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京都地方裁判所 平成19年(ワ)3565号 判決 2008年7月24日

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原告

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上記訴訟代理人弁護士

野々山宏

長野浩三

谷山智光

平尾嘉晃

木内哲郎

武田真由

川村暢生

山口智

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被告

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上記訴訟代理人弁護士

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上記3名訴訟復代理人弁護士

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主文

1  被告は,原告に対し,25万円及びこれに対する平成19年11月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  この判決は仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

主文1項同旨

第2事案の概要

本件は,被告から建物を賃借していた原告が,賃貸借契約中の定額補修分担金の定めは消費者契約法10条により無効であるとして,被告に対し,支払済みの定額補修分担金25万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成19年11月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払いを求めた事案である。

1  争いのない事実

(1)  被告は建物の賃貸を業とする者であり,原告は,後記(2)のとおり,被告から建物を住居として賃借した者である。

消費者契約法の適用について,原告は消費者であり,被告は事業者である。

(2)  原告は,平成16年10月29日,被告との間で,京都市●●●(以下「本物件」という。)について,以下の約定で賃貸借契約を締結し(以下「本件賃貸借契約」という。),本物件の引き渡しを受けた。

ア 賃料 月額7万7000円

イ 共益費 月額1万0500円

ウ 契約期間 平成16年10月29日から平成18年10月28日まで

エ 更新料 賃料の1か月分

(3)  本件賃貸借契約では,次のとおり(なお,「甲」は賃貸人,「乙」は賃借人のことである。),定額補修分担金(以下「本件分担金」という。)の定めがあり(以下「本件特約」という。),原告は,本件特約に基づき,被告に対し,本件分担金として25万円を支払った。

第5条[定額補修分担金]

本物件は,快適な住生活を送る上で必要と思われる室内改装をしております。そのために掛かる費用を分担し(頭書記載の定額補修分担金)賃借人に負担して頂いております。尚,乙の故意又は重過失による損傷の補修・改造の場合を除き,退去時に追加費用を頂くことはありません。

1.乙は,本契約締結時に本件退去後の賃貸借開始時の新装状態への回復費用の一部負担金として,頭書(2)に記載する定額補修分担金を甲に支払うものとする。

2.乙は,定額補修分担金は敷金ではないということを理解し,その返還を求めることができないものとする。

3.乙は,定額補修分担金を入居期間の長短に関わらず,返還を求めることはできないものとする。

4.甲は乙に対して,定額補修分担金以外に本物件の修理・回復費用の負担を求めることはできないものとする。但し,乙の故意又は重過失による本物件の損傷・改造は除く。

5.乙は,定額補修分担金をもって,賃料等の債務を相殺することはできない。

私は,本契約締結にあたり以上の説明を受け,上記事項を熟読の上,ここに定額補修分担金の支払いを了承し,その支払いに合意致します。

(4)  その後,本件賃貸借契約は終了し,原告は,平成19年7月30日,本物件を明け渡した。

2  争点及び当事者の主張

本件の争点は,本件特約が消費者契約法10条により無効であるか否かであり,この点についての当事者の主張は以下のとおりである。

(原告の主張)

(1) 建物賃貸借契約においては建物の経年変化によって生じる損耗や通常の使用によって生じる損耗(以下合わせて「通常損耗」という。)の発生は当然に予定されており,賃料と通常損耗は対価関係にあるから,通常損耗の回復費用を賃借人の負担とする契約条項(以下「原状回復特約」という。)は無効であり,この点についての司法判断は確立している。

本件特約は,その実質は通常損耗の回復費用を賃借人に負担させるものであり,原状回復特約の名称を変えたものにすぎない。

(2) 本件特約では,賃借人の故意又は重過失による損耗(以下「重過失損耗」という。)の回復費用は別として,通常損耗及び賃借人の軽過失による損耗(以下「軽過失損耗」)の回復費用は本件分担金に含まれており,これらの回復費用の金額が本件分担金の額を超えても賃借人の追加負担はないものとされている。

しかし,通常損耗の回復費用は賃貸人が負担するのが当然であり,軽過失損耗の回復費用を賃借人に負担させること自体は不当とはいえないが,本件特約は,実際の軽過失損耗の有無に関わらず,その回復費用を賃借人に負担させるものであるうえ,仮に軽過失損耗があったとしても,経過年数等を考慮したうえで賃借人の負担割合を決定すべきであるにもかかわらず,このような負担割合は無視されており,賃借人に不利益な特約といえる。

また,そもそも,軽過失損耗の回復費用が本件分担金のような高額になることは考えられない(なお,本件分担金の額は月額賃料の約3.25倍であるが,賃借人にはこの金額の妥当性を判断する情報はない。)から,本件特約は,軽過失損耗を超えて通常損耗の回復費用を賃借人に負担させようとするものである。

さらに,本件特約では重過失損耗の回復費用は別に請求できるとされているから,賃借人にとって,退去時の回復費用について予測可能性が担保されるともいえない。

なお,被告は,重過失損耗の回復費用については当該重過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を超えた場合にその超えた部分についてのみ賃借人の追加負担になると主張するが,このような解釈は本件特約の文言からは無理があるうえ,本件において,被告は,重過失損耗の回復費用として,本件分担金の額を超えない11万9700円の見積書(甲3)を原告に送付しており,被告の実際の運用では本件分担金の額を上回るかどうかと関係なく,重過失損耗の回復費用を請求しているのである。そうであれば,賃借人が本来負担する必要のない通常損耗の回復費用の金額の設定の仕方によっては,重過失損耗の回復費用を二重に負担させられる可能性もある。

(3) 以上によれば,本件特約は,民法の規定(但し,公の秩序に関しない規定。以下同じ。)の適用による場合に比し,消費者である賃借人の義務を加重し,民法1条2項に規定する基本原則に反して賃借人の利益を一方的に害するものである。

したがって,本件特約は,消費者契約法10条により無効である。

(被告の主張)

(1) 本件特約は,①損耗の程度が通常損耗の範囲内であれば,賃借人の追加負担は一切ない,②損耗の程度が軽過失損耗の範囲内であれば,その回復費用の金額が本件分担金の額を超えた場合でも,賃借人の追加負担は一切ない(重過失損耗の回復費用が問題となる場合であっても同様である。),③重過失損耗があった場合,当該重過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を超えない限り,賃借人の追加負担は一切なく,当該重過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を超えた場合にその超えた部分のみが賃借人の追加負担になる,というものである。

なお,上記③について,原告は,被告(実際には管理会社)が甲3の見積書を原告に送付したことを非難するが,管理会社の措置は不適切であったが,結局,被告は,この見積書の金額を原告に請求してはいない。

(2) 上記(1)の本件特約の①ないし③の内容によれば,次のとおりといえる。

ア 賃借人は,民法の規定によれば故意又は過失による損耗の回復費用を負担しなければならないが,本件特約によって,重過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を超えた場合にその超えた部分しか追加負担はなく,民法の規定よりも賃借人の義務は軽減されており,他方,賃貸人にとっては,退去時にどの程度の損耗が生じているかは賃貸借契約締結の時点では予測不可能であるが,本件特約によって,退去時に軽過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を超えていても賃借人に対して一切追加請求はできず,重過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を超えた場合にその超えた部分についてのみ追加請求ができるにすぎないのであって,本件特約は,賃貸人と賃借人の双方がリスクを分け合う交換条件的な内容を定めたものといえる。

イ 賃貸借契約締結の時点では退去時の回復費用の金額は確定していないが,賃借人の負担部分を定額で確定させておくことによって,賃借人の負担について予測可能性が担保される。

なお,賃借人は重過失損耗の回復費用については追加負担の可能性があるから,この点では予測可能性がないように見えるが,故意又は重過失がある場合は稀であるうえ,故意又は重過失があった場合でも追加負担するのは重過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を超えた場合にその超えた部分についてのみであるから,追加負担があるとは限らない。

ウ 民法の規定によれば,故意又は過失による損耗については賃借人は回復費用を負担しなければならないから,賃借人は相当に気を使って居住しなければならないのが普通であるが,本件特約によって,退去時の回復費用を気にかけることなく安心して居住することができる。

なお,賃借人は重過失損耗の回復費用について追加負担の可能性があるが,故意又は重過失がある場合というのは稀であり,通常の生活を営んでいる限り軽過失にとどまるのが通常である。

エ 結果的に損耗の程度が通常損耗の範囲内にとどまった場合でも本件分担金は返還されないから,賃借人は支払義務のない費用を支払ったように見えるが,通常損耗の範囲内であるかどうかは退去後に判明するのであるから,退去時の立会,査定,協議等の負担が軽減され,回復費用を巡る紛争のリスクも減少することなど賃借人に利益な点もある。

(3) 建物賃貸借契約には,他にも礼金,敷金,家賃,共益費及び更新料等の支払項目があり,それらの負担を全体的・総合的にみて,賃借人に格段不利益でなければ,賃借人の利益を一方的に害するとはいえない。

(4) 原告は,本件賃貸借契約締結の際,本件特約の説明を受けているから,賃貸人と賃借人の情報力・交渉力の格差は解消されており,また,説明を受けたことによって,賃借人には契約締結における自己責任が求められる。

また,原告は,本件特約の説明を受けているから,本件分担金が返還されないとしても何ら不測の損害を受けることはないうえ,仮に本件特約が無効ということになると,本件では過失による損耗が生じているから,原告はその回復費用の負担を免れることになるのに対し,他方,被告は,原告が本件特約を承諾したことから,本件分担金を収入として賃貸業を営んでおり,後日になってその返還を命じられると不測の損害を被ることになる。

(5) 以上によれば,本件特約は,民法の規定の適用による場合に比し,消費者である賃借人の義務を加重するものではないうえ,民法1条2項に規定する基本原則に反して賃借人の利益を一方的に害するものではない。

したがって,本件特約は,消費者契約法10条により無効であるとはいえない。

第3争点に対する判断

1  まず,本件特約は,民法の規定の適用による場合に比し,消費者である賃借人の義務を加重するものか否か検討する。

通常損耗については賃借人には回復義務はなく,故意又は過失による損耗については回復義務があるというのが民法の規定である。

しかし,本件特約は,①賃借人に対し,退去時に故意又は過失による損耗が生じているか否かあるいはその回復費用の金額も不明なまま,賃貸借契約締結の時点で本件分担金を支払わせるものであり,いったん支払った本件分担金の返還を請求することはできないこと,②退去時に故意又は過失による損耗が生じている可能性はあるとしても,建物の入居当時の状況,入居期間の長短によってその可能性の有無・程度並びに回復費用の金額は変わると考えられるが,本件分担金は一律に25万円と定められていること,③退去時に重過失損耗は生じておらず,軽過失損耗は生じているがその回復費用の金額は本件分担金の額に達しない場合,結果的には賃借人に回復義務のない通常損耗の回復費用を負担させたのと同じ結果になることを考慮すれば,被告の主張するように,重過失損耗による回復費用の金額が本件分担金の額を超えた場合にその超えた部分しか追加負担はないとしても,本件特約は,民法の規定による場合に比し,消費者である賃借人の義務を加重するものである。

2  次に,本件特約による賃借人の義務の加重は,民法1条2項の規定する基本原則に反して賃借人の利益を一方的に害するものか否か検討する。

(1)  退去時の損耗の程度,回復費用の金額を賃貸借契約締結の時点で予測することはできないから,その時点では,本件特約が結果的には賃貸人と賃借人のどちらに利益又は不利益になるかは明らかでない。

(2)  しかし,賃貸人の不利益は,将来生じるかも知れない損害賠償請求権の一部の事前放棄であるが,賃貸人としては,ある賃借人との関係では結果的には不利益を受ける可能性はあるが,他の賃借人との関係では結果的には利益を受ける可能性があり,賃貸業全体としては採算がとれるように本件分担金の額を設定することは可能であり,現にそのように設定していると考えられる。

他方,賃借人の不利益は,賃貸借契約締結の時点では支払義務はなく,退去時にも支払義務はないかも知れない金員を賃貸借契約締結の時点で支払わされるというものであるうえ,賃借人は,本件分担金の額については賃貸人の定めるものに従うほかなく,丁寧に使用するとか,入居期間が短い(通常の使用をしている限り,軽過失損耗の程度は入居期間の長短に比例すると考えられる。)など事情をもって,賃貸人との交渉によって本件分担金の額を変更する余地があるとは考えられない。

そして,退去時に重過失損耗はなく,軽過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を上回った場合,本件分担金のほかに追加負担がないことによって利益を受ける可能性もあるが,逆に重過失損耗はなく,軽過失損耗の回復費用の金額が本件分担金の額を下回った場合,支払う必要のなかった金員を支払った結果となるが,このように結果的に利益又は不利益を生じるのは,個々の賃借人にとっては退去時の一回限りのことであり,しかも,それは退去時にならないとわからないことであるから,予め不利益の生じるリスクを他に転嫁したり,分散することはできない。

なお,被告は,本件特約には,①賃借人の負担についての予測可能性が担保されること,②退去時の回復費用を気にかけることなく安心して居住することができること,③退去時の手続の負担が軽減されることなどの賃借人に利益な点もあると主張するが,通常の使用をしている限り故意による損耗が生じるとは考え難いからその回復費用を考慮外としても,重過失による損耗の回復費用がその一部にせよ賃借人の追加負担とされる余地がある以上,具体的な損耗が重過失による損耗に当たるか否かあるいはその回復費用の金額について争いが生じる可能性はあり,賃借人の負担が本件分担金の額の範囲内に収まるという保証はないから,予測可能性が担保されているとはいえず,その限度では相当の注意をして使用しなければならない。また,退去時の手続については,賃貸人としては,次の賃貸に備えていずれにせよ立会,損耗の有無の調査をすると考えられるのに対し,賃借人としては,具体的な損耗が重過失によるものか否かが争いになる可能性はあるから退去時の立会を欠かすことはできず,負担軽減になるとはいえない。

(3)  被告は,建物賃貸借契約においては,他にも礼金,敷金,家賃,共益費及び更新料等の支払項目があり,それらによる負担を全体的・総合的にみて賃借人に不利益かどうか判断されるべきであると主張するが,民法では賃貸借契約の対価としては賃料のみが規定されており,上記各支払項目は賃貸人が事業経営上の観点から設定したものであるから,被告が上記各支払項目の要否,その金額の設定根拠について具体的に主張立証しない以上,被告の主張は採用できない。

(4)  本件分担金の額(25万円)は,本件賃貸借契約の締結に当たって,被告が予め決定したものである(弁論の全趣旨)が,被告の賃貸業の経営上の観点から25万円と決定されたことは容易に窺えるものの,その具体的な根拠は明らかでなく,原告にはこの金額の適否を判断することは不可能であるうえ,被告と交渉してその金額の変更を求めることができたとも考えられない。

したがって,原告が本件賃貸借契約締結時に本件特約の説明を受けたことが認められる(原告は,甲1の第5条の下の署名押印欄に署名押印している。)としても,原告には本件特約を承諾して賃貸借契約を締結するかしないかの選択肢しかなかったことは明らかである。

(5)  以上によれば,本件特約による賃借人の義務の加重は,民法1条2項に規定する基本原則に反して賃借人の利益を一方的に害するものである。

なお,被告は,本件においては過失による損耗が生じており(甲4の1,2),本件特約が無効とされると原告はその損耗の回復費用(甲3)の負担を免れることになって不当であると主張するが,本件特約が無効とされても過失による損耗の回復費用は別に請求することができるから,被告の上記主張は本件特約の効力についての判断を左右するものではない。

(6)  したがって,本件特約は,消費者契約法10条により無効である。

第4結論

以上によれば,原告の請求は理由があるから認容することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条を,仮執行宣言について同法259条1項をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。

(裁判官 田中義則)

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