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京都地方裁判所 平成13年(レ)24号 判決 2001年12月25日

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1請求

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

第2事案の概要

本件は,社員に対する海外研修制度を有する被控訴人が,英会話の海外研修帰国後,2年未満で退職等した場合には,当該研修中,給与以外に支給された費用の全額を返納しなければならない旨規定する海外研修規程4条2項を根拠に,研修後約2か月後に退職した控訴人に上記費用の返還を求めた事案であり,控訴人はその返還義務はないと主張して争っている。

1  争いのない事実等(証拠によって認定する場合は証拠を示す。)

(1)  控訴人は,平成8年4月ころから同11年12月1日までの間,被控訴人において雇用契約上の地位にあり,ハイヤー運転の業務に従事していた(乙8,弁論の全趣旨)。

(2)  控訴人は,同11年8月27日から同年9月26日までの間,被控訴人の応募する海外研修制度で,イギリスに赴いていた(乙7。以下「本件研修」という。)。

(3)  被控訴人は,海外研修について,海外研修規程(甲2。以下「本件研修規程」という。)として以下の規定を置いている。

(応募資格)

第2条 応募資格者はエムケイ株式会社に勤務する勤続1年以上の社員,職員で,英会話研修を受講しているものに限る。但し,勤続1年未満に在って,海外研修が業務上必要と会社が認めるときはこの限りではない。

(費用)

第4条① 本制度で支給する費用は次の各号とし,渡航手続き及び個人的な消費費用は含まない。

一 渡航旅費

二 留学学費

三 宿泊費

四 現地での食費

五 留学期間中の給与

② 海外研修帰国後2年以上業務に従事しないで退職等に至った場合は,給与以外に支給された費用の全額を返納しなければならない(以下「本件規定」という。)。

(4)  控訴人は,同年7月13日,本件研修に際し,本件研修規程を遵守する旨の誓約書に署名押印した。

(5)  控訴人は,同年11月30日,業務中に,T字形交差点において,左方からの直進車両に気づかないまま右折し,出会い頭にこの左方からの車両と衝突するという交通事故を起こした(以下「本件事故」という。)。

(6)  控訴人は,同年12月1日,被控訴人を退職した。

(7)  被控訴人は,控訴人に対し,本件研修費用として82万8190円の返還を求め(以下「本件研修費用」という。),控訴人は,1審では同費用額については自白していた。

2  争点

(1)  本件規定は,労働基準法16条に違反し,無効か。

(控訴人の主張)

本件研修の目的は,社員が英会話ガイドの業務に従事するための能力開発にあり,業務に当たる。また,本件規定は2年間の身分拘束を規定するが,これは留学期間(1か月)に比し,不当に長期の拘束といえる。以上の理由から,本件規定は,労働基準法16条に違反し,無効である。

(被控訴人の主張)

本件研修は,希望する社員がこれに応募し,被控訴人が本件研修規程に則って審査の上,合格した社員と個別に契約(その性質は,会社が,社員との間で当該研修費用について消費貸借契約を締結し,ただし,一定期間の継続勤務を停止条件として貸金返還債務免除の特約を付したものと解される。)するものであって,就業規則に基づく業務ではない。実質的にみても,本件研修の目的は,社員の教養を高める一般的なものにすぎないのであって,業務性は認められない。また,返還を求める費用の細目も,給与を除く旅費・学費・宿泊費・現地での食費と合理的範囲に限定されているのであって,違法なものではない。

(2)  控訴人の退職は自己都合によるものか(本件規定中の「退職」は自己都合による場合のみと解される。)。

控訴人は,退職は,控訴人が交通事故に遭い,精神上,自動車運転業務に耐えなくなったためのやむを得ない理由によるものであり,自己都合退職とは異なると主張している。

(3)  本件研修費用について自白の撤回が認められるか。

控訴人は,本件研修費用82万8190円につき1審で自白したが,これは真実に反し,かつ錯誤に基づくものであるからこれを撤回する旨主張し,被控訴人は,この自白の撤回に異議を述べている。

第3争点に対する判断

1  争点(1)について

(1)  まず,本件研修の業務性について検討するのに,証拠(甲2,乙1の1ないし12,8,弁論の全趣旨)を総合すれば,控訴人は,英会話による観光ガイド業務に従事できるようになることを本件研修参加の動機としていたこと,本件研修中は公務とみなされ(本件研修規程6条),賞与の支給を受けていたこと,そして現に本件研修終了後は,上記業務に従事することがあり,その際にはこれに対する手当の支給を受けていたことが認められ,これらによれば,本件研修の業務性を肯定できるかにみえる。

しかし一方,証拠(甲2,乙8,弁論の全趣旨)を総合すれば,本件研修規程は,海外研修制度の目的を社員等の士気高揚,能力開発,人格形成等に置いていること(1条),本件研修参加者の募集資格は,社員からの個別の応募によるとの体裁を採っていること(2条),上記応募は年度ごとに募られていること,控訴人自身も自発的に参加意思を固め,応募していることが認められる。また,本件研修前,控訴人はハイヤー運転業務に従事していたところ(上記第2の1争いのない事実等(1)),本件証拠上,同業務自体に英会話習得の必要性が高く,また,被控訴人において,一定の勤続年数のある社員は,本件研修を受けることが事実上義務づけられていたなどの事実は伺われない。

以上の事実を総合すれば,控訴人において,いわゆるキャリアアップのために英会話収得が必要と考え,また事実そのとおりの成果を上げた事実が伺えるとしても,これは,自己の能力開発努力が結果的に業務に資する結果を導いたものとも評価できるし,公務とみなして賞与を支給することも,社員が進んで研修に参加できるよう,会社が社員を経済的に支援する趣旨のものとも解される。控訴人は,本件研修規程2条ただし書きの規定を根拠として同条本文に該当する場合も,海外研修が業務に当たる旨主張するが,その文言からみても,そのような解釈には賛同できない。

以上によれば,本件研修に業務性を認めることは困難というべきであって,本件研修規程は事業経営の必要上使用者が定める職場規律や労働条件に関する規則類には当たらず,その不履行も,「労働契約の不履行」に当たらないと考えるのが相当である。

(2)  このほか,控訴人は,本件研修規程4条2項の定める「2年」の期間は,研修期間と比較して不当に長期の拘束に当たると主張するので,この点検討するのに,本件研修期間は1か月であるが(上記第2の1の(2)),本件において返還を求められている費用が約82万円であること,同金額に給与や賞与は含まれず(上記第2の1の(3)),海外研修費用として過大なものとは評価されないことからすれば,上記2年の期間は,不当に長期の拘束にあたるとまでいうことはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(3)  以上によれば,控訴人の争点(1)の主張は理由がない。

2  争点(2)について

控訴人は,自動車運転を業務とし,日々安全運転に専念していたにもかかわらず,本件事故を起こしたことによって,運転業務に対する自信を喪失し,やむをえず退職を決意したのであって,自己都合退職には当たらない旨主張し,これに沿う証拠として控訴人の陳述書(乙8)も存在する。しかしながら,本件事故は,右折時の単純な左方確認義務違反の過失によるものである(第2の1の(5))ところ,控訴人は,本件事故の翌日には退職する旨を被控訴人に伝えており(第2の1の(6)),控訴人自身,業務を全うできるかについて十分な検討をしたとは伺われないし,本件事故による肉体的・精神的受傷についての証拠は本件全証拠中に見あたらない(なお,乙8については,これを裏付ける的確な証拠はない。)。以上によれば,控訴人は自己都合退職であると認めるのが相当であり,控訴人の主張は理由がない。

3  争点(3)について

控訴人は,当審において,本件研修費用額について自白を撤回し,現地語学学校学費に関する証拠として乙4を提出する。これによれば,授業料等の学費は1695ポンドであったことが認められるが,これは甲5(請求書)中の「ベルラングエッジスクールコース費用」1695ポンドとの記載と一致すると認められるところ,上記両証拠を総合すれば,乙4は甲5の学費等のうちの一部を抜き出したものと認めることができる。そして,証拠(甲3,5,弁論の全趣旨)を総合すれば,本件研修費用額の一部である学費等は57万7342円と認めることができる。そして,証拠(甲3,5,6)は,控訴人が自白した本件研修費用額(82万8190円)の存在を示すものであって,これについての自白が真実に反するとは認め難いから,本件においては,自白の撤回は許されないことになる。

4  まとめ

以上の認定及び上記争いのない事実等(第2の1)によれば,控訴人に対し,本件研修費用82万8190円の支払を求める被控訴人の請求は,すべて理由がある。

第4結論

よって,被控訴人の請求を認容した原判決は相当であり,本件控訴は理由がないから,これを棄却する。

(裁判長裁判官 松本信弘 裁判官 浅田秀俊 裁判官 中野希美)

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