京都地方裁判所 平成10年(ワ)198号 判決 2001年9月27日
原告
春川一郎
外2名
原告ら訴訟代理人弁護士
國弘正樹
同
大槻純生
同
藤田昌徳
同
橋本皇玄
被告
国
同代表者法務大臣
森山眞弓
同指定代理人
佐野年英
外6名
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告は、原告春川一郎に対し、2630万0722円及びうち2391万0722円に対する平成7年1月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告春川二郎及び同葉子に対し、それぞれ1315万0361円及びうち1195万5361円に対する平成7年1月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告の負担とする。
4 仮執行宣言
第2 事案の概要
本件は、被告が運営している国立療養所B病院(以下「本件病院」という。)が亡春川花子(以下「花子」という。)に対して行った左胸膜肺全摘除術に関する医療行為について、その手技の選択や実施等に過失があるとして、また、同手術についての担当医の説明に説明義務違反があるとして、花子の相続人である原告らが、被告に対して、診療契約の債務不履行ないし不法行為(民715条)に基づき損害賠償請求をするものである。
1 前提事実(証拠の記載のないものは当事者間に争いがない。)
(1) 当事者
ア 原告春川一郎(以下「原告一郎」という。)は、花子の夫であり、原告春川二郎及び同春川葉子は、花子の養子である。
イ 被告は、本件病院を設置・運営している。
(2) 本件病院受診までの経過
ア 花子は、昭和20年代、肺結核症に罹患し、昭和37年4月から昭和40年11月25日まで、本件病院に入院し、化学療法を受け、以後、年に1回、同病院で検診を受けた(乙1 3頁)。
イ 花子は、平成6年9月6日、本件病院外来呼吸器内科で受診し、約2か月前より左季肋部に腫脹があり、咳・痰・発熱症があると訴え(乙1 64頁)、CT等の検査を受けた。
ウ 胸部レントゲン、CT等の検査結果から、左季肋部に腫瘤と膿胸の存在と腫瘤の増大が認められたため、花子は、平成6年9月13日、本件病院呼吸器外科甲野太郎医長(以下「甲野医師」という。)の診察を受けた。その結果、左胸壁外瘻を有する膿胸の疑いがあり、膿胸の治療と腫瘤が悪性(癌)か否かの診断のため、入院治療を受けることとなった(乙1 64〜67頁)。
エ 花子は、平成6年9月19日、本件病院に入院し、甲野医師は、執刀医として、同年10月3日、切開排膿解放創手術を施行し、平成7年1月30日、左胸膜肺全摘除術(以下「本件施術」という。)を施行した。
オ 花子は、本件施術中、肺動脈損傷により大出血し、死亡した(死亡時刻は午後6時25分)。
(3) 診療経過は別紙診療経過一覧表のとおりである。
(4) 文中の医学用語
%肺活量:肺活量(VC)は肺機能の重要な指標の1つであるが、肺機能が正常でも身長、年齢、性別などにより異なる数値を示すため、被験者と同一条件の健康者の平均肺活量(予測肺活量)と比較して%肺活量(%VC)を出し、肺機能の評価に用いる。
予測肺活量1秒率(指数):%肺活量と1秒率を組み合わせた指標であり、肺活量を気道閉塞の状態を総合的にみる指標として、身体障害者の認定等に用いられる。換気機能障害を判定する代表的な指標。
膿胸:胸腔内に膿を貯留した状態をいう。
慢性膿胸:急性膿胸の治癒が遷延したものか、あるいは結核性である。
結核性膿胸:結核性胸膜炎、あるいは肺結核治療の目的で実施した人工気胸後の胸膜炎から移行する。多くは十数年以上の長年月の後に発症する。著名な蓄膿を有するにもかかわらず症状を呈しないものは潜在性膿胸と称される。慢性膿胸では蓄膿が大量になると呼吸困難、胸痛を生じ、肺に穿孔すると大量の膿が喀出されるようになる。慢性膿胸の治療は急性膿胸に比し困難である。
肺血管の切断法のうち
① 二重結紮法:最も普通に行われる結紮切断法で、中枢側を二重結紮、末梢側を一重結紮し、その間で切断する。
② 血管鉗子を用いる方法:肺動静脈左右本幹、またはまれに葉枝の切断に際し、二重結紮するに充分な長さをとれない場合に用いられる方法。
血管鉗子:ある程度の太さをもった動脈あるいは静脈の血流を遮断するために用いられる鉗子をいう。
心嚢:心膜と同意。
2 争点
(1) 手術選択における過失の有無
(2) 術前管理における過失の有無
(3) 血管閉鎖方法選択の過失の有無
(4) 結紮前の肺動脈血管の剥離における過失の有無
(5) 止血における過失の有無
(6) 説明義務違反の有無
(7) 上記(1)ないし(6)のいずれかが認められた場合の原告らの損害
3 争点についての当事者の主張
(1) 争点(1)(手術選択における過失の有無)について
【原告らの主張】
以下のとおり、甲野医師が、左胸膜肺全摘除術を選択・実施したことには過失がある。
ア 左胸膜肺全摘除術の手術適応判断の誤り
(ア) 医学上、余命十年前後の高齢者に対する手術、特に良性疾患である慢性膿胸の手術適応決定、術式の選択には、呼吸不全の防止を最重要課題において考えるべきとされ、慢性膿胸症は、既に高度の換気障害を有しており、手術の失敗により再手術となれば、骨性胸郭の犠牲を避けられず、即呼吸不全を招来する可能性があるから、高齢者では、侵襲の少なく、かつ、手術の失敗に備え、二の矢のある術式を選択すべきであり、侵襲の大きい胸膜肺全摘除術の選択には慎重であるべきである。
また、呼吸機能上からみた一側肺の胸膜肺全摘除術の適応限界は、%肺活量で40%、予測肺活量1秒率(指数)で25%とされているから(甲17)、上記指数がこれを下回る場合には、一側肺の胸膜肺全摘除術をすべきではない。
(イ) しかるに、花子の年齢は、本件施術当時、65歳11か月であり、また、平成7年1月25日に実施された呼吸機能検査の結果は、①%肺活量27.7%②予測肺活量1秒率(指数)22.5%であった(乙2 180頁)。
(ウ) 上記呼吸機能検査結果及び花子の年齢からすると、左胸膜肺全摘除術の手術適応は認められない。
イ 余命期間と本件施術の危険性との比較考慮の怠り
甲野医師は、本件施術を選択するに当たり、左胸膜肺全摘除術をせずに膿胸腔開放術とその後の化学療法を実施した場合の余命期間と本件施術の危険性の程度を比較することなく、本件施術を選択した。
ウ 手術間隔の不適切
膿胸腔開放術と左胸膜肺全摘除術との間には、少なくとも6か月間経過していることを要する。しかるに、膿胸開放術の施行と本件施術の施行の間は4か月程度に過ぎない。
エ 施術効果の判断の誤り
荒蕪肺で換気が全くない左肺を摘出しても、無効換気の改善効果が得られるはずはない。
【被告の主張】
ア 左胸膜肺全摘除術の適応について
(ア) 花子の左肺は、全く含気のない荒蕪肺であり全膿胸であった。したがって、甲野医師は、第1期手術で胸壁膿瘍に対して胸壁の炎症による出血を避けるために切開解放創手術を行って膿胸腔にドレーンを入れた上、膿胸と共に肺を合併切除する本件施術を行ったのであり、その手術適応判断には誤りがない。
(イ) 平成7年1月25日に実施された血液ガス検査によれば、PCO2:52.5%、PO2:84.7%、HCO2:24.7%、SAT:94.7%であり(乙2 145頁)、若干低値であるものの、酸素吸入を必要としない程度であった。
また、院内散歩等でチアノーゼは出現せず、麻酔医の術前回診でも問題はなく、手術麻酔に耐えられる状態であった。
一側胸膜肺全摘除術を選択・実施するには、予測肺活量1秒率(指数)が25%以上あることが許容基準とされているわけではなく、望ましい数値とされているにすぎない(乙7 701頁)。
(ウ) 花子の予測肺活量1秒率(指数)は22.5パーセントであったが、無効換気の状態である荒蕪肺切除により術後の肺機能はむしろ改善する症例であった。また、上記指数の数値と本件事故とは直接の因果関係を有しない。
イ 余命期間と本件施術の危険性の比較考慮について
花子の症例は、膿胸開放術とその術後の化学療法によって肺機能を改善できず、左肺の結核病巣の拡張により、生命の危険が増悪することが明らかであった。
本件事故の発生は、肺動脈血管の脆弱化という予見不可能な原因によるものであったことから、術前における本件施術の危険性の程度と本件施術を施行しない場合の生命の危険の増悪の程度を比較すれば、本件施術の必要性は明らかである。
ウ 手術間隔について
慢性膿胸の場合は、膿胸開放術と胸膜肺全摘除術をするまでの期間は、約4か月間で十分である。
エ 施術の必要性について
慢性膿胸を根治しない場合は、以下の危険性がある。
慢性膿胸では、肺胸膜上に発生した線維素性被膜が著しく肥厚し、石灰沈着が起き、肺の膨張が全く阻害される。また壁側胸膜にも著しい肥厚が起き、胸壁の呼吸性拡大を阻害し、胸壁の萎縮を招く。慢性膿胸の臨床症状としては、膿汁成分の吸収による中毒症状と、肺の圧迫による呼吸障害が主である。中毒症状としては、微熱、全身倦怠、食欲不振、体重減少などを訴える。胸部では、患側胸郭の萎縮・扁平化、肋間腔の狭小化、脊椎側弯症などがみられる。呼吸機能は障害され、ばち状指がみられる。慢性膿胸の中には、著明な蓄膿にもかかわらず、時に胸痛や発熱をみるのみで、長年経過する潜在性膿胸があるが、ある時期に急激な進展を示したり、肺の穿孔が起き、膿胸内容の多量の喀出が始まる等することがある。このような穿孔の原因は、石灰化肺胸膜が断裂することにあると考えられている。慢性膿胸が長期にわたり存在することで、肝・腎障害、免疫能の低下などをきたすから、他疾患発生時の危険が高い(乙13 354頁)。
したがって、本件施術により、慢性膿胸を根治する必要があった。
オ 施術効果について
本件施術により、左肺気管支腔の死腔の減少効果、すなわち、呼気のうち左肺へ流出していたものが無くなり、呼気はすべて右肺に送られることから、効率が良くなることが期待できた。
カ 鑑定の結果(平成12年9月21日付けの鑑定書に記載された結果。以下、同書面を「鑑定書」という。これに記載された鑑定人の見解を「鑑定意見」という。)について
(ア) 鑑定意見は、「一側肺手術を行う場合、乙15(結核病学―《基礎・臨床編》)の手術の機能的適応限界によるとして、摘出後の予測肺機能を重視すること並びに一側肺動脈閉塞試験及び肺血流シンチの検査を考慮すべきである。」とする(鑑定書3頁)。
本件では、胸部CT検査、肺動脈造影検査により、左肺が全膿胸で全く含気のない荒蕪肺であることが判明しており、一側肺動脈閉塞試験及び肺血流シンチの検査をする必要はない。
(イ) 鑑定意見は、本件施術につき、安全限界以上の症例に比べると危険性は高いといえるかも知れないと述べる一方で、「機能していない荒蕪肺を全切除しても、術後遠隔期の肺機能はほとんど変わらない、呼吸困難症状も、変化がないか改善することもある。」と述べる(鑑定書5頁)。
(2) 争点(2)(術前管理における過失の有無)について
【原告らの主張】
左胸膜肺全摘除術においては、経験上、大量出血の可能性を十分に予見し得ることから、予め、人工心肺装置や輸血用血液の準備、応援医師の確保をすべき義務があるのに、甲野医師は、これを怠った。
ア 人工心肺装置について
人工心肺装置は、持ち運び容易であるし、人工心肺の装着も困難ではなく、装着に要する時間は30分程度である。
本件においては、大量出血した箇所を圧迫止血しながら、他の病院から人工心肺装置を運び、これを装着することは十分可能であった。
仮に本件において人工心肺装置が装着されておれば、止血可能であり、救命が可能であった。
イ 輸血用血液について
甲野医師は、大量出血後、止血が困難になってから、輸血用血液の追加を求めた。これは、輸血用血液が十分に準備されていなかったことを窺わせる事実である。
ウ 応援医師の確保
(ア) 本件施術の執刀医は甲野医師であり、助手として乙野医師がいたが、本件施術が大手術で大量出血も当然予見し得たことから、助手が1人では不足であった。
(イ) 少数の執刀医で本件施術を施行するのであれば、事前に応援医師を確保しておくことが要請される。ここにいう応援医師とは、胸膜肺全摘除術の経験や専門的知識を有し、かつ、執刀医の要請があれば、直ちに手術室に赴き得る場所で待機している者でなければならない。しかるに、甲野医師が応援を要請した乙野医師の専門は脳外科であり、W医師及びP瀬医師は、本件施術時、××大学にいたことから、応援医師としての適格性を欠いていた。
【被告の主張】
本件のように、糸切れによる、肺動脈からの出血は予見不可能であったから、これが、予見可能であることを前提とする原告らの主張は理由がない。
ア 人工心肺装置について
(ア) 人工心肺装置は、直視下心臓内手術、冠動脈バイパス手術、胸部大動脈瘤手術などで、心血流遮断を安全に行うことを目的とした体外循環に用いる装置であるから、本来、肺の手術で用いられるものではない。
(イ) 心臓機能に異常のない患者に対し、心機能を停止させ体外循環を行う必要性はなく、かかる場合に、人工心肺装置を用いることは、患者に余計な苦痛を与え、体力を消耗させるだけであるところ、花子の心臓に疾患はなかった。
(ウ) 本件において、仮に人工心肺装置を用いるとすれば、肺動脈が切断されているため、体外循環式人工心肺装置でなければならない。体外循環式人工心肺装置は約200キログラムあり、持ち運びには4、5人を要し、その装着には、5、6時間を要し、可動させるためには、最低、臨床工学士1名、心臓外科医師2名を要する。
また、体外循環式人工心肺装置の装着は、上下大静脈に脱血管を、大動脈に送血管を接続する(カニュレーション)ことにより行うところ、本件施術の術式体位は、右方を下位にする側臥位で、左背部からの切開術式であったことから(乙16 214、215頁)、上記接続をするためには体位変換をする必要があった。しかし、左背部から手で止血圧迫をしながら、仰臥位に体位変換し、縦隔切開して上記接続をすることは不可能である。
イ 輸血用血液について
本件のごとく、肺動脈の糸切れによる出血は予測外のことであるが、甲野医師は、本件施術には、通常、胸膜からの出血の危険があるため、濃厚赤血球200ミリリットルを10単位、合計2000ミリリットルを準備した。この量は、胸膜肺全摘除術の輸血用血液としては多いものである。
ウ 応援医師の確保について
本件病院は、緊急時に、勤務医師の非常招集をかけられる体制を整えており、本件施術当時、脳神経外科医師3名、整形外科医師3名の応援を要請できる態勢になっていた。本件施術から通常予想される危険性に照らせば、十分な態勢であった。
(3) 争点(3)(血管閉鎖方法選択の過失の有無)について
【原告らの主張】
ア 肺動脈血管の脆弱さとその予見可能性について
(ア) 花子の肺動脈血管は、繊維性結合繊のみによりなっており、弾性繊維を欠き、機械的刺激に対して脆弱化していた(乙3 2頁備考欄)。
(イ) 肺動脈血管は、太いが薄くて弱い血管の代表であるところ、花子は、高齢で、肺動脈の血流が悪く、未使用に近い状態にあったことからすれば、肺動脈血管の脆弱化が予想された。
(ウ) 外科手術の経験を積んだ医師であれば、通常、肺動脈血管の感触から、血管の状態、血管の脆弱化の有無・程度等について判断することは、さほど困難ではない。そして、甲野医師は、外科手術の経験が豊富であり、本件施術の際、肺動脈血管の感触から、同血管が脆弱化していることを予見することは、経験上、十分可能であった。
イ 血管閉鎖方法選択の過誤
血管が脆弱化していると判断した場合に用いるべき血管閉鎖方法は、血管縫合閉鎖(針と糸とを使用して血管の切り口を縫い合わせる方法)である(甲11、12参照)。
甲野医師は、上記のとおり、肺動脈血管の脆弱化を予見し得たのであるから、血管縫合閉鎖を選択・実施すべきであったのに、糸での結紮をし、肺動脈の糸切れを生じさせた。
【被告の主張】
ア 肺動脈血管の脆弱化の予見可能性について
(ア) 甲野医師は、肺動脈を結紮、切断するに足りる長さを確保するため、周囲の組織から丁寧に剥離したが、肺動脈を目視しても、今までの血管と変わりはなく、指又はケリーで触れたが、肺動脈血管の脆弱化を予見できなかった。
(イ) 甲野医師は、本件施術までに、荒蕪肺の全摘手術を数多く実施してきたが、結紮により肺動脈が切断された事案は全くなかった。
(ウ) 肺動脈は、外膜、外弾性板・筋層・内弾性板を有する中膜と内膜の三層構造から成り、通常、結紮により糸切れすることはない。
(エ) 鑑定意見は、肺動脈肺門部の脆弱化の有無を術前に予見する方法はないとし、開胸後は、ある程度は予見可能だが決定的とはいえないとする(鑑定書5頁)。上記開胸後の予見がある程度は可能という意味は、肺動脈の中枢寄りからの閉塞で虚血性の変化が血管の表面にまで及んでいる場合なら、ある程度は目視可能であるが、そうでない限り、脆弱化を認識することは不可能であるという意味である。
イ 血管閉鎖方法の選択について
(ア) 甲野医師が用いた二重結紮法は、最も普通の結紮切断法である(乙17 148頁A)。血管鉗子を用いる方法は、肺動静脈左右本幹、又はまれに葉枝の切断に際し、二重結紮するのに十分な長さをとれない場合に採用される方法である(乙17 150頁C)。
本件においては、左肺動脈について、心膜の基部から3センチメートルを超える長さの剥離を行い、結紮するに十分な長さを確保できたから、血管鉗子を用いる方法を選択する理由はなかった。
(イ) 鑑定意見は、「一般的には糸切れしない範囲で結紮が行われ、肺動脈が切断されている。」として、本件施術における二重結紮に問題がないとしている(鑑定書5頁)。
(ウ) 本件においては、止血の際に用いた血管鉗子による圧迫や用手圧迫によっては、通常、形成されない裂傷(乙2 17頁 乙19参照)が発生したものであり、これは、肺動脈の脆弱化が原因と考えられる。
したがって、仮に、血管鉗子を用いる方法を実施していたとしても、肺動脈を切断した可能性はあり、本件事故を回避できたとはいえない。
(4) 争点(4)(結紮前の肺動脈血管の剥離における過失の有無)について
【原告らの主張】
ア 甲野医師は、花子の肺動脈血管が脆弱化していることが予見可能であったから、肺動脈を結紮する際に生じ得る糸切れに備えて、肺動脈血管の剥離を十分に行う義務があった。
イ しかし、甲野医師は、肺動脈血管の剥離を十分に行わずに結紮をしたため、肺動脈の糸切れに対して十分な止血行為をすることができなかった。
【被告の主張】
ア 甲野医師は、肺動脈血管の脆弱化を予見することはできなかった。
イ 甲野医師は、中枢側は、心膜まで剥離し、末梢側は、左肺動脈の分岐点を超え、物理的に剥離し得る最大限の範囲を露出し、中枢側に2か所、末梢側に1か所、結紮を行い得る3センチメートルを超える長さにわたり剥離した。この長さは、結紮に十分な長さである(乙12 363頁)。
(5) 争点(5)(止血における過失の有無)について
【原告らの主張】
ア 医師は、肺動脈の結紮切断による出血の場合、適切な止血方法を選択し、最善の注意をもって慎重かつ適切な止血をする義務がある。
イ 甲野医師は、肺動脈からの大量出血を止血するに当たり、不適切な止血をし、花子を出血死させた。
【被告の主張】
ア 甲野医師は、出血した直後、ガーゼタンポナーゼとともに血管縫合も準備したが、大量の出血により視野が妨げられたため、吸引ガーゼ用手圧迫止血をし、また、血管鉗子による止血を試みたが、肺動脈血管切断による血管収縮のため、鉗子をかけることができなかった。
そこで、ケリーやリスター等の鉗子による止血を試みた。さらに応援医師到着時、心膜を開き心臓基部での止血を試みたが、止血に至らなかった。実際は、既に心嚢内肺動脈基部において、血管切断面とは接続しない長軸方向の裂傷があり(乙2 17頁、乙19の図参照、同裂傷は、心停止後に確認した。)、上記裂傷からの多量の出血が止血不能に至った原因である。
仮に止血医師が多数いたとしても、上記の方法で止血するほかなかった。
イ 鑑定意見は、左肺動脈肺門部が糸切れした場合は、「まずは用手的に圧迫止血を行いながら、損傷部位の上流を血管鉗子で閉塞させることである。」とする。そして、「心嚢外で止血することが困難な場合は心嚢を切開して心嚢内の左主肺動脈を血管鉗子で閉塞することである。」とする(鑑定書6頁)。上記甲野医師の止血も、これに沿うものである。
(6) 争点(6)(説明義務違反の有無)について
【原告の主張】
ア 説明義務の内容・程度について
(ア) 医師が、生命の危険を伴う手術を実施するに際しては、原則として、患者あるいはその家族に対し、患者の病状、手術の内容、手術による症状改善の程度、手術をしない場合の症状の程度、余命年数、手術における生命の危険性につき、患者にあえて危険を伴っても手術を受けるか否かを自由かつ真摯に選択できるよう十分説明する義務があり、手術における生命の危険性については、単に一般的危険性だけでなく、その施設における過去の実績についても説明する義務がある。
(イ) 胸膜肺全摘除術には、死亡例が相当あり、予期せぬ出血等により、生命の危険を伴う。鑑定意見は、「本件のような出血によるtable deathの可能性は他の81例にもすべて同程度にあると思われる。」、「術後合併症としては出血、肺炎、気管支断端瘻……膿胸の再発などがあげられ、これらが発生した場合、すべて死につながる可能性がある。本症例は、肺機能が許容限界に近い……ので、安全限界以上の症例に比べて危険性は高いといえるかも知れない。」とする(鑑定書4、5頁)。
したがって、甲野医師は、花子や原告らに対し、本件施術前に、上記のような危険性を十分に説明すべき義務があった。
(ウ) 左胸膜肺全摘除術後、花子が体力を回復することは極めて厳しいものがあった。すなわち、胸膜肺全摘除術後の肺機能は、術前に比べ20〜30%低下するところ、術前の花子の予測肺活量1秒率(指数)は、手術安全限界を下回る22.5%であった。そして、本件施術における長時間の麻酔、大量の輸液・輸血や極めて大きな手術侵襲によって、肺機能を含めて全身の機能は、低下するから、花子が、術後、体力を回復できない可能性は非常に高かった。鑑定意見は、「結核性荒蕪肺、膿胸で保存治療が無効な場合、肺全摘が唯一の治療法であるが、その手術侵襲は大きく術後の呼吸不全発生も問題となる」(鑑定書2頁)、「本症例は、肺機能が許容限界に近いので、安全限界以上の症例に比べて危険性は高いといえるかも知れない。」(鑑定書4、5頁)とする。
したがって、甲野医師は、花子や原告らに対し、本件施術後、体力の回復に不安があることを説明すべき義務があった。
イ 甲野医師の認識と説明内容、花子の同意について
甲野医師は、本件施術が、医学上、極めて危険な手術であるという認識を有しておらず、本件施術後の花子の体力回復にも危惧を抱かなかった(証人甲野)。したがって、甲野医師は、これらの点につき、具体的説明をしていないのである。仮に、甲野医師が、花子、原告一郎らに対し、本件施術には、出血により死に至る可能性があること、体力が回復しない不安があることについて、具体的な説明をしていたとすれば、花子は、本件施術に同意しなかった。
甲野医師の具体的な説明内容は以下のとおりである。
(ア) 平成6年9月30日の説明について
甲野医師は、平成6年9月30日、花子および原告一郎に対し、本件施術に関して説明した。その説明は、手術を2期に分けてする必要性や第1期手術(開放創による手術)の内容を主とし、本件施術(第2期手術)についてはされなかった。
カルテの同日付けの箇所には、第1期手術の内容につき説明したという記載があるのみで、本件施術に関する記載はない。これは、原告一郎が、手術の危険性についての説明はなかったと陳述していることと符合する(甲18)。
(イ) 平成7年1月10日の説明について
a 甲野医師は、平成7年1月10日、花子、原告一郎及び夏山一太(花子の兄、以下「夏山」という。)に対し、左胸膜肺全摘除術について、手術名を難易度の低い肺全摘出として説明したが、予期せぬ出血で死に至る可能性があることや、手術が成功しても、体力が回復しない不安がある等リスクの高い手術であること、本件施術をせずに保存的治療を続けた場合の余命期間について説明しなかった。
b 看護記録の上記同日の箇所には、甲野医師の説明と原告らとの応答の要約が記載されているものの、危険な手術であるとか、リスクの高い手術であるという記載はない。また、同記録には、花子らが「先生の話を聞いて安心しました」と述べた旨記載されているが、同記載は、甲野医師が、手術の危険性につき説明しなかったことを示すものである。
c 花子の手帳の上記同日欄には、「兄、原告一郎、風子さん甲野医師と話し合う、1月30日手術決まる」と記載されており(甲16)、手術の説明に対して全く不安を抱かなかったことが窺われる。また、原告一郎らが平成7年2月22日付けで甲野医師に対して送付した手紙には、「手術について大丈夫ですとの確信が与えられただけで、生じ得る危険について全く説明がなされませんでした。それはなぜですか。」と記載されている(甲13)。
(ウ) 平成7年1月27日について
a 原告一郎は、平成7年1月27日、甲野医師に面会し、同月30日に実施予定の本件施術の成功をお願いした(甲18 2頁、原告春川一郎本人《以下「原告一郎本人」という。》)。甲野医師は、上記の際に原告一郎に対し、本件施術に関する説明をしなかった。
原告一郎は、平成7年1月28日、手術承諾書に署名・押印したが、このとき、手術承諾書には「左肺全摘除術」という記載はなかった。
b 甲野医師は、上記同日、Z看護婦同席の下、原告一郎らに対し、本件施術について説明した旨証言する(証人甲野太郎《以下「証人甲野」という。》)。
しかしながら、看護記録、カルテ、花子の手帳には、上記説明についての記載はない。また、甲野医師は、上記同日の説明に際し、30分近く遅れてきた花子の親戚がいたと証言するが、これ自体不自然である。
したがって、甲野医師の上記証言は信用できない。
【被告の主張】
ア 胸膜肺全摘除術における出血の危険性と説明程度について
(ア) 鑑定書において引用されている82例のうち、手術中の出血による死亡例は、本件のみである。また、胸膜肺全摘除術の症例は少なく、手術適応に関するガイドラインはなく、術者が経験に基づき高度なレベルで症例毎に判断しているところ(鑑定書5頁)、甲野医師は、本件施術前、荒蕪肺の全摘除術を数多く実施したが、結紮により肺動脈が切断された事案は全くなかった。
したがって、本件施術において、出血による死亡の危険性は一般的に低かったといえる。このような危険性が低い場合をことさら取り上げて、詳細に説明する義務はない。
(イ) 花子及び原告一郎らは、胸膜肺全摘除術が、肺という心臓に最も近く、身体の枢要部の臓器を切除する手術であることから、予期せぬ出血等によって生命のリスクもあり得ることを理解していたはずである。
イ 本件施術後の体力回復と説明程度について
本件は、肺機能低下もなく、術後の体力回復は十分に得られた症例である。すなわち、花子は、呼吸機能の点からみると、本件施術前、右肺には問題はなく、左肺は悪影響を及ぼすだけであった。そして、術前の予測肺活量1秒率(指数)22.5%は、許容限界内である(乙15 266頁)。なお、乙7、701頁に「この手術による術後の肺機能低下は術前値の20〜30%であった」と記載されているものの、同数値の根拠とされる文献(乙7 705頁注89)における対象症例は、荒蕪肺か否か明らかではなく、一部肺機能が残存していた症例を含むものと考えられ、荒蕪肺を摘出した本件の症例にあてはまるものではない。
したがって、本件施術において、術後の体力回復に不安があることをことさら説明すべき義務はない。
ウ 保存的治療を続けた場合の余命期間についてのデータはなく、それを説明することは不可能である。
エ 以下のとおり、甲野医師は、説明すべき事項をすべて説明した。
なお、本件施術の必要性からすると、説明内容にかかわらず、本件施術を実施すべきであった。よって、仮に説明義務違反が認められるとしても、同義務違反と花子の死との間に因果関係はない。
(ア) 平成6年9月19日の説明について
甲野医師は、花子及び原告一郎に対し、「流注腫瘍と膿胸は直接関連したものと考えられますが、初めに流注腫瘍を処理する手術を行ってから、2期的に膿胸の手術をした方がよいです。2期に分けずに手術をすると、炎症を起こしている胸壁から癒着部分を剥離する際に大量に出血し、止血できなくなるおそれが大きいから、一期的に膿汁を出して開放創にし、炎症が治まってから、膿胸の根治手術をすべきものです。」と説明し、同日から、病理検査のためプンクチオン(胸腔穿孔刺)を開始した(乙2 14頁)。
(イ) 平成6年9月30日の説明について
甲野医師は、花子、原告一郎及び花子の妹に対し、「胸壁腫瘍と膿胸と2カ所の病像・病変があり、この2つの連係ありやをレントゲン、CT等で検討したが明らかではない。そこで第1期手術として、切開、排膿後、胸腔ドレーンを入れるか、開放創にする手術をする予定です。」(乙2 10頁)などと説明した。
甲野医師は、花子の症状からして内科的治療では改善せず、手術が必要であり、手術をしなければ左肺の結核病巣の増悪により生命の危険もあることを説明した。
花子及び原告一郎は、切開排膿開放創手術に対して承諾した(乙2 19頁)。
(ウ) 平成7年1月10日の説明について
甲野医師は、病棟カンファレンスルームにおいて、花子、原告一郎及び夏山に対し、花子の胸部レントゲンフィルムと健康な人のレントゲンフィルムを見せながら、花子の症状・第2期手術の説明をした。
その際の会話内容の要旨は、以下のとおりである。
甲野:「両方を比べてみて下さい。春川さんの左肺は、真っ白で写真に写っていません。空気が入っていないということです。左肺に結核菌が巣を作っている。つまりスポンジの中に膿が溜まっているようなものです。だから手術をして左肺を取らなければいけません。」
花子:「時間はかかりますか。」
甲野:「癒着がひどいので、長くかかると思います。」
原告一郎:「身体はもちますか。」
甲野:「手術前にいろいろ検査をしているので、大丈夫だと思います。内科的には治りません。」
夏山:「手術はいつころか。輸血はどうか。」
甲野:「30日(月)に予定しています。また、癒着がひどいので、輸血することになると思います。」
原告一郎・夏山:「先生のお話を聞いて安心しました。」
(エ) 平成7年1月27日の説明について
a 甲野医師は、病棟診察室において、花子、原告一郎及び夏山に対し、「やはり、この膿胸は内科的には治癒しないものと考えます。それで膿胸腔醸膿膜切除をしようと考えています。肺の手術ですから、盲腸やヘルニアの手術のように簡単ではありません。肺手術をされるどの患者さんにもお話することですが、予期せぬ出血で大事に至ることがあることをご承知下さい。現在この病院でお願いしている承諾書です。」と説明し、さらに、レントゲンフィルムを入れる袋に色鉛筆等を用いて、模式図を書き示しながら、「始めに背中から切開し、胸腔に入りますが、癒着がひどいのでこの剥離が大変です。この間出血もかなりあるでしょう。胸腔及び横隔膜面の剥離を終えた後に肺門の処理に移り、肺動脈・肺静脈を結紮、切断、気管支を切断します。」などと説明し、その際、輸血に関する質問に対しては、「血液は病院の方で用意します。現在は家族の人から採血して輸血することはほとんどありません。」と答えた。その後、甲野医師は、花子の親戚が来院したため、同様の説明をしたが、説明時間は、合計約1時間であり、この間、Z看護婦が同席した。
甲野医師は、その間、花子らに対し、「醸」の字まで書き示して、胸膜肺全摘除術における醸膿膜(厚肥した胸膜)の剥離の際の多量出血の危険性を説明したのである(証人甲野)。
甲野医師又は看護婦は、花子らに対し、手術承諾書の用紙を渡し、花子及び原告一郎は、手術承諾書に署名・押印の上、これを提出した(乙2 22頁)が、同書には、左肺全摘除と記載されていた。
b 原告らは、原告一郎及び夏山が甲野医師に対して面会を求め、本件施術の成功をお願いしただけであると主張する。
しかし、1月30日に実施される本件施術の3日前に担当医師に面会を求めた患者家族が、成功をお願いしただけというのは不自然であるし、また、輸血に関しても、1月10日、輸血をするか否かの質問が出され、1月27日、花子の家族から採血する必要があるのかという質問が出され、突っ込んだ内容の質問になっていることからすると、花子及び原告一郎らは、1月27日、甲野医師から上記の説明を受けたというべきである。
(7) 争点(7)(損害)について
【原告らの主張】
ア 花子の逸失利益 1662万1445円
花子は、本件施術当時、65歳の女子で、家事労働に従事していたので、65歳女子の賃金センサスによれば、年収は、298万8700円であり、そこから生活費控除割合30%を控除した額に、家事労働可能年数10.485歳(65歳女子の平均余命年数20.97歳の2分の1)に対する新ホフマン係数7.9449を乗じて算定すると、逸失利益は1662万1445円(298万8700円×0.7×7.9449)となる。
イ 花子の慰謝料 3000万円
花子は、全く予期しない本件医療過誤により、突如生命を奪われたものであり、花子の肉体的・精神的苦痛は到底筆舌に尽くし難いものであるが、これを金銭に評価すれば、少なくとも3000万円が相当である。
ウ 原告らの相続
原告らは、花子の死亡により、下記のとおり、上記ア・イの合計4662万1445円を相続した。
原告一郎 2331万0722円
原告二郎 1165万5361円
原告葉子 1165万5361円
エ 葬儀関係費用
原告らは、花子の葬儀費用として少なくとも120万円以上支出した。
オ 弁護士費用 478万円
【被告の主張】
損害の主張は争い、原告らが出捐した金額は不知。
第3 争点に対する判断
1 争点(1)(手術選択における過失の有無)について
(1) 前提事実及び証拠(甲8、9、乙2、4の1の1ないし3の2、5の1の1ないし3の2、6ないし8、13、14、17、18、20、証人甲野、鑑定結果)によれば、以下の事実が認められる。
ア 本件施術前の花子の症状について
本件施術前の花子の左肺は、全く含気のない荒蕪肺で、壁側胸膜・肺側胸膜の石灰化が高度であり、左肺動脈は基部で閉塞しており、肺膨張を期待できない、慢性の結核性膿胸(全膿胸)であった。そして、結核菌が右肺等に転移するおそれがあったが、いつ転移するかは判然としないものの、現に転移してからでは対処できない状況に陥るおそれがあった。
上記症状を治癒するための手段としては、内科的治療では不可能であり、胸膜肺全摘除術が唯一の根治療法である。
イ 本件施術の危険性について
(ア) 花子の肺機能
平成7年1月25日に実施された呼吸機能検査によれば、予測肺活量1秒率(指数)は22.5%であったところ、同数値は、手術安全限界内ではないものの、手術許容限界内である(甲8)。
花子の肺機能は、同日に実施された血液ガス検査の結果によれば、PCO2:52.5%、PO2:84.7%、HCO3:24.7%、SAT:94.7%であり(乙2 145頁)、若干、低値であるものの、日常生活において、酸素吸入を必要としない程度であった。
花子の入院中、チアノーゼの出現はなく、麻酔医の術前回診においても、特に問題はなく、また、右肺、心臓等に異常はなかった。
(イ) 胸膜肺全摘除術の危険性
a 術中に出血死したり、術後、出血・肺炎・膿胸の再発等の合併症を発症したり、呼吸不全で死亡するおそれがある。その死亡確率は、11ないし14%程度である(乙14、鑑定書4頁参照)。また、血管損傷による死亡例は82件中1件であるが、これが本件である(甲9、17、乙14、18)。
b 荒蕪肺を伴う全膿胸に対する胸膜肺全摘除術は症例が少なく、手術適応に関するガイドラインのようなものはなく、術者の経験によるところが大きい(鑑定書 5頁)ところ、甲野医師は、本件施術前までに、膿胸手術を107例(そのうち肺全摘除術は10例)を実施した。これら手術例のうち、花子の本件施術時の年齢である65歳以上の患者の症例は27件であるが、本件のような死亡例はなかった。
ウ 切開排膿開放創術と本件施術の時間的間隔について
切開排膿胸開放術(第1期手術)と慢性膿胸の胸膜肺全摘除術(本件施術)との施行時期の間隔は、医学上、4か月程度あれば足りるとされている(乙20)。
エ 本件施術の効果について
本件施術により、機能していない荒蕪肺を切除しても、肺機能は殆ど変化しないが、呼吸困難症状は、変化しないこともあるものの、改善する可能性も否定できないし、膿胸の症状が発生するまでの健康状態を回復できた可能性も否定できない(鑑定書4、5頁)。
(2) 上記認定事実によれば、甲野医師が、花子の左肺の慢性結核性膿胸及びこれから右肺等に結核菌が転移する恐れを根治し、呼吸困難症状の改善をも期待して、本件施術を選択したこと、第1期手術と本件施術の間に約4か月の期間をおいたこと、花子の肺機能が手術許容限界内にあり、他に特に問題はなかったことから、花子が本件施術に耐え得ると判断し、本件施術を実施したことについて、胸膜肺全摘除術による死亡の危険性を考慮しても、いずれも過失があったものと認めることはできない。
2 争点(2)(術前管理における過失の有無)について
(1) 上記認定事実及び証拠(乙2、証人甲野、鑑定結果)によれば、以下の事実が認められる。
ア 肺動脈は、外膜、外弾性板・筋層・内弾性板を有する中膜と内膜の3層構造からなっているが(乙8、22)、花子の切除肺の病理検査(乙3)によれば、「断片の血管の壁は繊維性結合織のみによりなっており、弾性繊維を欠き、炎症を伴う胸膜との移行があるため、栄養血管周囲に炎症細胞浸潤をともなっており、また一部では炎症細胞浸潤を伴う肉芽組織で置換されており、機械的刺激に対し脆弱となっていた可能性が強い。内膜には粥腫よう変化が認められたことにより、脆弱さはさらに強まっていた可能性が強い。」とされている。
イ 手術前に肺動脈血管の脆弱化の有無・程度を予見する方法はない(鑑定書 5頁)。
ウ 前記のとおり、肺全摘除術において、血管損傷により死亡した例は、82件中の1件であるが、上記1件は本件である。また、甲野医師が本件施術前に施行した肺全摘除術において、血管を損傷させ、大量出血により患者を死亡させた事例はない。
エ 甲野医師は、胸膜からの出血に備えて、濃厚赤血球200ミリリットルを10単位、合計2000ミリリットルを準備した。
(2) 上記認定事実によれば、本件施術において、肺動脈から出血した原因は、肺動脈血管が極めて脆弱化していたことにあると窺われるものの、甲野医師が本件施術前に肺動脈血管の脆弱化を予見することは不可能であったというべきである。したがって、甲野医師に肺動脈血管の損傷による大量出血を前提として、人工心肺装置や輸血用血液の準備、又は応援医師の確保をすべき義務を認めることはできない。なお、人工心肺装置については、①本来肺の手術で使用されるものではないこと、②体外循環式人工心肺装置を用いるとした場合、装置及び要員の確保が困難である上、一方で本件の手術で側臥位、左背部からの切開を行いながら、仰臥位に体位変換し、縦隔切開してカニュレーションを行うのは、時間的な面からも非現実的であることからしても(鑑定書 6頁)、これを準備しなかったことに過失があるとはいえない。
よって、甲野医師の術前管理につき、過失を認めることはできない。
3 争点(3)(血管閉鎖方法選択の過失の有無)について
(1) 上記認定事実及び証拠(甲11、12、乙17、証人甲野、鑑定結果)によれば、以下の事実が認められる。
ア 一般的に、開胸後、目視や感触で、肺動脈血管の脆弱化の有無・程度を予見することはある程度可能であるが、決定的なものではない(鑑定書 5頁)。
イ 胸膜肺全摘除術の施行中、執刀医が肺動脈を手に取って感触を確かめることはできないし、また、心臓や肺が動いているため、常時、肺動脈血管を目視することもできない。
ウ 甲野医師が本件施術中、花子の肺動脈血管の色を見たところ、特に通常と異なるという印象を受けなかった。
エ 甲野医師が、第4ないし第7肋骨の一部を切除し、膿胸に伴う胸壁、大動脈、肺尖、横隔膜の強固な癒着部分を剥離して、大動脈弓から下行動脈を露出する手技の際、肺動脈血管が損傷する等の問題はなかった。
オ 甲野医師が血管閉鎖方法として選択した二重結紮法は、最も一般的なものである(甲11、12、証人甲野)。なお、血管閉鎖方法としては、他に、縫合固定結紮法(血管が太い場合に、結紮した糸がずれ落ちないように、二重結紮のうち末梢側の1本を縫合糸で血管壁に貫通されて結紮する方法、甲12)や血管鉗子を用いる方法(前記「文中の医学用語」参照)がある。
(2) 上記認定事実によれば、甲野医師が、本件施術の際、花子の肺動脈血管の脆弱化の有無・程度を予見することは不可能であったというべきであるから、肺動脈血管の脆弱化を予見し得たことを前提として、血管閉鎖方法につき二重結紮法を避け、血管鉗子を用いる方法等を探るべきであったということはできないし、仮に、そのような方法を採用したとしても、出血の結果を避け得たと断じることもできない。
したがって、甲野医師の血管閉鎖方法の選択について過失を認めることはできない。
4 争点(4)(結紮前の肺動脈血管の剥離における過失の有無)について
肺動脈血管の剥離は血管結紮の前段階として行われるところ、甲野医師は、中枢側は心膜まで剥離し、末梢側は左肺動脈の分岐点を超えて限界点に近い約3センチの長さを剥離したのであり、結紮には十分な長さであった(証人甲野、なお、鑑定書5頁参照)。そして、上記のとおり、甲野医師が、肺動脈血管の脆弱化の有無・程度を予見することは不可能であったことをも勘案すれば、甲野医師が行った結紮前の肺動脈血管の剥離につき、これが不十分であったとの過失を認めることはできない。
5 争点(5)(止血における過失の有無)について
(1) 証拠(乙2、20、証人甲野、鑑定結果)によれば、以下の事実が認められる。
ア 甲野医師は、剥離した左肺動脈周囲をケリーを使用して5号絹糸で結紮したところ突然、結紮部分の肺動脈壁が破れ、多量の出血が生じた。甲野医師は、上記出血後、吸引ガーゼ用手圧迫止血をし、また、血管鉗子による止血を試みたが、肺動脈血管が収縮したため、血管鉗子をかけることができなかった。そこで、ケリーやリスター等の鉗子により、止血を試みたが、止血不能であった。そして、応援医師が到着した後、心膜を開き、心臓基部での止血を試みたが、止血不能であった。
イ 心嚢内肺動脈基部において、上記糸切れによる切断面とは接続しない長軸方向の裂傷があることが、花子の心停止後に確認されたが、本件施術時においては、同裂傷を目視することはできなかった。上記裂傷が生じた原因は明確ではないが、上記ケリー等の止血に用いられた器具による圧迫あるいは用手圧迫による肺動脈圧の上昇と肺動脈血管の脆弱化が相俟って生じたものであることが推測される(証人甲野)。そして、上記裂傷からの多量の出血が止血不能に陥った原因であると推測される(乙20、鑑定書 6頁)。
ウ 肺動脈の肺門部が糸切れした場合の対処法として、一般的な手法は、「まずは、用手的に圧迫止血を行いながら、損傷部位の上流を血管鉗子で閉塞させることである。心嚢外で止血することが困難な場合は心嚢を切開して心嚢内の左主肺動脈を血管鉗子で閉塞することである。」(鑑定書6頁)。
(2) 上記認定事実によれば、甲野医師の上記止血行為は、医学上、一般的な手法に従ったものであったといえる。そして、上記長軸方向の裂傷が生じたことが止血不能となった原因であると推測されるところ、これは、上記一般的止血手法による圧迫と予見が不能であった肺動脈血管の脆弱性によって生じたものと推測されるのであるから、これが生じたことをもって過失とすることはできない。
したがって、甲野医師が行った止血行為につき、過失を求めることはできない。
6 争点(6)(説明義務違反の有無)について
(1) 原告は、結核性膿胸の手術としての肺全摘出術は、死亡例が相当高く、生命の危険性を伴うものであるから、医師は、手術前に、手術の危険性について、十分に説明すべき義務があったのに、甲野医師は、これを果たしていないと主張する。しかし、前記説示したとおり、花子が死亡するに至ったのは、左肺動脈血管の糸切れによる出血及び同血管の裂傷による出血が原因であり、これは、事前の予測不可能な血管の脆弱性に基因するのである。また、前記のとおり、胸膜肺全摘除術における出血による死亡の危険性について、本件施術の同一又は類似の症例として引用されている82例のうち、手術中の出血による死亡例は、本件1件のみであり、甲野医師が本件施術前に施行した肺全摘除術において、結紮により肺動脈が切断された事案はなかったことをも勘案すれば、甲野医師には、あえて、本件施術による出血死の危険性を説明する義務はなかったというべきである。
原告は、また、術後の体力回復の可能性が極めて厳しいと予想されること及び本件施術を行わずに保存的治療を続けた場合の余命期間についても説明義務があったと主張する。しかし、前記のとおり、本件施術により、機能していない荒蕪肺を切除しても、肺機能は殆ど変化しないが、呼吸困難症状は、変化しないこともあるが、改善する可能性も否定できないし、膿胸の症状が発生するまでの健康状態を回復できた可能性も否定できないのであるから、膿胸の根治術としては、本件施術しかないことからすれば、甲野医師には、術後の体力回復の可能性が極めて厳しいことをあえて説明する義務はなかったといえるし、結核性全膿胸の症例について、保存的治療を継続した場合の余命期間に関するデータはない(乙20)ことからすれば、保存的治療を続けた場合の余命期間について説明する義務もなかったものというべきである。
(2) その他、甲野医師に説明義務違反が認められるかを検討するに、前記認定事実及び証拠(甲18、乙2、乙20、証人甲野、原告春川一郎本人)によれば、甲野医師の行った説明について、以下の事実が認められる。これに反する原告一郎の供述部分及び陳述(甲18)部分は採用しない。
ア 平成6年9月19日の説明について
甲野医師は、花子及び原告一郎に対し、流注膿瘍と膿胸は直接関連したものと考えられるが、仮に一度に流注膿瘍と膿胸に対する手術を行うとすると、炎症を起こしている胸壁から癒着部分を剥離する際に大量に出血し、止血できなくなるおそれが大きいため、まず、流注膿瘍に対して、膿汁を出して開放創にする手術をして、炎症が治まってから、膿胸に対して、根治手術をすべきである旨説明した。
イ 平成6年9月30日の説明について
甲野医師は、花子、原告一郎及び花子の妹に対し、胸壁膿瘍と膿胸と2か所の病像・病変があり、この2つに連係があるかをレントゲン、CT等で検討したが明らかではない。そこで、まず、切開して排膿後、胸腔ドレーンを入れるか、開放創にする手術をする予定であり、その後、左肺に対する手術をする旨、また、内科的治療では改善せず、手術が必要であり、手術をしなければ生命の危険もあることも説明した。
花子及び原告一郎は、切開排膿開放創手術に対して承諾した(乙2 19頁)。
ウ 平成7年1月10日の説明について
甲野医師は、花子、原告一郎及び夏山に対し、花子の胸部レントゲンフィルムと健康な人のレントゲンフィルムを見せながら、花子の左肺が真っ白で写真に写っておらず、空気が入っていないことや、左肺に結核菌が巣を作っていることから、手術をして左肺を取らなければいけない旨、癒着がひどいため、手術時間は長くかかる見込みであること、検査結果から花子が本件施術に耐えられると判断していること、内科的には治らないこと、癒着がひどいので輸血が必要になることなどを説明した。
エ 平成7年1月27日の説明について
(ア) 甲野医師は、花子、原告一郎及び夏山に対し、やはり内科的には治癒しないため、膿胸腔醸膿膜切除をしようと考えているが、盲腸やヘルニアの手術のように簡単ではなく、予期せぬ出血で大事に至ることがあることを説明し、さらに、レントゲンフィルムを入れる袋に色鉛筆等を用いて、模式図を書き示しながら、始めに背中から切開し、胸腔に入り、癒着がひどいので剥離が大変で、醸膿膜(厚肥した胸膜)の剥離の際に大量の出血があり得、胸腔及び横隔膜面の剥離を終えた後に肺門の処理に移り、肺動脈・肺静脈を結紮して切断し、また、気管支を切断するなどと説明した。甲野医師は、この際、花子の家族からの輸血に関する質問に対して、血液は病院の方で用意するので、家族の人から採血して輸血することはほとんどないと回答した。
その後、甲野医師は、花子の親戚が来院したため、同様の説明をした。
花子及び原告一郎は、上記説明を聞いた上、手術等承諾書に署名・押印した(乙2 22頁)。同書には、左肺全摘除と記載されていた。
(イ) これに対し、原告一郎は、原告一郎及び夏山が、甲野医師に対して面会を求め、本件施術の成功をお願いしただけである旨供述・陳述する。しかし、花子及び原告一郎が本件施術の具体的な内容の説明を受けずに手術承諾書に署名・押印したものとは考え難いことや、甲野医師の証言は具体的であり、それ以前の説明内容とも符号し、概ね信用できるといえること(なお、同日の説明はカルテ及び看護記録に記載がないが、同様にカルテに記載がない同月10日の説明については看護記録に記載があることからすれば、上記記載の有無は甲野医師の説明の有無を決するために決定的なものとはいえない。)から、原告一郎の上記供述・陳述は採用することができない。
(3) 上記認定事実によれば、甲野医師は、花子及び原告一郎らに対し、本件施術の必要性と危険性を説明し、花子及び原告一郎は、これを理解した上で、本件施術に同意したといえるから、甲野医師に説明義務違反を認めることはできない。なお、平成7年1月27日付けの手術等承諾書に手術名が「左肺全摘除」と記載されているが、本件施術に関する説明が尽くされていることから、上記手術名がやや正確を欠いたとしても、説明義務違反が認められないとの上記判断を左右するものではない。
第4 結 論
以上のとおりであって、その余を判断するまでもなく、原告らの請求は理由がないからいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法61条、65条1項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・赤西芳文、裁判官・本吉弘行、裁判官・矢作泰幸)
別紙診療経過一覧表<省略>