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京都地方裁判所 平成12年(わ)336号 判決 2003年2月28日

主文

被告人は無罪。

理由

(本件公訴事実)

被告人は,京都市【以下省略】所在のH1病院に内科医長として勤務する医師であるが,平成10年10月28日午前8時40分過ぎころ,同病院外来特殊診療棟2階医局集談室において,同病院医師が飲料に使用している浄水である電気ポットの湯の中にアジ化ナトリウム約0.8グラムを投入し,別表記載のとおり,同日午前8時54分ころから同日午後零時ころまでの間,同病院医師V1ら医師7名をしてこれを飲用させ,もって,人の飲料に供する浄水に人の健康を害すべき物を混入するとともに,同人ら7名にそれぞれ加療約半日間を要する急性薬物中毒の傷害を負わせたものである。

(当裁判所の判断)

以下において,証拠末尾括弧内の数字は,証拠等関係カード(書証分)記載の各証拠番号を示す。ただし,数字のみ示したものは検察官請求証拠,数字に「弁」と付したものは弁護人請求証拠,数字に「職権」と付したものは職権で取り調べた証拠をそれぞれ示す。証人及び被告人の公判供述(公判調書中の供述部分を含む。)については括弧内に供述者氏名及び公判回数を示し,必要に応じて公判調書(速記録)中の該当頁を示す。

第1本件の発生

1  関係各証拠によれば以下の各事実が認められる。

(1) 平成10年10月28日(以下「本件当日」という。),京都市【以下省略】所在のH1病院(以下「病院」又は「本件病院」という。)において,病院に勤務する公訴事実別表記載の医師7人及び被告人が動悸,吐き気,意識喪失等の体調不良を訴えた。体調不良を訴えた各医師は,病院の外来特殊診療棟2階医局集談室(以下「集談室」という。)において,同室備え付けの電気ポット(平成12年押第92号の1。以下「ポット」という。)の湯でコーヒー等を作って飲んだ後に体調不良を自覚したと訴えたことから,ポットの湯に何らかの異物が投入されたことが疑われた。(捜査報告書(1,2),実況見分調書(3)等)

(2) 副院長であるD1は,上記8人の医師に対し,症状について電話等による問診をした上,病名を「急性薬物中毒(症)の疑い」とし,動悸等の症状があり,半日の安静を要した旨の診断書を作成した。(D1第10回,116,120,124,129,133,136,140)

(3) 京都府警察本部刑事部科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)において,ポットの湯や体調不良を訴えた医師が飲み残した飲料等の鑑定が実施され,ポットの残り湯からアジ化ナトリウムが検出されたほか,V1,V2,V3,V4及びV5の飲み残しの飲料からそれぞれアジ化物イオンが検出され,ほうじ茶の出し殻ティーバッグ1袋,急須(出し殻の茶葉在中)及びドリップコーヒーの出し殻2袋から,それぞれ微量のアジ化物イオンが検出された。(捜査報告書(5),任意提出書(6),領置調書(7),写真撮影報告書(8),鑑定依頼書写し(9),鑑定書(10))また,本件当日,集談室等から収集されたごみの中にあったコーヒーの出し殻等からも,アジドイオンが検出された。(捜査報告書(11,17),任意提出書(12,18),領置調書(13,19),写真撮影報告書(14,20),鑑定依頼書写し(15,21),鑑定書(16,22))

(4) アジ化ナトリウムは,防腐剤や起爆剤として用いられる無色又は白色の結晶で人体に有害な物質である。水溶性が高く,水溶液中ではナトリウムイオンとアジ化物イオンの状態で存在する。ヒトが経口摂取したアジ化物イオンは,消化管等から吸収されて血液中に入り,細胞内のミトコンドリア中のチトクローム酸化酵素と結合する。チトクローム酸化酵素は,ブドウ糖を分解してエネルギーを作り出す役割を有しているが,アジ化物イオンが結合することで,その活動が阻害され,ヒトの活動に必要なエネルギーを作り出すことができなくなる。血管の収縮に必要なエネルギーが供給されなくなるため,血管が弛緩して血圧が下がり,めまい,ふらつきなどの症状を生じるとともに,血圧維持のために心臓の動きが早くなり,動悸,頻脈を生じる。また,脳内の血管が弛緩することにより脳が膨張し,頭蓋骨に圧迫されて頭痛を生じる。さらに,有害物質を体外に排除するヒトの防衛機能や,アジ化物イオンが胃酸と反応して気体のアジ化水素となることから吐き気を催す。(Ap1(45),Pr1(231),Ap2(232),Pr2(233)の各検察官調書)

2  以上の各事実からすると,ポットの湯にアジ化ナトリウムが混入していたため,それを飲んだ医師に体調不良が生じたものと認められる。アジ化ナトリウムは水道水中に存在せず,また,集談室内にアジ化ナトリウムは保管されておらず,何らかのきっかけで自然に混入する可能性はないから,何者かがポットにアジ化ナトリウムを投入したことは明らかである。

そこで,被告人が,アジ化ナトリウムを投入したと認められるか否かについて以下検討する。

第2集談室入退室状況及びアジ化ナトリウム投入時間帯

1  集談室の入退室状況,医師がポットの湯を飲用した状況及び発症状況

関係各証拠によれば,以下の各事実が認められる(以下の時刻は,特記しないかぎり,本件当日の時刻を示す。)。

(1) 集談室付近及び室内の状況(捜査報告書(1),実況見分調書(3,4),検証調書)

ア 外来特殊診療棟は,西側の外来診療管理棟と東側のデイケア棟の間にあり,それぞれ廊下でつながっている。外来特殊診療棟1階には,外来診察室,便所,ロビー等があり,ロビーから第1病棟等に通じる中廊下が延びている。同2階には,東西に延びる廊下に沿って,北側には,西から図書室,カンファレンス室,集談室,男子当直室,女子当直室,便所,浴室,階段,物置,湯沸室がある。南側には,西から婦長当直室,看護部長室,応接室,医師室1ないし5がある。医師室1及び医師室2と集談室とは廊下を挾んで向かい合う位置にある。2階廊下東端にはデイケア棟2階に通じる出入口ドアがあり,廊下西端は外来診療管理棟2階に通じている。

イ 外来特殊診療棟2階北側の中央に位置する集談室は,医師の休憩,談話室として使用されており,東西約7.32メートル,南北約4.89メートルで,南側は廊下に面し,片内開き木製ドアが設置された東西2か所の出入口がある(以下,東西の出入口及び木製ドアを,それぞれ「東側出入口」「西側出入口」「東側ドア」「西側ドア」という。)。東側ドア,西側ドア共にすりガラスの窓が付いている。

集談室西側壁面には,南から北へ向かって,行事予定表,ごみ箱,カウンターテーブル,水屋,ワゴン棚が設置され,カウンターテーブル上には,ポット,ティッシュペーパーの箱,紅茶のティーバッグが入った缶,インスタントコーヒー2瓶,コーヒー豆が入った缶,コーヒーフィルター,コーヒーメーカーのガラスポット,緑茶の茶葉が入った缶,ほうじ茶のティーバッグ等が置かれていた。北側壁面には,西から東へ向かって,流し台,冷蔵庫,ごみ箱,ガスストーブ,1人掛け及び3人掛けのソファー各1脚(以下「北側ソファー」という。)が設置され,流し台の上にはガス台があり,流しの中にはプラスチック製の洗い桶がある。流し台左側に当たる西側壁面には湯沸かし器がある。東側壁面には南から北へ向かって,各医師の郵便受け(以下「メールボックス」という。),パソコン,ホワイトボード,椅子,テレビが設置されている。南側壁面には,出入口ドアの間に東から洗面台,事務机があり,事務机上には,硯箱,7段のレターケース(以下「レターケース」という。)等がある。室内中央にはテーブルがあり,北側ソファーと向かい合うように1人掛けソファー3脚(以下「南側ソファー」という。)があり,テーブル西側に3人掛けソファー1脚がある。

ウ 湯沸かし器から湯を出したままの状態で,洗い物をしながら集談室北西隅の流し台の位置で聞こえる音の状況等は以下のとおりである。

両手を使って,特段音を立てないための操作をせずに上記カウンターテーブル上のポットの蓋を開け,蓋を上から押して閉めた場合には,ポットの蓋を開けた時の音は聞こえないが,閉めた時の音は明確に聞こえる。両手を使ってポットの開閉レバーを持ち上げたままの状態で開閉した時は,音は聞こえない。

西側ドアは,片手でドアのノブを持って開け,手を離して自然にドアが閉まった時には,開けた時の音は聞こえなかったが,閉めた時の音はよく聞こえる。特に意識して静かに,ドアのノブの握り方を調整して開閉時に音が出ないようにして,ドアの開閉をした時には,開閉音自体は聞こえないが,ドアのきしむ音は聞こえる。西側ドアは,開ききった時には,ドアは開いたままの状態で止まっていた。東側ドアは,片手でドアのノブを持ってドアを開け,手を離して自然にドアが閉まった時には,開閉音ともによく聞こえる。特に意識して静かに,ドアのノブの握り方を調整して開閉時に音が出ないようにして,ドアの開閉をした時には,ドアの開閉音自体は聞こえなかった。

(2) 医師らの入退室,ポットの湯の飲用及び発症状況等

ア 本件当日,呼吸器内科医長のD2は,いつもどおり午前7時30分ころ病院に到着した後,集談室に入室し,やかんで湯を沸かしてドリップコーヒーを作るなどして,入退室を繰り返した後,午前8時ころまでに退室した。D2は集談室において誰にも会わなかった。(D2第12回,第13回)

イ 内科のD3は,午前8時ころ,病院に到着し,医師室2で白衣に着替え,午前8時5分ころ,集談室に入室し,メールボックス内の郵便物の有無を確認した後退室した。D3が集談室にいた時間は,1分弱程度であった。そのとき,集談室には誰もいなかった。(D3第9回)

ウ D1は,午前8時5分ころ,病院に到着し,副院長室へ行き,パソコンを起動させて集談室へ行き,やかんの残り湯を沸かしてドリップコーヒーを作った。コーヒーを水屋から取り出したマグカップに入れて,午前8時15分ころ,マグカップを持って集談室を出て,看護部長室へ行き,副看護部長と打ち合わせを行った。(D1第10回)

エ 精神科非常勤のV1は,午前8時ころ病院に到着し,デイケア棟2階の医師室6へ行ったが,施錠されていたので,外来特殊診療棟へ通じる渡り廊下を通って集談室へ鍵を取りに行った。V1は,東側出入口から入室し,レターケースから医師室の鍵の束を取り出し,東側出入口から退室した。このとき,東側ドアは開いており,集談室内にD1がいた。V1は医師室6を開錠し,同室内で白衣に着替えた後,集談室へ行って鍵束をレターケースに戻した。このときも,D1が集談室内にいた。V1は集談室を退室し,午前8時10分ころには回診のため第3病棟2号館へ向かった。(V1の検察官調書(117))

オ 本件前日から当直勤務に就いていた泌尿器科医長のD4は,午前8時ころ,男子当直室で起床し,午前8時15分から20分ころの間に,集談室に東側出入口から入室した。このとき,集談室内には誰もいなかった。D4は,当直日誌に署名するなどした後,カウンターテーブル上にあった急須にポットの湯を注ぎ,緑茶を作り,ソファーに座って緑茶を飲んだり,新聞を読んだりしていた。この急須には使った後と思われる湿った茶葉が入っていたが,D4はその茶葉を見て,本件当日に1回程度使ったものであると考え,そのまま使用した。(D4第2回)

カ 整形外科医長のD5は,午前8時15分ころ,病院に到着し,医師室1へ行った。集談室前の廊下を通る際,東側出入口を通して,D4が西側ソファーに座って新聞を読んでいるのを見た。D5は,医師室1で白衣に着替えた後,集談室に東側出入口から入室し,メールボックス内から郵便物を取り出して医師室1へ戻った。このとき,集談室ではD4が同様に新聞を読んでおり,他には誰もいなかった。医師室1で郵便物の内容を確認し,外来特殊診療棟2階にある便所(以下「医局のトイレ」という。)へ行き,医師室1に戻った後,腕時計で時間を確認して,午前8時25分から26分ころの間に,集談室に西側出入口から入室した(なお,D5は,公判廷において,腕時計を見た際,午前8時28分ないし29分だった旨供述しているが,後述のとおり上記腕時計は3分進んでいたものであるから,上記では修正した後の時刻を示す。)。このときも同様にD4は新聞を読んでいた。D5は,水屋から取り出したコーヒーカップに,カウンターテーブル上のインスタントコーヒーの粉を入れ,ポットの湯を注いでコーヒーを作った後,南側ソファーに座り,手術室の看護婦が入院したことについて西側ソファーに座っていたD4と会話しながらコーヒーを全部飲んだ。D4もD5と会話しながら,緑茶を飲んだ。(D5第3回)

D4及びD5は,ポットの湯を飲んだが,体調不良は生じなかった。(D4第2回,D5第3回)

キ 被告人は,D4とD5の会話中に集談室に入室し,会話の内容を聞いていた。D5は,被告人がいることに気付き,南側ソファーに座ったまま,事務机付近に立っていた被告人の方を振り向いて,リウマチ患者の治療方針について被告人と数分会話した。このとき,被告人は封筒様の物を持っていた。(D4第2回,D5第3回)

午前8時30分過ぎころ,D4は,D5と被告人が会話している間に西側出入口から退室し,栄養管理室へ行って入院患者の食事の検食をした。D4が退室する際,西側ドアは開いたままであった。(D4第2回)

ク 午前8時35分ころ,保清婦のNは,外来特殊診療棟2階に到着し,医師室5前の廊下で,D4が看護部長室前を外来診療管理棟へ向かって歩いていくのを見た。Nは,女子当直室で白衣に着替えた後,集談室へ行った。このとき,東側出入口を通して,D5が後ろを向いているのを見た。Nが西側出入口から入室したところ,D5は後ろを向いて,事務机横に立っている被告人と会話していた。Nは事務机の上のレターケースから医師室の鍵の束を取り出し,医師室3の錠を開けに行った後,集談室に西側出入口から入室し,カウンターテーブル上の急須を流しに持っていき,洗い物を始めた。このとき,D5と被告人は同じ位置で会話を続けていた。(N第3回,第4回)

ケ 午前8時43分ころ,D5は,流し台で洗い物をしているNに声を掛けて空のコーヒーカップを流しに置き,東側出入口から退室して外来診察室へ行った。このとき集談室内には,被告人とNがいた。(D5第3回)

D5が退室したとき,東側ドア,西側ドア共に開いていた。(D5第3回,N第4回15頁)

コ 脳神経外科医長のD6は,午前8時40分から45分ころの間に病院に到着し,医師室3で,白衣に着替え,庶務課に出さねばならない書類を取って,庶務課宛のレターケースに入れるため,午前8時46分から50分ころの間に,集談室に東側出入口から入室した。集談室には,Nと被告人がおり,他には誰もおらず,Nは流し台で出入口に背を向けて洗い物をしており,被告人は事務机の椅子に座っていた。D6は,被告人の前の事務机の上にあるレターケースに書類を入れ,すぐに東側出入口から退室した。このとき,D6は,被告人とは目が合わず,一言もしゃべらなかった。D6は,退室後,第5病棟へ回診に行った。(D6第4回)

サ 精神科医長のD7は,外来診察の合間に外来診療管理棟の診察室を出て,午前8時47分から49分ころの間に,集談室に入った。D7は,D6が退室した後の集談室に,東側出入口から入室し,南側ソファーに座って,テーブル上の新聞を読み始めた。入室時に誰がいたかについてD7は記憶していない。D7は午前9時過ぎころ集談室を出て,外来診療管理棟の診察室に戻った。(D7第5回)

シ 麻酔科医長のV2は,午前8時50分ころ病院に到着し,医師室3で白衣に着替えた後,午前8時52分から53分ころの間に,集談室に東側出入口から入室した。V2が入室したとき,医師はD7のみ在室しており,D7は南側ソファーに座って新聞を読んでいた。V2は事務机上の出勤簿に押印した後,西側出入口から退室し,カンファレンス室で電子メールの確認をした後,回診のため第5病棟へ行った。(V2の検察官調書(134,135))

ス V1は回診を終え,第3病棟2号館から外来特殊診療棟へ戻る途中,売店でパン2個を買い,午前8時54分から57分ころの間に,西側出入口から集談室に入室した。このとき,室内にはD7がソファーに座って新聞を読んでおり,Nが流し台で洗い物をしていた。V1は,Nから水屋にあったマグカップを受け取り,カウンターテーブル上のティーバッグを入れ,ポットの湯を注いで紅茶を作り,ティーバッグを流し台の隅にある三角コーナーに捨て,D7と向かい合うように北側ソファーに座った。V1は,集談室内でパン1個を食べ,紅茶3分の1位を飲んで,5分程度集談室にいたが,パン1個とマグカップを持って東側出入口から退室して医師室6に戻った。V1が集談室にいた間に,医師が1人か2人出入りしたが,V1はそれが誰であるか認識していない。V1が集談室にいる間,D7は,V1に会釈したほかは,南側ソファーに座って新聞を読み続けていた。

V1は,医師室6の椅子に座ったころ,突然,息苦しさを感じ,動悸,頻脈の状態になった。更に紅茶を二,三口飲んだところ,強烈な吐き気や強い息苦しさを感じた。V1は,医師室6のソファーで30分ほど横になっていたが回復せず,精神科のD8に気分が悪いなどと伝えて第3病棟2号館2階の臨床心理室のソファーで休むなどした後,D8,D7に早退する旨告げた上,午前11時過ぎころ,病院を出て帰宅した。(V1の検察官調書(117から119まで))

セ 呼吸器外科のV5は,午前8時45分ころ病院に到着し,医師室5へ行って白衣に着替えるなどした。その後,集談室に東側出入口から入室した。このとき,室内にはV1が北側ソファーに,D7が南側ソファーにそれぞれ座っており,Nは洗い物をしていた。V5は,V1,D7及びNに対し,「おはようございます。」と挨拶したが,Nのみが「おはようございます。」と挨拶を返した。V5は,水屋からマグカップを取り出し,カウンターテーブル上のコーヒーフィルター等を使い,ポットの湯を注いでドリップコーヒーを作り,ドリップコーヒーの出し殻をNの元に置いて,入室から約2分後,マグカップを持って東側出入口から退室し,医師室5へ戻った。その後,V5は,午前8時55分ころ医師室5でマグカップのコーヒーを7割程度飲んだところ,動悸,後頭部の血管の拍動を感じ,気分が悪くなった。同人は,コーヒーを飲む気にならなかったため,医師室5の流しに残りのコーヒーを捨て,午前9時ころマグカップを集談室へ持っていった。その後,看護婦がV5の血圧と脈拍を測ったところ,血圧には大きな異常はなかったものの,脈拍が普通の安静時の2倍程度であった。(V5第5回)

ソ 午前9時前後ころ,神経内科のV6は,集談室に東側出入口から入室し,メールボックスを確認した。このとき室内には南側と北側のソファーに向かい合うようにして2人の医師が座っていた。V6は,すぐに東側出入口から退室して廊下を西へ向かって歩き,西側出入口を通り過ぎた後,コーヒーを飲むために引き返して集談室に西側出入口から入室した。このとき,Nが水屋付近にいた。V6は,水屋からマグカップを取り出し,カウンターテーブル上のインスタントコーヒーの粉を入れ,ポットの湯を注いでコーヒーを作った。V6は,集談室内の冷蔵庫から氷二,三個を取り出してマグカップに入れてコーヒーを飲み干し,同マグカップを洗って,西側出入口から退室した。V6が集談室に在室していた時間は,約二,三分間であった。

V6は,回診のため第5病棟へ行き,階段を上る途中で強い動悸を感じ,第5病棟2階記録室で休んだものの,胸のむかつきを感じて気分が悪くなったことなどから,同記録室近くの診察室で休むため,午前9時25分ころ,同記録室を出ようとしてドアノブに手を掛けた後,意識を失って床に倒れた。V6は五,六秒後に意識を回復し,診察室で休んでいたが,看護婦がV6の血圧と脈拍を測ったところ,血圧が著しく低下し,脈が少し速くなっていた。(V6の検察官調書(125,126))

タ 整形外科のV3は,午前9時前ころ,病院に到着し,医師室5で白衣に着替えた。このとき,V5が医師室5におり,椅子に座っていた。V3は,医師室5を出て,集談室に東側出入口から入室し,事務机上の出勤簿に押印した後,東側出入口から退室して医師室5に戻った。医師室5に戻ると,V5が椅子に座っており,うつむき加減でじっとしていた。

午前9時10分より前ころ,V3は,集談室に東側出入口から再度入室し,南側ソファーに座って新聞を読んだ。V3は,午前9時20分ころ,集談室を退室し,回診のため第5病棟へ行った。(V3の検察官調書(137))

チ Nは,午前9時前後に洗い物を終え,流し,ガス台のふき掃除をした後,午前9時5分から10分ころの間に,各医師室のごみを集めるため退室し,各医師室のごみを集めた後,集談室のごみを集めるために入室した。集談室に再度入室したとき,室内にV3がいた。

Nは,建物の外のごみ集積場へごみを捨てに行った後,庶務課で医師宛の郵便物を取って集談室に入室し,メールボックスに入れた。午前9時30分ころ,Nは,やかんに水道水を入れ,ポットに注ぎ足した。(N第3回,第4回)

ツ 小児科医長のV7は,回診や小学校に通う入院患者の引継ぎをした後,午前9時30分ころ,集談室に東側出入口から入室した。V7は,水屋からマグカップを取り出し,カウンターテーブル上のコーヒーフィルターを使い,ポットの湯を注いでドリップコーヒーを作り,南側ソファーに座ってコーヒーを2口ほど飲んだ。ドリップコーヒーを作るのに要した時間は3分程度であった。V7は,コーヒーを飲んだ後,動悸がして,頻脈の状態になり,更に吐き気を感じた。(V7の検察官調書(130))

テ Nは,当直室の布団を干すなどし,浴室に置いてある使用済みの白衣を洗濯場へ運ぶ途中,開いているドアから集談室内のソファーに座っているV7の後ろ姿を見た。(N第3回,第4回)

ト V2は,午前9時15分ころ,回診を終え,外来特殊診療棟に戻り,集談室に東側出入口から入室した。このとき,V7が南側ソファーに座っていた。V2は,パソコンで文書作成作業をしながら,そのころ入室した泌尿器科のD9と会話し,午前9時35分,上記パソコンで作成した電子メールをD1に送信した。V2は,電子メール送信後,水屋からコーヒーカップを取り出し,カウンターテーブル上のインスタントコーヒーの粉を入れ,ポットの湯を注いでコーヒーを作り,コーヒーカップを持って西側出入口から退室し,医師室3に戻ってコーヒーを2口ほど飲んだ。V2は,すぐに急激な便意を催し,医局のトイレに行った。医局のトイレを出た後,V2は,動悸を感じたので脈拍を計ったところ1分間に130回程度の頻脈の状態だった。V2は,医師室3の椅子に座って休んでいた際,入室したD6に対し,動悸や頻脈になった旨話しかけたところ,D6は,年のせいではないかなどと言っていた。(V2の検察官調書(134,135))

ナ Nがクリーニング済みの白衣を各医師室に運ぶ際,医師室2にV7がいた。午前10時30分ころ,Nは,集談室に入室し,コーヒーカップ五,六個を洗った後,やかんに水道水を入れ,ポットに注ぎ足した。(N第3回,第4回)

ニ D9は,午前11時前ころ集談室に入室し,カップにインスタントコーヒーの粉を入れ,ポットの湯を注いだ上,水道水を足して全部飲んだが,体調不良を感じなかった。(D9第21回)

D9が在室中に,D3が入室した。(D3第9回46頁,N第3回54頁)

ヌ V7は,体調不良を感じ,南側ソファーで五,六分休んでいたが,在室していたV2とD9に相談することなく,残りのコーヒーを集談室内の洗面台に捨てて,水を飲んで,東側出入口から退室した。(V7の検察官調書(130))

ネ V3は,回診,打ち合わせ等を終えて医師室5に戻り,午前11時5分ころ,集談室に東側出入口から入室した。このとき東側ドアは開いたままで,室内には誰もいなかった。V3は,水屋からマグカップを取り出し,カウンターテーブル上のほうじ茶のティーバッグを使い,ポットの湯を注いでほうじ茶を作り,その後入室した整形外科のD10と会話した。その後,V3はマグカップを持って医師室5へ戻り,午前11時10分ころ,ほうじ茶を飲んだ。ほうじ茶を飲んでから約10分経過後,V3は吐き気を催して医局のトイレで嘔吐し,強い動悸を感じたことなどから,整形外科の外来診察室へ行き,看護婦が血圧を測ったところ,平常時の数値よりも低下していた。(V3の検察官調書(137))

ノ 呼吸器外科医長のV4は,午前11時45分から50分ころまでの間に,集談室に入室し,水屋から湯飲み茶碗を取り出し,ポットの湯で緑茶を作り,南側ソファーに座った。そのころ被告人が入室してV4の隣に座り,V4と被告人は,院長であるD11が医師に無断で病院の看板を変えた件を会議で取り上げることについて会話を始めた。V4は,被告人と話しながら緑茶を飲んだところ,約5分後に胸が苦しくなり,側頭部の拍動を感じた。(V4の検察官調書(141,142))

ハ V4の後入室したV5は,V4が使った後の急須にポットの湯を注いで緑茶を作った。V5は集談室内で緑茶を飲んだところ,動悸,後頭部の血管の拍動を感じた。(V5第5回)

(3) 関係者の供述の信用性

ア 本件被害者の供述

(ア) 検察官主張の本件被害者7人のうち,飲み残しの飲料があったV1,V5,V2,V3及びV4の5人については,第1の1(3)のとおり,飲み残しの飲料からアジ化物イオンが検出された。V6及びV7については,飲み残しの飲料がなかったため,鑑定結果はない。

上記7人のうち,ポットの湯を飲んでいるのを他人が明確に目撃しているのは,V6のみであるが(N第3回33頁),V7を除く6人いずれもが,看護婦や同僚の医師等の第三者によって症状を確認され,又は,症状を具体的に申告していることから,アジ化ナトリウムが投入されたポットの湯を飲んだものと認められる。

V7については,飲用の裏付けがないが,集談室入室前の行動について病院内のビデオ映像等によって裏付けられている上,上記認定のとおり,V5,V6らが発症した後の時間帯にポットの湯を飲んでおり,その供述内容に不自然な点はないのであって,V7もアジ化ナトリウムが投入されたポットの湯を飲んだものと認められる。

(イ) 以上によれば,上記7人は,いずれも本件犯行の被害者であるものと認められ,虚偽供述をする可能性はない上,各被害者は,被害に遭った状況であるポットの湯の飲用状況等を明確に記憶しているということができ,上記7人の各被害者の供述は信用性が高い。

イ 被害者以外の関係者の供述

(ア) D2の供述について

a 集談室入退室状況及び集談室内での行動についてのD2の供述(第12回,第13回)の要旨は以下のとおりである。

午前7時30分ころ,病院に到着し,医師室2で着替えた後,午前7時34分から35分ころの間に,集談室に入室した。満杯に水を入れたやかんをガス台の火に掛けたまま医師室2へ戻ってパソコンでスケジュールを確認した。集談室を離れたのは5分くらいであった。午前7時45分から50分ころの間に(第12回16頁。第13回では「午前7時40分ころ」と供述している(第13回25頁)。),集談室に入室し,ドリップコーヒーを作った。毎朝やかんに余った湯をポットに入れるところ,本件当日はポットの蓋を開けたとき,8割方湯が入っていたのでやかんの湯を入れず,湯が入ったままのやかんをガス台上に置いて,午前7時50分ころ,コーヒーカップを持って医師室2へ戻った。コーヒーを全部飲んだ後,洋服を脱いで医局のトイレに行った。トイレに5分くらいいた後,医師室2へ戻り,空のカップを持って集談室に入室し,流しの洗い桶の中にカップを入れた。午前7時55分ころ集談室を退室し,医師室2で白衣を着て回診のため第6病棟へ行った。午前8時ころまでに3回入室したとき,誰にも会わなかった。午前8時ころ,第6病棟1階ナースステーションにいる被告人を見た。午前8時45分ころ,朝の回診を終えて医師室2へ戻り,白衣を脱いで医局のトイレへ行き,午前8時50分ころ,外来診療管理棟1階の診察室へ行った。医師室2や集談室前廊下で人に会っておらず,集談室のドアは閉まっていたと思う。

b 入退室状況及び集談室内での行動についてのD2の供述は,具体的であって,特段不自然な点は認められず,また,同人がいつも朝最初に出勤して集談室に入室し,ポットではなくやかんで湯を沸かしていたことについてはN等の供述による裏付けがあり,本件当日もやかんで湯を沸かしたことについても,その後に入室したD1がやかんに残り湯があったことを供述していることによる裏付けがある。しかしながら,D2の入退室状況及び集談室内の行動の詳細については,裏付け証拠がないことに加え,D2は,後述のとおり,本件後に,被告人を殊更陥れるような内容の怪文書(「医局内ポット毒物混入事件の真相」と題するもの(D2の検察官調書抄本(199)添付の資料4)。同文書には被告人の氏名は明記されていないものの,被告人が本件の真犯人であることを自ら告白する内容のものである。以下「怪文書」という。)を作成し,集談室のパソコンのフォルダに入れて他の医師の目に触れさせるという理解し難い行動に出ており,これらの事情からすると,集談室の入退室及び集談室内での行動について,D2の供述に基づいて,詳細に事実認定をすることは躊躇せざるを得ない。

(イ) D1の供述について

D1は,自己が集談室在室中にV1が2度入室したにもかかわらず,集談室には誰もいなかった旨供述していること及びコーヒーを飲んだマグカップを後で集談室に持っていったか否か,本件翌朝,本件当日から保存されていた尿及び血液について報告を受けたか否か(この点は,後に詳述する。)などの点に関し,記憶にあいまいな部分もあることなど,その供述の正確性に関して疑問を生じさせる事情がある。しかし,集談室への入退室及び集談室内での行動に関する供述には特段不自然な点はないこと,入退室時刻については,前後に入室したD3及びD4の供述によって裏付けられていること,退室後の行動については副院長室のパソコンの記録等で裏付けられていること,集談室内でD1とV1は会話をしていないため,D1がV1の入室を記憶しておらず,又は,V1の入室に気付かなかった可能性もあることなどの事情を考慮すれば,集談室への入退室状況及び集談室内における行動に関するD1の供述は,概ね信用できる。

(ウ) D3の供述について

D3は,内科の医師であって被告人の部下であり,被告人に有利な供述をする理由があると一応いえるものの,入退室状況に関する供述に特段不自然な点はなく,午前8時5分ころの入室については,前後に在室していたD2及びD1の供述と時間的に整合していることから,記憶の正確性は高く,その供述は信用できる。

(エ) D4の供述について

D4は,被告人に対して殊更不利益な供述をする理由はなく,供述内容に特段不自然な点はない上,本件当日当直勤務に就いており,当直日誌への署名や検食等当直医の職務内容を踏まえて供述していること,供述内容がD5の供述内容と合致していることからすると,記憶の正確性は高く,その供述は信用できる。

(オ) D5の供述について

D5は,D4同様,被告人に対して殊更不利益な供述をする理由はなく,供述内容に特段不自然な点はない上,供述内容がD4の供述内容とも合致していることから記憶の正確性は高く,その供述は信用できる。

なお,弁護人は,D5が集談室を退室した時刻について,同人の供述によれば退室時刻は午前8時45分前後である旨主張している。しかし,D5は,外来診察を始める際に大体腕時計を見る習慣があるところ,当日は午前8時45分を一,二分過ぎていた記憶があること,集談室から外来診察室までは歩いて30秒から40秒かかることを供述しているものの,併せて,本件の9日後である同年11月6日に時報と照らし合わせて確認したところ腕時計は3分進んでいたこと,逆算すれば集談室を退室した時刻は午前8時43分ころであることを供述している(D5第3回24頁。なお,弁護人が,D5は45分前後が正しいと供述していると主張する箇所(D5第3回58,59頁)も,腕時計が進んでいたことによる修正前の時間を供述しているものと認められる。)。D5は,時報と照らし合わせて確認したところ腕時計は3分進んでいたという具体的な根拠に基づいて記憶喚起しながら退室時刻について明確に供述しているのであって,この供述の信用性は高く,退室時刻は,午前8時43分ころと認められる。

(カ) Nの供述について

Nは,医師ではなく保清婦であり,アジ化ナトリウムとの接点がない上,特定の医師のために勤務していたものでもないから殊更虚偽の供述をする理由がなく,供述内容は,各医師の供述と概ね合致していることから,記憶の正確性は高く,その供述は信用できる。

(キ) D6の供述について

D6の入退室については,被告人も,当公判廷において,事務机の前の椅子に座って文献リストを読んでいると誰かが東側ドアから入ってきて事務机の上のビニールのファイルの中に書類のようなものを入れて,即座に足早に立ち去って,東側ドアから出ていったが,後にこの人物はD6だとわかった旨供述していることから(被告人第19回12,13頁)裏付けられており,この点に関するD6の供述は信用できる。

D6の入退室時刻については,検察官は,午前8時48分ころである旨主張するが,D6は,退室後の行動について実況見分の状況を参考にしつつ供述し,検察官の尋問にも弁護人の尋問にも一貫して退室時刻は午前8時48分を中心として二,三分の幅がある旨供述している。したがって,D6の入退室時刻は,午前8時46分から50分ころと認めるのが相当である。

なお,D6は,昼に集談室に各医師が集まってきた際に,ポットの湯にアジ化ナトリウムが投入されているのではないかと発言したことを否定しているが,後述のとおり,V6及びV3の供述から,D6が上記発言をしたことが認められるところ,D6は,この点について虚偽の供述をしていることが疑われる。関係者の多数が犯人性を疑われる特殊な状況にある本件において,上記発言は自己に不利になると認められるものであり,この点について虚偽供述をしていることが疑われるとの理由によって,同人の供述の信用性がすべて否定されるものではないが,他の裏付けがない部分についてまで,同人の供述に基づいて詳細な事実認定をすることには躊躇せざるを得ない。特に,検察官は,D6が入室した際には東側ドア,西側ドア共に閉まっていた旨供述している部分(D6第4回10,40頁)については,D2の供述(D2第12回26頁から30頁まで)によって裏付けられる旨主張するが,同人の供述についても,上記のとおりの問題があるのであって,D6及びD2の供述によって,D6の入室時に東側ドア,西側ドアは共に閉まっていたと認定することはできない。

(ク) D7の供述について

a D7は,集談室に入室時に誰が在室していたかなどについて捜査段階に比較して供述内容が減退していることが認められるものの,本件当日の治験患者及び脳波撮影ビデオテープの分析結果並びに外来患者の受付及び医療費精算時刻の記録,カルテ及び総合検査票(採血)等(捜査報告書(167から169まで))を元に各患者の個性をも指摘して診察に要した時間を検討し,記憶を喚起した上で,集談室に入室した状況を供述しており,かつ,集談室入室後の状況についての供述は,V2,N,V1及びV5の各供述によって裏付けられているものであって,信用できる。

b D7の検察官調書(113)の証拠能力

D7は,集談室内に入室した際の在室者,V1の体調不良の状況等について,検察官調書(113)と比較して公判廷ではあいまいな供述をしており,検察官は,D7の検察官調書(113)を刑事訴訟法321条1項2号後段に基づいて証拠調べ請求をしたが,当裁判所はこの請求を却下したので,その理由を説明しておく。

関係各証拠によれば,①D7は,「取りあえずは,覚えてることを覚えてる範囲で言っていて,そうかも分からへん,そうだったかもしれないということは,できるだけ言わないようにして」おり,確実に記憶に残っていることのみ供述していること(D7第5回104頁),②捜査段階においても,その場,その場で誠心誠意,記憶しているとおりに答えたと供述していること(D7第5回103頁),③検察官調書作成時までに何度か事情聴取を受け,上記の資料を使用して捜査官に記憶喚起をされていたことが窺われることなど検察官調書における供述の方が正確な記憶に基づくものであることを基礎づける諸事情が認められるが,他方で,①上記検察官調書は本件後約1年3か月経過した平成12年2月18日に録取され,D7は本件後約1年9か月経過した同年7月24日の第5回公判に証人として出頭し,供述しているところ,検察官調書録取の時期自体本件発生から約1年3か月経過しており,録取までに既に記憶が相当減退していたものと推測される上,D7自身,警察段階における供述について,その内容が変わったり,ぶれがあったことを認めているのであって,そのような警察段階における事情聴取に引き続いてなされた検察官調書録取時の記憶と公判供述時の記憶に大差があるとまではいえないこと,②公判廷においても,上記資料を使用して十分に記憶喚起の手段が講じられており,記憶喚起の程度についても検察官調書録取時と公判供述時に大差はないと考えられること,③D7は,実況見分について,とにかく早く終わってほしかったため,申し訳ないけれども,若干大ざっぱなところがあったかもしれない旨供述していること(D7第5回102頁)等の検察官調書における供述が公判廷における供述よりも正確な記憶に基づくものであることに疑いを生じさせる諸事情も認められることも併せて考慮すれば,上記検察官調書には,信用すべき特別の情況が存するとはいえず,証拠能力を肯定することはできない。

(ケ) D9の供述について

D9は,第2の2(1)のとおり,アジ化ナトリウムが投入されたと推認される後にポットの湯を飲んだにもかかわらず発症しなかったところ,D9がポットの湯を飲んだ点については,N,V2,V7及びD3の各供述によっても裏付けられないが,D9は,本件直後に捜査機関からの指示で本件当日の出来事をメモし(D9第21回),また,本件の12日後にコーヒーを飲んだ状況を再現し(実況見分調書(227))ているのであって,その記憶の保持の点については疑問の余地はない上,第2の2(1)のとおり,D9が発症しなかったことは,科学的にも矛盾しないから,その供述は信用できる。

2  アジ化ナトリウムの投入時間帯

(1) 第2の1(2)で認定した各事実によれば,ポットの湯にアジ化ナトリウムが投入されたのは,V1がポットの湯で紅茶を作った午前8時54分から57分ころより早い時間帯であると推認される。

なお,V2が飲んだときとV3が飲んだときの間である午前11時前ころに飲んだD9が発症しなかった点については,中毒学を研究テーマとしているU1大学医科学センター教授Pr2の検察官調書(233)によれば,D9のアジ化ナトリウム推定摂取量が約9.9ミリグラムと少ない上,水道水を足して薄めて飲んだこと,同人は当時31歳であって年齢が若く体力があると考えられることから説明可能である。

(2) 他方,D4は,午前8時15分から20分ころまでの間に集談室に入室し,ポットの湯で緑茶を作り,これを飲んだが発症せず,D5は,午前8時25分から26分ころまでの間に集談室に入室し,ポットの湯でインスタントコーヒーを作り,これを飲んだが発症していない。そこで,各被害者の飲み残し飲料中のアジ化物イオンの濃度(鑑定書(10))及びアジ化物イオンの濃度変化に関する実験等の結果(捜査報告書(223,224),鑑定書(職権9))から,アジ化ナトリウムがポットの湯に投入されたのが,D5がポットの湯でインスタントコーヒーを作った午前8時25分から26分ころ以降の時間帯であるといえるかについて検討する。

ア ポットの湯及び被害者の飲み残し飲料からのアジ化ナトリウム(アジ化物イオン)等の検出状況並びに被害者及び関係者の飲量等の特定

(ア) 本件発生直後に押収されたポットの残り湯及び被害者が飲み残した飲料から検出されたアジ化ナトリウムの濃度(アジ化物イオンについてはアジ化ナトリウムの濃度に換算)は,ポットの湯から約189ppm,飲み残しの飲料については,飲んだ順に,V1が飲み残した紅茶から約487ppm,V2が飲み残したコーヒーから約134ppm,V3が飲み残したほうじ茶から約171ppm,V4が飲み残した緑茶から約139ppm,V5が2回目にポットの湯を飲んだ際に飲み残した緑茶から約123ppmであった(鑑定書(10))。D4,D5,V5(1回目にポットの湯を飲んだコーヒー),V6,V7及びD9の飲み残しは残っていなかったため,同人らが飲んだ飲料中のアジ化物イオンの有無及び濃度は不明である。

なお,ポットは,容量2.4リットルであり,Nが,V1が飲んだときとV2が飲んだときの間の午前9時30分ころ,ポットの湯の残量約1480ミリリットルに対して,やかんに水道水を入れてポットに約966ミリリットル注ぎ足し,さらに,V2が飲んだときとV3が飲んだときの間の午前10時30分ころ,ポットの湯の残量約1660ミリリットルに対して,やかんに水道水を入れてポットに約820ミリリットル注ぎ足している。(実況見分調書(180))

また,アジ化ナトリウム投入後の溶解所要時間に関する工作の可能性にを裏付けるオブラートの成分であるでんぷんや薬物用のカプセルの成分であるゼラチンは,ポットの湯から検出されなかった。(捜査報告書(237),電話受発信書(238),鑑定書(240))

(イ) 捜査段階において,各被害者がポットの湯でコーヒー等を作って実際に飲んだ量を再現した結果は,V1が150ミリリットル,V5のコーヒーが158ミリリットル,V6が143ミリリットル,V7が33.5ミリリットル,V2が95ミリリットル,V3が124ミリリットル,V4が170ミリリットル,V5の緑茶が128ミリリットルであった。(鑑定書(10),実況見分調書(172から178まで))

これに対し,ポットの湯を飲んだにもかかわらず発症しなかったD4,D5,D9が同様に再現した結果は,D4が90.5ミリリットル,D5が194ミリリットル,D9が58ミリリットルであった。(実況見分調書(170,171,227))なお,D9は,水道水約187ミリリットルを足して全部飲んだ。(実況見分調書(227))

イ ポット中のアジ化ナトリウムの濃度変化,溶解拡散状況に関する実験結果及びアジ化ナトリウムの投入量の算出

(ア) 捜査段階で実施された本件ポットと同様の電気ポット中のアジ化ナトリウムの濃度変化,溶解拡散状況についての実験結果及びアジ化ナトリウムの投入量の算出結果は以下のとおりである。

a アジ化ナトリウム500ppm水溶液の時間経過に伴う濃度変化の実験結果は,2リットルの湯を貯えたポットにアジ化ナトリウム粉末結晶1グラムを投入し,その後10秒から50秒の間,10秒ごとに給湯口から給湯して測定した結果は,410ppmから1180ppmと濃度の変動が大きく,濃度の高い部分が吸い込み口に近づく等の偶然的要素の影響を受ける。投入後22分から30分の間では530ppmから620ppm,投入後120分から210分の間では520ppmから580ppmの幅で濃度が変動し,次第に計算上の数値である500ppmに近づく。(捜査報告書(223))

b aと同様に投入したアジ化ナトリウム粉末の溶解拡散状況の実験結果は,アジ化ナトリウム投入後1分から10分の間では410ppmから920ppmと濃度変動が大きく,投入後11分から20分の間では500ppmから650ppmの幅で濃度が変動する。アジ化ナトリウムの結晶粉末は溶解しながら落下していき,ポットの中央下部ほど濃度の高い溶液を形成するが,ポットが保温状態にあるため,ポット下部のヒーターによる加熱によって対流を起こし濃度が均一な溶液になろうとする。しかし,投入後の時間があまり経っていない段階では対流による攪拌が十分でないため,計算上の数値に一致しない。(捜査報告書(224))

c アジ化ナトリウムの投入量の算出結果は,V1が飲んだ紅茶中の濃度とポット内の濃度が等しいとした場合には投入量は約0.74グラム,各被害者が飲んだお湯の量とアジ化ナトリウム濃度からアジ化ナトリウムの量を合計する場合には約0.8グラム,お湯の残量から投入されたアジ化ナトリウムの量を計算する場合には約0.71グラムとされている。(捜査関係事項照会回答書(146))

(イ) アジ化ナトリウム投入時刻を午前8時40分,投入量を粉末0.8グラムと仮定して被害者らの供述等を基に濃度変化を鑑定した結果の要旨は,①科捜研の鑑定結果(鑑定書(10))と数値が異なる結果であったが,数値が異なった理由は試料の保管状況に由来するアジ化物揮散程度の差異等によるものである,②アジ化ナトリウム投入が午前8時40分より早い時間帯と仮定した場合,アジ化物の検出結果が被害者らの供述,鑑定書(10)を基にした数値により近くなる可能性は少ない,③V2が飲んだインスタントコーヒーのアジ化物イオン濃度より,ポットに水を注ぎ足した後にV3が飲んだほうじ茶のアジ化物イオン濃度が高いことは,インスタントコーヒーでアジ化物イオン濃度の数値が低く検出されたことやインスタントコーヒーからのアジ化物揮散程度が顕著であること等が要因であると考えられる,というものである。(鑑定書(職権9))

ウ アジ化ナトリウムの濃度変化,溶解拡散状況等に関する実験結果及び鑑定結果並びに各意見書に基づく投入時間帯についての検討

(ア) 第2の2(2)イの実験結果及び鑑定結果によれば,ポットの湯にアジ化ナトリウム粉末を投入した後の濃度変化については計算上の数値以下から計算上の数値の約2倍まで幅があり,また,溶解拡散状況についても計算上の数値と一致しないなど,偶然的要素の影響を受けるものである。

しかしながら,D5の次にポットの湯を飲んだV1が飲み残した紅茶からアジ化ナトリウムに換算して約487ppmの濃度のアジ化物イオンが検出されたこと,D5はポットの湯を194ミリリットル飲用していること,上記Pr2の検察官調書(233。9頁から12頁まで)によれば,アジ化ナトリウムを5ミリグラムから10ミリグラムあるいは6.5ミリグラム摂取した場合の発症例が報告されていることから,D5がポットの湯を飲用する前にアジ化ナトリウムがポットに投入されていたとすれば,D5は発症していたものと推測されるから,D5が発症していない本件においては,アジ化ナトリウムが投入されたのは,D5がポットの湯でコーヒーを作った後であると考えるのが自然である。

(イ) なお,弁護人は,①鑑定書(10)と鑑定書(職権9)の実験結果に齟齬があること,②鑑定書(10)において,V2が飲み残したコーヒーのアジ化物イオンのアジ化ナトリウムに換算した濃度が約134ppmであるのに対し,Nがポットの湯の残量約1660ミリリットルに,水道水約820ミリリットルを注ぎ足した後にV3が飲んで残したほうじ茶の同濃度が約171ppmであって濃度が逆転していることを指摘し,科学的な意見書(弁9から弁16まで)を提出して,鑑定書(10)及び鑑定書(職権9)の鑑定結果は疑問である旨主張する。これに対し,検察官は,そもそも,両鑑定は,全く同じ検体を全く同じ条件下で鑑定したわけではない上,GC-MS定量法における試料マトリックス効果,同定量法の精度,試料保管状況に由来するアジ化物揮散程度についても,時間の経過により,「ほうじ茶」よりも「コーヒー」の方がアジ化ナトリウム濃度の減少率が大きいこと(230,241から244まで),GC-MS定量法における試料マトリックス効果は,ほうじ茶よりも,タンパク質である粉ミルクが含有されるコーヒーの方が大きいこと(鑑定書(職権9)5頁)等により,合理的に説明できる旨反論する。

さらに,弁護人は,溶解所要時間の工作の可能性について,ポットの湯からオブラートの成分であるでんぷんや薬物用のカプセルの成分であるゼラチンは検出されなかったという点に関し,薬学博士であるU2大学大学院助手S1作成にかかる意見書(弁11)に基づき,メチルセルロース及びその誘導体で包み,又は固めた場合には検出が困難であり,これらの物質は,病院関係者であれば簡単に入手可能である旨主張する。

そこで,以上の科学的な証拠に基づく,弁護人及び検察官の主張について検討するに,弁護人が指摘する両鑑定の問題点によって,上記両鑑定書の信用性が否定されるものではなく,また,弁護人が指摘する溶解所要時間の工作可能性について併せて考慮しても,第2の2(2)ウ(ア)で述べたとおり,アジ化ナトリウムが投入されたのは,D5がポットの湯でコーヒーを作った後であると考えるのが自然であるとの心証が大きく影響を受けるものではないが,他方で,弁護人指摘の点について,検察官の提出証拠によってすべて説明が尽くされているか否かは,当裁判所も確信を持って述べることは困難であり,D5がポットの湯でコーヒーを作る前にアジ化ナトリウムが投入されていた可能性は皆無であると上記科学的な証拠によって断定することもできない。

3  集談室への入退室状況及び投入時間帯の特定による被告人の犯人性の検討

(1) 被告人の集談室への入退室状況

第2の1(2)の各事実からすると,被告人は,D4及びD5が在室中であった午前8時25分から26分ころ以降に集談室に入室し,事務机付近に立ってD5と会話を始めた。午前8時30分過ぎころD4が退室し,その後Nが入室して洗い物を始め,D5は午前8時43分ころ退室し,被告人は事務机の前の椅子に座った。午前8時46分から50分ころまでの間に,D6が入室し,被告人が座っている椅子の前の事務机の上にあるレターケースに書類を入れ,すぐに退室した。その後,D7が入室して,南側ソファーに座って,新聞を読み始め,さらに,V2が入室した際には,医師はD7のみが在室していたことから,被告人は遅くとも午前8時52分から53分ころまでの間には退室したことが認められる。

(2) 被告人の犯行可能性の検討

被告人は,第2の2でアジ化ナトリウム投入時間帯と考えるのが自然であると判断される,D5がポットの湯でコーヒーを作った午前8時25分から26分以降V1がポットの湯で紅茶を作った午前8時54分から57分ころまでの時間帯のほとんどを集談室に在室していた。この間,被告人のほかにもD4,D5,N,D6,D7,V2が入室しているが,第2の1(2)で認定した各人の入退室状況及び集談室内での行動,特に,背を向けて洗い物を続けていたNと2人だけになった可能性があるのは被告人とD7のみであること,D7が投入したとすれば,D7の入室以前にポットの湯を飲用したという被告人が発症したことになり矛盾することなどの事情に照らせば,被告人がアジ化ナトリウムを投入した可能性は,他の在室者に比して相当に高いということができる。

しかしながら,N及び各医師は,集談室内の人物の動向に常に注意を払っていたわけではないことを考慮すれば,他の在室者の犯行可能性を完全に排除することはできず,加えて,第2の2(2)ウ(イ)のとおり,D5がポットの湯でコーヒーを作る前にアジ化ナトリウムが投入されていた可能性は皆無であると科学的な証拠によって断定することはできず,それ以前の時間帯には,第2の1(2)の認定事実によれば,上記関係者又はそれ以外の者が集談室に入室することも可能である状態であったことをも考慮すれば,集談室の入退室状況及びアジ化ナトリウムの投入時間帯を特定することによって,被告人の犯行可能性をある程度立証できたとしても,被告人を犯人であると断定することはできない。

第3被告人とアジ化ナトリウムの接点

1  検察官は,被告人が研究室として使用していた第3病棟1号館2階の免疫学研究室Ⅱ(以下「免疫Ⅱ」という。)にあったアジ化ナトリウムの瓶からアジ化ナトリウムを取り出して,ポットの湯に投入し,犯行後,アジ化ナトリウムの瓶を免疫Ⅱと同じく第3病棟1号館2階にあるバイオハザード室に隠匿した旨主張するので,以下検討する。

2  免疫Ⅱにあったアジ化ナトリウム瓶とバイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウム瓶の同一性

(1) 関係各証拠によれば,本件後,病院内で発見されたアジ化ナトリウム瓶について,以下の各事実が認められる。

ア 本件後,警察から病院に対して,病院内のアジ化ナトリウムの調査依頼をしたところ,以下のとおり,合計6か所から7本の瓶が発見され,平成10年10月30日付けで5か所から5本(第3の2(1)イ(ア)から(オ)まで),同年11月14日付けで1か所から2本(第3の2(1)イ(カ))が,警察に提出,領置され,鑑定の結果,いずれもアジ化ナトリウムであることが確認された。

イ(ア) 第3病棟2号館2階RI化学検査室から1本(X薬品株式会社製)(捜査報告書(56),任意提出書(57),領置調書(58),写真撮影報告書(59),実況見分調書(60),鑑定依頼書写し(81),鑑定書(82))

(イ) 第3病棟2号館2階病理検査室から1本(X薬品株式会社製)(捜査報告書(61),任意提出書(62),領置調書(63),写真撮影報告書(64),実況見分調書(65),鑑定依頼書写し(81),鑑定書(82))

(ウ) 第3病棟2号館2階自律神経機能検査室から1本(x株式会社製)(捜査報告書(66),任意提出書(67),領置調書(68),写真撮影報告書(69),実況見分調書(70),鑑定依頼書写し(81),鑑定書(82))

(エ) 第3病棟1号館2階バイオハザード室から1本

バイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウムは,Y化学株式会社製,茶褐色の25グラム瓶である。(平成12年押第92号の2。捜査報告書(71),任意提出書(72),領置調書(73),写真撮影報告書(74),実況見分調書(75),鑑定依頼書写し(81),鑑定書(82))同瓶には,中蓋が付いており,平成13年6月28日の検証の時点で,アジ化ナトリウムは,瓶の底に固まった状態で,シャーベット状であり,瓶の蓋を全部外し,開口部が下になるようにして回転させたが,瓶の底のアジ化ナトリウムは移動しなかった。(第20回公判調書中の検証調書部分)なお,瓶表面に被告人の指紋は付着していなかった。(P第14回53頁)

同室で発見されたアジ化ナトリウム瓶は,同室内入口西側のキャビネット上に置かれている前面に扉がない3段の木製試薬棚の中段に,パラホルムアルデヒド(粉末)の瓶の奥に置かれていた。上記アジ化ナトリウム瓶の存在は,確認の指示があるまでは知られていなかった。同室は,第3病棟1号館2階の東西に延びる廊下の南側東端にある。同室の出入口は廊下に面した内両開きドアで明かり取りのガラスがはめ込まれており,ドアの鍵は,室内に人がいるときはドアの取っ手部分に木製の鈴が付いた鍵が差し込まれた状態になっている。退室時には,鍵はバイオハザード室西隣の神経免疫研究室出入口ドア外側に取り付けられたビニール製メールボックスの中に入れてあり,同メールボックスに鍵が入っていることを外側から容易に確認することができる。(実況見分調書(75))

(オ) 外来診療管理棟2階天秤室から1本(Z薬品株式会社製)(捜査報告書(76),任意提出書(77),領置調書(78),写真撮影報告書(79),実況見分調書(80),鑑定依頼書写し(81),鑑定書(82))

(カ) 第3病棟1号館2階組織培養室から2本(X薬品株式会社製及びx株式会社製各1本)(捜査報告書(83),任意提出書(84),領置調書(85),写真撮影報告書(86),実況見分調書(87),鑑定依頼書写し(88),鑑定書(89))

(2) 被告人が研究室として使用していた免疫Ⅱ内のアジ化ナトリウム瓶の存在及びバイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウム瓶との同一性について,平成6年7月1日から平成9年4月30日まで本件病院で勤務していたD12の供述(第10回公判)によれば以下の各事実が認められる。

ア(ア) D12が勤務していた当時,内科にはD12のほか,被告人,D13,D3(D13の後任)が勤務していた。免疫Ⅱを使用していたのは,D12のほか,被告人,D13,D3,D14,D15及び助手2人であった。

(イ) D12は,平成6年7月ころから,免疫Ⅱで恒温槽に入れる防腐剤としてアジ化ナトリウムを使用した。D12が使用していたアジ化ナトリウムは元々免疫Ⅱにあったもので,免疫Ⅱ室内中央の試薬棚の上又は実験器具や試薬を入れていたガラス棚にあった。アジ化ナトリウムの瓶は,D12が大学で使っていたX工業又はx製のものではなく,茶色の円筒型ガラス製の25グラム瓶で,中蓋はなく,蓋とラベルは濃いオレンジ色であった。開封済みであり,使用開始時にはアジ化ナトリウムは半分くらいの量であったが,使用後の残量は,平らにして底が見えない程度,瓶を横に傾けると少し底が見えてくる程度であり,さらさらとした粉末状であった。

バイオハザード室で発見された瓶は,X工業又はx製のものではないこと,25グラムの茶色の円筒形の瓶であること,ラベル及び蓋の色が濃いオレンジ色であること,瓶内の残量等多くの点において,D12が使用していたアジ化ナトリウムの瓶の記憶と共通している。また,本件病院で発見された他のアジ化ナトリウム瓶と比較しても,D12の記憶に一番近いものである。ただし,D12が使っていたアジ化ナトリウムの瓶の記憶とは,中蓋がある点及び瓶の底に固まった状態でシャーベット状である点が異なる。D12が最後にアジ化ナトリウムの瓶の中を見たのは平成7年の夏で,平成8年以降はそのアジ化ナトリウムを使っていない。D12は,本件病院を退職する際,そのアジ化ナトリウムの瓶を処分しなかった。

アジ化ナトリウムには毒性があるところ,D13の妻が実験器具の洗浄等を担当しており,触れるおそれがあったため,D13からの注意で,D12は,恒温槽にアジ化ナトリウムを入れた際には,その旨テープに記載して貼っていた。

D12がアジ化ナトリウムを使用していたのは,免疫Ⅱにおいてのみであったが,免疫Ⅱの培養器や遠心分離機が故障した際,バイオハザード室の培養器や遠心分離機を使用した。

イ D12は,本件当時,本件病院に勤務していなかったこと,大学において被告人と研究室が同じであるものの,被告人がD12の人事等を左右できる立場になかったことなどに照らせば,殊更虚偽の供述をする理由がない上,その供述は,具体的であって信用できる。

(3) 検討

上記のとおり,D12のアジ化ナトリウムの識別供述が具体的であることに加え,D12が退職した後も免疫Ⅱにはアジ化ナトリウムの瓶が残されていたこと,被告人もD12が使用していたアジ化ナトリウムの瓶をその後に処分した記憶はなく,誰かが処分したということも聞いていない旨供述していること(被告人第19回85頁),むしろ,被告人は,後述のとおり,アジ化ナトリウムの処分について不自然な発言をしていること(第6の2(2)カ),本件後に病院の指示で免疫Ⅱを探したときにはアジ化ナトリウムの瓶は発見されなかったこと(被告人の警察官調書(217))など免疫Ⅱにアジ化ナトリウムが存在していたにもかかわらず,それが無くなったことを推認させる事情を考慮すれば,バイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウムは,D12が使用していたものと同一である可能性が高いということができる。ただし,上記のとおり,中蓋の有無及びアジ化ナトリウムの形状についての相違点があることを踏まえれば,同一物であると断定するのは躊躇せざるを得ない。

3  病院内のアジ化ナトリウムの管理状況

関係各証拠によれば,以下の各事実が認められる。

(1) 第3の2(1)イ(ア)のアジ化ナトリウムは,生化学主任兼RI取扱主任者であるD16が第3病棟2号館2階RI化学検査室において管理している。上記D16はアジ化ナトリウムを鍵のかかる保冷庫に保管し,保冷庫の鍵はRI化学検査室内の実験台の引き出しに保管していたところ,RI化学検査室に至る木製出入口ドアは帰宅時に施錠し,そのドアの鍵は施錠されていない機械室出入口東側の上下2段に置かれた空調機の間に置いてあった。(実況見分調書(60))

(2) 第3の2(1)イ(ウ)のアジ化ナトリウムは,V6が管理している。V6はアジ化ナトリウムを自律神経機能検査室内の冷蔵庫に保管しているが,同冷蔵庫に施錠設備はなく,同室の鍵は同室の使用者が各自所持保管していた。

(3) 第3の2(1)イ(イ),(オ)及び(カ)のアジ化ナトリウムは,本件後に,職員が病院内でアジ化ナトリウムを探したところ,それぞれ第3病棟2号館2階病理検査室のスチールキャビネット,外来診療管理棟2階天秤室床に置かれた段ボール箱及び第3病棟1号館2階組織培養室の実験台下部のコンテナボックス2箱からそれぞれ発見されたものであり,その存在は知られていなかった。(実況見分調書(65,80,87))また,組織培養室からはアジ化ナトリウムの空き瓶も発見された。(D17第22回5頁)

4  アジ化ナトリウムの毒性等に関する被告人の認識

D12の上記供述から認められる免疫Ⅱでのアジ化ナトリウム使用状況,本件に先立ってアジ化ナトリウムが電気ポットの湯に投入されるという類似の事件が全国各地で多発していた状況に加え,被告人の経歴等からすれば,被告人は,アジ化ナトリウムが人体に害を及ぼす性質のものであることを知っていたと認められる。

5  以上からすると,バイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウムは,D12が免疫Ⅱで使用していたものと同一である可能性が高いということができること及び被告人がアジ化ナトリウムの毒性を知っていたことは,被告人が,免疫Ⅱにあったアジ化ナトリウムの使用可能性を推認させる事実であることは否定できない。

しかしながら,上記のとおり,バイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウム瓶とD12が使用していたアジ化ナトリウム瓶が同一物であると断定することはできない。加えて,第3の2(1)イ(オ),(カ)で発見されたアジ化ナトリウムの保管状況が極めてずさんなものであることに照らすと,病院関係者であれば,アジ化ナトリウムを入手することはそれほど困難ではないということができるから,バイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウム以外のアジ化ナトリウムが本件犯行に使用された可能性を排除することはできず,上記の事実をもって,被告人が犯人であると特定することはできない。

第4被告人が提出した尿からアジ化物イオンが検出された点について

1  被告人らが提出した尿の鑑定書(32)によれば,プラスチック製栓の上からパラフィルム様のフィルムで封じられたプラスチック製試験管(「10/28 A 尿」と表示のあるもの)在中の尿約10ミリリットル中から,アジ化ナトリウムに換算して217ppmのアジ化物イオンが検出されたことが認められる。他方で,本件当日提出されたV1,V7及びV4の尿並びに本件翌日提出された被告人及び他の医師の尿からはアジ化物イオンが検出されず(鑑定書(32)),本件当日提出された被告人及び他の医師の血液の血清並びに本件翌日提出された被告人及び他の医師の血液からもアジドイオンは検出されなかったことが認められる。(電話受発信書(38,44))

そして,U3大学医学部衛生学教室助教授Ap1(45),U4大学医学部衛生学講座教授Pr1(231),同助教授Ap2(232),上記Pr2(233)の各検察官調書によれば,経口摂取されたアジ化物イオンは体内で希釈されることから,各医師の尿,血清及び血液からアジ化物イオンが検出されなかったことは何ら不合理ではなく,他方,本件当日提出された被告人の尿中から検出されたアジ化物イオンは,高濃度であることから,経口摂取され体内の代謝により排泄されたものではなく,直接排泄後の尿に混入されたものであることが認められる。

検察官は,被告人の尿に第三者がアジ化ナトリウムを混入できる余地はなく,被告人が,被害者を装うための偽装工作として自らの尿にアジ化ナトリウムを混入した旨主張するので,被告人の尿に,被告人以外の者がアジ化ナトリウムを混入することが可能であったか否かについて以下検討する。

なお,弁護人は,上記鑑定結果について,測定精度に疑問がある旨主張するが,上記鑑定は,鑑定資料である尿をすべて同様に調製した後,ガスクロマトグラフ質量分析装置を用いて分析した結果,被告人の尿のみから上記濃度のアジ化物イオンが検出されたというものであるところ,H2病院臨床研究部生化学研究室長S2作成にかかる書面(弁13)及びその参考文献によれば,上記鑑定で用いられた方法について高精度な分析ができる旨指摘されている。同書面は上記S2の経歴等に照らして信用できることからすると(もっとも,上記書面中で上記S2は,鑑定書(職権9)について,記録上鑑定人が知り得ない条件の下で鑑定したことを挙げて鑑定人を非難する箇所もあり,上記S2の主張の全部が当を得たものであるとまではいえない。),測定精度についての弁護人の上記主張は採用できない。

2  採尿に至る経緯及び尿の保管搬送状況

(1) 関係各証拠によれば,被告人が採尿に至るまでの集談室内の状況について,以下の各事実が認められる。

ア 午後零時ころ,集談室に在室していた医師の間で,動悸や頻脈等の症状が出ている者が複数いることが認識され,症状の出た者はポットの湯を飲んだ後に発症したことから,ポットの湯の異常が疑われた。V2は,D6と共に,集談室内にいた各医師からポットの湯を飲んだ時間,湯を飲んだ後の症状について聞き取り,メモを作成した。

イ 午後零時30分ころ,V6は,集談室に入室し,ポットの湯に投入された異物について会話した際,D6は「(昇圧剤である)ボスミンでも入ってんじゃないかな。」などと言ったが,V6は血圧が下がって倒れたことから,ボスミンではない旨否定した。これに対し,D6は「ひょっとしてアジ化ナトリウムかもしれない。」などと話したので,V6がアジ化ナトリウムの毒性について尋ねたところ,D6は「そんなの分からん。」などと答え,毒性についての説明はなかった。(V6の検察官調書(127)5,6頁)この点,D6は,アジ化ナトリウムかもしれない旨の発言について否定するものの,V6の供述は,具体的であって信用性が高く,また,V3も本件当日アジ化ナトリウムの話が出ていたことについては肯定していることから(V3の検察官調書(138)10頁),D6が上記発言をしたと認めるのが相当である。

ウ V4及びV3は,外来診療管理棟1階の14番処置室でそれぞれ自主的に採血し,採取された血液は,臨床検査科に提出された。(V4(143)及びV3(138)の各検察官調書)

他方,集談室内においても,各医師は自主的に採血を行い,V6が,V2,V6,V1,被告人,V5,V7,D5(実況見分調書(229))から採取した血液が入っている採血管を外来診療管理棟2階臨床検査科一般検査室(以下「一般検査室」という。)へ持参し,臨床検査科技師長のC1に手渡し,血清にして上記V4の血液と一緒に保存するよう依頼した。なお,V6は,採血管の保存の理由や,医師数人分の採血を行うことになった理由についてC1に説明することはなかった。(V6の検察官調書(127))

エ V2からの連絡で,M1事務部長が各医師の体調不良の状況を確認し,副院長であるD1に連絡するとともに,午後零時30分ころD11に報告し,同院長の指示により,近畿地方医務局に確認の上,午後1時30分ころ,本件を警察に通報した。(捜査報告書(1),(2))

(2) 関係各証拠によれば,臨床検査科に提出された尿の保管搬送状況について,以下の各事実が認められる。

ア 一般検査室付近及び室内の状況(C1第7回,C2第8回,実況見分調書(4,53,80),検証調書)

(ア) 外来診療管理棟は,東西に長い2棟の建物の東側部分を南北に延びる連絡通路がつなぐ「コ」の字形の建物である。東西に長い北側及び南側建物は2階建てであり,南北の連絡通路部分は1階建てである。南側建物1階には外科,泌尿器科,呼吸器科,内科の各診察室のほか,処置室(以下「14番処置室」という。)等がある。同2階には院長室,副院長室,名誉院長室等がある。北側建物1階には放射線科事務室,CT室,MRI検査室等があり,2階には臨床検査科がある。

(イ) 臨床検査科は東西に延びる廊下に沿って,北側には西から天秤室,洗滌準備室,消毒滅菌室,培養室,細菌鏡検室,細菌検査室,階段,便所,器材庫があり,南側には西から病理検査室,血清検査室,生化学検査室,一般検査室,事務室がある。一般検査室と生化学検査室は内部の片開きのドアで通じており,各部屋にはそれぞれ廊下に通じる出入口が2か所あるが,生化学検査室西側の出入口は実験台等によってふさがれた状態である。1階に通じる階段は一般検査室東側出入口のほぼ正面に位置している。

(ウ) 一般検査室内には,実験台が3台あり,東側の実験台は東側出入口をまっすぐに室内に入ったところにある。東側実験台付近から生化学検査室前廊下は臨床検査科受付窓口を通して一部見えるものの,生化学検査室前廊下に設置されていた冷凍庫の位置から東側実験台を見通すことはできない。

(エ) 一般検査室の出入口はいずれも職員が勤務している間は開放されている。臨床検査科に来るのは臨床検査科の9人の職員(C1技師長,C3副技師長,C2主任,C4主任,C5技師,C6技師,C7技師,C8技師,C9助手)のほか,患者,看護婦,研究助手,医師,検査の委託業者であり,患者が検体を持ってきたときは職員が検体を受け取りに出ていくようにしていた。

臨床検査科の各部屋の錠はマスターキーで対応していた。マスターキーは3本あり,勤務時間中は3本とも細菌検査室内の鍵掛け用フックに掛けて保管し,勤務終了後は2本を残して1本を外来診療管理棟1階の管理当直室(以下「管理当直室」という。)に届けていた。臨床検査科廊下西側の非常用階段に通じる扉は閉めるものの,臨床検査科職員が施錠することはなかった。本件以前にマスターキーの紛失や合い鍵を作成したことはなかった。

イ 尿の保管搬送状況

(ア) V4は,採血だけでは不十分なので尿も保存しておこうと考えて採尿用紙コップと尿の検査票を受け取り,14番処置室で検査票に片仮名で「〇〇〇〇〇」と名前を記載し,名前を記載したシール部分を上記紙コップに貼り,外来診療管理棟1階の便所で採尿し,検査票とともに一般検査室へ持参して「これを保存しておいて下さい。」と言って臨床検査科において主に尿検査を担当しているC1に手渡した。C1は,この尿はどういう意味のものかと尋ねてきたが,V4は,病院内が混乱することを恐れ,適当にお茶を濁すような答えをした。V4は,C1に尿と検査票を手渡した後,午後1時前ころ,集談室に戻った。(V4の検察官調書(143),捜査報告書(184))

(イ) 集談室で医師が互いに採血をしていた際,V4が集談室に入室し,採血と採尿をした旨話した。それを聞いたV7は,一般検査室へ行き,C1から採尿用紙コップや検査票を受け取り,検査票に名前を記入してシール部分を紙コップに貼った。V7は,採尿した後,尿が入った紙コップと検査票を東側実験台上に置いて,C1に対し,保存するよう依頼した。(V7の検察官調書(131),捜査報告書(184))

(ウ) V1は,早退して帰宅していたが,午後1時5分ころ,D8から,ポットの湯を飲んで気分が悪くなったことについて事情を聞きたい旨の電話を受け,午後1時35分から40分ころの間に,病院に到着した。V1は,外来診療管理棟北側にあるサービス棟の食堂南側出入口から建物内に入ったところ,受け持ち患者の様子を見るために第3病棟2号館へ行く途中のV7に会った。V7は,V1が気分が悪くなって早退したことを聞いていたため,同人に採血と採尿を勧め,14番処置室に連れていき,V1の採血をした。V7とV1は臨床検査科へ行き,V7がC1から検査票と採尿用紙コップを受け取ってV1の名前を記入した後,V1は採尿して紙コップをC1に提出した。その後,V1は,V7と共に午後1時50分前後ころ集談室に戻った。(V1(118)及びV7(131)の各検察官調書,捜査報告書(183,184))

(エ) 被告人は,尿が入った紙コップのみを臨床検査科に持参した。被告人は,C1に「頼むわ。」などと言い,C1は,一般検査室南東隅にある棚から未使用の検査票を取り出し,「A先生」と記載した。(C1第7回,捜査報告書(184))

(オ) C1は,V4から検査票と尿を受け取った際,検査票に「保存」と記載されていたものの,保存期間,目的が記載されていなかったことから,尿を冷凍保存するものであると考えた。C1は本件病院において尿の冷凍保存をするのは初めてであったため,冷凍保存の容器として通常の尿検査に使用している容量10ミリリットルのプラスチック製容器(以下「スピッツ」という。)でよいかC2に尋ねたところ,C2はスピッツでよい旨答えた。(C1第7回,C2第8回)

C1がV4ら4人の医師の尿を一般検査室の東側実験台において,スピッツに移した際の作業は,紙コップの名前を確認して,スピッツに名前を書き,尿が入った紙コップからスピッツへ直接尿を移し,蓋をしてパラフィルムを蓋とスピッツのつなぎ目の部分に巻き付けるというものであった。冷凍保存用の尿を入れたスピッツは別の空の紙コップに立てて入れて実験台の上に置き,スピッツに移した後の残りの尿は一般検査室内に置いた。

パラフィルムは一般検査室出入口付近の机に置いてあり,幅15センチメートルくらいでトイレットペーパー状に巻かれており,2.5から3センチメートルの幅に切って使用する。パラフィルムは糊付けするのではなく,家庭用のラップのように貼り付けて止めるものである。パラフィルムは一度伸びきってしまうと再利用できず,一度巻いたパラフィルムを巻き戻して再度貼ることができるか否かは貼り付けに際して引っ張った状況により,再利用目的で最初から貼っていたらできるかもしれないが,セロテープと比較しても再利用しにくい。(C1第7回)

(カ) C1は,冷凍保存用の尿を入れたスピッツとは別に残った尿の検査をすることを思い立ち,V4ら4人の尿を紙コップからスピッツに移し,V7,V4,V1,被告人の順で尿の定性検査及び沈査をした。(C1第7回,捜査報告書(184))

C1は,午後4時ころ生化学検査室の隣の血清検査室内のパソコンで資料作成するために部屋を空ける必要が生じたことから,紙コップに立てておいたV4ら4人の冷凍保存用の尿が入ったスピッツを生化学検査室前廊下に設置されていた冷凍庫(実況見分調書(53)現場見取図(第4図)中の「冷凍庫(フリーザー)」。以下「冷凍庫」という。)に入れた。

その後,C1は,血清検査室内のパソコンで作業をし,時折,一般検査室や事務室に出入りしていた。(C1第7回)

(キ) C2は,V3及びV4から臨床検査科に提出された採血管各1本及びC1がV6から受け取った採血管7本を受け取った。C2は,C1から血清分離して冷凍保存するよう言われたが,保存の理由は聞いておらず,採血管に入った血液を遠心分離機に掛けて血清を分離し,医師の名前を手書きしたスピッツに採血管のラベルと照合しながら移し替え,冷凍庫に入れて保存した。(C2第8回,実況見分調書(229))

(ク) C1,C2及び臨床検査技師のC5は,医師の尿又は血清を冷凍庫に保存していることを知っていたが,これらの者は保存の事実を他人に話さなかった(C1第7回,C2第8回,C5第8回)。臨床検査技師のC4は,医師の血液が検体として臨床検査科に提出されたことは知っていたが,この事実を他人に話さなかった。(C4の検察官調書(191))本件当日及び翌日,臨床検査科には不審者の出入りなどは目撃されていない。(C1第7回,C2第8回,C5第8回,C3(185),C8(186),C9(187),C6(188),C7(189)及びC4(190)の各検察官調書)

(ケ) 冷凍庫の鍵は生化学検査室東側出入口内側の柱に掛けられており,本件当日,C5が午後4時45分から午後5時ころの間に冷凍庫を施錠し,鍵は通常どおり生化学検査室の北東隅の電話機の上に掛けた。(C5第8回)C1は,午後7時45分ころパソコンの使用を終えて,臨床検査科の各部屋の施錠を確認し,臨床検査科のマスターキーを管理当直室の当直者に渡して帰宅した。(C1第7回)

(コ) 庶務課人事係長であったM2は,午後5時から翌日午前8時30分まで外来診療管理棟1階の管理当直室において洗濯長のM3と共に当直勤務に就いた。管理当直室以外に,外来特殊診療棟2階に医師当直者1人又は2人と看護婦長の看護当直1人がおり,夜勤の看護婦は各病棟に常時二,三人勤務している。当直開始時には外来診療管理棟2階事務室内庶務課にある鉄製手提げ式鍵箱等を受領して管理当直室へ行き,鍵箱は同室奥の壁際に置いておく。各部屋の者が施錠し,鍵を持ってくると,管理当直室入口で当直者が鍵を受け取って鍵箱に入れる。朝,出勤した者が同室に来たとき,当直者は,鍵箱から鍵を出して渡す。病院全体のマスターキーは病院全体を東西に分ける形で2本ずつあり,管理当直室のほかに庶務係長が外来診療管理棟2階の庶務課で保管している。管理当直室入口の壁に木製の鍵箱があり,調理場,リハビリテーション科,洗濯室等の鍵が保管してあり,木製鍵箱内の鍵は勤務者が直接管理当直室に入って取っていくが,臨床検査科の鍵や病院全体のマスターキーは木製鍵箱に保管されていなかった。

M2は,本件当日の当直に就く前に庶務課長のM4から,事件について問い合わせがあっても翌日まで待ってもらうようにという引継ぎを受けた。午後8時ころ,新聞記者2人が管理当直室を訪れ,事件の内容について責任者から説明を受けたいと言ってきたので,翌日午前8時30分以降に問い合わせるよう答えたが,記者は納得せず1時間くらいおり,その間にM4庶務課長に連絡し,同人が記者に説明した。M2は,当直終了時に管理当直日誌の特記事項欄に新聞記者の問い合わせがあったことを記載した。通常の当直の際にも当直者が2人とも管理当直室から出ることはないところ,本件当日は午後5時の時点で本件発生の情報を聞いており,緊急の連絡等に対処するため,M2かM3が必ず同室に残っていた。

本件当日の巡回警備は,午後9時に副直者のM3が消灯のために巡回し,午後10時30分から午後11時までM2が病院内各病棟及び医師当直者と看護婦長当直がいる外来特殊診療棟の2階部分を除いて施錠確認と消灯の再度の確認をした。このとき,病院全体のマスターキーを持っていった。M2が,臨床検査科の各部屋の施錠確認をした際,冷凍庫の施錠は確認していないが,各部屋のドアは施錠され,消灯済みであった。本件当日にM2らに返した鍵を再度借り出した者はおらず,M2及びM3以外に管理当直室に入った者はなく,鍵の破壊や不審者の情報もなかった。M2が巡回したとき,庶務課には職員が残っており,M4庶務課長が帰ると言ってきたのが翌日午前零時前後だった。M2は,本件翌日午前零時から1時ころの間に就寝したが,管理当直室の引き戸の音やアコーディオンカーテンを開ける状況,同室入口から鍵箱へは当直者2人の枕元を通らなければならない状況等から,第三者がM2らの就寝中に鍵を入手するのは困難であった。

マスターキーは,庶務課においても保管されており,庶務課の鍵は同課の職員6人が各自所持している。外来診療管理棟自体には,夜間においても鍵なしで入ることができ,臨床検査科の廊下にある冷凍庫の前までは鍵なしで行くことができる。(M2第8回,捜査報告書(194))

(サ) 本件翌日,C2が臨床検査科の各部屋及び冷凍庫を開錠した。(C2第8回)

午前8時30分から臨時の会議があり,アジ化ナトリウムという名前は出なかったものの,集談室のポットの湯に異物が投入されたという本件の概要が明らかにされ,採血と採尿を実施することになった。C1は,会議終了後,D1に対し,本件当日保存していた血液と尿の採取方法や量について,それでよかったのか確認した。(C1第7回)

本件翌日に医師らが提出した尿の保存は,当初,スピッツを使っていたが,全量を保存する旨D1から指示があったので容量50ミリリットルの容器(ファルコン)二,三本に分けて一般検査室内の冷蔵庫に保存した。(C1第7回)

(シ) 警察官K1及びK2は,本件翌日,V2の事情聴取をした後,午後2時34分ころ,名誉院長室を出たところ,名誉院長室前通路でD1に出会い,D1は,D11から警察に渡すよう言われた旨述べて,試験管立てに立てた20ないし30本の血液入りのスピッツを手渡そうとした。これに対し,K1刑事らは持ち運びに不便だからバッグ等に入れるよう依頼した。(D1第10回,捜査報告書(33))

(ス) D1が臨床検査科へスピッツを入れるためのバッグを探しに来た際,C1の指示でC2が冷凍庫からスピッツを取り出した。臨床検査科主任のC4が黒色バッグを探してきて,C1,D1,C2の3人で本件当日及び本件翌日に採取した血清,血液及び尿を詰め込んだ。本件当日に採尿したV4ら4人の尿が入ったスピッツは4本一緒に輪ゴムで止めてから詰め込んだ。(C1第7回,C2第8回,D1第10回)このとき,本件当日に保存された尿及び血清は凍結していた。(D1第10回)

(セ) D1は午後3時ころ,黒色バッグに入った尿,血清,血液をK1刑事及びK2刑事に提出し,K1刑事が領置した。K1刑事及びK2刑事は,直ちにK1刑事が運転する自動車で病院を出発し,K2刑事が助手席で膝の上に黒色バッグを乗せ,京都府k警察署へ帰署した。K1刑事が黒色バッグを抱えてk署刑事課に戻り,午後3時12分ころ,刑事課内で警察官K3に引き継いだ。K3刑事は黒色バッグを開け,スピッツ等が輪ゴムで束ねられていたのを確認した。K3刑事は黒色バッグを自動車の助手席に乗せ,自ら運転してk署を出発し,科捜研分室到着後,黒色バッグを助手席から取り出して肩に掛けて運び,午後3時50分,科捜研分室2階化学第2科室内において,科捜研の技術吏員K4に引き継いだ。K4は黒色バッグを開け,スピッツ等を取り出して数量を確認し,冷蔵庫に収納した。(捜査報告書(23,26,27,30,33,36,39,42),任意提出書(24,28,34,40),領置調書(25,29,35,41),実況見分調書(235))

(ソ) 同年10月30日,科捜研化学第2科長K5は,同冷蔵庫からスピッツ等を取り出して発泡スチロール箱に入れて京都府警察本部別館鑑識課写真室へ搬送し,写真撮影後,発泡スチロール箱に入れて科捜研分室に戻り,上記化学第2科室内で化学第1科長K6に手渡し,K6は目測で血液等の計量をした。計量後,K6はK4にスピッツ等を入れた発泡スチロール箱を手渡し,K4は同室内の冷蔵庫に収納した。

同年11月2日,化学第2科長K7がスピッツ等を同室内で冷蔵庫から冷凍庫へ移し替えた。

同月6日,K7が冷凍庫からスピッツ等を取り出し,研究員3人と共に化学第2科室内の実験台上でパラフィルムを取り去って,スピッツ内の尿をスポイトで取り出し試験管へ移して調製し,ガスクロマトグラフ質量分析装置に注入して分析した。(実況見分調書(236))

ウ 尿検査等の状況及びC1,C2,D1の各検察官調書の証拠能力

C1は,公判廷において,本件当日各医師が尿を提出した順序,被告人が尿を提出した時刻,各医師の尿を紙コップからスピッツに移した状況,各医師の尿を検査した時刻,尿を冷凍庫に入れた際に各医師の血清が既に保存されていたか否か,本件翌日に尿を冷凍庫から取り出した状況等について,検察官調書(46)と比較してあいまいな供述をしている。

C2は,公判廷において,C1から尿の冷凍保存用のスピッツについて確認された時刻,採血管を受け取った時刻,血清を冷凍庫に保存した時刻,本件翌日,冷凍庫からスピッツを取り出した時刻等について,検察官調書(50)と比較してあいまいな供述をしている。

また,D1は,公判廷において,本件翌日の朝の会議後,C1から本件当日に尿や血液を冷凍保存した旨の報告を受けたこと,冷凍庫から尿や血液を誰が出してきたかについて,検察官調書(192)と比較してあいまいな供述をしている。

この点につき,検察官は,C1(46),C2(50),D1(192)の各検察官調書を刑事訴訟法321条1項2号後段に基づいて証拠調べ請求したが,当裁判所はこの請求をいずれも却下したので,以下その理由を説明しておく。

(ア) C1の検察官調書(46)

a 当裁判所は,C1が尿の保存状況等を再現した実況見分調書(53)を同意書面として取り調べたが,上記実況見分調書におけるC1の再現内容は,検察官調書(46)における供述内容と同旨であると考えられるので,まず,検察官調書についての特信性を判断する前提として,上記実況見分調書の信用性について検討する。

b 実況見分調書(53)中の尿の保存に関するC1の再現状況の要旨は以下のとおりである。

(a) C1が尿検査を実施していると,V4が採尿用紙コップと検査票を持って一般検査室に入室した。C1は,V4から直接紙コップと検査票を受け取って東側実験台上に置き,同室南東角の棚からスピッツを取り出した後,スピッツを持って生化学検査室へ通じる片開きドア付近に歩いていき,C2と尿をスピッツで冷凍保存することについて会話した。C1は,東側実験台に戻り,スピッツに黒マジックでV4の名前等を記載した後,紙コップからスピッツに尿を注いで蓋をし,東側実験台上に設置されている2段棚からパラフィルムを取り出してスピッツと蓋の結合部分に巻いた。その後,臨床検査科前廊下に設置されている棚から新品の紙コップを取り出して東側実験台上に置き,V4の尿が入ったスピッツをその紙コップに立てた。V4の残りの尿が入っている紙コップを東側実験台上のスタンドに立てた後,同室東側出入口付近にあるメモ用紙を取ってV4の名前を記載した。

V7が採尿用紙コップと検査票を持って一般検査室に入室し,東側実験台上に置いて退室した。C1は,同室南東角の棚からスピッツを取り出し,V7の名前をスピッツに記載し,紙コップから尿をスピッツに注いで蓋をし,パラフィルムを巻いた後,V4の尿が入っているスピッツが立ててある紙コップに立てて,V7の残りの尿が入っている紙コップを上記スタンドに立て,実験台上に置いてあるメモ用紙にV7の名前を記載した。

V1がV7に付き添われ,採尿用紙コップと検査票を持って一般検査室に入室し,東側実験台上に置いて退室した。C1は,同室南東角の棚からスピッツを取り出し,V1の名前を記載し,紙コップから尿をスピッツに注いで蓋をし,パラフィルムを巻いた後,V4,V7の尿が入っているスピッツが立ててある紙コップに立てて,V1の残りの尿が入っている紙コップを上記スタンドに立て,メモ用紙にV1の名前を記載した。

被告人が採尿用紙コップを持って一般検査室に入室し,東側実験台上に置いて退室した。C1は,同室南東角の棚からスピッツを取り出し,被告人の名前を記載し,紙コップから尿をスピッツに注いで蓋をし,パラフィルムを巻いた後,V4らの尿が入っているスピッツが立ててある紙コップに立てて,一般検査室南東端の棚から検査票を取り出して被告人の名前を記入した後,1枚目のシール部分を被告人の残りの尿が入っている紙コップに貼って上記スタンドに立て,メモ用紙に被告人の名前を記載した。

(b) C1は,本件当日,通常の業務を終えた後,V4らの残りの尿を検査することを思い立ち,新品のスピッツ4本を取り出してV4らの残りの尿が入っていた紙コップからスピッツに尿を移し替え,東側実験台南側でスピッツ内に浸した尿検査試験紙を尿測定器に入れて検査結果を検査票に印字した後,尿をガラスプレートに入れて顕微鏡で観察した。

(c) C1は,V4らから尿を受け取った後,一般検査をしており,ほぼ一般検査室に在室していたが,午後4時ころ,V4らの尿が入ったスピッツを冷凍庫に入れた。その際,冷凍庫内には,C1がV6から受け取ってC2に渡した医師らの血液の血清が既に試験管立てに立てられて保存されており,C1は,氏名の一致する医師の血清の前に4人の医師の尿のスピッツを立てて保存した。その後,血清検査室へ行ってパソコン作業をした。パソコン作業中に尿検査のため一時作業を中断して一般検査室へ戻って尿検査をし,その後,再度血清検査室で午後8時前ころまでパソコン作業をした。

c(a) 上記実況見分調書中の尿の保存に関するC1の再現状況は,同人の公判供述(C1第7回)に比して,各医師が尿を提出した順序,各医師の尿を紙コップからスピッツに移した状況,尿を冷凍庫に入れた際の状況,本件翌日に尿を冷凍庫から取り出した状況等多くの点について相当に具体的であって,C1の記憶が公判供述時には減退したものとも考えられる。

(b) しかしながら,C1は,上記実況見分調書において,尿の冷凍保存のための作業に関し,各医師の尿が提出されるごとに,逐一スピッツを一般検査室南東の棚から取り出して,スピッツに医師の名前を記載し,尿を移して蓋をし,パラフィルムを巻き,スピッツを紙コップに立てておいたという状況を再現しているが,冷凍保存のために逐一これらの作業をしておきながら,すぐに冷凍庫に保存せず,当時,本件に関して何らの情報も提供されていなかったのであるから,V4の後,何人分の医師の尿を冷凍保存するかわからないにもかかわらず,とりあえず,スピッツを紙コップに立てたままにし,まとめて冷凍庫に保存したという点において不自然さを免れない。

(c) さらに,C1が具体的に説明している部分は,尿をスピッツに入れて保存する場合における検査技師として本来あるべき一般的,基本的手順を説明している部分と,保管されていた検査票の記載自体から明らかとなる内容を説明している部分などに限られているということもできるのであって,そうすると,上記実況見分当時の記憶の方がより鮮明であったとするには疑問の余地がある。

(d) 加えて,尿の保存のための作業が,1日に70件程度の尿検査を行うというC1の通常業務の合間になされたものであること,C1は,本件当日は,事件のことは全く知らされず,各医師からも尿及び血液の保存の理由については聞かされていなかったことからすれば,本件病院では初めてである尿の冷凍保存について4人の医師から依頼されたこと,V6から依頼されてC2に各医師の血液についても保存を依頼していたこと,本件翌日には事件を知ったこと,その後の警察での事情聴取で記憶喚起をされていたものと考えられることなどの事情を考慮しても,本件から1年3か月余りが経過した平成12年2月10日実施の実況見分時における尿の保存状況についてのC1の記憶の正確性には疑問の余地がある。実際に,上記実況見分調書を作成した警察官K8も,C1から,V4,V7,V1及び被告人から尿を受け取ったのは間違いないが,受け取った順序については記憶が薄れていると言われたので記憶喚起したが,具体的な記憶喚起の方法は覚えていない旨供述している。(K8第20回公判3,18頁)

(e) そうすると,上記実況見分調書(53)は,尿の保存状況に関し,その信用性に疑問があるといわざるを得ない。

D そこで,検察官調書の特信性について検討するに,上記実況見分調書の信用性に関する事情に加え,上記実況見分と近接した本件から約1年3か月弱後である平成12年1月24日に検察官調書(46)が録取された時点と,本件後約1年10か月余りが経過した公判供述時の記憶には大差はないと考えられることを考慮すれば,再現状況と同様の内容を録取した上記検察官調書に信用すべき特別の情況があるということはできず,証拠能力を肯定することはできない。

(イ) C2(50),D1(192)の各検察官調書

a C2の検察官調書(50)は,本件から約1年5か月を経過した平成12年3月25日に録取され,同人は本件から約1年11か月を経過した同年10月2日に証人として出頭して供述したという経緯に照らせば,C1から尿の冷凍保存用のスピッツについて確認された時刻等について,検察官調書録取時においても記憶は相当に減退していたものと推測され,上記検察官調書録取時の記憶と公判供述時の記憶に大差はないと考えられること,公判廷においても,血液の提出との前後関係,午前か午後かなどの時刻についての記憶喚起の手段は十分に講じられていること(C2第8回19頁)などの事情を考慮すれば,検察官調書について公判供述よりも信用すべき特別の情況があるとはいえず,上記検察官調書の証拠能力を肯定することはできない。同様に,上記実況見分調書(53)中の尿の冷凍保存用のスピッツについてC1から確認された時期等に関するC2の再現部分の信用性には疑問がある。

b D1の検察官調書(192)は,本件から約1年5か月を経過した平成12年3月26日に録取され,同人は本件から約2年を経過した同年10月30日に証人として出頭して供述したという経緯に照らせば,本件翌日の朝の会議後,C1から本件当日に尿や血液を冷凍保存した旨の報告を受けたこと等について,上記検察官調書録取時の記憶と公判供述時の記憶に大差はないと考えられること,公判廷においても,報告の有無について執拗に尋問が行われており記憶喚起の手段は十分に講じられていること(D1第10回42頁)などの事情を考慮すれば,検察官調書について公判供述よりも信用すべき特別の情況があるとはいえず,上記検察官調書の証拠能力を肯定することはできない。

3  以上のとおり認定した各事実を総合すると,C5が,午後4時45分から午後5時ころの間に冷凍庫を施錠した後は,C2が本件翌朝に冷凍庫を開錠するまでの間に何者かが冷凍庫を開けた可能性は少ないと認められる。また,C2が,本件翌日の午後2時34分から午後3時ころの間に冷凍庫からスピッツを取り出して以降は,ほとんどの間,複数人がスピッツ又はそれが入った黒色バッグに注意を払っていたものであって,何者かが被告人の尿の入ったスピッツを開けた可能性はないと認められる。

他方,本件当日,C1が被告人から尿の提出を受けて,被告人の尿を紙コップからスピッツに移した状況については,C1は,公判廷において,各医師の尿が提出されるごとに,スピッツに移す作業をしたこと自体は肯定しているものの(C1第7回79頁),C1の尿の保存の再現状況に関する実況見分調書(53)の信用性の検討において指摘したとおり,同説明には不自然な点があること,C1の公判供述は,尿を提出した医師の順序,尿の検査を行った時間等全体を通じてあいまいなものであることなどから,上記供述に基づいて,C1が被告人の尿の提出を受けてすぐにスピッツに移して蓋をし,パラフィルムを巻く作業を行ったと認定するのは躊躇せざるを得ない。そうすると,被告人の提出した尿が紙コップに入れられたまま,一般検査室の東側実験台に置かれていた時間帯があった可能性を排除できない。したがって,本件当日の昼ころに集談室に居合わせた者であれば,複数人の血清及び尿が臨床検査科で冷凍保存されることを知り得たのであるから,本件当日,C1が,被告人の尿を受け取った後,スピッツを冷凍庫に保存するまでの間,一般検査室にほぼ在室していたことを考慮しても,何者かが一般検査室内の東側実験台の上にあった紙コップに入った被告人の尿にアジ化ナトリウムを混入した可能性を否定し去ることはできない。

また,本件翌朝にC2が冷凍庫を開錠してから,午後2時34分から午後3時ころの間にスピッツを取り出すまでの時間帯に関しても,何者かが冷凍庫を開けて被告人の尿の入ったスピッツにアジ化ナトリウムを混入し,蓋をして,パラフィルムを巻き直す,又は,新たなパラフィルムを巻いた可能性は,高くはないものの,皆無であるとはいい切れない。

そうすると,被告人が偽装工作のために自己の尿にアジ化ナトリウムを混入したと断定することはできない。

第5犯行動機

1  検察官は,本件は,病院における処遇面でD11に対する不満を有していた被告人が,病院内を混乱させてD11の責任問題に発展させ,同人を失脚させて不満をはらすべく敢行した犯行である旨主張するので,以下,被告人の動機について検討する。

(1) 関係各証拠によれば,被告人の動機を裏付ける事情として以下の各事実が認められる。

ア 被告人は,リウマチ・膠原病等の自己免疫疾患を専門分野とする内科医であるが,昭和57年にU2大学卒業後,U5大学医学部第2内科(以下「U5大第2内科」という。)に入局し,研修医,米国留学等を経て,平成4年5月から平成6年3月までH3病院内科に勤務した後,同年4月,本件病院に内科医長として着任した。(被告人の警察官調書(153))

イ 平成8年冬ころ,D12,D3及び被告人は,D18前院長及び当時副院長であったD11から,リウマチ・膠原病科の入院患者数を増やすことが困難であれば,呼吸器科の業務を手伝うよう要求された。平成9年春ころ,被告人及びD3は,D11から,リウマチ科の標榜は困難である旨告げられ,他の科への貢献をしてほしいなどと要求された。D3は,D11から,近畿地方医務局の方針として本件病院では今後リウマチ・膠原病を扱わず,同医務局にリウマチ科の標榜申請をしても認められないので,D3が病院にいても将来がないなどと言われた。(D3第9回)

ウ 平成9年6月にD11は本件病院院長に就任し,同病院を自己の専門分野である神経筋の難病専門の病院としてやっていくので被告人の専門分野である自己免疫疾患の分野を将来的に縮小する方針を採り,被告人の人事を担当するU5大第2内科のPr3教授及びAp3助教授に被告人の異動を申し入れた。その際,D11は,被告人の性格に問題がある趣旨の発言もしており,Ap3助教授は,D11と被告人は,相性が良くないのかなと思った。Ap3助教授はD11の申し入れを受けて被告人にH3病院への異動を打診したところ,被告人は,同病院は年上の地元出身の医師が多くやりにくいなどと述べて異動に乗り気でなかった。(Ap3の検察官調書(94))

エ 本件病院内科には,平成6年7月にD12が着任したときには,被告人,D13,D12の3人が勤務しており,D13が平成8年3月に異動した後,後任としてD3が着任した。しかし,D12が平成9年4月に異動した際,その後任の医師の補充はなく,内科は医師2人体制になった。(D3第9回,D12第10回)

オ 病院の経費削減のため,実験助手が臨床研究部職員という形でなくなったので,リウマチ・膠原病グループの実験助手の給料を被告人の研究費から人件費として支出しなければならなくなった。リウマチ・膠原病グループの実験助手であるM5は,毎月の給料を被告人から手渡しで受け取っていた。(D3第9回,M5第11回)

カ 被告人とD3は,D11が神経内科の医師を優遇しているとして,D11の病院の運営方針に関して度々不満を口にしていた。(D3第9回)

(2) 以上の事情に加えて,被告人自身も公判廷において,院長の方針に対し心外であると感じていた旨供述していること(被告人第28回)を併せ考慮すれば,被告人が,神経内科の優遇,リウマチ・膠原病グループの縮小,被告人の人事異動等,D11の運営方針に対して不満を有していたことが認められる。そして,このような不満をはらすために,医師である被告人が本件犯行に及ぶかどうかについては疑問の余地なしとはしないが,上記被告人の不満は,本件犯行の動機にはなりうるものと認めるのが相当である。

2  病院内の不満及び本件前後に病院内で発生した事件

(1) 病院内の不満

V4は,本件当日,集談室において,D11が医師に無断で病院の看板を変えた件を会議で取り上げることについて被告人と会話しており(V4の検察官調書(142)),集談室東壁面に設置されていたホワイトボードには,看板の見本を印刷した紙が貼られ,見本について各医師に意見を聞く旨V4が表示していた。上記見本は「H1病院」と横書きされた病院名の下に小さな文字で診療科目が縦書きで列記され,更にその下に診療科目とほぼ同じ大きさの文字で「脳神経筋疾患センター」,「リウマチセンター」などと記載されたものであるが(実況見分調書(4)写真86),本件当時の病院正面出入口看板は「H1病院」と横書きされた病院名の下に病院名よりやや小さな文字で「脳神経筋疾患センター」と記載され,その下に更に小さな文字で診療科目等が列記されていた(同写真2)。

本件当時,神経内科の医師は,D11,D1らのグループと同人らに次ぐ地位の臨床研究部長であるD17,D19,V6のグループに分かれており,D17はD11及びD1と口論していることもあった。(D3第9回)

(2) 本件に先立つ異物混入疑惑

ア 同年10月4日,V4は,ポットの湯を飲んだ後に本件と同様の症状を自覚し,同日の当直勤務に就いていたD2の診察を受けたが,原因は不明であった。同月2日は被告人,同月3日はD6がそれぞれ当直勤務に就いていた。(なお,被告人は,10月3日の朝,当直明けにドリップコーヒーを飲んで気分が悪くなり,翌日の当直であったD6に気分が悪くならなかったか聞いたところ,D6はどうもなかったと回答した旨供述している。(被告人第19回45頁))

同月15日ころ,V4,神経内科のD20ら数人の医師は,ポットの湯を飲んだ後気分が悪くなるなどの症状を自覚した。(V4の検察官調書(141),D2第12回,第13回)

イ 本件被害者であるV4は,医師であって自覚した症状を正確に把握し表現できる上,D2の供述によれば,本件直後に本件類似の事件の有無について病院内でアンケートが実施されていたのであって,V4は,本件前の事件について,正確に記憶しているものと認められ,これらの事情に照らせば,同人の供述は信用性が高いものである。そうすると,本件以前にもアジ化ナトリウムがポットの湯に投入されたことが疑われる。

(3) 怪文書

ア D2は,11月11日,D11に対し,D6が本件の犯人ではないかなどと話しかけた。これに対し,D11は,D2を院長室へ招き入れ,本件犯人として被告人が怪しい旨説明した。そして,D2は,同月18日,関係者の話の内容に推測を加えて「医局内ポット毒物混入事件の真相」と題する怪文書を作成し,同月24日,集談室のパソコンのマイドキュメントフォルダに入れた。(D2第12回,第13回)

イ 集談室のパソコン内の怪文書はV7によって発見され,D5も確認した。その後,D11が集談室に来て「こんなもん大したことないから。」などと言って,怪文書を消そうとしたので,D5らはD11の行動を止めた。さらに,他の病院に医師として勤めるD11の妻が来て怪文書を一瞥し,大した内容でない旨発言した。(D5第3回)

ウ D2は,12月9日,V4に対し,怪文書を作成したことを打ち明けた。(D2第12回,第13回)

(4) D17のアジ化ナトリウム関連ファイルの盗難

ア 臨床研究部長のD17は,臨床研究報告書を作成し,臨床研究部の1年の動きを関係部署に報告しており,同報告書作成の資料として,本件に関連する新聞記事等を「アジ化ナトリウム関連」などと記載したファイルにまとめて,臨床研究部長室で保管していた。平成13年8月17日から20日ころ,同室に何者かが侵入し,通帳や現金の被害はなかったものの,上記ファイルが行方不明になった。D17は,何者かが侵入したことに気付いた日にD11及び庶務課長にその旨報告した。(D17第22回)

イ 上記ファイルの盗難について,D17は警察に届けておらず,捜査はされていない。しかし,D17は,同年9月13日の第22回公判において,上記内容を供述しているところ,上記盗難事件から1か月も経過していなかったのであって記憶が鮮明であったといえる。また,D11らに報告していること,侵入を疑った状況についてのD17の供述内容は特徴的なものであってその供述は信用性が高い。

3  検討

(1) 第5の1のとおり,被告人は,D11の病院の運営方針等に不満を有しており,この不満が,本件犯行の動機にはなりうるといえる。

(2) しかしながら,第5の2で認定した諸般の事情を考慮すれば,本件病院内には,被告人同様に,神経内科の優遇等のD11の方針に不満を有していた医師もいたこと,また,医師間の対立もあったことが窺われ,さらに,被告人を殊更に陥れる動機を有する者が病院内にいるのではないかとの疑いを生じさせる事情もあるのであって,犯行動機を有すると認めることができる者は,被告人に限らないといえる。

(3) したがって,動機の存在から被告人が犯人であると推認することはできない。

第6被告人の供述

1  自白調書の任意性

被告人は,被疑者として任意の事情聴取に応じていた間及び平成12年3月7日に逮捕されて以降も犯行を否認していたが,同月19日にコーヒーを飲んだか否かについて今まで虚偽の弁解をしていた旨供述し,同月20日には犯行を認める供述をし,以降の捜査段階では犯行を認めていた。しかし,公判廷では一貫して否認している。

検察官は,被告人の警察官調書(154から157まで,218から222まで)及び検察官調書(158から163まで,202から206まで)が,いずれも自白又は不利益事実の承認を内容とするものであり,被告人が任意に供述した内容を録取し,被告人の署名指印があるものである旨主張して,刑事訴訟法322条1項本文により上記各供述調書の取調べを請求し,他方,弁護人は,警察官調書については,警察官が被告人に対して脅迫,凌辱,身体的苦痛を加えて獲得された自白であること,検察官調書については,被告人に対する警察官の脅迫,凌辱等による心理的圧迫状態の継続下において,警察での自白調書を確認するために獲得された自白であることから,いずれの供述調書も任意性がない旨主張した。また,検察官は,被告人が犯行状況等を再現した実況見分調書(148から151まで)について取調べを請求し,他方,弁護人は,警察官調書及び検察官調書同様に任意性がない旨主張した。当裁判所は,第23回公判において,警察官調書及び検察官調書の証拠調べ請求を却下し,第28回公判において,実況見分調書の証拠調べ請求を却下したものであり,警察官調書及び検察官調書の却下の理由の要旨は,当裁判所平成13年11月8日付け決定のとおりであるが,実況見分調書の却下の理由と併せて説明しておく。

(1) 警察官調書について

ア 警察官K9による脅迫の存在

(ア) 警察での取調状況に関する被告人の供述(被告人第13回)の内容は大要,平成12年3月18日から20日ころ,被告人は,警察官K9から,「(被告人の居住地の近くにb組という暴力団があり,その構成員である)Bというポン中極道のすごいやつがいる。お前とこの近くにおるんやぞ。(本件犯行を)やってへんとか,そんな眠たいような話を続けていると,お前のとこには小学生の子供がおるわな。取り返しのつかないようなことになる。」との趣旨のことを言われ,更に「(K9刑事は)警察の中で影響力があって,暴対や生安にも顔がきく。暴走族をやっていたこともあるし,そのつてもある。ポン中極道にハトを飛ばすことは朝飯前や。」「(警察官がそんな無茶はできないのではないかとの被告人の質問に対して)普通のやつはでけへんけれども,おれらは権力を持っている。京都府警3万人という味方もいるし,後ろには検察庁もついていて,正検も専任が6人もいる。いわばお前は自転車で,わしらのダンプカーと衝突するみたいなもんや。所詮勝ち目はないし即死や。」という表現で,暴力団構成員を意のままに用いて被告人の家族に危害を加える旨申し向けられた結果,恐怖感を覚え,同月19日以降自白するに至った,というものである。

被告人の供述内容は,特異な状況を極めて詳細かつ具体的に描写している上,刑事司法に関する知識に乏しく,勾留中は独居房に収容され,他の在監者からの情報を入手できなかった被告人が通常知り得ない内容を多く含み,迫真性に富むものである。K9刑事から申し向けられたと被告人が供述する内容には,京都府警察官の数やBなる暴力団員が起こしたとされる事件など客観的事実と齟齬する部分もあり,その細部については被告人の記憶違いが存する疑いもあるが,上記供述全体を被告人の創作,ねつ造ということはできない。

なお,被告人は,弁護人が連日接見していたにもかかわらず,起訴から約5か月後に初めて,上記脅迫の事実を弁護人に申告しており,この点で上記供述の信用性に疑問を投げかける立場もありうるところである。しかしながら,被告人は,K9刑事において,被告人が同人に関する話を弁護人にした内容を知っていたため,上記事実を弁護人に伝えると,これがK9刑事に伝わり報復等をされるのを恐れていたこと,K9刑事から,他の事件の例を挙げて,弁護人に告げ口したら弁護人にも不利益が生ずる旨申し向けられていたこと,上記申告当時のころ,子供と面会してその無事を直接確認して安心し,本当のことを言おうと考えて,弁護人に申告するに至ったという事情等に照らすと,不合理とはいえず,上記認定を左右するものではない。

(イ) 他方,K9刑事の供述(K9刑事第15回,第16回,第18回)の内容は大要,暴力団の話や「ポン中極道」という言葉は,被告人から参考人として事情聴取した際,被告人との信頼関係を築くために自己の職務内容を説明する中で話をした,「ハトを飛ばす」という言葉は,被告人から参考人として事情聴取した時点,及び,被告人の逮捕後の早い時点で,被告人が釈放される際に他の被疑者の連絡役に利用されてはいけないという意味で言ったなどと,脅迫の事実等を否定するものである。

K9刑事の供述は,被告人との信頼関係を築くための話題として暴力団についての話を子細にしたという点で,それ自体不自然な内容を含む上,同じく参考人としての事情聴取をしたV7に対しても同様に自己の職務内容につき話をしたとするものであるが,この点はV7の証言で裏付けられなかった(V7第20回)。また,K9刑事は,被告人が自白に至る重要な契機となったのは,本件発生当日,製薬会社の営業社員と会っていたことが明らかになった関係で,被告人にはコーヒーを飲む時間がなかったのではないかと追及され,その説明に窮したためである旨供述するが,被告人が同営業社員から貰った名刺は同年3月7日に押収されており(捜索差押調書(225)),これには被告人が名刺(平成12年押第92号の4)を受領したと思料される日付が記載されているところ,これを前提とした取調べは同月19日以前になされていたことは明らかであるから,K9刑事の言う上記の追及が自白の契機となったといえるのか疑問である。そうすると,K9刑事の供述は信用性が低いといわざるを得ない。

(ウ) 以上によれば,K9刑事が,被告人の自白に先立ち,暴力団構成員を意のままに用いて,被告人の家族に危害を加える旨申し向けたことが認められる。

イ 医療機関への受診及びK9刑事の喫煙について

被告人が,体調不良を訴え,再三医療機関への受診を求めたが実現しなかったという点については証拠上確定できない。なお,K9刑事は,被告人の健康等に配慮していたと供述する一方で,勾留理由開示公判において,被告人がタバコの煙が苦痛である旨供述していることを知っていながら,直接の要請がなかったから喫煙を続けた旨自認している。この点については,その事情のみでは,任意性に影響を与えるとまではいえないものの,K9刑事が被告人への対応について配慮を相当欠いていたことを示すものである。

ウ 長時間の取調べ

被告人は,逮捕後,長時間にわたる取調べを受けた旨供述しているが,本件取調べの経過に照らせば,長時間であることの一事をもって,被告人の供述の任意性に影響を与えたとまではいえない。なお,弁護人は,被告人が参考人として事情聴取を受け,また,在宅のまま被疑者として取り調べられた際,長時間かつ過酷な取調べがあったと主張するが,その時期等に照らせば,当時の取調状況と自白との因果関係はないというべきである。

エ 以上のとおり,K9刑事が,取調べに際して,被告人に対し,暴力団構成員を意のままに用いて,被告人の家族に危害を加える旨の脅迫的文言を申し向けた点は,取調べの手段方法として許容される程度を大きく逸脱した違法・不当なものといわざるを得ない。これに加えて,K9刑事は,扁桃腺の持病を持つ被告人がタバコの煙を苦痛と感じているのを知りながら喫煙を続けるなど,配慮を相当欠いていたことなどを併せ考慮すれば,被告人のK9刑事に対する供述は任意性に疑いがあるといわざるを得ない。

(2) 検察官調書について

ア K9刑事の脅迫等の影響

検察官調書のうち,検204号証は,平成12年3月19日,上記K9刑事の脅迫等により,被告人がそれまでの供述内容を虚偽である旨供述し,同日付け警察官調書が作成された後に,検察官Pがk署へ出向き,同日午後7時ころから午後11時ころまでの間に録取したものであり,K9刑事の上記脅迫等の影響を引き継ぐものというべきところ,P検事は,上記事情を知悉していたとは認められないものの,上記違法な言動による影響を排除するために特段の措置を講じていないといわざるを得ず,そうすると,上記検204号証についても,警察段階における違法が遮断されていないと解するのが相当である。また,その後もK9刑事の脅迫の影響が排除,軽減されたとみるべき事情は存在せず,脅迫の内容及びその性質からその影響が持続していたものと認められるから,上記検204号証以降に作成されたその余の検察官調書についても,警察段階における違法が遮断されていないというべきである。

イ P検事の不適切な取調べ

P検事の供述(第14回,第17回)等関係証拠によれば,同検事は,逮捕直後の弁解録取時から,取調べに当たり,被告人に問いかける形で,自白すれば執行猶予が付く可能性が高くなる,否認のままだったら実刑になる可能性がある旨の回答を被告人から引き出していたことや,医師免許が取消されるのはどういう場合なのかを被告人に質問したことが認められる。P検事は,これらを一般論として説明しようとしたものであって,任意性に疑いを抱かせるような取調べ方法は用いていない旨供述する。しかしながら,P検事は,この種質問を幾度かして,被告人に回答を促したり,考えさせたりしているのであって,このような取調べ方法は,前科前歴がなく,国立病院の医師としての経歴や誇りを持つ被告人の動揺を誘い,不安に陥れるものであって,当時の被告人の置かれた立場,心情に対する配慮を著しく欠いた不適切なものといわざるを得ない。また,P検事は被告人からK9刑事がタバコを吸うので困ると聞いていたことを認めながら,被告人に対して「辛かったらK9さんに言いな」などと言うにとどまり,K9刑事に直接伝えなかったと思う旨供述しているのであって(P検事第17回15頁),警察において適切な取調べを行うための配慮をしていたとはいえない。

ウ 以上のとおり,被告人の検察官調書は,警察官による脅迫等の影響を引き継いでいる上,検察官の不適切な取調べ方法も加わっているのであるから,任意性に疑いがあるといわざるを得ない。

(3) 実況見分調書について

ア 上記実況見分調書は,平成12年3月25日に実施した実況見分の状況について,同月26日から同月29日までの間に作成されたもので,その内容は,被告人が再現した犯行状況(実況見分調書(148)),犯行後アジ化ナトリウム瓶を隠匿した状況(実況見分調書(149)),研究室で犯行準備を行った状況及び犯行後使用器具を廃棄した状況(実況見分調書(150)),被告人の尿に工作を行った状況(実況見分調書(151))をそれぞれ記載したものであって,写真とその指示説明で成り立っているものであるが,その実質的な内容は,被告人が,自白した内容を動作によって表現しているものであって,自白調書と同趣旨のものである。

イ 各実況見分調書を作成した警察官K8,同K10,同K11は,いずれも被告人が任意に再現した旨供述するが(K8第20回,K10第21回,K11第21回),実況見分の時点においては,複数の自白調書が既に録取されており,被告人は自白調書どおりに再現を行ったに過ぎないものと認められることから,各実況見分における被告人の犯行等の再現は,K9刑事の脅迫やP検事の不適切な取調べの影響下にあり,取調べ時の違法が遮断されていないというべきであって,任意性に疑いがあるといわざるを得ない。

(4) 以上の次第で,上記警察官調書,検察官調書及び実況見分調書は,いずれも任意性に疑いがあるから,証拠能力を肯定することができない。

2  被告人の供述

(1) 本件当日の行動についての被告人の公判供述の要旨は以下のとおりである。(被告人第19回)

ア 午前7時15分,自宅を出て,午前7時25分ころ,病院に到着した。免疫Ⅱへ行って白衣に着替えた後,午前7時30分ころ,第6病棟1階の看護婦詰所へ行き,看護婦と会話した後,受け持ち患者の回診をした。回診途中の午前8時ころ,D2が第6病棟1階から2階へ上るのを見た。午前8時10分より少し前に回診を終えて上記看護婦詰所へ戻った際,D3から連絡事項を聞いた。その後,第5病棟4階へ行って回診し,第5病棟4階の看護婦詰所で看護婦へ指示を出し,同室にいた神経内科のD21医師に代診の依頼をした。第5病棟4階から免疫Ⅱへ戻る途中,便意を催して免疫Ⅱの正面にある便所へ行ったが,汚れていたため排便せず,午前8時30分ころ,免疫Ⅱへ戻った。

イ 免疫Ⅱを出て外来特殊診療棟2階の浴室に洗濯済みの白衣があるのを確認し,集談室に東側出入口から入室した。被告人が集談室に入室したとき,D4とD5が,手術室の看護婦が入院したことについて会話していた。メールボックスから封筒に入った文献リストのコピーを取り出し,南側東端の1人掛けソファーに座って文献リストのコピーを見ていた。5分程度でD4とD5の会話が終わると,被告人は,事務机のそばに移動し,事務机のそばに立ったまま,D5とリウマチ患者の治療方針について少なくとも5分ほど会話した。D5と会話を初めてまもなくのころNが入室した。D5は,被告人との会話が終わった後,空のカップを流しへ持っていき,洗い物をしていたNに声を掛けて東側出入口から退室した。D5が退室したとき,D4は既に退室していたが,いつ退室したのか見ていない,このとき,Nは洗い物をしていた。被告人は,事務机上の出勤簿に押印し,D5とほぼ同時に西側出入口から退室し,医局のトイレで排便し,二,三分後に西側出入口から再び入室した。事務机の椅子に座って文献リストを引き続き見ていたとき,東側出入口から入室した者が,事務机前のビニールファイルに書類のようなものを入れて東側出入口から退室した。このとき,この人物が誰かは気付かなかったが,その後昼休みにD6から,被告人が在室していたことを指摘され,この人物がD6であったとわかった。

水屋からコーヒー豆とフィルターとコップを取り出して,カウンターテーブルにおいてポットの湯でドリップコーヒーを作った。使い終わったフィルターは,流し台の横のワゴン棚の所定の場所に捨てた。カウンターテーブル付近で文献リストを見ながらコーヒーを飲んだ。コーヒーを2口飲んだ後,1口目から3分か5分くらいで動悸を感じ,次に胃に不快感があったので,残りのコーヒーを廊下側の洗面台に捨て,洗い物をしていたNに,「これも。」などと声を掛け,空のカップを流しの洗い桶の右側に置いて西側出入口から退室した。退室したのは午前9時前後だったと思う。このとき,集談室内にD7がいたかどうかは記憶がない。

ウ 集談室退室後,第6病棟1階看護婦詰所へ行った。看護婦詰所へ行くまでの間にWのMR(営業社員)3人と会った記憶はない。看護婦詰所でD3から患者についての報告を受けた後,風邪で体調が悪いという看護婦の診察をし,同看護婦が医事課で受け取った処方箋に投薬内容を記載した。同処方箋には医事課での発行時刻が記載されており,午前9時25分であった。午前9時35分ころ,第6病棟1階を出て,免疫Ⅱへ行った。

エ 免疫Ⅱには助手のM5がいたが,同人と会話はせず,被告人は,午前9時40分ころから午前11時15分ないし20分ころまで,免疫Ⅱの自分の机で休んでいた。簡単なデスクワークは少ししていた。その後,体調が良くなったので,売店へ行ってパン2個と飲み物を買い,食堂で飲食した後,午前11時30分ころ,集談室に東側出入口から入室した。集談室にはV4がいたので,隣に座って病院の看板の問題について会話した。このとき,V4は緑茶を飲んでおり,V4と被告人の会話中にV5が入室し,同人は緑茶を持って被告人の向かい側のソファーに座った。その後,D6が入室し,V5の顔色が悪い,V2も気分が悪いと言っていたなどと言い,更にポットの湯の中にアジ化ナトリウムでも入っているのではないかなどと言った。

オ V2,V6,V7らが入室し,ポットの湯に入れられた異物についてV7がボスミンではないかなどと言っていた。D6が警察に通報しようと言いだし,V4が賛成していた。V2が事実関係を調べた方がいいと言い,被告人はV2と同様の発言をした。V2は,M1事務部長に連絡した後,D6と共に,集談室内にいた医師から聞き取りをしていた。M1事務部長がポットを持っていった後,D1が入室し,D1は,採血,採尿及び各医師の飲み残しを保存することを指示した。各医師は,手分けして飲み残しにラップを掛けて集談室内の冷蔵庫に保管した。V6が採血管を持ってきたので互いに採血し,被告人はV7に採血してもらった。午後2時から警察の現場検証があるので退室するように言われ,集談室から退室した。

カ 集談室を出ると外来診療管理棟の14番処置室へ行き,採尿用紙コップを受け取った。このとき,婦長から採血は必要ないのかなどと聞かれ,採血は済んでいるので不要である旨答えた。臨床検査科の下である外来診療管理棟1階の便所で採尿し,一般検査室へ持っていき,C1がいた実験台に置いた。C1からどうしたのか聞かれたが明確には答えず,免疫Ⅱへ戻った。免疫Ⅱの前には,製薬会社のM6らが待っており,ずっと待っていたという趣旨のことを言われた。

(2) 被告人の供述の信用性

ア 本件当日,被告人が集談室に入室した後,D5が退室するまでの状況,及び,V4が入室した後に被告人が入室した後,午後2時ころ被告人らが退室するまでの状況についての被告人の供述は,集談室に居合わせた医師らの供述等で裏付けられており,信用できる。

イ 排便に行ったという点

被告人は,D5とほぼ同時に西側出入口から退室し,医局のトイレで排便し,二,三分後に西側出入口から再び入室した旨供述するが,Nはこのことを全く気付いてないし,被告人と廊下,トイレ等で会った者もおらず,被告人の供述の裏付けはない。また,被告人がトイレに行っていたと供述する時間帯は,検察官が主張するアジ化ナトリウムの投入時間帯であって,被告人は殊更にその時間帯に不在であった旨供述しているようにも見える。しかしながら,Nが洗い物を続けていたことを考えると,被告人の入退室に気付かなかった可能性も否定できず,排便に行ったとの被告人の供述を直ちに排斥することはできない。

ウ ドリップコーヒーを作って飲んだという点

(ア) Nの公判供述によれば,Nは,被告人がコーヒーを作っていたこと及びカップを置いていったことの記憶はないとする(N第3回24,25,60,61頁)が,Nと被告人の位置関係,特に,コーヒーを作った後にフィルターをワゴン棚に捨てる際及びコーヒーを飲んだ後に空のカップを流し台に置いた際には,被告人はNに相当接近しているはずであり,しかも,カップを置く際には,被告人はNに声を掛けた旨供述しているのであるから,このような状況の下で,Nが上記のとおり記憶がない旨明確に供述していることに照らせば,Nが背を向けて洗い物を続けていたことを考慮しても,被告人の供述は相当に不自然である。

(イ) ドリップコーヒーを作るのに要する時間に関し,V5は集談室に入室してコーヒーを作ってから退室するまで2分前後であると供述し(V5第5回22頁),V7は作り終えるのに3分ほどであったと供述している(V7の検察官調書(130)22頁)。そうすると,D6が入退室した午前8時46分から50分ころまでの間に被告人が集談室の事務机前の椅子に座っていたこと,第6の2(2)エのとおり,被告人は午前9時のしばらく前には外来診療管理棟の喫煙室横でM7らと会っているのであるから,その前には集談室を退室していたこと,V2が入室した午前8時52分から53分ころまでの間に被告人が退室していることを考慮すれば,被告人が上記椅子に座っていたころから退室するまでの,時間にして最短で2分,最長で7分の間にドリップコーヒーを作って2口ほど飲み,コーヒーを捨て,カップを置いて集談室から退室することは,かなりの困難が伴う場合もあると考えられるものの,各人の分単位の記憶の正確性には限界があることを考慮すれば,不可能であったとまではいい切れない。

また,被告人は,捜査段階から,コーヒーを2口飲んだ後,集談室内の洗面台に残りのコーヒーを捨てた旨供述しているところ,V7も同様の行動に出ていることからすると(V7の検察官調書(130)29頁),特に不自然な行動ということもできない。

(ウ) 本件後に症状を訴えた医師らについて検査したところ,被告人及びV7について筋肉の異常を示すCPK(クレアチンフォスフォキナーゼ)の数値が上昇していたこと,被告人及びV3について肝機能の異常を示すγ-GTPの数値が異常であったことが窺われるが,V7は当日朝に筋力トレーニング等をしていたのであってCPKの数値が上昇する理由がある。他方,体内に摂取されたアジ化ナトリウムが肝機能に及ぼす影響については明らかでない。被告人に関するこれらの数値の異常は,アジ化ナトリウムが投入された湯で作ったコーヒーを飲んだことと矛盾するものではないといえるが,これを積極的に裏付けるものではない。

(エ) これらの事実を総合すると,ドリップコーヒーを作って飲んだとする被告人の供述は,相当に疑わしいものの,これを直ちに排斥することもできない。

エ 午前9時前後に退室したという点

本件当時,W株式会社大阪支店長であったM7の供述(M7第22回)によれば,以下の事実が認められる。

M7は,本件前日に部下が薬剤課長の許可を得ず新製品の注射器の説明を被告人にしたことについて,本件当日午前9時に薬剤課長に謝罪に行くため,部下2人と共に本件当日午前8時30分過ぎころ病院に到着した。喫煙室でタバコを吸った後,喫煙室横にいたところ,被告人が通りかかったので,名刺(平成12年押第92号の4)を渡し,謝罪したところ,被告人は,特に怒鳴ることなく,今後注意するよう言った。このときのM7と被告人との会話は1分間程度だった。M7らは,二,三分時間をつぶした上で,午前9時の前には喫煙室のそばの薬剤課の前に行った。

この点,被告人はM7らに会ったこと自体記憶がない旨供述するが,本件当日被告人に会ったとのM7の供述の信用性は,免疫Ⅱの被告人の机の引き出しからM7の名刺が発見されたこと(捜索差押調書(225)),被告人のダイアリー(弁1)中本件前日の欄に「16 w」と記載されていることから裏付けられる。

なお,M7は,被告人と会った時刻について,検察官調書(226)では午前8時50分ころと具体的に供述しているが,公判廷ではややあいまいな供述をしているところ,検察官は,上記検察官調書につき,刑事訴訟法321条1項2号後段に基づき証拠調べ請求をし,当裁判所はこの請求を却下したので,その理由を説明しておく。M7は,本件から約2年11か月を経過した平成13年9月13日に証人として出頭して供述したものであるが,同人は,本件から約1年経過後の平成11年秋ころ,警察官に初めて本件当時の事情を聞かれ(M7第22回21頁),上記検察官調書(226)は,本件から約1年5か月を経過した平成12年3月21日に録取されたものであるという経緯に照らせば,被告人と会った時刻等について上記検察官調書録取時の分単位の記憶の正確性については疑問の余地があり,当時の記憶と公判供述時の記憶に大差はないと考えられること,公判廷においても,被告人と会った時刻についての記憶喚起の手段は十分に講じられていることなどの事情を考慮すれば,検察官調書について公判供述よりも信用すべき特別の情況があるとはいえず,上記検察官調書の証拠能力を肯定することはできない。

そうすると,M7の公判供述によれば,午前9時のしばらく前には喫煙室横で被告人はM7と会っていると認められること,また,午前8時52分から53分ころの間に集談室に入室したV2は集談室内にいた医師はD7だけであった旨明確に供述しており,そのころまでには被告人は集談室を退室していたことが認められることから,午前9時ころ集談室を退室した旨の被告人の供述は信用できない。

オ 採尿及び尿の提出状況

(ア) 被告人は,午後2時ころ,集談室を退室した後,14番処置室において採尿用紙コップを受け取り,臨床検査科の下に当たる外来診療管理棟北側建物1階の便所で採尿し,一般検査室へ持っていった旨供述している。他方,検察官は,被告人が集談室退室後,いったん免疫Ⅱに戻り,アジ化ナトリウムを尿に混入する準備をした上で,排尿後に自らの尿にアジ化ナトリウムを混入して被害者であることの偽装工作をした旨主張している。

(イ) 本件当日午後2時ころ,免疫Ⅱには被告人以外の者はいなかった上,被告人が午後2時以降に免疫Ⅱのある第3病棟1号館と外来診療管理棟を往復していたかについては証拠上明らかでないのであって,結局,被告人が午後2時ころ集談室を退室した後排尿するまでの行動については確定することができない。

そうすると,被告人が一般検査室に提出した後の尿にアジ化物イオンに分離する物質が混入された可能性が排除できない以上,採尿及び尿の提出状況についての被告人の供述については信用性を否定することはできない。

カ その他の被告人の不自然な発言

本件5日前の10月23日に被告人,D3,助手のM5が製薬会社の職員と料亭において宴会を行った際,新潟で発生したアジ化ナトリウムの混入事件の会話の後に,被告人は「うちの病院であるなら医局だな」と発言していた。(M5第11回19,62頁)この点,被告人は,上記発言を否定し,同席していたD3は,記憶していないものの(D3第9回14,100頁),M5は,被告人に不利益な供述をする理由はなく,その供述は具体的であって,M5の供述は信用できる。

また,同じ宴会の席で,被告人は,免疫Ⅱのアジ化ナトリウムについて,(D13又は被告人が)処分した旨話していたところ(D3第9回14頁,M5第11回21頁),本件後に,D3が被告人に対して,アジ化ナトリウムを処分した旨被告人が話していたことを確認したところ,「そうだっけなあ,そんな話,したっけなあ。」と応答し,D3は,お酒を飲んでいたので,そのときのことを覚えていないのかなと思った(D3第9回16,17頁)。

(3) 以上のとおり,被告人の供述内容には,本件において重要な問題に関し,信用できない点や不自然な点が多いといわざるを得ない。しかしながら,その供述内容が不自然であること等を根拠に,被告人が犯人であると特定することはできない。

第7結論

以上検討したとおり,本件犯行を認める被告人の供述は任意性に疑いがあり,証拠として採用できず,その他の間接事実について,①集談室の入退室状況によれば,被告人がアジ化ナトリウムを投入した可能性は,他の在室者に比して相当に高いということができるものの,他の在室者の犯行可能性を完全に排除することはできず,加えて,早い段階でアジ化ナトリウムが投入されていた可能性が皆無であると科学的な証拠によって断定することはできないこと,②バイオハザード室で発見されたアジ化ナトリウムは,免疫Ⅱで使用されていたものと同一である可能性が高いということができるが,同一物であると断定することはできず,バイオハザード室で発見されたもの以外のアジ化ナトリウムが本件犯行に使用された可能性を排除することはできないこと,③尿の保管に関し,本件当日,スピッツを冷凍庫に保存するまでの間に何者かが紙コップに入った被告人の尿にアジ化ナトリウムを混入した可能性を否定し去ることはできず,また,本件翌朝に冷凍庫が開錠されてから,スピッツを取り出すまでの時間帯についても,何者かが冷凍庫を開けて被告人の尿の入ったスピッツにアジ化ナトリウムを混入した可能性は,高くはないものの,皆無であるとはいい切れないこと,④被告人は,犯行動機を有するといえるが,本件前後における病院内の諸事情に照らせば,犯行動機を有すると認めることができる者は,被告人に限らないこと,⑤被告人の公判廷における供述には,信用できない点や不自然な点が多いといわざるを得ないが,それを根拠に被告人が犯人であると特定することはできないことなどの事情を総合的に考慮すれば,被告人が犯人であることを合理的な疑いを入れる余地なく認定することはできない。

そうすると,結局,本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

よって,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 古川博 裁判官 楡井英夫 裁判官 杉本正則)

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