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京都地方裁判所 平成15年(ワ)2597号 判決 2008年4月30日

主文

1  被告は,原告らそれぞれに対し,各275万円及びこれに対する平成15年4月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は15分し,その14を原告らの,その余を被告の各負担とする。

4  この判決は1項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告らそれぞれに対し,各4483万4119円及びこれに対する平成15年4月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要など

1  事案の概要

本件は,原告らの子供であるAがY病院(以下「本件病院」という。)小児心臓外科で心外膜開窓手術(以下「本件手術」という。)を受けるため入院し,同手術に先だって行われた麻酔導入中(以下,同麻酔を「本件麻酔」という。)に同病院麻酔科のC医師,D医師,E医師(以上の3名の医師をあわせて「本件病院の麻酔科医ら」という。)の①挿管困難,換気困難の予見義務違反,死亡結果回避義務違反,②ファイバースコープ,ラリンゲルマスク及び輪状甲状間膜穿刺の施行義務違反(不施行),③気管切開の適時施行義務違反(遅延)などの不完全履行,または,過失により死亡したとして,主位的に債務不履行に基づき,予備的に不法行為(民法715条)に基づいて原告らそれぞれが被告に対し,各4483万4119円及びこれに対するAが死亡した日である平成15年4月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

以下,特に断らない限り,平成15年は,月日のみで記載し,同年4月10日は時分のみで記載する。

2  前提事実(ただし,文章の末尾に証拠などを掲げた部分は証拠などによって認定した事実,その余は当事者間に争いのない事実)

(1)  Aの経過など

ア(ア) 原告らは,A(平成11年2月19日生まれ)の両親である。

なお,Aは,本件麻酔を受けた当時4歳2か月で,身長が80cmで,体重が9.1kgであったが,同身長・体重の程度は1歳半から2歳児と同程度であった(ただし,身長と体重について乙A5)。

Aは,GVHD(移植片対宿主病)の影響により発症したヘルニア手術を受けた平成13年12月から身長が伸びていないし,体重もわずかではあるが減少している(乙A5の5頁,19頁)。

(イ) 被告は,本件病院を開設運営している。

イ Aは,平成12年9月から,Q病院で急性リンパ球性白血病の治療を受け,平成13年4月,末梢血幹細胞移植術を受けた。その後の平成14年4月ころから同手術に伴う後遺症のGVHDによる心膜炎,心嚢液(心臓の周りの液体)貯留が発生し,心嚢穿刺を4回受けた。

心嚢穿刺の効果は一時的で,1日か,2日で心嚢液が従前と同程度に再貯留し,心エコー検査でも心臓の拡張障害を認め,心不全治療に利尿剤の投与も続けたが,全身の浮腫も生じたため,内科的治療ではその症状に展望が認められなかったため,同病院のAの主治医であった医師らの紹介で本件病院のこども外来を受診し,小児心臓血管外科を受診することとなった。

なお,Aは,GVHDによる慢性心膜炎に起因して心嚢液が心臓周囲全周囲にわたって16-19mmの幅で貯留し,右心系だけではなく左心系の圧排も生じる重症の心タンポナーゼであった。

ウ Aは,4月2日,本件病院のこども外来を受診し,小児心臓血管外科を受診し,F医師の診察を受けたが,その際,本件手術の必要性が認められた。

Aは,同月半ば以降,同手術を受ける予定であったが,頻脈,多呼吸に加えて心不全症状の悪化及び肺うっ血による咳嗽,浮腫が出現したため,同月4日,Q病院に緊急入院し,心タンポナーゼ解除,準緊急的心嚢液ドレナージ手術(本件手術)のため,同月8日,本件病院の集中治療室に転院したところ,同月10日に同手術を受けることに決まった。

エ Aは,同月10日午前9時00分ころ,本件手術を受けるため手術室に入室したが,同病院麻酔科医師らによる麻酔導入(本件麻酔)中,換気不能の事態が生じ,同日午前11時48分,死亡した。

(2)  急性リンパ球性白血病について

ア 急性リンパ球性白血病は,急速に進行する白血病で,正常の骨髄が造血細胞の悪性変化から生じたクローン性の芽球に置き換わることを特徴とする疾患である。

イ 急性リンパ球性白血病の治療方法として末梢血幹細胞移植術がある。同手術は,まず,患者に対して,移植された細胞に拒絶反応が起こらないようにするため,自身の骨髄が破壊されるように抗癌剤投与や放射線照射を行い,その後,幹細胞提供者(ドナー)の血液から採取した造血幹細胞という血球のもととなる細胞を白血病患者に注入して造血機能の回復を図るという方法である。

ウ 末梢血幹細胞移植術の合併症としてはGVHDがある(乙B1の57頁,23)。

GVHDは幹細胞提供者(ドナー)から提供された造血幹細胞のうち,Tリンパ球という免疫をつかさどる血球に分化した部分が逆に患者の各臓器を非自己とみなして攻撃するために生じる疾患で,急性と慢性があり,その症状としては以下のようなものがある(乙B2の96頁,97頁,3の203頁ないし209頁,21)。

(ア) 皮膚症状  最も高頻度に認められ,かゆみを伴う皮疹として出現し,進行例では皮膚萎縮,強皮症,皮膚潰瘍形成を発症する。

(イ) 肝機能障害  胆汁うっ滞型の肝障害

(ウ) 口腔症状  口腔乾燥,進行例では口腔粘膜の萎縮,潰瘍形成を発症する。

(エ) 眼症状  涙腺障害,眼球乾燥。進行例では失明。

(オ) 呼吸器症状  慢性閉塞性肺疾患

(カ) 消化器症状  食道を中心とした上部消化管病変による嚥下障害

(キ) 免疫不全

エ 慢性GVHDは,病変の広がりにより,限局型と全身型に分けられるところ,全身型の予後は不良で,多くは細菌感染を繰り返して死亡することが多く,また,慢性GVHDは,その発症様式として急性GVHDとの関係から①それから引き続いて慢性GVHDになる場合,②急性のそれが一旦軽快したのちに慢性GVHDになる場合,③明らかな急性のそれを発症することなく慢性GVHDになる場合の3通りがあるが,最初のものが最も予後不良である(乙B21)。

(3)  気管挿管をする前の処置として患者に対する喉頭展開があるが,喉頭鏡視野の分類として以下のようなCormack/Lehaneの分類がある(乙B11,12,14)(以下にグレード2などという場合はこの分類上のグレードのことである。)。

ア(ア) グレード1 喉頭構造のほぼ全貌が直視できる。

(イ) グレード2 喉頭構造の後半部が直視できる。

(ウ) グレード3 喉頭蓋のみ直視できる。

(エ) グレード4 軟口蓋のみ直視できる。

イ 上記各グレードのうち,3,4では挿管困難の可能性があるが,グレード3の場合は見えるのが喉頭蓋の一部か全部かにより難易度は大いに異なる(乙B11,14)。

3  争点及び争点に対する当事者の主張

(1)  4月10日の診療経過について(争点1)

(原告ら)

同日のAに対する診療経過は以下のとおりである(乙A5)。なお,以下,時・分は午前のことである(ただし,後記(3)の〔原告ら〕主張で記載したとおりG医師作成に係るカルテ(以下「Gカルテ」という。)部分は信用性が高い。)。

ア 9時25分  Aに筋弛緩薬(ベクロニウム2mg)投与した。

この時点におけるAのSpO2(経皮的酸素飽和度)は100%であった。

イ 9時26,7分ころ

筋弛緩薬の効果が発現し,Aの自発呼吸が消失した。この時点におけるAのSpO2は100%であった。

E医師が,4mmのカフ付チューブで,次に,カフなしの4mmチューブで,その後,D医師が3.5mmのカフ付チューブでAに対して気管挿管を試みたが挿管できなかった。

E医師の1回目の挿管によりAの喉頭(声門部)に浮腫を生じさせ,その結果,同人の声門部の閉塞を生じさせた。

ウ 9時30分  AのSpO2が45%まで急低下した。

エ 9時35分  Aに対して気管切開を施行した。

オ 9時45分  Aの上記気管切開部から3mmのチューブを挿入した。その時点でAは,瞳孔散大,対光反射消失となり,低酸素症に陥って死亡状態となった。

(被告)

同日の診療経過は以下のとおりである。(ただし,後記(3)の〔被告〕主張で記載したとおりE医師ら作成に係る麻酔チャート(以下「本件麻酔チャート」という。)部分は信用性が高い。)。

ア 9時25分  Aに筋弛緩薬(ベクロニウム2mg)投与した。

その時点におけるAのSpO2は100%であった。

イ 9時30分  Aのマスクによる換気が困難となり,マスク換気での気道確保が危険と判断されたため,E医師とD医師は,Aに対して気管挿管をすることとし,E医師が2回気管挿管を試みたが挿管できなかった。この時点におけるAのSpO2は100%であった。

ウ 9時31分  D医師とAへのマスク換気を交代したが,Aに対する同換気は困難であった。D医師が2回気管挿管を試みたが挿管できなかった。この時点におけるAのSpO2は100%であった。

エ 9時33分  C医師がAに気管挿管を試みたが挿管できなかった。

C医師とD医師は,Aへの気管切開を決断し,耳鼻科のH教授と麻酔科のI教授に応援を依頼し,他の手術室にいたJ医師に緊急気管切開手術を依頼した。

この時点におけるAのSpO2は100%であった。

オ 9時35分  J医師は,Aに対して緊急気管切開手術を施行した。同手術開始直前からAのSpO2が低下し,40%台まで低下した。

カ 9時37分  I教授と麻酔科のK助教授がほぼ同時に到着し,Aの状況を確認した。I教授がAに対してマスクによる換気を行ったが,換気することができなかった。これ以上の同人に対する気管挿管操作は喉頭部の浮腫を助長する危険性があり無謀と判断され,緊急気管切開手術が優先されることになった。

キ 9時45分  J医師がAの上記気管切開口部から3.5mmのチューブを挿入した。

(2)  喉頭浮腫があったか(争点2)

(原告ら)

ア E医師の1回目の挿管によりAの喉頭(声門部)に浮腫を生じさせ,その結果,声門部の閉塞を生じさせた。(乙A5の7頁,33頁,53頁)

イ Aの喉頭(声門部)に浮腫が生じていたことは以下のことから明らかである。

(ア) Gカルテには10時10分ころ,皮膚科のH教授がAを診察し,その際,「喉頭浮腫著明」と診断した旨記載されている(乙A5の7頁)。また,同診察に立ち会った看護師も同喉頭浮腫著明との診断を聞き,カルテの中の「手術(検査)指示と連絡表」(乙A5の53頁)の「術中の状態」欄の中に「edemaみられ」と記載している。なお,同記載は削除されているがその削除の理由は不明である。

(イ) 小児の声門部は柔らかく,少しの刺激でも浮腫が生じやすい。

被告の主張によってもE医師らはAの正中位で固定して閉じられてしまった声帯を挿管チューブで5回も跳ね返されるような抵抗を感じるほどに突いたというのである。したがって,それによってAの喉頭に浮腫が生じないことがない。

(ウ) Aについて死亡後,その死亡原因を確かめるために病理解剖がなされているところ,原告らが本件訴訟前に申し立てた証拠保全によって取得した同解剖記録の中にはAの解剖時における声門部の写真がなかった。被告が提出する乙A9の②のNo.11,12には声門部のみならず声帯部も写っていないし,同No.13ないし15の写真からは声門部の解剖時の状態は明らかとならない。

(エ) 10時ころ,本件病院の医師は,原告らに説明をしたが,その際,「Aへの気管挿管が浮腫などにより困難であった。また,挿管できなかった理由としては,猪首,ステロイドによる声門浮腫,喉頭展開の困難さ(皮膚,関節拘縮)などがあげられる。」と説明した。

本件病院の小児心臓血管外科のF医師及びL医師は,Aが死亡状態となった後の10時30分ころ,原告らに対し,「声門部の浮腫が挿管操作によって引き起こされた。」旨の説明をした(乙A5の10頁)。

I教授は,A死亡後における原告らに対する説明で挿管困難の原因はAのあごが開きにくかったことと同人の声門浮腫にあることを原因に挙げていた。

(被告)

ア 原告らが主張するような気管挿管操作でAの喉頭(声門部)に浮腫を生じさせたことはなく,挿管不能や換気困難をもたらすような喉頭浮腫は同人に存在しなかった。

イ Aの喉頭に浮腫が存在しなかったことは以下の事情から明らかである。

(ア) Gカルテの午前10時10分の欄に「喉頭浮腫著明」との記載がある(乙A5の7頁)。しかし,皮膚科のH教授は,Aの喉頭展開を喉頭鏡を用いて行ったが,同人の喉頭蓋の内側の声帯部を見ることができず,したがって,声門部の喉頭浮腫のみならずその著明の有無も目視で確認していない(乙A10)。したがって,G医師がH教授の診断を記載したとされる上記「喉頭浮腫著明」との記載は不正確で,仮にH教授が喉頭浮腫の可能性について発言したとしても,それは疑いであって,その疑いを確定診断のように記載したもので不正確である。また,M看護師は,カルテの「手術(検査)指示と連絡表」の「術中の状態」欄(乙A5の53頁)に術中に医師の言葉として聞こえたため一旦「edemaみられ」と記載したが,それが断定的な言い方でなかったため事後に抹消した(乙A11)。

(イ)① 本件で実施された病理解剖の結果によりAの声門部に浮腫が存在しなかったことは明らかである(乙A6の9頁,同A7,同A9の①②)。

なお,Aの解剖時における写真のうち,声門に迫っている写真は乙A9の①のNo.8の写真であるが,声門が喉頭蓋の奥にあるため,フラッシュの光が届かず声門部までは撮れていないが,解剖実施者がその際,肉眼で声門部に浮腫がなかったことを確認している。固定標本の写真のうち,乙9の②のNo.11,12の写真は声門部が直接撮影されている。

② 本件病理解剖所見,その際の肉眼的所見と本件写真との関係は以下のとおりである。

喉頭粘膜浮腫なし  乙A9の②の同No.11ないし15の写真

喉頭声門下浮腫なし  同No.13ないし15の写真

声門下狭窄なし  同上

披裂部開きにくい  写真でとれるものでない

後部声門癒着なし  同No.13ないし15の写真

後部声門改題不良  写真でとれるものでない

後部声門硬化あり   同上

(3)  Gカルテ部分等(乙A5の7頁,53頁)と本件麻酔チャート(乙A1の12,13頁,同13の①②)の信用性(争点3)

(原告ら)

ア カルテのうちGカルテには「PIP60mgを要するも換気は十分。筋弛緩を十分得た後,挿管困難。3try後,突然換気困難。Bagging不可。SpO2 45まで低下。徐脈」「9時30分 心マを施行しながら,気切施行。数回試みた後,3mmカフ無しtube挿入」と記載され(乙A5の7頁),看護師記載に係る部分にも「挿管困難,2(=で訂正),3try,その後,edemaみられ(=で削除),バギングできず,SpO2 45,心マしながら気切する。」(同53頁)との記載がある。

イ ところで,カルテの記載落ちや誤りを主張しても,カルテ記載の合理的改変などの特段の事情がない限り,事実の不存在あるいはカルテに記載どおりの事実が存在したことが事実上推定される。

上記カルテの前段部分はG医師がAに対する本件麻酔に立ち会い,その際の本件病院の麻酔科医らの各処置を客観的に見て記載したもので信用性が高い。

他方,麻酔チャートはE医師が記載したものであるが,同医師は2回目の気管挿管操作以後,記録の作成に専念したものである(甲B3)が,その時点までの事実経過は後刻記憶に基づいて記載し,また,記録の作成に専念したといっても,Aの気道確保ができないことなど同人の生命が危機に瀕していた状況下で冷静に記録ができたのか疑問が残る。2回目の気管挿管操作以後の記録も記憶に基づいてまとめられたものである。

以上のような経過からすると,G医師や看護師が記載したカルテの方がE医師が記載した本件麻酔チャートよりもより信用性が高いといわなければならない。

(被告)

ア 本件のような緊迫した状況下でもっとも時間に沿って正確に記載される記録は麻酔チャートである(乙A13の①②)。

イ 麻酔医は,麻酔中の状態経過を分単位で麻酔チャートに記載するのに慣れているが,G医師のような外科医は分単位でカルテに記載することには慣れていない。

ところで,Gカルテであるが,9時40分ころ手術室に入室したL医師の指示に基づいてG医師が記載したものであるが,9時45分以前の記載はまとめて記載されたもので,9時30分との記載も含めてその時間記載の正確性はなく,9時45分までの事項を9時30分として一括してまとめて記載している。また,G医師は,始めからカルテに麻酔の経過を詳しく書くことを予定して本件の手術に立ち会ったわけではなく,突然指名を受けたものであって,この点からもその正確性には無理があるといわなければならない。そして,同カルテの内容であるが,気管挿管操作の終了が9時35分であることは麻酔チャートにより明白であり,また,9時30分より前の「徐脈(HR42)」及び「ECG波形検出せず」の記載はHR(心拍数)の連続記録(乙A5の26-2頁上段)に矛盾し,同記録からすると,9時30分前にAが低酸素状態に陥ったことが窺えないうえ,仮にカルテの記載どおり9時30分にAのSpO2が45%に急低下していたとすると9時35分に心拍数が146と計測されることはない。そして,カルテの9時30分の「心嚢穿刺」「心嚢液60cc吸引」の記載も実際は9時45分以降である(麻酔チャート)。以上のことに照らすと,Gカルテは不正確であるといわなければならない。

ウ 以上のようなことからすると,E医師が記載した本件麻酔チャートの方がGカルテよりもより信用性が高いといわなければならない。

エ なお,M看護師記載に係る上記カルテ部分の「edemaみられ」との記載は=で削除されているところ,それが削除された趣旨は上記(2)(被告)イ(ア)記載のとおりである。したがって,同「edemaみられ」との記載部分はそのまま信用することができない。

(4)  術前診察,評価の適切性について(争点4)

(原告ら)

ア Aは,呼吸・循環機能が非常に悪く,不安定で,GVHDによる慢性の閉塞性細気管支炎による重症の閉塞性肺機能障害に罹患していた(乙A7)。

イ しかし,本件手術で麻酔を担当した本件病院の麻酔科医らは,Aに対する本件手術前の麻酔(方法,内容を含めて)が適切になされるよう術前に当然なすべき以下のことをしなかった。したがって,麻酔科医らは,Aに対する術前評価義務を怠ったというべきである。

(ア) Aに対する4月9日のCT検査の結果,同日午後4時ころ,放射線科医から閉塞性細気管支炎の精査の必要性が申し送られていたところ,Aの肺の病態ことに閉塞性細気管支炎の状態をみるため,動脈血ガス分析が必要であったが,それをしていない。

(イ) Aの慢性GVHDの症状などを把握すべきであったのに,Aの両親からAの現病歴,家族の中で麻酔について異常な反応を示した者がいないか,また,日常生活での呼吸困難出現の有無を聴取して確認すべきであったのに,それらをすることもなく,そして,聴診して肺雑音の有無を確認して肺炎の有無や気管支狭窄の程度なども確認すべきであったのにそれをすることもなかった。

(ウ) Aが慢性GVHDに罹患していたのに皮膚障害について評価をしていないし,手術室入室後もバイタルサインを適切に測定していないし,それの評価もしていない。

本件麻酔チャートに術前に記載すべき塩素イオン(CL)の数値や胸部レントゲン写真に対する所見は何ら記載されていない。

(被告)

ア Aに対して動脈血ガス分析は施行していないが,その余は否認する。

ところで,本件病院の麻酔科医らがAに対して術前に動脈血ガス分析を施行しなかったのは以下の事情による。

(ア) 動脈血ガス分析を行うためには被験者の静止が要請されるが,仮にAに対してそれを施行するとすると,Aに心不全の急激な悪化などを引き起こす不安があり,同検査はSpO2検査で代替できる。

(イ) AにPaCO2(二酸化炭素分圧)が高い状態(高二酸化炭素血症)を疑わせる臨床所見が認められなかった。

(ウ) GVHDのためAに高度の皮膚変化が生じていたところ,その皮膚を傷つけたくないとの思いがあった。

なお,Aに対して動脈血ガス分析をしたとしても4月8日の血液生化学検査の結果(乙A5の41頁の血清CLの値)からPaCO2の数値は正常範囲から上昇していなかったと推測される。

イ(ア) Aの本件病院へ転入院時における小児科のカルテには肺疾患に関する記載はなく「呼吸清明,ラ音なし」で(乙A4の3頁,4頁),その後,受け入れた小児心臓血管外科の4月8日の記載も「肺音清明」との記載がある(乙A5の6頁)。また,Q病院から送付された医療情報紹介書にも肺それ自体の機能に問題を示す記載はなかった(乙A5の6頁)。

(イ) そして,4月9日に撮影されたAのCT検査(乙A5の29頁)を踏まえ「両肺に断片的な不均一性を伴う空気貯留が存在し,それはGVHDによる閉塞性肺気管支炎によく見られる所見で」,「閉塞性肺気管支炎の疑い」との診断がなされている。しかし,疑われる閉塞性細気管支炎の程度は軽度で麻酔中に呼吸不全ないし換気困難の恐れまでは認めがたいものであった。

ウ 被告の麻酔科医の術前評価に問題はなく,同義務違反は認められない。

(5)  気管挿管操作の不完全履行,過失について(争点5)

(原告ら)

E医師の気管挿管の際の手技ミスによってAの声門部に浮腫が生じた。

仮にE医師の気管挿管の際の手技ミスによってAの声門部に浮腫が生じていたとすると,その後に,D医師やC医師などのベテランが気管挿管を試みても,挿管ができるはずがない。同各医師の気管挿管不可という事実はE医師の同ミスと相容れないものではなく,同ミスを免責するものでもない。

(被告)

ア Aには上記のとおり声門部に浮腫が生じていなかった以上,原告ら主張のような手技ミスはE医師には存在しない。

イ ところで,本件では3名の麻酔専門医が交替で5回にわたりAに対して気管挿管手技を試みているが,いずれも挿管不能であった。このことからすると,E医師の技術未熟は想定できない。

(6)  Aの気管挿管困難性及び換気困難性に係る各予見義務違反(不完全履行,過失)と同各困難性を基礎とする死亡結果回避義務違反(不完全履行,過失)について(争点6)

(原告ら)

ア(ア) Aは,慢性GVHDに罹患し,その症状として慢性心膜炎を発症し,心嚢液が貯留し,心タンポナーゼによる循環不全,呼吸不全があったところ,平成13年12月の鼠径ヘルニアの手術を受けた際(クラス2であった。)よりも術前状態は悪く,皮膚の硬化や関節拘縮,脊椎側弯があり,座位が困難で,頚部に可動域制限があり,中心性肥満の可能性があり,首が短く,成長不良で伸展が困難であった。また,喉頭展開でもグレード2ないし3で,挿管困難が予想される3の領域まで入っていた。

(イ) 麻酔科医は,Aの上記症状からして同人への筋弛緩薬投与後,挿管困難の原因が何であれ,少なくとも挿管困難が生じることを予見することができた。

(ウ) ところで,被告は,Aに対する換気困難及び挿管不能が生じた原因として,病理解剖で得られた所見を踏まえた本件麻酔の全過程の検討から,同人への筋弛緩薬投与によって声門部が通常(声帯が弛緩して声門部が開く。)とは逆に正中で固定された可能性があるなどと主張する。しかし,病理検査の結果からは同検査にあたった医師が肉眼的に「声門が硬い」との印象を持っただけで,また,顕微鏡上組織に軽度の浮腫や繊維化が認められただけである(乙A7)。そして,病理解剖記録には「後部声門開大不良」との記載があるが,その後に「硬化あり?」と疑問符が付けられている。以上のような病理検査の結果からはAに対して声門部の正中位固定が生じていたとは考えにくい。

イ(ア) 本件麻酔時におけるAに対するマスクによる換気困難は,閉塞性肺障害,あるいはこれと拘束性肺障害が複合して生じたもので,それらがAの自発呼吸を失わせた。

ところで,Aは,病理解剖の結果,本件麻酔当時,高度の閉塞性細気管支炎であったことが明らかである。

(イ) Aは,GVHDに罹患し,術前のCT検査の結果からも閉塞性細気管支炎の精査が申し送られるなど呼吸状態がかなり悪化していたところ,Aの同症状からすれば,本件病院の麻酔科医ら,少なくともD医師は,筋弛緩薬投与前,その原因を閉塞性肺障害に特定するかどうかはともかくとしても換気困難の可能性を予見できたというべきである。

ウ(ア) 筋弛緩薬投与後,予測し得ない種々の原因によって患者が換気困難になることがある旨の症例報告がある(甲B4)。そのことは,本件病院の麻酔科医らを含めて麻酔科医にとって常識ともいうべきで,患者に換気困難を予測させるような因子がなくとも予測外の換気困難な事態が発生することを想定している。また,麻酔科医は,患者の既往歴や身体所見・検査結果を詳細に検討して患者が抱える麻酔上の問題点を洗い出し,それに対するあらゆる対策を事前に立てておくべきである。

(イ) 麻酔科医は,患者に対する気管挿管にあたって筋弛緩薬を投与などする場合,本件のAで生じたような予想外の事態(換気困難,挿管不能)が生じることは予見可能であり,それが生じた場合を踏まえてそれに対処する対応(麻酔計画)を準備しておくことが求められている(乙B12,14)。

エ(ア) 本件病院の麻酔科医らは,Aに対して筋弛緩薬を投与して自発呼吸を失った際,上記換気困難,挿管困難の可能性があったことからすると,自発呼吸を残し,吸入麻酔を深くして,気道確保ができることが確認できればそのまま気管挿管をすべきであった(甲B11)。

(イ) しかし,同麻酔科医らは,Aに対するバイタルサインの確認を怠り,挿管についても声門部を直視することができなかったなど気管挿管をするのに適切な状況でなかったのに調整呼吸による換気が可能かどうか認識しないまま筋弛緩薬を投与したため,Aをして換気困難を起こさせ,死亡させた。仮に上記(ア)で記載したような処置をしておけば,Aに換気困難が生じることはなく,死亡を回避することができた。

(被告)

ア 麻酔科医において意味のある挿管困難の予測は,当該症例に通常の手技では対処できないかもしれない挿管困難が発生する危険があるか否かの予測であり,それを抽象的な可能性ではなく具体的な可能性として予見できたかどうかが問題とされるべきであり,また,換気困難性についても,通常の手技では対処できないかもしれない換気困難が発生する危険があるか否かについて,抽象的な可能性ではなく具体的な可能性として予見できたかどうかが問題とされるべきである。

イ(ア) O医師,C医師,D医師,E医師は,Aへの気管挿管のための筋弛緩薬投与前(術前),Aを診察し,同人に開口障害,巨舌,頸椎の可動域制限のないことなど挿管困難を窺わせる解剖学的因子がないこととともに挿管困難を予想させる疾患群の罹患がないことを確認し,GVHDの文献検索を行ってGVHDに麻酔の危険を示す知見がでていないことを確認している。また,同人の前回手術の際の麻酔記録もQ病院から取り寄せ挿管困難でないことを確認している。

なお,本件病院の麻酔科医らは,Aの術前状態についてASAの分類でクラス3(生活制限を要する程度の重度の全身疾患を持っている患者)からクラス4(死亡の危険性を伴う重度の全身疾患を持っている患者)(乙B7の95頁)と判断していたが,同クラスの程度は挿管困難の予測につながるものではなく,麻酔の禁忌を意味するものでもなく,同クラスの程度は慎重に注意を払った麻酔管理を心がけて治療を行うことを求めているものである。

(イ) したがって,本件病院の麻酔科医らが事前にAについて,挿管困難を予測することは困難であった。

(ウ) なお,本件ではAに対して気管挿管ができなかったが,その原因としては普通の声帯であれば,筋弛緩薬を投与すると弛緩して声門部が開くが,Aは,声帯を含めて声門部が全体的に硬く,声門部が逆に,正中位で固定(声門開大不良)(乙A6,15)されたことが想定される。

ウ(ア) マスクによる換気困難の予測は現在の医学ではきわめて難しい。

(イ) 本件の場合,Aへ投与した筋弛緩薬の効果出現とともにマスク換気困難が生じたが,声帯が筋弛緩の効果とともに陽性呼吸に移行した場合どのように変化するかということは,声帯の自発呼吸時の陰性換気下での声帯運動の機能的な評価からは困難である。マスク換気の困難性の予測は現在の医学では極めて難しく(乙B11),特に,本件のようなGVHDの進行に伴い生じたと思われる声門部の変化による換気困難性の予測は不可能である。

(ウ) 本件麻酔に関与した本件病院の麻酔科医らは,Aへの同麻酔前にGVHDの麻酔などに対する影響などを文献検索したが,特に麻酔に対する危険を示す文献はなかった。

エ(ア) 以上のことからすると,D医師,E医師ら,本件手術に際してAへの麻酔を担当した麻酔科医らには,法律上の過失の要件たる対処不能の換気困難及び挿管不能が生じることを具体的な予見可能性として予見することは困難であった。したがって,同医師らには不完全履行ないし過失はない。

(イ) ところで,Aへの挿管不能及び換気困難が生じた原因であるが,病理解剖で得られた所見を踏まえた本件麻酔の全過程からすると,同人への筋弛緩薬投与によって声門部が通常(声帯が弛緩して声門部が開く。)とは逆に正中で固定された可能性がある。そして,そこに自発呼吸の陰圧換気からマスク換気の陽圧換気という空気の流れの変化が生じ,閉じられた声門の上からマスクが空気を強制的に押し込む形となり,声門部の閉鎖をさらに助長,換気困難性を生じさせたと考えられる。また,換気困難の原因として術前から存在した肺鬱血が,低酸素,心臓マッサージなどの要因によって悪化し,心原性肺水腫の急激な悪化が加わった可能性があるが,そのようなことを術前に予見することは困難である。

オ(ア) 本件当時,慢性GVHDについてはその本態の病理研究,その発生抑制と治療の研究がなされていた状況で,同疾患に合併する緊急事態(心不全,心タンポナーゼなど)に対する緊急手術時における麻酔や呼吸管理の安全のための医学的知見は麻酔学の最先進であるアメリカでも研究が届いていない状態で,手探り状態で臨床麻酔が行われていた。

(イ) 慢性GVHD患者に対する数少ない手術の症例報告でも麻酔の方法としては本件と同様筋弛緩薬が使用されている(甲B9,乙B24ないし27)。

(7)  気管支ファイバースコープ(以下「気管支ファイバー」という。)の不使用に係る不完全履行,過失の成否について(争点7)

(原告ら)

ア 換気困難に陥った場合,その段階でASA(American society of Anesthesiologist)のアルゴリズムにしたがった処置を行うべきところ,Aの自発呼吸は筋弛緩薬によって消失していたため,換気困難になると低酸素症に陥る危険性があったところ,低酸素症に陥らせないために許容された時間は10分ではなく2分程度であった(甲B5の145頁)。

イ 本件病院の麻酔科医らは,上記のようなAの換気困難を予見して,事前に気管支ファイバーを準備し,同人に対するこれ以上のマスク換気での気道確保が危険と判断した時点,遅くともE医師の2回にわたる気管挿管ができなかった時点で気管挿管困難と判断し,直ちに気管支ファイバーを実施すべきであった。しかし,同医師らは,気管支ファイバーを準備することもなく,そのような処置もとらず,更に挿管を繰り返した。

なお,気管支ファイバーの挿管は30秒もあれば挿管できるという文献記載がある。

(被告)

ア 本件で実際に気管挿管操作に与えられた時間は3ないし4分程度であった。

なお,筋弛緩薬の効果出現からマスク換気,気管挿管操作そして換気困難,挿管不能の判断から緊急気管切開までに要した時間は8分程度であった。

イ 気管挿管に上記程度の時間を要することは稀ではなく,挿管困難症の症例ではさらに長い時間を要することがある。なお,挿管困難症の定義に10分以上の時間を要する気管挿管手技というものがある(乙B11の1052頁)。

ウ ところで,気管支ファイバーは基本的には自発呼吸が保たれていて,舌根部が持ち上がっている状態の場合に行う手技であるところ,Aが本件麻酔を受けた手術室内には事前に搬入されていなかったが,同部屋の5ないし6m離れたすぐそばに常置され,そのため,2分程度あればそれを実施することが可能であった。

エ 本件病院の麻酔科医らは,気管支ファイバーの使用も考えたが,Aのような小児は口腔内スペースが狭く,それの視野が妨げられるうえ,Aには自発呼吸がなく舌根沈下が生じていると予想されたため気管支ファイバーも通らない可能性があると判断し,また,それに要する時間と気管切開に要する時間が同程度とする報告もあり,そして,気管挿管のためのチューブが通らない原因がAの声門部にあると考えられたため,最終的に声門部を越えて気道確保することが第1選択と診断して,気管切開を優先させた。

ところで,気管支ファイバーはバックによる換気が困難な場合には適していない(甲B4の①の文献の38頁)。

オ 以上のことからすると,本件病院の麻酔科医らがAに対して気管支ファイバーを実施しなかったことについて,そこには不完全履行ないし過失はない。

カ 原告は,気管支ファイバーの挿管は30秒もあればできる旨主張する。しかし,それは最短時間を意味している。患者に舌根沈下,周囲組織の浮腫などがあれば気管支ファイバーで確実に視野を得て挿管が完了するまでには数分を要する。特に,小児に使用する気管支ファイバーは成人のそれに比して細く,操作性が悪いためガイドとして挿管するのは容易でない。

(8)  ラリンゲルマスク及び輪状甲状間膜穿刺の不使用に係る不完全履行,過失の成否について(争点8)

(原告ら)

ア 本件病院の麻酔科医らは,Aに対する換気困難,挿管不能などの事態を想定してラリンゲルマスクや輪状甲状間膜穿刺の施行を準備していた。

イ 同医師らは,Aに対するこれ以上のマスク換気での気道確保が危険と判断した時点,遅くともE医師の2回にわたる気管挿管ができなかった時点で気管挿管困難と判断し,直ちにラリンゲルマスク及び輪状甲状間膜穿刺を施行して気道を確保すべきであったが,それを怠った。

(被告)

ア 麻酔科医は予測できない換気困難,挿管困難を考えてラリンゲルマスクや輪状甲状間膜穿刺などを準備しておくが,それを使用するか否かはその時点の患者の状態によってどの方法が確実な気道確保が行え,また,合併症を最小限にすることができるかなど判断してその適応を判断する。

イ(ア) 本件病院の麻酔科医らは,Aの喉頭浮腫の可能性も考慮して,咽頭内にラリンゲルマスクの挿入を行わず気管切開を優先させた。

(イ) ところで,マスク(フェイスマスク)換気で換気困難が認められたAに対して,仮にラリンゲルマスクを挿入しても,それによって逆に喉頭に浮腫を増強させる危険性があり,かえって,換気困難を生じさせた危険性があった。また,ラリンゲルマスクは必ずしも声門部に適切に留置できるとは限らず,その位置が適切でない場合,誤嚥や喉頭浮腫を生じさせる危険性がある。そして,ラリンゲルマスクの使用はそのマスクの大きさから気管の位置を偏位させ,気管切開をより困難にする側面があるところ,Aに対して気管切開を優先させる旨の判断をしたため,ラリンゲルマスクの使用が気管切開操作の妨げとなる可能性があった。以上のようなことからAに対してはラリンゲルマスクの使用をしなかった。

ウ(ア) 輪状甲状間膜穿刺はその穿刺部位を触診で確認し,輪状甲状靱帯に確実に穿刺をしなければ動脈穿刺や甲状腺損傷などの重篤な合併症を引き起こす。穿刺を行って挿入できたとしても,位置のずれやチューブの屈曲の合併症の他に,穿刺により出血し止血困難に陥った場合,血液による細いチューブの閉塞のみならず,肺内に大量の血液がたれ込み,仮に,肺に酸素を送り込んでも肺胞内への血液充満による換気面積の減少により低酸素血症を助長する可能性がある。

(イ) ところで,被告の麻酔科医らは,輪状甲状軟骨穿刺の上記特質を踏まえ,直視下に気管や周囲組織(甲状腺や血管)を確認できる気管切開を優先させた。

エ 以上のとおり,本件病院の麻酔科医らの上記判断や処置には不完全履行,過失はない。

(9)  気管切開の時期に係る不完全履行,過失について(争点9)

(原告ら)

筋弛緩薬の薬効によりAの自発呼吸が消失し,遅くとも9時28分には換気が困難となり,9時30分の時点でSpO2が45%になっていた。以上のことからすると,同人に対する気管切開はE医師による挿管ができない,挿管困難が明らかとなった時点で開始すべきであったにもかかわらず,その後も気管挿管にこだわり,9時35分までいたずらに時間を費やした。

(被告)

ア 9時30分の時点でAのSpO2が45%になっていたことはない。

イ(ア) 原告らの上記主張はその前提事実に誤りがある。SpO2の低下はAの心拍数からして気管切開が施行される直前である(乙A5の26頁上段のHRの記録)。

(イ) 本件では9時30分の時点でAのマスクによる換気が困難となり,そのため,被告の麻酔科医らが気管挿管を選択し,9時35分にはそれを施行したものである。同施行の直前にその時点で気管挿管でなく,気管切開を選択することは麻酔科の常識に明らかに反する。というのは,気管切開には数分の時間を覚悟しなければならないが,Aのようにクラス2(あるいはクラス2ないし3)の分類に該当する喉頭においては気管挿管の成功の可能性が高く,しかも,通常は,気管切開よりも速やかに気道確保ができるからである。

(10)  説明に係る不完全履行,過失について(争点10)

(原告ら)

本件病院の麻酔科医は,本件手術に先立ってAの家族に直接本件麻酔の内容,そのリスクとしての困難性や換気困難の可能性などについて説明をすべきであったのに,その説明をしていない。

(被告)

ア(ア) 本件当時,本件病院の麻酔科では麻酔症例に余裕のあるときや特別リスクの高いときに麻酔について説明を行い,それ以外の場合には例えば,小児心臓血管外科の手術症例については執刀医が麻酔を含めた説明を患者に対して行っていた。

Aに対する本件手術の際も執刀医の小児心臓血管外科医が麻酔を含めて説明をし,本件病院の麻酔科医は本件麻酔について説明をしていない。

(イ) しかし,本件の態様を踏まえ従前の対応は好ましくないとして,現在は麻酔科医による直接の説明を行っている。

イ 仮に本件においても本件病院の麻酔科医がAの家族に直接麻酔について説明をしたとしても,その内容はAの気管挿管は多少の困難さがあっても可能で換気困難も特に予測しないということである。したがって,同説明がなされたとしてもAに対して本件で採用された麻酔方式がとられなかったということはない。

(11)  損害について(争点11)

(原告ら)

本件病院の麻酔科医らの上記不完全履行ないし過失によりAが死亡し,その結果,原告ら及びAは,以下の損害を被った。

ア(ア) Aの逸失利益  5001万8238円

565万9100円〔平成13年賃金センサス男性労働者・学歴計の平均賃金〕×(1-0.5〔生活費控除率〕)×17.6771〔18歳から67歳までの新ホフマン係数〕=5001万8238円

(イ) 原告らの慰謝料  3000万円

(ウ) 葬儀費用  150万円

(エ) 弁護士費用  815万円(損害額の1割相当額)

合計  8966万8238円

イ 原告らは,Aの死亡により同人の被告に対する損害賠償請求権を各2分の1ずつ相続によって取得した。

(被告)

ア 原告らの主張のうち,アは争い,イは知らない。

イ ところで,Aは,全身の皮膚病変,慢性心膜炎,肝臓・消化管のGVHD症状を伴う重度の慢性GVHD患者で,その予後は不良で5年などの生存率も低いことが見込まれる。

第3当裁判所の判断

1  前提事実及び証拠(甲A13,甲B2,3,5,6,7の②,9,11の①②,13,16,乙A1,2ないし7,8の③ないし⑤,9の①,15,18,20,乙B3,7,8,10,14,24ないし26,29,32,鑑定,証人E,証人D,証人C,原告B)並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(1)  Aの本件病院への入院経過ないし4月8日までの状況は以下のとおりである。

ア Aは,Q病院の主治医であった医師らの紹介により4月8日,本件手術(左胸腔)受診目的で本件病院小児心臓血管外科に入院するようになったが,同月4日付けの紹介状(乙A1の6頁)には以下のような記載がある。

(ア) 診断 急性リンパ性白血病,末梢血幹細胞移植後,慢性GVHD,慢性心膜炎

(イ) 4歳の男児で,急性リンパ性白血病,末梢血幹細胞移植後の症例です。・・・内科的治療は展望が見えないのが現状です。・・・心嚢液貯留を繰り返し・・・最近特に浮腫が出現しやすくなってきた印象です。MRIでは心膜の肥厚は認めていません。また,GVHDに関しては,皮膚や肝臓,消化器にも持続しており,また軽度の胸水,腹水も出現,消退を繰り返します。

現在,心不全治療としては利尿剤のみ投与しています。ステロイド,免疫抑制剤に関しては白内障,骨粗鬆症,成長障害などが徐々に顕在化しており,内科的治療にも苦慮しております。非常に複雑な因子の絡んだ症例です。

イ 本件病院での4月8日,9日のAに対する診察状況は以下のとおりである。

(ア) 4月8日  小児内科の医師は,小児心臓血管外科のL医師の依頼に応じてAを診察し,心機能,心嚢液貯留の程度を診断するためAに対して心エコー検査をしたところ,同検査によれば,心嚢液が全周性に貯留し,右より左の方に多く認められた(乙A2,4)。

麻酔科のO医師は,小児心臓血管外科の医師からAに対する本件手術の際の麻酔について相談を受けたため,C医師立会の下,Aを診察したが,その結果,小顎,開口困難による挿管困難については可能性が低いと判断し,その旨同医師に伝えている(乙A5の6頁,33頁)。

E医師は,4月10日予定のAに対する同手術の際の麻酔を担当することになったため,Aの病室に赴いてAの診察をし,「開口 OK」,「頸部の動き 頸部伸展ややしにくいが,前屈は可能」,「下顎→小顎なし」と診断した(乙A1の14頁)。同診察の際,Aの家族に問診をして,同人の日常生活の様子や体の動きなどを聞くことはなかった。

(イ) 4月9日  皮膚科の医師は,小児心臓血管外科の医師の依頼に応じてAの皮膚症状を診察したところ,全身に紅斑,鱗屑,色素沈着,多形皮膚萎縮症が認められた(乙A3)。

小児心臓血管外科の依頼により放射線科でAに対して胸部CT検査(乙A8の③ないし⑤)がなされた。同検査結果を踏まえて放射線科の医師は,①著明な心嚢液の貯留が認められる,②胸膜の肥厚は明らかでなかった,③両肺にはGVHDによって生じた閉塞性細気管支炎によく見られる断片的な不均一性を伴う空気貯留(排出不良)が存在する,④閉塞性の肺障害の有無をチェックする必要がある旨判断している(乙A5の29頁)。

(ウ) ところで,E医師は,4月8日,9日,GVHDと麻酔のリスクとの関連を調べるため麻酔科の教科書の他,Pub Medというインターネットのサイトにアクセスして文献の検索をしたが,教科書にはそれに関したものは見つからなかったが,GVHD病による重症拘束性肺機能障害の子供に対する麻酔法と題する論文(甲B11の①②)(以下「甲B11論文」という。)を見つけた。また,同月9日,Q病院から取り寄せられた同病院での麻酔状況が記載された全身麻酔に係る麻酔チャート(平成13年12月の手術の際のもの〔乙A5の18頁,19頁〕)を確認している。

同論文は重症拘束性肺機能障害を合併した全身性GVHDに罹患している14歳の少女に対して全身麻酔下に内視鏡的食道拡張術を行った症例についての報告であるが,麻酔導入方法としては座位にて,調節弁を利用して呼気終末圧を5~10cmH2Oにコントロールしながら,自発呼吸を維持し,セボフルレンなどの全身麻酔薬による意識消失後,患者をゆっくりと仰臥位にし,筋弛緩薬を使用することなく気管挿管したとされている。また,自発呼吸を残した吸入麻酔を選択した理由として①吸入気が依存的な肺に好ましい形で行き渡るためには,横隔膜の収縮が重要だからである。横隔膜の動きを(筋弛緩薬等で)止めてしまったり人工呼吸を行ったりするとこのパターンが破綻し,換気血流のミスマッチが起こり,無気肺や低酸素症をもたらす危険がある,②最近は疑問視されるようになってきたが,従来から重篤な呼吸障害のある患者に対して,換気量を大きくしたり高い陽圧をかけて換気したりすると,バロトラウマ(高い陽圧をかけることにより起こる肺や気道の損傷)を引き起こす懸念がある。強皮症や胸壁のやけどにより胸郭が硬い患者では硬い胸郭を広げるのに高い気道内圧のピーク圧(最大60cmH2O)を必要とし,それが原因で低酸素血症や低血圧症が起こることがあるなどとしている。

なお,E医師は,上記検索の際,同論文のうち題名,著者,出典と短文の抄録(重症拘束性肺機能障害を合併した全身性GVHDに罹患している症例)を見たに過ぎない。

(エ) 本件手術にあたってのAの術前の全身状態は,その評価基準の一つであるASAの分類によればクラス3(生活制限を要する程度の重度の全身疾患を持っている患者)からクラス4(死亡の危険性を伴う重度の全身疾患を持っている患者)で,挿管操作は通常よりも短い時間しか許されない状況(予備力がない状況)であった(甲B13,乙A18,乙B7,8,証人D)。

なお,ASAの分類は麻酔の危険度を示す尺度ではない(乙B7)。

(オ) 本件病院の麻酔科医らは,Aについて挿管困難症例ではないと判断し,同人に対する麻酔は本件手術の内容から全身麻酔を,また,全身麻酔のうち,Aの上記症状及び心臓にたまった心嚢液を肺へのがすという本件手術の内容,呼吸状態の一持的な悪化も予測されたため,気道確保が確実でより高濃度の酸素投与が可能な気管挿管全身麻酔を選択した(乙A18)。

なお,小児の場合,解剖学的に気道閉塞をきたしやすいため,気管挿管を行って気道を確実に保持した方が呼吸管理がより完全にできて有利である(甲B7の②)。

(2)ア  Aに対する本件手術が予定されていた4月10日の経過は以下のとおりである。

7時00分ころから

E医師は,手術室に入り,酵素,麻酔ガスの配管,麻酔・※の正常可動のチェックなどをしたほか,ラリンゲルマスク,輪状甲状間膜・※刺針などの準備をした。なお,気管支ファイバーの準備はしていなかった。

9時00分ころ

Aは,手術室に赴くため病室を出る(乙A5の80頁)。

15分  E医師のAに対する100%酸素(流量6リットル/分)投与の開始によって本件麻酔が始まった。

20分  スーパーバイザーとして本件麻酔を担当したD医師が副交感神経遮断薬(硫酸アストロピン0.1mg),鎮静薬(ミダゾラム2mg),鎮痛薬(フェンタニル10µg),吸入麻酔薬(セボフルレン1%)のマスク投与を開始し,E医師がAの自発呼吸にあわせてマスクによる補助呼吸を開始した。補助呼吸時の気道内圧は正常範囲の15ないし20cmH2Oであった。

24分  D医師がAの意識消失を待って喉頭展開を行った。その際,喉頭蓋は直視でき,披裂軟骨部,声門部の下3分の1が直視下に確認できた。同確認された内容はCormack/Lahaneの分類でグレード2である。

25分  Aに筋弛緩薬(ベクロニウム2mg)(甲B6)投与した。

筋弛緩効果出現に伴い徐々に自発呼吸が低下し,消失したため,それに応じてE医師がマスク換気による陽圧呼吸(自発呼吸の時点では陰圧呼吸)を行ったが,換気が次第に困難になり,高い気道内圧(60cmH2O以上)でようやく換気ができるという状況であった。

なお,その時点におけるAのSpO2は100%であった。

30分  Aのマスクによる換気が上記のような状況で,マスク換気で気道確保をすることが危険と判断されたため,E医師とD医師はAに対して気管挿管をすることとし,E医師がD医師の補助の下,いずれも直視できた披裂軟骨部を目安にチューブの太さなどを変えながら2回気管挿管を試みたが気管入口部から先に進まず挿管できなかった(ただし,いずれの時点でも声門部は直視できなかった。)。

なお,この時点におけるAのSpO2は100%であった。

31分  D医師がE医師から交代してAへのマスク換気を行うこととなったが,Aに対する同換気は高い気道内圧(60cmH2O以上)の下でようやく換気ができるという状況で困難であった。D医師がC医師の補助の下,E医師と同様直視できた披裂軟骨部を目安にチューブの太さなどを変えながら2回気管挿管を試みたが気管入口部から先に進まず挿管できなかった。

なお,この時点におけるAのSpO2は100%であった。

33分  C医師がAに気管挿管を試みたが気管入口部から先に進まず挿管できなかった。

Aの換気をマスク換気に戻すとともにC医師は,その場にいたP医師に気管支ファイバーをセットするよう指示をした。

C医師とD医師がAへの気管切開を決断し,耳鼻科のH教授と麻酔科のI教授に応援を依頼し,他の手術室にいた心臓外科のJ医師に緊急気管切開手術を依頼した。

この時点におけるAのSpO2は100%であった。

35分  J医師は,Aに対して緊急気管切開手術を施行した。この際も上記高い気道内圧の下,マスク換気を継続していたが,AのSpO2が同手術直前に40%台まで低下し,心電図上も除脈が認められた。そこで,直ちに閉胸式心マッサージが行なわれた。

37分  麻酔科学教室のI教授とK助教授がほぼ同時に到着し,Aの状況を確認した。I教授がAに対してマスクによる換気を行ったが,換気することができなかった。これ以上,同人に対する気管挿管操作は喉頭部の浮腫を助長する危険性があり無謀と判断され,緊急気管切開手術が優先されることになった。

45分  J医師がAの上記気管切開口部から3.5mmのチューブを挿入し,それを通じた換気を開始したが,高い気道内圧でかろうじて換気ができるような状況であった。

気道が確保できたことで心電図上Aの自己心拍が回復したが,瞳孔散大,対光反射消失になった。

48分  同チューブより赤い血性分泌物の逆流が多量に認められ,E医師が3回,気管内吸引をしたが軽減することなく,Aは,バギング(用手換気)によりかろうじて換気ができる状態から換気不良となり低酸素血症となった。

その後,Aは,再び,心電図上除脈が認められ,心停止となったため心マッサージが再開されたり,強心薬が投与されたりしたが,換気の改善は認められず,再び瞳孔散大,対光反射消失になった。

11時48分  Aは,心マッサージや人工呼吸を受けたが,同時刻に換気不能のための低酸素血症から死亡した(乙A1の11頁,19)。

16時00分  Aに対する病理解剖が本件病院で行われた(乙A6の1頁,9の①)。

イ  Aの心拍数(1分間)はモニター上,以下のとおりであった(乙A5の26頁-1ないし3)。

9時15分   16025分   15230分   15435分   14640分    7845分    6550分   10655分   13510時00分    4805分     010分    60

その後,10時30分のみ154でそれ以降10時55分,11時00分に確認されたがそれ以外は0

(3)  本件病院の麻酔科医ないし本件手術担当の小児心臓血管外科の各医師は,Aの死亡前後に同人の家族に気管挿管困難,換気困難となった原因について挿管操作によって引き起こされた浮腫の可能性が高いと判断し,その旨の説明を行っている(乙A5の10頁,12頁)。

(4)  Aの病理解剖所見は以下のとおりである(甲A13,乙A6,15)。

Aの両肺には水と血液がたまっており,特に左の肺は全体がどす黒く,右の肺も下の方を中心に同様の色調であった。気管には周囲に血液を含む粘液がたまっていた。また,気道であるが,喉頭部の声門下浮腫なく,狭窄なく,気管も浮腫がなかった。後部声門開大不良,硬化あり?。ひれつ部は開きにくい。舌~喉頭蓋直上は色調は白く,固い。

解剖を担当した病理学教室の医師は解剖所見を踏まえて,解剖時のAについて,GVHDに合併した慢性の閉塞性細気管支炎が認められ,また,喉頭について,顕微鏡上,組織に軽度の浮腫や繊維化が認められたと診断している(乙A7)。

(5)ア  気管挿管をするにあたっては事前に以下のことに注意すべきことが要請されている(乙B10,14)。

(ア) 側頭下顎骨関節機能

(イ) 舌の大きさと可動性

(ウ) 下顎の形成不全の有無

(エ) 首の太さ,長さ,頸椎の可動性と屈曲,伸展の障害の有無

(オ) 心肺機能(呼吸器系,心循環系)

(カ) 挿管困難を伴う症候群や疾患の有無

イ  ところで,一般に顎が小さい人,口が小さい人,太っている人,首が太く短い人,歯がでている人,下顎や口腔の手術歴のある人,リュウマチを有する人は術前から喉頭展開によって声門が直視できないこともあって気管挿管が困難であることが予想される(甲B4の①,5)

ウ  麻酔のための術前評価など

麻酔にあってはその術前評価としては呼吸器系及び循環器系に重点を置いて行う必要がある(乙B29,鑑定)。

ところで,SpO2の検査(パルスオキシメータによる酸素飽和度検査)は非侵襲的検査で酸素化の状態評価はある程度可能であるが,動脈血中の二酸化炭素分圧(PaCO2)の評価ができない。さらに正確に患者の呼吸・循環の状態(酸素化能の予備力など)を正確に把握するための方法としては動脈血液ガス分析(動脈血中の二酸化炭素分圧〔PaCO2〕や酸塩基平衡の状態などが判明)がある(鑑定)。

気管挿管をするか否かは動脈血ガス値で決める旨記載した文献(乙B10の81頁)もある。

なお,酸素化能の予備力が低い患者の全身麻酔管理においては,術後の呼吸管理計画を立てて手術に臨まなければならない(甲B13)。

エ  本件以後の症例であるが,既往歴として気管支喘息のある慢性GVHD合併児(5歳の男子)に対する全身麻酔下で胃内視鏡検査を行うにあたってセボフルランによる緩徐導入により麻酔を導入し,ベクロニウムにより筋弛緩を得た後に気管挿管をして安全に麻酔管理をした例がある(乙B27・平成16年9月の小児麻酔学会での報告例)。その他,本件以後の症例で慢性GVHDに罹患している患者に対して筋弛緩薬を使用した症例報告がある(甲B9,乙B24ないし26)。

(6)  麻酔導入時のマスク換気困難の多くは,上気道の狭窄・閉塞がその原因で,①麻酔が深くなるにつれて強くなるタイプと,②麻酔が深くなるにつれて軽快するタイプがある。①のタイプは麻酔が深くなるにつれ咽頭,喉頭筋,舌などの緊張が低下し,咽喉頭腔の狭窄・閉塞を起こすためと考えられ,②のタイプは上気道の反射や筋緊張が亢進し,喉頭痙攣や咽・喉頭筋の収縮などにより気道狭窄・閉塞が起こるためと考えられる。(甲B4の②)。

(7)  麻酔導入後,まれに筋弛緩薬投与後に換気が困難となりさらに気管挿管ができない場合があるが,このような場合,最も確実な方法は直接気管へ到達し換気する方法であり,気管切開,輪状甲状膜より気管内チューブを挿入する方法があり,また,ラリンジアルマスクの使用も有効かもしれない(甲B4の②)。

ところで,気管支ファイバーは熟練を要する操作が必要で,準備も含めて時間,手間がかかる(甲B4の①)。熟練者でさえ気管支ファイバー挿管を成功させるためには通常数分間かかる(乙B32)。

(8)ア  慢性GVHDの予後であるが,その因子として以下のことが想定されている(乙A20)。

(ア) 全身50%以上の皮膚病変を伴う例

(イ) 血小板数が10万/µl未満の例

(ウ) 急性GVHD症状が治まらず慢性GVHDに移行した例

イ  上記のうち(ア)(ウ)を備えている者の3年生存率は,ジョンホプキンス大学では9%,ネブラスカ大学では14%,IBMTR(国際骨髄移植登録)では49%,フリッドハッチンソン癌研究センターでは62%,ミネソタ大学では41%と報告されている(乙A20)。

ウ  慢性GVHDを発症した患者のうち20-40%は治療が十分行われても同疾病が関連した合併症で死亡するという報告もある(乙B3)。

(9)  本件麻酔当時,慢性GVHD本態の病理研究,その発生抑制と治療の研究まではなされていたものの慢性GVHDに対する緊急的手術の際の麻酔や呼吸管理の安全のための医学的知見は本件甲B11論文など少数の症例報告があるだけで同疾患による麻酔のリスクも含めて手探り状態で,いまだ確たる指針や方法が本件病院のような最高水準の医療を提供することが予定されているところでも一定の知見が確定していなかった。

2  争点1及び3について検討する。

(1)  原告は,Gカルテの信用性が高く,その記載内容に従った事実が認められるべきである旨主張する。確かに,本件麻酔時に手術室にいたG医師が記載したGカルテには上記の第2の3(1)の原告らの主張に沿う記載があるところ,証拠(乙A5,16,証人G)によれば,G医師は,本件麻酔当時研修医であったが,本件手術の見学のため同手術が施行される手術室にいたこと,その際の9時45分ころ,指導医のL医師からAに対するカルテを記載するよう指示されてその記載をしたこと(乙A5の7頁,8頁)が認められる。

(2)  ところで,G医師は,Gカルテ記載にあたって同記載の指示を受ける前はカルテ記載の意図はなく単に見学をしていたものに過ぎないうえ,同指示を受ける以前の部分はその場での記憶を基にまとめて記載している。特に,本件麻酔時,Aへの気管挿管困難な事態が生じ,その指示を受けた当時,気管切開が終了したころで,そのような緊急事態時であった。以上の事実を踏まえると,G医師が分刻みの時間を正確に記憶できたとは考えがたい。また,同カルテによれば,9時30分より前にAに除脈が認められた,また,ECG波形検出せずということになっているが,同各記載は上記1(2)イで認定した事実,すなわちAには9時30分以降も心拍が認められ,特に,同分に1分間で154回の,また,同時35分に1分間で146回の心拍数が認められたことと矛盾する内容となっている。以上の事実を踏まえるとGカルテの9時45分以前の記載,特に,時間の記載は直ちには採用し難い。

(3)  証拠(乙A1,17,証人E,証人D)及び弁論の全趣旨によれば,本件麻酔を担当していたE医師は,その当初から担当医として麻酔チャートを書くことが予定されていたところ,同予定に従って本件麻酔チャート(乙A1の13頁,14頁)の大半の記載をしていること(一部D医師の記載がある。),麻酔チャートは基本的にはその時々の処置や対応がなされた場合にはその際に記載することが要請されていること,本件麻酔チャートも本件麻酔時に記載されたことが認められるところ,以上の事実に同記載内容が上記心拍数などのモニターの数値と矛盾することがないことを総合すると,時間の記載を含めて同記載内容は基本的には採用することができる。

本件麻酔チャート及び上記1で掲げた証拠(乙A5〔ただし,Gカルテ部分は除く。〕,17ないし19,証人E,証人D,証人C)を踏まえると,上記1(2)アのとおりの事実が認定でき,それを覆すに足りる証拠はない。

(4)  そうすると,争点1,3に係る原告らの主張は理由がない。

3  争点2,5について

(1)ア  原告は,E医師の1回目の気管挿管によりAの喉頭(声門部)に浮腫を生じさせ,その結果,声門部の閉塞を生じさせた旨主張する。確かに,E医師は,2回気管挿管を試みたが,いずれも挿管不能に終わっているうえ,Gカルテには10時10分の欄に「喉頭浮腫著明」との記載があり,また,看護師の手術指示と連絡票と題する書面にも一旦「edemaみられ」と記載されている(乙A5の53頁)し(ただし,後にその記載の上に線を引いて抹消している。),本件病院の麻酔科医らも本件麻酔の際やその後,家族らに換気困難の原因について浮腫の可能性を説明している。

イ  しかし,本件で行われたAに対する病理解剖の結果,上記1(4)で認定したとおり喉頭部の声門下には浮腫がなく,狭窄がなく,気管にも浮腫が認められなかった。なお,乙A第14号証の①②の写真はその保存経過に疑義があるものの,証拠(乙A21,証人C)によってAに対する病理解剖の際,同人の喉頭部分などを撮影したビデオの一部(写真)であることが認められるところ,同写真の内容も喉頭(声門部)に浮腫がなかったことを窺わせるし,また,Aに対する病理解剖が終わった直後の午後8時ころ,病理のI医師から解剖の結果についてAの両親に「のどのあたりは大変きれいでした,・・・チューブが通らないようなのどではなかった。」旨説明されている(原告B12頁)が,その内容も浮腫がなかったことを窺わせる。

ウ  そうすると,原告らの同主張は理由がない。

(2)  原告らは,E医師の気管挿管によりAの声門部に浮腫が生じたことを前提として同浮腫が医師の同挿管の際の手技ミスによって生じた旨主張するところ,その前提事実が認められないことは上記(1)イで認定したとおりである。

そうすると,原告らの同主張は理由がない。

4  争点4について

(1)  原告らは,Aの呼吸・循環機能が非常に悪く,不安定で,GVHDによる慢性の閉塞性細気管支炎による重症の閉塞性肺機能障害に罹患していたのに本件病院の麻酔科医らは,Aに対する本件手術前の麻酔(方法,内容を含めて)が適切になされるよう術前に当然なすべきこと,具体的には,動脈血ガス分析,Aの両親からAの現病歴などの問診,肺炎の有無や気管狭窄の程度などを確認するため,Aに対する聴診,同人の皮膚障害などに対する評価をしていないなどAに対する術前評価義務を怠った旨主張する。

(2)  麻酔科医は,上記1(5)ウで認定したとおり当該患者に対する手術が適切に遂行されるようにするため手術前に麻酔(方法,内容を含めて)が適切になされるよう,呼吸器系及び循環器系に重点を置いて診療を行うことが求められるところ,具体的には本件麻酔のように気管挿管が予定される場合には挿管困難性がないか,また,換気困難性がないかなど患者に対する適切な術前評価をなすべきことはいうまでもない。特に,小児の場合,成人と違い無呼吸に対する許容時間が少なく,麻酔投与後,気道確保までに時間がかかると致死的な状態になりうるため,きっちりした術前評価が必要である(乙B13)。

(3)  Aが本件病院に入院した4月8日,小児科のカルテにも,また,小児心臓血管外科のカルテにも肺疾患に関する記載はなく,かえって,「呼吸清明 ラ音なし」「肺音清明」との記載がある。また,本件手術にあたってAの母親である原告B作成に係る問診票(乙A5の55頁ないし58頁)が作成されていること,本件病院の麻酔科医は,本件手術にあたって上記1(1)イ(ア),(ウ)で認定したとおり術前にO医師,C医師のほか本件麻酔を担当したE医師もAを直接診察して同人の下顎の状況,舌の大きさや動き,首の太さ,頸椎の可動性と屈曲,伸展の状況などを確認し,また,E医師は,Aの1年あまり前のQ病院での全身麻酔を受けた際の麻酔チャート(Aに肺機能障害があることの情報は記載されていない。)も確認しているうえ,同人が罹患していたGVHDと麻酔のリスクを確認するため教科書やインターネットでの文献検索もして術前評価をしている。以上のE医師を含む本件病院の麻酔科医らの行為は挿管困難性などに着目した術前評価として相当な行為である。しかし,同問診票は本件麻酔に着目して作成されたものではなく,本件病院の麻酔科医らは,本件手術にあたってAの両親からAの日常生活などの状況も含めて麻酔科の立場から問診をしていないこと,また,患者の酸素化能の予備力評価の有効な手段である動脈血液ガス分析をAに対して施行していないことが術前評価の前提行為として相当であったか問題の残るところである。

(4)ア  ところで,術前評価の前提としての問診であるが,意図された手術を施行する医師と同手術の麻酔を担当する麻酔科医との間で問診の対象として患者ないしその家族らから聴取する部分には共通するものもあるが,それぞれの立場から注意すべき部分,着目すべき部分もあることからすると麻酔科医としての立場からその方法は書面,口頭など必ずしも問わないが問診も尽くすべきことが要請されているというべきである。特に,Aが罹患していた慢性GVHDと麻酔のリスクについては本件麻酔当時,慢性GVHD本態の病理研究,その発生抑制と治療の研究まではなされていたものの慢性GVHDに対する緊急的手術の際の麻酔や呼吸管理の安全のための医学的知見は手探り状態で,いまだ確たる指針や方法が本件病院のような最高水準の医療を提供することが予定されているところでも一定の知見として確定していなかった状況で,そのような状況下においては問診による情報収集も必要であったといわなければならない。しかし,本件病院の麻酔科医らは,それをしなかった不完全履行ないし過失があるというべきである。

イ  Aは,病理解剖の結果,上記1(4)で認定したとおりGVHDに合併した慢性の閉塞性細気管支炎が認められたうえ,本件麻酔前のCT検査の結果でも両肺にはGVHDによって生じた閉塞性細気管支炎によく見られる断片的な不均一性を伴う空気貯留(排出不良)が存在したこと,そのことから放射線科医が閉塞性の肺障害の有無をチェックする必要がある旨判断していることがある。以上の事実を踏まえると,Aに対しては呼吸・循環の状態(酸素化能の予備力など)評価に有効な手段とされる動脈血液ガス分析を可能な限り施行することが求められていた(乙B29〔以下「乙B29意見書」ということがある。〕,鑑定)。ところで,同施行にあたっては呼吸機能検査(ただし,Aにそれを施行することは難しい。)ほどの協力を患者に必要とせず,Aを押さえつけて大腿動脈から採血をすればその目的を達することができる(甲B16〔以下「甲B16意見書」ということがある。〕)。仮にAに対してそのような態様をとった場合,同人が泣き叫び,暴れ,ただでさえ悪い呼吸循環の状態がより悪くなり,採血ができない場合には同ガス分析を行うことはできないが,同動脈血の採取方法,Aがこれまでの病歴から注射や点滴などを何度も経験してきていることを踏まえると,Aに対して同ガス分析は施行すべきであった。しかし,本件病院の麻酔科医は,それをしなかった不完全履行ないし過失があるというべきである。

なお,同ガス分析を施行するとGVHDによって生じたAの皮膚に侵襲をもたらすことになるが,同検査によって得られる内容と比較すると,同皮膚への侵襲は上記結論を左右することにはならない。

ところで,Aに対して同ガス分析を施行された場合,その結果であるが,同検査によって判明する二酸化炭素分圧(PaCO2)は,それと相関関係が認められる呼気終末二酸化炭素分圧(ETCO2)がAに対して麻酔を導入した時点でけっして高値でなかったこと(乙A5の26頁-2),4月8日の血清CL(塩素イオン)の数値(102と正常)(乙A5の41頁)から,正常範囲から上昇していなかったことが推測される(乙B29)。

5  争点6について

(1)ア  原告らは,本件病院の麻酔科医らがAの本件麻酔当時の症状からして同人への筋弛緩薬投与後,挿管困難の原因が何であれ,少なくとも挿管困難が生じることが予見することができたにもかかわらずその予見をしなかった旨主張するところ,甲B16意見書は挿管困難が10%程度予想される旨述べる。ところで,原告らの同主張は当該症例で挿管困難が具体的に予見できない場合でも原因不明などでも挿管困難が発生する危険性があるため,それを踏まえてその困難性を予見すべきであると主張するものであるが,民事上の不完全履行ないし過失は具体的な予見可能性を前提として予見義務に違反する行為をいうものであって,仮に原告らの主張を認めるとすると抽象的な可能性を前提として予見義務を認めるという無過失責任を認めることになり,また,常に挿管困難を予見して十分な体制をとることを医療側に強いるものであって,法的な観点からの予見義務としては採用しがたい。

なお,甲B16意見書の10%という数値は本件全証拠によるも必ずしもその根拠が明確でない。

イ  ところで,Aに対する気管挿管は不成功に終わっているうえ,Aは,筋弛緩薬投与前,GVHDに罹患し,その症状として慢性心膜炎を発症し,心嚢液が貯留し,心タンポナーゼによる循環不全,呼吸不全があり,慢性GVHDによる皮膚の硬化や関節拘縮,脊椎側弯があり,頸部に可動域制限があり,成長不良であった。

ウ  しかし,Aは,筋弛緩薬を投与した後気管挿管をする前に換気困難が生じたこと,E医師を初め5回,気管挿管を試みたが,いずれも気管入口部から先に進まず挿管できなかったこと,Aの気管部分には気管挿管を困難とするような浮腫が認められなかったこと,気管切開後も換気困難が生じたこと,病理解剖記録には「後部声門開大不良」との記載があるところ,以上の事実に証拠(乙A14の①②)を総合すると,声門は,通常であれば筋弛緩薬投与によって開くのに,本件においては,必ずしも原因は明らかでないが,少しの空間を空けてほぼ正中位にとどまり,それによって気管挿管の困難が生じたことが窺われる。以上の事情に本件麻酔以後も慢性GVHDに罹患している患者に対して筋弛緩薬を使用した症例報告があることを踏まえると本件麻酔時に筋弛緩薬の投与によりAの声門がそのような状況になることを予見することは困難である。

また,上記1(5)イで認定したとおり一般に顎が小さい人,口が小さい人,太っている人,首が太く短い人,歯がでている人,下顎や口腔の手術歴がある人,リュウマチを有する人の場合はいずれも気管挿管が困難であることが予想され,また,グレード3の者は気管挿管が困難であることが予想される。しかし,Aは,本件手術前の診察によっても「開口 OK」,「頸部の動き 頸部伸展ややしにくいが,前屈は可能」,「下顎→小顎なし」と診断されているうえ,D医師が最初に行った喉頭展開でもグレード3ではなく声門下3分の1が直視できるというグレード2,低く見ても2ないし3の程度であった。

以上の事実からすると,Aについて,本件麻酔時の症状からしても気管挿管が困難であると具体的に予見することは難しく,その他,同困難性を具体的に予見できたと認めるに足りる証拠はない。

(2)ア  原告らは,AがGVHDに罹患し,術前のCT検査の結果からも閉塞性細気管支炎の精査が申し送られるなど呼吸状態はかなり悪化していたところ,Aの同症状からすれば,本件病院の麻酔科医,少なくともD医師は,本件の筋弛緩薬投与前,その原因を閉塞性肺障害に特定するかどうかはともかくとしても換気困難の可能性を予見できたというべきである旨主張する。

イ  確かに,筋弛緩薬投与後,気管挿管を試みる前にAについて換気困難な状況が発生したこと,Aは,慢性GVHDにより術前のCT検査の結果からも閉塞性細気管支炎の精査が申し送られるなど呼吸状態はかなり悪化していた。また,甲B16意見書はAについてその臨床症状から換気困難についてある程度予測できた旨記載している。しかし,上記1(9)で認定したとおり,Aが罹患していた慢性GVHDと麻酔のリスクについては本件麻酔当時,慢性GVHD本態の病理研究,その発生抑制と治療の研究まではなされていたものの慢性GVHDに対する緊急的手術の際の麻酔や呼吸管理の安全のための医学的知見は手探り状態で,いまだ確たる指針や方法が本件病院のような最高水準の医療を提供することが予定されているところでも一定の知見として確定していなかった状況下であった。また,甲B16意見書は,同記載の後,筋弛緩したときに換気ができなくなることは本件甲B11論文に行き当たらなければ難しい旨記載しているところ,E医師が本件麻酔以前にPub Medを検索して本件甲B11論文のうち見た部分,すなわち,症例報告で,A(本件麻酔時,閉塞性細気管支炎が疑われた)とは相違するGVHDに重症拘束性換気障害を合併した患者に対するものであったことからすると,さらに進んで同論文全体を検索しなければならなかったとまでいえるか疑問が残るところである。そして,同論文で取り上げられた患者はAとは相違する重症拘束性換気障害を合併した患者で,Aの肺症状と比較すると過去3年間に何度も肺合併症のため入院治療を受け,日常でも夜間は人工呼吸器での補助呼吸を継続しているより重症度の高い患者である(甲B11)。以上のようなことからすると,同文献の内容をもってしても,本件病院の麻酔科医らがAについて換気困難を具体的に予見できたとは認めがたく,かえって,具体的に予見できなかったことが窺われる(乙B29,鑑定)。

ウ  Aについて,筋弛緩薬投与後,マスク換気困難が生じているが,上記イで認定説示したことを踏まえると,本件麻酔時の症状からしても筋弛緩薬を投与した場合,マスク換気が困難になることを具体的に予見することは難しく,その他,同困難性を具体的に予見できたと認めるに足りる証拠はない。

(3)  そうすると,原告らの,上記挿管困難,換気困難の予見可能性の主張は理由がなく,また,同各困難を基礎とする死亡という結果回避義務違反の主張も理由がない。

6  争点7について

(1)  原告らは,換気困難に陥った場合,その段階でASAのアルゴリズムにしたがった処置を行うべきところ,Aの自発呼吸は筋弛緩薬によって消失し,それに伴って換気困難になると低酸素症に陥る危険性があったとして,事前に気管支ファイバーを準備し,同人に対するこれ以上のマスク換気での気道確保が危険と判断した時点,遅くともE医師の2回にわたる挿管ができなかった時点で挿管困難と判断し,直ちにファイバースコープを実施すべきであったのに,同医師らは,ファイバースコープを準備することもなく,そのような処置もとらず,更に気管挿管を繰り返した旨主張するところ,甲B16意見書もASAのアルゴリズムによれば,換気困難時には気管支ファイバーとラリンゲルマスクを使用することがいわれており,本件においても気管切開は最後の手段で,E医師が2回経口挿管に失敗した時点,あるいは遅くともD医師が2回失敗した時点で換気困難となった直後にラリンゲルマスクあるいは気管支ファイバーを使用(同スコープでのぞき,ラリンゲルマスクを使用して換気を行う場合も含む。)して換気を試みておけばと思う旨記載している。確かに,本件病院の麻酔科医らは,本件麻酔に当たって気管支ファイバーを準備していなかったし,また,Aに対して気管支ファイバーを使用していない。

(2)  しかし,気管支ファイバーは熟練者でさえその挿管を成功させるには通常数分かかるため,重篤な低酸素血症に対して緊急の気道確保を要するときは他の方法によるべきであり(乙B32),気管支ファイバーを用いた挿管は全身麻酔下では意識下に比較してやや難しく,「まず吸入麻酔薬による緩徐導入(筋弛緩薬なし)か,意識下において正しい咽頭展開を試みる」としている文献もあるほか(甲B4の①),小児の気道管理については,喉頭蓋が成人よりも長くて硬く,より水平に近い形で横たわり,およそ8歳未満では,輪状軟骨が気道の最も狭い部分であり,気管チューブ挿入の安全域は狭くなるとされている(乙B32)うえ,基本的にはそれを受ける患者の自発呼吸が可能な状況にあることが前提である(証人E,証人D)。Aは,同換気困難時,筋弛緩薬投与後で自発呼吸が認められない状況で,4歳2か月であったが,身長及び体重は1歳半から2歳児と同程度であって口腔内スペースが狭く,気管支ファイバーの視野が妨げられる危険性があったこと,当時の同人の酸素予備能,また,本件病院の麻酔科医らがその当時,気管挿管のためのチューブが通らない原因がAの声門部にあると考えたことからすると,本件病院の麻酔科医らがその時点で気管支ファイバーを使用せず,気管切開の判断をしたことについて,直ちに不完全履行ないし過失があるとまでいうことはできず,その他,そのことについて不完全履行ないし過失を認めるに足りる証拠はない。

(3)  そうすると,原告らの同主張は理由がない。

7  争点8について

(1)  原告らは,被告の麻酔医らがAに対するこれ以上のマスク換気での気道確保が危険と判断した時点,遅くともE医師の2回にわたる気管挿管ができなかった時点で挿管困難と判断し,直ちにラリンゲルマスク及び輪状甲状間膜穿刺を実施して気道を確保すべきであったのにそれを怠った旨主張するところ,甲B16意見書は上記6(1)で記載したとおりの記載をしている。確かに,乙B29意見書もASAのアルゴリズムによれば,換気困難時,気管挿管を3,4回試行して不成功に終わったときラリンゲルマスク挿入による気道確保を試みることが同アルゴリズムにもっともよく沿った対応と考えられる旨記載している(乙B29)。しかし,本件病院の麻酔科医らは,本件麻酔時,手術室にラリンゲルマスクを準備していたが,Aに対する気管切開不成功の後,ラリンゲルマスクを使用していない。

(2)  ところで,本件病院の麻酔科医らは,気管挿管不成功後,直ちに気管切開の施行を決め,実際にもそれを施行しているところ,マスク換気不能時などの緊急の気道確保を要するときは最後の手段としてではなく直ちに外科的気道確保の方法としての気管切開を施行することも選択肢として認められている(乙B29,32)うえ,Aは,酸素化の予備能が低く速やかに気道確保をしなければならなかったこと,E医師の気管挿管不成功によりAの気管や声門部での浮腫が想定されたことからすると,ラリンゲルマスクを使用しなかったことについて直ちに不完全履行ないし過失があるとまでいえず,その他,それを認めるに足りる証拠はない。

輪状甲状間膜穿刺であるが,Aのような小児の場合,成人に比すると輪状甲状靱帯に確実に・※刺することは手技的に難しいうえ,乙B29意見書も鑑定結果も,輪状甲状間膜穿刺も選択肢の一つとして考慮することを指摘しているにすぎず,まずそれによらなければならないということを指摘しているわけではないこと,上記ラリンゲルマスクの不使用について説示した事情を踏まえると,輪状甲状間膜穿刺をしなかったことについて直ちに不完全履行ないし過失があるとまでいえず,その他,それを認めるに足りる証拠はない。

(3)  そうすると,原告らの同主張は理由がない。

なお,仮にラリンゲルマスクや輪状甲状間膜穿刺が施行されたとしても,本件においては上記1(2)アで認定したとおり気管切開後,気管切開口部から3.5mmのチューブが挿入され,それを通じた換気が開始されたが,高い気道内圧でかろうじて換気ができるような状況であったことを踏まえると,ラリンゲルマスクなどの施行によってもAの換気困難が解消されたか本件全証拠によるも明らかでない。

8  争点9について

(1)  原告らは,筋弛緩薬の薬効によりAの自発呼吸が消失し,遅くとも9時28分には換気が困難となり,9時30分の時点でSpO2が45%になっていたとして,同人に対する気管切開はE医師による挿管ができない,挿管困難が明らかとなった時点で開始すべきであったにもかかわらず,その後も気管挿管にこだわり,9時35分までいたずらに時間を費やした旨主張する。

(2)  しかし,Aの自発呼吸が消失し,SpO2が40%台になったのは上記1(2)アで認定したとおりAに対して9時35分に施行された気管切開の直前であった。

ところで,本件病院の麻酔科医らのAに対する気管切開への判断は未だ同人のSpO2が100%を示していたときに判断されたものであったところ,以上の事実に上記7(2)で説示したことを踏まえると,本件病院の麻酔科医らの気管切開の判断に遅延があったとは認められず,その他,それを認めるに足りる証拠はない。

(3)  そうすると,原告らの同主張は理由がない。

ところで,Aは,筋弛緩薬投与後に換気困難となったところ,その後,気管切開開始までに5回も気管挿管が繰り返されているが,同換気困難の状態となったことに上記1(1)イ(エ)で認定したとおりのAの術前の全身状態の状況(ASAの分類でクラス3からクラス4で,挿管操作は通常よりも短い時間しか許されない状況(予備力がない状況)であったこと)を踏まえると,気管挿管の施行者が順次,熟練者に交代はしているもののその回数は多かったというべきである(乙B29)。

なお,本件病院の麻酔科医らがAに対する気管挿管を2,3回試行した後,直ちに気管切開をしていたとしても,本件においては上記1(2)アで認定したとおり気管切開後,気管切開口部から3.5mmのチューブが挿入され,それを通じた換気が開始されたが,高い気道内圧でかろうじて換気ができるような状況であって,それにそれ以降のAの症状,経過を踏まえると,Aの死亡の結果を回避できたと認めることはできず,その他,それを認めるに足りる証拠はない。

9  争点10について

(1)  原告は,本件病院の麻酔科医が本件手術に先立ってAの家族に直接麻酔の内容,そのリスクとしての困難性や換気困難の可能性などについて説明をすべきであったのに,その説明をしなかった旨主張する。

(2)  ところで,手術を行う際には必ずそれに先だって麻酔が施行されるところ,手術を行う場合に手術施行者の他,必ず麻酔科医が麻酔について説明をしなければならないことはない。しかし,Aのように慢性のGVHDという重大な疾患に罹患し,呼吸状態がかなり悪く,酸素化能の予備力が少ない患者に対して麻酔を行うような場合で,しかも同人が罹患していた慢性のGVHDと麻酔のリスクについては未だ臨床医学的に未解明で一定した知見が存在していない状況下にある場合には,少なくとも麻酔科医が麻酔科医としての立場から本件手術の術者とは別に患者ないしその家族に対し,患者の状況,採用した麻酔の方法・内容,その危険性の内容・程度,慢性のGVHDと当該麻酔との関係(知見の状況も含めて),一旦麻酔を導入しても引き返すことがありうることなどを具体的に説明すべきことが要請されている。しかし,本件病院の麻酔科医らは,Aの両親に対してその説明をしていないという不完全履行ないし過失がある。

(3)  なお,Aの両親は,仮に本件病院の麻酔科医らから同要請される内容の説明を受けていた場合,Aに対する本件手術の必要性が高く,同麻酔科医らも特段本件麻酔について危険性があると認識していなかったことを踏まえると,本件麻酔を受けなかったとまで認めることはできず,かえって,同麻酔を受けていたことが強く窺われる。

10  争点11について

(1)  原告らは,本件病院の麻酔科医らの不完全履行ないし過失によりAが死亡したことを前提として同人及び原告らが被った損害についてその賠償を求める。しかし,Aの死亡と因果関係が認められる過失ないし不完全履行は上記2ないし9で説示したとおり認められない。

(2)  ところが,本件病院の麻酔科医らにはAの死亡との間では相当因果関係が認められないものの上記4(4)で説示したとおり問診義務違反,動脈血ガス分析の施行義務違反(未施行),また,上記9で説示した説明義務違反があるところ,同各義務違反によって原告らは,Aに対する適切な診療がなされなかった,治療方法の選択について自己決定ができなかったなど精神的苦痛を被ったことが推認されるところ,同精神的苦痛を金銭的に評価すると原告らそれぞれについて250万円とするのが相当である。

(3)  原告らは,本件訴訟の提起,遂行を原告ら代理人である訴訟代理人に委任している(顕著な事実)ところ,同事実に本件訴訟の経過,上記損害賠償の認容額などを総合考慮すると,同認容額の1割相当額の各25万円をもって上記不完全履行と相当因果関係のある弁護士費用相当の損害とするのが相当である。

11  以上によれば,原告らの本件請求は原告らそれぞれの被告に対する各275万円及びこれらに対する平成15年4月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから,同限度で認容することとし,その余は理由がないから棄却することとして主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中村哲 裁判官 和久田斉 裁判官 波多野紀夫)

<編注:『※』部分は原文のとおり。>

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