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さいたま地方裁判所 平成21年(レ)167号 判決 2010年3月18日

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  控訴人

(1)  原判決中,控訴人敗訴部分を取り消す。

(2)  被控訴人は,控訴人に対し,5万2250円(請求額9万7000円から原審認容額4万4750円を控除した金額)及びこれに対する平成21年4月10日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。

(3)  訴訟費用は第1,2審とも被控訴人の負担とする。

(4)  仮執行宣言

2  被控訴人

主文1項と同旨

第2事案の概要

本件は,被控訴人との間で,A市B町所在のCアパート○号室(以下「本件貸室」という。)の賃貸借契約を締結し,その後合意解約して本件貸室を被控訴人に明け渡した控訴人が,①上記賃貸借契約締結の際に,被控訴人に交付した定額補修費8万円は敷金であるとして,また,仮に定額補修費が敷金でなかったとしても,定額補修費の合意は消費者契約法10条に違反して無効であり,被控訴人がこれを不当に利得しているとして定額補修費8万円の返還を,②前払した賃料及び共益費のうち,明渡し日の翌日以降退去月の末日までの分を返還しないとする契約条項は,消費者契約法10条に違反して無効であり,被控訴人が明渡し日の翌日以降の賃料及び共益費に相当する1万7000円を不当に利得しているとしてその返還を,それぞれ求めるとともに,これらに対する訴状送達の日の翌日である平成21年4月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

原判決は,定額補修費8万円のうち,「ペットによる消毒費3万5000円」及びこれに対する消費税相当額1750円を控除した4万3250円及び明渡し後の共益費15日分に相当する1500円の合計4万4750円の返還並びにこれに対する遅延損害金の支払を求める限度で控訴人の請求を認容し,その余の請求を棄却したところ,控訴人がこれを不服として控訴した。

1  前提となる事実(争いがないか,後掲の証拠によって認定できる事実)

(1)  控訴人は,平成16年12月17日,仲介業者であるD社の仲介により,被控訴人との間で,本件貸室を,次の内容で賃借する内容の賃貸借契約(以下「本件賃貸借契約」という。)を締結し,平成17年1月27日に本件貸室の引渡しを受けた。

ア 賃貸借期間  平成17年1月27日から2年間

イ 賃料  1か月3万1000円

ウ 共益費  1か月3000円

エ 特約  ペット飼育が可能であり,これにより賃料を2000円増額する。

(2)  控訴人は,被控訴人に対し,D社の仲介により,本件賃貸借契約締結に際し,定額補修費の名目で8万円を交付した(以下,この8万円を「本件交付金」という。)。定額補修費8万円のうち,3万円は,ペット飼育可による増額分である。

控訴人が本件交付金をD社に渡した際に,D社が控訴人に交付した「預かり証及び領収証」(以下「本件領収証」という。)には,本件交付金が,「家賃その他」の欄ではなく,「保証金」欄に記載されていた。

また,その際に,D社が控訴人に交付した「振込金明細書・必要書類一覧」には,「敷金」欄が「file_3.jpg定額補修費」と訂正されて,その欄に本件交付金が記載され,「礼金」欄は空欄のままであった。

本件貸室の「入居者募集要領」には,「大幅に・・・条件変更!!礼金敷金¥0」,「定額補修費3万円UP,家賃2千円UPで・・・・福祉可!・ペット可!」と記載されている。

控訴人は,本件賃貸借契約の締結に際し,D社に対する仲介手数料(賃料1か月分相当額と消費税),被控訴人に対する賃料及び共益費の各支払を除き,いずれに対しても,本件交付金のほかは,敷金,礼金,権利金などの名目を問わず,一切の金員を交付していない。

(甲1,2の1ないし3,弁論の全趣旨)

(3)  本件賃貸借契約について,D社が仲介業者として記名捺印し,控訴人と被控訴人間で作成された定型的な契約書(以下「本件契約書」という。)には,その3条に具体的な敷金条項が記載されているが,その敷金額欄は抹消され金額の記載がない(甲1)。

(4)  本件契約書の7条3項には「乙(控訴人)が本契約を解約して退去した場合において,その月の入居期間が1ヶ月に満たないときであっても,家賃は1ヶ月分を支払うものとする。」と記載されている(以下「日割精算排除条項」という。)(甲1)。

(5)  本件契約書の18条1項本文には,「乙(控訴人)は,2ヶ月以前に,・・・本契約を解除することができる。この場合においては,乙の通知が,甲(被控訴人)に到達した日より起算して,2ヶ月が経過した日が属する月の末日をもって,本契約は終了する。」と記載されている(以下「退去条項」という。)。

(6)  控訴人は,被控訴人との間で,本件賃貸借契約を合意解約し,平成20年6月15日,本件貸室を明け渡した(甲3,弁論の全趣旨)。

(7)  被控訴人は,控訴人が退去した後,①「洋室クロス張替え5万4000円」②「洋室CF交換4万5000円」③「ペットによる消毒費3万5000円」④「柱のキズ補修費2万円」⑤「床のキズ補修費1万5000円」⑥「クリーニング費2万5000円」及び消費税の費用(合計20万3700円)を支出して,本件貸室の原状回復をした(上記①ないし⑥の補修費用を「本件補修費用」という。)。

2  本件の争点及び争点に対する当事者の主張

(1)  争点1

本件交付金は,敷金であり,全額返還請求できるか。

ア 控訴人の主張

本件交付金は,敷金契約に基づき差し入れた敷金である。D社は,控訴人に対し,定額補修金費は,損害が多額に上っても,この額に限定するものであると説明した。したがって,定額補修金費の性質は,損害賠償額の上限を定め,それを前払したものであり,損害が生じない場合は返還義務を負うものであるから敷金である。

控訴人は,故意・過失で,本件貸室の柱,クロス及び床に汚損,破損を生じさせたことはない。本件貸室には表面上現れた柱は存在しないから,柱のキズは生じようがない。控訴人は,通常の清掃をした上で退去している。被控訴人が主張する汚損・破損は,賃料で負担されるべき通常の損耗である。

したがって,本件交付金は全額返還されるべきである。

イ 被控訴人の主張

本件交付金は敷金ではない。定額補修費の5万円は,退去後の清掃・クリーニング費及び修繕費のうち,賃借人が分担する費用額であり,退去時に返還する合意はない。ペット飼育の場合の増額分3万円は,ペットによる臭いを取るための清掃費,消毒費である。

賃借人の故意・過失により汚損・破損が生じた場合は,賃借人は定額補修費の定額を超えて補修費を負担する義務を負う。賃借人の故意・過失による汚損・破損でない場合,賃借人の負担は,定額補修費の定額に限定される。

定額補修費については,D社が重要事項として説明し,控訴人は承諾しているはずである。

(2)  争点2

定額補修費の合意は,消費者契約法10条に違反し無効であるか。

ア 控訴人の主張

仮に,定額補修費の趣旨が,敷金ではなく,退去後のクリーニング費や修繕費等の回復費用を本件交付金で賄い,これが本件交付金の額を下回る場合にも返還義務が生じないという内容のものであるとすれば,定額補修費の合意は,本来賃借人が負担しなくてもよい通常損耗部分の原状回復費用の負担を強いるものである。

また,本件賃貸借契約では,ペット飼育を理由として月額2000円が賃料に加算されているのであるから,ペット飼育による賃貸物件の劣化や価値の減少については,賃料によって賃貸人が負担すべきである。

さらに,定額補修費が月額賃料の2倍を超えること,通常損耗費が定額補修費より少ない場合にも,入居期間の長短に関わらず,差額を返還請求できないこと,賃借人の故意・過失による汚損破損の場合には追加請求されること,更新料6万2000円を支払っていることなどの事情に照らせば,本件交付金の差入れ合意は,民法1条2項に反する。

したがって,定額補修費の合意は,消費者契約法10条に違反し無効である。

イ 被控訴人の主張

本件交付金の差入れ合意は,消費者契約法10条に違反しない。

(3)  争点3

日割精算排除条項は,消費者契約法10条に違反し無効であるか。

ア 控訴人の主張

被控訴人は,日割精算排除条項によって,平成20年6月16日から同月30日までの分の家賃及び共益費の返還を拒絶している。

しかしながら,それでは賃借人が賃貸目的物を返還しても賃料の支払義務が生じるから,賃借人の自由を不当に制約するものであり,他方で,賃貸人に不当に利得させるものである。

したがって,日割精算排除条項は,消費者契約法10条に違反し無効である。

イ 被控訴人

賃借人は退去日を自由に決めることができるのであるから,日割精算排除条項は消費者契約法10条に違反しない。

第3当裁判所の判断

1  争点1について

(1)  定額補修費と敷金の関係について

ア 定額補修費は,本件契約書に記載はないけれども,入居者募集要領及び本件賃貸借契約の際に仲介業者であるD社から交付を受けた振込金明細書・必要書類一覧には「定額補修費」と明記されていること,入居者募集要領には「定額補修費3万円UP,家賃2千円UPで・・・・福祉可!・ペット可!」と記載されていることからすると,本件貸室の修復費用に当てられることが合意された「定額」の金員であると認められる。

イ 次に,実際の修復費用が定額補修費を下回る場合に,その差額を賃借人に対して返還すべきであるかについて判断する。

そもそも,定額補修費が本件貸室の修復費用に当てられることが合意された金銭であることからすれば,本来は,修復費用がこれを下回れば差額を賃借人に返還すべき筋合いのものである。したがって,被控訴人と控訴人との間で,上記差額を返還しないとの合意が成立している場合を除き,被控訴人は,上記差額の返還義務を負うものと解するのが相当である。

そこで,このような合意の有無について検討するに,本件貸室の入居者募集要領や本件契約書の中で,殊更に定額補修費が「敷金」ではないことが明記されているのは,被控訴人が,定額補修費を,原状回復費用の担保としての性質を有しつつ上記差額の返還義務を負わないという,敷金と礼金のいわば中間的な性質を有する金銭として理解していたことによるものと解される。

しかしながら,他方で,本件契約書,入居者募集要領,振込金明細書・必要書類一覧及び本件領収証のいずれにも,賃貸人が上記差額を返還する義務を負わないとの記載はなく,また,D社が控訴人に対し上記差額を返還しないと説明したと認めるに足りる証拠もないことからすると,本件において,控訴人が定額補修費につき被控訴人と同様の理解をしていたとは認められない。

よって,定額補修費につき,被控訴人と控訴人との間に,上記差額を返還しない旨の合意が成立したと認めることはできず,被控訴人は,上記差額の返還義務を負うものと解すべきである。

ウ 以上を前提として,定額補修費と敷金の関係について判断する。

控訴人は,定額補修費は敷金であると主張するが,本件契約書には「敷金条項」があるのに敷金欄に記載がなく,「振込金明細書・必要書類一覧」には「敷金」欄が「file_4.jpg定額補修費」と訂正され,その欄に本件交付金が記載されていることに加えて,入居者募集要領には「大幅に・・・条件変更!!礼金敷金¥0」とも記載されていることからすると,定額補修費を敷金そのものとみることは相当でない。

もっとも,既に検討したとおり,定額補修費は,敷金そのものではないが,本件貸室の修復費用に当てるものとして賃借人から賃貸人に差し入れられる金銭であり,かつ,実際の修復費用が定額補修費を下回る場合に,その差額を賃借人に対して返還すべき性質のものであることからすると,定額補修費の合意は,このような敷金に類似する性質を有する金銭の預託契約であると解される。

そして,控訴人の申立ては,定額補修費が敷金であるとしてその返還を求めるものであるが,上記金銭預託契約に基づく返還申立てをも含む趣旨であると解するのが相当である。

(2)  本件補修費用の控除について

ア そこで,本件補修費用が,返還すべき定額補修費の額から控除される修復費用といえるかを検討する。

本件補修費用は,いずれも本件貸室の修復費用であり,その中に通常損耗の原状回復費用を含むものであるところ,建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予測しない特別の負担を課すことになるから,賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明示されているか,仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には,賃貸人が口頭により説明し,賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたものと認められるなど,その旨の特約が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である(最高裁平成17年12月16日第二小法廷判決・判例タイムズ1200号127頁)。

イ これを本件についてみるに,入居者募集要領には,「定額補修費3万円UP,家賃2千円UPで・・・・福祉可!・ペット可!」と記載され,賃借人は,定額補修費の中から,ペット飼育に掛かる汚損・破損の補修費,則ち,ペット飼育により室内に染みついた臭いの消臭や除菌のための消毒の費用を負担することを明確に認識できたことからすると,上記ペット飼育にかかる汚損・破損の補修費については,控訴人と被控訴人との間で,控訴人がこれを通常損耗として負担することが明確に合意されていたものと認められる。したがって,被控訴人は,定額補修費からペットによる消毒費を控除することができる。

他方,それ以外の本件補修費用については,控訴人と被控訴人との間で,これらを控訴人の負担とすることが明確に合意されているとまでは言い難いから,定額補修費からこれらの費用を控除することはできない。

(3)  以上によれば,被控訴人は,本件交付金のうち,「ペットによる消毒費3万5000円」及びこれに対する消費税相当額1750円を控除して,その残額を控訴人に返還すべきである。

2  争点2について

(1)  定額補修費の合意が,敷金契約と類似する性質を有する金銭預託契約であることは,上記1のとおりである。また,控訴人主張の事実を考慮しても,本件賃貸借契約に権利金や礼金はなく,ペット飼育の賃料増額は1か月2000円であるから,定額補修費の合意が民法第1条第2項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するものとはいえない。

さらに,前提となる事実として認定したとおり,本件賃貸借契約では,ペット飼育を理由に賃料が2000円,定額補修費が3万円それぞれ増額されているところ,このように賃料のみならず定額補修費も増額されていること及び各増額分の額に照らせば,本件賃貸借契約における賃料の増額分は,本件貸室でペットを飼育できるという利益を享受することの対価とみるのが合理的であり,それ以上にペット飼育に伴う賃借物件の劣化又は価値の減少を補填する趣旨を含むものではないと解するのが相当である。

(2)  したがって,本件交付金の差入れ合意は,消費者契約法10条に違反し無効であるとはいえない。

3  争点3について

(1)  日割精算排除条項及び退去条項によれば,控訴人は,本件賃貸借契約を解約して退去する場合,最長,解約の意思表示が被控訴人に到達した日から3か月間本件賃貸借契約に基づく賃料支払義務を負担することになる。

しかしながら,本件賃貸借契約は,期間の定めがあるから,退去条項がなければ一方的な解約はできないのが原則であり,期間の定めのない建物賃貸借契約の場合は解約申入れから3か月間の経過により終了するものとされていることからすると,日割精算排除条項(及び退去条項)が,民法第1条第2項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するものとはいえない。

したがって,日割精算排除条項は消費者契約法10条に違反するとはいえない。よって,控訴人は,日割精算排除条項に基づき,平成20年6月分の賃料全額3万1000円の支払義務を負うから,このうち退去後の賃料に相当する分の返還を請求することはできない。

(2)  他方,共益費は,日割精算排除条項に記載がないから,控訴人は,同月分の共益費3000円のうち退去後の共益費に相当する分は支払義務を負わない。したがって,平成20年6月16日から同月30日分の1500円は不当利得として返還すべきである。

4  以上によれば,控訴人の被控訴人に対する請求は,定額補修費8万円のうち「ペットによる消毒費3万5000円」及びこれに対する消費税相当額1750円を控除した4万3250円及び明渡し後の15日分の共益費に相当する1500円の合計4万4750円の返還並びにこれに対する訴状送達の日の翌日である平成21年4月10日から支払済みまで年5パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。

よって,上記と結論を同じくする原判決は相当であり,本件控訴は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき民訴法67条1項,61条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤公美 裁判官 髙橋光雄 裁判官 川﨑慎介)

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