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さいたま地方裁判所 平成20年(わ)71号 判決 2008年6月20日

主文

被告人を懲役27年に処する。

未決勾留日数中80日をその刑に算入する。

押収してあるペテナイフ1丁(平成20年押第30号の1)を没収する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は,心療内科に通院して,統合失調症様うつ病などと診断されていた者であるが,平成19年8月ころから体調不良で仕事もままならず,住んでいた埼玉県草加市内のアパートの家賃を払えなくなったことから,同年9月4日に部屋を明け渡すことになった。そのため,被告人は,同市福祉課に相談して生活保護を申請する一方,通院先の病院と同市福祉課との間で,被告人の精神病院への入院話が進められて,同日午後4時ころには,被告人宅を訪れた同市福祉課の職員から,東京都足立区aにある病院に入院可能であると聞いた。そこで,同日午後6時ころ,被告人は,入院を期待して上記病院を受診したが,満床等を理由に入院を拒否され,大きく落胆した。被告人は,草加市内に戻ってきたものの,行き場所について途方にくれ,病院に対する不満も高じて,自暴自棄となり,かねてより有していた殺人願望が高まって,誰(だれ)でも良いから殺してやろうと考え,上記アパートの部屋の外に隠していたペテナイフ1丁を持ち出し,右ポケットに隠し持って同アパート付近の路上を徘徊(はいかい)していたところ,前方から歩いてくるAを見付け,同人を殺害しようと決意した。

そこで,被告人は,

第1同日午後7時10分ころ,埼玉県草加市bc丁目d番e号先路上において,通りがかりの上記A(当時78歳)に対し,殺意をもって,その胸部,腰部及び背部を所携のペテナイフ(刃体の長さ約12.3cm。平成20年押第30号の1)で各1回突き刺し,よって,同日午後10時9分ころ,同県越谷市内の病院において,同人を前胸部盲管刺創による心臓損傷に伴う出血性ショックにより死亡させて殺害した。

第2業務その他正当な理由による場合でないのに,同日午後7時10分ころ,前記路上において,前記ペテナイフ1丁を携帯した。

なお,被告人は,犯行後直ちに110番通報し,埼玉県草加警察署に赴いて,同警察署司法警察員Bに自首している。

(証拠の標目)

省略

(弁護人の主張に対する判断)

本件犯行当時の被告人の責任能力について,弁護人は,心神喪失状態にあった旨主張し,他方,検察官は,完全責任能力であった旨主張するので,以下,この点に関する当裁判所の判断を示すこととする。

1  鑑定について

・※  関係各証拠によれば,被告人は,平成17年末ころから無気力となり,平成18年4月ころからは幻聴が始まって,同年6月から心療内科に通院し,神経症,うつ病との診断を経て,最終的に統合失調症様うつ病と診断されていたことが認められる。そして,被告人は,その症状の一つとして,自分の中には,自分以外に,殺人願望のある人格と自殺願望のある人格とが存在し,本件犯行当時,殺人願望のある人格の「殺さなくては駄目だ」などという幻聴に押し切られて犯行に及んでしまった,犯行時は,その人格に乗っ取られており,自分は,自分の頭の真後ろ斜め上方から,自分の行動を映像のように見ていた,などと供述している。

・※  こうした被告人の病歴やその述べる犯行時の精神症状,それが被告人の責任能力に与える影響等について,捜査段階の鑑定受託者である医師C(以下「C鑑定人」という。)作成の精神鑑定書(補足を含む。甲7,8)及び同人の証言(以下,上記鑑定書と併せて「C鑑定」という。)によれば,C鑑定人は,次のように説明している。すなわち,

ア  被告人は,境界線級知能の持ち主であり,頭部画像検査,脳波検査等から,脳器質性疾患が否定され,血液検査から,甲状腺機能障害や梅毒罹患が否定されるほか,社会的適応力の低下が見られないことや各種の心理検査の結果からは,統合失調症も否定される。

イ  被告人は,かねてより,うつ病,統合失調症様うつ病などと診断されており,被告人のうつ状態,精神的不調は,初発から3か月単位の病相期をもって経過しているように見えることから,気分障害の双極性障害(躁うつ病)が考えられる。

しかし,①状態悪化の要因として,元妻の介護,生活保護の打ち切り予告,経済的困窮などの理解可能な要因が挙げられること,②犯行当日の要因としても,強く入院を希望していたがかなわなかったという,理解可能な要因が挙げられること,③病識を有していること,④病態は,被告人本人の個性・経験・価値観等が色濃く込められており,超個人的な一般症状(心気,貧困,罪業妄想的な考え)の色彩に乏しいこと,⑤抑うつ気分,意欲低下を訴えるが,自責感が希薄どころか,完全に欠如していることから,内因性つまり精神病性のうつ状態というよりは,神経症性のうつ状態と考えられ,その程度も非常に軽微なものと思われる。

ウ  そして,鑑定人は,上記診断に加え,以下の理由を指摘して,本件犯行時の被告人の精神状態は,特定不能の人格障害に加え,情緒と行為の混合した適応障害であったと考えられる旨診断した上,被告人は,本件犯行当時,完全責任能力であったと結論付けている。すなわち,

・※a 鑑定時の問診によれば,被告人は,10代に,養母及び祖父母を相次いで亡くしたが,いずれも医療過誤で亡くなったものと考え,また,同じころ失踪した養父に対しても,自分を捨てたと考えて,担当医らや養父に対して殺意を抱いたといい,中学時代には,不良として名を上げるために人を殺すのが夢だったともいう。さらに,被告人は,中学時代は,番長になって毎日のように喧嘩をしたと述べており,養護施設では,教官に対する傷害事件を起こしたほか,万引きや詐欺といった非行歴もある。

このように,被告人には反社会性傾向があり,対面しての暴力があったことから,少年期,行為障害・反社会性人格障害の既往のあることが考えられ,上記医療過誤のエピソードのように,納得できない被害体験があると,それへの攻撃的報復感情の強い傾向もある。そして,心理検査によっても,被告人には,現実検討能力は高いが,被害的,自虐的,攻撃衝動,自己防衛的反応が認められる。

b 鑑定時の問診や心理検査の結果によれば,被告人は,幼少時から,養父失踪等の一種のトラウマを受け,自己暗示傾向も高く,病的とはいえない解離的傾向のある体験を有している。さらに,自ら霊感が強いと自覚するなど,霊世界への親和性,空想性,被暗示性が強く,自己愛性の傾向がある。また,上記のように,親を始め保護者が人生早期に不在となった体験から,家庭へのあこがれが強く,依存性が強いことがうかがわれる。

c 以上より,被告人には,自己愛性,依存性,解離傾向(被暗示性)等の混在する,特定不能の人格障害が考えられる。

・※  次に,犯行直前の状況として,被告人は,家賃滞納のために,犯行当日午後5時に,借りていたアパートの部屋を明け渡すことになっていたが,同日午後4時ころ,自宅を訪ねてきた福祉課の職員から,東京の精神病院への入院が可能であると知らされたことから,アパートの部屋を引き払った上,入院を強く期待して病院に向かった,ところが,被告人の期待に反して,入院を拒否されたが,その述べるところによれば,被告人は,その際の病院の医師の態度について,被告人の訴えを鼻であしらい小馬鹿にするようなものと受け止めた,というのである。

このような犯行直前の状況から当時の被告人の心理を推理すると,欲求不満から破壊衝動ないし願望が生まれ,殺人願望に発展して,本件犯行に至ったという心理の動きがうかがわれる。

・※a この点,被告人は,自己の中に複数の人格があり,本来の自分とは異なる人格に押し切られるなどの体験をしており,犯行時にも同様の体験をしたと述べていることから,多重人格,すなわち,解離性同一性障害も疑われるが,①元妻以外に,それなりにまとまった別人格を目撃した者はいないこと,②取調べや鑑定面接の際にも,別人格が目撃されていないこと,③被告人は別人格に乗っ取られた際の個人的情報想起が十分に可能であることに照らし,解離性同一性障害の診断は除外される。

b また,被告人は,別人格による命令のような幻聴も体験し,犯行時にも同様の体験をしたと述べており,その幻聴は,幾分要素的,紋切り型の内容であって,病感も伴っていること,犯行時体験で,自己像幻視を訴えていることから,離人症性障害の症状もあり,特定不能の解離性障害の可能性が考えられる。

しかし,被告人が訴える犯行時の幻聴は,①元来の被暗示性,解離傾向に加え,②当初から幻聴であるとの認識があったこと,③統合失調症の可能性は否定されること,④違法薬物による反応も除外されること,さらに,⑤犯行直前,被告人が前記・※のような状況にあったことにも照らすと,トラウマ的な体験に基づくヒステリー症状が考えられることから,ヒステリー性(解離性)の幻聴を起こしたもの,つまり,精神病性の幻聴というよりは,心因性の幻聴と考えられる。

c そして,このような被告人の体験した解離や離人の症状というのは,心因性の健忘等であり,健康人にもあり得る日常生活にありふれた現象であって,心理的な問題にすぎず,被告人の解離的傾向のある体験は,病的とまでは言えない。

・※  もっとも,被告人は,入院できなかったことに強い衝撃を受けて,気持ちが落ち込み,病気が悪化したと感じており,このように大きく落胆するような出来事があって,それに対応する感情面の動きと同時に,本件犯行という通常あり得ないような行為をしていることから,被告人は,犯行当時,行為と情緒の混合した適応障害に陥っていたと考えられる。

・※  しかし,被告人の特定不能の人格障害及び情緒と行為の混合した適応障害は,精神病ではなく,その程度は軽い。しかも,犯行の動機・原因も,入院期待を裏切られた欲求不満から,自暴自棄になって殺人願望に発展したものと考えられ,元来の人格と状況から了解可能であるほか,犯行時の記憶がほぼ保たれており,反省の情も見られ,被告人の性格との関連性も認められる。したがって,犯行直後に110番通報するなど,了解不可能な行動に及んでいることなどの事情を考慮しても,是非善悪を弁識する能力及びその弁識に従って行動する能力が障害されてはいたが,その程度は著しいとは言い難いのであり,被告人には完全責任能力が認められる。

・※  以上のC鑑定は,関係各証拠に照らして,その前提とする事実認定に誤りがなく,その判断過程に特に疑問とすべき点は見出し難く,その判断方法も合理的なものと認められ,その掲げる精神医学上の専門的知見に照らせば,その判断結果も合理的かつ妥当なものとして首肯することができる。

なお,C鑑定は,被告人が犯行の直後に110番通報したことについて,了解不可能と評価するが,被告人のこのような行動は,その供述にあるとおり,犯行により攻撃衝動が収まり,反省の気持ちから110番通報したものとして,十分に了解可能といえる。しかも,被告人がこのような行動に出たことは,被告人の違法性の意識を裏付けるものでもある。

そうすると,被告人の本件犯行時の精神状態について完全責任能力を認めたC鑑定は,高い信用性を認めることができる。

2  弁護人の主張について

・※ア 弁護人は,C鑑定の信用性を争い,その理由として,まず,C鑑定は,被告人の幻聴が精神病性ではなく心因性のものである根拠として,被告人には幻聴との認識があり,社会的適応性の低下が見当たらないことを指摘するが,被告人は,当初から幻聴との認識があったわけではなく,長年通院を続ける中で認識を持つに至ったにすぎず,社会的適応性の低下も認められるから,心因性の幻聴とする根拠に欠ける旨主張する。

イ  しかしながら,被告人は,鑑定時の問診において,既に心療内科の初診時には,担当医師に「幻聴が聞こえる」と説明していたことを認めている。また,被告人は,その後離婚してからは,単身で生活を続け,調子の良いときは仕事もしているほか,犯行直前には,経済的に困ったとして,自ら市役所に相談に行き生活保護を申請するなど,適切な対応をとっていることからすれば,病的と評価できるだけの社会的適応性の低下はなかったものと認められる。しかも,C鑑定は,心因性とする根拠として,弁護人が指摘する事情だけでなく,前記のとおり,被告人には元来の被暗示性,解離傾向が認められること,統合失調症も違法薬物による反応も否定されること,犯行直前の状況からは,トラウマ的な体験に基づくヒステリー症状が考えられることも併せて指摘しているのであって,十分な根拠に基づくものということができる。

・※ア また,弁護人は,被告人には,前科がなく,反社会的行動も多くはなく,心療内科への通院を開始した後は,破壊行為や暴力行為に及んだこともない,幼少時の被害体験への報復感情も,一般人の感情から乖離(かいり)する被告人に特殊な感情ではなく,生来の攻撃性を持ち合わせていたとは言えない,簡易鑑定書(弁15)でも,人格障害は明確に否定されているとして,被告人には人格障害が認められるとするC鑑定も根拠がない旨主張する。

イ・※  確かに,被告人は,心療内科に通院し始めた平成18年6月以降は,破壊行為や暴力行為に及んだ形跡はないものの,19歳ころまで多数の暴力行為を繰り返していたことは認めており,平成17年夏ころにも,元の妻や息子に対して暴力を加えたことがうかがわれる。その他,被告人には,前科はないものの,万引きや詐欺といった非行歴もあって,反社会的行動も多いといわざるを得ない。

・※  親族の死亡体験に対する反応も,被告人の場合は,すべてが医療過誤であるなどと余りにも被害的な受け止め方である上,その述べるところによれば,実際に担当医に対してナイフを持って追いかけたというのであって,一般人に比し攻撃的報復感情が強い傾向があるというべきである。

・※  さらに,心理検査の結果においても,被告人は,対人的な不安の高さ,自己防衛の強さのため,ちょっとした切っ掛けで衝動的な攻撃性を瞬間的に爆発させる危険性,そして,行動の基盤として,未熟で依存的,被害的な物の見方といった性格傾向が認められた。

・※  なお,弁護人指摘のように,簡易鑑定書(弁15)は,被告人には,反社会的行動が少なく,対人関係に大きな問題が常にあった形跡もないことを根拠として,その人格障害を否定するものであるが,簡易鑑定が,わずか30分の面接に基づく,正式鑑定が必要との留保付きの意見にすぎないことのほか,C鑑定指摘の前記諸事情にも照らすと,その根拠に欠けるものというほかはない。

・※  したがって,C鑑定が,被告人を特定不能の人格障害と診断したことには,十分な根拠があるというべきである。

・※ア さらに,弁護人は,C鑑定の指摘するように,入院を拒否されたことに絶望して攻撃に及んだというのであれば,攻撃の対象は入院を拒否した医師に向けられるはずであるが,被告人が同医師に攻撃を加えようとした事実はない,また,被告人は,生活保護の申請が通ると聞かされていたのであり,住居や生活について絶望感を抱く状況にはなかった,したがって,C鑑定は,被告人は行為と情緒の混合した適応障害に陥っていたとする点についても,根拠がない旨主張する。

イ・※  しかしながら,被告人は,その述べるところによると,入院を拒否されたことから,直ちに怒りが高じたわけではなく,強いショックを受け,気持ちが落ち込んだ状態で,公園で一時休んだ後,自宅のあったアパートの前に戻ったころに,殺人の実行を命ずる幻聴が聞こえてきたというのである。すなわち,C鑑定にあるとおり,被告人は,入院を拒否されたことに対する不満から,徐々に破壊衝動ないし願望が生まれ,殺人願望にまで発展して,本件犯行に至ったと理解できるのであり,攻撃の対象が入院を拒否した医師に向けられる必然性はなかったといえる。

・※  また,被告人は,その述べるところによっても,犯行直前の昨年8月末に,会社を解雇され,犯行当日には,住む場所を失うとともに,期待していた入院も,拒否され,その際の医師の態度を,被告人を馬鹿にするようなものと受け止めたというのである。しかも,生活保護の受給は決定されておらず,直ぐに身を寄せる先もなかったのである。

・※  そうすると,被告人は,犯行当時,適応障害に陥ってもおかしくないような追い詰められた状況に陥っていたと認められる以上,弁護人指摘の事情を考慮しても,犯行当時,被告人が行為と情緒の混合した適応障害に陥っていたとするC鑑定は,これを首肯することができる。

・※ア 弁護人は,被告人の体験した幻聴や自己像幻視,解離現象(記憶欠落)は,通常の精神状態ではあり得ない極めて異常な事態であるとも主張する。

イ  しかしながら,精神鑑定の経験も豊富な精神科医であるC鑑定人が,問診,身体検査や心理検査,捜査記録等の検討に基づき,約4か月間にわたり慎重に検討を加えた結果,前記鑑定結果が得られたのであるから,被告人の述べる精神症状に対する印象のみから,この鑑定結果に疑問の生ずる余地はない。

・※  以上より,弁護人指摘の諸事情はいずれも,C鑑定の信用性に対して何ら疑問を生じさせるものではないから,C鑑定の信用性を争う趣旨の弁護人の主張はすべて理由がない。

3  まとめ

以上検討してきたとおり,高い信用性の認められるC鑑定を中心とする関係各証拠を総合すれば,本件犯行当時,被告人は完全責任能力を有していたと認めるのが相当である。

(法令の適用)

省略

(量刑の理由)

本件は,いわゆる通り魔殺人及びその際にペテナイフを携帯していた銃砲刀剣類所持等取締法違反の事案である。

1  被告人の責任を基礎付けるべき事情

・※  犯行態様は,凶暴で残虐非道なものである。

被告人は,誰でも良いから通行人を殺害しようとして,夜間に,鋭利で殺傷能力の高いペテナイフを隠し持って公道上を徘徊するうち,見ず知らずの被害者が偶然最初に通りかかるや,ペテナイフを取り出して,すれ違いざまにいきなりその胸部を思い切り突き刺したばかりか,同人が大声を上げているのも構わず,痛みから前屈みになった同人の左脇腹を,さらに,いったん崩れ落ちた後に立ち上がって逃げようとする同人の背中を,相次いで容赦(ようしゃ)なく突き刺している。そして,最初の一撃による創傷は,深さが約10cmにも及び,心臓に致命傷を与えているほか,被害者には,左上肢にも2か所の刺創や刺切創が認められる。

さらに,被告人が,死ぬまで何度も刺してやろうと考え,執ように攻撃を加えたと述べているように,本件の犯行態様は,強固な殺意に基づく凶暴かつ執ようで残虐非道なものである。

・※  結果は余りにも重大であり,被害者遺族の処罰感情も峻烈(しゅんれつ)である。

ア  被害者は,何ら攻撃され殺害されるような理由も落ち度もないのに,理不尽にも,買い物帰りに突然,自宅近くの路上で,全く見ず知らずの被告人から上記のような凶行を受け,苦痛にうめき声を上げながら必死で自宅まで帰りついたものの,懸命な救護の甲斐もなく,大量の血を流しつつ長時間に及ぶ苦悶(くもん)の末に死亡するのやむなきに至ったのであって,被害者が感じたであろう驚きや恐怖心,肉体的苦痛は想像を絶するものがあり,結果は極めて重大である。

さらに,被害者は,二度の大病を乗り越え,高齢ではあったものの健康に暮らし,家族思いで多くの子や孫らにも愛され,退職後ようやく妻と2人で悠々自適の幸せな老後の生活を送っていたところ,犯行当日も,疲れている妻を気遣い外食に連れ出した後,立ち寄ったスーパーで支払をしている妻から一足先に帰ろうとする途中,本件被害に遭い,一瞬にして幸せな生活を断たれ,楽しみにしていた孫の結婚式に出ることも叶わなくなったばかりか,最愛の妻を残したまま,上記のように無惨な形で逝かざるを得なかったその無念さは,察するに余りある。

イ  また,若干遅れて帰宅した被害者の妻は,多量の出血をしてうめき声を上げ続ける被害者の悲惨な姿を目の当たりにして,ショックの余り,一時的に認知症のような状態になり,現在もなお,被害者と暮らしていた自宅に住むことができないというのであり,最愛の夫を突然に失いその惨状まで目撃した精神的打撃の大きさや悲しみの深さは計り知れない。

さらに,被害者の4人の子供たちはそれぞれに,当公判廷において,かけがえのない父親を失った悲しみ,悔しさ,被告人への怒りを述べ,絶対に許すことはできないとして,異口同音に被告人に対する極刑を求めているのであり,遺族らに与えた精神的衝撃や苦痛の深刻さに照らせば,遺族らの処罰感情が厳しいのは至極当然というべきである。

ウ  民家の建ち並ぶ住宅街の一角で,午後7時過ぎという人通りの絶えない時間帯に,全く罪のない通りかかっただけの一般市民が殺害されたという,本件犯行が敢行されたことにより,周辺住民に与えた恐怖感や不安感も,到底軽視することはできない。

・※  犯行の動機は余りに身勝手なものであって,被告人の反社会性傾向の発露とみるほかはない。

ア  被告人は,本件犯行当日,住んでいたアパートの立ち退きを余儀なくされ,強く期待していた精神病院への入院も拒否されたことから,寄る辺がなくなり,同病院への不満も高じて自暴自棄となり,従来から抱いていた殺人願望を高まらせ,誰でも良いから殺してやろうとの思いから,本件犯行に及んでいるのであり,このように身勝手で他人の生命や心情を一顧だにしない反社会的な動機に,酌量の余地などありようはずもない。

イ  また,被告人は,自らの精神症状が悪化して危険な状態に陥っていることを自覚しながら,犯行前には,上記病院で向精神薬を処方されたというのに,これを服用するといった対応を考えることもなく,まさに自らの願望・激情の赴くままに躊躇(ちゅうちょ)することなく本件犯行に及んでいる。しかも,被告人は,その述べるところによっても,従前から殺人願望が高まる都度,ペテナイフを持ち出しては路上を徘徊するという危険な行為を20回くらい繰り返していた上,殺人願望が収まった後も,これを処分することなく,かえって再び殺人用の凶器として持ち出すことを想定しながら自宅付近に隠しておいたというのであり,C鑑定にあるとおり,本件は,被告人の反社会性傾向ないし衝動性・攻撃性・爆発性等を伴った危険な人格傾向の発露とみるほかはない。

なお,被告人は,当公判廷では,ペテナイフを隠したつもりはなく,単に置いていただけである旨弁解するが,捜査段階や鑑定時における供述との変遷について,合理的な説明を一切伴わないものであり,これを信用することは困難である。

・※  一般予防の見地も軽視できない。

本件は,いわゆる通り魔殺人の事案であるところ,近時,このような通り魔的な無差別殺人事件が多発し,多くの市民に恐怖や不安を覚えさせて,大きな社会問題となっていることも考慮すると,一般予防の観点からも,この種事犯には厳格な対応が求められているといえる。

2  被告人のために酌むべき事情

・※  人格障害や適応障害に伴った精神症状による責任能力の低下が認められる。

被告人は,前判示のように,精神病とは認められないものの,かねてから幻聴,うつ状態等の精神症状に悩まされて,心療内科に通院していたところ,人格障害を抱える中,様々に精神的に追い込まれる状況が重なって,適応障害にも陥り,本件犯行に至ったものである。しかも,被告人は,犯行時,別人格からの殺人を命じる幻聴に苛まれ,それに抗しきれなかった,犯行に及ぶ自分の姿を後ろ上方から見ていたと感じるような精神症状を呈していたことがうかがわれるのであり,そのような精神症状に照らすと,C鑑定にもあるとおり,著しいとまではいえないものの,責任能力がある程度は制限されていたと認められる。

しかも,被告人の被害的,自虐的,自己防衛的で,攻撃衝動を示す人格障害には,少年期に養母,祖父母を相次いで亡くし,養父も失踪したため,養護施設等で生活せざるを得なかったという養育環境,すなわち,父親等の保護者が人生早期に不在となったことによるトラウマの影響もうかがわれるのであって,その責任をすべて被告人に帰することは相当でない。

・※  自首している。

被告人は,犯行直後,現場近くの公衆電話から自ら110番通報し,駆けつけた警察官に自首したほか,捜査段階においても自らの記憶の限りで事実関係を詳細に供述し,真相の解明に協力している。

・※  被告人なりに反省の態度を示している。

被告人は,被害者遺族に対する謝罪文を多数したためたほか,当公判廷においても,夢見心地で実感はないが,申し訳ないことをしたと思うなどと述べて,被告人なりに反省の態度を示している。

この点,検察官は,被告人について,「何でこんなところにいるのかが分からないというのがある」などと述べて,自分の起こした事件と正面から向き合って反省しようとする態度がみられない旨主張するが,被告人が故意に虚偽の供述をしていることを裏付けるべき証拠はなく,C鑑定も,虚偽性障害の可能性は指摘するものの,被告人の幻聴や解離症状が存在することは認めている。したがって,被告人の上記のような発言は,前記のような精神症状からもたらされたものと見る余地もあるのであり,このような発言から直ちに,被告人が反省していないと見るのは相当でない。

・※  被告人には前歴はあるものの,前科はない。その他被告人のために酌むべき事情も認められる。

3  結論

以上みてきたとおり,結果の重大性,犯行態様の凶暴さや残虐非道さ,動機の身勝手さ,被告人の反社会性傾向,遺族の処罰感情,社会に及ぼす悪影響等に照らすと,被告人の刑事責任は相当に重大であり,被告人については,まず,無期懲役刑を選択するほかはない。

しかし,犯行当時,被告人は,人格障害を抱える中,精神的に追い込まれる状況が重なって,適応障害にも陥った結果,心因性の幻聴等に苛まれ,事理弁識能力,制御能力がある程度は制限されていたものと認められる。しかも,被告人が自首をしていることにも照らすと,被告人を無期懲役に処するのは相当でなく,自首減軽すべきものと認められる。しかも,被告人には,それなりに反省の態度を示していることなど,被告人にとって酌むべき事情も認められることから,これら諸事情を総合考慮すると,被告人に対しては,特に自首減軽の上,懲役27年に処するのが相当である。

よって,主文のとおり判決する。

(求刑 無期懲役)

(裁判長裁判官 中谷雄二郎 裁判官 福渡裕貴 裁判官 大竹瑶子)

<編注:『※』部分は原文のとおり。>

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