京都地方裁判所 平成16年(ワ)3297号 判決 2006年10月13日
主文
1 被告は,原告Aに対し,金1100万円及びこれに対する平成15年1月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告は,原告Bに対し,金220万円及びこれに対する平成15年1月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 被告は,原告Cに対し,金110万円及びこれに対する平成15年1月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 原告らのその余の各請求をいずれも棄却する。
5 訴訟費用は,これを10分し,その9を原告らの負担とし,その余を被告の負担とする。
6 この判決第1,2,3項は仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
1 被告は原告Aに対し,2億803万4041円及びこれに対する平成15年1月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告は原告Bに対し,1711万6624円及びこれに対する平成15年1月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 被告は原告Cに対し,440万円及びこれに対する平成15年1月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
1 本件は,原告Bが,a町国民健康保険病院(以下「被告病院」という。)で原告Cとの間の子である原告Aを出産した際,被告病院の医師が原告Bの常位胎盤早期剥離(以下「早剥」という。)の発症を見落とし,あるいは早剥の発症を疑って適切な経過観察をすべきであったのにこれを怠ったため,早剥の発症に気付くのが遅れ,その結果,原告Aが重症胎児新生児仮死の状態で出生し,現在も脳性麻痺等の状態にあって回復の見込みがなく,また,原告Bも播種性血管内凝固症候群(以下「DIC」という。)となり,子宮膣上部切断術を受け,二度と子を産めない状態になったとして,原告らが,被告病院を運営していた京都府竹野郡a町の債権債務を,町合併により包括的に承継した被告に対し,診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償及び不法行為の日から支払済みまでの遅延損害金の支払を求めた事案である。
2 基礎となる事実(各項末尾に証拠を摘示した。摘示のない事実は当事者間に争いがない。)
(1) (当事者)
ア 原告Aは,平成15年○月○日,被告病院において,原告Cを父,原告Bを母として出生した。
イ 被告は,平成16年4月1日に,従来の京都府竹野郡a町(以下「a町」という。)を含む6町の合併によって新設された市であり,a町の債権債務を包括的に承継した。
ウ 被告病院は,平成15年当時,a町が運営していた病院であり,現在は,被告を運営主体とするG病院となっている。丹後地方の中核病院,救急指定病院,へき地医療拠点病院としての位置づけを有している。
エ 平成15年1月当時,D医師,E助産師及びF助産師は,被告病院産婦人科で勤務していた。当時,E助産師及びF助産師は,いずれも約13年の助産師経験を有していた。
(2) (入院するまでの経緯)
ア 原告B(昭和50年○月○日生)は,京都府宇治市内の肩書住居で原告Cと暮らしていたが,妊娠したため,京都府竹野郡b町内の実家に戻っていわゆる里帰り出産をすることとし,平成14年10月28日,被告病院で受診し,a町との間で,医療水準にしたがった分娩介助及び周産期治療をする旨の診療契約を締結した。
イ 原告Bは,初産であり,分娩予定日は平成15年1月17日であった。
ウ 原告Bは,平成15年1月23日午前3時30分ころ(以下,同日については時刻のみ記載する。)より陣痛が発来し,午前9時10分被告病院に入院した。
(3) (入院後,出産までの経緯)
ア 原告Bの主治医はD医師であった。入院時のD医師の診察によると,原告Bの血圧は150/100,尿蛋白陽性(++),手に浮腫があり,妊娠中毒症の状態にあった。体重は,妊娠前よりも約16.4キログラム増加していた。子宮口は3センチメートル開大していた。〔乙A1(63,70,77頁)〕。
イ 入院後,原告Bに対し,直ちに分娩監視装置〔胎児の心拍数と子宮収縮(陣痛)とを記録紙に連続的に記録する装置。これによって得られた記録を「心拍陣痛図」といい,これによって胎児の健全性を評価する。胎児心拍数は,1拍1拍の心拍間隔を計測し,これを1分間の胎児心拍数に換算し,「bpm」の単位で表す。〕が装着され,午前9時29分ころから午前9時59分ころまでモニタリング(以下「胎児心拍数モニタリング」という。)が実施された(以下「入院時モニタリング」という。)。これによって,午前9時33分ころから午前9時59分ころまでの胎児心拍数及び子宮収縮を記録することができたが,その結果は次のとおりであった。〔乙A1(132頁),乙A10〕
(ア) 心拍数基線は140ないし150bpmであり,正常であった。
(イ) 一過性頻脈がみられなかった。
(ウ) 基線細変動〔胎児心拍数に現れる,一過性変動部分を除いた心拍数基線の細かい変動〕は,概ね乏しく,6bpmを超えない場合が多かったが,午前9時37分10秒ころに1回,午前9時52分00秒ころに1回,午前9時56分30秒ころから午前9時57分ころまでの間に4回程度,午前9時58分20秒ころに1回,午前9時59分10秒ころに1回,同20秒ころに1回,それぞれ6bpmを超える基線細変動がみられた。
(エ) 午前9時42分50秒ころ,それまで約145bpmであった胎児心拍数が減少を始め,午前9時44分00秒ころ約130bpmまで低下した後に上昇に転じ,午前9時45分00秒ころ約140bpmに,午前9時45分40秒ころ約147bpmに達した(以下「本件一過性徐脈」いう)。なお,午前9時42分40秒から43分00秒までが陣痛(子宮収縮)のピークであった。
(オ) 入院時モニタリング実施中に生じた一過性徐脈は,本件一過性徐脈だけであった。他方,陣痛は少なくとも3回生じており,本件一過性徐脈に対応する上記陣痛は2回目のものであった。すなわち,1回目と3回目の陣痛の際には,これに対応する一過性徐脈は生じなかった。
ウ 入院時モニタリングを実施したE助産師は,基線細変動が少ないと感じ,午前9時57分ころ,その記録紙を破り取ってD医師のもとに持参し,指示を仰いだ。そして,D医師の判断によって,午前9時59分モニタリングは中止され,分娩監視装置がはずされた。(乙A8,10,証人D)
エ 午前10時ころ,原告Bは陣痛室に入室した。
オ 午前11時ころのE助産師の診察では,陣痛間欠約2分,子宮口5センチメートル開大であり,性器出血はなかった。E助産師は,午前11時すぎころ分娩監視装置で胎児心拍数を計測したところ,計測できた午前11時4分50秒ころから6分50秒ころまでの間において,心拍数基線は約140bpmであったが,基線細変動は乏しかった。〔乙A1(63頁,133頁)〕
カ 午後0時ころのE助産師の診察では,陣痛間欠2分ないし3分,子宮口7センチメートル開大であった。〔乙A1(63頁)〕
キ 午後1時ころのE助産師の診察では,陣痛間欠3分ないし4分,子宮口6センチメートル開大,性器出血少量,血圧160/120であった。E助産師は,胎児ドップラ(腹部に当てることによって胎児心拍数を測定する器具)によって胎児心拍を測定したところ,約130bpmであった。〔乙A1(63頁)〕
ク 午後1時40分ころ,F助産師が内診をしたところ,子宮口6センチメートル開大,性器出血少量であった。〔乙A1(63頁),乙A9〕
ケ 午後1時45分ころ,F助産師が胎児ドップラで胎児心拍を測定したところ,104ないし108bpmであった。F助産師は,直ちに原告Bに分娩監視装置を装着して胎児心拍数モニタリングを再開したところ,心拍数基線が100ないし110bpmまで低下していることが判明した。午後1時55分ころ,F助産師は,看護婦詰所にいたE助産師,G医師,H助産師に応援を求め,午後2時5分ころには酸素吸入を開始した。午後2時8分ころ,連絡を受けたD医師が陣痛室に到着し,午後2時10分ころ分娩室で原告Bの診察をした。その結果,胎児心拍数は70ないし80bpmであり,羊水混濁が認められたことから,D医師は「胎児仮死」(胎児が子宮内において呼吸ならびに循環機能が障害された状態をいう。一般に「胎児ジストレス」と同義とされている。)と診断し,緊急帝王切開術が必要と判断した。午後2時25分ころ原告Bは,手術室に入室し,D医師の執刀によって帝王切開術が行われた。原告Bは,午後2時52分ころ原告Aを娩出し,午後2時55分ころ,胎盤を娩出した。〔乙A1(48,63,116,134,135頁)〕
(4) (出産後の経緯)
ア 原告Aは,重症胎児新生児仮死の状態で出生した。アプガースコア(新生児仮死の程度と予後を予測するために,呼吸能力,心拍数等5項目に0点から2点の点数をつけるもの。合計点が0点から3点は重症仮死,4点から6点は軽症仮死,7点から10点は仮死(-)と判断される。)は,1分後も5分後も0点であった。
イ 原告Bの胎盤は,約2分の1が剥離しており〔乙A1(43頁)〕,子宮前壁から底部にかけて血液浸潤が著明で,後血腫は多量であった。D医師は,早剥による胎児仮死と診断した。
ウ 午後2時52分ころ,D医師は原告Bに対し,DICの治療薬であるメシル酸ガべキサート(商品名「エフオーワイ」,以下「FOY]という。)を投与した。
エ 午後3時57分ころ,手術が終了した。
オ 午後4時10分ころ,原告Bは,手術室から移動するためストレッチャーに移動した。その際,D医師は,原告Bに血圧低下,意識レベルの低下を認め,プレショック状態と診断した。直ちに気道が確保されるとともに,左鼠径部から中心静脈カテーテルが挿入され,昇圧剤が静脈注入された。その後血圧は安定したが,性器出血が増加し,止血を試みるも功を奏さなかったため,D医師は,子宮膣上部切断術を施行する必要があると判断した。〔乙A1(49,85,86,115頁)〕
カ 午後6時ころから麻酔が開始され,午後6時35分ころ,原告Bの子宮膣上部切断術が開始され,午後9時47分ころ,同手術は終了した〔乙A1(49,85,86,115頁)〕
キ 術後経過は順調であり,平成15年2月10日,原告Bは,被告病院を退院した。原告Bは,子宮膣上部切断術を受けたため,二度と子を産めなくなった。
ク 原告Aは,心肺停止状態で出生し,生後5分程度で心拍が再開し,生後2時間程度で自発呼吸が出現した。生後2日目の平成15年1月24日,原告Aは,被告病院から兵庫県豊岡市にあるH病院に搬送された。約2か月間の入院の後,自宅近くのI病院に転院した。現在は自宅で生活しているが,重度の脳性麻痺が残っている。最重度の認知障害があり,意識の表出は全くなく,かろうじて痛み刺激に対する反応がある程度である。四肢の攣性麻痺が強く,運動機能は全廃している。経口摂取は全くできない。脊柱変形,股関節拘縮,膝関節拘縮が強い。(甲A10,甲C7,乙A4,5)
3 争点及び当事者の主張
(1) D医師に,早剥を発見すべき義務(以下「早剥発見義務」という。)に違反する過失があったか
(原告らの主張)
ア 早剥は,発症すると,短時間のうちに母体,胎児の双方に対し重篤な状況をもたらしうるから,D医師としては,原告Bを診察するに際し,常に念頭に置いておかなくてはならない疾患であった。
イ 原告Bには,次の事実があったから,D医師は,遅くとも午前9時57分に入院時モニタリングの記録紙を見た時点において,原告Bが早剥を発症していると診断すべきであった。
(ア) 入院時,原告Bは妊娠中毒症の状態にあった。
(イ) 原告Bは,入院時から継続的に腰痛を訴えていた。腰痛は早剥の臨床症状であるところ,原告Bは,入院直後から継続して腰痛を訴えており,苦痛様表情が見られた。これらは早剥の症状である。
(ウ) 入院時モニタリングにおいて,基線細変動の減少ないし消失が見られ,他方,胎児の健全性を表す一過性頻脈が見られなかった。また,本件一過性徐脈は,遅発一過性徐脈又は遷延性一過性徐脈と評価すべきものである。なぜなら,遅発一過性徐脈とは,心拍数の低下が子宮収縮の開始より遅れて始まり,心拍数の最下点は子宮収縮のピークより遅れ,徐脈からの回復も子宮収縮の終了より遅れるものをいい,遷延一過性徐脈とは,基線からの低下持続時間が,90秒又は2分以上10分未満のものをいうところ,本件一過性徐脈は,そのいずれにも当てはまるからである。
ウ なお,早剥の発症時期は,胎児の娩出時期及び母体や胎児の症状から推定することができる。すなわち,一般に,早剥発症から5時間ないし6時間以内に胎児が娩出されれば,胎児の予後が不良にならず,母体のDICの危険性も低いとされている(これを「ゴールデンタイムの理論」という。)のである。このゴールデンタイムの理論に照らしても,次のとおり,原告Bが午前9時57分までには早剥を発症していたと考えられる。
(ア) 原告Aの予後は極めて不良であること,原告BはDICを発症したこと,原告Bの早剥は重症であった(急性腎不全を併発したこと,遅くとも午後4時10分にはショック状態に陥ったこと,胎盤の剥離面積が広く,子宮前壁から底部にかけて血液浸潤著明であり帝王切開の直前,原告Bの腹部に板状硬(板状に硬くなること)が認められたこと等からいうことができる。)こと等によると,原告Bの早剥は,胎児が娩出された午後2時52分よりも5時間以上前,すなわち,午前9時52分より前に発症していたと考えるのが合理的である。
(イ) なお,胎児の娩出に先だって母体がDICを発症した場合は,母体はそれよりも5時間以上前に早剥を発症していたと推測できる。そして,本件においては,原告Bは,次のとおり,胎児の娩出に先立つ午後2時25分ころにはDICを発症していたと考えられる。
a 原告Bに対しては,午後2時52分にFOYの投与がなされた。
b 原告Bは,午後3時53分に胃潰瘍を,午後4時10分に急性循環不全を発症した。
c 午後2時25分あるいは遅くとも午後2時52分において,原告Bは,いわゆる産科DICスコア(産科におけるDICの診断基準,8点以上でDICの治療に踏み切ってよく,13点以上でDICとしてよいとされる。)が,次のとおり,8点に達していた。
(ア) 「早剥発症,児生存」 4点
(イ) 「血小板数10万以下」 1点(午後2時25分での検査結果による)
(ウ) 「蒼白」 1点
(エ) 「脈拍100/分以上」 1点
(オ) 「収縮時血圧90mmHg以下」 1点
エ よって,D医師は,午前9時57分の時点で直ちに超音波検査を実施して早剥の確定診断をした上,帝王切開に踏み切るべき注意義務があったのに,これを怠った。
(被告の主張)
ア 早剥は,その発生原因も明確でなく,突然に発症し,その予知方法も予防方法も確立していない。一般的な初発症状は,下腹部痛(胎盤付着部位に一致した軽度の局所的圧痛や間欠期のない持続性の腹部緊張,腹部子宮壁の板状硬等),性器出血,強度の子宮収縮等であるが,これらの症状が現れたのは,午後2時10分ころであった。本件において原告Bに早剥が発症したのは,徐脈が現れた午後1時45分ころである。それまで原告Bの分娩は順調であって,それ以前に,D医師が原告Bが早剥に罹患していると診断することは不可能であった。
イ 午後1時45分以前に早剥が発症していた根拠として原告が主張する点は,次のとおり,いずれも理由がない。
(ア) 妊娠中毒症は,早剥のリスク因子の一つにすぎない。まして,原告Bの妊娠中毒症は軽度であった。
(イ) 苦痛様表情や腰痛は,通常の陣痛でもしばしば認められるものであり,早剥特有のものではない。
(ウ) 入院時モニタリングにおいて,早剥の発症を裏付ける所見は,次のaないしcのとおり認められなかった。
a 基線細変動
基線細変動の消失と評価しうる点はなく,やや乏しいものの正常の範囲内である。
b 本件一過性徐脈の評価
本件一過性徐脈は,遅発一過性徐脈でも遷延性一過性徐脈でもない。遅発一過性徐脈は,子宮収縮に応じた反復性を示すが,本件一過性徐脈は,単発であって,その前後の子宮収縮において一過性徐脈が生じていない。また,遷延一過性徐脈とは,心拍数の減少が15bpm以上で,開始からもとに戻るまでの時間が2分以上10分未満の徐脈をいうが,本件一過性徐脈は,心拍数の基線からの低下は約10bpmであり,上記定義に該当しない上,遷延一過性徐脈の典型的波形とは一見して異なる。
さらに,遷延一過性徐脈のうち,2回の子宮収縮を経て続く場合が病的であると評価されているところ,本件一過性徐脈が現れたとき,午前9時42分40秒から43分00秒までをピークとする子宮収縮が生じていたが,本件一過性徐脈は,その次の子宮収縮の前には回復した。
したがって,本件一過性徐脈は遷延一過性徐脈ではなく,仮にそうであるとしても,病的な遷延一過性徐脈ではない。
c 一過性頻脈の不存在
一過性頻脈は見られなかったが,だからといって胎児が危険な状態にあったということはできない。
ウ (原告らのゴールデンタイムの主張に対し)
(ア) 早剥の発症は臨床症状によって判断するのであって,胎児娩出時の早剥の状況から遡って発症時刻を決めることも推測することもできない。
(イ) なお,本件において,原告BがDICを発症したのは,ショック症状出現後,子宮出血が増大し,血液検査でアンチトロビンⅢの低下,プロトロンビン時間の延長を認めた午後5時4分ころである。そして,その主因は,早剥による血液凝固系の亢進ではなく,弛緩出血による血液そのもの,あるいは血液凝固因子の喪失である。
DIC発症時刻に関する原告の主張に対する反論は次のとおりである。
a D医師が午後2時52分にFOY投与を開始したのは,DIC発症を予測し,その予防のために必要と考えたためであり,DIC発症を認めたからではない。
b 午後2時52分に早剥と診断された当時の原告Bの産科DICスコアは,「早剥発症,児生存」及び「血小板数10万以下」の5点にすぎなかった。
c 被告は,原告Bに対して利尿剤を投与するために,便宜的に「急性腎不全」という傷病名をつけたにすぎないのであり,原告Bは,術中,術後のいずれにおいても,腎機能検査の結果は正常であって,急性腎不全の状態にはなかった。
d 被告は,原告Bに対して,麻酔薬による胃酸分泌を抑制する目的で,胃潰瘍等の薬であるガスターを投与するために,便宜的に「胃潰瘍」という傷病名を付したものであり,原告Bは胃潰瘍に罹患していなかった。
(2) D医師に,午前9時57分ころ以降,原告Bの経過観察を続ける義務に違反する過失があったか
(原告らの主張)
仮に,午前9時57分の時点で早剥との診断がつかなかったとしても,(1)の「原告らの主張」中のイの(ア)ないし(ウ)の事実があったから,D医師としては,早剥が発症している可能性を疑い,その後も胎児心拍数モニタリングを続け,さらに超音波検査,血液検査,FASテスト〔音,振動刺激試験。音,振動刺激に対する胎児の反応(主に心拍数の変化)を見るもの〕等を実施して原告Bの経過観察を続けるべき注意義務があったのに,これを怠った。
D医師が上記の経過観察を続けていれば,その後遅くない時期に早剥の確定診断が得られ,帝王切開に踏み切ることができた。
(被告の主張)
被告病院では,午前9時59分以降も内診や胎児ドップラ等による分娩の経過観察は適切に続けていた。原告Bの分娩経過は順調であって,何ら異常を窺わせるものはなかったから,それ以上の経過観察をすべき注意義務はなかった。
(3) D医師の過失行為と因果関係のある損害
(原告らの主張)
ア 原告Aの損害
D医師の過失行為の結果,原告Aは,重症胎児新生児仮死状態で出生し,被告病院で2日間(平成15年1月23日から翌24日まで),H病院で84日間(同日から平成15年4月17日まで),I病院で326日間(同日から平成16年3月7日まで),それぞれ入院治療を受けたが,第2の2(4)ク記載のとおりの重度の後遺症が残った。同原告が受けた損害は,次のとおりで,その合計は,2億0803万4041円である。
(ア) 治療費,文書料 93万9885円
(イ) 入院中の付添看護費 266万5000円
1日6500円の410日分
(計算式) 6500円×410日=266万5000円
(ウ) 入院雑費 61万5000円
1日1500円の410日分
(計算式) 1500円×410日=61万5000円
(エ) 退院後の介護料,同雑費等 1億0668万375円
日額1万5000円(年額547万5000円),1歳男児の平均余命は75年,75年のライプニッツ係数は19.485
(計算式) 547万5000円×19.485=1億0668万0375円
(オ) 装具器具購入費 4万8220円
(カ) 自動車購入費 135万円
(キ) 損害賠償請求関係費用 10万円
(ク) 後遺症による逸失利益 4272万3375円
労働能力喪失率100パーセント,平成13年度賃金センサス男子労働者産業計,企業規模計,学歴計における全年齢平均年収が565万9100円,67歳までのライプニッツ係数が19.2390,18歳までのライプニッツ係数が11.6895(1円未満切り捨て)
(計算式) 565万9100円×(19.2390-11.6895)=4272万3375.4円
(ケ) 慰謝料 3400万円
(コ) 弁護士費用 1891万2186円
イ 原告Bの損害
D医師の過失行為の結果,原告Bは,DICを発症し,被告病院で19日間(平成15年1月23日から同年2月10日まで)入院し,その後約2か月間(同日から同年4月11日まで)通院したが,第2の2(4)キ記載のとおり,子宮膣上部切断術を受けたことにより,二度と子を産むことができない身体になった。同原告が受けた損害は,次のとおりで,その合計は,1711万6624円である。
(ア) 治療費等 71万5210円
(イ) 入院中の付添看護費 12万3500円
1日6500円の19日分
(計算式) 6500円×19日=12万3500円
(ウ) 入院雑費 2万8500円
1日1500円の19日分
(計算式) 1500円×19日=2万8500円
(エ) 休業損害 18万3357円
入院期間中,原告Bは家事労働に従事できなかった。平成13年度賃金センサス女子労働者産業計,企業規模計,学歴計における全年齢平均年収が352万2400円(1円未満切り捨て)
(計算式) 352万2400円×19日/365日=18万3357.8円
(オ) 慰謝料 1451万円
子宮切除に対する傷害慰謝料が100万円,子宮切除に対する後遺障害慰謝料が1051万円,原告Aが被った後遺症に対する近親者としての慰謝料が300万円
(カ) 弁護士費用 155万6057円
ウ 原告Cの損害
D医師の過失行為の結果,原告Cは,初めての子供である原告Aが重篤な後遺症を抱える身となったこと,原告Bが二度と子供を産むことができない身体になったことにより,父として,夫として深刻な精神的打撃を被った。その慰謝料は400万円が相当であり,他に弁護士費用として40万円が相当である。
(被告の主張)
いずれの主張も争う。
第3争点に対する判断
1 医学的知見について
証拠(各項末尾に記載,とりわけ重要な記載については頁数も記載した。)によると,本件の各争点を判断するために必要な医学的知見として,次の事実が認められる。
(1) 早剥について
ア 早剥は,妊娠20週以降で,正常位置付着胎盤が胎児娩出以前に胎盤の組織又は血管の一部に破綻をきたし,出血により子宮壁から部分的又は完全に剥離し,重篤な臨床像を呈する症候群である。各種の妊娠合併症のうち,特に母体及び胎児の死亡率が高く,母体死亡率5ないし10パーセント,胎児死亡率30ないし50パーセントとする報告がある。〔金原出版株式会社が平成16年10月29日に発行した「周産期の出血と血栓症-その基礎と臨床-」(甲B3の1ないし3の3,以下「基礎と臨床」という。)〕
イ 分類には,一般に「Pageの分類」が用いられている。これによると,重症度が第0度から第Ⅲ度に分けられ,第0度及び第Ⅰ度を「軽症」,第Ⅱ度を「中等症」,第Ⅲ度を「重症」と呼ぶ。胎盤剥離面は,軽症が30パーセント以下,中等症は30ないし50パーセント,重症は50パーセント以上である。第0度は,臨床的には無症状で,娩出胎盤を観察して確認できるものであり,第Ⅰ度は,500ミリリットル以下の性器出血があり,軽度の子宮緊張感があり,児心音は時に消失するが,蛋白尿は稀というものであり,第Ⅱ度は,500ミリリットル以上の性器出血があり,下腹部痛を伴い,子宮硬直があり,胎児は死亡していることが多く,時に蛋白尿が出現するというものであり,第Ⅲ度は,子宮内出血及び性器出血が著明で,子宮硬直が著明で,下腹部痛,子宮底上昇があり,胎児は死亡し,出血性ショック及び凝固障害を併発し,子宮漿膜面血液浸潤がみられ,蛋白尿が陽性というものである。(「基礎と臨床」甲B3の3)
ウ 早剥の成因,誘因については様々なものが挙げられている。従来より妊娠中毒症がその原因として重要視されてきた。早剥症例の3分の1から3分の2は妊娠中毒症あるいは高血圧合併妊娠症例であり,特に妊娠中毒症症例における早剥は,より重症化するリスクが高く,DICを併発する危険性が高いとする論説があるが,最近は,無関係であるとの報告も多い。〔「基礎と臨床」甲B3の3(196頁),日本産婦人科学会誌54巻3号の「研修医のための必修知識」と題する論説(甲B6,以下「必修知識1」という。)(N39頁),乙B2〕
エ 臨床症状については,文献には次のように記載されている。
(ア) 胎盤娩出後に初めて診断される無症状のものから,胎盤剥離部に一致した圧痛及びそれに続く持続的子宮収縮,さらには中等量から多量の性器出血を認めるものまでさまざまである。剥離面積が大きく血腫も増大すれば,子宮は板状硬となり,胎児部分の触知は困難となる。また子宮体は膨隆し,子宮底は上昇する。出血には,外出血型(約80パーセント)と内出血型(約20パーセント)があるが,内出血型は,子宮内圧の亢進を伴い,早期にDICを併発するので,母児ともに予後不良である〔基。「礎と臨床」甲B3の3(198頁,199頁)〕
(イ) 不規則,頻回の子宮収縮または持続的子宮収縮,剥離部子宮壁の自発痛,圧痛,後に腹壁板状硬が特徴である。特に留意すべきは,早剥の初期では切迫早産と類似の規則的子宮収縮を呈することがあることである。胃部不快感や上腹部痛や胎動の減少を認めることもある。性器出血は,赤褐色で陣痛間欠時に増量傾向。進行例では,急性貧血症状,ショック症状がある。(医学書院発行の「今日の診断プレミアム」14巻DVD-ROM版,乙B21)
(ウ) 一般の切迫早産徴候(あるいは分娩開始徴候)と同様の症状を訴えることが多いので,この際に,安易に内診のみで診断せず,CTG(分娩監視装置)の確認や超音波検査などを行って,早剥をルールアウトする〔「必修知識1」甲B6(N41頁)〕。
(エ) 出血は暗赤色で,下腹部痛,腰痛を伴う。子宮壁の圧痛を認め,症状が進行すると腹壁(子宮筋)は板状硬となる。〔平成11年10月に日本母性保護産婦人科医会が発行した「研修ノート 母体救急疾患-こんな時どうする-」(乙B20,以下「研修ノート」という。)(72頁)〕
オ 早剥の心拍陣痛図所見について,「基礎と臨床」には次の趣旨の記載がある。
「胎盤の剥離速度や剥離面積によりさまざまなパターンを呈する。早剥の発症初期や軽症のうちは,一時的な頻脈がみられる。早剥の進行に伴い,NRFS(non-reassuring fetal status 「安心できない胎児の状態」)が顕性化すると,基線細変動の減少,遅発一過性徐脈,サイヌソイダルパターン(胎児心拍数図が三角関数のサインカーブのように一定の周期と一定の振幅をもって変動し,基線細変動が消失しているパターンのこと)等を呈するようになり,その後細変動が消失し,高度の持続的な徐脈から胎児死亡に至る。」(200頁)
カ 早剥の超音波所見について,「基礎と臨床」(甲B3の3)には次の趣旨の記載がある。
「臨床症状および心拍陣痛図所見で早剥が少しでも疑われたら,ただちに超音波検査を実施する。早剥の超音波所見の特徴は,脱落膜部位での出血や胎盤後血腫像であるが,これらは必ずしも単純なものではなく,その発生部位,原因,剥離の程度,時間経過などにより多彩な像を呈する。発症初期は軽症例における確診の期待はいまだ十分とはいえないものの,進行期においてはその血腫の確認により診断は比較的容易である。」(200頁,203頁)
キ 治療は,第Ⅰ度以上のものは,急速遂娩が第一である。〔「基礎と臨床」甲B3の3(209頁),乙B2〕
(2) DICについて
ア DICとは,何らかの基礎疾患によって惹起された血管内凝固亢進状態が,生体が本来持っている抗血栓機能を凌駕し,全身の広い範囲で微少血栓が形成され,微少血栓の形成過程で血小板や凝固因子が大量に消費されて減少し,さらに二次線溶(血栓を溶解しようとする機序)が加わって,出血傾向を呈する病態をいう。諸種の臓器に重篤な障害をもたらす。〔甲B3の2(168頁),乙B1〕
イ DICの診断基準として汎用されているのは,昭和63年に厚生労働省の特定疾患血液凝固異常症調査研究班から提唱された基準(以下「厚生労働省基準」という。)である。これは,基礎疾患の有無,臨床症状の有無,血液凝固学的所見を点数化して診断を下すものである。(甲B3の2,乙B1)
ウ 産科領域で発症するDICを「産科DIC」という。産科DICには,妊婦自身の血液凝固線溶系機能が大きく変化しているため,基礎疾患によって凝固系がわずかに変化するだけで急激にDICが発症し,重症化する特徴があるので,早期の診断と,適切な治療が要請される。産科DICの急迫性から,血液凝固学的検査の診断結果を待たずに処置を開始する必要がある。そこで,基礎疾患の重篤性と臨床症状だけでDICと診断するための産科DICスコア「」が提唱されている。産科DICスコアでは,「7点以下は,DICとはいえない,8点から12点は,DICに進展する可能性が高い,13点以上は,DICとしてよい。」とされており,8点になると,DICに対する治療を開始すべきであるとされている。(甲B3の2,甲B8,乙B17)
(3) 胎児心拍数モニタリング所見について
胎児心拍数は,胎児の健全性の判断,とりわけ低酸素状態の診断に有用であるとされている。その評価の要素として,心拍数基線,一過性頻脈,一過性徐脈,基線細変動がある。
ア 心拍数基線について
妊娠末期では,120bpmから160bpmが正常で,平均は約140bpmである。100bpmから119bpmを軽度徐脈,99bpm以下を重度徐脈という。〔日本産婦人科学会誌53巻11号の「研修医のための必修知識」と題する論説(乙B4,以下「必修知識2」という。)(N373ないしN375頁)〕
イ 基線細変動について
(ア) 胎児の心拍数の基線細変動のうち,もっとも早くて周波数の高い変化を「STV」,STVより周波数の低い1分間に2ないし6回の比較的穏やかな胎児心拍数基線の変動を「LTV]という。基線細変動の評価では,LTVの振幅が6bpm以上を正常,3ないし5bpmを減少,2bpm以下を消失とする基準が提唱されている。〔「必修知識2」(N384頁)〕
(イ) 必修知識2には,次の趣旨の記載がある。
「基線細変動の消失,減少の原因としては,①胎児のアシドーシス(動脈血のPHが低下すること),②母体への薬剤投与,③胎児疾患,④在胎週数の早い胎児,⑤ノンレム睡眠中を考える必要があり,②ないし⑤が否定されれば,胎児仮死と診断される。」(N384頁)
(ウ) 平成10年9月1日に医学書院から発行された「胎児心拍数モニタリングの実際」(甲B2,以下「実際」という。)には,次の趣旨の記載がある。
a 「細変動の減少または消失の最大の原因は低酸素症である。」「細変動の減少があっても,一過性徐脈がなければ多くの場合心配はない。一方,細変動の消失があり,同時に一過性徐脈,とくに遅発一過性徐脈のある場合には胎児は深刻な低酸素症の状態にあると考えて,即刻介入の対象となる。」(10頁)
b 「細変動減少や消失のみで胎児状態を判断するのはきわめて困難である。」(82頁)
c 「分娩中の細変動減少の原因の中には,胎児低酸素症も含まれているのは事実で,細変動減少や消失の原因が胎児低酸素症か他の原因かを鑑別することはきわめて重要である。」(82頁)
d 「分娩中の細変動減少や消失が胎児低酸素症のサインだとすれば,胎児中枢神経系異常などを除けば,必ず胎児低酸素症の初期のサインである遅発一過性徐脈が子宮収縮に引き続いて反復しているはずである。」(82頁)
ウ 一過性頻脈について
(ア) 心拍数が一時的に増加し,短時間で基線に戻るものをいう。心拍数増加の振幅が15bpm以上,持続時間が15秒以上を一過性頻脈と定義するのが一般的である。一過性頻脈が存在することは,胎児の生理的反応が維持されていることを意味する。〔「必修知識2」(N376頁)〕
(イ) 「必修知識2」には,次の趣旨の記載がある。
a 「一過性頻脈は,妊娠中にみられることが多く,分娩中は早期に多い。」(N376頁)
b 「一過性頻脈が存在することは,胎児の生理的反応が維持されていることを意味するが,分娩中は,それが認められないからといって,必ずしも胎児の状態が悪化していることを示すわけではない。」(N377頁)
(ウ) 「実際」には,次の趣旨の記載がある。
a 「陣痛発来して入院してくる妊婦には,ただちにモニターをつけ,一過性頻脈があればひとまず安心してよく,逆に一過性頻脈が見られなければ,その原因を探索し,胎児がどのような状態にあるかを把握しなければならない。」(16頁)
b 「一過性頻脈はほとんど胎動に一致して起こる。」「胎動の少なくなる分娩中には長時間にわたり一過性頻脈の見られないことがある。」「分娩中には,どの位の時間にわたり一過性頻脈がないのを要注意と考えるべきかの決定的研究がない。したがって,一過性頻脈の有無以外の方法(子宮収縮に反復する遅発一過性徐脈の有無や変動一過性徐脈または徐脈の有無,細変動の有無,基線上昇の有無など)で胎児低酸素症の有無を検索しなければならない。」(83頁)
エ 遅発一過性徐脈について
(ア) 「胎児心拍数図の用語及び定義検討委員会」の報告(日本産科婦人科学会雑誌55巻8号(2003年8月)所収,甲B7,以下「報告」という)では,遅発一過性徐脈の定義について,次のとおりの提案がなされている。
「遅発一過性徐脈とは,子宮収縮に伴って,心拍数減少の開始から最下点まで30秒以上の経過で緩やかに下降し,その後子宮収縮の消退に伴い元に戻る心拍数低下で,子宮収縮の最強点に遅れてその一過性徐脈の最下点を示すものをいう。」
(イ) 「必修知識2」には次の趣旨の記載がある。
a 「現在の一過性徐脈の分類の基礎となったHonの分類では,まず子宮収縮の度に出現するかどうかで『周期的』か『非周期的』かに分類し,周期的一過性徐脈を『同一型』か『変動型』かに分類し,同一型一過性徐脈を『早発一過性徐脈』と『遅発一過性徐脈』に分類している。」(N378頁)
b 「心拍数の低下幅は30ないし40bpm以内がほとんどで,10ないし20bpm程度で一過性徐脈と認識すること自体を見逃しやすいものも少なくない。」(N379頁)
c 「遅発一過性徐脈は,子宮収縮により胎児血PO2が一定のレベル以下になる母体の因子(低血圧等)や胎盤の因子(早剥等)を有する症例及び胎児が低酸素状態に陥っている症例にみられるパターンで,基線細変動の状態によらず胎児仮死と診断される。」(N380頁)
(ウ) 「実際」には,次の趣旨の記載がある。
a 「反復して出現しない散発的な一過性徐脈には,まず補液による循環血液量の増加や低血圧の改善をはかり,それで消失してしまえばもうそれ以上の心配は不要である。反復して出現するものはより重大な意義をもつ。」(14頁)
b 「遅発一過性徐脈は,胎児低酸素症の初期のパターンであり,胎児にストレスがかかっていることを示す。一過性頻脈が確認できず,細変動も減少又は消失している場合には,胎児仮死と考え,急速遂娩を行う。」(40頁)
(エ) 平成10年9月5日に株式会社メディカ出版から発行された「分娩介助と周産期管理」(甲B10,以下「周産期管理」という。)によると,次の趣旨の記載がある。
「遅発一過性徐脈を示す胎児仮死の重症度の鑑別のメルクマールとして,出現頻度及び子宮収縮の強さとの関係があり,陣痛のたびごとに出現するもの,弱い子宮収縮でも出現するものは高度であり,数回の陣痛に対し1回出現するもの,弱い子宮収縮では出現しないものは軽度である」。(50頁)
オ 遷延一過性徐脈について
(ア) 「報告」では,遷延一過性徐脈の定義について,次のaのとおりの提案がなされており,次のbのとおりの解説が付されている。
a 「遷延一過性徐脈とは,心拍数の減少が15bpm以上で,開始から元に戻るまでの時間が2分以上10分未満の徐脈をいう。」(1207頁)
b 「比較的予後良好な例から,胎児の低酸素症に基づくものまでいろいろである。頻度は少ないものの,早剥により発生したとの報告がある。発生機序を特定することは難しい。」(1213頁)
c 「2回の子宮収縮を経て続く場合は病的であるとの考えがある。」「4分以上続く徐脈で細変動の消失がみられたときに児のアシドーシスを予測するとの考えがある。」「70bpm未満の徐脈が有意に胎児のアシドーシスと関連があったとの研究結果がある。」(1213頁)
(イ) 「必修知識2」には次の趣旨の記載がある。
「1997年の米国でのワークショップでは,『2分以上持続し,10分以内に回復する一過性徐脈』との定義が提唱された。心拍数は通常100bpm以下となる。心拍数基線より30bpm以上低下する場合に意味があるとの報告もある。」「単発か,繰り返すか,また原因によりリスクは異なる。」(N382頁)
(ウ) 「実際」には次の趣旨の記載がある。
a 「持続時間に関しては,90秒以上,10分以内の一過性徐脈を遷延一過性徐脈と考える。」(43頁)
b 「遷延一過性徐脈が出現したら帝王切開を準備する必要がある。」(43頁)
カ 胎児心拍数モニタリングについて
a 平成16年9月1日に発行された日医雑誌第132巻第5号に搭載されている「周産期医療におけるリスクの軽減」と題する論文(I,乙B11)には,次の趣旨の記載がある。
「米国国立小児健康人間発達研究所のカンファランス(1997)でコンセンサスが得られているFHRパターンで,児の中枢神経学的障害や胎児死亡の危険が高いと考えられている所見としては,基線細変動が消失し,しかも,遅発一過性徐脈,変動一過性徐脈,持続する徐脈などである。逆に,正常な酸素化の状態にある胎児と診断しうるのは,基線と基線細変動ともに正常で,しかも一過性頻脈があり,一過性徐脈のないものである。これら以外の所見については,診断的意義及び胎児の取扱いは合意に至っていない。」(693頁)
b 「報告」には,次の趣旨の記載がある。
「正常基線,細変動正常,一過性頻脈の存在,一過性徐脈がない場合は児の酸素化も正常であると考えられる。また,その対極として,多くの委員が,児のアスフィキシア(胎児低酸素血症とアシドーシス)の可能性が高いパターンとして,遅発一過性徐脈,変動一過性徐脈あるいは遷延一過性徐脈が繰り返し出現し,かつ細変動が消失しているものとしている。この二極間に位置する多くの胎児心拍数パターンに関しては,胎児の状態あるいは処置に関しては未だ確定的なものは存在しない。」(1213頁)
(4) 妊娠中毒症について
(ア) 妊娠中毒症とは,妊婦に高血圧,蛋白尿,浮腫の1つ若しくは2つ以上の症状がみられ,かつこれらの症状が単なる妊娠偶発合併症によるものでないものをいう。病因は不明であるが,最近では,妊娠という負荷に対する母体の適応不全症候群と考えられている。(乙B10)
(イ) 日本産婦人科学会誌54巻5号の「研修医のための必修知識」と題する論説,甲B9,以下「必修知識3」という。)には,「妊婦が妊娠中毒症の場合はハイリスクであり,胎児の子宮内胎児発育遅延や低酸素症の発生頻度が高く,分娩中の厳重な胎児心拍数モニタリングが必要である」旨の記載がある。(N107頁)
2 D医師に,早剥発見義務に違反する過失があったか(争点(1))
(1) 原告の早剥発見義務違反の主張は,午前9時57分において原告Bに早剥が発生(「発生」とは,胎盤が子宮壁から剥離を始めることをいう。これに対し,「発症」とは,早剥に基づく症状が現れることをいう。)していたことが前提となる。
そこで,午前9時57分において,原告Bに早剥が発生していたと認められるか否かを検討する。
(2) 証拠〔乙A1(63頁),乙A7ないし9,証人D,同E,同F,原告B〕によれば,次の事実が認められる。
(ア) 原告Bの入院時に行われたD医師の診察では,第2の2(3)アで記載した妊娠中毒症の症状のほかは,異常が認められなかった。
(イ) E助産師に入院時モニタリングの中止を指示したD医師は,入院時モニタリングの結果に異常を認めなかったので,同助産師に対し,血圧の上昇に注意するようにと指示した以外には,特段の指示をしなかった(証人D亨尋問調書23頁)。同助産師は,D医師から特別の指示がなかったので,原告Bに対し,通常の妊婦に対するのと同様の分娩管理(1時間毎の腹部触診,胎児ドップラによる胎児心拍数計測,陣痛周期や持続時間計測,子宮口開大度の確認,性器出血の確認,血圧測定等)をした。
(ウ) 原告Bは,午前10時ころから強い腰痛を感じるようになり(原告B本人調書2頁,11頁),E助産師に対し,「腰がいたい」「おしりにくるような感じがする」「うんこしたい感じ」等との表現で腰痛を訴えた。原告Bは,腰を叩いたり,陣痛室の壁を手で叩いたり,四つんばいの格好になって,付き添っていた母に腰を叩いてもらったりした。
(エ) E助産師は,午前11時ころ,午前12時ころ,午後1時ころの3度にわたって原告Bを診察し,腰痛の訴えも聞いたが,特に異常があると感じることなく,一般の陣痛の痛みであると理解した。なお,E助産師は,原告Bについて,午前10時ころ,「入院時より苦痛様表情である」と,午前11時ころ「頭痛なし,気分不快なし,顔色,口唇色白っぽい」と,午前12時ころ「間欠時リラックスしている」と観察し,その旨パルトグラムに記載した。
(オ) E助産師は,午前11時ころ胎児心拍数を計測しようとしたが,手元に胎児ドップラが見当たらなかったので,分娩監視装置で胎児心拍数を計測した。その際,基線細変動は乏しかったが,同助産師は,D医師から特段の指示を受けていなかったので,心拍数だけに着目し,基線細変動が乏しいことについてD医師に報告しなかった。
(カ) 午後1時40分ころ,原告Bは,ナースコールでF助産師を呼び,腰痛を訴え,内診を依頼した。F助産師は,原告Bに対して内診をし,同原告の様子を観察したが,特に異常を感じることはなかった。しかし,その直後の午後1時45分ころ,第2の2(3)ケで記載したように,胎児徐脈が確認された。
(キ) D医師が陣痛室に到着した午後2時8分ころ,原告は,診察を受けるために陣痛室から分娩室まで,介助を受けながら自ら歩いて移動したが,午後2時10分ころ,分娩台の前で,恥骨付近を押さえ,「お腹が痛い。」と,初めて腹痛を訴えた。午後2時25分ころ,原告は手術室に入ったが,そのときF助産師及びE助産師は,原告の腹部が板状硬になっていることに気付いた。
(3) 1の(1)ないし(4),2の(2)で認定した事実及び前提事実を踏まえて検討した結果は,次のとおりである。
ア 早剥の典型的な臨床症状は,胎盤剥離部に一致する腹痛,不規則,頻回または持続的な子宮収縮及び性器出血であるということができる(1の(1)エ(ア)(イ))。そして,原告Bにこれらの症状が現れたのは,午後1時45分に胎児徐脈が確認された後であり,それ以前にはこれらの症状は生じなかった。また,原告らが早剥の症状であると主張する激しい腰痛が生じたのは,午前10時ころからであり,午前9時57分には,これも生じていなかった。その後生じた激しい腰痛は,「研修ノート」に早剥の臨床症状として「腰痛」が指摘されていること(1の(1)エ(エ))に鑑みると,早剥の症状であった可能性が否定できないが,長い助産師経験を持つE助産師及びF助産師がいずれも陣痛による痛みであると理解して異常を感じなかったのであるから,早剥の症状であったと断定するのは困難である。また,入院時からみられた「苦痛様表情」もE助産師の主観的な受け止め方であるから,これを早剥の症状であったと断定することもできない。
イ 入院時モニタリングの結果は,心拍数基線こそ正常であったものの,胎児が安心できる状態にあることを示したとはいえない。すなわち,胎児心拍数を測定することができた約26分間において一過性頻脈がみられなかったし,基線細変動は乏しかったし,一過性徐脈がみられた。しかしながら,次に検討するところによれば,これらの事実によっても,入院時モニタリングがなされていた当時,胎児が低酸素状態にあったと認めるには不十分であり,まして,原告Bに早剥が発症していたと認めることはできない。
(ア) 基線細変動
基線細変動は大部分が6bpmを超えず,超えた場合も多くは単発で,連続的に超えたのは,午前9時56分30秒ころから午前9時57分ころまでの一回だけであったから,「基線細変動の減少」と評価できないではない。そして,その可能性として考えられる主なものは,胎児の低酸素状態かノンレム睡眠中であることであり,これが胎児の低酸素状態を示すものと判断するためには,他の要素を検討する必要がある。
(イ) 一過性頻脈
一過性頻脈があれば胎児の健全性を確認できるが,胎動の少なくなる分娩中は,これがないからといって,直ちに胎児の不健全性を表すものとはいえず,他の要素を検討する必要がある。
(ウ) 一過性徐脈
a 本件一過性徐脈は,遅発一過性徐脈のパターンを備えているが,少なくとも入院時モニタリングが実施された時間内においては単発に生じたものであって,反復されなかった。したがって,本件一過性徐脈が陣痛の度に出現する重大な遅発一過性徐脈であったとはいえない。数回の陣痛に1回出現する遅発一過性徐脈であった可能性はあるが,他方で1回だけで消失した可能性もあり,入院時モニタリングが中止されたため,そのどちらであったかは判断できない。
なお,被告は,子宮収縮に応じた反復性を示さないものは遅発一過性徐脈ではない旨の主張をするところ,1の(3)エで認定した文献の記載によれば,被告の主張と同趣旨の文献もある〔「必修知識2」(1の(3)エ(イ)a)〕が,日本産科婦人科学会の「胎児心拍数図の用語及び定義検討委員会」が提唱した遅発一過性徐脈の定義案(1の(3)エ(ア))でもそのことは要件とされていないし,数回の陣痛に1回出現する場合であっても,遅発一過性徐脈ととらえて論じている文献も複数ある〔「実際」(1の(3)エ(ウ)a),「周産器管理」(1の(3)エ(エ))〕から,被告の上記主張は採用できない。
b 本件一過性徐脈は,開始から回復までに2分10秒ないし2分50秒を要し,心拍数の減少は15bpmであったから,日本産科婦人科学会の「胎児心拍数図の用語及び定義検討委員会」が提唱した遷延一過性徐脈の定義案(1の(3)オ(ア)a)に一応は該当する。しかし,持続時間も心拍数の減少幅も定義の最低条件に近く,この程度では病的ではない旨の研究結果がある〔「報告」(1の(3)オ(ア)c),「必修知識2」(1の(3)オ(イ))〕。しかも,これが繰り返されたことの確認もされていないから,本件一過性徐脈を病的な遷延一過性徐脈と断定していいのか,仮に断定できたとしてもその重要度については判然としない。
(4) なお,原告らは,ゴールデンタイムの理論から,原告Aが娩出された午後2時52分よりも5時間以上前,すなわち,午前9時52分より前に原告Bの早剥が発症していたと主張するので検討する。
ア 証拠(各項文中に記載)によると,次の事実が認められる。
(ア) 「研修ノート」には,「早剥の発症から児娩出まで5時間以内であれば,予後も比較的よい」との趣旨の記載がある。〔乙B20(74頁)〕
(イ) 株式会社医学書院発行の「今日の診断指針(ポケット版)第5版(平成14年11月1日発行),甲B8,以下「診断指針」という。)によると,早剥について,「初発から3時間以上経過すれば予後不良」との記載がある。(1621頁)
(ウ) 「基礎と臨床」(甲B3の3)の173頁には,「自覚症状として子宮の著明な圧痛出現を発症の目安とすると,発症後5時間以内に治療すれば,腎不全,DIC等の合併症も少なく,胎児の予後も比較的良いことがわかる。」との趣旨の,209頁には,「早剥の発症後少しでも早く,できれば5時間以内に治療を開始することが望ましい。」との趣旨の各記載がある。
(エ) 「基礎と臨床」(甲B3の2)の174頁に搭載されている「早剥18症例の発症より胎児娩出までの時間と早剥重症度および胎児予後との関係」と題する表は,横軸に「早剥発症後胎児娩出までの時間」をとり,縦軸に「早剥の重症度」をとって18症例の位置を示し,個々の症例の特徴を書き込んだものであるが,これによると,胎児娩出までの時間が4時間30分未満の9症例のうち,胎児死亡が3症例,胎児生存が6症例であるが,その9症例中にはDICを合併したものがなかったこと,胎児娩出までの時間が4時間30分を超えた9症例のうち胎児死亡が7症例,胎児生存が2症例であるが,その9症例中5症例においてDICを合併したことが読み取れる。
(オ) 株式会社文光堂発行の内科総合誌「Medical Practice」17巻2号(平成12年2月1日発行,乙19)の292頁に搭載されている「胎児早期剥離の発症後の時間経過に伴うDICの進展と急性腎不全の発生との関係」と題する表は,横軸に「早剥発症後治療開始時までの時間」をとり,縦軸に「産科DICの診断基準」をとって27症例の位置を示し,個々の症例の急性腎不全の発生の有無を示したものであるが,これによると,早剥発症後1時間以内に治療が開始されながら産科DICスコアが8点を超えた症例が3例あること,1時間を超えて3時間以内に治療が開始されながら,産科DICスコアが8点を超えた症例が4例あることがそれぞれ読み取れる。
イ 以上の事実によれば,早剥の多くの症例で,発症後3時間ないし5時間以内に胎児を娩出できれば,母子とも予後がよいことが多いとの認識としての「ゴールデンタイムの理論」が臨床経験上形成されていることが推認できるが,一方で,早剥発症後短時間のうちに急速に症状が悪化する例も決して珍しくはないというべきであるから,上記認識が臨床経験上形成されているからといって,そのことだけから,母子の予後が悪かった個別の事例において,胎児娩出の一定時間前に早剥が発症していたと認めることはできない。また,原告らは,原告Aの娩出に先立つ午後2時25分ころに原告BがDICに罹患していたと主張し,ゴールデンタイムの理論を適用すれば,原告Bはこれから5時間前には早剥を発症していたとの主張もするが,同様に採用することができない。
(5) 以上の検討の結果によれば,午前9時57分において原告Bに早剥が発症していたと認めることはできず,そのことを前提とする原告らの早剥発見義務違反の主張は採用することができない。
3 D医師に,午前9時57分ころ以降,原告Bの経過観察を続ける義務に違反する過失があったか(争点(2))
1の(1)ないし(4),2の(2)で認定した事実及び前提事実を踏まえると,次のとおりいうことができる。
(1) 妊娠中毒症は,かねて早剥の原因として重要視されてきたものであり,最近は無関係であるとの報告も多いとの指摘もある(1の(1)ウ)ものの,原告Bの本件分娩当時,その認識が医学界における一般的認識になっていたと認めるに足る証拠もないから,産科の医師としては,妊娠中毒症の妊婦の分娩については,ハイリスク妊娠として通常の分娩以上に慎重な分娩監視をする必要があったというべきである。
そして,原告Bについては,入院時から,血圧が150/100,尿蛋白陽性(++),手に浮腫があって妊娠中毒症の症状を備えていたのであるから,D医師としては,原告Bに対し,通常の妊婦以上に慎重な分娩監視をするべきであったということができる。
(2) 入院時モニタリングの結果及びそれに対する評価は,2の(3)イに記載したとおりである。すなわち,原告Bについては,心拍数基線こそ正常だったものの,一過性頻脈がみられず,基線細変動は乏しく,本件一過性徐脈がみられ,しかも本件一過性徐脈については,これが遅発一過性徐脈であるか,遷延一過性徐脈である可能性が否定できなかったというべきである。そうすると,胎児心拍数モニタリングについての近年の考え方(1の(3)カ)にしたがった場合,胎児が低酸素状態にあると認めるだけの根拠はないものの,胎児の状態が正常であると考える根拠もないことが明らかであり,その中間的パターンとして慎重な経過観察が必要であったというべきである。
(3) また,早剥の症状は,一般の切迫早産徴候と似ていることがあるので,その把握については慎重を要することを基礎的な医学文献が指摘している(1の(1)エ(ウ))。
(4) 以上を総合すると,D医師としては,原告Bが妊娠中毒症の状態にあることから,一般の妊婦よりも早剥発生の危険が高いことを念頭に置き,E助産師から入院時モニタリングの記録紙を見せられた時点で,同助産師に対し,胎児心拍数モニタリングを連続的,あるいは断続的に実施することを指示すべき注意義務があったということができ,これを怠ったことについて,D医師に注意義務違反があったとの評価を免れないというべきである。
なお,E助産師は,入院時モニタリングを中止した後,午前11時ころ分娩監視装置を使って,午後1時ころ胎児ドップラを使って,それぞれ胎児心拍数が正常であることを計測,確認したが,胎児心拍数の計測だけでは,徐脈や頻脈をとらえることはできても,胎児心拍数の一過性の変動や子宮収縮との関係はとらえることができないから,これでは経過観察として不十分であることが明らかである。
4 D医師の経過観察義務違反と原告らの症状との因果関係
(1) 原告Bの胎盤は,約2分の1が剥離しており,子宮前壁から底部にかけて血液浸潤が著明で,後血腫は多量であった(第2の2(4)イ)。これは,前記の早剥の分類(1の(1)イ)にしたがえば,第Ⅱ度中等症ないし第Ⅲ度重症に分類されるものである。早剥が発生してから第Ⅱ度中等症ないし第Ⅲ度重症にまで進行するには,一定の時間の経過を要すると考えられるから,前記のように,原告Bに早剥の典型的な臨床症状が現れたのが午後1時45分に胎児徐脈が確認されたよりも後であるとしても,早剥の発生が同時刻ころであったと認めることはできず,その一定時間前に早剥は発生していたと認めるべきである。そして,早剥が発生し,胎盤の子宮壁からの剥離が進めば,胎盤循環が阻害されて,胎児は低酸素状態に陥るから,本件において早剥の臨床症状の発症は遅れたが,継続的又は断続的に胎児心拍数モニタリングがなされていれば,午後1時45分の徐脈の確認よりも以前に,心拍陣痛図において,胎児低酸素状態に基づくパターン(基線細変動の減少,遅発一過性徐脈等)を発見あるいは確認することができ,これに基づいて超音波検査をすることによって早剥の確定診断をすることができたと考えられる。
(2) しかしながら,前記のように,入院時モニタリングの結果からは,その終了時点で原告Bが早剥を発症していたとは認められない(したがって,早剥が発生していたとも認められない)し,その後激しくなった腰痛も,早剥の発症であるとは認められないから,本件において,原告Bに早剥が発生した時期は不明であるといわざるを得ないし,原告Bに対する胎児心拍数モニタリングが継続的ないし断続的に実施されていたとしても,その心拍陣痛図に,胎児低酸素症に基づくパターンがいつころ生じていたかも不明であるといわざるを得ない。
そうすると,D医師に上記注意義務違反がなく,午前9時57分以降,継続的又は断続的に胎児心拍数モニタリングを続けていたとすれば,これによって胎児の低酸素状態を把握することができ,超音波検査を実施することによって速やかに早剥の確定診断ができ(1の(1)カに記載したように,進行期の早剥については超音波検査で診断が容易である。),直ちに帝王切開を実施して,現実に原告Aを娩出した時刻よりも早い時期に同原告を娩出することができた蓋然性があるというべきであるが,どの程度早く同原告を娩出することができたかを認めることができないから,D医師に上記注意義務違反がなかった場合,原告Aの重症胎児新生児仮死状態での出生及び重篤な後遺症の発生並びに原告Bの子宮膣上部切断を避けることができたと認めるのは困難である。すなわち,D医師の注意義務違反と原告Aの重症新生児仮死及び後遺症,原告Bの子宮膣上部切断との間の因果関係を認めることはできない。
(3) もっとも,新生児仮死状態で生まれた新生児の予後の程度は,分娩までの低酸素状態の時間の長さが大きな要因になると考えられるし,前記のとおり,「ゴールデンタイム」の理論が臨床経験上形成されていること(2の(4)イ)に照らしても,早剥発生から胎児娩出までの時間が短ければ短いほど母子とも予後がよいというべきであるから,D医師の上記注意義務違反がなかった場合,原告Aに重症新生児仮死が生じず,上記の重篤な後遺症が残存しなかった相当程度の可能性,原告Bに子宮膣上部喪失という重大な後遺症が残存しなかった相当程度の可能性は認められるというべきである。
そして,医師の注意義務違反と患者に生じた重大な後遺症との間の因果関係が証明されなくとも,医師の注意義務違反がなければ,その重大な後遺症が生じなかった相当程度の可能性の存在が証明されるときは,医師は,患者がその可能性を侵害されたことによって被った損害を賠償すべき不法行為責任を負うものと解するのが相当である。(最高裁判所平成15年11月11日第3小法廷判決・民集57巻10号1466頁参照)
(4) 上記可能性の侵害に対する損害賠償として,財産的損害(但し,弁護士費用を除く)を肯認するのは困難であり,精神的損害のみを認めるべきである。そして,その金額は,原告Aについては,原告Aの後遺症が第2の2(4)クで記載したようにまことに重篤であること,その後遺症が生じなかった可能性の程度,その他本件に現れた一切の事情を考慮し,金1000万円をもって相当と認め,原告Bについては,子である原告Aが重篤な後遺症を生じなかった相当程度の可能性を侵害されたことに対する母としての固有の慰謝料として100万円,自らが子宮膣上部喪失という重大な後遺症が残存しなかった相当程度の可能性を侵害されたことに対する慰謝料として,原告Aの出産が原告Bにとって初産であったこと,原告Bは二度と子を産むことができなくなったこと,上記可能性の程度,その他本件に現れた一切の事情を考慮して100万円,以上の合計200万円をもって相当と認め,原告Cについては,原告Bと同様に,原告Aの父としての固有の慰謝料として100万円をもって相当と認める。
また,D医師の注意義務違反と因果関係のある弁護士費用としては,原告Aについては100万円,原告Bについては20万円,原告Cについては10万円と認めるのが相当である。
5 結論
以上の検討の結果によれば,D医師の使用者である被告は,民法715条により,原告Aに対し,金1100万円,原告Bに対し金220万円,原告Cに対し金110万円及びこれらに対する不法行為の日である平成15年1月23日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払う義務があるというべきであり,原告らの本訴各請求は,上記の限度で正当として認容すべきであり,その余は棄却すべきである。
(裁判長裁判官 井戸謙一 裁判官 土井文美 裁判官 大川潤子)