さいたま地方裁判所 平成22年(ワ)3476号 判決 2014年1月30日
原告
X
同訴訟代理人弁護士
森谷和馬
被告
学校法人Y1大学<他1名>
同代表者理事長
A
上記両名訴訟代理人弁護士
平沼髙明
同
平沼直人
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求の趣旨
一 被告らは、原告に対し、連帯して金七二六四万六二一五円及びこれに対する平成二一年一月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告らの負担とする。
三 一について仮執行宣言
第二事案の概要
本件は、B(昭和四二年○月○日生れ。以下「亡B」という。)が被告学校法人Y1大学(以下「被告大学」という。)が開設するa病院(以下「被告病院」という。)において前交通動脈の破裂脳動脈瘤に対する緊急手術としてクリッピング手術(以下「本件手術」という。)を受けたが、術中に脳動脈瘤の再破裂をきたし、その結果血流障害による重篤な脳血管障害が発生し、本件手術から約一年後に多臓器不全によって死亡した事案である。亡Bの遺族である原告は、亡Bが死亡したのは、本件手術の執刀医である被告Y2(以下「被告医師」という。)が動脈瘤の剥離操作にあたって予防的にクリップを置くなどして再出血防止に努めなかったことや、手術中の動脈瘤の破裂後に止血のための適切な手技を行わなかったことに起因するとして、被告大学及び被告医師を相手方として、不法行為(民法七〇九条、七一五条一項)による損害賠償及びそれに附帯する遅延損害金の支払を求めた。
一 前提事実(当事者間に争いのない事実又は後掲の証拠及び弁論の全趣旨によって認められる事実)
(1) 当事者
ア 原告は亡Bの母で、同人の唯一の相続人であり、訴外D、訴外E(以下「E」という。)は原告の子で亡Bの兄弟である。
イ 被告大学は大学病院である被告病院を開設し、医師を雇用して医療行為にあたらせている。
ウ 被告医師は被告病院で稼働している脳神経外科の医師であり、本件手術を執刀した。
(2) 原告の診療経過等
被告病院における亡Bの診療経過の詳細は、別紙診療経過一覧表「診療経過(入院状況・主訴・所見・診断)」欄に記載のとおりであり(当事者の主張が相違する部分を除き、争いがない。)、被告病院において亡Bに対して実施された検査及び処置は、同一覧表「検査・処置」欄に記載のとおりである(当事者間に争いのない事実以外の事実は、同一覧表「証拠」欄に記載の各証拠により認められる。)。
その概要は、以下のとおりである。
ア 平成二〇年二月八日(以下、特に断りのないかぎり、平成二〇年の年月日については年の記載を省略する。)、亡Bは戸塚共立第二病院に搬送され、くも膜下出血と診断された。
その後亡Bは被告病院へ転送され入院した。
イ 同月九日、亡Bは前交通動脈瘤破裂と診断された。
ウ 同日、亡Bについて全身麻酔下にて開頭処置の上、本件手術(顕微鏡操作下におけるクリッピング手術)が行われた。その際、動脈瘤周囲の剥離操作時に動脈瘤からの再出血があり、出血の吸引操作をしながら止血のためのクリッピングを試みたが、出血のコントロールが不良であったこと、急速な脳腫脹が起こったことにより術野が狭まったため、被告医師は、前交通動脈を挟み込む意図でクリッピングを行うことにより止血を得た上で閉頭した。
同日、原告及びEに対し、術後説明として、亡Bは術中出血に伴う重篤な脳出血、脳腫脹の状態にあることが伝えられた。
エ 同月一〇日、亡BについてCT検査を施行したところ、脳腫脹に伴う切迫性脳ヘルニアであると診断された。そこで、減圧開頭手術が行われた。術後は頭蓋内圧管理、体温管理などの集中治療が続けられた。
オ 同月一三日の亡Bの状態は、高度な頭蓋内圧亢進状態(三〇mmHg以上)であり、致死的状態に進展する可能性がある状態であった。その旨が原告に説明された。
カ 同月一八日頃までには亡Bの頭蓋内圧の低下が見られたが、CT所見で広範囲に低吸収域が確認され、高度の脳障害が遷延している状態であった。
キ 同月二三日、Y2医師から原告ら亡Bの親族に対し、亡Bの現状についての説明があり、その中で、頭蓋内圧が改善傾向にあり致命的な状態を脱しつつあるため徐々に集中治療を離脱していること、脳障害が強いものの脳幹死には至っていないこと、尿崩症、感染症や炎症状態の遷延、内臓機能障害、貧血状態など内科的合併症のリスクや治療の必要性があること、今後は長期生存が見込まれ、気管切開や経腸栄養等の処置が必要になる可能性があることが伝えられた。
三月一日にもY2医師から原告ら亡Bの親族に対し長期療養管理が必要であることが伝えられ、これに伴うドレーン留置やシャント手術、気管切開、頭蓋形成の必要性について説明があった。
ク 一〇月二〇日、亡Bは指扇療養病院に転院した。
ケ 亡Bは平成二一年一月三〇日、多臓器不全で死亡した。
(3) 前大脳動脈について
講学上、前交通動脈より手前(心臓側。近位ともいう。)の前大脳動脈をA1、前交通動脈分岐より末端側(遠位ともいう。)の前大脳動脈をA2と呼ぶことがある。以下、それぞれの前大脳動脈を「A1」、「A2」といい、前大脳動脈は、左前大脳動脈と右前大脳動脈の二本が存在するので、左A1、右A1のように表記する。
二 争点
(1) 被告医師に、本件手術中、左A2と癒着している脳動脈瘤の頸部を左A2から剥離する操作を行おうとする時点において、一時クリップ又は仮クリップを適宜に使用して再出血を防止すべきであったにもかかわらず、これを怠り再出血を招いた過失があるか否か。
(2) 被告医師に、再出血に対して、吸引による視野の確保、一時クリップによる止血という手順を踏まず、盲目的なクリップの操作を行って前大脳動脈の狭窄・血流障害を起こした過失があるか否か。
(3) 過失と損害との因果関係
(4) 損害額
三 争点に関する当事者の主張
(1) 争点(1)(被告医師に、本件手術中、左A2と癒着している脳動脈瘤の頸部を左A2から剥離する操作を行おうとする時点において、一時クリップ又は仮クリップを適宜に使用して再出血を防止すべきであったにもかかわらず、これを怠り再出血を招いた過失があるか否か。)について
ア 原告の主張
(ア) 破裂した脳動脈瘤に金属クリップを掛ける手術操作においては、術中の動脈瘤の再破裂・再出血が最も重大な有害事象であるから、破裂した脳動脈瘤についてクリッピング手術を行う術者には、術中の動脈瘤の再破裂・再出血を防ぐ注意義務が課せられている。
クリッピング手術中の再破裂・再出血を予防するためには、① 動脈瘤に仮クリップを掛けた上で剥離操作を行い、剥離の後に改めて永久クリップを掛けるという方法、② 動脈瘤の親血管に一時クリップを掛けてその血流を遮断した上で剥離操作を行い、永久クリップを掛けた後に一時クリップを除く方法という二つの方法がある。①の方法をとれば、仮クリップによって動脈瘤の再破裂を避けることができ、②の方法をとれば、手術中の血圧上昇による再破裂・再出血を避けられるとともに、仮に出血が起きたとしても、出血のために術野が見えず制御不能になるという最悪の事態は回避することができる。一時クリップは親血管の血流を一時的に遮断するものであるから、その限りにおいて危険や負担となり得るが、その代わりに上記有用性が存在するのであって、有用性がリスクを上回っている。
一時クリップの有用性がリスクを上回っていることは、一時クリップの使用を推奨する立場の文献は多数あるのに、本訴訟上反対の立場の文献が提出されていないことからも裏付けられる。なお、脳卒中治療ガイドライン二〇〇九(以下「ガイドライン」という。)は脳動脈瘤に対する外科的治療法の選択をテーマとしたもので、クリッピング手術の手技に焦点をあてたものではないから、仮クリップや一時クリップに関する記述がないか、もしくは少ないのも当然である。むしろガイドラインの中で一時クリップの使用が敢えて触れられているのは、そのような手技が既に広く行われている実態を反映したものである。
(イ) そして、前交通動脈の動脈瘤は周囲の血管と癒着していることが多く、動脈瘤を周囲の血管から剥離する操作は最も再破裂・再出血が起きやすい。
(ウ) そうであれば、被告医師は、本件手術中、最も動脈瘤の再破裂が起きやすい時点である左A2と癒着している脳動脈瘤の頸部を左A2から剥離する操作を行おうとする時点において、一時クリップをA1に掛けるか、又は仮クリップを動脈瘤本体に掛けるなど、仮クリップ又は一時クリップを適宜に使用して再出血を防止すべき注意義務があったにもかかわらずこれを怠り、再出血を招いたのであり、これは医療水準を逸脱する過失にあたる。
イ 被告らの主張
争う。原告の主張する注意義務は医療水準として一般に認められる注意義務とはいえず、したがって、被告医師に過失はない。理由は以下のとおりである。
(ア) 仮クリップも一時クリップも、永久クリップに重ねて余計な危険と時間と負担(侵襲)を掛けるものであって、医療水準として求められるものではない。ガイドラインにおいては、「外科的治療の種類と方法」の項目の中では仮クリップに関する記載すらなく、一時クリップについては、「術中破裂防止のため親動脈を一時的に遮断する場合がある」と記載されている程度である。原告が多数提出する文献は、全体を通読すると必ずしも一時クリップを必ず使うように述べてはおらず、また第三者に査読された上で掲載される高次元の論文等ではないから、信用性が高くない。
したがって、医療水準として、予防的な一時クリップないし仮クリップの使用が義務づけられていたとは認められない。
(イ) また、本件に則して見ても、仮クリップは剥離前の動脈瘤体部に掛けるものであるが、本件は約四mmの小さな動脈瘤であったため、仮クリップを掛ける余地が乏しかった。一時クリップの推奨者においても、壁が薄い、あるいは大きな動脈瘤において使用することが奨められているところ、本件はそのいずれにもあたらなかった。
そうであれば、いずれのクリップも本件には適応がなかったのであって、原告の主張する注意義務は認められない。
(2) 争点(2)(被告医師に、再出血に対して、吸引による視野の確保、一時クリップによる止血という手順を踏まず、盲目的なクリップの操作を行って前大脳動脈の狭窄・血流障害を起こした過失があるか否か。)について
ア 原告の主張
クリッピング手術中に動脈瘤の再出血が起こった場合には、まず血液を吸引して視野を確保し、次に親動脈に一時クリップを掛けて止血し、その上で動脈瘤本体にクリップを掛けて手術の目的を達し、最後に一時クリップを外すという手順を踏むべきである。
ところが、被告医師は再出血に対して、吸引による視野の確保、一時クリップによる止血という手順を踏むべき注意義務があったのにこれを怠り、盲目的なクリップ操作を行って右前大脳動脈までクリッピングし、前大脳動脈の狭窄・血流障害を起こしたのであって、これは医療水準を逸脱する過失にあたる。
イ 被告らの主張
争う。被告医師は、出血後は一時クリップの使用を試みたが、出血の勢いが激しく、かつ、出血が脳の奥に回り込んでしまったため、吸引が十分にできず、脳の腫脹も予想以上に急激、強度であったため、一時クリップを掛けることができなかった。出血が激しく吸引で対処できないときは、出血点と思われる箇所を凝血塊とともにドームクリッピングを試みるのが一般的であり、被告医師は上記のような状況下においてあるべき手技を行ったのであって、被告医師に過失はない。
(3) 争点(3)(過失と損害との因果関係)について
ア 原告の主張
亡Bは、本件手術前には意識障害が見られなかったが、本件手術を受けたところ被告医師の動脈瘤を剥離する操作によって再出血が起き、被告医師が視野の得られない状態でクリップを掛けたためにクリップが亡Bの右前大脳動脈まで及んだ結果、脳梗塞や脳腫脹が生じた。その後減圧手術を行ったものの、再出血により脳に起きた障害は重大であって、結局一度も意識を回復しないまま亡Bは死亡するに至った。
くも膜下出血では、手術時の症状が軽い事例では、八割以上が社会復帰可能とされており、発症時に意識障害が見られるか否かが死亡率を大きく左右するところ、亡Bには発症時及び手術時に意識障害が見られなかったのであるから、予後は良好であった。そうであれば、本件手術が成功していれば、亡Bは救命はもとより、社会復帰が十分可能であったのであって、被告医師の注意義務違反と亡Bの死亡との間には相当因果関係がある。
イ 被告らの主張
争う。仮クリップ、一時クリップを使用すれば、出血しないものではなく、また出血しても止血できるようになるものではない。くも膜下出血の死亡率は約一〇~六七%、予後不良例が約四〇%であり、術後の重大・重篤な予後因子として、脳血管攣縮や再出血の危険性があり、本件も同様の可能性がある。したがって、適切な治療がなされていれば死亡しなかったことにつき高度の蓋然性はない。
(4) 争点(4)(損害額)について
ア 原告の主張 合計七二六四万六二一五円
被告らの各不法行為は共同不法行為の関係にあるから、被告らは、連帯して、以下の損害を賠償する義務を負う。
(ア) 亡Bに生じた損害 合計六一五四万二〇一四円
原告が亡Bに生じた以下の損害を相続した。
a 入院雑費 五三万四〇〇〇円
ただし、亡Bが被告病院及び指扇療養病院に入院した三五六日について、一日あたり一五〇〇円として計算した額である。
b 逸失利益 三六〇〇万八〇一四円
ただし、亡Bの死亡前年の年収(給与・賞与)は五〇〇万九七四一円であり、労働能力喪失期間は二六年(ライプニッツ係数一四・三七五二)であることを前提に、生活控除率を五〇%として計算した額(五〇〇万九七四一円×一四・三七五二×〇・五)である。
c 慰謝料 二五〇〇万円
ただし、入院慰謝料が三〇〇万円で、死亡慰謝料が二二〇〇万円である。
(イ) 原告に生じた損害 合計一一一〇万四二〇一円
a 葬儀費 一五〇万円
b 固有の慰謝料 三〇〇万円
c 弁護士費用 六六〇万四二〇一円
イ 被告らの主張
いずれも不知ないし争う。
第三当裁判所の判断
一 認定事実
前提事実、証拠<省略>によれば、以下の事実が認められる。
(1) 診療経過等
ア 二月八日当時、亡Bは横浜市戸塚区で一人暮らしをし、メッキ液などの薬液を正常化するフィルター装置を製造する会社に勤め、当該フィルター装置の制御関係を全般的に開発する業務に携わっていた。
同日午前一時頃、亡Bは突然の頭痛と嘔吐を覚え、同日は会社を休んだ。同日夜に会社の同僚が亡Bの自宅を訪れ、同人の様子を見て救急車を呼び、同人は戸塚共立第二病院に搬送された。戸塚共立第二病院において、亡Bはふらつき、嘔気・嘔吐、頭痛の症状を訴え、担当医が脳CTを施行したところ、くも膜下出血の所見が得られた。担当医は同日午後九時五三分頃に血液検査を行った。この頃の亡Bの血圧は収縮期が一八〇台、拡張期が一二〇台であったが(以下、血圧について収縮期と拡張期の記載を省略し、「一八〇/一二〇」のように記載することもある。)、血圧降下作用のあるアダラートとニカルピンの点滴投与により血圧は低下傾向に向かった。亡Bは意識が清明で、バイタルサインその他に異常はなかったが、戸塚共立第二病院には脳神経外科医がいなかったため、亡Bは被告病院に救急車で搬送され、同日午後一一時〇七分頃、被告病院に到着した。
イ 被告病院に来院時、亡Bを診察した医師は脳神経外科のF医師(以下「F医師」という。)であった。この頃の亡BのGCS(グラスゴーコーマスケール。意識レベルを開眼の状態(E、一ないし四点)、言葉による応答(V、一ないし五点)、運動による応答(M、一ないし六点)の合計点であらわす昏睡尺度。意識が清明であれば一五点、一三ないし一五点なら軽症、九点ないし一二点なら中等症、八点以下なら重症を意味する。)は一五点であって、意識レベルは清明であった。瞳孔径は左右同じであり、対光反射も迅速で、顔面は対称であり麻痺もなかった。MMT(徒手筋力検査法。筋力を徒手的に検査・記録する方法。)は5(正常)であった。依然血圧は収縮期が一五〇から一六〇と高く、ニカルピンが投与された。
ウ 亡Bは同月九日午前〇時五〇分頃に被告病院ICUに入室し、鎮痛剤・鎮静剤の投与によって鎮静が図られた。
同日午前三時三〇分頃には、F医師から原告に対し、予後や起こりうる合併症、今後行う検査等についての説明がなされた。
エ 同日午前九時頃、動脈瘤の精査のために脳血管撮影が行われ、その結果、亡Bの動脈瘤は前交通動脈瘤であると診断され、緊急手術を行うこととなった。動脈瘤は前交通動脈から上方向に突出し、直径約四mmの大きさであった。
オ 被告医師が上記緊急手術の執刀医となった。被告医師は同月九日当時医師免許を取得してから一〇年近くが、日本脳神経外科学会専門医の資格を取得してから二年五か月あまりが各々経過した医師で、当時一〇例ほどのクリッピング手術の経験があった。
被告医師から原告に対し、手術及び麻酔の説明が行われ、原告は亡Bの代理人として手術に同意した。当該説明において、被告医師は手術の内容と必要性、手術をしない場合の経過予想、他の治療法との比較、その利点と欠点、手術の危険性並びに合併症及び後遺症の可能性等を説明し、手術自体のリスクや合併症等の危険性は五から二〇%以下であると説明した。
カ 同日午前一〇時三五分頃から約四時間一五分にわたって本件手術が行われた。術者は被告医師、助手は被告医師の上級医(指導医)で脳神経外科副部長(当時)であるG医師(以下「G医師」という。)であった。
行われた手術手技の概要、経過は以下のとおりである。
(ア) 被告医師は開頭処置後硬膜を切開翻転させシルビウス裂の剥離を進めたが十分な開放が得られず、シルビウス裂の近位部においてのみ軟膜下に侵入した後、小血管を部分的に凝固切開しながら開放した。前頸下部位から視交叉内頸動脈槽を開放し動脈を確保しようとしたが十分な術野の展開が得られないため、眼窩回及び直回を吸引除去して主幹動脈である前大脳動脈に至る筋道をつけた。Heubner動脈(以下「ホイブナー動脈」という。)も確認した。さらに、主幹動脈である左A1、左A2及び前交通動脈の走行も確認できる状態となった。
(イ) 動脈瘤は、前交通動脈から上向きに突出していた。動脈瘤の母血管は両側A1であり、動脈瘤体部(ドーム)は左A2に癒着していた。被告医師の経験に照らして、通常の動脈瘤と比べて壁が薄いという感触はなかった。破裂部は動脈瘤体部の先端部付近にあり、被告医師は、動脈瘤を剥離するためには破裂部の剥離操作も必要であると認識した。被告医師は剥離子(棒状の医療器具)を用いて動脈瘤頸部の剥離操作を始めた。はさみや針ではなく剥離子によって剥離操作を行うことができたため、被告医師は動脈瘤の癒着の程度は強くないと感じた。
(ウ) 被告医師が剥離子により動脈瘤頸部左側の剥離を行っていた最中である同日午前一一時三〇分頃に動脈瘤が再破裂した。このような術中出血が起こったのは、剥離操作で動脈瘤体部と左A2との癒着面への操作が加わったためであると被告医師は認識した。
(エ) 動脈瘤の破裂により術野及び術野の裏側にほどなく血液が広がり、上記(ア)のとおり確保していたA1、A2、前交通動脈も血液に覆われて見えなくなった。被告医師は助手とともに血液を吸引管によって吸引して視野の回復に努めながら、動脈瘤のある前交通動脈に半ば盲目的にクリップを掛けた。しかし、止血を得られなかったため、掛けたクリップを取り外し、再度クリップを掛けることを試みたが、術野周囲の脳が急速に腫れて術野が非常に狭くなり、前交通動脈を確認してクリップを掛けることが困難な状態になった。そこで、被告医師は、術野が完全に確保できなくなる前に、見えなくなった前交通動脈と動脈瘤の位置を直前の記憶に基づいて想定し、前交通動脈自体を挟み込むという意図で想定部位に数回のクリップ操作を行ったうえ永久クリップ(九mmストレート型チタンクリップ)を掛け、一時的な止血を得た。
(オ) 永久クリップを掛けた時点で脳実質は高度に腫脹していた。術野内の視認は困難な状態となっており、動脈瘤やクリップ先端の状況の確認はできなかった。
(カ) 被告医師はできる限り高度に腫脹した脳切除を試みたが、結局出血がコントロール不能であると判断し、開創した硬膜の皮下筋層を数針ずつ縫合するだけで、皮膚をニューロン糸で縫合閉創し手術を終了した。
キ 本件手術直後、亡Bの瞳孔は不同であり、脳CT画像ではびまん性脳腫脹が認められた。この頃(午後四時五五分頃)のGCSは四点(重症。なお、証拠上Vについては「T」と表記されているが、これは挿管等で発声できないことを意味し、扱いは一点と同様である。)であった。
ク 被告医師は同日夕方頃、原告及びEに対し術後説明を行い、動脈瘤の再破裂・再出血の原因について手術操作によるものと不可抗力によるものの二つの要素があることを説明した。その中で、被告医師は、「技術的な未熟さ」という言葉を使って、技術的に問題があった可能性もある旨の説明も行った。さらに、被告医師は主にEの質問に応じて、本件手術に参加したメンバーやキャリア、自身の経験年数や症例数についても説明した。
ケ 同月一〇日に被告医師が診察した際の亡BのGCSは六点であった。脳CTの画像等から、亡Bには前大脳動脈領域の虚血がみられ、出血の増大はなかったが、びまん性に脳が緊満していると認められた(当該CT画像の読影レポートについてはスで後述する。)。
コ 同日脳の腫れに伴う脳ヘルニアなどの二次的な悪化を予防するため亡Bについて開頭減圧術を行うこととし、被告医師は、同日午前一〇時一〇分頃から、原告及びEに対し緊急手術を行う旨及び手術の危険性等について説明し、Eは代理人として手術に同意した。この説明の際、Eから、できれば被告医師ではなく、経験の豊富な医師に手術をしてほしいとの要望があった。
サ 同日午前一一時一五分頃から約三時間一六分をかけて右前側頭葉内減圧術等の開頭手術が行われた。術者は被告医師であり、助手はC医師であった。
開創したところ、脳ヘルニアを起こしている前頭葉組織が噴出した。そこで、前頭葉部の脳切除を行い、前頭蓋底部より内側は大脳鎌のレベルまで広範囲の吸引除去を行った。ヤスガイ窩に向かい骨窓を開放拡大し、側頭葉先端を含めた広範な切除を行い、テント自由縁の視認も行った。各部からの滲出血が多く、止血に難渋した。脳脊髄液の湧出があり脳室ドレーンを八cm長に留置し、硬膜下にフッドマン社頭蓋内圧センサーを留置固定するとともに、硬膜に人工硬膜を使用して閉創した。
シ 同月一一日には頭蓋内圧が三〇mmHgであり、GCSは六点であった。同日、被告医師は原告ら親族に対して現状説明をした。
ス 同月一二日には、上記キ及びケで言及した脳CT画像について読影がなされ、両側前大脳動脈支配領域の低吸収域の拡がりが顕在化してきているとの所見が得られた。これは前大脳動脈領域の虚血、脳浮腫を意味する。被告医師は脳CT画像に基づき、最終的に掛けたクリップ(一(1)オ(エ))が動脈瘤のみならず左A2にも掛かっていると想定した。ただし、読影レポートの内容も加味すれば、クリップが右A2にもかかっている可能性もあると想定された。
セ 三月一日までの亡Bの状態については、第二の一(2)オないしキのとおりである。被告医師は、亡Bについて鎮静を図り、呼吸管理・体温管理、脳圧管理等に努めるとともに、外科的処置については限界と考え、内科的補助治療を前面に進めて集中治療を進めた。
ソ 同月二日からは、集中治療から回復期治療へと移行し、引き続き呼吸管理・体温管理、脳圧管理等が行われた。
六月頃からは、被告医師やF医師は長期療養のための転院を考え、国立身障者リハビリテーションセンターや指扇療養病院、青葉病院等へ長期療養管理のための紹介状を作成し亡Bの受入の可否を問い合わせた。
タ 指扇療養病院への転院及び死亡の経緯については第二の一(2)ク、ケのとおりである。
(2) 医学的知見
ア 脳動脈全体の循環について
脳血流は左右の内頸動脈と左右の椎骨動脈が合流した脳底動脈により供給される。二本の内頸動脈と脳底動脈は、脳底にあるウィリス動脈輪においてそれぞれ前交通動脈と後交通動脈によって互いに連絡され、そこから派生する前・中・後大脳動脈が脳の主な栄養血管となる。これらの動脈から穿通枝動脈(穿通枝とは有名血管から分枝した無名の小血管で、通常皮膚面に対し垂直に走行するものをいう。)が分岐し、脳の臓器に直接栄養を供給する。
イ 前交通動脈について
前交通動脈は長さ約一mm前後の小さな動脈であるが、一方の内頸動脈が閉塞した場合、健常側の内頸動脈系から閉塞側の大脳半球に血液を供給する役割を担う大切な動脈である。前交通動脈を起点としてウィリス動脈輪における血行を見ると、前交通動脈、左前大脳動脈、左内頸動脈、左後交通動脈、左後大脳動脈、右後大脳動脈、右後交通動脈、右内頸動脈、右前大脳動脈と巡り再び前交通動脈に戻る。
ウ 前交通動脈周辺の穿通枝動脈について
前交通動脈のすぐ近くには、ホイブナー動脈が存する。ホイブナー動脈は、A1及びA2、多くはその合流部より分枝して逆行する穿通枝の一つで、内包前脚、内包膝、淡蒼球及び尾状核頭部の前下部に血液を供給している穿通枝動脈である。また、聴覚、体性感覚などの感覚入力を大脳新皮質へ中継する重要な役割を担う脳組織部である視床に血液供給をする穿通枝動脈も前交通動脈の近くにある。
前交通動脈から分岐する穿通枝について、一〇例で平均五・四本(三ないし一三本)が分枝を出しているとの海外の研究も存する。
エ くも膜下出血
(ア) 病態と原因
くも膜下出血とはくも膜下腔にある血管の破綻によりくも膜下腔内(くも膜と軟膜の間)に出血した状態を指し、最も多い原因は動脈瘤破裂によるものである。
(イ) 重症度分類
くも膜下出血の重症度分類にはHuntand Kosnik分類等が用いられ、Grade0(未破裂の動脈瘤)、GradeⅠ(無症状か、最小限の頭痛及び軽度の項部硬直をみるもの)、GradeⅠa(急性の髄膜あるいは脳症状をみないが、固定した神経学的失調のあるもの)、GradeⅡ(中程度から強度の頭痛、項部硬直をみるが、脳神経麻痺以外の神経学的失調はみられないもの)、GradeⅢ(傾眠状態、錯乱状態、または軽度の巣症状(神経系のある特定部位の障害により出現する徴候)を示すもの)、GradeⅣ(昏迷状態で、中等度から重篤な片麻痺があり、早期除脳硬直(上丘と下丘との間で脳幹を切断した時に現れる筋緊張の異常亢進状態)及び自律神経障害を伴うこともあるもの)、GradeⅤ(深昏睡状態で除脳硬直を示し、瀕死の様相を示すもの)に分類されている。
オ 脳動脈瘤によるくも膜下出血
(ア) 破裂脳動脈瘤に対する治療法
脳の動脈瘤が破裂してくも膜下出血を起こした場合には、再破裂・再出血のおそれがあり、再出血した場合の予後が不良であることから、その予防対策が特に重要とされる(概ね争いなし)。
脳動脈瘤が発見された場合は、出血予防処置の適応について慎重に考慮した上で患者の症例に応じた治療を行う。すなわち、重症でない例(重症度分類のGradeⅠないしⅢ)では、年齢、全身合併症、治療の難度などの制約がない限り、発症から七二時間以内の早期に再出血予防処置を行うとよいが、最重症例(重症度分類のGradeⅤ)では原則として急性期の再出血予防処置の適応は乏しいとされている。
再出血予防処置としては、開頭した上で動脈瘤の頸部を金属クリップで留める方法(クリッピング手術)や、開頭せず動脈瘤の内部に金属コイルを充填する方法(コイル塞栓術)がある(概ね争いなし)。
出血予防処置を行うまでの間は血圧管理、呼吸管理等を行いながら患者の鎮静をはかる。
(イ) 合併症
前交通動脈瘤による出血あるいはその手術の後の後遺症として、他の動脈瘤と異なるものは、精神機能障害、とくに記憶障害である。原因としては、動脈瘤の破裂あるいは手術操作により、①第三脳室底の損傷、②anterior perforated space(前有孔質)やparaolfactory area(嗅覚野周辺)の血流障害、③前交通動脈から分岐する穿通枝動脈の損傷、④両側前大脳動脈の閉塞などが生じることなどが考えられている。一(2)ウのとおり前交通動脈から分岐する穿通枝には分枝があることが多いので、前交通動脈瘤の手術に際しては、精神症状の予防の一つの手段として、これら分枝の保存が特に大切であると考えられている。
カ クリッピング手術
(ア) 仮クリップ(tentative clip)
動脈瘤頸部を完全に剥離する際、破裂を防ぐためにいったん動脈瘤体部にクリップを掛け、さらに頸部の剥離を進めて動脈瘤頸部にクリップを掛けて初めに掛けたクリップを外すという方法をとる時、初めに使用するクリップを仮クリップという。なお、仮クリップ用のクリップが特別にあるわけではなく、永久クリップよりも閉鎖圧が低めに設定してあるクリップを使用する。
(イ) 一時クリップ(temporary clip)
動脈瘤の親血管に一時的に掛けて動脈瘤への血行を一時遮断する方法をとる時に使用するクリップを一時クリップという。通常のクリップよりも閉鎖圧が低めに設定してあるクリップを使用する。
(ウ) 永久クリップ(permanent clip)
クリッピング手術において最終目的とするところである動脈瘤頸部に掛けるクリップを永久クリップという。
(エ) 手術中の動脈瘤破裂への対処
一般的には、術中破裂により出血をきたした場合、両手吸引で視野を確保し、血圧を低くし、片手吸引だけで出血をコントロールできる太さの吸引管に持ち替え、もう片手で親血管か動脈瘤柄部(頸部と同義)の剥離を行い、一時クリップを親血管に掛けるか仮クリップを動脈瘤に掛け、一時的に止血した上で、動脈瘤を剥離して永久クリップを掛ける方法により対処する。出血が激しく吸引で対処できないときは、出血点と思われる箇所に凝血槐とともにドームクリッピングを試みるべきとする文献もある。
二 争点(1)(被告医師に、本件手術中、左A2と癒着している脳動脈瘤の頸部を左A2から剥離する操作を行おうとする時点において、一時クリップ又は仮クリップを適宜に使用して再出血を防止すべきであったにもかかわらず、これを怠り再出血を招いた過失があるか否か。)について
(1) 注意義務の内容及び存否
ア 仮クリップ及び一時クリップの一律使用
まず、一般的に破裂脳動脈のクリッピング手術において、仮クリップ、一時クリップを再破裂防止のために用いるべき注意義務が肯定できるか否かを検討する。
(ア) 仮クリップについて
仮クリップの使用については、甲B七の三二頁、甲B八の一九〇頁等で言及されている。しかし、甲B七では単なるクリップの使用例の一つとして紹介されているにすぎず、甲B八でも動脈瘤の破裂部を剥離しなければ対側の確認ができないような場合に使用するクリッピングの方法であることを紹介するにとどまり、ガイドラインにも全く言及がない。
以上から、仮クリップを使用することがあるという事実は認定できても、仮クリップを使用することが一般的な注意義務として課されているとは認められない。
(イ) 一時クリップについて
a 注意義務の判断基準
人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照し、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるが(最高裁昭和三一年(オ)第一〇六五号同三六年二月一六日第一小法廷判決・民集一五巻二号二四四頁参照)、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であると解する(最高裁昭和五四年(オ)第一三八六号同五七年三月三〇日第三小法廷判決・下民集三一巻九~一二号一五四七頁参照)。
b 一時クリップ使用のリスク
(a) 原告主張の一時クリップの使用が医療水準であるか否かの検討にあたっては、一時クリップの使用に伴うリスクに対する措置についての実情を考察することが重要であると思われる。
(b) 一(2)ア、イで認定した脳動脈の血行によれば、前大脳動脈の血流を止めれば前交通動脈への血行も止まるので、母血管であるA1に一時クリップを掛ければ前交通動脈への血行は止まるか循環量が少なくなることとなり、動脈瘤への血流・血圧は低下する。したがって、一時クリップの使用は、動脈瘤が再破裂・再出血する危険性を低下させるとともに動脈瘤が破裂した場合の出血量を少なくする効果があると認められる。被告医師も、一般論として一時クリップにそのような効果があることを認めている。
他方、予防的な一時クリップには、虚血症状の出現が危惧されること、一時クリップによる正常な血管壁の障害や穿通枝動脈障害、血栓形成、一時クリップにより脳動脈瘤クリッピング処置が行いにくくなることなどの問題点も存在する(乙B七)。穿通枝動脈障害について補足すると、以下のとおりである。一(2)ウのとおり、前交通動脈自身あるいはその近傍からはホイブナー動脈をはじめとする多数の穿通枝動脈が出ており、穿通枝動脈からさらに数本の分枝が出ている。穿通枝動脈の先につながる血管はもはやない以上、穿通枝動脈あるいはその分枝を梗塞させた場合には、穿通枝動脈がつながる脳の臓器が栄養供給及び酸素供給を受けられないこととなり、当該部位の司る機能が障害されるか、失われる結果を招く。ホイブナー動脈を例にとると、ホイブナー動脈は大脳基底核、内包の一部を灌流する穿通枝動脈であるから、ホイブナー動脈が梗塞されると、大脳基底核や内包の司る機能が障害される結果、顔面、上下肢の片麻痺が起こり得る。ホイブナー動脈以外の穿通枝動脈を閉塞した場合には聴覚障害や体性感覚障害、記憶障害等の精神機能障害が起こり得る(一(2)ウ、オ(イ))。
(c) このようなリスクが存在することに鑑みれば、当該リスクを避け得る有効な方法論が存在している時、初めて安全に一時クリップを使用できるのであって、その意味において、一時クリップの使用が医療水準であるか否かの検討にあたっては、そのリスクに対する措置についての有効な方法論が存在するかという点が重要となる。そこで次項以下、上記リスクに対する措置についての有効な方法論が存在するかという観点からガイラドラインや原告提出の各種文献の内容を検討する。
c 一時クリップに関するガイドラインの取扱い
ガイドラインでも一時クリップの使用への言及はあるものの、「術中破裂防止のため親動脈を一時的に遮断する場合があるが、長時間遮断すると脳に虚血性変化を惹起し機能障害をきたすことがあるため、重症例・高齢者では特に遮断時間に注意する」とされ、エビデンスのレベルはⅢ(良くデザインされた非実験的記述研究(比較・相関・症例研究))にとどまるとされており(乙B六の一九九頁)、ガイドラインでは未だ、実験に基づき考察された結果推奨される方法とはされていない。
また、ガイドラインが引用する(同二〇〇頁12)、反町隆俊外「破裂前交通動脈瘤に対するtemporary clipの影響」(乙B二)は、破裂前交通動脈瘤の症例で七〇歳未満、三日以内に直達手術を実施した八九例を対象として一時クリップの影響による穿通枝領域の梗塞という点から検討した結果として、「穿通枝障害に直接関連しうるtemporary clipの使用や術中操作などが、穿通枝領域の梗塞や高次脳機能へ及ぼす影響は無視できないものと思われた。特に両側障害例では精神症状が強く出現するため、これを避けるよう術中血管操作やtemporary clipの使用には十分な注意が必要であると考えられた。」と記述している。
ガイドラインは、専門家が議論し有効性と安全性を検討したうえでまとめられ、策定時点における望ましい治療法あるいは標準的治療法を示すものである以上、医療水準を認定する証拠として証拠価値が高いということができる。また、上記乙B二はガイドラインにおいても引用され、原著は英文で書かれ、国内のみならず海外の専門家の批判にもさらされることを前提に書かれた論文であり、その証拠価値は一定程度高いと考えられる。
d 原告提出の文献について
(a) 原告提出の証拠によれば、二(1)ア(イ)b(b)で述べた効果に着目して一時クリップの使用を積極的に推進する医師が多数存在すると認められる(甲B六ないし二二)。しかし、これらの文献においては、二(1)ア(イ)b(b)で述べたリスクについてほとんど指摘がないものが多く(甲B七、八、一〇ないし一四、二二等)、ホイブナー動脈を温存すべきであること等のリスクの指摘がある文献(甲B六、九、一八ないし二〇等)もあるが、そのようなリスクを避けるための方法論について記載がないものが多い。すなわち、上記リスクの軽減のため一時クリップを掛ける時間を制限する文献もあるが(甲B六ないし八、一〇、一一、一四、一五、二二)、単に看護師に遮断時間を計測させるべきである旨や遮断時間は問題である旨の指摘にとどまる文献もあり(甲B六、八、一〇)、時間の具体的な言及のあるものでも、その時間は論者によって三分から一〇分と区々である(甲B七、一一、一四、一五、二二)。また、リスクを避けるためにはクリップを掛ける回数も制限する必要があると思われるが、この点については記載がないものがほとんどであり、記載があるものであっても、クリッピングを繰り返す旨記載するにすぎない(甲B七、一一、一五)。さらに、時間や回数が制限されたとしても、正常な血管そのものの損傷を来たすリスクについては解決されないと思われる。
(b) 原告提出の証拠は(a)で上述したようにリスクに言及する文献が少ないところ、当該リスクは相当重大なリスクであるというべきだから、その言及がないということ自体当該文献の信用性を低める事情である。
また、これらの文献はいずれも日本国内でのみ通読されると思われる日本語で書かれた雑誌掲載論文であり、「安全に手術するノウハウはこれだ」、「私の手術戦略」、「ワンステップ上をめざした脳動脈瘤手術この技術を身に付けたい」などの論文名(甲B九なしい一一、一三ないし一六、一九ないし二二)からもわかるように、個人的な経験に基づく技術技法を紹介することを目的としたものがほとんどである。これらの理由から、原告提出の証拠は医療水準を認定する証拠として証拠価値が高いとはいえず、このような文献が多数存在するからといって、一時クリップを推奨する医師が一定数存在するということ以上の立証はなされていないというべきである。
e 評価
上記の検討から、一時クリップの使用に対する措置について有効な方法論は未だ存在せず、そのようなことも考慮すると、一時クリップの使用が医療水準として一般的に認められた注意義務であるということはできない。
なお、原告は、本件におけるガイドラインの記載の位置付けについて、ガイドラインは脳動脈瘤に対する外科的治療法の選択をテーマとしたものでクリッピング手技に焦点をあてたものではなく、それにもかかわらずガイドラインで一時クリップの使用が敢えて触れられているのは一時クリップを使用する手技が既に広く行われている実態を反映したものであると反論する。しかし、原告の上記主張は、上記bで認定し、ガイドライン及び乙B二の論文が指摘する一時クリップ使用の重大なリスクについて正解しないものであって、これを採用することはできない。
イ 具体的適応
それでは、仮クリップの使用、一時クリップの使用が一般的に認められた注意義務とは言えないとしても、本件手術の具体的な事情から、注意義務と認められないかを以下検討する。
(ア) 仮クリップについて
仮クリップは動脈瘤に掛けて使用するものであるところ亡Bの動脈瘤は約四mmと小さく、仮クリップを掛ける余地はなかったと認められるから、その意味からも仮クリップを掛ける義務を肯定することはできない。
(イ) 一時クリップについて
一般的には一時クリップを使用するべき注意義務が認められないとしても、① 動脈瘤がある程度大きい(乙B一〇の一四六頁では、二cm以上とする。)か、あるいは動脈瘤の向きが後方にあるためにA2との間でクリップスペースが確保しにくいような場合、② 壁の薄い動脈瘤の場合、③ 破裂部の剥離動作が不可欠な動脈瘤の場合は、予防的な一時クリップを使用することがあるとされている(甲B七の三七頁、乙B七の二、三頁、被告医師八頁)。
そこで亡Bの動脈瘤について検討すると、一(1)エ、カ(イ)のとおり、大きさは約四mmで大きくなく、前方の動脈瘤であり動脈瘤の向きが後方にあるようなものでなく、破裂部も癒着していたので破裂部への剥離動作は必要だが当該癒着の程度は強いものではなく、被告医師もハサミではなく棒状の器具で剥がせるものと認識していた。さらに、右側からのアプローチで、脳動脈瘤を構成する血管の確保、動脈瘤を含めたオリエンテーションもついていた。
以上から、亡Bの動脈瘤は例外的に一時クリップを使用すべき場合のいずれにもあたらず、具体的適応の面でも一時クリップを使用すべき注意義務を肯定することはできない。
ウ 以上の検討からすれば、原告の主張する注意義務はいずれの点からも認められない。
(2) 義務違反の有無
注意義務が肯定されないから、原告の主張する注意義務違反は認められない。
三 争点(2)(被告医師に、再出血に対して、吸引による視野の確保、一時クリップによる止血という手順を踏まず、盲目的なクリップの操作を行って前大脳動脈の狭窄・血流障害を起こした過失があるか否か。)について
(1) 注意義務の内容及び存否
ア 再出血一般
クリッピング手術中に動脈瘤の再出血が起こった場合には、まず吸引をして視野を確保し、次に親動脈に一時クリップを掛けて止血し、その上で動脈瘤本体にクリップを掛けて手術の目的を達し、最後に一時クリップを外すという手順を踏むべきであるという原告の主張については、一(2)カ(エ)のとおり肯定でき、被告らも上記一般論を積極的に争うものではない。
他方、甲B一一の一三一頁には、「出血が激しく吸引で対処できないときは、出血点と思われる箇所を凝血塊とともにドームクリッピングを試みる。」との記載があり、出血が激しく吸引で対処できない等出血点を確認することができない事態となったときは、上記一般論と異なる措置をとることも許容されると認める。
イ 本件の場合について
一(1)カ(エ)のとおり、被告医師は助手とともに血液を吸引管によって吸引して視野の確保に努めながら視野が十分に確保できないため、前交通動脈に半ば盲目的にクリップを掛けたが、止血を得られなかったため、掛けたクリップを取り外し、再度クリップを掛けることを試みたが、術野周囲の脳が急速に腫れて術野が非常に狭くなり、前交通動脈を確認してクリップを掛けることが困難な状態になったことから、術野が完全に確保できなくなる前に、見えなくなった前交通動脈と動脈瘤の位置を直前の記憶に基づいて想定し、前交通動脈自体を挟み込むという意図で想定部位に数回のクリップ操作を行った上で永久クリップを掛け、一時的な止血を得たものである。
したがって、本件は、出血が激しく吸引を行ったが、それで対処することができなかったものであり、さらに、これに加えて、脳が急速に腫れて術野が非常に狭くなり前交通動脈を確認してクリップを掛けることが困難な状態となったのであるから、上記一般論と異なる措置をとることも許容されるものであり、上記一般論に従った措置をとるべき具体的な注意義務があると認めることはできない。他に、原告の主張を認めるに足りる証拠はない。
本件において、事後的に振り返った場合、動脈瘤破裂後の被告医師の対応が医師として理想的なものであったかについては疑問な点がある(被告医師も本人尋問においてそれを否定していない)が、そのことから法的な過失を認定することはできない。
(2) 注意義務違反の有無
具体的な注意義務が肯定されないから、原告の主張する注意義務違反は認められない。
四 被告らの責任
以上から、その余の検討を経るまでもなく、被告らに責任は認められない。
第四結論
以上によれば、原告の請求はいずれも理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 窪木稔 裁判官 山口信恭 仲田千紘)
別紙 診療経過一覧表<省略>