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京都地方裁判所 平成11年(ワ)2099号 判決 2001年10月25日

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告Aに対し1億6280万円,原告B及び同Cに対しそれぞれ1100万円並びにそれぞれに対する平成9年4月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は,被告が設置・運営する公立山城病院(以下「被告病院」という。)において麻疹の治療を受けた原告A,並びに同原告の両親である原告B及び同Cが,原告Aに合併症である麻疹脳炎による後遺障害が残存したのは,被告病院の診断及び治療が適切でなかったためであるとして,被告に対し,診療契約上の債務不履行又は不法行為(原告Aは,債務不履行又は不法行為,原告B及び原告Cは不法行為)に基づき,損害(原告Aについては逸失利益,介護費用,慰謝料及び弁護士費用,原告B及び同Cについては慰謝料及び弁護士費用)の賠償及びこれに対する弁済期の後(不法行為の後)という平成9年4月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事件である。なお,以下,月日のみで年の記載のない事実は,いずれも平成9年のものである。

1  基礎となる事実(争いのない事実,文末( )内の証拠によって認定できる事実)

(1)  原告A(昭和55年4月13日生)は,原告B及び同Cの子である(甲1)。3月当時,京都府立Z高校1年生に在籍していた。

被告は,肩書住所地において,被告病院を設置,運営している。

(2)  原告Aは,3月29日から発熱し,4月3日被告病院において内科のD医師の診察を受け,「麻疹の疑い」と診断され,即日被告病院に入院した。これによって,原告Aと被告の間で,当該疾病の治療についての診療契約が成立した。なお,D医師が原告Aの主治医となった。D医師は,4月4日には原告Aの病気を麻疹と確定診断した。

(3)  入院後,原告Aは高熱が続いていたが,4月5日の夜から翌6日の朝にかけては,吐き気を訴えたり,嘔吐することもあった。しかし,この間,医師の診察は受けなかった。

(4)  4月6日午前9時45分ころ,原告Aを診察したD医師は,原告Aが麻疹脳炎を併発したと診断したか,少なくともその疑いを持ち,原告Aの脳圧を下げるため,直ちにグリセオールを1回200ml,1日2回(朝夕)投与する旨の処方をした。

(5)  その後,原告Aの症状は悪化の一途をたどった。同月10日,原告Aは,京都府立医科大学付属病院(以下「府立医大病院」という。)へ転院し,その後約8か月間,同病院に入院した。

(6)  原告Aは,9月5日,両上肢機能の著しい障害及び体幹機能障害(座位又は起立位を保つことが困難)により身体障害者等級1級の認定を受けた。

2  主要な争点及び争点についての当事者の主張

(1)  被告病院において,麻疹脳炎の発症を速やかに把握する医療体制をとらなかった過失の有無及び後遺症との因果関係の有無

ア 原告らの主張

(ア) 原告Aの麻疹脳炎の初発症状としての吐き気,意識障害等は,4月5日午後7時ころから始まった。具体的には,次のaないしe記載のとおりである(以下,aないしe記載のそれぞれの事実を,「aの事実」のようにいう。)。なお,原告Aの意識レベルの低下が4月5日から始まったことについては,D医師もこれを認めていたのであって,カルテの各所にその旨の記載がある。

a 4月5日午後7時ころ,原告Aは時々吐き気を訴えた。

b 4月6日午前零時ころ,原告Aは胆汁と唾液様吐物少量を嘔吐した。

c 同日午前2時ころ,原告Aは,閉眼のまま「ウーン,ウーン」とうなされていた。

d 同日午前4時15分ころ,付き添っていた原告Cは,原告Aが尿意を訴えたので,その介助をしてもらうために看護婦を呼んだ。原告Aは,ベッド横のポータブルトイレに座ったが,尿が容易には出なかった。原告Aは,閉眼のまま発語せず,問いかけにも返事をせず,看護婦が頬をつねった時のみ,「痛い」と発語した。

e 同日午前6時ころ,原告Aは,排尿介助のため訪床した看護婦からの問いかけに返事をせず,採血時には「痛い」と大声を出した。

(イ) 一般に麻疹の患者は重篤な合併症である麻疹脳炎を併発する危険性があること,とりわけ患者が乳幼児でない場合,その確率が高いこと,脳炎を発症した場合には,脳圧を下げるべく速やかにグリセオールを投与しなければならないことは周知の事実である。したがって,D医師としては,麻疹脳炎の発症を速やかに把握するために,原告Aの容態を自ら慎重に観察するだけでなく,看護スタッフに対しても慎重な観察を指示する義務があった。とりわけ,D医師は,4月5日が非番であったから,看護スタッフに対し,上記指示を出すべき注意義務があった。

(ウ) しかるに,D医師がその指示を出していなかったために,被告病院の看護婦らは,aないしeの事実を把握していながら,これが麻疹脳炎の初発症状であるとは思い至らず,当直医師やD医師に対してこれらの事実を連絡すらしなかった。そして,4月6日午前9時45分ころ原告Aを診察したD医師は,上記のとおり,麻疹脳炎が発症したと診断して直ちにグリセオールの投与を開始したが,結局,その投与は,麻疹脳炎の初発症状から約半日も遅れ,その結果,原告Aの症状の重篤化を防ぐことができなかったのである。

イ 被告の主張

(ア) D医師が診察した4月6日午前9時45分ころ以前に,原告Aの麻疹脳炎の初発症状はみられていない。すなわち,

a 麻疹脳炎の診断基準は,①1週間以上の高熱(40度以上)の継続,②意識レベルの低下,③呼吸困難,④痙攣,⑤項部硬直,⑥腱反射異常,⑦尿閉であるが,原告Aに上記診察時以前にこれらの症状はみられていない。

b 原告が主張するaないしeの事実があったことは認めるが,次のとおり,これらの事実は,いずれも麻疹脳炎の初発症状と評価できるものではない。

(a) a,bの各事実について

一般に,神経性,反射性のいわば「パッ」と出る嘔吐は脳炎の兆候とされるが,原告Aの吐き気ないし嘔吐は,それではなく,感冒性消化不良症でみられる症状と変わりのないものである。

(b) cの事実について

高熱の継続があり,深夜帯で眠っている状態では異常ではない。

(c) dの事実について

このとき,原告Aは,自分でベッドに起き上がり,身体の向きを変えて足をベッド横の床につけ,介助を受けてベッド横のポータブルトイレに座ることができた。

尿が出た後は,介助を受けながら自ら立ち上がってベッドに座り,身体を横たえることができた。ベッドに戻ったときに,看護婦が「どこか痛いところはないか。」と声をかけたところ,返事がなかったので,看護婦は原告Aの意識を確認するためにその頬を軽くつねったところ,原告Aは「痛い。」と声を出した。当時原告Aは麻疹の最盛期にあって高熱が数日継続していたこと,時間帯が深夜であること,原告が16歳の少女であることを考慮すると,看護婦の呼びかけに返事がないことは異常なことではなく,これを意識レベルの低下の表れと評価することはできない。

(d) eの事実について

このときも,原告Aは,介助を得ながら,自らベッドから降りてポータブルトイレに座り,自らベッドに戻って横になった。看護婦からの「どこか痛いところは。」との問いかけに返事はなかったが,採血時には「痛い。」と大きな声を出した。看護婦の呼びかけに返事がなかったことは,前同様の理由で意識レベルの低下の徴憑とは評価することはできない。

c カルテに原告Aの意識レベルの低下が4月5日から始まった旨の記載があるのは,D医師の誤記である。

d グリセオール自体は麻疹脳炎の治療薬ではなく,脳圧亢進を抑制させる作用を有する薬剤にすぎず,グリセオールの投与の有無により麻疹脳炎の予後が左右されたという報告はない。そうすると,仮に原告Aに対するグリセオールの投与の開始が約半日早かったとしても,原告Aの後遺症状の重篤化を防げたということはできない。

(2)  被告病院において,原告Aに十分な量のグリセオールを投与しなかった過失の有無

ア 原告らの主張

(ア) グリセオールは,脳浮腫の程度に応じた投与が強く求められる。したがって,D医師は,原告Aに麻疹脳炎の発症を認めた後,早期に腰椎穿刺による髄液圧測定,頭部CT撮影を実施して,麻疹脳炎の程度や症状の進行状況,脳浮腫の状態等を把握し,グリセオールの投与量,投与間隔を症状に適合させるべき注意義務があった。

しかるに,D医師は,4月7日の午前11時に至ってようやく腰椎穿刺を,4月8日午後1時30分に至ってようやく頭部CT撮影をしたが,それまでの間は,麻疹脳炎の程度,症状の進行状況,脳浮腫の状態等を把握しないまま,漫然と最低限の量のグリセオールの投与(200mlを1日2回)を指示したにとどまった。

府立医大病院への転院後,同病院では,原告Aの脳浮腫の状態をMRIで確認した上,原告Aに対し,グリセオール200mlを1日3回投与したのであって,これに照らしても,D医師が指示したグリセオールの投与量は不十分であった。

(イ) しかも,現実には,D医師が指示した量,回数のグリセオールすら原告に投与されなかった。すなわち,D医師は,グリセオール200mlを毎日朝夕2回ずつ投与することを指示したから,被告病院において,府立医大病院への転院までに9回の投与が行われなければならなかったはずである。

しかるに,看護記録によって確認できるグリセオール投与回数は3回のみであり,レセプトで確認できるのはグリセオール200ml瓶7瓶にすぎない。グリセオールの投与が中断されると,かえって脳浮腫を増悪させるリバウンド現象が生じる。原告Aに,このリバウンド現象が生じた可能性は極めて高い。

イ 被告の主張

(ア) グリセオールは,脳出血の助長,腎機能障害等の副作用があり,やみくもに多量に投与すればよいというものではない。被告病院での1日当たり400ml,府立医大病院での1日当たり600mlはともに適量範囲内である。

(イ) 被告病院では,D医師の指示どおり,原告Aの入院中,グリセオール200mlを9回投与されている。

(3)  D医師がステロイド剤を投与しなかった過失の有無

ア 原告らの主張

脳炎の治療においては,脳の損傷を与えることを可及的に防止することが重要であり,そのために,ステロイド剤投与を実施するべきであった。現に,府立医大病院では,これを実施し,その結果,原告Aは自発的に開眼するようになった。D医師は,これをせず,漫然と原告Aの中枢神経症状が進行するにまかせた。

イ 被告の主張

D医師は,ステロイド剤投与を検討したが,他の医師とも議論の上,麻疹脳炎に対する効果が確認されていないこと,免疫機能を抑える作用があるため感染症を重篤化させる可能性があること,当時原告Aの全身状態が定まっておらず,副作用について格段の考慮を必要とする状態にあったこと等からその実施を見合わせたのである。

府立医大病院においても,同療法を実施するか否かについては相当悩んでおり,4月11日と18日のMRIの比較から,このままでは脳幹部の破壊の恐れがあると判断したこと,当時原告Aの全身状態が落ち着いていて副作用の危険が比較的低かったこと等から,その実施に踏み切ったものであって,被告病院での入院中と単純に比較することはできない。

(4)  被告病院の医師が原告Aを高次医療機関へ転送しなかった過失の有無

ア 原告らの主張

D医師は内科医であり,被告病院には神経内科の専門医は常駐していなかった。

患者の容態の注意深い観察と適切な検査による適切な早期対症療法が要求される脳炎治療を行うためには,神経内科の専門医が常駐していることが必須である。そうすると,被告病院としては,原告Aの脳炎発症を疑った時点で直ちに神経内科の専門医が常駐している高次病院に転送する義務があったというべきであるが,被告病院はこれを怠った。

イ 被告の主張

被告病院としては,原告Aに対し,主治医であるD医師のみならず,E内科医長,F内科医長,G内科部長,H小児科医長が連携し,麻疹脳炎が発症した後は,非常勤の神経内科専門医であるI医師とも連携して,懸命に治療に当たってきた。

麻疹脳炎に対する治療方法は,対処療法としてのグリセオール投与しかなく,どの医療機関においても同様である。したがって,被告病院において原告Aを高次医療機関に転送するべき義務はなかった。

第3当裁判所の判断

1  診療経過

前記基礎となる事実に証拠(甲1,3,4,乙9,証人D,原告C)及び弁論の全趣旨を総合すると,次の事実が認められる。

(1)  麻疹脳炎発症までの経緯

ア 原告Aは,3月29日に40度まで発熱し,翌30日の朝には一旦解熱したものの,同日午後から再び熱が上がったので,同月31日に自宅近くのK医院でJ医師の診察を受けたところ,風邪と診断された。

イ 4月1日午前4時ころ,原告Aは,激しい腹痛を訴えて被告病院で救急受診したが,特に異常はないと診断され帰宅した。

ウ 4月2日の夜,原告Aの口内に発疹が現れ,翌3日の朝には胸と足にも発疹が現れたことから,原告Aは,同日午後,再びK医院を受診した。J医師は,麻疹の疑いがあるとして,原告Aを被告病院に紹介した(なお,証人Dの供述中には,J医師から原告Aに麻疹の疑いがある旨の連絡を受けていないとの部分があるが,D医師がJ医師にあてた報告の付せん(甲4・9頁)に「s/o(麻疹),・・おそらく先生のご高診通り・・」との記載があることに照らすと,上記部分は採用できない。)。

エ 同日午後6時50分ころ,原告Aは,原告Cに連れられて被告病院に赴き,D医師の診察を受けた。このとき,熱は40・2度を超え,口腔内にコプリック斑が,全身に発疹がそれぞれ生じていた。D医師は,麻疹の疑いが強いと考え,原告Aが麻疹患者としては年齢が高く,合併症に対する警戒も必要であったことから,全身管理と合併症が生じた場合に早期対処を可能とするため入院を指示した。

オ D医師は,原告Aについて,病院内安静,食事指示及び全身管理を指示した。

更に,発熱時の対処として,座薬使用(インテバン座薬25㎎の挿腔,後に50㎎に変更)を,脱水予防のために輸液の持続点滴静注(1日当たり1500ml)を,細菌による二次感染を考慮して抗生物質(1日当たりホスミシン2g)の投与をそれぞれ指示した。

カ D医師は,4月4日,原告Aが麻疹にり患していると確定診断した。同日,原告Aを診察した小児科のH医長も麻疹との診断をし,原告Aが中耳炎を併発していることを指摘し,抗生物質をパンスポリンに変更するよう助言した。原告Cは,同日の夜から,原告Aに付き添って病室に泊まることとした。

キ D医師は,同月5日(土曜日)及び6日(日曜日)が非番であった。被告病院では当直医(内科・小児科・産婦人科・外科に各1名)による対処も可能であったが,D医師は,原告Aの高熱が続いていたことを考慮し,同月5日は被告病院の宿舎で待機し,同月6日の午前9時ころには出勤して原告Aを診察する予定をし,その旨看護婦に予め伝えていた。なお,D医師は,看護婦に対し,麻疹脳炎発症の可能性,意識レベルの観察の必要性等については特段の指示をしていなかった。

ク 4月5日の夜から4月6日の朝方にかけて,aないしeの各事実が起こった。

(2)  麻疹脳炎に対する被告病院での治療

ア 4月6日午前9時45分ころ原告Aを診察したD医師は,呼名反応に鈍麻が認められたこと,項部硬直がわずかに認められたこと等から軽度の意識低下を来しており,麻疹脳炎を併発している可能性が強いと考え,直ちに原告Aに対しグリセオール200mlを1日2回点滴投与することを指示し,安静確保のため,膀胱バルーンカテーテルを挿入し,同日午前11時30分ころ,原告Aを個室に移した。

イ D医師は,同月7日,原告Aの腰椎穿刺を行い,髄液圧を計測するとともに脊髄液を採取し,さらに脳波を測定し,翌8日,原告Aの頭部CT検査を実施した。

髄液圧は,19㎝水柱と軽度の上昇が見られ,脳波検査の結果ではびまん性皮質障害があるとされ,さらにCT検査の結果によると,脳圧が亢進していることが確認できたものの,頭蓋内圧は体動脈圧よりも上昇していることはなく,脳ヘルニアもなく,画像上は組織の変形等は確認できなかった。

ウ 原告Aは,4月6日は,呼名に対して返答したり,「痛い,痛い」と訴えることもあったが,翌7日の昼ころからは,呼名にも反応しなくなり,「アー,アー」と時々声を発するのみであり,痛覚がなく,項部硬直がみられる等,意識障害が急速に進んだ。同月6日の午後4時ころには,原告Aの意識レベルは,ジャパン・コーマスケールでⅠ-1と判定されたが,同月8日の午後4時ころには,Ⅲ-200と判定されるまでに悪化した。そして,4月9日には,閉眼のまま,呼名にも反応しない「昏睡」の状態に陥った。同日,D医師は,I医師に診察を依頼するとともに,副腎皮質ステロイドを投与することの可否について議論したが,効果が確立しておらず,副作用が危惧されるステロイドを投与すべきではないとの結論に至った。

エ D医師は,同月9日,原告C及び同Bの希望により,原告Aを府立医大病院(神経内科)に転院させることとしたが,前日夜半より原告Aに無呼吸状態が起こっていたので,搬送による呼吸状態の悪化を懸念し,気管切開を施行し,翌10日,府立医大病院に転送した。

(3)  府立医大病院での治療経過

府立医大病院では,原告Aに対し,4月10日から同月28日までグリセオール200mlを1日3回投与した外,同月10日から12日までグロブリン製剤の投与を,同月18日から同月27日までスレロイド製剤の投与をそれぞれ行った。原告Aは,徐々に意識状態が改善し,5月末には清明になったが,頭部MRIで著しい脳萎縮が認められ,重度の知的障害,両上肢機能の著しい障害,体幹機能障害の重篤な障害が残った。

2  麻疹について

(1)  麻疹は,麻疹ウイルスによる急性伝染性疾患であって,その一般的な臨床経過は次のとおりである(甲9の2,乙3ないし5)。

ア まず,38度から39度の高熱が2日から4日(あるいは3日から5日)ほど続き,発熱後3,4日目に頬粘膜に小斑点(コプリック斑)が90パーセント以上の確率で出現する(カタル期)。

イ その後,体温はいったん下降するが,再度高熱となり(二峰性発熱,39度ないし40度になる),発疹が出現し,全身に広がり,これが3日ないし4日続く(発疹期)。

ウ その後解熱し,発疹も消退し,やがて色素沈着を残す形で収束する(回復期)。

(2)  麻疹の合併症には,麻疹ウイルスの直接侵襲による炎症,麻疹ウイルスによって細胞性免疫反応が低下した結果生じるウイルスの重複感染,好中球運動能低下に伴う細菌の二次感染等があり,多彩である(乙2)。

(3)  麻疹に対しては特別な治療法はなく,安静と対症療法が中心であり,合併症の早期発見に努めることが求められる(甲9の2)。

3  麻疹脳炎について

証拠(甲8の4,9の1,13の1,14,乙1,2,5)によれば,次の事実を認めることができる。

(1)  麻疹脳炎は,麻疹における中枢神経系の合併症であり,その発生頻度は,麻疹患者1000人に0.5ないし1人(1500人に1人,2歳以上の麻疹患者の約1000人から5000人に1人であるとする文献もある。)程度であるが,年長児や成人に起こりやすい。

(2)  麻疹脳炎の発生機序については明らかにされておらず,麻疹ウィルスの直接侵襲,潜伏ウィルスの活性化,神経アレルギーによる二次脳炎等の各説があり,麻疹早期に発生する脳炎はウィルスの直接侵襲,後期に発生する脳炎は自己免疫反応あるいはアレルギー反応による組織障害によるとの説もある。

(3)  麻疹脳炎は,麻疹の発疹出現後3日ないし7日(2日ないし6日)で発症することが多いが,麻疹の症状の軽重と麻疹脳炎の発症とは関係がない。

(4)  麻疹脳炎の予後は極めて重篤であり,死亡率は約10ないし20パーセントで,高頻度(約50から90パーセント)で重篤な神経障害の後遺症を残す。しかし,麻疹脳炎発症時の重症度と予後とも相関しない。

(5)  主要症状は,高熱,意識障害,嘔吐,頭痛,昏睡,痙攣,腱反射異常,項部硬直等で一般の脳炎と大差ないが,髄液所見では液圧が高い。麻疹脳炎に対する特別な治療法はなく,対症療法のみであるが,脳圧亢進に対する治療が急務であって,脳圧亢進は,脳循環や髄液循環を障害し,二次的脳損傷を助長するばかりでなく,最終的には脳ヘルニアを引き起こし,致命的となる。

(6)  脳圧亢進の程度の把握のためには,頭部CT検査が重要であり,CT上での脳圧亢進は,中心線の変移,脳室の変形・狭小化,脳溝・脳裂の消失などで判断され,4月8日における原告Aの脳圧亢進の程度は,さほど進んだものとは言い難い。

4  麻疹脳炎の発症を速やかに把握する医療体制をとらなかった過失の有無及び後遺症との因果関係について(争点(1))

(1)  ところで,D医師は,原告Aのカルテ中の,①4月7日に作成した頭・頚部CT検査依頼票に「4月5日より意識レベルが低下した」と(甲4・2頁),②4月9日に神経内科のI医師あてに提出した診療照会書には「4月5日より急に意識レベル低下し」と(同24頁),③同月10日に府立医大病院あてに作成した「医療機関用診療情報提供書」に「4月5日より急に意識レベルの低下を認め」と(同28頁),④5月9日付で作成した簡易保険入院証明書には「4月5日夜より意識状態が少し悪くなり」と(同8頁),それぞれ記載している(証人Dは,これらの記載について,原告Aが府立医大病院に転院することが決まった後に③を急いで書き上げたために生じた誤記である旨供述する。しかし,①,②及び④の記載については,合理的な説明はない。特に①は,同月7日に記載したものであって,当日の出来事を2日前と誤記することは考え難い。また,③の「医療機関用診療情報提供書」には,原告Aの同月3日から同月9日までの意識レベルの推移をグラフ化したものが添付され,そのグラフも同月5日から意識レベルが低下した内容となっている(同29頁)ところ,係るグラフの同月5日の記載が同月7日の誤記であるとは考え難い。これらを考慮すると,証人Dの上記供述は採用することができない。)。これらの記載からすると,D医師は,4月6日以降の病状の推移も見た上の判断ではあるが,同月5日から原告Aの意識レベルが低下した旨の認識を有していたことを推認することができる。この事実に,上記3の認定事実を併せ考慮すると,aないしdの事実は,いずれも麻疹脳炎の症状であった可能性は否定しえない。とりわけ,dのポータブルトイレに座ったが,尿が容易には出ず,閉眼のまま発語せず,問いかけにも返事をしなかったとの事実は,ジャパン・コーマスケールのⅠ-1ないしⅡ-30に相当する意識障害に当たると見ることが可能であり,遅くともdの事実が生じた同日午前4時15分ころまでには麻疹脳炎の初発症状である意識障害が生じていた可能性は高い(看護婦も,異常を感じたために,原告Aの頬をつねってみており(乙13),これに「痛い。」と反応したことも軽度の意識障害が生じていたことを否定する理由とはならない。)。aの吐き気,bの嘔吐が麻疹脳炎の初発症状であった可能性は否定できないが,吐き気,嘔吐自体は,感冒性の消化不良症でもみられることであり,cの事実も,高熱下の患者においてはよくみられることであって,いずれも麻疹脳炎の症状と積極的に認定するには至らない。

(2)  そして,前記認定のとおり,D医師は,当直の看護婦に対し,麻疹脳炎発症の可能性,意識レベルの観察の必要性について特段の指示はしていない。しかし,麻疹脳炎は,麻疹の合併症として顕著なものであり,その予後は重篤であるから,早期に発症を発見することが重要であり,バイタルのチェック,意識レベルの把握が必要であることは,通常の看護婦であれば理解しているものと判断してことさらに具体的な指示をしないことが,臨床医学の実践としての医療水準に達しないものと断ずることはできない(前記認定のとおり,4月6日午前4時15分ころには,原告Aがポータブルトイレに座ったが尿が容易には出ず,閉眼のままで発語もしないし,問いかけにも返事をしないことに異常を感じ,頬をつねってみており,意識障害の有無をチェックすることが重要であることを理解して行動していたことがうかがえる。)。また,上記の同日4時15分ころの原告Aの様子も,高熱を発していた16歳の子の未明における状態であることを考慮すると,高熱及び「ねぼけ」の影響によるものという可能性も全くは否定することができず(乙11),看護婦が原告Aの頬をつねってみて意識を確認した上,なお経過を見ることとして医師に連絡しなかったことが,その注意義務に違反するものとまではいうことができない。

(3)  のみならず,仮に,原告Aの麻疹脳炎が4月6日深夜から未明にかけて発症しており,同日4時15分ころには,被告病院の看護婦が,これを疑うことができ,当直医師ないしD医師に連絡をして,それからさほどの時間をおかずにグリセオール投与を開始し得たとしても,これによって原告Aの後遺症の重篤化を防ぐことができたことについては,これを認めるに足る証拠がない。

すなわち,前記のとおり,麻疹脳炎の発生機序自体が現在の医学では判明していないのであり,一般的に脳圧の亢進が脳循環や髄液循環を障害して二次的脳損傷を助長するとはいえ,原告Aの後遺症の原因となった脳損傷がウィルスの侵襲等その他の一次的原因によって生じたものか,脳圧の亢進によって二次的に生じたものかも明らかでなく,前記のとおり,原告Aの意識レベルの低下は4月6日のうちは大きな変動はなく,4月7日に至って急速に進んだこと,4月8日のCT所見によって脳圧の亢進が確認されたとはいえ,その程度はさほど進んだものとは言い難いこと等の諸事情にも鑑みると,4月6日の深夜から早朝におけるグリセオール投与の数時間の遅れが原告Aの後遺症の程度に何らかの影響を与えたとまで認めるに足る証拠はないと言わざるを得ない。

5  原告Aに十分グリセオールが投与されなかった過失の有無について(争点(2))

(1)  証拠(甲10の2,11,12,13,15,乙11)によると次の事実が認められる。

ア グリセオール注(10%溶液である)の効能書きによると,「その用量は,成人1回200ないし500mlを1日1ないし2回,年齢,症状により適宜増減する」とされている。

イ 脳炎の治療,脳圧亢進,脳浮腫対策,脳圧を急速に下げるために投与すべきグリセオールの量について,文献では,「1日300~500mg,1日1,2回」(甲10の2),「200mlを1ないし2時間で点滴静注。1日3~5回」(甲11),「300~500mlを1日1~2回に分けて」」(甲12),「1回200~500mlを1~3時間で1日1~2回」(甲13),「200ml 2~4回/日」((甲15),「1日200-500ml 1-2回/日」(乙11添付のもの)などとされている。

(2)  (1)で認定した事実によると,D医師が処方したグリセオールの投与量は,標準的な投与量の範囲を逸脱しているものではない。それにもかかわらず,原告Aに対しては,もっと多量のグリセオールを投与することが臨床医学の実践における医療水準であることを根拠づける事実の主張立証はない(なお,府立医大病院における投与量がD医師が指示した投与量よりも多量であったが,この程度の差は医師の裁量の範囲内であるというべきであって,D医師の処方量が医療水準に達しないものであることをうかがわせる事実ではない)。

また,原告らは,D医師が,原告Aに麻疹脳炎の発症を認めた後,早期に腰椎穿刺による髄液圧測定,頭部CT撮影を実施していれば,もっと多量のグリセオールを投与していたかのような主張をするが,D医師は,これらの検査結果が出た後もグリセオールの投与量を変更していないから,これらの検査の実施時期とグリセオールの投与量とは関係がないというべきである。

(3)  次に原告らは,被告病院においては,D医師の処方によると原告Aに対し,府立医大病院への転院までに200mlを9回投与がされていなければならないところ,実際には3回の投与しかされていない旨主張するが,診療報酬請求書(乙14)にはグリセオール注200ml9瓶の記載があること,カルテ中の「指示並びに熱型表」(甲4の90頁)の注射欄にグリセオール200mlが都合9回注射された旨の記載があることが認められ,これらの事実を総合すると,被告病院において,原告Aに対し,D医師の処方に従い,グリセオール200mlが9回投与されたと認めるのが相当である。

原告らは,看護記録中にグリセオール投与の記載が3回しかない事実を指摘するが,この事実だけでは上記認定を左右するに足りない。

6  ステロイド剤投与を実施しなかった過失の有無について(争点(3))

(1)  証拠(甲4(24頁),12,14,乙10,11,証人D)によると,ステロイド剤は,一部の脳腫瘍に伴う脳浮腫に有効であるが,外傷,脳梗塞に対しての効果がなく,虚血による脳浮腫に対しての効果は証明されていないこと,ステロイド剤を投与した場合,感染症を合併したり,脳炎自体を悪化させる副作用の危険があること,D医師は,4月7日の段階で脳圧亢進を防ぐ方法としてステロイド剤の投与を検討し,被告病院のG内科部長,H小児科医長,I医師等と相談したが,この治療法は,脳炎の場合の効果が確認されていないこと,副作用が懸念されること等から結局これを見合わせたこと,以上の事実が認められる。

(2)  (1)の事実によると,被告病院において原告Aに対してステロイド剤を投与するべき注意義務があったということはできない。

7  高次医療機関への転送義務違反の事実の有無について(争点(4))

(1)  一般に,医療機関は,患者の疾患が,当該医療機関の専門外か,医師の臨床経験ないし医療設備によって当該患者の疾病の治療が困難であり,転医することによって患者に重大な結果回避ないし疾病改善の見込みがある場合には,原則として,当該医療機関は,患者に対し,転医を指示すべき義務があるというべきである。

(2)  1ないし3及び6(1)で認定したとおり,被告病院においては,D医師のみではなく,他の内科医,小児科医が相談し,神経内科の医師であるI医師の意見も聞きながら原告Aの治療に取り組んでいる。そして,麻疹脳炎には,特別な治療法はなく,脳圧亢進等の症状に対する対症療法のみであるが,この対症療法は被告病院においても可能であるし,現に行なわれており,府立医大病院において実施したステロイドやグロブリンの投与も,被告病院の医師の判断でされなかったというのである(その判断が,医療水準を下回るものではないことは前記6で認定判断したとおりである。)。以上の事実を総合考慮すると,被告病院においては原告Aの麻疹脳炎の治療が困難であり,転医することによって患者に重大な結果回避ないし疾病改善の見込みがあったと認めることはできず,被告病院の医師に,原告Aを府立医大病院に転送すべき注意義務があったとはいえない。

8  以上のとおりであるから,原告らの請求はいずれも理由がないのでこれを棄却することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条,65条に従い,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 水上敏 裁判官 井戸謙一 裁判官 吉田静香)

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