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京都地方裁判所 平成20年(レ)4号 判決 2008年9月30日

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は,控訴人に対し,18万円及びこれに対する平成16年11月3日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人の負担とする。

第2事案の概要

1  事案の要旨

本件は,控訴人が,被控訴人との間で締結した賃貸借契約に基づいて,被控訴人に礼金18万円を交付したが,同賃貸借契約には,賃貸借契約終了時に礼金を返還しない旨の約定が付されており,被控訴人から礼金18万円が返還されなかったことから,この礼金を返還しない旨の約定が消費者契約法10条により全部無効であるとして,被控訴人に対し,不当利得に基づき,礼金18万円及びこれに対する約定の礼金返還期日の翌日である平成16年11年3日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

原審は,礼金を返還しない旨の約定は有効であるなどとして,控訴人の請求を棄却したことから,控訴人がこれを不服として,控訴した。

2  争いのない事実等(認定に供した証拠は末尾に掲記 以下,特に断らない限り,月日は平成16年のものである。)

(1)  控訴人は,3月17日,被控訴人との間で,次の約定で賃貸借契約を締結した(甲4,乙1)(以下「本件賃貸借契約」といい,本件賃貸借契約の対象物件を以下「本件賃貸物件」という。)。

ア 対象物件  X704号室

イ 所在地  京都市a区b町c番d

ウ 賃料  月額6万1000円

エ 賃貸期間  3月20日から平成17年3月19日まで

オ 礼金  礼金は18万円とし,本件賃貸借契約締結後は,賃借人は,賃貸人に対し,礼金の返還を求めることはできない(契約書7条1項,以下「本件礼金約定」という。)。

カ 更新料  1年ごとに賃料の2か月分

(2)  控訴人は,本件賃貸借契約締結の際,本件賃貸借契約を仲介した株式会社長栄ホーム(以下「長栄ホーム」という。)に対し,礼金18万円を交付した(甲3)(以下「本件礼金」という。)。

(3)  長栄ホームの宅地建物取引主任者であったAは,3月20日,控訴人に対し,本件賃貸借契約について,重要事項の説明を行い,その際,本件賃貸借契約終了時に礼金が返還されないことを説明した(甲2,9,乙5,7)。

(4)  控訴人からの解約通知により,本件賃貸借契約は10月13日に終了し,控訴人は,同日,被控訴人に対し,本件賃貸物件を明け渡した。

3  争点とこれに関する当事者の主張

(1)  本件礼金約定と消費者契約法10条前段

(控訴人の主張)

本件礼金約定は,消費者契約法10条所定の民法,商法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し,消費者の権利を制限し,又は消費者の義務を加重するものに該当する。

ア 礼金は,何らの根拠もなく,何の対価でもなく,賃借人が一方的に支払を強要されている金員であるとみるほかないが,仮に,礼金を賃借権設定の対価や謝礼であると考えたとしても,賃貸人の義務である目的物を引き渡して,これを使用収益させることの対価として,賃借人に賃料以外の金員の支払を強要することになるから,本件礼金約定は,民法601条,606条,616条,598条に比して,賃借人の義務を加重するものといえる。

イ 礼金は,何らの根拠もなく,何の対価でもなく,賃借人が一方的に支払を強要されている金員であるとみるほかないが,仮に,礼金を賃借権確保の対価と考えたとしても,賃貸人は礼金を返還することなく,賃貸借契約の義務を履行するまでに,賃貸借契約を解約することができるが,その反面,賃借人は手付け倍返しを請求できずに賃貸借契約の解約を甘受しなければならない点で,民法559条,557条に比して,賃借人の権利を制限するものといえる。

ウ 礼金を,仮に,賃料の前払と考えたとしても,賃借人が賃貸物件を社会通念上通常の使用方法により使用をした場合に生ずる賃借物件の劣化又は価値の減少を意味する通常損耗については,賃料支払によって,これを回収するのが通常であって,賃貸借契約の本質に合致するものであるから,礼金という方法により,通常損耗による減価の回収をすることは,社会通念や賃貸借契約の本質に反し,賃借人に予期しない特別の負担を課すことになる。

また,賃借人に特別の負担を定めた特約が有効であるといえるには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか,仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には,賃貸人が口頭により説明し,賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたものと認められるなど,その旨の特約が明確に合意されていることが必要であるのに,礼金と形を変えれば,容易に上記特約の有効性が肯定され,予期しない特別の負担を課されることになる。

エ 本件礼金約定によれば,本件賃貸借契約が1年の契約期間の途中で解約された場合であっても,礼金は全額返還されないこととなるが,礼金が賃料の一部前払であるとすれば,使用収益していない期間の割合に応じて返還されなければならないはずであるから,それが返還されないとする本件礼金約定は,民法601条に定める賃料支払義務を加重し,又は建物賃貸借において賃料の支払を月払とした同法614条に比して,多額の賃料支払を加重する条項である。

(被控訴人の主張)

本件礼金は,①賃借権設定の対価②賃料の前払という複合的な性質を有するものであり,賃料の支払義務は民法に定められているから,本件礼金約定は,消費者契約法10条所定の民法,商法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し,消費者の権利を制限し,又は消費者の義務を加重するものに該当しない。

ア 単に名目が「賃料」か否かという形式的な解釈をすれば,「賃料」(民法601条)という名目以外の金員の支払を内容とする契約条項は,すべて消費者契約法10条前段の要件に該当することとなり,そうなれば,これまで礼金や更新料などが社会的に広く利用されてきたという実態に合致しないし,また,賃料以外の名目による金員の徴求は使用収益と対価性がないという発想そのものが契約当事者の合理的意思とかい離している。

イ 礼金が賃料の前払という性質を有するということは,月々の支払か,前払一括かという支払方法に相違があるものの,名目上の「賃料」と同じ賃貸目的物の使用収益の対価としての性質を有するということである。

また,本件賃貸借契約締結時において,控訴人は,礼金が返還されないこと,すなわち,自らの本件賃貸物件使用の対価として,賃貸借契約締結時に一定額の経済的負担を伴うことについて,十分説明を受け,それを理解しているから,賃借人に予期しない特別な負担は存在しない。

ウ 賃借人が契約期間内に中途解約をするなどによって,賃貸借契約が終了した場合に,実際の賃貸期間に応じて礼金が精算されない点については,賃借人が礼金の支払により受けるべき利益を自ら放棄したものと評価できる。

(2)  本件礼金約定と消費者契約法10条後段

(控訴人の主張)

本件礼金約定は,消費者契約法10条所定の民法1条2項に規定する基本原理である信義則(以下「信義則」という。)に反して消費者の利益を一方的に害するものである。

ア 礼金は,何らの根拠もなく,何の対価でもなく,賃借人が一方的に支払を強要されている金員であるとみるほかない。礼金を返還しない旨の約定は,このように不合理なものであるとともに,また,その趣旨も不明確である。なお,礼金を返還しない旨の約定が明確であるためには,少なくとも,記載及び説明の明確性が求められるのであって,単に,礼金の金額や,礼金が返還されないことを記載しているだけでは足りない。特に,本件においては,Aは,本件賃貸借契約が締結された3月17日よりも後である同月20日になって初めて,重要事項説明書を控訴人に交付している。これは,宅地建物取引業法35条1項,6項にも違反する上に,控訴人が礼金の法的性質や趣旨について,全く説明を受けていなかったことを裏付ける。

イ 情報力・交渉力の点において圧倒的優位な立場にある賃貸人は,自ら又は専門業者に委託して,定型的な契約書をあらかじめ作成しておき,その中に,賃借人の利益を一方的に害して自らの利益を図る礼金のような不当条項を組み込ませておくことで,不当に利益を得ることができる。他方,賃借人は,そのような条項も含めて契約全体を承諾して締結するか,これを拒否するかの自由しか有しておらず,交渉によって不当条項を変更させる余地はおよそ存在しない。

ウ 平成5年1月29日当時の建設省は,「内容が明確,十分かつ合理的な賃貸借契約書の雛形(モデル)」として,「賃貸住宅標準契約書」(甲14の2・3)を作成した。同賃貸住宅標準契約書(甲14の3)には,「(3)賃料等」という項目において,「その他一時金」という記入欄があるが,建設委員会議録(甲15)によれば,この記入欄は,賃貸借契約時に賃借人から交付される一時金の徴求を全面的に容認したものでなく,むしろ,賃貸住宅標準契約書の作成に関与した政府委員としては,できるだけ一時金の徴求を排除する方向付けを探ろうとしていたのであり,そのため,賃貸住宅標準契約書には「礼金」などの項目が設けられなかった。

エ 礼金は,公営住宅法20条,旧住宅金融公庫法(以下,「旧公庫法」という。)35条1項,同法施行規則10条1項,特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律3条6号,同法施行規則13条等において禁止されており,特に,旧公庫法においては,違反した賃貸経営者には罰則が定められている(同法46条1項1号)。

オ 本件礼金は18万円であり,これは賃料の約2.95か月分に当たるところ,本件賃貸借契約においては,1年ごとに更新料として賃料の2か月分に相当する金員の支払が必要とされている。そうすると,賃借人は,1年目については14.95か月分の賃料に相当する金員を,2年目以降については14か月分の賃料に相当する金員を,1年間に支払わなければならないこととなるから,賃料2.95か月分の礼金というのは明らかに過大である。しかも,控訴人は,わずか7か月あまりで退居したから,9.95か月分(約1.42倍)の家賃を支払わされたこととなり,この観点からも,著しく過大な負担というべきである。

カ 平成17年3月ころの首都圏,愛知,京阪神の3大都市圏における礼金等の額を調査した結果(甲18)によれば,京滋地域の礼金の平均額は賃料の2.7か月分(敷金のない物件に限れば3.3か月分になる。)であり,首都圏(1.5か月)や愛知(1.1か月)の平均に比して,突出して高率である。しかも,本件では,京滋地域における礼金の平均額を上回る賃料2.95か月分の礼金が徴求されている。

キ 礼金は,本来毎月の賃料に含まれているべき自然損耗の修繕費用を二重取りするものにほかならない。

(被控訴人の主張)

信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものといえるためには,消費者保護だけでなく,契約者の選択の責任,取引の安全,私的自治などの見地から,当該条項を有効とすることによって消費者が受ける不利益と,その条項を無効とすることによって事業者が受ける不利益とを総合的に衡量した上で,消費者の受ける不利益が均衡を著しく失するほどに一方的に大きいといえることが必要であるところ,本件礼金約定により,控訴人の受ける不利益が均衡を著しく失するといえるほどに一方的に大きいということはできないから,本件礼金約定は,信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものといえない。

ア 本件礼金約定は,①賃借権設定の対価②賃料の前払という性格を有するものであり,十分な合理性を有している。そして,控訴人は,礼金の支払により,本件賃貸物件における賃借権設定という利益を得ているほか,賃貸物件の使用収益,契約期間の保護という利益を享受している。

イ 礼金の設定は,地域による差異こそあれ,長きにわたり,慣行として社会的に承認されてきたこと,借地借家に関する法改正においても,礼金等の規制について,議論の対象になっていたのに,現行の借地借家法では,礼金等に対する規制がなされていないことからすれば,立法者の意思として,礼金の合意そのものが不合理なものとして法的規制を及ぼすのではなく,その内容が民法90条に違反するような場合を除き,私的自治に委ねるべきとの判断が示されていると考えるべきである。

ウ 礼金の法的性質などについて,控訴人に対し,事前に専門的な説明がなくても,被控訴人は,契約書の記載や重要事項説明により,礼金の支払が契約時に必要となることのほか,礼金の額や,礼金は賃貸借契約終了後も還付されないことなど,賃借人の経済的負担について明確にしているから,控訴人が本件賃貸借契約を締結するか否かの判断を可能にするのに必要十分な情報を提供している。

エ 建物賃貸借契約は一般に広く行われる契約であり,賃貸物件の広告などにおいて,「賃料」,「敷金(保証金)」,「礼金」,「更新料」という用語は広く用いられており,しかも,礼金は,その法的性質は別論として,敷金とは異なり,後に返還されないことは一般に広く理解されている。

そして,今日,賃貸物件の情報はインタ-ネットや情報雑誌等により巷に溢れており,消費者は,瞬時にかつ容易に比較対照できる情報を入手することができ,その上で,賃貸物件の選択に当たり,賃料や更新料,礼金といった負担を賃貸物件の使用収益の対価として認識し,どの賃貸物件を選択するのが経済的合理性を有するか判断して,契約の申込みを行っているのであるから,賃貸人と賃借人との間に,法が介入すべき情報の格差は存在しない。

オ 京都市内においては,賃貸物件の約20%に空室があり,場所によっては30%の空室がある賃貸物件も存在する。このように,賃貸物件の市場はいわば借り手市場であり,賃借人は,空室に苦しむ賃貸人よりも,むしろ賃貸物件の選択において有利な立場にある。また,礼金が設定されていない賃貸物件(公団・市営住宅・住宅金融公庫等の融資物件)も多数あるから,賃借人は,礼金のない物件を選ぶことも可能である。

カ 被控訴人は,本件賃貸借契約において,礼金や更新料などを含めて全体の収支を計算し,その上で月額賃料額を設定している。

キ 本件礼金は,被控訴人の収入となり,税務申告をして税金を支払った上で,賃貸経営の諸経費,生活費などに既に使用されている。仮に,本件礼金約定が無効となれば,他の賃貸物件の賃貸借関係にもその影響が波及することになるが,そうなれば,被控訴人は,賃貸物件の経営において種々のリスクを負っているのに,消費者契約法が施行された平成13年4月1日以降に締結したすべての賃貸借契約について,受け取った礼金を返還しなければならなくなるという不測の損害を被ることになる。

第3争点に対する判断

1  争点(1)(本件礼金約定と消費者契約法10条前段)について

被控訴人は,本件礼金は,①賃借権設定の対価②賃料の前払という複合的な性質を有するものであり,賃料の支払義務は民法に定められているから,本件礼金約定は,消費者契約法10条所定の民法,商法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し,消費者の権利を制限し,又は消費者の義務を加重するものに該当しないと主張する。

しかし,本件礼金は,少なくとも賃料の前払としての性質を有するものというべきであるところ,このことは,建物賃貸借において,毎月末を賃料の支払時期と定めている民法614条本文と比べ,賃借人の義務を加重していると考えられるから,本件礼金約定は,民法,商法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し,消費者の権利を制限し,又は消費者の義務を加重する約定であるというのが相当である。

したがって,争点(1)に関する控訴人の主張は理由がある。

2  争点(2)(本件礼金約定と消費者契約法10条後段)について

(1)  控訴人は,本件礼金約定が信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものであると主張するので,以下,検討を加える。

(2)  控訴人は,礼金は,何らの根拠もなく,何の対価でもなく,賃借人が一方的に支払を強要されている金員であるから,本件礼金約定は,不合理で,その趣旨も不明確なものであると主張する。

しかし,賃料とは,賃貸人が,賃貸物件を賃借人に使用収益させる対価として,賃借人から受領する金員であるところ,民法614条は,建物賃貸借において,毎月末を賃料の支払時期と定めているが,これは任意規定であり,賃貸借契約成立時に賃料の一部を前払させることも可能であり,また,上記のような賃料の性質からすれば,賃料という名目で受領したか否かにかかわらず,賃貸人が賃貸物件を使用収益させる対価として受領した金員が賃料に該当する。

そして,本件賃貸借契約のように,一般消費者に居住の場を提供することを目的とする建物賃貸業においては,賃貸物件が物理的,機能的及び経済的に消滅するまでの期間のうちの一部の期間について,賃貸物件を使用収益することを基礎として生ずる経済価値に,賃貸物件の使用収益に際して通常必要となる必要諸経費等を加算したものを賃料として回収することにより,業務が営まれるが,賃貸人は,月々に賃料という名目で受領する金員だけでなく,契約締結時に礼金や権利金等を設定する場合には,これらの金員についても賃貸物件を使用収益させることによる対価として,建物賃貸業を営むのが通常である。

他方,建物を賃借しようとする者は,立地,間取り,設備,築年数などの賃貸物件の属性や,当該賃貸物件を一定期間使用収益するに当たり必要となる経済的負担などを比較考慮して,複数の賃貸物件の中から,自己の要望に合致する(又は要望に近い)賃貸物件を選択するのであるが,その際,礼金や権利金,更新料が設定されている物件の場合には,月々に賃料という名目で受領する金員だけでなく,礼金などの一時金も含めた総額をもって,当該賃貸物件を一定期間使用収益するに当たり必要となる経済的負担を算定するのが通常である。

このように,礼金は,賃貸人にとっては,賃貸物件を使用収益させることによる対価として,賃借人にとっては,賃貸物件を使用収益するに当たり必要となる経済的負担として,それぞれ把握されている金員であるから,このような当事者の意思を合理的に解釈すると,礼金は,賃貸人が賃貸物件を賃借人に使用収益させる対価として,賃貸借契約締結時に賃借人から受領する金員,すなわち,賃料の一部前払としての性質を有するというべきであり,一件記録を検討しても,この判断を妨げるに足りる証拠はない。

なお,被控訴人は,本件礼金が賃借権設定の対価であるとも主張しているが,礼金が賃借権設定の対価であるということは,借地借家法による賃借権の保護・強化や賃貸目的物の需要供給関係に基づいて,賃料に加算されるプレミアムにほかならないから,結局のところ,賃料の前払としての性質に包含されるというべきである。

控訴人は,本件礼金約定は,記載及び説明の明確性に欠けると主張するが,争いのない事実等によれば,本件賃貸借契約の契約書には,礼金の額が18万円であること,賃貸借契約締結後は,礼金が返還されないことが明記されており,控訴人は自己の負担すべき金額を容易に認識し得るから,本件礼金約定を無効とすべき理由はない。

また,控訴人は,Aは,本件賃貸借契約締結後である3月20日になって初めて,重要事項説明書を控訴人に交付していることからわかるとおり,礼金の法的性質や趣旨について,全く説明を受けていなかったと主張する。しかし,敷金と異なり,礼金が賃貸借契約終了時に返還されない性質の金員であることは一般的に周知されている事柄である。

さらに,争いのない事実等によれば,本件賃貸借契約の契約書には,賃貸借契約締結後は賃借人に礼金が返還されないことが明記されており,また,3月20日の重要事項説明の際,Aは,控訴人に対し,賃貸借契約終了時に礼金が返還されないことを説明しているところ,仮に,控訴人の主張どおり,控訴人が礼金が返還されないことを知らずに本件賃貸借契約を締結したのであれば,控訴人は,Aないし被控訴人に対し,何らかの抗議をするのが通常であるが,一件証拠を検討しても,控訴人がこのような抗議をしたという事情は認められない。

そうすると,本件賃貸借契約締結に当たって,控訴人に対し,本件礼金条項について説明があったというべきである。

したがって,礼金は,何らの根拠もなく,何の対価でもなく,賃借人が一方的に支払を強要されている金員であるという控訴人の主張は理由がない。

(3)  控訴人は,情報力・交渉力の点において圧倒的優位な立場にある賃貸人は,あらかじめ契約書に礼金条項を組み込ませておくことで,不当に利益を得ることができる一方で,賃借人は,礼金条項も含めて契約全体を承諾して締結するか,これを拒否するかの自由しか有していなかったと主張する。

しかし,本件礼金は賃料の前払としての性質を有するものであるから,これをあらかじめ契約書に明記して,本件賃貸借契約締結時に徴求したとしても,被控訴人は不当な利益を得ることにはならない。

また,建物を賃借しようとする者は,立地,間取り,設備,築年数などの賃貸物件の属性や,当該物件を一定期間賃借するに当たり必要となる経済的負担などを比較考慮して,複数の賃貸物件の中から,自己の要望に合致する(又は要望に近い)物件を選択するのであるが,その際,礼金や権利金,更新料が設定されている物件の場合には,月々に賃料という名目で受領する金員だけでなく,礼金などの一時金も含めた上で,経済的負担を算定するのが通常である。賃借人は,礼金などの一時金も含めた上で算定された経済的負担を負うとしても,当該賃貸物件が,複数の賃貸物件候補の中で,自己の要望に最も合致すると考え,賃貸借契約を締結するのであり,そして,控訴人にしても,これと異なる意思を有していたことを認めるに足りる証拠はない。

したがって,控訴人は,自由な意思に基づいて,本件礼金約定が付された本件賃貸物件を選択したというべきであり,本件礼金約定を含む本件賃貸借契約の契約内容について控訴人に交渉の余地がなかったことは特段問題とするに足りない。

(4)  控訴人は,「賃貸住宅標準契約書」(甲14の2・3)の体裁や,「賃貸住宅標準契約書」の作成に関与した政府委員の答弁から,本件礼金約定が信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものであると主張する。

確かに,証拠(甲15)によれば,「賃貸住宅標準契約書」(甲14の2・3)の作成に関与した政府委員は,礼金の慣行のない地域にまで礼金を広げることは好ましくないと答弁しているが,その一方で,既に礼金等の一時金を徴求する慣行のある地域においては,その地域の実情を受けて,礼金等の額を記入する欄として,「その他一時金」という記入欄を設けた旨の答弁をするなど,現行の礼金制度を容認するような答弁をしている。そうすると,「賃貸住宅標準契約書」の体裁や,政府委員の答弁から,被控訴人が本件礼金約定を設けて,礼金を徴求することが特段の非難に値するということはできない。

(5)  控訴人は,公営住宅法や旧公庫法などにより,礼金が禁止されていることをもって,本件礼金約定が信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものであると主張する。

しかし,借地借家法を制定するに当たって,礼金の徴求を禁止する旨の規定が設けられなかったことは明らかであるし,また,上記のとおり,「賃貸住宅標準契約書」(甲14の2・3)の作成に関与した政府委員も,現行の礼金制度を容認するような答弁をしていることに鑑みれば,公営住宅法や旧公庫法などが礼金を禁止していることをもって,本件礼金約定が非難に値するとまでいうことはできない。

(6)  控訴人は,本件礼金が賃料の2.95か月分であること,控訴人は,わずか7か月あまりで退居したため,結局,7か月間で9.95か月分(約1.42倍)の家賃を支払わされたこととなることから,本件礼金が著しく過大な負担であると主張する。

しかし,本件礼金は,賃料の前払としての性質を有するところ,控訴人が礼金として前払をしなければならない賃料の額は,18万円(賃料の2.95か月分)であり,これは,証拠(甲18)により認められる京滋地域の礼金の平均額(賃料の2.7か月分)からしても,高額ではない。

そして,本件賃貸借契約は,期間が満了する前に解約されているが,前判示のとおり,控訴人は,敷金と異なり,礼金が賃貸借契約終了時に返還されない性質の金員であることを認識していたというべきであるから,中途解約の場合であっても,礼金の返還を求めることができないことを承知しながら,自ら,本件賃貸借契約を中途解約したといえる。

他方,被控訴人は,中途解約の場合であっても礼金を返還しないことを前提に月々の賃料を設定しており,このような被控訴人の期待は尊重されるべきである。

これらの点からすると,本件礼金の額や,賃借人からの中途解約の場合であっても礼金が返還されないことをもって,本件礼金約定が非難に値するということはできない。

(7)  控訴人は,本件礼金の額(18万円,賃料の2.95か月分)は,首都圏(賃料の1.5か月分)や愛知(賃料の1.1か月分)の平均に比して,突出して高率であり,しかも,京滋地域における礼金の平均額(賃料の2.7か月分)を上回っていると主張する。

しかし,礼金を少額に抑えて,その分,賃料を高額に設定することが可能であるから,首都圏や愛知においては,一般的に礼金を少額に抑えて,その分賃料が高額に設定されている可能性があるため,一概に本件礼金が他の地域と比較して,不当に高額に設定されているということはできない。また,本件礼金が,京滋地域における礼金の平均額(賃料の2.7か月分)を上回っているとしても,その程度は非常に軽微である。

したがって,他の地域における平均礼金額との比較や,同じ京滋地域における平均礼金額との比較からしても,本件礼金が不当に高額に設定されているということはできない。

(8)  控訴人は,礼金は,本来毎月の賃料に含まれているべき自然損耗の修繕費用を二重取りするものにほかならないと主張する。

賃貸借契約は,賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払を内容とするものであり,賃借物件の損耗の発生は,賃貸借という契約の性質上当然に予定されているから,建物の賃貸借においては,賃借人が社会通念上通常の使用をした場合に生じる賃借物件の劣化又は価値の減少を意味する自然損耗に係る投下資本の回収は,通常,修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませてその支払を受けることにより行われている。そして,自然損耗についての修繕費用を月々の賃料という名目だけで回収するか,月々の賃料という名目だけではなく,礼金という名目によっても回収するかは,地域の慣習などを踏まえて,賃貸人の自由に委ねられている事柄である。そして,前判示のとおり,本件礼金は,賃料の一部前払としての性質を有するというべきであるから,被控訴人は,自然損耗についての必要経費を,月々の賃料という名目で受領する金員だけではなく,賃料の前払である礼金によっても回収しているものである。

したがって,被控訴人は,本件礼金により,本来毎月の賃料に含まれているべき自然損耗の修繕費用を二重取りしているといえないから,控訴人の上記主張は理由がない。

(9)  以上のとおり,本件礼金約定が信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものであるような事情は認められないから,本件礼金約定が消費者契約法10条に反し無効であるとの控訴人の主張は理由がない。

3  結論

よって,控訴人の本件請求は理由がないから,これを棄却した原判決は相当であって,本件控訴は理由がない。そこで,本件控訴を棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉川愼一 裁判官 上田卓哉 裁判官 森里紀之)

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