さいたま地方裁判所 平成22年(わ)335号 判決 2010年7月29日
主文
被告人を懲役3年に処する。
この裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,平成22年2月11日午後11時ころ,埼玉県a市内の被告人方において,長男のA(当時56歳)に対し,殺意をもって,その頸部に靴下等を巻きつけて強く絞めつけ,よって,同月12日午後3時42分ころ,同市内のa市立病院において,同人を頸部圧迫による窒息により死亡させて殺害したものである。
(証拠の標目)(省略)
(法令の適用)
被告人の判示所為は,刑法199条に該当するところ,所定刑中有期懲役刑を選択し,なお犯情を考慮し,同法66条,71条,68条3号を適用して酌量減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役3年に処し,情状により同法25条1項を適用してこの裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予し,訴訟費用については,刑事訴訟法181条1項本文により被告人に負担させることとする。
(量刑の理由)
1 事実経過等
(1) 事実の経過
昭和25年,被告人は結婚し,その後一男(被害者A)二女をもうけ,昭和45年に夫が死亡した。平成元年,子供達が独立し,被告人は一人暮らすようになった。被害者は,平成3年,Ⅰ型糖尿病に罹患し,平成5年,被告人方に身を寄せ,二人暮らしとなった。平成8年,被害者がパーキンソン病に罹患し,平成11年には外傷性脳出血を患った。そして,平成19年には,多発性脳梗塞を発症し,神経因性膀胱を患った。平成20年5月には要介護1と認定された。医師から見て,被害者は,急にインシュリン注射を打たなくなったり,過食したりするなど血糖コントロールに問題があるため,頻繁に診察して生活状況等を観察する必要のある患者で,週に1回診察していた。平成20年には3度入院した。特に同年9月には血糖コントロールの問題で昏睡状態に陥ったことによる入院であった。この入院以降,週1回の訪問介護と週2回のデイサービスによって被害者の生活状況の見守りが強化された。
平成21年11月ころ,被害者の病状が急激に悪化した。自力歩行が困難となり,座り込むと一人で立ち上がることも難しい状態となった。また,失禁を多発するようになったり,喫煙等の欲求抑制困難となった。手足の震えも大きくなり,一人でインシュリン注射を打つことも困難となった。さらに,性格変化によって怒りっぽくなり,また,認知症による意欲の低下が見られたり,多量によだれを流したりするようにもなった。医師から見ると,被害者は,自分の欲求を抑えられない,治療に難渋を来す患者であり,ケアマネージャーから見ると,被害者は,完治困難な病気を複数抱え,自己規制ができないなど「困難事例」の一人であった。医師もケアマネージャーも,被告人が被害者を一人で介護することは困難であり,施設か病院に入所(院)させる必要があると判断しており,平成21年12月施設入所について被告人も交えて話合いがなされた。平成22年1月身体障害者等級が3級から1級に変更された。同年2月4日,これまで受診日に遅れたことがなかった被害者が来なかったため,a市立病院から電話を掛けたところ被害者が来診した。これが最後の診察となった。同年2月5日か6日ころ,被害者に膵臓癌の疑いありということで,被害者を埼玉県内の病院に入院させる話合いが持たれた。被告人もこれに同意していた(なお,この点について,被告人は,当公判廷では記憶がないと供述している。)。
(2) 本件犯行状況
被害者は,医師からタバコを1日5本以内と制限され,これに満足できなかったため,日々介護する被告人との間で1日10本以内と決めていた。本件当日の夕食後,被害者は,被告人にタバコを要求したが,当日は既に約束の10本を吸っていたため,被告人は,明日にするよう諭したが,被害者は納得せず,ライターを持ち出し,のれんに点火する仕草をした。被告人は,太平洋戦争時に東京下町が大空襲を受け,火災により多くの人々が悲惨な被害を受けたことを身近に経験し,火の恐ろしさを嫌というほど知りぬいていため,被害者ら子供達にも火の恐ろしさを厳しく教育していたのに,その子供の一人である被害者が病気を抱えていたとはいえ一度ならずタバコの火で座布団を焦がすなどしていたことに心を痛めていたところ,被害者ののれんに火を点ける仕草を見て自分に対する嫌がらせであると考えて激怒し,被害者とケンカとなった。被害者は,すき焼きか何かのたれの小型のビンを手に取り,中身を辺りにまき散らし,そのビンを投げつけた後,台所に移動して座り込んで一人で立てない状態となったものの,なおも手近にあった鍋を振り上げたり,包丁が収納された流し台の扉を開けたりしたため,被告人は,慌てて包丁を取り出して被害者の手に届かないところに移したが,このような被害者の態度に激高し,被害者を懲らしめようと前記ビンを手に取り,被害者の右側頭部を2,3回たたいたり,タオルで被害者の首を巻いてひっぱったりしたところ,被害者が「助けてくれ」などと謝罪するようなことを言ったためタオルを緩めた。しかし,その際,被害者がなおも被告人に向かってくるような行動に出たと見て,被告人は,さらに怒りを募らせ,「被害者を生かしておいても娘達にも迷惑を掛けるだけだ,もうだめだ,死んでもらうしかない。」などと被害者の殺害を決意し,左手で流し台を掴んで身体を支え,被害者の背後から首に最初はタオルで,続いて脱げた被害者の靴下をまわし,靴下を被害者の首の後ろで結んで右手で持ち,右膝で被害者の背中を前に押して右手の靴下を力一杯引いて被害者の首を締めつけて本件犯行を行った。
2 不利な事情
(1) 結果について
殺人罪は人の死亡を内容とする犯罪であり,人の死亡の事実そのものを量刑上有利にとか不利にとか考えるべきでないとの弁護人の指摘は一理あるが,本件犯行によって,被害者の尊い命が奪われたという,取り返しのつかない結果が生じた事実は指摘しなければならない。
被害者は完治困難な病気を複数抱えながらも自分なりに前向きに生きてきたものであり,また,被告人の述べるところによっても,被害者は被告人に「甘えて」いたのであって,その母である被告人の手によってこの世を去らなければならなくなった無念や悲しみは容易に想像できる。同人の死は,姉妹をはじめとする遺族にも,安堵の気持ちがあったとしても,大きな悲しみを与えた。
(2) 行為態様について
被告人は,座り込んだまま動けない被害者に対して,首をタオルで絞め,その後,力の入りやすい靴下に持ち替えて渾身の力を込めて,体を支えながら力一杯絞め付けたものであって,強固な確定的殺意に基づく犯行である。
(3) 動機について
被告人は,弁護人指摘のとおり,被害者のケアマネージャーにとっても「困難事例」とされる被害者の介護を,特に病状の悪化した平成21年11月以降は一人在宅で介護する中で,犯行当日,タバコを巡る喧嘩が発端となって,それぞれ難病を抱える我が子を持つ娘達に迷惑をかけまいという親としての責任感と,ライターでのれんに火を点けようとしてみたり,包丁の入った流しの扉を開けたりするなどの今まで経験したことのない被害者の自分に対する態度への怒りや被害者の病状への絶望感とが相俟って,殺害を決意し犯行に至った。
しかし,いかなる理由があろうとも我が子の生命を奪うことは決して許されるものではなく,また,被告人の当時の財産状況や被害者を担当していた医師や看護師らによるサポート体制からして,自らの負担の軽減も含め他に取り得る方策があったことをも考慮すれば,その動機は,やはり短絡的と評価せざるを得ない。
なお,このように殺意を抱いた根底には,純粋な介護疲れや将来への悲観といった気持ちばかりではなく,被害者に対する腹立ちや怒りがあったことも認められる。しかし,前記経過に照らせば,これらの気持ちを過大に評価して被告人にとって殊更不利な事情と評価することは必ずしも相当ではない。
(4) その他の事情について
被告人同様の境遇の下,家族で手を携えて懸命に生活している人々に対して本件犯行が及ぼす衝撃等を考慮すれば,一般予防の見地も軽視できない。
3 有利な事情について
(1) 本件犯行に計画性はない。被告人は,被害者に対して甘えることはかまわないが,その方法に問題があるなどという気持ちを抱いたり,自立を求めて突き放すような態度をとったりしていたものの,親としての気持ちから,病気を持つ被害者と同居し,被害者にときには理不尽な言動を受けながらも,病院へ付添い,食事をはじめ被害者の失禁の処理など身の回りの世話,タバコの摂取制限の指導等を高齢の身ながら懸命にしてきたものであって,被告人に日ごろ被害者を憎んでいたような感情は認められない。
(2) 被告人の責任感の強い性格に加え,娘達それぞれの事情があったとはいえ,本件に至るまでの間,娘達は被告人を案じながらも,被害者を世話する被告人の状況について十分には把握していなかった。被告人は,ケアマネージャーなどのサポートは受けつつも,「自分のことは自分でしなければならない,他人や独立して世帯を持った娘達に迷惑はかけられない」などの思いから,一人懸命に介護する中で本件犯行に及んだものである。その思いも本件犯行を正当化できるものではなく,酷な見方であるが,いわば一人よがりと評されかねないものであるものの,その思い自体を非難することはできない。こうした経緯,被告人の年齢,境遇などをみれば,酌むべき点があり,本件の責任を一人被告人にだけ負わせ,厳しく断罪することには躊躇を覚えざるを得ない。
(3) 被告人は,自らの犯した罪を悔い,深く反省している。
(4) 被告人は,現在83歳と高齢であり,本件後,更に体力,判断力の衰えが進んでいる。また,前科前歴もなく,被告人の2人の娘及び孫が,情状証人として当公判廷に出廷し,「寛大な処分を望む,これまでの関わり方を反省して一緒に罪を償っていきたい,被告人の今後の面倒をみる」などと述べている。
4 結論
そこで,量刑であるが,以上の諸事情を総合考慮し,被告人に対し,酌量減軽した上,刑を量定し,娘ら各家族の連携の下,被害者の冥福を祈らせながら,被告人に社会内で更生する機会を与えるのが相当であると判断した。
よって,主文のとおり,判決する。
(求刑 懲役5年)
(裁判長裁判官 傳田喜久 裁判官 寺尾亮 裁判官 菱川孝之)