京都地方裁判所 平成15年(わ)1717号 判決 2006年5月12日
主文
被告人を無期懲役に処する。
未決勾留日数中580日をその刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,
第1 平成14年10月31日午後8時ころから同年11月1日午前10時30分ころまでの間,京都府宇治市莵道車田<番地略>所在の甲野太郎(当時52歳)方において,金品を強取する目的でリフォーム工事等で知り合っていた前記甲野太郎を不詳の方法により殺害した上,同人の所有又は管理に係るA信用金庫等発行のキャッシュカード3枚及びウエストポーチ1個を強取した
第2 同日午前10時59分ころから同日午前11時6分ころまでの間,京都市山科区東野片下り町<番地略>所在のA信用金庫B支店において,同支店キャッシュコーナーに設置された現金自動預払機に前記強取に係るA信用金庫発行の前記甲野太郎名義のキャッシュカードを挿入して同機を7回にわたって作動させ,同支店支店長乙山次郎管理に係る現金合計312万円を窃取した
第3 同日午前11時19分ころ,同市山科区竹鼻竹ノ街道町<番地略>所在の株式会社C銀行D支店において,同支店別棟ATMコーナーに設置された現金自動預払機に前記強取に係る株式会社C銀行発行の前記甲野太郎名義のキャッシュカードを挿入して同機を作動させ,同支店支店長丙川三郎管理に係る現金を窃取しようとしたが,入力した暗証番号が合致しなかったため,その目的を遂げなかった
第4 同日午前11時21分ころ,同市山科区竹鼻西ノ口町<番地略>所在のE郵便局において,同局キャッシュサービスコーナーに設置された現金自動預払機に前記強取に係る総務省郵政局発行の前記甲野太郎名義のキャッシュカードを挿入して同機を作動させ,同局局長戊谷四郎管理に係る現金を窃取しようとしたが,入力した暗証番号が合致しなかったため,その目的を遂げなかった
第5 平成15年8月15日午後8時30分ころから同月16日午前11時ころまでの間,京都市左京区吉田近衛町<番地略>所在の己田五郎方に2階北側窓から侵入し,同人方2階和室及び1階台所において,同人所有又は管理に係る現金合計約121万441円,同人等名義の定額郵便貯金証書7枚(額面合計700万円)及び指輪5個(時価合計170万円相当)ほか88点を窃取した
ものである。
(証拠の標目)<省略>
(公訴棄却の申立てについて)
弁護人らは,平成16年1月15日付起訴状記載の公訴事実について,「不詳の方法により同人を殺害した」との記載では訴因が全く特定されておらず,訴因を明示できていないものであり,検察官が訴因を明確にしない以上,訴因を特定しないものとして公訴棄却されるべきであると主張する。
そこで検討するに,刑事訴訟法256条3項は,「訴因を明示するには,できる限り日時,場所及び方法を以て罪となるべき事実を特定してこれをしなければならない。」と規定し,本件強盗殺人の訴因についてもできる限りの特定をすべきものであることは弁護人らが指摘するとおりであるが,法は不可能を強いるものではなく,検察官において起訴当時の証拠に基づいてできる限りの特定をしたものであれば足りることも明らかである。本件においては,公判廷で調べられた関係各証拠によっても,後記のように甲野太郎(以下,「甲野」という。)が殺害されたこと並びにそのおおよその日時及び場所は明らかであり,その後間もなくして甲野所有のカードを利用して預金から現金が引き出されていることなどからして金員を取るためになされた犯行であることが推認され,殺害現場の状況から出血を伴う事情はあるが死因が特定されておらず出血が死因に結びつくとまではいえずその殺害の経過の中で出血があったことは推認されるものの,甲野の死体が発見されていないことや犯人の供述が存在しないことから,死因に関して凶器が用いられたのか,仮に用いられたとしてどのような凶器が用いられたのか,どのような態様であったのかなど殺害方法について明らかにすることができる証拠が存在せず,結局のところ,甲野を殺害した方法については判然としないものといわざるを得ないのである。このように,本件においては,前記起訴状記載の公訴事実のように殺害方法について特定することができないこともやむを得ない事情が存在するものであり,甲野が殺害されたという事実は一回限りのもので複数回存在することがおよそあり得ない事柄であることからすると,本件は,検察官が把握している証拠に基づき,強盗殺人罪の罪となるべき事実をできる限り日時,場所及び方法等をもって特定して訴因を明示しているものであるから,裁判所に対して審判対象を明らかにしているものと認められる。また,被告人の防御の観点からみても,甲野が殺害されたという事実は一回限りのものであり,前記のように甲野が殺害されたおおよその日時及び場所は特定されているのであるから,それに対応して種々の弁解をし,それにふさわしい防御をすることは可能であるというべきであり,殺害方法が判然としないとしても被告人の防御を実質的に侵害するものとも認められない。
したがって,訴因の特定に欠けるところはなく,弁護人らの公訴棄却の申立ては理由がないから採用することができない。
(事実認定の補足説明)
第1 弁護人らの主張
弁護人らは,平成15年(わ)第1717号の窃盗,窃盗未遂被告事件及び平成16年(わ)第20号の強盗殺人被告事件については被告人は無罪である旨主張し,被告人も前記各事件については身に覚えがないと述べるにとどまり,その余の供述をしていないので,以下検討する(以下,特に断らない限り,月日は平成14年のものである。)。
第2 当裁判所の判断
1 甲野行方不明の事実
(1) 甲野は,昭和25年*月*日生まれで血液型はA型である。甲野は,中学校卒業後,ガス器具の会社に就職し,その後数度の転職を経て実父が亡くなったことを契機に昭和52年9月から株式会社F製作所製造部G製造課(以下,通称名に従い「G工場」という。)に勤務していた。甲野は,昭和48年か49年ころから京都府宇治市莵道車田<番地略>所在の住居に居住しており,結婚歴はなく,平成9年4月に実母が死亡した後は自宅で単身で生活していた。
(2) 甲野は,10月23日,大津に住んでいる叔父が死亡したのでその通夜に行った後,同日午後8時ころ姉の庚町花子(以下,「庚町」という。)の家を訪れた。庚町は,翌日の葬儀のため甲野に庚町と妹である辛浜春子の分として1万円ずつ入れた香典袋2袋を渡した。
(3) 甲野は,同月31日,癸畑六郎チーム長(以下,「癸畑」という。)から翌日から新製品の組立てに入る予定であり本社から設計部の社員も来て製品の不具合部分を検討する予定であることを聞き,これを了承し,通常通り午後5時10分から15分ころには帰宅の途についた。G工場では,一日の仕事が終われば事務室前の空き缶に各従業員が日報を入れ,翌日事務員がパソコンに作業日報を入力することになっているところ,甲野の個人引き出しには,社員コードや開始時間が記載された11月1日の作業日報の下準備と思われる書面が入っていた(日付が「01 11 1」となっているのは甲野の誤記であり「02 11 1」を記載しようとしたと思われる。)。
(4) 甲野は,10月31日午後5時28分に京都府宇治市莵道田中<番地略>所在のスーパーH・I店でコロッケ2個,ぶりの切り身,鍋焼きうどんを店のカードを使って買物をしている。
(5) 甲野の自宅にある同人所有のパソコンからは,10月29日午後10時46分45秒にニフティ及びインターネットが接続され,同月31日午後7時47分26秒にニフティマネージャーが起動,接続され,同日午後7時48分にヤフーメッセンジャーソフトが起動され,同日午後7時55分4秒にヤフーメッセンジャーが接続され,同日午後8時3分3秒にヤフーメッセンジャーが切断され,同日午後8時4分にヤフーメッセンジャーソフトが終了され,同月4日午後8時38分29秒にニフティ及びインターネットが切断されている。
(6) 甲野はG工場に勤務し始めてから一度も無断欠勤したことがなく,休む場合は休暇予定を事前に提出しており,体調不良の場合も朝には連絡を入れていた。甲野は,白色スズキアルト(車両番号は<番号略>。以下,「甲野使用車両」という。)を使用して通勤していた。甲野の趣味は休みの日にパチンコに行くこと,電話やインターネットを利用して競馬をすること,自宅でパソコンを使ってメールやチャットをすることなどであった。11月1日,午前8時30分の始業時間を経過しても甲野が出社してこず,連絡もなかったことから癸畑が甲野の自宅に電話をかけたが応答がなかった。G工場の責任者である子原七郎(以下,「子原」という。)も同日午前9時ころから10時ころの間に3回ほど甲野の自宅に電話をかけたが応答がなかった。子原は,同日午前11時ころ,G工場の従業員に甲野の自宅の場所を聞くなどして自動車で甲野の自宅に向かった。同日午前11時50分過ぎころ,子原が甲野の自宅に着くと甲野使用車両は止まっておらず,玄関のチャイムを鳴らしたり,玄関の戸を開けようとしても応答はなく,また,玄関の戸は鍵がかかっている状態であった。玄関の新聞受けには同日の新聞が入ったままだった。
(7) 子原は,同月2日午後零時過ぎころ,庚町の自宅に電話をかけ,前日の同月1日から甲野が無断欠勤しており,甲野の自宅に行っても新聞受けに新聞が入ったままで,甲野使用車両も止まっていないことなどを伝え,庚町は甲野方の合い鍵を持っているので一度見に行ってくる旨答えた。
(8) 庚町は,子原からの連絡を受けて同女の次女夫婦に連絡し,同月2日午後2時ころ車で甲野の自宅に連れて行ってもらったところ,甲野使用車両は止まっていなかった。玄関の新聞受けには同月1日付と同月2日付の日刊スポーツと京都新聞が入ったままだった。庚町は,合い鍵を使用して家の中に入ると電気がついていなかったので電気をつけた。1階8畳間のこたつの上にスーパーのレシートや給与明細書が置いてあった。庚町は,「帰ったらTEL下さい,花子」とメモを書き,留守番電話の設定をして帰った。
(9) 庚町は,同月3日に甲野の自宅に電話したが,留守番電話のままであったので甲野の自宅には行かなかった。庚町は,同月4日にも甲野の自宅に行ったが,甲野が帰ってきた様子はなく,新聞受けに新聞が入っていたので取り込んでおいた。
(10) 同月5日,庚町の夫がG工場に行き,子原らと面会して話合いをした結果,警察に甲野の捜索願を出すことになった。庚町夫婦は宇治警察署に行き甲野の捜索願を提出した。庚町は,同日午後2時ころ同女の次女と一緒に甲野の自宅に行き,台所,洗面所及び玄関の上がり口に掃除機をかけるなどして掃除をした。なお,庚町は掃除機をかける際に掃除機のごみパックを入れ替えてはいない。1階8畳間は空き箱を端にまとめる程度でほとんど掃除はしていないが,同8畳間の座椅子の両サイドに新聞が置かれており,庚町の手が座椅子の左側に置かれていた10月31日付の日刊スポーツに触れると,新聞は濡れていた。その新聞が置いてあった床を見ると醤油をこぼした痕のように染みていた。
(11) 以上のように,甲野が最後に第三者と接触した時点あるいは自宅のパソコンを使用していたことをうかがわせる記録が残っている10月31日午後8時4分の時点から既に3年以上が経過しているが,その間に甲野から親族や勤務先に全く連絡がないばかりか,甲野が生存していることの手掛かりになるような事情さえ全く見当たらない。
2 11月1日に甲野名義のキャッシュカードを使用して各ATM機が操作されている事実について
(1) 甲野の口座からの現金の引き出し等の事実
ア 同月11日,庚町が甲野の自宅で見つけた甲野名義の通帳の記帳に行くと,A信用金庫の口座から同月1日に312万円が引き出されていることが判明した。庚町が口座開設店であるA信用金庫J支店に行くと,京都市山科区東野片下り町<番地略>所在のA信用金庫B支店のATM機で引き出されていることが分かった。前記の現金はA信用金庫B支店キャッシュコーナーの2号ATM機で甲野名義のキャッシュカードを使用して引き出されており,具体的には,同月1日午前10時59分に残高照会がなされ,その後,同日午前11時6分までの間に,9回にわたり同ATM機が操作され,うち7回の操作で現金を引き出す操作がなされており,合計312万円が引き出されていた。この一連のATM機の操作の際に間違った暗証番号は入力されていない。なお,甲野のA信用金庫の口座の暗証番号は「biac」である。
イ また,同日午前11時19分,京都市山科区竹鼻竹ノ街道町<番地略>所在の株式会社C銀行D支店別棟ATMコーナーのATM機4T号機で何者かが甲野名義のキャッシュカードを使用して何らかの操作を行おうとしたが,暗証番号が間違っていたため操作することはできなかった。甲野のC銀行の口座の暗証番号は「egaf」であり,誤入力された暗証番号は「biac」であった。
ウ さらに,同日午前11時21分,京都市山科区竹鼻西ノ口町<番地略>所在のE郵便局キャッシュサービスコーナーのATM機で何者かが甲野名義のキャッシュカードを使用して残高照会を行おうとしたが,暗証番号が間違っていたため操作することはできなかった。甲野の郵便局の口座の暗証番号は「abij」である。
(2) 間違った暗証番号が入力されている事実
前記のように,金融機関及び郵便局の三つの甲野名義の口座から現金が引き出され,あるいは引き出されようとしているところ,甲野が11月ころに少なくとも現に引き出された312万円という相当に多額な金員を必要としていた事情は何らうかがわれない。また,前記のように,C銀行と郵便局で各ATM機が操作された際には間違った暗証番号が入力されているところ,甲野本人が残高照会等の操作を行おうとしたのであれば,自らの口座について暗証番号を誤入力することは考え難く,仮に甲野が他の金融機関の口座の暗証番号と混同するなどして一旦は間違った暗証番号を入力したとしても,その後に正しい暗証番号を入力することが想定されるところ,本件においてそのような操作はなされていない。
(3) 殊更容貌を隠すかのような姿をしていること
防犯ビデオに映っている甲野名義の口座から現金を引き出している人物は,帽子を目深に被りマスクを着用し,帽子からはみ出した頭髪部分をタオル様の布で覆うという異様な姿をしている。このような姿をしているのは金融機関のATM付近に防犯ビデオが設置されていることは広く知られていることから,自らの容貌等が撮影され身元が判明することを免れようとしているからであると考えられる。
(4) 庚町の識別供述
庚町は甲野の姉であり,庚町と甲野は頻繁に会っていたというわけではないものの10月23日に会っているようにそれなりに親族としての付き合いはあったのであるから,防犯ビデオに映っている甲野名義の口座から現金を引き出している人物が帽子及びマスク等を着用して容貌を隠しているとしてもその人物が甲野であるか否かを間違えることは考え難いところ,庚町は,11月13日に宇治警察署に行き,A信用金庫B支店の防犯ビデオの画像を見た際に,映っている人物の横顔などから現金を引き出していたのは甲野ではないと思ったと述べている。庚町は,当時,甲野がG工場を無断欠勤するなどして連絡がとれない事態となっていることを心配し,甲野の自宅を訪れ警察に甲野の捜索願を出すなどして甲野の行方を捜していたのであるから,真剣に防犯ビデオの映像を見たものと思われ,甲野の行方を捜し心配していた庚町の態度からすれば庚町には防犯ビデオに映っている人物の識別に関して敢えて虚偽の事実を述べなければならない理由や必要性も何ら見当たらない。したがって,前記のように現金を引き出している人物が甲野ではないという庚町の前記供述は信用することができる。
(5) 甲野以外の第三者が甲野名義の口座のうち少なくとも一つの口座の暗証番号が「biac」であることを知り得るか
本件での各ATM機の操作が甲野の意思に基づかないものであるとした場合,甲野名義のキャッシュカードを使用して甲野名義の口座から現金を引き出すには当該口座の暗証番号を知っていなければならない。そこで甲野以外の第三者が暗証番号を知り得る状況があったか否かを検討すると,この場合にまず考えられるのは,甲野名義のキャッシュカードを入手する際に,甲野に暴行脅迫を加えるなどして甲野から聞き出すことである。この場合,A信用金庫の口座の暗証番号のみ正しい暗証番号が入力され,C銀行及び郵便局の口座で入力された暗証番号が間違っていたこととの整合性が問題となるが,甲野が,すべての金融機関の暗証番号を教えると全財産を奪われることになるなどと考え,とりあえず1つの金融機関の暗証番号のみを告げることにしてA信用金庫の口座の暗証番号のみを暗証番号として告げたものとも考えられるし,聞き出した者が暗証番号は同一だと考えてA信用金庫の口座の暗証番号のみを聞く結果となったとも考えられ,甲野から暴行脅迫を加えて聞き出したことと聞き出したのがA信用金庫の口座の暗証番号一つだけということに特に不自然なことはない。なお,弁護人らは,暗証番号を知るためには名義人に関する何らかの数字から推測することが通常であり,本件では,甲野の自宅1階8畳間のこたつの上に置かれていた甲野の給与明細書には,甲野のG工場での社員コードである「biacj」が記載されていたことからすると,この社員コードから甲野の口座の暗証番号が「biac」であると推認することが可能であった旨主張している。確かに,弁護人らが主張するように,口座の名義人に関連する数字が暗証番号として設定されることは多々あるところであり,他人のキャッシュカードを不正に入手した者がそのような数字を暗証番号として入力することは合理的な行動であるといえるが,その場合には,まず,口座の名義人の誕生日,電話番号,自動車の登録ナンバー等の数字が入力されることが経験則に合致するところ,社員コードから暗証番号を推測するというのは必ずしもこの経験則に合致するとはいえず,甲野が社員コードを暗証番号として使っていることを聞いたか暗証番号そのものを甲野から聞いてカード使用前に知っていたと推認される状況である。弁護人らがいうように社員コードからキャッシュカードの暗証番号を推測して入力したというのであれば,入力した数字が合致しなかった場合にはキャッシュカードが使用できなくなるまで他に推測される数字が入力されるという経緯をたどることが考えられるところ,本件ではそのような経緯をたどることなく「biac」という数字のみが入力されている(仮に甲野の社員コードから暗証番号を推測したというのであれば,甲野の社員コードが「biacj」であったことからすれば,上4桁の「biac」で合致しなければ,下4桁の「iacj」ではないかと推測して入力することが自然な流れであるといえるところ,そのような入力はなされていない。)。かかる入力態様からすると,本件で甲野のキャッシュカードを不正に使用した第三者は,甲野に関連する何らかの数字から暗証番号を推測したものではなく,甲野名義の口座の暗証番号が「biac」であると甲野から聞いて認識していたとみるのが相当であり,そのように認識していたのは甲野と特段に親しい関係にあった者以外の者においては,甲野から暗証番号が「biac」であると何らかの圧力を加えて聞き出したことにより知ったと考えるのが相当である(なお,甲野宅のテーブルの上に社員コードが記載された給与明細書があったことからすると,当該第三者に暗証番号を教える際に,給与明細書の社員コード欄を示して暗証番号が「biac」であることを第三者に信用させた可能性もある)。
(6) 結論
以上(1)ないし(5)で説示したところを総合すれば,11月1日に甲野名義のキャッシュカードを使用してA信用金庫B支店,C銀行D支店及びE郵便局の各ATM機を操作した人物は甲野本人ではなく,甲野以外の第三者であり,しかもそれは甲野の意思に反するものであると認められる。そして,各ATM機が設置されている場所が近接していること,約22分間という短時間の間に立て続けに操作されていること(A信用金庫B支店での操作終了時から計算すれば約15分間。なお,同支店からC銀行D支店までは車両であればその時間内で移動可能である。),A信用金庫B支店で入力された暗証番号とC銀行D支店で入力された暗証番号がいずれも「biac」と同一であること,後記のように,A信用金庫B支店で甲野名義のキャッシュカードを使用してATM機を操作した人物とC銀行D支店で甲野名義のキャッシュカードを使用してATM機を操作した人物が着用している帽子,マスク,衣服等がその色調,形状等において極めてよく似ていることなどからすれば,各ATM機の操作が複数の人物によって行われたと考えることは不自然であり,各ATM機の操作はすべて同一の人物によって行われたものと認めるのが相当である。
なお,弁護人らは,C銀行D支店及びE郵便局での各ATM機の操作について,残高照会を行うことは金銭を確認するだけの準備行為にとどまり,本件では,残高照会後に引き出し手続に移行するつもりであったかどうかについては立証がなされていないことから,単なる準備行為として窃盗未遂罪は成立しない旨主張している。しかし,第三者が他人のキャッシュカードを使用して預金を引き出す場合,残高がどれくらいであるか認識している場合でもない限り,どの程度の金額を引き出すことができるか分からないのであるから,本件の行為者は,まず残高照会を行い,残高を確認した後に現金を引き出すのが合理的な行動であるといえ,さらに,不正に他人のキャッシュカードを使用する場合はもとより,自らのキャッシュカードを正当に使用してATM機を操作して現金を引き出す場合にも,残高照会を行い,残高を確認した上で必要な金額を引き出すということがしばしばなされているところである。本件の行為者は,C銀行D支店及びE郵便局でも甲野名義のキャッシュカードを使用して各ATM機を操作しているところ,他人のキャッシュカードを使用してATM機を操作する目的としては現金を引き出すということあるいはその預金引き出しの前提として残高の確認をしていること以外には想定し難い。本件の行為者は,本件直前にA信用金庫B支店において預金を引き出しているが,その際にもまず残高照会を行った上で甲野名義の口座から現金を引き出している。この同一人物が,甲野の預金の残高照会をしているのであり,それはとりもなおさず,預金を引き出す前提で預金されている金額の確認をしていることは明らかであると認められる。そして,キャッシュカードをATM機に挿入し,残高照会を行った上で必要な金額を引き出そうとしている場合において,残高照会を預金の引き出しと全く別個の独立した行為であるととらえることは行為の実情を無視した形式的なものといわざるを得ないものであって,各行為は密接に関連した一連の行為ととらえるのが相当である。それ故,C銀行D支店及びE郵便局で甲野名義のキャッシュカードを使用して各ATM機を操作して残高照会をした行為は現金を引き出すための前提行為ととらえることができるのであって,すなわち窃盗罪の実行の着手行為として残高照会をしたものと認めることができると考える。
3 甲野の生存可能性
(1) 甲野の自宅から発見された血痕
庚町が同月13日に宇治警察署でA信用金庫B支店の防犯ビデオの映像を確認した後,甲野の自宅に警察官が来た。庚町は,警察官に新聞が濡れていた件を話し,警察官は天気予報を調べたが10月31日の天気は雨ではなかった。警察官が帰った後,庚町の娘らが染みになっていたところの上敷きを上げると,上敷きの裏に血の塊のようなものがあったので宇治警察署に連絡した。甲野の自宅1階8畳居間の上敷き及び畳に付着していたものは血痕であり,その付着している範囲は,上敷きについては最大部分で東西65センチメートル,南北50センチメートル,畳については最大部分で東西50センチメートル,南北30センチメートルという相当な量の血液が流れたことが推測されるものであった。なお,その浸潤状況からすると,何者かが畳上敷き上に流出した血を速やかに拭い取っていることが認められる。DNA鑑定の結果,畳上敷きに付着していた血痕のDNA型は,MCT118型は27-28型,HLADQα型は3-3型,TH01型は6-6型,LDLR型はBB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はBB型であり,甲野の臍の緒のDNA型は,MCT118型はDNAが増幅されず型は不明,HLADQα型は3-3型,TH01型は6-6型,LDLR型はBB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はBB型であり,畳上敷きに付着していた血痕のDNA型と甲野の臍の緒のDNA型が判明した多くの点で一致し矛盾するものはなかった。したがって,甲野の自宅1階8畳居間の畳上敷きに付着していた血痕は甲野の血液であると認められる。
(2) 甲野使用車両から発見された血痕
甲野使用車両は,同月20日,甲野使用車両を捜索していた警察官により大津市逢坂二丁目字南別所<番地略>○○寺南西約50メートル先東海自然歩道で,ナンバープレートが前後とも取り外された状態で,助手席ドアロックが開錠され,運転席及び助手席の窓が開いた状態で,後部座席背もたれ部後面のシートや荷室上部の通常装備のカバー等が取り外され,取付け部のビスも残っていない状態で放置されているのが発見された。前記東海自然歩道の近くに住んでいる丑藤春子は,甲野使用車両が東海自然歩道に止まっているのを初めて見たのは同月2日であると思う旨述べているところ,同人は仕事等の日常生活のリズムに基づいて日付を特定しているものであり,また,甲野使用車両発見当時はその前方に止まっていた自動車の中で生活していた寅沢八郎は,甲野使用車両に最初に気付いたのは同月2日から4日ころと思う旨述べていて,これは丑藤春子の上記供述にそうものである。そうすると,甲野使用車両は,甲野が行方不明になった10月31日から11月2日までの間に,前記東海自然歩道に止められたものと認められる。発見された甲野使用車両の後部ハッチバックドア,荷室及び後部座席背もたれ部後面等に血痕が付着しており,ハッチバックドア内側に付着していた血痕のDNA鑑定の結果,甲野使用車両に付着していた血痕のDNA型は,MCT118型はDNAが増幅されず型は不明,HLADQα型は3-3型,LDLR型はBB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はBB型,D3S1358型は16-16型,vWA型は14-19型,FGA型は21-24型,アメロゲニン型はXY型,TH01型は6-6型,TPOX型は11-11型,CSF1PO型は11-12型,D5S818型は13-13型,D13S317型は8-11型,D7S820型は8-10型であり,甲野の臍の緒のDNA型のうち判明している型とすべて一致した。したがって,甲野使用車両に付着していた血痕は甲野の血液であると認められる。
(3) 甲野使用車両から発見された残焼物
ア 残焼物の発見について
前記のとおり甲野使用車両が東海自然歩道で発見されたが,その荷室床面からは残焼物様の物数点が発見されている。発見された残焼物については三つの鑑定が行われ,鑑定の結果,残焼物のうち符号G,L及びNを付して採取されたもの(以下,採取の際にそれぞれに付された符号に対応して「G残焼物」,「L残焼物」及び「N残焼物」という。)は,それぞれG残焼物は糞便が焼け残った物,L残焼物は骨格筋が焼け残った物,N残焼物は右第8ないし第12肋骨の前面の一部が焼け残った物であると判断された。。弁護人らは,前記三つの鑑定の信用性について,鑑定人の適格性,鑑定方法及び具体的実施方法等について種々の疑問を呈しているので,以下,各鑑定について個別に検討していく(以下,技術吏員矢山和宏〔以下,「矢山吏員」という。〕ら作成の鑑定書〔検518及び519〕並びに第14回及び第15回公判調書中の証人矢山和宏の各供述部分を総称して「矢山鑑定」といい,技術吏員吉田耕一〔以下,「吉田吏員」という。〕作成の鑑定書〔検522〕並びに第16回及び第18回公判調書中の証人吉田耕一の供述部分を総称して「残焼物吉田鑑定」といい,警察庁技官今泉和彦〔以下,「今泉技官」という。〕ら作成の鑑定書〔検269〕並びに第17回及び第19回公判調書中の証人今泉和彦の供述部分を総称して「今泉鑑定」ということとする。)。
イ 矢山鑑定
(ア) 矢山鑑定の経過,考察及び結果の要旨は以下のとおりである。
a 外観所見
G残焼物は最長約3.5センチメートルの茶褐色から黒褐色を呈する一部炭化した小塊数片であり,L残焼物は長さ約4センチメートルの炭化した木片のように見える黒色の塊であり,N残焼物は長さ約3センチメートルの表面が炭化した状態の骨片様のものである。
b 血痕予備検査及び血清学的検査
各残焼物にろ紙を押し当て転写したものにロイコマラカイトグリーン法による血液反応検査を行ったところ,L残焼物及びN残焼物には陽性反応が認められ,G残焼物は陰性であった。抗ヒトヘモグロビン沈降素血清を用いた沈降反応重層法による人血検査を行ったところ,L残焼物及びN残焼物は陽性反応を呈し,G残焼物は陰性反応であった。抗ヒト血清タンパク質沈降素を用いて顕微沈降反応法によるヒト血清タンパク質検査を行ったところ,G残焼物及びL残焼物に陽性反応が認められた。
c 考察及び鑑定結果
G残焼物について電子顕微鏡による表面観察及び無機元素分析を行ったところ,ナトリウム,リン,硫黄,塩素,カリウム,カルシウムで構成されており,炭素の量及び表面状態からするとタンパク質が焼けた状態である。ポリアミド化合物のデータも得られた。これらの結果に前記の検査の結果等を加えて検討すると,G残焼物は焼けた骨格筋の一部であり人間のものである可能性が高い。L残焼物について電子顕微鏡による表面観察及び無機元素分析を行ったところ,ナトリウム,リン,硫黄,塩素,カリウム,カルシウムで構成されており,炭素の量及び表面状態からすると一部にタンパク質が焼けた状態がある。L残焼物のうち焼けていない部分については容易に縦方向に裂けるといった性質を有し,ポリアミド化合物のデータも得られた。これらの結果に前記の検査の結果等を加えて検討すると,L残焼物は人血が付着する骨格筋肉片である。N残焼物について無機元素分析を行ったところ,カルシウム,リンを主体として構成されており,X線透過検査を行ったところ,網目状構造を呈した骨梁構築像が観察されたことやその形態観察なども併せると,N残焼物は緻密骨と海綿骨からなる扁平骨であり,肋骨の一部である。そして,全体が薄い扁平骨であることから肋骨前面に位置する肋骨体であり,上縁,下縁の区別,幅などから人間のものであれば第8ないし第12肋骨の一部であると推定される。
(イ) 矢山鑑定の検討
a 矢山吏員は,平成3年4月から京都府警察本部刑事部科学捜査研究所において技術吏員として勤務しており,その後も警察庁法科学研修所や京都府立医科大学等で研修,研究を重ねており,白骨については年間約50件,微細組織片については年間二,三十件の鑑定を行っているのであるから,矢山吏員は白骨,微細組織片鑑定の実施に必要な学識,経験を十分に有しているものと認められる。
b 矢山吏員は,鑑定に際して,一つの検査方法のみでは確実なものにはできないので解剖学や組織学で一般的といわれている検査方法を行って人組織片及び骨片の鑑定を行い結果を導き出していると述べていること,G残焼物の鑑定をする際,後の検査のことを考え,一番大きな塊の一部分のみを取り出して検査を行っていること,血痕の付着がないかを確認し,血痕の付着が認められなかったことからヒト血清タンパク質検査を行ったこと,L残焼物の鑑定をする際,人血の付着が認められたので,資料を超純水で洗浄した上でヒト血清タンパク質検査を行い,陽性反応が認められたが,人血検査で陽性反応が認められたことから人血が付着している可能性も考えられるとしてL残焼物自体が人のものであるとは断定できないと判断し,検査の流れからみて人の可能性が高いと考えられると述べていること,N残焼物の鑑定に際しては,獣骨であれば背側面はやや凸状であり,上縁,下縁ともに不整な形状であるのが一般であるのに対し,N残焼物は肋骨体の背側がやや凹状であり,下縁がきれいな弧状を描いていることなどから人のものである可能性が高いものの,積極的に形態から人のものであると断定するには情報が少な過ぎると判断していることなどが認められる。また,科学警察研究所ではG残焼物の一部は糞便であると鑑定されているところ,矢山鑑定の中では糞便と思われるようなものはなかったことについては,G残焼物は小塊数片であることから,検査の対象とした資料が違うためであると述べており,矢山吏員がG残焼物を鑑定した際には糞便様の臭気が感じられなかったことについては,矢山鑑定の際には焼けた状態のものであるのに対し,DNA鑑定を行うに際し,洗浄や脱臭を行う段階で水分等を含ませると,そこからにおいが発するということはあると思うと述べている。
c このように,矢山吏員は,残焼物に人血が付着していることに十分配慮した上で各種検査を行っていることが認められ,鑑定結果を導き出す際にも人血の存在及び人血が付着する可能性に配慮していることも認められる。また,各種検査の際に用いられた手法も一般的な方法を採用した上で行っており,その手法も適切なものであったということができる。さらに,G残焼物に関して後に行われた鑑定と異なる結論に至った理由について説明しているところは,G残焼物が炭化した小塊数点であり,一見しただけでは同一種類の物であると認識したとしても無理からぬ形状であることなどにかんがみれば,矢山吏員の説明は合理的な説明として首肯し得るものであるといえる。そして,N残焼物についても,破損が存在することを前提に残存部分の形状や厚さなどを検討していることが認められる。
d 以上からすれば,矢山鑑定人の行った鑑定手法及び過程に特段疑問を差し挟む事情は認められず,それに基づく判断も適切なものであると認められ,矢山鑑定の結論は信用することができる。
ウ 残焼物吉田鑑定
(ア) 残焼物吉田鑑定の経過,考察及び結果の要旨は以下のとおりである。
a 外観検査
G残焼物は黒色及び黒褐色を呈する大きさ約1.5センチメートルの炭化物が数塊であり,L残焼物は黒色及び黒褐色を呈する最長約3センチメートルの炭化した木くずのように見えるものであり,N残焼物は黒褐色を呈する長さ約3センチメートルのほぼ炭化した骨片様のものである。
b 血痕予備検査及び人血検査
ロイコマラカイトグリーン法による血痕予備検査を行ったところL残焼物及びN残焼物は陽性反応を示し,G残焼物は陰性反応であった。L残焼物及びN残焼物に抗ヒトヘモグロビン沈降素血清を用いた沈降反応重層法による人血検査を行ったところ,いずれも陽性反応を示した。
c DNA型検査
(a) DNAの抽出,精製
G残焼物は水洗し脱脂後のもの,L残焼物は水洗し脱脂後のもの,N残焼物は脱灰後のものを超音波で洗浄を繰り返し,付着する人血を除去したものをそれぞれ資料として,蛋白分解酵素処理を行った後,除蛋白処理を経てエタノール沈殿によりDNAを抽出,精製した。L残焼物,N残焼物から得られた人血についても同様にDNAを抽出,精製した。
(b) 各種型検査
抽出,精製した各DNAについて検査を行ったところ,G残焼物はいずれの検査においてもDNAが増幅されなかったため型は不明であり,L残焼物のMCT118型は27-28型,HLADQα型は3-3型,TH01型は6-6型,LDLR型はBB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はBB型であり,N残焼物のMCT118型はDNAが増幅されず型は不明,HLADQα型は3-3型,TH01型はDNAが増幅されず型は不明,LDLR型はBB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はBB型であった。L残焼物から得られた人血のMCT118型は27-28型,HLADQα型は3-3型,TH01型は6-6型,LDLR型はBB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はBB型であり,N残焼物から得られた人血のMCT118型は27-28型,HLADQα型は3-3型,TH01型は6-6型,LDLR型はBB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はBB型であった。
(イ) 残焼物吉田鑑定の検討
a 吉田吏員は,昭和59年4月から京都府警察本部刑事部科学捜査研究所において技術吏員として勤務しており,その後も法科学研修所において特に平成9年以後は継続的に毎年DNA型鑑定に関する研修を受け,開発された新しい技術を習得し,また,技術の管理や施設,器材,試薬の管理を行うためにも研修を受けており,その他にも平成16年4月から1か月に1回の割合で京都大学大学院医学研究科法医学講座に参加しDNAの最新情報を収集している。そして,平成5年12月に科学警察研究所所長からDNA型鑑定資格認定書を受け,平成6年1月からDNA鑑定を行うようになり,事件数としては200事件以上,鑑定資料件数としては一千点以上(大部分は血液,血痕)を処理している。かかる吉田吏員の経歴からすると,吉田吏員はDNA鑑定の実施に必要な学識,経験を十分に有しているものと認められる。
b 吉田吏員は,各残焼物の色調から血痕の付着が疑われ,血痕が付着していた場合,資料そのもののDNA以外のDNAを同時に検出することになり,血痕が付着していなくても他の夾雑物がDNA検査に支障を及ぼす可能性があるので,資料そのもののDNAを検査するために超純水に資料を入れて超音波をかけ振動させて夾雑物を除去する方法で水洗を行った。水洗前に血痕予備検査を行ったところL残焼物及びN残焼物は陽性反応を示したため,L残焼物及びN残焼物について水洗を数十回行い,水洗後の水について血痕予備検査を行うと陰性であった。G残焼物及びL残焼物については,ろ紙が若干油のような感じで変色等をしており,脂のように夾雑物が含まれていると鑑定が困難になったり,DNAを増幅する工程においてDNAが十分増幅しないことが起こるので,エーテルをビーカーに入れ,その中に資料の一部を加えてエーテルに脂分を染み込ませ,溶け込ませて脂分を取り除く脱脂を行った。N残焼物については,骨は硬く,細かく砕いてもDNAを容易に抽出できないので,DNAを抽出するために0.5モルのエチレンジアミンテトラアセティックアシードの溶液に資料を入れ,56度で3日間ぐらい振動させながら放置するという脱灰という操作を行い,骨からカルシウムを除去した。その後,各残焼物について蛋白分解酵素,界面活性剤であるドデシル硫酸ナトリウム,緩衝液の三つの溶液を抽出液としてDNAを抽出した。吉田吏員は,この一連のDNA抽出方法は一般的に承認された方法であると述べている。なお,L残焼物及びN残焼物に付着していた人血のDNA鑑定検査は,人血検査で用いた浸出液を用いて行っている。そして,各種検査の結果DNAが増幅されなかった理由については,古くなったり,腐ったりした場合に検査の対象となる部位が小さく断片化してDNAを増幅しようとしても増幅しないことがあること,また元々DNAの量が少なかった場合にも増幅されないことがあることの二つが考えられると説明している。
c このように,吉田吏員は,残焼物に人血が付着していることに十分配慮した上で各種検査を行っていることが認められる。また,各種検査の際に用いられた手法も一般的な方法を採用しており,その手法も適切なものであったということができる。弁護人らは,本件で用いられた検査方法のうちMCT118型検査以外の検査方法は科学的信用性が是認された検査方法ではない旨主張しているが,MCT118型検査以外の検査方法も日進月歩のDNA型検査の世界において研究,開発されその有益性,正確性が認められ,検査方法として採用されたものであることは明らかである。また,N残焼物に関して,今泉鑑定では研磨,洗浄をしても付着血液は除去できなかったことがうかがわれるとしているのに対し,残焼物吉田鑑定では血痕を全部除去できたとしている点について,今泉鑑定とはやっている方法も違うと思うし,徹底的に除去作業を行ったと自負していると説明している。吉田吏員は,L残焼物及びN残焼物について数十回水洗を行い,念のため水洗するために使用した水について血痕予備検査を行い,その結果,陰性反応であったことから血痕を全部除去できたと判断しているところ,多数回の洗浄がなされており,血痕予備検査の結果,陰性反応が示されたことから付着血痕が完全に除去されたと判断するのは相応の根拠があるといえること,N残焼物のMCT118型検査及びTH01型検査ではDNAが増幅されなかったのに対し,N残焼物に付着していた人血のMCT118型検査及びTH01型検査ではいずれも型の判別が可能であったこと,残焼物吉田鑑定と今泉鑑定で用いられた部位は異なる部分であり,焼け方等の相違があった可能性もあることからすれば,残焼物吉田鑑定と今泉鑑定で付着血痕の除去についての結論に相違があることのみをもって,残焼物吉田鑑定及び今泉鑑定の信用性を失わせるものではないということができる。
d 以上からすれば,吉田吏員の行った鑑定手法,過程及びそれに基づく判断は適切なものであると認められ,残焼物吉田鑑定の結論は信用することができる。
エ 今泉鑑定
(ア) 今泉鑑定の経過,考察及び結果の要旨は以下のとおりである。
a 外観所見
G残焼物は多数の小片を含んだもので,茶褐色のもののほか,炭化した黒色の小片を含んでおり,糞便様の臭気が強く感じられた。L残焼物は最長2センチメートルほどの茶褐色を呈する針状のものが多数認められ,一部が炭化し黒変したものと,概ね炭化した黒色の物体を含んでいる。また,タンパク質を燃焼した際に認められる臭気が感じられた。N残焼物は約1.7センチメートルの炭化した骨で極めて脆弱であり,炭化部位は内部まで一様に黒色で完全に炭化に至っている。
b 組織学的検査
G残焼物とL残焼物の一部についてブアン液による固定の後パラフィン切片を作成し,ヘマトキシリン-エオジン染色を施し,組織像の観察を行った。G残焼物の各小片のうち最大のものの一部について組織学的観察を行うと,弱拡像において多数の植物組織が観察され,それらは細胞壁や柵状の組織構造を良好に保存しているものの,細胞質の変性が進んでいることをうかがわせる状態にあり,消化残渣に一般的に見られる様相を呈していた。これらの残渣様物はヘマトキシリン好性の不均一なもので一様に囲まれており,強拡像においてはヘマトキシリンに濃染する極めて微細な粒子状物によって満たされている。L残焼物の組織学的観察を行うと,縦断面にエオジン好性の線維状構造が観察され,各線維には複数の扁平な核が辺縁性に認められ,横紋が広範囲にわたって観察された。
c 血痕予備検査,人血検査及び血清学的検査
ロイコマラカイトグリーン法による血痕予備検査を行ったところL残焼物及びN残焼物は陽性反応が認められ,G残焼物は陰性反応であった。イムノクロマトグラフィー法による人血検査を行ったところ,L残焼物及びN残焼物は陽性反応が認められ,G残焼物は陰性反応であった。G残焼物及びL残焼物の人血検査で用いた遠心上清について抗ヒト血清タンパク質沈降素を用いた沈降電気泳動法によるヒト血清タンパク質検査を行ったところ,いずれも陽性反応が認められた。
d DNA型検査
(a) DNA鑑定の抽出,精製
各残焼物及び甲野の臍の緒について常法に従ってDNAを抽出した。N残焼物については人血が付着している可能性が示されたので,表面を紙やすりで研磨し,TE緩衝液中で超音波洗浄を3回行った後乾燥したものをDNA抽出に供し,洗浄時の最終上清についてもDNA抽出を行い,各検査に供した。
(b) 各種型検査
① プロファイラー検査キットによるSTR型検査及びアメロゲニン型検査
G残焼物のD3S1358型は16-16型,vWA型は不詳,FGA型は不詳,TH01型は6-6型,TPOX型は11-11型,CSF1PO型は不詳,D5S818型は13-13型,D13S317型は不詳,D7S820型は不詳,アメロゲニン型はXY型であり,L残焼物のD3S1358型は16-16型,vWA型は14-19型,FGA型は21-24型,TH01型は6-6型,TPOX型は11-11型,CSF1PO型は11-12型,D5S818型は13-13型,D13S317型は8-11型,D7S820型は8-10型,アメロゲニン型はXY型であり,N残焼物の洗浄後最終上清のD3S1358型は16-16型,vWA型は14-19型,FGA型は21-24型,TH01型は6-6型,TPOX型は11-11型,CSF1PO型は11-12型,D5S818型は13-13型,D13S317型は8-11型,D7S820型は8-10型,アメロゲニン型はXY型であり,N残焼物の洗浄後最終上清のD3S1358型は16-16型,vWA型は14-19型,FGA型は21-24型,TH01型は6-6型,TPOX型は11-11型,CSF1PO型は11-12型,D5S818型は13-13型,D13S317型は8-11型,D7S820型は8-10型,アメロゲニン型はXY型であり,甲野の臍の緒はD3S1358型は16-16型,vWA型は14-19型,FGA型は21-24型,TH01型は6-6型,TPOX型は11-11型,CSF1PO型は11-12型,D5S818型は13-13型,D13S317型は8-11型,D7S820型は8-10型,アメロゲニン型はXY型であった。
② ミトコンドリアDNA検査
各抽出DNA溶液について,ミトコンドリアDNAコントロール領域のHV1領域及びHV2領域のPCR増幅を試み塩基配列を決定したところ,各残焼物,甲野の臍の緒及びN残焼物の洗浄後最終上清のいずれも,HV1領域の塩基位置16223はT,16227はG,16278はT,16362はC,HV2領域の塩基位置73はG,146はC,207はA,263はG,315.1はCであった。
e 考察
G残焼物は糞便であり,L残焼物は骨格筋である。G残焼物は抗ヒト血清タンパク質沈降素による血清学的検査で陽性反応が認められるので人のものである。L残焼物の人血検査において陽性反応を示した血液の由来については筋組織に由来するものか,二次的に付着した血液に由来するものか断定はできず,DNA型検査でも得られた型が筋組織に由来するものか,付着血痕に由来するものか断定できないが,筋組織が組織学的に良好な状態にあることから,L残焼物から得られたDNA型は筋組織そのものの型として差し支えない。N残焼物の洗浄上清から抽出したDNA溶液からはミトコンドリアDNA検査のみならずSTR座位及びアメロゲニン座位のすべてにおいて型が検出され,付着血液は除去できなかったことがうかがわれる。N残焼物のように完全炭化した試料にDNAが残存しているとは考え難いので,N残焼物から得られたDNA型は付着血痕に由来するものと結論づけるのが妥当である。以上を総合考慮すると,G残焼物,L残焼物及びN残焼物付着の人血は甲野のものとして矛盾がない。
(イ) 今泉鑑定の検討
a 今泉技官は,平成4年から警察庁科学警察研究所に勤務しており,その後も科学技術庁長期在外研究員として米国陸軍病理研究所に1年間留学し,主に骨のミトコンドリアDNA型検出法について研究を行い,その後も研究論文を発表するなど,DNA型鑑定に従事しながらDNA型に関する研究を行っている。そして,今泉技官は平成5年ころから鑑定補助としてDNA鑑定に携わるようになり,平成10年ころから主任鑑定人として鑑定を行うようになっており,以後,現在までに約60件ぐらいDNA鑑定を行っている。かかる今泉技官の経歴からすると,今泉技官にとって骨格筋及び糞便のDNAを検出する鑑定については今回が初めてであるとしても,今泉技官はDNA鑑定の実施に必要な学識,経験を十分に有しているものと認められる。
b 今泉技官は,鑑定資料には人血が付着している旨鑑定嘱託書に記載されているものが含まれていることから,各残焼物について血痕予備検査及び人血検査を行い,N残焼物については重度に炭化しており,長時間高温にさらされていたことがうかがわれるため,人血は骨組織に由来するというより,二次的に付着した血液に由来する可能性が高いと判断し,L残焼物については,N残焼物と比較して高度な炭化に至っていなかったことから付着した人血が骨格筋に由来するものか,二次的に付着した血液に由来するものか断定できないが,筋組織が組織学的に良好な状態にあることから,L残焼物から得られたDNA型は筋組織そのものの型として差し支えないと判断している。その上で,各鑑定資料から検出された範囲(ただし,N残焼物については,上記のとおり骨組織そのものに由来するものではなく,二次的に付着した人血に由来するものである。)においてはSTR型,ミトコンドリアDNA型が完全に一致していたことなどから,L残焼物及びG残焼物並びにN残焼物に付着した人血は,同一人に由来すると考えて矛盾はないと判断したものである。
c このように,今泉技官は,残焼物に人血が付着していることに十分配慮した上で各種検査を行い,結論を導き出していることが認められる。前記のように残焼物吉田鑑定と今泉鑑定ではN残焼物に付着していた血痕を完全に除去できたかについては異なる見解に立っているが,骨の組織構造が非常に多孔性に富んでおり,焼けていくと非常に細かい焼孔がたくさんできることなどを根拠に,付着した血痕を完全に除去することは非常に困難であると考えるのは合理的な根拠に基づいたものといえ,他方,前記のように残焼物吉田鑑定において血痕が完全に除去されたと判断した根拠も合理的なものであること,鑑定に用いた部位が異なることや洗浄の回数等が異なることからすると,残焼物吉田鑑定を検討したのと同様に,判断が異なることが今泉鑑定の信用性を失わせるものではないということができる。そして,各DNA型検査方法についてみると,STR検査は平成13年から科学警察研究所で導入された検査手法であり,各都道府県の科学捜査研究所では平成15年から導入されたものであって,STR部位と呼ばれるDNA部位(人の場合であれば9部位)と性別に関するアメロゲニン部位をフラグメントアナライザーと呼ばれる機器を用いて自動的に型を判定し個体の異同識別を行う検査方法であり,検出された各部位の型の出現頻度を掛け合わせることで,同じDNA型が出現する可能性が算出されるものである。今泉技官は,STR検査は,検査手法が従来のものに比べて簡便であり,検出感度も高いことから導入されたもので,日本で導入された時点では諸外国で一般的に使用されていたものであると説明している。また,ミトコンドリアDNA検査は平成10年から科学警察研究所で導入された検査手法であり,今泉技官は導入当初からこの検査に従事している。STR検査においては,DNAを抽出した溶液をPCR増幅をし,キャピラリー電気泳動をし,最終的な型判定の部分はデータを基にソフトウエアが読み取って判断するところ,その判定の際に基準となる閾値は設定を変更することも可能であるが,今泉技官は検査キットのマニュアルの推奨値から変更することなく検査を行っている。STR検査においては,電気泳動をした結果,一つの型について二つの閾値を超えるピークが出現することがあり,これは本来の型を表すメインピークと,スタッターピークというマイナーピークであって,スタッターピークが出るという事実は把握されており,それを考慮して検査を行っているところ,スタッターピークであるかどうかの判断は,メインピークの10分の1以下であるかどうかが基準とされており,今泉技官はその基準に基づいて判断している。さらに,アメロゲニン型検査においてはXX型であれば女性,XY型であれば男性と判断されるところ,Yが出にくい人がいるのでXXと出た場合でも,極めて稀にXY型である可能性があるものの,XYと出た場合には100パーセント男性であると考えることができると説明している。
d 以上からすれば,確かに科学警察研究所におけるSTR法それ自体のみの歴史はそれほど長くはないものの,従来科学警察研究所や科学捜査研究所で採用されていたMCT118型検査やPM検査等と比較して検査方法が従来のものに比べて簡便であり,検出感度も高いことや,日本で導入された時点では諸外国で一般的に使用されていたことなどから導入されたものであって,全く新たに開発された科学的検査手法というわけではなく,MCT118型検査等と同様の核DNA型検査の一手法として開発された検査方法なのであり,MCT118型検査の科学的原理が理論的正確性を有することは認められているところである。そして,人の細胞核DNA型検査についてのSTR法は互いに関連性のない9か所の部位について検査を行うものであり,それぞれの検査部位が独立していることから,9か所の検査結果の出現頻度の数値を掛け合わせることで,計算上の数値ではあるが総合的には約1100万人に1人という高度の異同識別が可能になる検査方法なのである。スタッターピークであると判断する基準についても,科学警察研究所における検査の結果の積み重ね等から常識的に判断できるところとしてメインピークの10分の1以下という基準が設けられたものであり,多数の検査結果から導き出されたその基準はそれなりに合理的なものであるということができる。以上の事情を総合すると,STR検査はその科学的原理が理論的正確性を有する検査であるといえ,今泉技官が各種検査の際に用いた手法も一般的な方法を採用した上で行っており,その手法も適切なものであったということができ,今泉技官の行った鑑定手法及び過程に特段疑問を差し挟む事情は認められず,それに基づく判断も適切なものであると認められるから,今泉鑑定の結論は信用することができる。
オ 残焼物に関する三つの鑑定の総合的検討
前記イないしエのとおり甲野使用車両から発見された各残焼物について信用性のある三つの鑑定がなされている。確かに残焼物吉田鑑定と今泉鑑定の間において,N残焼物に付着していた人血が完全に除去できたかについては見解の相違があるところ,そのことについては既に説示したとおり,異なる見解に至ることもあり得る合理的な根拠がそれぞれにあるため,各鑑定自体からはいずれとも決し難いところである。しかし,鑑定資料とされたいずれの残焼物も甲野使用車両という同一の場所から同一の機会に発見されており,しかも,各残焼物は,骨格筋や肋骨等の一部の残焼物というその存在自体が一般人の日常生活の中で発見されることが極めて珍しいものである上,残焼物吉田鑑定及び今泉鑑定の結果明らかになった範囲でのDNA型はすべて一致しており何ら食い違う点はないこと,矢山鑑定及び今泉鑑定で行われたヒト血清タンパク質検査で残焼物から陽性反応が認められたことなどからすると,仮に今泉鑑定のいうように,N残焼物に付着していた人血,ひいてはN残焼物から得られたDNA型が,骨組織そのものに由来するものではなく二次的に付着した血液である可能性が高いとしても(なお,後記安原鑑定中にも,得られたDNA型は付着血痕に由来し,骨資料のものではない旨これと同趣旨の指摘がある。),N残焼物のみが別個の個体に由来するものと考えるのは余りにも不自然である(今泉鑑定も,N残焼物の骨組織そのものが,他の残焼物と同一の個体に由来することを積極的に否定するものではない。)し,各残焼物について人の物と動物の物が混じっていると考えること,各残焼物はいずれも人の物であるが異なる人物の物であるなどと考えることは余りにも非現実的である。各残焼物はいずれも人の物であり,かつ,同一人物に由来するものと考えるのが合理的であるといえる。そして,各残焼物から検出されたDNA型が甲野の臍の緒のDNA型と一致していたことからすると,G残焼物,L残焼物及びN残焼物は甲野に由来するものと認めるのが相当である。
(4) 医師安原正博(以下,「安原医師」という。)による捜査関係事項照会事項意見書及び第20回公判調書中の証人安原正博の供述部分(以下,これらを総称して「安原鑑定」という。)
ア 安原鑑定の要旨
G残焼物は人糞便と思われ,糞便が車両の荷室から発見されたことは,焼却された死体から腸管損傷に伴い,荷室に糞便が残存した可能性がある。脱糞した糞便が焼却された可能性もあり得るが,仮に車両の荷室で何らかの原因により脱糞した後に焼却されたと考えると甲野使用車両に焼損が認められないことと矛盾が生じる。L残焼物の色調は茶褐色から黒色であり,鮮紅色調ではない。焼死であれば生活反応として一酸化炭素ヘモグロビン色調の鮮紅色調が残っている可能性があるがそのような色調ではないので死後焼却された骨格筋の可能性もある。しかし,時間経過や乾燥等による色調変化も否定できず,死後焼却と断定するには至らない。N残焼物は炭化した肋骨の一部で,甲野のものと考えられ,右第8ないし第12肋骨が発見されたということは右胸郭下部に位置する肋骨が切除されていることになり,第8肋骨の真下にほぼ接着して横隔膜があり,肋骨の上面,下面に沿って肋間動脈,肋間静脈が走行していることから,横隔膜や肋間動脈,肋間静脈を損傷することなく第8ないし第12肋骨のみを除去することは不可能であると思う。右横隔膜の損傷や肋間動脈の損傷に伴い,多量の出血を生じて血胸となったり,右肺の一部が露出するため気胸又は空気圧により肺が圧迫萎縮し,無気肺になるなどし,適切な医療を講じない限り,呼吸不全から死に至ることになる。発見状況やDNA検査等に基づき,各残焼物が甲野に由来するものと認められ,その焼損部位が胸部,腹腔部,両上下肢等の身体各部位に及ぶものと考えられ,同一の機会に発生したと考えるのが合理的であるから,甲野が生存しているとは到底考えられない。
イ 安原鑑定の検討
弁護人らは,安原鑑定は①残焼物が甲野のものであると認められないこと,②信用性を有しない矢山鑑定,残焼物吉田鑑定及び今泉鑑定を前提としていること,③多分に憶測を含むものであることから安原鑑定の信用性に疑問を呈している。
しかし,既に説示したように矢山鑑定,残焼物吉田鑑定及び今泉鑑定は信用することができ,これらを総合すれば各残焼物はいずれも甲野に由来するものということができるのであるから弁護人らの主張①及び②は前提において失当であり,安原医師は,京都府立医科大学法医学教室教授として,これまでに約6000体の司法解剖及び行政解剖を実施しており,焼死体について解剖したことも解剖をした中の約1割から2割はあるという法医学について十分な学識と経験を有するものであり,その法医学に関する学識や経験に基づいて先行する鑑定の結果を検討した上でこれを是認し,そのことを前提に肋骨片等が発見されたことの意義を検討したものである。そして,肋骨片の大きさや位置について種々仮定してみても,第1肋骨の肺尖部であればともかく,それ以外であればどこのものであろうと生存可能性に及ぼす影響は同じであることや,肋骨片,骨格筋及び糞便が炭化状態で同じ場所から発見され,甲野のDNA型と一致したことなども考慮した上で,前記の結論を導き出しているのであって,以上からすれば,安原鑑定の判断過程及び結論が多分に憶測を含むものであるとは到底いうことができず,その内容は合理的なものであるということができ,特段の疑問を差し挟む余地も認められない。したがって,弁護人らの主張は採用することができず,安原鑑定の結論は信用することができる。
(5) 消防署及び救急病院での取扱い
京都市,京都市以南及び大津市を管轄する消防署22か所及び救急指定病院82院に対して,10月31日から11月20日までの間に甲野が関係する救急事案の取扱い,受診の有無,身元不明傷病人(年齢40歳代から50歳代)の取扱いの有無等の確認がなされたが,いずれの消防署及び病院においても前記期間中に甲野が傷病人として取り扱われた事実はなかった。
(6) 甲野の健康状態
甲野は,総胆管嚢腫により平成11年12月7日から平成12年3月16日まで京都第一赤十字病院に入院し,同年2月14日にその手術を受けている。その後,平成13年11月30日財団法人京都工場保健会診療所で人間ドックを受けているが,過去の同人の人間ドック及び健康診断検査の結果等を併せると,同人には軽度の高中性脂肪血症以外に脳血管疾患・虚血性心疾患の危険因子が認められない状態であり,非喫煙者であることを加味すると突然死の危険性は一般住民と比較して格別高くないと考えられる状態であった。また,甲野のG工場での勤務態度等からすると,甲野が仕事上あるいは私生活上の事柄について特段思い悩んでいたというような事情もうかがわれないのであり,甲野の精神状態にも特段の問題がない状態であったと認められる。
(7) 甲野からの連絡等がないこと
本件については,甲野が行方不明になったことから捜査機関や庚町らがその消息を捜すとともに,事件性があるとして新聞報道等がなされており,その後も折に触れて新聞報道等がなされているところ,前記のように甲野が行方不明になってから既に3年以上が経過しているが,その間に甲野から全く連絡がないのみならず,甲野が生存していることの手掛かりになるような事情は全く見当たらない。
(8) 結論
以上(1)ないし(7)で説示したところを総合すると,甲野使用車両から発見された各残焼物はいずれも甲野に由来するものと認められ,甲野が殺害された後に甲野の死体が焼却され各残焼物が残存,発見されるに至った場合はもとより,何らかの事情により甲野の生前に右第8ないし第12肋骨が切除されるに至った場合には適切な医療措置が講じられなければ死に至ることになるところ,甲野が行方不明になった時点以降に,甲野ないしは甲野と思われる人物が行動範囲として想定される京都市,京都市以南及び大津市を管轄する消防署や救急病院等で傷病人として取り扱われた事例はないのであるから適切な医療措置が講じられた事実は認められない。これらの事情に加えて,甲野が多額の現金を必要とする事情が見当たらないにもかかわらず,11月1日に甲野の口座から第三者によって現金が引き出され,あるいは引き出されようとしたことや,甲野が行方をくらまさなければならないような事情が何ら見当たらないにもかかわらず,今日に至るまで甲野から勤務先や親族等に対して何ら連絡がないこと,何より甲野の自宅に多量の出血があったことがうかがわれる血痕を拭い取った痕跡が残されていることや甲野に由来する前記G残焼物,L残焼物,N残焼物という極めて異例な物が発見されていることなどをも併せ考えれば,もはや甲野が生存している可能性はないものと認められる。そして,前記のような事情,ことに,甲野の死亡と近接した日時に甲野名義のキャッシュカードを使用し甲野の意思に反して現金が引き出されるなどしていること,甲野方の血痕が拭い取られていること,甲野は生前又は死亡後に焼却されており,その残焼物が甲野使用車両に残されて運搬され,その車両が人目につきにくい場所に投棄されていることなどからすると,甲野の死亡は他人の手によるものとしか考えることができず,しかも,これらの領得行為や罪証隠滅行為が手際よく遂行されていることからすると,利欲的目的から甲野を死亡させたと考えるのが合理的であって,その者は殺害の故意を有していたと強く推認することができる。甲野が病死したことや自殺したこと,事故その他の事情などこの推認を揺るがす事情をうかがわせる具体的な根拠もなく,弁護人らが主張する過失致死,傷害致死,保護責任者遺棄致死等は人が死亡する抽象的な可能性を列挙したものに過ぎないというべきである。したがって,甲野は何者かによって殺害されたものと認められる。
4 殺害場所,日時及び方法
本件においては甲野の死体は前記のようにわずかな部分が残焼物として発見されたのみであってその余の大部分は発見されておらず,また,犯人の供述が存在しないことから犯人が甲野を殺害した方法,場所及び日時を直接明らかにする証拠は存在しない。そこで,客観的な状況に基づいて検討する。
(1) 殺害場所
甲野の自宅1階8畳居間には多量の血痕を拭い取った痕が認められたことに加え,傷害を負った状態の生存したままの甲野を屋外に搬出することは容易ではない上,緊縛するなどして自動車に乗せて移動するとしても,傷害の程度にもよるが身体の自由を回復した甲野が突然抵抗し始めることもあり得るところであり,その後遺体を焼却している状況などからすると生きたまま甲野を連れ出す理由がなく,生きている場合と死んでいる場合とでは発見される危険性に大きな違いがあり,犯人がわざわざ事件が発覚しやすくなるような危険を冒してまで甲野を生存したまま搬出しなければならない理由も見あたらない。これらを総合すると,犯人が生存した状態のままで甲野を搬出したとは考え難く,犯人は,甲野の自宅において甲野を殺害した上でその死体を搬出したものと認定するのが相当である。なお,庚町が11月2日に合い鍵を使用して甲野の自宅に入った際には特段家の中が荒らされているような形跡はなかったというのであるが,甲野の自宅1階8畳居間に多量の甲野の血が流れ,それが畳に染み込んでいたことなどからするとその場所で凶器を示されるなどして抵抗できない状況があり,その後血の流れる何らかの事態が生じたことが容易に推認できるものであり,甲野が無抵抗であれば争った形跡が残るとは限らないのであり,争った形跡がないことと甲野が自宅で殺害されたこととは矛盾しない。
(2) 殺害日時
客観的に甲野の最終生存が確認されているのは,10月31日午後8時4分にヤフーメッセンジャーソフトが終了された時点である。そして,11月1日午前10時59分に第三者が甲野名義のキャッシュカードを使用してA信用金庫のATM機を操作し始めており,また,後記のように甲野を殺害してキャッシュカードを強取した犯人と甲野のキャッシュカードを不正に使用した第三者は同一人物であると認められる。ところで,被告人が犯人であるとすると,被告人運転車両は,10月31日午後10時10分に追分峠を山科方面から大津市内方面に,同日午後10時31分に同所を大津市内方面から山科方面に向けてそれぞれ通過しており,この間被告人は甲野方にいなかったと認められるから,この時点では既に甲野が殺害されていたと推測するのが最も自然である。仮に甲野を緊縛していたとしても生存する甲野を残して甲野宅を離れることは共犯者がいて見張っていた場合はともかくそうでなければあり得ないともいえ,本件で甲野の殺害時に共犯者がいた状況は認められない。そのことからすると,被告人が犯人である場合,甲野の殺害時間は,10月31日午後8時4分から同日午後10時10分までの間と推認することできる状況である。ただ,死因を特定することができず,いつ死亡したかを断定する資料もない。その後,同日夜中に死体を焼却したと考えられるが,甲野の車で死体を運び出し焼却する前には,甲野は既に死亡していたとみるのが自然である。(なお,判示第1の犯行の時間に関しては,犯行開始は,甲野が生きていた可能性のある時間前後が始期であり,31日午後8時ころと推認するのが相当であり,終期に関しては,犯人はキャッシュカード3枚やウエストポーチ1個を持ち出しているところ,そのカードを使用する以前に終わっていることは明らかに推認できるところ,現金と一緒に早い段階でこれらの品を持ち出した可能性は高いものの確実なのは使用する前であるといえるのであって,犯行の終期は11月1日午前10時59分のキャッシュカードを使って現金を引き出す前であり,犯行場所から現金引き出し場所との距離や移動時間を考えて11月1日午前10時半ころと判断するのが相当であると考える。)
(3) 殺害方法
甲野の自宅1階8畳居間には多量の出血があったことをうかがわせる血痕が認められたことなどから,前記のように殺害場所は甲野の自宅であると推認するのが相当である。そしてその出血は何らかの凶器で甲野の身体を傷つけ相当量の出血があったからであると認められる。その意味で殺害は凶器を使って甲野の身体を傷つけることによって生じたとするのが最も素直な判断であるといえる。しかしその出血が死因につながったという証拠があるかというとそうとは言い切れない。甲野の死体がないのであって死体解剖するなどして甲野の死因は特定できず,その死因に結びつく殺害方法を断定することはできない。前記のとおり,甲野からA信用金庫のキャッシュカードの暗証番号を聞き出したと推認されるが,その際は甲野は生きていたのであり,それは血を流す前なのか後なのかも分からない。流血を伴う傷害を負わせた後,首を絞め,あるいは息ができないようにして窒息死させたかもしれないし,他の死亡するに至らせる手段がとられたかもしれない。特に病気等もない甲野が死亡したのは事故等ではなく,犯行途中に流血を伴うことがあり,その後命を奪われたことは間違いなく推認ができるが,その最終の殺害方法は何であったかを断定する証拠は認められず,結局,証拠上殺害方法は不詳であるといわざるを得ない。
5 強盗殺人の成否
(1) 財物奪取に向けた暴行,脅迫の存在
既に認定したように,甲野のキャッシュカードを不正に使用した犯人は暗証番号が「biac」であることを甲野から聞き出したものであると推認されるところ,甲野が任意に他人に自己の口座の暗証番号を教えるというような事態は特段の事情がなければ想定し得ないところであり,本件においてはそのような事情は見当たらないのであり,犯行現場に多量の出血があることから判断すると,犯人が甲野から暗証番号を聞き出すために既に甲野を傷つけていたか,その前に凶器を示して脅迫を加えていたかどちらかの事情が少なくともあったということを合理的に推認することができる。また,本件においては血痕の払拭や甲野の死体搬出,焼却等念入りな隠滅工作が存在し,甲野名義のキャッシュカード使用が同一人により近接した時間に行われてもいるなど,一連の行動が何ら躊躇することなく行われているのであり,仮に甲野を殺害した犯人が,殺害を念頭に置いていなかったのであれば,そのように躊躇することなく一連の行動をとるということもおよそ想定し難いものである。そうすると,本件においては,財物奪取に向けた暴行,脅迫が存在したこと及び事の次第によっては甲野を殺害するという意味での殺意を有していたことを合理的に推認することができる。被告人が犯人であった場合,被告人の過去の犯罪事実からすると当初から強盗を企図していたのではなく窃盗をしようと合い鍵を使って甲野宅に侵入したことも考えられるが,その場合,強盗致死であって強盗殺人ではないのではないかとの主張もあり得るところである。しかしながら,甲野と被告人とは面識があり合い鍵を使って窃盗しようとして甲野がいなければそれまでであるが甲野が在宅していて甲野に発見された場合は,甲野から犯行が発覚すると思われる状況であり,その意味で犯行が甲野に発覚すれば甲野を殺害するしかないとの判断はあったものと推認され,そのための凶器も所持していたと認められる。また,甲野宅に侵入する際家の前のガレージに甲野の車があったと推認されるのであるから,甲野が帰宅している可能性を被告人は認識していたと思われ,その場合は,金品を奪うために甲野を殺害するのもやむなしとの判断があったとも考えられる。そして,前記のとおり多量の流血を伴う事態が生じているのであり,その凶器を使うことは甲野を殺害するしかないとの判断で使っているものと推認できる状況であって,被告人が犯人であれば犯行時に被告人には殺意があったと推認できる。なお,この点に関して,被告人の弁護人らは,平成14年3月19日札幌高裁判決(判例タイムズ1095号287頁)をあげ,殺意があったとするには合理的な疑いがあると主張するが,本件はその後の預金の引き出し行為などから強盗目的であったと推認でき,甲野に対して多量の流血をさせる行動をとっていることなどの事情からすると死因を特定することはできないことは同じであるとはいえ前記裁判例とは事案を異にし,同裁判例があるからといって本件認定を妨げる事情とはならないと判断する。
(2) 被害品
平成16年1月15日付起訴状には,強取された財物として「キャッシュカード3枚及び現金十数万円在中のウエストポーチ1個」があげられているところ,弁護人らは,これらの財物が奪取された事実は認められない旨主張しているので,以下検討する。
ア キャッシュカード3枚
弁護人らは,4月27日に郵便局の甲野名義の口座から5万円が引き出され,9月15日にA信用金庫の甲野名義の口座から10万円が引き出され,同月25日にC銀行の甲野名義の口座から5万円が引き出されているが,それ以降は甲野名義のキャッシュカードが使用されていないのであるから,前記各日時から11月1日までの間に甲野が紛失し,あるいは窃取されたがそのことに甲野が気がついていないなど何らかの理由で甲野の手元からキャッシュカードが失われた可能性がある旨主張している。しかし,キャッシュカードが重要な財物であることや,一般的にはキャッシュカードはそれのみで持ち歩くものではなく,財布等の中に入れて持ち歩くことが多いことなども考慮すると,キャッシュカードがなくなったことに長期間気がつかないというのは,使用頻度が必ずしも多くないものもあることを考慮に入れても余り考えられないところである。また,本件キャッシュカード3枚は同一人により連続して使用されているのであるから,これらの各キャッシュカードが本件とは別の機会に順次紛失したり盗み取られたという可能性は到底考えられず,むしろ同一人物が一度の機会に入手したと考えるのが自然である。しかも,その使用日時はまさに甲野が殺害された当日又は翌日である11月1日なのであるから,甲野の殺害より前に各キャッシュカードを入手した人物がたまたまこの日に使用したなどと考えることや,甲野が殺害された後に,甲野を殺害した人物とは別の第三者が甲野の自宅に侵入し,キャッシュカードを持ち去ったなどと考えることは,余りにも偶然に過ぎるといわざるを得ないものである。したがって,本件において,甲野名義の「キャッシュカード3枚」は強取された財物として認定することができる。
イ 現金十数万円
前記のようにキャッシュカード3枚は強取されたものと認定することができるところ,キャッシュカードが財布に入っていることが多いことからするとキャッシュカードを強取する際にはキャッシュカードのみならず同時に現金等も強取することが容易に推察されるし,何らかの現金が奪われた可能性は高いと認められる。とりわけ,被告人が犯人であった場合は,後記のとおり被告人には多額の借金があり,お金を余り持っていたとは思われず,その日の午前9時29分にも京都東インター付近のアコムむじんくんコーナーで5000円を借り入れして出金している。その被告人が犯行直後と思われる午後10時36分に同アコムむじんくんコーナーで7万9000円を返済入金しているのであり,その直後9000円を借入出金していることからすると返し過ぎて手持ちがなくなり9000円を払い戻す感覚で借入出金したことが認められ,このように所持金がない状況などからすると被告人がこの日入金した7万9000円の中に甲野宅から奪った金が含まれている可能性は極めて高いと認められる。もっとも,その日朝5000円を借り入れておりその金を所持している可能性があることなどから幾らかの金員を被告人が所持していたことも否定できず,検察官の冒頭陳述によるとカードローンで6000円を借り入れ,賃貸家賃収入6万円を引き出したことがあげられるなどある程度の金は持っていた可能性があり,7万9000円の金に甲野宅から奪った金が入っているとも断定できない。また,弁護人らが主張するように,当時,甲野が所持していた金額は不明であり,甲野が給与振込口座であるC銀行の口座から9月に引き出した金額から現に甲野の自宅に残っていた金額を差し引くことで被害額を算定することもあながち不合理な方法ともいえないが,甲野が生活費等に費消した金額は判然としない上,そもそも,その旨の被害届を提出した庚町は,C銀行の者から毎月生活費として15万円から20万円を定期的に引き出しているということを聞いていたので,犯行日が月末であったことから,恐らくそれくらい引き出していると考えてそのように申告したと述べているが,10月末には同口座から現金が引き出されてはいないのであるから,その推測も根拠を欠く脆弱なものであるといわざるを得ない。庚町から香典費用として渡された現金2万円があった可能性はあるが,これが他の用途に使われてしまっていた可能性も否定することができず,本件において甲野の自宅から何らかの現金が奪われた可能性はあるが現実に現金が強取されたか否かあるいは幾らの金額が強取されたかは判然としないといわざるを得ない。そうすると,検察官主張の「現金十数万円」が強取されたと認定するまでの証拠は認められず,幾らかの金員が奪われたとしてもその金額が幾らであったかを確定できない以上金員を奪ったとの認定をすることはできない。
ウ ウエストポーチ1個
関係各証拠によれば,甲野がふだんウエストポーチを身につけていたこと,10月31日にG工場に出勤した際もウエストポーチを身につけていたこと,甲野の自宅からウエストポーチが発見されていないことの各事実が認められる。そして,前記のように10月31日から11月1日の間に甲野が殺害されていることからすると,10月31日にG工場を退社した後に甲野がウエストポーチを処分,遺失するなどしたと考えるのは具体的な根拠に乏しいものであり,甲野がウエストポーチの中から財布に入っていたものか裸で入っていたものかは分からないが現金を出して庚町に渡していたこともあることからすると,犯人がウエストポーチを強取したとしても何ら不自然な行動ではない。このような状況を併せ考えると,犯人がキャッシュカードを強取する際にウエストポーチも共に強取したものと合理的に推認することができ,「ウエストポーチ1個」は強取された財物として認定することができる。
6 強盗殺人犯と窃盗,窃盗未遂犯との同一性
既に説示したように,強盗殺人犯が甲野名義のキャッシュカード3枚等を強取したと認定することができるところ,キャッシュカードが強取されてから不正に使用されるまで最大でも15時間程度しか経過していないことなどに照らすと,強取されたキャッシュカードがその後に強取した者から第三者の手にわたるというような事態は考え難いというべきであり,特段の事情がない限りキャッシュカードを強取した人物と不正に使用した人物は同一の人物であると推認することができる。
7 被告人と犯人との同一性
(1) 被告人と甲野との関係
被告人の身長は約182センチメートルであり,血液型はA型である。被告人は,平成2年7月ころに建築工事業等を目的としてK株式会社を設立し,平成8年4月3日に株式会社L(以下,「L」という。)に商号を変更した。大津市札の辻<番地略>に同社の事務所として使用していた不動産があり,その付近の線路沿いに同社の名称や電話番号等が記載された看板がある。甲野は,平成10年6月15日に株式会社Mとの間でシステムトイレ等の工事発注契約を締結し,株式会社Mは同社の下請をしていた卯松九郎に施工をまわし,同工事は同年7月10日に完工した旨が請求書に記載されている。同工事の請求書に記載されている卯松九郎の電話番号はLの電話番号と同一であり,両者の住所もほぼ同じである。また,被告人は甲野から合併処理浄化槽の設置工事を請け負い,同月1日から同月18日までの間,甲野から合い鍵を預かるなどして工事を行ったことがある。
(2) 被告人及び親族の財産状況
被告人は,平成12年1月31日,京都地方裁判所に破産宣告を申し立て,同年3月15日に破産宣告がなされ,同年7月13日に免責決定がなされている。
11月1日当時の被告人名義の18口座の残高は合計5270円,L名義の6口座の残高は合計1028円,被告人の元妻である辰宮夏子(以下「夏子」という。)名義の19口座の残金はマイナス50万4915円,被告人の次女である辰宮秋子名義の3口座の残高は合計2031円,被告人の養女である巳部冬子名義の8口座の残高は合計4176円,Lの取締役であり被告人の養女の夫である巳部一夫名義の6口座の残高は合計マイナス1221万1513円であった。
(3) 株式会社Lの経営状態
被告人は,多数の金融機関から借入れをしており,Lの取引先に対しても買掛債務が未払となっている。また,被告人は,8月7日付でL作成名義の「お詫びとお願い」と題するLが破産宣告を申し立てることになった旨の書面を作成していたこと,前記L事務所の状況からすれば同事務所を使用して経営が行われているとは到底いうことができないこと,Lの従業員であった午村二夫(以下,「午村」という。)は平成13年暮れか平成14年に入ったころから賃金の支払が滞るようになり,平成14年夏ころまでに未払賃金額が約40万円になったことからLを辞めていること,被告人が前記事務所は道具を置いているぐらいであり,同社は事実上休眠状態であって,個人で便利屋をしており仕事があれば何でもしていると述べていることなどからすれば,Lの経営状態はほとんど収益がない状態であったということができる。
(4) 被告人による負債の返済
被告人は,10月において約32万6000円の負債の返済をしている。また,10月31日午後10時36分に京都市山科区小山南溝町<番地略>所在のアコム株式会社京都東インターむじんくんコーナーATM機を利用して7万9000円を返済後,9000円を借り入れしている。そして,11月には,1日午前11時11分に午村に電話をかけ,未払となっていた賃金のうち15万円を,同様に,未社三夫に電話をかけ午後1時40分ころに夏子を介して前記未社に対して未払となっていた伊勢宿月極駐車場の駐車代金のうち7万円を,京都市山科区竹鼻堂ノ前町<番地略>所在のN銀行O支店P出張所を利用して申神四夫に対して未払となっていた家賃のうち13万5000円を,午後11時42分に前記アコム株式会社京都東インターむじんくんコーナーATM機を利用して13万円をそれぞれ支払うなど,11月に合計約145万円を返済している。
(5) パソコンに記録されていたデータの改ざん
夏子が12月27日に投棄したごみ袋内から発見された一覧表によれば,被告人は11月1日に家賃や消費者金融等からの借入れを返済した旨が記載されていたところ,平成15年10月9日被告人方から押収されたパソコンの「14年支払.doc」という名称のデータによれば,前記ごみ袋内から発見された一覧表と同じ形式の一覧表が記録されているが,前記ごみ袋内から発見された一覧表では「11/01」と記載されていた欄はすべて「10/01」と変更されており,そのほかにも,「11/02」と記載されていた欄が「09/02」又は「10/02」と,「11/06」と記載されていた欄が「10/06」とそれぞれ変更されており,その大多数は11月1日や2日に支払があった旨記載されていたものを,それ以前に支払があった旨に変更したものである。また,金額が記載されている欄も変更されるなどしている。「14年支払.doc」という名称のデータには平成14年12月までの支払が記載されており,同データが最後に更新されたのは平成15年3月15日午後10時19分である。夏子が12月27日に投棄したごみ袋内から発見された一覧表については被告人自身が作成したものであることを公判廷で認めていることからすれば同データは被告人が作成し使用していたものということができる。そして,前記のように同データに記載されていた日付が変更されており,当該日付は前記月極駐車場の代金や家賃など変更前の記載が正しいものであって記載を変更する必要が全くないことが明らかなものも誤った日付に変更されており,しかも日付が変更された欄だけでも27か所にも及んでいることからすれば,何らかの機会に偶然変更されたものとは到底いうことができず,被告人が意識的に変更したものというほかないから,被告人がデータを改ざんしたものと認めることができる。
(6) 被告人使用車両及び甲野使用車両の移動状況
京都市山科区と大津市の府県境付近にある追分峠に設置されている自動車ナンバー自動読み取りシステムによれば,被告人名義の車両(<番号略>)が,10月31日午後5時38分に山科方面から大津市内方面に,同日午後7時50分に大津市内方面から山科方面に,同日午後10時10分に山科方面から大津市内方面に,同日午後10時31分に大津市内方面から山科方面に走行していることが記録されている。また,甲野使用車両が,11月1日午後10時58分に山科方面から大津市内方面に走行していることが記録されている。
なお,弁護人らは,自動車ナンバー読み取りシステム装置の仕組み,構成,機能,データの作成・保存・管理方法,検索・照合方法について立証がなされていないこと,誤って読み取る危険性があること,肖像権侵害の疑いを否定できないこと,多重伝聞証拠であること,証人酉下四夫による虚偽の報告書作成のおそれ,データの読み間違いのおそれがあること,ある特定の一地点を通過した事実をもって,追分峠を通過した事実を認定することはできないなど各種の主張をしている。
しかし,自動車ナンバー読み取りシステム装置は機械的に走行する車両の車両番号を読み取りデジタル信号化されて車両ナンバーや対象車両の通過時間等が記録される装置であるところ,少なくとも本件の装置については運転者等の容貌が撮影されることはないというのであるから,肖像権侵害の問題は生じないものと解される。そして,自動車ナンバー読み取りシステムが機械的な方法で情報を記録するものであることからもその正確性に特段の問題があることはうかがわれないというべきである。さらに,前記酉下が虚偽の報告書を作成しなければならない理由も必要性もないのであり,装置の詳細を警察庁が明らかにしておらずデータ自体を提出することができないことから,前記酉下は記録されているデータを詳細に記憶して証言に臨んでいるものの,車両ナンバー及び対象車両の通過時間という単純な情報に過ぎないものであるから読み間違い,記憶間違いの可能性は極めて低く,前記の読み取り,記録等の過程は機械的なものであるから伝聞の問題は生じない。なお,弁護人らは,国道1号線に生活道路が合流しているから山科方面から来た自動車も山科に戻ることも可能である,大津市内方面から来た自動車も大津市内に戻ることが可能であると主張するが,弁護人らの主張する経路は,いわば追分峠(逢坂山検問所設置箇所の意)を通過して逆戻りするような経路であって,わざわざそのような経路をとる理由も必要性も想定できず,現実味の乏しい観念的な主張である。実際にも,被告人使用車両が追分峠を順次進行方向が入れ替わるかたちで各方向に向かい2回ずつ通過したことが記録されており,中には近接した時間帯の通過,すなわち,追分峠を午後10時10分に山科方面から大津市内方面に通過し,その21分後である午後10時31分に大津市内方面から山科方面に通過していることも記録されていて,弁護人らの主張するように山科方面から走行してきた被告人車両が追分峠を通過後別の生活道路を通って山科方面に戻ったとすると,何故午後10時31分に大津市内方面から山科方面に走行した記録が残っているのか説明が難しいこととなるのであって,そのようなことを想定できず,被告人使用車両が国道1号線の追分峠を通過し京都市山科区方面から大津市方面に,あるいは大津市方向から京都市山科区方面に移動し,同方面のどこかに行ったことが認められる。したがって,弁護人らの主張はいずれも採用することができない。
(7) 携帯電話が発信された際に電波が入ったアンテナ
被告人名義で契約されている携帯電話からは,10月31日から11月1日にかけて19回の発信がなされているが,そのうち10月31日午後5時33分50秒,午後5時34分30秒,11月1日午前11時26分4秒,午後11時26分8秒の発信は滋賀県(ただし,滋賀県からの発信には大津局アンテナに電波が入ったものと,逢坂山局アンテナに電波が入ったものがあり,後者については発信場所自体が滋賀県内であるとは限らず,京都府内である可能性もある。)から発信されており,その余は京都府から発信されている。また,同携帯電話からの10月31日午後5時34分30秒及び11月1日午後11時26分8秒の発信は大津局アンテナへ電波が入っており,同日午前11時11分33秒及び同日午前11時25分23秒の発信は山科中局アンテナへ電波が入っており,同日午前11時26分4秒の発信は逢坂山局アンテナへ電波が入っている。そして,電波が入ったアンテナが判明している5本のいずれの発信も当該アンテナを中心に半径300メートルから500メートル以内で発信されたものと推定される。
(8) 被告人及び夏子名義の自動車の放置
甲野使用車両が発見された東海自然歩道には,平成12年9月21日に夏子名義の車両(<番号略>)が,平成13年5月15日に被告人名義の車両(<番号略>)が,それぞれ放置されているのが大津市役所の職員によって確認されており,車両を撤去するようにとの指示を受けていずれも自主的に撤去されている。
(9) 獣毛採取過程
ア 甲野の自宅からの獣毛採取
11月14日,甲野の自宅の検証が行われた際に,台所北側流し台前に置かれていた掃除機内のごみパック及びごみフィルターに付着している物がピンセットを用いて取り出され,それぞれビニール袋に入れられて倉庫に収納された。12月4日,ごみパック及びごみパックフィルターに付着の物について精査,抽出が行われた。ごみパックフィルター付着のごみは量が多くなかったのでそのまま精査することとされ,ごみパックについては,ピンセットを用いて上部の3分の1,中部の3分の1,下部の3分の1に分けられて,精査することとされた。精査,抽出された内容物は,大きめのごみの上部,中部,下部のもの,取り除いた綿埃や毛髪の上部,中部,下部のもの,ごみパックフィルターに付着していたものの7つに分けて別々のビニール袋に入れて倉庫に保管された。その後,平成15年10月7日から10日にかけて,綿埃や毛髪が入っている上部,中部,下部及びごみパックフィルター付着物の4つの袋からピンセットを用いて毛髪様のものと獣毛様のものの精査,抽出が行われ,1本ずつ台紙に貼り付けられた。精査,抽出された獣毛様のものはごみパック上部から31本,中部から27本,下部から72本,ごみパックフィルター付着物から0本の合計130本であった。
イ 甲野使用車両からの獣毛採取
東海自然歩道で発見された甲野使用車両は,ドアをロックし,窓を閉めるなどした状態で宇治警察署に搬送され,検証が行われるまでの間は周囲をブルーシートで覆い雨露等がかからない状態にして保管されていた。11月20日午後7時16分から翌21日午後7時10分までの間,宇治警察署の庭で甲野使用車両の検証が行われ,まず,毛髪様のもの,紙片,破片類等目に見えるものがピンセットで採取され,採取された物はビニール袋に入れ,発見された場所を示す絵符を付けて保管された。目で見える物が採取された後,スーパーステックシートを圧着する方法で微物が採取された。甲野使用車両内から発見された毛髪様のものについて矢山吏員が識別を行い,矢山吏員が識別した獣毛様のもの5本が抽出された。また,同様にスーパーステックシートで採取された微物についても矢山吏員が識別を行い,矢山吏員が識別した獣毛様のもの10本が抽出された。
ウ 被告人の飼い犬からの獣毛採取
平成15年10月9日,被告人の当時の自宅において,被告人の飼い犬(ゴールデンレトリバーの雄)の頚部から肩口部にかけて10本,両腰部から10本の獣毛が採取された。
(10) 矢山吏員作成の鑑定書(検514ないし516)及び第12回及び第13回公判調書中の証人矢山吏員の各供述部分(以下,「矢山獣毛鑑定」という。)
ア 矢山鑑定の経過,考察及び結果の要旨は以下のとおりである。
(ア) 形態検査
ごみパック内から抽出された獣毛様のもの130本について肉眼及び光学顕微鏡で形態検査を行ったところ,資料11,32,35,39,41,54,57,61,67,75,89,91及び120は,長さ約1.5センチメートルないし約7.8センチメートル,形状は波状,弧波状,小波状,ほぼ直状又は弧状で,色調は茶から白,黒又は白を呈するもので,毛先端の形状は細筆状,針状,細横断状又は針先割れ状で,毛間膨隆部の太さ約30マイクロメートルないし約80マイクロメートル,髄質はいずれも太い連銭状のものであった。
被告人の飼い犬から採取された20本の獣毛(以下,「飼い犬獣毛」という。)は,長さ2.5センチメートルから4.8センチメートル,形状は弧状,小波状が主となり,色調は薄茶から白色又は白色を呈するもので,毛先端の形状は針状,横断状,半円状の毛が大部分であり,毛間膨隆部の太さは20マイクロメートルから40マイクロメートルである。髄質は連銭状で,一部にしか髄質の見られないものや,無髄のものもあった。
甲野使用車両運転席右前座席ステー部からイの符号を付して採取された獣毛1本(以下,「符号イ獣毛」という。)は,毛先端側が茶色で毛根端側が白色の茶から白の色調変化のある長さ7.5センチメートルで,ほぼ弧状を呈しており,毛間膨隆部の太さが約60マイクロメートル,髄質は太い連銭状の獣毛である。
甲野使用車両からスーパーステックシートで圧着採取し抽出した符号9が付された獣毛1本(以下,「符号9獣毛」という。)は,毛先端側が茶色で毛根端側が白色の茶から白の色調変化のある長さ4.2センチメートルで,ほぼ弧状を呈しており,毛間膨隆部の太さが約40マイクロメートルで髄質が太い連銭状の獣毛である。
(イ) 考察及び鑑定結果
資料11及び91は色調や毛先端及び毛根端の形状から獣毛繊維片と考えられ,資料32,35,39,41,54,57,61,67,75,89及び120は獣毛であると認められる(以下,それぞれの数字に対応して,「資料11獣毛」等という。)。
飼い犬獣毛と資料32獣毛,資料35獣毛,資料57獣毛,資料89獣毛及び資料120獣毛は毛幹部に虫食いが認められるものもあるものの,肉眼的所見及び顕微鏡的所見が類似しており,上毛,下毛の差を考慮して検討すると同種の獣毛であるとしても矛盾がないものと考えられ,形態学的に類似した獣毛であると考えられる。資料41獣毛及び資料54獣毛はいずれも髄質の出現形態が異なることから,資料75獣毛は太さが異なることから,資料39獣毛,資料61獣毛及び資料67獣毛はいずれも色調が全く異なること,髄質の出現形態が異なることから,飼い犬獣毛とは由来の異なる獣毛であると考えられた。
飼い犬獣毛と符号イ獣毛及び符号9獣毛は肉眼的所見及び顕微鏡的所見が類似しており,上毛,下毛の差を考慮して検討すると同種の獣毛であるとしても矛盾がないものと考えられ,形態学的に類似した獣毛であると考えられる。
イ 矢山鑑定の検討
(ア) 矢山吏員の経歴等は前記のとおりであるところ,京都府警察本部刑事部科学捜査研究所では年間約2000本の毛髪鑑定が行われており,平成16年には10月22日までの時点で1万本を超える鑑定を行っている。また,矢山吏員は,獣毛の鑑定に関わりのある三つの学会で学会発表等を行っている。矢山吏員は,ある獣毛とある獣毛が同じ個体に由来するかという鑑定を行ったことはないけれども,今回の矢山鑑定はある獣毛とある獣毛が同一の個体に由来するか否かを断定することやどのような種類の獣に由来するものであるかを判断することはできないことを前提に,獣毛のDNA鑑定を行うために必要な資料を抽出するための鑑定を行ったものである。そうすると矢山吏員は今回行った毛の鑑定の実施に必要な学識,経験を十分に有しているものと認められる。
(イ) 矢山吏員は,鑑定に際して,下毛が上毛に比べて特徴所見が少ないことを考慮した上で,色調変化等に着目して鑑定を行っている。そして,人毛及び獣毛は毛小皮,毛皮質,毛髄質の三層構造を有しており,その点において合成繊維と異なり,生体から抜け落ちた獣毛と獣毛繊維は加工をする段階で染色,編み上げなどするため特徴が異なり,人毛と獣毛は髄質の出現形態が異なり,連銭状は獣毛に見られる特徴所見であり,人には見られない状態であることから人毛と獣毛を区別する重要なメルクマールとなることから,髄質の出現形態に着目して人毛と獣毛を区別し,それに色調変化を併せ考慮して獣毛と判断したものである。
(ウ) 以上からすれば,矢山吏員が鑑定の際に用いた手法も一般的な方法を採用した上で行っており,その手法も適切なものであったということができ,矢山吏員の行った鑑定手法及び過程に特段疑問を差し挟む事情は認められず,それに基づく判断も適切なものであると認められ,矢山鑑定の結論は信用することができる。
(11) 鑑定人村上賢(以下,「村上鑑定人」という。)作成の鑑定書(検311,321及び495)及び証人村上賢の公判供述(以下,これらを総称して「村上鑑定」という。)
ア 弁護人らは,村上鑑定について,本件公訴事実との関係では自然的関連性,法律的関連性を欠くものであるとして種々の疑問を提起して村上鑑定の証拠能力及び証明力を争うところ,弁護人らの主張の概要は,以下のとおりである。
(ア) 鑑定資料の関連性
村上鑑定の鑑定資料となっている獣毛が甲野使用車両及び甲野の自宅にあった掃除機のごみパック内から発見された事実が認められるとしても,甲野使用車両及び甲野の自宅に入り込んだ時期は不明であるから,本件公訴事実との関連性はない。
(イ) ミトコンドリアDNAの分析結果の信頼性
増幅したDNAの塩基配列を分析するにあたってシークエンサーに付随したソフトが用いられているところ,同ソフトによる解析の結果,判定不能とされている部分があること,目視したところピークを示している塩基とは異なる別の塩基を結果としている部分があること,検査者が目で確認して修正する際に検査者の意図が入ってしまうことなどから,分析ソフトの信頼性に疑問があるとともに,検査者の主観,意図に左右される危険性が大きく,ミトコンドリアDNAの塩基配列の分析結果は十分に信頼できるものではなく本件公訴事実との関連性を認めることができない。
(ウ) ミトコンドリアDNAの特性
ミトコンドリアDNAは母性遺伝するものであるところ,ゴールデンレトリバーのような人工的な交配により作出された犬種には母系が限られていること,血縁関係がないゴールデンレトリバーにおいても3.8パーセントの確率で同一のミトコンドリアDNA型が出現しており,血縁関係を考慮しなければより高い確率になることが容易に予想されること,村上鑑定で検出された型は他の犬種でも検出される型であること,被告人の飼い犬の母犬や姉妹犬等を考慮すれば同一時期に数百頭の同一のミトコンドリアDNAを保有するゴールデンレトリバーが存在することが予想されることなどから,村上鑑定によって同一個体由来のものであることを明らかにすることはできないにもかかわらず,村上鑑定においては同一個体由来のものであると錯覚しかねない表現がなされており,不当な偏見を与える。
イ 獣毛のミトコンドリアDNA鑑定の証拠能力
ミトコンドリアDNA鑑定とは,生物の細胞内に存在するミトコンドリアに存在する環状のDNAのうち一部を検査領域として設定し,その領域の塩基配列を分析する検査方法であり,大まかな流れとしては,組織からDNAを抽出し,抽出したDNAを増幅し,検査領域の塩基配列を決定し,決定した塩基配列の相同性を確認し,DNA型を決定するというものである。人体組織のミトコンドリアDNA鑑定と,獣毛のミトコンドリアDNA鑑定の鑑定手法においては基本的に相違はほとんどない。1個の細胞内に核DNAは父由来の核DNAと母由来の核DNAがそれぞれ1分子ずつしか存在しないのに対し,ミトコンドリアはエネルギー生産に関わっているため細胞内に多数存在し,また,その中のDNAも各ミトコンドリア内に複数存在するので,1個の細胞内にミトコンドリアDNAは数百ないし数千分子も存在することとなる。このため,微量組織から核DNAを検出することが困難であるのに対し,ミトコンドリアDNAを検出することは比較的容易である。なお,核DNAは父由来のものと母由来のものを合わせて約60億の塩基対から構成されるのに対し,ミトコンドリアDNAは約1万6000の塩基対から構成されるため,核DNAの方が精度の高い異同識別を行うことができる。検査領域として設定するのは,ミトコンドリアDNAの中で最も変異が集中しているD-ループと呼ばれている領域であり,その一部の塩基配列を比較することで型判別が行われる。なお,人体組織の場合は,D-ループの中をHV1領域,HV2領域と分けて使われている。DNAの増幅方法は核DNAの場合もミトコンドリアDNAの場合も基本的に同じ手法であり,PCR法によって増幅する。DNAを増幅した後,その塩基配列を分析し,DNA型を特定することとなる。
犬のミトコンドリアDNA鑑定は犬の起源を探る研究手段の一手法という位置付けで発展してきたという経緯等もあり,検査領域や出現頻度等の点において人のミトコンドリアDNA鑑定の場合に比して犬のミトコンドリアDNA鑑定に関する研究においては解明できていない部分があることは否定できないが,塩基の数や検査方法は基本的に人と犬の場合で変わらないものであり,また,ミトコンドリアDNAが母性遺伝するという特徴があることから,同じ母性に属する個体は同じミトコンドリアDNAを有することになるため,ミトコンドリアDNAが一致しなければ異なる個体に由来するものであることが明らかになる反面,ミトコンドリアDNAが一致したとしても異なる個体に由来するものである可能性がある以上同一の個体に由来するものであるとは断言できないのであり,結局のところ,ミトコンドリアDNA鑑定によって個体識別を行うことはできないが,同じ個体に由来するものであるとしても矛盾することはないという程度の異同識別を行うことができる鑑定方法である。
そうすると,村上鑑定において実施されたミトコンドリアDNA鑑定は,科学的な根拠に基づくもので理論的正確性を有すると認められ,適切に収集された鑑定資料について,ミトコンドリアDNA鑑定に関しての専門的な学識,経験を有する者によって,適切な方法により鑑定が行われたのであれば,その鑑定結果が裁判所に対して不当な偏見を与えるおそれがあるとはいえず,当該鑑定について証拠能力を認めることができる。弁護人らの指摘する各点はそれ自体誤っているわけではないものの,いずれも証拠価値を判断する際にその限界として留意すべきものであり,証拠能力自体を否定する根拠となるものではないと解される。
ウ 村上鑑定の検討
(ア) 村上鑑定人の経歴等
村上鑑定人は,昭和61年麻布大学大学院獣医学研究科修士課程を修了し,国内外の研究所や研究室で研究を重ね,平成6年に麻布大学獣医学部分子生物学講座の助手となり,その後,講師,助教授を経て,平成17年から同大学獣医学部分子生物学研究室の教授として,長年にわたり分子生物学という生物,生命をDNA,RNA,タンパク質等の分子レベルで解明することを目的とした学問分野を専門として脊椎動物のDNAに関する研究に従事してきたものである。村上鑑定人は,平成九,十年ころからミトコンドリアDNAの鑑定を行うようになり,ミトコンドリアDNAの検出作業は数えられないぐらいの数を行っているというのである。以上からすれば,村上鑑定人はミトコンドリアDNA鑑定の実施に必要な学識,経験を十分に有しているものと認められる。
(イ) 資料の収集過程
本件においては,既に説示したように,甲野使用車両からG残焼物,L残焼物及びN残焼物が発見されており,これらの残焼物は甲野に由来するものであること,甲野の自宅1階8畳居間の上敷きに付着していた血痕及び甲野使用車両に付着していた血痕が甲野の血液に由来するものであること,甲野が何人かに殺害されたものであることが認められる。そして,犯行現場及び犯行後に犯人が移動したと思われる経路等に犯人の毛髪,体液,犯人の衣服の繊維その他犯人が何人であるのかを示す痕跡が遺留されることは容易に想定されるのであるから,犯行に関連したと思われる場所,物から鑑定に供するための資料が採取されるのは当然のことであるといえる。そして,鑑定資料の収集に際しては,採取者に付着していた微物が混入したり,甲野使用車両を発見場所から警察署に搬送する際や検証を開始するまでの間に周囲の微物が混入することがないよう注意が払われており,その過程に問題は見当たらない。
ところで,弁護人らは前記のとおり,甲野使用車両や前記ごみパック内から発見された獣毛がいつ甲野使用車両や甲野の自宅に入り込んだのであるか不明であると主張するところ,確かに獣毛が入った時期を確定することはできないが,普通入ることがないあるいは入ることがあり得るとしてもその確率が低い又は機会が限られている場合など,犯行に関連すると思われる現場から発見された事件を考察するにおいてある程度意味のある資料には関連性があるというべきであり,これらの獣毛が本件犯行時以外の機会に入り込んだ可能性があるとしても,その可能性を踏まえて証拠価値を慎重に検討すれば足りることであって,証拠能力自体を左右するものではないというべきである。
(ウ) 鑑定経過
a 甲野使用車両の検証の結果,採取された獣毛様のもの2本及びスーパーステックシートにより圧着採取された獣毛様のもの6本について
(a) DNAの抽出
ISOHAIRキットを用いてマニュアルに従ってDNAを抽出し,各DNAを20マイクロリットルのTE緩衝液に溶解し,PCR増幅用の鋳型DNAとした。
(b) PCRによるミトコンドリアDNAの増幅
犬のミトコンドリアDNAのtRNA-Pro遺伝子部分及びD-ループ領域を含む2か所の領域を増幅した。すなわち,H60とL84のプライマーセット及びL2とH2のプライマーセットの組合せを用いて増幅断片1及び2を増幅した。各PCR産物の一部をアガロースゲルで電気泳動し,目的のサイズの単一の断片が増幅されていることを確認した。
(c) ダイレクトシークェンシングと塩基配列の解析
各PCR増幅産物をエキソヌクレアーゼⅠ及びアルカリフォスファターゼで処理し,シークェンシング反応用の鋳型とした。BigDye Terminator Cycle Sequencing FS Ready Reactionキットを用いて,増幅に用いたのと同一のプライマーをシークェンシング用プライマーとして,それぞれ両方向からサイクルシークェンス反応を行った。373Sオートシークエンサーを用いて塩基配列を決定した。遺伝情報処理ソフトであるGENETYX-MAC11.2.2とGENETYX-MAC/ATSQ3.0を用いて増幅断片1と2の塩基配列の解析と結合を行い,ミトコンドリアDNAのtRNA-Pro遺伝子部分の66塩基対及びD-ループのtRNA-Pro側からの変異領域である648塩基対の合計714塩基対の配列を決定した。また,BLASTN2.2.6プログラムを利用してGenBank/EMBL/DDBJDNAデータベースに登録された既知の配列に対して,決定した配列の相同性検索を行った。
b 資料32獣毛,資料35獣毛,資料57獣毛,資料89獣毛,資料120獣毛及び飼い犬獣毛について
(a) DNAの抽出
DNAエキストラクターFMキットを用いて,それぞれマニュアルに従ってDNAを抽出し,各DNAを20マイクロリットルのTE緩衝液に溶解し,PCR増幅用の鋳型DNAとした。
(b) PCRによるミトコンドリアDNAの増幅
犬のミトコンドリアDNAのtRNA-Pro遺伝子部分及びD-ループ領域を含む2か所の領域を増幅した。すなわち,H77とL81のプライマーセット及びL2とH2のプライマーセットの2組の組合せを用いて増幅断片1及び2を増幅した。各PCR産物の一部をアガロースゲルで電気泳動し,目的のサイズの単一の断片が増幅されていることを確認した。
(c) ダイレクトシークェンシングと塩基配列の解析
各PCR増幅産物をエキソヌクレアーゼⅠ及びアルカリフォスファターゼで処理し,シークェンシング反応用の鋳型とした。BigDye Terminator v1.1Cycle Sequencingキットを用いて,増幅に用いたのと同一のプライマーをシークェンシング用プライマーとして,それぞれ両方向から配列を解析した。ABIPRISM3100Genetic Analyzerを用いて塩基配列を決定した。遺伝情報処理ソフトであるGENETYX-MAC12.0.3とGENETYX-MAC/ATSQ3.0を用いて配列解析と結合を行い,ミトコンドリアDNAのtRNA-Pro遺伝子部分の66塩基対及びD-ループのtRNA-Pro側からの変異領域である648番目までの合計714塩基対の配列を決定した。また,BLASTN2.2.6プログラムを利用してGenBank/EMBL/DDBJDNAデータベースに登録された既知の配列に対して,決定した配列の相同性検索を行った。
c 各獣毛の分析結果及び鑑定
符号イ獣毛,符号9獣毛,資料32獣毛,資料35獣毛,資料57獣毛,資料89獣毛及び飼い犬獣毛からは目的のミトコンドリアDNAのPCR増幅断片が得られたが,資料120獣毛からは得られなかった。相同性検索の結果,それぞれの塩基配列はGenBank/EMBL/DDBJDNAデータベースに登録された犬のミトコンドリアDNA型と一致した。合計714塩基対の配列解析の結果,符号イ獣毛,符号9獣毛及び資料89獣毛の塩基配列が飼い犬獣毛の塩基配列と完全に一致していたことから,符号イ獣毛,符号9獣毛及び資料89獣毛が被告人の飼い犬に由来するものであるとしても全く矛盾は生じない。なお,このミトコンドリアDNA型は村上鑑定人が予め調査した血縁関係のないゴールデンレトリバーにおいて3.8%の割合で出現している型であった。資料35獣毛及び資料57獣毛から検出された塩基配列は同一であるが,飼い犬獣毛から検出された塩基配列と1塩基の相違があり,資料32獣毛から検出された塩基配列は飼い犬獣毛から検出された塩基配列と14か所の塩基配列に相違があった。
また,村上鑑定に限らず,解析ソフトを用いて塩基配列を決定する際に試薬の関係により機械が塩基を判別することができないことがあり,そのような場合には分析結果のチャートに「N」と記載されることとなり,また,ソフトが解析し,塩基配列を決定した部分であっても,検査者がチャートを目視した結果,関係ない塩基を表す色が覆い被さっていると判断される場合もある。そのような場合には,いずれも検査者がチャートを目視することで塩基配列を決定することとなっているところ,経験に基づく判断であるとはいえ検査者の主観が入る危険性も否定できないことから,アデニンはチミンと,グアニンはシトシンと,チミンはアデニンと,シトシンはグアニンと結合するという性質を有していることを利用し,「N」あるいは関係ない塩基を表す色が覆い被さっていると判断された部分については,そのように判断した鎖側とは反対側の鎖の該当する部分のデータも読み取ることで前記のように判断した部分と相補的になっていることを確認し,塩基配列を決定するという方法がとられている。
d 鑑定に使用した試薬等
DNA抽出キットとしてISOHAIRとDNAエキストラクターFMキットが用いられているが,これは村上鑑定人が最初の鑑定嘱託を受けた際にはDNAエキストラクターFMキットがまだ発売されていなかったためISOHAIRを使用したものである。同様に,BigDye Terminator v1.1Cycle SequencingキットはBigDye Terminator Cycle Sequencing FS Ready Reactionの後継商品であり,GENETYX-MAC12.0.3はGENETYX-MAC11.2.2よりヴァージョンが新しいものである。
エ 結論
以上検討したところを総合すると,村上鑑定はミトコンドリアDNA鑑定に関する十分な学識と経験を有する者によって行われたものであるから村上鑑定には証拠能力が認められ,また村上鑑定の一連の経緯においても,解析ソフトを用いて塩基配列を決定する際に機械が判別することができないところについては鑑定人がチャートを目視して判別を行うものの,判別を行う際に主観が入らないように相補的になっていることを確認するなど適切な措置を講じた上で行われているなど,その信用性に疑いを差し挟むべき特段の事情はうかがわれないのであるから,村上鑑定の結果は信用することができるといえる。なお,村上鑑定のうち,甲野使用車両から採取された獣毛様のもの8本の鑑定においては,DNA抽出キットや解析ソフト等がその後の鑑定で使用されたものと比べて古いものであることが認められるが,その時点において一定の科学的水準を有していたものであることは明らかであり,このことが,鑑定の意味を失わせるものではないと解される。
(12) 鑑定人木村博久(以下,「木村鑑定人」という。)作成の鑑定書(検325)及び証人木村博久の公判供述(以下,これらを総称して「木村鑑定」という。)
ア まず,木村鑑定の鑑定方法,経過は,概要以下のとおりである。
(ア) DNAの抽出
飼い犬獣毛(ただし,村上鑑定の鑑定残量)のうち符号8,13,16,17及び18の5本の毛根部をチューブに入れ,DNA溶液(以下,「毛根DNA液」という。)を作成し,同様に毛幹部からもDNA溶液(以下,「毛幹DNA液」という。)を作成した。口腔内粘膜細胞を採取したブラシからもDNA溶液(以下,「口腔内DNA溶液」という。)を作成した。
(イ) ジェノミファイキットによるゲノムDNAの増幅
村上鑑定で作成された資料89獣毛に由来するDNA溶液及び飼い犬獣毛のうち符号1及び3に由来するDNA溶液をジェノミファイDNA増幅キットを用いてキットの説明書に従って増幅した。
(ウ) 犬マイクロサテライトマーカーのPCR
犬マイクロサテライトマーカーのオリゴヌクレオチドプライマーを含む9か所のDNA検査対象部位を設定したA液及び4か所のDNA検査対象部位を設定したB液を調製し,デオキシNTP,ジメチルスルフォキシド及び緩衝液等と混和し,混液A及びBを作成した。各鑑定資料に混液A及びBを加えてPCRを行い,各PCR増幅産物を得た。
(エ) 電気泳動法及びDNA型の分類
各PCR増幅産物について塩基配列自動解析装置を用いて電気泳動し,複数回検査を行い,再現性が得られたDNA型データのみをDNA型データとして採用した
。 (オ) 考察及び鑑定結果
資料89獣毛に由来するDNA型,口腔内DNA溶液に由来するDNA型及び飼い犬獣毛符号1に由来するDNA溶液をジェノミファイ増幅したものはすべてのDNA型を確定することができた。資料89獣毛に由来するDNA溶液をジェノミファイ増幅したもの及び飼い犬獣毛符号3に由来するDNA溶液をジェノミファイ増幅したものは一部のDNA型を確定することができた。確定することができたDNA型はすべて一致していた。
イ 弁護人らは,木村鑑定について,本件公訴事実との関係では自然的関連性,法律的関連性を欠くものであるとして種々の疑問を提起して村上鑑定の証拠能力及び証明力を争うところ,弁護人らの主張を要約すると,①木村鑑定の鑑定資料となっている甲野の自宅にあった掃除機のごみパック内から発見された獣毛が甲野の自宅に入り込んだ時期は不明であるから,本件公訴事実との関連性はないこと,②STR法の歴史は浅く,動物の核DNA検査に用いられる検査部位又は使用マーカーは検査機関によって多様であり,かつ年代により変化していること,国際動物遺伝学会の推奨マーカーは変化していること,犬のDNA型についてはデータ化が困難であること,データが圧倒的に少ないこと,保有データが少ないこと,木村証人の経験も十分とはいえないことなどの問題点があること,③木村鑑定において木村鑑定人が元にしたデータはゴールデンレトリバーに限ったものであり,他の犬種のデータについては全く検討されていないところ,そもそも木村鑑定の鑑定資料がゴールデンレトリバーの獣毛であるとは限らないのだから他の犬種のデータについても検討すべきであるのに木村鑑定においては他の犬種のデータベースの検討がなされていないこと,④犬のDNA型はデータ化が困難であり,保有データが少ないことに照らせば,ユウ度比を論ずる前提を欠いていること,⑤以上①ないし④のように,動物の核DNA型鑑定については,検査方法,検査部位が暫定的で確立されておらず,データが少ないことから検証や反証が困難であるなどの問題点があるのだから,現行の水準では人間の核DNA型鑑定と同様の証明力を認めることはできず,データの蓄積が必要であるにもかかわらず,動物の核DNA型鑑定は人間の核DNA型判定と同様の証明力があるかのように誤解されるおそれがあるから証拠能力は認められないというものであると要約することができる。以下,弁護人らが主張する点を踏まえながら検討していく。
ウ 獣毛の細胞核DNA鑑定の証拠能力
まず,鑑定方法そのものについて検討すると,既に今泉鑑定のところで検討したように,STR法はその科学的原理が理論的正確性を有する検査であるといえ,このことは犬の細胞核DNA型検査の場合であっても基本的には同じであるといえる。確かに,検査部位や出現頻度等の点において人の細胞核DNA鑑定の場合に比して犬の細胞核DNA鑑定に関する研究においては解明できていない部分があることは否定できないが,人も犬も同じほ乳類であり塩基対の数に大きな違いはなく,犬のみならず猫や牛などの人以外のほ乳類のDNA型についても研究が重ねられており,一定の成果をあげていることなどにかんがみると,犬の細胞核DNA鑑定は人の細胞核DNA鑑定の場合と同様の信頼性とはいうことができないとしても,相応の信頼性を有しているということができる。次に,犬のDNA型検査の検査部位及び使用マーカーについて検討すると,犬の細胞核DNA型検査に際して設定される検査部位は,国際動物遺伝学会が評価し選択した部位が使われるところ,社団法人家畜改良事業団(以下,「家畜改良事業団」という。)では,国際動物遺伝学会が推薦している25マーカーの中から選択した幾つかの部位に加えて,家畜改良事業団がそれまでの実績を考慮して親子判定及び個体識別において判定効率がよいと判断した部位を組合せて使用しているものである。確かに,弁護人らが主張するように検査部位は変化しているものの,DNA型検査については様々な研究が行われており,まさに日進月歩の世界ともいうべき状況にあって,元々検査部位として設定されていた部位は,研究の積み重ねにより異同識別に利用することができると判断された部位なのであり,その後の新たな研究の積み重ねにより検査部位が変更されるに至ったとしても,それは従来設定されていた部位と比較してより親子判定や個体の異同識別に適したと判断された部位に変更されているものであって,従来使用されていた検査部位では親子判定や個体の異同識別を行うことができないということを意味するものではないのである。さらに,データについて検討すると,確かに犬のDNA型のデータは人間のDNA型のデータの場合と比較すると,その母体数が少ないことはそのとおりであるが,平成16年1月当時における家畜改良事業団で検査していたゴールデンレトリバーの検査頭数は627頭だったのであり,相応のデータは保有していたものということができ,およそ鑑定に耐えないものとはいえない。そして,木村鑑定人は,ユウ度比という概念を用いて結論を導き出しているところ,ユウ度比とは,二つの仮説の比をいうものであり,二つの資料が同じ個体に由来したからDNAの型が一致したという仮説と,同じ個体のものではなく,偶然に異なる個体のDNAの型が一致したという仮説を立て,前者の仮説については100パーセントなので確率は1となり,後者の仮説については各々のアリル頻度を計算することで確率を得ることができ,13マーカーを調べているので各マーカーで得られたユウ度比を掛け合わせることで13マーカーすべてで一致する確率を導き出すものである。元々犬の種類は人間による人為的な交配により作出されたものもあることなどからするといわゆる雑種の場合であったとしてもゴールデンレトリバーの場合と比較して各々の部位のアリル頻度及び計算したユウ度比が多少増減することはあるにせよ,13部位ものマーカーについてそのユウ度比を掛け合わせて異同識別を行っていることからすれば,犬種によって異同識別の信頼性を根幹から揺るがすほどの大きな変動があるとはおよそ考え難いものであるということができる。
したがって,適切に収集された鑑定資料について,動物の細胞核DNA型鑑定に関しての専門的な学識,経験を有する者によって,適切な方法により鑑定が行われたのであれば,その鑑定結果が裁判所に対して不当な偏見を与えるおそれがあるとはいえず,当該鑑定について証拠能力を認めることができる。
エ 木村鑑定人の経歴等
木村鑑定人は,昭和61年3月,静岡薬科大学大学院薬学研究科博士課程を修了し,米国の大学や国内の研究所で研究員として免疫グロブリン遺伝子や糖脂質糖転移酵素遺伝子等の研究に従事し,平成8年から家畜改良事業団家畜改良技術研究所繁殖技術研究課技師となり,平成14年4月から家畜改良事業団家畜改良技術研究所遺伝検査部検査第一課長として家畜の親子判定,個体識別に従事するなど,長年にわたり遺伝子の研究等に従事してきたものである。家畜改良事業団は優良な種畜の効率的な作出利用による家畜の改良の促進を図るとともに,併せて家畜の個体識別の推進を図り,もって畜産の振興に寄与することを目的とする農林水産省の外郭団体である。家畜改良事業団では,ジャパンケンネルクラブからショーでチャンピオンになった犬のDNAの登録のための検査の実施を依頼されたり,社団法人日本警察犬協会,財団法人北海道盲導犬協会から依頼された犬の親子判定なども行っており,平成15年から平成17年6月までに約6万2000頭の犬のDNA検査を実施し,ゴールデンレトリバーについては約1000頭が実施され,平成16年1月の時点では627頭のゴールデンレトリバーについてDNA検査が実施されていたものである。以上からすれば,確かに,弁護人らが主張するように木村鑑定人が犬のDNA鑑定を行うようになってから木村鑑定が行われるまでには約4か月しか経過しておらず,期間自体は長期間ではないものの,木村鑑定人が遺伝子に関する分野に関わるようになったのは初めてのことではなく,それまでにも前記のように長年にわたって遺伝子の研究に従事してきたものであることなどからすると,木村鑑定人は犬のDNA鑑定の実施に必要な学識,経験を十分に有しているものと認められる。
オ 資料の収集過程
既に村上鑑定に関するところで説示したとおりであり,鑑定資料の収集過程において問題点は見当たらない。
カ 結論
以上検討したところを総合すると,木村鑑定は,細胞核DNA鑑定に関する十分な学識と経験を有する者によって適切な方法で行われたものであるといえるから木村鑑定には証拠能力が認められ,また木村鑑定の一連の経緯においてその信用性に疑いを差し挟むべき事情はうかがわれないのであるから,木村鑑定の結果は信用することができるといえる。
(13) ダウンベスト及び時計
ア ごみ回収の経緯
平成15年4月20日に警察官の小野正光が被告人の行動確認のため被告人が借りている月極駐車場に行くと,被告人が使用しているトラックの荷台にごみ袋が多数積まれているのを発見したため,次のごみ回収日である同月22日にごみ袋を回収することにした。同日,前記小野や警察官の平井利治らが前記駐車場付近に赴き,被告人が駐車場ブロック塀沿いのごみ集積所にごみ袋を投棄するのを確認し,被告人が投棄した14袋及びその後に夏子が投棄した1袋を回収した。回収されたごみ袋は宇治警察署の鑑識倉庫に保管された。同月23日,回収したごみ袋の内容物の精査が行われ,薄緑色又はベージュ色,3L,タグに「Li-Bear」等と記載されているダウンベスト1着(以下,「本件ダウンベスト」という。)が発見された。警察官の堀口靖広らは,同年9月26日,前記ごみ集積所に夏子がごみ袋1袋を投棄するのを確認し,同ごみ袋を回収した。同日,回収したごみ袋の内容物の精査が行われ,男性用,白色文字盤,三針製,銀色金属製ベルト,文字盤に「ProsPerity 10ATM QUARTZ」等と刻印された腕時計1個が発見された。
イ ごみ回収方法の検討
(ア) 前記のように,警察官らは被告人の自宅から投棄されたごみ袋を回収するために前記駐車場付近に赴き,被告人及び夏子がごみ袋を投棄する現場を確認しているところ,同年4月22日に回収した分については,警察官らが赴いた時点ではいまだごみ袋はほとんど投棄されていない状況であり,しかも,被告人及び夏子がごみ袋を投棄したのは,既に投棄されていたごみ袋とは離れた位置であったことから両者の間には境目があり混同することはなかったというのであるし,同年9月26日に回収した分も,警察官が意識的に夏子が投棄する状況を確認し記憶したというのである。このようなごみ袋の投棄状況等からすれば,他の近隣住民らが投棄したごみ袋とは峻別した上で被告人及び夏子が投棄したごみ袋を回収したものであると認められる。
(イ) また,弁護人らは,本件ダウンベストの領置に至るまでの過程はプライバシー権を侵害する違法な捜査方法によるものであるから,本件ダウンベストは違法収集証拠として証拠排除されなければならないとも主張している。
何人といえどもみだりにそのプライバシーを侵害されない自由を有することは憲法13条の趣旨からも認められるところであるが,個人の有する自由も絶対無制限なものではなく,仮に投棄したごみについてもプライバシー権が認められるとしても公共の福祉のためには一定限度の制限を受けることもやむを得ないものであり,また,ごみを投棄した者はその所有権を放棄しており,これを誰もが通行する公道上等に置いている場合は特に,これを回収したとしても法益侵害の程度は小さいといえる。これらを併せ考えれば,捜査機関が犯罪捜査のために投棄されたごみを回収することは一定の場合には許容されるものといえる。もっとも,投棄されたごみを回収する場合にもいわゆる警察比例の原則が妥当するものであることは当然であるから,ごみを回収することが許されるか否かは,事案の性質又はその重大性からくる証拠保全の必要性があり,手段の相当性があるかどうかを侵害される利益と比較し総合的に考慮して判断すべきである。そこで,本件について検討すると,本件は強盗殺人事件等という極めて重大な事件であり,被疑者が犯行との結びつきを示す物や取ったものの一部を投棄することは容易に想定されることから,証拠を収集保全するために被疑者やその関係者が投棄したごみを回収し,精査する必要性があることが認められること,しかも,どの時点で投棄されるかを探知することは極めて困難なことであるから一定の期間にわたってごみを回収することの必要性もあると認められ,回収されたごみは捜査目的以外には使用されておらず,ごみの回収方法も被告人の自宅に侵入して回収するというようなものではなく,被告人及び夏子が公道上のごみ集積場に投棄したものであってその所有権を放棄し拾ったものに処分を委ねる趣旨も含まれているとも思えるものを捜査機関が回収したに過ぎないものであり,その回収方法にも特に問題とされる事情はなく相当な方法であるといえる。
したがって,投棄されたごみの内容には個人的な情報等も含まれているが,ごみは捨てられたものでその所有権は放棄されており,ごみ収集車が回収することを念頭に置かれているものであって,置かれた場所も他者が拾うことも予想される場所であり,その意味で保護を要する必要性は小さいものである。一方,証拠保全の必要性が高く,回収方法も相当であるから,本件ダウンベストの収集過程には特に問題となる事情はないのであって,本件ダウンベストが違法収集証拠であるとする弁護人らの主張は採用することができない。
ウ 吉田吏員作成の鑑定書(検523)及び第16回及び第18回公判調書中の証人吉田耕一の供述部分(以下,これらを総称して「ダウンベスト吉田鑑定」という)
(ア) ダウンベスト吉田鑑定の経過,考察及び結果の要旨は以下のとおりである。
a 外観検査
本件ダウンベストの襟首部分には灰褐色の変色が認められ,垢の付着が疑われた。
b 細胞学的検査
灰褐色変色部分2か所について浸出液を作成し,遠心分離後,沈さをスライドグラスに塗り付け,ベッキー染色を施して顕微鏡で観察したところ,いずれからも上皮細胞と思われる細胞が認められた。
c 血清学的検査
前記浸出液の遠心分離後の上清について,抗ヒト血清タンパク沈降素を用いた沈降反応重層法によるヒトタンパク検査を行ったところいずれも陽性反応を示した。
d 血液型検査
解離試験によるABO式検査を行ったところ,A型であった。
e DNA型検査
(a) DNAの抽出・精製
前記吉田鑑定と同様,蛋白分解酵素処理を行った後,除蛋白処理を経てエタノール沈殿によりDNAを抽出,精製した。
(b) 各種型検査
MCT118型は型特定できず,HLADQα型は型特定できず,TH01型はDNAが増幅されず,LDLR型はAB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はAB型であった。
(イ) ダウンベスト吉田鑑定の検討
吉田吏員がDNA鑑定の実施に必要な学識,経験を十分に有しているものと認められることは前記残焼物吉田鑑定の検討において既に説示したとおりである。弁護人らは,吉田吏員が垢を鑑定したことは二,三例しかないことから鑑定人としての適格に疑問があるかのようにいうが,鑑定資料としてどのようなものを取り扱ったかということと,DNA鑑定の技能自体とは別個に考えられるのであり,吉田吏員の鑑定人としての適格性を何ら左右するものではない。
吉田吏員は,血液型及びDNA型検査の結果から複数の人物の垢が付着していることを否定しているところ,複数の人物の垢が付着していれば,複数のDNA型が検出されることが想定されるが,本件においては,そのような型は検出されていない。また,吉田吏員は,MCT118型検査,HLADQα型検査及びTH01型検査についてはそれぞれ2回行ったものの型判定を行うことができなかったことから,型特定できずあるいはDNA増幅されずとの結論を出しているものである。
以上からすれば,吉田吏員の行った鑑定手法,過程及びそれに基づく判断は適切なものであると認められ,ダウンベスト吉田鑑定の結論は信用することができる。
エ 被告人のDNA型等
パチンコ店で遊戯中の被告人が投棄した煙草の吸い殻を同店マネージャーから任意提出を受けたもの並びに身体検査令状及び鑑定処分許可状に基づいて採取された被告人の毛髪について行われた各種検査の結果,LDLR型はAB型,GYPA型はAB型,HBGG型はAB型,D7S8型はAA型,GC型はAB型であり,血液型はA型であった。
オ 小括
以上のように,本件ダウンベストは被告人が投棄したごみ袋の中から発見されたものであることに加えて,本件ダウンベストに付着していた垢のDNA型及び血液型が被告人のDNA型及び血液型と矛盾しないものであることを併せ考えると,本件ダウンベストは被告人の所有物であったと認めることができる。
(14) 鑑定人橋本正次(以下,「橋本鑑定人」という。)作成の回答書(検106及び108),補足書(検109)及び鑑定書(検112)並びに証人橋本正次の公判供述(以下,これらを総称して「橋本鑑定」という。)
ア 被告人の撮影
(ア) 警察官土﨑毅彦による撮影
被告人の姿を撮影するよう指示を受け,撮影するに際しては,歩く姿と腕時計の形などを撮影するように指示を受けた。被告人の自宅は住宅密集地であるため被告人が借りている月極ガレージの西側にあるマンションの部屋を借りて撮影することにした。マンションの部屋には2台のカメラが設置され,白黒のカメラは被告人の自宅から月極ガレージに向かう細い道を撮影するように設置され,カラーのカメラは被告人が細い道を通れば切り替えてガレージを撮影するように設置された。細い道にセンサーが取り付けられ,誰かが通ればマンションの部屋でピンポンと音が鳴るようになっており,センサーが感知すれば捜査員が手動でスイッチを切り替えて録画するカメラを切り替え,ときには手動でズームするなどして撮影した。
(イ) 警察官村田賢司による撮影
被告人の腕時計と顔を撮影するように指示を受けた。山科区にあるパチンコ店で,ブリッジに小型カメラが仕込んである眼鏡をかけ,衣服の背中側にコードを通し,腰のビデオカメラと接続し,上着を着てコードが見えないようにして撮影した。複数の警察官が交替で撮影した。被告人が座っているすぐ隣の席に座るのではなく,さらに一つ置いた左側の席に座り,腕時計があらわになるタイミングを狙って撮影した。
(ウ) 警察官鈴木孝知による撮影
被告人の身長,体型等の身体特徴,服装等,外見,容姿,歩き方等の特徴,腕時計等に注意を払って撮影するよう指示を受けた。バン型の自動車の中からハンディタイプのビデオカメラを用いて撮影し,撮影した映像はCD-Rに焼き付けて保存した。被告人に隠れて撮っているので,被告人の家の前ではなく,被告人の家の近くのガレージやその付近で撮影した。
(エ) 警察官伊藤利一による撮影
山科区にあるパチンコ店に行き,設置されている防犯カメラの映像を見ながら,パチンコ店の店長にズームアップするなどして被告人の姿を撮影するように依頼し,撮影されたビデオテープの任意提出を受けた。被告人が装着している腕時計を撮影するのが目的であったが,結果的には思うような映像は撮れなかった。
イ 弁護人らは,前記のように警察官等が被告人を撮影した映像を記録したビデオカセットテープ等について,いずれも違法な捜査により収集されたものであることから証拠能力が否定される旨主張しているところ,その主張の概要は,本件各ビデオ撮影は昭和44年12月24日最高裁大法廷判決(刑集23巻12号1625頁)の要件を満たさないから明らかに違法であり,仮に,これと異なる基準によるとしても,①本件は,過激派グループの対立抗争事件のように,再び同一犯人により同様の犯罪が行われる可能性が高く早期に犯人を特定しないと社会,公共の安全を確保することができないという事情はないこと,②被撮影者は被告人に限定されているものの,本件各撮影が行われた時点で被告人のビデオ撮影が許容されるのに十分な嫌疑があるということは到底できないこと,③被告人の身体的特徴等を確認するのであれば写真撮影で足り,動画である必要はなく,ATMの防犯カメラに映っている人物の歩き方に目立った特徴があるわけでもないからビデオ撮影が必要不可欠であったということはできず,被告人は妻,子と同居して通常の生活を続けており,直ちに逃亡するおそれがなかったことからすれば検証許可状をとってビデオ撮影を行う余裕は十分にあったといえるから,令状に基づかずに被告人を撮影して証拠保全を行う必要性及び緊急性があったということはできないこと,④複数回,長時間にわたって撮影しており,方法も相当でないこと,⑤ビデオ撮影の場合,映像の連続性があり,被告人の容貌,姿態に加えてその行動,周囲の状況等が明確に映されることから,写真撮影の場合に比して対象者のプライバシー権等の利益を侵害する程度が大きいのであるから,ビデオ撮影が許されるか検討する際には写真撮影の場合よりもより厳格に検討すべきであることなどから,結局のところ,本件各ビデオ撮影は違法であるというものである。
ウ 被告人のビデオ撮影の許否
何人も承諾なしにその容貌,姿態を撮影されない自由を有することは憲法13条の趣旨からも認められるところであるが,個人の有する自由も絶対無制限なものではなく,公共の福祉のためには一定限度の制限を受けることもやむを得ないものであるから,捜査機関が犯罪捜査のために被撮影者の承諾を得ることなく撮影することも一定の場合には許容されるものということができる。そして,社会秩序を維持するためには,犯罪捜査を行い,犯人を特定,検挙すること,ひいては将来の犯罪を抑止することが必要不可欠であるところ,仮に犯人特定等のための秘匿撮影が一切許されないとすると,このような捜査に著しい不都合が生ずることは明白であり,妥当性を欠くというほかはない。そうすると,犯罪捜査のために被撮影者の承諾なくしてその容貌,姿態等を撮影することが許容されるのは,現に犯罪が行われている場合又はこれに準ずる場合に常に限定されると解するべきではなく,弁護人らが指摘する最高裁判決が写真撮影の適法性の要件として掲げるところは,当該事案における警察官の写真撮影が許容されるための要件を判示したものであり,その要件を満たさない限り,およそいかなる場合においても犯罪捜査のために被撮影者の承諾を得ることなく撮影することは許されないとの趣旨を判示したものではないと考えるのが相当である(なお,昭和38年7月9日最高裁第3小法廷判決,刑集17巻6号579頁は,公安事件の収監のための人物確認をするために警察官が第三者を含めた写真撮影をしたことを適法としている。また,西成監視用テレビカメラ撤去請求事件について,監視カメラの設置が問題になったものではあるが平成10年11月12日最高裁の上告棄却決定があり,警察比例の原則に基づいて判断した原審を是認している。)。したがって,既に行われた犯罪について被疑者と犯人との同一性等を検討するため被疑者の承諾を得ることなくその容貌等を撮影することが許されるか否かは,具体的な事案に即し,捜査機関が撮影を行うことにより得られる利益と,被撮影者が撮影されることにより侵害される不利益とを比較考量することで判断すべきであり,具体的には,事案の重大性,撮影することについての合理的な理由及び撮影する必要性,緊急性があり,撮影方法,撮影態様において相当なものであるといえるときには,被撮影者の承諾なくしてもその容貌等を撮影することが許されると解するべきである。本件について検討すると,①本件各ビデオ撮影は強盗殺人,窃盗,窃盗未遂事件という極めて重大な犯罪の犯人を特定するために行われたものであり,②被告人には相応の嫌疑も存在したといえ,被告人と犯人との同一性を特定するためには,A信用金庫B支店ATMコーナーの防犯ビデオ等に映っていた人物と被告人との同一性を判断する必要があったところ,そのためには被告人の容貌や歩く姿を撮影することが必要であったと認められ,また,写真撮影の場合とビデオ撮影の場合では,いずれの場合でも周囲の状況等も撮影されるものであり,確かに映像の連続性についてはビデオ撮影の方が写真撮影に比べてプライバシー侵害の程度が大きいとはいえるものの,防犯ビデオ映像との精密な比較対照に適した映像を入手するためには,相当数の映像を撮影した上でその中からこれに適したものを選び出す必要性があり,まして,撮影の対象は動きのある人物又は人物が着用している腕時計等であり,静止している撮影対象を撮影者がその必要に応じて自由な角度から撮影することができる場合と比べて,比較対照の目的にかなった映像を入手することは一層困難であったということができる。そうすると,写真撮影によったのでは防犯ビデオ映像との比較対照に有用な映像を入手することは容易でなかったと認められ,ビデオで撮影する理由及び必要性があったと認められる。また,本件は前記のとおり極めて重大で,かつ,社会に与える影響も大きい事案であるところ,ごく一部の残焼物を除き遺体そのものが発見されないなど,証拠関係が必ずしも盤石とはいえない中で,犯人を検挙することができないまま犯行日から既に1か月以上が経過していたのであり,関係者の記憶保持や,既に発見され又はその時点以後発見されるかもしれない客観的資料の劣化,散逸等を防ぐためにも,早期に犯人を特定する緊急性があったと認められる。③撮影に際しては,無関係の第三者が撮影されることがないよう配慮し,カメラの設置場所の関係で第三者が撮影されることを完全に回避することはできないものの,これは一般的な防犯ビデオの場合も同様であり,継続,集中して撮影する対象はあくまで被告人に限定されている。撮影場所についても,公道上,あるいは公衆の娯楽施設内であって,被告人が自宅内にいるところを撮影したような場合とはプライバシー侵害の程度が明らかに異なるものであり,また,被告人の身体には何らの強制力も加えておらず,撮影回数が複数回にわたり相応の時間が費やされたことも,犯人の特定のために必要な映像を撮影するためにやむを得ない範囲で行われたものといえる。小型の撮影器機を用いたり,防犯ビデオを拡大操作するなどして撮影したことも本件の重大性等からすれば被告人に捜査が及んでいることが明確に認識するところとなれば,罪証隠滅,逃走のおそれが極めて高かったと考えられるのであるから,被告人に秘匿して撮影することもやむを得ないということができる。したがって,結局のところ,本件各撮影方法は相当な方法であるといえる。
以上,検討してきたように,本件各ビデオ撮影は適法な捜査として許容されるものであり,違法収集証拠であるとする弁護人らの主張は採用することができない。
エ 橋本鑑定の経過,考察及び結果の要旨
(ア) 回答書(検106)について
a 所見
本件ダウンベストは薄緑色を帯びたベージュ色である。前面上方から4つのボタンの高さで左右に横行する縫合線が入っている。上方から三つ目のボタン位置の縫合線から下縁上方7センチメートルの高さまでの間で,正中より左右に約6センチメートル離れた位置から脇の下に至る幅のポケットがついている。背面の下縁で着癖によると思われる上方へのめくり上がりが認められる。
A信用金庫B支店キャッシュコーナーに設置された防犯ビデオには,甲野名義のキャッシュカードを使用して同人の口座から現金312万円を引き出している人物(以下,「A預金引出犯」という。)が映っており,同人は黒っぽい色調の上着の上に薄緑色を帯びたベージュ色のダウンベストを着用していた。そのダウンベストの前面は,上方から3番目の縫合線の高さで左右にポケットの入り口を覆う部分が確認でき,このポケットは比較的大きく,その底はダウンベスト下端のわずか上方に位置している。ダウンベストの背面の下端は一直線ではなく,正中部で上方にめくれ上がるような特徴を呈している。
C銀行D支店別棟ATMコーナーに設置された防犯ビデオには,ATM機を利用して甲野名義のキャッシュカードを使用してATM機を操作している人物(以下,「C預金引出犯」という。)が映っており,同人が着用しているダウンベストは薄緑色を帯びたベージュ色で前面,背面に4条の縫合線があり,前面左右には大きなポケットをもち,背面の下端正中部が少しめくれ上がっているという特徴がある。
b 比較
本件ダウンベスト,A預金引出犯が着用しているダウンベスト及びC預金引出犯が着用しているダウンベストは,その色や形状が一致しており,特に固有の特徴と考えられる背部下縁の上方へのめくり上がりは着癖によるものと考えられるところ,これも比較した両者に見られるものである。
c 説明
衣服は大量に販売されており,色や形状が一致した場合でも,同じ型式の衣服であるといえるものの同じものであると断定することはできず,他方,明らかな相違が認められれば異なるものと判断できる。本件では着用している間についたと思われる生地のめくり上がりが認められ,このような特徴は明らかにこのダウンベスト特有のものと考えるのが適当である。
d 検査結果
本件ダウンベストは,A預金引出犯及びC預金引出犯が着用しているダウンベストと同じものである可能性が極めて高い。
(イ) 回答書(検108)及び補足書(検109)について
a 所見
A預金引出犯の画像から観察できる身体的特徴として,体格,プロポーション,歩行時の姿勢,帽子,マスク,手ぬぐい様のものによって隠されていない部分の顔面部及び手等があげられる。着衣,所持品等については,ダウンベストの特徴,時計の特徴等があげられる。体格については非常に背が高いと思われる。歩行時の姿勢の特徴として,腰を引いた形で歩くことや頭部が前屈みになること,肘をわずかに曲げた状態でポケットに手を入れて歩くことなどがあげられる。ダウンベストの特徴は,薄緑色を帯びたベージュ色であり,前面の上方から3番目の縫合線の高さで左右にポケットの入り口を覆う部分が確認でき,このポケットは比較的大きく,その底はダウンベスト下端のわずか上方に位置している。背面では4条の縫合線を見ることができ,下端は一直線ではなく,正中部で上方にめくれ上がるような特徴を呈している。時計の特徴は,丸い文字盤と金属製のバンドを見ることができる。
C預金引出犯の観察できる特徴点はすべてA預金引出犯の特徴と合致している。
パチンコ店内の被告人(以下,「パチンコ店内被告人」という。)の様子が撮影された映像から比較できる項目は歩行姿勢とダウンベストである。
京都市山科区音羽伊勢宿町<番地略>Qガレージで撮影された被告人(以下,「駐車場被告人」という。)の映像からは,立位姿勢の特徴が観察でき,また,時計と左手が比較的鮮明に写っているものもある。歩行姿勢を見ることもできる。
京都市山科区音羽伊勢宿町<番地略>先路上を歩いているところを撮影された被告人(以下,「路上被告人」という。)の映像からは,被告人の歩く姿勢が観察でき,全身が撮影されているものはプロポーションの比較に利用できる。
平成15年1月28日及び29日にパチンコ店内で遊技する被告人(それぞれ,「1月28日パチンコ店内被告人」,「1月29日パチンコ店内被告人」という。)の姿が撮影されており,耳介部が形態的には上下に長い三角形で耳垂部の幅が短いという特徴を呈しており,被告人が右手首につけている腕時計の特徴として文字盤が丸く,バンドは金属製であり,ベルト表面に凹凸が観察される。
b 比較
(a) 体格
A預金引出犯は,画像から非常に背が高いと思われる。
(b) 身長
A信用金庫B支店キャッシュコーナー防犯ビデオで靴を履いた状態での身長が170センチメートル,174センチメートル,180センチメートル,185センチメートル及び190センチメートルの捜査員を撮影したところ,画面から頭頂部が切れる身長はおよそ180センチメートルであった。カメラに顔を近づけて前方を見た場合に画面から切れる頭頂部の割合が大きくなると考えられることも考慮すると,A預金引出犯の身長は180センチメートルから185センチメートルであることが推測される。
(c) プロポーション
A預金引出犯の画像と路上被告人の画像のうち似た姿勢のものを等倍になるように拡大し比較すると,頭部,頚部,肩峰部,腋窩部,肘部,腰部及び膝部の位置がほぼ矛盾なく一致している。また,前記同様に撮影された別の画像同士を重ね合わせにより比較したところ,顔の位置,肩幅などすべてにおいて矛盾なく合致する所見が得られた。
(d) 姿勢
C預金引出犯が歩行時にポケットに手を入れている状況が観察されるが,その状況と酷似している状況がパチンコ店内被告人の画像に見られる。A預金引出犯,C預金引出犯,パチンコ店内被告人,駐車場被告人及び路上被告人の画像に腰を引いて頭部を前屈みにして歩く姿勢が認められる。
(e) 顔面部
多くの画像において下顎下縁から頬部の特徴を見ることができ,その特徴は比較的平坦に下顎角部に移行しているというものである。このような特徴は被告人と矛盾するものではない。C預金引出犯とパチンコ店内被告人の画像を比較すると,頭頂部と目,顎の先端の位置がよく合致しているのが観察される。両者を重ね合わせにより比較しても極めてよく合致している。
(f) 手
A預金引出犯,C預金引出犯,1月29日パチンコ店内被告人の画像にそれぞれ手が写っており,左手手背部が指の軽い屈曲状態にあるにもかかわらず第2指の伸筋のレリーフ像が観察される。
(g) ダウンベスト
A預金引出犯,C預金引出犯,パチンコ店内被告人,駐車場被告人及び1月28日パチンコ店内被告人はいずれも薄緑色を帯びたベージュ色のダウンベストを着ており,形状は同じである。また,背部の下縁の上方へのめくり上がりという特徴も一致しており,これはこのダウンベスト固有の特徴と考えられ,同じものであることを示唆していると考えるのが妥当である。
(h) 時計
A預金引出犯及びC預金引出犯がしている時計の形状は被告人の時計と類似し,矛盾するものではない。
c 説明
異同識別において同一人と考えて差し支えない,あるいは同一人である可能性が極めて高いと判断するためには,比較される二者において特異的な特徴が一致している必要がある。両者に明らかな相違が認められれば別人であると判断すべきである。本件の場合,A預金引出犯及びC預金引出犯とパチンコ店内被告人,駐車場被告人,路上被告人,1月28日パチンコ店内被告人及び1月29日パチンコ店内被告人を比較すると,体格や身長に全く矛盾がなく,プロポーションが酷似するという所見が得られた。身長は180センチメートル以上と日本人としては高い身長であり,立位姿勢や歩行時の姿勢にも両者で酷似する画像が認められた。着用しているダウンベストや時計の特徴も一致しており,腕時計のベルト表面の凹凸の形状は非常に類似していた。下顎下縁のラインや頬部の特徴においても矛盾がなかった。両者を別人とする明らかな相違を認めることができなかった。
d 検査結果
A預金引出犯及びC預金引出犯とパチンコ店内被告人,駐車場被告人,路上被告人,1月28日パチンコ店内被告人及び1月29日パチンコ店内被告人は同一人である可能性が極めて高いと判断するのが妥当である。
(ウ) 鑑定書(検112)について
a 所見
A信用金庫B支店に同道した被告人(以下,「A被告人」という。)を同支店設置の防犯ビデオにより撮影した映像には入り口付近に立っている被告人の画像がある。A預金引出犯及びC預金引出犯に関する所見は前記回答書(検108)のとおりである。被告人が着衣,腕時計,タオル,帽子及びマスク等を着用しキャッシュコーナーで行動することに同意しなかったため,捜査員が領置されている着衣と腕時計を着用し,A信用金庫B支店内を動く姿を同店設置の防犯ビデオカメラで撮影した(以下,「追加資料」という。)。
b 比較
(a) A被告人とA預金引出犯との比較
画像のサイズを合わせるため建物の窓枠を用い,プロポーションの比較を行ったところ,両者に明らかな相違は認められないだけでなく,酷似したプロポーションを呈していることが観察された。プロポーションのみではなく,身長もほぼ一致している。
(b) 追加資料とA預金引出犯との比較
ダウンベストについては,いずれの画像においても形状における特徴は一致している。色調については同じであると考えられる。後方の下縁が上方にめくれ上がり,横皺が集中しているのが観察でき,これはこの型のダウンベストの特徴ではなく,このダウンベスト自体の特徴であると考えるべきである。
腕時計については,いずれの画像においても色調は一致している。ベルトの形状は類似している。両者に明らかに相違する所見は認められない。
c 説明
画像と画像の異同識別の場合,同じ条件下で撮影されていることが最も望ましいが,被告人が同じ条件下で撮影することに応じなかったため得られた画像は1姿勢のみであり,立つ位置がカメラから遠いために小さく,詳細な比較照合は困難であった。得られた画像を比較したところ,A被告人とA預金引出犯の体型やプロポーションは酷似しており,明らかな相違は認められなかった。
着衣及び腕時計については,ほぼ同じ条件下で撮影された画像を得ることができ,比較したところ極めてよく合致あるいは類似するというものであった。
d 鑑定
A被告人とA預金引出犯は同一人の可能性が高いと考えられる。追加資料とA預金引出犯のダウンベストは同一のものであり,腕時計は同じ型式のものであると考えるのが妥当である。
オ 橋本鑑定の検討
(ア) 弁護人らは,橋本鑑定に関して種々の疑問を提起して橋本鑑定の証拠能力及び証明力を争うところ,弁護人らの主張を要約すると,①各部位が同一であるかどうかについて明確な基準や計算を用いて判断しておらず,その判断自体が極めて主観的で科学的根拠を欠く,②橋本鑑定は矛盾がないことを理由として結論を導き出しているが,客観的データは全くなく,検証もなされていない,③ダウンベストについて,折れ曲がりの角度や,しわが似ているかについて全く検証を加えておらず,ダウンベストの検討は非常に曖昧である,④身長の検討に際して靴底について検討しておらず,また,回答書(検108)と法廷での供述が矛盾している,⑤プロポーションの比較対象としている写真は服を着ており,明確なパーツの位置を把握できないから,プロポーションについては詳細な検討ができていない,⑥帽子を被っており頭頂部を確実に特定できないはずであるから,帽子の上から指定した頭頂部が本当に適合しているかは疑問である,⑦プロポーションや顔の比較について撮影角度が影響することがあると述べているにもかかわらず,撮影角度についての検討が詳細になされていない,⑧不鮮明な画像から結論を導き出しており,その検討方法自体が曖昧なものである,⑨鑑定書(検112)の記載は,被疑者に対する偏見を含むものであり,被疑者が犯人であることを前提に鑑定を実施しているととらえられ,橋本鑑定人は予断をもって鑑定に臨んでおり,中立性を有しないから,橋本鑑定は信用性を有しない,⑩十分な比較対照資料に基づく鑑定ではないと要約することができる。
以下,弁護人らが指摘する各点を踏まえつつ,橋本鑑定について検討していく。
(イ) 橋本鑑定人は,昭和51年3月に東邦大学理学部生物学科を卒業し,その後,同学科人類学教室の聴講生,研究生となり,昭和52年10月以降,東京歯科大学法歯学講座の副手,助手,講師となり,昭和59年以降,アメリカ合衆国及びオーストラリアの研究所及び大学に研究留学し,平成4年4月から東京歯科大学教養系人類学の講師を兼任し,同年6月に同大学で博士(歯学)の学位を受領し,平成15年4月から東京歯科大学法人類学研究室の助教授となるなど,長年にわたり人類学的な知識を法律上の問題に適用する法人類学という学問,特に骨,生体,画像を対象として比較照合することで個人識別を行う学問の研究,教育に従事しているものである。個人識別の資料となる具体的なものは,死体(焼死体,腐乱死体,白骨死体等),生体,写真,防犯ビデオ画像,その他のビデオ画像等である。また,橋本鑑定人は,様々な学会の委員を兼任しているほか,航空機事故の犠牲者の身元確認,刑事事件における犠牲者の身元確認,北朝鮮における日本人拉致被害者の政府調査団のメンバーとして生存者の人定,死亡者の遺骨収集作業,スマトラ沖大地震による津波災害被害者の身元確認等を行うなどの経歴を有している。このような橋本鑑定人の経歴に照らすと,同人は法人類学という分野における学識,経験を十分に有しているものと認められる。
(ウ) 橋本鑑定人の鑑定手法は,A信用金庫B支店に設置された防犯ビデオで撮影されたA預金引出犯,A被告人,追加資料の画像の中から,ビデオ画像は1秒間に30こま入っていることから,その中の同じ顔の向きのもの,立っている位置が同じものなど比較照合に使用することができる画像を抽出し,抽出したものをそのまま又はサイドバイサイドにおいて横線を引くなどして比較するというものである。また,画像の倍率を同じ大きさにして,2枚の画像を重ね合わせて,透過度を自由に変化させることができるコンピュータソフトを利用して一方の画像を透かせてみて,目,鼻,口の形状,位置関係を同時に見ることができる,いわゆるスーパーインポーズ法という手法もとられている。プロポーション(体全体の中での各身体部位の大きさの割合)の比較は,肩から肘あるいは腰,腰から膝等の途中で曲がることのない長さを基準とするべく,関節部等を対照して割合を比較するというものである。
(エ) 橋本鑑定においては判断の基準となる客観的なデータは示されていないものの,橋本鑑定はDNA鑑定のようにその出現頻度を算出することにより異同識別を行う科学的捜査とは異なり,2個体間のプロポーション等を比較対照し,そのこと自体から直接その異同識別を行うというものであり,そもそも異同識別の判断に際して何らかの計算を用いることは予定されていないのであって,そのようなものとして証拠価値を判断すべきものである。客観的なデータが示されていないことをもって,その鑑定の意味が無に帰するというものではない。
また,橋本鑑定人は,回答書(検108)において,靴を履いた状態の捜査員の身長と比較対照し,前屈みになっていることや,帽子を被っていることなども考慮して一定の幅をもって対象となる人物の身長を推定しているものであるから,弁護人らが主張するように信用性が全くないなどということはできない。
確かに,弁護人らが主張するように,橋本鑑定人が比較対照に用いた画像の人物はいずれも衣服や帽子を着用しているから,対象となる人物の腰,膝,頭頂部等の位置が一見して明らかな状態にあるということはできず,衣服を着用していない状態の画像を用いて行った場合よりは信用性が劣ることは否定できない。しかし,服を着た状態の画像を用いて行ったとしても,各部位の位置をある程度推測することは可能であり,これを念頭に置いて信用性を判断する必要性はあるが,そのことをもって直ちに信用性がなくなるということにはならない。
撮影距離についてみると,橋本鑑定人は,画像の被写体の前後間の距離が奥行きを検討する場合のように比較対照する部分によっては影響を与えることがあることを認識しており,どれくらいの距離であれば影響がなくなるかということについては,以前から研究テーマとして取り組み,発表も行っているものである。その上で,橋本鑑定においてプロポーション等の比較対象となっているのは,奥行きではなく平面上の特徴を比べているものであるから奥行きについては考慮する必要がない旨説明しており,その説明に不合理な点は見当たらない。
撮影角度についても,橋本鑑定人は,撮影角度が影響を与えることがあることについても認識しており,本件においてはほぼ水平に撮影しており,比較対照に用いた画像もほぼ水平の画像を使用していることから,特段の問題はないと考えている旨説明しているのであって,その説明に不合理な点は見当たらない。
なお,弁護人らが主張するように,橋本鑑定人が作成した鑑定書(検112)には,「被疑者が無実であるならば積極的に協力をし,それを証明すべきである。」,「被疑者は実況見分の内容に同意せず,自ら疑いを晴らす機会を拒絶したのである。」,「この事実は,自らが所在不明男性の口座から現金を引き出そうとする人物と同一人であることを認めたと判断されても仕方がないと考える。」等の記載がなされている。かかる記載内容は,刑事裁判における事実認定においてはとり得ない立論であり,鑑定人の中立性に疑問を投げかけられてもやむを得ないところである。しかし,橋本鑑定人は鑑定に先立ち捜査機関と事前打合せは行っていないことや,鑑定自体は画像を鮮明化したり,機械的処理を施して画像を重ね合わせるなどしたものであり,画像データそのものを変質させるような加工はなされておらず,その意味において機械的操作がなされており作為が介在する余地はないことからすると,橋本鑑定人の前記のような考え方が,橋本鑑定の手法や推論過程に具体的な影響を及ぼしているとはいえないから,前記のような記載があることをもって橋本鑑定人の鑑定人適格に疑いが入り,橋本鑑定の信用性が揺らぐとまではいうことができない。
(オ) 以上検討したところを総合すると,橋本鑑定の鑑定手法は,防犯ビデオで撮影された窃盗,窃盗未遂事件の犯人の映像と捜査機関がビデオカメラ等で撮影した被告人の映像に機械的処理を施すなどした上で比較検討するというものである。確かに,橋本鑑定は数値で結論が導き出されるものではないことから,橋本鑑定人が説明する6段階の基準の区別には,他の数値で結論が導き出される科学的捜査と比較した場合に曖昧な面があることは否定できないが,だからといって弁護人らが主張するように全く意味をなさないものということはできない。すなわち,まず,2枚の画像を重ね合わせるなどして比較した結果,明らかな矛盾点が発見されればその2枚の写真に写っている人物は別人であるということになるのであるから,橋本鑑定の方法はこの意味での異同識別には有用であることは明らかである。次に6段階の基準の区別については橋本鑑定人なりに本人固有と思われる特徴が複数あるか,一般的に見られる特徴かなどに基づき,その違いを設定してその基準に当てはめて判断している。このような判断方法は,確かに客観的な科学的理論に基づくものとはいえないが,橋本鑑定人の基準の説明はそれ自体として納得し得るものであり,同一性判断の経験の多さに照らしても一応の信頼を置くことができる。ところで,一般に,目撃証人の犯人識別供述によって被告人と犯人との同一性を認定しようとする場合,供述者がその記憶に基づく犯人の顔,体格,服装等の特徴等と被告人のそれとを比較し,これに信用性が認められれば,その識別供述によって被告人と犯人との同一性を認定することは通常行われていることであるところ,今回の橋本鑑定は,そのような比較対照を,目撃の機会が一度しかなく,誤りが混入する可能性もある供述者の記憶によるのではなく,誤りが混入するおそれが基本的にはないといえる客観的な資料を基礎とし,これを時間をかけて精査することによって行ったものということができる。そうであれば,橋本鑑定における同一性判断は,もとよりその性質上そこから直ちに同一性を断定し得るようなものではないが,いわば識別の基礎資料を高度に客観的にしたものと評価することができるものであって,証拠価値の限度を踏まえた上であればその有用性を十分に認めることができるものである。そして,橋本鑑定においては,前記のような方法で異同識別を行い,被告人の顔の特徴とA預金引出犯の顔の特徴,手の筋肉の特徴,プロポーション,歩行姿勢等の身体に関する特徴と,ダウンベストや時計という物質的な特徴を比較し,別人であればどこかに違いが出てくるのが普通であるにもかかわらず,何ら矛盾が出てこないばかりか,非常に固有的な特徴や酷似している部分があることから,結論を導き出している。橋本鑑定をもって直ちにA預金引出犯及びC預金引出犯と被告人が同一人物であると認定することはできないが,少なくとも,窃盗,窃盗未遂事件の犯人のプロポーション,顔,手の特徴,着用しているダウンベストの特徴等と被告人のプロポーション,顔,手の特徴,着用しているダウンベストの特徴等との間に何ら矛盾する点がなく,固有の特徴や非常に類似性のある特徴があることなどから,被告人と比較対照人物が相互に似ていることについては,法人類学という学問分野について十分な専門的知識を有する橋本鑑定人が,その学識,経験に基づいて鑑定資料を精査し,相応の検討を行った上で導き出した結論であり,その過程も合理的なものであるといえる。人物が似ており何ら矛盾がないという限度においては,橋本鑑定の結論は信用することができる。
(15) 総合的検討
検察官は被告人が犯人であることを認めるに足りる十分な間接証拠が存在するのであって,それらの事実はすべて被告人が本件の犯人であることを示すものであり,被告人が犯人であることに疑いを入れる余地はない旨主張している。そこで,これまでに認定してきた間接事実等に基づいて,被告人と犯人との同一性について検討していく。
ア 防犯ビデオで撮影されている甲野名義のキャッシュカードを使用して現金を引き出し,あるいは引き出そうとした人物の風貌や着衣等が,被告人の風貌や着衣等と極めてよく似ていること
橋本鑑定が指摘しているように,防犯ビデオで撮影されている窃盗,窃盗未遂犯の体型,着用しているダウンベストの形状,色調,線の入り方,背部のめくり上がり方等は,ビデオで撮影された被告人の体型,被告人が着用しているダウンベストの形状,色調,線の入り方,背部のめくり上がり方等と極めてよく似ているということができる。橋本鑑定の検討のところで説示したように,服を着た状態の画像を用いてプロポーションの比較を行っていることや,非常に固有的な特徴や酷似している部分があることなどを比較して異同識別を行うという方法をとっているものであって,指掌紋による個人識別等の場合とはその識別能力に格段の差異があることから橋本鑑定のみをもって直ちに被告人と犯人が同一人物であると断定することはできないが,その有用性は十分認められるものである。橋本鑑定の異同識別方法でも矛盾点があれば直ちに別の人物であると断定することができるところ,複数の固有的な特徴を比較しても何ら矛盾していないものなのである。人にはそれぞれ固有の特徴があることは経験則上明らかなことであって,確かに容貌が似ている人物,歩行姿勢が似ている人物,同じような服装をしている人物がいることもまた経験則上明らかな事実ではあるものの,ビデオの映像から確認することができる犯人と被告人の特徴が極めてよく似ており,その特徴が固有的な特徴を含むものであるという事実は,被告人が11月1日に甲野名義のキャッシュカードを使用して現金を引き出し,あるいは引き出そうとした犯人であることを強く推認させるものである。
イ 被告人がデータを改ざんしていること
被告人は,消費者金融等に対する負債の返済状況を記録した一覧表をパソコンを利用して作成していたところ,遅くとも平成15年3月15日午後10時19分までに平成14年の返済状況に関する前記一覧表のデータを改ざんしていることが認められる。多額の負債を抱えていた被告人としては,返済状況を確認し,今後の返済計画を立てるためには正確な情報を記載しておく必要があり,その反面一覧表に虚偽の情報を記載しておかなければならない理由も必要性もないにもかかわらず,殊更一覧表の返済日付欄の記載内容を変更しているということは,元々記録されていた時期に返済の原資があったことを隠匿するためであるというほかなく,仮に正当な手段で返済の原資を入手しているのであればデータを改ざんしなければならない理由など何らないのであるから,このようなデータの改ざん行為を行わなければならない理由としては,被告人が返済の原資を何らかの不正な手段で入手したためであると推認することができる。そして,その改ざんの内容は,11月1日や2日と記録されていた返済日を,それより前の日付に変更するというものである。このことは11月1日や2日ころに返済原資があったことを殊更に隠すため,それ以前に返済原資を有していたことを仮装する意図でなされたものであると考えるのが自然である。改ざん前の正しい日付は,まさに甲野名義の口座から現金が引き出された日付又はその直後の日付であり,改ざんしたデータの日付と甲野名義の口座から現金が引き出された日がたまたま一致したと考えるのは,余りに偶然に過ぎることであり,この両者が無関係であるとは到底考えることはできない。
なお,弁護人らは,検察官が主張するように,パソコンが押収されそのデータが解析されることを予想したのであれば,当該データを破棄すればよかったのであり,改ざんしてまでデータを保存しておく必要は全くないのであるから,検察官の主張には全く合理性が認められない旨主張している。確かに,データを破棄するという方法を選択することで返済したという記録そのものを消去することも考え得るが,他方で,データを残しておくことで,その債務の返済をそのころしたことを示す根拠を残す必要性もあったとも考えられるのであり,いずれにせよ正当な手段で返済の原資を入手しているのであれば,データを改ざんしてまで虚偽の情報を記録しておく理由も必要性もないことに変わりはなく,弁護人らの主張するところを考慮しても前記の推認には何ら影響がない。
ウ 被告人には負債があり,これに対して資産はなく,リフォーム会社の経営は休眠状態であり,収入がないのであり負債を返済するには金を必要としており犯行の動機がある上,被告人は多額の負債の返済を行っているが,被告人には返済の原資があったとは認められないこと
既に7の(2)ないし(4)で認定したとおり,被告人及びその親族は11月ころには経済的に困窮した状態にあったことは明らかであり,被告人が実質的に経営するLも休眠状態でほとんど収益をあげていなかったことが認められるのであり,被告人が突発的に相当額の収入を得ることができるような事情は何らうかがわれないことからすれば,通常の経済活動のみでは被告人が多額の金員を入手することはおよそ不可能であったのであるから,被告人には多額の負債を返済するほどの原資はなかったものと認められる。負債を返済する必要性があり,その意味で窃盗や強盗をする犯行の動機があったと認められる。確かに,弁護人らが主張するように,被告人は10月に約32万円を返済しており,9月,12月にも相応の負債を返済していることが認められるが,11月には判明しているだけでも約145万円という近接する他の月と比較すると約3倍から5倍にも及ぶ負債を返済しているのであって,それほどの額の負債を返済するには通常の経済活動とは異なる何らかの方法により金員を入手することが必要であるが,前記のように被告人が多額の金員を入手することが可能になるような事情はうかがわれないことに加えて,前記のように,被告人が返済状況を記録した一覧表のデータを改ざんしていることを併せ考えれば,被告人が11月ころに何らかの方法で相応の額の負債を返済することが可能になる程度の金員を不正な方法により入手したものと推認され,これを覆すに足りる具体的な根拠は何ら見当たらない。そして,元々一覧表に記録されていた日付の大多数が平成14年11月1日や同月2日という甲野名義の口座から現金が引き出された日付又はその直後の日付であることや,11月1日に被告人が午村に対する未払賃金や滞納していた駐車場賃料等の負債を返済していることなどからすれば,甲野名義の口座から引き出された現金が被告人の負債の返済の原資に充てられたことが推認できる。弁護人らは,甲野名義の口座から引き出された金額と被告人が返済した金額が一致していないことから,被告人が犯人であるとすることは不合理である旨主張しているが,強取した金額すべてを返済に充てるのではなく,その一部を生活費等に費消することは十分考えられるところであるから,金額が一致していないことは前記の推認に何ら影響を与えるものではない。なお,被告人は捜査段階では平成9年に父親が死亡しその遺産として同年に母親から100万円もらいそれを使わずに保管し,それを本件支払に使用した,平成14年7月から9月にかけて亀岡で工事をし,その工事代金120万円中80万円を残していたので,これを使って午村の未払賃金などに使ったかのように供述しているところがあるが,仮に母親からもらった金があったとしても父親の死亡後の平成12年に前記のとおり被告人は破産しておりその際に使わずに残しておいたというのも不自然であるし,逆に破産という危機的状況でも使わないでいた金を本件の時期になって使ったという合理的な理由もないのであり,また,工事代金については裏付けがないのであり,この時期の窮乏状況からしてこれら弁解は到底信用できないものであり,結局,この時期の負債の返済の原資について説明できない状況が明らかとなっている。
エ 甲野の自宅から発見された獣毛の細胞核DNAの型が被告人の飼い犬の核細胞DNAの型と矛盾しないこと並びに甲野の自宅及び甲野使用車両から発見された獣毛のミトコンドリアDNAの型が被告人の飼い犬のミトコンドリアDNAの型と矛盾しないこと
村上鑑定及び木村鑑定の結果を総合すると,甲野使用車両内に遺留されていた獣毛及び甲野の自宅に置かれていた掃除機のごみパック内から発見された獣毛がいずれも被告人の飼い犬の獣毛であったとしても矛盾しないものであり,掃除機のごみパック内から発見された獣毛が被告人の飼い犬の獣毛に由来する確率の方が,無関係な個体に由来する確率よりも約8兆7090億2000万倍高いという結果が出ている。現在,日本国内にどれほどの数の犬が存在するのかについては正確な数をあげることは不可能ではあるが,家畜として飼育されている犬が約1000万頭といわれていることからすると,いわゆる野良犬の存在を考慮に入れたとしても,約8兆7090億2000万倍という確率が算出されたということは対象となった獣毛は同一の個体に由来するものと考えることができる。そして,被告人は,平成10年7月ころに甲野の自宅のリフォーム工事を行っているところ,リフォーム工事が終了した後は被告人が甲野の自宅に立ち入る事情は見当たらず,また,甲野と被告人との間に交友関係があったことはうかがわれないことやリフォーム工事期間中も被告人が甲野使用車両に乗車する理由も必要性も存在しないことからも,リフォーム工事を行っている期間も含めて被告人が甲野使用車両に乗車する機会は見当たらないのである。もっとも,村上鑑定にあるように,ミトコンドリアDNAは母性遺伝するという性質を有するものであるところ,被告人の飼い犬の母犬は合計22頭の子犬を出産しており,そのうちの大半は京都府及び滋賀県に居住する住民が購入していることからすると,被告人の飼い犬と同一のミトコンドリアDNAを有する犬が甲野の周囲に存在し,その犬の毛が甲野使用車内に入る可能性があることは否定できないところである。また,木村鑑定にあるように,獣毛から細胞核DNAを検出することが可能な期間というものは一義的に定まっているものではなく,資料の保存状態等の影響するところが大きいが,それなりに長期間が経過しても細胞核DNAを検出することが可能である場合があることからすると,ごみパック内という雑菌が極めて多いところに獣毛が存在すれば細胞核DNAが検出不可能な状況になるであろうことは容易に想定されるところであり,ごみパック内に吸入された時期がごみパック内から採取された時期に近接する時期である可能性が極めて高いものの,甲野の自宅に置かれていた掃除機のごみパック内から発見された獣毛が果たしてどの時点においてごみパック内に入ることとなったかについては必ずしも明らかでないものといわざるを得ない。そうすると,村上鑑定及び木村鑑定のみをもって直ちに被告人が甲野使用車両に乗車したこと及び被告人が平成10年7月のリフォーム工事が終了した後に甲野の自宅内に立ち入ったことが認定できるものではないが,飼い犬の獣毛が衣服等に付着した状態の被告人が,当該獣毛が被告人の衣服等から脱落し,掃除機で吸引され,ごみパック内に存在してもミトコンドリアDNAや細胞核DNAが検出することが可能な状態で存在し得る期間内に甲野の自宅に赴いたとしても何ら矛盾しない,飼い犬の獣毛が衣服等に付着した状態の被告人が甲野使用車両に乗車したとしても何ら矛盾しないとの限度においては合理性が認められる。
オ 被告人が犯人であるとした場合に,客観的に存在している事情からすると被告人による犯行が可能であること
(ア) 被告人自身は捜査公判を通じて基本的に黙秘しているためいわゆるアリバイを主張しているものではないが,証拠上明らかに認められる客観的状況から推測される位置に被告人が存在した場合に被告人による犯行が不可能ということになれば,当然のことながら被告人と犯人とは同一人物ではないということになるので,被告人による犯行が可能であるかについて検討する。
(イ) 関係各証拠から既に明らかになっている客観的な事実を時系列順に並べて改めて列挙すると,①被告人名義の車両が10月31日午後5時38分に追分峠を山科方面から大津市内方面に通過している,②被告人名義の車両が同日午後7時50分に追分峠を大津市内方面から山科方面に通過している,③被告人名義の車両が同日午後10時10分に追分峠を山科方面から大津市内方面に通過している,④被告人名義の車両が同日午後10時31分に追分峠を大津市内方面から山科方面に通過している,⑤同日午後10時36分に被告人が京都市山科区所在の京都東インターむじんくんコーナーを利用している,⑥11月1日午前10時59分にA信用金庫B支店で甲野名義の口座から現金312万円が引き出されている,⑦同日午前11時11分に被告人が午村に電話をかけている,⑧同日午前11時19分にC銀行D支店で甲野名義のキャッシュカードが使用されている,⑨同日午前11時21分にE郵便局で甲野名義のキャッシュカードが使用されている,⑩甲野使用車両が11月1日午後10時58分に追分峠を山科方面から大津市内方面に通過している,⑪同日午後11時26分に被告人が大津局の圏内から携帯電話で自宅に電話をかけている,⑫同日午後11時42分に被告人が前記京都東インターむじんくんコーナーを利用していると要約することができる。被告人が犯人であるとした場合,②と③の間で甲野を殺害し,⑤の後に甲野の死体を甲野使用車両を利用して搬出し,宇治川河川敷や近辺の山中など人目につきにくいところで焼却し,残焼物を山中又は付近の川など容易に発見されない場所に投棄し,⑩のように移動して甲野使用車両を東海自然歩道に投棄し,その後,京阪電鉄京津線上栄町駅から同日午後11時24分発京都市役所前行きの電車に乗車すると午後11時33分に京阪山科駅に到着し,⑫のように借入金を返済したことになるところ,関係各場所の位置関係から推測される所要時間を考慮しても移動することが不可能であるような移動は見当たらない。また,11月1日午前11時11分に被告人が午村にかけた電話の発信地域である山科中局アンテナの所在地は京都市山科区東野北井ノ上<番地略>であり,電話が発信されたのはアンテナから半径300メートルから500メートル以内の地点と推測されることからすると被告人がA信用金庫B支店からC銀行D支店までの移動途中であったとしても何ら矛盾するものではなく,⑥で現金312万円を入手し,返済の原資が確保できたことから午村に電話をかけその後未払賃金を支払ったのは合理的な行動であるといえる。さらに,⑪の時点で携帯電話から電話がかけられているところ,この電話の発信地域である大津アンテナの所在地は大津市末広町<番地略>であり,電話が発信されたと推測されるアンテナからの距離や,京都市役所前行の電車が上栄町駅を発車した2分後の地点でどこの局が発している電波をキャッチしているか確認した際にも大津局の電波をキャッチしていたことからすると,被告人が京阪電鉄京津線上栄町駅から午後11時24分発の京都市役所前行きの電車に乗車し,午後11時26分に電車内から電話をかけたものとしても何ら矛盾するものではない。
(ウ) そうすると,証拠上客観的に明らかな事実のみに基づいて推測した限度のものではあるが,被告人が前記のように移動して本件各犯行を行うことは十分可能であったということになり,被告人が犯人であるとしても何ら矛盾する点は見当たらないことになる。
カ 被告人は甲野使用車両の投棄場所に土地勘があること
犯人としては犯行そのものの発覚を免れるための一方策として甲野使用車両を発見されにくい場所に投棄することが考えられるところ,東海自然歩道はそのような目的に合致した場所であるといえる。そして,Lの倉庫が京阪電鉄京津線上栄町駅にも近い大津市札の辻にあること,被告人及び夏子名義の自動車が平成12年及び平成13年ころに東海自然歩道に放置されていたことなどに照らすと,被告人が東海自然歩道という場所に土地勘があったことは明らかである。
なお,弁護人らは,以前に被告人が自動車を投棄した際に大津市から警告を受けているのであるから,東海自然歩道に甲野使用車両を投棄した場合,大津市の職員の知るところとなってしまうのであって,自らと結びつけられてしまうような場所に甲野使用車両を投棄することは考えられない旨主張する。しかし,自動車を投棄することが可能な場所というのはそれほど多くはなく,しかも,自動車を投棄した後,帰りの交通手段が確保されている場所で,なおかつ投棄した自動車が少なくとも一定期間は発見されない場所として認識している場所は限られているのであり,土地勘のある場所に投棄することは何ら不自然な行動ではなく,また,東海自然歩道には多数の自動車が投棄されていることは被告人及び夏子名義の自動車を投棄した際に被告人も認識していたと思われ,東海自然歩道に投棄したからといって直ちに被告人に結びつくものではないこと,以前大津市から警告を受けたのは投棄した自動車のナンバーから判明したからであって,仮に甲野使用車両にナンバーがついている状態で投棄したとしても甲野使用車両のナンバーから直ちに被告人に結びつくものではないことなどからすると(甲野使用車両のナンバーが外されていたがその外された時期は必ずしも明らかでない),被告人が甲野使用車両の投棄場所として東海自然歩道を選択したとしても何ら不自然な行動ではない。
キ 甲野の自宅を侵入する対象として選択する合理的な理由があること
他人宅に侵入して窃盗,強盗等の犯行を犯す際には場当たり的に侵入することもあるものの,財産を有していることが判明しており,かつ侵入に適しているところと認識していれば,その認識している他人宅を侵入する対象として選択することも考えられる。被告人は,平成10年に甲野の自宅のリフォーム工事を施工した際に甲野の自宅内部を見ているはずであるから,甲野が一人暮らしであることを認識していたことはもとより,平成13年ころに被告人が午村に対し,甲野のことを契約をとりやすい人物であるから営業に行くようにいったことからすれば,甲野が屋根の葺き替えやシステムキッチン等家に手を入れていることなどから,契約もとりやすい人物であると考えていたという午村の認識と同様に被告人自身も甲野が相応の財産を有していること及び侵入に適していることを認識していたといえるから,被告人が甲野の自宅を侵入する対象として選択する合理的な理由があるといえる。
ク まとめ
被告人が捜査公判を通じて基本的に黙秘しているため本件の全貌は不明であるものの,以上検討してきたような被告人と本件犯行との結びつきを示唆する各種の間接事実が積み重なっていることからすると,もはやこれらの間接事実が単なる偶然に過ぎないということはできない。これらの間接事実を総合すると,被告人が本件強盗殺人,窃盗,窃盗未遂事件の犯人であって,10月31日から11月1日の間に甲野の自宅において何らかの方法をもって甲野を殺害し,その際に甲野名義のキャッシュカード等を強取し,11月1日に強取した甲野名義のキャッシュカードを使用してATM機を利用して現金312万円を窃取し,あるいは窃取しようとしたものと推認することができる。
(16) 弁護人らが主張する被告人が犯人であると認定することを妨げる事情について
既に間接事実を検討するに際して弁護人らが主張しているところも併せて検討してきたところであるが,それ以外にも弁護人らは様々な主張をして被告人は犯人ではない旨主張しているので,それらについても検討していくこととする。
ア 甲野使用車両を使用する必要性について
弁護人らは,被告人が犯人であるならば甲野を殺害した後にその死体,残焼物を運搬する際には被告人使用車両を使用すればよく,甲野使用車両を使用する必要性は全くない旨主張している。しかし,死体,残焼物等を運搬する際に被告人使用車両を使用すれば,被告人使用車両に血痕等の痕跡が残ってしまい,そこから自らが犯人であることが判明する危険性があると考えたであろうことは推察に難くなく,甲野を殺害した後に甲野使用車両を使用する必要性があることは明らかである上,甲野使用車両が甲野宅にないことは甲野がどこかに出かけていることを示し,その車両が発見されないと犯行も発見しづらいともいえることである。
イ 被告人が死体を焼却することができるような場所がないこと
弁護人らは,被告人が犯人であるとすれば,死体を焼却するための場所が必要となるところ,被告人が死体を焼却することが可能な場所として考えられるのは大津市札の辻所在のLの倉庫ぐらいしかないが,同倉庫からは何ら犯罪の痕跡が出ておらず,その他に被告人に関連する場所で,死体を焼却することが可能な場所はどこにも見当たらない旨主張している。確かに,大津市札の辻所在のLの倉庫も死体を焼却する場所としては考え得ること,同倉庫からは犯罪の痕跡が発見されていないことは弁護人らが主張するとおりである。しかし,同倉庫は一般住宅街の中に所在しており,近隣家屋とも近接していることからすれば,同倉庫で死体を焼却すれば近隣住民に感づかれる可能性も高く,むしろ,同倉庫で死体を焼却することを避けた可能性の方が高い。そして,死体を焼却するのであれば,人目につかない山中,河川敷,海岸等が考えられ,被告人が死体を焼却することが可能な時間帯としては既に説示したとおり10月31日午後10時36分から11月1日午前10時59分(現実的には1日未明)までの間であるところ(理論上は同日午前11時42分から同日午後10時58分までの間も考え得るが,目につきやすい日中に死体を運搬することは避けるであろうし,ましてや日中に死体を焼却する可能性はほぼないと考えられる),それだけの時間があれば,甲野の自宅から死体を搬出し,近くの宇治川河川敷,近辺の山中等で焼却するのには十分な時間であるといえ,また,移動可能な範囲に焼却に適した場所があることも認められるのであり,被告人が死体を焼却することが可能な場所が存在しないということはできない。
ウ 被告人や被告人使用車両が甲野の自宅付近で目撃されていないこと
弁護人らは,被告人が犯人であるならば甲野の自宅あるいはその周辺に被告人使用車両が駐車されていたことになるはずであるところ,被告人使用車両が甲野の自宅あるいはその周辺に駐車されていたとする目撃証言は一切出てきていない旨主張している。確かに,弁護人らが主張するように,被告人又は被告人使用車両を目撃したとする近隣住民の供述等は存在しないものの,甲野宅近辺には不自然でない状態で被告人使用車両を駐車できる場所があるのであり,被告人使用車両が甲野の自宅あるいはその周辺に駐車されていたとしても,それが特に長期間にわたって駐車されていたり交通の妨げになるような状況で駐車されていたような場合であればともかく,数時間程度のことで自然な形で駐車しているのであれば必ずしも近隣住民等が目撃するというようなものではなく,また,被告人が甲野の自宅に行った時間帯が夜間であったことなども併せ考えれば,被告人又は被告人使用車両が甲野の自宅あるいはその周辺で目撃された情報がないことは何ら不自然なことではない。
エ 甲野の自宅及び甲野使用車両から被告人の指紋,微物等が発見されていないこと
弁護人らは,甲野の自宅及び甲野使用車両については徹底した捜査が実施されているにもかかわらず,指掌紋,体毛等の被告人と直接結びつく証拠は一切発見されていないところ,一切の痕跡を残さずに犯行を行うことは不可能である旨主張している。確かに,甲野の自宅及び甲野使用車両から直接被告人に結びつく証拠が発見されれば被告人が犯人であることを示唆する有力な証拠となるものの,その反面,今日においては指掌紋で個人識別を行うことが可能であることは広く知られているところであり,計画的に犯行を行う場合には手袋等を着用するなどして指掌紋が付着しないような措置を講ずることは容易であって,甲野の自宅及び甲野使用車両から被告人の指掌紋等の直接被告人に結びつく証拠が発見されていないことから直ちに被告人が犯人ではないことに結びつくものではない。
オ 以上検討してきた事情に加えて,その他の弁護人らが主張している被告人が犯人であるとの認定を妨げる事情について詳細に検討しても,被告人が犯人であるとの推認に合理的な疑いを入れることはできないのであって,弁護人らの主張は採用することができない。
第3 結論
以上検討してきたように,関係各証拠から認められる間接事実に基づき,それらを総合考慮して被告人と犯人の同一性について検討すると,犯行態様や死因等の詳細を認定することは困難であるが,被告人が強盗殺人,窃盗,窃盗未遂事件の犯人であることを認めるのに合理的な疑いを入れる余地はなく,判示の各事実は優に認定することができると判断した。
(法令の適用)
被告人の判示第1の所為は平成16年法律第156号附則3条1項により同法による改正前の刑法240条後段に,判示第2の所為は刑法235条に,判示第3及び第4の各所為はいずれも同法243条,235条に,判示第5の所為のうち,住居侵入の点は同法130条前段に,窃盗の点は同法235条にそれぞれ該当するところ,判示第5の住居侵入と窃盗との間には手段結果の関係があるので,同法54条1項後段,10条により1罪として重い窃盗罪の刑で処断することとし,判示第1の罪について所定刑中無期懲役刑を選択し,以上は同法45条前段の併合罪であるが,判示第1の罪につき無期懲役刑を選択したので,同法46条2項本文により他の刑を科さずに被告人を無期懲役に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中580日をその刑に算入することとし,訴訟費用は,刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
1 本件は,被告人が,面識がある被害者を同人の自宅で殺害してキャッシュカードを強取し(判示第1),強取したキャッシュカードを使用して現金を引き出し(判示第2),あるいは引き出そうとしたものの暗証番号が合致しなかったため未遂に止まり(判示第3及び第4),さらに,別の面識がある被害者の自宅に侵入し,現金等を窃取した(判示第5)という,強盗殺人,窃盗,窃盗未遂,住居侵入の事案である。
2 被告人は,被害者の遺体が発見されていないことから具体的な方法は判然としないものの,相当量の出血を伴う方法で被害者に傷害を負わせ,さらに被害者を殺害したのみならず,その遺体を運搬した上で,焼却し,投棄するという行為にまで及んでいるのであって,かかる一連の被告人の行動は極めて残忍である。被告人は,経営する会社の経営も芳しくなく,消費者金融等からの借入れを重ねたことなどで負債が増加し,その返済に窮したことから犯行に及んだものであり,自己中心的かつ身勝手で極めて短絡的なその動機には酌むべき事情は乏しい。被告人は,被害者を殺害後,強取したキャッシュカードを使用して多額の現金を引き出し,さらに2度にわたりATM機を利用して現金を引き出そうとして立て続けに判示第2ないし第4の各犯行に及んでいるのであって,自らの行為を振り返り立ち止まることもなく,何としてでも強盗の成果をあげようとするその態度からは,罪障感がうかがわれない。被告人は,被害者を殺害した後に血痕を拭い,被害者の遺体をいずれかに運搬した上で焼却し,その残焼物を投棄したのみならず,遺体等を運搬する際に使用した被害者の自動車を犯行現場から離れた人目につきにくい山中に放置し,さらに,犯行から約半年後に自らが犯人であることに結びつく可能性があるダウンベスト等を投棄するなどしており,犯行そのものの存在,あるいは自らが犯人であることを示す証拠を隠滅するために極めて念入りな罪証隠滅行為を行っているものであって,犯行後の情状も極めて悪い。また,被害者の尊い生命を奪った結果が極めて重大なものであることはいうまでもない。被害者は何ら落ち度がないにもかかわらず,最も安全であるべきはずの自宅において,突然凶行に遭い,殺害されたものであって,その苦痛や恐怖が多大なものであったことは推察に難くなく,突然人生を終えねばならなくなったその無念の思いは如何ほどのものであったか察するに余りある。遺族の怒りと悲しみは到底癒されるものではないものの,被告人は何ら慰謝の措置を講じていないばかりか,どこにあるか分からない被害者の遺体を返してほしいと涙ながらに訴える姉ら遺族の悲痛な願いもその心情に届くことはなく,被告人が捜査公判を通じて黙秘し犯行を認めていないため被害者の遺体がどこにどのような状態であるのかが全く明らかになっておらず,そのため遺族は,被害者がどこかで生きているのではないかと複雑な思いを抱いたまま葬儀を行うことを余儀なくされるなど,気持ちの区切りをつけることもできないままに親族の死亡という事実を受け入れざるを得なくなったものである。かかる事情も相俟って遺族の処罰感情が極めて厳しいのも当然であり,遺族は,犯人が被害者と同じようになってほしい,同じように命を奪われてほしいと述べ,極刑を望んでいる。そして,本件はいわゆる遺体なき殺人事件として広く社会に知られ,地域住民を震かんさせた事件であり,かかる冷酷残忍な犯行が与えた社会的影響も到底軽視することができないものである。
さらに,被告人は,窃盗,常習累犯窃盗等の前科4犯を有し,そのいずれにおいても服役しており,数回にわたり反省と更生の機会を与えられたにもかかわらず,消費者金融から借入れを重ねるなどして負債が増加し,その返済に窮するや,強盗殺人という極めて重大な犯行に及び,その後も本件同様仕事で出入りしたことのある被害者方に忍び込み,平然と多額の現金等を盗むという住居侵入,窃盗事件を犯しているのであり,かかる被告人の態度にかんがみると,被告人の反規範的な人格態度は根深いというほかはない。
以上からすれば,被告人の刑事責任は極めて重い。
3 一方,判示第3及び第4の犯行については暗証番号が合致しなかったためではあるものの窃盗は未遂に止まっていること,判示第5の犯行については捜査段階においては否認していたものの,公判廷においては事実関係を認めて反省の言葉を述べ,被害者に謝罪文を送付していることなどの被告人のために酌むべき事情も認められる。
4 以上の有利不利一切の情状を総合考慮すると,強盗殺人事件等を犯した被告人に対しては酌量減軽すべき事情も認められず,主文のとおり無期懲役に処し,永く反省としょく罪の生活を送らせるのが相当であると判断した。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 上垣猛 裁判官 三輪篤志 裁判官 佐々木隆憲)