京都地方裁判所 平成19年(ワ)3986号 判決 2009年10月28日
平成19年(ワ)第3986号(第1次訴訟)
平成20年(ワ)第797号(第2次訴訟)
同年(ワ)第2263号(第3次訴訟)
同年(ワ)第3884号(第4次訴訟)
平成21年(ワ)第1575号(第5次訴訟)
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
1 第1次訴訟
(1) 被告は,別紙原告目録1記載の各原告(ただし,原告X7,同X8及び同X9を除く。)に対し,各1100万円及びこれに対する平成20年1月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2) 被告は,原告X7に対し,366万6667円及びこれに対する平成20年1月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3) 被告は,原告X8に対し,366万6667円及びこれに対する平成20年1月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(4) 被告は,原告X9に対し,366万6666円及びこれに対する平成20年1月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 第2次訴訟
被告は,別紙原告目録2記載の各原告に対し,各1100万円及びこれに対する平成20年3月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 第3次訴訟
被告は,別紙原告目録3記載の各原告に対し,各1100万円及びこれに対する平成20年7月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 第4次訴訟
(1) 被告は,別紙原告目録4記載の各原告(ただし,原告X44,同X45,同X46,同X47,同X48,同X50,同X51,同X52及び同X53を除く。)に対し,各1100万円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2) 被告は,原告X44に対し,550万円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3) 被告は,原告X45に対し,137万5000円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(4) 被告は,原告X46に対し,137万5000円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(5) 被告は,原告X47に対し,137万5000円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(6) 被告は,原告X48に対し,137万5000円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(7) 被告は,原告X50に対し,550万円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(8) 被告は,原告X51に対し,183万3334円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(9) 被告は,原告X52に対し,183万3333円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(10) 被告は,原告X53に対し,183万3333円及びこれに対する平成20年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
5 第5次訴訟
被告は,別紙原告目録5記載の各原告に対し,各1100万円及びこれに対する平成21年5月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
6 訴訟費用は被告の負担とする。
7 この判決は仮に執行することができる。
第2被告の申立て
1 担保を条件とする仮執行免脱宣言
2 執行開始時期を判決が被告に送達された日から2週間が経過した時とする。
第3事案の概要
1 事案の要旨
本件は,第2次世界大戦中に日本軍に従軍し,戦後旧ソビエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」という。)に連行され,長期間にわたって抑留され強制労働を課された原告らが,被告に対し,
(1) 抑留及び強制労働という事態が生じたのは,当時の被告の遺棄行為によるものであるとして,国賠法1条に基づき(以下「請求(1)」という。),
(2) 上記事態が生じたのは,被告が軍人に対する包括的絶対的な指揮命令権に対応するところの信義則上の付随義務としての安全配慮義務を怠ったことによるものであるとして,同義務違反に基づき(以下「請求(2)」という。),
(3) 被告が抑留者を早期に帰国させるべきであるのに何ら積極的な施策をとることなく放置したとして,国賠法1条に基づき(以下「請求(3)」という。),
(4) 被告には抑留者に対する賠償・補償などの立法を行う作為義務があるのに立法をせず放置したとして,国賠法1条に基づき(以下「請求(4)」という。),
損害賠償として,各1100万円及びこれらに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで年5分の割合による金員の支払を求めて提訴した事案である。
なお,本件の審理中に,提訴当時の原告のうち,Aが死亡し,相続人の原告X7,原告X8及び原告X9が法定相続分に従ってその請求権を相続したとして訴訟手続を承継し,また,同様に,Bが死亡し,相続人の原告X44,原告X45,原告X46,原告X47及び原告X48が法定相続分に従ってその請求権を相続したとして訴訟手続を承継し,また,同様に,Cが死亡し,相続人の原告X50,原告X51,原告X52及び原告X53が法定相続分に従ってその請求権を相続したとして訴訟手続を承継した。
2 争いのない事実等
(1) シベリア抑留の概況
第2次世界大戦後,中国東北地区(以下「旧満州」という。)などで,武装解除し,ソ連軍に投降した日本軍将兵(以下「日本軍将兵」という。)は,徒歩行軍により旧満州,北朝鮮,千島列島などに集結させられた。そして,昭和20年9月ころから,日本軍将兵は,ソ連軍の指揮のもと,作業隊を編成の上,シベリア,中央アジア,ヨーロッパロシア,極北・北モンゴルなどの約2000地点の捕虜収容所に鉄道で輸送され,長期にわたって強制労働を課せられた(以下「シベリア抑留」という。)。こうして抑留された者の総数は60万人前後といわれている。
捕虜収容所は,食料事情も衣料事情も最悪であり,衛生状態も極めて悪く,かつ極寒に見舞われる中で,収容所建設,道路工事,炭坑作業などの重労働を長時間強制される状況であった。これにより,栄養失調,病気のまん延,劣悪な労働条件下での作業事故などにより多数の死傷者が続出し,その死亡者は6万人以上といわれている。
この後,長期間にわたって強制労働を課せられたシベリア抑留者について,昭和21年12月に日本への送還が開始し,樺太地域を除き,引揚げが終了したのは,昭和31年12月26日であった。原告らの抑留期間は,短い者でも1年8か月,長い者では昭和25年4月までの4年6か月という長期間にわたるものであった。
(2) ソ連の参戦から国交回復に至る経緯の中での抑留問題の推移
ア ソ連は,昭和20年8月8日,有効期限内にあった日ソ中立条約を破棄して,被告に対し宣戦を布告し,同月9日,旧満州及び旧朝鮮に進攻した。
イ 被告は,同月15日に,ポツダム宣言を受諾した。ポツダム宣言9条には,「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後,各自ノ家庭ニ復帰シ,平和的且生産的生業ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。」と規定されていた。
ウ ソ連の国家防衛委員会議長スターリンは,同月23日,日本軍捕虜将兵50万人をシベリアに移送せよと命じる極秘指令「日本人捕虜に関する命令書」(以下「極秘指令」という。)を出した(甲30)。
エ 被告は,同年9月2日,降伏文書に調印し,連合軍の占領を受諾した。
オ ソ連とアメリカとの間で,昭和21年12月19日,「ソ連地区引揚に関する米ソ協定」(以下「米ソ協定」という。)が成立し,毎月5万人の引揚げが約束され,本件のすべての原告らを含む多数のシベリア抑留者が,米ソ協定によって帰国した。
カ 昭和26年9月8日,アメリカのサンフランシスコ市において「日本国との平和条約」(以下「平和条約」という。)が調印され,昭和27年4月28日に発効したが,ソ連は,平和条約に調印しなかった。
キ 昭和28年11月17日,ソ連赤十字社長と日赤社長との間で,「日本人送還協定」(以下「赤十字協定」という。)が調印され,これによって相当数のシベリア抑留者が帰国した(乙72)。
ク 被告とソ連とは,昭和31年10月19日,共同宣言(以下「日ソ共同宣言」という。)を調印し,同年12月12日,批准と同時に発効し,シベリア抑留者の引揚げもようやく完了した。
3 争点とこれに関する当事者の主張
(1) 争点の概要
原告らの各請求については,
ア 請求(1)については,被告の責任原因の有無について,シベリア抑留がなされたことに関して,抑留及び強制労働という事態が生じたのは当時の被告の遺棄行為によるものであるかどうかが争点となり(争点(1)),抗弁として,国家無答責の法理の適用の有無(争点(2))あるいは除斥期間の適用の有無(争点(3))が争点となる。
イ 請求(2)については,被告の責任原因の有無について,上記事態が生じたのは被告が原告らを速やかにかつ安全に本国まで帰還させる義務(安全配慮義務)を怠ったことによるものであるかどうかが争点となり(争点(4)),抗弁として,消滅時効の適用の有無が争点となる(争点(5))。
ウ 請求(3)については,被告の責任原因の有無について,被告が抑留者を早期に帰国させるべきであるのに何ら積極的な施策をとることなく放置したために引揚げが早期に実現しなかったかどうかが争点となる(争点(6))。
エ そして,請求(4)については,被告には抑留者に対する賠償・補償などの立法を行う作為義務があるのに立法をせず放置したかどうかが争点となる(争点(7))。
オ その上で,いずれの請求についても,原告らの損害が争点となる(争点(8))。
(2) 被告の遺棄行為(争点(1))
(原告らの主張)
被告は,ソ連に対する労役賠償として原告ら将兵を労役させるという「棄兵政策」をとり,原告らを終戦後ソ連軍の手にゆだねて使役させ,日本に帰国させないという遺棄行為を行った。この遺棄行為は,国賠法1条の違法行為に該当し,被告は,同法に基づく損害賠償義務を負う。被告が「棄兵政策」をとっていたことは,次の事実から明らかである。
ア 被告が,将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡す政策をとっていたことを示す文書が存在する。
(ア) 被告は,昭和20年7月,ソ連に対して,連合国との間の和平交渉のあっ旋を申し入れることを計画し,天皇の特使として近衛文麿元首相(以下「近衛元首相」という。)をモスクワに派遣することとした。この際作成された「和平交渉の要綱」(以下「要綱」という。)には「海外にある軍隊は現地に於て復員し,内地に帰還せしむることに努むるも,止むを得ざれば,当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」,「若干を現地に残留とは,老年次兵は帰還せしめ,弱年次兵は一時労務に服せしめること,等を含むものとす」,「賠償として,一部の労力を提供することには同意す」等と記載されている。
そして,参謀本部の暗号班長D大佐(以下「D大佐」という。)が,同年4月30日,モスクワ派遣途中殺害された可能性の極めて高い事件があり,大使あての手紙類が開封された跡があったこと,また,被告の焦慮はソ連には様々な動きで手に取るように知られていたなどの経過からすれば,ソ連に対して,要綱の上記内容は伝わっていた。
(イ) 同年8月8日,ソ連による対日参戦によって,ソ連を仲介とする和平交渉による戦争終結という被告の方針は破たんした。しかし,要綱の根本である,将兵らを労働力として提供しても天皇制を護持して国家再建を図ろうとする国体護持の考え方は,その後も維持され続けた。
そのため,大本営参謀Eは,同月21日,旧満州進攻軍を指揮するザバイカル軍管区司令官F大将と,その政治将校G中将に面会し,被告の降伏方針として,軍人及び民間人の対ソ労務提供の申出をした。この際,G中将からその内容について文書でまとめるよう頼まれたため,Eは,同月26日,「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」(以下「E報告」という。)を提出したが(甲2),E報告には「満鮮方面対『ソ』停戦ハ『ソ』側ノ絶大ナル好意ト関東軍総司令部ノ努力トニ依リ極メテ順調ニ進捗シ八月二十六日現在安東・錦州ヲ除ク全満及北緯三十八度以北ノ朝鮮ニ於ケル停戦並ニ武装解除ハ完了シ安東・錦州ニ於テハ随時武器引渡ヲ実施シ得ル準備ニ在リテ『ソ』側代表ノ到着ヲ待チツツアリ」「内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於テハ在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』聯側ニ依頼スルヲ可トス」「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」等との記載がある。そして,このE報告を受け,同月29日,関東軍参謀総長作成の「基礎資料」の「所見」に「1 全般的に同意なり」と記載されている(甲3)。
E報告は,土着させる理由として内地の食糧事情を挙げているが,陸軍参謀が,ソ連の指令により定職に就かせるという方針をソ連に提出すべきではない。土着が不可能な場合,内地に帰還させるにはソ連を通じて連合側に依頼しなければ不可能であるとの文章で終わっていることからしても,ソ連に対し,内地帰還は不可能であるとの認識を持っていることを明らかにするだけの意味しかないもので,棄兵政策を合理化するための報告書である。
(ウ) Eから,最高戦争指導者会議並びに参謀本部の対ソ方針を聞かされた関東軍総司令官H大将らは,関東軍総司令部として,ソ連極東軍総司令官I元帥あてに,同月29日付で「『I』元帥に対する報告」(以下「I宛報告」という。)と称する陳情書(甲4)を作成し,ソ連に提出した。I宛報告には,「當軍の武装解除も全般的には順調に進展し又各種施設等も逐次貴軍に引継ぐ事を得…此機會に貴軍に篤と御願ひし貴軍總司令官の御指示を得度きは近き冬季を目前にして全満の傷病者,居留民竝に軍人の處置であります。」「次は軍人の處置であります。之につきましても當然貴軍において御計畫あることと存じまするが元々旧満州に生業を有し家庭を有するもの竝に希望者は旧満州に止って貴軍の經營に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の經營に協力する如く御使い願い度いと思います…其の他例へば撫順等の炭鑛に於て石炭採掘に當り若くは満鐵,電々,製鐵会社等に働かせて戴き貴軍隊を始め旧満州全般の為本冬季の最大難問題たる石炭の取得其の他に當り度いと思います」等と記載されており,日本軍将兵の労務提供をソ連に申し出るものであった。
この書面は,文面は一時的な労働の提供の申出のように書かれているが,本質的には将兵の差し出しであることは疑いようがなく,当面の冬季の対策という理由はソ連側への強力な将兵提供の誘因としての意味であり,一時的ではない提案をしたのである。
(エ) 以上のとおり,要綱とE報告,I宛報告の各文書の内容は合致しており,この内容的合致は,近衛元首相による和平交渉の計画段階での被告の意思であった棄兵政策が,国体護持を目的とする被告の基本方針として,シベリア抑留の段階まで維持されてきたこと,そして被告が日本軍将兵を労役賠償としてソ連に提供したことを裏付けるものである。
イ 武装解除から強制労働への投入が混乱なく行われている。
(ア) 武装解除においては,ソ連軍の姿はなく,日本軍の指揮系統による命令に従って行われた。
そして,その後,一定の場所に集結させられたが,この際にも,日本兵が多数いるのに対し,ソ連兵の数は極めて少数であった。集結場所までの移動も,日本軍の指揮命令系統に従った組織的行動であり,ソ連軍の監視・圧力下において移動させられたものではなかった。
武装解除から集結,集結地から抑留先への移動,抑留先での強制労働への投入のプロセスは,ソ連軍の軍事的実力にさらされて強制的に行われたものではなく,日本軍の組織的行動として,混乱なく整然と行われたものであった。
(イ) 武装解除などが行われた当時,旧満州に侵入したソ連軍も,東部戦線を戦った将兵らで構成されており,疲弊した軍隊であったため,60余万人を上回る大軍であった関東軍を管理する能力を十分に有していなかった。
それにもかかわらず,抑留に至るプロセスが混乱なく整然と行われたのは,日本軍の上部において,日本軍将兵がソ連軍に抑留連行されることについての了解があったからとしか考えられないものである。
ウ 日本軍・関東軍首脳がシベリア抑留を容認する姿勢を示していた。
極秘指令が発令される以前の同年8月19日,Iと関東軍J総参謀長(以下「J総参謀長」という。)及びK作戦参謀との間で,戦闘中止や日本の武装解除について協議した。しかし,この段階において,日本側は,武装解除後の日本軍将兵の帰国の方策について一言も要求しなかった。
この後の日ソ両国の現地軍首脳の接触・協議でも,関東軍首脳からは,日本軍将兵の帰国問題について提起することはなかったのであり,この事実からも,被告が棄兵政策をとっていたことは明らかである。
(被告の主張)
終戦前後の経緯について原告らが主張する事実は,シベリア抑留に関する過去の裁判例における原告ら側の主張と同様である。そして,過去の裁判例においては,これらの原告ら側の主張はすべて理由がないとされて請求が棄却され,その判断は確定している。
結局,原告らの主張は,既に解決済みの問題を蒸し返すものにすぎず,理由がないことは明らかである。
(3) 国家無答責の法理(争点(2))
(被告の主張)
ア 国賠法施行(昭和22年10月27日)以前の被告の権力的作用に係る行為から発生した損害については,私法たる民法の適用はなく,明治憲法下においては,その他,国家の賠償責任を認める実定法の規定がなかったため,被告が損害賠償責任を負うことはなかった。
国家無答責の法理が,基本的政策として確立していたことは,行政裁判法16条が立法されたことや,ボアソナード民法草案373条から国家賠償責任を認める文言を削除した上で旧民法が明治23年に公布されたことから,明らかである。
また,昭和22年10月27日に施行された国賠法の附則6項によれば,国賠法それ自体の遡及適用を否定し,国家無答責の法理という法制度をそのまま適用することを予定していることが明らかである。
イ 本件で,原告らが違法行為として主張する被告の「遺棄行為」は,国賠法が施行される以前の被告の権力的作用であることは明らかであるところ,国賠法の遡及適用は否定され,国家無答責の法理という法制度が適用されることから,被告は損害賠償責任を負わない。
(原告らの主張)
ア 国家無答責の法理は,現行憲法の下では,合理性も正当性もなく,認められない法理である。
イ 国賠法制定過程では,被告の不法行為責任を明確にし,被害者救済を徹底すべきであるとの見地から国賠法の制度が主張されていたのであるから,国賠法の制定過程が,国家無答責の法理の根拠になり得ないのは明らかである。
(4) 除斥期間の経過(争点(3))
(被告の主張)
ア 原告らは,終戦前後の被告の遺棄行為を加害行為として主張しているところ,原告らの請求は,その主張する被告の遺棄行為の時から60年以上経過した後にされたもので,すべての原告らが帰国した昭和25年12月25日から起算しても57年以上が経過している。
よって,仮に原告らの被告に対する損害賠償請求権が発生したとしても既に消滅している。
イ 除斥期間の適用は制限されない。
未払賃金の補償の問題と国家賠償の問題とは全く異なるものであるから,未払賃金の補償請求の可能性があったからといって,損害賠償請求権を主張できなかったという理由にはならない。
また,文書が入手不可能であったとする点も,単に証拠資料等の訴訟提起の準備が整わなかったという事実上の困難を示すにすぎない。さらに,シベリア抑留者の救済運動が不奏功に終わったかどうかは,国家賠償請求訴訟の提起を不可能ならしめる事情でないことは明らかである。
また,正義・公平の理念の内容が一義的には定まらず,濫用のおそれを伴うため,正義・公平の理念を理由に,安易に実定法の適用を排除すべきではない。
よって,本件は,除斥期間の適用が制限される場合には当たらない。
(原告らの主張)
次の事情によれば,除斥期間の適用が正義に反し,著しく公平を欠くため,除斥期間を適用することは許されない。
ア 原告らが受けた多大な苦痛の発生・継続原因は被告の行為にあること
原告らは,強制的・詐欺的にシベリアへ連行され,死亡者も続出するような劣悪な環境での無償の強制労働に従事させられた。また,原告の中には,対ソ連協力者と見なされ,就職上の困難を受けるなど,帰国後も苦難の日々が続いたのである。この原因は,被告による遺棄行為によるものである。
イ 原告らの訴訟提起が,帰国後,相当期間経過後に提起されたことはやむを得ない事情によること
ジュネーブ条約は,捕虜の未払労働賃金を補償する責任を,捕虜の所属国である被告が負うことを義務付けているところ,シベリア抑留者については,ソ連がその補償に必要な労働証明書ないし労働賃金計算カードを発行しなかったことにより補償が実現しなかった。
しかし,米国などの地域で抑留された日本人捕虜に補償が実行されたことからすれば,同様に捕虜として抑留されたシベリア抑留者も補償による救済を求めるのはやむを得ないものであった。そのため,シベリア抑留者が昭和56年に提起した,未払賃金の支払請求訴訟について,ジュネーブ条約の適用がないという原告敗訴の判断が確定する平成9年3月に至るまで,シベリア抑留者にとって,不法行為を理由とする損害賠償請求権を主張することは不可能な状況であった。
また,被告は,終戦前後に管理していた大本営参謀作成にかかる文書のほとんどを焼却していたため,被告の棄兵行為を具体的に立証する上で重要な文書が,平成5年にロシア公文書館で発見されるまでは入手が不可能であった。
さらに,原告らは,被告に対するシベリア抑留者の救済要求運動を続けてきたが,平成18年ころ不奏功となることが明らかとなったため,やむなく本件訴訟に踏み切ったものである。
(5) 安全配慮義務違反(争点(4))
(原告らの主張)
争点(1)で主張した事実は,次のとおり,被告の原告らに対する安全配慮義務違反をも基礎付けるものである。したがって,被告は,同義務違反による損害賠償義務を負う。
ア 原告らに対する被告の法律上の保護義務
最高裁判所昭和50年2月25日第三小法廷判決(以下「昭和50年最判」という。)によれば,被告と国家公務員(以下「公務員」という。)の法律関係において,特別な社会的接触関係に入った当事者間において,当事者の一方又は双方は相手方に対し,当該法律関係の本来的義務の外,信義則上の付随義務としての安全配慮義務を負う。この判断は,公務員が被告の包括的な指揮命令の下に誠実に職務に従事すべき義務を負っていることに対応して認められるものと考えられる。
本件において,原告らは,終戦当時いずれも日本軍将兵であり,被告が国外での軍務に従事することを命ぜられ,厳しい軍律の下で,上官の命令に対する絶対的な服従義務を負わされていた。
このような場合,任務が終了すれば,速やかかつ安全に帰還させるべきことは被告として当然の義務である。また,旧憲法下の国民徴用令19条,国民勤労動員令30条で,徴用や動員が解除されれば帰郷旅費支給義務を被告に課していたこと,ポツダム宣言でも武装解除後,各家庭に復帰する機会を得させるべきことを定めていたことから,被告が,終戦によって原告らの任務が終了したことに伴い,原告らを速やかにかつ安全に本国まで帰還させる義務を負っていることは明らかである。
イ 被告の安全配慮義務違反
しかるに,被告は,原告らを早期にかつ安全に帰国させる措置をとらなかった。被告は,原告らを武装解除させ,ソ連軍の指示どおりに日本軍将兵を集結させ,ソ連に向かう鉄道に乗せたのであり,これは,ソ連が原告らを抑留するのに協力するような行為を行ったものといえ,安全配慮義務の履行を怠ったことは明らかである。
(被告の主張)
原告らの安全配慮義務違反の主張も,過去の裁判例において排斥されており,既に解決済みの問題を蒸し返すものにすぎず,理由がないことは明らかである。
また,その点をおくとしても,原告らの主張は以下のとおり失当である。
ア 原告が主張する義務の内容は不特定である。
安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求の当否の判断に当たっては,安全配慮義務の発生根拠となる事実に加え,当該事件の事実関係に基づき,被告が具体的にどのような安全配慮義務を負い,同義務に基づきどのような時期にどのような行為をすべきであったかについて判断がされることになるのであるから,安全配慮義務違反に基づく責任を論ずるに当たっては,安全配慮義務の内容の特定が必要である。
しかし,原告らの主張は,安全配慮義務の内容を明らかにせず,具体的にいかなる不作為が安全配慮義務違反となるのかも判然としないため,安全配慮義務違反に基づく請求として特定を欠くもので,主張自体失当である。
イ 被告が原告らに対し,安全配慮義務を負う根拠はない。
軍人は必要に応じて戦地若しくは危険地域に配置される場合があることが予定されており,敵の攻撃により,あるいは戦争遂行に関連して生命,身体の危険にさらされることがあるのは軍人の性質上やむを得ないところである。終戦後であっても,直ちに敵地に配置されていた軍人の生命,身体に対する危険がなくなるというものではなく,敵国の対応によっては,当該軍人の生命,身体が危険にさらされてしまうこともあり,これも軍人の性質上やむを得ないところといえる。
よって,被告は原告らに対し,敵との戦闘行為や戦争遂行に関連して生ずる生命身体に対する危険を防止するための安全配慮義務まで負うものではない。
なお,国民徴用令19条及び国民勤労動員令30条は,旅費の支給に関する規定であり,原告らを安全に帰国させるべき義務を根拠付けるものではない。そして,ほかに原告らを速やかかつ安全に帰国させるべき義務を根拠付ける法令はないから,被告が安全配慮義務を負うべき根拠がないことは明らかである。また,ポツダム宣言9条についても,これによって個人が直接国際法上何らかの請求主体となることが認められるわけではないため,原告らの主張は認められない。
ウ よって,原告らの安全配慮義務に関する主張は,そもそも義務内容が不特定であるばかりでなく,原告らの主張する事実関係に基づいても被告に安全配慮義務が生ずるものではないから,主張自体失当である。
(6) 消滅時効(争点(5))
(被告の主張)
ア 本件で,原告らの長期抑留及び強制労働は,遅くとも原告らが帰国した時点までに終了したものと認められ,帰国した時点で権利行使について法律上の障害はなくなったといえ,この時点から,原告らに安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権が発生し,かつ,同時点から消滅時効が進行するといえる。そして,原告らは,いずれも帰国時から10年以上を経過して本訴を提起していることが明らかであるから,消滅時効が完成している。
被告は,第1~第3次訴訟の原告らに対し平成20年6月19日の本件口頭弁論期日において,第4次訴訟の原告らに対し平成21年2月4日の本件口頭弁論期日において,第5次訴訟の原告らに対し同年6月17日の本件口頭弁論期日において,上記時効を援用するとの意思表示をした。
なお,原告らが,被告への提訴が可能であると知らなかったなどの事情があったとしても,権利の性質それ自体を問題とするものではないため,消滅時効の進行を妨げる事情には当たらない。
イ 時効の援用は権利濫用に当たらないこと
時効制度の存在理由,当事者の意思との調和を図って援用権を定めた制度趣旨からすると,時効の援用が権利濫用とされるべき場合は,債務者が,債権者の権利行使や時効中断措置を事実上困難にしたなど債務者に帰責事由があり,債権者に権利行使を保障した趣旨を没却するような特段の事情がある場合に限定されるべきである。
本件では,債権者である原告が期間内に権利を行使しなかったことについて,債務者である被告に帰責事由はなく,債権者に権利行使を保障した趣旨を没却するような特段の事情がある場合に当たらない。
終戦当時の安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求権の成否については,古い過去の事実に関することであるから,被告において具体的に反証することは極めて困難であるため,時間の経過による立証の困難性は認められる。また,原告らは,権利行使をすることについて法律上の障害がないにもかかわらず,何ら権利を行使せず,消滅時効期間を経過させたのであれば,権利の上に眠る者と評価されるのも当然である。
よって,時効制度の趣旨からしても,本件は消滅時効の適用が当然に認められるべき場合に当たる。
さらに,原告らは,被告が時効を援用することは,再度原告らを棄兵するに等しいと主張するが,この主張は,原告らの主張する損害賠償請求権の発生要件該当事実が悪質であったことを主張するにすぎず,原告らが期間内に権利を行使しなかったことについて被告に帰責事由があるなど,特段の事情を基礎付けるものではない。
したがって,時効の援用は権利濫用には当たらない。
(原告らの主張)
ア 消滅時効の起算点は,原告らが,弁護士から被告に対する損害賠償請求訴訟の提起が可能であると説明を受けた時以降と考えるべきである。本件では,最も早く弁護士から説明を受けた原告X1でさえ平成19年の秋ころで,原告らが本件を提訴したのは同年12月であるため,消滅時効にはかからない。
イ 時効援用権の行使は権利の濫用である。
消滅時効の制度趣旨は,①時の経過による権利消滅の立証の困難の回避,②権利の上に眠れる者を保護しない,ということにある。①について,被告の安全配慮義務違反が時の経過により立証が困難になっているという事情はない。また,戦後今日に至るまで原告らに対して何らの補償,賠償などの給付を行っていないことは公知の事実ともいうべき事実であり,権利消滅の立証の困難を回避するという理由も本件には妥当しない。次に,②について,原告らが相当期間経過後に訴訟を提起したのは,争点(3)の原告らの主張で述べた事情があったためであり,権利の上に眠っていたわけではない。
このように,本件は消滅時効の制度趣旨が妥当しない事案であるから,消滅時効の援用は権利の濫用といえ,許されない。また,被告が,時の経過のみをもって賠償義務を免れるべく,時効を援用することは,再度原告らを棄兵するに等しく,権利の濫用といえる。
(7) 被告が被抑留者を早期に帰国させるべきであるのに何ら積極的な施策をとることなく放置した不作為(争点(6))
(原告らの主張)
被告は,原告ら被抑留者の解放と送還を求める義務を負っていたにもかかわらず,終戦後,原告らの解放と送還に向けた行為を行わなかった。そのため,昭和21年12月まで,被抑留者の引揚げは全く行われなかった。同月19日の米ソ協定締結によってようやく引揚げが開始されたが,その後も,遅々として進まない被抑留者の帰還について,被告は帰還者の受入れ業務を漫然と行うのみで,厚生大臣も外務大臣も,早期の帰還を積極的に求める行為をとらなかった。
これら被告の不作為が,原告ら被抑留者を早期に帰国させる義務に反して違法であったことは明らかであり,よって,被告は原告らに対し,国賠法1条に基づきその損害を賠償する責任がある。
すなわち,被告(具体的には厚生大臣及び外務大臣)は,違法な先行行為(争点(1)で原告らが主張した遺棄行為及び安全配慮義務違反行為)によって発生させたシベリア抑留という事態を解決すべき,極めて高度の作為義務を負っていた。
ア 作為義務の発生根拠
(ア) 先行行為に基づく条理上の作為義務
被告は,昭和7年に,違法な侵略行為を行って原告らを旧満州に送り込み,昭和20年8月9日に,ソ連による侵攻と前後して,旧満州の4分の3の地域を放棄する作戦をとり,旧満州に残された原告ら日本軍将兵に対しては現地土着政策を押し付けるなどしてソ連の侵攻を食い止める役割を担わせ,さらに,同月15日の敗戦後,原告ら日本軍将兵をソ連に労働力として積極的に提供した。
被告は,このような一連の先行行為を行ったのであるから,原告らを日本に帰国させる義務を条理上負うというべきである。
被告は,抑留が起こり引揚げが難航したのは基本的にソ連側の行為・態度に問題があったと主張するが,その前提に誤りがある。なぜなら,シベリア抑留という自体は,単にソ連政府の違法な行為のみによって発生したものではなく,被告の方針であった棄兵政策によって引き起こされた事態にほかならず,いわば日ソ両政府による原告らに対する共同不法行為とでもいうべきものであるからである。
また,被告は,法的評価の対象となるのは,原告らを帰国させる義務を怠ったという不作為ではないと反論している。しかし,原告らがシベリアに抑留され続けたのは,被告が原告らを労働力として提供した行為にとどまらず,被告が原告らの帰還に向けて尽くすべき義務を怠ったという不作為によって引き起こされたものであるため,違法評価の対象となる。
(イ) ポツダム宣言の受諾
ポツダム宣言9条は,日本国軍隊の武装解除と,軍人を各家庭へ復帰させる義務を被告に課している。
また,ポツダム宣言にはソ連も調印していたため,被告は,ソ連に対してポツダム宣言9条の履行を促す権能を有しており,被告がソ連に対し,日本兵の引渡しを求めれば,ソ連は,これを拒むことができなかった。
さらに,ソ連による抑留は,ハーグ戦争法規第20条や1929年ジュネーブ条約第75条に違反する抑留であったため,ソ連は国際法上原告らを送還すべき義務があり,日本がソ連に日本兵の解放を求めれば,早期帰国の実現が可能な状況にあった。
したがって,被告は,ソ連に対し,原告らを含むすべての被抑留者の早期解放と送還の措置をとるよう求める義務があった。
(ウ) 日本国憲法
昭和21年11月3日公布,昭和22年5月3日施行の日本国憲法により,被告は,早期に抑留者を帰国させるべき義務を憲法上負うこととなった。
原告らが,シベリアにおいて,個人の尊厳を否定される環境に置かれていた以上,憲法13条により,被告には,原告らの人権を回復するため帰国に向けた措置をとる義務があったといえる。
憲法22条は,海外から日本へ帰国する権利を保障しており,被告には,憲法22条により,自ら日本に帰る手段を持たない原告らの帰国の権利を実現すべく具体的な措置を講ずる義務があったといえる。
(エ) 国際人権法
昭和23年採択の世界人権宣言13条2項には,「全てのものは,いずれの国からもはなれ,及び,自国に帰る権利を有する」と定められており,帰国の権利は確立した国際慣行であるから,被告は帰国の権利を遵守する義務を負っていた。原告らが帰国できない原因が,被告の棄兵政策にある以上,被告には,原告らの帰国の権利を実現する積極的な措置をとる義務があったというべきである。
イ 作為義務の内容
(ア) 被告は,昭和20年8月15日の終戦後,速やかに,原告らに対してなされていた違法な抑留について,ソ連に対して解放と送還を求めるとともに,原告らを帰国させるための施策を立案し,実行する義務を負っていた。
(イ) 厚生大臣は,厚生省設置法により「引揚げ援護」を職務とし,外務省も「海外における邦人の保護」を任務とする。そして,被告は,昭和20年9月7日,「外征部隊及居留民帰還輸送等に関する実施要綱」を定めた。これにより,厚生大臣は,原告らが速やかに帰還できるよう輸送船などの手配をし,運行計画を定めるなど,帰還に向けた具体的な施策を行う義務を負っていたといえる。また,外務大臣は,原告らの速やかな帰還のためにソ連との交渉に臨み,原告らの輸送への協力を要請するなど,原告らの帰還に向けた交渉などを行う義務を負っていたといえる。
これらの義務は,昭和21年3月16日,連合国軍総司令部(以下「GHQ」という。)が被告に対し,「引揚に関する基本指令」を出し,同年12月19日,米ソ協定でソ連からの日本人の引揚数は月5万名と定められたことにより,より重大かつ具体的なものとなった。具体的には,厚生大臣は,月5万名の引揚げを行うための具体的な船舶の手配をする義務を負い,外務大臣は,速やかな引揚げをするために交渉する義務を負ったといえる。
(被告の主張)
ア 作為義務の存否及び程度についての原告らの主張に対する反論
(ア) 義務内容が不特定である。
原告らは,厚生大臣及び外務大臣が,いかなる時期に,いかなる方法で,だれに対し原告らの解放と送還を求める義務を負っていたのかについて何ら主張していない。原告らは,厚生大臣に,輸送船の手配や運行計画を定める義務があると主張しているが,具体的にどのような運行計画を定めるのか,どのような手配をするのか不明である。また,外務大臣について,ソ連とどのような交渉をすべきかも不明である。よって,義務内容の特定を欠くものであって,主張自体失当である。
また,被告が原告の主張する義務を履行することによって,どのような結果が生じ,実際に個別の原告らの帰国の時期がどの程度早まるはずであったのかについて何ら明らかにしていないため,原告ら個人の権利利益とかかわりなく,被告の行った引揚げに関する施策を非難するものであり,主張自体失当である。
(イ) 作為義務は発生しない。
a 先行行為に基づく条理上の作為義務について
被告が,①違法な侵略行為をしたこと,②旧満州の4分の3の地域を放棄する作戦をとったこと,③原告ら日本兵にソ連の侵攻を食い止める役割を担わせたことについて,いずれも,原告らがシベリアに抑留されたこととの因果関係を欠くため,先行行為とはいえない。
被告が,①から③に加え,④原告らを労働力としてソ連に提供した行為も含めて一連の行為として検討しても,原告らがソ連に抑留されたのは,ポツダム宣言に違反して原告らを抑留したソ連の行為によるものであるから,原告らの主張する一連の行為と,抑留という結果発生とは因果関係を欠き,先行行為には当たらない。
また,原告らは,被告が原告らを労働力としてソ連に提供し,その結果原告らがシベリアに抑留されたと主張しているところ,法的な評価の対象となるのは,被告が原告らを労働力としてソ連に提供した行為に尽きるのであって,原告らを帰国させる義務を怠ったという不作為ではないため,④は先行行為には当たらない。原告らが,このような不自然な法律構成を主張するのは,国家無答責の法理を回避しようとするものにほかならず,国賠法附則6項を潜脱するものであって,失当である。
b ポツダム宣言の受諾について
ポツダム宣言9条は,被告に,軍人を帰国させるとの原告ら個人に対する義務を課すものではない。国際法は,国家間の権利義務を定めるにすぎず,ポツダム宣言についても,原告ら個人に,国際法上の権利を付与したものではなく,原告らが被告に対して請求を行う法的根拠になる余地はない。
c 日本国憲法の各規定について
憲法13条は個々の国民において,自らその幸福を追求し,主体的に実現するという自由主義,個人主義を基調として,国家がこれを侵害しないという趣旨の規定であって,国家に対し,一定の作為義務のあったことを根拠付けることはできない。
憲法22条は,居住・移転の自由,海外への移住の自由など,自由権を保障した規定であるのに対し,原告らの主張する義務は,被告が積極的な作為義務を負うことを前提としたものであり,このような義務を憲法22条から導くことはできない。
d 国際人権法について
原告らの主張する帰国の権利の侵害は,ソ連によって行われたもので,被告においてそれに対する積極的施策をとるべき義務が世界人権宣言13条2項や国際慣行から導かれる根拠はない。
また,国際法は,一義的には,国家間の権利義務を定めるものであり,個人が直接国際法上何らかの請求の主体となることが認められるものではない。世界人権宣言13条2項は,人権促進と漸進的確保の努力のため,諸国が達成すべき共通の基準を定めたもので,法的拘束力を持たず,これにより,被告が,原告らを帰国させるために施策をとる義務が規定されているとは認められない。
イ 引揚げの実現のために外交権を行使することは不可能であったこと
被告は,ポツダム宣言受諾後,ソ連への働きかけや影響力の行使ができなくなり,GHQが,昭和20年10月25日及び同年11月4日,中立国との関係維持を停止するよう指令したことにより,中立国を通じた外交交渉も不可能となり,外交権能が全面的に停止し,この状態は昭和27年のサンフランシスコ平和条約により日本が連合国から独立するまで続いた。
ウ 引揚げの実現に向けて被告が様々な活動を行ったこと
外交権能が停止した状態の中で,被告は,被抑留者の安全に重大な関心を払い,これらの邦人を早期に帰還させるべく,次のとおり,可能な限りの努力を行った。
(ア) 米ソ協定締結に至るまでの被告の活動
a 昭和20年8月23日,被告は,GHQに対し,旧満州・モンゴル新疆・北朝鮮方面の治安不良地区における所要の武器保持許容を要請し,その後も同月30日まで,武装解除された将兵や民間人へのソ連軍による不法行為を停止させる勧告を行うよう要請した。
外務省終戦連絡中央事務局は,同年9月9日,GHQに対し,旧満州及び北緯三十八度以北の朝鮮における事態の悪化を防止するため,北部朝鮮及び旧満州の日本人の引揚げ希望者の輸送を用意にするため直通列車の運行を再開することなどの措置を要請した。
重光葵外務大臣(以下「重光外相」という。)は,同月13日,GHQに対し,北朝鮮その他ソ連占領地区の日本人の事態改善と引揚げ促進に関するマッカーサー最高司令官あての覚書を渡し,引揚げのための措置を要請した。この後も再三陳情や要請を試みた。
b 被告は,ソ連の利益保護事務を行っているスウェーデン並びにローマ法王庁,赤十字国際委員会及びGHQに対し,終戦直後から,ソ連政府への邦人の早期帰還に関するあっ旋方依頼を行っていた。
具体的には,被告は昭和20年9月5日,スウェーデン政府に対し,在ソ邦人保護についてソ連政府への伝達を要請し,同月10日,重光外相は,ジュネーブの赤十字国際委員会本部に北朝鮮・旧満州の事態改善のための援助を懇請したり,スウェーデン政府にソ連への好意的あっ旋を依頼するなどの努力をした。
c 被告は,昭和20年9月11日,日本人の引揚げについてソ連軍と直接交渉することを試み,ソ連総領事に平壌行きのあっ旋を依頼したが,GHQから出張についての許可が得られず,実現できなかった。
d 被告は,昭和20年9月7日,「外征部隊及居留民帰還輸送等に関する実施要領」を閣議了解し,「内地民生上の必要を犠牲にするも,優先的に処置する」との方針,すなわち被抑留者の帰還輸送の実現を優先的に行うとの方針をとることを明らかにした。
e 以上の活動により,昭和21年12月19日,米ソ協定が締結され,毎月5万人の引揚げが約束された。
(イ) 米ソ協定に基づく引揚げ実現のための被告の活動
米ソ協定どおりに引揚げが進展しない中,昭和22年7月,衆議院は,「海外同胞引揚に関する特別委員会」を,参議院は「在外同胞引揚に関する特別委員会」をそれぞれ設置するとともに,同年8月15日,両院本会議で「海外同胞の引揚に対する感謝並びにその帰還促進に関する決議」を採択し,帰還促進に向けて懇請した。また,GHQの協力を得ながら,同年12月16日,冬期の引揚げを可能とするため砕氷船の派遣を申し入れたり,昭和23年2月11日に引揚げ再開を要求したり,同年9月3日引揚げが協定どおり進展しないことにつき抗議を行ったりした。
被告は,同年11月24日,「未帰還者対策要綱」を閣議決定し,ソ連地区,中共地区(中国共産党支配地区)における抑留者・残留邦人の引揚げ促進を強調し,未帰還者及び留守家族の援護の方針を定めた。
さらに,同年12月29日,抑留の長期化を踏まえて未帰還者及びその留守家族の経済面に配慮するため,「未復員者給与法の一部を改正する法律」(帰郷旅費等を増額し災害給付制度を新設する内容)及び「特別未帰還者給与法」(未復員者以外の者で,ソ連地域に抑留中の一般邦人に対し,未復員者給与法の規定を準用し援護する内容)の2つの法律を公布した。このほか,昭和24年4月には引揚げが再開されるとの見通しのもと,同年3月半ばまでに配船,列車輸送など受入れ準備を行い,同年4月26日に両議院で,引揚げ促進を決議し,各政党や議員,議員連盟も相次いで,ソ連代表部に対し,引揚げ促進を懇請した。
このほか,被告は,GHQを通じて,国際連合にも引揚げ再開のため,働きかけた。昭和25年5月2日,国会両院決議として「未帰還同胞の引揚促進ならびに実体調査等を国際連合を通じて行うことを懇請する決議」を採択し,抑留問題を国際連合に提訴することをGHQに要請し,この働きかけが同年9月21日,未帰還捕虜問題が国際連合の総会の議題とされることにつながった。そして,この総会において,同年12月14日,未帰還抑留者を抑留している諸政府に対して,未帰還抑留者の氏名・抑留理由や抑留中死亡者の氏名・死亡日時・死因などを国連事務総長に通報することを要望するとともに,捕虜問題解決のための特別委員会の設置することなどを内容とする「捕虜問題の平和的解決のための措置」に関する決議が可決採択された。
(ウ) タス通信による報道に対する被告の対応
昭和24年5月20日,ソ連国営のタス通信により,日本人捕虜は戦犯関係を除き9万5000人の送還を同年11月までに完了すると報道された。
しかし,被告が終戦直後から行ってきた未帰還者の状況調査によれば46万9041人の未帰還者がいるはずであると考え,被告は同月26日に引揚げ予定者数が少なすぎると反論した。
また,昭和25年4月22日には,タス通信により「日本人捕虜の送還完了」と伝えられたが,被告は,同月25日にはGHQに対し,いまだ相当多数の日本人が残留していると確信しているので速やかな送還を実現すること,抑留中の死亡者の氏名を通告することを重ねて懇請した。同年30日には,在外抑留同胞引揚促進に関する決議を採択し,GHQに対し,抑留者を全員速やかに帰還させるよう要求した。
(エ) 主権回復後の被告の活動について
a 昭和28年12月の引揚げ再開までの活動
昭和27年4月28日に平和条約が発効し,日本の主権が回復され,引揚げ業務は被告の自主性と責任により行われることとなった。平和条約には,捕虜帰還条項が規定されていたものの,ソ連は署名もせず,直ちに帰還促進につながるような状況ではなかった。
しかし,被告は国際連合等を通じ,情勢の緩和と引揚げの実現に努力し,昭和28年12月に引揚げが再開することとなった。
具体的には,昭和27年3月18日,「海外邦人の引揚に関する件」の閣議決定をし,引揚げを求める姿勢を明らかにした。また,引揚げ問題を解決する任務を持つ唯一の国際機関である捕虜に関する特別委員会が活動停止に追い込まれそうな状況の中,被告がドイツやイタリアと協力して積極的に働きかけた結果,活動停止を免れた。さらに,昭和28年8月24日からの特別委員会において,未帰還者の早期帰還実現への委員会当局や関係国の理解支援を要請した。
また,同年9月20日,ソ連赤十字社が戦犯者の帰国問題について日本赤十字社と協力する用意があるとの情報を得て,交渉を進め,同年11月19日,赤十字協定が成立した。これにより,同年12月の引揚げが実現し,日ソ国交回復まで合計10回の引揚げが行われた。
b 日ソ国交回復交渉
ソ連は昭和29年10月12日の日ソ共同宣言や,同年12月16日のモロトフ外相の声明で対日関係正常化の用意がある旨の意思表示を行い,被告側でも同月10日に関係正常化の意向を表明した。そして,昭和30年2月4日の閣議で交渉開始を決定し,同年6月7日から交渉が開始された。
ソ連は平和条約が成立すれば引揚げ問題も解決するとして条約先決を主張したが,被告は抑留者引揚げ問題を全案件の第一順位に置き,優先処理を強く主張し,冒頭から難問に直面した。
この後,対立の激しさから交渉が一時中止する中で,被告は抑留者のため,赤十字ルートを通じ,昭和31年5月と同年10月の2回,食料品など慰問品を送るなどの対応をした。
同年10月7日,交渉再開のため,当時の鳩山一郎首相(以下「鳩山元首相」という。)がモスクワへ出発したのをきっかけに交渉が進展し,同月19日,有罪判決を受けたすべての日本人を送還し,消息不明の日本人について調査する旨の条項が記載された日ソ共同宣言が発表されるに至った。領土問題についてソ連の不法占領を認めたまま国交回復に踏み切ったとして批判を受けたが,抑留者帰還実現を優先した結果であった。こうして,同年12月26日の抑留者帰還の実現につながった。
(被告の主張に対する原告らの反論)
ア 外交権能の制約に関して
被告は,ポツダム宣言の受諾後主権回復まで,被告の外交権能は制約されており,シベリア抑留の発生と引揚げの難航という事態に対処する権能はなかったと主張するが,失当である。
ポツダム宣言は各当事国を拘束する法的効力を持つ条約であるから,ソ連政府は,9条により日本将兵を帰還させるべき国際法上の義務を負ったし,被告も日本将兵を撤収すべき義務を負った。これにより,被告は,国際的合意の一方当事者として,他方当事者であるソ連政府に対し,日本兵を日本に帰還させるべき義務の履行を求め得る地位を有することとなった。
被告の外交権が制約されたとしても,国家間の合意に基づく履行を求める行為は妨げられないのであり,被告を免責する理由とはなり得ない。
イ 被告が行った活動に関して
被告は,被告が引揚げの実現のためにできる限りのことをしたと主張するが,被告が原告らに対して負っていた高度の作為義務の履行としては,全く不十分・不完全なものであったというほかない。
(ア) 米ソ協定の締結に至るまでの活動について
a 終戦直後の時期に,GHQに対して各種の要請行動を行った事実を主張しているが,いずれも,終戦に伴う現地の治安・秩序の悪化に直面して,その回復・維持を要請する内容のものであり,シベリア抑留の対象となった将兵の帰国とは直接関係のない活動にすぎない。
b 中立国に対する働きかけについて,当時外交又は領事関係が継続されていた中立国はスウェーデン・ヴァチカン(ローマ法王庁)を含めて6か国に及んでいる。また,いずれのルートでの活動も結局「ソ連の拒否」によって断念しているが,ソ連政府にはポツダム宣言の合意に基づいて原告ら将兵を帰国させる義務があるのであるから,その拒否に法的根拠がないことをソ連及び「ルート」となった中立国・機関に理解させる努力をすべきであった。しかし,被告によってそのような努力がなされた形跡はない。
c ソ連に対する交渉の試みについて,被告は,抑留された将兵の帰国に関するソ連との直接交渉については,ポツダム宣言に基づき,法的に制約のない地位・権能を有していたため,主体的な交渉が可能だったのであり,何度でも粘り強く交渉の糸口をつかみ,実質的な交渉を追求すべきであった。
仮に,GHQから「この種の出張の要を認めず」との意向が示されたとしても,法的には日ソ間の合意履行の問題であるからGHQの意向に左右されるべき事項ではないと解するのが正しいのであって,その旨をGHQに対して説得し,理解させる努力をする必要があった。しかし,被告は反論することもなく,L参事官の派遣を断念したのであり,甚だしく主体性を欠如した対応というべきである。
しかも,当のソ連側(在京城総領事)は,まだ交渉の拒絶すらしていなかったのである。それにもかかわらず,被告が早々とL参事官による交渉を断念してしまったことは,交渉における主体性の放棄として厳しく非難されるべきである。
また,被告がこの時点で派遣しようとしていた交渉担当者は,モスクワ在勤経験者とはいえ,一般の外交官にすぎない。また,L参事官の派遣の試み以外に,直接交渉の端緒を探ろうとした形跡も見受けられず,可能な努力を尽くしたといえないことは明らかである。
d 「外征部隊及居留民帰還輸送等に関する実施要領」の内容は,主として輸送手段の確保についての関心であり,輸送能力を内国の輸送需要より帰還輸送に優先して振り向けること,連合軍に協力を要請すること,を述べているにすぎない。抑留将兵の帰還実現のためには,帰国を認めさせるべき交渉が実現されなければならなかったのになされていない以上,努力としては全く不足していたというべきである。
e 米ソ協定は,米ソ間の交渉・合意によるものであることが明らかであり,被告が果たすべき義務を履行したものとして評価されるものではない。
(イ) 米ソ協定に基づく引揚げ実現のための活動について
米ソ協定による引揚げ実現に向けた活動について,被告は,最も肝要な対ソ直接交渉の努力を徹底していない。
国際連合への働きかけについて,原告らは活動及びその成果の意義を否定するものではない。しかし,被告は終戦直後から抑留将兵の帰還のために徹底して努力を尽くすべきであったところ,実際に行われた努力・活動は不足していた。その努力不足のために,上記国際連合への働きかけが行われるまでの間に失われた抑留将兵の生命や,辛うじて帰還することのできた原告らが強いられたかん難辛苦にかんがみるとき,国際連合への働きかけの努力も遅きに失したものと言わざるを得ない。
(ウ) タス通信による報道に対する対応について
タス通信への反論について,引揚げの促進・実現に寄与した事実があるのであればともかく,被告は結論として「ソ連はこれを無視したのである」ということを述べているにすぎないから,被告が原告らの帰国のために必要な努力を尽くしたと評価することはできない。
(8) 立法の不作為(争点(7))
(原告らの主張)
ア ①放置により重大な侵害が継続していること,②立法的解決を図らなければならない作為義務があること③その作為義務違反が違法と評価される場合には,立法不作為について違法と評価される。
イ 要件①について
シベリア抑留の実態,戦後放置されてきた実態からして,重大な人権侵害であることは明らかである。
ウ 要件②について
憲法前文,9条,13条,14条,17条,29条1項,同条3項,98条2項によれば,原告らに対する賠償ないし補償など立法を行うべき立法作為義務が認められる。
エ 要件③について
シベリア抑留被害者は,1946年末から1950年4月にかけて,ほぼ引揚げを終えているが,シベリア抑留被害者らが,抑留期間中に多大な精神的・肉体的苦痛を被っていたことは,引き揚げた時点で明確になっていた。
そして,被告は,アメリカ,オーストラリアなどやその管理下の地域から帰国した日本人捕虜に対して,抑留期間中の労働賃金に相当する金額を支払ったが,シベリア抑留者については,支払を行わなかった。
以上の事情からすれば,被告及び,その国会議員は,シベリア抑留により,身体的・精神的被害を被った原告らに対して,被害回復のための補償立法に着手すべき具体的義務を認識していたといえる。
被告は,1952年4月から,戦傷病者戦没者遺族等援護法などの一連の援護立法などを行い,予算措置を講じてきたことに照らせば,抑留被害者を対象とした補償立法及び予算措置を講じることは十分に可能であった。それにもかかわらず,被告は特段の理由なく,補償立法を行わなかった。そして,放置したまま63年が経過しているのであり,被告の対応の遅さは,強い違法性を帯びていると言わざるを得ない。
(被告の主張)
ア 原告らが主張する損害は,戦争損害として,国民がひとしく受忍しなければならなかったところであり,これに対する賠償や補償は憲法の全く予想しないところであるから,原告らの主張する賠償や補償を受ける権利は憲法上保障されていないものであることは明らかである。そうすると,憲法前文,9条,13条,14条,17条,29条1項,同条3項,40条,98条2項及び99条の各規定や,先行行為に基づく条理によっても,戦争損害につき補償を受ける権利が保障されていないことは明らかであり,これらが立法による救済義務の根拠となるものではない。
イ また,最高裁判所平成17年9月14日大法廷判決・民集59巻7号2087頁(以下「平成17年最判」という。)によれば,国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害することが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために立法措置をとることが必要不可欠であるような場合に,例外的に国会議員の立法不作為が違法と評価される場合がある。
本件で原告らが主張する損害は,戦争犠牲ないし戦争損害であるところ,これは国民がひとしく受忍しなければならない性質のものであり,その賠償ないし補償のための立法をしないことが,国民に憲法上保障されている権利を侵害することが明白とはいえないし,所要の立法措置をとることが必要不可欠な場合にも当たらない。よって,被告が原告らに対する賠償や補償の立法をしなかったとしても,違法にはならない。
(9) 原告らの損害(争点(8))
(原告らの主張)
原告らは,被告の違法行為により,長期間にわたり,極寒のソ連全土に抑留され,劣悪な食糧事情のもと,栄養失調状態でノルマを課した強制労働に服してきた。さらに,帰国した後においても,被告から何らの補償もなされないまま,就職差別,経済的困窮その他社会的に多大な不利益を被っている。
原告らが受けた損害は正確に金銭に見積もり難いが,原告らに共通する長期抑留及び強制労働による精神的・肉体的損害に対する慰謝料は,少なく見積もっても,原告一人当たり3000万円を下回ることがない。本件訴訟においては,原告一人当たり3000万円の慰謝料の内金として,1000万円及び100万円の弁護士費用の支払を求める。
Aの死亡により,相続人である原告X7及び原告X8は366万6667円,原告X9は366万6666円の支払を求める。
Bの死亡により,相続人である原告X44は550万円,原告X45,原告X46,原告X47及び原告X48は137万5000円の支払を求める。
Cの死亡により,相続人である原告X50は550万円,原告X51は183万3334円,原告X52及び原告X53は183万3333円の支払を求める。
(被告の主張)
原告X7,原告X8及び原告X9がAの相続人であること,原告X44,原告X45,原告X46,原告X47及び原告X48がBの相続人であること,原告X50,原告X51,原告X52及び原告X53がCの相続人であることは争わないが,その余は争う。
第4争点に対する判断
1 本件各訴訟について
(1) いわゆるシベリア抑留について,国に対して賠償ないし補償を求める訴えは,本件各訴訟までに3度提訴されているが,そのいずれの訴訟においても,請求はすべて棄却され,その判断は最高裁判所の判断によって確定している(いわゆるシベリア第1次訴訟(東京地裁平成元年4月18日判決,東京高裁平成5年3月5日判決,最高裁平成9年3月13日第一小法廷判決・民集51巻3号1233頁),いわゆる新シベリア訴訟(東京地裁平成12年2月9日判決・訟月48巻6号1495頁,東京高裁平成12年8月31日判決・訟月48巻6号1478頁,最高裁平成14年3月8日第二小法廷判決),いわゆる邦人シベリア抑留者訴訟(大阪地裁平成12年12月1日判決,大阪高裁平成14年6月28日判決,最高裁平成16年1月16日第三小法廷決定,同月27日第三小法廷判決))(乙1~6)。
(2) なかでも,上記最高裁判所平成9年3月13日第一小法廷判決は,「所論は,上告人らが,過酷な条件下で長期間にわたり抑留され,強制労働を課されたことによって生じた損害は,被上告人による戦争の開始,遂行及び終戦処理に起因する特別な損害であり,右損害については,憲法11条,13条,14条,17条,18条,29条3項及び40条に基づき補償がされるべきであるともいう。シベリア抑留者の辛苦は前記のとおりであるが,第二次世界大戦によりほとんどすべての国民が様々な被害を受けたこと,その態様は多種,多様であって,その程度において極めて深刻なものが少なくないこともまた公知のところである。戦争中から戦後にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては,国民のすべてが,多かれ少なかれ,その生命,身体,財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって,これらの犠牲は,いずれも戦争犠牲ないし戦争損害として,国民のひとしく受忍しなければならなかったところであり,これらの戦争損害に対する補償は憲法の右各条項の予想しないところというべきである。その補償の要否及び在り方は,事柄の性質上,財政,経済,社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって,憲法の右各条項に基づいて一義的に決することは不可能であるというほかはなく,これについては,国家財政,社会経済,戦争によって国民が被った被害の内容,程度等に関する資料を基礎とする立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解するのが相当である。以上のこともまた,前記大法廷判決の趣旨に徴して明らかである(最高裁昭和58年(オ)第1337号・同62年6月26日第二小法廷判決・裁判集民事151号147頁参照)。シベリア抑留者が長期間にわたる抑留と強制労働によって受けた損害が深刻かつ甚大なものであったことを考慮しても,他の戦争損害と区別して,所論主張の憲法の右各条項に基づき,その補償を認めることはできないものといわざるを得ない。」と判示し,上記最高裁平成16年1月27日第三小法廷判決も,同判決を再確認している。
上記最高裁判決の判示するところによれば,原告らが本件で主張するところの損害は,そもそもいわゆる戦争犠牲ないし戦争損害であり,事実認定上の争点に関する原告らの主張も,既に上記の数次の訴訟において否定されているところである。
(3) もっとも,上記最高裁判所判決の判示するところは,憲法11条,13条,14条,17条,18条,29条3項及び40条に基づく補償の要否についての判断である。
また,本件において,原告らが主張するところは,被告が,原告らを含むシベリア抑留者をソ連に対して労役賠償として差し出したとするものであって,これを単に戦争によって被った被害として,ひとくくりにすることも相当ではないものと考えられる。
(4) そして,本件の証拠調べにおける次の原告らの供述によれば,シベリア抑留から幸いにも生還して,祖国の地を踏むことのできた原告らにおいても,その被った損害は深刻かつ重大であって,看過することができないものであることは明らかである。
ア 原告X1(甲19,原告X1本人)
昭和19年9月26日ころ,ソ連軍によりタイシェットの収容所に収容され,朝9時から夕方5時まで鉄道敷設のための伐採,土床作り,道路造り,鉄道敷設工事などをさせられた。伐採中には,木の下敷きになる人が出た。また,道路造りでは,道路に使用する木を切る際,体力がないため,斧を自分の足にたたきつけてけがをする人が出た。零下30~40度の中での鉄道工事の際には,レールに皮膚が触れるだけでやけど状態になるなどの事故も起こった。食料は,黒パン一切れとアワ・ヒエのスープが配給されるだけであったため,作業の休憩の合間に,カエル,蛇,雑草を取って炊いて飢えをいやすような状況であった。
イ 原告X19(甲20,原告X19本人)
昭和20年9月ころ,クラスノヤルスク地区第34地区第6収容所に収容された。収容所では,地下30メートルくらいの炭坑地下坑内で石炭採掘の作業を課された。毎日,夏は暑く,冬には零下30~40度という極寒の中を,毎日片道1時間ほどかけて炭坑まで歩いた。炭坑では,高さ約2メートル幅約3メートルの坑道を80センチ掘り進むことがノルマとされ,8時間労働で休憩もなかった。栄養失調の状態でノルマを達成するため,予定時間外にも作業を続け,それでもノルマを果たせなければ,黒パンと岩塩スープだけの食事をさらに減らされた。また,中耳炎を患っても治療を受けられないまま2,3年過ごしたため,難聴になった。
ウ 承継前原告A(甲21,承継前原告A本人)
昭和20年8月末,ソ連軍の指示により間島市内の仮設収容所で収容され,1か月間,ソ連軍の命令で物資を貨車に積み込む作業を行った。その後,徒歩や貨車で移動させられ,同年10月末ころ,コムソモリスク・ナ・アムーレの収容所に収容された。ここでは,捕虜収容所の建設作業,アムール川にあるソ連海軍のドックの設備工事(屋外の水道管の建設作業,空調設備敷設作業),凍土を掘って水道管を敷設する土木工事,板金作業などを,午前8時から午後5時まで行った。食料は乏しく絶えず飢えに悩まされ,冬季は極寒のため,手が凍傷になった。また,作業中に落下した鉄片が頭部に当たり,負傷した。
昭和23年7月28日に帰国したが,その後も就職差別などを受けた。
エ 原告X28(甲25,原告X28本人)
昭和20年11月23日,ホルモリンの228収容所に収容された。ここでは,防寒帽はもらったが,薄い服に軍隊の革靴という格好で,バム鉄道の路線作り作業,橋梁保護作業を行った。路線作りでは,1日に6立方メートルの土を掘り返すことがノルマとして課されていたが,ノルマの達成度によって翌日の食事の量が決まり,十分な食事がないまま働かざるを得ない日々が続いた。橋梁の作業は三交代で一日8時間課せられ,夜中の12時から朝8時までの時間帯の場合,零下40度を超える寒さの中で,食事もなく,働かされた。昭和22年5月ころ,コムソモリスクの第5収容所に移動し,バム鉄道の道路建設や土床造りも行った。
オ 原告X38(甲23,原告X38本人)
昭和20年10月下旬ごろ,チタ地区の収容所に収容された。収容所では,収容所の小屋の修理と周囲の壁を作る作業やソ連兵の監視所を作る作業を行い,この作業の終了後は伐採作業を課せられた。収容所では,月1回,ソ連兵から点呼を受け,荷物を全部持って集まり,その荷物をソ連兵が検査し,遺骨,手帳,スプーンなどの持ち物を取り上げられた。また,重労働により,発疹チフスと熱病にかかり,耳も聞こえず,自分で歩けないような状況にもなった。人間関係について,日本の軍隊の上下関係が残っており,上官から暴力を受けて亡くなる日本人もいた。昭和21年6月から,ナホトカの収容所に移動させられ,港の建設作業の現場で砕石された石を搬入する作業を行った。
カ 原告X43(甲24,原告X43本人)
昭和20年10月末ころ,アルマータ第10収容所に収容された。収容所では,作業隊を連れ,現場監督の作業の指示を伝達し,作業に必要な材料や用具などの交渉,ノルマをなるべく下げるための交渉を行ったり,石灰岩の山を掘る作業を行ったりした。山を掘る際,爆破作業をするところ,前の爆薬が残った状態で,ダイナマイトを入れる穴を掘る作業をしてしまった時に爆発があり,けがをするという事故が多かった。食料事情も悪かったため,天びんを使って分配し,スープもまず実を分け,次に汁を分け,その後くじを引いて自分のを取るというような状況であった。抑留中,ソ連と戦闘していないのになぜ連行され,ソ連のために仕事をしているのかという精神的苦痛を味わった。また,共産主義の教育が行われ,抑留者の中でも,帰国したいためにソ連におもねる親ソ派,反抗派,無関心派などに分かれて言い合うなどのすさまじい状況もあった。
(5) 他の原告らについても,その主張するとおり,上記原告らと同様の被害を受けたものと推察することができ,原告らは,極寒,不衛生など過酷な生活環境のもと,慢性的な飢餓状態のまま,鉄道・運河・道路建設,森林伐採,炭坑作業という重労働に強制的に従事させられていたものである。その平均年齢が既に約83歳に達していても,原告らの記憶はいまだ鮮明であって,忘却にゆだねることができないものであったものと認められる。
幸いにも,シベリア抑留から生還して,日本人男性の平均寿命を超える長寿を享受することができた原告らにとっても,原告X38が供述するように,シベリア抑留において,一番弱い立場の人からどんどん死んでいったという記憶は忘れられないものであり,原告X43の供述するように,不幸にしてシベリア抑留中に死亡した人たちを考えると,原告らの抑留がなぜ生じたのかについて,現時点において確認したいと考えるのも,うなずけるところである。
(6) 被告の主張するように,過去の裁判例において,原告ら側の主張するところは,すべて理由がないとされて請求が棄却され,その判断は確定しているものではあるが,上記のような事情も考慮すると,既に解決済みの問題の蒸し返しにすぎないとすることなく,本件に提出された全証拠を精査して,原告らの主張に理由があるかどうかを改めて検討することとする。
2 シベリア抑留の原因について
(1) 原告らも自認するとおり,シベリア抑留は,国際法に完全に違反して,原告らを長期にわたり強制労働させたソ連に,その第一義的責任があることは明白である。すなわち,証拠(甲1,5,6,26,27,30,34)によれば,次の事実が認められる。
ア ソ連は,第2次世界大戦において,国際法に違反して,ドイツ軍238万人を始め,24か国合計417万人を軍事捕虜として抑留し,自国の建設のための強制労働に従事させた。ソ連は,社会主義体制のもとで,既に,強制的農業集団化,大粛清によって数百万人を超える農民,市民を,シベリア等の強制収容所に収容して,ダム・鉄道・運河・道路建設や鉱山の開発等の強制労働に従事させ,多数の死者を生じさせていた。ドイツ軍等の軍事捕虜は,これらの農民,市民とともに,あるいはこれに代わるものとして,強制収容所に収容され,強制労働に従事させられたものである。
イ そして,ソ連の最高指導者であったスターリンは,昭和18年のイギリス首相チャーチルとの会談の際,軍事捕虜を労働力として活用していることを明言していたから,軍事捕虜を強制労働に従事させることは,当時からのソ連の方針であったと考えられる。
ウ スターリンは,昭和20年8月23日に極秘指令「日本人捕虜に関する命令書」を発しているが,同極秘指令には,極東シベリアの環境下での労働に肉体面で適した50万人を選別して,1000人ずつの建設大隊を組織して,ソ連領内に移送することを命じており,その50万人の捕虜移送方法と移送のための衣類,食料等に関する指示並びに移送先地方名,移送後に就く現場及びその人数を詳細に指示している。その指示内容は,現地での必要人数の把握のための報告や事業計画などが明確となって初めて可能であるから,この極秘指令を発する数か月前には,既にその準備が始められていたと考えるのが相当である。
エ ソ連は,昭和18年10月19日からモスクワで開催された米英ソ外相会議で,ナチスドイツとの戦争の勝利後という条件付きではあるが,対日参戦の意向を明らかにし,昭和20年2月のヤルタ会談において,アメリカ・イギリス・ソ連は,ドイツが降伏し,かつヨーロッパの戦争が終結して2,3か月後に,ソ連が,連合国にくみして日本に対する戦争に参加することについて合意した。
したがって,ソ連は,少なくとも,ヤルタ会談後からは,50万人以上の日本軍将兵のシベリア抑留を計画的に準備していたものと考えられる。
オ ソ連は,昭和20年4月5日に日ソ中立条約の不延長を通告した。同条約は,1年後の昭和21年4月5日まで有効であったにもかかわらず,ソ連軍最高司令部は,昭和20年6月28日には,各正面軍に対し,本格的準備の命令を発し,同年8月8日,対日宣戦布告を行い,引き続いてシベリア抑留を行った。
カ シベリア抑留についての被告の抗議等から,昭和21年12月19日,ソ連地区引揚げに関する米ソ協定が締結され,毎月5万人の引揚げが約束されたにもかかわらず,ソ連側は,これに見合うだけの人員の引揚げを履行せず,一方でシベリア抑留者に対して,強制労働やマルクス・レーニン主義の学習を強いた。そして,ソ連は,昭和25年4月22日には,相当数のシベリア抑留者がいまだ引き揚げていないことが明白であったのに,一方的に,タス通信を通じて日本人捕虜の送還完了と伝え,引揚げを中断した。
キ 昭和30年6月から始まった日ソ国交正常化交渉では,シベリア抑留者の送還が国交正常化の前提であるとする被告の方針に対して,ソ連は,シベリア抑留者の送還は平和条約締結後であると主張した。一方で,平和条約草案に関する交渉は,領土問題において全く対立したままであり,当時の鳩山元首相は,シベリア抑留者を助けるため領土を犠牲として平和条約を締結するか,シベリア抑留者を犠牲にしても北方領土を主張し続けるかという政治的決断を迫られることになり,シベリア抑留者は,事実上,日ソ国交回復の人質的立場に置かれることになった。シベリア抑留者の家族らは,同年9月7日に「在ソ同胞即時救出留守家族総決起大会」を開催するなどして,シベリア抑留者の引揚げを強く要望した。鳩山元首相は,自らモスクワに赴き,同年10月19日,日ソ共同宣言を発表し,日ソ国交回復とシベリア抑留者の引揚げを実現したが,領土問題は,未解決のままとなった。
(2) このように,ソ連が,シベリア抑留者をソ連領土内に強制連行し,強制労働を強いたことは,明白な国際法違反の行為である。もっとも,上記証拠によれば,イギリス軍も,昭和21年末,日本軍部隊主力の本土送還を終わった後において,さらに13万2000人に達する作業隊の残留を要求し,昭和23年1月まで約1年間各種の作業に従事させたことが認められるが,これによってソ連の上記行為の不法性が減じられるものではない。
(3) 上記のとおり,ソ連は,対日参戦の相当程度以前から,対戦国の軍人を抑留して強制労働に従事させることを方針としていたものであり,その上で対日参戦の数か月前からは,計画的に日本軍人の抑留と配置先を決定して,終戦後に武装解除した日本軍将兵を抑留して強制労働に従事させ,アメリカと引揚げに関する協定を締結しても,これを遵守せず,強制労働と思想教育を続け,一方的に引揚げの終了を宣言して,シベリア抑留者の引揚げを平和条約締結に当たって領土問題を有利に展開するための人質に等しい地位に置くなどしたものであり,原告らシベリア抑留者は,ソ連の国際法違反の行為によって,多大な損害を被ったものである。
3 争点(1)(被告の遺棄行為)について
(1) 原告らは,原告らの被った抑留及び強制労働は,ソ連の行為だけによるものではなく,被告が,原告ら将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すという棄兵政策をとり,原告らを終戦後ソ連軍の手にゆだねて使役させ,日本に帰国させないという遺棄行為を行ったことにより発生したものであると主張している。
(2) そして,原告らは,被告が,将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すことを申し出ていたことを示す文書が存在するとして,①要綱,②E報告及び③I宛報告を指摘しているので,順次検討する。
ア 要綱について
(ア) 昭和20年7月12日,被告の最高戦争指導会議において,近衛元首相を天皇の特使として派遣し,ソ連に対し,当時交戦中のアメリカ・イギリス・中国等の連合国との和平交渉のあっ旋を申し入れることを決定した。要綱には,上記のとおり,「条件」として「国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること」とする一方,「陸海軍軍備」の項では「海外にある軍隊は現地に於いて復員し内地に帰還せしむることに努めるも止むを得ざれば当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」として「若干を現地に残留とは,老年次兵は帰還せしめ,弱年次兵は一時労務に服せしむること,等を含むものとす。」との注釈を加えている。最後に「賠償として,一部の労力を提供することには同意す。」と記載されている(甲1,9。ただし,要綱の全文を明らかにする証拠は提出されておらず,上記書証中に部分的に引用されているに止まる。)。
(イ) 原告らは,要綱が「賠償として,一部の労力を提供することには同意す。」としていることは,国体の護持を絶対的条件とする一方で,将兵をソ連に対し労役賠償として引き渡すことを申し出たものであると主張している。
しかし,要綱は,その内容からすれば,近衛元首相が,ソ連に対し,連合国との和平交渉のあっ旋を申し入れ,ソ連がこれを受け入れた場合に,ソ連を通じて連合国に対して示されることになる被告からの和平提案について,近衛元首相が交渉担当者として提案することが許される範囲を事前に決定したものと考えられる。したがって,その相手方は,直接的には連合国であって,要綱が,いまだ開戦前であったソ連に対する賠償提案を定めたものであったとは考えにくい。
もっとも,要綱の内容に従えば,樺太及び北千島の領有を放棄することになるが(甲9),これは連合国に対して,海外領土の放棄を提案する一環として,交戦状態にないソ連に対しても,和平交渉のあっ旋を依頼する関係で,同様の提案をすることを許したものと考えられる。
そして,ソ連との関係では,いまだ戦争となっていないのであるから,被告として,ソ連に対する賠償を考える理由もないはずであるから,本件各証拠(甲1等)に部分的に引用された要綱を見る限りは,賠償として労力を提供することを考えていたのは,戦争によって被害を生じた既に交戦状態にあった連合国に対するものであったと考えるのが自然である。
証拠中には,これを「「国体護持」と引き換えに「兵力賠償」の対ソ提供を臆面もなく申し入れる内容となっていた」(甲8)とする文献もあるが,要綱が,ソ連に対して労役賠償を提供する趣旨であるとする根拠はない。
(ウ) しかも,ソ連は,近衛元首相の派遣の受入れを断ったため,近衛元首相の派遣自体も実現されておらず,ソ連に対して,要綱の内容が伝わったとする根拠はない。
Mの意見書(甲26)には,近衛元首相との会談をソ連側に要請する過程で,N大使が天皇特使派遣に関する外交文書を2度にわたり提出した事実や,東郷外相・N大使間の往復公電,N大使・O次官との頻繁な意見交換があったことを理由に,和平条項案の内容がソ連側に伝わっているはずであるとの意見が記載されている。
しかし,いかなる内容の外交文書がソ連に提出されたかを基礎付ける証拠はなく,東郷外相とN大使との間の往復公電の内容をソ連が知っていたことを基礎付ける証拠もなく,N大使とO間でなされた意見交換の内容を基礎付ける証拠もないため,ソ連側に要綱の内容が伝わっていたことを認定するに足りる証拠はない。
むしろ,要綱は,上記のとおり,近衛元首相のモスクワにおける和平交渉に当たって,事前に被告として提案できる内容を定めたものであると考えられるから,どのような形であれ,これをそのままソ連側に提出したものとは考えにくい。飽くまで近衛元首相を通じて,ソ連に対して示され,ソ連を通じて連合国側に示されることが予定されていたものと考えられる。
N大使から,ソ連に対して提出されたとする外交文書についても,証拠(甲26,31,34)によれば,同月25日,Oは,N大使に対し,被告は米英との戦争終結のためソ連政府のあっ旋を求めるのかと念を押し,N大使がそのとおりであると答えたところ,Oは,近衛元首相のもたらす具体的提議なるものは,戦争終結に関するものか,あるいは,日ソ関係強化増進に関するのか,いずれであるかと質問したのに対し,N大使は,その双方の点に関係あるものと了解すると述べるとともに,本日の申入れを書きものとして送付することを約したと認められる。このやり取りからは,N大使が,Oに対し,送付した文書には,被告が正式に外交ルートを通じて,連合国との戦争終結のためにソ連政府のあっ旋を求めること,近衛元首相が行う具体的な提案内容には,連合国に対する和平提案だけではなく,ソ連に対するソ連に有利な提案を含むものであることを明らかにしていたものと考えられる。そして,上記証拠からは,同月28日のヤルタ会談で,スターリンは,アメリカ,イギリスの首脳に対し,日本からの新提案を受け取ったが,その文書には何も新しいことはなく,日本はソ連に対して仲介を求めているだけだと発言していることが認められるから,N大使の送付した上記文書は,ソ連政府に伝えられたが,そこには,ソ連に対する和平交渉のあっ旋依頼とソ連に対するソ連に有利な提案をすることの約束以外に,要綱に定められた具体的な内容が記載されていたものとは考えられない。
そして,同年8月8日,モロトフ外相が,N大使に手交した「対日開戦宣言」には,「日本軍隊の無条件降伏に関する本年7月26日の要求は日本に依り拒否せられたり因って極東戦争に関する被告の『ソ』連に対する調停方の提案は全くその基礎を失ひたり。」という文言があるが,これは,ソ連に対して和平交渉の仲介を求めていたことを明らかにするものであっても,要綱の具体的な内容が伝わっていたとする根拠にはならない。
なお,原告らは,外務省編・日本外交年表並主要文書(原書房)(証拠未提出)には,昭和20年7月25日,Oに面会したN大使からの報告として,N大使が「以上申入の次第に依り御承知の通り日本政府は戦争終結に関しソ連政府の好意的斡旋を求むると同時に日本政府の具体的意図に関しては近衛侯爵をして直接説明せしめんとするものに付き左様御了解置きありたし。」と述べたのに対し,Oが「唯今貴大使お申し出の『テキスト』を預かりしが右申し出の内容は正に重要なり,貴大使より書き物にて預かればより正確に了解しうべく聴き取り書だけにては正確を期しがたく又書き物を手にしうるは政府に対し報告上の便宜あるべし。」と答え,N大使が,「本問題の極めて機微なるに鑑みソ連政府より回答を与えられるまでは右書き物は真に極秘の取り扱いをなさるよう」と依頼したとする報告がされているとして,N大使は「テキスト」をOに預け,しかも書き物を渡しているが,N大使の「テキスト」は,近衛元首相の平和交渉の要綱そのものであることは疑いないと主張している。上記「テキスト」は「書き物」との意味であって,渡された文書としては一つであると考えられるが,ここでもN大使は,「日本政府の具体的意図に関しては近衛侯爵をして直接説明せしめんとするもの」であることを明らかにしているから,上記「テキスト」が要綱そのものであることは考えにくい。また,被告は,上記文献には,昭和20年8月9日23時30分に行われたポツダム宣言受諾の御前会議記事として,外相が「我が方がソに申し入れたる条件をも無視して参戦に至れる事情を参酌し,余り条件を付せざるを可と思う」と報告した記事を載せているところ,「我が方がソに申し入れたる条件」とは要綱そのものであると主張しているが,上記のとおり,ソ連に対してソ連に有利な提案をすることを約束した以上に,具体的な提案をしたとする根拠はなく,上記記事をもって,要綱がソ連に渡っていたものとは認められない。
この点,原告らは,ほかにも,D大佐が殺害され,大使あての手紙が開封された跡があった事実などを理由に,要綱の内容がソ連に伝わっていたことは否定できないと主張する。しかし,同年4月の時点でD大佐が所持していた大使あての手紙の内容は明らかではないし,また,ソ連が被告の動きについてどの程度知っていたかを示す証拠はないため,原告らの主張は採用できない。
(エ) そうすると,要綱の存在をもって,被告が,将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すことを申し出ていたことを示すものとすることはできない。
イ E報告
(ア) E報告(甲2)は,平成5年になって,Pが,モスクワ近郊のボドリスク市にあるロシア国防省参謀本部公文書館などの収蔵庫の書棚から偶然発見したものである(甲73)。
この報告書には,「第三 関東軍ノ現況」の「三 軍隊ノ士気,団結等」の4に,各兵団は,急遽の停戦及び兵団の移動,武装解除に伴い,兵員の食料は急速度に逼迫しつつあるほか,2か月後の寒気を目前にし越冬施設,防寒被服に関しても憂慮が極めて大きいためソ連側の好意により善処してもらえるように鋭意連絡中である旨が記載されている。
また,「第四 今後の処置」の「一般方針」として「内地ニ於ケル食糧事情及思想經濟事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於テハ在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』聯側ニ依頼スルヲ可トス」との記載があり,次に「方法」として,「1,患者及内地帰還希望者ヲ除ク外ハ速カニ『ソ』聯ノ指令ニヨリ各々各自技能ニ應ズル定職ニ就カシム」「2,満鮮ニ土着スル者ハ日本國籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」と記載され,「3,以上満鮮ニ於ケル土着不可能ナル場合に於テハ今冬季前ニ少クモ先ツ軍隊400,000,傷病兵30,000,在留邦人300,000 合計730,000ヲ内地向輸送セサルヘカラス。而シテ之カ輸送ハ船舶,鐵道ノ運用輸送間ノ給養等厖大ナル仕事ニシテ一ツニ『ソ』側ヲ通シテ聯合側ニ依頼セサレハ不可能ナル問題ナリ」と記載がある(甲2)。
同日付「基礎資料」(甲3)は,関東軍参謀総長作成であるが,前述のE報告を受け「所見」として「1 全般的ニ同意ナリ」と記載されている。次に,2として,武装解除後の軍隊の衣食住の状況が深刻で,冬季を控えて楽観はできず,大本営として至急GHQとも話合いをし,措置をとるべきである旨が記載されている(甲3)。
そして,原告らは,E報告において,「内地ニ於ケル食糧事情及思想經濟事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於テハ在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』聯側ニ依頼スルヲ可トス」との記載部分は,被告が,将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すことを申し出ていたことを示すものであると主張している。
(イ) しかし,証拠(甲7,乙69,70)によれば,そもそも終戦当初,被告は,海外にいる日本人は,日本軍将兵と民間人のいずれについても,可能な限り,海外残留を継続することを方針としていたものであり,外務省は,昭和20年8月14日付けの「三か国宣言受諾に関する訓電」により,「居留民ハ出来得ル限リ定着ノ方針ヲ執ル」とともに,現地での居留民の生命,財産の保護について万全の措置を講ずるよう具体的措置を指示し,同年9月24日の次官会議でも,「海外部隊並びに海外邦人帰還に関する件」を決定し「海外部隊並に海外邦人に関しては,極力之を海外に残留せしむる為,其の生命財産の安全を保障すると共に居住地に於ける生活の安定を期することとし」ていたことが認められる。E報告にいう「既定方針」とはこの方針を指すものであると考えられるところ,この方針は,海外に日本人を可能な限り在留させることにあっても,将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すことを内容とするものではない。
(ウ) そして,証拠(甲5,6,27,乙69,70)によれば,終戦時に海外にいた日本人の総数は,推定660万人にのぼっており,当時の日本の総人口7200万人の9.2%に当たっていたこと,引揚げに利用できる輸送手段のみを取り出しても,終戦時に残っていた旧海軍艦艇や民間の商船をすべて使用しても,引揚げには,昭和22年7月までかかる見込みであり,国民生活に必要な船舶を控除したもののみを使用した場合,昭和24年中ごろとなる見込みであったことが認められる。
また,戦争末期の乏しい食糧事情からすると,朝鮮半島や台湾からの食糧の供給がなくなる以上,海外にいた日本人が一度に帰国することは,食糧事情の悪化を招くものと予想されていたと考えられる。
そうすると,被告が,終戦当時,将兵と民間人のいずれにせよ,引揚げの完了までに数年を要するものと予想したとしても不合理ではないところであり,当面は,海外の現地における生活を前提にせざるを得ないところであったものと考えられる。もっとも,上記証拠によれば,実際には,GHQは,日本人を速やかに帰還させる方針をとり,輸送手段として,アメリカ軍のLST多数や輸送船多数の貸与を受けることができたこと,中国からも,100万人を超える部隊が,中国側の寛大な取扱いによって予想外に順調に帰還できたことなどが認められるほか,アメリカによる食糧援助によって食糧事情の極端な悪化が生じることがなかったことは公知の事実であるが,これらは終戦当時に予想できたものではなかったと考えられる。
E報告が「内地ニ於ケル食糧事情及思想經濟事情ヨリ考フルニ」としている点には,このような認識もあったと考えられる。なお,証拠(甲9,27,30,73,乙70)によれば,海外に日本人を可能な限り在留させることを方針としていたのは,明治時代以来の海外発展の資産を確保したいということであったり,戦後将来の帝国の復興再建を意図するものであったと認められるが,上記のとおり,その方針自体は,海外に日本人を可能な限り在留させるというものであって,原告ら日本軍将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すことを内容とするものではないことは明らかである。
(エ) そもそも,E報告は,患者や内地帰還希望者以外の者について土着させ,定職に就かせるとする一方で,帰還希望者についてまで土着させるとの方針は示されていないから,これをもって被告が将兵を労役賠償としてソ連に積極的に提供するという方針をとっていたとすることには無理がある。
(オ) この点,原告らは,E報告につき,食糧事情を理由に土着させる方針を記載し,土着不可能ならソ連の力添えがないと内地帰還が不可能との文章で終わっていることから,棄兵政策を合理化するための報告書であり,内地帰還が不可能との認識を伝えた文書にすぎないと主張している。
しかし,「第四 今後の処置」の「二 方法」の内容からすれば,E報告は,内地帰還希望者や患者の内地帰還を前提としているが,上記のとおり,終戦当時の日本の状態からすると,輸送手段の不足等から,ソ連占領地域の約7万3000人の日本人の早期内地帰還が困難な事情があったところ,E報告は,食料や防寒被服についてソ連の善処を必要と考え連絡中であることを記載していて,帰還までのソ連の善処を求めているものであり,ソ連を通じた依頼がないと帰還が不可能であるとの文章も,内地帰還のためには輸送手段等についてソ連を通じて連合国側の協力を受けることが必要であるとの認識を示しているものであり,原告らの主張するように,棄兵政策の合理化の趣旨とまで読み取れない。
(カ) そうすると,E報告をもって,被告が,将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すことを申し出ていたことを示す文書とすることはできない。
よって,原告らの主張は採用できない。
ウ I宛報告
(ア) I宛報告(甲4)も,E報告と同時期にPによって発見された文書である(甲73)。
(イ) I宛報告には,「近き冬季を目前にして全満の傷病者,居留民竝に軍人の處置であります。よろしく御取計ひ願い度く存じます」との記載があり,その後に,傷病者についての希望する処置の記載後,「居留民は目下の處總計約百三十五萬と推定致して居ります。之等の大部は,元来旧満州に居住し一定の生業を営みあるものにて其の希望者はなるべく駐満の上貴軍の經營に協力せしめ其他は内地に帰還せしめられ度いと存じます」とし,「次は軍人の處置であります。之につきましても當然貴軍において御計畫あることと存じまするが元々旧満州に生業を有し家庭を有するもの竝に希望者は旧満州に止って貴軍の經營に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の經營に協力する如く御使い願い度いと思います…其の他例へば撫順等の炭鑛に於て石炭採掘に當り若くは満鐵,電々,製鐵会社等に働かせて戴き貴軍隊を始め旧満州全般の為本冬季の最大難問題たる石炭の取得其の他に當り度いと思います」と記載されている(甲4)。
その次に,傷病患者,居留民,軍人について,関東軍は通信が杜絶し的確な状況を把握できないので,速やかにGHQの者をソ連の将校と共に派遣し今後の処理に関する資料を収集できるようご配慮を希望する旨の記載,降伏者として誠にあつかましい申し出もしたが,来るべき冬に直面し一方また食料の関係などにより速やかな措置を要すると考えられるので貴軍の好情に折り入って日本の希望を報告した旨の記載,そして,貴国人と異なり,日本人が寒さに関して非常に弱く,もっとも心配している点であるので特別のご配慮をお願いする旨の記載がある(甲4)。
(ウ) I宛報告の内容について検討すると,希望者について土着させるという内容は記載されているが,内地帰還希望者については速やかに日本へ帰還させることを前提としているものであり,帰還させるまでの間,ソ連軍の経営に協力することを申し出てはいるものの,同時に,寒さへの対応を願い出たり,今後の処理のための状況把握への協力を申し出たりなど,自国民への配慮を希望する内容も記載されており,被告が積極的に,日本兵をソ連への労役賠償として提供するという趣旨の記載は認められない。
(エ) この点,原告らは,本質的には将兵の差し出しであることは疑いようがないと主張している。確かに,「右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の經營に協力する如く御使い願い度いと思います…其の他例へば撫順等の炭鑛に於て石炭採掘に當り若くは満鐵,電々,製鐵会社等に働かせて戴き貴軍隊を始め旧満州全般の為本冬季の最大難問題たる石炭の取得其の他に當り度いと思います」という表現は,日本軍将兵をソ連軍の下で炭鉱等での労働に従事させることを申し出る内容であると認められる。しかし,希望者については内地に帰還させることを前提とする文面であるし,被告の立場として,帰還するまでの食料や防寒への善処を願い出る以上,帰還までの間,日本軍将兵の越冬に必要な石炭の取得等について,ソ連への協力を申し出たとしても不自然とはいえない。したがって,I宛報告を,被告によるソ連への強力な将兵提供の誘因であったと評価をするのは相当ではない。
(オ) そうすると,I宛報告についても,被告が,日本軍将兵をソ連に対する労役賠償として引き渡すことを申し出ていたことを示す文書とすることはできない。
(3) なお,原告らは,要綱とE報告,I宛報告の内容が合致しているとして,近衛元首相による和平交渉の計画段階での棄兵政策が,シベリア抑留の段階まで維持されてきたと主張している。
しかし,上述したとおり,要綱では,「賠償として一部の労力を提供することには同意す。」との文言があるが,要綱が作成されたのは,ポツダム宣言受諾前かつ日ソ開戦前のものであり,労役賠償の相手方は連合国であると考えられる。そして,E報告とI宛報告では,帰還希望者については帰還させることを前提とした文面であり,賠償として労力を提供する旨は全く記載されておらず,内容が合致しているとの原告らの主張を認めるに足りる証拠はない。
以上より,上記の各文書の存在から,被告が,原告らを労役賠償として引き渡すという政策をとっていたとまでは認められない。
(4) 次に,終戦から抑留開始までの現地の状況が,被告が原告らを労役賠償としてソ連に提供したことを示すといえるかについて検討する。
ア 上記の原告ら本人尋問の結果によれば,確かに,武装解除においては,ソ連軍の姿は少なく,日本軍の指揮系統による命令に従って行われたこと,その後,一定の場所に集結させられたが,この際にも,日本兵が多数いるのに対し,ソ連兵の数は極めて少数であったこと,集結場所までの移動も,日本軍の指揮命令系統に従った組織的行動であり,ソ連軍の監視・圧力下において移動させられたものではなかったことが,それぞれ認められる。
イ しかし,このように武装解除等がいわば自主的に速やかに行われることは,被告が日本軍全体の方針としていたところである。証拠(甲5,6,7,乙70)によれば,昭和20年8月25日には,復員に関して陸海軍人に対し,「兵ヲ解クニ方リ一糸紊レサル統制ノ下整斉迅速ナル復員ヲ実施シ以テ皇軍有終ノ美ヲ済スハ朕ノ深ク庶幾スル所ナリ」との勅諭が発せられ,また,陸軍も,同月18日,「帝国陸軍復員要領」「帝国陸軍復員要領細則」,同年9月10日「帝国陸軍(外地部隊)復員実施要領細則」を発して,自主的に整然と復員を実施することを指示しており,実際にも,海外の日本軍の各部隊は,それぞれ自主的に武装を解き,相手国軍の指定する場所に集結して自活の態勢に移り,復員を準備しつつ,帰還の開始を待つ待機の状態に入っていたことが認められるのであって,ソ連占領地域でのみ日本軍の指揮系統によって武装解除等が行われたものではないと認められる。これは自主的に武装解除を進め,復員を準備することによって,無用な衝突を防ぐことや組織的に行動することで最小限度の主導権を維持することなどを目的としていたものと考えられる。
ウ そもそもソ連から降伏と武装解除の手続に関する命令などを受けて,武装解除や武器の引渡しを日本軍の指揮系統により自主的に行ったとしても,不合理な行為とはいえず,棄兵政策をとっていたことを示す行為とはいえない。被告は,上記のとおり,自主的に武装解除することを方針としていたものであって,自主的に武装解除をしたことが,結果的にソ連による抑留を速やかに実行することにつながったとしても,被告が積極的に労役賠償として原告らを提供する政策をとっていたとすることはできない。
エ このほか,原告らは,極秘指令が発令される以前の昭和20年8月19日にIと被告側との間で戦闘中止や武装解除について協議された際,武装解除後の将兵の帰国の方策について要求しておらず,この後の接触・協議でも帰国問題について提起していないことから,棄兵政策をとっていたことは明らかであると主張する。しかし,証拠(甲27,乙69)によれば,ジャリコーウオにおいて,J総参謀長とIとの間で,武装解除の要領,治安の確保,在留邦人の保護等に関して,原則的に合意が成立した際に,J総参謀長は,停戦後の軍隊は捕虜ではないと主張したのに対し,Iは,捕虜であると主張し,日本への帰国については権限がないので,モスクワに取り次ぐとしか答えなかったものと認められるから,J総参謀長は,武装解除後の将兵の帰国について要求したが,ソ連側は,権限がないことを理由に帰国について言質を与えなかったというべきであり,帰国の具体的な方策まで討議されなかったからといって,被告が,棄兵政策を積極的にとっていたとまではいえない。
(5) そもそも,上記のとおり,ソ連は,対日参戦の数か月前から,日本軍将兵を抑留し,強制労働に従事させることを決定し,その準備をしていたものと認められるから,原告らの指摘する上記各文書の記載内容が,その決定についてどのように影響したかは明らかではない。
すなわち,上記のスターリンの極秘指令(甲30)からすれば,ソ連は,およそ被告側の申出いかんにかかわらずに,シベリア抑留を実行したものと考えられるからである。
(6) 以上のとおり,被告が原告らを労役賠償としてソ連に提供するとの政策をとっており,そのためにシベリア抑留が生じたと認めるに足りる証拠はない。
(7) よって,原告らの各請求のうち,請求(1)については,争点(2)(国家無答責の法理)及び争点(3)(除斥期間)について判断するまでもなく,理由がない。
4 争点(4)(安全配慮義務違反)について
(1) 原告らは,争点(1)で主張した事実は,被告の原告らに対する安全配慮義務違反をも基礎付けるものであると主張するが,3で判断したとおり,原告らが,争点(1)で主張した事実を認めるに足りる証拠はない。
(2) なお,原告らは,被告が,終戦後,原告らに命じて武装解除をさせ,その後ソ連の指示どおりに集結させた上,ソ連行きの列車に乗せたことについて,ソ連の日本兵に対する抑留に協力するような行為であり安全配慮義務に違反するとも主張している。
確かに,上記のとおり,被告は,労役賠償として日本兵を提供する方針をとっていたとまでは認められないものの,将兵が帰還できるまでの間,現地で労働することを容認する立場をとっていたこと,そして武装解除などを日本の指揮系統を使って行っていたことが認められる。
しかし,上記のとおり,被告が,武装解除や武器の引渡しなどを日本軍の指揮系統で自主的に行うことを方針としたことは,必ずしも不合理な行為とはいえないところ,対日参戦までは,ソ連との関係は,互いに中立関係を保っており,一般には,中国大陸におけるように報復や賠償を求められるような関係にはないと考えられることや,被告がスターリンの極秘指令を察知していたか,あるいは察知することができたとする根拠も認められないことなどからすると,ソ連が戦闘終了後に武装解除した原告ら日本軍将兵を抑留し,これをシベリア等に移送して長期間にわたり劣悪な環境で強制労働に従事させることまで想定することは困難であったといえる。
もっとも,上記のとおり,ソ連が,粛清された農民・市民やドイツ軍等の軍事捕虜を強制労働に従事させていたことを,被告が知っていたか,あるいは知る余地はあったものとも考えられ,昭和20年8月19日のIとJ総参謀長との協議の際に,Iが日本軍将兵を軍事捕虜として扱うことを明らかにしたことから,その時点では,ソ連が原告ら日本軍将兵をドイツ軍等の軍事捕虜と同様に扱うこともあるいは予想できたのではないかとも考えられるが,この時点で直ちに武装解除の中止等の対抗手段を講ずべきであったとまでは必ずしもいえないであろう。
(3) そうすると,被告が,原告らに対する安全配慮義務を怠ったとまではいえないというべきである。
(4) よって,原告らの各請求のうち,請求(2)については,争点(5)(消滅時効)について判断するまでもなく,理由がない。
5 争点(6)(被告が被抑留者を早期に帰国させるべきであるのに何ら積極的な施策をとることなく放置した不作為)について
(1) 原告らは,条理上の作為義務の基礎となるべき先行行為について,①被告が,旧満州を侵略し,そこに原告らを徴兵して送り出したにもかかわらず,②ソ連が旧満州等に侵攻してくるや,関東軍の幹部は本国に引き揚げ,旧満州国の4分の3の地域を放棄する作戦をとり,③原告ら将兵や開拓居留民に対しては現地土着政策を指示して,ソ連侵攻を食い止める盾の役割を押し付けた上,さらには,④敗戦後,原告ら将兵に対して武装解除を指示し,労働力としてソ連に提供したという被告の一連の行為を主張している。
しかし,④の被告が原告らを労役賠償としてソ連に提供したという事実を認めることができないことは,上記のとおりであるし,①ないし③の行為は,原告らのシベリア抑留のきっかけとなったとしても,それ自体は,シベリア抑留の直接の原因となったものではないから,条理上の作為義務の基礎となるべき先行行為とはいえないものと考えられる。
そして,被告が,昭和20年にポツダム宣言を受諾したことや,昭和22年に日本国憲法が施行されたこと,あるいは昭和23年に国際人権法が採択されたことは,原告ら各個人に対して,被告の具体的な行為義務を発生させるものとはいえないものと解される。
したがって,不作為が違法とされる前提となる被告の作為義務の発生根拠が認められない。
(2) その上,争いのない事実及び証拠(乙69~74)によれば,次の事実が認められる。
ア 日本は,昭和20年8月15日,ポツダム宣言を受諾し,同年9月2日には,アメリカ・イギリス・中国・ソ連を含む9か国の代表及び連合国最高司令官との間で降伏文書に調印し,連合国軍の占領下に置かれることとなった。
日本と中立国との関係について,GHQが,同年10月25日,及び同年11月4日に,領事関係を停止するよう指令し,被告の外交権能は全面的に停止され,外国との交渉はすべてGHQを通じて行うか,GHQが被告に代わって行うこととなった(乙69)。
したがって,被告は,ポツダム宣言の受諾や降伏文書への調印により,連合国によって占領され,日本が中立国との関係を維持することについても,GHQは,日本の占領及び管理と両立しないとして接触を禁止したことから,外交権能を失ったものである。
この点,原告らは,外交権の制約を受けたとしても,ポツダム宣言の履行を求める行為は妨げられないと主張する。しかし,ポツダム宣言の履行を求めるためには,外国と交渉することが必要であるところ,日本はGHQの占領政策に従わざるを得ない状況にあったのであり,外国との交渉はGHQを通じて行うか,GHQが代わって行うかしかできない状況にあったことは明らかである。仮に,原告が主張するように,国家間の合意に基づく履行を求める行為はポツダム宣言9条により妨げられないという解釈が可能であったとしても,実際には外国と交渉することが許されない状況があったのであるから,これを踏まえて,早期に帰国させる措置をとっていないか否かを検討すべきである。
イ 被告は,昭和20年8月23日,GHQに対し,旧満州・モンゴル新疆・北朝鮮方面の治安不良地区における所要の武器保持許容を要請し,その後も同月30日まで,武装解除された将兵や民間人へのソ連軍による不法行為を停止させる勧告を行うよう要請した。その後も,武装解除された将兵や民間人への不法行為をソ連軍に停止させる勧告を要請する緊急電報を送った(乙69,70)。
外務省終戦連絡中央事務局は,同年9月9日,GHQに対し,旧満州及び北緯38度以北の朝鮮における事態の悪化を防止するため,北部朝鮮及び旧満州の日本人の引揚げ希望者の輸送を用意にするため直通列車の運行を再開することなどの措置を要請した(乙69,71)。
重光外相は,同月13日,GHQに対し,北朝鮮その他ソ連占領地区の日本人の事態改善と引揚げ促進に関するマッカーサー最高司令官あての覚書を渡し,引揚げのための措置を要請した(乙70,71)。吉田茂外務大臣は,同月29日,GHQに対し,ソ連軍支配地域の邦人保護を要請し,その後も再三陳情や要請を試みた(乙70)。
このように,被告は,昭和20年8月ころから,GHQに対し,旧満州地区などの邦人の安全のため,また引揚げ希望者を速やかに輸送するために働きかけていたといえる。
原告らは,上記働きかけは,シベリア抑留の対象となった将兵の帰国とは直接関係のない活動にすぎないと主張するが,ソ連軍から邦人の保護をするための活動も安全な帰還のために必要不可欠な活動であるし,ソ連占領地区からの引揚げ促進を内容とするものも含まれており,シベリア抑留者の帰還と関係のない活動とはいえない。
ウ 被告は,ソ連の利益保護事務を行っているスウェーデン並びにローマ法王庁,赤十字国際委員会及びGHQに対し,終戦直後から,ソ連政府への邦人の早期帰還に関するあっ旋方依頼を行っていた(乙69,70)。
具体的には,被告は,同月5日,スウェーデン政府に対し,在ソ邦人保護についてソ連政府への伝達を要請し,同月10日,重光外相は,ジュネーブの赤十字国際委員会本部に北朝鮮・旧満州の事態改善のための援助を懇請したり,スウェーデン政府にソ連への好意的あっ旋を依頼するなどの活動をした(乙69,70)。
このように,被告は,スウェーデン,ローマ法王庁,赤十字国際委員会に対し,ソ連政府への邦人の早期帰還に関するあっ旋を依頼している。
原告らは,中立国は6か国に及ぶが6か国すべてに対して依頼したわけではないこと,ソ連が帰還を拒否したことにつき,その拒否に法的根拠がないことをソ連や中立国に理解させる努力をすべきであったのにそれをしていないことを挙げて,被告が努力したとはいえないと主張している。しかし,中立国すべてに働きかけをしなければ活動として不十分とはいえないし,また,被告が帰還させるよう要請するに際しては,ポツダム宣言9条を根拠として帰還させるようあっ旋を依頼するなどの活動をしていたのであり,ソ連の拒否に法的根拠がないことを理解させるための行為をしたか否かで,努力が不十分であるとの判断につながるものではない。
赤十字への働きかけについても,抑留そのものが相手国の政府組織によってなされている以上,相手国の赤十字組織の協力がなれけば,帰還については相手国との外交交渉によらざるを得ないところであり,また,上記のとおり,被告は,赤十字国際委員会本部に懇請するという活動もしているのであるから,その努力が不十分であったとはいえない,
エ 被告は,同月11日,日本人の引揚げについてソ連軍と直接交渉することを試み,ソ連総領事に平壌行きのあっ旋を依頼したが,GHQから出張についての許可が得られず,実現できなかった(乙69)。
このように,被告は,ソ連との直接交渉をするため,ソ連総領事に連絡を取って交渉を試みたことも認められる。
原告らは,GHQから出張を認めないとの意向が示されても,ソ連からは交渉の拒絶の返事がされる前であり,また,日ソ間の合意の履行の問題であるから反論し説得させる努力をすべきであった,また,その後もソ連に対し,ねばり強く働きかけるべきであったと主張する。しかし,被告は当時,GHQの占領政策に従うべき立場にあり,GHQから,中立国でもないソ連と直接交渉するのをとどめ,出張を認めない旨の連絡が来たことによって,被告が断念したことが不適切な対応であったとはいえない。また,何度も交渉を試みる対応が望ましいといえるとしても,GHQや中立国を通じた働きかけを行っている以上,被告が十分な活動をしていないとはいえない。
オ 被告は,同月7日,「外征部隊及居留民帰還輸送等に関する実施要領」を閣議了解し,「内地民生上の必要を犠牲にするも,優先的に処置する」との方針,すなわち被抑留者の帰還輸送の実現を優先的に行うとの方針をとることを明らかにした(乙70,71)。
このように,被告が,帰還輸送の実現を優先的に行う方針をとっていたことについて,原告らは,輸送手段の確保への関心にすぎず,帰国を認めさせる努力が不足していると主張している。しかし,帰還のためには,輸送手段の確保が必要不可欠であり,原告らの帰還のための活動といえる。
カ 米ソ協定どおりに引揚げが進展しない中,昭和22年7月,衆議院は,「海外同胞引揚に関する特別委員会」を,参議院は「在外同胞引揚に関する特別委員会」をそれぞれ設置するとともに,同年8月15日,両院本会議で「海外同胞の引揚に対する感謝並びにその帰還促進に関する決議」を採択し,帰還促進に向けて懇請した(乙70,71)。また,GHQの協力を得ながら,同年12月16日,冬期の引揚げを可能とするため砕氷船の派遣を申し入れたり(乙70,71),昭和23年2月11日に引揚げ再開を要求したり(乙70,71),同年9月3日引揚げが協定どおり進展しないことにつき抗議を行ったりした(乙70)。
被告は,同年11月24日,「未帰還者対策要綱」を閣議決定し,ソ連地区,中共地区(中国共産党支配地区)における抑留者・残留邦人の引揚げ促進を強調し,未帰還者及び留守家族の援護の方針を定めた(乙70,71)。
さらに,同年12月29日,抑留の長期化を踏まえて未帰還者及びその留守家族の経済面に配慮するため,「未復員者給与法の一部を改正する法律」(帰郷旅費等を増額し災害給付制度を新設する内容)及び「特別未帰還者給与法」(未復員者以外の者で,ソ連地域に抑留中の一般邦人に対し,未復員者給与法の規定を準用し援護する内容)の2つの法律を公布した(乙70,71)。このほか,昭和24年4月には引揚げが再開されるとの見通しのもと,同年3月半ばまでに配船,列車輸送など受入れ準備を行い,同年4月26日に両議院で,引揚げ促進を決議し,各政党や議員,議員連盟も相次いで,ソ連代表部に対し,引揚げ促進を懇請した(乙70,71)。
このほか,被告はGHQを通じて,国際連合にも引揚げ再開のため,働きかけた。昭和25年5月2日,国会両院決議として「未帰還同胞の引揚促進並びに引揚げ等を国際連合を通じて行うことを懇請する決議」を採択し,抑留問題を国際連合に提訴することをGHQに要請した(乙70,72)。
同年9月21日,未帰還捕虜問題が国際連合の総会の議題とされ,この総会において,同年12月14日,未帰還抑留者を抑留している諸政府に対して,未帰還抑留者の氏名・抑留理由や抑留中死亡者の氏名・死亡日時・死因などを国連事務総長に通報することを要望するとともに,捕虜問題解決のための特別委員会の設置することなどを内容とする「捕虜問題の平和的解決のための措置」に関する決議が可決採択された(乙70,72)。
また,被告は,昭和26年5月14日と,同年6月19日に,抑留者の引揚げを促進し,引揚げに関する特別委員会委員の来訪を要請するため,国際連合総会議長あてに書簡を送付した(乙70,72,74)。
このように,被告は,引揚げ促進を懇請したり,GHQの協力を得ながら冬季の引揚げを可能にするための申し入れをしたり,ソ連が協定どおりの引揚げをするよう抗議したりなどの活動を行っておりまた,未帰還者援護のための法律の制定も行っているし,国際連合への働きかけも行っている。
原告らは,もっとも重要な対ソ直接交渉の努力を徹底しておらず,努力や活動は不足していると主張している。しかし,GHQの方が,日本より立場が強く,発言による影響力も強いとも考えられ,日本がソ連に対し直接交渉することが,直ちに,日本がGHQを通じて交渉をすることより効果的とは限らず,ソ連への直接交渉がなされていないからといって,働きかけが不十分とはいえない。連合国を通じたり,中立国を通じてソ連との交渉を行っている以上,努力不足とまでは評価できない。
キ 昭和24年5月20日,ソ連国営のタス通信は,日本人捕虜は戦犯関係を除き9万5000人の送還を11月までに完了すると報道した。
しかし,被告が終戦直後から行ってきた未帰還者の状況調査によれば46万9041人の未帰還者がいるはずであると考え,被告は同月26日に引揚げ予定者数が少なすぎると反論した。
また,昭和25年4月22日には,タス通信により「日本人捕虜の送還完了」と伝えられたが,被告は,同月25日にはGHQに対し,いまだ相当多数の日本人が残留していると確信しているので速やかな送還を実現すること,抑留中の死亡者の氏名を通告することを重ねて懇請した。同年30日には,在外抑留同胞引揚促進に関する決議を採択し,GHQに対し,抑留者を全員速やかに帰還させるよう要求した(乙70,72)。
タス通信の報道内容をそのままにしていれば,抑留者がそのまま送還を受けないままにされた可能性もあることからすると,戦争終了後からの調査に基づき反論したことも,帰還のための活動の一部として認められる。
ク 昭和27年4月28日に平和条約が発効し,日本の主権が回復され,引揚げ業務は被告の自主性と責任により行われることとなった。平和条約には,捕虜帰還条項が規定されていたものの,ソ連は,平和条約に署名しなかったため,直ちに帰還促進につながるような状況ではなかった。
昭和27年3月18日,「海外邦人の引揚に関する件」の閣議決定をし,引揚げを求める姿勢を明らかにした。また,引揚げ問題を解決する任務を持つ唯一の国際機関である国際連合における捕虜に関する特別委員会が活動停止に追い込まれそうな状況の中,被告がドイツやイタリアと協力して積極的に働きかけた結果,活動停止を免れた。さらに,昭和28年8月24日からの特別委員会において,未帰還者の早期帰還実現への委員会当局や関係国の理解支援を要請した(乙70,72)。
ケ また,Qが,同年7月22日,モスクワ滞在中のモロトフ外相と会見した後,ソ連政府はソ連赤十字社と赤十字国際委員会を通じる線で,帰国問題を解決する用意があると語った。同年9月20日,ソ連赤十字社が戦犯者の帰国問題について日本赤十字社と協力する用意があるとの情報を得て,交渉を進め,同年11月19日,赤十字協定が成立した。これにより,同年12月の引揚げが実現し,日ソ国交回復まで合計10回の引揚げが行われた(乙70,72)。
コ ソ連は,昭和29年10月12日の中ソ共同宣言や,同年12月16日のモロトフ外相の声明で対日関係正常化の用意があるとし,被告側も同月10日に関係正常化の意向を表明した。そして,昭和30年2月4日の閣議で交渉開始を決定し,同年6月7日から交渉が開始された(乙70,72)。
サ 昭和30年6月から始まった日ソ国交正常化交渉では,シベリア抑留者の送還が国交正常化の前提であるとする被告の方針に対して,ソ連は,シベリア抑留者の送還は平和条約締結後であると主張した。一方で,平和条約草案に関する交渉は,領土問題において全く対立したままであり,当時の鳩山元首相は,シベリア抑留者を助けるため領土を犠牲として平和条約を締結するか,シベリア抑留者を犠牲にしても北方領土を主張し続けるかという政治的決断を求められることになり,シベリア抑留者は,事実上,日ソ国交回復の人質的立場に置かれることになった(甲5)。
この後,対立の激しさから交渉が一時中止する中で,被告は,シベリア抑留者のため,赤十字ルートを通じ,昭和31年5月と同年10月の2回,食料品など慰問品を送るなどの対応をした。
シベリア抑留者の家族らは,同年9月7日に「在ソ同胞即時救出留守家族総決起大会」を開催するなどして,シベリア抑留者の引揚げを強く要望した。
鳩山元首相は,同年10月7日,交渉再開のため,自らモスクワに赴き,同年10月19日,有罪判決を受けたすべての日本人を送還し,消息不明の日本人について調査する旨の条項が記載された日ソ共同宣言を発表し,日ソ国交回復とシベリア抑留者の引揚げを実現したが,領土問題は,未解決のままとなった。同年12月26日,日ソ共同宣言を受けて,シベリア抑留者の帰還が実現した。
このように,主権回復後も,国際連合を通じた活動や,ソ連赤十字社との交渉を行い,日ソ国交回復交渉においても帰還実現を優先した交渉を行ったことが認められる。
(3) 以上のとおり,被告は,外交権能が停止した状況の中で,GHQを通じた働きかけ,中立国への働きかけ,そして,帰還を促す以外に,邦人の安全を保護するための活動や輸送確保のための活動などを行っており,結果として原告らのうちでも,長い者では4年2か月もの間,帰還できなかったという事実はあるものの,抑留者を早期に帰国させるための十分な措置をとらず,放置していたとは認められない。
(4) したがって,被告が原告らについて,早期に帰国させる十分な措置をとらないという違法な不作為があったとする原告らの主張は採用できない。
6 争点(4)(立法の不作為)について
(1) 国会議員の立法不作為が,国賠法1条1項の適用上違法となるかどうかは,国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違反したかどうかの問題であって,当該立法又は立法不作為の違憲性の問題とは区別されるべきであり,仮に立法の内容又は立法不作為が憲法の規定に違反するものであるとしても,そのゆえに国会議員の立法行為又は立法不作為が直ちに違法の評価を受けるものではない。しかし,立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害することが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために立法措置をとることが必要不可欠であるような場合に当たるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合には,例外的に国会議員の立法不作為が違法と評価される場合がある。
(2) 本件で,原告らは,憲法前文,9条,13条,14条,17条,29条1項,同条3項,40条,98条2項及び99条の各規定や,先行行為に基づく条理により,原告らに対し救済立法を行うべき義務が発生すると主張している。
しかし,上記のとおり,被告が原告らを労役賠償として提供するという遺棄行為等が認められないから,前記最高裁判決の判示するとおり,原告らがソ連によるシベリア抑留によって被った損害は,日本が無条件降伏したことにより,ソ連によって軍事捕虜として扱われ,ソ連領内に抑留されて,強制労働に従事させられること等によって生じたものであり,戦争によって生じた損害といえる。そして,戦時中から戦後にかけては,すべての国民が,その生命,身体,財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって,戦争損害は,日本国民が等しく受忍しなければならなかったものであり,シベリア抑留者が長期間にわたる抑留と強制労働によって受けた損害が深刻かつ甚大なものであったことを考慮しても,他の戦争損害と区別とされるものではないことになる。
したがって,原告らが主張している憲法上の規定や,先行行為に基づく条理によっても,原告らに対し,戦争損害についての救済を保障しているとはいえず,立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害することが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために立法措置をとることが必要不可欠であるような場合には当たらないというべきである。
(3) もっとも,原告らの主張するとおり,原告らの抑留自体は,被告がポツダム宣言を受諾して将兵が武装解除した後に発生した事態であり,戦争被害といっても,それ以前の戦闘状態が継続していた時期の戦争被害とは区別され得るものであり,その被害の程度も,上記のとおり,深刻かつ甚大なものであるところ,アメリカ,オーストラリアなどやその管理下の地域から帰国した軍事捕虜に対しては,抑留期間中の労働賃金に相当する金額を支払われたのに対し,シベリア抑留者については,ソ連がその補償に必要な労働証明書ないし労働賃金計算カードを発行しなかったことにより補償が実現しなかったなどの事情があったにもかかわらず,原告らシベリア抑留者の平均年齢が既に約83歳に達している現在まで,補償を定めた立法及び予算措置が講じられなかったのは,その労苦に報いるところがなかったというべきであって,その結果,上記のとおり,同種の訴訟が何度も繰り返されることになり,本件では,原告が次々と亡くなられるという異例の状況の中で審理をせざるを得ないこととなっているものである。
(4) とはいえ,その解決は,立法裁量の問題に止まるものであって,政治的決断に待つべきものであるから,被告の立法不作為の違法性の問題としては,原告らの主張するところは認められないというべきである。
第5結論
よって,原告らの請求はいずれも理由がないから,これを棄却することとする。
(裁判長裁判官 吉川愼一 裁判官 上田卓哉 裁判官 西脇真由子)