さいたま地方裁判所川越支部 平成13年(ワ)420号 判決 2004年8月26日
原告
甲野花子
同訴訟代理人弁護士
菊池紘
同
上野格
被告
学校法人Y医科大学
同代表者理事
乙山太郎
同訴訟代理人弁護士
原田策司
同
井野直幸
同
小林ゆか
主文
1 被告は,原告に対し,4266万6257円及びこれに対する平成12年5月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,これを3分し,その2を原告の負担とし,その余は被告の負担とする。
4 この判決は,1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告に対し,1億2200万円及びこれに対する平成11年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,被告が経営する病院に勤務していた医師が,原告に対し,①右手の手根管症候群の治療にあたって,複合性局所疼痛症候群(Complex regional pain syndromes)タイプⅡ(以下「CRPSタイプⅡ」という。)等の神経因性疼痛を引き起こす可能性があることについて十分に説明しなかった,②手根管症候群の治療として内視鏡を使用した手術を行ったところ,医師の過失により右手総掌側指神経を損傷した,③当該損傷後も,適切な対処をしなかったため,原告がCRPSタイプⅡに罹患し,症状が悪化したとして,医療契約上の債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づく損害賠償(遅延損害金を含む。)を求めた事案である。
1 争いのない事実等(証拠を引用しない部分は当事者間に争いがない。争いのある事実は後掲各証拠及び弁論の全趣旨によって認められる。)
(1) 被告は,国民医療の向上に寄与し,かつ医学,医療の進歩,研究に貢献すること等を目的とする学校法人であり,その目的を達成するためY医科大学附属病院(以下「被告病院」という。)を設置している。また,A医師(以下「A」又は「A医師」という。)は,被告病院整形外科に勤務し,平成10年5月から平成11年5月までの間,原告の診察及び手術を担当した。(乙1,7,証人A)
(2) 原告は,国保町立小鹿野中央病院(以下「小鹿野中央病院」という。)で診察を受け,両手根管症候群と診断され,被告病院を紹介された。(甲19,乙1,13)
(3) 原告は,平成10年5月13日,被告病院整形外科において,A医師の診察を受け,両手根管症候群(手根管症候群とは,手関節部で横手根靱帯によって正中神経が圧迫されることによって生じる手の痺れや母指球の筋萎縮などを主症状とする神経障害である。)と診断された(甲1)。A医師は,原告に対し,同症候群に対する手術方法として,内視鏡下に横手根靱帯を切離して正中神経の圧迫をとる手術方法(以下「鏡視下手術」という。)について説明した(この説明の仕方につき,後記のとおり争いがある。)。そして,同年6月3日に検査の上で原告の左手の同症候群に対する手術が実施される予定になり,同日,原告は,同手術の実施を承諾し,検査を受けたが,左手の痺れが軽快していたことなどから,手術は見送られた。
(4) 上記鏡視下手術とは,奥津一郎医師らが開発した手術方法であり,手関節部掌側に約1センチメートルの皮膚を切開し,そこから手根管内に,透明な外套管を挿入し,外套管の平面部分の上にフックナイフの刃先を乗せて,手根管内に挿入し,フックナイフにより横手根靱帯を切断するというものである。(乙7,16,17,証人A)
(5) 原告は,平成10年10月14日,右手の痺れのため,A医師の診察を受けたところ,同医師は,上記(3)と同様の説明をし,右手に対する鏡視下手術が同年11月4日に実施されることになった。そして,原告は,同日,右手に対する同手術の実施を承諾し,A医師の執刀による同手術を受けた(以下「本件手術」という。)。その際,A医師は,原告の右手総掌側指神経を断裂させた。
(6) 平成11年1月13日,原告が右手の痺れ等を訴えて,A医師の診察を受けたところ,A医師は,原告に対し,神経障害に対する癒着剥離手術等が必要である旨説明した(乙1)。同年2月2日,A医師が原告の右手を切開したところ,本件手術の際に総掌側指神経を断裂していたことがわかり,神経の剥離と縫合手術を行った(以下「本件再手術」という。)。(乙1,証人A)
(7) 原告は,同年5月12日,A医師の診察を受け,右手の痛みがひどいと訴えたところ,A医師は3回目の手術を提案した。
(8) しかし,原告は,A医師の上記提案を受け入れず,同年6月11日,駿河台日本大学病院(以下「日大病院」という。)の整形外科において診察を受け,その後も同病院で多数回の診察を受けた(甲20)。また,原告は,同年9月14日,同病院に入院し,同月16日,右手の痛みに対処するための神経切除術を受けた(甲20,22)。その後,星状神経節ブロック等の治療を受け,同年10月13日,退院した。(甲22,31,証人加藤実〔以下「加藤」という。〕)
(9) 原告には,現在,CRPSタイプⅡ(タイプⅡは神経損傷後に引き起こされる症候群である点でタイプⅠと異なる。)の発症,悪化による神経障害が生じている。(甲20)
2 争点
(1) A医師の過失の有無
ア 説明義務違反
イ 本件手術における手技上の過失
ウ 本件手術後,原告におけるCRPSタイプⅡの発症を看過し,適切な治療を行わなかった過失
(2) 因果関係の有無
(3) 損害及びその額
3 争点に対する当事者の主張
(1) 争点(1)(過失の有無)について
ア 説明義務違反
(原告の主張)
A医師は,原告に対し,平成10年5月13日及び同年10月14日,手根管症候群に対する鏡視下手術について説明するに際し,同手術によってCRPSタイプⅡ等の神経因性疼痛を引き起こす可能性があることについて十分に説明しなかった。すなわち,A医師は,鏡視下手術により単に神経を損傷する可能性があるという説明をしたにとどまるところ,そうした説明だけでは足りないのであって,神経損傷により生じる結果やその発生リスクまで原告に理解させるような説明をすべきであった。原告が,もしA医師から適切な説明を受けていれば,神経因性疼痛ではないかとの問題提起や麻酔科,ペインクリニック科への紹介を求めること等ができた。
(被告の主張)
後記のとおり,原告が被告病院に通院中はCRPSタイプⅡの発症はなく,同症が発症し確定診断に至ったのは日大病院転院後である以上,本件の鏡視下手術とCRPSタイプⅡとの間には相当因果関係はないので,そもそも本件ではCRPSタイプⅡについての説明義務違反は問題となりえない。仮にそうでないとしても,A医師は,原告に対し,平成10年5月13日の診察時に,手術部位を図示した上,手根管症候群の症状・病態,鏡視下手術の内容,同手術の合併症として,腱,神経,血管の損傷等がありうること,神経が損傷されるとかえって痛みが強くなってしまうことがある旨述べることによって,CRPSタイプⅡの症状についても説明した。また,A医師は,同年10月14日にも同様の説明を行っており,このように2回にわたり合併症につき詳細かつ十分な説明を行っていることからすればA医師に説明義務違反があったということはできない。
イ 本件手術における手技上の過失
(原告の主張)
A医師は,本件手術において,外套管から出たフックナイフが総掌側指神経に届いてしまうまでにフックナイフを差し込みすぎ,同神経にフックナイフを引っ掛けて切断した。これはA医師の手技上の過失といえる。
(被告の主張)
(ア) A医師が,本件手術において,右手の総掌側指神経を損傷したことは認める。しかし,このような指神経損傷は,鏡視下手術時には一定の確率で不可避的に発生する合併症であり,その発生を予見・回避することは不可能であった。
(イ) 本件手術では,横手根靱帯を先端部から切断するために,外套管は手掌部中央付近まで進められるのであって,横手根靱帯よりも指側に外套管及びフックナイフを進めることは通常の手技である。したがって,切断場所が横手根靱帯よりもさらに奥の場所であったとしても,通常フックナイフの行かない場所であったということにはならない。また,総掌側指神経は,外套管やフックナイフの挿入方向と並行しているので,総掌側指神経を切断したからといってフックナイフを差し込みすぎたということにはならない。
ウ 本件手術後,原告におけるCRPSタイプⅡの発症を看過し,適切な治療を行わなかった過失
(原告の主張)
(ア) CRPSタイプⅡの診断基準は,①神経損傷後の,必ずしも損傷神経の分布に限局しない,持続する痛み,アロディニア(通常では痛みを引き起こさない刺激により生じる痛みのことで,軽い接触や圧迫,適度の温熱や冷却などのような非侵害刺激により痛みが起こる状態をいう。)又は痛覚過敏症がみられる,②浮腫,皮膚血流量の変化又は異常発汗が疼痛部位にみられる,③上記①②の症状がみられても,疼痛や運動機能異常の程度が他の状況から説明できる場合は除外される,というものである。
(イ) 原告は,本件手術後の平成10年11月9日に小鹿野中央病院へ行った際には,母指,示指,中指及び環指に痺れがあり,同月11日にA医師の診察を受けた際には強い腫脹が,同じく,同月25日には中手基節間関節より遠位のむくみがあり,同医師はこれらを認識した。また,同月27日に小鹿野中央病院へ行った際には,母指,示指,中指及び環指の半分にビリビリ感があり,右手が使用できないほどの異常な痛みが出現した。さらに,原告は,同年12月4日に小鹿野中央病院に行った際には,示指,中指及び環指に強い痛みがあり,平成11年1月13日にA医師の診療を受けた際には,中指尺側及び環指橈側の知覚低下と激しいチネルサイン(叩打時にみられる障害部に一致した放散痛,ビリビリ感)があった。原告は,本件再手術後も引き続き右手の痛みと痺れに悩まされ,被告病院で診察を受けたり,小鹿野中央病院でリハビリを受けたりしたが治らなかった。そして,右手の痛みがひどくて何も触れないほどになったので,同年5月12日,被告病院でA医師の診察を受けた。
(ウ) これらの痛み等は,切断された総掌側指神経の支配領域である中指尺側及び環指橈側を超えた場所に出ていたといえるし,外科手術の切開部の痛み等としては不自然に長期間継続していたといえる。また,A医師は,これらの診療の際に原告の申告の聞き取りや知覚検査などをしなかったため,原告の右手の痛みや痺れを認識しなかった。なお,この間に受診した小鹿野中央病院では,鎮痛剤が従前よりも多く処方されていたわけではないが,これは鎮痛剤の効果がなかったために原告が処方を断ったこと等の理由によるのであって,痛み,痺れがなかったことを意味しない。
(エ) 以上のとおり,A医師は,本件手術後,原告に様々なCRPSタイプⅡの症状等が現れていたにもかかわらず,そうした事態を認識せず,CRPSタイプⅡの診断に必要な検査や星状神経節ブロックのような麻酔科的治療を実施せず,麻酔科・ペインクリニック科へ紹介しなかった。この点に過失がある。
(被告の主張)
(ア) 本件手術直後を除けば,原告から痛みがひどい旨の訴えはなく(本件手術直後の強い疼痛は,本件手術自体,又は総掌側指神経の断裂によるものである。),CRPSタイプⅡと考え得る症状はなかった。具体的には,平成10年12月9日及び平成11年1月13日の各診察日には,原告から痛みについての訴えはなかった。また,原告は,同月13日,中指尺側及び環指橈側に知覚低下と激しいチネルサインがあったと主張するが,これらは総掌側指神経損傷の所見にすぎず,CRPSタイプⅡの所見である疼痛(灼熱痛)に関するものではない。さらに,原告は,本件再手術後,同年2月10日,同月24日,同年3月24日,同年4月28日の各日にA医師の診察を受けたが,痛みがひどい旨の訴えはせず,同年3月24日の診察時には痛みが軽くなって,指の屈曲もでき,家事で使うようにしていると述べていた。このほか,同年5月12日には右手がまったく使えなくなった旨の訴えがあったが,同月26日には起きたときにまったく痛みがないことが2日間あった旨述べており,持続性の疼痛とは異なっていた。
(イ) 以上のとおり,被告病院通院中には,CRPSタイプⅡに特有の持続性の強い疼痛(灼熱痛)の所見はなかったのであり,その発症又はそれを疑うべき所見はなかった。仮に,本件手術後,原告が主張するような痛み等があったとしても,手術後の反応には個人差があること,手指においては運動制限の程度によって腫脹,浮腫の消失が遅くなることがあることからすると,このような痛み等からCRPSタイプⅡと診断することはできない。
(ウ) 本件では,結果として,CRPSタイプⅡの発症,悪化により,原告に神経障害が発生したことは認めるが,それが発症し,かつ確定診断に至ったのは日大病院への転院後のことであり,被告に責任はない。
(2) 争点(2)(因果関係)について
(原告の主張)
ア A医師が本件手術にはCRPSタイプⅡ等の神経因性疼痛を引き起こす可能性があることを十分に説明していたならば,本件手術後に継続する痛み等について,原告の方から神経因性疼痛ではないかとの問題提起や麻酔科,ペインクリニック科への紹介を求めること等ができた。
イ 原告の損害は,本件手術におけるA医師の手技上の過失とCRPSタイプⅡ症状の放置という二重の過失行為がなければ,相当因果関係が否定されるという関係にはない。したがって,本件手術における手技上の過失行為と原告の現症との間には相当因果関係がある。そうすると,仮に日大病院への転院後にCRPSタイプⅡが発症したとしても,被告が責任を負うべきこととなる。
ウ CRPSタイプⅡの罹患においては次のような機序をたどる。神経損傷等に対して交感神経が反射的に興奮する結果,血管が収縮して血流障害が生じて低酸素状態となり,組織(皮膚,筋肉,骨)が萎縮・拘縮することで,損傷神経の支配領域を超えた範囲に痛みが生じる。その結果,さらに交感神経が刺激され,損傷部位が修復されても痛みが緩和しないという痛みの悪循環を引き起こす。一度神経損傷によりCRPSタイプⅡを発症して痛みの悪循環が始まってしまった場合,外科的な治療のみではこれを断ち切ることはできず,交感神経節ブロックなどの強い麻酔科的治療により悪循環を緩和し,重症化を妨げるしかない。したがって,上記争点(1)ウにおけるA医師の各過失行為により,原告がCRPSタイプⅡに罹患し,その自然な流れとして,日大病院での治療の甲斐もなく増悪してしまったのであるから,被告の各過失行為と原告の現症との間には相当因果関係がある。
エ (被告の主張に対する反論)
本件手術及び本件再手術後にも手の腫れ,痺れ及び手指の運動障害があった。また,平成11年6月11日の日大病院での初診時には,異常感覚,手指皮膚温の低下,右手全体についての痺れ,手指の腫れ等があった。さらに,同月18日には,アロディニアがみられ,フェントラミンテスト(交感神経遮断薬であるフェントラミンを静脈内投与して痛みが減るかどうかを観察するテスト)の結果により,交感神経が関与している痛みであることが明らかになった。以上の所見から,同日,日大病院において,CRPSタイプⅡと診断された。したがって,少なくとも同日の時点で原告はCRPSタイプⅡに罹患していた。
(被告の主張)
平成11年6月18日の時点では,異常感覚,強い痺れは主観的所見にすぎないこと,異常感覚の部位は,損傷神経分布に一致していること,手指の皮膚温について両手に差異がないこと,アロディニアの部位が不明であること,フェントラミンテストはCRPSタイプⅡの診断基準となり得ないこと等からすると,原告はCRPSタイプⅡに罹患していなかった。また,原告は,平成11年9月16日に施行された日大病院での手術前には,右手での書字が可能であったにもかかわらず,手術後には手指の用廃を来すほどの顕著な症状悪化を来すに至った。したがって,CRPSタイプⅡは,日大病院転院後に発症し,現症に至ったと考えられ,仮に本件手術に過失があったとしても,CRPSタイプⅡの発症との間には相当因果関係がない。
(3) 争点(3)(損害)について
(原告の主張)
ア 治療費 191万9440円
イ 交通費,入院・包帯等雑費 140万7720円
ウ 将来の治療費等 1600万0000円
治療費及び諸雑費にかかる1年間の平均額は80万円であり,将来(20年間)にわたって,治療費等の支出が必要となる。
エ 休業損害 2076万1000円
平均年収415万2200円について,平成10年11月4日から平成15年11月3日までの60か月分(5年分)の合計金額である(なお,ここでいう平均年収は,平成10年度賃金センサス中の45歳,中卒の男性平均年収542万8900円と同女性平均年収287万5500円の平均額である。)。
オ 傷害慰謝料 284万0000円
平成10年11月4日から平成15年11月3日までの入院期間2か月,通院期間58か月について,自賠責損害賠償額算定基準を準用する。
カ 後遺症慰謝料 1574万0000円
原告の後遺症は,後遺障害別等級表における第5級(「1上肢の用の全廃したもの」又は「神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し,特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの」)に相当する。
キ 後遺症による逸失利益 4693万4399円
平均年収399万2650円(なお,ここでいう平均年収は,平成15年度賃金センサス中の47歳,中卒の男性平均年収513万3800円と同女性平均年収285万1500円の平均額である。)に後遺障害別等級表第5級の労働能力喪失割合0.79及び47歳から67歳までの20年間のライプニッツ係数14.88(ただし,中間利息は年3パーセントの割合で控除する。)を乗じた。
ク 弁護士費用 1639万7441円
ケ 上記アないしクの合計 1億2200万0000円
(被告の主張)
争う。後遺症の程度は,後遺障害別等級表における第7級を超えるものではない。また,原告は自己の意思による日大病院への転院,手術により,現在の症状悪化を招いたこと,原告には本件手術前から右肩の痛みや尺骨神経域の知覚低下の既往症があったことからすると,損害賠償額については相応の減額がなされるべきである。
第3 争点に対する判断
1 争点(1)(過失の有無)について
(1) 説明義務違反
ア 後掲各証拠及び弁論の全趣旨に前掲の争いのない事実等を総合すれば,次の各事実が認められる。
(ア) 原告は,かねてから右肩痛等のため,自宅近くの小鹿野中央病院において治療を受けていたものであるが,平成8年12月ころから右手が痺れるようになり,また,平成10年になると左手指も右手以上に痺れるようになり,同病院の関口哲夫医師(以下「関口医師」という。)により,両手根管症候群との診断を受け,手術をするのであれば傷跡も残らず回復もし易い手術方法として内視鏡を用いた手術方法(鏡視下手術)があることを教示され,同手術方法の可能な病院として,同年5月6日ころ,被告病院を紹介され,同月13日,A医師が原告を初めて診察した。(甲19,31,乙1)
(イ) A医師は,原告に対し,平成10年5月13日,手の絵を描いて示しながら,手根管症候群に対する鏡視下手術には合併症として腱,神経及び血管の損傷がある旨説明したが,原告は,平成10年6月3日,同手術の実施を承諾した。同様に同医師は,同年10月14日にも同手術に上記合併症が生じる危険を説明したが,原告は,同年11月4日,同手術の実施を承諾した。(甲4,5,31,乙1,原告本人)
(ウ) 手根管症候群は,手関節部の骨(手根骨)と手掌側の靱帯(横手根靱帯あるいは屈筋支帯)によって形作られるトンネル(手根管)の中で,正中神経が圧迫を受けて発症する絞扼性神経障害であり,症状としては,手指(母指から環指橈側にかけて)に痺れや知覚障害等が生じ,母指球筋の筋萎縮や母指外転筋,母指対立筋の筋力低下が生じる。これを放置することによって直ちに全身状態の悪化をきたすものではない。鏡視下手術のほかに選択しうる治療方法としては,手術をせずに薬物療法や理学療法等を行って症状の改善を待つ保存的治療法や手掌部から手関節部にかけて皮膚を切開して,正中神経の圧迫を除去する手術を行う標準的観血的手根管開放術がある。(甲1,乙7,8,11,証人A)
(エ) 手に関するCRPSタイプⅡとは,通常,手の部分的な神経又はその主要な分肢の一つの損傷後に起こる痛み,アロディニアと痛覚過敏の症状が発生する疾患である。また,CRPSタイプⅡは,早期に適切な治療が行われれば治癒することもあるが,治療に反応しない場合があるほか,治療が遅れた場合には,損傷の範囲や程度を超えた疼痛,知覚過敏等が継続し,骨や皮膚が萎縮していくなどの症状が生じ,難治性となることがある。(甲17,26,30,57,乙5,6,15,16,証人加藤)
(オ) 鏡視下手術に伴う合併症としては,神経損傷の可能性があるところ,一過性の尺骨神経まひは0.2ないし12.5パーセント,正中神経損傷は0.2ないし4.2パーセント,指神経損傷は0.3ないし2パーセント,正中神経と尺骨神経との吻合枝の損傷は0.1ないし1パーセントの確率でそれぞれ発生するとの記載がある医学文献が平成10年当時存在した。また,CRPSタイプⅡに相当する症状の発端となる傷害としては,四肢遠位部の小外傷,骨折,小手術(手根管症候群鏡視下手術,膝関節鏡視下手術)などがあげられ,これら全体からの発症頻度は約1パーセントと見積もられている旨の記載がある医学文献が平成15年に存在した。なお,当該文献における手根管症候群に対する鏡視下手術の記載は平成7年に出版された医学文献から引用されており,上記の医学的知見は平成10年当時の医療水準であったと考えられる。(乙8,16,弁論の全趣旨)
イ 以上の認定事実等に基づいて判断する。
(ア) 医師が患者に対し,手術のような医的侵襲を行うに際しては,原則的に患者の承諾を得る前提として病状,治療方法,当該治療方法に伴う危険性(合併症の危険性を含む。)等について,当時の医療水準に照らし相当と認められる事項を説明すべきであり,そのような説明を欠いたために患者に不利益な結果を生ぜしめたときは,医療契約上の債務不履行又は不法行為等の法的責任を免れないと解される。もっとも,その説明の程度,方法については,具体的な病状,治療方法の性質・緊急性・必要性,治療方法に伴う危険の重大性,危険の発生率等を総合的に考慮して判断すべきである。
(イ) これを本件についてみるに,確かに,手根管症候群には,手指に痛みや痺れが生じる等の症状はあるが,これを放置することによって直ちに全身状態の悪化をきたす疾患ではなく,鏡視下手術の緊急性・必要性は必ずしも高いとはいえないこと,そのため一般的には保存的治療法を選択することも可能なこと,CRPSタイプⅡは,治療に反応しない場合があるほか,治療が遅れた場合には,難治性となりうるという危険があることからすると,鏡視下手術の承諾を得るにあたって,神経が損傷されるとCRPSタイプⅡを含む神経因性疼痛が発生することがあること,その内容,それが発生する確率等をも詳細に説明すべきであったとする考えも検討に値する。
(ウ) しかし,
a 被告病院への初診時において,すでに原告は小鹿野中央病院から手根管症候群に対する鏡視下手術を希望する患者として紹介されており,A医師は,その希望を前提として治療にあたったという経緯がある。
b A医師は,原告に対し,約5か月の間をおいて2度にわたって,鏡視下手術には合併症として腱,神経及び血管の損傷がある旨説明したところ,原告は,数週間をおいた後に同手術の実施を承諾したのであり,神経損傷等からどのような症状が発生するかについて十分に理解できるまで,関口医師又はA医師に質問する機会があった。
c CRPSタイプⅡでは,痛み,アロディニアと痛覚過敏の症状が発生するが,生命侵害やそれに準ずるほどの重大な身体傷害が発生する疾患ではなく,説明の程度も障害の程度に相当するもので足りる。
d 鏡視下手術に伴い指神経損傷の合併症が生じる確率は,0.3ないし2パーセントに過ぎなかったものであり,CRPSタイプⅡに相当する症状の発端となる傷害から実際にCRPSタイプⅡが発症する頻度は約1パーセントとする記載がある医学文献が本件手術時に存在したのであり,これらの文献の記載からすると鏡視下手術に起因するCRPSタイプⅡの発生確率はかなり低かったものと推認される。そして,これらの医学的知見は,平成10年当時の医療水準であった。
以上のaないしdの事情を総合考慮すると,A医師として原告から本件鏡視下手術の承諾を得るにあたって,同手術の際に神経を損傷する可能性があるという説明のほかに,CRPSタイプⅡを含む神経因性疼痛が発生することがあること,その内容,それが発生する確率等をこと細かに説明すべきであったとまでは認めることはできない。したがって,A医師に説明義務違反があったということはできない。
(エ) なお,被告は,A医師が平成10年5月13日及び同年10月14日の説明の際,神経損傷の可能性があることのほか,神経が損傷されるとかえって痛みが強くなってしまうことがある旨述べることによって,CRPSタイプⅡの症状についても説明したと主張し,これに沿う証拠(乙7,証人A)もある。しかし,証拠(甲4,5,乙1)及び弁論の全趣旨によると,カルテには,腱,神経及び血管の損傷の危険性がある旨の説明をしたことをうかがわせる記載があるにもかかわらず,神経損傷の結果から派生する症状について説明をしたことをうかがわせる記載はないこと,後掲のとおり,A医師が本件手術及び本件再手術後,CRPSタイプⅡの罹患に対して十分に注意を払っていたとはいえないこと等からすると,そのような説明をしたと認めることはできない。
(2) 本件手術における手技上の過失
ア 後掲各証拠及び弁論の全趣旨に前掲の争いのない事実等を総合すれば,次の各事実が認められる。
(ア) 手根管とは,手首から手掌の中央付近に位置し,甲側の手根骨と手掌側の横手根靱帯に囲まれたトンネル状の空間である。その手首の部分は25ミリメートルから30ミリメートルの長径があるが,指側に進むにつれて狭くなり,最も狭い部分では18ミリメートルから20ミリメートルとなっている。また,手根管の内部には,正中神経及び9本の屈筋腱が存在し,手首部分から指先部分に向かって伸びているほか,手根管の指側の端(遠位端)を超えた付近には,別紙記載のとおり,正中神経の分肢である総掌側指神経が存在する。なお,正中神経が総掌側指神経等に分かれる部位には個体差があり,手根管の中で分かれる例や手根管の遠位端で分かれる例のほか,遠位端を超えた部分で分かれる例もある。(乙2,4,7,17,証人A)
(イ) 外套管とは,先端が閉じているチューブ状の管であり,内径約6ミリメートル,外径約8ミリメートルの大きさがある。この中には内視鏡(30度斜視鏡を使用している。)を挿入することができ,透明であることから,外套管の中から外の様子を観察できる。もっとも,上記(ア)のように手根管内には正中神経等が存在するため,視界が遮られ,外套管に接している部分及びその付近だけしか観察できないという限界がある。また,フックナイフとは金属製の長いナイフであり,先端部分に刃先が付いている。(乙7ないし9,10の1,2,同17,証人A)
(ウ) 鏡視下手術においては,手首の部分を約1センチメートル切開して,切開部から外套管を手根管内の尺側に挿入し(これは正中神経の本管が手根管内の橈側に存在するため,その損傷を防ぐためである。),手掌部の中央部分(手根管を出たところ)まで進めることになる。そして,外套管の中の内視鏡を進めると同時に,内視鏡で映された映像をモニター画面上で確認しながら,外套管の平らな面にフックナイフの刃先を沿わせて進めていく。その際,神経等の損傷を防ぐため,フックナイフの刃先は寝かせておく。フックナイフの刃先が横手根靱帯の先端まで到達したら,刃先を掌側に立てて,先端部分に刃先をかけ,手首側に引くことにより横手根靱帯を切断する。横手根靱帯の厚みは,最も厚い部分で約6ミリメートルあり,これに対し刃先の長さは約4ミリメートルなので,2,3回引かないと横手根靱帯は切断できない。(乙7,9,17,証人A,)
(エ) A医師は,本件手術において,上記(ウ)のとおりの手技で鏡視下手術を実施したが,その際,2本の総掌側指神経のうち中指尺側及び環指橈側を支配する部分(尺側寄りの総掌側指神経)をフックナイフで切断した。切断されたのは別紙記載の赤線で囲まれた部分である。(乙7,17,証人A)
(オ) 総掌側指神経の周囲に存在する腱鞘滑膜が肥厚している場合には,神経が確認しにくくなることがある。その場合に鏡視下手術をするにあたっては,スクレーバーを使用し,腱鞘滑膜を削れば,内視鏡によって神経の存在を確認することができる。しかし,スクレーバー自体には刃が付いていないので,神経等を切断することはできない。また,本件手術においては,外套管が神経からフックナイフを遠ざけるプロテクターの役割を果たすため,神経損傷の可能性は比較的少ないが,可能性がまったくないわけではない。さらに,押して切る形式のナイフでは力のコントロールを誤ってナイフを横手根靱帯の遠位端側に挿入しすぎれば,総掌側指神経を損傷する可能性がある。(乙9,10の3,16,17,証人A)
(カ) 総掌側指神経が横手根靱帯の遠位端のすぐ掌側に隠れるように横たわっている場合には,内視鏡の死角に入ってしまい,これを認識することはできないままに切断する可能性がある。しかし,このような神経走行の例が存在するか否かについては,解剖学上明らかではなく,このような神経走行の異常やそれを原因とする神経損傷の報告はA医師としても経験したことがない。(乙4,17)
イ 以上の認定事実等に基づいて判断する。
(ア) A医師は,本件手術において,尺側寄りの総掌側指神経をフックナイフで切断したのであるが,鏡視下手術においては,外套管が神経からフックナイフを遠ざけるプロテクターの役割を果たすものの神経損傷の可能性がないわけではないこと,押して切る形式のナイフでは力のコントロールを誤ってナイフを横手根靱帯の遠位端側に挿入すれば,総掌側指神経を損傷する可能性があるところ,本件手術で使用した引いて切る形式のフックナイフでも横手根靱帯の遠位端付近まで挿入すれば,その部分に存在する総掌側指神経を切断する可能性があることからすると,外套管を尺側寄りに挿入した本件手術においても,尺側寄りの総掌側指神経をフックナイフで切断するという事実は予見可能であったといえる。
(イ) そこで,尺側寄りの総掌側指神経の切断という結果の回避可能性について検討すると,
a 本件手術では,神経損傷等を防ぐため,内視鏡で映された映像をモニター画面上で確認しながら,手技を行っているのであり,横手根靱帯の遠位端付近に存在する総掌側指神経付近までフックナイフが進んだ際には,その部分まで内視鏡を進めて同神経の位置をモニター画面上で確認することができた。
b 内視鏡を総掌側指神経が見える位置まで進めたとしても,腱鞘滑膜が肥厚しているために,同神経が確認しにくい場合があるが,その場合には,スクレーバーを使用し,腱鞘滑膜を削って同神経の位置を確認することができた。
c 内視鏡には外套管に接している部分及びその付近だけしか観察できないという限界があるが,外套管を操作することによって,フックナイフで切断する部分に同神経が走行しているかどうかについて確認することは可能であった。
以上のaないしcを総合考慮すると,A医師には尺側寄りの総掌側指神経の位置を確認せずに,同神経を切断した過失がある(以下,当該過失を「本件第1過失」という。)。
(ウ) なお,被告は尺側寄りの総掌側指神経の切断は不可抗力であったと主張し,これに沿う証拠(乙17)もあるが,同神経が横手根靱帯の遠位端のすぐ掌側に隠れるように横たわっているという神経走行の異常例が存在するか否かについては,解剖学上明らかではなく,このような神経走行の異常やそれを原因とする神経損傷の報告はA医師としても経験したことがないというのであるから,上記認定を覆すことはできない。
(3) 本件手術後,原告におけるCRPSタイプⅡの発症を看過し,適切な治療を行わなかった過失
ア 後掲各証拠及び弁論の全趣旨に前掲の争いのない事実等を総合すれば,次の各事実が認められる。
(ア) 事実経過について
a 本件手術後の小鹿野中央病院における診察の状況は次のとおりである。原告は,平成10年11月7日,手指の他動運動痛がある旨訴え,シーネ(副木)固定をしてもらった。同月9日には,夜又は朝方に右手の痛みがある旨訴えており,母指から環指にかけては腫脹があった。同月12日には,疼痛がある,寝ることができない旨訴え,手指の腫れがあった。同月17日には,示指から環指に運動時の痛みがある旨訴え,示指,中指の指先部が腫れていた。同月27日には,右手が痛くて使えない,母指から中指にかけてビリビリ感がある,環指の半分に痺れがある旨訴え,右手全体が腫れているようであった。同年12月4日には,右手の痛みは低下したものの,示指,中指,環指の痛みがある旨訴えていた。平成11年1月19日には,母指と示指はよく使えるが,中指と環指がつらい旨訴えていた。(甲19,31,乙13,原告本人)
b 本件手術後の被告病院における診察の状況は次のとおりである。A医師は,本件手術終了時点では,本件手術により尺側寄りの総掌側指神経を切断したことを認識していなかった。本件手術から1週間経過した平成10年11月11日,原告は,A医師に対し,同月7日に小鹿野中央病院において,右手に痛みがあることから,安静を目的としてシーネ固定をしてもらった旨伝えた。その際の右手の腫脹は強かった。同月25日の被告病院における診察時にも腫脹があった。同年12月9日,右手の腫脹は少なくなってきたが,まだ完全把握はできなかった。平成11年1月13日,中指尺側及び環指橈側の知覚が低下し,痺れがある旨訴え,A医師は同日の診察において,本件手術の際に尺側寄りの総掌側指神経を損傷した可能性があると考えた。同年2月2日に本件再手術を施行したところ,本件手術により総掌側指神経を切断したことが明らかになり,神経を縫合した。なお,A医師は,関口医師に対し,平成11年2月2日付の「御返事」と題する書面において,本件手術後には疼痛が激しかった旨伝えた。同月10日,腫脹はなく創はきれいであった。同年3月24日,まだ指神経縫合部でのチネルサインが強かったが,手指の屈曲は以前より痛みが軽かった。遠位指節間関節,近位指節間関節,中手基節間関節の拘縮は軽度であった。しかし,同年4月28日,手術瘢痕は硬く,チネルサインは2か所に認められ,中指尺側と環指橈側を触るとビリビリ感があった。同年5月12日,連休過ぎから痺れ感,ビリビリ感が強くなり,右手は全く使えなくなった。A医師は,知覚過敏の状態と考え,原告に三度目の手術を勧めた。同月26日,原告は,2日間,朝起きたときに全く痛みがないことがあったが,従前と自覚症状が余り変わらない,3月,4月時の状況よりは痛いと訴えたが,A医師は,1年は経過を見たいとし,同年6月23日に来院するように指示した。(甲19,乙1,7,13,証人A)
c A医師は,原告に対し,本件再手術により,本件手術に起因する神経損傷が判明した後においてもCRPSタイプⅡの発症可能性を疑わず,同症の診断に必要なフェントラミンテスト等の検査や星状神経節ブロックのような麻酔科的治療の実施をせず,麻酔科・ペインクリニック科へ紹介しなかった。そして,原告は,平成11年6月11日に日大病院において診察を受け,その後は被告病院を受診することはなくなった。(甲20,30,31,乙1,7,証人A,同加藤,原告本人)
(イ) 鏡視下手術及び神経損傷に関する医学的知見について
a 神経を損傷することなく,鏡視下手術が成功した場合,手術のための麻酔が切れた時点で,痺れ感は消失し,知覚も正常に回復する例もあるが,そのような例は割合としては少なく,多くの症例では,痺れが消失し,知覚が正常に回復するまでに約8週間かかるなど一定期間が必要であり,中には約6か月かかることや,それ以降も回復しない例もある。(乙7,8,16)
b 鏡視下手術において出血が生じ,神経が圧迫されて一時的に知覚過敏や知覚鈍麻,筋力低下が発生したり,血腫のために患部が強く腫脹して,軟部組織を圧迫するために,強い疼痛が生じることもある。このような場合には,出血を抑え,血腫の吸収を図るとともに,痛くても積極的に手を動かす必要があり,そのような対処をしないならば,回復まで数ヶ月を要することもある。(乙16,証人A)
c 神経損傷が生じると,損傷された神経の損傷部位以遠の支配筋に運動麻痺が生じ,神経切断の場合には随意運動が消失することがある。また,損傷を受けた神経が支配する皮膚の領域の知覚障害が出現し,完全な神経断裂では,知覚脱失の状態となったり,知覚過敏が認められることもある。(乙11,12)
(ウ) CRPSタイプⅡに関する医学的知見について
a CRPSタイプⅡの罹患においては次のような機序をたどる。神経損傷等に対して交感神経が反射的に興奮する結果,血管が収縮して血流障害が生じて低酸素状態となり,組織(皮膚,筋肉,骨)が萎縮・拘縮することで損傷神経の支配領域を超えた範囲に痛みが生じる。その結果,さらに交感神経が刺激され,せき髄や脳といった中枢側の神経細胞に感作されたものができあがってしまうと,損傷部位が修復されても痛みが緩和しなくなってしまう。したがって,CRPSタイプⅡの確定診断においては,交感神経が関与しているかどうかを判断すべきであり,その点を明らかにするフェントラミンテスト(交感神経遮断薬であるフェントラミンを静脈内投与して痛みが減るかどうかを観察するテスト)が重要となる。確定診断には,画像診断や診断的神経ブロックという方法もある。(甲26,28,30,57,58,乙15,証人加藤)
b 本件手術時までにA医師は,約130例の鏡視下手術を実施しており,そのような豊富な経験を有する整形外科医に適用される本件手術時のころの医療水準におけるCRPSタイプⅡの診断基準(以下「本件診断基準」という。)は,①神経損傷後の,必ずしも損傷神経の分布に限局しない,持続する痛み,アロディニア又は痛覚過敏症がみられる,②浮腫,皮膚血流量の変化又は異常発汗が疼痛部位にみられる,③上記①②の症状がみられても,疼痛や運動機能異常の程度が他の状況から説明できる場合は除外される,④上記すべての基準を満たさなければならない,というものであった。(甲26,30,57,乙5,15,証人A,同加藤)
c 本件当時のCRPSタイプⅡの治療に関する医療水準は次のとおりであった。CRPSタイプⅡが発症した場合,神経ブロック療法,薬物療法,電気刺激療法,物理療法,理学療法等の治療を行うことになる。早期にタイミングよく適切な治療を行うと完治する場合もあるが,種々の治療に抵抗性を示す症例も多く,治療を積極的に行えば行うほど他の症状が出現したり,もとの症状が悪化するような症例もあり,患者に大きな負担を強いる結果となることがある。したがって,CRPSタイプⅡはペインクリニック診療の現場では治療が困難な疾患といえ,決定的な治療法がないことから,発症の予防や早期の集中的な治療が重要である。発症の原因や誘因は明確であり,神経損傷や外傷の受傷時点から発症を防止する措置(適切な消炎鎮痛剤の投与,交感神経ブロックなど)を講ずべきである。(乙5,15)
d CRPSタイプⅡの診療については,整形外科医,麻酔科医及びペインクリニック科医が精通しており,患者を整形外科医からペインクリニック科医に紹介するということがある。なお,被告病院には,麻酔科やペインクリニック科があり,整形外科医であるA医師は,本件再手術までに多くの患者を両科に紹介した経験があった。(証人A,同加藤)
イ 以上の認定事実等に基づいて判断する。
(ア) 本件診断基準①について検討する。この点,被告は,本件手術の直後を除いて,原告がA医師に対し,激しい痛み等を訴えたことはないと主張し,これに沿う証拠(乙1,7,証人A)もある。
しかし,
a 原告は,小鹿野中央病院において,平成10年11月7日,同月9日,同月12日,同月17日,同月27日と一貫して右手の痛みがある旨訴えており,その痛みは,シーネ固定が必要であり,寝ることができないと訴えているほどの激しい痛みであった。また,同年12月4日には,右手の痛みは低下したものの,示指,中指,環指の痛みがあった旨,同月28日には,示指,環指,小指の他動伸展時には痛みが生じる旨,平成11年1月19日には,母指と示指はよく使えるが,中指と環指がつらかった旨をそれぞれ訴えていた。このように,小鹿野中央病院では激しい痛み等を訴えていたにもかかわらず,同時期の同部位の診察において被告病院では激しい痛み等を訴えないということは不自然である。
b 上記aの激しい痛みの訴えは,後に神経損傷が判明した尺側寄りの総掌側指神経が支配する中指尺側及び環指橈側に限局されたものではなかった。
c 証拠(甲31,原告本人)によると,原告は,本件手術後,一貫して右手の痛みがあり,そのことをA医師に伝えた旨供述しており(陳述書の記載を含む。),そのことは小鹿野中央病院において痛みを訴えていた事実と符合する。他方で,A医師は,本件手術直後には疼痛を激しく訴えていたと認識していたにもかかわらず,その旨のカルテの記載はないのであるから,被告病院のカルテに記載がないからといって激しい疼痛がないと評価することはできない。
d 証拠(証人A)によると,本件再手術前の原告からの痛みの訴えについて,A医師は,「今から思えば,神経断裂がありましたから,痛かったのかもしれません。ただ,強い痛みを訴えるようなことはありません。すなわちカルテに記載するような強い訴えをしたことはありません。」と証言しており,程度は別として原告が痛みを訴えた事実があることを否定していない。
e 証拠(乙15,16)によると,本件診断基準①について,自発痛であることを要求する医学的知見も存在するが,これらの証拠に掲げられた医学文献においてもCRPSタイプⅡの診断基準として,アロディニアや痛覚過敏も含まれるところ,これらは他動伸展時の痛みと区別ができないのであるから,本件診断基準①の該当性を検討するに際して,他動伸展時の痛みであることは問題とならない。
f 被告は,本件診断基準①に関して,ここにいう痛みとは灼熱痛であり,単なる痛みではないとして,本件では,CRPSタイプⅡを疑わせる事実はなかったと主張し,これに沿う証拠(乙6,15,16)もある。しかし,これらの証拠に掲げられた医学文献においてもCRPSタイプⅡの診断基準として,アロディニアや痛覚過敏も含まれるところ,それらの痛みの程度は灼熱痛に限らないこと,痛みの感じ方は主観的なものであり,その表現方法も個人差があることからすると,灼熱痛である,又はそれを推測させる旨の訴えがないからといって本件診断基準①を満たさないということはできない。
g 証拠(甲19,乙13)によると,本件手術後,本件再手術までの小鹿野中央病院における診察では,鎮痛剤が従前よりも多く処方されていたわけではない。しかし,上記認定のとおり,原告が小鹿野中央病院において右手の痛みを訴えていたことは動かしがたい事実であり,鎮痛剤が従前よりも多く処方されなかった理由は,痛みを抑制する効果が低かったために処方がなされなかったと推認できる。
以上のaないしgを総合考慮すれば,原告はA医師に対し,本件手術後の被告病院での診察において,小鹿野中央病院において訴えたのと同様の右手の痛み(中指尺側及び環指橈側に限局されない痛み)を持続的に訴えていたと推認することができ,同基準を満たす。
(イ) 本件診断基準②について検討する。
この点,平成10年11月11日にA医師が診察した際,右手の腫脹が強く,同月25日のA医師の診察時にも腫脹が存在し,特に中手基節間関節より遠位のむくみがあった。また,同年12月9日,右手の腫脹は少なくなってきたが,まだ完全把握はできなかった。そして,これらの腫脹は中指尺側及び環指橈側に限局されない疼痛部位に生じた持続的な浮腫にあたることからすると,同基準を満たす。
(ウ) 本件診断基準③について検討する。
a 原告は,小鹿野中央病院において,ビリビリ感や痺れを訴えていたことからすると,それらについても痛みと同様にA医師に対して訴えていたと推認できる。もっとも,神経損傷が生じると,当該部位付近に運動麻痺が生じたり,随意運動が消失することや知覚障害となることがあるが,鏡視下手術が神経を損傷することなく,成功した場合であっても,多くの症例では,痺れが消失し,知覚が正常に回復するまでに約8週間かかるなど一定期間が必要である。したがって,本件手術後の一定期間は,ビリビリ感や痺れが神経損傷に基づくものか鏡視下手術自体から生じるものかを区別することはできない。しかし,本件再手術時には本件手術から約3か月が経過していたことからすると,痺れの原因が鏡視下手術が成功した場合であってもしばらくは残る痺れである可能性は低くなったといわざるをえない。
b 鏡視下手術によって知覚過敏,強い疼痛が生じる原因には,出血,血腫の発生もあるところ,神経損傷が明らかになっていない本件再手術前の時点では,原告が訴えていた痛みは,出血等に基づくものである可能性もあった。しかし,本件再手術時には本件手術から約3か月が経過していたことからすると,それまで持続していた中指尺側及び環指橈側に限局されない痛み及び腫脹の原因は,もはや,鏡視下手術の際に出血が生じたことによる痛みや腫脹である可能性は低くなった。
以上のa及びbを総合考慮すると,本件再手術前の時点では,本件診断基準①の症状は,鏡視下手術が成功した場合でも生じるものである可能性や鏡視下手術の際の出血に基づく可能性もあったのであるから,本件診断基準③を満たさない。これに対して,本件再手術後は,そのような可能性は低くなったのであり,同基準を満たすとも思える。もっとも,同基準は,その性質上,CRPSタイプⅡの確定診断たる内容を含むところ,フェントラミンテスト等の検査を行っておらず,神経損傷の事実だけが判明したにすぎない本件再手術の時点では,本件診断基準①②の症状について,他の原因から説明できる可能性も低くなったといえるにとどまる。したがって,本件再手術により,神経損傷が明らかになった時点で,本件診断基準③を満たす可能性があったが,満たすということはできなかったと認められる。
(エ) 本件診断基準④について検討する。
同基準は,本件診断基準①ないし③をすべて満たさなければならないというものである。この点,上記(ウ)で認定したとおり,本件再手術前は本件診断基準③を満たさないので,本件診断基準④も満たさない。また,本件再手術により神経損傷が判明した時点では,本件診断基準③を満たす可能性はあっても,満たすということはできないのであって,本件診断基準④を満たさないことになる。
(オ) 以上のとおり,確定診断としては,本件診断基準を満たすとはいえない。しかし,法的な損害賠償責任の有無は,医学的な確定診断とは異なる評価をすべき場合があるので,法的観点から本件の具体的な事情を総合的に考慮して判断すべきである。この点,
a CRPSタイプⅡは,種々の治療に抵抗性を示す症例も多く,治療を積極的に行えば行うほど他の症状が出現したり,もとの症状が悪化するような症例もあり,発症した場合には早期の集中的な治療が重要であり,神経損傷や外傷の受傷時点から発症を防止する対応をすべきである。本件では,神経損傷が判明した時点で,受傷から約3か月経過していたのであり,しかも,その神経損傷たるや,本件手術によって生じたという特殊事情もあったのであるから,これを知らされた患者の陥ることが当然に予想される不安な心理状態からしても,早急な対処がなされてしかるべきであった。
b CRPSタイプⅡの診療については,整形外科医,麻酔科医及びペインクリニック科医が精通しており,整形外科医からペインクリニック科医に紹介するということがあること,被告病院には,麻酔科やペインクリニック科があり,整形外科医であるA医師は,本件再手術までに多くの患者を両科に紹介した経験があったことからすると,A医師が本件再手術により,神経損傷が判明した時点で原告を麻酔科やペインクリニック科に紹介することは容易であった。
上記(ウ)で認定したとおり,本件再手術により,神経損傷が判明した時点で,本件診断基準①②を満たしていたこと,当該時点で同基準③を満たす可能性があったことに加えて,以上のa,bを総合考慮すると,A医師は,フェントラミンテスト等による確定診断前の当該時点であっても,遅くとも平成11年5月12日の段階では,原告がCRPSタイプⅡに罹患したか,少なくともそれを発症する可能性を予見し,できるだけ早期に同症の診断に必要なフェントラミンテスト等の検査をすると共に,CRPSタイプⅡの発症ないし悪化を防止すべく,星状神経節ブロックのような麻酔科的治療の実施をし,麻酔科・ペインクリニック科へ紹介すべき注意義務を負っていた。ところが,A医師はこのような注意義務に違反し,1年は経過を見たいとの悠長な診断をしたのであり,過失が認められる(以下,当該過失を「本件第2過失」という。)。
(4) 小括
したがって,A医師には,原告に対する診療行為について,本件第1過失及び本件第2過失という2つの過失があったものと認められる。そして,これらの過失は不法行為責任を基礎付けるものであるといえる。
2 争点(2)(因果関係)について
(1) 後掲各証拠及び弁論の全趣旨に前掲の争いのない事実等を総合すれば,次の各事実が認められる。
ア 平成11年2月3日以降の被告病院における診察の状況は次のとおりである。同年3月24日には,手指の屈曲による痛みは以前より軽くなった旨の訴えがあった。同年4月28日には,中指尺側及び環指橈側を触るとビリビリ感がある旨の訴えがあった。同年5月12日には,連休すぎより痺れ感,ビリビリ感が強くなり,右手はまったく使えなくなった旨の訴えがあった。同月26日には,痺れ感等について本人の自覚的にはあまり変わらないが,2日間,朝起きたときにまったく痛みがないことがあった旨の訴えがあった。(乙1,7,12,証人A)
イ 平成11年2月3日以降の小鹿野中央病院における診察の状況は次のとおりである。同年2月8日には,痛みは低下したとの訴えがあったが,いまだ,手の腫れが少々あった。同月15日には小指から中指にかけて他動運動時に痛みがあり,同月16日には,手関節近位掌側に痛みがある旨の訴えがあった。同年3月1日には,手掌の痛みがあり,同月9日には,示指,中指に痺れがあり,同月16日には,痛みのため箸が使えず,家事ができない旨訴えた。同年4月1日には中指,環指の痺れがあり,同月13日には,中指から小指にかけて伸展が制限される状態となった旨の訴えがあった。同年5月7日には,ここ数日,母指と示指を動かすと痺れが生じ,同年6月1日には,痺れがほとんど毎日あり,中指と環指はほとんど触れさせたくない程になった旨訴えた。(甲19,乙13)
ウ 日大病院における診察の状況は次のとおりである。平成11年6月11日,右手の痺れ感のため,生活,仕事,睡眠に支障がある旨訴えた。同月14日には,手全体の痺れがあり,親指,環指及び小指に触覚過敏があり,示指及び中指には異常感覚があった。同月18日には,アロディニアが小指と環指にあり,親指を除く全ての右手の指に触覚過敏があった。同日,フェントラミンテストを実施したところ,フェントラミンの投与により,痛みが約30パーセント減少し,CRPSタイプⅡである旨の確定診断がなされた。同日以後,CRPSタイプⅡに対する治療として,星状神経節ブロック,頸部硬膜外ブロック,ケタミン治療等がなされ,同年9月16日には本件手術で神経が切断された部位について,神経の癒着を剥離する手術が実施された。しかし,原告の症状は,痛み等が緩和することもあるが,消失することはなく,日大病院での上記のような治療を継続しつつ,後掲エの現症に至っている。(甲24,28ないし31,57,乙6,証人加藤,原告本人)
エ 平成12年5月1日の原告の症状は,右手指の疼痛,関節拘縮により,指機能の著しい障害が認められ,右手では,物をつまむ,物を握る,さじで食事をする,顔を洗うといったことができなかった。また,平成15年6月26日の原告の症状は,右手指に痛み,痺れ,アロディニアの訴えがあり,手掌部に萎縮が認められるというものであり,CRPSタイプⅡに対する治療を行うも効果は一時的で,引き続き通院加療が必要であった。そして,原告の現症は,CRPSタイプⅡの罹患により,右手の総掌側指神経が支配する中指尺側及び環指橈側を超えて,右手全体に痛みや痺れがあるというものである。特に,中指,環指及び小指では物を持つことができない状態であり,日大病院における治療後には数時間の間,親指及び示指を使って軽い物をつかめるというときもある。(甲11,19,20,22,24,30,56,61,原告本人)
オ 一般にCRPSタイプⅡに罹患すると,完治が困難であり,約2割しか完治しないという報告もある。そして,完治しない場合には,痛みや関節の拘縮等が続き,痛みが拡大することもある。しかし,このような完治率の低さは,星状神経節ブロック等のCRPSタイプⅡに対する治療が実施される時期が遅れがちであることが原因であって,早期に治療を始めれば,完治する割合は高まるし,完治しないまでも,痛みの拡大を抑制することができる。この点,CRPSタイプⅡの病期を区別することには意味がないとする医学文献も存在するが,受傷から約3か月を急性期と分類し,この時期が最も治療効果がよいとする医学文献も存在する。(乙5,15,16,証人加藤)
(2) 以上の認定事実等に基づいて判断する。
ア まず,本件第1過失と原告の現症との間の因果関係について検討する。
(ア) 訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり,その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし,かつ,それで足りると解すべきである。
(イ) これを本件について見るに,
a 上記のとおり,CRPSタイプⅡは,神経損傷が発端となる疾患であり,当該過失と原告の現症との間の条件関係は認められる。しかし,上記1(1)アで認定したとおり,CRPSタイプⅡの発端となる傷害としては,四肢遠位部の小外傷,骨折,小手術(手根管症候群鏡視下手術,膝関節鏡視下手術)などがあげられ,これら全体からのCRPSタイプⅡの発症頻度は約1パーセントであることが,平成10年当時も医療水準となっていたと認められる。そうすると,本件第1過失があったとしても,CRPSタイプⅡが発症する可能性は低かったといえる。
b CRPSタイプⅡは,神経損傷が発端となる疾患であるが,神経損傷により,即,発症するものではなく,交感神経の関与により,せき髄や脳といった中枢側の神経細胞に感作されたものができあがってしまい,神経の損傷部位が修復されても痛みが緩和しなくなってしまうという疾患である。したがって,因果関係の判断にあたっても,神経損傷だけでなく,交感神経の関与を考慮すべきである。
c 本件では,本件第1過失の後に,本件第2過失が介在しているところ,原告の現症との関係では,後掲のとおり,同過失が重要な役割を果たしているといえる。
以上のaないしcを総合考慮すると,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうる程度で足りるとしても,本件第1過失が原告の現症を招来したという関係を是認しうる高度の蓋然性を認めることはできない。したがって,本件第1過失と原告の現症との間の因果関係は認められない。
イ 次に,本件第2過失と原告の現症との間の因果関係について検討する。
(ア) この点,被告は,原告の現症は,日大病院での平成11年9月16日の手術との間に因果関係があると主張し,これに沿う証拠(乙15,16)もある。そこで,これを本件についてみるに,
a 被告病院における診察の状況からは,平成11年2月3日以降,同年5月12日に至るまで,総掌側指神経が支配する領域を超えた痛み等を訴えていないようにも思えるが,上記1(3)において認定したとおり,原告が訴えていた痛み等がすべて被告病院におけるカルテに記載されていたわけではないこと,小鹿野中央病院では,同時期に総掌側指神経が支配する領域を超えた痛み等を訴えていること等からすると,この期間にも原告は,総掌側指神経が支配する領域を超えた右手の痛み等を訴えていたと認められる。また,同日には,5月の連休すぎより痺れ感,ビリビリ感が強くなり,右手はまったく使えなくなった,同月26日には,2日間,朝起きたときにまったく痛みがないことがあったが,痺れ感等について本人の自覚的にはあまり変わらない旨の訴えがあった。したがって,被告病院において,同年2月3日以降,同年5月末に至るまで継続的に,総掌側指神経が支配する領域を超える痛み等の訴えがあったと認められる。これらは,本件診断基準①を満たす。
b 原告は,小鹿野中央病院において,平成11年2月3日以降,同年6月1日まで継続して,総掌側指神経が支配する領域を超える痛みや痺れを訴えていた。このことは,本件診断基準①を満たす。
c 日大病院においては,平成11年6月11日,同月14日,同月18日の各日には,総掌側指神経が支配する領域を超える右手の痺れの訴え,触覚過敏,異常感覚,アロディニアがあった。これらは,本件診断基準①を満たす。また,同日,フェントラミンの投与により,痛みが約30パーセント減少した。このことは,痛みに交感神経の関与があることを意味する。
d 平成11年2月3日以降,本件診断基準②を満たす事実は証拠上認められないが,同日以前にはそのような事実が認められることからすると,同日以降に同基準を満たす事実が証拠上認められないことをもって,CRPSタイプⅡが発症していないということはできない。
以上のaないしdを総合考慮すれば,少なくとも平成11年6月18日には,CRPSタイプⅡが発症していたのであり,原告の現症と同年9月16日の日大病院における手術との間に因果関係があるとは認められない。
(イ) そうであるとしても,本件第2過失と原告の現症との間の因果関係は,別個に検討する必要がある。この点,医師が注意義務に従って行うべき診療行為を行わなかった不作為と患者の後遺症との間の因果関係は,医師が当該診療行為を行っていたならば患者に当該後遺症が生じなかった(後遺症がより軽減された)であろうことを是認しうる高度の蓋然性が証明されれば肯定されるものと解すべきである。
これを本件についてみるに,原告はA医師に対し,平成11年5月12日,連休すぎより痺れ感,ビリビリ感が強くなり,右手はまったく使えなくなった旨訴えた。この訴えは,右手がまったく使えなくなったという点で,それ以前の痛みや痺れの訴えよりも顕著な訴えであった。また,上記認定のとおり,平成11年6月18日にはCRPSタイプⅡに罹患していた。そうすると,同年5月上旬ころにCRPSタイプⅡの症状が顕著に進行したということができる。したがって,遅くとも同年5月12日の時点で,CRPSタイプⅡの発症ないし悪化を予見し,これを防止するべく,治療を開始していれば,その後におけるCRPSタイプⅡの症状の顕著な進行を防止,又は,軽減できた可能性がある。そうすると,本件第2過失の時点で,CRPSタイプⅡの罹患を疑うか,これを予見し,同症の診断に必要なフェントラミンテスト等の検査や星状神経節ブロックのような麻酔科的治療の実施をし,麻酔科・ペインクリニック科へ紹介していれば,原告の現症は生じなかった,又は現症が軽減されたであろうことを是認しうる高度の蓋然性があったといえる。したがって,本件第2過失と原告の現症との間には,因果関係が認められる。
3 争点(3)(損害)について
(1) 上記認定のとおり,原告の現症についてA医師は本件第2過失による不法行為責任を負うところ,同医師は被告病院に勤務する医師として被告の事業の執行について診療行為を行った者であるから,被告は民法715条に基づき使用者責任を負う。そこで,以下,損害額について検討する。
(2) 治療費
治療費については,必要かつ相当な実費全額が損害となる。この点,本件第2過失により生じたCRPSタイプⅡの罹患が明らかになった平成11年6月18日以降平成15年5月末までに支出した治療費を損害とすることが相当であるところ,証拠(甲35ないし52)及び弁論の全趣旨によれば,その金額は,合計183万3360円となる。
もっとも,
ア 上記2(2)で認定したとおり,本件第2過失がなかったとしても,原告の現症が軽減されたにすぎないという可能性がある。
イ 証拠(甲19ないし25,乙13)によると,原告は,被告病院の診察を受ける前から左手の痛み,両肩痛,右手上腕の痛み等を訴えているところ,日大病院での治療の際には,右手の手掌部の痛みや痺れに対する治療を中心としつつも上記の肩痛等に対する治療も一部なされていたことが認められる。
以上のア,イを総合考慮すれば,上記合計額すべてを本件第2過失から生じた損害と認めることは相当ではない。そこで,本件に顕れた全事情を総合考慮して,上記合計額から3割を控除した128万3352円を損害額として認める。
(3) 交通費,入院・包帯等雑費
ア 交通費については,証拠(甲20,22,25)及び弁論の全趣旨によれば,原告宅から日大病院までの往復の交通費は4120円であり,これにCRPSタイプⅡの罹患が明らかになった平成11年6月18日から平成15年5月末までの間の日大病院への通院日数の279日を乗じると,114万9480円となる。もっとも,上記(1)で認定したとおり,本件第2過失がなかったとしても,右手の痛み等が残存した可能性もあること等からすると,通院交通費についても3割を控除した80万4636円を損害額として認めることが相当である。
イ 入院雑費については,証拠(甲22,36,45)及び弁論の全趣旨によれば,入院期間は41日であるところ,入院雑費は1日につき1300円とすることが相当であるから,5万3300円を損害額として認めることが相当である。また,包帯等の雑費については,本件全証拠に照らしてもこれを認めるに足りる証拠はないので,損害として認めることはできない。
ウ 以上のア,イより,交通費,入院・包帯等雑費については,85万7936円を損害額として認めることが相当である。
(4) 将来の治療費,通院交通費
ア 将来の治療費,通院交通費については,上記2(1)エで認定したとおり,平成15年6月下旬に至っても右手指に痛み,痺れ,アロディニア等があること,上記2(1)オで認定したとおり,早期治療がなされないとCRPSタイプⅡの完治は困難であることも併せ考えると,将来にわたって右手指の痛み,痺れ等が残存すると推認でき,その軽減を図るために将来の治療費等を損害と認めることが相当である。
イ この点,証拠(甲20,22,25,38ないし50)及び弁論の全趣旨によれば,平成12年の治療費及び通院交通費の合計額は60万3840円,平成13年の合計額は95万9770円,平成14年の合計額は73万6030円であり,計算式1のとおり,それらの平均額は76万6546円である。また,証拠(甲54)によると,原告は昭和31年7月28日生まれの女性であり,平成15年には満47歳であったところ,平成14年簡易生命表によれば,平成15年当時の47歳の女性の平均余命は39.41年であり,小数点以下を切り捨てた39年のライプニッツ係数(中間利息控除の割合は年5パーセント)は,17.0170となる。さらに,平成15年5月末までに支出した治療費,通院交通費は上記(2)(3)において損害に算定されているので,その分の金額(証拠〔甲51,52〕及び弁論の全趣旨によると,19万0430円である。)を控除する必要がある。そして,将来の治療費等の算定にあたっても,上記(1)で認定したとおり,上記の平均額にライプニッツ係数を乗じ,既払分を控除した金額から3割を控除することが相当である。そこで,計算式2のとおり,899万7718円を損害額として認める。
(計算式1)(603,840+959,770+736,030)÷3=766,546(小数点以下切捨て。以下同じ)
(計算式2)〔(766,546×17.0170)−190,430〕×(1−0.3)=8,997,718
(5) 休業損害
ア 弁論の全趣旨によると,原告は家事従事者であると認められるところ,平成10年度賃金センサス第1巻第1表,産業計・企業規模計・学歴計・女子労働者の全年齢の平均賃金は341万7900円である。
イ 上記2(1)ウ,エ,オ及び弁論の全趣旨によれば,CRPSタイプⅡの罹患が明らかになった平成11年6月18日から,後掲(7)イの症状固定時まで原告の症状は痛み等が緩和することもあるものの,一貫して痛み等のため右手を使用して家事等を行うことができなかったと認められる。そこで,同日から症状固定時が属する年が開始する直前の平成11年12月31日までの197日について休業期間とすることが相当である。
ウ 後掲(7)イのとおり,原告の現症は自動車損害賠償責任保険の損害賠償算定基準(以下,「損害賠償算定基準」という。)における後遺障害別等級表の第7級に相当し,その労働能力喪失率は56パーセントである。
エ 以上のアないしウの金額を基礎として休業損害を算定し,上記(1)で認定したとおり,この金額から3割を控除することが相当なので,次式のとおり,72万3133円を損害額として認める。
(計算式)(3,417,900÷365)×197×0.56×(1−0.3)=723,133
(6) 傷害慰謝料
傷害慰謝料については,CRPSタイプⅡに罹患したことが明らかになった平成11年6月18日から原告が主張する平成15年11月3日までの入院期間41日(慰謝料算定にあたっては1月に相当する。)とその間の実通院日数279日の3.5倍(慰謝料算定にあたっては32月に相当する。)を慰謝料算定のための期間と考えることが相当である。そして,これを上記損害賠償算定基準にあてはめると,225万円となる。もっとも,傷害慰謝料の算定にあたっても,上記(1)で認定したとおり,この金額から3割を控除することが相当であり,157万5000円を損害額として認める。
(7) 後遺症慰謝料
ア 原告は,後遺症の程度について,上記損害賠償算定基準の後遺障害別等級表における第5級(「1上肢の用の全廃したもの」又は「神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し,特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの」)に相当すると主張する。しかし,証拠(甲11,14,56,61)及び弁論の全趣旨によると,CRPSタイプⅡに起因する原告の現症は,右手の手指及び手掌に限定されていること,上記認定のとおり,被告病院の診察を受ける前から肩痛や右手上腕の痛み等を訴えていたことからすると,本件第2過失に起因して「1上肢の用の全廃したもの」という後遺症が生じたと認めることはできない。また,CRPSタイプⅡは,上記1(4)ア(ウ)で認定したとおり,せき髄や脳といった中枢側の神経細胞に影響を及ぼす疾患ではあるが,CRPSタイプⅡによる原告の現症は神経損傷部位及びその周辺に痛みを発生させているにすぎず,「1上肢の用の全廃したもの」と同等に扱われる「神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し,特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの」と認めることはできない。
イ そして,上記2(1)ウ,エで認定した事実からすると,平成12年5月1日の状態から以後の症状に変化はないので,同日には原告の症状が固定し,それが現症に至っており,その程度は,「1手の5の手指又はおや指及びひとさし指を含み4の手指の用を廃したもの」にあたると認められる。これは,上記損害賠償算定基準における後遺障害別等級表の第7級にあたるので,その後遺症慰謝料は1051万円とするのが相当である。もっとも,後遺症慰謝料の算定にあたっても,上記(1)で認定したとおり,この金額から3割を控除すべきであるから,735万7000円を損害額として認める。
(8) 後遺症による逸失利益
上記(5)で認定した基礎収入341万7900円に,後遺障害等級表の第7級の場合の労働能力喪失率56パーセントを乗じ,上記(7)イで認定した症状固定時たる平成12年の原告の年齢である44歳から67歳までの23年間のライプニッツ係数(中間利息を年5パーセントとする。20年間の係数13.4885)により控除し,上記(1)で認定したとおり,この金額から3割を控除することが相当であり,1807万2118円を損害額として認める。
(計算式)3,417,900×0.56×13.4885×(1−0.3)=18,072,118
(9) 弁護士費用
本件に顕れた一切の事情を総合考慮して,A医師の不法行為と相当因果関係のある弁護士費用として380万円を原告の損害として認める。
(10) 上記(1)ないし(9)を合計すると,4266万6257円となる。
(11) なお,原告の主張する他の損害賠償請求権について検討するに,医療契約上の債務不履行責任については,それが認められても上記の不法行為による損害賠償請求によって認められる損害額を上回ると認めるに足りる証拠はないので,判断するまでもない。
4 結論
以上の次第であるから,原告の請求は,不法行為(使用者責任)による損害賠償として4266万6257円及びこれに対する不法行為の日(原告の症状固定時)である平成12年5月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるので認容し,その余は理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・清水研一,裁判官・高橋彩,裁判官・西前征志)
別紙<省略>