さいたま地方裁判所 平成26年(ワ)983号 判決 2015年11月27日
原告
X
同訴訟代理人弁護士
小林猛
被告
株式会社Y
同代表者代表取締役
A
同訴訟代理人弁護士
山川亜紀子
同
齊藤裕太郎
同
岡田和樹
同訴訟復代理人弁護士
高橋茜莉
同訴訟復代理人弁護士
大田愛子
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
被告は、原告に対し、1890万円及びこれに対する平成25年7月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は、被告との間で雇用契約を締結し、被告の市場営業部大阪営業推進室長として勤務していた原告が、給与制度の改定による減給についてした同意は心裡留保又は錯誤等により無効であるとして、雇用契約に基づく賃金支払請求権に基づき、上記減給前後の給与の差額の合計390万円及びこれに対する退職の日の翌日から民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに、会議で上司から罵詈雑言を浴びせられ、うつ病と診断されて給与が劣る部署への異動を勧められるなどして退職を強要されたとして、不法行為による損害賠償請求権に基づき、1年間の基本給に相当する損害額1500万円及びこれに対する退職の日の翌日から民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
1 前提事実(争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実)
(1)ア 原告は、昭和62年3月に大学を卒業した後、同年4月、株式会社a1銀行(現在の株式会社a銀行。以下「a銀行」という。)に入行し、外国為替やデリバティブ商品の営業補助などの業務に従事していたが、平成19年5月、同行を退職した。(弁論の全趣旨)
イ 原告は、平成19年4月24日、被告との間で、次の内容を含む雇用契約を締結し、同年5月19日、被告に入行した。(書証<省略>、弁論の全趣旨、争いのない事実)
(ア) 就業期間
平成19年5月19日から期間の定めはない。ただし、就業後3か月間は、試用期間とする。
(イ) 従事すべき業務
インスティテューショナルバンキング部門のキャピタルマーケッツ部(同部は、後に市場営業部へ改名されたが、改名の前後を通じて、以下「市場営業部」という。)
(ウ) 役職
次長
(エ) 給与
月次給100万円及び住宅補給金Ⅰ月額25万円の月額合計125万円(年間報酬1500万円)とする。ただし、時間外手当は支給しない。
翌年以降の給与は、毎年5月1日に月次給を合意する。
(オ) 賞与
被告の業績及び原告の勤務成績により被告の裁量で原則として年1回支給する。
ウ 原告は、平成23年10月、市場営業部の大阪営業推進室長に就任し、単身赴任することになった。(弁論の全趣旨)
(2) 被告は、平成24年4月から、人事制度を変更することに伴い、各行員の位置付けを従前の1ないし9の等級からⅠないしⅤの等級(管理職層はⅠ及びⅡ)に変更することとし、給与も新しい等級に応じて見直すことになった。(書証<省略>、争いのない事実)
(3) 平成24年当時、B(以下「B」という。)は、被告の市場営業本部市場営業部長であり、C(以下「C」という。)は、被告の市場営業本部の本部長であった。(弁論の全趣旨)
(4) Bは、平成24年2月10日頃、原告に対し、新しい行員の位置付けによると、Ⅱ等級のaランクとなる結果、同年4月1日から原告の月次給を74万円、住宅補給金Ⅰを月額18万5000円とし、年間報酬を1110万円に減給となる旨(以下「本件減給」という。)通知した。(争いのない事実)
(5) 原告は、本件減給について同意するかに関して、平成24年2月16日はBと、同月24日はB及びCとそれぞれ面談をし、同月26日、「月次給と給与体系の改訂について」と題する書面(書証<省略>。以下「本件同意書」という。)の「私は、上記の内容を確認し、これに同意します。」という文言の下に署名押印をして提出した。(書証<省略>、争いのない事実)
(6) 原告は、平成24年4月から、本件減給を受けたが、同年9月までの間は、調整給が支給された。(争いのない事実)
(7) 平成24年9月10日、被告の東京及び大阪の市場営業部員全員が参加する電話会議(以下「本件定例会議」という。)が開催され、原告も出席した。(弁論の全趣旨)
(8) 原告は、平成24年10月13日、b医院を受診したところ、「気分変調症(軽度ウツ病)」と診断された。(書証<省略>)
(9) 原告は、人事部と異動先を相談し、東京の本店での勤務を希望していたことから、金融法人営業部の社内公募に自ら応募し、平成24年11月19日、同部に異動した。(争いのない事実)
(10) 原告は、平成25年6月30日、被告を退職して、同年7月、スイスに本店を有する大手外資系投資銀行であるc銀行に入行した。(争いのない事実)
2 争点
(1) 本件減給に対する同意の意思表示についての心裡留保の成否
(2) 本件減給に対する同意の意思表示についての錯誤の成否
(3) 本件減給の有効性
(4) 退職強要の存否及び不法行為該当性
(5) 未払賃金の額並びに損害の有無及びその額
(6) 損益相殺の可否
3 争点に対する当事者の主張
(1) 争点(1) (本件減給に対する同意の意思表示についての心裡留保の成否)
(原告の主張)
原告は、平成24年2月24日、C及びBと面談をした際、本件減給に同意しないこともある旨回答すると、Bは、「人事部に話してください。」と言い、Cは、「条件闘争で揉めている人を使っていくことはできない。他の人はみな同意書を提出しているのに、1人だけベースの高い人をどう評価していったらいいと思っているのか。」などと高圧的に述べた。かかる事情に照らせば、原告は、本件同意書を提出するに当たり、同意する意思がないことを知りながら、これを被告に提出し、被告としては、原告に本件減給に同意する意思がないことを知ることができたから、本件減給に対する同意は心裡留保により無効である。
(被告の主張)
B及びCは、原告が本件減給に同意せず被告を退職してしまうことを危惧し、本件減給に同意して被告に留まるよう説得していたのであり、原告に対して高圧的な態度をとった事実はない。そして、原告は、平成24年2月29日までに本件減給に同意するかの回答を求められていたが、期限が到来する前の同月26日、署名押印をした上で本件同意書を提出した。Bは、原告が本件同意書を提出したことに驚き、原告に対して「サインしたの。」と尋ねたところ、原告は、「弁護士と話してサインをすることにした。」と答えた。このように、仮に、B及びCが高圧的な態度をとったと認められたとしても、原告は、弁護士に相談した上で本件同意書に署名押印したのであるから、原告の同意が真意でないとは考えられないし、被告も、原告の同意が真意に基づくものであることを前提にしており、心裡留保が成立する余地はない。
また、原告は、陳述書(書証<省略>)において、「減給に同意せざるを得ないと判断しました。」「やむを得ず同意した。」と述べており、同意する意思で本件同意書を提出したのは、原告の供述からしても明らかであり、心裡留保の主張が成立する余地はない。
(2)争点(2) (本件減給に対する同意の意思表示についての錯誤の成否)
(原告の主張)
以下の事情に照らせば、本件同意書の提出の動機は、解雇を避けるためであることが黙示的に表示されており、かつ、原告が同意書を提出しない場合には解雇になると信じたことは要素の錯誤に当たるから、原告の本件減給に対する同意の意思表示は錯誤により無効である。
ア Bは、平成24年2月16日、原告に対し、本件減給に早く同意しないと来期の必要人員から外す旨伝えた。原告は、原告が東京に出張する予定であった同月24日まで待って欲しいと頼むと、Bが、Cにも連絡するよう助言したので、Cに対しても同日まで回答を待って欲しい旨伝えた。
イ 原告は、平成24年2月24日、C及びBと面談をし、家族ともじっくり話した上で回答したいので、同月29日まで待って欲しいと懇請すると、Cが本件減給に同意する予定か尋ねたので、原告は、本件減給に同意しないこともある旨回答した。すると、Bは、「人事部に話してください。」と言い、Cは、「条件闘争で揉めている人を使っていくことはできない。他の人はみな同意書を提出しているのに、1人だけベースの高い人をどう評価していったらいいと思っているのか。」と高圧的に述べて回答を要求した。
原告は、同日のB及びCの高圧的な態度から、本件減給に対して同意しないと、担当部署から外されて、職を失う可能性すらあると感じた。また、すぐ人事部に出頭させる旨脅迫されて、本件減給に同意せざるを得ないと判断して本件同意書を提出するに至った。
(被告の主張)
ア 原告は、本件減給に対する同意の意思表示について、「同意する意思がないことを知りながら行った」として、原告が意思表示をした時に同意する意思がなかったことを前提にして、「心裡留保により無効」と主張しつつ、他方で、「同意しない場合には解雇になると誤信して同意した」として、原告が意思表示をした時に動機の錯誤があるものの同意する意思があったことを前提にして、「錯誤無効」を主張するが、両主張は、事実として両立し得ない。
イ B及びCは、原告が被告を退職しないように説得していたのであり、解雇をほのめかすことを言ったことはない。また、原告は、弁護士と相談した上で同意書に署名したのだから、「本件減給に同意しない場合には、担当部署から外されて、職を失う可能性すらある」との錯誤が生じ得ないことは明らかである。
(3)争点(3) (本件減給の有効性)
(原告の主張)
本件減給は、原告の給与の年額合計額が1500万円から1110万円に引き下げられる内容の不利益変更に当たるところ、以下の事情に照らせば、本件減給に合理性はないから無効である。したがって、本件減給に対する同意が有効であるとしても、無効なものに対する同意であるから、無効である。
ア 本件減給により労働者が受ける不利益は、給与の26%の減額という多大な不利益である。
イ 被告は、黒字に回復した後に本件減給を実施しており、被告の人事制度の変更の必要性は、それほど大きいものではない。
ウ 変更後の就業規則の内容は、一般行員の等級制度・報酬制度・評価制度を9段階から5段階に変更しただけで、それほど相当とはいえない。
エ 代償措置がない。
オ 労働組合との交渉がない。
カ 本件減給当時、同種事項において、26%もの減給をする社会的状況ではなかった。
(被告の主張)
否認し、又は争う。
(4)争点(4) (退職強要の存否及び不法行為該当性)
(原告の主張)
以下の事情に照らせば、被告による退職強要があり、これは不法行為に当たるというべきである。
ア B及びCは、遅くとも平成24年2月中旬、原告が本件減給に同意もしないし、退職もしないと主張しているとの情報を共有していたのであり、原告を快く思っておらず、原告を退職させようと考えていたというべきである。
イ 原告は、同月24日、B及びCの高圧的な態度から、有無を言わせずに一方的な減給という不利益変更を強要する被告の方針に絶望感を感じた。
ウ 原告は、同年9月10日、本件定例会議において、原告が四国のd社に対するデリバティブ販売の進捗状況が芳しくない旨の報告をすると、Cから「d社が難しい顧客だということは、頭取以下みんな知っていることだ。今さらそんな言い訳を言っても通用しないぞ。」「前月と同じ言い訳をしている。」「東京の営業本部の会議で聞いている話と全く違う。一体どうなっているんだ。」と強い口調で叱責を受けた。原告は、市場営業部員全員の前でCから上記の罵詈雑言を受けたことをきっかけに体調を崩し、Cの管轄する市場営業部で勤務を続けることで著しく健康を害し、精神疾患を患った。
エ Bは、同年10月2日、原告と面談した際、大阪から東京に帰任するに際しては、市場営業部ではなく、同部よりも処遇が明らかに劣る内部監査部等の業務への転向を勧めた。そのため、原告は、これ以上の市場営業部での勤務が不可能であると判断し、社内での受け入れ先を探し、結局、同部よりも処遇が劣る金融法人営業第2部に採用された。
オ 原告の給与は、平成25年4月から、更に年間200万円程度下がり、年額合計1110万円から900万円に減給される予定であったため、同年6月30日、原告は、家族の生活と自身の健康等を守るために退職して転職することを余儀なくされた。
(被告の主張)
上記のとおり、本件減給は、原告の同意に基づいており、不法行為を構成するものではないし、その過程でC及びBによるパワーハラスメントの事実もない。また、本件定例会議におけるCの発言は、業績が悪かった大阪営業推進室の責任者である原告に対し、「なぜ実績が上がっていないのか。」と説明を求めたにすぎないから、パワーハラスメントに当たらないし、Cの発言は「今さらそんな言い訳を言っても通用しないぞ。」というものであり、およそ退職強要に当たるものではない。
(5)争点(5) (未払賃金の額並びに損害の有無及びその額)
(原告の主張)
ア 本件減給による未払賃金の発生
原告は、平成24年4月1日、本件減給により、月額給与の合計が125万円から92万5000円に、年間給与の合計が1500万円から1110万円に減少することになったが、同年9月までは調整給が支給されて月額給与の合計は125万円のままであった。このように、原告は、同年10月から平成25年6月末までの9か月間減給されたため、合計292万5000円((125万円-92万5000円)×9か月)の未払賃金が発生した。
そして、原告は、平成19年5月から平成24年3月までの間は、毎年、300万円(月次給100万円×3)を退職金として累積していたが、同年4月から平成25年6月までの間は、本件減給により月次給が74万円に減額されたため、毎年、積立金が78万円((100万円-74万円)×3)減少した。以上により、原告の退職金の損害は97万5000円(78万円÷12か月×15か月)となる。
したがって、本件減給により、原告に合計390万円の未払賃金が発生した。
イ 退職による損害
被告による本件減給とC及びBによるパワーハラスメントという退職強要がなければ、原告は定年まで被告に勤務することを望んでいたのであり、平成25年7月からも短くとも1年間は勤務できたはずであるから、1年間の年収に相当する1500万円の損害が発生したというべきである。
(被告の主張)
原告の本件減給に対する同意が有効である以上、未払賃金及び損害は発生し得ない。
(6)争点(6) (損益相殺の可否)
(被告の主張)
原告は、c銀行に転職し、1550万円の年収を得るに至ったのであり、本件減給までの原告の年収よりも高額であるから、損害は発生しない。
(原告の主張)
原告は、9社の就職仲介会社に依頼したことによって、ようやくc銀行に就職できたことに照らせば、c銀行での収入は、被告を退職することによって当然に取得した利益とはいえないため、損益相殺を認めるべきではない。
仮に、損益相殺ができるとしても、労働基準法12条1項により被告における平均賃金の6割相当額に達するまでの部分については、損益相殺の対象とすることは禁じられているものと解すべきである。
第3 当裁判所の判断
1 前提事実に加え、証拠及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(1) 原告は、a銀行において、賞与を含めて約1500万円の給料を得ていたところ、被告に転職するに当たっては、1500万円以上の給与を得ることを望んでいた。原告と被告は、平成19年4月24日、原告の給与について、月次給100万円及び住宅補給金125万円(月次給の25%にする相当する。)の合計年額1500万円(125万円×12か月)の基本給を支給することし、その他に賞与を支給する旨合意した。また、月次給については個人業績評価に基づき毎年5月1日をもって原告及び被告の合意の上で見直すこととした。
原告と被告は、平成20年5月、平成21年5月、平成22年5月及び平成23年5月、それぞれ原告の月次給を100万円とする旨合意した。(証拠<省略>)
(2) 原告は、被告への入行直後は、市場営業部の次長として東京本部に勤務し、仙台支店及び札幌支店を担当し、平成19年10月から、さらに金融法人営業第2部(東京本社内)を担当し、平成21年には札幌支店の担当を外れて代わりに金融法人営業第1部(東京本社内)を担当するようになっていた。そして、原告は、平成22年から大阪支店の担当となり、金融法人営業第1部、第2部及び大阪支店を担当するようになり、さらに、平成23年10月1日、大阪に転勤し、市場営業部大阪営業推進室長に就任し、金融法人の担当を外れ、大阪支店、金沢支店、広島支店、高松支店の事業法人を担当するようになった。(証拠<省略>)
(3) Bは、昭和62年3月に大学を卒業した後、同年4月、被告に入行し、市場営業部において勤務しており、Bがチームヘッドを務めるチームに原告が所属するなど、Bは原告の上司という立場であった。Bは、平成24年1月、市場営業部長に就任した。(証拠<省略>)
(4) D(以下「D」という。)は、平成17年5月から法人・金融市場部門の人事担当、平成20年以降、平成24年当時においても、被告全体の人事に関わるようになっており、平成25年7月、人事部人事担当統轄次長に就任した。(証拠<省略>)
(5) 被告は、平成19年6月、収益が目標を大きく下回ったために金融庁から業務改善命令を受けた。被告の通常の業務純益は400ないし500億円程度であったが、平成20年9月にいわゆるリーマンショックがあり、平成20年度は約1500億円の赤字、平成21年度は約1400億円の赤字を被告は出した。平成22年には黒字に転向したものの、被告の人事部は、収益の悪化を受けて、経営体制を変更するとともに人事制度の変更をすることとし、平成24年4月1日から、新しい給与体系(以下「新給与体系」という。)を導入することにした。新給与体系が導入されることによって、市場営業部に所属する部員のうち約3分の1以上の者の給与が減額されることになった。(証拠<省略>)
(6) 被告の人事部は、平成24年1月、新給与体系を導入すること及びこれに伴う減給について被告行員に周知し、全国の支店、本店において、説明会を開催し始めた。
被告は、減給に同意できない行員について、被告は一定の計算式を用いた上乗せ退職金を含めた退職パッケージ(以下「本件パッケージ」という。)を準備し、減給に同意するか、又は本件パッケージのいずれかを平成24年2月末までに選択するように提示していた。ただし、被告は、同年4月から同年9月までの間、調整給を支給することにしていたため、実際の給与の支給額にしばらく変化がなかったため、同年2月末に減給の対象者全員について結論を出さなければならないという差し迫った状態ではなかった。(証拠<省略>)
(7)ア 原告は、平成24年2月1日、被告の大阪支店で開催された新給与体系についての説明会に参加した。(人証<省略>)
イ 原告は、平成24年2月10日、B及びCと個別面談をした。その際、Bは、新給与体系の下での年間の基本給が1500万円から1110万円に減額されること、同年4月から同年9月までの6か月間は、減給相当額が調整手当として支払われること及び本件パッケージに応募して退職する場合には、特別退職金が支給されることを説明し、下記の内容を含む本件同意書(書証<省略>)及び「下記内容のサポートをご提案いたしますので、ご検討ください。」という文章で始まる書面(書証<省略>)を交付した。そして、同年2月29日までに本件減給に同意するか本件パッケージにより退職するように伝えた。原告は、不利益変更に当たるから本件減給には同意しない旨述べていたものの、本件パッケージを選ぶとも答えなかった。(書証<省略>)
(ア) 本件同意書(書証<省略>)
a 平成24年4月1日をもって、従業員全体の給与水準と給与体系を全面的に改訂する。
b 業務内容、職責、地位等を総合的に勘案した結果、原告の基本報酬は、平成24年4月1日から、それぞれ月次給74万円、住宅補給金118万5000円になる。
c ただし、月次給及び住宅補給金Ⅰの改訂による影響を緩和するため、平成24年4月から同年9月までの6か月間は、毎月32万5000円の調整手当を支給する。なお、平成24年10月以降は、調整手当を支給しない。
d 上記aないしcの記載の下に、「私は、上記の内容を確認し、これに同意します。」という文章並びに空欄になっている年月日欄及び署名押印欄が設けられていた。
(イ) 「下記内容のサポートをご提案いたしますので、ご検討ください。」という文章で始まる書面(書証<省略>)
a 退職日
平成24年6月末日。ただし、本人の事情により退職日を早めることができる。
b 特別休暇
転職支援のため、本件合意後上記aの退職日までの特別休暇(有給)を付与する(最長平成24年6月末日まで。)。
c 通常退職金
平成24年6月末日の退職時の通常退職金は、退職金支給規程に基づき1550万円(税引前)となる。
d 特別退職金
平成24年6月末日の退職時には、上記cの通常退職金に加えて、特別退職金500万円(税引前)を支給する。
e この提案を受諾する場合には、平成24年2月29日までに人事部宛に申し出ることとする。
ウ 原告とBは、平成24年2月16日、喫茶店において、個別面談をした。
原告は、同月17日、Cに電話で「まだ悩んでいます。来週24日に出張で本店に出社しますので、その時に回答させていただきます。」と伝えると、Cは「いいよ、ゆっくり考えてくれ。」と答えた。(証拠<省略>)
エ B及びCは、原告がこの頃、市場営業部の大阪営業推進室長という、専門性が高く責任も重い立場であり、後任に適切な人材が見つかりづらい状況であったため、原告が本件減給に同意して被告に残ることを選択するのを望んでいた。(人証<省略>)
オ 原告は、平成24年2月24日、B及びCと個別面談をし、その中で、以下のとおりの発言をした。原告が「不利益変更なので同意のサインはしない。」と述べていたため、Bは、本件減給の内容の確認や法的評価について説明ができる人事部に相談に行くように勧めた。(証拠<省略>)
(ア) 原告の発言内容
a 「現職でできるだけ長く働いて会社に貢献したいと思っていますので、パッケージに応募しないことは決めましたが、同意書の提出については、29日まで待ってもらえませんか。まだ家族にも話していないので今週末帰省してじっくり話した上で、返答させてください。」
b 「同意しないという可能性もあります。」
c 「働く気はありますが、今の給与を維持したいと思っています。」
d 「以前大阪で20%の給与引下げが認められた判例があったそうですが、それはかなり例外的なケースで、今回私は約3割も下げられていて不利益変更だと思います。」
(イ) Bの発言内容
a 「じゃあ、パッケージだ。」
b 「今の給料を維持したいと思っているのか。給料下げられても働く気はあるのか。」
c 「このまま大阪へ帰ってしまうともう人事と話をする機会もないだろうから、今日この後、人事部へ行った方が良いですよ。」
(ウ) Cの発言内容
a 「同意書を出す方向で考えている、ということなのかな。」
b 「前にe銀行では支店長クラスで500万円下げられたが、不利益変更とはならなかった。」
カ 原告は、本件減給に納得はできなかったものの、家族に相談した上、平成24年2月26日、本件同意書の上記イ(d記載の空欄に年月日を記入し、署名押印をして被告に提出した。Bは、同月27日の朝、出勤すると、本件同意書を見つけてすぐに原告に電話をかけ、原告自身が記入して提出したものであるか、人事部に提出してよいかを確認した。(証拠<省略>)
(8) 原告、B及びCは、平成24年9月10日、本件定例会議に出席した。本件定例会議とは、月に1度、市場営業部において、電話会議を用いて各担当者が担当案件の進捗状況を報告するとともに、BやCなど上司に当たる者がその内容を確認し、質疑する会議であり、大阪及び東京の市場営業部全員が出席するものであった。原告は、自身が担当していたd社の案件について報告した。d社の案件とは、当時の市場営業部の年間の目標の約5%を占める大きな案件であり、市場営業部だけでなく被告全体にとっても大きな案件であった。そのため、BやCの関心も高く、約2、3分間にわたり、多数の質疑が繰り返された。その際、Cは、原告に対し、「d社が難しい顧客だということは、頭取以下みんな知っていることだ。今さらそんな言い訳を言っても通用しないぞ。」「東京の営業本部の会議で聞いている話と全く話が違う。」などと強い口調で言った。(証拠<省略>)
(9) 原告が体調不良で心療内科に通院しているという話を聞いたBは、平成24年10月2日、原告と面談をして原告の精神的状態について話をした。Bは、原告に対し、一度休養をとって、埼玉県にある自宅に帰るようにアドバイスするとともに、内部監査部等の業務への転向を勧めた。(証拠<省略>)
(10) 原告は、平成24年10月13日、気分変調症(軽度ウツ病)である旨診断された。原告は、投薬治療を受けるなどして、約1か月で症状が改善した。(証拠<省略>)
(11) 原告は、人事部と相談した上、被告の社内公募制度に応募して、平成24年11月19日付けで東京にある金融法人営業部に異動した。(書証<省略>)
(12) 原告は、平成24年11月頃から転職活動を開始し、平成25年6月末日、被告を退職し、同年7月、c銀行に入行した。(証拠<省略>)
2 争点(1) (本件減給に対する同意の意思表示についての心裡留保の成否)について
(1) 上記認定のとおり、原告は、基本給年額1500万円を維持したまま被告で働きたいと希望していたため、本件減給には納得していなかったものの、自らの意思で署名押印をして、本件同意書を提出したことが認められる。
心裡留保とは、意思表示の表意者が、表示行為に対応する真意のないことを知りながらする単独の意思表示をいう。原告は、戯言で本件減給に対する同意の意思表示をしたのではなく、単に、本心では同意することに納得しておらず、いわば意思表示を渋々したものであるといえるところ、これは、意思表示をすることに対する表意者の感情に過ぎず、意思表示に対応する内心的効果意思の内容とは全く別のものである。
そうすると、原告は、本件減給に対する同意をしたくないという感情であったものの、まさに本件減給に対する同意をするという内心的効果意思で本件減給に対する同意の意思表示をしたと認められる。
したがって、本件減給に対する同意は心裡留保に当たらない。
(2) 原告は、B及びCの高圧的な態度から、本件減給に同意しないと解雇されると思い、本件減給に同意する意思がないことを知りながら、本件同意書を被告に提出したとして心裡留保に当たる旨主張する。
しかしながら、上記認定のとおり、原告は、面談において、B及びCに対し、平成24年2月29日まで回答を待って欲しいと要求していることや、給与を維持したい旨伝えていることなどからしても、原告において、原告の意見を述べて、要求を主張してそれが相当程度聞き入れられていたことが窺え、B及びCが原告に本件減給に同意するよう高圧的な態度で一方的に要求したとは認められない。そして、原告は、家族に相談した上で、被告に提示された期限より前に本件同意書を提出したことからすれば、原告が本件減給に同意するメリットやデメリットを十分に吟味して本件減給に同意することを選択したものというべきである。また、本件パッケージと解雇とは全くの別の制度であり、解雇事由なしに解雇することは通常不可能であるということは、一般的に認知されていること、B及びCが、本件同意をしなければ解雇すると発言した事実は認められないことからすれば、原告が本件減給に同意しないと解雇されると思い込むのは不合理である。そうすると、原告が本件減給に同意しないと解雇されると思い込んだということはできない。
(3) したがって、本件減給に対する同意の意思表示につき心裡留保は成立しない。
3 争点(2) (本件減給に対する同意の意思表示についての錯誤の成否)について
(1) 上記2(1)のとおり、原告は、本件減給には納得していなかったものの、自らの意思で署名押印をして、本件同意書を提出したことが認められる。
錯誤とは、表示の内容と内心の意思とが一致しないことを表意者本人が知らないことをいい、意思表示の動機ないし縁由に誤りがあるものを動機の錯誤という。
原告は、本件減給に同意しないと解雇されると誤信して解雇を避ける動機で本件減給に同意する意思表示をしたと主張する。しかしながら、上記2(2)のとおり、原告が本件減給に同意しないと解雇されると思い込んだということはできず、したがって、原告が本件減給に同意しないと解雇されると誤信したと認めることはできない。
(2) したがって、本件減給に対する同意の意思表示につき錯誤は成立しない。
4 争点(3) (本件減給の有効性)について
(1) 労働契約法9条本文は、使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできないと定めており、労働者との合意があれば、その内容が強行法規に違反する場合や信義則(民法1条2項)に違反する場合を除き、労働条件の不利益変更も有効である。
原告は、本件減給が強行法規や信義則に違反するとの主張及び証拠の提出をしていないから、原告の主張は失当である。
(2) したがって、本件減給が無効であるということはできない。
5 争点(4) (退職強要の存否及び不法行為該当性)について
(1) 上記認定及び上記2(2)のとおり、B及びCが平成24年2月10日、16日及び24日の面談において、原告に対し、本件減給に同意するよう高圧的な態度で一方的に要求し、同意しないのであれば退職するように強要したとは認められない。
(2) 次に、平成24年9月10日、本件定例会議において、Cが、原告に対し、「今さらそんな言い訳を言っても通用しないぞ。」などと強い口調で言ったことが認められる。しかしながら、Cは、被告にとって重要な案件の担当者であった原告に対して、案件の進捗状況が芳しくなかったために上記発言をしており、職務上必要な議論であったといえ、不当に原告を責めたものではないし、上記発言の内容そのものも原告を誹謗中傷するものでも、退職を促すものでもない。
したがって、Cの上記発言は、退職強要に当たらないことはもとより、不法行為に該当する違法なものともいえない。
(3) そして、上記認定のとおり、Bが、平成24年10月2日、原告と面談した際、市場営業部以外の業務への転向を勧めたのであるが、その当時、原告が心療内科に通院しており、実際に、その後、気分変調症であると診断されたのであるから、原告に対して重いプレッシャーがかかる市場営業部ではない部署への異動を勧めること自体は、原告の精神状態に対する配慮として不当であるということはできない。
したがって、Bが市場営業部ではない部署への異動を勧めたことは、退職強要に当たらないことはもとより、不法行為に該当する違法なものともいえない。
(4) 原告は、当初、本件減給に対して同意をしない意思を表明していたことなどから、B及びCが、原告に対して、悪感情を抱いており、パワーハラスメントをするなどして退職に追い込んだと主張する。
しかしながら、上記認定のとおり、平成24年2月における、本件減給に係る面談において、B及びCが高圧的な態度をとったと認めることはできないし、同年9月10日の本件定例会議におけるCの発言や、同年10月2日におけるBの発言はパワーハラスメントに当たらないし、ましてや、それのみによって退職強要をしたと認められるものでもない。
そして、原告は、同年2月頃から同年9月10日の定例会議までの間も、「どっちかといいますと、いろいろなところで意地悪をされていたと思います。」と供述し、「東京に出張で帰りたいと言ったときに、いや、帰ってこなくていいと、出張費を無駄に使うなというようなこと」を挙げる(人証<省略>)ものの、他に具体的な事情はなく、B及びCが、上記期間に、原告に対して嫌がらせをしていたとは認められないし、同人らの関係が徐々に悪化したというような事情もない。
したがって、同年2月頃の原告の態度が原因で、その約7か月後から突如として原告に対するパワーハラスメントや退職強要が始まるというのは不自然かつ不合理であるから、原告の上記主張は採用し得ない。
(5) したがって、B及びCによる退職強要があったとは認められない。
6 結論
よって、その余の点について検討するまでもなく、原告の請求は理由がないから、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 針塚遵 裁判官 森剛 裁判官 佐藤知弥子)