さいたま地方裁判所 平成23年(ワ)3733号 判決 2014年4月24日
原告
甲山X
同訴訟代理人弁護士
田渕朋子
同
内野令四郎
被告
財団法人Y
同代表者理事
A
同訴訟代理人弁護士
赤松俊武
主文
一 被告は、原告に対し、八〇二万二八一一円及びこれに対する平成二三年八月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを五分し、その四を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求の趣旨
一 被告は、原告に対し、四二〇〇万円及びこれに対する平成二三年八月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
三 仮執行宣言
第二事案の概要
本件は、原告が被告の開設・運営するa病院(以下「被告病院」という。)において心室中隔欠損症・感染性心膜炎等の治療のための手術(三尖弁形成術・心室中隔欠損孔閉鎖術。以下「本件手術一」という。)を受けた際に、被告病院の医師が原告の体内に針(以下「本件針」という。)を遺残させたことについて、診療契約の債務不履行に基づく損害賠償請求として、本件針の遺残によって原告に生じた損害の賠償を求めた事案である。当事者間において、被告病院の医師が本件手術一に際し原告の体内に本件針を遺残させたこと、これが医療上の過失にあたること、それについて被告が損害賠償責任を負うことについては争いがない。
一 前提事実(当事者間に争いのない事実又は証拠によって認められる事実)
(1) 当事者
ア 原告は昭和四五年○月○日生まれの女性である。被告病院に入院した際の姓は乙川であったが、平成二三年四月二一日に離婚して旧姓の丙谷姓となり埼玉県に居住し、同年一二月二九日に本件訴訟を提起した。その後、原告は再婚して改姓し、現在福島県b市に居住している。
イ 被告は被告所在地にて被告病院を開設・運営する財団法人であり、被告病院は心臓血管外科、糖尿病内科等を標榜する総合病院である。
(2) 原告の診療経過等
被告病院や他院における原告の診療経過の概要は、以下のとおりである(以下は争いのない事実か証拠<省略>により認められる事実であり、より詳細な診療経過は、第三の一(1)において判断に必要な限度で認定する。)。
ア 平成二二年九月二九日(平成二二年に起こった出来事については年の記載を省略し、月日のみ記載することとする。)頃、原告は突発性難聴となり近医を受診したが体調悪化が続き、一一月二二日朝、意識朦朧となり被告病院に救急搬送された。原告は被告病院において肺炎と診断され、糖尿病の持病があったことから糖尿病内科に入院した。
イ 一一月二四日、原告は心室中隔欠損症及び感染性心内膜炎と診断され、同月二七日には三尖弁形成術、心室中隔欠損孔閉鎖等の手術が行われた(本件手術一)。執刀医はB医師(以下「B医師」という。)であった。
ウ 本件手術一中に使用した針の数があわなくなり、同日のうちに針の探索・除去のために再度体外循環下に心臓(右心房)が切開され、本件針の摘出が試みられた(以下、当該手術を「本件手術二」という。)が、血液が多量に噴出したこと等から本件針の発見には至らず、B医師はそれ以上の体外循環の継続は出血傾向の問題などもあり無理と考えて、本件針の摘出が得られないまま本件手術二を終了した。
エ 本件針は、右心房から下大静脈へ移動し、さらに一二月八日までには肝静脈に入り込み、より深い位置へと移動した。これを受けてB医師は、本件針を外科的に摘出することは困難であるが、本件針が体内に遺残していることによる悪影響はほとんどないと判断した。
オ 平成二三年一月一一日及び同年二月二五日に撮影したCT検査画像における本件針の位置は、一二月八日に撮影したCT画像における本件針の位置と同じであった。
カ 原告は平成二三年三月一一日、東日本大震災の影響によって、被告病院から被告が設置・運営するc病院に移動したが、同月二七日に同病院を退院した。
キ 平成二三年六月一五日、原告は被告病院を受診し、CT検査を受けたところ、当該CT画像における本件針の位置は一二月八日に撮影したCT画像における本件針の位置と同じであることが判明し、B医師は、本件針が体内に遺残していることが出血や感染の原因となることはほぼないものと診断した。
ク 平成二五年四月八日、原告は訴外独立行政法人国立病院機構埼玉病院の消化器外科を受診し、C医師(以下「C医師」という。)の診察を受け、同年五月一三日に血管造影剤を注入した上でCT検査を受けた。C医師は、本件針は従前と移動していない旨等を原告に説明した。
(3) 本件針の性状
本件針は、医療用縫合針(ポリプロピレン製の糸にステンレス鋼(ニッケル、クロムを含む。)製の細い針が接合された医療用品。ジョンソン・アンド・ジョンソン社製。)であり、針は円弧を描いており、全長は約一cmである。
(4) 原告による請求
原告は被告に対し、平成二三年八月八日付けの「ご通知」と題する書面で本件針の遺残について損害賠償請求を行い、同書面は同月九日に被告に到達した。
二 争点
(1) 本件針の今後の移動可能性及び体内に遺残していることの影響
(2) 争点(1)を前提とした損害額
三 争点に関する当事者の主張
(1) 争点(1)(本件針の今後の移動可能性及び体内に遺残していることの影響)について
ア 原告の主張
(ア) 主位的主張
原告は、体内に本件針が遺残したことによって、今後本件針が身体にいかなる影響を与えるか予測がつかなくなった。
原告は、肝臓内に本件針が入っているので衝撃に耐えられないとB医師から告げられており、このことからすると、人に押されること等により針が動き出す可能性もあり、そうすると生命の危険があるため外出もままならず、電車に乗って通勤することもできないため通常の社会人として働くことが不可能になってしまった。
また、本件針が体内に遺残していることでいつ死亡するかわからない状況であり、原告は絶えず死の恐怖にさらされている。
(イ) 予備的主張
C医師は原告について、本件針の移動の可能性はないと思われると診断したものの、本件針の摘出のためには肝臓の血管を傷つけるリスクを冒す必要があり、加えて肝臓を四〇%切除する必要がある旨を原告に説明した。
原告としては、本件針の移動の可能性が全くないとは言えない以上、本件針が摘出されない限り心から安心して生活することはできないところ、自己の肝臓を四〇%切除しない限り手術前の状態に戻って安心して暮らすことはできなくなったという悪影響が生じている。
イ 被告の主張
本件針は手術直後には下大静脈付近に存在していたが、本件手術一、二から一一日後の一二月八日には肝臓内の静脈内に移動し、本件手術一、二から約三か月後及び約六か月後においてその位置は移動しておらず固定していた。本件針が現在肝臓内の血管内に長期にわたり固定していることを考慮すると、今後針がさらに血管内を移動する可能性は小さいと考えられる。
本件針はステンレス鋼製針と化学繊維製糸で構成されていることを考慮すると、本件針が体内に遺残しても、そのことによって感染の可能性が生じ、あるいは感染が増大する危険性はなく、あっても極めて小さいと判断される。本件針はその周囲の組織と同じ外力を受けるので、原告の身体に外力が加わっても、本件針が存在するためにその周囲の組織に特段の傷害が及ぶことは考えられない。また、本件針が移動する可能性は小さいと判断されるが、仮に移動するとしても、その移動は緩徐に行われると推測され、移動に伴い血管壁等の組織が損傷を受けても、生体内の生理的修復機能が作用して出血などは起きないものと考えられる。
したがって、本件針が肝臓内の血管内に存在していることによって衝撃に耐えられないということはなく、被告病院の担当医師が原告に対しそのような説明をしたことはない。原告の現状は生命の危険性のないものであって、原告が死の恐怖を払しょくすることができないとしても、それは担当医師の医学的な根拠に基づく説明を全く無視した原告の主観的な受け止め方であり、医学的な根拠を欠くものである。医学上本件針の遺残による原告の身体への影響は全く存在しない。
(2) 争点(2)(争点(1)を前提とした損害額)について
ア 原告の主張
(ア) 既発生の財産的損害 一八万八七一〇円
原告は、本件針の身体への影響を調査するため、埼玉県立循環器・呼吸器病センター、東京大学医学部附属病院、国際医療福祉大学、独立行政法人国立病院機構埼玉病院を受診し、それぞれ以下の支出をした。
a 埼玉県立循環器・呼吸器病センター 六万二九三〇円
(a) 受診料 一万二九一〇円(四回分)
(b) 交通費 〇円(自家用車使用)
(c) 付添費 一万三二〇〇円
ただし、一回につき三三〇〇円として計算した額であり、いずれも原告の父が付き添った。
(d) 通院慰謝料 三万六八二〇円(四回分)
ただし、一回につき九二〇五円として計算した額である。
b 東京大学医学部附属病院 五万六一五五円
(a) 受診料 五六九〇円
(b) 交通費 三万七九六〇円(鉄道利用)
ただし、原告の夫の分も含む。
(c) 付添費 三三〇〇円
ただし、原告の夫が付き添った。
(d) 通院慰謝料 九二〇五円
c 国際医療福祉大学病院
(a) 受診料 八一〇円
(b) 交通費 三一五〇円
ただし、自家用車で高速道路を利用した額である。
(c) 付添費 三三〇〇円
ただし、原告の夫が付き添った。
(d) 通院慰謝料 九二〇五円
d 独立行政法人国立病院機構埼玉病院 五万三一六〇円
(a) 受診料 一万三九五〇円
(b) 交通費 一万四二〇〇円
ただし、通院した二回につき自家用車で高速道路を利用した額及び駐車場利用料金の合計額である。
(c) 付添費 六六〇〇円
ただし、一回につき三三〇〇円として計算した額であり、いずれも原告の夫が付き添った。
(d) 通院慰謝料 一万八四一〇円
ただし、一回につき九二〇五円として計算した額である。
(イ) 将来発生する損害 六六六万五八二〇円
本件針の遺残による疾患が発生していないか、本件針が移動していないかという経過観察が将来にわたって必要であることは明らかであり、将来も経過観察を受けるための費用として、原告の平均余命四五年の間、二か月に一回の割合でCT検査を受ける費用及びそれに必要な通院交通費、通院付添費、通院慰謝料の損害が生じる。CT検査費用は一回あたり二万円が、通院交通費については一回あたり一万五〇〇〇円が、通院付添費については一回あたり三三〇〇円が、通院慰謝料については一回あたり九二〇五円が発生する。また、一人では通院できないので、交通費については二人分の交通費がかかる。したがって、損害の額は(二万円+一万五〇〇〇円×二+三三〇〇円+九二〇五円)×六×一七・七七四一(四五年のライプニッツ係数)=六六六万五八二〇円である。
(ウ) 本件針の遺残による慰謝料
a 主位的主張 三三六〇万円
(a) 主張内容
原告は、本件針の遺残により、常に死の恐怖にさらされている。原告にとっては、いつ本件針が動き出すかわからず、人に押されたり転倒したりといったはずみで針が動き致命的なことにならないかといった事について怯えて毎日を過ごしており、毎晩のように夢でうなされるなど、その苦痛は生きながら死の恐怖を味わわなければならないというものであって、死亡よりも著しい苦痛である。また、家族を含めた周囲に自分の体を心配させることへの精神的負担に被告病院の心ない態度が相まって、原告は二度にわたり自殺未遂をするに至った。就労についても、本件針について話をした途端に就労を断られることが続き、やむを得ず本件針については伏せたところ現在の就労場所へ就職することができたが、依然本件針の存在が露見した場合に解雇される恐怖に怯えながら就労せざるを得ない状況である。
このような苦痛を慰謝するに足りる慰謝料は、死亡慰謝料より高額であるべきで、後遺障害一級の慰謝料である二八〇〇万円相当額は少なくとも慰謝料として認定されるべきである。
(b) 慰謝料増額事由
本件では、① 病院の過失態様が悪質であること、② 事故後の医師や医療機関の態度が悪いこと、③今後の損害発生可能性が不明であることの三点の慰謝料増額事由が存し、少なくとも(a)の額に二割の増額がなされるべきである。
①については、ⅰ 患者の体内に異物を残さないことは医師及び医療機関において最も基本的な義務であり、それにもかかわらず、針という身体侵襲の可能性が極めて高い危険な物を血管内という体内出血の可能性の極めて高い場所に遺残したという高度に重大な注意義務違反を犯した点が挙げられる。さらに、ⅱ B医師が針の紛失に気がついた後、原告を再度手術室に入れて原告の身体を切開し針の捜索を行ったことは、針の遺残という被告の過失行為を解消する目的の下に生命に対する重大な危険がある大手術を受けたばかりであった原告の生命を危険にさらす行為にあたる点が挙げられる。
②については、ⅰ 平成二三年二月二五日の説明時にB医師が、針が血管を突き破る可能性について認識していたにもかかわらず原告に対して説明義務を尽くさず必要な情報提供をしなかった点、ⅱ 退院時(平成二三年三月一九日)にB医師は「何も問題ない」と説明したが、その後被告病院に問い合わせると看護婦らに腹筋やMRIを控えるように言われるなど説明が矛盾した点、ⅲ 被告病院の看護婦らが原告に対し否定的な発言をした点、ⅳ 被告から原告に対し一度も謝罪がない点、ⅴ 訴訟提起に至っても、提示された損害賠償額が二〇万円と著しく低い点が挙げられる。
③については、原告の不安が現実化して本件針による新たな損害が発生する可能性もゼロではない点、すなわち通常の体内遺残物なら異物を除去した後に判決に至るのに対し、本件針は除去できていないのであって、今後損害が発生する可能性がある状態で判決を受けなければならないという意味で原告の精神的負担が大きいという点が挙げられる。
b 予備的主張 二三三八万円
C医師は、原告を診察した際、肝臓の血管を傷つけるリスクを冒して肝臓を四〇%切除すれば本件針を摘出できる可能性がある旨を原告に対し説明した。当該説明を前提にしても、原告の肝臓を四〇%切除しない限り本件針を気にせず生活できる手術前の状態に戻ることはできなくなったのであり、原告は、通常の健全な一般人と異なり、本件手術一を受けた既往歴のある患者であることから、肝臓の切除術に伴うリスクないし負担は一般人と比較して極めて重大なものである。このことを損害評価に引き直せば、原告の労働能力喪失率は「胸腹部臓器の機能に著しい障害を残し、終身労務に服することができないもの」と評価されるべきであり、後遺障害等級としては三級(労働喪失能力一〇〇%)である。
このような後遺障害に対する慰謝料としては、後遺障害三級相当の慰謝料である一九九〇万円が相当である。
さらに、a(b)の各慰謝料増額事由があり、これらは上述の慰謝料を二割増額する事由にあたるので、全体として慰謝料は二三三八万円である。
(エ) その他の事由による慰謝料 二〇〇万円
被告は、生命が危ぶまれる重症で入院中の原告に対し粗雑な看護を行い、原告は著しい精神的苦痛を受けた。とりわけ、① 平成二三年三月二六日にリハビリ担当の看護師を待っているうちに眠ってしまったところ、D看護師にベッドを持ち上げられて揺さぶられ死んでしまうのではないかという激しい恐怖感を覚えたこと、② 平成二二年一二月頃、痰が詰まってナースコールをしたにもかかわらず、被告職員が誰も助けに来てくれず仮死状態に陥ったこと、③ 原告の身体に取り付けられているコードが首に絡まって窒息しそうになりナースコールをしても誰も来ず、気絶したことが原告の被告に対する不信感を募らせた。これらの行為によって原告に生じた精神的苦痛を慰謝するには、少なくとも二〇〇万円の慰謝料が相当である。
(オ) 弁護士費用 四二四万五四五三円
(ア)ないし(エ)((ウ)については主位的主張)の合計額四二四五万四五三〇円の一割である四二四万五四五三円である。
(カ) 請求額 四二〇〇万円
a 既発生の財産的損害 一八万八七一〇円
b 経過観察に必要な費用 四〇一万一二九〇円
c 慰謝料 主位的に三三六〇万円、予備的に二三三八万円
d 弁護士費用 四二〇万円
イ 被告の主張
本件針が原告の身体に遺残したことについて、被告が原告に対し診療契約上の債務不履行に基づき損害賠償責任を負担していることは認める。しかし、以下の(ア)、(イ)のとおり否認ないし争う。
(ア) 将来発生する損害について
本件針が体内に遺残しているため、本件針の状況について定期的に検査する必要があることを認める。そのためには、定期的にCT検査を行って経過を観察することになるが、CT検査は被爆の問題があるので、術後六か月にわたり本件針が移動していないことが判明した平成二三年六月以降においては、特段の事情が認められない限り、年に一回程度の頻度でCT検査を行って観察すれば足りる。CT検査の費用は約一万円であり、CT検査のための通院に介護者の付添は不要である。CT検査のための通院に要する交通費は公的交通機関を利用した場合の費用相当額を損害と考えるべきである。
なお、原告は、本件針の遺残とは無関係に、心疾患のため定期的に検査(心電図・胸部画像検査・採血・心臓超音波検査)を受ける必要があるので、この点を考慮することも必要である。
(イ) 慰謝料について
上記(1)イに記載したような事情を勘案すれば、本件針の体内遺残による精神的苦痛に対する慰謝料としては、二〇万円が相当である。
なお、原告が主張する被告病院における粗雑な診療はいずれも存在しない。原告はコードが首に絡まって窒息しそうになったと主張するが、輸液ライン、ドレーン、ナースコールのコードは首に触れることがあっても首に巻き付くように絡むことはない。また、看護師は眠っている患者に対し声を掛けてから起こすのであって、いきなり患者の眠っているベッドごと揺さぶることはなく、また看護師がベッドを持ち上げることは物理的に不可能である。
第三当裁判所の判断
一 認定事実
前提事実、証拠<省略>によれば、以下の事実が認められる。
(1) 被告病院における診療経過、本件針の移動経緯等
ア 一一月二七日午後〇時五七分頃、本件手術一が開始された。補助者はE医師であった。同日の午後一時四一分頃から、大動脈遮断下で三尖弁にある疣贅の切除、心室中核欠損のゴアテックスパッチ使用による閉鎖、自己心膜を使用した三尖弁の形成が行われ、同日午後四時三分頃、大動脈遮断が解除された。
イ 同日午後四時二七分頃、B医師は再び大動脈を遮断したが、その頃、看護師からB医師に対し、本件手術一に使用した針の数が合わないという報告がなされた。B医師は手術操作の続行をとりやめ、X線を用いた透視の使用や胸部写真撮影を行って針の検索をしたが、本件針を発見することはなかった。そこでB医師は、本件針の探索を続けつつも、本件針は手術を行っている場所にはないと判断して手術手技を続行した。
ウ 同日午後五時七分頃、B医師は心筋リードを原告の左鎖骨下の皮下に留置した。
エ 同日午後七時五分頃、原告は本件手術一終了に伴い自己の病室に帰室した。午後七時三〇分頃、B医師は原告の家族に対し、術後説明を行ったが、その際本件針の遺残について言及することはなかった。
オ 同日午後八時三〇分頃、原告はX線撮影を受けた。撮影直後は、当該X線画像において本件針は発見されなかったが、その後同画像を見返したところ、背骨の下の方に本件針らしき影があるとの診断がなされた。
カ 同日午後九時九分頃、原告は腹部CT撮影を受けた。当該画像によって本件針は肝臓の静脈の背側の心臓の傍の下大静脈内にあることが判明した。
キ カの直後、カの結果を踏まえてB医師は原告の当時の夫に対し、原告の病状説明を行い、針の捜索のために再度手術を行うことの承諾を得、同日午後一〇時三一分頃から一一月二八日午前〇時四一頃まで、本件手術二が行われた。しかし、本件針の摘出には至らなかった。
ク 一一月二九日午前七時四一分頃、腹部CTの撮影が行われた。当該画像において、本件針はカと比較してほとんど動いていなかったが、B医師はカと比べると下大静脈から少し離れ腰静脈にさらに入っているようであり、当該移動は重力によると思われると診断した(なお、その後の本件針の移動経緯に鑑みると、「腰静脈にさらに入っている」とは本件針が完全に腰静脈に移ったことを意味するのではなく、下大静脈から腰静脈の方向に若干移動したことを指すものと認められる。)。
ケ 原告は、平成二三年二月二五日、B医師から本件針の遺残について初めて知らされた。
(2) 医学的知見
ア 本件針及びそれに付属する糸の材質について
本件針本体はステンレスを中心とした合金であり、これは冠状動脈狭窄の治療の際に使用される冠動脈ステントと同様の素材である。
本件針本体に附属している縫合糸は吸収されず、また組織内の酵素の働きによって分解されることも弱体化することもない。縫合糸の材質はモノフィラメントであるため感染を起こしにくく、汚染創や感染創に使用しても、後の洞形成や縫合部の異物反応はほとんど起こらない。
イ 冠動脈ステントの体内留置による変化・影響について
冠動脈ステントは体内に永久的に留置される医療器具である。ステント留置後約二週間を経ると、ステント周辺部には幼若な平滑筋細胞の出現が認められるようになり、一か月を過ぎると、ステントは増殖した平滑筋細胞群とそれらが産生する細胞外基質により構成される新生内膜によってほぼ全体にわたって覆われる。さらに、留置後二、三か月が経過すると、新生内膜がステントを覆うことによってステントが血液と直接接触しなくなる。
二 争点(1)(本件針の今後の移動可能性及び体内に遺残していることの影響)について
(1) 本件針が原告の体内に遺残している影響等についての医師の意見
前提事実、証拠<省略>によれば以下のとおり認められる。
ア 被告病院に勤務する外科医師であるF医師(以下「F医師」という。)の意見(平成二四年五月二日時点)の概要
(ア) 本件針は現在肝静脈の細い枝の中とおそらく一部肝臓実質の中に存在している。本件針は湾曲のある針であり、このような針が細い血管に入った場合、その先端が血管壁に食い込み抜けにくい状態に陥ると考えられる。また、肝臓は心臓と異なり拍動のない臓器であるから、移動の可能性は極めて低い。
(イ) 本件針が体内に遺残していることについて何ら注意する必要はないと思われ、転倒、飲酒も問題ないと考える。
(ウ) 本件針は元来体内に留置するものではないため、詳細な情報はないものの、針の素材であるステンレスは医療行為において体内に植え込まれることがあることに鑑みて、医療行為の制約や不都合はないものと考える。腹部ステントグラフトの素材であるステンレスを中心とした合金を使用したクック社の製品を例にとると、三テスラーという強い磁場を使用したMRIで〇・八度の上昇というデータがあり、これ自体は生体において何ら問題がないためMRIの検査を制約するものではない。本件針の大きさは当該クック社の製品と比べて圧倒的に小さく、MRIによる影響はほとんどないと考える。
(エ) 原則として経過観察する必要はないと考えられる。おそらく一年後に一度検査を行い位置のずれがなければ、生涯変化はないと思われる。
イ 被告の協力医であるG医師(埼玉医科大学国際医療センター心臓血管外科教授。以下「G医師」という。)の意見(平成二四年九月二〇日時点)の概要。
(ア) 本件針の位置については一二月八日の時点で肝静脈の左葉のほぼ真ん中に迷入して動かない状態となっており、その後半年にわたりCT画像上本件針の位置が変わっていないことから、本件針そのものは肝静脈の組織に取り込まれて動かない状態になっていると考えられる。本件針は曲針であること、肝臓は心臓や肺のように動く臓器ではないこと、流れの緩やかな静脈であることから、移動の可能性は極めて低いと考えられる。
(イ) 本件針が移動するか否かが日常生活の制約に深く関与すると考えるところ、(ア)のとおりであるから、日常生活において本件針が留置されていることによる危険性は極めて低いと考える。したがって、混雑する電車への搭乗、転倒、衝突が障害となることは考えにくく、飲酒が制限されることも極めて考えにくい。
(ウ) 本件針は元来体内に留置するものではないため詳細の資料はないが、寒天ブロックに刺入した不安定な縫合針の固定ではMRI検査後に縫合針が移動していたことから、遺残した針が完全に固定されない状態であれば針の移動の可能性がある。針の状態については(ア)のように考えるので問題ないとは思われるものの、あくまで実験データであるため、安全性を考慮すればMRI検査は行わない方が良いと考えられる。その他の検査や医療行為については制約はないと思われる。
(エ) 基本的には術後一年経過して針が動いていないことがCT画像上確認できれば、それ以上本件針のためにCTによる検査は必要ないと考える。
ウ 原告を平成二五年五月一三日に診察したC医師の意見の概要。
(ア) 本件針は恐らく血管内皮に覆われており、移動する可能性はないと思われる。
(イ) 特に治療は不要と思われ、生活制限は特になく、運動、食事、飲酒などの制限も不要と思われる。
(ウ) 本件針は血管壁の中にあるのでカテーテルによる摘出はできず、手術する場合、肝臓を四〇%切除することになるが、太い血管にも触れることになるので、体への負担を考えれば何もしない方がよい。切除した肝臓は縫合して癒合する臓器ではないため、本件針の摘出手術後は原告は肝臓を四〇%失った状態となる。
(2) 本件針の今後の移動可能性について
(1)の認定によれば、本件針の今後の移動可能性について、F医師、G医師、C医師の三者の意見が一致しており、移動の可能性は極めて低い、又はないとしている。そして、いずれもその理由として本件手術一の三か月後、六か月後あるいは平成二五年五月の時点のCT画像上、本件針が肝臓の静脈内に位置して動いていないことを挙げている。
本件針本体の材質がステンレスを中心とした合金であり冠動脈ステントと同種の材質であること(一(2)ア)から、本件針が原告の体内に遺残された後、本件針の周囲でいかなる生体反応が生じるかは冠動脈ステントを体内に留置した場合と同様に考えることができる。そして、冠動脈ステントを体内に留置した場合、留置後約二週間でステント周辺部には幼若な平滑筋細胞の出現が認められ、一か月を過ぎると、ステントは増殖した平滑筋細胞群とそれらが産生する細胞外基質により構成される新生内膜によってほぼ全体にわたって覆われるようになり、留置後二、三か月が経過すると、新生内膜がステントを覆うことによってステントが血液と直接接触しなくなるという医学的知見(一(2)イ)に照らすと、本件針の遺残後一か月を過ぎれば針が動くことはほぼなくなり、二、三か月が経過すれば本件針は新生内膜に覆われ、いわば血管壁に取り込まれる形で固定されるため動く可能性は著しく低くなると予想される。原告について撮影されたCT画像上、本件針は一二月八日までに下大静脈から腰静脈へ、さらに肝臓内の細い血管へと大きく移動したことが認められるが(第二の一(2)エ)、これは本件針が遺残されてから一一日後と、まだ遺残後二週間が経過する以前の事象であり、本件針の周囲に幼若な平滑筋細胞の出現さえ見られなかったと思われる際の事象であるから、このような時期に本件針が移動したことは上記医学的知見から予想される経過と矛盾するものではない。本件針の遺残後約一か月と一週間が経過した平成二三年一月五日、約二か月が経過した同年二月二五日、約六か月が経過した同年六月一五日、約二年六か月が経過した平成二五年五月三日の本件針の位置は一二月八日と同じであって、同日以降本件針は移動していない。当該経過は上記医学的知見から予想される経過と一致する。
そうであれば、医学的知見による経過の予想は実際の経過によっても裏付けられているので、本件針は血管内壁に取り込まれて動かない状態となっており、今後本件針が移動する可能性は極めて低いと認定できる。
(3) 本件針が体内に遺残していることの影響について
ア 日常生活上の影響
本件針の体内への遺残による日常生活上の影響について、F医師、G医師、C医師の三者の意見が一致しており、衝突や混雑した電車に乗ることや飲酒等に制限は生じない、ないし生じる可能性は極めて低いとしている。
上記アで認定したように、本件針が血管内壁に取り込まれて動かない状態になっていると考えられることからすれば、日常生活において想定される動作で本件針が動いて原告に何らかの影響が生じるとは考え難く、本件針が遺残していることによる日常生活上の行動制限は存しないものと認定できる。証拠<省略>によれば、本件針は肝臓の中心付近に入り込んでおり、したがって、原告の体が他人や何らかの物に衝突するなどして物理的な衝撃を受けたとしても、本件針もそれを覆う肝臓の臓器と同様の衝撃を受け同様の振動をするのであって、本件針だけが動き、肝臓を突き破って突出するなどの事態は想定されない。また、肝臓は心臓のように拍動したり、肺のように収縮したりする臓器ではないから、その意味からも肝臓の内部に遺残されている本件針は動きにくいと言える。したがって、本件針は、肋骨と胸部の筋肉・脂肪、肝臓の臓器に守られた、いわば身体中の血管の中でも最も安全な部類の場所に安置されているのであって、医学的に原告に行動制限を及ぼすものではないと認められる。
ただし、本件針の遺残によって心理的な負担が生じていることは明らかであり、その意味では日常生活上の影響が生じていると言えるので、当該心理的負担の点については損害(慰謝料)の部分で後述する。
イ 医療行為上の制約
MRI検査が可能か否かについてG医師は、寒天ブロックに刺入した不安定な縫合針の固定ではMRI検査後に縫合針が移動していたことから、遺残した針が完全に固定されない状態であれば針に移動の可能性があること及び、原告について問題ないとは思われるものの、あくまで実験データであるため、安全性を考慮すればMRI検査は行わない方が良い旨を指摘している。そこでMRI検査の制約の有無について検討するに、(2)の認定からすれば、本件針は血管内皮に取り込まれる形で固定されており「完全に固定されていない状態」とは思われないこと、F医師が腹部ステントグラフトの例を挙げMRI検査による移動の可能性を否定していることに照らして、医学的にはMRI検査を行うことについて問題がない可能性が高いと言える。
なお、原告には心臓のペースメーカーリードが留置されているため、本件針が存在せずともMRI検査は受けられない可能性もあり(一(1)ウ)、その意味において、現在原告にMRI検査の制限があったとしても、それが本件針の遺残によるものではない可能性も存する。
ウ その他感染等が生じる可能性
本件針の材質はステントのように体内に留置されることもある物質であること(第三の一(2)ア)、手術のために滅菌消毒されていたと思われること、現在まで原告には本件針による感染等が生じていないことからすれば、本件針が体内に遺残されることによって今後周辺組織の細菌感染等が生じるおそれは極めて低いと言える。
さらに、縫合糸については組織内での吸収こそされないものの、感染を起こしにくい性状のものであるから(第三の一(2)ア)、縫合糸が体内にとどまることによって感染のおそれが高まっているとも認められない。
エ 本件針の摘出の必要性、可能性
(2)、(3)アないしウの検討から、本件針を体内に遺残させたまま生活しても特に問題はないため、本件針を摘出する手術を行う必要があるとは認められない。
ただし、原告が本件針の摘出を望む心情自体は理解できるところ、本件針を摘出しようとすれば、肝臓を四〇%切除しなくてはならないのであって((1)ウ(ウ))、この点によって原告に生じる精神的負担については損害(慰謝料)で後述する。
三 争点(2)(争点(1)を前提とした損害額)
(1) 前提事実、証拠<省略>によれば、以下の事実が認められる。
ア 本件手術一前の原告の生活
(ア) 平成二二年当時、原告は当時の夫と共に福島県d市に二人で暮らしていた。
(イ) 原告は、婦人服販売店で店長をしていたことがあり、婦人服販売に関する店頭ディスプレイの資格を有している。平成二二年当時、原告は結婚相談所に勤務して働いていたが、一一月三日に体調不良を理由に退職し、その後は自宅で静養していた。
イ 被告病院及びc病院退院後の原告の生活
(ア) 原告はc病院退院時、重症肺炎の重篤な状態を脱し、自力歩行も何とか行えるようになっていたが、退院後も肺炎の治療を続ける予定であった。当時原告はクラリシッドとイトリゾールの服用をしており、平成二三年三月末まででイトリゾールの服用を中止し、同年四月、五月はクラリシッドのみを服用する予定であった。
(イ) 平成二三年三月一九日時点での原告の状況は、重症肺炎はほぼ収束された状態であり、感染性心内膜炎は治癒し心室中隔欠損孔も手術により閉鎖され、破壊されていた三尖弁も修復された状態であった。しかし、感染性心内膜炎の影響で肺の一部が破壊されその跡が残っており、肺の機能はおおむね保たれているものの強い労作に耐えられるかどうかは不明であり、経過観察が必要である状態であった。
(ウ) 平成二三年六月一五日時点での原告の状況は、心臓について房室ブロックは認められないものの、今後も生じないかを定期的に観察することが必要な状態であった。動悸、息切れ、呼吸困難、胸痛、血痰、チアノーゼ等は見られなかった。そのような状況を踏まえB医師は原告について、「家庭内での普通の日常生活活動若しくは社会での極めて温和な日常生活活動については支障がないが、それ以上の活動は著しく制限されるもの、又は頻回に頻脈発作を繰り返し、日常生活若しくは社会生活に妨げになるもの」と診断し、障害の程度は身体障害者福祉法別表に掲げる四級相当と判断した。障害の程度の認定には変遷があったものの、同年九月二八日にも上記身体状況は変わらなかった。
(エ) 重症肺炎の予後には通常一年程度を要する。その間、原告は埼玉県e市に所在する両親の家に身を寄せ、静養した。
(オ) 原告は、平成二三年一二月頃、本件針の遺残によって今後どのような事態が生じるか不明であると不安に思い、普通に外出することも、電車に乗って通勤することも、人混みの中を歩くことも怖くてできない状態であり、この状態はc病院退院後から継続していた。また、原告は本件針の遺残によって、不眠症に長く悩まされた。
(カ) 重症肺炎予後から回復した後、原告は資格等を生かして仕事をしようとの意志の下、面接を受けたり、事務の仕事等への就職を人づてに依頼したりしたが、本件針の遺残の事実を告げるといずれも断られ、就労することはできなかった。
(キ) 原告は遅くとも平成二四年八月までに、現在の夫と婚姻をした。
(ク) 平成二四年九月頃及び平成二五年二月頃、原告は本件針の遺残等を苦にして自殺を図ったが、いずれも未遂に終わった。
(ケ) 原告は、本件針の遺残による影響を調べるため、各所の病院に通った。
具体的には、① 平成二四年五月二八日、同年七月二三日、同年九月三日、同年一〇月三〇日には埼玉県立循環器・呼吸器病センターに、② 同年一〇月二六日には東京大学医学部附属病院に、③ 同年一二月一一日には栃木県にある国際医療福祉大学病院に、④ 平成二五年四月八日、同年五月一三日には独立行政法人国立病院機構埼玉病院に通った。
ウ 原告の現在の生活
(ア) 原告は原告の住所地にて現在の夫と二人で暮らしており、買い物や料理、洗濯等の主婦としての労働は可能であり、自動車の運転もできる。
(イ) 現在では、電車、バス等の公共交通機関も利用できるが、混雑等に対する心理的負担がある。
(ウ) 原告は平成二五年九月九日、平成二六年三月末までの期限付きで病院内の図書管理の仕事にパートとして就職した。当該就労先に、原告は本件針の遺残の事実を告げておらず、告げれば解雇されるのではないかとの不安を感じている。
(エ) 原告はもともとスポーツ(バスケットボール、テニス、ゴルフなど)が趣味であったが、本件針の遺残後、スポーツをしていない。
(2) 既発生の財産的損害について
ア 通院付添費
通院付添費については、症状等に鑑みて必要と認められる場合には被害者本人の損害として肯定される。付添の必要性については、医師の指示があれば原則として肯定され、医師の指示がなくとも、受傷の部位・程度によって客観的に付添の必要性が認められる場合には肯定される。
原告が通院する場合の付添につき医師からの指示はないが、原告の心情としては本件針の遺残により日常生活動作に支障が生じていた時期であり((1)イ(オ)、(ケ))、原告が針は動かないという診断書を入手したのは平成二五年五月一三日になってからである。
このような事情に鑑みれば、本件針の遺残により原告が一人では行動できない精神状態となり、通院の際、父ないし夫が付き添わざるを得なかったのはやむを得ないこと、通常人の感覚からして肝臓に針が入っていて未だ確定的な診断書を得ない段階では一人で外出するのは危険と感じるであろうこと、原告の当時の居住地から栃木県、埼玉県、東京都方面の病院を受診するためには主に自動車で通うことが考えられるところ、原告自身が運転することは心理的にも困難であったと思われることなどから、客観的に通院の付添の必要性が認められる場合と言え、通院付添費は相当因果関係のある損害と解する。一日三三〇〇円の請求額も相当であると認めるので、後記エで記載するとおりの額を認める。
イ 付添人の交通費
一般に、付添の必要性が認められるときには、その近親者が付添のための通院に要した交通費も事故と相当因果関係のある損害として賠償が認められると解され、アから、付添人の交通費は相当因果関係のある損害と認められる。証拠に照らして、原告の請求額に不合理な点は見受けられないので、後記エで記載するとおりの額を認める。
ウ 通院慰謝料
原告は、「既発生の財産的損害」として各回の通院慰謝料を請求しているが、これについては、後述の慰謝料の認定において、何回も病院に通院して自己の身体的状況を確かめざるを得ない状況になったことも勘案してその額を定めるべきであると解する。
エ まとめ
以下の(ア)ないし(エ)の合計一一万五〇七〇円が本件針の遺残と相当因果関係のある既発生の損害と認められる。
(ア) 埼玉県立循環器・呼吸器病センター 二万六一一〇円
a 受診料 一万二九一〇円
b 付添費 一万三二〇〇円(三三〇〇円×四回)
(イ) 東京大学医学部附属病院 四万六九五〇円
a 受診料 五六九〇円
b 交通費 三万七九六〇円
c 付添費 三三〇〇円
(ウ) 国際医療福祉大学病院 七二六〇円
a 受診料 八一〇円
b 交通費 三一五〇円
c 付添費 三三〇〇円
(エ) 独立行政法人国立病院機構埼玉病院 三万四七五〇円
a 受診料 一万三九五〇円
b 交通費 一万四二〇〇円
c 付添費 六六〇〇円(三三〇〇円×二回)
(3) 将来発生する損害について
ア 将来の診察、検査の必要性
医学的に本件針は今後動かないであろうと認められることからすれば必要性・相当性がないという見方も可能ではある。しかし、針が体内に入ったまま生存している例は見当たらないことから、万が一の事態に備えるため、また原告の精神的な安定を確保するためにも、定期的な検査は必要と認められる。
検査の頻度については、被告も年一回程度は必要なのではないかと認めていること(第二の三(2)イ(ア))、あまり頻度が高いと被爆量の点で問題があり得ることから考えて、年一回のCT撮影が必要性・相当性のある範囲であると認める。
年一回のCT撮影及び診察にかかる費用については、CTを撮影し診断書の交付を受けた独立行政法人国立病院機構埼玉病院(平成二五年五月一三日)の受診料が一万一五三〇円である(診断書料三一五〇円込み)こと等からして、一回のCT撮影及び診察にかかる費用(自己負担分)は約一万円であると認められる。
したがって、CT撮影及び検査にかかる将来の費用は、一万円×一七・七七四一(原告の平均余命四五年のライプニッツ係数)として計算した額である一七万七七四一円と認める。
イ 通院交通費
将来の治療費の賠償が認められる場合には、治療行為を受けるための通院交通費の賠償も認められる。しかし、本件で必要となる診察行為はCTを撮影し、本件針が動いていないかを確認する行為だけであって、原告が居住する福島県内で診察を受けられない特段の事情は見受けられない。さらに、原告は心臓の定期健診のため病院に通う必要があり((1)イ(ウ))、その際に同時にCTの撮影を受けることが可能である。
したがって、通院交通費の請求は認められない。
ウ 通院付添費
平成二五年五月一三日にC医師の診断書の交付を受け、本件針の遺残による不安感、心理的負担感は幾分か減少したと認められること、現に日常生活を営んでおり、電車、バス等の公共交通機関を使用することの心理的負担が軽減したこと((1)ウ(イ))、平成二五年九月九日からは就職して稼働していること((1)ウ(ウ))からすれば、将来の通院については付添なく通うことができると認められ、将来の通院についての付添費は本件針の遺残と相当因果関係のある損害とは認められない。
エ 通院慰謝料
上記(2)ウと同じである。
オ まとめ
以上から、一七万七七四一円が本件針の遺残と相当因果関係のある将来発生する損害と認められる。
(4) 慰謝料について
本件針の遺残は、手術時に患者の体内に異物が遺残されることがないように注意するという医師の基本的な注意義務に違反した行為であり、いかに本件手術一が救命可能性の低い困難な手術であったといえども、本件針の遺残という過失の程度は決して軽いとは言えない。
上記認定したとおり、医学的には本件針は移動する可能性が著しく低く、摘出の必要性もないとわかっていても、通常一般人の感覚からして、自己の肝臓の中に針という鋭利な金属製の物質が遺残され存在し続けていることの恐怖感は大きいものと認められる。また、原告がB医師から本件針の遺残を初めて知らされた時に受けた精神的衝撃は大きかったものと推認される。原告が本件針の遺残によって、通常の日常生活を営むことが難しくなり((1)イ(オ))、二度の自殺未遂をするなど精神的に追い詰められ((1)イ(ク))、自己の状態を診断してもらうため複数の医療機関を受診したが((1)イ(ケ))、針の肝臓内への遺残という事象に照らして、こうした原告の抱いた恐怖心が同人の特殊な性格に起因するものであって過剰であるとの批判は当たらないものと考える。そして、原告のように体内に針が遺残した先例が見当たらない以上、本件針の存在によって将来どのような不利益が生じるか不明であるという原告の不安感は至極もっともであると認められる。その意味において、原告が本件針を摘出したいと思う心情も理解できるところであり、肝臓を四〇%切除しないと本件針が摘出できないと認められること(第三の一(1)ウ(ウ))からも精神的苦痛が生じていると認められる。したがって、医学的には本件針が移動せず、身体に与える影響や生活制限がないと言っても、被告は原告に生じたこうした精神的苦痛を慰藉するに足りる相応の賠償金を支払うべきであり、被告の提示した二〇万円という金額はあまりにも些少である。
そして、原告には上記のような不安感、恐怖感のみならず、現実に就労の機会を脅かされたという不利益による精神的苦痛も生じた((1)イ(カ))。原告は重症肺炎を患い、予後は術後一年程度を要し、静養せざるを得なかった((1)イ(エ))。しかし、その後は回復し就職の意欲を有していたにもかかわらず、本件針の遺残の事実を告げることにより就職先を得ることができなかった((1)イ(カ))。平成二五年九月九日、原告は幸いにも新たな就職先を得たが、秘密にしている本件針の遺残の事実を就労先に告げれば解雇されることを不安に感じていること((1)ウ(ウ))が認められ、こうした不安は、現在の雇用情勢に鑑みて首肯できる。そうであれば、原告には、本件手術一の後約一年間が経過した平成二三年一二月頃から現在の職場を得た平成二五年九月までの間は、本件針の遺残により現実に就労が制限されたことによる精神的苦痛が生じ、同月以降は、本件針の存在によりいつ解雇されるかわからないという精神的不安が生じていると認められる。
以上のような諸事情(本来不必要な本件手術二を本件手術一終了後速やかに受けることとなったことを含む。)、その他本件における一切の事情を考慮して、原告の慰謝料は七〇〇万円と認めるのが相当である。
さらに、原告は「その他の慰謝料」として被告病院の看護師らの不法行為を主張するが、原告が主張するような事実は本件証拠上認められない。
(5) 弁護士費用について
本件事案の内容、審理経過、認容額などから、(1)ないし(4)の合計額である七二九万二八一一円の約一割である七三万円が本件針の遺残と相当因果関係のある弁護士費用と認められる。
(6) 合計額
以上から、原告の損害額は八〇二万二八一一円と認められる。
第四結論
以上によれば、原告の請求は八〇二万二八一一円及びこれに対する請求の日の翌日である平成二三年八月一〇日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金を請求する限度で理由があるからその限度で認容し、その余の請求は棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六四条本文、六一条を適用し、仮執行宣言について同法二五九条一項を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 窪木稔 裁判官 山口信恭 仲田千紘)