京都地方裁判所 平成10年(ワ)1467号 判決 2001年3月22日
原告
甲野花子
同訴訟代理人弁護士
吉田容子
同
大脇美保
同
久米弘子
同
中村和雄
同
中島晃
同
遠藤達也
同
村松いづみ
同
吉田眞佐子
同
岩橋多恵
被告
乙川太郎
同訴訟代理人弁護士
米田実
同
辻武司
同
松川雅典
同
四宮章夫
同
田中等
同
田積司
同
米田秀実
同
上甲悌二
同
藤川義人
同
松井敦子
同
浦中裕孝
同
軸丸欣哉
同
名倉啓太
同松川訴訟復代理人弁護士
髙島志郎
被告
日本銀行
同代表者総裁
速水優
同訴訟代理人弁護士
末吉亙
同
清水真
同
村田雅夫
主文
1 被告らは連帯して、原告に対し、金六七六万八九六〇円及びこれに対する平成一〇年六月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 原告の被告両名に対するその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用はこれを三分し、その二を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。
4 この判決の第一項は仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
1 被告らは連帯して、原告に対し、二一二三万三八六〇円及びこれに対する平成一〇年六月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告乙川太郎(以下「被告乙川」という。)は、別紙一記載の謝罪文を、被告日本銀行(以下「被告銀行」という。)は、別紙二記載の謝罪文を、それぞれ別紙三記載の条件で作成して原告に交付し、被告銀行はこれらの謝罪文を別紙三記載の条件で被告銀行本店及び京都支店内に掲示せよ。
第2 事案の概要
1 本件は、被告銀行の行員で京都支店に勤務していた原告が、京都支店の支店長であった被告乙川からセクシャル・ハラスメント行為を受け、それが原因で、身体、精神に不調を来し、被告銀行を退職せざるを得なくなったなどと主張して、被告乙川に対しては不法行為、被告銀行に対しては不法行為(民法四四条ないし七一五条に基づくものを含む。)又は債務不履行(職場環境を調整する義務としてのセクシャル・ハラスメントを事前に防止する義務及び事後これに適正に対処すべき義務違反)に基づいて、損害(慰謝料、逸失利益及び弁護士費用)の賠償、これに対する被告両名に対する訴状送達の日の後である平成一〇年六月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払並びに謝罪文の作成、交付及び掲示を求める事件である。
2 争いのない事実等
(1) 当事者等
ア 原告(昭和四四年一〇月二一日生)は、平成二年四月に被告銀行に入行し、京都支店勤務となり、平成四年六月に同支店営業課に配属された。その後平成七年六月から平成八年六月までの一年間の育児休業した期間の外は、同課で働いたが、平成一〇年六月三〇日付で被告銀行を退職した。
イ 被告銀行は、日本銀行法に基づく我が国の中央銀行であり、東京都中央区内に本店を、京都市内等に支店を設けて業務を行っている(公知の事実)。
ウ 被告乙川(昭和二二年一月三日生)は、昭和四四年四月に被告銀行に入行し、平成七年五月二三日から平成一〇年三月二日まで京都支店の支店長を務めた後、被告銀行人事局参事を経て、同年四月一日付で被告銀行を退職し、直ちに大阪証券取引所の理事に就任したものの、同年六月一二日にこれを辞任した。なお、被告乙川は、被告銀行京都支店長であった間、京都支店の業務に関し、一切の裁判上及び裁判外の行為をする権限を有する代理人であった(平成九年法律第八九号による改正前の日本銀行法一七条)。
エ 丙山一郎(以下「丙山課長」という。)は、平成八年六月から平成一〇年九月までの間、京都支店の営業課長であった。丁田次郎(以下「丁田次長」という。)は、平成八年二月から平成一〇年九月までの間、京都支店の次長であった。なお、支店の次長は、支店の内部管理全般をその職務としている(証人丙山、証人丁田、被告乙川本人)。
(2) 原告は、平成九年一一月一九日、被告乙川の誘いを受け、京都市左京区所在のイタリア料理店「△△」で夕食を共にし、食事後、被告乙川の誘いで、京都市東山区内の都ホテル内の会員制クラブ「××」(以下「本件クラブ」という。)に一緒に行った。被告乙川は、本件クラブで、被告に対し、少なくとも原告にキスをし、その胸を触るという行為をした。
(3) また、被告乙川は、平成一〇年三月一九日付で、けん責処分を受けた。
第3 争点及び争点についての当事者の主張
1 被告乙川の原告に対する不法行為の有無及び程度
(1) 原告の主張
ア(ア) 原告は、京都支店内で被告乙川から、「君は髪が茶色だからヤンキーだったんだろう。子どもがいるからヤンママだ。」とか、「レディースの会長だったんだって。」などと事実に反することを言われ、それを同僚たちに笑われて悲しくつらい思いをしており、そのため、原告は、被告乙川に対して苦手意識を有していた。ところが、平成九年九月ころ、京都支店において京都の和装産業についてのレポートを作成するに当たって原告が意見を述べたことのお礼として、被告乙川から昼食を共にすることを誘われ、更に「△△」での夕食を誘われた。原告は、育児休業後、元の営業課に復帰できたことについて感謝の気持ちを伝えるとともに、被告乙川に原告のことをよく知ってもらい、原告や他の女子行員を傷つける言動についてやんわりと反論して今後注意してもらうことができる機会であると考えてこれらの誘いに応じた。
(イ) 原告は、前記第2の2(2)のとおり、「△△」での夕食が午後八時三〇分ころ終わった後、被告乙川から、二次会に行くことを誘われ、早く帰宅したかったが、支店長である被告乙川に悪い印象を与えたくなかったので、「一杯ぐらいなら」とこの誘いを受けて、タクシーで都ホテルに行った。
(ウ) 原告は、都ホテル内のバーかラウンジに行くのであろうと思っていたところ、被告乙川が、客室のような部屋のドアをカードキーを用いて開けたのを見て驚いたが、被告乙川から会員制の部屋である旨の説明があり、バーかクラブのような部屋であったので、京都支店のトップである被告乙川がこのような場所で性的暴力をふるう事態は予想できなかったことから、「帰る」とは言い出せないで本件クラブに入った。
(エ) 被告乙川は、原告が被告乙川の指示でソファーに座ったところ、すぐに原告に体を付けるように左横に座り、「今日は楽しかったですね。」と言いながら、右手を原告の左手の上に置き、次いで手を握り、「この辺りがツボなんだよね。」と言いながら両手で原告の手をなで回したり押したりし始めた。原告は、「いや、もうやめてください。」と何度も言って手を外そうとしたが、被告乙川はますます手を強く握ってきた。
原告は、逆に被告乙川から居直られて、馬鹿にされたり、職場で冷たい仕打ちを受けたりするのではないかという心配が頭にあって強い態度に出ることができず、「やめてください。私は結婚しているし、子供もいます。こういうことをする人は他にいらっしゃるでしょう。」と言って拒絶し、手を振り外すとか、少しずつ体を右側にずらして逃げようとしたが、すぐにソファの右端に到達してしまった。そのとき、被告乙川は、原告の手を強く握って右頬にキスをし、さらに原告にのしかかるようにして唇にキスをし、原告の胸を触り、上着の下から手を入れ、ブラジャーの下から手を差し入れて胸を触った。そのとき、原告のバックの中の携帯電話が鳴ったので、原告は被告乙川を押しのけて立ち上がることができ、被告乙川から逃れることができた。原告は、服を直すなどして帰り支度をした際、ブラジャーのホックが外されていることに気が付いた(以下、本件クラブにおける被告乙川の原告に対する行為を「本件第一セクハラ行為」という。)。
イ 被告乙川は、同月二〇日、原告に対し、「丸善の件で支店長室に来てください。」とか「一二月の予定を教えてください。」という原告を誘う電子メールを原告に送ってきた。原告は、支店長からの電子メールを無視し続けることはできないので、昨日ごちそうになったことのお礼と、昨日のことについて自分なりにいろいろと考えて落ち込んでいる、反省していることを伝え、誘いについては一二月の予定ははっきりしませんということで断る返信の電子メールを送った。原告がこのような電子メールを送ったのは、支店長室に行ったり、自分の予定を被告乙川に教えることが嫌であり、もう誘ってほしくないという思いや、前日の被告乙川の行為についての怒りや、もっと激しく抵抗すればよかったという後悔の念のほか、他面で上司にあたる被告乙川の機嫌を損なって仕事上の不利益を受けたくないなどの複雑な気持ちによるものである。しかるに、被告乙川は、同月二一日以降も同年一二月下旬まで、週二回程度、電子メールや内線電話で「一緒に食事に行こう」「ちょっと今、支店長室にいいですか。」「今日、お昼いいでしょう。」などと誘いをかけた(以下、被告乙川のこのような電子メールや内線電話をかけた行為を「本件第二セクハラ行為」といい、本件第一セクハラ行為と併せて「本件各セクハラ行為」という。)。原告は、支店長と一社員という関係でこれらの誘いに対しあからさまに嫌な態度を執ると、被告乙川に逆上され、意地悪をされ、職場の居心地が悪くなるのではないかと恐れて、何かと理由を付けて断るしかなかった。
ウ 本件第一及び第二各セクハラ行為はいずれも原告の人格権を侵害するもので、原告に対する不法行為である。
(2) 被告乙川の主張
平成九年一一月一九日、本件クラブのソファーで原告の頬と唇にキスし、胸を触ったこと、同月二〇日以降、京都支店の内線電話や電子メールで原告に数回連絡をとったことは認めるが、その余は否認する。被告乙川が原告と本件クラブへ行くまでの経緯、本件クラブでの行為及びその後の経緯は、次のとおりであって、原告に対する違法行為に当たるものは何ら存しない。
ア 本件第一セクハラ行為について
(ア) 被告乙川が原告を「△△」での食事に誘ったのは、部下との意思疎通を図るためと、原告が書類整理で頑張ったことに対する感謝の意を表すためであった。
(イ) 本件クラブは、二〇畳くらいの広さの部屋で、照明も明るく、会員、ウエイトレス、ボーイが自由に出入りする場所であって、密室ではない。
(ウ) 被告乙川は、非常に楽しい雰囲気の内で自然な形で原告にキスし、その胸を触ったのであり、原告は何ら抵抗せず被告乙川の行為を受け入れた。
(エ) したがって、被告乙川の行為は原告の性的自由を侵害していない。仮に侵害していたとしても、被告乙川において、原告の様子からそのことを窺い知ることができなかったから、被告乙川に故意過失はなく、被告乙川の行為は不法行為にならない。
イ 本件第二セクハラ行為について
被告乙川が、原告に送った電子メールやかけた電話の内容は、次のようなものであって、何らセクシャル・ハラスメント行為に当たるものではない。
(ア) 平成九年一一月二〇日、被告乙川は、原告から「昨夜は何であんなことをしてしまったのだろう。自分は今強い自責の念に駆られている。自分は元来一つのことを考え込んでしまうタイプで今日はすごく落ち込んでいる。」という電子メールが届いたので、「そんなに自分を責めないでください。あまり考えずに前向きに行きましょう。」と返信した。
(イ) その後、被告乙川は、原告からメニエール病で片方の耳がよく聞こえないと言われたので、原告の病状が心配になり、原告に対し、「社内での昼食後、外の喫茶店で話を聞きたい。」と申し入れた。
(3) 被告銀行の主張
本件各セクハラ行為の有無、具体的内容は知らない。
2 被告銀行の責任
(1) 使用者責任
ア 原告の主張
次の(ア)ないし(エ)の各事情を考慮すると、被告乙川の本件各セクハラ行為は、いずれも被告乙川が、支店長の地位を利用してしたもので、被告乙川の職務と密接に関連する行為であるというべきであるから、被告銀行は、被告乙川の使用者として、民法七一五条の責任を負う。
(ア) 被告乙川が原告を「△△」での食事に誘ったのは、原告が京都の和装産業に関する有益な意見を述べたことに対する謝礼、部下との意思疎通を図ること、原告が書類整理作業を頑張ったことのねぎらいが目的であり、一方、原告は、前記1(1)ア(ア)のとおりの理由からその誘いに応じたものであって、双方とも職務に関することが動機であった。
(イ) 被告乙川は、原告に対し、勤務時間中に上司として原告を食事に誘った。
(ウ) 本件クラブは、都ホテルの重要顧客である会員のみが利用できる特別の部屋であるところ、被告乙川が本件クラブの会員になることができたのは、被告乙川が京都支店の支店長であったからにほかならない。そして、被告乙川は、本件クラブを仕事上の打合せや接待、そして京都支店の行員とのコミュニケーションを図るために頻繁に利用していた。
(エ) 本件第二セクハラ行為は、京都支店内で、行内の電子メール、内線電話を利用し、勤務時間中に行われた。
イ 被告銀行の主張
争う。
本件第一セクハラ行為は、終業時間後に京都支店外でなされたもので、被告銀行の業務とは関係がない。被告乙川が京都支店長としての地位を利用したという事情もない。
また、本件第二セクハラ行為は、その程度・態様に鑑みると、原告に対する新たな権利侵害行為ということはできない。
(2) 民法四四条、日本銀行法六一条に基づく責任
ア 原告の主張
被告乙川は、本件第一セクハラ行為に及んだ当時、被告銀行の役員である「参事」の職にあり、かつ被告銀行の代理人として、京都支店の業務に関する裁判上又は裁判外の権限を有していたから、民法四四条一項にいう「理事その他の代理人」に当たる。そして、被告乙川は、被告銀行の京都支店における職務を行うについて本件各セクハラ行為に及んだものであるから、被告銀行はこの行為について、民法四四条一項、日本銀行法六一条に基づき、又は少なくともこれらの条項の類推適用により、原告に対する損害賠償義務を負う。
イ 被告銀行の主張
争う。民法四四条一項にいう「理事その他の代理人」とは当該法人の代表機関を意味するところ、被告乙川は被告銀行の代表機関ではないから、「理事その他の代理人」には当たらない。また、仮に当たるとしても、本件各セクハラ行為は、被告銀行の職務とは関係がないから、被告銀行は責任を負わない。
(3) 債務不履行責任ないし不法行為責任
ア 原告の主張
(ア) およそ使用者は、被用者との関係において、被用者が労務に服する過程で生命及び健康を害しないよう職場環境等につき配慮すべき注意義務を負うが、更に、労務遂行に関連して被用者の人格的尊厳を冒し、その労務提供に重大な支障をきたす事由が発生することを防ぎ、これが発生したときは、適切に対処して被用者にとって働きやすい職場環境を保つよう配慮すべき注意義務(以下「職場環境調整義務」という。)を負っている。そして、使用者がこの義務に違反したときは、債務不履行責任又は不法行為責任が認められるべきである。
(イ) 事前防止義務違反
被告銀行は、職場環境調整義務の一内容として、セクシャル・ハラスメントの事前防止義務を負っているが、その具体的内容として、①就業規則等に、職場におけるセクシャル・ハラスメントの禁止及び違反行為者が懲戒処分の対象となることなどを明記して、使用者の方針を明確にし、その周知・啓発を充分になすこと、②セクシャル・ハラスメントの防止について真に効果的な研修をなすこと、とりわけ管理職に対する念入りの研修をなすこと、③相談・苦情の窓口を明確にし、かつその窓口を一つに絞らず複数設置したり、カウンセラー、弁護士等外部の専門家に相談員を委託したりするなど、相談しやすい状態をつくることが求められていた。
しかるに、被告銀行においては、
a 就業規則にセクシャル・ハラスメント禁止も、これが懲戒処分の対象となることも明記されておらず、セクシャル・ハラスメントは許さないとの使用者の方針の周知啓発がなされていなかった。
b 効果的な研修がなされていなかった。被告銀行がした研修は、一般の監督者研修のついでになされたものであり、被害者の心理の修得は全くなされておらず、極めて不十分なものであった。
c 相談窓口を設置したが、その設置の事実について十分な周知活動を行わなかった。そのことは、原告はおろか、丙山課長、丁田次長そして被告乙川ですらその存在を全く知らなかったことから明らかである。
そして、この事前防止義務は、被告銀行において、セクシャル・ハラスメント行為が発生する具体的危険性を知っていたか知り得た場合にのみ発生すると解するべきではない。
仮に、セクシャル・ハラスメント行為発生の予見可能性を必要とするとしても、次の事実に照らせば、その予見可能性はあったというべきである。なお、予見可能性判断の前提となる認識は、被告乙川の認識をもって被告銀行の認識とするべきであり、仮にそうでないとしても、被害者の人事管理の権限を持つ役職者(具体的には、丁田次長及び丙山課長)の認識をもって被告銀行の認識とするべきである。
a 丁田次長は、平成八年五月の着任後、被告銀行の人事局から、被告銀行内部でセクシャル・ハラスメントの事例が生じていることを知らされていた。
b 丁田次長は、かねて被告乙川が、女子行員を誘って二人だけで食事をしていることを知っていた。そして、課長会議等で、管理職に対し、役職者が女性を誘うことは避けるように注意していた。
c 丙山課長は、平成九年一一月一九日以前から、被告乙川が女性行員を誘って二人で食事をし、セクシャル・ハラスメント行為をしていることを知っていた。それ故に、平成九年一一月一九日以前に被告乙川に対して原告を誘わないよう申し入れたし、同日には、原告を心配し、食事が終わった後に電話するよう指示したのである。
(ウ) 事後の適正対処義務違反
被告銀行は、職場環境調整義務の一内容として、セクシャル・ハラスメント行為が発生した場合に、これに適正に対処する義務を負っているが、その具体的内容としては、①被害者等のプライバシーに配慮しつつ、事実関係を迅速・適正に調査すること、②加害者に直接注意したり、人事上の対応を行う等、問題解決のための具体的対応を行うこと、③被害者が退職等の具体的な不利益を受けることのないよう配慮することが求められていた。
しかるに、被告銀行は、原告が丙山課長に被害の申告をした後も、丙山課長は、原告が「そっとしておいて欲しい」と希望していることを理由に何らの対策を取ることなく原告を放置し(このような希望を述べるのは、この種の被害者の共通した心理であって、これを理由に何らの対応をしないというのは本末転倒である)、その結果本件第二セクハラ行為を誘発し、他の被害者が出てからようやく事実調査を始めたが、その経過を原告に説明することもなく、調査の結果、被告乙川に対して軽い譴責処分で済ませ、同被告を当初の予定どおり退職させて大阪証券取引所に天下りさせた。原告は、このような被告の対応に被告銀行で働き続けることの展望を失い、退職を決意せざるを得なかったのである。
イ 被告銀行の主張
(ア) 次のとおり、被告銀行に事前防止義務はない。
a 被告銀行は、次のとおり、一般的なセクシャル・ハラスメント対策を果たしていた。
(a) 被告銀行の就業規則五条には従業員が互いに他の人格を尊重すべきことを明定しているところ、この人格の尊重にはセクシャル・ハラスメントをしてはならないことを含む。また、被告銀行は、平成九年九月五日、職員組合との定例人事委員会において、セクシャル・ハラスメントの問題について取り上げ、被告銀行がセクシャル・ハラスメントの防止について職場管理の問題として真剣に取り組む方針であることを表明した。
(b) そして、被告銀行は、次のとおり、各種の会議、研修の場において、行員のセクシャル・ハラスメントの問題に対する注意喚起を行った。
(あ) 平成九年三月一二日、入行後一〇年前後の中堅行員を対象とするシニア研修において、職場管理の問題としてセクシャル・ハラスメントの問題を取り上げた。同年六月三〇日及び一〇月一四日に行われた中堅行員研修において、職場管理問題について説明する中でセクシャル・ハラスメントについても説明し、注意を喚起した。
(い) 同年九月五日、本店各局の総務課長、支店次長などに対し、書簡でセクシャル・ハラスメントの相談窓口を本店人事局内に設けたこと及び良好な職場環境維持のためにセクシャル・ハラスメントは見過ごすことのできない問題であり、その防止に細心の注意が必要であることを周知した。
(う) 同年九月四日及び一八日、新任係長クラスを対象とする新任監督者研修において、就業規則について説明する中で、セクシャル・ハラスメントの問題を説明した。同月八日に行われた新人行員研修において、就業規則について説明する中でセクシャル・ハラスメントについても説明し、注意を喚起した。
(え) 同年一〇月三日、本店参事会議において、セクシャル・ハラスメントの問題を職場管理の問題として厳しくとらえる必要があると強調した。
(c) 被告銀行は、同年九月、本店人事局内に、被害者が直接の上司を通すことなく担当者と相談することのできる、「セクハラ相談窓口」を設置した。そして、被告銀行は、前記(a)の定例人事委員会において、職員組合の担当者に、組合員がセクシャル・ハラスメントの被害にあった場合、またはセクシャル・ハラスメントとおぼしき行為によって悩んでいる場合には、直接の管理者に相談するか、この管理者に相談し難い場合にはこの「セクハラ相談窓口」に直接相談するよう伝達した。すると、組合は、組合員全員に回覧される組合ニュースにこの旨を記載して回覧した。また、被告銀行の人事局は、この日、本店各局の総務課長、支店次長などに対し、「セクハラ相談窓口」を設けたことを周知した。
b 次のとおり、被告銀行は、被告乙川がセクシャル・ハラスメント行為に及ぶ可能性を予見していなかったし、予見できなかったから、これを防止するための何らかの具体的措置を取るべき義務はなかった。
(a) そもそも、本件第一セクハラ行為が行われた平成九年一一月一九日は、男女雇用機会均等法に、性的な言動に起因する問題に関する事業主の雇用管理上の配慮規定を盛り込む旨の改正法がようやく成立したものの、その施行まで一年以上の期間があり、かつ、労働大臣が同改正法に基づいて事業主が配慮すべき事項を具体的に規定する指針を制定する前であった。そのため、事業主が職場内での具体的なセクシャル・ハラスメントの危険を知り得ない場合には、事業主にセクシャル・ハラスメントの具体的な防止義務を期待することは困難な状況にあった。
また、性的自由の侵害行為は職場の内外を問わず違法な行為であり、仮に加害者と被害者とが同一の職場で勤務していたとしても、本来的に当事者間の問題であるから、具体的な性的自由の侵害行為又はその危険が生じていない段階で、事業主が被用者に対して性的自由の侵害行為の発生を防止する具体的作為義務が発生するとは考えられない。
そして、事業主がセクシャル・ハラスメントの具体的な危険を知ったと評価するためには、加害者に対して実効的監督を及ぼしうる者がこの危険を認識することが必要である。
(b) しかるに、被告銀行においては、事前に、被告乙川の上位にある内部管理担当部署の担当者も、セクシャル・ハラスメントの相談窓口の本店人事局総務課担当調査役ないしその上司も、被告乙川がセクシャル・ハラスメント行為に及ぶ可能性を予見していなかったし、予見できなかった。
(イ) 被告銀行に事後の適正対処義務違反はない。
本件第一セクハラ行為が判明した後の被告銀行の事後措置は、次のとおり適正なものであった。しかし、仮にこれに不十分な点があったとしても、原告に新たな権利侵害があったのではないから、事後措置について被告銀行に何らかの責任が生じるものではない。
a 丙山課長の次長への報告は相当遅れたが、これは、原告自身が「他言しないで欲しい」などと、報告をしないよう丙山課長に懇請したためである。そして、セクシャル・ハラスメントの被害者が報告を嫌がっている場合には、その意向に反することによってかえってその心情を傷つけることがあるから、原告の意向に従って次長への報告を控えていた丙山課長の処置が不適正であったとはいえない。更に丙山課長は、自ら庚野局長に直訴したり、原告に代わって匿名の投書をしたり、原告のために誠実に行動しているのであって、その対応に不適正な点はない。
b 丁田次長が被告乙川と女子行員との関係に問題があるのではないかとの疑いを初めて抱いたのは平成九年一二月中旬、丙山課長の話によってであるが、その段階では対象者の名前も判らず、行為態様も深刻なものとは受け止められなかったので、まず事実調査を先行させた。具体的な情報が入った平成一〇年一月二〇日ころには直ちに対策を取っている。そうすると、丁田次長の行為にも不適正な点はない。
c 被告銀行の内部管理担当理事ないし人事局において被告乙川のセクシャル・ハラスメント行為を初めて知ったのは平成一〇年二月初めであり、その後速やかに必要な調査をして三月一九日には被告乙川を処分しているのであるから、被告銀行の対処は迅速である。被告乙川に対する処分内容が軽すぎるとは言えない。大阪証券取引所への再就職は、被告乙川と大阪証券取引所との間の問題であって、被告銀行がこれを妨害することはできない。
d その後の被告銀行の対応にも不適正な点はない。原告が退職したのは、原告の夫がシンガポールに転勤になったからであって、本件とは関係がない。
3 原告の損害及び因果関係
(1) 慰謝料
ア 原告の主張
原告は、被告乙川の本件各セクハラ行為及び被告銀行が適正に事後の措置を取らなかったことなどにより、嘔吐、右低音障害型感音難聴などの身体の変調を来し、その通院治療に一年間を要したほか、精神的な苦痛のために短大卒業以来勤務してきた被告銀行を退職せざるを得なくなった。
これらの事情も考慮すると、被告らの行為によって原告が被った精神的苦痛についての慰謝料は、一〇〇〇万円を下らない。
イ 被告乙川の主張
争う。
原告が右低音障害型感音難聴などになったのは、原告の気質に負う点が大きい。
原告は、元々夫のシンガポール転勤に伴って平成一〇年始めに退職する予定であり、現実に夫のシンガポール転勤後に退職したのであって、原告の退職と被告乙川の行為との間には因果関係はない。
なお、被告乙川は、けん責処分を受けたことにより、慫慂退職の扱いがされず、その結果、退職金が慫慂退職の扱いがされた場合に比べて二八五万六一〇〇円も少なくなった。また、原告が本件訴えを提起したことが新聞、写真週刊誌等で大きく報道された結果、大阪証券取引所の理事を辞任せざるを得なくなった。慰謝料額の算定に当たっては、被告乙川がこのように大きな経済的不利益を被っていることも考慮されるべきである。
ウ 被告銀行の主張
争う。
なお、被告乙川の主張のとおり、原告の退職と被告乙川の本件各セクハラ行為ないし被告銀行の事後措置との間には因果関係はない。
(2) 逸失利益
ア 原告の主張
原告は、被告銀行を退職した結果、定年(六〇歳)までの約三二年間の勤務に対応する収入を失った。本訴訟では、この三二年分の逸失利益の内、二年分の逸失利益(原告の平成九年度の年収は四六六万六九三〇円であったから、九三三万三八六〇円)の支払を求める。
イ 被告乙川の主張
争う。
前記のように、被告乙川の行為と原告の退職との間には因果関係はない。
ウ 被告銀行の主張
原告の平成九年度の年収は四六六万八九六〇円である。その余は否認ないし争う。前記のように、被告らの行為と原告の退職との間には因果関係はない。
(3) 弁護士費用
ア 原告の主張
原告は、本件訴訟の提起・追行をその訴訟代理人らに委任した。その弁護士報酬のうち少なくとも一九〇万円は、被告らの行為と相当因果関係にある原告の損害である。
イ 被告両名の主張
争う。
(4) 名誉回復のための措置の必要性
ア 原告の主張
原告は、被告らの行為により、その人格権を著しく侵害されたが、被告らは謝罪の意を示していない上、京都支店内の他の職員から好奇の目で見られることにより、その名誉が著しく傷つけられた。被告らから受けた原告の損害を回復するためには、金銭の賠償のみでは足りず、人格権又は民法七二三条に基づいて、謝罪文の作成、掲示、交付をする必要がある。
(被告両名の主張)
イ 争う。
第4 当裁判所の判断
1 本件に関する事実経過
前記第2の2の事実に各項の末尾記載の証拠等を併せると、以下の事実を認めることができる。
(1) 本件第一セクハラ行為までの経過
ア 被告乙川は、京都支店に着任以来、職場内のコミュニケーションを図るためと称して、勤務終了後に女性職員と二人だけでたびたび食事などに出かけていた。二人だけで会うのは、複数の職員と会うよりも本音を引き出すことができ、職場の問題点をより的確に把握できるというのが、少なくとも表向きの理由であった(被告乙川本人)。
イ 被告乙川は、平成九年九月ころ、京都の和装産業に関する提言を外部に発表する準備の打ち合わせをしていたときに、たまたま近くを通りかかった原告が、被告乙川の質問に応じて述べた若い世代の着物離れの理由についての意見に関心を示した。原告は、その後二度にわたって同様の打ち合わせに参加を求められ、同様の意見を述べた(甲13、原告本人、被告乙川本人)。
ウ 被告乙川は、これらの打ち合わせの結果に基づき、同年一〇月一七日ころ、京都市内で開催された「着物サミット97京都」や、同年一一月の、「着物業界発展のためには、街着として復活し、裾野が広がること、買いやすさ、着やすさ、ファッションの三つがポイントで、買いやすくするには流通システムを簡素化すべきである。」などと発言し、次いで同年一一月ころ、日本繊維新聞京都支社設立五〇周年記念講演において、それぞれ発言ないし講演した。原告は、これらの発言や講演内容には、自分が述べた意見が生かされていると感じてうれしく思った(甲13、14、16、原告本人)。
エ 原告は、同年一〇月中旬ころ、被告乙川に対し、同月二七日に新しいタイプの和服が紹介されるショーとして「西陣夢祭り高田美和新作和服ショー」が開催されることを伝え、そのパンフレットを渡し、このショーでモデルを務める予定であることも言い添えた(甲13、15、原告本人、被告本人)。
オ その後、被告乙川は、勤務時間中に内線電話で着物について率直な意見を聞かせてもらったお礼として、原告を昼食に誘い、原告がこれを承諾したので、京都支店近くのイタリア料理店「○○」で原告と昼食を共にした。その際、原告は、被告乙川から「どこかいい店を知らない。」と尋ねられ、京都市左京区にあるイタリア料理店を教えたところ、被告乙川から、「そこ行ってみたいと思ってたんだよね。今度行こうよ。」と誘われた(甲13、原告本人)。
カ 数日後、被告乙川は、勤務時間中に原告を支店長室に呼び、「この間君が言っていた店のことだけど、あれ行くのいつにする。」と「△△」で夕食を共にすることを誘い、同年一一月二一日に「△△」で夕食を共にする約束をした。なお、その後食事に行く日は同月一九日に変更された。
キ 原告は、勤務時間中に被告乙川から、「ヤンママ」などとからかわれたことがあり、不愉快に思ったが、相手が上司であるため、何も言えなかった。また原告は、後輩の女性職員から、被告乙川から「君の身体はボーン、ボーンだね。」などと太っていることをからかわれたと泣きながら相談を受けたことがあった。原告は、被告乙川から「△△」での食事を誘われた際、被告乙川に対し、ヤンキーなどと呼ばれて嫌だったこと、後輩から相談を受けたこと、働きやすい職場環境を望んでいることなどを伝えるよい機会だと思って、これに応じた(甲13、原告本人)。
(2) 本件第一セクハラ行為当日の経過(甲13、原告本人に加えて、末尾記載の証拠等)
ア 被告乙川は、同年一一月一九日の勤務時間中である午後五時過ぎころ、原告に対し、ホテルフジタのロビーで待ち合わせる旨の電子メールを送った上、午後五時四五分にホテルフジタのロビーで待ち合わせて、タクシーで「△△」に行き、午後六時三〇分ころから午後八時三〇分ころまで、二人で一本のワインを飲み、食事をした。被告乙川は、原告に対し、前記の「西陣夢祭り高田美和新作和服ショー」で撮った原告の写真を手渡した。被告乙川と原告は、このショーでの感想を述べあったり、原告が被告乙川から嫌われていると思っていたと話したり、原告の夫にシンガポール転勤の打診があり、もし正式な辞令が出た場合には家族で行くかどうか迷っていると話したりした。また、原告は、被告乙川に対し、食事をごちそうになった御礼として、用意していたネクタイを渡した。
イ 被告乙川は、食事が終わった同日午後八時三〇分ころ、原告を次の店へ行こうと誘い、これを了承した原告が自分の携帯電話で呼んだ(被告乙川が店員にタクシーを呼んでくれるよう頼もうとしたが、原告は、店の雰囲気にそぐわないと感じて、これを遮って呼んだもの)タクシーで、午後九時三〇分ころ本件クラブに行った。
ウ 被告乙川は、所持していたカードキーで本件クラブの扉を開けたところ、中は無人であった。不審に思った原告が、「これはどういう部屋なんですか。」と尋ねると、被告乙川は、「会員制の部屋で、会員の人はこういうカードを持っていて自由に入れるんだよ。」と説明した(被告乙川本人)。
エ 本件クラブには、会員が自分で水割りなどを作るためのバーカウンターがあったほか、ソファーのセット及びテーブルセットがそれぞれ一組ずつあった。ソファーのセットは三人掛けのソファー一つと一人掛けのソファー二つが背の低い丸テーブルを囲むように置かれていた(乙12ないし20)。
オ 被告乙川は、本件クラブに入ると、バーカウンターからウィスキーボトルとグラスを持ってきて、三人掛けのソファーの前の丸テーブルの上に置いたので、原告もアイスペールに氷を入れてこの丸テーブルの上に置いた。被告乙川は、原告に対し、原告の同僚らも本件クラブに来たことがあるなどと説明し、三人掛けのソファーに座るよう指示した。
原告が三人掛けのソファーに座ると、被告乙川は、すぐに原告の左横に体を接するようにして座り、二つのグラスに酒を注ぎ、原告と乾杯をした。もっとも、原告は、グラスに口を付けた程度であった。
被告乙川は、手にしたグラスを丸テーブルの上に置くと、原告に対し、「今日は楽しかったですね。」と言いながら、右手を原告の左手の上に重ねたため、原告は一瞬「ぎょっ」とした。被告乙川は、両手で原告の左手を強く握り、原告に対し、「このあたりがツボなんだよね。」と言いながら、両手で原告の手をなで回したり押したりした。原告は、何度も手を外して、被告乙川に対し、「嫌、もうやめてください。」などと言ったが、被告乙川は、「え、何で。なーに。」などとはぐらかし、取り合わなかった。原告は被告乙川に対し、「こういうことをする人は他にいらっしゃるでしょう。Aさんがいらっしゃるでしょう。」などと言って遠回しに拒絶の意思を表したが、被告乙川は、「あの子ね。いいよねえ。」などと言うだけで、やはり取り合わなかった。原告は、さらに「やめてください。私は結婚していますし、子供もいます。」と言ったが、被告乙川は、「だからいいんです。」などと言って取り合わず、かえっていよいよ身体をすり寄せてきた。
原告は、被告乙川の身体を避けようとして、自分の身体をソファーの右方向へずらしていったが、とうとうソファーの右端にまで来てしまい、身体をずらす余地がなくなってしまった。すると、被告乙川は、突然、原告の手を強く握り、原告の左頬に自分の唇を押しつけた。そして、原告にのしかかるようにして、自分の唇を原告の唇に押しつけ、さらに、着衣の上から原告の胸を触り、次いで手を原告の上着の下から差し入れ、ブラジャーの内側から原告の乳房を直接触った。動転した原告は、両腕を身体の前で交差させて抵抗したが、被告乙川がどのような態度に出るか不安であったため、被告乙川を押しのけたり、蹴飛ばすなどといった激しい態度に出ることができなかった。
ちょうどそのとき、原告の携帯電話のベルが鳴り、これをきっかけに原告は、被告乙川を押しのけてソファーから立ち上がることができた。このとき原告は、ブラジャーのホックが外れているのに気が付いた。電話は原告の夫からのものであって、原告はすぐ帰る旨を答え、被告乙川に対し、「帰ります。」と告げ、帰り支度をした。
被告乙川は、原告に対し、「今度いつ会える。」と尋ねたが、原告は返事をしなかった。すると、被告乙川は、原告に対し、「土日に出てきなさい。」と誘い、原告が「土日は家族と過ごしますので。」と誘いを拒絶すると、今度は、「あー、そうだね。じゃあ一二月にまた会いましょう。」と誘った。原告は、「一二月は忙しいですから」と遠回しに誘いを断った。
カ 原告と被告乙川は、午後九時三〇分ころ、都ホテルを後にした。原告は、被告乙川が、同じタクシーに乗ることをしつこく誘うため、いったんは断ったものの、それ以上断ると角が立つと思い、京都市営地下鉄烏丸御池駅付近までタクシーに同乗した。被告乙川は、タクシーの中でも手を握ってきたが、原告はそれを振り払った。
キ 原告は、烏丸御池駅付近でタクシーを降りた直後、被告乙川との食事が終わったら連絡を入れるよう指示されていたことから、丙山課長に電話をかけ、丙山課長が「今どこ。今ごろまで何をしていたんだ。」と尋ねたところ、原告は、「食事のあと都ホテルに連れて行かれた。あの部屋は一体何ですか。悲しいです。」などと答えた。ただならぬ気配を感じた丙山課長が「これから行こうか。何があったんだ。君が言えないなら支店長に聞く。」と言ったが、原告は「結構です。」と答えて沈黙し、電話を切った(証人丙山)。
ク 帰宅した原告は、本件第一セクハラ行為の被害について夫に打ち明けることもできず、頭が混乱して寝付けない夜を過ごした。原告は、寝付けない中で、「このことを騒ぎ立てても、相手が被告乙川では握りつぶされてしまうし、逆にいじめられて仕事ができなくなる、被告乙川は、来春には異動になるだろうから、あと半年間我慢して泣き寝入りすればいい」などと考えた。
(3) 本件クラブ
本件クラブは、都ホテルが会員として相当であると判断する者を勧誘して会員とし、会員が無償で自由に利用することを認めている施設であって(ただし、飲み物は会員が自らの費用で好みのものを預けておいたものを使用する。)、被告乙川は、京都支店の支店長に就任後、都ホテルの代表者から勧誘を受けて本件クラブの会員となったが、勧誘を受けたのは、被告銀行の京都支店長であったからである。被告乙川は、本件クラブを、仕事上の打ち合わせや接待、京都支店の行員らとの飲み会の二次会などに頻繁に使用していた。また、被告乙川は、複数回、京都支店の原告以外の女性職員と二人きりで本件クラブを使用したことがあった(証人丙山、被告乙川本人)。
(4) 本件第二セクハラ行為(甲13、原告本人に加えて末尾記載の証拠等)
ア 被告乙川は、翌一一月二〇日、京都支店内において、原告に対し、「丸善の件で、支店長室に来てください。」「一二月は忙しくてスケジュールが入りそうなので、先に約束をしたい。一二月の予定を教えてください。」との内容の電子メールを送った(なお、当時、被告の担当していた業務で丸善関係のものはなく、前者の電子メールも原告を呼ぶ口実にすぎなかった。)。原告が返信をしなかったところ、被告乙川は、さらに、「早く都合のいい日を知らせるように。」との電子メールを送って催促した。そこで、原告は、これを無視できなくなり、昨日ごちそうになったことの御礼と、昨日のことを考えて反省している、自分は元来物事を考え込んでしまうタイプなので、落ち込んでいるなどといった内容の電子メールを返信した。これは、被告乙川を怒らせない範囲で原告なりの精一杯の皮肉をこめた文章であった。これに対し、被告乙川は、「そんなに考え込まないでください。もっと前向きに考えて頑張ってください」などといった内容の電子メールを送ってきた(被告乙川本人)。
イ 被告乙川は、同月二一日以降も原告に対し、電子メールを送ったりや内線電話をかけて食事などに誘った。原告は、これを腹立たしく感じたが、あからさまに拒絶すれば意地悪をされるのではないか、職場の居心地が悪くなるのではないかなどと心配し、誘いがある都度、「既に予定が入っている」とか「スケジュールがはっきりしない」などといった角の立たない理由でこれを断った。被告乙川からのこのような誘いは、一週間に二回程度の割合で、同年一二月下旬まで続いた。
(5) その後の経過、被告銀行の対応など
ア 原告は、平成九年一一月二〇日、出勤したところ、丙山課長から前日の出来事について説明を求められた。原告は、「キスをされました。それより先のことは恥ずかしくて言えません。」と言い、被告乙川から、一二月にまた食事に行こうと誘われていることも説明した。丙山課長は、「二度と行ってはいけない。」と忠告し、自分から丁田次長に報告し、しかるべき対応をとってもらうと言ったが、原告は、「そっとしておいてください。事を荒立てないでください。」と言って、それを断った。丙山課長は、丁田次長への報告を思いとどまり、「分かった。この話は私の心の中にとどめておく。信頼してほしい。何かあればすぐに連絡してほしい。」と言った(甲13、証人丙山、原告本人)。
イ その後、原告は、被告乙川から誘いがある度に丙山課長に報告したが、逆に丙山課長からは、前記のような曖昧な断り方を非難され、もっとはっきりと断るように指示された(原告本人)。
ウ 原告は、同月二六日昼ころ、京都支店で勤務中、突然右耳がつーんとして聞こえが悪くなり、気分が悪くなったので、早退して京都市中京区内の戊田医院に行き、戊田三郎医師(以下「戊田医師」という。)の診察を受けたが、原因が判らなかった。原告は、一旦京都支店に戻ったが、気分が悪く嘔吐したため、医務室で休み、同日午後五時二〇分ころ、再び戊田医院で診察を受けたところ、同医師はメニエール症候群と診断し、翌日京都府立医科大学附属病院(以下「京都府立医大病院」という。)で診察を受けるように指示した。原告は、途中で数回嘔吐しながら、やっとの思いで帰宅した(甲3、13、乙23、原告人)
エ 翌二七日、原告は、京都府立医大病院の耳鼻咽喉科で甲田四郎医師(以下「甲田医師」という。)の診察を受けた。甲田医師は、原告を「右低音障害型感音難聴」と診断し、メニエール病類似疾患であり、内耳のリンパ水腫が病態であると判断した。その後原告は、平成一〇年一二月一六日まで同病院に通院を続けた(実日数一二回)。その通院期間中、原告は、当初投薬治療を受け、その症状が改善を示したので、平成一〇年三月一八日に一旦投薬が中止されたが、同年五月六日に再び症状が悪化したので、投薬が再開され、同年九月二日まで投薬が続けられ、以後は経過観察となった。(甲1、2、4、6の1ないし10、13、乙24、原告本人)。
オ 原告は、難聴の症状が現れた直後の平成九年一一月二七日ころ、夫に対し、医師から「右低音障害型感音難聴」と診断されたことを告げると共に、本件セクハラ被害について初めて打ち明けた。話を聞いて怒った夫は、「これから被告乙川の家に行く」と言ったが、原告が、「やめてほしい。早く忘れるし、今後は被告乙川から誘いがあっても二度と行かないから、忘れてほしい。」などと泣いてすがったので、夫はそれを断念した(原告本人)。
カ 丙山課長は、同年一二月初旬、「一一月一九日のことについて主人と丙山課長に報告しました。二人から大変怒られ、二度と行くなと止められています。」との文章を作り、原告に対し、このとおりの文章を被告乙川に電子メールで送るように指示したが、原告は、「もう二度と行きませんから、放っておいてください。」と答え、その指示に従わなかった。そのころ、丙山課長は、被告乙川が京都支店内で原告に対し、直接誘いをかけた場面を目撃し、これ以上放置できないと考え、同月中旬、丁田次長に対し、「被告乙川から一対一で食事に誘われ、嫌がっている女性職員がいる。」と、原告の氏名を伏せて報告した。丁田次長は、これと前後して、他の職員からも、一部の女性職員が被告乙川から誘いを受けて、断りにくくて困っているという話を耳にした。そこで丁田次長は、京都支店の各課の課長から、同様の事例の有無について事情聴取したが、他には同様の話を確認できなかった。丁田次長は、各課長に対し、「よく部下の女性職員をフォローし、何か話を聞いたら報告するように。」と指示した(証人丙山、同丁田、原告本人)。
キ 同年一二月一八日ころ、京都支店の忘年会が行われた。原告は、丙山課長から、欠席することを勧められたが、職員ほぼ全員が出席する忘年会に欠席してかえって勘ぐられても困るなどと考えて、これに出席した。忘年会の席で、原告は被告乙川の要求に屈し、内心嫌々ながらも同被告と一緒に写真に収まった(甲13、証人丙山、原告本人)。
ク 丁田次長は、平成一〇年一月二〇日ころ、京都支店の課長の一人から、「部下の女性職員が、その後輩の女性職員から被告乙川に誘われて困っていると話を聞いてきた。」との報告を受けたが、被害者の氏名は教えてもらえなかった。そこで、丁田次長は、被告乙川の外出時に、課長会議を招集し、その情報を伝達するとともに、支店内の女性職員に対し、「上司からの誘いについて嫌だったらはっきり断ってよいこと」「困ったことがあれば課長に遠慮なく相談すること」を徹底することを申し合わせた。さらに、丁田次長は、その直後、被告乙川に対し、課長会でこの申合せをしたこと、上司から誘われて嫌がっている女性職員が複数いることを報告し、暗に被告乙川を戒めた。なお、その後被告乙川から誘いを受けた女性職員があることは把握されていない(甲23、証人丁田)。
ケ 上記申合せがされた後、京都支店の女性職員相互の間で、被告乙川の行状が話題にされるようになった。原告は、ある先輩女性職員(以下「女性職員B」という。)から、被害の有無の確認を受け、本件各セクハラ行為について打ち明けた。これを聞いて憤った女性職員Bは、被告乙川の行状を被告銀行本店に内部告発する計画を立てた。原告は、迷ったものの、その女性職員Bに説得され、計画に協力すると返事した。
丙山課長は、同月二二日、女性職員Bから、「原告から被告乙川の行為について聞いた。許せない。丁田次長に報告した上でしかるべき措置を取ってもらう。」との申出を受けたので、女性職員Bに対し、原告がきちんと証言してくれるかどうかその意思を確認しておく必要があるとアドバイスした。女性職員Bは、翌二三日、丙山課長に対し、「原告が証言すると言っている。週明けにも丁田次長に報告する。」と伝えてきた。
女性職員Bは、同月二六日、丁田次長に対し、「京都支店の女性職員の中に、都ホテルのプライベートルームで被告乙川から身体を触られた者がいる。被害者の名前は明かせないが、確かな話なので、この話を本店に伝えてほしい。被告乙川にきちんと処分を下すために、証言していいと言っている人もいる。この話は丙山課長も知っている。」と訴えた。丁田次長は、直ちに丙山課長を次長室に呼んで、両名から事情を聴取したが、女性職員Bも丙山課長も、原告の氏名を明かさなかった。丙山課長は、事情聴取終了後、原告に対し、丁田次長が被告乙川の本件各セクハラ行為を本店人事局に報告した場合、原告が本店から事情聴取されることになるが、これに応じる意思があるか否かの確認をした。原告は、その場では、確たる返答をしなかったが、翌朝、丙山課長に電話して、自分一人が証言を求められるのは困ると答えた。丙山課長は、丁田次長に対し、被害者が証言しないと言っているので、本店人事局への報告書はとりあえず見合わせた方がよい旨進言し、さらに、「自分の方でちょっと考えるので、任せてほしい。」と頼んだ。そこで丁田次長は、事件の処理をとりあえず丙山課長に任せることとした。なお、そのころには、女性職員Bの態度は豹変し、かえって原告に対し、被告乙川の告発をあきらめるように説得を始めた。もっとも、それまで泣き寝入りしようと考えていた原告は、このことをきっかけにして被告乙川に対する怒りを強く自覚し、泣き寝入りはしないと考えるようになった(甲13、23、証人丙山、同丁田、原告本人)。
コ 丙山課長は、同年二月三日、被告本店に出向き、庚野経営管理局長を訪ね、原告の氏名を伏したまま、被告乙川の本件第一セクハラ行為を報告し、「被害者が調査を嫌がっているので、直接被害者から事情を聞く調査をしないでほしい。被告乙川を早く本店に引き揚げてほしい。」と訴えた。庚野局長は、直ちににその内容を理事に報告し、対応を協議した。この協議の結果を受け、被告銀行の横内人事局長が、丁田次長に被告乙川のセクシャル・ハラスメントの実情について京都支店内での調査を指示した(証人丙山、同丁田)。
サ 丁田次長は、直ちに調査を開始したが、同月七日から二三日まで丙山課長がいわゆるリフレッシュ休暇を取ったこともあって、同年三月三日にようやく調査報告書を完成させた。これによると、被告乙川によるセクハラの被害者は原告を含めて五名に及んだ。なお、その調査の過程で、丙山課長は、丁田次長に対し、初めて被害者が原告であることを明らかにした(丙一一、証人丙山、同丁田)。
シ そのころ原告は、被告銀行が被告乙川に対しておざなりの処分で済ますことを心配していた。丙山課長は、これを防ぐため、原告に対し、氏名を明らかにして自己の心情を手紙に書き、この手紙を本店に送ったらどうかと提案したが、原告はこれを嫌がった。そこで、丙山課長は、本店に対して、被告乙川によるセクシャル・ハラスメントの被害女子行員の叔母として、匿名による投書をし、被告乙川に対する毅然とした対応と処分を訴えた。(甲18、22、証人丙山)。
ス 被告銀行は、同年三月一一日付で、被告乙川を本店人事局参事に転勤させ、同月一三日、内部管理担当であった鴨志田理事に被告乙川から事情を聴取させるとともに、京都支店の行員との接触を禁止し、さらにてん末書を提出させた上、同月一九日、被告に対し、「京都支店長在任中、店内の複数の女性に対し、当人達の意に反した行為を繰返し、当人達の人格を深く傷つけるとともに、職場秩序を著しく乱したことは、支店長という枢要な地位にあるものとしてあるまじき行為であり、きわめて遺憾である。」との事由でけん責処分(非公表)をした(被告乙川は、このけん責処分を受けた結果、その退職は慫慂退職の扱いがされず、慫慂退職の場合に比べて退職金は二八〇万六一〇〇円少なくなった。)。もっとも、被告乙川は、予定どおり大阪証券取引所の常務理事として、いわゆる天下りをした(乙2、3、丙1、2、弁論の全趣旨)。
被告銀行は、後任の京都支店長を通じて、丁田次長に被告乙川に対する処分の内容を伝え、丁田次長は、丙山課長を通じて、この処分の内容を原告に伝えた。これを聞いた原告は、この処分が軽すぎるとして憤り、丙山課長に対し、せめてこの処分内容を京都支店内で公表すること及び被告乙川夫妻に京都支店の職員の前で謝罪させることを要求したところ、丙山課長は、これに難色を示し、今後は丁田次長と話をしてほしいと述べた。原告は、丁田次長に対しても同様の要求をしたが、丁田次長は、その要求の実現は困難であると述べるにとどまった(甲13、証人丙山、同丁田、原告本人)。
セ 被告銀行による被告乙川の処分に失望した原告は、同年四月ころから今後の対応を弁護士に相談するようになり、訴訟を起こすことも選択肢の一つとして考えるようになった。そして、職場の同僚にその場合の協力を頼んだところ、同僚達は原告を避け始め、原告は、職場で孤立感を深めた。他方で、原告は、その後も被告銀行内部にセクハラ問題について真剣に取り組もうとする姿勢が感じられなかったこと、丁田次長からは、一週間に二、三度の割合で次長室に呼び出され、優しい言葉をかけられたが、これを監視されているように感じ、被告銀行が自分の退職を待っていると感じられたことなどから、被告銀行内で働き続けることの展望が持てなくなり、退職を決意し、同年五月中旬、退職を申し出た。
2 本件第一セクハラ行為についての被告乙川の責任(争点1)
(1) 前記1(2)認定の事実によると、本件クラブにおける被告乙川の行為は、典型的かつ悪質なセクシャル・ハラスメント行為であるというべきであって、原告の人格権を侵害する不法行為に当たることは明らかである。
(2) もっとも、被告乙川は、前記認定に反し、非常に楽しい雰囲気の内で自然な形で原告にキスし、その胸を触ったのであり、原告は何ら抵抗せず被告乙川の行為を受け入れた旨主張し、被告乙川本人の供述中にはその主張に沿う部分があるが、前掲各証拠に照らし、その供述部分は到底信用できない。
なるほど原告は、被告乙川を押しのけたり、けとばすなどの断固たる拒絶行為には出ていないが、女性である原告としては、密室(被告乙川は、本件クラブは密室ではない旨主張するが、現に当時本件クラブには被告乙川と原告以外の第三者はいなかったのであり、初めて本件クラブに連れてこられた原告としては、他の客、ボーイやウェイトレスがどの程度の頻度で本件クラブ内に顔を出すのかも分からないし、声を出せばだれかが駆けつけてくれるか否かも分からないのであるから、原告にとっては密室と同然であったと考えられる。)において、断固たる拒絶行為に出た場合に、男性である被告乙川がどのような態度に出るか不安に感じるのが自然である。その上、被告乙川は、原告の人事も容易に左右できる京都支店の最高権力者であるから、このような立場に置かれた部下の女性である原告にとっては、被告乙川と決定的に対立することを避け、その体面を損なうことなく、いわばやんわりと嫌がっていることを伝え、セクシャル・ハラスメント行為をやめてもらいたいと考え、そのような行動にとどめたことは、やむを得ない対処方法であったというべきである。むしろ原告は、突然の事態で動転した精神状態の中で、考え得る限りの方法で、被告乙川に拒絶の意を伝えようとしたが、被告乙川は、原告が断固たる拒否ができない立場にあることを知って図に乗り、その行動をエスカレートさせたものであって、破廉恥といわざるを得ない(仮に、被告乙川が、断固たる拒否をしないことから原告の真意による合意があったと考えたのであっても、それは、被告乙川が、自分と立場の異なる人の気持ちが全く理解できない(あるいは理解しようとしない)ことを意味するにすぎず、原告の真意による合意があったと信じたことについて重大な過失があることが明らかである。)。
3 本件第二セクハラ行為についての被告乙川の責任(争点2)
また、前記1(2)、(4)で認定した事実によれば、被告乙川は、原告に対し、職場における上下関係を背景に、既に本件第一セクハラ行為による被害を受けており、嫌がる原告をしつこく食事などに誘い、原告をして、これを角の立つ形で断れば、自分の労働条件ないし労働環境の悪化を心配せざるを得ないというのっぴきならない立場に追い込み、精神的苦痛を与えたもので、典型的なセクシャル・ハラスメントの一種というべきであって、これが原告の人格権を侵害する不法行為に当たることは明らかである。とりわけ、本件においては、原告は、既に本件第一セクハラ行為の被害を受けているから、その後の誘いは、これに応じれば本件第一セクハラ行為と同様ないしそれ以上の被害を受けることを想像させるものであって、その苦痛は深刻なものであったと考えられる。
なお、被告銀行は、本件第二セクハラ行為は、原告に対する新たな人権侵害行為とは評価できない旨主張するが、前記説示のとおり、その主張は採用することができない。
4 被告銀行の責任(使用者責任について)
(1) 本件第一セクハラ行為について
本件第一セクハラ行為は、勤務時間外に、職場でなく、本件クラブで行われたものである。しかしながら、前1(1)ないし(4)認定の事実によると、①被告乙川は、かねて職場内のコミュニケーションを図るためと称して女性職員と二人だけで食事に出かけており、「△△」での食事の誘いもその一環としてのものであったと考えられること、②被告乙川は、原告を「△△」での食事に誘った目的は「部下との意思疎通を図ることと、原告が書類整理で頑張ってくれたことに対する感謝の意を表すこと」であったと主張していること、③被告乙川は、勤務時間中に原告を支店長室まで呼び出して、日程を決めたこと、④原告が食事の誘いに応じた理由は、所属する京都支店の最高責任者である被告乙川に自分を理解してもらい、働きやすい環境をつくりたいと考えたためであること、⑤本件クラブは、都ホテルにとっての重要人物しか利用できない部屋であって、被告乙川は、被告銀行の京都支店長であるからこそこれを利用できたものであること、⑥被告乙川は、本件クラブを、仕事上の打ち合わせや接待、京都支店の行員らとの飲み会の二次会などに頻繁に使用していたことなどの事実を指摘することができ、これらの事情を総合勘案すれば、本件第一セクハラ行為は、被告乙川の京都支店長としての職務と密接に関連するものと認めるのが相当であるから、これによって原告が被った損害は、被告乙川が被告銀行の事業の執行につき加えた損害に当たるというべきである。
(2) 本件第二セクハラ行為について
本件第二セクハラ行為は、被告乙川が、勤務時間中に、京都支店内で、支店長室から京都支店の内線電話や電子メールシステムを利用して行ったものであることを考慮すると、被告乙川の職務と密接に関連するものと認めるのが相当であるから、これによって原告が被った損害は、被告乙川が被告銀行の事業の執行につき加えた損害に当たるというべきである。
(3) よって、被告銀行に対するその余の責任原因について検討するまでもなく、被告銀行は、民法七一五条に基づき、被告乙川がした本件各セクハラ行為によって原告が被った損害を賠償する責任がある。
5 原告の損害
(1) 本件各セクハラ行為と原告の身体的不調との間の因果関係
ア 証拠(甲7、乙24)によると、原告の身体的不調に関して、次の事実を認めることができる。
(ア) メニエール病は、目まい発作、難聴、耳鳴りの三つを主たる症状とする疾患であるが、メニエール病以外の疾患であっても、これらの三つの症状を有する疾患をメニエール症候群という。そして、耳鳴り、難聴があるが目まい発作がないなど、メニエール病の典型的症状が現れない疾患を、メニエール病類似疾患という。
(イ) メニエール病及びメニエール病類似疾患の病因は、蝸牛及び前庭膜迷路内の内リンパ液の増大すなわち内リンパ水腫であって、蝸牛管や半規管膨大部の内リンパ圧の上昇が内耳有毛細胞の異常興奮を引き起こし、目まい発作、難聴、耳鳴りが生じるものと考えられている。この内リンパ水腫の発生因子としては、自律神経障害、内耳循環障害、体内ホルモン環境の異常、塩分代謝の異常、遺伝的素因等が挙げられるが、臨床的には、疲労、精神的ストレスが引き金となって発症することが多い。
(ウ) メニエール病の聴覚障害の一つに低音障害型感音難聴がある。メニエール病の初期には、低音障害型感音難聴のみが生じ、目まい発作及び耳鳴りを自覚しないことが多い。
(エ) 甲田医師は、原告の家族歴、既往歴について、メニエール病に関して特に着目すべき点はないと考えている。
イ 以上の事実に、前記1(1)、(2)、(4)認定の原告の身体的不調が生じるまでの経過と併せ考えると、原告は、本件第一セクハラ行為及びこれに続く本件第二セクハラ行為による精神的ストレスによって低音障害型感音難聴を発症したものと認めるのが相当である。被告乙川は、上記難聴の発症には、原告の気質が寄与している旨主張するが、その主張を認めるに足りる証拠はない。
(2) 本件各セクハラ行為と原告の退職との因果関係
ア 本件各セクハラ行為後、原告が退職するに至る経緯は、前記1(5)認定のとおりである。そして、これらの事実に証拠(甲24ないし26、40、41)によって認められる性的被害者の心理状態についての近年の研究の成果を総合勘案すれば、被告乙川の本件各セクハラ行為と原告の退職との因果関係については、次のとおり認めるのが相当である。
(ア) 原告は、本件第一セクハラ被害に遭って以来、悔しさと今後も被告銀行で働き続けたいという思いで心が千々に乱れたが、ともかくも一旦は、今後も被告銀行で働き続けるために泣き寝入りしようと考えた。これには、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の一症状である「回避」、すなわち「外傷体験と関連した思考、感情、会話などを持続的に回避しようと努力する」症状の現れであるとも理解できる。
(イ) しかし、いったん結論を出したとしても、それで心が平静でいられるはずもなく、職場では、引き続き被告乙川から、誘いがかかり、これから逃れることができないこと、この誘いを被告乙川の感情を害することなく断らなければならないこと、他方、丙山課長からははっきりと断るようにとの指示(原告には圧力と感じられる。)がされたこと、夫にもセクシャル・ハラスメント被害を内諸にしていたことなどから、原告が受け続けたストレスは多大なものであり、それが低音障害型感音難聴の発症につながった。
(ウ) 原告が本件第一セクハラ行為の被害にあった後も苦しみ続けなければならなかった原因については、被告銀行のセクシャル・ハラスメント対策が不十分であったことを指摘しないわけにはいかない。
丙山課長は、主観的には、原告を親身に心配し、原告のために熱心に動いたものと評価できる。しかし、客観的には、その対応は、セクシャル・ハラスメント被害者に対する対応としては適切なものではなかった。すなわち、丙山課長は、原告が「そっとしておいてください」と言ったので、平成一〇年一月末まで、原告を叱責して新たなストレスの原因を作るのみで、ほとんど何らの措置を執ることなく時間を空費した。しかし、原告に必要だったのは、プライバシーや秘密が厳守されるとの安心感のもと、原告の訴えに真摯に耳を傾け、丁寧に話を聞いてくれ、これによって心が整理され、真に自分が望む解決方法を自覚できる相談相手であった。このような相談者がいた場合に、原告がその相談者に対する相談をも避けたとは考え難い。
このような丙山課長の対応の不適切さは、セクシャル・ハラスメント問題について特別な研修を受けたこともない丙山課長としてはやむを得ないものであって、これは丙山課長個人の問題ではなく、被告銀行全体のセクシャル・ハラスメント問題への取組姿勢の問題であったというべきである。
なるほど、被告銀行は、平成九年九月、本店人事局総務課にセクハラ相談窓口を設置し、そのことを各管理職に通知した(丙5、6)が、被告銀行内でのセクシャル・ハラスメント問題についての関心の低さもあって、丙山課長は、その窓口のことを知らず(ちなみに、被告乙川もそのことを知らなかった)、その窓口に原告に対する対応の方法を相談することも思いつかなかったのである。(証人丙山、同丁田、被告乙川本人)。
(エ) 被告銀行本店としては、丙山課長の直訴により被告乙川のセクシャル・ハラスメント行為を把握した後、迅速に被告乙川の処分にこぎつけたと評価できるが、原告から見れば、その処分内容は、微温的でおざなりなものと受け止めざるを得ず、とりわけ被告乙川が高額の退職金を受け取った後に、予定どおり高給が約束される天下り先に再就職することは我慢できないものであった。これに納得できない原告が、被告銀行内部の措置に限界を感じて外部の弁護士に相談するようになったのは、予想できる成り行きであったし、原告が訴訟をも視野に入れるようになると、セクシャル・ハラスメント問題に対する問題意識が低く、これに対して組織的に支援する雰囲気が醸成されていない被告銀行の職場で、原告が孤立することも予想できる成り行きであった。
(オ) このように考えると、当時の被告銀行の職場におけるセクシャル・ハラスメント対策に関する認識のレベルを前提にすれば、原告が、上記のような経過を経て退職にまで追い込まれることは十分ありうる結果であって、被告乙川の本件各セクハラ行為と原告の退職との間には、相当因果関係があるというべきである。
イ これに対し、被告らは、原告は、元々平成一〇年始めに予定されていた夫のシンガポール転勤を機会に被告銀行を退職し、夫とともにシンガポールに移住する予定をしていたもので、現に、被告銀行を退職した後シンガポールで居住しているのであって、本件各セクハラ行為と原告の退職との間に因果関係がない旨主張する。なるほど証拠(原告本人、証人丙山)によれば、①平成九年九月ころ、原告の夫に対し、その勤務先でシンガポール転勤の打診があったこと、②原告は、夫がシンガポールに転勤になれば、被告銀行を退職して家族で同国に移住するか、夫を単身で赴任させるか迷い、そのころ丙山課長に対し、もし夫がシンガポールに行くようなことがあれば、付いていくかもしれないとの話をしたこと、③丙山課長は、原告が退職する可能性が高いと考え、同年一〇月末ころ、丁田次長に対し、そのことを報告したため、丁田次長の腹案としてあった原告の京都支店内部での異動が見送られ、翌年度の昇格候補者からも原告が外されたこと、④平成一〇年二月二〇日、原告の夫がシンガポールの勤務先に転勤したこと、⑤原告は、被告銀行を退職後、夫とシンガポールで同居していること、以上の事実を認めることができる。これらの事実によれば、原告が退職した理由は、夫とともにシンガポールに移住することにあったのではないかとの疑いがないではない。
しかしながら、原告は、夫にシンガポールへの転勤の打診があって以来、被告銀行を退職するか否かで悩んでいたが、平成一〇年二月に転勤の辞令が出た際、その給与面での条件が予想よりもかなり低かったため、夫を単身赴任させ、被告銀行で働き続けることを決意した旨陳述する(甲13)。そして、証拠(原告本人)によって認められる次の事実、すなわち、①原告夫婦及び原告の親は、平成九年に原告の親の自宅を二世帯住宅に建て替え、原告家族は、同年一一月初めころ、新築家屋に転居し、原告の親と同居したこと、その目的は、原告が仕事を続けるために母に子供の面倒を見てもらうことにあったこと、②その住宅ローンの返済計画においては原告に収入があることが前提となっていたことをも併せ考えると、原告の上記陳述内容を採用するのが相当である。そうすると、原告は、夫のシンガポールへの転勤に伴っては退職しないとの結論を出したのであるから、その後、原告が退職を決断したのは、夫のシンガポール転勤とは直接には関係がなく、前記のとおりの理由によるものと認めるのが相当である(原告が、被告銀行退職後、シンガポールに転居しているが、それは、原告が被告銀行を退職した結果として、選択した方法であって、その事実によって、前記認定に影響を及ぼすものではない。)
(3) 損害額(争点3)
ア 逸失利益(争点3の(2) 原告主張額九三三万三八六〇円、認定額四六六万八九六〇円)
原告は、被告乙川の本件各セクハラ行為の結果、平成一〇年六月三〇日付で被告銀行を退職するのやむなきに追い込まれたものであるが、原告が被告乙川の本件各セクハラ行為及びこれに続く退職までの経緯によって受けた精神的な衝撃ないし疲労、原告が前記難聴のために平成一〇年九月二日まで投薬治療を受け、同年一二月一六日まで通院を続けたことを考慮すると、原告は、被告銀行を退職後の再就職を希望していたとしても、一般的に再就職に要する期間よりも長期間を要すると考えるのが自然であって、被告銀行を退職後一年間は就職することができなかったものと認めるのが相当であり、その間の得べかりし給与は本件各セクハラ行為と相当因果関係のある損害というべきである(なお、前記のとおり、原告は、被告銀行退職後、シンガポールで夫と同居しているが、本件による精神的な負担を受けたこともあって、その選択をしたのであるから、この認定に影響を及ぼさない。)。そして、弁論の全趣旨によれば、原告の平成九年度の年収は四六六万八九六〇円を下らなかったと認められるので、これと同額が原告が被った損害(逸失利益)となる。
イ 慰謝料(争点3の(1) 原告主張額一〇〇〇万円、認定額一五〇万円)
本件第一セクハラ行為は、被告乙川が京都支店で最高の地位にあることを背景にし、一従業員である原告にとってはその理不尽な要求に容易に抗い難い状況の中で行われた卑劣なものであり、その態様も悪質であること、本件第二セクハラ行為も、原告の精神状態を無視するか、若しくは全く理解せず、一か月余りにわたってしつこく行われたものであること、これによって、原告は精神的に苦しむのみならず、身体的不調にまで陥り、挙げ句に被告銀行の退職のやむなきにまで追い込まれ、その人生設計に大きな狂いを生じたこと、その他本件に現れた一切の事情を総合勘案すると、原告が被った精神的苦痛を慰謝するために金一五〇万円をもってするのが相当である。
ウ 弁護士費用(争点3の(3) 原告主張額一九〇万円、認定額六〇万円)
本件事案の性質、訴訟活動の難易、認容額、その他本件に現れた一切の事情を総合勘案し、被告乙川の本件各セクハラ行為と相当因果関係のある弁護士費用は、金六〇万円をもって相当と認める。
エ 謝罪文の交付及び掲示(争点3の(4))
民法七二三条は、名誉が害された場合に、裁判所が被害者の名誉を回復するための適当な処分を命じることができる旨を定めているが、ここにいう「名誉」とは、人がその人格的価値について社会から受ける客観的評価をいうと解されるところ、被告乙川の本件各セクハラ行為によって原告の客観的評価が毀損したとは認められない。
また、原告は、謝罪文の交付及び掲示を求める根拠として人格権を主張するが、人格権に基づいて謝罪文の交付及び掲示を求めることができるとしても、本件において、金銭による損害賠償のほかに謝罪文の交付及び掲示によらなければ回復し得ない損害を原告が受けたとまでは認められない。
第5 結論
以上の次第で、原告の被告らに対する請求は、六七六万八九六〇円及びこれに対する不法行為の後である平成一〇年六月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限りで理由があるからこの限度で認容することとし、その余はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六四条、六五条一項、仮執行宣言について同法二五九条にそれぞれ従い、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・水上敏、裁判官・井戸謙一、裁判官・田邉実)
別紙一〜三<省略>