京都地方裁判所 平成18年(行ウ)12号 判決 2008年10月28日
主文
1 原告らの請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
京都下労働基準監督署長が平成17年3月30日付けで原告Aに対してした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。
第2事案の概要
本件は,平成14年4月1日に西日本旅客鉄道株式会社(以下「本件会社」という。)に入社し,駅の改札業務等に従事していたB(昭和59年3月10日生。)が,平成15年7月20日午前10時25分ころ,C駅の駅ホームから列車に飛び込み,死亡したところ,Bの両親である原告らが,Bの死亡は,業務による心理的負荷により発症した適応障害によるものであるとして,労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づき,遺族補償給付及び葬祭料を請求したのに対し,京都下労働基準監督署長が平成17年3月30日付けで行った不支給決定処分(以下「本件処分」という。)の取消しを求める事案である。
1 基礎となる事実(争いのない事実並びに末尾記載の各書証及び弁論の全趣旨によって認められる事実)
(1) 原告Aは,平成15年7月20日死亡したBの父であり,原告Dは,Bの母である(甲1)。
(2) Bの業務歴及び自殺
ア Bは,金沢市の高等学校を卒業後,平成14年4月1日より本件会社の京都支社に就職した。
イ Bは,本件会社に採用された後,約3週間,大阪府吹田市所在の社員研修センターで研修を受け,平成14年4月24日から,駅員としてE駅に配属され,およそ1か月程度,駅の実務に関する実地研修を経た後,平成15年7月20日に死亡するまで,E駅に配属され,同駅及びF駅における駅員業務に従事していた。
ウ Bは,入社後から,本件会社の独身寮で生活していた。
エ Bは,平成15年7月20日の朝,勤務開始時間に遅刻した。Bは,同僚からの電話で起こされ,上司から早く出勤するよう指示を受けて寮を出たが,E駅へ向かう途中,適応障害を発症し,午前10時25分ころ,C駅ホームから電車に飛び込んで自殺した(以下「本件自殺」という。甲2)。
(3) Bの遅刻状況等
ア Bの遅刻状況
Bは,平成14年4月24日,E駅に配属されて以降,下記のとおり,配属初日である同日のほか,同年8月16日,平成15年3月31日及び本件自殺の当日である同年7月20日の合計4回始業時刻に遅れている。
(ア) 1回目の遅刻
Bは,平成14年4月24日,午前8時の始業時刻に35分遅刻した(午前8時35分に出勤)。
(イ) 2回目の遅刻
Bは,同年8月16日,午前8時50分の始業時刻に7分遅刻した(午前8時57分に出勤)。
(ウ) 3回目の遅刻
Bは,平成15年3月31日,午前10時の始業時刻に50分遅刻した(午前10時50分に出勤)。
(エ) 4回目の遅刻
Bが,同年7月20日,午前10時の始業時刻に出勤しなかった。
そこで,Bと同期のGがBに電話をし,E駅係長のH(役職は当時。以下「H係長」という。)が電話を代わってBに早く出勤するよう告げた(乙23・6頁,乙15・3頁,審乙33)。Bは,その日の午前10時25分ころ,通勤中に,列車に飛び込み,自殺した(本件自殺)。
イ Bの遅刻に対する措置等
(ア) 1回目の遅刻について
Bは,1回目の遅刻について,勤務終了後,E駅首席助役のI(所属,役職は当時。以下「I首席助役」という。)から遅刻理由等を確認され,口頭による注意を受けた。
(イ) 2回目の遅刻について
Bは,2回目の遅刻について,I首席助役との面談で遅刻理由等を確認され,口頭で注意を受けたほか,欠勤時間分の減給(基本給103円の減給)の措置を受けた。
また,Bは,本件会社京都支社長名義の平成14年12月30日付け文書で,1回目の遅刻と併せて厳重注意を受けた(乙12・A10,乙13,乙19)。
(ウ) 3回目の遅刻について
Bがした3回目の遅刻については,Bが勤務先に到着したときには,既に本件会社が手配した代替者が勤務を開始していたため,Bは,1日分の不就労として扱われ,基本給8時間分の減給(7108円の減給)措置を受けた(乙13)。また,同日,Bは,I首席助役とE駅長のJ(以下「J駅長」という。)との面談で,両親に連絡をするよう告げられ,翌日,B及び両親である原告らは,J駅長,I首席助役及びK本社アドバイザーと面談をした。その後,Bは,本件会社京都支社長名義の平成15年5月20日付け文書で厳重注意を受けた(甲9,乙16・2頁,乙25・1頁)。
(エ) その他の措置
本件会社は,Bに対し,上記厳重注意等を考慮し,勤務成績が良好でないとして,平成15年上期の期末手当(賞与)から5万円を減額している(乙12・A10,乙13)。
(4) 本件処分(甲4の1・2)
ア 原告ら(代表者として原告Aが選任された。審乙1・2丁)が,平成16年3月24日,Bの死亡は業務による心理的負荷により発症した適応障害によるものであるとして,労災保険法に基づき,遺族補償給付及び葬祭料を請求したところ(審乙1,審乙2),京都下労働基準監督署長は,平成17年3月30日付けで,遺族補償給付及び葬祭料についていずれも不支給とする決定(本件処分)をした(審乙3,審乙4)。
イ 原告Aが,本件処分につき,平成17年5月13日付けで京都労働者災害補償保険審査官宛に審査請求を行ったところ,同審査官Lは,平成18年1月13日付けで,審査請求を棄却する決定をした(甲5)。
ウ そこで,原告Aは,平成18年2月1日付けで労働保険審査会宛に再審査請求を行ったところ(甲6),3か月を経過しても裁決がなく,原告らは本件訴えを提起した。その後,労働保険審査会は,平成20年5月30日付けで,再審査請求を棄却する決定をした(乙37)。
(5) 労災保険法に基づく保険給付の対象
ア 労災保険法は,「労働者の業務上の負傷,疾病,障害又は死亡」等(以下「業務災害」ともいう。同法7条1項)について保険給付を行うこととし,労働者の業務上の死亡についての保険給付として,遺族補償給付と葬祭料を定めている(同法12条の8第4号,5号)。
イ 労災保険法に基づく保険給付の対象となる業務上の疾病(同法7条1項1号)については,労働者の災害補償について定めた労働基準法(以下「労基法」という。)75条2項の委任を受け定められた同法施行規則35条により同規則別表第1の2に列挙されている。
精神障害については,同表に明文の定めはなく,同表第九号規定の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当する場合に,労災保険法に基づく保険給付の対象となる業務上の疾病として扱われる。
ウ そして,労働者の自殺が労働者の業務災害に該当するか否かについて,労働省(平成11年当時。現厚生労働省。)労働基準局長は,「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針について」(平成11年9月14日付け基発第544号。以下単に「判断指針」ともいう。乙1)という指針を通達し,自殺の業務上外の判断に当たって,業務による心理的負荷により国際疾病分類第10回修正(以下「ICD-10」という。)第V章「精神および行動の障害」によりF0からF4に分類される精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った場合には,精神障害によって正常な認識,行為選択能力が著しく阻害され,あるいは自殺行為を思いとどまる精神的抑制力が著しく阻害されている状態に陥ったものと推定し,原則として業務起因性を認めることとする方針を示した(乙1・10頁)。
また,労災保険法12条の2の2は,労働者が,故意に負傷,疾病,障害若しくは死亡又はその直接の原因となった事故を生じさせたときは,保険給付を行わない旨定めているが,労働基準局長は,平成11年9月14日,「精神障害による自殺の取扱いについて」(同日付け基発第545号)という判断指針を通達し,同法における「故意」の解釈について,「業務上の精神障害によって,正常の認識,行為選択能力が著しく阻害され,又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたと認められる場合」には,同法による故意には該当しないとの解釈基準を示した(乙3)。
(6) 心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針
ア 上記(5)ウ記載の判断指針は,業務との関連で発病する可能性のある精神障害を対象疾病として定め,まず,精神障害の発病の有無等を判断した上,業務による心理的負荷の強度,業務以外の心理的負荷の強度,個体要因について各々評価し,これらを総合判断して業務上外の判断を行うこととし,さらに,自殺の業務上外の判断に当たっては,業務による心理的負荷によってこれらの精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った場合には,精神障害によって正常な認識,行為選択能力が著しく阻害され,あるいは自殺行為を思いとどまる精神的抑制力が著しく阻害されている状態に陥ったものと推定し,原則として業務起因性を認めることとした。
イ 判断指針が対象とする疾病(以下「対象疾病」という。)は,原則としてICD-10第V章「精神および行動の障害」に分類される精神障害とする。
ウ ①対象疾病に該当する精神障害を発病していること,②対象疾病の発病前おおむね6か月の間に,客観的に当該精神障害を発病させるおそれのある業務による強い心理的負荷が認められること及び③業務以外の心理的負荷及び個体側要因により当該精神障害を発病したとは認められないことの3要件をいずれも満たす精神障害は,労働基準法施行規則別表第1の2第九号に該当する疾病として取り扱う。
エ(ア) 業務による心理的負荷の強度の評価に当たっては,当該心理的負荷の原因となった出来事及びその出来事に伴う変化等について,判断指針別表1「職場における心理的負荷評価表」(以下,単に「別表1」という。)を指標として,「弱」,「中」,「強」のいずれに該当するかを総合的に評価する。
同表は,①当該精神障害の発病に関与したと認められる出来事が,一般的にはどの程度の強さの心理的負荷と受け止められるかの判断,②出来事の個別の状況を斟酌し,その出来事の内容等に即した心理的負荷の強度の修正,③出来事に伴う変化等がその後どの程度持続,拡大あるいは改善したかの評価から構成されている。
なお,上記②及び③を検討するに当たっては,本人がその出来事及び出来事に伴う変化等を主観的にどう受け止めたかではなく,同種の労働者,すなわち,職種,職場における立場や経験等が類似する者が,一般的にどう受け止めるかという観点から検討されなければならず,具体的には,以下の(イ),(ウ)の手順で行う。
(イ) 出来事の心理的負荷の評価は,別表1の(1)「平均的な心理的負荷の強度」欄のどの具体的出来事に該当するかを判断して,平均的な心理的負荷の強度をⅠ(日常的に経験する心理的負荷で一般的に問題とならない程度の心理的負荷),Ⅱ(ⅠとⅢの中間に位置する心理的負荷),Ⅲ(人生の中でまれに経験することもある強い心理的負荷)のいずれかに評価し,出来事の具体的内容,その他の状況等を把握した上で,別表1の(2)「心理的負荷の強度を修正する視点」欄に掲げる視点に基づいて修正の要否を検討する。
(ウ) 出来事に伴う変化等による心理的負荷は,出来事に伴う変化として,別表1の(3)「出来事に伴う変化等を検討する視点」欄の各項目に基づき,出来事に伴う変化等がその後どの程度持続,拡大あるいは改善したかについて検討する。具体的には,仕事の量(労働時間,仕事の密度等)の変化,仕事の質の変化,仕事の責任の変化,仕事の裁量性の欠如,職場の物的,人的環境の変化,支援・協力等の有無を考慮する。
(エ) 上記(イ),(ウ)の手順により検討した結果,①(イ)の手順により修正された心理的負担の強度がⅢと評価され,かつ,(ウ)の手順による評価が相当程度過重(同種労働者と比較して業務内容が困難で業務量も過大であること等が認められる状態)であると評価される場合及び②(イ)の手順により修正された心理的負担の強度がⅡと評価され,かつ,(ウ)の手順による評価が特に過重(同種労働者と比較して業務内容が困難であり,恒常的な長時間労働が認められ,かつ,過大な責任の発生,支援・協力の欠如等特に困難な状況が認められる状態)であると評価される場合には,心理的負荷の強度は「強」と評価される。
オ 業務以外の心理的負荷の強度は,発病前おおむね6か月の間に起きた客観的に一定の心理的負荷を引き起こすと考えられる出来事について,判断指針別表2「職場以外の心理的負荷評価表」(以下,単に「別表2」という。)により評価する。
カ 個体側要因として,精神障害の既往症,社会適応状況,アルコール等依存状況及び性格傾向について考慮すべき点が認められる場合は,それが客観的に精神障害を発病させるおそれがある程度のものと認められるか否かについて検討する。
キ 業務以外の心理的負荷,個体側要因が特段認められない場合で,業務による心理的負荷が「強」と認められる場合には,業務起因性があると判断する。
業務による心理的負荷が「強」と認められる場合であっても,業務以外による心理的負荷又は個体側要因が認められる場合には,業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷の関係について検討を行う必要があるが,業務以外の心理的負荷が極端に大きかったり,強度Ⅲに該当する出来事が複数認められる等業務以外の心理的負荷が精神障害発病の有力な原因となったと認められる状況がなければ,業務起因性があると判断する。
また,個体側要因に問題が認められる場合にも,業務による心理的負荷と個体側要因の関係について検討を行う必要があるが,精神障害の既往歴や生活史,アルコール等依存状況,性格傾向に顕著な問題が認められ,その内容,程度から個体側要因が精神障害発病の有力な原因となったと認められる状況がなければ,業務起因性があると判断する。
2 争点
Bの適応障害の発症及び自殺は業務起因性を有するか。
(1) 原告らの主張
ア Bの遅刻が「適応障害」を発症させるおそれのある業務による強い心理的負荷であったこと
(ア) 本件会社における遅刻という業務上のミスの重大性
公共交通機関で定時運行が至上命題である本件会社は,社員に対して,遅刻は絶対に許されないものとして,極めて厳しく指導していた。本件会社は,乗務員であろうが駅員であろうが,時間を守ることは勤める際の絶対的な条件であり,「時間にルーズならば,JRをやめよ」という職場であった。
(イ) Bが過去に3回の遅刻をしたことで再度遅刻した場合には退職は避け難い状況に追い込まれていたこと
a 上記記載のとおり,本件会社においては遅刻することは許されないとされており,同一の従業員について3回目の遅刻があるというのは大変まれであり,ここまで許されない遅刻を繰り返したのはBのみで,前例もなかった。
このように,本件会社においては,3回目に遅刻した段階で,Bは直ちに本件会社を辞めるよう言われても仕方がない状況であった。
b 1回目の遅刻の際に本件会社からBに課された処分は,口頭による注意のみであったが,2回目においては,遅刻した時間分の給与の減額を受けるとともに,支社長名義による文書による「厳重注意」がされるなど,処分は既にかなり重くなっていた。
3回目の遅刻についての処分は,前回は遅刻した時間分のみの減額であったのに対し,「不参」として勤務を拒否され,その日の分の賃金は支払われなくなり,さらに,親である原告らが呼び出されBと共に駅長から指導を受けるという扱いを受け,Bは面談では泣きながら反省文を提出し,二度と遅刻をしないと誓った。その後,支社長名義の文書による「厳重注意」が行われ,これらの事情を踏まえて,賞与の査定において5万円が減額された。
c Bは,親の呼出しや反省文提出などによって本件会社の勤務継続が可能となったが,再度遅刻をすれば,到底,Bが本件会社での勤務を継続することはできない状況にあった。4回目の遅刻は,単なる「遅刻」ではなく,Bが本件会社に在職できるかどうかがかかったものであった。
イ 業務以外の心理的負荷,個体側要因が見られないこと
Bは,穏和な性格で同僚ら友人からの信頼も厚く,「B’」と呼ばれ親しまれていた。平成15年4月には彼女ができ,同年7月終わりには二人で旅行に行く計画を立てるなど,彼女との関係は良好で幸せに過ごしていた。金沢に住む両親とも,大阪府吹田市に住む姉とも,手帳に誕生日を書き込むなど,仲良く過ごしていた。また,Bには,精神障害の発病歴はない。
このように,Bには,業務以外の心理的負荷,個体側の要因はなかった。
ウ 上記事情を総合考慮すれば,本件におけるBの精神疾患の発症及び自殺は,業務起因性を有する。
エ また,本件自殺は,判断指針に当てはめても,以下のとおり業務起因性が認められる。
(ア) 平均的な心理的負荷の強度
本件会社において,遅刻は絶対に許されないものとして取り扱われており,Bは「会社にとっての重大な仕事上のミスをした」(強度Ⅲ)といえる。
また,Bは,既に3回の遅刻をしていたことから,次に遅刻をしたら本件会社を辞めるしかない窮地に追い込まれていたのであり,4回目の遅刻をしてしまったことは,「退職を強要された」(強度Ⅲ)に等しいことである。
さらに,Bには,車掌試験が不合格になる,F駅での勤務を命ぜられるなど,「仕事上の差別,不利益取扱いを受けた」(強度Ⅱ)というべき状況があった。
(イ) 心理的負荷の強度を修正する視点
まず,本件会社においては,遅刻は絶対に許されないものとして極めて厳しく指導されていたことに照らし,ミスの大きさ・重大性は,極めて大きい。また,Bは,次に遅刻をすれば,退職するしかなく,それにかわる代償措置はないと考えざるを得ない状況であった。さらに,仕事上の差別,不利益取扱いという点では,このまま本件会社で勤続する限り,遅刻が負の評価としてついて回るという点で,強い負荷を伴うものであった。
このように,本件においては,4回目の遅刻という仕事上の重大なミスについて,強度「Ⅲ」から修正される要素はない。
(ウ) 出来事に伴う変化等を検討する視点
本件会社としては,Bの重ねての遅刻はその業務の特質からして許されざることであり,この仕事上の重大なミスについて,Bをかばったり心理的に支援することはあり得なかった。かえって,3回目の遅刻の際には親を遠方から呼んで,再び遅刻を重ねれば「次はない」と,退職しなければならないと考えざるを得ないことを述べていた。
このような事情に照らせば,本件における出来事に伴う変化は相当程度過重であった。
(エ) 業務による心理的負荷の強度の総合評価
以上より,本件において,業務による心理的負荷の総合評価は「強」と認められ,業務起因性は肯定される。
(オ) なお,被告が業務上外判断について依拠している判断指針は,「本人がその出来事及び出来事に伴う変化等を主観的にどう受け止めたかではなく,同種の労働者が一般的にどう受け止めるかという観点から検討されなければならない。ここで『同種の労働者』とは職種,職場における立場や経験等が類似する者をいう」としている。
判断指針における「同種の労働者」とは,性格やストレス反応性について多様な状況にある労働者のうち,日常業務を支障なく遂行できる,同種労働者のなかで最も脆弱な者を基準とするものであるところ,Bは本件会社において日常業務を支障なく遂行していたのであるから,判断指針が前提とする「通常想定される範囲の同種労働者」から逸脱するものではない。
(2) 被告の主張
ア Bに対する業務による心理的負荷について
(ア) 業務が過重でなく,強い精神的負荷がかかるものではなかったこと
Bが就いていた業務は,出改札,ホーム業務及び不定の補助的業務であり,日常の業務に強い精神的負荷が認められるものではなかった。また,Bに業務上の目立ったトラブル等はなかった。
Bの休日は週2日以上確保されており,時間外労働時間数は,始業前30分を加算したとしても,発症前1か月間で16時間15分であって,労働日数が20日であることから,1日当たりの平均時間外労働時間数は49分弱にすぎない。発症前6か月間を見ると,さらに時間外労働時間数は少なくなる。泊り勤務など不規則な面があるものの,頻繁な勤務変更等もなく,発症前1か月間において勤務変更は1度も認められない。
(イ) 本件会社における遅刻による心理的負荷の程度が特に強いものであるとは認められないこと
出勤時刻に出勤することは全ての労働者にとって労働契約上当然要求されることである。公共交通機関以外の様々な企業においても,時間厳守が特に求められる業務は少なくなく,時間厳守が要求されることは,何ら本件会社に特殊なことではない。
また,本件会社において,個々の輸送業務に当たる運転士が時間厳守の徹底を要請され,1件の事故等であっても,会社の業務全体に大きな影響を与えることは確かであるが,Bの従事していた駅員業務の場合,特別の試験・資格に基づく業務ではなく,駅員同士の代替の困難性は認められず,駅員の遅刻に対しては代替要員の手配が可能であった。
このように,Bが従事していた業務は,出勤時刻の厳守について強い心理的負荷を与える性質のものであったとはいえない。
(ウ) 本件会社においてBの遅刻に対して過重な処分等はなかったこと
Bの遅刻に対する本件会社の措置等は,基礎となる事実(3)イ記載のとおりであり,欠勤部分(不就労時間分)の減給は,雇用契約上の賃金規定(乙12・賃金規定99条)に基づく通常の措置であり,賞与額の減額も勤務成績を反映したもので不当な措置ではない。そして,厳重注意は,就業規則上の懲戒処分ではなく,本件において,Bに遅刻を理由とする過重な懲戒処分等が実施されたというような事実は認められない。
また,遅刻に対する上司らの指導,注意等の内容は,いずれも遅刻の原因を確認し,社会人として時間管理をきちんとすること,遅刻をしないことを口頭で注意したものであり,4回目の遅刻当日の対応も,厳しい叱責や罵倒などはなく,いずれも社会的に相当な範囲内のものであり,これらが強い心理的負荷を与えるものであったとはいえない。
(エ) Bに対する不利益取扱いはなかったこと
Bが車掌試験に不合格となった具体的な理由は,不明であるものの,仮に遅刻が合否要素として考慮されたとしても,勤務状況等を車掌の適格性を判断するに当たって考慮することは合理性を有し,不当な不利益取扱いとはいえない。
また,BがF駅で業務に当たることが,業務上の不利益な取扱いであるとは認められない。
(オ) 以上の各要素を総合的に判断すると,Bに対する業務による心理的負荷は,社会通念上,客観的に見て,精神障害を発症させる程度に過重なものであったとはいえず,Bの適応障害の発症及び自殺に業務起因性は認められない。
イ 精神障害の業務起因性の具体的な判断に当たっては,判断指針によるのが合理的であるところ,判断指針に照らしても,Bの適応障害の発症及び自殺に業務起因性は認められない。
(ア) 出来事の平均的な心理的負荷の強度
Bの遅刻は仕事上のミスなので,別表1(1)欄の具体的出来事にはそのまま該当するものはないものの,一応「会社にとっての重大な仕事上のミスをした」を類推して,一応強度Ⅲと考えた上で,下記(イ)のとおり,精神的負荷を評価するのが相当である。
(イ) 心理的負荷の強度の修正
上記(ア)で認定した平均的な心理的負荷の強度について,判断指針記載の「失敗の大きさ・重大性,損害等の程度,ペナルティの有無等」により修正すると,Bの従事していた業務内容,立場に照らし,Bの遅刻が本件会社の業務に重大な影響を及ぼすとは認められず,また,Bの遅刻に対する注意・指導は,前述のとおり,社会的相当性の範囲内のものであったのであるから,Bの遅刻という出来事は,客観的に見て,労働者に強い心理的負荷を与えるものとはいえず,その強度はⅠに修正される。
なお,単に本人の資質により出勤時刻に出勤することが困難であり,それが心理的負荷であったとしても,このことは直ちに業務による心理的負荷とはいえない。
(ウ) 出来事に伴う変化の評価
Bが遅刻をすることは,Bにとって,何ら仕事の量の変化,仕事の質の変化,仕事の責任の変化等をもたらすものではなく,また,本件会社においては,寮生に対して,職場に起床報告をするよう指導が行われ,寮の管理係が起床の援助をするなど,遅刻防止の援助が行われており,同僚も勤務が同じときには起床を援助し,I首席助役も,翌年度の車掌試験に合格するよう激励し,車内補充券発行機の取扱いを教えるなど,精神的支援を行っていた。
(エ) 上記のとおり,本件においてBの遅刻に係る心理的負荷は強度Ⅰであり,出来事に伴う変化における過重性も認められないのであるから,Bが発病したと推定される適応障害に関し,業務起因性は認められない。
(オ) なお,判断指針は,心理的負荷の判断において,「本人がその心理的負荷の原因となった出来事をどのように受け止めたかではなく,多くの人々が一般的にはどう受け止めるかという客観的な基準によって評価すべきである」と明示しており,心理的負荷の程度については,通常想定される範囲の同種労働者(幅のある概念であり,その中には,ストレスに対して脆弱な者も含まれる。)を基準として,客観的に判断されるべきである。心理的負荷の程度について,最脆弱者や本人を基準にすることは,客観的なストレス強度を把握する「ストレス-脆弱性理論」とは矛盾する。
第3争点に対する判断
1 証拠(甲9,甲10の1ないし甲10の3,甲14ないし甲21,審甲1,審甲5の2,乙7ないし乙10,乙13ないし乙25,審乙5,審乙9,審乙12,審乙13,審乙17ないし審乙22,審乙23の3,審乙23の5,審乙26の1・2,審乙27ないし審乙36,証人J,証人I,証人G,証人M,証人N,原告A)によれば,本件について,以下の事実が認められる。
(1) 本件自殺以前のBの勤務状況等
ア Bは,平成14年4月24日に駅員としてE駅に配属され,およそ1か月程度,実地研修を経た後,平成15年7月20日に死亡するまで,同駅において出改札,ホーム業務及び不定の補助的業務に従事していた(審乙12,審乙19ないし審乙21)。また,平成15年4月からはE駅が所管するF駅において,出改札業務及び補助業務に就くことがあった。
イ 本件会社における駅員の業務内容及び勤務時間は,作業ダイヤによって異なるものであり,Bの死亡前6か月間の業務は,次のとおりであった(審乙5,審乙9,審乙12,審乙18,審乙20,審乙21,乙10)。
(ア) E駅における勤務
・ 「7d勤務」は,作業ダイヤに基づかない変形業務のうち,労働時間が7時間45分の基本的な業務形態を指し(審乙22),午前9時始業,午後5時45分終業で補助的業務を行うものであった(乙10)。
・ 「営業機動B勤務」は,午前10時始業,午後8時終業であり,午前中は事務作業を行い,午後はホーム業務を行うものであった(審乙20)。Bが,平成15年3月31日及び同年7月20日に遅刻したのは,この勤務である。
・ 「改札泊り勤務」(改札業務)は,午前9時始業,翌日午前9時30分終業であり,初日の午前中から二日目の午前1時30分ころまで,休憩を挟みながら,改集札業務及び帳票整理を行い,その後,仮眠をとり,二日目の午前6時30分から午前9時の引継ぎまでの間,改札業務を行うものであった。
(イ) F駅における勤務
・ 「7d勤務」は,作業ダイヤに基づかない変形業務のうち,労働時間が7時間45分の業務形態を指し(審乙22),午前9時始業,午後5時45分終業で補助的業務を行うものであった。
・ 「営業B泊り勤務」は,午前9時始業,翌日午前9時30分終業である。その業務は日中出改札業務を行った上で,午後11時から仮眠をし,その後,二日目の午前3時30分に起床し,信号報告をした後に,F駅の自動改札機等を作動させ,同じく泊り業務である営業Aを起こすなど,駅の開業準備を担当するものであった(審乙21)。
ウ Bは,平成15年2月4日及び同年3月11日に,平成14年度車掌科試験を受験したが,不合格であった(甲17,乙20)。E駅管内に配属された同期の駅員12名(高校卒職員,乙12)のうち,試験を受けられなかった者が1名,不合格となった者がBを含めて2名であった(乙19)。
(2) Bが,自身の遅刻について,本件会社から受けた処分
基礎となる事実(3)イ記載のとおり,本件会社はBに対して,欠勤時間に対応した基本給の減給(2回目の遅刻について103円,3回目の遅刻について8時間分7108円)を行った。
また,本件会社は,1回目の遅刻と2回目の遅刻を併せて平成14年12月30日付け文書でBを厳重注意処分とし,3回目の遅刻について,平成15年5月20日付け文書でBを厳重注意処分とした(甲9,乙12・A10,乙16,乙25・1頁)。
さらに,本件会社は,Bに対し,上記厳重注意等を考慮し,勤務成績が良好でないとして,平成15年上期の期末手当(賞与)から5万円を減額した(乙12,乙13)。
なお,上記厳重注意処分は,就業規則上の懲戒処分に該当するものではなく,懲戒事由に形式的に該当するが懲戒を行う程度に至らないものに対してされる事実上の処分であり(乙16・2頁,乙17,乙19・3頁),Bが死亡するまでの間,本件会社が,Bに対して,就業規則上の懲戒処分を行うことはなかった。
(3) Bが,自身の遅刻について,上司から受けた指導・注意
ア 1回目の遅刻について,Bは,勤務終了後,I首席助役から遅刻理由等を確認され,口頭による注意を受け,始末書を提出した(甲14)。
なお,E駅では,駅員の遅刻について,本件会社京都支社への報告事項となっており,遅刻の事情等について聞き取りが行われていた(証人I,乙21・2頁)。
イ 2回目の遅刻について,Bは,I首席助役との面談で遅刻理由等を確認され,口頭で注意を受け,翌日,始末書を提出した(甲15)。また,平成14年12月30日付けの厳重注意処分の交付を受ける際に,駅長からも口頭での指導を受けたことが推認される(証人M)。
Bが作成した始末書には,生活,特に出勤までのリズムをしっかり作ること,時計を増やし時間に厳しくしなければいけないと思うことなど今後の方針が記載されているほか,E駅に寛大な処置をお願いします,との文言も記載されていた。
また,2回目の遅刻後,Bは,上司から,次に遅刻した場合にどう責任をとるのか問われ,その際,次に遅刻したら本件会社を辞めると答えていた(証人N,甲19)。
ウ 3回目の遅刻について,Bは,駅長室で,J駅長とI首席助役から注意を受けた。その際,Bは遅刻の理由について,午前1時までテレビを見ていて,目覚ましでも起きられなかったなどと述べた。J駅長は,Bに対して,親を呼ぶように指示した。
平成15年4月1日,Bと原告らがE駅に赴き,J駅長及びI首席助役は,原告ら立会いの下,Bに対して,過去の遅刻の事実について内容を確認した。Bは,反省文を提出した(甲16)。
その書面の内容は,おおむね,「今回の遅刻で,自分の社会人としての自覚のなさに気づいた。まだまだ自分はこの会社でいろいろやりたいし,やり残したことが多すぎる。本当にこれが最後の遅刻です。自分にもう一度チャンスをください。」といったものであった。
(4) その他,B及びBの同僚らが受けた業務上又は生活上の指導及び注意の内容
ア Bは,平成14年4月,本件会社の本社人事部が実施した新入社員研修において「十戒」と題する書面を交付された(乙14)。同書面には,「1 時間に遅れるな」との記載があり,以後「2 お客様とはけんかをするな」,「3 職務乗車証を不正使用するな」などと合計10項目にわたる新入社員への注意事項が記載されていた(乙14)。
イ I首席助役は,平成14年5月,Bを含むE管理駅に配属された新入社員を相手に「社会人の常識」と題する書面を配布して,新入社員に対する指導を行った。同書面には,社会人のルールとして「1 時間を守ること」,「2 挨拶をする」,「3 メモをすること」,「4 身だしなみ・服装」,「5 印鑑を大切にすること」といった事項が記載されており,「1 時間を守ること」という記載の下部には「定時運転=信頼」,「時間にルーズならば,JRをやめよ!」との記載があった(乙14,証人I)。
ウ E駅では,遅刻やミスがあったとき,点呼の際に口頭で注意するほか,注意を喚起する文書を休憩室に張り出したり,社員に配布することがあった(審甲5の2・4丁,乙22・2頁,乙23・5頁)。
平成15年度はE駅において,取組み方針の一つとして,寝過ごし及び出勤遅延の防止が挙げられており,平成15年5月4日に,E駅において遅刻が発生した際には,E駅長名義の「警告 出勤遅延発生!」という題の書面が交付され,遅刻防止のための注意が行われた(審甲5の2・4丁)。
エ I首席助役は,Bが2回目の遅刻をした後,本件会社の寮を訪ね,Bを含むE駅配属の社員の生活状態をチェックした。その際に,Bに対して,きちんと部屋を片づけるように指導した(乙19・4頁,乙21・4頁,乙22・5頁)。
オ Bが生活していた本件会社の寮の寮長は,Bが,たびたびカラオケに行って門限を破るなど私生活が乱れていることについて,複数回,口頭で注意し,平成15年1月ころには,寮長からBを含む数名の職員について私生活の乱れについてE駅に報告をした(乙21・5頁,乙24)。
カ J駅長は,Bの同期2名に対しても,遅刻があったこと及び生活態度の乱れが見られることを理由として,親を呼んで指導をした(乙19・8頁)。
2 本件自殺に際して,Bに業務外において過重な心理的負荷が加わったような事情については,本件において,これを認めるに足りる証拠はない。
3 適応障害に関する医学的知見(甲13,乙4,乙27)
適応障害は,世界保健機構による国際疾病分類のICD-10第Ⅴ章「精神および行動の障害」のF4(「F43重度ストレス反応および適応障害」のカテゴリー)に分類される精神障害であり,「主観的な苦悩と情緒障害の状態であり,通常社会的な機能と行動を妨げ,重大な生活の変化に対して,あるいはストレスの多い生活上の出来事の結果に対して順応が生ずる時期に発生する」疾患であり,症状は多彩であり,抑うつ気分,不安,心配,現状の中で対処し,計画,あるいは継続することができないという感じ,日課の遂行の障害などが見られる。
米国精神医学界の診断基準であるDSM-Ⅳ-TRの基準によれば,「明らかなストレスに反応して,それが始まってから3か月以内に行動・感情面の症状が始まっている」,「そのストレスにより当然予想されるような苦痛の状態を超える症状又は社会的,職業的な役割が果たせない症状」,「障害が他の精神障害の基準を満たさず,既に存在した精神障害の悪化ではない」,「近しい人との死別による反応とは違う」,「ストレス状況がなくなってから6か月以内に消失する」などの条件を満たすことが必要とされている。
4 Bの適応障害発症の業務起因性に関する医学的見解
(1) 地方労災医員協議会精神部会意見書(審乙39)の要旨
ア 精神障害の発病の有無
Bは,平成14年4月1日から本件会社に入社し,E駅に配属となった日の翌日に遅刻をし,その後平成14年8月と平成15年3月31日にも遅刻をしており,3回目の遅刻では両親が呼び出され,遅刻に対する指導が駅長から行われた。また,Bは平成15年4月に車掌試験に不合格となった。聴取結果によれば,Bはいずれもそのときは落ち込んだ様子であったが,その後は普通に振る舞っていた。
Bは,平成15年7月20日に4回目の遅刻をし,同僚からの電話を受けた後,寮を出て,C駅に行き,線路に飛び込んで列車にひかれ死亡した。
以上の経過から,Bは,遅刻することに関して日常的に精神的プレッシャーを受けていたものと推察でき,さらに平成15年7月20日の4回目の遅刻によって,精神的ストレスは増幅し,これに反応して本件自殺に至ったものと判断できる。このような本件自殺までの経過から判断して,Bは,平成15年7月20日にICD-10診断ガイドラインにおけるF43.2「適応障害」を発症していたと推定できる。
イ 業務要因の検討
平成15年3月31日に3回目の遅刻をした際に,両親が呼び出されたことは,Bにとってショックであったと思われ,以後,Bは,遅刻をしてはいけないという精神的プレッシャーを常に受けていたと推察できる。
しかし,鉄道旅客運送業での駅勤務において,遅刻というのは,他の職業より特に重要な問題となるもので,中でも未成年者の場合,将来,車掌などの勤務に就いていくことを考えれば,管理者が私生活面を含めた指導を行うことは,一般的に必要なものであると推察され,また,管理者からの指導内容はBの将来を考えて頑張って欲しいとの思いを伝えたものであり,特に厳しいものではなかった。本件自殺の当日にした遅刻についても,Bに対して同僚や係長等が厳しく叱責した状況は認められない。
平成15年4月に車掌試験に不合格となった点についても,不合格者は他にもおり,将来何度も受験できることを考えれば,特に強い精神的ストレスと認めることはできない。
また,Bの労働時間及び労働の内容が特に過重であったとは認められない。
以上の事情によれば,Bの遅刻は,判断指針の別表1で例示された「会社にとっての重大な仕事上のミスをした」に類推でき,平均的な心理的負荷の強度はⅢとなるが,心理的負荷の強度を修正する視点からミスの内容について見ると,本件の場合,B本人の遅刻に関することであり,それに対する管理者の指導,注意については業務遂行の上で必要な範囲であったもので,両親の呼出し,遅刻の職務上の重要性等を考慮しても,この出来事の心理的負荷は強度Ⅰ程度と評価するのが相当である。
そして,特に過重な時間外労働及び他の重大な仕事上のトラブル等も認められないのであるから,心理的負荷の総合評価は到底「強」とは判断できない。
ウ 業務以外の要因の検討
(ア) Bに業務以外の心理的負荷要因は特に認められない。
(イ) 個体側の要因について検討するに,Bは,おおらかで明るく元気な部分と,自分で悩み事をため込んでしまう部分を合わせ持っていた。
エ 結論
Bの業務及び出来事による心理的負荷の強度は判断指針別表1によって,到底「強」とは判断できないのであるから,Bの適応障害の発症について業務起因性があるとはいえない。
(2) 京都ノートルダム女子大学心理学部O教授の意見書(乙27)の要旨
ア Bは,平成15年3月31日に3回目の遅刻をした後も通常の勤務をこなし,職業的な機能においては障害を認めず,同年6月ころには恋人もでき関係も良好であり,同僚や家族の情報などから勘案しても,同年7月19日以前にICD-10に該当する精神障害の発症は認められない。
イ 平成15年7月20日の出勤に遅れ,会社から電話があった後に本件自殺を遂げており,遅刻をしたという出来事が本件自殺に至った最大の誘因であると考えられる。
ウ 本件自殺の前日までの業務上の負荷について検討すると,過去3回の遅刻に対する本件会社の指導は特に厳しいものではなく,両親を呼ばれたのもBだけではなく,遅刻そのものが即座に自身の危険や乗客・利用者の危険に結びつくものではない。そのため,遅刻を繰り返すことは,本人の評価にはかかわる可能性があるが,それは始業時刻が規定されている多くの職業に通用するものである。その他,平成15年4月に車掌試験に不合格になったことも,他にも不合格者がおり将来何度も受験できることを考えれば特に強い精神的ストレスであると認めることはできない。
また,勤務は不規則であるものの,労働時間数,時間外労働数は多くなく,勤務内容も心理的負荷が少ないものであり,業務上の負荷は強いものとはいえない。
私的領域にも,調査内容からは大きな心理的負荷は認められない。
エ Bが,上記ウの事情にもかかわらず,突然自殺したということは,Bにとっては,この日の遅刻という出来事がストレス因子となって本件自殺という重大な結果に結びついたと思われるが,これはいわゆる覚悟の自殺,自由意思による自殺とは考え難く,その時点で何らかの精神疾患を発病して自殺したものと考えざるを得ない。
そして,ストレスと発病との関連性が強い精神障害としては,急性ストレス反応,外傷後ストレス障害,適応障害が挙げられるが,前二者では,発症の原因となるストレスは日常経験するようなものとは異なる例外的に強いストレスにさらされた結果生ずるものであるので,本件ではこれらの障害の発症は考えにくく,いかなる程度のストレス因子でもきっかけとなりうる適応障害の発病が最も推定される。
オ ストレス-脆弱性理論に基づいて,個体側の要因としての脆弱性と環境要因としてのストレスの二つの要因からBの適応障害の発症メカニズムを探求すると,まず,業務上及び業務外に強い心理的負荷は認められない。もっとも,業務以外の私的領域での心理的負荷については,調査では明らかになっておらず,もしストレスが適応障害の発症に大きく寄与したと仮定する場合,業務外のストレスが主要な役割を果たしたと考えられる。
一方,個体の脆弱性については,これまでの生活上の不適応は明らかではなく,精神障害の既往も認められない。
3回目の遅刻後には自殺企図はみられず,4回目の遅刻後に本件自殺に至っているため,両者で異なる状況があったかを検討すると,3回目の遅刻後に新たに生じた事情としては,①3回目の遅刻後に両親を呼んで話し合ったこと,②平成15年4月15日に車掌試験の合否発表での落第,③6月に恋人ができたこと,④7月20日,恋人がアルバイトとしてE駅に勤務することになっていたこと,⑤3回目の遅刻の後に「次に遅刻したらやめる」と言っていたこと,⑥平成15年4月から本件自殺当日の1週間前まで父親からのモーニングコールにより遅刻は回避されていたことなどが挙げられる。①及び②については,特別強い心理的負荷ではなく,その他についても,過度な心理的負荷とはいえず,もし,これらの点が本件自殺に何らかの関係があるとすれば,それは本人の認知の仕方あるいは性格的な柔軟性の乏しさによるものであり,個体のストレス脆弱性に関連するものである。
カ 職場の要因に関する資料に比べて,業務外でのストレス因子や個人の脆弱性を推測しうる個体側の要因に関する資料は乏しく,さらに,個体の脆弱性については,臨床的には精神障害を発症するまでは,様々な対処法により社会的機能が保たれ,明らかでないこともしばしばである。
そこで,個体の脆弱性が十分には解明されていなくてもストレス-脆弱性理論に基づいて,業務上及び業務外のストレスが弱い場合には,個体の脆弱性が精神障害に大きく寄与したと考えることが理にかなう。
5 判断
(1) 業務起因性の判断基準について
ア 労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の保険給付は,労基法79条及び80条所定の「労働者が業務上死亡した場合」に行われるものであるところ(労災保険法12条の8第2項),精神障害による自殺がこれに当たるというためには,精神障害が労基法施行規則別表第1の2第九号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当することを要し,精神障害につき業務起因性が認められなければならない。
そして,労災保険法に基づく労働者災害補償制度が,業務に内在し,又は通常随伴する危険が現実化して労働者に傷病等を負わせた場合には,使用者の過失の有無にかかわらず労働者の損失を補償するのが相当であるという危険責任の法理に基づくものであることに鑑みると,業務起因性を肯定するためには,業務と死亡の原因となった疾病との間に条件関係が存在するのみならず,社会通念上,疾病が業務に内在し,又は随伴する危険が現実化したものと認められる関係,すなわち相当因果関係があることを要するというべきであり,業務が単に疾病の誘因又はきっかけにすぎない場合には相当因果関係を認めることはできないのであって,この理は,疾病が精神障害の場合であっても異なるものではない。
イ ところで,現在の精神医学においては,精神障害の発症について,環境由来のストレスと個体側の反応性,脆弱性との関係で精神破綻が生ずるかどうかが決まるとする「ストレス―脆弱性」理論によって理解することが広く受け入れられているところ,個体側要因(反応性・脆弱性)については,客観的に把握することが困難である場合もあり,これまで特別な支障もなく普通に社会生活を行い,良好な人間関係を形成してきていて何らの脆弱性を示さなかった人が,心身の負荷がないか又は日常的にありふれた負荷を受けたにすぎないにもかかわらず,突然精神障害に陥ることがあるのであって,その機序は,精神医学的に解明されていない。このように個体側要因については,顕在化していないものもあって,客観的に評価することが困難な場合がある以上,他の要因である業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷が,一般的には心身の変調を来すことなく適応することができる程度のものにとどまるにもかかわらず,精神障害が発症した場合には,その原因は,潜在的な個体側要因が顕在化したことに帰するものと見るほかはないと解される。
したがって,業務と精神障害の発症との間の相当因果関係の存否を判断するに当たっては,ストレス(業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷)と個体側の反応性,脆弱性とを総合的に考慮し,業務による心理的負荷が,社会通念上,客観的に見て,精神障害を発症させる程度に過重であるといえる場合には,業務に内在し,又は随伴する危険が現実化したものとして,当該精神障害の業務起因性を肯定することができると解すべきである。
これに対し,業務による心理的負荷が精神障害を発症させる程度に過重であるとは認められない場合には,精神障害は,業務以外の心理的負荷又は個体側要因(もともと顕在化していたもののほか,潜在的に存在していた個体側要因が顕在化したものを含む。)のいずれかに起因するものといわざるを得ず,精神障害の発症につき業務起因性を認めることはできないと解すべきである。
ウ そして,前記のとおり,労働者災害補償制度の趣旨が,業務に内在し,又は通常随伴する危険が現実化して労働者に傷病等を負わせた場合には,使用者の過失の有無を問わず,労働者の損失を補償するものであることに照らせば,業務による心理的負荷の有無及びその強度を判断するに当たっては,当該労働者と同種の労働者,すなわち職場,職種,年齢及び経験等が類似する者で,通常業務を遂行できる者を基準として検討すべきである。
エ 本件におけるBの適応障害の発症については,発症の原因となったストレスが,主に平成15年7月20日のBの遅刻に起因するストレスであることについては,双方に争いがなく,また,地方労災医員協議会精神部会作成の「Bの精神障害に係る業務起因性の医学的見解」(審乙39)及びO教授作成の意見書(乙27)によっても肯定されているところである。そこで,以下,平成15年7月20日のBの遅刻によりBに生じた業務上の心理的負荷が,社会通念上,客観的に見て,精神障害を発症させる程度に過重であるといえるか否かについて検討する。
(2) 本件会社における遅刻という業務上のミスについての精神的負荷
ア 本件会社においては,駅員の遅刻について勤務認証上の必要があるとはいえ,結果だけではなく経過についても支社への報告事項となっていること,遅刻を2回することで,支社長名義の厳重注意文書が交付されるなど,遅刻に対しては特に厳しい指導がされていることは認められ,遅刻という業務上のミスについて,一般企業における場合と比べれば,強度の精神的負荷が加わるものであったことは認められる。
イ しかし,鉄道旅客運送業を営む会社において,時間厳守を求められることは当然のことであり,また,Bの業務は,ホーム業務や改札業務など,遅刻をした場合でも,代替人員の確保が比較的容易な業務であり,遅刻により,会社や第三者に大きな損害を生じさせるような事態も想定し難いのであるから,本件において,遅刻という出来事それ自体が,Bに対して,強度の精神的負荷を与えるものであるということはできない。
また,日々遅刻をしないよう出勤し,始業時間に業務を開始することは,出勤時間が定められている労働者に共通するごくありふれた労働契約上の義務である。そして,Bは,C駅近くの本件会社の寮に居住しており,出勤時刻も午前9時又は午前10時であり,一定の頻度で泊り業務が割り当てられるなどBの生活リズムが一定ではない点を考慮しても,Bが遅刻をしないように出勤すること自体について,その業務が特に困難であり,当該業務の遂行につき強い心理的負荷の要因になるという事情も認められない。
(3) Bが遅刻を積み重ねていたことによる心理的負荷の増大について
ア Bは,4回目の遅刻をする以前に,過去の遅刻につき,京都支社長名義で,2回の厳重注意を受けていたのであり,当該処分が,当時19才の青年であったBにとって相当な心理的負荷のかかる処分であったことは推認できる。
イ しかしながら,本件会社にとっては,厳重注意とは懲戒処分としての戒告に至らない場合に行われる事実上の行為であり,Bが会社から正式な懲戒処分を受けたことはなかった。
また,Bは,平成15年の2月及び3月に受験した車掌試験に不合格となっているが,たとえ遅刻による勤務評価の低下が試験に影響していたとしても,昇進試験について普段の勤務成績が加味されることは通常のことであり,車掌試験の不合格が,直ちに遅刻をしたこと自体による不利益処分であるとは認められない。そして,車掌試験は毎年受けられる試験であること,E駅管内においても,Bの同期で他に2人が車掌試験に通っていないことからしても,車掌試験に不合格になったことが,直ちに遅刻に対する心理的負荷を大きく増大させる要因であるとは解されない。
さらに,F駅の勤務は,平成14年の7月ころから,Bの同期が交代して担当していたものであり(乙22・5頁),同期の中でもE駅における勤務が不利益な処分とはとらえられていなかった(乙23)。BがF駅の勤務を行うことは,客観的に不利益な処分といえず,また,Bが遅刻したこととの関連性も認められない。
ウ(ア) また,上司による叱責等についても,過去3回の遅刻において,BがJ駅長及びI首席助役から,他の社員の面前で叱咤されたとか,見せしめと評価されるような指導を受けたことをうかがわせる証拠はない。
(イ) そして,1回目及び2回目の遅刻に対するJ駅長及びI首席助役の注意内容は,遅刻の原因を聴取したり,遅刻の対策を具体的に考え,生活態度の改善を求めるなど今後の遅刻を防止することを目的とするものであったと推認され,その範囲を超えて,退職を強要するような指導であったと認めるに足りる証拠はない。
なお,Bと同様に,複数回遅刻を行っていた証人Mは,2回目の遅刻から,I首席助役が,Mに対し,もう向いてないから辞めてしまえ,というような退職を促すような言動をしたと供述し,証人Nは,陳述書(甲19)及び証人尋問において,Bは,I首席助役から,次に遅刻したらどうなるか分かっているやろうな,今度したら終わりやな,などと声をかけられていた旨供述する。
しかし,仮に,I首席助役が,Bに対しても,証人Mが供述するような,遅刻を繰り返した社員に対して退職を促すような言動をしたことがあったとしても,証人Mの供述によれば,それは,目覚ましを増やせであるとか,目覚ましの位置を工夫しろ,といった今後の遅刻を防止することを目的とした指導とともに行われたものであり,遅刻を戒めるための注意の一環として行われた叱咤の一態様であると理解することが十分に可能であり,後述のとおり,3回目の遅刻に対する面談に際しても,本件会社においてBに退職を強制するような事情が認められない本件において,当該言動がBに対して真に本件会社の退職を促すものとして発せられていたものとまでは認め難い。
(ウ) また,3回目の遅刻に対しては,J駅長自ら,Bに対して,両親である原告らを呼んで話をしたい旨を告げて,原告ら同席の下でBに対する指導をしたことが認められ,原告らは,この面談により,Bは,次に遅刻をすれば退職することを余儀なくされた旨主張するが,Bの遅刻の内容が,夜更かしをして,午前10時開始の勤務時間に50分も遅刻したという内容であったこと及び平成15年1月には,寮長が,Bの生活態度の乱れについてE駅に報告し,駅においてもBに対して生活態度についての指導を行うよう依頼していたことといった事情からすれば,J駅長の意図としては,Bの生活態度の改善には家族の協力が必要であると判断し,今後のBの生活態度について指導をするために,両親を呼んだものと推認される。
なお,原告Aは,上記面談につき,陳述書(甲18)及び本人尋問において,平成15年4月1日の面談において,遅刻に関する事実関係について確認がされた後,Bが辞めるかどうかの話に移っていったと述べ,Bがはっきりもう一度チャンスをもらうようお願いしなければ,Bは辞めさせられていたと思う,などと述べるが,原告Aの供述によっても,J駅長及びI首席助役が,B及び原告らに対して退職を勧めたり,次に遅刻をしたら辞表を出すように指示したなどの事情は見られない。また,J駅長及びI首席助役は,Bの同期の他の遅刻者に対しても同様に家族を呼び出して指導を行っているが,その際の内容も,普段注意している内容を改めて注意するというものであり,親を呼んで退職について話し合うという性質のものではなかったのであり,Bの3回目の遅刻についても,本件会社からBに対して懲戒処分は行われていない。以上の事実を考慮すれば,上記面談においては,Bが,2回目の遅刻の後に,次に遅刻をしたら辞めると言っていたことから,B及び原告らが退職について言及したという事情は認められるものの,面談の内容自体が,退職を強要するようなものであったとは認められず,この点に関する上記認定に反する原告Aの供述は採用できない。
エ 以上の事情によれば,過去に,自分の遅刻が原因で,京都支社長名義で2回も厳重注意を受け,また,親を呼ばれて上司から注意を受けたというBの立場からすれば,通常は,これ以上遅刻を繰り返すことを避けたいという心情が働き,遅刻という業務上のミスについて,心理的負荷が相当程度加重されることは認められるが,他方で,本件会社において,Bが遅刻によって不当な不利益処分を受けたり,もう一度遅刻をすれば退職することを余儀なくされていたとまでは認めることができず,Bの4回目の遅刻による心理的負荷が,退職を強要されるのと同視できるような強度の心理的負荷であったとは認めることができない。
(4) 以上のとおり,Bが平成15年7月20日にした4回目の遅刻は,遅刻という業務上のミスから生じるストレスとしては相当程度大きな精神的負荷を生じさせるものであったと認められるものの,遅刻というミスがありふれたものであること,Bがその日に遅刻をしても本件会社又は第三者に具体的な損害をもたらすわけではないこと,Bの過去の遅刻に対する本件会社の処分は,不当な不利益処分や退職強要に該当するとまでは認められず,時間管理に厳格な鉄道旅客運送業を営む会社の教育方針として社会的相当性を欠くほどの処分であったとは認められないことに照らすと,同遅刻が,Bに同種労働者が通常感じるストレスを超えて,精神障害を生じさせるほどの過重な精神的負荷を生じさせるものであったとは認められないというべきである。
したがって,Bの自殺の原因となった適応障害は,本件会社の業務と相当因果関係があるとは認められない。
6 結論
以上によれば,原告らの請求には理由がないのでこれを棄却することとし,訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中村隆次 裁判官 谷口園恵 裁判官 向健志)