さいたま地方裁判所川越支部 平成16年(わ)141号 決定 2006年10月12日
主文
本件公判手続を停止する。
理由
1 被告人の精神障害について(精神医学的診断)
この点,鑑定人医師A及び同B共同作成の鑑定書及び前記両名に対する受命裁判官の証人尋問調書(以下,併せて「本件鑑定」ということがある。),被告人の公判供述(公判手続更新前のものを含む)など一件記録によれば,以下のとおり認められる。
被告人は,2歳まで発語がなく,幼児期には,幼稚園で集団になじめず,他の子供と一緒の行動がとれなかった。すなわち,被告人には3歳以前より発達の障害が認められた。
被告人は,現在も集団になじむことができず,単独行動が多い(社会性の障害)。対人関係の取り方も一方的で相互交流になりにくい(社会性の障害,言語的・非言語的コミュニケーションの障害)。その一方で,単純な仕事なら指示に従い続けることができ,その課題が全く同じであっても丁寧に続けることができる(社会性の障害―受動型,想像力の障害)。言語表現には抑揚がなく,反響言語(オウム返し)も頻繁に見られる。
これらの事実に照らすと,被告人は,小児自閉症【自閉症】(世界保健機構【WHO】の国際疾病分類改訂第10版【ICD―10】精神及び行動の障害F84.0。以下「自閉症」という。)であると認められる。
他方,本件鑑定の際に実施された知能検査等の結果は,被告人のIQ(知能指数)は50前後(田中ビネー知能検査ではIQ51,精神年齢は9歳2か月。ウェクスラー成人知能検査改訂版ではIQ49。)であること,平成5年に実施された田中ビネー知能検査ではIQ40(精神年齢は7歳2か月相当)であり,障害の程度についての埼玉県総合リハビリテーションセンターの判定はB(中程度)であることや被告人が意志伝達,自己管理(自主活動)など生活全般に渡って支援を必要としていること(適応行動の障害)等に照らすと,被告人については中等度の精神遅滞(精神年齢は9歳前後)が認められる。
2 被告人のコミュニケーション能力(意思疎通能力)について
この点,本件鑑定等によれば,以下のとおり認められる。
被告人は,中学校(ただし,途中から養護学級に編入。)までの学校教育を受け,その後転職を繰り返しながらも就労を続けていた経験もあることなどから,相応に単語は知っており,短い文章自体を繰り返すことはできる。しかしながら,被告人は,自閉症であるがゆえに,相手がどのようなことを考えているかを推論する力が欠けており,言語をコミュニケーションの道具として使用することが困難な状態にある。
被告人の言語的コミュニケーションについては,①反響言語(オウム返し。言われたことをそのとおり繰り返すという形での応答。),②常同的応答(質問に対して必要とされている答えと無関係な同じ内容のフレーズを繰り返すこと。),③抽象的な質問を理解し,答えることが困難である上,質問の意図を汲み取って答えることが難しく,具体的にわかりやすく質問すれば,妥当な答えをすることがあるが,常にそれができるわけではなく,偶然質問者の意図を汲み取ることができたときに妥当な答えをしているにすぎない,④イエスノークエスチョンでは,矛盾した答えをすることがある(その場限りの応答)などといった特徴があり,被告人にはコミュニケーション障害が認められる。
自閉症におけるコミュニケーション障害は,質の障害とされており,現時点において障害の程度を判定する診断基準などは存在しないものの,被告人について認められるコミュニケーション障害は,非常に多岐に渡っている。また,自閉症を有する者であっても,知的能力が平均以上であれば,知的な論理展開によってコミュニケーション障害を補いうる場合もあるが,被告人には中等度の精神遅滞(精神年齢は9歳前後)もあることから,抽象的な事柄について理解することができず,知的能力によってコミュニケーション障害を補うことはできない。
3 被告人の発言内容の信頼性について
この点,本件鑑定によれば,被告人は,生育歴や職歴についてはほぼ正確に述べているものの,本件各公訴事実に関する質問に対する応答には正確性を欠いている部分がある上,容易に誘導されやすいという特徴が認められ,誘導されれば架空の事件を認める発言をしてしまうこともあることが認められる。
4 被告人の刑事手続に対する理解について
被告人は,過去に刑事裁判を受けた経験がある上,公判廷において,弁護士の「裁判官て何する人。」という質問等に対し,「決まること。決定,判決とか決定とか。」,「例えば,おうち帰れるか,帰れないか,決まること。」と供述しており,被告人なりに,刑事裁判によって自己の処遇が決定されるということを理解していることがうかがわれる。また,本件鑑定における問診結果や被告人の公判供述によれば,被告人は,検察官が事件の取り調べをすることも理解していることもうかがわれるが,弁護人や検察官が敵か味方かなどという質問に対しては,検察官も弁護人も「敵」であり,かつ両者とも「助けてくれる人」と述べており,弁護人や検察官の役割について正確に理解しているとは認めがたい。
次に,被告人の黙秘権についての理解について検討する。
そもそも黙秘権は抽象的な概念であるところ,被告人は,中等度の精神遅滞を伴う自閉症のため,抽象的な概念について理解することができない。また,被告人は,非常に多岐に渡るコミュニケーション障害を抱えているため,黙秘権の具体的な内容を噛み砕いて教えたとしても,その効果が上がるか疑問であり,その効果の検証も困難である。
被告人は,本件鑑定における問診や被告人質問において黙秘権の意味について問われた際,「こういうこと」とか,「こういうもの」などと答えているばかりか,上記問診において,鑑定人から「言いたくないことがあったら,どうする?」と質問された際,「いう。ボクは今,帰宅許可証と荷物返却許可証と10枚の紙。」などと答えており,黙秘権の内容を理解しているとは認めがたい応答をしている。
5 被告人の訴訟能力についての判断
以上のとおり,本件鑑定等によれば,①被告人が自閉症により非常に多岐に渡るコミュニケーション障害を有している上,中等度の精神遅滞(精神年齢は9歳前後)があるため,知的能力によってコミュニケーション障害を補うことができないこと,②それゆえに,被告人は,刑事裁判の構成員の役割や黙秘権について理解しているとは認めがたいこと等に照らすと,被告人には訴訟能力すなわち被告人として重要な利害を弁別しそれに従って防御することができる能力が欠けているといわざるをえない。
これに対し,検察官は,①被告人の知的障害は軽度精神遅滞の領域にあるにもかかわらず,本件鑑定は,具体的な根拠を示すことなく,被告人に中等度の精神遅滞があるとしている,②被告人のコミュニケーション能力は,一定程度制限されているとはいえても,これが失われているとはいえない,③本件鑑定においては,被告人に対し黙秘権や裁判手続について平易な説明をした上で,これらに対する被告人の理解力を確認していないほか,問診において被害者の氏名について殊更誤導を行ったり,わが国とは訴訟制度の異なるアメリカ合衆国での訴訟能力判定のためのスケール(訴訟能力測定のための構造化面接。以下「構造化面接」という。)をその運用実態が不明なまま使用しており,本件鑑定の手法には相当問題がある,④鑑定人は,訴訟能力の欠如と著しい制限とを明確に区別していないなどとして,本件鑑定は信用できない旨主張しているので,以下検討する。
①については,本件鑑定は,今回の知能検査の結果のみならず,これまで中等度の精神遅滞と判定されてきた経緯等も踏まえたものであり,起訴前の簡易精神鑑定においても中度の精神遅滞者と判定されていることにも照らせば,本件鑑定が被告人に中等度の精神遅滞があるとしたのは相当であり,被告人の知的障害は軽度精神遅滞の領域にあるなどとはいえない。
②については,前記2で指摘した被告人のコミュニケーション障害の特徴や,被告人にはこれを補うだけの知的能力がないこと等に照らせば,被告人が自宅から福祉施設に通所して稼働していたことや家族等とのコミュニケーションの状況等を考慮しても,被告人が刑事訴訟の場における防御が可能な程度のコミュニケーション能力があるなどとはいえない。
③のうち,検察官が問診において鑑定人が被害者の氏名について不当な誤導をしているという点については,検察官が問題にしている鑑定人の質問は,被告人に対し架空の事件についての質問をすることによって,被誘導性等の被告人の供述特性をテストしようとしたものであり,不当なものとはいえない。また,木村鑑定人が証言しているとおり,本件鑑定において,構造化面接の結果は,その問題点や限界を踏まえた上で,鑑定人の問診等による所見と矛盾しない限度で援用されているにすぎない。従って,本件鑑定において構造化面接を行ったことやその結果の取扱いが不当であるなどとはいえない。
④については,本件鑑定全体の趣旨に照らせば,鑑定人が「被告人の訴訟能力は著しく制限されている。」と表現している部分も,被告人が訴訟において要求される水準の能力を有しないという否定的な意味に解されるのであって,訴訟能力の欠如と訴訟能力の著しい制限(制限的に訴訟能力が肯定される場合)とを明確に区別していないという検察官の批判は,上記表現の真意を正しく理解していないものといわざるをえない。
以上のとおり,検察官の上記各主張はいずれも理由がない。
なお,本件については,本起訴前に精神科医師C(以下「C医師」という。)による簡易精神鑑定(以下「起訴前鑑定」という。)が行われているので,これについても検討する。
起訴前鑑定は,被告人(当時は被疑者。以下同じ。)の訴訟能力について,「被告人は中度の精神遅滞者であり,言葉の発達の遅れが見られ,訴訟場面での状況の認識も困難であると思われる。即ち,被告人には本件の訴訟遂行能力はないと考えられる。本件訴訟の遂行には適切な保佐人をつけることが是非とも必要と考える。」と判断している。
そして,C医師は,本起訴の1か月余り後に検察官から起訴前鑑定の内容について,聴取を受けた際,「被告人が,精神遅滞があることと,自閉症の症状があることから,裁判そのものの意味や,何を争点に争われているのかといった点について,一般の人と比べるとあまり十分な理解が得られないと考えられたことや,一般的に自閉症の人は突発的なことが起こると精神状態がかく乱してしまうため,裁判という新規の場所で被告人の真意を引き出すためには,被告人が安心できて,被告人の真意を代弁できる人が保佐人として必要だと考えられたため,参考意見として,被告人が単独で裁判に臨むことは困難だという意味で,簡易精神鑑定書に『被告人には本件の訴訟遂行能力はないと考えられる。』などと記載した。これは,被告人には自分のしたことが悪いことだとわからないとか,他人とのコミュニケーションが不可能であるという意味ではない。また,被告人には法律上の『訴訟能力』がないという意味でもない。被告人は,精神遅滞と自閉症のため,裁判や黙秘権といった概念について,一般の人が100だとすれば,30から40くらいの理解しかできないと思われるが,子供の頭を殴ることが悪いことであるという認識や,それが原因で警察に捕まったという認識はあることから,裁判についても,自分が子供の頭を殴ったという悪いことに対して,それがあったかどうかを判断して,あったと認められる場合には,家に帰れなくなるといった罰を与えられるところだという程度の理解や,話したくないことは話さなくてもよいという理解は可能であると思われる。」旨述べている(平成16年4月22日付け捜査報告書。以下,この捜査報告書も含めて「起訴前鑑定」という。)。
しかしながら,被告人に,子供の頭を殴ることが悪いことであるという認識や,それが原因で警察に捕まったという認識があったとしても,そのことから直ちに,刑事裁判における防御が可能な程度に裁判や黙秘権について理解し,それに従って,黙秘権等を行使できるとはいえない。起訴前鑑定も,被告人が精神遅滞と自閉症のため,単独で裁判に臨むことは困難であるということは認めている。そして,被告人が抱えるコミュニケーション障害の内容や,被告人にはこれを補うだけの知的能力がないこと(前記2)に照らすと,被告人が弁護人の助力を得て防御を尽くすことができるとはいいがたい。また,起訴前鑑定は,本件訴訟の遂行には,被告人の真意を引き出し,これを代弁できる適切な保佐人を付けることが是非とも必要であるとしているが,刑事訴訟という場において,そのような保佐人によって,被告人の抱えるコミュニケーション障害や知的能力の不足を補い,被告人が防御を尽くすことができるための具体的方策やその現実的な可能性については言及していない。
以上によれば,起訴前鑑定が,被告人には本件の訴訟遂行能力はないと考えられるとしつつも,それは訴訟能力がないという趣旨ではないとしているのは是認できない。
6 結論
よって,被告人には訴訟能力がないと認められるので,刑事訴訟法314条1項本文により主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 曽我大三郎 裁判官 早川幸男 裁判官 小河好美)