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さいたま地方裁判所川越支部 平成16年(ワ)90号 判決 2006年1月19日

主文

1  被告は,原告らに対し,各2816万4408円及びこれらに対する平成16年2月14日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は,被告の負担とする。

3  この判決は仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

主文同旨

第2事案の概要

本件は,原告らが,産婦人科の医師である被告に対し,分娩が遷延していた原告Aの入院に際し,同原告の分娩に関して,慎重な診察に基づき適切な分娩方法の選択,管理及び介助を委任したにもかかわらず,被告がこれらを怠り,安易に経膣分娩を選択したうえ,自己の医院における経膣分娩に固執し,高次医療施設への転送を怠ったため,原告らの子供が重度仮死状態で出生し,出生後間もなく死亡したとして,診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償(遅延損害金を含む。)を求めた事案である。

1  争いのない事実等(証拠を引用しない部分は当事者間に争いがない。)

(1)  原告B及びAは,平成11年12月21日に出生,死亡した男児(以下「本件男児」という。)の父母である(ただし,本件男児が出生時に既に母体内で死亡していたか,それとも出生後に死亡したものであるかについては,後記のとおり争いがある。)。

なお,本件当時,原告らの姓はCであったが,その後,養子縁組によりA姓となった。

被告は,埼玉県東松山市a-bにおいて診療所である産婦人科であるD(以下「被告医院」という。)を開設している医師である。

(2)  Aは,平成11年4月16日,埼玉県入間市にあるE医院で診察を受け,妊娠していることが判明した。Aは,自然分娩を希望したため,同年9月9日に,同県鶴ヶ島市にある助産院Fに転院した。出産予定日は,同年12月18日であったが(以下,平成11年12月の出来事については日のみで表示することがある。),17日に陣痛が開始したものの,陣痛は不規則で分娩に至らず,Aは,20日,FのG助産婦(なお,「助産婦」という名称については,当時施行されていた保健婦助産婦看護婦法の規定に従う。以下「看護婦」及び「准看護婦」につき同じ。)の勧めに従い,同助産婦同行の上,被告医院を受診した。(甲A4,5,7,乙A3,証人G,原告A本人)

(3)  原告らは,被告との間で,同日,Aが被告医院に入院するに際し,被告が分娩について適切な管理,診療及び介助をなすことを内容とする診療契約を締結した。

(4)  Aは,同日,被告医院に入院し,午後4時20分ころ,子宮口を薄くするためにマイリス注射が打たれ,午後4時40分ころ,被告により人工破膜が実施され,午後4時50分ころから午後5時30分ころまでの間,分娩監視装置が装着され,午後8時20分ころに分娩室に移動した。被告は,午後8時30分ころから陣痛に合わせて子宮口の縁を押し込むような作業を開始し,この作業を被告医院に勤務するH助産婦と交代で行った。

(5)  被告は,同日午後8時55分ころ,5単位のアトニンOの点滴投与を開始した。午後11時22分には,胎児心拍数の測定において頻脈が見られた。被告は,これらのいずれの機会にも分娩監視装置による分娩監視を開始しなかった。午後11時55分ころ,Aに分娩監視装置が装着されたが,胎児心拍数は180bpmを超え,時には190bpmを超えるほどの高度頻脈となっていた。

(6)  Aは,21日午前0時ころ,息んでも力が入らず,手足が震え,呼吸も困難となった。また,午前0時20分ころから吸引分娩が開始され,本件男児が娩出された午前1時20分までに,診療記録に記載されている分だけでも合計12回の吸引が行われ,その結果,本件男児が娩出された(以下,このAの被告医院における一連の分娩を「本件分娩」という。)。

本件男児は体重が3775グラム,身長が53センチメートル,頭囲が35センチメートルであった。

(7)  その他の診療経過は別紙診療経過一覧表記載のとおりである。ただし,下線が付された箇所及び「原告の反論」欄については争いがある。

2  争点

(1)  注意義務違反の有無

ア 被告が仮にAについて常位胎盤早期剥離を疑っていたとして,被告はAについて,医師としてなすべき検査,監視ないし転送義務を尽くしたといえるか。

イ 羊水混濁後の監視義務

ウ アトニンO投与における注意義務

エ 高度頻脈発見時以後の転送及び監視義務

オ 吸引分娩における注意義務

カ フリードマン曲線を使用した分娩進行状況の診断における注意義務

(2)  本件男児の死亡時は出生の前か後か。

(3)  因果関係の有無

(4)  損害及びその額

3  争点に対する当事者の主張

(1)  争点(1)(注意義務違反の有無)について

ア 被告が仮にAについて常位胎盤早期剥離を疑っていたとして,被告はAについて,医師としてなすべき検査,監視ないし転送義務を尽くしたといえるか。

(原告らの主張)

(ア) 被告は,Aの初診時において,同人につき常位胎盤早期剥離を疑ったと主張するが(原告らは25日の夜になるまで被告からそうした説明は受けていない。),常位胎盤早期剥離は,早期に治療しないと胎児の救命率が悪く,母体にDIC(血管内血液凝固症候群)を必発し,急性腎不全などDICの臓器症状を併発することも稀ではなく,急性経過をたどる重篤な疾患である。したがって,常位胎盤早期剥離が疑われた場合には,超音波断層法による検査(以下「エコー検査」という。),血液凝固検査及び分娩監視装置による監視等(以下,これらの検査,監視を併せて「分娩監視装置による監視等」という。)を行い,総合的に常位胎盤早期剥離の有無や進行度を慎重に診断,確定することが必要となる。

にもかかわらず,被告は,Aの入院時において,エコー検査や血液凝固検査を行ってはいない。また,分娩監視装置による胎児心拍数のモニタリングも最初の内診時(20日午前10時30分ころ)から6時間20分も経過した午後4時50分にようやく開始したものの,わずか40分程度装着しただけで終了している。

(イ) 確かに,Aは,もともと自然な形での出産を希望してFで受診し,出産介助を依頼した。しかし,被告医院に紹介されて入院した時点では,必要であれば検査や注射,手術(以下「検査等」という。)を受けてもよいと考えており,被告医院において検査等や内診を拒否してはいない。仮に,G助産婦から被告に対し,Aが検査等をできるだけ避けたいと考えている旨の説明があったとしても,検査等の必要がある場合には,被告からAに対して,その必要性を説明して説得しなければならない。そのような説明及び説得があれば,Aは,当然に検査等を受けていた。しかし,被告からそうした説明や説得はなかった。

(ウ) 被告は,Aにつき常位胎盤早期剥離を疑ったというが,仮にそうであるならば,常位胎盤早期剥離は,急速に進行し,母児の生命に重大な危険をもたらすおそれがあるので,速やかに帝王切開を初めとする急速遂娩術を行い,早急に胎児,付属物及び子宮内の血塊等を除去しなければならない。また,常位胎盤早期剥離に適切に対処するためには設備,人手及び経験が必要である。ところが,被告は,帝王切開を行う意思も準備もなく,そもそも被告医院は,帝王切開ができない医療施設であった。

(エ) 被告は,Aが手術を避けたいと希望していたと主張するが,そうであったとしても,常位胎盤早期剥離の疑いがあり,医師が高次医療施設への転院が必要であると判断したのであれば,患者であるAに対して十分に説明した上で転院を勧めるべきである。そうした場合には,患者の自己決定権を侵害することにはならない。患者が専門家である医師の説明及び助言を受けて最終的に自己の意思でどのような医療を受けるかを決定することが自己決定権である。

(オ) 以上によれば,被告には,入院時の内診において常位胎盤早期剥離が疑われた時点で分娩監視装置による監視等を行い,できるだけ早急に必要十分な検査を行って診断を確定するか,あるいは常位胎盤早期剥離が疑われた時点でAを高次医療施設に転送する義務があったにもかかわらずこれらを怠った注意義務違反がある。

(被告の主張)

(ア) 被告は,19日にFのG助産婦から,Aについて,異常出血があると知らされていた。また,20日の初診時における内診の際,Aから凝血を伴うボタッとした出血が認められたため,常位胎盤早期剥離が疑われ,厳重注意とした。しかし,出血以外の症状はなく胎児心音も良好であったので,常位胎盤早期剥離の進行程度は0度ないし1度と考えられた。また,初診時に見た母子手帳により,E医院における同年6月7日妊娠12週2日の血液検査によるヘマトクリット値が42.8パーセントと濃縮傾向にあり,血小板数がH(高い)印付きの37.5万/μlと異常高値であったことが判明したことから,血栓症についても厳重に注意する必要があった。

(イ) 一般的に常位胎盤早期剥離の場合にエコー検査を行う必要があることは否定しない。しかし,エコー検査は腹壁にゼリーを塗布して行われるところ,Aのように特別肥大した腹壁を有する場合には,アルコールを含むゼリーの塗布により腹部が冷えてしまい,血管を収縮させて常位胎盤早期剥離を確実に進行させることになるから避けるべきである。

手間をかけられない時に分娩監視装置に任せることも分娩監視方法として有用である。しかし,分娩監視装置を装着した場合,探測子とベルトを装着した部位に発汗が生じ,汗が組織脱水を助長し,脱水が常位胎盤早期剥離を進行させるとともに血栓を作り易くする。特に肥満体の人の場合は,発汗が多い。そこで,常位胎盤早期剥離を進行させないために分娩監視を人の手で行うことが望ましい。

入院時にエコー検査を行わなかった理由は,Aが来院当初から内診を拒否するほど検査を嫌っていたからである。そのような状況であるにもかかわらず,強行すれば患者の自己決定権を侵害することになる。また,患者のストレスが増大し,虚脱状態になったり,暴れることもある。

(ウ) 確かに,常位胎盤早期剥離が生じた場合,その重症度が1度以上であれば,DICの原因となり得る子宮内容物を早期に除去するため,帝王切開の適応となる。しかし,常位胎盤早期剥離は,大量出血により,DICを発症させるおそれがあり,また,血栓症を生じさせないためには,出血を伴う帝王切開は極力避けるべきであった。すなわち,帝王切開後の血栓形成の頻度は,経膣分娩に比して約10ないし20倍と高率であり,血栓形成の頻度の高い帝王切開は,DICを惹起するおそれがある。したがって,常位胎盤早期剥離が生じた場合であっても,分娩が進行していてある程度短時間で分娩が終了できると予測される時には帝王切開をせずに経膣分娩を行うべきである。本件においては,20日午後11時40分ころには,いったん子宮口はほぼ全開大となっており,21日午前0時過ぎの時点では,吸引分娩を施行すれば短時間で分娩は終了すると考えられ,かつ,血栓,DICのおそれから,観血的な帝王切開は極力避けたいところであった。

また,被告は,常位胎盤早期剥離の分娩経験が豊富であり,本件までに常位胎盤早期剥離の症例において母体をすべて救命していた。したがって,十分に監視し,子宮脱水防止等を行えば経膣分娩が可能であると判断したものである。

(エ) そもそもAは,手術を避けたいとして被告医院にFから紹介されてきたのであり,直ちに帝王切開を想定して他院へ転送したのでは,被告医院がAを受け入れた意味がなくなる。このことは,Aの自己決定権を侵害することにもなる。

(オ) 以上によれば,被告には,原告主張の注意義務違反の事実はない。

イ 羊水混濁後の監視義務

(原告らの主張)

(ア) 羊水混濁とは,胎児の排泄した胎便が羊水中に浮遊し汚染された状態であり,胎児が何らかの原因で酸欠状態に陥ると,脳や心臓への血流が増加する一方で腎臓や消化器系への血流が低下するという血流の再分配が起こり,その結果,副交感神経系が優位となり,肛門括約筋の弛緩と腸管の蠕動運動が亢進し胎便の排泄が起こるというもので,胎児仮死の重要な兆候の一つである。したがって,羊水混濁が認められた場合には,胎児心拍に異常が生じていないかを,分娩監視装置等を用いて慎重に観察する必要がある。

(イ) しかるに,被告は,20日午後8時46分ころ,羊水混濁の所見を得た後にも,同11時55分に至るまで分娩監視装置による連続監視を行うことなく,聴診による児心拍聴取を行う他は漫然とこれを放置し,よって,本件男児の娩出の時機を逸して胎児仮死,新生児仮死を招来させたものである。

(ウ) よって,被告には,羊水混濁が見られた時点で分娩監視装置による連続監視を行う義務があったにもかかわらず,これを怠った注意義務違反がある。

(被告の主張)

(ア) 20日午後8時46分ころの内診時に羊水混濁+1が見られたが,これは,おりもの様の淡黄色のものであって,胎便によるものではなかった。また,胎児心音はそのころ正常であり,その前にも胎児心音に徐脈又は頻脈等の異常所見は見られず,酸欠状態や胎便排泄の原因となるようなものは見られなかった。さらに,分娩記録上,児娩出時の羊水混濁の色が緑色とされているが,これは血液が時間の経過により緑色状を呈したためである。したがって,本件の羊水混濁は,胎児仮死と関連する胎便排泄を原因とするものではない。

(イ) よって,被告には,羊水混濁が見られた時点で分娩監視装置による連続監視を行う義務はなかった。

ウ アトニンO投与における注意義務

(原告らの主張)

(ア) 常位胎盤早期剥離の場合には,アトニンOの投与は,禁忌又は原則禁忌とされている。また,羊水混濁が見られた場合には,胎児仮死の可能性が存するのであるから,児頭の位置を確認し,子宮口全開大になっているなど急速遂娩が可能な状況下において,万一の際には帝王切開に移れるよう準備をした上でアトニンOを投与すべきである。さらに,アトニンOの投与を開始した場合,過強陣痛や胎児仮死などの重篤な副作用の危険があるため,胎児心拍又は子宮収縮状態をはじめ産婦の一般状態につき,分娩監視装置を用いて連続的に監視しなければならない。

(イ) 被告は,初診時に常位胎盤早期剥離を疑ったというにもかかわらず,20日午後8時55分ころから午後11時45分ころまで陣痛促進剤であるアトニンOを投与した。また,被告は,児頭先進部の位置を確認せず,子宮口は8センチメートル開大で止まっていたにもかかわらず,帝王切開の準備をしないまま,アトニンOを投与した。さらに,アトニンOの投与を開始してから終了するまでの間,分娩監視装置による監視を行わなかった。

(ウ) 以上によれば,被告には,そもそもアトニンOを投与すべきではなく,投与するとしても帝王切開の準備をした上で投与すべきであり,また,投与後は分娩監視装置による連続監視を行う義務があったにもかかわらず,これらを怠った注意義務違反がある。

(被告の主張)

(ア) アトニンOを投与した理由は,投与の際には,出血が止まり,子宮口が8センチメートル開大となっていたが,規則的有効な陣痛が消失していたので,陣痛が正しく起こるようにするためであった。

(イ) 確かに,陣痛促進剤の投与に当たっては,分娩監視装置を使用するのが原則である。しかし,同装置を使用した場合には,装着部位で発汗し,陣痛曲線にさざなみ様が生じて常位胎盤早期剥離を強めるおそれがある。また,胎児にストレスが生じるし,子宮筋に細かいけいれんを起こし,常位胎盤早期剥離を進行させるおそれがある。これらの理由から分娩監視装置を使用しなかったのであり,正しい選択であったといえる。

(ウ) 分娩監視装置を装着する代わりに,アトニンO投与開始後は,胎児心拍の聴取に慣れた看護婦が直接,腹壁から子宮収縮を触知し,胎児心音をドップラー心音計によって頻回に聴取した。ストレスが発生する器械に任せるのではなく,胎児に優しい監視を行った。

(エ) 以上によれば,被告にはアトニンO投与に関する注意義務違反はなかった。

エ 高度頻脈発見時以後の転送及び監視義務

(原告らの主張)

(ア) 20日午後10時40分の時点での胎児心拍には168bpmの軽度頻脈傾向が見られ,午後11時22分には180bpmの頻脈が見られ,胎児仮死が強く疑われる状態であった。また,午後11時55分には190bpm以上に及ぶ高度頻脈が見られ,本件男児が低酸素状態にあることを示していた。このような場合には,帝王切開を含む急速遂娩が必要となる可能性が高い。

(イ) Aは,20日午後11時55分ころの時点では,既に陣痛開始より33時間を超えた分娩遷延状態にあったが,被告にその原因は不明であったというのであるから,被告はAをその時点で速やかに高次医療施設へ転送すべきであった。

(ウ) 上記高度頻脈発見時には,被告医院では帝王切開の準備ができていなかった。また,被告は,21日午前0時8分ころ,埼玉医科大学への搬送を検討したというのであるから,遅くともこの時点以前には転送を要する緊急事態であることを認識していた。なお,新生児集中治療室(NICU)のない医療施設であっても帝王切開は可能であるから,転送先のNICUの有無にこだわるべきではなかった。

(エ) 以上によれば,被告には,遅くとも20日午後11時55分の高度頻脈発見時以後,一刻も早く帝王切開の設備が整った高次医療施設へAを転送する義務があったし,仮に転送義務がないとしても,同高度頻脈発見時以後,直ちに分娩監視装置による連続監視を再開する義務があったにもかかわらず,これらを怠った注意義務違反がある。

(被告の主張)

(ア) 20日午後11時22分に見られた頻脈は,胎児の状態が良いことの指標となるものである。

(イ) 21日午前0時ころ,胎児心拍は頻脈となり,血圧は上昇気味であった。また,そのころから再度装着した分娩監視装置上も陣痛曲線にさざなみ様の曲線が見られた。したがって,常位胎盤早期剥離は1度程度に進行していると推測された。そのため,高次医療施設への転送を考え,同日午前0時8分ころ,埼玉医科大学に電話連絡したが,NICUは満床とのことで転送は断られた。また,同病院から熊谷総合病院を紹介されたが,同病院にはNICUがなく,搬送による母体への危険もあることから,被告医院において分娩を続行することにした。

(ウ) 手術を嫌うAについては,転送して帝王切開を行うことは適切な選択ではなかった。

(エ) 以上によれば,被告には,20日午後11時55分の時点以後,直ちに高次医療施設へ転送する義務及び分娩監視装置による監視を再開する義務はなかった。

オ 吸引分娩における注意義務

(原告らの主張)

(ア) 吸引分娩を行うに当たっては,吸引分娩や緊急帝王切開に習熟した産科専門医が立ち会う必要がある。特に,常位胎盤早期剥離が疑われる場合にはなおさらである。また,吸引分娩を施行するには,児頭先進部が坐骨棘間径上(station)から2センチメートル下方の位置より下降していることも条件とされる。さらに,吸引分娩の際には,吸引の失敗を繰り返すと,胎児へのストレスが助長されて,新生児仮死を招くことが多く,頭血腫,帽状腱膜下血腫又は頭蓋内出血などの合併症の危険性が高まるので,吸引分娩に当たっては,吸引に失敗した場合には,速やかに帝王切開を施行する準備がなされていなければならない。

(イ) 吸引を開始した場合,2回以上の牽引でも児頭の下降が見られない場合やカップの滑脱を繰り返す場合,著明な産瘤形成が吸引の妨げになる場合,開始から児娩出まで10分以上かかる場合は,吸引分娩に固執せずに速やかに帝王切開に切り替えるべきである。また,3回牽引しても児頭が娩出しない場合も牽引を中止して早めに帝王切開など他の急速遂娩術に切り替えなければならない。

(ウ) 被告は,被告医院開業以来,帝王切開を施行したことがなく,本件で被告以外の医師が分娩に立ち会っていた事実もない。また,被告は,児頭先進部の位置を確認していなかった。さらに,被告は,吸引分娩に当たって,ダブルセットアップ(帝王切開の必要が生じた場合には,速やかに帝王切開に移れるようあらかじめ準備を行っておくこと)をしていない。

(エ) 被告は,21日午前0時20分ころから吸引を開始した後,何度も吸引カップの滑脱を繰り返し,Aの記憶によれば20数回,診療記録に記載されているものだけでも12回もの多数回にわたり吸引を行い,吸引開始から本件男児娩出までの所要時間は1時間に及んだ。

(オ) 21日の血液検査の結果によれば,Aのヘマトクリット値は34パーセント,血小板数は34.2万/μlであり,いずれも何ら問題のない正常値の範囲であった。したがって,E医院における平成11年6月7日の血液検査の結果にこだわって,観血的手術は避けた方がいいなどと判断する必要はなかった。

(カ) 被告が多数回にわたって吸引の失敗を繰り返したのは,被告が事前の吸引の適応と要約の判断を誤り,吸引を開始したものの容易に本件男児を娩出させることができず,かつ,被告医院では帝王切開ができないために最後まで吸引にこだわらざるを得なかったことによる。したがって,Aの息み方に原因があるのではない。

(キ) 以上によれば,被告には,そもそも吸引分娩を行うための条件を満たしていなかったにもかかわらず吸引を開始した点に注意義務違反があった。また,吸引分娩の限界とされる回数・時間を大幅に超過しているにもかかわらず,吸引分娩に固執し,帝王切開に切り替えることなく漫然と吸引を継続した点に注意義務違反があった。

(被告の主張)

(ア) 吸引分娩については,帝王切開の場合と異なり,習熟した産科専門医が立ち会うことは一般的ではない。

(イ) 被告が初診の時に見た母子手帳によると,平成11年6月7日妊娠12週2日のE医院における血液検査の際には,ヘマトクリット値が42.8パーセントと濃縮傾向にあり,血小板数も高位であったので,血栓症に注意する必要があった。また,常位胎盤早期剥離の場合,大量出血により,DICが発症するおそれがあった。さらに,20日午後11時40分ころには,一旦子宮口はほぼ全開大となっており,21日午前0時すぎの時点では,吸引分娩を施行すれば,短時間で分娩が終了すると考えられた。そして,出血性ショックやDICが始まっている様子はなく,常位胎盤早期剥離の進行状況は,1度程度と考えられた。そこで,観血的な帝王切開を避けて午前0時20分に吸引分娩を開始した。

(ウ) DIC診断のための検査の一つとして,FDP(フィブリン分解産物)値の測定があり,FDP値40以上は,最もDICが疑われる状態とされている。21日の採血によるFDP検査では,40≦80という値を示しており,DICの発症寸前の状態にあった。したがって,常位胎盤早期剥離の進行状況を見ながら,血管に傷をつける帝王切開を回避し,非観血的吸引分娩を行った。

(エ) 吸引が12回という多数回に及んだ理由は,Aが吸引に際し,陣痛に合わせてうまく息むことができず,息むべき時に息止めをして吸い上げるようにしてしまったため,吸引カップが滑落し,これを付け直したことにあった。また,吸引を中止できなかった理由は,常位胎盤早期剥離のため分娩を急いだことにある。

(オ) 以上によれば,被告には吸引分娩の実施につき注意義務違反はなかった。

カ フリードマン曲線を使用した分娩進行状況の診断における注意義務

(原告らの主張)

(ア) 分娩進行状態の診断方法としては,一般にフリードマン曲線による診断方法が用いられている。フリードマン曲線は,分娩中の子宮頚管の開大度と胎児先進部の下降度を経時的に示した曲線であり,これと実際の分娩状況を対照して分娩の遷延等を診断するために用いられる。ここでは,頚管開大約2.5センチメートル以降を活動期というが,活動期に分娩が停止した場合,その原因としては,CPD(児頭骨盤不均衡),回旋異常等の場合が多く,産科手術が施行される頻度も多くなってくる。したがって,分娩介助に当たっては活動期に分娩が停止していないかどうかをフリードマン曲線を用いて診断することが必要となる。

(イ) フリードマン曲線は,正常な標準的経過をとる産婦の頚管開大度と分娩時間を検討して得られた曲線であるから,実際の分娩では,頚管開大が進んでも児頭が下降しないケースや児頭が下降しても頚管開大が足りないケースがあり得る。したがって,子宮口開大度が分かったからといって実際の分娩における児頭先進部の位置が分かるわけではない。分娩が正常に進行しているか否かを診断するためには,所要時間,頚管開大度及び児頭先進部の位置を実際に測定し,これらの相関関係を分析・評価する必要がある。

(ウ) 被告は,子宮口開大度について一応の測定・記録を行っているが,児頭先進部下降度についてはほとんど記録しておらず,分娩進行状態の診断が不十分であった。

(エ) 以上によれば,被告には,フリードマン曲線を使用した分娩進行状況の診断を行う義務があったにもかかわらずこれを怠った注意義務違反がある。

(被告の主張)

(ア) 児頭先進部の位置は,子宮口開大度によっても分かるので,診療録には子宮口開大度のみを記載した。

(イ) 以上によれば,被告には,フリードマン曲線を使用した分娩進行状況の診断を行う義務がなかった。

(2)  争点(2)(本件男児の死亡時期)について

(原告らの主張)

ア 本件男児は,重症仮死で出生し,当初心臓は動いていたが,出生から約20分後の21日午前1時40分ころ死亡した。

イ 被告がI産婦人科外来担当医に宛てた紹介状や看護記録の記載内容からすると,本件男児の出生時には心拍が見られた。また,被告は,娩出後,4回にわたり本件男児の聴診を行い「大丈夫,聞こえる。早く温めろ。タオルはどこだ。」と叫び,その後も「よし,さっきよりいいぞ。」と言うなど,本件男児の心音を確認している言葉を発した。そして,娩出より15分から20分程度経過した後に「あれ,聞こえないよ。」と述べたのであり,その時まで本件男児の心臓は動いていた。さらに,分娩監視記録によれば,本件男児の出生直前まで胎児心拍が記録されている。したがって,母体内で本件男児が死亡したということはない。

ウ 被告は,21日午前0時8分ころ,胎児心拍数に頻脈が続いたため埼玉医科大学への転送を考えて同大学へ電話した。また,その後も180ないし190bpm程度の頻脈が続き,その後,大きな徐脈が繰り返し出現した。これらの所見は低酸素状態を示すものであり,この状態が長時間にわたって続いた。これに吸引の繰り返しによる大きなストレスが加わったため本件男児を仮死状態で出生させ,死亡するに至らしめたと考えられる。本件男児が死亡直前に元気さを保っていたにもかかわらず,突然死したことを示す証拠はない。

(被告の主張)

21日午前1時21分ころ,被告がドップラー心音計を腹壁にあてて良好な心音を確かめた途端,急に本件男児の心音が停止した。心停止をきたして10秒も経たぬ間にAは本件男児を娩出した。娩出された本件男児は心停止状態であったため,被告は,気道内吸引を行って直ちに心臓,副腎のマッサージ及び肺の人工呼吸等の蘇生術を約30秒間行い,聴診器で約6秒間,心音の聴取を行うという手技を繰り返し,これらを約20分間実施した。そして,心音聴取の時に1度か2度「タッタッ」というような音が聞こえたように思われた。しかし,その音も循環器が機能しての心音とは解せられず,筋肉の収縮のような音であって,その他には心音を聴取することはできなかった。その後も胎児心拍は再開せず,自発呼吸も生じなかったため,午前1時40分ころに蘇生不能と判断した。したがって,本件男児は,母体内で死亡してから生まれたいわゆる死産である。

(3)  争点(3)(因果関係)について

ア 常位胎盤早期剥離が疑われた場合の検査,監視ないし転送義務

(原告らの主張)

(ア) 陣痛開始は,19日午前0時であり,Aが被告医院に受診した20日午前9時30分の時点では,陣痛開始からすでに33時間30分が経過していた。したがって,分娩遷延というべきであり,胎児仮死が生じやすい状況にあった。また,20日午後10時40分の時点で軽度頻脈が,午後11時22分の時点で頻脈が見られており,胎児仮死が強く疑われる状態にあった。さらに,21日午前0時8分以降,高度頻脈や徐脈が繰り返し出現していた。これらの所見は,胎児の低酸素状態を示すものであり,胎児が長時間にわたり低酸素状態にあったことを示す。これに加えて,多数回かつ長時間にわたり吸引による大きなストレスが加えられたことによって,本件男児が仮死状態で出生し,死亡するに至った。

(イ) 分娩監視装置による監視等を施行して,常位胎盤早期剥離との診断がついた場合,子宮口が全開大に近ければ経膣分娩もあり得るが,原則的には,胎児の生死にかかわらず帝王切開すべきである。仮に,被告が常位胎盤早期剥離が疑われた時点で早期に同監視等を施行して,帝王切開の機会を失うことがなければ,本件男児を重度の仮死で出生させて死亡させることはなかった。

(ウ) 仮に,被告が常位胎盤早期剥離が疑われた時点で早期にAを高次医療施設へ転送していたならば,本件男児を重度の仮死で出生させて死亡させることはなかった。

(被告の主張)

否認する。本件男児の死亡原因は,常位胎盤早期剥離とは直接の関係はなく,突然死と考えられる。なぜなら,分娩監視装置からしても脳組織の酸素欠乏による胎児仮死の所見はなく,大量胎便もなく,心停止直前まで胎児心拍が140bpmあり,元気さを保っていたからである。また,突然死の原因は,母児ともに発生した子宮内圧低下によって惹起された胎児副腎皮質束上帯血管洞の血流緩徐からの血栓症によるものと推測される。

イ 羊水混濁後の監視義務

(原告らの主張)

被告は,20日午後8時46分ころに羊水混濁の所見を得たにもかかわらず,聴診による胎児心拍聴取を行う他は分娩監視装置による監視を行わず,漫然とこれを放置した。仮に,このようなことがなければ,児娩出の時機を逸することはなく,本件男児を重度の仮死で出生させて死亡させることはなかった。

(被告の主張)

上記ア(被告の主張)と同じ。

ウ アトニンO投与における注意義務

(原告らの主張)

20日午後11時22分の時点で5秒ごとの胎児心拍に「15,15,14,13,13」の頻脈傾向が見られ,午後11時55分に分娩監視装置を装着した後,胎児心拍は180bpmを超え,ときには190bpmを超えるほどの高度頻脈となっていた。被告がアトニンOを投与しなければ,このような頻脈に至らなかったといえるし,アトニンOの投与開始後,早期の段階で分娩監視装置を装着し,慎重な分娩監視を行っていたならば,本件男児の異常をより早い段階で発見できたといえる。したがって,仮に,被告がアトニンOを投与せず,かつ,アトニンOの投与開始後,分娩監視を怠らなかったならば,早期に胎児の異常を発見でき,帝王切開を行うことにより,本件男児を重度の仮死で出生させて死亡させることはなかった。

(被告の主張)

上記ア(被告の主張)と同じ。

エ 高度頻脈発見時以後の転送及び監視義務

(原告らの主張)

仮に,被告が高度頻脈発見時以後,早期に高次医療施設への転送を行っていれば,本件男児を死亡させることはなかった。また,その時点で,分娩監視装置による監視を開始していれば,本件男児を死亡させることはなかった。

(被告の主張)

上記ア(被告の主張)と同じ。

オ 吸引分娩における注意義務

(原告らの主張)

被告は,本件男児に対し,不適切な吸引分娩を行ない,長時間にわたり産道に閉じこめられて体外に出られなくし,継続的な低酸素状態とすることにより,本件男児を重度の新生児仮死状態で出生させて死亡させた。

(被告の主張)

上記ア(被告の主張)と同じ。なお,Aの息止めにより,吸引操作がうまくいかずに,カップの脱落が生じて吸引回数が増えたが,その大部分は吸引による陰圧がほとんどかかっていない状態であった。したがって,吸引回数が増えたことによって胎児に負担を与えることはなかった。そのことは,娩出後の本件男児に大きな産瘤がほとんど見られなかったことから明らかである。

カ フリードマン曲線を使用した分娩進行状況の診断における注意義務

(原告らの主張)

仮に被告が適切に子宮口開大度と児頭先進部の位置とを測定して分娩進行状態を診断していたならば,より早期に分娩の異常を発見し,高次医療施設への転送や急速遂娩が行われ,本件男児を重度の仮死で出生させて死亡させることはなかった。

(被告の主張)

上記ア(被告の主張)と同じ。

(4)  争点(4)(損害)について

(原告らの主張)

ア 原告らと被告は,20日,被告が本件男児のために適切な出産管理・介助をなすことを内容とする診療契約を締結した。そして,原告らは,被告に対し,21日,本件男児の出生後,本件男児の法定代理人親権者として,当該契約に関する受益の意思表示をした。

イ 本件男児固有の損害

(ア) 得べかりし利益 2122万8816円

平成11年賃金センサス第1巻第1表産業計,男子労働者の平均年収は562万3900円であるから,生活費を5割,中間利息をライプニッツ方式で各控除すると,本件男児の得べかりし利益は,2122万8816円となる。

(計算式) 5,623,900×(1-0.5)×7.5495=21,228,816

(イ) 慰謝料 2000万円

(ウ) 原告らは,本件男児の被告に対する損害賠償請求権を各2分の1ずつ相続した。

ウ 原告ら固有の損害

(ア) 慰謝料 各500万円

(イ) 弁護士費用 各255万円

エ 原告ら各人の合計損害額 各2816万4408円

(計算式)(21,228,816+20,000,000)÷2+5,000,000+2,550,000=28,164,408

(被告の主張)

否認又は争う。本件男児は,胎内で死亡してから生まれたいわゆる死産であったから,原告が主張するような損害は発生していない。

第3争点に対する判断

1  争点(1)(注意義務違反)について

(1)  被告が仮にAについて常位胎盤早期剥離を疑っていたとして,被告はAについて,医師としてなすべき検査,監視ないし転送義務を尽くしたといえるか。

ア 後掲各証拠,上記争いのない事実等及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の各事実が認められる。なお,医学的知見については,いずれも本件分娩当時の一般の医療水準となっていたと認められる。

(ア) 本争点に関する主要な事実経過

a Aは,平成11年4月16日,妊娠が判明した後,本件分娩に至るまで,妊娠中毒症に罹患したことはなく,交通事故等により物理的損傷を受けたこともなかった。(甲A1,証人G,原告A本人)

b Aは,平成11年6月7日(妊娠12週2日),E医院において,注射によって血液を採取され,血液検査を受けた。その結果によると,Aのヘマトクリット値は42.8パーセント,血小板数は「H」印が付され37.5万/μlであった。(乙A6,原告A本人)

c Aは,平成11年9月,自然分娩を希望し,それまで診察を受けていたE医院からFへ転院した。Aは,G助産婦に対し,Fへ転院した際,注射や病院の器械の音が嫌いであり,できれば自然分娩で出産したいとの希望を述べた。(甲A4,5,証人G,原告A本人)

d 16日午前6時,Aに血性分泌が見られ,生理痛様の痛みがあった。また,同日午後1時には水様性のおりものが多めであった。(乙A3)

e 17日午前3時ころからAに陣痛が発来したが,その後,陣痛は遠のき,18日午前3時ころから再び陣痛が発来するも微弱であった。G助産婦は,19日,Aに微弱陣痛が続いたことから,被告に対し,Aの受け入れを電話で依頼した。その際,G助産婦は,被告に対し,Aは,注射,手術,分娩台及び病院の器械の音等が嫌いで,そういうものを極力避けた自然分娩を希望している旨述べた。これに応じて被告は,Aの分娩介助を引き受けた。そして,20日,G助産婦は,被告医院に対してAを紹介した際,Aは注射及び検査が嫌いであり,自然分娩を希望していること及び17日以降の陣痛の状況を伝えた。(甲A4,5,乙A3,9,証人G,証人H,被告本人)

f Aが被告医院に入院した当時の同医院の体制は,医師1名(被告),助産婦1名(H助産婦),看護婦及び准看護婦約6名並びに事務及び賄い約6名がいるというものであった。そして,通常の助産婦及び看護婦(准看護婦を含む。)の勤務体制は日勤(午前8時45分から午後5時15分まで)2名,当直(午後5時から翌朝午前9時まで)1名となっていた。(乙A8,9)

g H助産婦は,20日の日勤の病棟担当として,Aの入院時(午前10時30分ころ)以後,午後4時50分ころまでAの看護に当たっており,午後4時50分ころにJ准看護婦に引き継いだ。そして,H助産婦は,帰宅後,午後8時10分ころに被告医院から呼び出されて赴き,午後8時20分ころから21日午前5時ころまでJ准看護婦とともにAの看護に当たった。(乙A9,証人H)

h 20日午前10時30分,内診が行われた際,Aの性器には血性分泌物が見られた。しかし,被告又は外来担当のK看護婦からH助産婦に対して,出血に注意するようにとの指示又は申し送りがあったものの,常位胎盤早期剥離の疑いがあるので注意するようにとの指示又は申し送りはなかった。もっとも,被告から脱水を起こすと血栓症の危険があるので注意するようにとの指示はあった。H助産婦は,本件男児の娩出後はじめて,Aが常位胎盤早期剥離に罹患していた疑いがあると被告から聞いた。なお,被告は,Aに対し,この内診の際,常位胎盤早期剥離,血栓症又は低血糖といった病名について述べたことはなかった。(甲A4,7,乙A3,7,証人H,原告A本人,被告本人)

i Aの入院当時,被告医院の外来診療室には,エコー検査の装置があった。しかし,被告は,Aが検査を嫌っていると考えてエコー検査を実施するとの提案をしなかった。(乙A8,9)

j 上記入院時の内診のころ,Aには,陣痛と区別される下腹痛は見られず,子宮緊張,子宮硬直も見られなかった。また,分娩監視装置は,20日午後4時50分になってはじめて装着され,午後5時30分に外された。さらに,入院時の内診のころ,血液凝固検査は行われず,本件分娩を通じてエコー検査は実施されなかった。(別紙診療経過一覧表)

k 20日午後2時30分ころ,Aは,マイリス注射をあまりやりたくない様子を示したが,H助産婦は,午後4時20分及び午後9時19分に被告の指示に基づき,子宮口を軟らかくするため,5パーセントTZ20ミリリットル+マイリスの注射をした。この際,H助産婦は,Aに対して,注射をする前に子宮口を軟らかくするという目的を説明し,了解を得てから行った。また,血液検査は分娩後にはじめて行ったが,その際には,貧血はないか,感染はないかなどを調べるために必要である旨説明し,了解を得てから行った。さらに,本件分娩を通じて,Aが分娩監視装置の装着を拒否したことはなかった。(乙A3,9,証人H,原告A本人,被告本人)

l 本件分娩当時,被告医院では,帝王切開の設備が整っておらず,被告には,帝王切開を行う意思もなかった。また,被告医院では平成5年2月の医院開設以来,帝王切開を行った事例はなかった。さらに,H助産婦は,過去に帝王切開を含め被告医院では処置できないと思われる場合に,転送を進言したことがあった。(乙A8,9,証人H,被告本人)

(イ) 本争点に関する医学的知見

a 常位胎盤早期剥離とは,妊娠後半期に正常位置(子宮体部)に付着している胎盤が胎児娩出以前に子宮壁より部分的又は全面的に剥離することをいう。常位胎盤早期剥離は,基底脱落膜の出血に始まり,形成された胎盤後血腫がこれに接する胎盤をさらに剥離・圧迫し,子宮内出血が生じ,さらに腹痛,子宮内圧の上昇,子宮壁の硬化又は外出血が起こるという経過をたどる。そして,剥離の進行とともに子宮・胎盤循環が障害され,胎児は低酸素状態になり,胎児,新生児の仮死又は死亡に至る。常位胎盤早期剥離の原因は明らかではないが,発症の背景には,妊娠中毒症又は交通事故による物理的損傷等がある。(甲B12ないし14,16,18,21,乙B1,2)

b 常位胎盤早期剥離は,その進行程度(重症度)によって,軽症(胎盤剥離面積が30パーセント以下のもの),中等度(胎盤剥離面積が30ないし50パーセントのもの),重症(胎盤剥離面積が50ないし100パーセントのもの)に分類され,軽症は0度と1度,中等度は2度,重症は3度と分けられ,その臨床症状は下記のとおりである。(甲B12ないし14,16ないし18,乙B1,2,4)

0度:臨床的に無症状である。児心音はほぼ良好である。娩出後の胎盤所見によって診断される。

1度:性器出血は500ミリリットルを超えない。軽度の子宮緊張がある。児心音がときに消失する。蛋白尿はまれである。

2度:性器出血は500ミリリットルを超える。下腹痛,子宮硬直があり,入院時に胎児が死亡していることが多い。蛋白尿が時に出現する。

3度:子宮内出血及び性器出血が著明である。子宮硬直(板状硬),下腹痛が見られる。胎児は死亡している。出血性ショック,後記DIC又は子宮溢血が見られる。蛋白尿が陽性である。

c 常位胎盤早期剥離における臨床症状の特徴としては,外出血があげられる。この外出血は,胎盤が子宮壁より剥離すると胎盤後血腫が形成され,この血液が卵膜と子宮壁の間を通って子宮頚管より流出することによって生じる。しかし,このような外出血が見られず,剥離した胎盤と子宮の間に血腫を形成する潜伏出血といわれる状態になる場合もある。ただし,完全に潜伏出血となることはまれであり,ほとんどが暗赤色の外出血を伴う。(甲B13,14,18,乙B2,4)

d 常位胎盤早期剥離では,胎盤後血腫又は胎盤実質内への出血のため,エコー検査の超音波像として,胎盤の剥離の程度と時間的経過に従って,①剥離直後は胎盤と凝血塊が識別不能で全体として厚く見える,②胎盤後血腫像又は胎盤内出血像が見られる,③胎盤縁辺部が丸みを帯び,胎盤の厚みが5センチメートルを超え,胎盤縁辺部が子宮壁と分離する,といった所見が見られる。(甲B12ないし18,20,21,乙B1ないし3)

e 分娩監視装置による胎児心拍数モニタリングにおいて,常位胎盤早期剥離の重症度が軽度の場合には胎児心拍の異常が見られないことが多いが,剥離の進行とともに低酸素状態,胎児仮死状態(子宮内において呼吸及び循環機能が障害された状態をいう。)が生じて,重症度が進むと,胎児に頻脈及び徐脈,胎児心拍数基線細変動の減少及び消失,特徴的な遅発一過性徐脈(子宮収縮の開始より遅れて徐脈が始まり,徐脈の最下点も子宮収縮のピークより遅れるものをいう。)並びに高度の持続的な徐脈が見られるようになり,胎児死亡に至る。子宮陣痛曲線は,不規則なさざなみ様収縮,過強陣痛,持続的子宮収縮などを呈し,定型的な陣痛曲線は見られないことが多い。なお,分娩監視装置による胎児心拍数図上,胎児心拍数は,比較的小さい心拍数範囲で上下に早く変動するが,その中心付近を通る直線を胎児心拍数基線といい,上下の変動を胎児心拍数基線細変動という。(甲B12ないし18,20,21,24,26,27,33,乙B1ないし4)

f 血管内血液凝固症候群(disseminated intravascular coagulation syndrome以下「DIC」という。)とは,血管内において凝固機転の亢進が起こり,全身の微少血管に血栓を生じる症候群をいう。血栓の形成とこの血栓を溶解する機序が加わって凝固因子が消費され,消費性凝固障害となり,出血傾向が出現し,血栓や血流障害によって母体に急性腎不全症などの臓器症状が出現する。DICは,常位胎盤早期剥離の存在の下で発生することがある。すなわち,常位胎盤早期剥離においては,子宮内圧の上昇により,絨毛成分中の組織トロンボプラスチンなどの凝固促進物質が母体の静脈から大循環へと流入し,母体にDICを引き起こす。DICは,常位胎盤早期剥離のもっとも重篤な合併症であり,母体死亡の原因となる。そして,DICの診断においては,血液凝固検査(出血時間,凝固時間,血小板数,プロトロンビン時間,フィブリノーゲン量又は血沈,FDP・Dダイマー,アンチトロンビンⅢ量,TATなど)を行うべきである。(甲B12ないし14,16ないし18,20,乙B1,2,4,7)

g 妊娠中毒症や交通事故による物理的損傷の有無,臨床症状,エコー検査,胎児心拍数モニタリング及びDIC診断のための血液凝固検査等から,常位胎盤早期剥離の重症度が0度と診断された場合は,経過観察を行い,経膣分娩へと進めばよいが,経過観察後,重症度が増悪した場合や重症度が1度以上となったならば,急速遂娩を行うことになる。急速遂娩においては,既に分娩が進行していて短時間(長くとも自覚症状としての子宮の著明な圧痛の出現から約5時間)で分娩が終了すると予想されるとき(多くは子宮口全開大後の場合である。)は,人工破膜,陣痛促進剤の投与の上,経膣分娩(吸引分娩,鉗子分娩)を行ってもよい。しかし,そのような予想ができない場合(子宮口全開大前)は,胎児の生死にかかわらず,帝王切開を行うべきである。(甲B12ないし18,20,21,乙B1,2,4)

h 血液容積中に占める赤血球容積をパーセントで表したものがヘマトクリットである。ヘマトクリット値によって,血液希釈(貧血)又は血液濃縮(多血症)の有無や程度を知ることができる。妊娠中の血液濃縮について,高ヘマトクリット血症とされるのは,妊娠12週未満ではヘマトクリット値40パーセント以上であり,妊娠中期以後は38パーセント以上である。(甲B2,乙B3)

イ 以上の認定事実,上記争いのない事実等及び弁論の全趣旨に基づいて判断する。

(ア) まず,本件では被告が常位胎盤早期剥離を疑ったかどうか争いがあるが,注意義務違反の判断において問題となるのは,どのような臨床症状や検査結果等が見られる場合に,どのような措置を執るべきかであるから,単純に疑いの有無を論じても有益な議論とはならない。そこで,具体的にどの程度の常位胎盤早期剥離の疑いがある場合にどのような義務が生じるかについて検討すると,

a 常位胎盤早期剥離は,その進行とともに子宮・胎盤循環が障害され,胎児は低酸素状態になり,胎児,新生児の仮死又は死亡に至るという重大な結果を発生させる疾患であるから,これを疑うべき症状が見られた場合には,分娩介助に当たる医師は,重大な結果を発生させないように適切に対処すべきである。

b もっとも,常位胎盤早期剥離の疑いといっても,その程度は様々であり,臨床症状としてわずかな出血が見られるだけであるという場合もあれば,妊娠中毒症に罹患している妊婦について,エコー検査により胎盤縁辺部が丸みを帯びたり,胎盤の厚みが5センチメートルを超えたり,胎盤縁辺部が子宮壁と分離する所見が明らかになり,分娩監視装置による胎児心拍数モニタリングにおいて胎児心拍数基線細変動の消失を伴う遅発一過性徐脈が出現してくることなどから,常位胎盤早期剥離の疑いが濃厚である又は確定診断ができるという場合もある。また,常位胎盤早期剥離の重症度は0度から3度に分類されるところ,何度の重症度と疑われるのかによって,経過観察(0度の場合)とされたり,急速遂娩(1度以上の場合)が必要となるなど執るべき措置が異なるのであるから疑われる重症度にも着目すべきである。

c そうすると,このような常位胎盤早期剥離の疑いの程度及び疑われる重症度については,妊娠中毒症又は交通事故による物理的損傷等の常位胎盤早期剥離の背景となる状況があるか,母体の臨床症状はどのようなものか(上記第3の1(1)ア(イ)bで認定した0度ないし3度の臨床症状のどれに当たるか。),エコー検査(胎盤の厚みの程度や分離の所見の有無),血液凝固検査及び分娩監視装置による胎児心拍数モニタリングの結果はどのようなものかなどを総合的に考慮して,重症度の度合等によって,上記第3の1(1)ア(イ)gで認定した経過観察,急速遂娩又は帝王切開などの措置を執るべきである。

d これらの措置についてさらに詳細に検討する。臨床症状については,常位胎盤早期剥離の場合,剥離部位によって外出血を見る場合と外出血を見ない潜伏出血の場合とがあるから,少量の外出血が見られるにすぎず,そのことから軽度の常位胎盤早期剥離が疑われる場合であっても,潜伏出血が多量に生じている可能性があるほか,剥離の進行により,今後,より多量の外出血が生じる可能性も否定できない。また,常位胎盤早期剥離においては,重症度が1度以上であると確定診断できた場合には,DIC発症の危険も考慮し,母児の救命を目的として鉗子分娩,吸引分娩及び帝王切開を含む急速遂娩を行うべきである。

したがって,少量の外出血が見られるにすぎない場合でも,常位胎盤早期剥離やDICの危険性が存在するのであり,その結果が重大であることも併せ考えると,外出血等の臨床症状の所見を得ることとは別に確定診断をすべく早急に検査等を行うことが必要となる。

e 確定診断をすべく行う検査等としては,上記のとおり,まずエコー検査が考えられる。エコー検査では,胎盤の剥離の程度と時間的経過に従って,様々な異常所見が見られ,とくに胎盤縁辺部が子宮壁から分離する所見によって直接的に常位胎盤早期剥離の診断を得ることができる。また,DICは,常位胎盤早期剥離の存在の下で発生することがあるので,常位胎盤早期剥離の確定診断に際して,DICの診断のための血液凝固検査を行うことが有益である。さらに,剥離の進行により重症度が進むとともに低酸素状態,胎児仮死状態が生じると,分娩監視装置による胎児心拍数モニタリングにおいて,基線細変動の減少・消失及び特徴的な遅発一過性徐脈の発生並びに子宮陣痛曲線の異常等の様々な異常所見が見られ,これらは断続的な胎児心拍数の計測では発見することは困難であるから,分娩監視装置による一定期間の胎児心拍の監視が必要となる。

f これに対し,被告は,患者が特別肥大した腹壁を有する場合には,アルコールを含むゼリーを腹部に塗布することによって腹部が冷えてしまい,血管を収縮させて常位胎盤早期剥離を確実に進行させるとして,エコー検査を行うべきではないと主張し,これに沿う証拠(被告本人)もある。しかし,この主張は,上記第3の1(1)ア(イ)dで認定したとおり,常位胎盤早期剥離の確定診断に果たす役割の重要性や多数の医学文献が常位胎盤早期剥離におけるエコー検査の有用性を明らかにしていることにかんがみると,一般の医療水準に合致しない被告独自の見解といわざるをえず,採用することができない。

g また,被告は,分娩監視装置を装着した場合に生じる発汗が常位胎盤早期剥離を進行させるとともに血栓を作り易くするので,分娩監視装置を使用せず,人の手で分娩監視を行うことが望ましいと主張し,これに沿う証拠(乙B10,被告本人)もある。しかし,この主張は,上記第3の1(1)ア(イ)eで認定したとおり,常位胎盤早期剥離の確定診断に果たす役割の重要性や多数の医学文献が分娩監視装置による胎児心拍数モニタリングの有用性を明らかにしていることにかんがみると,これまた一般の医療水準に合致しない被告独自の見解といわざるをえず,採用することができない。なお,被告がその主張に沿うとして提出した証拠(乙B10)によると,世界保健機構の専門公式文書には,ハイリスク妊娠の場合は別としてローリスク妊娠の場合には,分娩監視装置の使用について消極的な姿勢を示しているとうかがわれる記述もあるが,この見解によっても常位胎盤早期剥離が疑われる場合はローリスク妊娠とはいえず,分娩監視装置を装着すべきことになる。以下の争点においても,分娩監視装置の使用に関する被告の当該主張を採用することができないことは同様である。

h 以上によれば,臨床症状から常位胎盤早期剥離を疑うことが可能であるものの(現実に疑ったか否かは別として),重症度が軽度なため,その時点では経過観察が相当とされる場合であっても,医師には,継続的な臨床症状の観察に加えて,エコー検査,血液凝固検査及び分娩監視装置による胎児心拍数モニタリング(以下「エコー検査等」という。)を実施し,これらの総合考慮から常位胎盤早期剥離の有無及び程度を確定診断しようと努める義務があるというべきである。そして,これらの診断によって,自ら治療に当たったのでは,その物的人的な制約から帝王切開を施行できないなど,常位胎盤早期剥離に適切に対処できないことを医師が認識し得る場合には,適切に対処することができる高次医療施設へ妊婦を転送し,適切な治療を受けさせる義務があるというべきである。

(イ) これを本件についてみるに,

a Aは,本件分娩時,妊娠中毒症に罹患しておらず,交通事故等による物理的損傷も受けておらず,常位胎盤早期剥離の背景となる状況は存在しなかった。

b Aには,16日午前6時及び20日午前10時30分に性器から血性分泌が見られたが,その他には,入院時の内診のころに出血は見られなかった。そして,16日及び20日の血性分泌はともに分泌という以上,少量の出血であったと推認され,出血に関する重症度の分類では1度の臨床症状が見られたにすぎない。なお,16日及び20日の出血については「異常出血」又は「凝血を伴うボタッとした」などの形容による主張もなされているが,重症度の分類では500ミリリットルが基準とされている以上,いずれにせよ分泌の範囲にとどまると考えられる。

c 児心音に関する重症度の分類における臨床症状については,児心音の消失が問題となるのであるから,分娩監視装置によって継続的に児心音を計測する胎児心拍数モニタリングを行うことが適切である。しかし,分娩監視装置は,20日午後4時50分になってはじめて装着されたのであり,入院時に内診をしたころに児心音の消失が見られたかどうか不明であった。したがって,児心音に関し,重症度の分類における1度の臨床症状が見られたとまではいえない。

d 入院時の内診をしたころに子宮緊張,子宮硬直は見られなかった。したがって,子宮の状態に関し,重症度の分類における1度以上の臨床症状は見られなかったといえる。

e 17日午前3時ころからAに陣痛が発来したが,その後の陣痛は微弱であり,入院時の内診のころ,陣痛と区別される下腹痛は見られなかった。したがって,重症度の分類における2度以上の臨床症状は見られなかったといえる。

f 以上のaないしeを総合考慮すると,入院時の内診のころにおいて,常位胎盤早期剥離の背景となる状況や出血以外の臨床症状はなく,エコー検査,血液凝固検査及び胎児心拍数モニタリングも実施されていなかったのであるから,疑いの根拠となるのは,20日に重症度1度の臨床症状のひとつである出血が少量見られたことだけである。そうすると,この時点では,総合的な判断としては,重症度1度と認めることはできず,重症度0度につき軽度の疑いを示す症状があったにすぎず,この場合には,経膣分娩を行うべく,経過観察をしてよいと認められる。なお,本件分娩当時,被告医院では,その物的設備,人員の体制及び被告の意思からして,帝王切開を行うことはできなかったが,経過観察から経膣分娩に至ることが期待できた以上,このことはこの時点での転送義務を肯定するに足りるものとはいえない。

g しかし,被告は,少量とはいえ性器からの出血という常位胎盤早期剥離が疑われる臨床症状が見られた以上,継続的な臨床症状の観察に加えて,直ちにエコー検査,血液凝固検査及び分娩監視装置による胎児心拍数モニタリングを実施し,これらの総合考慮から常位胎盤早期剥離の有無及び程度をできるだけ早期に確定診断しようと努める義務があったといえる。ところが,上記第3の1(1)ア(ア)j記載のとおり,被告は,エコー検査及び血液凝固検査を行わず,入院時から20日午後4時50分まで分娩監視装置を装着しなかった。

h これに対し,被告は,早期に血液凝固検査を行わなかった理由として,E医院における記録と当時の臨床症状から状態は把握可能であったし,出血も止まっていたからであると主張し,これに沿う証拠(乙A6,被告本人)もある。しかし,E医院における記録は,正常な数値より高いものであったことは別としても(正常な数値より高いことは,上記第3の1(1)ア(ア)b及び(イ)hによる。),本件分娩より6か月も以前のものであり,現状を示すものではない。また,血液凝固検査の対象は,同記録によって明らかにされたヘマトクリット値や血小板数に限られるものではない。そうすると,常位胎盤早期剥離の確定診断の資料としては,同記録だけでは不十分なことが明らかである。そして,上記第3の1(1)イ(イ)gで判断したとおり,血液凝固検査は,出血等の臨床症状とは別に行われるべきものである。したがって,被告の主張を採用することはできない。

i 確かに,Aの従前からの希望を聞いていたG助産婦が被告に対し,入院に当たって,Aは,注射,検査,手術,分娩台及び病院の器械の音等が嫌いで,そういうものを極力避けた自然分娩を希望していると述べたのであり,そうしたことから被告がエコー検査等を実施せずに診療しようとした面がうかがわれないではない。しかし,Aは,平成11年6月7日にE医院において血液検査に応じており,被告はこれを確認していること,H助産婦がAに対し,その目的を説明し,了解を得てから,20日午後4時20分及び午後9時19分に注射を行い,分娩後には血液検査を行っていること,本件分娩を通じて,Aが分娩監視装置の装着を拒否したことはなかったことなどからすると,常位胎盤早期剥離が疑われる臨床症状があり,そのためエコー検査等を実施する必要があることを十分に説明すれば,Aは,これに応じたことが容易に推認できる。それにもかかわらず,被告は,Aに対し,常位胎盤早期剥離の疑いがあるとの説明もせず,エコー検査等の提案もしなかったのである。そもそも,エコー検査等の不実施は,Aの意思を尊重したというよりも診療に対する被告独自の見解に基づくものという側面が強いといわざるを得ない。

j 被告がエコー検査等を実施しなかったため,検査結果等から常位胎盤早期剥離の進行状況等を認識することができなかったこと,出血を中心とする臨床症状において常位胎盤早期剥離が進行している状況は見られなかったことなどからすると,被告が自ら治療に当たったのでは,その物的人的な制約から常位胎盤早期剥離に適切に対処できないことを認識し得るとまではいえず,高次医療施設へ妊婦を転送し,適切な治療を受けさせる義務があったとまでは認められない。

(ウ) 以上によれば,被告は,Aに常位胎盤早期剥離が疑われる臨床症状が見られたにもかかわらず,エコー検査等を実施し,常位胎盤早期剥離の有無及び程度を確定診断しようと努める義務に違反したと認められる。これに対して,被告には,入院時の内診結果を中心とする臨床症状等から常位胎盤早期剥離を疑うことが可能であった時点で帝王切開を含む急速遂娩を行うことができる高次医療施設にAを転送する義務があったとまでは認められない。

(2)  羊水混濁後の監視義務

ア 上記争いのない事実等,後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の各事実が認められる。なお,医学的知見については,いずれも本件分娩当時の一般の医療水準となっていたと認められる。

(ア) 本争点に関する主要な事実経過

a 20日午前10時30分の内診において血性分泌が見られた後,午後8時46分までの間に性器からの出血は見られず,子宮緊張等の常位胎盤早期剥離の臨床症状も見られなかった。(甲A4,乙A3,4,証人H,原告A本人)

b 被告は,20日午後4時40分ころ,人工破膜をしたが羊水混濁は見られなかった。また,午後4時50分ころから午後5時30分ころまで分娩監視装置による連続監視がなされたが,児心音の消失等の異常な所見は見られなかった。その後,分娩監視装置による連続監視は午後11時55分ころまで実施されなかった。(乙A3ないし5)

c H助産婦は,20日午後8時46分ころ,少量,水様性及び淡黄色の羊水混濁があったことを確認したが,この羊水混濁は,血性のものではなかった。また,本件男児の分娩後には緑色の羊水混濁が見られた。(乙A3,9,証人H)

(イ) 本争点に関する医学的知見

a 羊水混濁とは,胎児の排泄した胎便が羊水中に浮遊し,羊水が汚染された状態をいう。これは,胎児が何らかの原因で低酸素状態に陥ると,脳や心臓への血流が増加する一方で腎臓や消化器系への血流が低下し,その結果,副交感神経系が優位となり,肛門括約筋の弛緩と腸管の蠕動運動が亢進し,胎便の排泄が起こることによって生じる。そして,低酸素状態の程度が生理的に代償される範囲を超えると胎児仮死状態へ移行する。胎児仮死状態が遷延することは,低酸素性虚血性脳症や後の脳性麻痺の成因のひとつとなるほか,新生児仮死,新生児死亡及び周産期死亡を招くことがある。なお,羊水混濁の色調等は,白濁色,黄色,黄緑色及び胎便混入に分類されるが,臨床的意味を持つのは,黄色,黄緑色及び胎便混入であり,緑色が濃くなると混濁の程度が増大するといえる。(甲B23,24,甲B26,30)

b 胎児仮死が生じた場合,分娩監視装置による連続監視記録上,①持続的な徐脈(100bpm以下)が生じる,②陣痛の下降期に徐脈をきたす遅発一過性徐脈が15分以上連続して出現する,③陣痛に無関係に徐脈(60bpm未満)が乱発する変動一過性徐脈が継続的(60秒以上)に発生する,④胎児心拍数基線細変動が消失する,⑤160bpm以上の頻脈が持続する,といった異常所見が見られる。(甲B25ないし27,30,甲B33)

イ 以上の認定事実,上記争いのない事実等及び弁論の全趣旨に基づいて判断する。

(ア) まず,羊水混濁が見られた場合の監視義務について検討する。羊水混濁は,胎児が何らかの原因で低酸素状態に陥った場合に生じるが,低酸素状態の程度が一定範囲を超えると胎児仮死状態へ移行し,新生児死亡を招くことがある。また,胎児仮死が生じた場合,分娩監視装置による連続監視記録上,様々な異常所見が見られるが,これらは持続的な徐脈や頻脈をはじめとしていずれも継続的な分娩監視を実施してはじめて明らかになる所見であるといえる。もっとも,羊水混濁といっても混濁の程度は,黄色,黄緑色及び胎便混入の順序に悪化するのであり,羊水混濁の程度が低い場合に,常に分娩監視装置による連続監視が必要となるとまではいえない。したがって,羊水混濁が見られた場合には,混濁の程度やその他の低酸素状態又は胎児仮死状態を疑わせるような徴候を総合考慮して,胎児が低酸素状態又は胎児仮死状態に陥っていることが相当程度疑われる場合には,分娩監視装置を用いて胎児心拍数を連続監視する義務があるというべきである。

(イ) これを本件についてみるに,

a 20日午後8時46分ころ,淡黄色の羊水混濁が見られたが,淡黄色と黄色の相違は大きいものではないから,この時点で軽度の羊水混濁が見られたといえる。また,このことはH助産婦が確認したものではあるが,分娩に携わっていた被告もこの時点で羊水混濁の事実を認識したと推認できる。

b 20日午前10時30分の内診において血性分泌が見られたのであるから,低酸素状態を招く常位胎盤早期剥離につき,重症度0度の軽度の疑いがあった。その後,エコー検査及び血液凝固検査は実施されず,午後4時50分ころから午後5時30分ころまでを除き,分娩監視装置による連続監視がなされなかったこともあって,常位胎盤早期剥離の存否及び進行程度がはっきりしていたとはいえず,午後8時46分ころ,常位胎盤早期剥離によって,本件男児が低酸素状態又は胎児仮死状態に陥っている可能性も十分に考えられた。

c 確かに,20日午前10時30分の内診以降,性器からの出血が見られず,子宮緊張及び児心音の消失といった常位胎盤早期剥離の臨床症状もなかったこと,人工破膜時には羊水混濁が見られなかったこと,及び,実施された分娩監視装置による連続監視においては異常所見が見られなかったことからすると,午後8時46分の時点で低酸素状態に陥っていた可能性が高いとはいえず,淡黄色の羊水混濁が見られただけで分娩監視装置による連続監視を行うべきであったか疑問がないわけではない。しかし,臨床症状がないといっても,エコー検査及び血液凝固検査が実施されておらず,分娩監視装置による連続監視も一時的に実施されたにすぎないことなどにかんがみると,午後8時46分の時点で常位胎盤早期剥離の可能性を排除することはできなかった。また,人工破膜時及び一時的な分娩監視装置による連続監視後に低酸素状態又は胎児仮死状態に陥った可能性を払拭することはできない。

d 以上のaないしcを総合考慮すると,被告には,淡黄色の羊水混濁が見られた時点で,分娩監視装置による連続監視を実施し,胎児仮死状態の有無及び程度を確定診断する義務があったといえる。ところが,被告は,午後11時55分まで分娩監視装置による連続監視を実施しなかった。

(ウ) 以上によれば,被告は,常位胎盤早期剥離による低酸素状態又は胎児仮死状態の疑いがあった中で,淡黄色の羊水混濁が見られたのであるから,分娩監視装置による連続監視を実施すべきであったのにこれをせずに,胎児仮死状態の有無及び程度を確定診断するべき義務に違反したものと認められる。

(3)  アトニンO投与における注意義務

ア 上記争いのない事実等,後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の各事実が認められる。なお,医学的知見については,いずれも本件分娩当時の一般の医療水準となっていたと認められる。

(ア) 本争点に関する主要な事実経過

a 20日午後8時55分,微弱陣痛を改善するために1分間12滴の割合でアトニンOの点滴投与が開始された。午後10時10分に点滴が落下しないため抜去するという一時中断もあったが,すぐに差し替えられて投与が続けられた。アトニンOの点滴投与は,午後11時45分に中止された。(乙A3,7,証人H,被告本人)

b 子宮口開大の程度は,20日午後8時20分に8センチメートルとなったが,午後8時30分には,陣痛発作時に前唇部が一部児頭にかぶった状態となり,2.5横指開大に後退した。また,午後8時50分には,子宮口はほぼ全開大となったが,時計の2時方向の前唇部の一部が発作時に出て来るため,被告が押し込みを行った。その後も押し込みを行ったが,午後10時45分には,子宮口ほぼ全開大だが前唇部が一部児頭にかぶっている状態にあり,午後11時40分になって全開大となった。(乙A2,3)

c 20日午前10時30分の内診において血性分泌が見られた後,アトニンOの投与が中止された午後11時45分までの間に性器からの出血は見られず,子宮緊張及び児心音の消失といった常位胎盤早期剥離の臨床症状も見られなかった。(甲A4,乙A3,4,証人H,原告A本人)

(イ) 本争点に関する医学的知見

a 陣痛促進剤アトニンOは,子宮口開大度が約2.5センチメートルとなる程度に分娩が進行しているものの微弱陣痛のため分娩の進行が遷延している場合に,陣痛を強めて分娩誘発を図って速やかに分娩を終了させる目的で使用される(なお,投与の際には,子宮口開大度は5センチメートル以上であることが望ましい。)。アトニンOを投与すると,投与初期から規則的子宮収縮(生理的陣痛に近い収縮)が見られるようになるが,開始初期(投与から20ないし40分間)に過強陣痛(収縮が頻発し,間欠が1分以内となり,同時に間欠時内圧が上昇する。)が出現することがあるほか,強直性子宮収縮(90秒以上にわたる収縮)も生じることがあり,これらにより,胎児仮死(羊水混濁,胎児徐脈の出現)又は胎児死亡が生じることもある。そこで,アトニンOを使用する際には,過強陣痛,強直性子宮収縮又は胎児仮死が発生していないかにつき,分娩監視装置を用いて,胎児の心音及び子宮収縮の状態を十分に監視し,異常が見られる場合には,投与の中止,酸素投与及び急速遂娩等の適切な措置を執るべきである。(甲B1,10,25,28,乙B5)

b 常位胎盤早期剥離を発症しており,緊急な胎児娩出が要求される場合には,アトニンOを投与して陣痛を促進して経膣分娩を行うよりも帝王切開を含む外科的処置の方が確実性が高いため,アトニンOの投与は,禁忌又は原則禁忌とされる。もっとも,常位胎盤早期剥離の治療において急速遂娩が必要となる場合であっても,常位胎盤早期剥離の重症度が軽症(1度)又は中等度(2度)であり,子宮口が全開大又はそれに近い状態にあるならば,吸引分娩や鉗子分娩といった経膣分娩を行うことが適切であり,その場合には,アトニンOを投与して陣痛の促進を図ることが許される。(甲B1,14,17,18,乙B1,4,5)

イ 以上の認定事実,上記争いのない事実等及び弁論の全趣旨に基づいて判断する。

(ア) まず,アトニンO投与における注意義務について検討すると,

a 上記第3の1(1)イ(ア)cで認定したとおり,常位胎盤早期剥離については,臨床症状やエコー検査等を総合考慮して(ただし,潜伏出血の場合もあるのだから,外出血の有無のみを重視すべきではない。),重症度が1度以上となったならば急速遂娩を行うべきであるが,その場合,重症度が軽症(1度)又は中等度(2度)であり,子宮口が全開大又はそれに近い状態にあるならば,吸引分娩や鉗子分娩といった経膣分娩を行うことが適切であり,その場合には,アトニンOを投与して陣痛の促進を図ることが許される。しかし,上記のような重症度及び子宮口開大の条件に当てはまらない場合には,帝王切開を行うべきことになるので,経膣分娩を前提とするアトニンOを投与すべきではない。

b もっとも,アトニンOの投与については,常位胎盤早期剥離の症状のみから投与の適切さが問題になるわけではない。アトニンOの投与により,過強陣痛又は強直性子宮収縮が生じることがあり,これらにより,胎児仮死(羊水混濁,胎児徐脈の出現)又は胎児死亡が生じることがある。そうすると,常位胎盤早期剥離の可能性だけでなく,何らかの理由により既に低酸素状態や胎児仮死が疑われる状態にあったのかなどを総合的に考慮し,具体的事情に即してアトニンOを投与すべきであったのか否かを判断すべきである。

c また,アトニンOを投与することが適切であった場合においても,アトニンOの投与開始初期(投与から20ないし40分間)には,過強陣痛が出現することがあるほか,90秒以上にわたる収縮である強直性子宮収縮も生じることがあり,胎児仮死はこれらによって生じるのであるから,アトニンOを使用する際には,過強陣痛,強直性子宮収縮又は胎児仮死が発生していないかにつき,分娩監視装置を用いて,胎児の心音及び子宮収縮の状態を連続的に監視し,異常が見られる場合には,投与の中止,酸素投与及び急速遂娩等の適切な措置を執る義務があるというべきである。

(イ) これを本件についてみるに,

a 入院時の内診における血性分泌から,常位胎盤早期剥離につき重症度0度の軽度の疑いがあったが,その後,アトニンOの投与が中止された20日午後11時45分に至るまで性器からの出血や子宮緊張といった臨床症状は見られず,実施された分娩監視装置による連続監視においても児心音の消失等の異常所見は見られなかった。そうすると,アトニンO投与の時点での常位胎盤早期剥離の重症度はいくら高くとも3度には至っていないと認められ,子宮口開大の程度がほぼ全開大であったことも併せ考えると,アトニンOの投与が許されないわけではないとも考えられる。しかし,潜伏出血の可能性にかんがみると外出血がないことを絶対視することはできない上,エコー検査及び血液凝固検査は実施されず,一時期を除き分娩監視装置による連続監視がなされなかったことにもかんがみると,アトニンO投与の時点で,常位胎盤早期剥離の存否及び進行程度は明らかになっていなかったといわざるをえない。したがって,常位胎盤早期剥離の観点のみではアトニンOの投与の適切さを判断することはできない。

b もっとも,アトニンO投与の時点では,常位胎盤早期剥離の有無及び進行程度は明らかではなかったが,少なくともその軽度の疑いはあったところ,常位胎盤早期剥離は胎児が低酸素状態となり胎児仮死となる可能性があるものである。また,20日午後8時46分の時点では,本件男児の低酸素状態の疑いを示す羊水混濁が見られた。さらに,アトニンOの投与は,羊水混濁又は胎児徐脈の出現が示す胎児仮死を生じさせる可能性があるところ,これらは胎児の低酸素状態によって生じるものということができる。そうすると,アトニンO投与の時点では,本件男児の低酸素状態及び胎児仮死が相当程度疑われていたにもかかわらず,これらの状態を導く可能性のあるアトニンOを投与したことになる。

c 以上のa及びbを総合考慮すると,被告には,アトニンOを投与する際,投与前の常位胎盤早期剥離の可能性や羊水混濁の存在を踏まえ,投与によって低酸素状態や胎児仮死状態が生じる可能性を考慮してアトニンOを投与すべきではなかったといえる。ところが,被告は,20日午後8時55分から午後11時45分までアトニンOを投与し続けた。

(ウ) 以上より,被告は,常位胎盤早期剥離による低酸素状態又は胎児仮死状態の疑いがあり,かつ,低酸素状態又は胎児仮死状態を示す羊水混濁が存在したため,これらを導く可能性のあるアトニンOを投与すべきではないという義務に違反したものと認められる。

(4)  高度頻脈発見時以後の転送及び監視義務

ア 上記争いのない事実等,後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の各事実が認められる。なお,医学的知見については,いずれも本件分娩当時の一般の医療水準となっていたと認められる。

(ア) 本争点に関する主要な事実経過

a 胎児心拍数については,20日午後9時40分までは160bpmを超えるような値は測定されなかったが,午後9時40分には「13,14,14」(それぞれの数値が5秒ごとの測定値となっている。以下同じ。)と測定され,計算上,168bpm(14×12=168)となることがあった。その後,午後10時18分には,計算上,156bpmとなることがあったが,午後10時40分には「13,14,14,13」と測定され168bpmに戻り,午後11時22分には「15,15,14,13,13」と測定され180bpmとなった。午後11時34分には156bpmに戻ったが,午後11時55分ころに分娩監視装置による連続監視を開始したところ,その記録上,胎児心拍数が180bpmを超える状態が21日午前0時5分ころまで恒常的に見られた。なお,被告は,Aに対し,この際の陣痛曲線の状況を説明しなかった。(乙A3,5,9,証人H)

b 20日午後11時55分ころから分娩監視装置上,180bpmを超える胎児心拍数が見られたため,H助産婦は,被告に対し高次医療施設への転送を勧めた。被告は,21日午前0時8分,NICUを有する高次医療施設である埼玉医科大学に対して電話で問い合わせたが,NICUは満床であるとの回答を得た。この際,被告は,熊谷総合病院であれば転送可能であることを知らされたが同病院へは連絡も転送もせず,午前0時20分ころ,吸引分娩を開始した。このころには,Aは,被告に対し,帝王切開の希望も述べていた。(甲A4,乙A2,5,8,9,B8,証人H,原告A本人,被告本人)

c 20日午後11時40分には,子宮口は全開大となっていた。(別紙診療経過一覧表)

d 被告医院では,開設以来,帝王切開を行っておらず,本件分娩当時,そのための手術道具は存在していたが,錆びて使い物にならないような状態であった。また,被告医院では鉗子分娩は施行しないことになっていた。(甲A6,証人H,被告本人)

(イ) 本争点に関する医学的知見

a 胎児心拍数基線が妊娠40週で平均値約135bpmとなり,これが妊娠末期には低下し,その後,分娩時には再び上昇し,150bpm前後となるのが正常整脈である。妊娠末期において160bpm以上であれば頻脈と呼ばれ,なかでも180bpm未満であれば軽度頻脈,180bpm以上であれば高度頻脈と呼ばれる。(甲B30,33)

b 胎児仮死状態と判断された場合には,まず,母体の体位変換,酸素吸入及び陣痛抑制等の経母治療を行い,それにより胎児仮死所見が消失すれば経過を観察することになるが,所見が不変であったり,悪化すれば,急速遂娩を行うべきである。(甲B25)

c 吸引分娩とは,吸引カップを陰圧の状況下で胎児の先進部に吸着させ,牽引により胎児を経膣的に娩出させる分娩方法である。吸引分娩の適応としては,胎児仮死,羊水混濁及び常位胎盤早期剥離などがあげられる。また,①2回の施行で全く下降が見られない,②3回施行しても分娩に至らない,③2回以上の吸引カップ滑脱があった,④のべ20分以上の吸引によっても児娩出に至らない,といった場合には,すみやかに吸引分娩を中止して帝王切開に切り替えるべきであり,帝王切開の準備をしておくことも吸引分娩の適応となる。吸引失敗を繰り返すと,胎児へのストレスが助長されて,新生児仮死を招くことが多く,頭血腫,帽状腱膜下血腫又は頭蓋内出血などの合併症発生の危険性が高まる。なお,鉗子分娩は,施行者の技術の優劣により母児に与える影響が大きく,産道に裂傷を与えたり,胎児の頭部を傷つける危険がある。(甲B4ないし9)

d DICの治療においては,血小板数の減少が見られる場合であっても,帝王切開を行うべきである。もっとも,DIC合併症例での帝王切開では,術前に補充療法(新鮮血輸血など)と抗線溶療法を施行してから行うべきであり,さもないと致命的大量出血を起こすことがある。胎児が生存している場合は,DICの発症はまれであり,帝王切開後に止血機能を悪化させる懸念は少ない。(甲B12,13,乙B4)

イ 以上の認定事実,上記争いのない事実等及び弁論の全趣旨に基づいて判断する。

(ア) まず,高度頻脈発見時以後の転送義務について検討すると,

a 上記第3の1(2)ア(イ)aにおいて認定したとおり,胎児仮死状態が生じた場合には,新生児仮死,新生児死亡及び周産期死亡に至ることがある。そして,胎児仮死状態を示す徴候のひとつとして胎児心拍数が頻脈となることがあげられる。すなわち,上記第3の1(1)ア(イ)eにおいて認定したとおり,常位胎盤早期剥離の重症度が進むと胎児仮死状態が生じて胎児心拍数に頻脈が見られることがある。また,上記第3の1(2)ア(イ)a及びbにおいて認定したとおり,羊水混濁は,児の低酸素状態後,胎児仮死状態へ移行した場合に見られることがあるが,この場合には胎児心拍数に160bpm以上の頻脈が持続することがある。したがって,分娩を担当する医師は,胎児心拍数に頻脈が見られた場合には,母児に疑われる疾患の有無及びその程度も考慮した上で,胎児仮死状態又はその危険を除去すべく適切に対処すべきである。

b もっとも,胎児仮死といってもその程度によって様々な対処方法が存在するのであり,母体の体位変換,酸素吸入及び陣痛抑制等のほか,吸引分娩や帝王切開を施行することなどが考えられるが,胎児仮死が疑われる程度や選択すべき方法の適応等を総合考慮して判断すべきである。そして,このような判断によると,自ら治療に当たったのでは,その物的人的な制約から胎児仮死状態に適切に対処できないことを医師が認識し得る場合には,適切に対処することができる医療施設へ妊婦を転送しなければならなくなる事態の発生をも予測して,あらかじめ転送先を確保するなどして,患者に適切な治療を受けさせる義務があるというべきである。

(イ) これを本件についてみるに,

a 胎児心拍数については,20日午後9時40分までは160bpmを超えるような値は見られず,午後9時40分には168bpm,午後10時18分には156bpm,午後10時40分には168bpm,午後11時22分には180bpm,午後11時34分には156bpmと測定された。ここでは,頻脈や高度頻脈が見られたことがあるものの160bpmを下回ることもあり,持続的な頻脈とまではいえなかった。しかし,午後11時55分ころに分娩監視装置による連続監視を開始したところ,その記録上,胎児心拍数が180bpmを超える状態が21日午前0時5分ころまで恒常的に見られ,これは,持続的な頻脈と評価できるものであった。したがって,遅くとも21日午前0時5分ころには,高度頻脈による胎児仮死の徴候が見られたということができる。

b 本件分娩では,エコー検査及び血液凝固検査の不実施や分娩監視装置による連続監視の不足から,確定診断はできなかったものの,一貫して常位胎盤早期剥離の疑いがあり,その進行により,21日午前0時5分ころの時点でも胎児仮死が生じている可能性があった。また,羊水混濁の存在から胎児仮死の疑いがあったし,アトニンOの投与により胎児仮死が発生している危険もあった。そうすると,これらの諸要因から21日午前0時5分ころには本件男児が胎児仮死状態に陥っている可能性が高かったといえる。

c 上記a及びbからすると,21日午前0時5分ころには,本件男児が胎児仮死に陥っている可能性は高かったといわざるを得ず,これに同時刻ころには子宮口全開大状態にあったこと,分娩が長時間に及んでいること,及び,既に陣痛促進剤アトニンOを投与していたことを併せ考えると,母体の体位変換,酸素吸入及び陣痛抑制等の経母治療では十分でなく,急速遂娩術を施行すべきであったといえる。そして,速分娩術のうち吸引分娩の適応には,胎児仮死,羊水混濁及び常位胎盤早期剥離などがあげられ,本件分娩はこれに当たるけれども,迅速に児娩出に至らない場合には,すみやかに吸引分娩を中止して帝王切開に切り替えるべきであり,その準備をしておくことも吸引分娩の適応となるのである。ところが,被告医院では,開設以来,帝王切開を行っておらず,手術道具は錆びてしまっていたのであり,人的物的見地から帝王切開の準備はできておらず,吸引分娩の適応になかった。なお,帝王切開の準備が必要であり,適応になかったことは,鉗子分娩についても同様であると考えられる。

d 確かに,21日午前0時8分には,埼玉医科大学のNICUは満床あるとして転送を断られたが,同時に,被告は,熊谷総合病院であれば転送可能であることを知らされたのであり,帝王切開を実施できる病院への転送は可能であった。

e 被告は,Aにつき帝王切開を施行したら,DIC,血栓症による死亡の危険があるので,帝王切開を前提とする転送を行うべきではなかったと主張し,これに沿う証拠(乙B3,被告本人)もある。しかし,DICの治療においては,血小板数の減少が見られる場合であっても帝王切開を行うべきであり,一般に帝王切開が血栓症のリスクファクターになるとしても,本件のように常位胎盤早期剥離やこれによる胎児仮死が疑われている場合には,そのような疑いがない場合と異なり,帝王切開等により適切に対処する必要がある。被告の主張は独自の見解といわざるを得ず,採用することができない。

f 21日午前0時8分ころには,Aは,被告に対し,帝王切開にしてくれてもいいと述べていたのであり,転送して帝王切開が実施されることになってもAの意思に反することはなかった。

g 以上のaないしfを総合考慮すると,被告には,21日午前0時8分ころには,20日午後11時55分ころから21日午前0時5分ころまで高度頻脈が継続したことを受けて,常位胎盤早期剥離の疑い,羊水混濁の存在及びアトニンO投与の事実を併せ考え,胎児仮死の危険が高いことを認識し,被告医院では帝王切開を施行することができない以上,その時点で直ちに帝王切開の適応があるかどうかについては別の判断があり得るとしても,帝王切開をしたこともなく,その用意もなかった被告医院にAをとどめておかず,熊谷総合病院など帝王切開の可能な高次医療施設にできる限りすみやかに転送すべき義務があったといえる。また,仮にその時点では遅きに失したというのであるならば,もっと早期の段階ないし日頃から被告医院における治療では賄いきれず転送が必要となる帝王切開等の緊急事態の発生に備えて高次医療施設に連絡しておくなどして転送のルートといったものを確立しておくべきであったというべきである。にもかかわらず,被告は,転送先の事前の確保ないし連絡も転送可能な熊谷総合病院への転送もせず,かつまた帝王切開の準備をしないままに吸引分娩を続けたものである。

(ウ) 以上によれば,被告には,転送義務違反の事実が認められる。

2  争点(2)(本件男児の死亡時期)について

(1)  上記争いのない事実等,後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の各事実が認められる。

ア 21日午前0時10分少し前ころから胎児心拍数に変化が生じ始め,午前0時15分ころから午前0時20分ころにかけて,急激に胎児心拍数が減少し,100bpm近くになることもあった。午前0時20分ころ以降の胎児心拍数は,胎児心拍数図上,線がところどころ途切れ,十分に読みとることができない状態となった。時々記録された部分も断続的に60bpmを下回ったり,200bpmを上回る状態が出現し,午前1時10分ころからは,断続的に70bpm前後と150bpm前後を記録する状態となった。そして,午前1時20分から午前1時21分までは140bpm前後の基線が存在したが,午前1時21分に消滅した。(乙A3,5,9,証人H)

イ 被告は,21日午前0時20分に吸引分娩を開始し,12回以上の吸引を試みたが,本件男児を娩出させることができず,ようやく午前1時21分ころになって娩出させた。娩出後の本件男児は,全身色不良で自発呼吸及び四肢筋緊張がなく,チアノーゼが見られた。そして,被告は,本件男児に対し,マウストゥーマウス,心マッサージ及び足底刺激等の蘇生術を行ったが,午前1時40分ころ蘇生を断念し,その後,本件男児に心臓の拍動,随意筋の運動及び呼吸は見られなかった。なお,H助産婦及びJ准看護婦は,娩出直後,被告が本件男児に聴診器を当てた時,弱いけれども心拍があると述べたのを聞いた。(甲A4,7,乙A3,9,証人H)

ウ 平成12年1月5日,被告がI産婦人科外来担当医に宛てて作成した紹介状には,本件男児について「死産」「Apgl1p」「心拍のみ+→(-)」との記載があった。(甲A2,乙A1)

(2)  以上の認定事実,上記争いのない事実等及び弁論の全趣旨に基づいて判断する。

ア 思うに,娩出後の児に心臓の拍動,随意筋の運動又は呼吸のいずれかひとつでも見られたならば,死産ではなく,出生したというべきであり,こうした見解は,死産の届出に関する規程(昭和21年9月30日厚生省令第42号)第2条によっても裏付けられるところである。

イ これを本件についてみるに,

(ア) 分娩監視記録上,本件男児の娩出前には高度頻脈や徐脈と評価される数値が交互に出現するなどしており,トランスデューサーが正しく装着されていなかった可能性も含め,そもそも胎児心拍数を正確に測定できていたのか疑問もある。しかし,本件男児の娩出時まで胎児心拍数が記録されていることからすると,正確さは別として本件男児の胎児心拍数が測定されていたこと自体は認められる。そして,不安定ながらも21日午前1時20分まで胎児心拍数が記録されていること,及び,午前1時20分から午前1時21分までは正常整脈に近い140bpmの状態が継続していたことからすると,娩出直前まで本件男児の心臓は拍動していた可能性が高い。これに対し,被告が主張するような娩出直前に心拍が停止していたことを示す分娩監視記録はない。

(イ) 娩出後の本件男児は,自発呼吸及び四肢筋緊張がなく,その後もこれは見られなかったのであるから,生産の要件である随意筋の運動及び呼吸はなかったといえる。

(ウ) H助産婦及びJ准看護婦が娩出直後に被告が本件男児に聴診器を当てた時,弱いけれども心拍があると述べたのを聞いたこと,及び,被告がI産婦人科外来担当医に宛てて作成した紹介状には,本件男児について「心拍のみ+→(-)」との記載があったことからすると,娩出時には心臓の拍動が見られたと認められる。また,証拠(甲A4,7,原告A本人)によると,被告は,多数回かつ単なる筋肉の収縮ではない本件男児の心臓の拍動を確認したかのような発言をしていたものと認められ,このことはH助産婦及びJ准看護婦が弱いけれども心拍があると被告が発言したのを聞いたことや上記紹介状の記載と一致し,信用性が高いといえる。これらのことからすると,本件男児の娩出後,多数回かつ単なる筋肉の収縮ではない心臓の拍動があったと認めることができる。

(エ) 以上の(ア)ないし(ウ)を総合考慮すると,本件男児の娩出時には自発呼吸及び四肢筋緊張こそなかったものの,心臓の拍動はあったのであり,この時点では死亡していなかったといえる。

ウ 以上より,本件男児は,娩出時には生きており,その後21日午前1時40分までの間に死亡したものと認められる。

3  争点(3)(因果関係)について

(1)  上記争いのない事実等,後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の各事実が認められる。

ア 被告医院から熊谷総合病院へ転送するために必要な時間は,20分程度であった。また,熊谷総合病院には,NICUは存在しなかった。(甲A4,原告A本人,被告本人)

イ 平成12年1月6日に診断がなされた病理組織検査において,①胎盤は,絨毛膜絨毛が発育不十分であるが,血管病巣や血栓は見られず,②脱落膜層に帯状の出血巣が見られ,わずかに変性脱落細胞があるとされ,本件分娩時のAは,常位胎盤早期剥離に罹患していたと診断された。(乙A1)

(2)  以上の認定事実,上記争いのない事実等及び弁論の全趣旨に基づいて判断する。

ア 訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり,その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし,かつ,それで足りると解すべきである。そして,医師が注意義務に従って行うべき診療行為を行わなかった不作為と患者の死亡との間の因果関係は,医師が当該診療行為を行っていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していたであろうことを是認しうる高度の蓋然性が証明されれば肯定されるものと解すべきである(最高裁平成11年2月25日判決,民集53巻2号235頁参照)。

イ これを本件についてみるに,

(ア) 上記第3の1(1)において判断したとおり,被告は,Aに常位胎盤早期剥離が疑われる臨床症状が見られたにもかかわらず,エコー検査等を実施し,常位胎盤早期剥離の有無及び程度を確定診断しようと努める義務に違反した。しかし,平成12年1月6日の病理組織検査において,本件分娩時のAは,常位胎盤早期剥離に罹患していたと診断されたが,胎盤に血管病巣や血栓は見られず,脱落膜層に帯状の出血巣が見られ,わずかに変性脱落細胞があるとされたにすぎないのであるから,エコー検査を施行しても常位胎盤早期剥離の診断は困難であった可能性がある(常位胎盤早期剥離が直接的死因であったかについては疑問がある。)。

また,上記第3の1(2)ア(ア)a及び(3)ア(ア)cにおいて認定したとおり,本件分娩では入院時の内診において血性分泌が見られたほかは,常位胎盤早期剥離の臨床症状が見られていないのであり,常位胎盤早期剥離はあまり進行しておらず,当該義務の履行によっても異常所見を発見できなかった可能性がある。さらに,上記第3の1(2)ア(ア)b及び(4)ア(ア)aにおいて認定したとおり,20日午後4時50分から午後5時30分までの分娩監視装置による連続監視においても異常所見は見られず,午後11時55分までは,胎児心拍数に高度頻脈が見られたことがあるものの,頻脈とは評価できない程度にまで戻ったりもしていたのであるから,連続監視を施行したとしても異常所見を発見することができなかった可能性がある(なお,常位胎盤早期剥離における異常所見には遅発一過性徐脈等様々なものがあるが,上記のとおり,常位胎盤早期剥離があまり進行していなかった本件ではこれらの所見も得られなかった可能性が高い。)。そうすると,被告がエコー検査等を実施していたならば,本件男児の異常を発見し,適切な処置を施すことによって,本件男児の死亡時点でなお生存していたであろうことを是認しうる高度の蓋然性を認めることはできない。したがって,当該義務違反と本件男児の死亡の間に相当因果関係はない。

(イ) 上記第3の1(2)において判断したとおり,被告は,常位胎盤早期剥離による低酸素状態又は胎児仮死状態の疑いがあった中で,淡黄色の羊水混濁が見られたにもかかわらず,分娩監視装置による連続監視を実施し,胎児仮死状態の有無及び程度を確定診断する義務に違反した。しかし,上記(ア)の義務違反の場合と同様に分娩監視装置による連続監視を施行したとしても異常所見を発見することができなかった可能性がある。そうすると,被告が分娩監視装置による連続監視を施行していたならば,本件男児の異常を発見し,適切な処置を施すことによって,本件男児の死亡時点でなお生存していたであろうことを是認しうる高度の蓋然性を認めることはできない。したがって,当該義務違反と本件男児の死亡の間に相当因果関係はない。

(ウ) 上記第3の1(3)において判断したとおり,被告は,常位胎盤早期剥離による低酸素状態又は胎児仮死状態の疑いがあり,かつ,低酸素状態又は胎児仮死状態を示す羊水混濁が存在したため,これらを導く可能性のあるアトニンOを投与すべきではないという義務に違反した。しかし,上記第3の1(3)において認定したとおり,アトニンOの投与により,低酸素状態又は胎児仮死状態が生じる機序は,過剰に陣痛が促進されて過強陣痛となったり,強直性子宮収縮が生じることを通じて起こるものである。ところが,Aにはこれらの症状は現れていない(別紙診療経過一覧表による。)。そうすると,被告がアトニンOを投与しなかったならば,本件男児の娩出後21日午前1時40分ころまでの間に死亡したことを防ぐことができたことを是認しうる高度の蓋然性を認めることはできない。したがって,当該義務違反と本件男児の死亡の間に相当因果関係はない。

(エ) 上記第3の1(4)において判断したとおり,被告は,常位胎盤早期剥離,羊水混濁及びアトニンO投与の諸事情に加え,分娩監視記録上,高度頻脈が見られ,熊谷総合病院への転送が可能であることが明らかになった時点で,NICUの有無は別として少なくとも帝王切開可能な医療施設に直ちに転送すべき義務に違反した。そして,上記第3の2(1)アにおいて認定したとおり,20日午後11時55分ころに分娩監視装置による連続監視を開始してから頻脈や徐脈が繰り返し出現していたものの,本件男児には娩出に至るまで胎児心拍が見られたのであり,熊谷総合病院への転送が可能であったことがわかってから1時間以上の猶予があったといえ,この時間を利用して転送及び転送先において適切な処置を行うことが可能であった。この点,常位胎盤早期剥離の疑い,羊水混濁の存在,アトニンOの投与及び高度頻脈の発現といった当時の状況を総合すると,熊谷総合病院においては直ちに帝王切開が施行されたことが推認できる。また,上記第3の1(4)ア(イ)c及び2(1)イにおいて認定したとおり,吸引分娩を施行する場合,二,三回かつ20分程度の吸引によっても娩出されなければ,帝王切開に移行すべきであるが,本件分娩では,12回以上かつ約1時間にわたって吸引が行われたのであり,これは仮に吸引カップが滑脱を繰り返していたとしてもあまりに多数回かつ長時間に及んだといわざるを得ない。このような吸引がなされたことにより,胎児仮死状態が亢進した可能性は否定できない。逆に早期に帝王切開を施行していれば,胎児仮死状態が亢進していない状態で娩出され,直ちに,NICUは備えられてないとしても被告医院よりもスタッフや設備が充実している同病院において本件男児に対する治療がなされたと推認できる。そうすると,被告が直ちに熊谷総合病院へ転送していたならば,本件男児がその死亡の時点においてなお生存していたであろうことを是認しうる高度の蓋然性を認めることができる。したがって,当該義務違反と本件男児の死亡との間には相当因果関係があるといえる。

ウ 以上によれば,常位胎盤早期剥離,羊水混濁及びアトニンO投与の諸事情に加え,分娩監視記録上,高度頻脈が見られ,熊谷総合病院への転送が可能であることが明らかになった時点で,NICUの有無は別として少なくとも帝王切開可能な医療施設に直ちに転送すべき義務違反と本件男児の死亡との間に相当因果関係を認めることができる。

4  争点(4)(損害)について

ア  上記争いのない事実等(3)記載のとおり,原告らは,被告との間で,被告医院への入院に際し,被告が分娩について適切な管理,診療及び介助をなすことを内容とする診療契約を締結したのであり,その際には,分娩の性質上当然に,出生後の本件男児のために適切な出産管理・介助をなすことを内容とする診療契約も締結していたと認められる。また,証拠(甲A4,7)及び弁論の全趣旨によれば,原告Aは,被告に対し,本件男児の出生後,本件男児の救命を依頼していることが認められ,原告らが同男児の法定代理人親権者として,同男児につき当該契約に関する受益の意思表示をしたこともこれまた認められる。

イ  逸失利益 2122万8816円

平成11年賃金センサス第1巻第1表産業計,男子労働者学歴計の平均年収は562万3900円であるから,生活費を5割,中間利息をライプニッツ方式(67年の係数19.2390から18年の係数11.6895を控除した7.5495が適用される。)で各控除すると,本件男児の逸失利益は,2122万8816円となる(小数点以下は切り捨てる。以下同じ。)。

なお,逸失利益については,熊谷総合病院への転送がなされたとしても,予後が良好であったといえるかについては不明な点がないわけではない。しかし,被告が入院当初から複数の義務違反を重ねたこと,転送可能となった時点から死亡までは相当程度の時間的余裕があったこと,及び,その間に被告の多数回かつ長時間の吸引分娩という特異な手技があったことなど本件に顕れた全事情を総合考慮すると,逸失利益額を減ずることは相当ではない。

(計算式)5,623,900×(1-0.5)×7.5495=21,228,816

ウ  死亡慰謝料 3000万円

被告は,常位胎盤早期剥離や胎児仮死の危険が生じていたにもかかわらず,分娩監視装置による連続監視を行わないなど,一般の医療水準とは大きく異なる独自の見解に固執して,度重なる義務違反を重ねており,結果として,本件男児を死亡させてしまったということができ,その責任は非常に重い。また,産科に携わる医師であるにもかかわらず,帝王切開のための手術道具を錆びた状態で放置しておくなど医師としての基本的な姿勢にも疑問があるといわざるを得ない。これらのほか,被告の本件訴訟における訴訟態度を初めとする本件に顕れた全事情を総合考慮すると,本件男児固有の死亡慰謝料(2000万円)及び原告ら固有の死亡慰謝料(各500万円)を合計した金額として3000万円を損害額として相当と認める。

エ  弁護士費用 各255万円

本件に顕れた全事情を総合考慮すると,弁護士費用として510万円を相当額と認め,そのうち原告ら各人の損害額は255万円ずつであると認める。

オ  原告ら各人の損害額 2816万4408円

原告らは,本件男児の相続人として上記イ及びウの本件男児固有の逸失利益及び死亡慰謝料をそれぞれ2分の1ずつ相続しており,これにウの原告ら固有の死亡慰謝料及びエの各人の損害額を合計すると,原告ら各人の損害額は,それぞれ2816万4408円となる。

(計算式)(21,228,816+20,000,000)÷2+5,000,000+2,550,000=28,164,408

カ  遅延損害金

本訴請求は,債務不履行に基づく損害賠償請求及びその遅延損害金請求であるところ,遅延損害金としては,平成16年2月14日(本件訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金が認められる。

5  結論

以上の次第であるから,本訴請求は理由があるからこれを認容し,訴訟費用の負担につき民訴法61条を,仮執行宣言につき同法259条を各適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 清水研一 裁判官 中俣千珠 裁判官 西前征志)

別紙診療経過一覧表

年月日

診療経過(入通院状況・主訴・診断)

検査・処置

証拠

原告の反論

証拠

1999.12.20

10:30

初診

入院

主訴:最終月経は3月14日から6日間(乙A2,P1)

12月16日から不規則な陣痛あり,ここ2・3日睡眠がとれない(乙A1.P1)。出産予定日12月18日(乙A2,P2)

手術や注射が嫌いとのこと,紹介者である助産院FのG助産婦から帝王切開はしないでほしいとの申出あり(乙A1,P1)。

所見: 妊娠40週と2日で分娩遷延,胎胞あり(乙A2,P2)。

12月19日夕方(G助産婦より)TELあり(乙A2,P2)。

陣痛発来あり,血性分泌物あり。

16日から陣痛があったということだが不規則ということから,前駆陣痛と考えた(乙A1,P1)。

診断: 血栓症,胎盤早期剥離,低血糖(乙A1,P1)

産道熟化のためマイリス膣錠1ケ投与

(AM10:30)

乙A1-P1

乙A2-P2

乙A3-P6

G助産婦(F)に受診する際に,手術や注射をしたくないという動機を説明したことはあるが,被告クリニックを受診する際には,被告に対して手術や注射が嫌いと言ったことはない。また被告クリニックの受診に際し,帝王切開はしないでほしいとは,被告及びG助産婦に対して申し出ていない。

被告は,内診しただけで,「普通に産める」と断定しただけで,内診の際の出血に関しても何らの説明もなかった。

原告が被告から問診及び内診をうけた際,血栓症,胎盤早期剥離,低血糖といった診断名は全く言われていないし,まして注意指示は一切なかった。これらの診断名は,出産後に被告が初めて口にした内容である。

AM11:00

陣痛間隔3~5分,陣痛発作30~40秒,子宮口4cm開大,胎胞あり,SP±0,児心音13all

乙A3-P6

PM12:00

12:30

昼食

全量摂取

児心音13all 陣痛間隔2~3分

陣痛発作35~45秒

乙A3-P6

2:00

2:30

児心音13all 陣痛間隔2~4分

強弱あり,陣痛発作30~45秒

体温36.9℃,脈拍75,血圧115/68

子宮口4~5cm開大,胎胞あり

SP+0.5 子宮口やや硬め

乙A3-P6

陣痛強弱あり,坐位にし,更に側臥位とする。

本人注射嫌いでマイリス注射あまりやりたくない様子

乙A3-P6

注射についての説明が無かったので,説明を求めたにすぎず,注射は拒否していない。

PM4:20

4:40

4:50

分娩室

入室

児心音13all,陣痛間隔3~5分

陣痛発作30~50秒 腰痛あり

被告により人工破膜 羊水少なめ,混濁なし

分娩監視装置装着

5%TZ20ml+マイリス静注

(PM4:20)

乙A3-P6

5:30

分娩監視装置はずす。

乙A3-P6

乙A4

6:00

一旦帰室して夕食

おにぎり2ケと副食摂取

乙A3-P6

7:00

陣痛間隔3~5分,陣痛発作40~50秒

子宮口5cm開大 KOP↓

乙A3-P6

8:20

8:30

8:50

分娩室

入室

子宮口8cm開大,産瘤あり

子宮口8cm開大となるが陣痛発作時に前唇部が一部児頭にかぶった状態となり,2.5横指開大に後退する。

羊水薄い混濁あり。

児心音は12・13・12

5%TZ500ml点滴開始(PM8:20)

子宮口ほぼ全開大となるが,時計の2時方向の前唇部の一部が発作時に出て来るため,押し込みを行う。

乙A3-P7

乙A2-P2

PM8:55

児心音13all

陣痛微弱

アトニンO 1分間12滴で開始

(PM8:55)

9:08

9:10

9:15

児心音13all

前唇部の押し上げ一旦中止す。

児心音12all

VC3A追加

(PM9:08)

乙A3-P7

乙A2-P2

乙A3-P7

9:19

9:40

10:10

10:18

10:40

10:45

11:22

11:34

11:40

11:45

11:54

ポルチオ厚く硬め

児心音13・14・14

点滴落下せず技去する,左手に差し替え,夫来院

児心音13all

児心音13・14・14・13

子宮口ほぼ全開大だが,前唇部<2時~8時)が一部児頭にかぶっている。

児心音15・15・14・13・13

児心音13all

子宮口全開大

児頭挙上し,前唇部の押し上げ一旦休止とする。

5%TZ20ml+マイリス(PM9:19)

5%TZ500mlを切替え,アトニンOは中止し,単味とする。(PM11:45)

乙A3-P7

子宮口に対する前唇部の被りについては,記録上「2時8mm除きほぼ全開」と記載されている。

乙A3-P7

1999.12.21

AM0:00

体温38.4℃

血圧 153/72,141/72,138/76

分娩監視装置装着

乙A3-P7

乙A5-P2

分娩監視装置を付けたのは午後11時55分ころで,H助産婦が搬送するために必要だという説明のもとに装着したものであり,その時の胎児心拍は180bpmを超えていた。

乙A5

AM0:08

AM0:20

0:23

0:24

0:30

0:34

0:40

0:45

0:55

児心拍は頻脈

陣痛曲線には「さざなみ様」を認め,胎盤早期剥離は進行していると思われた。(分娩監視記録)

総合病院への転送を考え,埼玉医大へ電話をしたがNICU満床のため断られる。

吸引分娩開始

吸引

吸引

吸引

吸引

吸引

吸引

吸引

(AM0:55)

吸引20%TZ20ml静注

乙A5

乙A2P2

乙A3P3

陣痛曲線についても,胎盤早期剥離についても全く説明は無かった

AM1:05

1:10

1:15

吸引

吸引

吸引

乙A3-P8,3

1:20

1:35

吸引 児娩出  死産

新生児全身色不良で四肢筋緊張なく,自発呼吸もなくチアノーゼ(+)蘇生術施行。

心音Dr聴診器で弱いが認めた。

マウス トゥ マウス,保温,心マッサージ,吸引,足底刺激

頚部巻絡 羊水混濁(+),緑色  沐浴 計測

体重3775g,身長53cm,頭囲35cm,胸囲35cm

生化,血算実施(乙A1,乙A3,P5)

WBC H21800

RBC 387

Hb L11.1

Ht 34.0

FDP 40<80

総蛋白 L5.9

総コレステロール H252

中性脂肪

H231

血清鉄 65

CRP H(5+)

乙A2-P3

乙A3-P14

乙A3-P3

♂児出生と記載のみで看護記録には死産の記載無し

「仮死」「1p」と記載されている。

「Apga1p」「心拍のみ+→(-)」と記載されている。

乙A3-p8,p14

乙A2-p3

甲A2

胎盤娩出,胎盤は病理検査に出すこととする。

羊水やや混濁,臍帯巻絡頚部に1回

1:35分時点での診療記録,助産録には記載無く,根拠が無い 。

臍帯巻絡の有無等や羊水の混濁については,胎盤娩出時でなく,児娩出時に判明していたはずである。

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