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さいたま地方裁判所 平成22年(わ)152号 判決 2010年6月24日

主文

被告人は無罪。

理由

1  本件公訴事実の要旨は,「被告人は,平成22年1月20日午前8時8分ころ,さいたま市北区所在のJR東日本土呂駅から同市大宮区所在の同大宮駅に向けて進行中の電車内において乗客である当時17歳の女性に対し,そのスカートの中に左手を差し入れて臀部を下着の上からなぞるなどし,もって公共の乗り物において,人を著しく羞恥させ,かつ,人に不安を覚えさせるような卑わいな行為をした。」というものである。

そこで,検討すると,上記女性(以下「A」という。)が公訴事実記載の痴漢の被害に遭った事実を認めることができるが,その犯人が被告人であるという点については,合理的な疑いがある。

2  Aが公訴事実記載の痴漢の被害に遭った事実は,証人Aの公判供述によって認めることができる。すなわち,Aは,痴漢の被害に遭った状況について,「大宮駅に着く直前ぐらいに,スカートの中のパンツの上から,押しながらなでるような感じで,肛門の辺りと陰部の辺りを触られた。割れ目に沿って,ゆっくり手が動く感じで,5往復以上された。太ももの間の辺りに入ってくる感じだった。」などと述べており,この供述の信用性に疑いを容れるような事情は見当たらない。

弁護人は,Aが東大宮駅を出た後から痴漢の被害に遭っていたのに,痴漢の被害を避けるために場所を移動しなかったのが不自然であるから,Aの痴漢被害に関する供述は信用できないと主張する。しかし,痴漢の被害者が痴漢被害を避けるために移動しなかったことが直ちに不自然であるとはいえない上,Aは,土呂駅で痴漢から離れて位置を変えようとしたが,人が乗ってきたので位置を変えることができなかったと移動しなかった理由を合理的に説明しているのであるから,Aが移動しなかったことがAの痴漢被害に関する供述の信用性を損なう事情であるとは認められない。

また,弁護人は,Aの供述する痴漢の態様が,証人B(以下「B」という。)の公判供述と整合しないとも主張するが,Bは,大宮駅に着く直前に左斜め後ろにいた被告人がどのようなことをしていたかについては特に意識していなかったという趣旨のことを述べているのであって,公訴事実記載の痴漢の態様についてAの供述と異なる状況があったと述べているわけではない。もっとも,Aは,公訴事実記載の大宮駅に着く直前の痴漢被害の状況以外に,東大宮駅を出てから土呂駅を経て大宮駅に着くまでの間に痴漢の被害に遭った状況についても述べているところ,その内容にBの供述と整合しない部分があることは,弁護人の指摘するとおりである。しかし,「土呂駅を過ぎてから,自分の左斜め後ろにいた人物が,自分の後ろにいたAに痴漢行為をしているのではないかと思った。」という趣旨のBの供述の根幹部分は,東大宮駅を出てから痴漢被害を受けていたというAの供述と矛盾するものではない。

さらに,弁護人は,Aの供述する逮捕状況が不自然であるからAの供述は信用できないとも主張するが,痴漢をした者が自分の降りる駅で乗客が降り始めても痴漢行為をやめなかったことが格別不自然であるとは認められないから,そのような状況の下で被告人を捕まえたというAの供述が信用できないということにはならない。

したがって,Aが公訴事実記載の被害に遭った事実を認めることができる。そして,痴漢の犯人であるとしてAに手をつかまれたのが被告人であることは,被告人自身が認めるところである。

3  しかし,大宮駅に着く直前にAの臀部を押しながらなでるように触っていたのが被告人であるという点については,十分な証拠があるとは認められない。

すなわち,Aは,「大宮駅に着いてドアが開いたときに人が降りたので,そのときに捕まえた。左側に少し透き間ができたので,左手で手をつかんだ。後ろに左手を持っていって手首をつかんだ。つかむ前までは相手の手がおしりにあったが,つかんだらなくなった。」などと述べているのであって,臀部を触っている痴漢の手をつかんだとまでは言っていない。Aの証人尋問調書添付の写真番号11及び12は,その状況を再現したものである。

また,Aは,被告人の手をつかんだ時期について,弁護人から,「警察で,犯人の手をつかんだのが大宮駅に着く直前だったというふうに説明した記憶はないか。」と質問されて,「分からない。」と答えている。どのような状況で被告人の手をつかんだかという点に関するAの供述は,Aの正確な記憶に基づくものではないという疑いを容れる余地がある。

これらは,痴漢の犯人だと思った人物の手をつかんだというAの供述の信用性を損なう事情ではないが,Aに手をつかまれた被告人が,大宮駅到着直前にAの臀部を触っていた人物に間違いないと断定するには疑問を抱かせる事情である。Aが被告人の手をつかんだときには,電車内が非常に混雑していた上,手をつかんだのが駅に到着してからのことだったとすれば,乗客がドアから一斉に降りようとしていたであろうことなども考え合わせると,Aが痴漢の犯人ではない人物の手をつかんだという可能性を否定することはできない。

4  他の証拠を検討しても,被告人が公訴事実記載の痴漢の犯人であると認めるに足りる証拠はない。Bが公訴事実記載の痴漢行為について具体的なことを述べていないことは,既に指摘したとおりである。Bは,前記のとおり,「土呂駅を過ぎてから,被告人が,自分の真後ろにいたAに対して痴漢行為をしているのではないかと思った。」という趣旨の供述をしているのであるが,そのときの被告人は身体を縦にがたがたと揺らすように震わせていたというのであるから,ゆっくりとなでるように触られたというAの述べる痴漢の態様とは整合していない。被告人,A及びBの位置関係や混雑の状況については,三者の供述がほぼ一致しているが,その周囲にどのような人物がいたかなどといった点が明らかではないことなども考慮すると,Bの供述は,被告人が土呂駅を過ぎた辺りでAに痴漢行為をしていた可能性を示すにとどまり,Aに対して被告人以外の者が痴漢行為を行っていたという可能性を排除するものではないと認められる。

検察官は,被告人の性的な嗜好について言及するが,検察官の指摘する被告人の性的嗜好は,被告人が痴漢の犯人であることと矛盾しないという程度のものに過ぎず,積極的に被告人が痴漢の犯人であることを示す事情であるとは認められない。

5  なお,付言すると,被告人の左手の甲と掌から採取された繊維と同種又は類似の繊維は,Aの下着と着衣から採取した繊維からは検出されていない。また,Aの下着に細胞様片の付着が認められ,ヒト成分が検出されたが,そのDNA型は被告人のDNA型とは一致しなかった。これらの事情は,直ちに被告人が痴漢の犯人ではないことを示すものではないが,Aの供述する痴漢の態様がかなり執拗なものであったことに照らすと,被告人が痴漢の犯人であることに相当強い疑念を抱かせる事情であることは疑いない。

6  以上によれば,本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから,被告人は無罪である。よって,刑事訴訟法336条により,主文のとおり判決する。

(裁判官 井口修)

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