さいたま地方裁判所 平成18年(行ウ)47号 判決 2008年3月19日
主文
1 埼玉県知事が平成18年6月22日付けで原告に対してした別紙指示事項記載の指示処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第3争点に対する判断
1 争点1(履行の着手の有無)について
(1) 証拠によれば、以下の事実が認められる。
ア 本件売買契約当日、A、Aの妻及びその友人が、本件建物を訪れてその内部を点検した。その際、Aらから、原告担当者であったB(B)に対し、キッチンの給湯リモコン及び電気コンセントの設置位置が悪く不便である、1階窓のつくりに防犯上不安があるという指摘があった。(〔証拠省略〕)
イ 本件売買契約締結当時、本件建物は完成していたが、外構については工事が完了していなかった。当初、本件建物の外構については、全面コンクリート敷きで車両3台分の駐車スペースを設ける予定であったが、Aは平成17年12月10日に本件建物を見学した際、Bに対し、草木を植えるスペースを残せないかという相談をした。そこで、同月12日に具体的な打ち合わせをした結果、原告は、Aの要望を容れ、車両1台分の駐車スペースにれんがの囲いを造り、植栽用の土を入れて花壇を作った。花壇の角は、Aの要望により、隅切りをした。(〔証拠省略〕)
ウ また、上記の打ち合わせにおいて、1階の窓については、原告の費用負担で面格子の設置が可能であるとの説明がなされ、Aがこれを希望したことから、1階窓4カ所において面格子の設置工事が行われた(〔証拠省略〕)。
エ 原告は、Aの希望により、本件建物1階のコンセントと給湯用リモコンの位置を30センチメートルないし50センチメートル程度移動した(〔証拠省略〕)。
オ イないしエの工事は、いずれも平成17年12月末までに行われた。これらは、サービス工事の形をとり、原告からAに対し、代金の請求はされていない。なお、原告において、当初の設計と異なる工事をする場合に、買主に追加代金を請求するか否かは、粗利の額の多寡によって決めている。(〔証拠省略〕)
カ 同月20日頃、Aから、現在住んでいる自宅の売却をしたいがいくらで売れるかとの相談があったため、Bは、Aの自宅の登記簿謄本の交付を受け、物件の概要調査をした(〔証拠省略〕)。
キ Aは、同月末までに、原告から本件建物の鍵を受け取り、その後、鍵を保管していた。本件売買契約締結後、Aは本件建物内に3回ほど入って内部を点検している。(〔証拠省略〕)
ク Aは、Bに対し、平成18年1月4日、ファクシミリで、本件建物の造り等についての質問事項を記載した書面を送付した(〔証拠省略〕)。翌日、Bは、上記ファクシミリを確認し、Aに対し、同月9日に訪問する際、質問事項に関し説明をしたうえで、表示登記用の書類を預かる旨電話で告げた(〔証拠省略〕)。
ケ 同月9日、Bは、A宅を訪問し、上記の質問事項に対し、回答した(〔証拠省略〕)。Bは、同日、Aから住民票、印鑑証明書、委任状を受け取り、同月10日に、本件建物について、Aの名で表示登記の申請をした(〔証拠省略〕)。
コ 同月10日の朝、Aの妻からBに電話があり、このまま契約どおりに購入をしていいものか迷っている様子であったが、これに対し、Bはよく家族で相談するようにと言った。
同月11日、再度AからBに電話があり、本件売買契約を解除したい旨の話があった。(〔証拠省略〕)
サ 同月12日、Aは原告会社に来社し、口頭で解除の意思を告げた。これに対し、Bは自分の判断では答えられないので、会社に報告後、連絡すると答えた。同日午後、Bは、A宅を訪れ、Aから表示登記申請取り下げの委任状を受け取り、提出した。Aは原告に対し、書面により解除の通知をした。(〔証拠省略〕)
(2) 前述のとおり、本件処分は、原告が、Aに対し、損害賠償請求をなして買主の手付放棄による解除を妨げたことを前提とするところ、原告による損害賠償請求は解除を妨げる行為に該当するものであるが、Aによる解除の意思表示以前に相手方たる原告に履行の着手があれば、Aによる解除の意思表示は有効とはいえず、原告においてAの債務不履行が明らかになったとして、Aの解除を受け入れ損害賠償を請求することには正当な理由が存在することになる。そこで、本件において履行の着手があったものといえるかが問題となる。
ところで、履行の着手とは、債務の履行行為の一部をなし、または履行をなすために必要不可欠な前提行為をなすことをいう。
不動産の売主は、不動産の移転登記債務と引渡債務とを負うところ、上記認定のとおり、Aは、遅くとも平成17年末の時点で、原告から本件建物の鍵の交付を受けており、その後自由に本件建物に出入りできる状態であった。そうであるとすれば、業者立ち会いによる本件建物の最終的な確認は平成18年1月12日に予定されており(〔証拠省略〕)、本件不動産の引渡にあたって行われるべき手続がすべて済んだとは言えないものの、上記時点以降、本件不動産はAの管理支配下に置かれていたということができ、上記時点において、本件不動産につき、正式な引渡に向けての一部履行があったものと評価できる。なお、売主が鍵を交付した趣旨・態様によっては、鍵の交付を建物の引渡と同視できない場合もないとはいえないが、上記認定のとおり、Aは鍵を継続的に保管しており、返還する合意があったという事情もうかがえないこと、鍵の交付があった時点において、本件建物は既に完成していたこと、代金決済予定日まで1ケ月もなかったこと、Aの希望による外構工事の変更や自宅の売却の相談がなされ、契約の履行を前提とした行動がとられていたことからすれば、鍵の引渡は本件売買契約に基づく債務の履行の一部としてなされたものと優に認められる。よって、原告は不動産の売主として負う債務の履行行為の一部をなしたといえ、Aが解除の意思表示をする以前に履行の着手があったというべきである。
この点、被告は、売主に履行の着手があったか否かの判断に際しては、当事者間に取引に関する知識・経験に非常に大きな差がある場合、一般消費者である購入者の利益の保護を図る見地から、厳格に解釈すべきであると主張する。解約手付とはいったん有効に成立した売買契約につき、無理由で解除できる権利を留保したものであるところ、確かに消費者が知識・経験不足から契約をしたが、事後的に、よりよい条件で取引ができたと考えるに至ったような場合、契約による拘束から脱するために、手付放棄による解除の方法が有益であることは否定できない。しかし、民法557条(これと同趣旨を確認する規定が、本件売買契約第15条にある。)が、履行に着手するまでとの要件を課したのは、既に履行に着手して、これに必要な費用を支出し、契約の履行に多くの期待を寄せている一方当事者を保護し、かかる段階において相手方から解除されることによって、不測の損害を蒙ることを防止する点にあり、かかる要請は、消費者と宅地建物取引業者との間においても変わらない。そして、消費者においても、通常、契約関係に入るには、比較対照を行い、取引相手及び取引対象物を選択できること、事業者が一般消費者である購入者との取引知識・経験の差を利用して契約を締結したような場合には、消費者契約法4条に基づいて取消の意思表示をなすことが可能であることからすれば、履行の着手の判断において、一般消費者の利益保護を過大に評価すべきではなく、被告の上記主張は採用できない。
そうすると、そもそも、原告が損害賠償請求をした時点で、買主であるAは、手付放棄による解除権を有していなかったことになるから、原告の損害賠償請求は正当な理由を有するものといえ、宅地建物取引業法47条の2第3項、同法施行規則16条の12第3号に反するとはいえない。したがって、本件指示処分は違法といわざるをえない。
2 結論
よって、原告の請求は理由があるから、認容することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 遠山廣直 裁判官 富永良朗 久米玲子)