京都地方裁判所 平成15年(ワ)2138号 判決 2004年6月11日
京都市●●●
原告
●●●
同訴訟代理人弁護士
平尾嘉晃
京都市●●●
被告
●●●
同訴訟代理人弁護士
●●●
●●●
主文
1 被告は,原告に対し,19万6114円及びこれに対する平成15年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,20万円及びこれに対する平成15年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,原告を賃借人,被告を賃貸人とする建物賃貸借契約の終了後,原告が敷金20万円の返還とこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払いを求めたのに対し,被告が,同賃貸借契約には,通常の使用方法に伴う自然の損耗を含めて,賃借人の負担で契約開始当時の原状に回復する旨の特約がある等として,敷金からの原状回復費用の控除又は原状回復費用請求権と敷金返還請求権との相殺を主張して争った事件である。
1 基礎となる事実(証拠の摘示のない事実は当事者間に争いがない。)
(1) 原告は,平成11年11月10日,被告との間で,京都市●●●(以下「本件貸室」という。)について,下記内容の賃貸借契約(以下,後記更新後の契約を含めて「本件賃貸借契約」という。)を締結し,その頃,被告に敷金20万円を預託し,本件貸室の引渡しを受けた。
記
期間 2年
賃料 1か月6万5000円
敷金 20万円
敷金返還方法 原則として退去後45日以内に返還
(2) 原告と被告は,平成13年11月10日,下記内容の覚書により,本件賃貸借契約を更新することを合意した(甲6)。
記
一 原契約期間を平成13年11月10日より平成15年11月9日まで継続されるものとする。
二 原契約家賃 月額金6万5000円也を平成13年11月分より月額金6万5000円也に改訂する。
三 原契約共益費月額金6000円也を平成13年11月分より月額金6000円也に改訂する。
四 特約条項(空欄)
五 その他の契約事項については原契約どおりとする。
(3) 本件賃貸借契約は,平成15年3月31日終了した。原告は,同日,本件貸室を被告に明け渡した。
(4) 被告は,前項の明渡しまでに原告が本件貸室において使用した水道料3886円を立て替え支払った(甲4の1及び2,弁論の全趣旨)。
2 争点及び争点に対する当事者の主張
(1) 原状回復義務に関する特約の成否
ア 被告の主張
(ア) 原告と被告は,本件賃貸借契約締結の際,本件貸室明渡時における賃借人の原状回復義務につき,特約として,下記のとおり合意した(以下「本件特約」という。)。
記
a 乙(賃借人)は,退出の際に,甲(賃貸人)から本物件の検査を受けた上で,次の各号に該当するときは,甲の指示に従い,本物件を自然損耗も含めて賃貸借契約開始時の原状に回復しなければならない(家賃には原状回復費用は含まれていない)。
(a) 本物件もしくは付属設備に模様替え,その他変更のある場合
(b) 検査の結果,甲が畳・襖・クロスその他内装設備の修理・交換・清掃の必要があると認めて乙に通知した場合
b 乙(賃借人)が前項の甲(賃貸人)の指示に従った原状回復をしないとき,甲が乙に代わってこれを実施し,その費用は乙の負担とする。部屋の損傷状態により原状回復費用が敷金を超過した場合,乙はその不足額を支払うことを了承する。
(イ) また,本件特約に関し,原告は更に,
a 本件賃貸借契約が終了した場合には,入居期間の長短を問わず,通常の使用方法による汚れ(いわゆる自然損耗)のみの場合であっても,別紙復元基準表に沿って,原告が原状回復義務を負担すること
b 前記(ア)bに基づく原状回復費用については,別紙復元基準表の基準料金によること
c 敷金が返還されるケースは必ずしも多くはなく,原状回復費用が敷金を超過する場合もあること
について承諾した。
(ウ) 本件貸室の明渡時における損耗状況に照らし,原告が負担すべき原状回復費用及び前記1(4)の清算水道料の合計は金20万円を下らない。
(エ) 敷金返還請求権は,建物明渡後,賃借人が賃貸人に対して負担すべき債務を控除した上で残額がある場合に限り,その残額部分についてのみ具体的に発生するものであるところ,原告が負担すべき原状回復費用及び清算水道料の合計額は,20万円を下らないので,敷金返還請求権は発生していない。
仮に敷金返還請求権が発生するとしても,被告は,平成15年4月4日頃までに,被告に対し,原状回復費用32万6900円及び清算水道料3886円の合計33万0786円を自働債権として,原告の敷金返還請求権とその対当額において相殺する旨の意思表示をした。
イ 原告の主張
(ア) 本件特約の成立については否認する。
原告は,本件賃貸借契約締結時に,仲介業者である株式会社●●●の担当者から,契約内容について何ら説明を受けていない。
すなわち,同担当者は,原告に対し,契約書の所定部分に鉛筆で丸印をつけ,原告が署名押印する場所の指示をしただけであり,本件特約の内容についての説明はおろか,該当部分を読み上げるといった作業すらしていない。原告は,同担当者に言われるまま,署名押印したにすぎず,本件特約が,自然損耗を含む一切の原状回復義務を賃借人に負わせるという,一般社会通念と異なる特殊なものであることに鑑みると,このような場合に,本件特約についての表示行為があったと評価することはできない。
(2) 本件特約の効力
ア 原告の主張
(ア) 錯誤無効
仮に,本件特約について原告に表示行為があったとしても,原告には,当該表示行為に対応する内心の効果意思がないので,錯誤により無効である。
(イ) 消費者契約法10条違反による無効
a 被告は不動産賃貸業を営む事業者であり,原告は消費者であるところ,本件賃貸借契約は,平成11年11月10日に期間2年として締結され,平成13年11月9日に期間満了により終了したが,消費者契約法施行後である平成13年11月10日に,更新契約が締結されており,同更新契約には,当然に消費者契約法の適用がある。
b(a) 消費者契約法10条に違反するか否かの判断基準は,「事業者の反対利益を考慮してもなお,消費者と事業者の間の情報格差・交渉力格差の是正を図ることが必要であると認められる場合,具体的には,当該契約条項によって消費者が受ける不利益と,その条項を無効にすることによって事業者が受ける不利益とを考慮し,両者が均衡を失していると認められる場合」にあたるか否かである。
(b) これを本件についてみると,本件特約により,原告は,本来賃貸人が負担すべき自然損耗分の原状回復費用の負担を強いられる上,その範囲についても,一部分が汚損した場合でも全体の取替費用の負担を余儀なくされる結果,契約開始時の原状以上の回復費用を負担させられる結果となっている。また,被告は,賃借人である原告に高い単価で原状回復費用を支払わせ,実際には賃借人から徴収した費用より安い金額で原状回復を行って,中間利益を得ている。
以上によれば,本件特約は消費者契約法10条に違反するものというべきである。
(ウ) 公序良俗違反による無効
仮に消費者契約法の適用がないとしても,通常使用に伴う自然損耗を賃貸人の負担とすべきことは,以下のとおり公的にも認められている。
即ち,国土交通省の「賃貸住宅標準契約書」第11条1項は,通常損耗分の原状回復費用の費用が,減価償却費として一般に賃料に含まれていると考えられることを前提に,賃借人は明渡に際し,「通常の使用に伴い生じた本物件の損耗を除き,本物件を原状回復しなければならない。」として,これを賃貸人の負担としている。
この「賃貸住宅標準契約書」は,旧建設省ないし現国土交通省において,関係業界団体宛に,その周知徹底と活用の指導を依頼すると共に,各都道府県知事宛にも同標準契約書は民間住宅の賃貸借契約書の標準的なひな型として広く普及され,住民にも周知されるよう通達,指導を出すなどして,積極的な利用を後押ししている。
また,国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(平成10年3月)でも,建物の損耗等を建物価値の減少と位置づけ,経年変化及び通常損耗による建物価値の減少と,賃借人の故意・過失などによる通常の使用を超えた使用による損耗とを区別し,前者を賃貸人の負担,後者を賃借人の負担として,上記標準契約書と同様の考え方を採用している。
以上のとおり,通常使用に伴う損耗等は賃貸人が負担するべきであるという社会通念は,既に公的にも広く承認されており,公序として成立しているというべきである。現に,被告の管理業者でもある株式会社長栄が加盟する財団法人日本賃貸住宅管理協会京都支部発行の文書(「建物賃貸借契約に係る媒介等の業務の適正化について」)においても,建物室内・設備等の自然的な劣化・損耗等の回復費用は賃貸人負担とする合意が望ましいとされている。
更に,本件特約は,前記のとおり,賃借人に一方的に不利益を被らせるものであり,しかも,契約締結過程において,本件特約の意味内容について一切説明がなされていないのであるから,このような事情に鑑みれば,本件特約は公序良俗に反し無効である。
イ 被告の主張
(ア) 原告は,本件賃貸借契約書に署名捺印しているだけでなく,同契約書中の「第九条(本件特約)一項を一読し,理解致しました。」との囲み欄や,「賃貸借契約書第九条の原状回復についての説明書」末尾の「上記の説明を熟読了承の上本賃貸借契約を締結致します。」との確認欄にも署名捺印しているのであり,内心の効果意思がないとは到底解されないから,錯誤無効の主張には理由がない。
(イ) 本件特約の成立は,消費者契約法施行前の平成11年11月10日であり,また,本件賃貸借契約の合意更新は,新たな「契約」には該当せず,従前の賃貸借契約の期間を伸長するだけのものに過ぎないから,本件特約について消費者契約法の適用はない。
仮に同法が適用されるとしても,賃貸借契約において,自ら目的物を使用収益し,自ら目的物を汚損・破損させた賃借人が,目的物の返還時に原状回復義務を負うことは,まさに一般常識そのものであって,「民法第1条第2項に規定する基本原則(信義則)に反し」ているとはいえない。
また,本件特約は,賃借人による目的物の使用収益と因果関係のある汚損・破損について,賃借人負担で原状回復を行うというものであり,一方において賃貸人側が不可避的に目的物の汚損・破損を被るという不利益があることを前提に,他方において,賃借人が賃貸人の被った不利益を填補する,というものであるから,必ずしも一方的なものではなく,むしろ実質的には双務的側面を有するものであり,原状回復費用の見込みについても事前に掲示されているので,「消費者の利益を一方的に害するもの」にもあたらない。
(ウ) 本件特約の本質は上記のとおりであって,公序良俗に反することもない。
(3) 本件貸室の汚損状況及び原状回復費用の額
ア 被告の主張
本件貸室明渡当時の汚損状況(補修を要する項目)及びそれに対する約定の原状回復費用は以下のとおりであり,原告は下記合計32万6900円及び清算水道料3886円の合計33万0786円又は少なくとも被告が現実に支出した費用である30万7949円の支払義務を負う。
なお,下記(ア)h記載の清掃消毒費用2万5000円については,原告は予めその支払いについて合意しているので,具体的な汚損の有無を問わず支払義務を負う。
(ア) 自然損耗分(小計13万5110円)
a 玄関壁クロス張替 24メートル (単価1300円)
3万1200円
b 玄関床クッションフロアー張替 8.2m2 (単価2300円)
1万8860円
c 洗面所壁クロス張替 13メートル (単価1300円)
1万6900円
d 和室壁クロス張替 25.5メートル (単価1300円)
3万3150円
e 戸襖張替 2枚 (単価2500円)
5000円
f 押入襖張替(大)1枚 (単価3000円)
3000円
g 押入襖張替(小)1枚 (単価2000円)
2000円
h 清掃消毒 2万5000円
(イ) 自然損耗を超える損耗分(小計19万1790円)
a DK天井クロス張替 14メートル (単価1300円)
1万8200円
b DK壁クロス張替 26メートル (単価1300円)
3万3800円
c DK床クッションフロアー張替 12.9m2 (単価2300円)
2万9670円
d 洋室天井クロス張替 10.5メートル (単価1300円)
1万3650円
e 洋室壁クロス張替 29メートル (単価1300円)
3万7700円
f 洋室床クッションフロアー張替 9.9m2 (単価2300円)
2万2770円
g 和室床畳表替 6畳 (単価6000円)
3万6000円
イ 原告の主張
否認する。原告は,本件貸室に入居中,通常以上の注意を払って本件貸室を使用していたので,自然損耗を超える汚損は生じていない。
(4) 本件貸室明渡時に原状回復費用負担について合意が成立したか否か。
ア 被告の主張
原告は,本件貸室明渡時である平成15年3月31日,明渡立会担当者に対し,本件貸室の原状回復費用として20万円を負担することを承諾する旨の意思表示をした。
イ 原告の主張
否認する。
原告は,本件貸室明渡当時,明渡立会担当者から,汚損箇所の具体的な指摘や,張り替えにかかる費用の説明等を一切受けていないのであるから,原状回復の要否に関する事情を把握し,納得することは不可能である。このように,把握,納得できない事柄に対して了承することはあり得ない。
第3争点に対する判断
1 争点(1)について
(1) 本件賃貸借契約については,賃貸借契約書(甲1)が存在し,原告がその契約当事者欄に賃借人として署名押印していることは争いがない。
(2) 原告は,本件賃貸借契約締結当時,本件特約部分についての記載内容をよく認識しないまま,仲介業者の指示にしたがって上記契約書に署名捺印したに過ぎない旨主張し,原告本人尋問の結果中には同主張に沿う供述部分が存する。
しかしながら,証拠(甲1)によれば,本件賃貸借契約第9条として記載された本件特約のうち,「自然損耗も含めて賃貸借契約開始時の原状に回復しなければならない(家賃には原状回復費用は含まれていない)。」との部分には特に下線が施されているほか,同条項横の余白部分には,「第九条一項を一読し,理解致しました。」との不動文字と共に賃借人の署名捺印欄が設けられ,同欄に原告の署名捺印が存すること,また,同契約書に添付された「賃貸借契約書第九条の原状回復についての説明書」にも,前記第2の2(1)ア(イ)記載の説明文と共に,「上記の説明を熟読了承のうえ本賃貸借契約を締結致します。」との不動文字による記載と賃借人の署名捺印欄が設けられ,同欄にも原告の署名捺印が存することが認められる。
(3) 以上によれば,上記契約書に原告が署名捺印したときに,通常であれば本件特約の内容も認識可能というべきであるから,本件特約についての合意は有効に成立したものと推認され,この推認を覆すに足りる証拠はない。
2 争点(2)について
(1) 消費者契約法10条違反による無効
ア 消費者契約法の適用の有無
(ア) 前記基礎となる事実記載のとおり,本件賃貸借契約は,消費者契約法施行(平成13年4月1日)前の,平成11年11月10日に締結され,同法施行後の平成13年11月10日,合意更新されたものであるところ,消費者契約法は,その附則において,同法が,その施行後に締結された消費者契約について適用されると定めていることから,本件賃貸借契約に対する消費者契約法の適用の有無が問題となる。
(ウ) ところで,期間の定めのある建物賃貸借契約は,期間満了により終了するから,建物賃貸借契約の更新とは,当事者の合意又は法定の事由により,前賃貸借契約と同一の条件をもって更に賃借権を設定することをいい,更新後の賃貸借契約は,更新前の賃貸借契約とは別個の契約であると解すべきであり,借地借家法に対して一般規定の関係にある民法619条1項本文が「賃貸借ノ期間満了ノ後賃借人カ賃借物ノ使用又ハ収益ヲ継続スル場合ニ於テ賃貸人カ之ヲ知リテ異議ヲ述ヘサルトキハ前賃貸借ト同一ノ条件ヲ以テ更ニ賃貸借ヲ為シタルモノト推定ス」と定めているのもかかる趣旨と解するのが相当である。
また,前記のとおり,本件賃貸借契約の更新時に締結された覚書において,本件賃貸借契約の内容のうち,期間以外の契約事項については原契約どおりとする旨の合意が成立していることに照らすと,原被告間において,平成13年11月10日,本件特約を含む新たな賃貸借契約が締結されたものと認められ,更新後の本件賃貸借契約には消費者契約法が適用されるというべきである。
イ 本件特約が消費者契約法10条所定の不当条項にあたるか。
(ア) 消費者契約法10条は,消費者契約の条項が,①民法,商法その他の法律の任意規定によれば消費者が本来有しているはずの権利を特約によって制限し,又は任意規定によれば消費者が本来果たすべき義務を特約によって加重している場合であって,かつ,②当該条項の援用によって,民法1条2項に規定する基本原則である信義誠実の原則に反する程度に一方的に消費者の利益を害する場合に,当該条項を無効とするものである。
これを本件について検討するに,賃借人は賃貸人に対し,賃借物を善良な管理者の注意をもって保管する義務を負い(民法400条),賃貸借契約が終了した場合,賃借人は,賃借物をその負担において,引渡を受けた当時の原状に回復して賃貸人に返還する義務(原状回復義務)を負う(民法616条・598条)。
上記原状回復義務の範囲は,賃借人が付加した造作等の除去義務のほか,通常の使用の限度を超える方法により賃貸目的物の価値を減耗させた場合の復旧義務及び賃借人の故意過失により賃借物を毀損・汚損した場合の債務不履行による損害賠償義務(民法415条)等に及ぶが,他方,賃借期間中の経年劣化による減価分は,賃貸人の負担に帰すべきものであって賃借人が負担すべき理由はないし,賃貸借契約で予定されている通常の利用により賃借目的物の価値が低下した場合は,賃貸借の本来の対価というべきものであって,その減価を賃料以外の方法で賃借人に負担させることはできないというべきである。
したがって,本件特約は,民法の任意規定による賃借人の目的物返還義務を加重するものといえる。
(イ) 次に,本件特約における上記義務の加重の程度が,信義則に反するほど消費者の利益を一方的に害するものであるか否かについて検討する。
前記認定のとおり,本件特約は,賃借人の原状回復義務の発生要件として,「明渡しの際に賃貸人が本件貸室の検査を行った結果,賃貸人が畳・襖・クロスその他内装設備の修理・交換・清掃の必要があると認めて賃借人に通知した場合」と定めているところ,かかる基準は,原状回復の要否の判断を,専ら賃貸人に委ねている点で,客観性を欠き,公平の観点から均衡を失するものというべきである。
また,本件特約は,賃貸人が賃借人に代わって原状回復を実施した場合に賃借人が負担すべき費用の額については,別紙復元基準表の単価欄記載の金額に基づき算出するものと定めているが,同単価のうち,同表No.23ないし37,48ないし50については,単価の上限についての定めがないこと,その他の単価についても,「物価の変動により価格(単価)の増減があるものとする。」と定められており,結局,賃借人において負担すべき金額を予想することが著しく困難であると言わざるを得ない。
以上の事実に加えて,一般に,本件のような集合住宅の賃貸借において,入居申込者は,賃貸人側の作成した定型的な賃貸借契約書の契約条項の変更を求めるような交渉力は有していないから,賃貸人の提示する契約条件をすべて承諾して契約を締結するか,契約を締結しないかの選択しかできないこと,他方,賃貸人は,将来の自然損耗等による原状回復費用を予測して賃料額を決定するなどの方法を採用することが可能であることを考慮すると,他方において,本件賃貸借契約では,権利金等のいわゆるとりきりの一時金の授受がないことや,賃料が比較的低額であり,自然損耗による減価分が必ずしも反映されていないとする余地があることを考慮してもなお,本件特約は,原状回復義務の発生要件及びその具体的内容について客観性,公平性及び明確性を欠く点において,信義則に反する程度に消費者の利益を一方的に害するものと認められる。
(ウ) したがって,本件特約は,消費者契約法10条により無効と解すべきである。
3 争点(3)について
ア 前記のとおり,本件特約は無効であるから,原告には本件特約に基づく原状回復費用の支払義務はないけれども,民法上の原状回復義務に基づく費用負担義務を負うことは明らかであるから,通常の使用の限度を超える方法による損耗や故意過失による毀損・汚損の有無について検討するに,乙1号証及び乙6号証には,被告の上記主張に沿う記載部分が存するけれども,同記載部分によっても具体的な損耗の内容・程度については明らかではないから,これらによって被告主張の如き損耗が生じたことを認めるには足りず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。
イ なお,前記第2の2(3)ア(ア)h記載の清掃消毒費用2万5000円について,被告は,具体的な汚損の有無を問わず,賃借人において支払義務を負う旨の合意が成立している旨主張するけれども,かかる合意の成立を認めるに足りる証拠はない。
4 争点(4)について
本件全証拠によっても,被告主張の合意の成立を認めるには足りない。
甲4号証の1(御精算書)及び2(修理明細書)によれば,被告が算定した本件貸室の原状回復費用(税込)合計33万0786円について,13万0786円を値引きした上,残金20万円と敷金とを相殺する処理がなされていることが認められるけれども,同書面は,被告が一方的に行った処理についての通知に過ぎず,同書面のみをもって,上記清算処理に先立ち,原告において,20万円の範囲で原状回復費用を負担することを承諾したとの事実を認めるには足りず,他に同事実を認めるに足りる証拠はない。
したがって,この点についての被告の主張も採用し難い。
5 以上の次第で,結局,原告の負担すべき原状回復費用についての立証がないことに帰するから,被告の原告に対する敷金返還請求権は,前記第2の1(4)記載の立替水道料3886円を控除した残額金19万6114円の限度で発生するものと認められ,原告の請求は上記同額及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成15年6月16日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があり,その余は理由がない。
よって,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条,64条ただし書にそれぞれ従い,主文のとおり判決する。
(裁判官 福井美枝)
<以下省略>