関わる重要かつ客観的な資料が提出されていない。そして,本件事故当時本件施設に存在していた介護服は,いずれも平成11年以前に購入されたものであって,Aに着用させるまでにどの程度使用されたかは明らかではないものの,購入時から6年ないしそれ以上経過していることが認められるのであるが,証人N(介護服の製造,販売業者の一つであるQ株式会社の代表者)はその供述書において,同社の製造に係る介護服のファスナーをフックを使用せず開けることが可能かという質問に対し,身生地の破れなどにより被着用者が開けてしまったことがある,介護服の耐用期間は毎日洗濯して2年程度であり,耐用期間を経過すると生地や縫製部分の劣化により生地が破れやすくなる旨回答している。さらに,証拠(乙2)によれば,被告は平成17年7月6日にL福祉保健総合センター所長あてに本件事故に関する事故報告書を提出したことが認められるが,上記報告に当たっても,被告が関係者から詳細な事情聴取を行った形跡はうかがわれず,本件事故直後の関係者の記憶や認識がどのようなものであったかについても,的確な証拠が存在しない。

(4)  以上のような事情を総合すると,Aが介護服の下に着用していた紙おむつ等を取り出すことができたのは,ファスナーの閉め方が不十分であったりファスナーが故障していて容易にファスナーが開く状況にあったか,生地の劣化があって介護服が破れたといった介護服の使用方法が不適切であったことが原因である蓋然性が高いというべきであって,本件事故はこのような介護服の使用方法が不適切であったことによって発生したものと推認するのが相当である。

5  被告の責任について

前記認定事実によれば,本件事故当時,Aは紙おむつ等をちぎって口に入れるといった異食行為を繰り返しており,これによって同人が窒息死に至ることがあることも具体的に予見される状況にあったのであるから,同人との間の介護老人福祉施設利用契約に基づき同人に対し介護等のサービスを提供すべき義務を負っていた被告においては,介護服を着用させるに当たってはこれを適切に使用すること,すなわち,故障や劣化がないかどうかを点検して,そのような不具合のない介護服を着用させ,ファスナーを完全に閉じることによって,Aが紙おむつ等を取り出すことがないよう万全の措置を講ずる注意義務を負っていたというべきであるところ,被告は,この注意義務を怠り,介護服を適切に使用せず,そのために本件事故に至ったものであるから,不法行為に基づき,Aの死亡によって生じた損害を賠償すべき責任を負う(原告らは,一部の損害については予備的に債務不履行に基づく損害賠償も求めるが,これにより被告が原告らに対して賠償すべき損害の額は,後記6で認定する額を超えるものではないものと認められる。)。

6  損害の額について

(1)  Aの損害

慰謝料  1500万円

本件に現れた一切の事情を考慮すると,Aの死亡による慰謝料は,1500万円と認めるのが相当であり,原告X1はその2分の1を,原告X2及び原告X3はその各4分の1を,それぞれ相続した。

(2)  原告X1固有の損害

ア 原告X1固有の慰謝料  100万円

本件に現れた一切の事情を考慮すると,Aの死亡についてその子である原告X1の固有の慰謝料として,100万円を認めるのが相当である。

イ 葬儀費用  30万円

証拠(甲30の1~7)及び弁論の全趣旨によれば,原告X1が支払った本件事故と相当因果関係のある葬儀費用は,30万円と認めるのが相当である。

(3)  以上の合計は,原告X1につき880万円,原告X2及び原告X3につき各375万円であり,本件訴訟の提起及び追行に係る弁護士費用の損害として,原告X1につき80万円,原告X2及び原告X3につき各30万円を認めるのが相当であるから,被告は,原告X1に対し960万円,原告X2及び原告X3に対し各405万円,及びこれらに対する平成21年1月24日から各支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払義務を負う。

7  結論

以上によれば,原告らの請求は,主文掲記の限度で理由がある。

(裁判長裁判官 加藤正男 裁判官 村主幸子 裁判官 谷藤一弥)

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