さいたま地方裁判所越谷支部 平成17年(ワ)677号 判決 2006年12月13日
主文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は,原告の負担とする。
事実及び理由
第1原告の請求
1 被告は,押し花又は押し花を使用した絵画の作成方法について,営利目的で第三者に指導してはならない。
2 被告は,原告に対して,金100万円及び平成17年11月3日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,「甲」との名称で,押し花を使用した絵画の作成方法を指導するカルチャー教室(以下「原告教室」という。)を主宰し,経営する原告が,原告教室に入会した被告に対して,原告と被告は,被告が原告が定めた規約(以下「原告の規約」という。)に従うという合意をしているところ,原告の規約には,「会員は,原告教室を退会した後は,押し花を使用した絵画の作成について,営利目的で第三者に指導する教室は開かない」旨の定め(以下「本件規約」という。)があるのに,被告は,原告教室を退会した後,本件規約に違反して,押し花を使用した絵画の作成について,独自に営利目的で第三者に指導する教室を主宰していると主張して,原告が,被告に対して,原告と被告との間の本件規約に従うという合意(以下「本件合意」という。)に基づき,押し花又は押し花を使用した絵画の作成方法について営利目的で第三者に指導することの禁止を求めるとともに,本件合意違反(債務不履行)に基づく慰謝料として,100万円及びこれに対する支払催告の日(本件訴状送達の日)の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
これに対し,被告は,本件合意の成立を争い,仮にこれが認められるとしても,本件規約の内容は,退会後の競業禁止の範囲について,期間及び地域の制限もないものであり,公序良俗に反し無効であると主張している。
1 前提となる事実(当事者間に争いがない事実)
(1) 原告は,「甲」との名称で,押し花を使用した絵画の作品を作成,発表するとともに,その絵画の作成方法を指導するカルチャー教室を経営する会社である。
(2) 被告は,平成8年9月に原告の主宰する「甲」(原告教室)の初級Ⅰコースに入会して会員となり,押し花を使用した絵画作品の作成方法について原告から指導を受けた。
(3) 被告は,初級Ⅱコース,中級コースを経て,平成11年2月に上級コースに進級するに当たって,原告が定める規約の活動規範に合意することを記載した合意書(甲第2号証の2)に署名押印した。原告の規約によると,上級コースの修了者は,原告の本部に年会費を納入して講師の資格を得て,独自に「任意教室」を開設することができ,その教室の生徒の進級費を本部に納入することとされている。
(4) 原告の規約が掲載されている「甲-規約-」と題する冊子(甲第1号証)には,「甲会員の活動規範について」との表題の下に,「・・・甲を退会して独立開業することは,直接・間接に本部や他の会員に迷惑がかかることが多く,本来認められないものです。・・・」との記載(原告が指摘する本件規約の部分)がある。
(5) 被告は,原告に対して,上級コース修了後の平成13年4月4日に埼玉県越谷市内で,平成14年2月15日に同県草加市内で,それぞれ「任意教室」を開設することを届け出て,被告は,上記の任意教室に通う生徒の進級費を原告に納付してきていた。
(6) その後,被告は,原告に対して,平成16年7月8日に退会届を送付し,平成17年1月から,それまで任意教室であった場所において,「乙」との名称で,独自に営利目的で教室を開講し,現在は,越谷市の教室のみを運営している。
2 本件の争点
(1) 原告の規約中の原告主張の本件規約の部分が,原告教室の会員が退会した後の競業避止義務を規定したものと認められるか。また,被告は,そのような認識をもって本件規約に合意するという合意書に署名押印したものと認められるか。
(2) 争点(1)が肯定される場合,本件規約の退会後の競業禁止の規定は,法的拘束力を有するものか否か。すなわち,本件合意が公序良俗に違反し,無効であるか。
3 争点についての当事者の主張
(1) 争点(1)について
ア 被告の主張
① 原告が原告教室退会後の競業避止義務を定めていると主張している本件規約の部分をみると,「甲会員が,本部の了解なく「甲」の技法に関してテレビ・ラジオ等に出演すること,書籍を出版すること,新聞・雑誌等に寄稿すること,インターネットに情報を載せることなど,並びに「甲」を退会して独立開業することは,直接・間接に本部や他の会員に迷惑がかかることが多く,本来認められないものです。なぜならば・・・。」とあり,続けて「ただし,上記のメディアを通じて対外発表を希望する師範会員が,発表作品や発表する演題・内容に「Aの甲」又は「甲」の名称が記され,且つそれの指導を受けた経緯や家元・Aの門下生であることに言及されれば,本部の査閲を経て対外発表が可能になります。」というものである。
② 上記の文脈からすると,この規約部分は,本部の了解なくして作品等を対外発表してはならず,また発表するときは本部の査閲を受けなければならないということを定めているものと解されるものであり,この規定ぶりからは,この規約部分が,会員に対して,退会後の競業を禁止する具体的な義務を負わせるものと解することはできない。
③ 原告規約は,約款の一種であるから,約款解釈の原則に基づいて,その意味するところを定められなければならず,約款が不明確な場合には,その約款の作成者に不利に解釈されるべきである。
しかるところ,上記①の定めが,もし会員の退会後の競業避止義務を負担させる目的のものであったとしても,その定め方は,極めて不明確であるから,その作成者たる原告に不利に解釈されるべきであり,退会後の会員に対して具体的な競業避止義務を負わせるものではないものと解されるべきである。
④ 仮に,本件規約が,退会後の会員に対する競業避止義務の規定であるとしても,被告は,合意書に署名押印するに当たり,そのような認識をもっておらず,真意を欠くものであるから,この部分については合意が成立していないものである。
イ 原告の主張
① 原告教室は,家庭の主婦等の市民が趣味として受講する教室であり,そのために,原告の規約も,あえて話し言葉調の表現を用いてはいるが,本件規約の規定は,「甲の技法を公表すること,甲を退会して独立開業することは認められないこと」及び「対外発表は,「甲」等の名称を記して本部の査閲を受けた場合のみ認められること」が明確に記載されたものであり,当該部分が,退会後の競業避止義務を意味することは明確である。
② 被告は,この記載が不明確であると主張しているが,当該部分が競業禁止の具体的義務を課すことを前提に作成されていることは,上記①ののとおり,あえて平易な話し言葉で書かれていることからすれば,むしろ明白であるといえるものである。
③ 原告は,講師資格を与える前提となる上級コースに進級する生徒には,一人一人から同意書を得る形を取っており,事前に,原告の規約書(甲第1号証)を十分検討できる形で同意書を交付して,生徒は,規約書を検討した上で同意するか否かを決めているもので,被告も,規約書の内容を十分検討して同意書に署名押印したものである。
したがって,原告と被告との間の退会後の競業禁止の合意が成立していることは明らかである。
(2) 争点(2)について,当事者双方の判例を引用しての主張
ア 被告の主張
① 仮に本件規約が原告教室退会後の競業避止義務を定めたものであるとしても,一般に,競業避止特約(競業禁止契約)の効力について判示した判例は,事業者間のものと,使用者と労働者間のものと,それぞれ複数あるところ,いずれの判例も,当該契約において競業避止義務の期間も地域も限定しない合意は,営業の自由ないし職業選択の自由を不当に制約するものとして,公序良俗に違反し,無効であるとしている。
② 本件規約は,原告教室退会後の競業避止義務について,期間も地域も全く限定されていないものであるから,退会後の会員の営業の自由を不当に制約するものとして,公序良俗に違反し,無効である。
イ 原告の主張
① 判例上,競業避止特約の公序良俗違反が争いとなった事案は,いずれも,圧倒的な力の差がある労使間あるいはそれに類似する関係にある事業者間において,上位にある者が一方的に定めた約定であり,それによって義務者の営業の自由が相当程度侵害されるような事案において,公序良俗違反の可能性があることを認めたものに過ぎず,本件と事案を異にする。
② 原告の開講する教室は,あくまで趣味のためのカルチャー教室を本旨とするものであり,本件規約への同意を求める上級コースの進級者も,原告にとって,受講料を支払ってもらう客であって,客の立場の方が強いものであることはいうまでもない。
そして,押し花を使用する絵画の教室は,原告以外にも複数存在しており,被告のような受講者は,あくまで客として入会する教室を自由に選択することができ,原告の方針等が気に入らなければ,無理に上級コースに進級する必要はない。
さらに,原告における講師は,趣味の技能が上達した家庭の主婦等があくまで趣味の延長として人に教えるというレベルのものに過ぎず,講師業に専念し,それで生計を立てるという性質のものではなく,現実にも,生計が配偶者の収入によって確保される主婦等が,趣味の延長で教えているというのが実情である。
③ このように,本件の原告と被告との間には,労使関係にみられる圧倒的な力の差が存在せず,むしろ,本件合意の時点では,被告の方が客として自由に教室を選択し得る立場にあったものである。そして,原告教室は,あくまでも趣味のための教室である以上,上級コースへの進級が被告のような受講者にとって,職業選択のような死活問題となることはあり得ないのであり,被告において上級コースへの進級を強制されるべき事情が存在しないことはいうまでもない。
さらに,上級コース修了後に講師となったとしても,それはあくまで趣味の延長を本旨とするものであり,退会後の競業を禁止されたとしても,義務者の受ける経済的な制限はほとんどないか,あったとしてもわずかなものに過ぎない。
このように,本件規約の競業避止特約によって義務者が受ける営業の自由の制限も大きなものではなく,被告が挙げる判例のように生計の途が相当な制約を受ける事案とは異なる。
④ よって,本件規約の競業禁止の約定の有効性は,争う余地がないものである。
(3) 争点(2)について,本件合意の合理性(正当性)の存在に関する主張
ア 原告の主張
① 原告教室のシステムについて
(ア) 原告が経営する原告教室は,花材等を用いて絵画作成を教える教室であり,入会する生徒は,ほぼ全員が家庭の主婦であって,主婦のカルチャー教室として開催されているところ,原告の創設者であるAとBは,個人的に芸術家として花材を用いた絵画の作品を発表しているが,それを芸術的な素養がない素人でも一定レベルの作品が作れるようになることを目標に原告教室を開設したものである。
このため,原告は,花材の選び方,構成の考え方,制作順序等の制作の全過程において,「誰にでも分かり易く理解でき,芸術的素養を問わない制作方法」のノウハウを長年にわたって研究し,積み上げてきたものである。
(イ) 原告教室は,初級Ⅰ,初級Ⅱ,中級,上級,師範Ⅰ,師範Ⅱ,師範Ⅲまでの7コースに分かれており,新規の入会者は,初級Ⅰコースから始めて,一回原則2時間の講座を12回受講すると,上位のコースに進むことができるシステムになっていて,中級コース以降のコースに進級する際には,進級費を原告に支払うことになっている。
(ウ) 原告教室は,a本部統括教室(千葉県船橋市所在),b本部教室(A又はBが直接講師として教える教室であるが,現在は,存在しない。)cA及びB以外の者が講師となって原告が直接経営する直営教室(現在10教室),d講師資格者が原告に届け出て経営する任意教室(現在2教室)に大きく分けられる。
この任意教室は,原告教室のうち,上級コースを終了した講師資格者が経営するものであるが,指導方法,カリキュラムは,原告の指定する方式によること,教室名には,「Aの甲」又は「甲」の名称を明示すること,生徒から受領した進級費を原告に納入すること,使用する教材は原告から購入すること等の条件の下で経営されているものである。
(エ) 生徒は,上級コースを終了することによって講師の資格を得ることができる。そのため,原告は,上級コースに進む生徒には,原告の規約書に同意することについて署名押印を得ている。ただし,原告は,平成15年以降は,講師の質を維持するため,講師資格を得るためには,上級コース終了後に,面談と追加講習を必要とする制度を取り入れている。
ただ,実際には,上級コースを終了した生徒の中で講師として働くことを希望する者は,極めて少数であり,現在講師として実働しているのは,直営教室の講師が4名,任意教室の講師が2名のみである。
これは,原告教室がそもそも主婦の趣味の講座であり,講師にまでなりたいという生徒数が少数であること,直営教室の講師の収入は,実際にはボランティアと同様であるからである(現在,直営教室の講師は,月額7000円から3万5000円程度の収入を得ており,任意教室の講師も,それに近い状況と思われる。)。原告自身の経営状態も,原告教室について収益は出ておらず,押し花とは別の部門の売上げによって経営が成り立っている状況である。
② 競業避止義務の合理性を基礎づける(正当化する)事情について
(ア) 原告は,特に芸術的な素養がない素人でも,一定レベルの作品が作れるようになることを目標に教室を開いており,花材の選び方,構成の考え方,制作順序等の制作の全過程において,「誰にでも分かり易く理解でき,芸術的素養を問わない制作方法」のノウハウを長年にわたって研究し,積み上げてきた。
現在,花材を使った絵画を教える教室は多数存在するが,実際はある程度芸術的素養のある講師が直感的に作成した作品を参考に,生徒も直感的に花材を置いていくという教室がほとんどであるところ,原告は,作品の作成要素を分析的に検討し,系統だった理論を基に,全ての生徒が着実にレベルアップできるノウハウを開発しているものである。
当該ノウハウは,原告教室の経営の根幹をなしており,本来,他に流出することを避けなければならないものであるが,原告教室の上級コースでは,規約によって,退会後も,当該ノウハウを営業利用しないことを誓約することを条件に,初めて生徒に教えることができるものである。
原告が,講師資格取得後ではなく,あえて上級コースへ入る時点で,競業禁止を含む規約書の遵守を誓約させているのはそのためである。そして,原告と上級コースの生徒との間の規約を遵守するという信頼関係を前提に,原告は,こうしたノウハウを伝えている。
(イ) 原告教室において現在,講師として実働しているのは,数名に過ぎず,その者は皆,「甲」の考え方に賛同し,主婦業の合間に通常のパート代にも遙かに満たない薄給の下でボランティア同然の形で生徒に教えているものである。
原告教室の講師資格は,営業的な意味は極めて薄く,賛同者にのみ講義のノウハウが教えられる小規模でいわば家族的といってよいような結びつきに基づいて付与されるものである。
(ウ) このように,原告教室の講師は,経済的に生計が立てられるようなものではなく,主婦が趣味の延長としてボランティア的に生徒に教えている状況であり,競業禁止によって被告が被る経済的な損失は些少なものであることは確実である。
一方,原告教室は,原告の規約を遵守するという信頼関係に基づいて原告教室を運営してきたが,今回,被告の規約違反の独立を認めた場合によって規約が空文化されることによって,講師間の信頼関係が崩れて運営形態が崩壊する上,長年培ってきたノウハウを「甲」の名を冠さない形で自由に流用されることによって,そのブランド力も無意味なものになってしまう。被告が原告のノウハウを利用して営業を行っていることによって,原告のノウハウが被告の生徒等に次々と流出していくことは,原告にとって多大な損失をもたらし,特に,押し花という極めて小さい市場では,原告の営業にとって致命的な効果をもたらすものである。
(エ) 以上のとおり,本件の競業禁止の合意は,極めて個人的な信頼関係に基づいてされたもので,労使関係のような圧倒的な上下関係に基づくものではなく,ビジネスないし営業としての意味合いも極めて薄いものである。そうした関係において,包括的な競業禁止合意が結ばれた場合において,それが当事者間の自由意思に基づくものである限り,当事者の合意が最大限尊重されなければならない。
また,現実に被告が被る損害が些少である反面,原告が多大な損害を被ることも,当該合意を有効とすべき事由であることは明白であり,本件の競業禁止の特約は,押し花業界という小さい業界においてはやむを得ないものといえる。
なお,原告は,原告のノウハウを本件訴訟において主張,立証することによって,逆に原告独自の技法が侵害されるリスクが高まる可能性があることから,本件訴訟においては,原告のノウハウの具体的な主張,立証を行わないことは,裁判所の求釈明に答えてその旨を答えているとおりである。
イ 被告の反論
① 競業避止特約の有効性については,競業避止義務を課さなければ,保護されるべき正当な利益が侵害されることになる場合において,必要かつ相当な限度で競業避止義務を課するものであるときに限り,肯定されるものである(東京地判平成7年10月16日・判時1556号83頁,乙第9号証参照)。
そこで,本件でも,
(ア) 被告に競業避止義務を課さなければ侵害から護り得ない正当な利益が原告にあるか,
(イ) 競業避止義務の範囲は,必要かつ相当な限度内といえるか,の検討が必要となる。
② 原告は,(ア)の正当な利益の点について,原告には「ノウハウ」があると主張している。
しかし,原告は,ノウハウについて特定した主張,立証をしていないのであるから,それが法律的な保護を受けるべきであるという主張は,主張自体失当である。なお,押し花に関する花材の選び方,構成の考え方,制作順序等については,かなりの数の教本が市販されており,これらの内容は,いずれも大同小異であって,原告の創設者のAの著作した教本も市販されているが,他の市販教本と比べて,特別なものではない。
次に,原告は,(イ)の点に関して,被告に対して場所的制限も,期間的制限もない競業避止義務を課さなければならない高度の必要性と相当性とを主張,立証しなければならない筋合いであるが,その主張,立証はなく,原告の主張は,いずれにせよ失当である。
③ なお,被告が,原告の任意教室の運営を止めて,原告教室から退会したのは,原告の代表者がAからBに変わり,原告教室の運営方法についても,原告が各会員に配布した平成15年3月付けの「甲便り改革編③」と題する書面(甲第6号証)において「上級修了者は,誰でも講師になれるという制度は中止する。上級修了者のうちの講師希望者は,思想的に「ノープロブレム」であれば,有料講習を数回受講し,合格すれば講師認定をする。過去に講師になった人についても,これを適用するので,これに該当しない人の講師活動は一切禁止する。共産思想にもいろいろあるが,平等思想は教室運営の害になる。上下関係や「チェーン店」という考えを理解しない者に,講師活動を認めない。ヒステリー,頭に血が上りやすい人は,組織の人間として不向きである。」旨を記載しているように,思想とか人格など,他人が容易に踏み込むべきでない事柄に対する評価という,原告の恣意によって現に講師として活動中の人の職を奪うものとする等の変更があったことから,被告は,原告教室内にとどまることを断念せざるを得なくなったものである。
第3当裁判所の争点に対する判断
1 争点1(本件合意の成否)について
(1) 前記第2の1の前提となる事実のとおり,被告は,原告教室の上級コースに進級するに当たって,原告が定める規約の活動規範に合意することを記載した合意書(甲第2号証の2)に署名押印したことについては,争いがないところ,甲第1号証,第18号証(被告に対する講師であった者の陳述書),乙第14号証(被告の陳述書)及び被告本人尋問の結果によると,被告は,事前に原告から原告の規約が掲載されている「甲-規約-」と題する冊子(甲第1号証)を交付されており,これを閲読した後に合意書に署名押印したこと,この冊子には,「甲会員」の定義について,初級,中級,上級コースを受講中の生徒を「生徒会員」と呼称し,「生徒会員」,後記の「上級会員」,「師範会員」,「予備会員」を総称して「甲会員」と称するとした上で,「甲会員の活動規範について」との表題の下に,「「甲会員」が,本部の了解なく「甲」の技法に関してテレビ・ラジオ等に出演すること,書籍を出版すること,新聞・雑誌等に寄稿すること,インターネットに情報を載せることなど,並びに「甲」を退会して独立開業することは,直接・間接に本部や他の会員に迷惑がかかることが多く,本来認められないものです。なぜならば,「甲」に内在する家元の理念と「甲」が蓄積した有形無形の固有技法・知識資産を使用することが,知的所有権(著作者人格権を含む)や商権を侵すことになるばかりでなく,先達,会員によって築かれた融和協調の基盤をも損じることになりかねないからです。ただし,上記のメディアを通じて対外発表を希望する「師範会員」が,発表作品や発表する演題・内容に「Aの甲」又は「甲」の名称が記され,且つそれの指導を受けた経緯や家元・Aの門下生であることに言及されれば,本部の査閲を経て対外発表が可能になります。」との記載があることが認められ,被告本人は,規約の文章の意味に関して,不明であった部分はない旨を供述している。
(2) 上記(1)に認定の事実関係によれば,被告は,合意書を作成するに当たり,上記の規約の内容をその字義のとおりに理解していたことが認められるところ,上記の規約には,原告教室に入会した会員が「甲」を退会して独立開業することは認められない旨が記載されていることは容易に理解し得るものであると評価することができるから,被告は,その記載の意味内容を認識した上で合意書を作成して,原告に交付したものと認めることができる。
したがって,原告と被告との間で,原告教室を退会した後は独立して開業しないという,原告と競業する営業をしないことを内容とする本件合意が成立しているものと認められる。
被告の不明確な約款に関する主張は,その前提を欠くものであって,採用することができない。
2 争点2(本件の競業避止特約が公序良俗に反し無効であるか否か)について
(1) 本件のカルチャー教室の経営のように,一定の技能,知識の分野における技能,知識を習得するよう指導する役務を有償で継続的に提供することを業とする営業者(事業者)が,入会した個人(消費者)との間で,退会した後に,同じ営業をすることを禁止する競業避止義務の特約を合意した場合の当該特約の有効性についてみると,職業選択の自由,営業の自由は,個人の基本的な人権として保障されているのであり,個人が自ら習得した一定の技能,技術,知識,経験等を活用して,これを業とすることは,本来自由であって,このことは,他の者から指導されたり,他の者が著作した教本,書籍等によって習得した場合であっても基本的に異なることはないと解されるから,事業者との間で競業を禁止する合意がされた場合であっても,その合意が,事業者の保有する知的財産権,営業秘密,ノウハウ,営業・役務表示,ブランド価値,企業イメージ,事業者が創設しブランド名を付した段位・資格の社会的な通用性・信頼性等の正当な利益を保護することを目的とするものであり,禁止・制限される,営業の範囲の広狭,禁止・制限条件の有無・内容,期間及び場所的範囲(区域)の定めの有無・内容,代償的措置の有無・内容等の諸事情を考慮して,その目的の達成のために必要かつ相当なものとして,合理性を有するものとは認められず,個人の営業の自由,職業選択の自由を不当に害するものである,と判断される場合には,当該競業避止特約は,公序良俗に違反するものとして,民法90条により無効になるものと解される。
このように解すべきことは,上記の個人の基本的人権の保障にとどまらず,市場における公正で自由な競争の確保(市場の独占の禁止),これによる一般消費者(需要者)の利益,また,その技能,知識が文化,芸術,スポーツや個人の趣味,教養に係る場合には,我が国における文化や健全な国民生活の発展という点からも,要請されており,これらも同条により保護される公序良俗の内容を構成するものというべきである。
ことに,競業が禁止される営業(需要者に提供される役務)の内容(範囲)が,その事業者の固有の知的財産権,営業秘密,ノウハウ,ブランド名等の使用の禁止(制限)という禁止・制限条件を伴うものではなく,単に,一般的な技能,知識の分野,種類といった包括的なものであり,かつ,禁止・制限される期間及び場所的範囲の定めがないという,包括的,無制限に競業を禁止する内容の特約は,事業者によるその特約の合理性を基礎づける特段の事情の主張,立証がない限り,公序良俗に反し無効であると解される。
公序良俗違反による無効の主張,立証責任について付言すると,一般に,民法90条の「公序良俗違反」というような規範的要件における主張,立証責任は,その規範的評価の成立を基礎づける(根拠づける)事実(事情)が,契約の無効を主張する被告(個人)の抗弁として,被告の主張,立証責任に属し,これに対する再抗弁として,その規範的評価の成立を障害することを基礎づける事実(事情)が,原告(事業者)の主張,立証責任に属するものと解されるものであり,被告は,その主張する事実で一応,規範的評価を成立させるに足りる事実を主張,立証する必要があり(この事実の主張がないと主張自体失当となる。),そのような抗弁としての主張,立証がされる場合には,これにより認定することができる事実と,原告の再抗弁として主張,立証がされて,これにより認定することができる事実とを,総合評価して,当該規範的評価が成立するか否かが判断される。
このような観点から,包括的,無制限な競業避止特約の場合,上記のとおりに主張,立証責任が分配されると解するものである(なお,一般的にも,事業者は,自らが保有する知的財産権,営業秘密,ノウハウ等の法的に保護されるべき正当な利益があること,及びその利益の保護が競業避止特約の目的であり,その目的の達成のために特約の内容が必要かつ相当な範囲のものであることを,合理性を基礎づける積極的な事実として,具体的に主張,立証する責任を負うと解するのが,公平の観点からも相当である。)。
(2) これを本件についてみると,本件合意は,原告が本件訴訟で被告に対して差止請求をするとおり,原告の営業内容である,「押し花又は押し花を使用した絵画の作成方法について営利目的で第三者に指導すること」を禁止するものであり,「押し花又は押し花を使用した絵画の作成方法」という一般的な技能,知識分野に係る営業を包括的に禁止し,かつ,その禁止される期間及び場所的範囲の限定が全くないものであるから(この事実は,当事者間に争いがない。),このような包括的,無制限の競業避止義務について,合理性があるものと判断すべき特段の事情が認められない限り,本件合意は,公序良俗に反し無効であるといわざるを得ない。
そこで,以下,本件合意における上記の特段の事情の存否について判断する。
(3) 本件証拠(甲第1号証,第2号証の1,2,第5,第6号証,第7号証の1,2,第8号証の1,2,第9号証の1,2,第10号証,第11号証の1,2,第12号証,第13号証の1,2,第14号証,第16号証の1ないし3,第17号証,第19号証,乙第13,第14号証,第15号証の1ないし24,第16号証ないし第20号証,原告代表者本人及び被告本人の各尋問の結果)及び弁論の全趣旨によると,原告が原告教室の入会者との間で上記内容の競業避止特約を締結する経緯等に関して,次の各事実が認められる。
ア 原告が経営する原告教室は,花材等を用いて絵画の作成を教える教室であり,受講する生徒は,ほぼ全員が家庭の主婦であり,主婦のカルチャー教室として開催されている。
イ 原告教室は,初級Ⅰ,初級Ⅱ,中級,上級,師範Ⅰ,師範Ⅱ,師範Ⅲまでの7コースに分かれており,初級,中級,上級コースを受講中の生徒は,生徒会員となる。新規の入会者の場合,初級Ⅰコースから始めて,一回原則2時間の講座を12回受講すると,上位のコースに進むことができるシステムになっていて,中級コース以降のコースに進級する際には,進級費を原告に支払うことになっている。
ウ 原告教室は,a本部統括教室(千葉県船橋市所在),b本部教室(A又はBが直接講師として教える教室であるが,現在は,存在しない。)cA及びB以外の者が講師となって原告が直接経営する直営教室(現在10教室),d講師資格者が原告に届け出て,独自に開設し,経営する任意教室(現在2教室)に大きく分けられる。
エ この任意教室は,原告教室のうち,上級コースを終了した講師資格者が経営するものであるが,原告は,この経営について,指導に当たっては,本部の指導要領を参照してカリキュラムを決定すること,教室名には,「Aの甲」又は「甲」の名称と本人の氏名を明示すること,生徒から受領した進級費を原告に納入すること,使用する教材及び材料等は,全て原告から購入すること,任意教室の上級コース修了者は,本部の管轄下に入ること等を定めている。
オ 原告教室の会員は,上級コースを終了し,原告に年会費を納入することによって,「上級会員」となり,「甲講師」の資格を得ることができ(納入しない者は「予備会員」と称される。),原告は,上級コースに進む会員から,原告の規約書に同意することについて署名押印を得ている。この規約には,前記のとおり,原告教室の会員が原告教室を退会した後の競業を禁止することが定められている。そして,原告は,平成15年以降は,講師資格を得るためには,上級コース終了後に,面談と追加講習を必要とする制度に変更しており,被告主張の内容の会員に対する通知を配布している。
カ 原告教室において,上級コースを終了した会員の中で,原告教室における講師として働くことを希望する者は,極めて少数であり,現在,原告教室において講師として実働しているのは,直営教室の講師が4名,任意教室の講師が2名しかいない。
キ 現在,営業として,押し花ないし押し花(花材)を使用した絵画の作成方法を教えるカルチャー教室は,被告のような個人経営のものを含めて,多数存在しており,大手のものとしても,8社(者)存在しており,主婦等の需要者は,これらの中から,その教室の場所,指導内容等に応じて,自由に選択して入会している。
また,押し花ないし押し花(花材)を使用した絵画に関して,その作品を発表したり,その作成方法等を記載した書籍は,多く刊行されており,需要者に広く公開され,活用されている。
(4)ア 原告が原告教室の入会者との間で競業避止特約を締結する経緯は,上記(3)に認定のとおりであるところ,原告教室に入会し,上級コースを終了して,押し花を使用した絵画の作成方法の技能,知識を習得した会員が,原告教室を退会した後に,自らが習得したその技能,知識を使用して営業することを,本件合意のとおり,包括的,無制限に禁止して確保される原告の利益ないし禁止の目的についてみると,上記(3)に認定の事実に,原告の主張を含む弁論の全趣旨を総合すれば,原告が小さい業界で収益性が低い旨を主張している,主に主婦を需要者とする「押し花業界」という営業の市場において,原告と競合する営業者を排除し,かつ,原告の教材及び材料等を原告のみから購入することとして,原告の営業利益を確保するという利益ないし目的は,認めることができるものの,この利益及び目的は,前記の市場における自由な競争等の観点に照らしても,それ自体で,上記のとおり包括的,無制限な本件合意における競業避止義務を正当化するに足りるものとはいえず,本件全証拠によっても,その他,本件の競業避止義務による確保を相当とするような原告の正当な利益及び目的は,認めることができない。
イ 原告は,本件合意における競業避止義務の合理性を基礎づける事情として,原告は「花材の選び方,構成の考え方,制作順序等というの制作の全過程において,誰にでも分かり易く理解でき,芸術的素養を問わない制作方法のノウハウ」を,作品の作成要素を分析的に検討し,系統だった理論を基にして開発しており,当該ノウハウは,原告教室の経営の根幹をなしており,本来,他に流出することを避けなければならないものであるが,原告教室の上級コースでは,規約によって,退会後も,当該ノウハウを営業利用しないことを誓約することを条件に,初めて生徒に教えることによって,原告のノウハウの押し花業界という市場への流出を防ぐという正当な利益ないし目的が存在する旨を主張している。
しかしながら,原告は,当裁判所から,本件合意のような包括的,無制限の競業避止特約が公序良俗に反し無効であるという評価の成立を障害するためには,その特約の合理性を基礎づけるために,原告が固有すると主張するノウハウについて,具体的な主張及び立証をすることが必要であるという,再三にわたる求釈明を受けたのに対して,本件訴訟において,そのような主張及び立証をすることはしない旨を明言して,この主張,立証をしていない(当裁判所に顕著な事実)。
したがって,原告固有の具体的なノウハウが存在するという事実は,認定することができず,この存在を前提とする原告の本件合意の合理性に関する主張は,いずれも採用することができない。
なお,原告は,被告が原告固有のノウハウを使用していることの証左であるとして,原告側の作品と被告の作品の類似性を指摘しているが(原告の平成18年3月31日付け準備書面5頁),これらは,いずれも,単に,公表,公開されている押し花を使用した絵画の作品において,その作品中のウサギの顔,家屋,人物等の構成要素を個別に取り出してみせて,両者の間で類似する点を指摘するにとどまるものであり,その構成要素自体に格別の新規性や創作性があるものとは認めることができず(原告は,もとより,本件訴訟において上記の各構成要素についての著作権を主張するものではない。),原告の上記の主張は,原告の固有のノウハウの存在を窺わせるものではない。
加えて,原告は,原告教室の初級Ⅰ,初級Ⅱ,中級コースの生徒には原告のノウハウを開示しておらず,本件の競業避止特約を締結した上級コースに進級する生徒に対してのみ,初めて原告のノウハウを開示する旨を主張しているところ,この主張も,原告の指導にも拘わらず,中級コース以下の生徒は,原告の花材を使用した絵画の制作に係るノウハウを知り得ないとする理由が不明であるというほかなく,主張自体として不自然なものであること,原告代表者本人も,中級者と上級者の違いについて,「上級者になると大きな額で見本を示して論理だった組み立て方をすることです。」,「原告が上級に進む生徒に対し規約への署名を求めたのは,それまで講師になる気の無かった人も中級の終わりごろになると,自信を持ち講師をしたくなったとの発言があったからです。」と供述するだけであること,原告教室における初級Ⅱコース,中級コース及び上級コースのカリキュラムは,それぞれ,「中級・上級コースに進級するための基本的な12種類のデザインを学ぶこと」,「中型サイズの額に12種類の押し花絵を創作すること」,「中型~大型サイズの額に12種類の押し花絵を創作すること」というものであり(甲第8号証の1,2),これらのコースには連続性があり,上級コースに進級する生徒に対してのみ,特別な指導をするものではないことが窺われることに照らせば,原告の固有の具体的なノウハウの存在については,疑問が多いものといわざるを得ない。
ウ また,原告は,競業禁止によって被告が被る経済的な損失は些少なものであることは確実である旨も主張しているが,個人に保障されるべき営業の自由,職業選択の自由は,個人が生来的に保有する基本的な人権であって,その収益性の多寡等によって差別されるべき理由はなく,原告のこの点に関する主張についても,本件合意の合理性を基礎づけるものということができないことは,明らかである。
他にも,原告は,本件の原告と被告との間には,労使関係にみられる圧倒的な力の差が存在せず,むしろ,本件合意の時点では,被告の方が客として自由に教室を選択し得る立場にあったものである旨を主張しているが,原告教室の入会時点においてこのことが肯定されるとして,このことを加えて斟酌しても,到底,原告教室に入会し,上級コースに進級した者に対して包括的,無制限に退会後の競業を禁止する本件合意の合理性を基礎づけるものということはできない。
(5) 他に,本件合意が定める競業避止義務について,その合理性を基礎づけるに足りる特段の事情の主張及び立証はない。
したがって,前記のとおり,包括的,無制限の競業避止義務を内容とする本件合意は,公序良俗に反し無効であるというべきである。
3 結論
以上の次第で,原告の被告に対する本件請求は,その余の点について判断するまでもなく,いずれも理由がないことが明らかであるから,これらを棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判官 橋本英史)