さいたま地方裁判所川越支部 平成19年(ワ)256号 判決 2010年3月04日
原告
X
同訴訟代理人弁護士
外井浩志
同
新弘江
外井浩志訴訟復代理人弁護士
藤原宇基
被告
医療法人 Y1整形外科
同代表者理事長
Y2<他1名>
被告両名訴訟代理人弁護士
松本昭幸
主文
一 被告らは、連帯して、金一〇〇万円及びこれに対する平成一八年六月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その一を被告らの、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、第一項及び第三項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告らは、原告に対し、連帯して金五〇〇万円及びこれに対する平成一八年六月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
原告は、訴外丙川株式会社(以下「訴外会社」という。)の従業員として業務に従事していた際に負傷したため、被告医療法人Y1整形外科(以下「被告病院」という。)において、被告病院の代表者である被告Y2(以下「被告医師」という。)の診察及び治療を受け、その一方、訴外会社に対し、損害賠償を請求する訴訟を提起したものであるところ、本件は、原告が、被告医師が訴外会社の担当者に原告の診療情報を漏えいしたことにより精神的苦痛を被ったと主張して、被告医師に対しては診療情報を漏えいしたことによる守秘義務違反及び個人情報取扱業者として個人情報の保護に関する法律(以下「個人情報保護法」という。)二三条に違反して原告の健康情報を事前の原告の同意なく第三者に提供した不法行為に基づき、被告病院に対しては診療契約上の附随義務としての守秘義務に違反した債務不履行又は一般社団法人の代表者である被告医師が職務を行うについて行った不法行為による損害賠償責任(医療法六八条、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律七八条)に基づき、それぞれ損害賠償を請求する事案である(附帯請求は、被告医師が原告の診療情報を漏えいしたと主張する日からの遅延損害金である。)。
一 前提となる事実(証拠を摘示した事実のほかは、当事者間に争いがない。)
(1)ア 原告は、平成一四年九月一三日、下記イ記載の事情等を訴えて被告病院を受診し被告病院において治療を受けることになった。原告と被告病院は、これにより、頸椎捻挫、頭頸部症候群(左神経根症、頸部脊椎症)を治療するとの内容の準委任契約(診療契約)を締結した(なお、その効果として、被告病院は、原告に対する治療内容及び原告の症状について、原告の承諾を得ずに第三者に対しその内容を開示しないとの守秘義務を、信義則上負ったことになる。)。
イ 原告は、診療契約締結に際し、被告医師に対し、以下の事情を説明した。
(ア) 原告は、平成一四年八月一四日、訴外会社の作業所内の第一ラインにおいて、かがんだ状態で下を向き、荷造り作業に従事していたところ、ほかの従業員がドーリーに載せて運搬中不注意により落下させたプラスチック製の箱により頭部を直撃された結果、頭部打撲、頸椎捻挫の傷害を負った(以下この事故を「本件労災事故」という。)。
(イ) 原告は、同年八月一五日から同年九月五日まで、埼玉県所沢市内の彩の国クリニックにおいて治療を受け、同年九月三日に頸椎捻挫と診断されて治療を受けていたが、吐き気、頭痛、首の痛み等の症状が回復しなかったため被告病院に転院した。
(2) 原告は、平成一四年九月一三日から平成一六年四月三〇日まで、被告病院に通院し、被告医師を主治医として治療を受けた。
(3) 被告医師は、原告に対し、MRI設備のある訴外大成病院で頸椎等のMRI撮影を行うよう指示し、原告は、この指示に従い、平成一五年一〇月三一日、同病院にてMRIの撮影を受けた。
(4) 原告は、訴外会社を被告として、平成一七年七月一二日、本件労災事故によって原告に生じた損害の賠償を求める訴えを東京地方裁判所に提起し(同裁判所平成一七年(ワ)第一四〇四二号事件。以下この事件を「別件訴訟」といい、別件訴訟の審理を担当していた裁判所を「別件裁判所」という。)、その訴状は平成一七年七月一五日に訴外会社に送達された。
(5) 訴外会社は、平成一七年一〇月二五日、別件裁判所に対し、被告病院に原告の診療録及び検査結果等診療記録(レントゲン写真、MRIを含む。)全部の送付を求める旨の文書送付嘱託の申立てをし、別件裁判所は、同月二六日、同申立てを採用する旨決定した上で、同年一一月一日、被告病院に対して文書送付の嘱託をした。被告病院は、その嘱託を受けてこれらの文書を送付し、これらの文書は、同月八日、別件裁判所に到着した。訴外会社は、別件訴訟の第四回口頭弁論期日において、前記診療録の写しを乙二号証として提出した。
(6) 訴外会社が別件訴訟における平成一八年三月二七日の第一回弁論準備手続期日の当日別件裁判所に提出した同日付け準備書面には、その第二の四項に、「原告の頸椎MRIの所見は、以下のとおりであり、原告の症状にはこれら頸部背骨のレベルの穏やかな運河の狭窄症、C4/5及びC5/6の左の神経のforamensの制限等に起因するものである」との記載があった。
(7) 訴外会社は、平成一八年四月二七日、被告病院の前記診療録に用いられた外国語の翻訳を書き込んだものを、別件裁判所に提出した。
(8) 被告医師は、平成一八年六月八日付けの原告の症状について記載された意見書(甲二。以下「本件意見書」という。)に署名押印し、訴外会社は、同日行われた別件訴訟の第三回弁論準備手続期日において、本件意見書を証拠として提出するとともに、被告病院における原告についての診療経過一覧表を添付した同月二日付け準備書面を提出した。
二 争点
(1) 被告医師による訴外会社の担当者又は訴外会社の訴訟代理人(以下、訴外会社の担当者及び訴外会社の訴訟代理人を総称して「訴外会社側」と表記する。)に対する原告の診療情報についての秘密漏えい行為及びその違法性の有無
(原告の主張)
被告医師は、いずれも原告の事前事後の承諾を一切得ることなく、以下の秘密漏示行為を行った。
ア 原告の症状及び通院継続の有無に関する診療情報を訴外会社側に漏示した行為
被告医師は、平成一六年二月二〇日、訴外会社の担当者であったA(以下「A」という。)から、原告が被告病院への通院を継続するかどうかの見通しを尋ねられた際、Aに対し、原告の診療録やMRI画像を見せて原告の症状について説明した上、原告が通院を継続するかどうかについては分からないと回答し、もって、訴外会社側に対し、原告の症状及び被告病院への通院継続の有無に関する診療情報を漏示した。
イ 原告の診療情報を訴外会社側に漏示した行為
被告医師は、平成一七年七月一二日から同年一一月四日までの間(被告医師の言では同年九月一六日、同月三〇日及び同年一一月二日に)に、訴外会社と原告間に本件労災事故に関する別件訴訟が係属中であることを知りながら、Aに原告の診療録及びMRI画像を見せた上で、Aから尋ねられた原告の診療情報に関する質問に回答するとともに、原告の診療情報についての説明をした。
また、被告医師は、平成一八年二月八日から同年四月二七日までの間に、原告に訴外会社の担当者が面談に来る日時を知らせることなく、原告を面談の場に同席させずに、被告病院において、①診療録の判読不能な文字を説明し、②尋ねられた医学用語の意味を説明し、併せて診療録に記載された文字等の意味を明らかにし、③原告のMRI画像について読影した内容とこれに対する意見を述べた上で、別件訴訟において、訴外会社が提出した前記平成一八年三月二七日付け準備書面の「第二、頸椎捻挫、頸椎症、後遺障害と本件事故の因果関係」の項を記載することが可能になる程度に原告の所見について説明し、④診療録に医学用語等を書き込んだものを交付してこれを別件裁判所に提出できるようにした。
ウ 被告が、別件訴訟における文書送付嘱託に応じて原告の診療録及びMRI画像を別件裁判所に送付した行為
被告医師は、平成一七年一一月五日、訴外会社と原告間に別件訴訟が係属していることを知りながら、原告が同意していないにもかかわらず、訴外会社の申立てに基づき採用された文書送付嘱託に従い、原告の診療録及びMRI画像を別件裁判所に送付し、原告の診療情報を漏示した。
エ 診療経過一覧表作成過程において、原告の診療内容を訴外会社側に漏示した行為
被告医師は、平成一八年三月二八日から同年六月二日までの間、被告病院において、訴外会社側が別件訴訟のために診療経過一覧表を作成する過程において、診療録に単語の羅列として記載されていた医学用語に意味内容を付記するなどして判読可能にしただけでなく、訴外会社において診療経過一覧表を作成することが可能な程度にその内容に踏み込んだ説明をし、原告の主訴や診療内容を明らかにするとともに原告の症状について被告医師の所見を述べた。
オ 原告のMRIに関する詳細な所見を訴外会社側に漏示した行為
被告医師は、平成一八年六月八日ころ、訴外会社側に対し、診療録に全く記載されていない、MRIの詳細な所見に関する情報を開示した。
この点につき、被告らは、後記被告らの主張のとおり、訴外会社の担当者から、別件裁判所がMRI画像及びMRI画像を撮影した大成病院の診療情報提供書(以下「本件診療情報提供書」という。乙八)についての被告医師の意見を求めていると聞かされたことから、本件意見書と同様の内容を有するMRIの所見を説明したと主張する。しかしながら、そもそも、被告医師が嘱託に応じて別件裁判所に送付した診療録には、本件診療情報提供書は含まれていなかった。したがって、本件診療情報提供書は別件裁判所に到着しておらず、別件裁判所が同文書についての意見を訴外会社に求めることはあり得ないのであるから、被告医師がMRIの所見を訴外会社側に漏示したことは秘密漏えい行為に当たる。
カ 原告の症状の原因は加齢によるものであり、本件労災事故との因果関係はないとの被告医師の医学的判断を訴外会社側に漏示した行為
被告医師は、原告に対する治療を継続している最中に、原告に対し、原告の症状が医学的にみるとむしろ加齢によるものであり、本件労災事故とは無関係であるとの被告医師の判断を説明したことはなかったにもかかわらず、訴外会社側に対し、原告にも説明しておらず、診療録にも記載していない原告の上記診療情報について、別件訴訟において説明し、本件意見書に記載することにより、これを開示した。
キ 被告らは、後記被告らの主張のとおり、被告医師が原告の診療情報を訴外会社側に開示した理由について、訴外会社側が、別件裁判所から、被告医師の意見書を提出するように求められたからであり、あるいはまた、診療録の単なる翻訳を超えて読めないところや投薬内容を明らかにすることを指示されていたからであるなどと主張するが、別件裁判所は、そのような指示を訴外会社にしたことはない。仮に、別件裁判所からそのような指示があったとしても、被告医師が原告の同意を得ることなく訴外会社側に原告の診療情報を明らかにしたことは、守秘義務違反に当たり、情報漏示行為の違法性を阻却するものではない。
すなわち、被告らのいう「裁判に協力する」との意味は、公益目的ではなく、訴外会社に協力するという私的な利益を図るという意味でしかないのであって、被告医師の情報漏示行為の違法性は阻却されない。
(被告らの主張)
ア (原告の主張)アについて
被告医師は、平成一六年二月一七日に原告を診察した際に、原告から、親が四国にいて医者にかかっているので四国へ帰るとの話を聞かされたことから、同月二〇日にAから原告が被告病院に通院しているかどうかを尋ねられた際に、同人に対し、原告がこれからも通院するかどうかは分からないと回答したものである。そもそも、被告医師が回答した通院継続の有無に関する事実は、その内容からして原告が秘匿を希望するようなものではなく、医師が秘匿扱いとしなければならない患者の診療情報とはいえない。さらに、原告は、平成一六年二月一六日、訴外会社に対し、母の看病のために愛媛県へ帰る旨報告しており、原告自身が当該情報を開示しているのであるから、通院継続の有無に関する事実は、既に秘密情報に該当しなくなっていた。
イ (原告の主張)イ、エないしカについて
(ア) 被告医師が、既に別件裁判所に提出されている診療録について、判読できない文字を説明したり、医学用語の意味を説明することは、秘密漏示行為に該当しない。仮に、秘密漏示行為に該当するとしても、被告医師が上記行為を行ったのは、訴外会社が別件裁判所から診療録の内容が分からないので説明するように求められているとAから聞かされたため、別件裁判所の審理に協力しようとしたからである。別件裁判所は、別件訴訟で文書送付嘱託の申請をしたのが訴外会社であったことから、訴外会社に対して診療録及びMRI画像の意味内容を明らかにするよう指示したのであり、別件裁判所がそのような指示をしたのは、診療録の意味内容が分からなければ真実に即した裁判ができないためであって、裁判所としては当然のことである。被告医師の上記行為は、別件裁判所の訴外会社に対する指示があったものと信じて被告医師が行ったものであるから、正当行為として違法性が阻却される。
なお、別件裁判所が、訴外会社に対し、被告医師の意見書を提出するように求めたのは、平成一七年一二月七日の第三回口頭弁論期日からである。
(イ) 被告医師が、既に別件裁判所に提出されているMRI画像の内容について訴外会社側に説明をすることも、秘密漏示行為に当たらない。被告医師は、訴外会社側から、別件裁判所が訴外会社に対しMRI画像及びMRI画像を撮影した本件診療情報提供書(乙八)について、被告医師の意見を求めていると聞かされたことから、本件意見書と同様の内容の説明をしたものである。被告医師は、別件裁判所からの文書送付嘱託に対し、本件診療情報提供書を含んだ診療録の部分(乙九の二)を診療録本体(乙九の一)の背表紙の内側にのり付けしたまま別件裁判所に送付したが、これが返却されたときには、のり付けがはがれていた。本件訴訟において、診療録(乙一)を提出した際、本件診療情報提供書を含む診療録の部分(乙九の二)が付いていなかったのは、別件裁判所から返却された状態の診療録にのり付けして提出することを失念しただけである。また、原告が提出した診療録(写し)(甲一)に被告医師が脊柱の絵を描いて説明した図面がなかったことに気を取られたことも、その一因である。
仮に、MRI画像について説明することが秘密漏示行為に該当するとしても、被告医師が上記行為を行ったのは、上記のとおり、別件裁判所の審理に協力するためになされたものであるから正当行為として違法性が阻却される。
ウ (原告の主張)ウについて
別件裁判所が文書送付嘱託をするに当たっては、訴訟当事者の意見を聴取した上で決定するものであるところ、別件訴訟では、原告の傷害の原因、程度、診療経過について知ることが不可欠であることについては別件訴訟の当事者の共通した認識となっており、それを明らかにするためには、原告の診療録の提出が不可欠である以上、当事者、とりわけ原告が、原告の診療録に関する文書送付嘱託について反対することはあり得ない。したがって、別件訴訟においても、原告は、訴訟代理人を通じて文書送付嘱託に賛成しているはずであり、原告は、文書送付について承諾していたといえる。
なお、被告病院が別件裁判所から受領した「文書送付嘱託書」には、文書送付嘱託に応じる場合には患者の同意が必要であるとは記載されていなかった。その理由は、患者が訴訟当事者になっている場合には、医師が嘱託に応じて文書を送付するのに患者の同意を必要としないからであり、その旨を記載した文書送付嘱託書も存在している。
(2) 被告医師が虚偽内容の意見書を作成した行為の有無
(原告の主張)
被告医師は、本件労災事故発生にかかる事実につき原告の申告内容と訴外会社側からの説明が異なることを認識しながら、訴外会社側の説明のみに基づく事実関係を前提にした上、訴外会社が診療経過一覧表を作成することに深く関与して、その平成一四年九月二七日の欄に診療録にはない「(ヘルニアに起因)」との記述を加えることにより、そのころ本件労災事故と原告の後遺障害との因果関係を否定するような症状があったかのような説明をして、本件労災事故と原告の傷病との間の因果関係を否定する虚偽内容の本件意見書を作成した。本件意見書は、被告医師が、本件労災事故と治療中の傷病との間に相当因果関係があることを前提に、原告の休業補償給付支給請求書及び休業特別支給金支給申請書に従前の診療担当者として記名捺印したり、労災保険提出内の診断書を作成したことと矛盾するものであり、被告医師は、本件意見書の内容が虚偽であることを認識していた。
(被告らの主張)
被告医師は、原告の治療を長期間続けたにもかかわらず、原告の症状が治ゆしなかったので、その原因を探るため、前提となる事実一(3)のとおり、大成病院に原告のMRI撮影を依頼したところ、原告には加齢性の頸椎ヘルニアが存在することが判明した。そこで、被告医師は、原告の当時の症状が本件労災事故に起因するものではなく、加齢性の頸椎ヘルニアが原因であると判断した(なお、被告医師は、同病院にて撮影されたMRI画像を基に原告を診察した際、原告に対し、上記の内容の説明をし、その際撮影部位の図を原告の診療録の裏表紙内側に書き込んだ。)。
被告医師の判断は、飽くまで一人の医師の意見であり、ほかの所見を排除するものではない。したがって、被告医師が上記のように原告の症状の原因を判断したからといって、原告と訴外会社が毎月継続して行っている本件労災事故を原因とする労災申請手続において、原告に不利な状況をもたらすものではない。
原告は、鑑定書と本件意見書の内容が異なる点について、鑑定書が真実であり、本件意見書の記載内容は虚偽であると決めつけているが、頸椎疾患についての診断基準は種々あるのであり、どれか一つが正しくてほかはすべて間違いという関係にはない。その意味で、鑑定書も一人の医師の医学的所見にすぎない。
以上のことからすれば、被告医師が本件意見書に虚偽内容の意見を記載したとする原告の主張は理由がない。
(3) 被告医師に原告を害する意図があったか否か
(原告の主張)
被告医師は、医師として業務上取り扱った他人の秘密を漏えいしてはならないとの守秘義務を負い、個人情報取扱業者として、患者の診療情報を第三者に提供してはならないという義務(個人情報保護法二三条)を負っているにもかかわらず、原告と訴外会社が別件訴訟において係争中であることを知りながら、原告を害する意図をもって原告の診療情報を訴外会社側に漏えいした。
さらに、被告医師は、本件労災事故の態様についての原告からの説明と訴外会社からの説明とが異なることを認識しながら、訴外会社側と協議の上、訴外会社にとって有利な判決を得る目的をもって、すなわち原告を害する意図の下に、本件意見書として、訴外会社からの説明に基づく内容のみを記載し、訴外会社に有利な内容のものを作成した。
(被告らの主張)
被告医師は、上記(1)(2)いずれの行為も、別件裁判所から訴外会社に対する情報開示の指示があったものと信じ、別件裁判所の審理に協力するつもりで行ったものである。被告医師にとっては、訴外会社が有利になるようにと考えて、すなわち原告を害する意図をもって、意見書を作成する理由も必要性も全くない。
(4) 損害額
(原告の主張)
原告は、被告医師に対し主治医として全幅の信頼を寄せていたところ、被告医師はこの信頼を裏切る形で、訴外会社と通謀して、原告の事前の承諾なく原告の個人情報を漏示するとともに、原告の症状について原告にとって不利に、訴外会社にとって有利となるようにそれまでの治療経過に反する内容を有する本件意見書を提出したものである。原告は、かかる被告医師の行為により、信頼を裏切られたことによる精神的苦痛を被った。原告がかようにして被った精神的苦痛を金銭的に評価すれば、金五〇〇万円は下らない。
(被告らの主張)
否認する。
第三争点に対する判断
一 認定事実
《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
(1) 原告は、平成一四年八月一四日の本件労災事故の後、彩の国クリニックへの通院を経て、同年九月一三日から被告病院に通院し始めた。
被告医師は、相当期間治療をしても原告の症状が改善せず、むしろ左上肢の感覚低下などの症状が出てきたので、平成一五年一〇月三一日、原告に大成病院でMRI検査をさせた。原告は、同日、同病院にて撮影されたMRI画像を持参して被告医師の診察を受けた。その際、被告医師は、原告の症状の原因が本件労災事故よりはむしろ加齢による頸椎ヘルニアであると診断したが、原告に対する説明に際しては、原告の症状の原因は病気であると説明をするにとどまり、加齢によるものであるとの趣旨の発言をしたり、本件労災事故とは関連がないと発言することはなかった。また、被告医師は、その際MRIの撮影部位の図を原告の診療録の裏表紙内側に書き込んだ。
(2) 被告医師は、原告が労働災害補償保険金等の給付に必要である休業補償給付支給請求書及び休業特別支給金支給申請書の診療担当者の証明欄に、原告の主治医として記名・押印をし、傷病にかかる証明を行ってきたものであるが、前記(1)のとおり、原告の症状の原因が本件事故によるものではなく、ヘルニアであると診断した後も、それ以前と同様に、これらの書面の診療担当者の証明欄に、従前どおり記名・押印をし続けた。
(3) 原告は、平成一六年二月一八日、母の世話をするために愛媛県に帰省した。
Aは、同月二〇日、被告医師を訪問し、原告に対するこれまでの診療について礼を述べた。その際、被告医師は、Aがどの患者に対する診療について礼を述べているのかを即座に思い出すことができず、患者の顔を思い出すために原告の診療録を自己の面前に取り出したが、それに記載されていた具体的な診療内容をAに示すことはなかった。このときAが被告医師に面会したのは二、三分程度であった。なお、原告は、同年四月三〇日、被告病院で最後の診察を受けた。
(4) 原告は、同年三月一日、帰省先の愛媛十全医療学院附属病院で、頸椎捻挫、頸椎症(末梢神経障害)との診断を受けた。原告は、平成一七年四月二二日、同病院の診察に基づき、労災障害等級九級の認定を受けた。
(5) 原告は、同年七月一二日、別件訴訟を提起した。
Aは、同年九月ころ、被告医師の下を訪れ、訴外会社が別件訴訟において診療録の文書送付嘱託を申し立てるので、診療録の送付について協力してほしい旨、被告医師に伝えた。
(6) 訴外会社は、別件訴訟において、平成一七年一〇月二五日、被告病院に対し、原告の診療録、検査結果等診療記録(レントゲン写真、MRIを含む。)全部の送付を求める旨の文書送付嘱託の申立てを別件裁判所に対して行い、別件裁判所は、同月二六日、同申立てを採用する旨の決定をした上で、同年一一月一日、被告病院に対して文書送付の嘱託をした。被告病院は、別件裁判所からの嘱託を受けて、原告の診療録、MRI画像及びレントゲン写真を別件裁判所に送付し、これらの文書は同月八日、別件裁判所に到着した。
訴外会社は、別件訴訟において原告の診療録を書証として提出したが、この中には、乙八の本件診療情報提供書など被告医師作成の診療録本体(乙九の一)に添付されていた文書部分(以下「本件添付文書」という。乙九の二)は含まれていなかった。
(7) 原告は、前記の文書送付嘱託の申立てがあったことから、訴外会社が、別件裁判所に送付された被告病院の診療録を書証として提出する前に、同診療録にいかなる記載がなされているかを確認しておきたいと考え、平成一七年一一月四日、被告病院に赴き、同診療録のコピーを入手した。
(8) 被告病院の診療録には、以下のような記載等があった。
ア 平成一六年二月二〇日の記載欄
「労 親介護帰りたい 四国帰る 母が医師 二月二〇日現在、左神経根症の症状が残り、頸椎痛・頭痛が残る。転居の為、近医紹介する」
なお、同日欄にAの名刺が貼付されている。
イ 同年四月三〇日の記載欄
「労 一(左)肩頸部痛あり 一(左)肩→一(左)手にかけて伝達痛がある 左手の感覚低下(第一指~第三指)が残る四(月)三〇(日)四国に転院」「四国に行く 当分 四国でかかると」「←休業証明四/一~三〇」
ウ 同年四月三〇日以降の記載欄
「四(月)三〇(日)迄来院 その後エヒメに帰る 実家の母のかんごしているエヒメの(ジューゼン)病院で加療中 当分所沢労サイ中止 九月労の九級に認定される」「本人がべんご師通し損害ソショーした」
なお、Aの名刺が貼付されている。
(9) 原告は、平成一七年一一月八日、被告医師の下を訪れ、被告医師に対しAの来訪状況、質問内容及び回答内容等を尋ねたところ、被告医師は、Aが一一月一日、同月二日、九月一六日及び九月三〇日に来訪して原告の症状を尋ねてきたもので、被告医師がこれに対し答えたなどと回答した。なお、原告は、この会話内容を録音していた。
(10)ア 訴外会社は、平成十七年一二月七日、別件訴訟の第三回口頭弁論期日において、原告の診療録を専門医に分析してもらい、分析結果等を記載した準備書面を次回期日までに提出すると述べ、口頭弁論調書にその旨記載された。
イ 訴外会社は、平成一八年二月七日、別件裁判所に送付された被告病院の診療録のうち、乙九の一の部分を書証として提出し、別件裁判所は、同月八日の第四回口頭弁論期日においてこれを取り調べた。なお、訴外会社は、同期日において専門医による分析結果を記載した準備書面を提出することができなかったが、その理由につき、分析を依頼する専門医を捜している状況にあるためとの説明をした。
ウ 別件裁判所は、平成一八年三月二七日の第一回弁論準備期日において、訴外会社に対し、原告の診療録には字の判読不可能な箇所が多々あるとして、診療録を判読可能とするよう指示した。
訴外会社は、同期日において、同日付け準備書面(2)を提出した上これを陳述したが、同準備書面の「第二、頸椎捻挫、頸椎症、後遺障害と本件事故との因果関係」の項には、以下のような記載があった。
「また、⑥の傷病部位、療養経過、障害の状態は、経年変化としての変形性頸椎症、またY1整形外科におけるMRIによる診断のとおり加齢等による椎間板によるものであり、本件事故による損傷ではない。」
「原告の頸椎MRIの所見は、以下のとおりであり、原告の症状にはこれら頸部背骨のレベルの穏やかな運河の狭窄症、C4/5及びC5/6の左の神経のfor-amensの制限等に起因するものである。」
「原告の頸椎椎体と脊柱管との間には距離が余りない。C3/4・C4/5及びC5/6で軽度の椎間板後方突出が見られる。軽度の脊柱管狭窄が見られる。またC4/5及びC5/6では軽度の骨棘の存在により、左神経孔圧排が見られる。脊髄内には異常信号像は認めない。頸部には小さなリンパ節腫大が散在している。」
別件裁判所は、訴外会社に対し、医師の意見書を提出できるか否かを同年四月六日までに回答するよう指示をした。
エ Aは、訴外会社の平成一八年三月二七日付け準備書面(2)提出以前にも、被告病院を訪れ、被告医師から原告のMRI画像の内容とそれについての意見を聞き、原告の症状についての被告医師の所見について説明を受けていたが、訴外会社が別件裁判所から診療録を判読できるようにするよう指示されたことを受け、同年四月、被告医師を訪問し、日本語の部分も含めて判読できない部分について、その文字と意味内容を被告医師に尋ね、あらかじめ用意しておいた診療録の写しに回答内容を書き込んだ。
オ 訴外会社は、同年四月六日までに別件裁判所に意見書を提出しなかったことから、同月一四日、別件裁判所からこれを速やかに提出するよう催促する事務連絡を受けた。訴外会社は、同年四月一七日、原告の傷病を頸椎捻挫、頸椎症とした診断書の内容について、原告の症状が本件労災事故に起因するものではないことを証すべき事実とする鑑定の申出をした。
カ 訴外会社は、同年四月二七日、診療録の判読不可能な部分の意味を被告医師が当該箇所に併記したものを、乙二の二として提出し、別件裁判所は、同月二八日、第二回弁論準備手続期日でこれを取り調べた。
(11) 訴外会社は、平成一八年六月八日の第二回弁論準備手続期日において、別件裁判所から、診療経過一覧表を作成するように求められた。
Aは、前記(10)エのとおり被告医師から診療録の判読できない部分について、その文字と意味内容を被告医師に尋ねていたが、診療経過一覧表作成の指示を受けて、改めて被告医師に診療録の内容について説明してもらい、診療経過一覧表を作成した(このことは、例えば、診療録の平成一四年九月一三日の欄には、肩の絵の記載のあるところに「P+1」と記載があるだけであるが、診療経過一覧表には、「左肩甲や上腕にひびく」と記載されていることからうかがわれる)。Aは、診療経過一覧表の作成についても裁判所の指示であると被告医師に伝えた。
訴外会社は、上記診療経過一覧表を平成一八年六月二日付け準備書面として別件裁判所に提出した。なお、同診療経過一覧表の平成一四年九月二七日の「診療経過(入通院状況・主訴・所見・診断)」欄には「(ヘルニアに起因)」との記載があるが、診療録にはその旨の記載はなかった。
(12) 被告医師は、Aから、原告の症状につき意見書を作成してほしいと何度も求められたが、多忙を理由にこれを断り続けた。そこで、Aは、本件意見書の草稿を作成した上、これを被告医師に示し、その内容に問題がないと認められるのであればこれに署名捺印するよう求めた。被告医師は、草稿の内容を被告病院の診察の昼休みに熟読した結果、その記載内容が被告医師の診断内容に合致すると判断し、これに署名・押印した。
本件意見書には、「その間の診療状況は、被告がまとめた診療経過一覧表のとおりである。」との記載があるが、被告医師はこの点につき、診療経過一覧表とは診療録を意味するものであると誤解していた。
なお、被告医師は、訴外会社から、本件意見書を作成したことについての報酬等を受領するようなことはなかった。
(13) 訴外会社は、前提となる事実(8)のとおり、平成一八年六月八日、第三回弁論準備手続期日において、本件意見書を証拠として別件裁判所に提出した。
本件意見書には、以下の記載がなされていた。
ア 意見書一(3)
「原告が平成一四年八月一四日に受けた怪我は、被告の説明によればプラスチック製の空箱(約一kg)が高さ約一mのところから頭頂部に当たり、原告の頸部には当たっていないとのことである。」
「この事実を前提に考えると、通常、上述のような症状が発症することは想定しにくい。特に、首の痺れ・肩甲痛・頸部痛・左手指の感覚低下等の症状等は、頭頂部に物が当たったことで発症するとは考えられない。」
イ 意見書二(2)
「MRIによる撮影では、第四・第五頸椎と第五・第六頸椎に、明らかな頸椎ヘルニアがみられた。原告の症状にはこれら頸部背骨のレベルの穏やかな運河の狭窄症、C4/5及びC5/6の左の神経のfor-amensの制限等に起因すると考えられる。」
「原告の頸椎MRIの所見は以下のとおりである。原告の頸椎椎体と脊柱管との間には距離があまりない。C3/4・C4/5及びC5/6で軽度の椎間板後方突出が見られる。軽度の脊柱管狭窄が見られる。またC4/5及びC5/6で軽度の骨棘の存在により、左神経孔圧排が見られる。脊髄内には異常信号像は認めない。頸部には小さなリンパ節腫大が散在している。」
ウ 意見書二(3)
「この頸椎ヘルニアは、原告が受けた怪我に起因するものではなく、原告自身の加齢等による固有のものであると思われる。この頸椎ヘルニアが、原告が訴えている症状の原因と考えられる。」
二 被告医師による、訴外会社側に対する原告の診療情報についての秘密漏えい行為及びその違法性の有無(争点(1))について
医師は、その職務の性質上、患者との信頼関係の下に、診療の過程で患者の身体の状況、病状、治療等についての情報(診療情報)など患者の秘密を知り得るところ、そのような職務上知り得た診療情報等の患者の秘密については、正当な理由なくこれを漏示してはならない。これは、医師の職業倫理であるとともに、医師は、「正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたとき」は、秘密漏示の罪(刑法一三四条一項)に当たるとされて、その職務上知り得た秘密といえる事項については、これを秘匿すべき法律上の義務を負うものである。
そこで、以下、被告医師がその義務に違反して原告の主張する診療情報等の漏えい行為をしたといえるか、その違法性の有無について検討する。
(1) 原告の通院の継続の有無に対する診療情報を訴外会社側に漏示した行為
診療録に、前記一(8)アのとおりの記載があることに照らせば、被告医師は、平成一六年二月二〇日、Aと面会し、原告が母の介護のために愛媛に帰省することなどにつき話をしたことが認められる。
原告が今後通院するかどうか分からないとの情報をAに伝えたとすれば、当該情報は原告の通院の継続の有無に関する診療情報といえるし、状況によっては、秘密に当たることもないとはいえないが、原告は、同年二月一六日に、訴外会社に対し、母の看病のために愛媛に帰る旨報告しているのであるから、通院の継続の有無に関する情報は、訴外会社との関係で原告の秘密情報に該当するということはできない。
したがって、原告の主張は理由がない。
(2) 原告の診療情報を訴外会社側に漏示した行為
ア 平成一七年九月一六日の秘密漏示の有無
前記一(5)のとおり、Aは、平成一七年九月ころ、被告医師に対し、別件裁判所への診療録の送付についての協力を求めたことが認められる。しかしながら、前記認定のとおり、被告医師がAに対し原告の診療情報について具体的に話したのは、診療録が別件裁判所に送付され、証拠として提出された後のことであって、被告医師が平成一七年九月一六日の時点で、Aに原告の診療録及びMRI画像を見せて、原告の診療情報について説明したとの事実を認めることはできず、ほかにこれを認めるに足りる証拠はない。
イ 平成一七年九月三〇日の秘密漏示の有無
被告医師は、平成一七年一一月八日、同年九月三〇日にAの来訪を受けたと原告に対し述べたものであるが、これは、被告医師が、同年四月三〇日にAの訪問を受けたときの事実と取り違えて原告に伝えたものであったと認められるのであって、平成一七年九月三〇日に被告医師がAと面談した事実を裏付けるものとはいえず、ほかにこの事実を認めるに足りる証拠はない。
ウ 平成一七年一一月一日及び二日の秘密漏示の有無
被告医師は、平成一七年一一月八日に原告に対し、被告医師が同月一日及び二日にもAと面談して、原告の症状、容態のことを話した旨述べたことが認られるが、被告医師は、原告が面談に来た目的を理解せずに、正確性にこだわらずに話をしていたものであり、原告に対する話の内容が客観的事実に合致するかどうか疑問があることに加え、被告医師の平成一七年の手帳の当該日には、Aが面会に来たとの記載がないことが認められるのであり(乙一一)、これらの事情を総合すると、被告医師が同年一一月一日及び二日にAと面談した事実を認めることはできず、ほかにこれを認めるに足りる証拠はない。
なお、この点につき、原告の夫のB(以下「B」という。)の陳述書には、原告とBが平成一七年一一月八日に被告医師に面会した際、被告医師が参照していた手帳の色は紺又は青色であり、乙一一の手帳の表紙の茶色とは異なっていたとの記載がある(甲三五・四頁)。しかしながら、平成一七年一一月の出来事は、陳述書作成時点より四年も前のことであり、Bの記憶の正確性に疑問があることに加えて、経験則上、手帳の色というものはさほど印象に残るものとはいえないことから、甲三五の記載内容は、前記認定を揺るがすものではない。
エ 平成一八年二月八日から同年四月二七日までの秘密漏示の有無
(ア) 訴外会社が平成一八年三月二七日の第一回弁論準備手続期日において陳述した準備書面(2)の「第二、頸椎捻挫、頸椎症、後遺障害と本件事故との因果関係」の項には、原告の診療情報が含まれている。それについては、被告医師が、Aに対し、訴外会社が同項を記載することが可能な程度に原告のMRI画像の読影内容やそれについての意見及び原告の症状についての被告医師の所見につき説明したことは、前記認定のとおりである。そうすると、被告医師が、なぜこのころAに対し原告の診療情報を伝えたのかが問題となる。
被告医師は、Aに診療情報を開示した契機について、Aから、訴外会社が別件裁判所から診療録の記載中判読できないところを判読が可能となるように指示され、また、MRI所見についても説明するよう求められていると聞かされたことから、Aが持参した本件診療情報提供書を基に、原告のMRI所見についてAに説明した旨供述する。
しかしながら、前記一(10)ウのとおり、別件裁判所が訴外会社に対し、診療録の判読不可能な箇所を判読が可能となるよう指示したのは、平成一八年三月二七日の第一回弁論準備手続期日であったと認められるのであり、訴外会社が当該準備書面(2)を作成する段階で、別件裁判所からそのような指示を受けていたと認めることはできない。
なお、この点につき、被告訴訟代理人が別件訴訟における訴外会社の訴訟代理人であったC弁護士(以下「C弁護士」という。)及びD弁護士から聴取した事情を記載した書面には、別件訴訟において訴外会社が原告の診療録を乙号証として提出したのが平成一八年二月八日(第四回口頭弁論期日)であったところ、C弁護士は、裁判官から、被告医師の診療録では意味が分からないので意見書を早く出すようにいわれており、それは平成一八年二月八日の口頭弁論期日より前であったとの記載があり、また、訴外会社が同年四月一四日付けで別件裁判所から受領した事務連絡で求められている「医師からの意見書」とは被告医師の意見書を指すとの記載がある。しかしながら、前記のとおり、別件訴訟において原告の診療録の乙九の一の部分(翻訳のないもの)が取り調べられたのは同日の第四回口頭弁論期日なのであり、別件裁判所としては、その取調べに次いで診療録の判読に必要な準備を当事者に指示すると考えられるから、別件裁判所が診療録について上記準備や翻訳を指示する前に、唐突に被告医師の意見書を出すように求めるというのは不自然である。また、前記一(10)アのとおり、訴外会社は、平成一七年一二月七日に行われた別件訴訟の第三回口頭弁論期日において、原告の診療録を専門医に分析してもらい、分析結果等を記載した準備書面を次回期日までに提出する旨別件裁判所に伝え、その旨同日付け口頭弁論調書に記載されているが、この記載内容からして、ここでいう専門医とは、主治医である被告医師ではなく、むしろ原告の診察を担当していない中立的立場にある医師を意味すると解すべきであって、別件裁判所がこの時点で原告が診療を受けた複数の医師のうち被告医師の作成にかかる意見書を提出するように求めたとは考えにくい。
したがって、この点に関する前記事情聴取書の記載内容はにわかには信用できず、採用することができない。その他、別件裁判所が訴外会社に対し、被告医師から診療情報を得ること又は被告医師作成の意見書を提出することを求めていたことを認めるに足りる証拠はない。
そうすると、被告医師は、別件裁判所の指示があったものではないにもかかわらず、少なくとも、同年二月八日の第四回口頭弁論期日から同年三月二七日の第一回弁論準備手続期日までの間に、当該準備書面(2)に記載可能な程度の原告の診療情報をAに伝えていたものと認められる。
(イ) そこで、被告医師がAに診療情報を伝えたことが、原告の秘密の漏示になるか否かについて検討する。
この時点では、別件裁判所の文書送付嘱託に基づき、被告病院の診療録が別件裁判所に送付されていたことは前記認定のとおりである。
前記一(6)のとおり、別件訴訟において証拠として提出された被告病院の診療録(乙一)には、本件診療情報提供書(乙八)を含む本件添付文書(乙九の二)が付いていなかったところ、原告本人は、診療録をコピーした時点で本件診療情報提供書がなかったと供述し、Bの陳述書にも同旨の記載がある。他方、被告医師は、前記のとおり、本件添付文書(乙九の二)は、診療録本体(乙九の一)にのり付けして保管しており、この部分も含めて別件裁判所に送付したが、別件裁判所から返却された際には、のり付けがはがされていた旨供述している。本件診療情報提供書の内容は、ほぼ別件訴訟の準備書面(2)の内容と同一であるから、被告医師本人の供述どおりこれが別件裁判所に送付されていた場合には、文書送付嘱託に基づく診療録の送付によっては開示されておらず、Aに診療録について説明するなどして診療情報を伝えたことにより新たに開示された診療情報は、同準備書面の内容中「加齢等による」という部分のみに限られることとなるが、他方、原告本人の供述及びBの陳述書の記載どおりこれが全く送付されていないとなると、同準備書面の内容のほぼ全部が秘密を守るべき診療情報となる。
(ウ) そこで、被告医師が別件裁判所に送付した書類に本件添付文書(本件診療情報提供書を含む。)が含まれていたかどうかを検討する。
別件訴訟において本件添付文書が証拠として提出されなかったことに照らすと、被告医師が別件裁判所には診療録本体のみを送付して、訴外会社にのみ本件添付文書を交付した可能性が考えられる。しかし、仮に被告医師がそのような行為に及んだのであれば、訴外会社に対し特別に便宜を図ったと評価されることとなるが、そうであるとすれば、被告医師が本件で本件添付文書を証拠として提出し、いわば自らの秘密漏示行為を自白するような行為に出るのは不自然である。これら一連の事情を考慮すると、被告医師が訴外会社に対しては本件添付文書を交付して特別の便宜を図り、別件裁判所に対しては診療録本体のみを送付していたとは、考えにくい。
また、文書送付嘱託に関しては、裁判所に送付された文書の全部が証拠として提出されるとは限らず、当事者において必要な部分を取捨選択することが行われているところ、別件訴訟において、訴外会社の訴訟代理人が、本件添付文書のうち本件診療情報提供書以外の部分は訴外会社に特に有利なものはないことから、本件添付文書の中に訴外会社に有利な部分のあることを見落として、これを証拠として提出しなかった可能性も否定できない。
その一方で、被告は、本件訴訟において、診療録を乙一として提出していながら、その際にも本件添付文書を提出しなかったものであり、この点について、被告医師は、出すのを忘れたと供述している。しかし、その供述には疑問を感じざるを得ず、このような被告医師の訴訟活動を考慮すると、果たして被告医師が別件裁判所からの送付嘱託に対し、本件添付文書(本件診療情報提供書を含む。)を送付したといえるかについて、疑問が残るところではある。
結論として、本件全証拠によっても、被告医師が本件添付文書を送付したかどうかは明らかではないというほかはない。
(エ) しかしながら、被告医師による本件添付文書の送付の有無が判明しないことを前提としても、少なくとも被告医師がその所見を説明したり、原告の椎間板後方突出が加齢によって生じたものであるとの意見をAに伝えていた事実は認めることができるのであり、被告医師が上記診療情報の提供につき、原告の事前の同意を得ていないことは被告らの争うところではないから、これらのことは、原告の診療情報の漏示に当たる。しかも、前記のとおり、この点について別件裁判所からの指示はなかったのであるから、被告医師の行為につき違法性を完全に阻却する事由は認められない(もっとも、被告医師が本件添付文書を別件裁判所ではなく訴外会社側に交付したとの事実を認定できないことは、慰謝料額を算定する上で考慮すべき要素となり得る。)。
(オ) したがって、この点につき原告の主張は理由がある。
(3) 送付嘱託に基づき文書を送付した行為
前記認定のとおり、被告医師は、別件裁判所からの文書送付嘱託に基づき、文書を送付した事実が認められるところ、原告は、被告医師による文書送付行為が違法である旨主張する。しかしながら、被告医師の診療録の送付は、裁判所からの文書送付嘱託に応じて行ったものであり、その送付が法令に基づく場合に当たるから、本人の同意を得なくても許されるものである(個人情報保護法二三条)。
すなわち、個人情報保護法二三条一項一号によれば、法令に基づく場合は、あらかじめ本人の同意を得ないで、個人データを第三者に提供することが許されるところ、同号にいう「法令に基づく場合」には、他の法令により情報を第三者に提供することが義務づけられている場合のみならず、第三者提供を受ける具体的根拠が示されてはいるが、データを提供すること自体は義務づけられていない場合も含まれると解される(文書送付嘱託を受けた者は、文書提出義務を有する場合であれば格別、一般的には文書送付の義務を負うものではない。)。そして、個人データを提供すること自体は義務づけられていない場合を、提供が義務づけられている場合と、個人情報保護法二三条一項一号との関係で区別して扱うべきであるとの解釈があり得るとしても(内閣府が平成二〇年七月に「ガイドラインの共通化の考え方について」の中で公表した個人データを扱う全事業分野に共通する個人情報の保護に関する標準的なガイドラインにおいては、同法二三条一項一号所定の「法令に基づく場合」の例示の一つとして「裁判所からの文書送付嘱託や調査嘱託への対応(民事訴訟法一八六条、二二六条、家事審判規則八条)」が掲げられており、例示の末尾に、当該法令に第三者提供を受ける相手方についての具体的根拠のみであって、個人データを提供する義務までは課されていない場合には、当該法令の趣旨に照らして第三者提供の必要性と合理性が認められる範囲内で対応するものとすると記載されている。)、本件は、原告が、その症状が労災事故によるものであるとして提起している訴訟において、原告の症状や医師の所見の記載された診療録についての別件裁判所からの送付嘱託に基づく提供であって、嘱託の趣旨に照らせば、原告の診療録を送付することに必要性や合理性がないとはいえず、被告医師の行為に違法性はないというべきである。
したがって、原告の主張は理由がない。
(4) 診療経過一覧表作成過程において、原告の診療内容を訴外会社に明らかにした行為
前記認定のとおり、Aは、訴外会社が別件裁判所から診療経過一覧表の作成を指示された前後、被告医師の下を訪れて、絵で描いている部分や単語のみ記載されている部分の意味内容を言葉で説明してもらった事実が認められる。
前記認定のとおり、被告医師は、Aから別件裁判所が診療経過一覧表作成を指示していると伝えられていたとはいえ、別件裁判所が被告医師に会って診療経過一覧表を作成するように指示したとまでは認められず、その指示の時期以前の行為もあることからすれば、それにより被告医師が上記のような事実を訴外会社に伝えたことが正当化しきれるものではない。
したがって、原告のこの点の主張は理由がある。
(5) 原告のMRIに関する詳細な所見を訴外会社側に漏示した行為
原告は、被告医師が平成一八年六月八日ころ、訴外会社側に対し、MRIの詳細な所見に関する情報を開示したと主張するが、被告医師は、前記認定のとおり、既に平成一八年三月二七日の第一回弁論準備手続期日に至るまでの間に、原告のMRI所見に関する情報を訴外会社に開示していたものであって、被告医師が、平成一八年六月八日ころの段階で、改めて訴外会社に対しMRIの詳細な所見に関する情報を開示することについての合理的理由を見出すことはできず、平成一八年六月八日ころにおける所見漏示の事実を認めるに足りる証拠はない。
したがって、原告の主張は理由がない。
(6) 原告の症状の原因は加齢によるものであり、本件労災事故との因果関係はないとの被告医師の医学的判断を訴外会社側に漏示した行為
前記一(10)ウのとおり、訴外会社が平成一八年三月二七日の第一回弁論準備手続期日において陳述した準備書面(2)には、原告の症状は加齢によるものであり、本件労災事故との因果関係はないとの被告医師の医学的判断が記載されていたものであるところ、前記二(2)エのとおり、被告医師は、そのような医学的判断を同年二月八日の第四回口頭弁論期日から同年三月二七日の第一回弁論準備手続期日までの間に、別件裁判所の指示があったわけではないのに、Aに伝えていたものと認められる。
したがって、原告の主張は理由がある。
三 被告医師が本件意見書として内容虚偽の意見書を作成した行為の有無(争点(2))について
前記認定のとおり、被告医師は、平成一五年一〇月三一日、原告に対し、原告の当該時点での症状は加齢が原因であるという説明をせず、その後も原告の休業補償給付支給請求等の手続に協力し続けているものであって、被告医師のこのような一連の言動からすると、被告医師が、原告の症状は本件労災事故によるものであって、加齢によるものではないと診断していたとみる余地がないではない。しかし、被告医師は、平成一五年一〇月三一日に原告の症状が病気(頸椎ヘルニア)によるものであるとの説明はしており、原告の主治医の立場において休業補償給付支給請求等の手続に協力したことから、被告医師の行為の是非はともかく、直ちに本件意見書の内容が被告医師の診断に反するものであると推認することはできない。
また、被告医師の当該診断は、鑑定意見とは異なるが(なお、鑑定意見も、原告の症状のうちには、本件労災事故起因性を認定できず、加齢現象によるものと判断している部分もあり、全面的に異なっているものではない。)、一方、愛媛十全病院のE医師の見解も鑑定意見とは異なっており、そのことからすると、原告の症状の原因についての診断は、見解に差異の生じ得るものであり、当然に一定の結論に至るような容易なものではないことがうかがわれる。裏を返せば、被告医師による原告の症状の原因が加齢であるという診断も、虚偽であると断定できるものではない。そうすると、被告医師が本件意見書に署名・押印した行為については、平成一五年一〇月三一日に行った自らの診断に基づくものである上、被告医師にとっては内容虚偽の診断結果が記載された書面に対し署名・押印したものと認めることはできず、ほかにこれを認めるに足りる証拠はない。
したがって、原告の主張は理由がない。
四 被告医師の原告を害する意図の有無(争点(3))について
前記のとおり、被告医師は、原告が訴外会社と係争中であることを知りながら、原告の事前の同意なく訴外会社側に診療情報を提供しているが、被告医師は、訴外会社側から報酬を得ていたとは認められず、他に原告を害する意思を有する理由も見いだしがたい。本件意見書には、事故態様につき、原告と訴外会社との間で争いがあったにもかかわらず、訴外会社の主張のみが記載されており、その意見の内容も、結果的には訴外会社に有利で原告に不利なものではあるが、被告医師は、前記認定のとおり、平成一五年一〇月三一日にした原告の頸椎疾患に係る医師としての診断結果に沿う内容であるとして、本件意見書に署名・押印したものであって、本件意見書の記載内容から、被告医師の診療情報の漏示に原告を害する意図があったと推認することもできない。
したがって、原告の主張は理由がない。
五 損害額(争点(4))について
上記のとおり、被告医師は、原告の主治医でありながら、原告の症状に関する診療情報を、原告の提起した訴訟の相手方であった訴外会社側に伝えており、このことにより、訴外会社側から被告医師の所見が記載された準備書面や被告医師の意見書が別件裁判所に提出されたものであって、これを知った原告は、被告医師に対する信頼を裏切られたとして精神的苦痛を被ったものと認められる。なお、被告医師が前記認定に係る診療情報の漏示の前後にも、複数回にわたり、来訪した訴外会社側の担当者と面接していることは、前記認定のとおりである。
他方で、被告医師は、前記のとおり、訴外会社から意見書の作成についての報酬を受け取るなどの見返りを得ていたとは認められず、単に別件裁判所の審理に協力しようという意図の下に訴外会社側に対し診療情報を提供し、意見書を作成したにすぎないと認められるのであって、訴外会社側担当者との面接が複数回にわたっているとはいえ、前記四に判示したとおり、原告をあえて害そうという意図の下にこれらの行為に及んだとまで認めることはできない。
これら一切の事情を考慮すれば、原告に支払われるべき慰謝料の額は、一〇〇万円が相当である。
六 被告らの責任原因
以上によれば、被告医師は、診療情報を原告の事前の同意なく漏示した不法行為に基づき、被告病院は、被告病院の代表者である被告医師がその職務を行うについて原告に損害を与えた不法行為による損害賠償(医療法六八条、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律七八条)として、連帯して、原告の上記損害を賠償すべき義務がある。
七 結論
以上の次第で、原告の請求は、被告らに対し、連帯して、一〇〇万円とこれに対する不法行為後の日である平成一八年六月九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 松津節子 裁判官 柴﨑哲夫 裁判官髙田美紗子は差し支えにより署名押印することができない。裁判長裁判官 松津節子)