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さいたま地方裁判所 平成19年(わ)1151号 判決 2008年9月04日

主文

被告人を無期懲役に処する。

未決勾留日数中100日をその刑に算入する。

押収してあるはさみ1丁(全長約16.5センチメートル,刃体の長さ約8.2センチメートル,柄が水色プラスチック製のもの。平成20年押第40号符号1)を没収する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は,

第1  (平成19年8月16日付け起訴状記載の公訴事実)

被害者A(当時21歳)をら致して強姦しようと企て,平成19年7月6日午前3時40分ころ,埼玉県南埼玉郡a町大字bc番地d所在の駐車場において,同所に停車中の同女運転に係る普通乗用自動車の運転席ドアを強引に開け,同運転席にいた同女に対し,「おい,どけ,そっち行け。」などと語気鋭く申し向けながら,手で突くなどして同女を助手席に押しやり,自ら同運転席に乗り込んで同車両を発進疾走させ,そのころから,同日午前3時45分ころ,上記駐車場から約2キロメートル離れた同郡e町字fg番地先h土手に同車両を停止させるまでの間,同女をして,同車両内から脱出することを不能ならしめ,もってわいせつの目的で同女を略取するとともに不法に監禁した上,そのころ上記土手に停車中の同車両内及びその付近路上において,同女に対し,「脱げ。」などと語気鋭く申し向け,その頸部を腕で締め付け,さらに,同車両から逃げ出した同女を路上に引き倒して腹部を多数回足蹴にするなどの暴行を加え,その反抗を抑圧して強いて同女を姦淫しようとしたが,同女の負傷状況等の外部的情況により姦淫を断念したため,その目的を遂げず,その際,上記暴行により,同女に全治不明の全身打撲,頭部裂傷,外傷性膵損傷,腹腔内出血及び腰椎骨折の傷害を負わせた。

第2  (平成19年12月20日付け追起訴状記載の公訴事実第1)

そのころ,h土手において,同車両内から,同女所有又は管理に係る現金約6000円及び運転免許証1通ほか約14点在中の財布1個(時価1万円相当)を窃取した。

第3  (平成19年12月26日付け追起訴状記載の公訴事実)

平成19年7月18日午前2時40分ころから同日午前3時ころまでの間,埼玉県北葛飾郡i町大字jk番地付近路上から同県幸手市lm丁目n番地o付近路上に向かい進行中の普通乗用自動車内において,当時の妻であったE(当時38歳)に対し,その顔面及び頭部等を多数回手の甲又は安全靴で殴打し,さらに,同所付近路上において,上記車両を降車した同女の頭髪をつかみ振り回して路上に転倒させた上,その大腿部を数回足蹴にするなどの暴行を加えた。

第4  (平成19年9月7日付け追起訴状記載の公訴事実)

平成19年7月18日午前3時30分過ぎころ,埼玉県北葛飾郡p町大字qr番地s先路上及びその周辺において,被害者B(当時44歳)に対し,殺意をもって,その後頭部に所携のはさみ(全長約15.8センチメートル,刃体の長さ約6.6センチメートル,柄が黄色プラスチック製のもの。平成20年押第40号符号2)で切り付けた上,頭部を同所に設置された鉄製のフェンスに多数回打ち付け,さらに,頸部を同はさみで数回突き刺すなどし,よって,そのころ,同所において,同女を右上甲状腺動脈の切断等による失血により死亡させて殺害した。

第5  (平成19年12月20日付け追起訴状記載の公訴事実第2)

そのころ,同町pt丁目u番v号所在のw駐車場において,同所に駐車中の普通乗用自動車内から,同女所有に係るポータブル・ナビゲーション1台ほか2点(時価不詳)を窃取した。

第6  (訴因変更後の平成19年10月16日付け追起訴状記載の公訴事実第1)

平成19年7月20日午前1時50分ころ,さいたま市大宮区x町y番地先路上において,同所に停車中の普通乗用自動車の運転席に乗車していた被害者C(当時25歳)に対し,殺意をもって,その頸部等に所携のはさみ(全長約16.5センチメートル,刃体の長さ約8.2センチメートル,柄が水色プラスチック製のもの。平成20年押第40号符号1)で多数回切り付けるなどしたが,同女に抵抗されたため,同女に全治不明の右大耳介神経障害及び頸部,右耳介切創等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった。

第7  (平成19年10月16日付け追起訴状記載の公訴事実第2)

業務その他正当な理由による場合でないのに,第6記載の日時場所において,前記はさみ1丁を携帯した。

(証拠の標目)

省略

(事実認定の補足説明)

第1判示第1の事実について

1  争点

判示第1の事実については,略取ないし監禁行為及び略取行為があったことを前提に同行為時のわいせつ目的の有無並びに強姦の実行の着手及び強姦の故意の有無が争点となっており,具体的には以下の5つの事実が争われている。

(1) 争点1-1(略取行為の有無に関して)

被告人は,埼玉県南埼玉郡a町大字bc番地d所在の駐車場(以下「本件駐車場」という。)において,自動車の運転席に座っていた被害者Aに対し,「どけ,おら,どけよ。」などと言ったり,手で突いたりして,同車両(以下「被害車両」という。)助手席に押しやったか

(2) 争点1-2(監禁行為の有無に関して)

被告人が被害車両に乗り込み,被害者Aを乗せたまま被害車両を本件駐車場から同郡e町字fg番地先h土手(以下「本件土手」という。)まで走行させた間,被告人は被害者Aの求めに応じていつでも停車する意思だったか

(3) 争点1-3(略取行為時のわいせつ目的に関して)

被告人が被害車両に乗り込んで,被害者Aを乗せたまま被害車両を走行させた時点で,被告人には被害者Aをら致して強姦する意図があったか

(4) 争点1-4(強姦の実行の着手たる暴行に関して)

被告人は,本件土手に被害車両を停車した後,同車両内で被害者Aに対し,「脱げ,脱げよ。」などと言ったり,頸部を腕で締め付けたか

(5) 争点1-5(強姦の故意に関して)

被告人が本件土手付近で被害者Aに暴行を加えた時点で,被告人には被害者Aを強姦しようという意図があったか

2  争点1に関する検察官の主張

(1) 争点1-1について

検察官は,被害者Aの証言を根拠に,被告人が,本件駐車場において,被害車両の運転席ドアを強引に開け,「おい,どけ。」,「どけ,どけ,そっちへ行け。」と大声で言い,手で右肩を強く押して助手席に押しやり,運転席に乗り込んで同車両を発進させたことが明らかである旨主張する。

(2) 争点1-2について

検察官は,被害者Aの証言等を根拠に,①本件駐車場の横にあるガソリンスタンド(以下「本件スタンド」という。)で被告人から抱きつかれたりキスを求められたりした際,被害者Aは,「いや,無理,無理,あり得ない。」と言った上,体勢を下にしたり,顔を下に向けたりして被告人を拒絶したこと,②被告人に本件スタンドの裏にある人気のない空き地(以下「裏の空き地」という。)へ引っ張られて連れて行かれそうになった際,被害者Aはしゃがみ込んで重心を落とし「無理」などと言って抵抗したこと,③被告人から被害車両に乗せてくれと言われた際,被害者Aが「初対面の人と車の中という密室で二人きりになるわけにはいかないから,乗せることは無理です。」と言ったことを主張し,これらの事実によれば,被告人が被害車両の運転席に乗り込んで同車両を発進させることが被害者Aの意思に反することは明らかであって,それにもかかわらず,被告人は,争点1-1で主張した態様で強引に被害車両に乗り込んで時速約50から60キロメートルで同車両を発進疾走させたのであるから,被告人が暴行脅迫を用いて被害者Aを自己の支配下に置き,本件土手で同車両を停止させるまでの間,同車両から脱出できないようにしたことは明らかである旨主張する。

(3) 争点1-3について

検察官は,被害者Aの証言等から,被告人は本件スタンドで給油中の被害者Aに人目を気にせずに抱きついたりキスを迫るなどしていたところ,明確に拒否されるや,今度は手を引っ張って裏の空き地へ連行しようとしたことが優に認定できるところ,かかる事実からは,被告人が被害者Aを追跡し,声をかけた時点で,被告人は被害者Aと性的交渉を持ちたいと考えていたことが合理的に推認でき,争点1-4で主張するように,人気のない本件土手で被害車両を停車させるや,直ちに「脱げ」などと言いながら,頸部を腕で締め付けたという経緯を前提とすると,被告人が被害車両を発進させた時点では,被告人は被害者Aをら致して人気のない場所に連行して強姦する意図であったものと優に認められる旨主張する。

(4) 争点1-4について

検察官は,被害者Aの証言を根拠に,本件土手付近で停車中の被害車両内で,被告人が被害者Aに対し,「脱げ」等と言ったり,頸部を腕で締め付けていたことが優に認定できる旨主張する。

(5) 争点1-5について

検察官は,関係各証拠を根拠に,①被害者Aは,ブラジャー代わりに着用していたビキニの水着とその上に着用していたタンクトップを捲り上げられて乳房を露出させられるなどの状態で発見されたこと,②被害者Aが本件当時パンティ内に装着していた生理用ナプキン(以下「ナプキン」という。)が付近の遊歩道に落下していたこと,③被告人からの攻撃により被害者Aが気を失うまでの間,乳房が露出したり,ナプキンがはずれたりする事実がなかったことがそれぞれ認められるところ,これらの事実からすれば,被害者Aが気を失った後で,被告人が被害者Aの乳房を露出させたり,ナプキンを取りはずしたりしたことが優に推認でき,本件土手で被害者Aに暴行を加えた時点において,被害者Aを強姦しようという意図を被告人が有していたことは優に認められる旨主張する。

3  総論

(1) 各争点の判断の前提となる本件の特徴及び判断の順序について本件は,被告人と被害者Aが,このとき初対面で何の関係もないこと,被告人が,本件スタンドで,被害者Aに抱きつくなど,いわゆるナンパ行為としてはかなり執拗で強引な行為をしていること,経緯は別にして被告人が被害車両の運転席に乗り込んで,被害者Aの意向に関係なく,自分で被害車両を本件土手まで走行させたこと,本件土手で,被告人が被害者Aに対して,強烈な暴行を加えて瀕死の重傷を負わせたが,被害者Aを放置したまま現場から逃走したこと,被害者Aは被告人の暴行の途中で気を失ったが,結果的に被告人が被害者Aを姦淫した事実はないことに関しては,当事者も特に争っていないし,この点は被害者Aの証言や被告人の供述を含めた関係証拠によって十分に認められる。そして,各争点の判断をするに当たって最も問題となるのは,被告人が,本件スタンド,本件駐車場及びそこから本件土手に至る被害車両内で,ナンパ行為を窺わせる言動をしていることに加え,被告人が被害者Aに加えた暴行が,強姦するための暴行としてはいささか強烈すぎ,かつ被害者Aが意識を失ったのであるから強姦行為をすることに大きな障害はなかったとも思われることに照らせば,弁護人が主張しているように,被告人が一貫してナンパ行為をする意図を有していたに過ぎず,強姦の意図で暴行を加えたという検察官の主張について,合理的な疑いが残らないかという点であり,拐取や監禁の事実やその目的も,その点の判断が大きく影響する関係にある。もちろん,各争点の認定については,相互に影響を与えるものではあるが,上記のように,本件の中心的な争点は,本件土手において,被告人に強姦の意図があり,その意図の下で暴行を加えたと認められるか否かであると認められるので,以下,まず,争点1-4及び1-5について検討し,その後その他の争点について検討することとする。

(2) 被害者Aの証言全体の一般的な信用性

ところで,本件の各争点が認定できるか否かに当たっては,気を失ってしまうまでに本件を実際に体験した被害者Aが証言している内容について,信用性が認められるかの判断が大きく影響することは明らかである。被害者Aの証言は,本件スタンドで被告人に絡まれた状況について,防犯ビデオ画像の解析結果と符合し,被告人から受けた暴行の態様については,受傷状況に関する己医師の供述と符合するなど裏付けがあること,その内容が全般的に自然かつ合理的で,迫真的なものであること,被害者Aは,被告人とは一面識もなく,かつ本件では被告人が被害者Aに重篤な傷害を負わせたことに争いはないから,被害者である以上に特別な関係にない被害者Aが,殊更被害状況等を誇張して話をするなどして被告人を陥れる理由はないこと,証言時に記憶がある点とない点を区別して証言するなどしており,その証言態度は真摯であること,被害者Aの供述には目立った変遷が見られないことが認められるので,被害者Aの証言の一般的な信用性は十分認めることができる。弁護人も,それらの点については争っておらず,個々の具体的な場面について,被告人の供述と対応させながら,被害者Aの証言の信用性を争っているので,以下においては,被害者Aの証言に一般的な信用性が認められることを前提に,判断していくこととする。

4  争点1-4及び1-5に関する検察官の主張に対する判断

(1) 本件土手で停車中の被害車両の中で被告人が被害者Aに対して脱げと言ったり,同女の首を絞め付けたりしたこと(争点1-4)

ア 被害者Aの証言内容

被告人は運転席に軽く腰掛けていた程度だったので,逃げ出してもすぐに捕まってしまうと思い,被告人の様子を少し窺っていた。すると,被告人は,脱げと言ってきた。それに対して,いやあ,みたいな感じでちょっと言葉を濁していると,自分の首に被告人の肘の内側が当たるような形で右手を回してきて,若干引き上げられるような感じで首を絞められた。それに対して,被告人の腕を引き離そうとつかんだが力負けして無理だったので,ちょっと苦しい,やめてというようなことを言った。すると,被告人は1度手を放したが,また脱げと言ってきた。言葉を濁していると,また被告人の腕が首にきて,ちょっと絞めてきた。被告人の腕を持ってがんばって引き離そうとすると,被告人はまた手を放した。本件土手の遊歩道手前で車が止まった後,ナンパのようなニュアンスの言葉を言われた記憶はない。被告人がこちらを向いて,一番最初に,おい,脱げと言ってきた記憶がある。脱げと言われたことは強烈に記憶に残っているが,それに対する受け答えははっきり覚えていない。脱ぐつもりは全くなかったが,再度脱げと言われて,これ以上断ったら殴られたりするかもしれないと思ったので,とりあえず,被告人を油断させるために,うん,分かった,脱ぐ,という言葉だけ伝えた。ほかにも,被告人はキスを迫ってきた。

脱ぐと被告人に言うと,被告人は運転席のいすに深く座りなおした。今だったら逃げられるかもしれないと思い,ブラのホックをはずす振りをして,後ろに手を回して,助手席側のドアの鍵が開いているかを確かめた。助手席のドアの鍵は開いていたので,ホックを触っている振りをして,ドアノブを開けて,はだしのまま一気に外に出た。車を出て右方向にはすぐ近くにコンビニがあると思ったので,その方向に走って逃げた。ドアを開けて出ようとしたときに,隣からもガチャッと音が聞こえたので,すぐに被告人も追ってきたのだと思う。

イ 同証言及びこれと対立する被告人供述の信用性

被害者Aの証言のうち,車内で被告人から脱げと言われたことに関する証言は,極めて明確なものである。被害者Aは,被告人に抱きつかれたりキスされそうになったり,経緯はともかく被告人に被害車両に乗り込まれて,人気のない場所まで連れてこられたのであって,被害車両内での被告人の言動には細心の注意を払っていたはずであり,被害者Aがこのときの被告人の言動について明確に証言した部分に虚偽が混入するおそれはもとより低い。加えて,被害者Aは,車内で脱げと言われてから脱ぐと答えるまでの場面については,脱げと言われて従わないでいると首を絞めてきて苦しかったのでこれ以上断ることはできないと思って脱ぐと答えたという具体的経緯を,脱ぐと答えてから車外に逃走するまでの場面については,ブラジャーのホックをはずす振りをしながらドアの鍵がかかっていないか確認して,鍵がかかっていなかったのではだしで車外に出たという具体的経緯をそれぞれ証言しているところ,これらの証言はいずれも体験していなければ証言できないような迫真的な内容であり,脱げと言われたり,首を締め付けられたりしたというのは,その前後の経緯と一体になっていることに照らせば,被害者Aが,体験もしていないのに作り上げるとは到底考えられない。人気のなく,明かりの乏しい土手付近で,被害車両内に2人だけの状態で,被告人が被害者Aに脱げと申し向けるということは,後に検討するように,それまでに被告人が,被害者Aに抱きついたりキスしようとしたりした上,裏の空き地の方に腕を引っ張ったりし,さらに被害者Aを助手席に押しやって被害車両に無理矢理乗り込み,被害者Aの意向を確認することなく,被告人の意思で本件土手まで運転したというそれまでの経緯に照らすと,十分あり得る自然な成り行きで,被害者Aの証言は,このような経緯に符合している。そうすると,この点に関する被害者Aの証言は十分信用できる。

これに対し,被告人は,停車中の車において,一度付き合ってみなくちゃ分からないだろうというような話はしたが,被害者Aの服を脱がそうと思ったことはなく,服を脱げと言ったこともない,車の中でキスを迫ったことはないし,そもそも被害者Aの体に触れたこともない,引き続きナンパをしただけであると供述しているのであるが,先ほど述べたように,被告人は,周囲に人目がある本件スタンドでさえ,被害者Aに強引に抱きついたりキスしようとしたり,裏の空き地の方に腕を引っ張ったりしたのであって,さらに被害車両に無理矢理乗り込んで本件土手付近まで運転し,結果として車内に二人きりになった途端に,同女の体に触れようとも思わず,話だけしようとしていたというのは不自然であって信用できない。さらに,被害者Aが車から逃げ出したことに関しては争いがないところ,被告人の供述では,被害者Aは被告人との会話の途中で急遽逃げ出したことになるが,何故その時点で同女が逃げ出したのかが全く不明であり,極めて不自然である。

なお,弁護人は,この点に関連して,被告人から脱げと言われたときの状況に照らすと,被告人にとっては,脱げなどと言うのではなく,あるいは,それにとどまることなく,同女の意思にかかわらず脱がせてしまうことは優に可能だったのに,被告人はそのような行為はしていないことを指摘して,被告人供述の信用性は否定できないと主張する。しかし,無理に衣服を脱がせなくても,被害者Aに抵抗を諦めさせて自ら衣服を脱ぐことを余儀なくさせられれば結果は同じであり,両者の間にさほどの違いがあるとはいえない。そうすると,弁護人の指摘する点を踏まえても,被告人の供述の信用性が裏付けられるわけではなく,被害者Aの証言の信用性に疑義を生じさせることにはならない。同じ理由で,被告人がいったん首を締め付けたが,苦しいと言うと手を離したという被害者Aの証言内容は,被告人が強姦行為に及ぼうとしていたとすると考え難いという弁護人の主張も採用できない。また,弁護人は,走行中の被害車両内で被告人が被害者Aに手を回した事実があり,記憶に混乱が生じたものと考えられる旨主張しているが,被害者Aは,あくまで本件土手で被害車両が停車した後の事実として,被告人から脱げと言われ,さらに首を締め付けられた旨明確に証言しているのであって,この点についても,弁護人の主張は採用できない。

ウ 小括

以上によれば,検察官の主張するとおり,信用できる被害者Aの証言から,被告人は,本件土手に被害車両を停車した後,被害車両内で同女に対し,「脱げ。」と言ったり,同女の頸部を腕で締め付けたことが優に認定できる。

(2) 被告人が本件土手付近で被害者Aに暴行を加えた時点で,被告人には同女を強姦しようという意図があったか(争点1-5)

ア 関係各証拠により認められる発見時の被害者Aの着衣の状況

関係各証拠によれば,被害者Aは,本件土手上の遊歩道で被告人から腹部を複数回蹴られたことにより失神し,その後約1時間経過した時点で,ブラジャー代わりに着用していたビキニの水着とその上に着用していたタンクトップが捲り上がり乳房を露出した状態で,土手下の草むらに倒れているところを発見されたこと,他方,同女がパンティ内に装着していたナプキンが同女の発見場所付近の遊歩道で発見されたこと,しかしながら,同女が失神するまでの間,乳房が露出したり,ナプキンがはずれたりすることはなかったことがそれぞれ認められる。

イ 発見時の被害者Aの着衣の状況から推認できる事実

検察官は,これらの事実から,被告人は,被害者Aの失神後,同女の乳房を露出させたり,ナプキンをパンティから剥ぎ取ったりしたことが優に推認できる旨主張する。これに対し,弁護人は,同女が失神後も体を動かしていたことが認められるのであって,検察官の主張する着衣の状況は同女が無意識のうちに体を動かしたことにより生じたと考えられるからそのような推認はできないし,そもそも強姦行為とナプキンを剥ぎ取る行為とは結びつかない旨反論する。

そこで検討するに,ブラジャー代わりのビキニやタンクトップが捲り上がって乳房が露出することや,パンティ内に装着されていたナプキンがはずれることは,いずれも人為的な作為なくしては生じ得ないのは明らかで,問題は,それを誰がしたかである。弁護人の主張するように,関係各証拠によれば,被害者Aは発見後救急車が到着するまでの間も起き上がろうとしたり姿勢を変えたりしていたことが認められる。しかし,被害者Aは被告人の暴行により全治不明の全身打撲,頭部裂傷,外傷性膵損傷,腹腔内出血及び腰椎骨折の傷害を負い,発見時は瀕死の状態で,自ら場所を移動することさえできない状態だったのであるから,被害者Aが,無意識のうちに,うつぶせ姿勢と仰向け姿勢とを交互に変える程度の動きをしたことはあっても,それ以上にブラジャーをタンクトップとともに捲くり上げたり,短パンとパンティを引き下げてナプキンがはずれるような動きをしたりといったより能動的な動作ができたとは考え難い。また,被害者Aがこれらの動きをしても痛みが直ちに和らぐことにはならないと考えられることからしても,そのような動きを被害者Aが無意識のうちにとったとは考え難い。そうすると,結局,上記着衣の乱れやナプキンがはずれたことを被害者Aの無意識的な動きによって説明することはできないというべきであるから,この点に関する弁護人の主張は採用できない。このように被害者A自身の無意識的行為で着衣の状況を説明できないとすると,前記のとおり,被告人は,被害者Aが失神する直前に,本件土手付近で,同女に対して衣服を脱げと申し向けていることからしても,そのような人為的作為を加えたのが被告人であることは優に推認できる。

そして,乳房を露出させるほどブラジャー代わりのビキニやタンクトップを捲り上げることは,乳房を弄ぶなどの性的意図を強く窺わせるものであるし,ナプキンを取りはずすためには,短パン及びパンティを引き下げることが不可欠の前提であるところ,これも同じく性的意図を強く窺わせる行為といえるから,これらの事実が被告人の強姦目的を推認させる事情であることは明らかである。

ウ 小括

以上によれば,争点1-5に関して検察官の主張するように,被告人が,本件土手において,被害者Aに対して暴行を加えた際には,被告人に強姦目的があったことが認められる。

エ 暴行が強烈であることなどについて

もっとも,先にも述べたとおり,被告人が被害者Aに対して加えた暴行が,強姦するための暴行としてはいささか強烈すぎ,かつ被害者Aが意識を失ったのであるから強姦行為をすることに大きな障害はなかったと思われるのに結局姦淫行為はしていないことが認められ,この点が,上記認定に合理的な疑いを生じさせないかを検討する必要はある。そして,被告人は,被害者Aに暴行を加えた経緯について,何もしていないのに被害者Aが急に,きゃあ,助けてって叫んで被害車両から逃げ出したこと,被害者Aを追いかけていき,その髪の毛などをつかんで,被害者Aから手を振り払われるというやりとりをする過程で,被害者Aのひざが自分の股間に当たり,膝蹴りされたと思って切れてしまい,殴る蹴るの暴行を加えたと供述しており,弁護人も被害者Aに対する暴行は強姦目的に基づくものではなくて,怒りのためになされたものである旨主張する。

しかしながら,前記のとおり,被告人は被害者Aに対して,被害車両内で脱げと申し向けていることが認められるところ,被告人による暴行は,その直後に被害者Aを追いかけてすぐさま開始されていることからして,その時点で怒りによって被害者Aの着衣を脱がして姦淫する意図が消失していたということは到底考えられない。また,股間を膝蹴りされたとの被告人の供述は被害者Aの証言と整合しないばかりか,事件直後に本件土手付近に被告人を車で迎えに行ったEに対しても告げられていないことからして容易には信用できず,また仮にそのようなことがあったとしても,前記のとおり,被告人は,被害者Aの失神後,その乳房を露出させ,ナプキンを取りはずすような行為をしているのであって,怒りから被害者Aを姦淫する意図が消失していたとは到底考えられない。また,関係各証拠によれば,被害者Aは被告人から上半身に嘔吐され,被告人の暴行によって血だらけになっていたのであるから,被告人が被害者Aの乳房を露出させたり,ナプキンを取りはずしたりしたものの,このような状態を見て結局姦淫の意欲をなくし,姦淫自体はしなかったと説明することも可能である。そうすると,結局,被告人が加えた暴行が,強姦するための暴行としてはいささか強烈過ぎたり,姦淫行為に及んでいないことは,被告人が強姦の意図を有して被害者Aに暴行を加えた事実の認定に合理的な疑いを生じさせるものとはいえない。

なお,争点にはなっていないが,以上の検討の結果に照らせば,姦淫行為自体が未遂に終わった原因について,検察官が公訴事実で主張するように,「自己の犯行が発覚することを恐れるなどして逃走したため」と断定することは困難であるが,いずれにせよ被告人が自発的に姦淫を中止したことは全く窺えず,被害者の負傷状況等の外部的情況に起因して,被告人が姦淫を断念して逃走したという事実は,十分認めることができるので,判示のとおり,未遂原因を認定した。

5  争点1-1及び1-2に関する検察官の主張に対する判断

(1) 被告人が,本件スタンド内で被害者Aの腕を引っ張ったこと

ア 被害者Aの証言内容

本件スタンドで,給油を終えて運転席に戻ろうとしたときに,裏にちょっと人気のない空き地みたいなところがあって,そっちに行こうよと言われたので,いや,無理と言ったら,被告人から手をすごい力で引っ張られて,若干,引きずられた。立っているだけでは引きずられて持っていかれそうだったので,しゃがみ込んで,重心を下にして,なるべく動かないようにした。引っ張られている最中,あり得ない,無理というようなことは言った。すると,被告人は,ぱっと手を離して,ごめん,ごめん,じゃ,車,戻っていいよという感じで,ちょっとやわらかい感じになった。

イ 被害者A証言の信用性

そこで,この証言の信用性を検討するに,同証言は,内容が具体的かつ自然であってもとより虚偽が混入しているおそれは低い。また,被告人は本件スタンド内で,複数回にわたり,給油中の被害者Aに抱きついたりキスを迫ったりするなどナンパ行為としてはかなり執拗で無理な行為をしているところ,そのような行為をした直後に被告人が被害者Aの腕を引っ張るということは,事柄の推移として自然である。そうすると,同証言は十分に信用できる。

これに対して弁護人は,本件スタンドには周囲に給油中の自動車が複数いたのであるから,腕を引っ張られたのであれば,被害者Aは周囲の車に助けを求めたはずであって,そのようなことがなかった以上,被害者Aの証言は記憶の混乱によって生じた可能性があり,信用できない旨主張する。しかし,被害者Aは,被告人から抱きつかれたりキスを迫られたりした場面でも周囲に助けを呼んでいないのであるから,周囲に助けを呼んでいないことをもって証言の信用性に決定的な疑いが生じることにはならない。また,被告人は被害者Aに抱きついたりキスを迫ったりした際にちょっと嫌だと言われると1回離れるなどしているところ,被害者Aの証言によれば,腕を引っ張られたときも,被告人は,被害者Aが拒絶するとぱっと手を離してごめん,ごめん,じゃ,車,戻っていいよと言い,行為をすぐにやめているというのであるから,腕を引っ張られた際に周囲に助けを呼ばなかったことは,このような被告人の対応に照らせば十分説明可能といえる。そうすると,周囲に助けを呼ばなかったことはさほど不自然なこととはいえず,結局,弁護人の指摘する事実によって上記証言の信用性が弾劾されることにはならない。

ウ 小括

よって,同証言にあるように,被害者Aは給油が終わって被害車両に戻るまでの間,被告人から腕をつかまれ,裏の空き地の方に引っ張られたことを認定することができる。

(2) 被告人が被害車両に乗り込む前に被害者Aから同乗を拒まれていたこと及び被告人が被害車両に乗り込む際に同女に対して「おい,どけ,そっち行け」と大声で言ったり同女の右肩を強く押して同女を助手席に押しやったこと

ア 被害者Aの証言

本件スタンドから本件駐車場まで車両を徐行させ,同所で停車すると,被告人は,自分の乗っている車がこっちに近づいてきたから,ちょっと,ナンパ失敗されたと思われるのが嫌なので,頼むから,向こうの車からおれたち2人がキスしてるように見える体勢になってと言ってきた。それまでの段階で,自分が焦って,窓を誤作動させたせいで,運転席の窓は全開になっていた。被告人はキスしているように見せるというので,運転席にいた自分の頭,首の後ろに外から手を回してきた。手を車内に入れてきた時点で,最初に鍵を持たれてエンジンを切られてしまった。その後,被告人は,鍵を抜き取ろうとしたので,両手で鍵を抜いている被告人の手を押さえた。すると,被告人は,もう片方の手で運転席のドアの鍵を開け,すぐにドアを開けてきた。被告人はドアを開けると,おい,どけ,そっち行けというようなことを若干巻舌も入りながら,早く行け早く行けみたいな,ちょっと急がせるような感じでやや大きめの声で言い,があっと右肩を手で強く押してきたため,私は体勢を崩した。気付いたら私は助手席にいて,ぱっと横を見たら,被告人が運転席に座っていた。押された際に横倒しになったわけではない。最終的には自分で助手席に行って座った。

イ 被害者Aの証言の信用性

(ア) 被害者Aの証言は,本件駐車場に至るまでの経緯について,被告人から自分の勤めている店を間違って言われたため,被告人に正しい店名を告げたところ,被告人から名刺を要求され,一度は断ったものの,結局被告人に源氏名の書かれた名刺を渡し,これを見た被告人があたかも自車にその源氏名で被害者Aを呼ぶ同じ店の女の子が乗っているかのような話をし,そこで作り上げた同乗者の女の子ともう一人の同乗者をカップルだなどとして,それをだしに被害車両に乗ろうとしたり,被害車両と一緒に本件駐車場に向かう口実を作り,本件駐車場においては,さらに上記カップルのことを持ち出して被害者Aにキスする振りをしようなどと言って,手を窓から運転席に入れて,その際首尾よく被害車両のドアを開けて被害車両に乗り込んだというもので,その内容は作り話とは思えないほどに具体的で,事柄の推移としても,前の事情から後の事情に発展していく様子を迫真的に説明するものといえるので,それ自体信用性が高い。

(イ) 特に,被告人が被害車両に乗り込んできた場面については,そもそも,初対面で強引な抱きつき行為等をしてくるような被告人を,女性がさしたる抵抗もなく運転席に入れてしまうということは通常あり得ず,それまでに両者間で相当のやりとりがあったとしても,その過程で被害者Aが拒絶の態度を示していなかっただとか,被害者Aが特に被告人に寛容な態度を示していたなどという事情は一切窺えないのであるから,被告人が被害車両に乗り込んだ態様は,相当強引なものであったことが優に推認でき,被害者Aの証言はその意味でも極めて自然であって高い信用性を有するものである。なお,弁護人は,被害者Aの証言を前提としても,被告人の言動は被害者Aに助手席への移動を求める趣旨の発言といえるし,被害者Aは自ら助手席に移動している上,助手席に移動した際に車外に逃げ出していないことからすれば,被告人が被害者Aに脅迫的な言動をとったことには疑問が残る旨主張する。しかし,被害者Aの証言によれば,急に被告人が車内に入ってきて逃げ出す間もなかったことは十分窺われるのであって,逃げ出さなかったからといって被告人による脅迫的言動に合理的な疑いを生じることには到底ならないし,抱きつかれたりキスを迫られたり,腕を引っ張られたりした際に,被害者Aは言葉と態度で拒絶の意思を明確に表しているのであるから,被告人が被害車両に入ってきた際にだけ抵抗せずに自ら進んで助手席に移ったとは到底考えられない。そうすると,被害者Aが最終的には自分で助手席に行った旨証言しているのは,被告人の言動によって自身で助手席に動くことを余儀なくさせられたという趣旨を当然に含むものといわなければならず,そうであれば,かかる証言が被告人の脅迫的言動の存在を意味するものであることは明らかであって,この点に関する弁護人の主張は採用できない。

そうすると,被害者Aの証言は信用できる。

ウ 被告人の供述

本件スタンドで,給油が終わり,被害者Aが車に乗った後に,どこに行くんやと聞くと,被害者Aは,これから春日部で女友達と待ち合わせてご飯食べるんだというふうに言った。自分も一緒にええやろう,というふうに言うと,被害者Aは,友達に言ってないし,知らないし,ちょっと困るというように言っていた。どこの店やってんのと,自分がしつこくしてたので,私,こういう店でやってるんだということで,被害者Aから店の名前が書かれた名刺をもらった。

車は隣の敷地内に移動したが,ナンパ行為を続け,春日部に一緒に連れてってよ,ええやろう,わし,行ったらあかんの,ええやんか別にという話をした。被害者Aは無理とずっと言っていた。一緒に春日部に行こうとして,被害者Aの車に乗り込もうとした。運転は自分がしようと思った。一緒に行って,被害者Aとその友達と食事をしようと思った。そのまま食事をしながら,それでも被害者Aが嫌だと言ったら,友達の方をナンパしようと思った。自分が運転して一緒に春日部に行くということについて被害者Aが了承してくれるとは思ってなかった。了承がないまま乗ると,騒がれたり強く抵抗されたりするということは考えたが,そうなることはないと思っていた。そうなればやめようと思っていた。話してて,店の話とか,そういう話を結構してたんで,その話の様子から大丈夫かなと思った。春日部に行ってもええやろ,なんで駄目なんや,ええやろ,ええやろなどと言いながらドアを開けて車に乗り込んだ。まず,被害者Aが座っている座席の右端に腰を下ろした。そのときは,おしり,背中を被害者Aの方に当てていた。自分も乗せてってや,ええやろ,かまへんやろというふうに言いながら,徐々におしりでぐいぐい被害者Aを押し込んで,運転席に乗った。被害者Aがちょっと待ってよと言ってきたので,ええやんかというふうに言って,左手で軽く被害者Aの肩を押したら,被害者Aは助手席の方に行った。被害者Aが助手席の方に倒れ込んだということはない。腰を浮かせて自分で動いていた。

春日部に行こうと思っていたが,春日部のどこに行くという具体的な地名は被害者Aから聞いていない。春日部までは20代後半の記憶を頼りにして向かおうと思った。途中の道路標識で春日部の文字が目に入ったことも,被害車両に付いていたカーナビで春日部を検索したこともない。

運転中,被害者Aはガソリンスタンドにいたときよりも少し硬くなったなという程度で,被害者Aがかなり怖がっているんじゃないかなという想像はしなかった。止まって降りて下さいと言ってもすんなり降りることはなく,またナンパの続きをしつこくしていたと思うが,途中で止まってと言われたら,止まるつもりだった。降りて下さいということを最後にまた言われたら,申しわけないけれどさっきのスタンドまで戻ってくんないと言っていたと思う。

エ 被告人供述が信用できないこと

(ア) まず,被告人の供述によれば,被告人は,春日部にある被害者Aが友達と待ち合わせているところに一緒に行くつもりで被害車両の運転席に乗り込んで発進させたことになるが,発進後も,被害者Aに目的地が春日部のどこであるかについて具体的な地名を聞くことさえせずに,自らの意思で被害車両を結局本件土手に到達させている。しかも被告人は,本件スタンド周辺の地理には明るくないとしながら,道路標識で春日部の文字を見たことも被害車両のカーナビで春日部を検索したこともないのである。そうすると,被告人の供述は,被害車両の運転を始めた目的と,その後の行動とが一致しておらず,非常に不自然不合理である。

(イ) また,被告人は,その供述によっても,被害者Aの明確な同意なく被害車両に乗り込んで運転を開始しているし,前記認定のとおり,被告人は,被害者Aが本件土手で停車中の被害車両から逃げ出した際には,即座に同女を追いかけて捕まえ,路上に引き倒し,その後強烈な暴行を加えている。その上,被告人は,それ以前に,被害者Aの抵抗の様子などを見ながら,執拗かつ強引なナンパ行為を続けていたのである。このような被告人の態度は,止まってと言われたら,止まるつもりだった,降りて下さいと最後にまた言われたら,申しわけないけれどさっきのスタンドまで戻ってくんないと言っていたと思うという被告人供述とは符合せず,被告人の供述は,この点に関しても到底信用できない。

なお,弁護人は,被告人が,本件土手の遊歩道前で,被害者Aから,エアロ擦っちゃうから止まってと言われて,その要求通り停車したことを,被告人の供述の信用性を支える事実として主張している。そして,確かにこの事実は被告人の上記供述に一見符合している。しかしながら,既に検討したように,被告人は,本件土手に被害車両を停車させた後,直ちに被害者Aに対して,脱げと言って首を締め付け,強姦行為に着手しているのである。そうすると,被告人が,本件土手で被害車両を停車させたのは,その場所が人気のない場所で強姦をするのに適しているからであり,被害者Aの要求は単なる契機にすぎないと考えられるのであって,この点が被告人の供述の信用性を支える事実になるとは到底認められない。また,弁護人は,当時,被害者Aと電話で話をしていた被害者Aの友人が,男が「春日部の子だよね。」と話すのを聞いたと供述していることを捉えて,被害者Aが春日部に行くと被告人に伝えたとする被告人供述を裏付けるものであると主張する。しかし,同友人の供述は,その供述内容からすれば,被告人と被害者Aが岡泉交差点で,本件スタンドへ移動する前の会話であることが認められ,被告人もこの段階では,被害者Aから,被害者Aの予定について聞いたとは供述していないのであるから,そもそも被告人の供述を裏付けるものとは到底いえない。むしろ,同友人の供述は,岡泉交差点において,被告人が被害者Aに対して,どこの店で働いているのかを具体的な店名も含めて述べたという内容を含むものであるが,これは被告人の供述と矛盾し,被害者Aの証言に符合する内容であって,同友人の供述によって,被告人の供述の信用性が支えられるということは全くないといわなければならない。

そうすると,被告人供述は全体的に信用できない。

(3) 争点1-1についてのまとめ

以上によれば,争点1-1については,検察官の主張のとおり,信用できる被害者Aの証言を根拠に,被告人は,本件駐車場において,被害車両の運転席ドアを強引に開け,「おい,どけ,そっち行け。」と大声で言い,手で右肩を強く押して助手席に押しやり,運転席に乗り込んで被害車両を発進させたことが優に認定できる

(4) 争点1-2についてのまとめ

そして,争点1-2についても,検察官の主張のとおり,信用できる被害者Aの証言によれば,被害者Aは,本件スタンドで被告人から抱きつかれたりキスを求められたり,裏の空き地の方に腕を引っ張られたり,被害車両に乗せてくれと言われたりしたところ,いずれの場面でも被害者Aは言葉や態度によって,被告人に対して拒絶の意思を明確に示していること,にもかかわらず被告人が被害車両の運転席ドアを強引に開け,「おい,どけ。」などと大声で言い,手で右肩を強く押して助手席に押しやって被害車両を発進させ,その後被害者Aの意向に関係なく時速約50ないし60キロメートルで本件土手まで疾走させたことが認定できる。そして,これらの事実に加え,本件土手で被害者Aが被害車両から逃げ出した際,被告人が被害者Aを即座に追いかけ,路上に引き倒していることをも併せ考えると,被告人が被害車両に乗り込み,被害者Aを乗せたまま被害車両を本件駐車場から本件土手まで走行させた間,被告人は被害者Aの求めに応じていつでも停車する意思はなかったことは優に推認できる。

(5) 略取,監禁行為の有無

争点1-1及び争点1-2で認定ないし推認した事実からすれば,被告人は,被害者Aを乗せたまま被害車両を本件駐車場から発進させることによって,同女を自己の事実的支配の下に置いたといえるから,これが略取行為であることは明らかであり,同駐車場から本件土手の遊歩道前に停車するまでの間,同女を乗せたまま被害車両を運転走行したことは,同女を車両内から出ることを不可能又は著しく困難にしてその行動の自由を奪ったものであるから,これが監禁行為であることは明らかである。

6  争点1-3に関する検察官の主張に対する判断

前記のとおり,被告人が被害車両に乗り込むまでに行ったナンパ行為や乗り込む際の態様に関しては,検察官主張の各事実を認めることができるが,それだけでは,被害車両発進時に,強引なナンパ行為を継続し,場合によっては被害者Aの意思に反して抱きついてキスするなどのわいせつな行為をする目的を有していたことまでは推認できても,それを超えて強姦目的まで有していたことまでは推認できない。しかし,既に認定したとおり,被告人は,本件土手付近で停車するや,すぐに被害者Aに対して「脱げ。」と申し向けており,被害者Aが車両から逃げ出すや一連の暴行を加えるなどしているのであって,その時点で被告人に強姦目的があったことは明らかである。そうすると,本件駐車場から本件土手に至るまでの間,被害車両内でナンパの延長線ともとれる会話がなおも続いていたとしても,本件土手における強姦目的が,従前のナンパ行為から断絶した形で突如として惹起されたものであるとは到底考えられない。むしろ,本件土手で停車した直後の上記各事情に照らせば,遅くとも,被害車両に乗り込んだ時点では,被告人としては,被害車両を発進させて,被害者Aと二人きりになって,抵抗できないような状態を作り出し,それでも被害者Aが抵抗をやめない場合には自ら暴行,脅迫を追加して同女を姦淫しようとの目的を有していたと優に推認できる。そして,被害車両を発進させて,同女をら致・監禁し,同女の抵抗を著しく困難にして姦淫すれば,それは強姦以外の何ものでもなく,暴行,脅迫を新たにすることまで確定的に予定していなかったとしても,そのようなことをする目的は強姦目的にほかならない。したがって,結局,被告人の行為はナンパ行為の延長線であって,被告人には強姦の目的はなかったという弁護人の主張には理由がない。

7  判示第1の事実の総括

以上より,被告人は,罪となるべき事実第1記載のとおり,被害者Aをら致して強姦しようと企てて(争点1-3),「おい,どけ,そっち行け」などと言ったり,手で突いたりして,被害車両の助手席に押しやって,被害車両の運転席に乗り込むや(争点1-1),本件駐車場から本件土手まで被害車両を運転走行させて,その間,被害者Aを被害車両内から脱出できないようにして,自己の事実的支配下に置き(争点1-2),本件土手に停車するや,強いて被害者Aを姦淫する目的で(争点1-5),「脱げ」などと申し向けたり,頸部を絞め付けたりし,その後被害車両から逃げ出した被害者Aに対して,路上に引き倒したり,腹部を複数回足蹴にするなどの激しい暴行を加えて(争点1-4),判示の傷害を負わせたことを認めることができる。

第2判示第2の事実について

1  争点2

判示第2の事実については,被告人が,被害者Aの財布1個(甲86。平成20年押第40号符号3。シャネル調で黒色,内側がピンク色で,CHANELと銀色の表示がされ,ファスナーにCHANELの刻印があるもの。以下「本件財布」という。)を持ち去ったかが争われている。

そして,弁護人は,主位的主張として,財布を窃取した記憶がないという被告人の供述の信用性は否定し難いという理由で,窃盗の事実を争っている。

2  当裁判所の判断

しかしながら,弁護人の弁論を検討しても,弁護人が指摘しているのは,窃盗の成否ではなく周辺事情に過ぎず,むしろ,被害者Aに対する判示第1の犯行後,自ら本件財布を持ち去ったことが証拠上認められることは前提としているのであって,結局,弁護人の主張は,窃盗の事実を実質的に争っているものとは評価できない。そして,この点に関し,検察官は,庚,被害者Aの証言等を根拠に,①平成19年7月6日,本件財布が被害車両内から無くなっていること②判示第1の犯行後,被告人には被害車両内の金品を物色する機会が十分にあったこと③同月7日夜,被告人は本件財布を庚に手渡し換金しようとしたことから,被告人が判示第2の窃盗行為をしたことは明らかである旨主張しているが,証拠調べの結果を踏まえても,検察官の主張は十分合理的と認められる。したがって,詳しく検討するまでもなく,被告人が判示第2のとおり,本件財布を持ち去ったことは優に認定できる。

第3判示第3の事実について

1  争点3

判示第3の事実については,判示の実行行為の態様が争点となっており,弁護人は,被告人の供述に基づいて,被告人が,Eの左顔面や後頭部を左手甲や平手で殴ったこと,安全靴の底部分で左肩を数回殴ったこと,髪の毛を引っ張ったことはあり,その範囲で暴行罪が成立することは争わないが,被告人は車内で安全靴を用いて,Eの顔面や頭部を殴打したり,判示の路上で暴行を加えたりはしていない旨主張している。

2  当裁判所の判断

しかしながら,弁護人の弁論は,判示暴行のうち,争っている部分について記憶がないとする被告人供述の信用性は否定できないとするのみで,それ以上の具体的な指摘はない。

そこで検討するに,検察官が主張するように,Eは,判示の暴行を被告人から受けたことについて,その経緯から暴行の態様まで,非常に具体的かつ詳細に迫真性のある証言をしており,その信用性に疑いを生じさせるような事情は全く窺えず,Eの証言によれば,判示の暴行の事実はこれを優に認定できる。それに対して,被告人は,例えばEと運転を代わった経緯や,Eに暴行を加えた場所などについて不明確な供述しかしておらず,E証言の信用性に疑いを生じさせるようなものとは認められない。

したがって,E証言により,検察官の主張する事実は基本的にこれを認めることができる。ただし,同証言でも被告人から手拳で殴られたか,手の甲で殴られたかは断定できず,手の甲でも相当力を込めて殴打すれば,Eの証言するような怪我等は生じ得ることを考えると,被告人がEを殴打したのが手の甲である可能性は払拭できないから,被告人がEを手拳で殴打したことには疑いを入れざるを得ない。

よって,判示の暴行の事実を認定することができる。

第4判示第4の事実について

1  争点

判示第4の事実については,判示の態様における実行行為及び殺意の有無が争点となっており,具体的には,以下の各事実が争われている。

(1) 争点4-1

被告人は所携のはさみ(甲51)で,被害者Bの後頭部や頸部を切り付けたか

(2) 争点4-2

被害者Bに致命傷を負わせた行為がなされた時点で,被告人には同女に対する殺意があったか

2  検察官の主張

(1) 争点4-1について

検察官は,乙医師作成の鑑定書(甲21。以下「本件鑑定書」という。)及び乙医師の公判証言(以下「乙証言」という。)等を根拠に,被害者Bの遺体に残された傷の形状,程度等から,創傷がどのようにしてできたか,どのような順序でできたか,その際の被害者Bの意識状態がどうであったかを合理的に認めることができ,具体的には,被告人は,比較的初期の段階で,被告人車両内にあった甲51号証のはさみの刃を開いた上,同はさみの片方の刃で被害者Bの後頭部を切り付けたこと,その後に被害者Bの後頭部を現場にあった鉄製フェンスに複数回相当強い力で打ち付けたが,その時点においては,被害者Bは,既に防御反応が取れない意識状態に陥っていたこと,頸部に損傷を負わせる前に,被害者Bの頸部を過度に前屈させる暴行を加えたことにより,頸髄損傷の傷害を負わせ,頸部を動かすことができない状況にも陥らせていたこと,被害者Bが,意識的に言葉を発することを含み,自発的に何か行動することは考えにくい状態で,被告人が,はさみの片方の刃で,仰向けになった被害者Bの頸部を数回突き刺し,あるいは切り付けるなどしたと主張する。

(2) 争点4-2について

また,検察官は,上記の被告人の行為態様を根拠にして,被告人は,防御行動に出る意識状態にもなく,正に無抵抗の状態にあった被害者Bに対し,人体の枢要部である頸部を,はさみの片刃で強い力で集中的に突き刺して切り付け,深さが約4センチメートルや約4.5センチメートルにも達するものもある刺創,切創を負わせるなどし,右上甲状腺動脈を切断させている上,その他にも上記のような強い攻撃のほか,腹胸部を強く足蹴にするなどして肝破裂等を生じさせる攻撃をも加えていることから,被告人が,被害者Bに対する強固で確定的な殺意を有していたことは明らかである旨主張する。

3  争点4-1に関する検察官の主張に対する判断

被害者Bの遺体に残された創傷がどのようにしてできたのかについて争いがあるのは,後頭部に残された創傷のみであり,その余の創傷の形状,程度や生じた原因については,頸部の刺切創が,甲51号証のはさみによってできたことを含め,特に当事者間に争いはないし,弁護人は,創傷のできた順序に関する検察官の主張についても,明示的には争っていない。そこで,以下,まず,被害者Bの後頭部の創傷が,検察官主張のとおり切創と認められるか否かについて検討し,それを踏まえて,被害者Bの遺体に残された創傷ができた順序,さらには頸部の創傷が形成された際の被害者Bの意識状態についての検察官の主張に合理性があるかを検討することによって,争点4-1に関する判断を示すこととする。

(1) 被告人が,被害者Bの後頭部をはさみで切り付けたと認められるか(後頭部の創傷が切創と認められるか)

ア 本件鑑定書の記載

本件鑑定書には,被害者Bの遺体(以下「本件遺体」という。)の後頭部に,具体的にはア-(2),(3)(以下,この創傷のことを単に「(2),(3)の創傷」ということがある。)の切創がある旨,以下のように記載されている(なお,本件鑑定書の記載は,遺体の腹側に近い方を「前」,背中側に近い方を「後」,遺体の左手方向を「左」,遺体の右手方向を「右」,遺体の頭方向を「上」,遺体の足方向を「下」とそれぞれ表記しているので,以下,それに従う。また,同じく,本件鑑定書は,創傷が口を開いている状態の場合,傷口の縁を「創縁」,創縁から傷内部に至る面を「創面」,傷の底の部分を「創底」,傷口の端を「創端」,傷内部の空洞を「創洞」としているので,以下,それに従う。)。

左外耳孔の上方9.5センチメートル,左外眼角の後上方15センチメートルから創(2)が始まる。創縁を接着すると,後下右に直線状に3.5センチメートル走り2条((3),(4))に分岐する。(3)は略(2)の延長線上に2.5センチメートル走り終わる(なお,鑑定書には,(2)と記載したところは(1)と記載されているが,文脈から(2)の誤りと認められる。)。(4)は後方に約2センチメートル走り,終わる。・・・(2)の前創縁は概ね整鋭,一部屈曲する。後創縁では起始部の下方約1.2センチメートルの部から上前方に長さ0.1センチメートルの切截が分岐する。小さな表皮片を伴う。(3),(4)の分岐部周囲の創縁は不規則に波状をなし,創縁から組織片が一部突出する。(2)の前創縁と表皮のなす確度は鈍。(3)の創縁が表皮となす確度は略直角,(4)の創縁は不規則に挫滅され,組織片が突出する。創底には筋膜が露出する。(2),(3)の創端は共に尖鋭,(4)の創端は,被裂状,創洞周囲で皮下組織は8センチメートル×5センチメートルにわたり,挫滅されポケット状創洞を形成している。

イ 乙証言

本件鑑定書で,(2),(3)の創傷を,切創と判断した理由について,乙医師は大要,以下のように証言する。すなわち,

(2),(3)の創傷は,創縁が整であり,創面が平滑な状態であった。そのような状態の傷は刃器による傷ということで,切創の範疇になると思う。鈍体が作用してできる傷は滑らかな創面とはならず,創面や創縁がきれいにならないので,(2),(3)の創傷が鈍体の作用によりできたということはあり得ないと思う。

(2),(3)の創傷は,鈍体の強い打撲が複数回作用したのみでは生じ得ない。(2),(3)の創傷の創端が完全にきれいに切れており,裂創では出てこない状態と思われること,創縁及び創面がともに滑らかであることから切創以外に考えられない。裂創でも創縁が直線状になることはあるが裂創では創縁,創面ともに滑らかになるということはない。

鑑定書には,創面が平滑な状態であったことについての記載はしていないが,創面が崩れていれば,創縁と表皮のなす角度は出ないので,鑑定書にその角度についての記載があれば,創面は平滑だと理解してもいいと思う。

ウ 本件鑑定書の記載及び乙証言の信用性

乙医師は法医学の専門家であり,本件鑑定書の記載でも,公判廷での証言でも,中立の立場から専門的知見に基づく認識を述べており,本件鑑定書の前記各記載及び乙証言に虚偽が混入している危険性はもとより低い。乙医師は,同鑑定書の(2),(3)の創傷を切創と判断した根拠について,創端の形状,創縁及び創面が滑らかであったことを挙げているところ,かかる根拠は極めて合理的であって,本件鑑定書の前記記載及び乙証言は十分信用できる。

エ 弁護人の反論及びそれに対する判断

これに対し,弁護人は,①本件鑑定書には,(2),(3)の創傷の創縁に関し,概ね整鋭,一部屈曲などという記載があるが,かかる記載からは,同創傷が挫創ないし挫裂創である可能性を否定できないこと,②切創だとすると,(2),(3)の創傷について,創縁と表皮の角度の違いが説明できないこと,③本件鑑定書には創面が平滑だったという記載が無く,乙証言の信用性は肯定し難いこと,④甲50号証の作成経過に照らし,乙証言には中立性・客観性に疑問が残ることから,(2),(3)の創傷が切創であるとの同鑑定書の記載及び乙証言の信用性を争っている。

しかしながら,以下に述べるとおり,弁護人の主張にはいずれも理由がない。

(ア) まず,①の点について,弁護人は,文献によれば,切創の特徴として,「創縁は極めて整鋭凹凸不整はない」とされているから,「概ね整鋭」では切創の特徴と一致しない,しかも文献によれば,挫裂創であっても,創縁が比較的直線状のものもあるとあり,「概ね整鋭」では,挫創ないし挫裂創である可能性があると主張するが,乙医師は,弁護人の後者の指摘を受け,これを認めながら,被害者Bの死体解剖時に,(2),(3)の創傷を詳しく見て,創縁が「概ね整鋭」であり,創端,創面の形状といったその他の根拠も含めて切創であると判断していると証言しているのであって,現に,乙医師は,(2),(3)の創傷と分岐した創傷について,前者を切創としながら後者を挫創と記載して,切創と挫創とを明確に区別して判断しているのである。また,創縁が一部屈曲していたという点も,乙医師が「いわゆるナイフですぱっと切った形じゃなくて,少し曲がってるよ,というふうに考えてよろしいかと思います。」と述べるように,切り付けた際に途中から少し曲がった場合には,当然創縁が一部屈曲すると説明することも十分可能である。加えて,弁護人は,(2)の後創縁について,切截が分岐し,小さな表皮片を伴うという点も,切創の特徴と一致しない旨主張するが,乙医師の証言によれば,後頭部の各創傷の態様からみて,(2),(3)の創傷が後頭部に形成された後,後頭部には強い鈍的外力が加えられたことが認められるところ,この鈍的外力によって,創縁に小さな切れ込みや表皮片を生じることは十分あり得るのであって,この点も同創傷が切創であるとして説明可能である。

さらに,弁護人は,(2),(3)の創傷は,死体検案では後頭部裂創と判断され,検視の際にも挫裂と判断されていること,文献によれば,「稜状鈍体が頭部に作用すると,一見切創と似た挫裂創ができることがある」と指摘されており,前記のとおり,被害者Bの後頭部には相当程度の強い打撲が複数回加わったと考えられることに照らせば,(2),(3)の創傷は,鈍体の強い打撲的作用のみで生じた可能性は否定できないはずである旨主張するが,乙医師は,上記の文献に記載されているようなこともあることは前提とした上で,本件で問題となり得る稜状鈍体と認められる現場にあった鉄製フェンスでは,(2),(3)の創傷はできない旨明確に証言しており,その証言には合理性がある。また,検視の際には,後頭部には頭髪が生えており,周りには皮下軟部組織が露出し,創も相当開いた状態であったから,検視や死体検案の際に正確に創の形状などから切創と判断できたのかは疑問である。一方,乙医師は,死体解剖時には頭髪を切断し,露出していた組織も取り除いた状態で,創を接着するなどした上で,専門的知識に基づき,その他の要素も考慮して切創と判断しているのであって,死体検案や検視における判断が乙医師の判断に合理的な疑いを生じさせることにもならない。

(イ) 次に,②の点について,弁護人は,乙医師が,(2),(3)の創傷について,弁護人主張の創縁と表皮のなす角度が異なっていても,別個の攻撃で生じたものではなく,傷を受ける方とその刃器との相対的な位置関係が変化したというふうに考えれば良く,一つの攻撃によって生じても矛盾がない旨証言している点について,創壁の角度が,一瞬に変わることは考えられないはずなので不合理である旨主張する。しかしながら,既に検討したように前創縁の一部が屈曲していることからも,乙医師が証言するように,傷と刃器との相対的な位置関係が変化したことによって角度の違いは十分説明できるし,また,創壁の角度に関する鑑定書の記載は,特定の地点で,角度が急激に変化したことを前提としているとは必ずしも認められないから,結局,乙医師の証言に不合理な点は認められない。

(ウ) そして,③の点について,確かに本件鑑定書には,創面が平滑であるという点に関する記載はないが,乙医師は,創面が平滑であったことをも根拠として,(2),(3)の創傷が切創であると判断した旨証言しているのであり,創縁と表皮のなす角度が記載されているから,創面が平滑であったという乙証言にも特に不自然な点は認められない以上,記載がないからその点が信用できないとはいえない。

(エ) 最後に④の点については,乙医師が,甲50号証の作成過程において,警察官の案文の一部を確認しないまま署名押印したことがあったにせよ,本件鑑定書自体は,同医師が自ら死体解剖をした結果を,自己の責任で記載したものであることに変わりなく,その中で,同医師は明確に(2),(3)の創傷を切創であると判断しているのであって,そこに捜査機関の介在は一切認められないのであるから,本件鑑定書中の記載に関して,乙医師の中立性・客観性に疑問は生じない。

オ 小括

したがって,被害者Bの後頭部に存する(2),(3)の創傷は切創であると認められ,この点に関する上記の弁護人の主張はいずれも理由がない。そして,乙証言によれば,この後頭部の切創は,現場に遺留されていた甲51号証のはさみによって形成することが可能と認められ,さらに創傷の場所が後頭部であることに照らせば,被告人が,被害者Bの背後から,はさみによって切り付けたことが合理的に認められる。

(2) 被告人が被害者Bの頸部を,はさみで一方的に刺したり,切り付けたりしたと認められるか(創傷の程度などから頸部の損傷を形成させた行為態様が認められるか)

ア 被害者Bの遺体に残された創傷とその成傷原因

まず,前提として,既に検討したとおり,信用性の認められる本件鑑定書及び乙医師の証言等によれば,被害者Bの遺体には,大きな創傷として,その成傷原因も含め,以下の①から⑤までの創傷が存在する。

① はさみによるものと認められる死因となった頸部の創傷を含む計7個の左右に走る刺創・切創

② 同じく死因となったはさみによるものと認められる後頭部の切創に加え,被害者Bの後頭部を現場にあった鉄製フェンスに複数回打ち付けたことにより生じたと認められる広範な皮下出血や皮膚軟部組織,皮下組織の挫滅を伴う挫創

③ 頸部が過度に前屈されたことに伴う第1,第2頸椎間のずれにより生じたと認められる第1,第2頸椎間の靱帯断裂と頸髄損傷

④ 右側胸部に対する強力な鈍的外力作用によるものと認められる肝右葉の挫滅

⑤ 寝ている状態の人の前胸部の比較的下の部位を踏みつけたような場合にしばしば見られる形状の左右の第8から第10肋骨の骨折,さらに骨折後の第9肋骨が,再度の鈍的外力の負荷により生じたと認められる右肺下葉の挫傷からなる創傷

イ 合理的に推認できる創傷が形成された順序

(ア) 次に,①の頸部の刺切創と②の後頭部の切創及び挫創の各創傷の前後関係について,乙医師は,死因となった①の刺切創は,右側頸部の比較的血流量の多い動脈として知られる右上甲状腺動脈を,外頸動脈からの分岐直後に完全に切断している刺創であり,この刺創が形成されると比較的短時間で血圧が下がっていくと考えられるところ,後頭部の出血の状態は非常に強く,②の創傷は十分に血圧が維持されているときの受傷と考えられるから,②の後頭部の創傷が先に形成されたと考えるのが普通である旨証言している。この指摘自体は,十分合理的で信用でき,①の頸部の刺切創が形成されたときには,既に②の後頭部の創傷が形成されていたと認めるのが相当である。また,乙医師は,同じく③の頸髄損傷について,③の頸髄損傷により高位頸髄では中心性に強い浮腫の発生と血栓形成を伴っていることから,頸髄損傷が形成されたときには血圧が十分保たれていたと考えられるとして,③の頸髄損傷が生じた後,①の頸部の刺切創が形成されたものと考えられる旨証言し,この点も同じく信用できるので,①の頸部の刺切創が形成されたときには,既に③の頸髄損傷が形成されていたと認めるのが相当である。

(イ) ただし,上記認定の根拠である創傷形成時の血圧だけからは,比較的短時間とはいえ,①の頸部の刺切創が形成された後でも,これにより血圧が十分に下がる前に②の後頭部の創傷や③の頸髄損傷が形成された可能性が論理的には残る。しかし,関係各証拠に照らすと,①の頸部の刺切創が形成された際の防御反応の痕跡が被害者Bの遺体には認められないところ,その創傷の部位や程度をも考慮すれば,①の頸部の刺切創が生じたときには既に被害者Bが抵抗できない状態であったことが強く推認できるから,上記の論理的な可能性は否定できるというべきである。また,後記のとおり,①の頸部の刺切創は,はさみで相当深く切り付けなければ形成できない致命傷であって,このように頸部を相当深くはさみで切り付ける攻撃を加えておきながら,その直後に,後頭部を鉄製フェンスに複数回打ち付ける攻撃を加えるというのは,殺害目的としては必ずしも不必要な行為を直後に行うという点で,あまりに不自然で想定し難いことも指摘できる。

(ウ) また,④の創傷と,①の頸部の刺切創との前後関係について,乙医師は,④の肝破裂に伴う腹腔内出血は200ミリリットルと少ないことから,外力作用があったときに血圧がかなり低下している,又は血圧が維持されている状態ではないところで生じたと考えるのが妥当であり,頸部の刺切創が形成された後に,④の創傷が形成されたと考えられる旨証言しており,この点の指摘は十分合理的であって信用できるので,④の創傷は,①の創傷が形成された時点では未だ生じていなかったものと認められる。⑤の創傷についても,乙医師は,肋骨骨折及びその後の攻撃により生じた右肺下葉の挫傷に伴うものと認められる右胸腔内の出血量は,20ミリリットルと少ないことも指摘しており,この点から,同様に,⑤の創傷は,①の創傷が形成された時点では未だ生じていなかったものと認められる。

ウ 小括

したがって,以上の検討により,①の頸部の刺切創が形成された時点では,②の後頭部に関する切創,挫創及び③の頸髄損傷は既に形成されていたが,④の肝右葉の挫滅及び⑤の肋骨骨折等は未だ形成されていなかったことが認められる。

(3) 頸部の刺切創が形成された際の,被害者Bの意識状態

上記のとおり,①の頸部の刺切創が形成された際には,既に②の後頭部の切創及び挫創は形成されていたと認められるが,現場の鉄製フェンスには広範囲に血痕が付着し,さらに一部には被害者Bのものと認められる組織片や頭髪が付着していること,本件鑑定書及び乙証言によれば,被害者Bの後頭部には広範囲に挫滅が存在し,その態様と規模から,複数回の鉄製フェンスへの打ち付け行為があり,かつその程度も骨折は伴わないが鈍体の強い打撲的作用によるものと認められること,そして,この複数回の後頭部に対する攻撃について,防御反応を示す所見が認められないことを総合考慮すれば,乙医師が,被告人が被害者Bの後頭部に切り付けたり,後頭部を鉄製フェンスに複数回打ち付けたことにより,被害者Bの意識状態は,防御反応ができない低下した状態で,その原因としては脳振盪も十分あり得る旨証言しているのは,十分合理的で信用することができる。同様,①の頸部の刺切創が形成された際には,既に③の頸髄損傷は形成されていたと認められるが,乙証言によれば,その創傷により,被害者Bは頸部を動かすことが困難な状態であったことも認められ,この点からも被害者Bが抵抗することが困難な状態であったことは,より確かとなる。そうすると,被告人が,被害者Bの頸部を複数回突いたり,切り付けたりした際には,被害者Bは,抵抗することが困難な状態になっていたと認められる。したがって,以上の検討により,被告人は,被害者Bが,抵抗することが困難な状態において,複数回被害者Bの頸部を突いたり切り付けたりしたことを認めることができる。

この点について,弁護人は,①乙医師は,一つの可能性として,脳振盪の可能性があるとしているだけであり,また,被害者Bが拘束された状態であれば防御反応がないこともあることは認めているのであるから,被害者Bの意識状態の推認を前提とする検察官の主張に関して,乙医師の証言は,裏付けるものとは評価できない,②被害者Bの頸部の創傷には,深い創傷もごく浅い創傷も存在するのであって,無抵抗の被害者Bに対して攻撃が行われたとすると,そのような特徴の創傷が生じるのは,不自然であるなどと主張する。

しかしながら,既に検討したように,本件現場における血痕や肉片が付着した鉄製フェンスの状況や被害者Bの後頭部の挫滅の状況に照らせば,被告人が相当強い攻撃を後頭部に加えたことが十分認められ,そのこと自体から,被害者Bの意識状態が悪化していたことが推認できることに加え,本件では,被害者Bが拘束されているなど,被害者Bにおいて意識がありながら,頸部への攻撃について防御反応ができなかったような状況は全く窺えないのであるから,乙医師が証言する被害者Bの意識状態に関する推測が,一つの可能性に留まるとは到底言えず,十分合理的な推認というべきである(弁護人は,被告人の供述するような状況の存在を前提としているが,後記のとおり,被告人の供述は信用できない。)。また,被害者Bの頸部の創傷に,深い創傷も,ごく浅い創傷も存在すること自体からは,被告人が,何らかの障害を受けながら攻撃を加えた可能性を生じさせるが,そもそも,抵抗を受けない状態で狙って攻撃を加えた場合でも,そのときの態勢,心理状態,さらには体調などの理由で,深さの違った創傷が生じる可能性もあるし,意図的にそのように攻撃した可能性もあるのであって,弁護人の主張は,それこそ一つの可能性を指摘しているだけであって,既に検討したように,現場の状況,被害者Bの遺体の状況等の客観的事実から,被害者Bが抵抗困難な状態で,被告人が頸部を複数回はさみで突いたり,切り付けたりしたことが合理的に推認することができる以上,弁護人の主張は,この点に合理的な疑いを生じさせるものとは認められない。

また,弁護人は,争点4-1に関する検察官の主張は,被害者Bがはさみに触れた可能性を否定できないとする,はさみのDNA鑑定結果(弁19)と整合しない旨主張する。しかしながら,そもそも,この鑑定結果は,被告人が,はさみで被害者Bの後頭部を切り付けたり,頸部を突いたり,切り付けたりした際に,被害者Bがはさみに触れていたことを示すものではないのであって,せいぜいその前に被害者Bがはさみに触れた可能性を示すものに過ぎず,その可能性があるからといって,これまで検討したように,創傷の部位や程度から,頸部に創傷が形成された際の,被害者Bの意識状態に関する認定に疑問を生じさせるものとは到底いえない。したがって,弁護人のこの点の主張にも理由がない。

(4) 争点4-1に関する結論

以上の次第で,被告人は,被害者Bの頭部をはさみで切り付けた事実及びその後,被害者Bが抵抗困難な状態で,その頸部を複数回はさみで突いたり,切り付けたりした事実を認めることができる。

4  争点4-2に関する検察官の主張に対する判断

次に,争点4-2に関する検察官の主張を検討する。

(1) 被害者Bの頸部の創傷から,被告人が,相当強い力で突いたり,切り付けたことが認められること

乙医師は,被害者Bの遺体の頸部には,深さが約4センチメートルから約4.5センチメートルの傷があるところ,切り出しナイフのような先端部が非常に鋭利なものであれば比較的簡単に中まで入るものの,甲51号証のはさみでできた傷であるとすると,かなり強い力でないと,そこまでの深さの傷はできないと思われる,頸部の傷がはさみによってできたとした場合,はさみの先端部は丸みを帯びている部分があるため,皮膚がちぎれるほど強い力がなければならないと考えられる旨証言している。同証言はそれ自体合理的で信用できるが,関係各証拠によれば,同はさみは片方の指掛部が,その末端から切っ先に向かって約8センチメートルの位置から若干曲がっていることが認められるところ,同はさみが被告人車両内にテープを切るために持ち込まれたもので,本件以前に上記のような損傷が生じた可能性は窺われないことからすると,同はさみの損傷は,被害者Bへの切り付け行為時に同はさみに加わった力が原因で生じたものであると考えて矛盾はなく,このことは,被告人の被害者Bへの切り付け行為が相当強い力でなされたとする上記乙証言を裏付けている。

(2) それ以外の創傷についても,被告人が,相当強い力で攻撃を加えていること

既に検討したとおり,被告人の被害者Bへの攻撃としては,後頭部へのはさみによる切り付けと鉄製フェンスへの複数回の打ち付け行為,具体的な態様を特定することはできないが頸髄損傷を生じさせる行為,頸部を突いたり,切り付けたりした後に加えられたと認められる,肝挫滅や肋骨骨折等を生じさせる複数回の加害行為が認められる。これらの攻撃は,その生じた創傷の程度からみても,いずれも相当強い力で加えられたものと認めるのが相当である。

(3) 争点4-2についての結論

そうすると,検察官が争点4-2に関する主張には,十分理由があり,以上の検討から,被告人は,抵抗が困難な状態の被害者Bに対し,人体の枢要部である頸部を狙って,はさみを用いて複数回強い攻撃を加え致命傷を負わせて死亡させている上,その前後に,同女の後頭部をはさみで切り付けたり,鉄製フェンスに打ち付けたり,頸部を過度に前屈させたり失血や頸髄損傷により抵抗できない状態にある同女の腹胸部に多数回強い鈍的外力を加えたりしているのであるが,これらの外力によって人が死亡する危険性は極めて高く,被告人はそのことを分かった上で敢えてこのような行為に及んでいることは明らかであるから,被告人に確定的な殺意があったことは優に認められる。

5  被告人の供述及びそれに基づく弁護人の反論について

これに対し,弁護人は,被告人の公判供述に基づき,被害者Bが被告人に殴る蹴るの暴力を振るい,頭を鉄製フェンスに打ち付けたり,さらに頭を蹴ったり,はさみで切り掛かったりしたため,被告人は,身を守るため,同女の頭を鉄製フェンスに打ち付けたり,同女の腹部を一回蹴ったり,被告人が同女に馬乗りになって,はさみを持っている同女の手首をつかんで押したり引いたりした際に,はさみを同女の頸部に当ててしまったりしたため,結果的に同女の頸部に傷が生じただけであって,被告人には殺意はなかった旨反論する。

しかるに,弁護人の反論が根拠としている被告人の公判供述は以下のとおり信用できない。

まず,被告人供述では,前記のとおり被害者Bの遺体に認められる後頭部の切創や頸髄損傷の存在が説明できない。さらに,被告人の供述によれば,肝破裂や肋骨骨折を生じさせ得る外力は,頸部への創傷が起きたと思われる場面よりも前の,鉄製フェンス前での五,六回の足蹴りということになるところ,前記のとおり,肝破裂や肋骨骨折は,主要な創傷の中でも,失血が進み,頸髄損傷により手足を動かすことがほとんどできない状態で加えられたものと合理的に認められるのであって,被告人の供述は,その認定に反する。そして,被告人の供述によれば,そのような状態で被害者Bがさらに立ち上がって,被告人を殴ったり,はさみで切り付けたり,もみ合いになって,馬乗りになられた状態でもさらにはさみを巡って被告人と争ったということになるが,このようなことはおよそ不可能であるし,その後,被告人が現場から立ち去る前に,馬鹿野郎,詐欺師,殺してもらうかんねと言ったということもあり得ないのであって,この点でも被告人の供述は遺体の創傷から合理的に認められる事実に反する。

また,被告人の供述するように,被害者Bが鉄製フェンスに頭を打ち付けられても,体を蹴られてもなおも被告人に対する攻撃を続けてきたというのであれば,被害者Bの遺体に残る損傷が苛烈である一方で,同女の遺体に何らの防御反応も見られないこととも符合しない。

このように,被告人の供述は,被害者Bの遺体に残る各創傷の状況に照らして,あまりに不自然不合理な点が多く,到底信用できない。

なお,被告人は,被害者Bからはさみによって右腕等を切り付けられたなどと供述しているところ,現に,その裏付けとして提出された写真撮影報告書(弁15)には,平成19年8月29日の時点で,被告人の左右の腕に長さ1ないし2センチメートルほどの傷が6か所写っている。しかしながら,被害者Bからはさみで切り付けられたのであれば,それは自己の行為を正当化する最たる事実であるにもかかわらず,関係各証拠によれば,被告人は,Eに対して,事件後,被害者Bが金をゆすってきたという趣旨の話はしているものの,はさみで切り付けられたという話は一切していないし,はさみによって血が出る傷を負ったにもかかわらず,Eに治療を求めていないことからすると,同写真撮影報告書に写っている傷が,事件当時に生じたものであると考えるのは不自然であり裏付けとして不十分である。また,既に検討したように,はさみに関するDNA鑑定結果についても,被害者Bがはさみに触れた可能性があることを否定できないだけであって,被告人が供述しているような状況で,被害者Bがはさみで被告人に攻撃を加えたということは,被害者Bの後頭部の切創の存在や,頸部の創傷が形成された際の,被害者Bの意識状態からみて,あり得ないいことは明らかであって,何ら被告人の供述を支えるものではない。

そうすると,前記の被告人供述は信用できない。

第5判示第5の事実について

1  争点5

判示第5の事実については,被告人が平成19年7月18日未明,被害者B夫婦の車両(以下「B車両」という。)に搭載されていたポータブル・ナビゲーション,シガーライターソケット,携帯電話用充電器各1個(以下「本件ナビ等」という。)をB車両から被告人車両に持ってきたことは争いがないが,被害者Bの意思に反して持ってきたものかが争われている。

2  争点5に関する検察官の主張

争点5に関して,検察官は,①B車両が発見された際,同車内部が荒らされた状況が顕著であったこと,②被告人が所持していたポータブル・ナビゲーションには,シガーライターソケットや携帯電話用充電器が接続されたままであって,被害者Bが被告人にプレゼントしたと考えられる状態ではなかったこと,③被害者Bは,被告人に借財の返済を求めていたのであり,その時点でそれぞれ使用していたポータブル・ナビゲーションや被告人の使用する携帯電話の会社とは対応しない携帯電話の充電器等を被告人に与える理由がないこと,④被告人はEに対し,本件ナビ等について,「被害者Bの車から取ってきた」と説明したことに照らし,被告人が被害者Bの意思に反して本件ナビ等を持ち去ったことは明らかである旨主張する。

3  争点5に関する検察官の主張に対する判断

(1) 関係各証拠等により認定できる事実

そこで検討するに,関係各証拠及び信用できる遺族甲の証言によれば,争点5に関して検察官が主張する前記①ないし③の各事実が認められる。

また,同④の事実について,Eは,本件当日,被告人から,被告人車両に積まれていた本件ナビ等について,被害者Bの車から取ってきた旨言われたが,もらってきたとは言われていない旨明確に証言する。そして,関係各証拠によれば,Eは,被告人が判示第4の事件を起こして帰宅した直後から同人と行動をともにしており,被告人から同事件を打ち明けられたり,本件ナビ等が積まれた被告人車両に乗って,一緒に被害車両を洗車しに行ったり,同事件の現場に被害者Bの様子を確認しに行ったりしていることが認められるところ,その過程で,被害車両にもともと積まれていなかった本件ナビ等について,被告人から話をされたというのは自然であり,そのときの記憶について,Eがことさら虚偽の証言をする事情は一切窺われないから,同証言は信用でき,同④の事実も認められる。

(2) 上記各事実からの推認

そうすると,争点5に関して検察官が主張する前記①ないし④の各事実はいずれも認めることができ,これらの事実からすれば,特段の事情がない限り,被告人が被害者Bの意思に反して本件ナビ等を持ち去ったと優に推認することができる。

(3) 弁護人の主張

ア ところで被告人は,被害者Bから本件ナビ等をあげると言われて受け取った旨供述し,弁護人もそのような会話は不合理とはいえないし,被害者Bが本件ナビ等を被告人にプレゼントしようと判断した可能性は否定できない旨主張する。

すなわち,被告人は,本件当日,被害者Bに電話をかけた際,会って欲しい旨言われ,道が分からないだとか,車がないだとか,ナビも何も付いてないなどと言って断ろうとしたところ,同女から私のナビをあげると言われた,その電話のやりとりの中で同女と会うことになり,待ち合わせ場所までカーナビの付いている車で行ったが,カーナビが付いていることについて同女から指摘されたことはなかった,同女と合流すると,同女が縦30センチ,横50センチ,奥行き50センチくらいの大きさの箱を持って自車に乗ってきて,その箱を運転席と助手席の間の後部座席に置いた,その際,Bさんはカーナビのことで何も言わなかったし,車内でもカーナビの話は出なかった。当日,携帯電話の充電器やシガーライターソケットは話題に出ていないなどと供述する。しかし,カーナビが付いていないからカーナビをあげようと思って被告人車両に乗り込んできた被害者Bが,持ってきたB車両のカーナビについて被告人に何らの話もしなかったばかりか,既に被告人車両にカーナビが付いていることに言及しなかったというのはあまりに不自然であり,当日,話題にすら出ていない携帯電話の充電器やシガーライターソケットもカーナビと一緒に箱に入れて被告人に贈るということも唐突であり不自然である。確かに,関係各証拠によれば,被告人と被害者Bは,従前交際していた時期があり,その際,被告人は同女からネックレス等の高価品を複数回プレゼントされたりしていたことが認められるものの,深夜,急に電話で会うこととなって,本件ナビ等を贈るということはあまりに唐突であって,同女が本件ナビ等の入った箱を持って被告人車両に入ってきたということが上記のように極めて不自然であることに変わりはないから,やはり被告人の供述は信用できない。

イ また,弁護人は,B車両から財布や紙幣が入ったショルダーバッグには手を付けずに本件ナビ等を持ち出す理由はないとも主張するが,被害者Bの意思に反して本件ナビ等を持ち出したとの前記認定を左右するものではない。

4  争点5のまとめ

以上より,被告人は被害者Bの意思に反して本件ナビ等を持ち去ったことは優に推認できる。

第6判示第6の事実について

1  争点

判示第6の事実については,判示の態様における実行行為及び殺意の有無が争点となっており,具体的には,以下の各事実が争われている。

(1) 争点6-1

被告人は被害者Cの頸部等を多数回はさみで切り付けたか

(2) 争点6-2

被告人には被害者Cに対する殺意があったか

2  検察官の主張

(1) 争点6-1について

検察官は,被害者Cの右耳介を含む頸部付近の切創の状況や鎖骨付近に見られる刃物による切創と考えられる多数の創傷からして,被告人が被害者Cの頸部等を狙い多数回はさみで切り付けたことは明らかである旨主張する。

(2) 争点6-2について

また,検察官は,被告人は,十分な殺傷能力を有する凶器であるはさみで,身体の枢要部を狙って多数回切り付けたもので,とりわけ頸部中央の最も深く大きい切創からして,被告人が強い力を込めて切り付けたといえることや,被告人には,犯行現場で110番通報をしようとする被害者Cをどのような手段,方法によっても止めようとして殺意を抱く十分な動機があるから,殺意を有していたことは明らかである旨主張する。

3  争点6-1に対する判断

(1) 被害者Cの受傷部位等

本件による受傷部位に関し,関係各証拠により認められる事実(なお,以下では,創傷の部位を記載するに当たって,「左」は被害者Cの左手方向を,「右」は同女の右手方向を指すものとする。)

本件当日の深夜未明,F病院に搬送された被害者Cについて,丙医師が頸部付近を撮影した写真には,以下の①ないし⑤の創傷のほか,頸部付近に刃傷か擦り傷か判然としない傷が複数写っている(甲84。なお,以下の①ないし⑤の番号は,丙医師が,当公判廷において,同写真の写しに,切創と判断できる傷のある部位を特定して付記した番号に対応する(丙医師の証人尋問調書添付の写真写し中に記載の番号に対応)。)

① 右頸部から前頸部にかけて大きな裂け目が生じ,一部底が見えない傷

② 下あごに水平に走るやや短めの傷

③ 右耳たぶが創縁,創面ともにきれいに2つに割れている傷

④ ①の傷の左創端からやや左上方に上下に走る2つの傷

⑤ 首の付け根の左側に細長く走る傷

(2) 被害者Cの証言

本件当日の深夜未明,帰宅途中に白い車に追尾されたため,z駅付近のガード下に車を止め,自車の後方に停車した白い車の運転手(被告人)に近づき追尾をやめるように強い口調で伝えた。自車に戻り,白い車を先に行かせようと待っていると,被告人が車を降りて自車の方に向かってきた。被告人は運転席の横まで来ると,車の中に頭や上半身を入れ,顔を急接近してきた。本当にやめて欲しかったので,携帯電話で警察に連絡する旨被告人に言い,携帯電話を手にとって,番号を押し始めた。

すると,被告人は自分のズボンの後ろポケットに右手を入れて,何かを取り出すような動作をしたが,その際,カチャカチャという金属音がした。そして被告人は右手を自分の肩の上まで上げて,殴るようにして,私に向かって腕を振り下ろしてきた。左に顔を背けるようにしたところ,首の辺りに何か当て付けてくるような,かっとなって少し熱くなる感覚を覚えた。危ないと思い,さらに被告人から離れるようにして運転席に座ったまま,上半身を左方の助手席側に倒した。助手席に置いてあったバッグに目をやると,血がバッグにたれているのが見えた。

さらに,被告人は覆いかぶさるようにして私の上に乗っかってきたので,大声で助けを求めたり,「やめて」と言ったり,両手両足を使って全身で抵抗した。被告人は「うるせえ,黙れ。」などと言いながら,何回も首,耳,鎖骨辺りを狙ってきた。刃物のような物で刺してくるような感触があり,プスプスというような音が聞こえた。右耳にも最初に首を攻撃されたときに感じたような熱さを感じた。

抵抗を続けていると,知らない間に被告人は車から出て行った。

(3) 被害者Cの証言の信用性

上記証言は,被害者Cが,被告人から,最初にはさみを振り下ろされ,その後複数回にわたりはさみで攻撃された状況について詳細かつ具体的であって迫真性も認められ,特に不自然な点も認められない。また,被害者Cの証言内容は,上記認定の被害者Cの負傷状況や被害者Cの車両内の血痕状況等の客観的事実と符合する。すなわち,被害者Cが証言する被告人の行為態様は,被害者Cの頸部に大きな切創ができたことと符合するし,さらに被告人が上半身を車両内に入れて,被害者Cに覆いかぶさるようにしてはさみを振り下ろし続け,その際右耳に熱い感覚があったという点も,被害者Cの右耳介部に大きな切創があることに符合している。また,同証言中,被告人から複数回にわたり切り付けられたとする点も,その他にも被害者Cの頸部付近に複数の切創が存在することに符合する。

加えて,丙医師は,自らが撮影した甲84号証添付の写真の写しを見て,同写真に写っている創傷のうち,上記の5か所については切創である旨明確に証言しており,その証言内容に疑いを生じさせるような事情は認められないから,これらの創傷はいずれも切創と見ることができ,被害者Cの証言は,丙医師の証言によっても裏付けられている。

よって,被害者Cの証言は信用できる。

なお,弁護人は,同証言の信用性に関して,被害者Cが捜査段階では2回目以降の攻撃について供述していないことを指摘するが,上記のとおり,同証言は被害者Cに認められる創傷の客観的状況と符合するものであるから,かかる供述の存在によって同証言の信用性が弾劾されることにはならない。

(4) 弁護人の主張

また,弁護人は,被告人は1回又は続けて2回,被害者Cの側ではさみを振り下ろしただけである,頸部中央の大きな切創や右耳介付近の切創以外の傷については救護措置等のときに生じた擦過傷の可能性がある旨主張しているが,前記のとおり,被害者Cに認められる創傷の客観的状況等に照らし,弁護人の主張するような原因により同創傷が形成されるとは到底考えられないから,弁護人の主張はいずれも採用できない。

(5) 小括

以上のとおりであって,被害者Cの体に形成された各創傷は,いずれも被告人が同女の頸部付近を中心に多数回はさみを振り下ろしたことによって生じたものであり,しかも,被告人は,被害者Cに対し最初にはさみを振り下ろした後も,さらに同女に覆いかぶさるようにして頸部付近に向けてはさみを振り下ろし続けたことは,明らかである。

4  争点6-2に対する判断

前記のとおり,被告人は被害者Cの頸部付近を多数回はさみで切り付けたものと認められ,頸部付近は,身体の枢要部で,傷付けられれば死亡する危険性が高いことは明らかである。とりわけ,同女の前頸部の最も大きい切創は,被告人の第1撃によって形成されたものと認められるところ,少なくとも10センチメートルほどの長さがあり,深さはおよそ3センチメートルにも及び,一部は皮下組織を貫通して筋肉層にも至り,少しずれれば総頸動脈を断裂させる位置にあったのであって,その傷の大きさや深さから見て,被告人は,相当の力を込めて切り付けたものと認められ,その行為自体,人を死亡させる高度の危険性を有するものであることは明らかである。その上,被告人は,それに留まらず,さらに多数回はさみで頸部等を切り付けたのであって,以上の諸事情に照らすと,その動機等について検討するまでもなく,被告人が,その時点で,人を死亡させる危険性が極めて高い行為を,そのことを了解した上で犯行に及んでいることは明らかであって,被告人において被害者Cに対する確定的な殺意があったと優に認めることができる。

弁護人はこの点について,被告人が被害者Cの車両を追走して犯行現場に至る経緯を検討すべきであるなどと縷々主張するが,検察官も,被告人に殺意が生じたのは,被害者Cが被害現場において携帯電話で110番通報をしようとしたときであったと主張しているのであって,仮に弁護人主張の経緯等が認められたとしても,この時点で被告人に殺意が生じたと認定する妨げには何らならないから,弁護人の主張は,いずれも採用できない。

(累犯前科)

被告人は,(1)平成9年9月16日浦和地方裁判所熊谷支部で強姦,恐喝,強盗の罪により懲役7年に処せられ,平成16年4月23日その刑の執行を受け終わり,(2)その後犯した暴行,恐喝の罪により平成18年3月13日さいたま地方裁判所で懲役1年に処せられ,平成19年1月21日その刑の執行を受け終わったものであって,これらの事実は検察事務官作成の前科調書(乙23)及び(2)の前科に係る調書判決謄本(乙29)によって認める。

(法令の適用)

省略

(弁護人の主張に対する判断)

第1責任能力に関する主張について

1  弁護人の主張の概要

弁護人は,平成19年7月6日未明の被害者Aに対する事件(罪となるべき事実第1及び第2)及び同月20日未明の被害者Cに対する事件(罪となるべき事実第6)の各行為当時,被告人が複雑酩酊による心神耗弱状態に陥っていた疑いは否定できないと主張する。そして,その根拠として,被告人には複雑酩酊の病的素因として無視できない重要な事実があること,上記各行為時に大量の飲酒をしていること,上記各行為に関して複雑酩酊の特徴と合致する点があることをそれぞれ主張する。

2  弁護人の主張に対する判断

(1) しかし,前記認定に係る各犯行前後の被告人の行為等に照らすと,被告人が心神耗弱状態に陥っていたとは到底考えられない。

すなわち,判示第1及び2の各事実に関し,被告人は,犯行直前のz駅周辺から本件スタンドまでの間,自動車を正常に運転し,本件スタンドでは被害者Aと正常に会話できていること,とりわけ,被告人の主張するところの「ナンパ目的」(これが途中からは強姦をも目的としていたことは前記認定のとおりである。)のため合目的的に行動し,口実をつけて被害車両に無理矢理乗り込むや本件土手まで被害車両を正常に運転し,本件土手では被害車両から逃げ出した被害者Aを追いかけ,路上に引き倒して激しい暴行を加えていること,その上,被害者Aの所持品を物色し,現場からEに電話をかけて土手に迎えにくるよう指示していること,その際,Eが待機していた本件スタンドから本件土手までの運転経路を指示しているばかりか,帰宅途中の車内では,Eに対し,「女をぼこぼこにしちゃった」などと説明し,帰宅後には着衣を捨てるよう罪証隠滅行為をEに指示していることが認められる。

また,判示第6の事実に関し,被告人は,犯行前,自宅から「店丁」,「店戊」を経由してz駅付近のガード下まで自動車を正常に運転し,特に被害者Cを追尾する際にはパッシングをしたりクラクションを鳴らしたりもしていること,ガード下で停車した後は被害者Cと会話ができていること,被害者Cに反抗的な態度を取られて本件犯行に及んでいること,事件後にはEに「女をまたやっちゃった」旨伝えたり,自動車を運転して現場から自宅まで帰宅し,罪証隠滅のための着衣の処分についてEに話したり,自車を洗車しに行ったりしていることが認められる。

これらの事実によれば,被告人は,上記各犯行において,自己及び周囲の状況を理解して,これに応じて合理的に行動していると認められ,責任能力に疑問を生じさせるような,異常な点は全く認められない。

そして,被告人は,上記各犯行の時点では,いずれも相当量の飲酒はしていたことが窺えるが,上記のように,各犯行においては特に飲酒の影響で,自己及び周囲の状況の認識や,自己の行動の制御について問題が生じているようなことは全く窺えないのであって,仮に被告人の飲酒量が,被告人の供述するとおり,普段より多かったとしても,やはり責任能力に疑問を生じさせる事情とは認められない。

(2) なお,弁護人は被告人には複雑酩酊の病的素因としててんかんの罹患等の事情を主張しているが,上記のように本件各犯行時の被告人の行為には合理性が認められることに加え,平成20年6月11日に,被告人に対して行われた脳波検査,核磁気共鳴画像検査の結果,てんかん性の異常その他脳気質性病変は認められなかったことをも考慮すれば,弁護人が主張する複雑酩酊の病的素因が被告人にあったとは認められない。

(3) また,弁護人は,上記各犯行には,被告人の生気的な激しい興奮の出現,人格異質的な暴力的運動発散があり,複雑酩酊の特徴と合致していると主張する。しかしながら,関係各証拠によれば,被告人は,飲酒の有無にかかわらず,粗暴的な傾向があることが窺え,判示第1,第2及び第6の犯行に格別激しい興奮の出現とか,人格異質的な点が見られるというわけではない。

また,弁護人は,複雑酩酊時でも基本的状況を認識して周囲の状況に応じて了解可能な行動をとることはできると指摘するが,被告人の行為は了解可能性が保持されているという程度のものではなく,上記のとおり全く異常な点は認められないのであって,そもそも複雑酩酊の特徴と合致しているとは到底いえない。

さらに,弁護人は,被告人が判示第2の犯行について被害者Aの財布を窃取したことや,判示第6の被害者Cに対する事件では多くの部分について,記憶が欠落しているものの,基本的な事実は一貫して覚えていることからも,記憶障害が比較的強いものの概括的記憶は保持されているという複雑酩酊の特徴に合致しているとも指摘するが,そもそも被告人の行為自体に異常が認められないのであるから,複雑酩酊にあったことを前提とするのは誤りであり,弁護人の主張は前提を欠いている。また,既に事実認定の補足説明で検討したように,被告人の上記各犯行に関する供述内容は,基本的に信用できない上,記憶がないという供述の信用性を支える事実も乏しいのであるから,記憶が一部欠落していることを前提に判断することも相当ではない。

3  小括

以上より,被害者A及びCに対する各犯行当時,被告人が複雑酩酊による心神耗弱状態に陥っていたとは到底いえず,被告人に完全責任能力が認められることは明らかであって,この点に関する弁護人の主張は理由がない。

第2正当防衛に関する主張について

弁護人は,罪となるべき事実第4の事実について,被告人供述を根拠に,被害者Bが,事件現場に停車した被告人車両内又は車外で,被告人に対して,髪の毛をつかんだり,顔面を殴打したり,蹴りつけたり,はさみで切り掛かったり,額を蹴って鉄製フェンスに後頭部を打ち付けたりしたため,被告人は身を守るために被害者Bの後頭部を鉄製フェンスに五,六回打ち付けたり,同女の腹部辺りを五,六回蹴ったり,同女に馬乗りになって,はさみを持った同女の右手首をつかんで押し返して同女の首にはさみの刃を当てたりしたのであって,被告人の行為は正当防衛である旨主張するが,事実認定の補足説明第4で検討したとおり,判示第4の事実については,被告人の行為態様に関する被告人供述は到底信用することができず,関係各証拠に照らしても,被害者Bが弁護人の主張するような態様の攻撃を被告人に加えたことは一切窺えないから,結局,急迫不正の侵害が存在しなかったことについて合理的な疑いはない。

よって,弁護人の主張には理由がない。

(量刑の理由)

第1事案の概要

本件は,被告人が,①平成19年7月6日未明,被害者Aをら致して強姦しようと企て,同女の車両に無理矢理乗り込み,同女を乗せたまま人気のない土手付近まで同車両を走行させ,同所で車外に逃げ出した同女に対して,路上に引き倒してその腹部を複数回足蹴にするなどの暴行を加えて判示の傷害を負わせたというわいせつ目的略取,監禁,強姦致傷の事案(以下「A事件」という。),②同月18日未明,知人である被害者Bに対して,殺意をもって,所携のはさみでその後頭部や前頸部を切り付けたり,鉄製フェンスに後頭部を複数回打ち付けたりするなどして,同女を失血死させて殺害したという殺人の事案(以下「B事件」という。),③同月20日未明,被害者Cに対して,殺意をもって,所携のはさみでその前頸部等を複数回切り付けたが,判示の傷害を負わせるに止まり,同女を殺害するに至らなかったという殺人未遂の事案(以下「C事件」という。)及びそのころ業務その他正当な理由による場合でないのに,刃体の長さが約8.2センチメートルのはさみを所持したという銃砲刀剣類所持等取締法違反の事案(以下「銃刀法違反事件」という。),④A事件の際,被害者A管理に係る現金等在中の財布1個を盗み(以下「D①事件」という。),B事件の際,被害者Bの車両からポータブル・ナビゲーション1台ほか2点を盗んだ(以下「D②事件」という。)という各窃盗の事案並びに⑤B事件の直前に,当時の妻であったEに対して,車内や路上で,顔面,頭部等を手の甲等で複数回殴打するなどしたという暴行の事案(以下「E事件」という。)である。

第2A事件及びD①事件について

A事件及びD①事件は,被害者Aが偶然被告人の目に止まったがために生じた通り魔的な事件であるとともに,ら致・強姦目的での略取・監禁から強姦致傷にまで至り,その後同女の財布まで盗んだという重大凶悪事件である。

1  行為態様の悪質性

被告人は,事件当夜まで何ら面識もなかった被害者Aがたまたま自車の前方を走行していた自動車を運転していた際に,その車をパッシングするなどして追尾し,被害者Aが好みの女性であることが分かったときから,被告人のいうところの「ナンパ」を開始した。被告人は「ナンパ」の中で,被害者Aから明確な拒絶があったのに,これを言葉巧みに受け流しつつ,無理に抱きついたりキスを迫ったり,虚言を弄して近くの駐車場に移動させるなど執拗につきまとった。その後,被害者Aの隙をついて,同女をら致・強姦しようとして,突如,同女を助手席に押しやって車に乗り込み,発進させ,本件土手に至るまでの間同女を乗せたまま車を疾走させてら致・監禁した。本件土手で停車させると,同女を強姦しようと企てて,脱げと言ったり,首を絞め付けるなどし,隙を見て同女が車内から逃走したことに憤激して同女を追いかけ,路上に引き倒した。そして,背後から頸部に腕を回し強く締め付け,同女が死んだ振りをした際には,痰や嘔吐物をその身体にかけた。その臭気に耐えかねて同女が身体を少し動かすと,被告人は,「まだ,生きてんじゃねえか。」と言って,無抵抗の同女の腹部をサッカーボールを蹴るように複数回足蹴にする暴行を加えて今度は本当に同女を失神させた。その後も,被告人は相当程度の暴力を加えた上,同女のブラジャー代わりのビキニをタンクトップとともに捲り上げて乳房を露出させたり,ナプキンの装着されたパンティを短パンとともに引き下げてナプキンを剥ぎ取るなどした。

このように,被告人の上記行為は,執拗なつきまといから始まって,一瞬のすきをついて車両に乗り込み,本件土手まで同女を連行した経緯まで相当手慣れたものが見受けられ,そこには逡巡の痕跡が認められない。そして,同女が被告人の求めを拒んで車外に逃走するや,憤激し,一方的に激烈な暴行を加えて失神させ,それに飽き足らず,失神状態にある無抵抗の同女に暴力を振るい続け,着衣に性的な作為を施すなどした行為は,気の済むまで同女を痛めつけ,そして辱めるものである。このような,自己の獣欲の赴くままの被害者の意思を完全に無視した身勝手で非常識,横暴かつ危険な振る舞いには,人間としての良心の欠片すら見い出すことはできない。そうすると,被告人が姦淫行為まではしていないという点は認められるにしても,被告人が被害者Aに加えた行為は誠に人倫に反した非道な所業である。

2  結果の重大性

被害者Aは,被告人の暴行によって,全身打撲,頭部裂傷,外傷性膵損傷,腹腔内出血及び腰椎骨折の重傷を負った。同女は,頭皮が剥がれ,全身が傷だらけ,血だらけの状態で発見され,収容が一,二時間遅れれば出血性ショックにより死亡した可能性もあった。同女は2か月以上も入院生活を余儀なくさせられた上,膵臓の損傷については完治の見込みすら立たず,事件から約1年が経過した段階でも通院を続けているが,膵炎にかかりやすい状態になったばかりか,食事制限をはじめ今後一生,行動が制限され続けていくことになる。また,腹部の手術痕は一生残るものである。これらのことからすると,同女の被った身体的被害は極めて甚大である。同女が死亡するに至らなかったのは偶然に過ぎず,同女が死亡しなかったことをもって,本件の被害結果を軽く見るのは相当ではない。ただ,偶然被告人に目を付けられたがために,このような極めて理不尽な被害に遭わされた被害者Aには,もとより何らの落ち度もない。その上,被告人の暴力を受けていたときの被害者Aの恐怖や苦痛の大きさはもちろん,事件後しばらくの間は被害のことを思い出して夜寝られなくなったり,現在も後遺症に苦しまなければならない同女の悔しさ,無念さたるや察するに余りあり,その精神的な被害が甚大であることは,いうまでもない。同女は未だ若く,本件に遭わなければ普通に享受することができたであろう生活の一部を失っているのである。このように,本件が同女にもたらした有形無形の影響に思いを致すと,同女が,当公判廷において,被告人を死刑にして欲しいと切々と訴えた意味は極めて重い。

3  動機

A事件の犯行動機は,たまたま自車の前方を進行中の自動車を運転していた被害者Aに性的興味を抱き,性欲の赴くままに敢行されたものであり,身勝手というほかなく,酌量の余地は全くない。

4  行為後の情状等

被害者Aは,被告人のあまりに苛烈な暴行のため,上記のとおりの重傷を負った。しかし,被告人は救急車を呼ぶことすらしなかったばかりか,同女が失神していることをいいことに,同女の財布を持ち去っている。帰宅するや,衣服を捨てるようEに指示するなど罪証隠滅工作までし,同女の財布から現金を抜き取り,これを知人に渡し,売ってくるように告げた。このような被告人の事件後の行動からは,被告人が自己の利益のみを考え,ひとり現場で瀕死の状態に置かれた被害者Aのことを考えた形跡は全く認められず,被告人が,被害者Aのことで,少しでも心を痛めたり,反省したりしていなかったことは明らかである。

第3B事件及びD②事件について

B事件及びD②事件は,かつて交際相手にあった被害者Bを,何らかの理由ではさみを用いて殺害し,そのころ,同女の車からポータブル・ナビゲーション等を盗んだという重大凶悪事件である。

1  行為態様の悪質性

事実認定の補足説明で述べたとおり,被害者Bの死体には見るも無残な多くの創傷が残されており,それらの創傷から推認される被告人の行為態様は執拗かつ強力なもので,残虐なものである。すなわち,被告人は,まず,はさみで被害者Bの後頭部を切り付け,その後,同女の後頭部を鉄製フェンスに複数回打ち付け,また,被害者Bの頸部を過度に前屈させて同女の頸髄を損傷した。次に,既に抵抗できない状態に陥っている被害者Bに対し,さらにはさみでその前頸部を多数回刺したり切り付けたりし,うち1か所において,右上甲状腺動脈が外頸動脈から分岐した直後を完全に切断し,大量に失血させた。その上,被告人は,被害者Bの胸腹部に踏みつけのような強い鈍的外力を加え,肋骨を骨折させて骨折端で肺を損傷させたり,肝臓の一部を挫滅させた。そのほかにも,被告人ははさみで同女の顔面を切り付けるなどした。

このように,被害者Bの遺体に残る創傷からは,被告人が,苛烈極まる行為を繰り返したことが認められる。そして,被害者Bの遺体には防御反応が見られないことに照らせば,上記の攻撃は,いずれも同女が抵抗する間もないか,又は既に抵抗する能力を失っていた状態で加えられた一方的かつ執拗で強力なものである。被害現場付近では鉄製フェンスや路上に多数の血痕,組織片,頭髪が飛散し,被害者Bに加えられた被告人の攻撃がいかに凄惨なものだったかを物語っており,被告人が被害者Bに加えた攻撃は残虐この上ない。B事件が,強固な確定的殺意に基づく犯行であることは明らかであり,被告人が同女を人間として扱う気持ちがあったとは到底考えられず,人を人とも思わぬ悪鬼のごとき所業である。

2  結果の重大性

人の命は極めて重く,奪われた命は決して返らないのであり,人の死という結果があまりに重大であることは多言を要しない。被害者Bは生前,両親から愛され,夫から愛され,2児の母親として子供たちからも愛された存在だった。同女も同じように家族を愛していたのであって,被害者Bが本件により受けた肉体的苦痛,恐怖感の大きさはいうまでもなく,家族を残して無残にも殺された同女の無念さは筆舌に尽くし難い。当然,同女が死んだことは,家族にも大きな悲しみをもたらしている。当公判廷でも,遺族らによる書面による意見陳述がなされ,突如として妻を,母を,娘を失った遺族らの深い悲しみや,やり場のない怒りが切々と語られたが,いずれも愛する家族を突然の凶行で失った者として当然の心情を吐露するものであって,異口同音に被告人に死刑を求める遺族らの悲痛な叫びには極めて重いものがある。

3  動機

本件については,明確な動機を認定することはできない。まず,被告人の供述も含めた関係各証拠によれば,被告人と被害者Bとが本件当日に会うに至った経緯については,被告人と被害者Bとが平成16年秋ころから年末にかけて一時期交際しており,被害者Bから被告人に相当多額のプレゼントが複数回贈られたり,少なくとも数十万円程度の金員が貸し付けられたりしていたこと,その後,被告人は同女からプレゼント代や貸金の返還を要求され,同女が知り合いに取立てを依頼したところ,被告人は取立てを恐れたため,平成17年3月ころから月々わずかながら同女の口座に金を振り込み返済するようになっていたこと,本件当夜,被告人から同女に電話をかけ,その電話がきっかけで,両者が午前3時過ぎころにp町で会うことになり,同女も自ら自動車を運転して待ち合わせ場所に向かい,同所で両者が会ったことが認められる。次に,被告人は,被害者Bを殺害するまでの経緯として,同女が会いたいと言ってきたから会った,同女から性的交渉を求められたが陰茎が勃起しなかった,それがきっかけで同女が怒り出して,はさみで切りかかってきた,やむを得ず反撃した結果同女を死なせてしまったなどと供述しているが,かかる被告人の供述のうち,本件が正当防衛で生じたとする部分は,既に検討したとおり,不自然不合理で全く信用できず,被告人の陰茎が勃起しなかったからはさみで切り付けてくるという部分もあまりに唐突で容易には措信し難い。しかしながら,凶器がはさみであり,それ自体は殺傷能力が高いものであるとはいえず,また,殺害のために用意されていたとは認められないことや,借金の返済に関してもそれまで目立った諍いがあったとは認められないことをも考慮すると,被告人が,当初から計画的に殺害を企てていたとか,何らかの利欲目的のために同女を殺そうとしたとは認められない。また,被害者Bの死体の乳房が露出するように捲り上げられていた事実があるとしても,上記のような経緯をも考慮すれば,直ちに,被告人が,被害者Bをら致しようと考えていたとか,強姦しようと考えていたとまでは認められない。したがって,事件に至るまでの間,両者間で何があり,被告人が,いかなる理由で被害者Bを殺害したのかは不明といわざるを得ない。ただ,いずれにしても,およそ本件において,被害者Bが,上記のように,ほとんど抵抗できない状態で,被告人の強力かつ執拗な攻撃を受けて殺害されなければならないような事情があるとは考えられず,被告人に被害者Bを殺害することについて,酌量すべき動機がないことは明らかである。この点,検察官は,犯行前後の状況に鑑み,被告人は,被害者Bとの性的交渉を企図したものの,同女がこれに応じなかったことや債務の弁済に関する同人の発言に激高し,同人の殺害を決意したものと推認されるとして,それを前提として,短絡的な動機に酌量の余地はないと主張するが,既に検討したように,検察官の主張は,十分な根拠に欠けており,酌量の余地はないという点で結論は同じであっても,検察官の主張通りの動機があったとまでは推認できない。

4  行為後の情状等

被害者Bは血だらけで植え込みの中で絶命しているところを発見された。被告人は,A事件のときと同様,同女を放置したまま何らの救命措置をとることも,救急車を呼ぶこともしないまま事件現場を立ち去っている。しかも,これまたA事件のときと同様,被告人はそのころ,同女の車からポータブル・ナビゲーション1台等を盗み,Eに被害者Bがお金をゆすってきたなどと言って同女にも非があるかのような話をしたり,衣服の処分をEに指示したりした。加えて,洗車までしてそれなりに入念な罪証隠滅工作をしたばかりか,翌日,盗んできたポータブル・ナビゲーションを用水路に投棄した後,飲酒をしに行き,日付が変わった平成19年7月20日に,後記のC事件を起こしている。このような行為後の行動に照らすと,被告人が事後的にでもB事件の重大性に気付いて悔悟の心情を抱くことさえなく,全く反省していなかったことは明らかであり,このような被告人の人格,態度には,憤りを通り越して戦慄さえ覚える。

第4C事件及び銃刀法違反事件について

C事件及び銃刀法違反事件は,A事件と同様に,被害者Cが偶然被告人の目に止まったがために生じた通り魔的な事件であるとともに,B事件と同様に殺意をもってはさみで首を切り付けたという重大凶悪事件である。

1  行為態様の悪質性

被告人は,B事件と同様,はさみを使って,被害者Cの首付近を複数回切り付け,後記の傷害を負わせた。被告人は,最初の切り付けの後は,助手席側に身を反らして避けた同女の上に覆いかぶさるようにして,さらにはさみで追撃して同女の首周辺等に多数の切創を生じさせた。本件現場はz駅付近で,現に犯行時刻頃にも周囲に人や車の往来があったが,被告人は,第三者に犯行を目撃されるかもしれない中で,前頸部の大きな切創を負わせただけでは飽き足らず,現に大量の血を流している同女に覆いかぶさってその首付近に集中してはさみで攻撃を加えている。かかる被告人の大胆かつ執拗な行為からは,人を殺すことに何らの躊躇も感じられないのであって,極めて危険性の高い行為は正に極悪非道というほかない。

なお,本件に至る経緯について,被告人は,同女の車を追尾したのは,千葉なる知り合いの車と勘違いしていただけである旨弁解しているが,このような弁解は到底信用できない。信用できる被害者Cの証言によれば,被告人は立ち寄ったコンビニエンスストアで被害者Cを見かけると,付近路上で被害者Cを待ち伏せし,同女の車両を追尾して,パッシングをしたり,クラクションを鳴らしたりして煽ったこと,同女が恐怖を感じながらも意を決して問い質そうと停車すると,被告人が,「人違いだった」,「おれの女が仕事を終わっても連絡ないんだけど,どうしたらいい」などと言って近づいたこと,被害者Cがこれを断ると被告人が執拗に誘うので,同女が110番通報しようとしたことから,被告人が,本件に及んだことが認められる。このような経緯は,被告人が,A事件において,執拗に被害者Aに付きまとい,その後同女をら致・監禁し,さらには強姦しようとしたこととの類似性を窺わせ,ひいては被告人の女性に対する歪んだ考え方を如実に示しているものと評価でき,その意味でも本件の犯情は,このような被告人の人格が現われている悪質なものといえる。

2  結果の重大性

本件によって,被害者Cは前頸部や右耳に大きな切創を負い,そのほかにも首の周辺等に複数の切創等を負った。病院に搬送時,同女は出血性ショックに陥っており,適切な処置が遅れていれば同女は死亡していた可能性もあった。前頸部の最も大きな切創については深さ3センチまで達し,中の筋肉まで切断するものだった。この傷の位置が少しずれていれば気管や重要な血管を損傷させて,同女が死亡する危険性は高かった。頸部の傷によって,首を動かしたり,食べ物等を支障なく飲み込めるようになるまで数か月を要し,右耳の傷については,右大耳介神経障害を起こし,事件から1年近く経過した段階でも未だ完治の目途が立っていない。これらのことからすると,同女の被った身体的被害は極めて甚大である。被害者Aと同じく,被害者Cが死亡するに至らなかったのも偶然に過ぎず,同女の死亡しなかったことをもって,本件の被害結果を軽く見るのは相当ではない。被害者Cは,偶然被告人に目を付けられたがために,このような被害に遭わされたのであって,被害者Cには,もとより何の落ち度もない。被害者Cが幸いにも以前の仕事に復帰できる程に回復しているのは,ひとえに同女の「本件により私の人生を変えられたくない,これまで支えてくれた家族を悲しませたくない。」という強い決意と強靱な精神力によるものであり,死の現実的な恐怖に直面した同女の精神的苦痛は甚大である。このようないわれのない被害に遭わされた同女の悔しさ,憤りは当然ながら峻烈を極めている。同女が,今後も精神的苦痛に苛まれ続けていくであろうことは想像に難くなく,当公判廷で,被告人が社会に復帰するということもしてもらいたくないと証言していることには,他の被害者,遺族と同様,極めて重い意味がある。

3  動機

C事件の犯行動機は,被害者Cの態度に激高して行ったものと認められ,およそ人を殺そうと考えるに足りる事情でないことは明らかであり,極めて身勝手かつ短絡的であるというほかなく,酌量の余地は全くない。

4  行為後の情状

被告人はこれだけの事件を起こした後も,被害者Cをその場に放置して自車で帰宅し,衣服の処分についてEに指示したり,自車を洗車したりして一応の罪証隠滅工作を行っている。事件後の行動から,被告人に真摯な反省の態度が見当たらないのはA事件,B事件と同様である。

第5E事件について

E事件は,被告人が第三者だけでなく,自己の生活を支えてくれていた妻に対してさえ,運転中であろうが気にもせず,身勝手な理由で暴行を振るったという事案である。些細なことでも気に入らないことがあれば安易に暴力にものを言わせてEを言いなりにさせようとするもので,身勝手なその動機にこれまた酌量の余地はないことはもとより,その態様も執拗かつ強度なものであって悪質である。

Eは,被告人に対し厳罰を求めているがもとより当然のことである。

第6その他全事件に共通する事情

以上検討したように,特にA事件,B事件,C事件は,僅か2週間ほどの間に,見知らぬ女性に対して連続的に行われた殺傷事件であって,各事件ごとに違った点は認められるとはいえ,被告人の女性に対する粗暴癖の発露という点では,共通性が認められ,連続して短期間に重大凶悪な事件を繰り返しているという点は,本件の量刑上無視できない特徴であると認められる。その上,被告人には,過去,前科が5犯あり,うち直近の実刑前科3犯は,いずれも女性に対する傷害,強姦,強盗,暴行などの粗暴犯を含むもので,出所後間もない時期に犯罪を繰り返しており,この点も被告人の犯罪性向の悪化を窺わせ,また規範意識の鈍麻が顕著であることを示している。

被告人は,本件被害者又は遺族に対し,何らの慰謝の措置を講じていない。また,被告人は,現在,拘置支所で読書に励むなどして,自らの至らなさを悔い,反省の情を強くしているという趣旨の供述をし,最終陳述でも同様のことを述べた。しかし,これまで検討したとおり,被告人は銃刀法違反事件を除き,ことごとく不合理な弁解をしているのはこれまで詳細に検討してきたとおりである。真の意味で反省の情を深め,ひいては贖罪の日々を送るためには,まずもって,自己の行った行為に向き合うべきは当然であり,それを踏まえない上記供述は,単に口先だけで謝罪の意を表すものとして,被害者や遺族の気持ちを逆なでするもので,量刑上もさほど有利に評価できない。また,被告人の生育歴には,多少不遇な面がないではないにせよ,そのような境遇で育った者であっても全うな道を歩んでいる者はいくらでもいるのであって,このような事件を起こすことを生育歴のせいにするほど家庭環境が絶望的に悪かったとは到底認められない。

第7最終的な量刑の判断

1  以上検討した諸事情に鑑みれば,被告人の刑事責任が極めて重大であることは明白であるところ,検察官は,本件について極刑を回避しなければならない事情はなく,被告人を死刑に処するのが相当であると主張しているので,以下,検察官の主張を踏まえ,被告人の量刑についてさらに検討する。

2  死刑は,生命を奪うという究極の峻厳な刑罰であるから,真にやむを得ない場合でなければこれを選択すべきではないことはいうまでもない。昭和58年7月8日最高裁判所第二小法廷判決(刑集37巻6号609頁)がいうように,犯行の罪質,動機,態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性,結果の重大性ことに殺害された被害者の数,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等各般の情状を併せ考慮したとき,その罪質が誠に重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には,死刑の選択も許されるものというべきで,検察官は,この基準に照らしても,本件は死刑を選択すべきであると主張するのである。

3  そこで検討するに,

(1) 確かに,本件は,わずか2週間程度の間に立て続けに起きたA事件,B事件,C事件という女性に対する3つの殺傷事件を中心とした一連の事件であって,この点が本件の大きな特徴である。A事件及びC事件は無差別に相手を選んだ通り魔的な犯行で,その手口はいずれも極めて執拗かつ危険であるし,B事件の態様は極めて残虐なものであった。A事件及びC事件の被害者らの生命は多大なる危険に晒され,B事件では被害者が殺害され,被害者らの後遺症や精神的な苦痛等も含め,結果はいずれも極めて重大である。もとより,これらの殺傷事件における各犯行の動機に酌量の余地は認められない。これらの殺傷事件における被害者ないし遺族は,ほぼ全員が被告人に対して死刑を求めており,その処罰感情は極めて峻烈である。これらの事件の発生が社会に与えた影響も軽視できず,その地域に大きな衝撃を与えたことは十分推測できる。そして,被告人は,過去,女性に対する傷害,強姦,強盗,暴行などの粗暴な犯行を繰り返して服役をしているが,それぞれ出所後数か月ほどで次の粗暴犯を犯した上,本件においても前刑出所後7か月ほどで立て続けに3人の女性を殺傷しているのであり,その犯罪傾向は悪化しており,被告人の年齢や被告人には本件各犯行に関する真摯な反省の態度が見られないことなどを併せ考えると,被告人の女性への粗暴癖を矯正する余地はほとんど残されていないと評価できる。そうすると,必ずしも全面的に検察官が主張するとおりとまでは評価できないとしても,本件の特徴を含めたこれらの諸事情は,死亡した被害者が1名に留まるとしても,なお被告人の罪責が誠に重大であることを示しており,本件について死刑を選択することに相当程度傾かせる事情であると認められる。

(2) しかしながら,一方で,以下の事情は,検察官の主張を考慮しても,なお死刑の選択を躊躇させる方向に働く事情と認められる。まず,B事件自体は,A事件及びC事件とは異なり,無差別に相手を選んだという犯行ではなく,知人に対する犯行である。その上,既に検討したとおり,少なくとも,B事件自体は,その動機が不明であり,計画的な犯行とは認められず,偶発的な犯行と評価するしかないし,被告人が被害者Bをら致したり,強姦しようとしたり,あるいは殺害により経済的利益を得ようとするなどといった,殺人の罪質をさらに悪くする事情の存在を認めることはできない。次に,無差別に相手を選んだ通り魔的犯行であるA事件及びC事件についても,死刑を選択すべきかという見地からは,その各事件それぞれに以下のような事情を指摘することができる。A事件は,その犯行態様,特に被害者Aに対する暴行態様が極めて苛烈で,被害者Aが被告人の犯行の結果死亡した可能性も相当高い事案ではあるが,被告人の暴行は凶器を使ったものではなく,被害者Aに対して殺意があったとは認められないのであり,現に検察官もそこまでは主張していない。また,結果的に,被告人は,姦淫行為はしていない。C事件は,被告人が殺意をもっていきなりはさみで切り付けた事案であるが,被告人が,被害者Cに対して性的な関係を持とうとする意図があったことは認められるが,切り付け行為以前に,被害者Cをら致しようとする意図や強姦しようとする意図があったとまでは認めることはできず,検察官もそこまでは主張していない。切り付け行為自体についても,当初からの計画性は認められず,その点では偶発的な犯行といわざるを得ない。そうすると,これら3件が短期間に連続して起きており,その特徴から,女性に対する殺傷事件で,被告人の女性に対する粗暴癖の発露という前科を含めた共通性を見出すことは可能であるとしても,それを超えて,上記のような各事件について認められる死刑選択を躊躇させる諸事情を,互いの悪質性で補い合い,B事件の殺人の罪質を評価するに当たって,死刑選択をもはや回避できない程度にその悪質性を高め合うほどの一体性を有しているとまでは見ることはできない。

(3) さらに,A事件及びC事件では誠に不幸中の幸いではあるが,被害者らは仕事にも復帰できる程度にその身体的被害については回復できており,その状況は,死刑を選択すべきかという場面に限っては,やはり被告人に有利に働く事情で,本件全体として捉えた場合,死刑の選択を躊躇する方向に働く事実であることは否定できない。

このことに加え,被告人には,これまで上記のように種々の粗暴的な事件を起こし,服役を繰り返しているとはいうものの,こと死刑の選択を考慮するに当たっては,重要な要素ともなり得る殺人等人命に関わるような重大な前科を有していない。そして,被告人は,前刑出所後はまがりなりにもEの家族と共同生活を営み,その間,4か月程度は正業につき,解雇されるまで,それなりに稼働して,人並みの生活をしていた期間もないではないことは,その期間の短さや解雇されるに至った原因等に照らせば,過大に考慮することはできないにしても,被告人のために指摘することが可能であり,矯正の余地が乏しいといっても,被告人の歪んだ人格を矯正する余地が完全にないとまではいえないことを僅かながらも示しているとも評価できる。

4  以上検討したように,本件における量刑を考えるに当たって,検察官が主張する諸事情は,上記のとおり,ほぼ認めることができ,それらを踏まえれば,被告人を極刑に処すべきであるという検察官の意見には十分根拠があるとは認められる。しかしながら,何といっても死刑は真にやむを得ない場合に選択すべきであり,さらに慎重に検討すれば,本件においては,死刑の選択を躊躇させる前記の諸点を指摘することができるのであって,これらを総合考慮すれば,前記の死刑選択の基準に照らし,本件は,被告人に対して死刑をもって臨むことにはやや隔たりが認められるというべきである。

第8結論

よって,主文のとおり,被告人を無期懲役に処することとする。

なお,付言するに,被告人の敢行した各事件,特に被害者A,B,Cに対する各事件の悪質性,被告人の不合理な弁解状況に照らすと,被告人の仮釈放の運用に関しては被告人の反省悔悟の状況を特に慎重に見定めることを希望する。

(求刑 死刑,はさみ1丁没収)

(裁判長裁判官 若園敦雄 裁判官 井筒径子 裁判官 依田吉人)

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