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京都地方裁判所 平成20年(ワ)2307号 判決 2009年7月02日

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原告

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同訴訟代理人弁護士

木内哲郎

加藤進一郎

大濵巌生

長野浩三

谷山智光

平尾嘉晃

野々山宏

武田真由

川村暢生

山口智

二之宮義人

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被告

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同訴訟代理人弁護士

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主文

1  被告は,原告に対し,35万円及びこれに対する平成20年5月27日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告に対し,35万円及びこれに対する平成20年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要など

1  事案の概要

本件は,原告が被告との間でマンションの賃貸借契約(以下「本件契約」という。)を締結し,本件契約に伴い保証金40万円を差し入れたところ,被告が解約時に本件契約には保証金の解約引特約があるとして35万円を解約引きし,さらに鍵の交換費用,未払水道料,振込手数料を差し引いた4万2303円を原告に支払ったことにつき,原告が保証金の解約引特約は消費者契約法(以下「法」という。)10条に該当し無効であると主張して,被告に対し不当利得に基づき35万円及びこれに対する請求の際に示した支払期限である平成20年5月26日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

2  前提事実(証拠及び弁論の全趣旨により容易に認めることができる事実)

(1)  原告は被告との間で平成18年4月6日,原告を借主,被告を貸主として,以下の内容の本件契約を締結した(甲1)。

ア 賃貸借物件 ●●●(以下「本件物件」という。)

イ 契約期間 平成18年4月8日から平成20年4月7日まで

ウ 賃料 1か月8万9000円

エ 保証金 40万円

オ 保証金解約引 被告は,本件契約終了後,本件物件の明渡しを完了した日より遅滞なく保証金40万円から解約金35万円を差し引いた後の金額を原告に返還する(以下「本件特約」という。)

(2)  原告は,平成18年4月17日付で司法修習生に採用されることが内定したことに伴い,本件契約を締結した。被告は,●●●の製造・販売に従事する一方,貸家業を営んでいた。

(3)  原告は被告に対し,平成20年3月23日,本件物件を明け渡した。

(4)  被告は原告に対し,平成20年4月9日,鍵の交換費用4000円,未払水道料3297円及び振込手数料400円を差し引いた4万2303円を原告の銀行預金口座に振り込んで支払った(甲2)。

3  争点及び争点に対する当事者の主張

本件の争点は,本件特約が法10条に該当するものとして無効といえるかである。

(1)  原告の主張

本件特約は,民法,借地借家法で賃借人が賃貸人に請求できる保証金返還請求権を制限し,義務を加重するものであり,信義誠実の原則に反し消費者の利益を一方的に害することから,法10条に該当し無効である。その理由は,以下のとおりである。

ア 本件特約は,賃貸人に具体的に発生した損害の有無,契約期間の長短にかかわらず,保証金の9割近い金額を控除して返還する旨の条項であり,賃借人にとって不当に不利である。

イ 消費者と事業者との間の情報力,交渉力の格差に着目し,消費者の利益を害する条項を無効とすることによりその是正を図るという消費者契約法の趣旨(同条1項参照)からすると,人的属性そのものではなく,当該事業に着目した情報力,交渉力格差を問題としなければならない。

本件特約の合理性を判断するにあたっては,それに関する事業・取引を社会生活上の地位に基づいて,一定の目的をもって反復継続的になしていない限り,その情報を知り得ず,本当に対価性のあるものかについて,判断が不可能である。また,契約条項の変更は事実上不可能であり,不利な契約条項を押しつけられている状況が存在している。

これらのことから,単に法律知識があるといった人的属性を問題とすることの不当性は明らかである。そもそも,原告は,本件契約当時,法律知識も賃貸借問題に対する関心も十分になく,本件特約の趣旨や有効性について全く検討していない。一方,被告は,本件物件の多数の入居者と賃貸借契約を締結しており,被告の経験,情報力は相当なものである。

ウ 建物賃貸借契約は,賃貸人が賃借人に対して建物の使用収益義務を負い,その対価として賃借人には賃料の支払義務が発生するという契約であり,それ以外に賃貸人賃借人間に対価関係は存在しない。被告は,本件特約につき,礼金の性質を有すると主張するが,本件特約は,礼金として表示されておらず,礼金が賃貸借契約時に支払われるのに対し,本件特約は,賃貸借契約終了時に賃貸人が取得するものであって,取得する時期も異なる。また,敷金(保証金)は債務不履行が生じた場合の対価であるから債務不履行責任が生じなかった場合には,明渡義務の履行が終了すれば当然に賃借人に全額が返還されるものであり,返還が予定されていない礼金支払約束とは法的に全く異なるものである。

そもそも,賃貸物件の供給過剰の現在においても礼金を賃借人が一方的に支払わなければならないとするのは,交渉力,情報力に格差があるからにほかならず,この格差を是正するために立法されたのが消費者契約法であり,同法のもとではもはや理由のない単なる謝礼を是認することはできない。

エ 原状回復費用の自然損耗・通常使用による損傷は賃料によって回復されるべき費用であり,被告の主張は理由がない。本件特約が賃貸借契約設定の対価であること,自然損耗・通常使用損耗の回復費用を賃借人が負担することの説明を受けたことはない。

オ 被告は,本件特約が無効となると被告は不測に多大な不利益を被る旨主張するが,本件特約は不当な条項であり,無効な特約であるから,被告が保証金を返還するのは当然であり,不測の損害とはいえない。

(2)  被告の主張

法10条後段要件の該当性判断にあたっては,法10条が消費者契約への介入をする正当化根拠として,充分な判断能力の欠如や不完全な認識等に陥るといった消費者という主体の問題,事業者の不当な勧誘行為等の行為態様の問題,社会的に容認しがたい結果についてはこれを除去する必要があるという契約内容の問題に分類できるため,それらを中心に当該消費者契約が締結されたすべての個別事情が考慮されるべきである。

そして,以下のような本件特約の性質,原告・被告の不利益等を考慮すると,本件特約は消費者である原告の利益を一方的に害するものではなく,法10条には違反しない。

ア 主体について

(ア) 原告の特質

居住用建物賃貸借において,消費者は,インターネット,情報誌等により,賃貸情報を瞬時にほとんど費用をかけずに入手することができ,交渉力,情報力が劣っているとはいえない。京都市内において,賃貸物件は供給過剰であり,借主は賃料・礼金・更新料等が提示されている賃貸条件について十分に吟味することができる。原告は,●●●大学大学院法学研究科に在籍して法律を学んできた者であり,平成17年に司法試験に合格し,平成18年4月17日付で司法修習生に採用されることが内定していた。また,本件物件の共同の入居者である婚約者は,本件契約締結当時,東京地方検察庁の検察官であった。

このように,原告らは法律専門家であり,十分な理解能力を有しており,契約内容を十分に検討した上で本件契約を締結した。原告は,家賃・共益費・保証金・保証解約引金等の支払金額を全体として考慮した上で賃借することを決定したのであり,原告に解約引金が返還されなかったとしても何らの不測の損害を被らない。

(イ) 被告の特質

被告は●●●の製造・販売に従事する者であり,貸家業は副業であって,法的知識が十分ではない個人事業者である。

イ 行為態様について

原告は本件契約の各条項を十分に検討できる機会を有していた。原告は重要事項説明を受け,本件特約についても説明を受けており,当然,本件契約を強制されたこともない。

ウ 内容について

保証解約引金が35万円であることについては,本件契約全体の賃貸条件の中で評価されなければならない。

本件契約において礼金の設定はなく,本件特約は礼金の性質を有する。すなわち,礼金は賃借権設定の対価であり,本件特約は賃借権設定の対価たる性質を有する。そして,本件物件は,平成3年の建築であり,外観も美しい人気物件であることから,礼金として本件特約の金額は合理性を有する。また,自然損耗・通常使用による損傷については被告の負担となっており,その損傷の負担金の性質も有する。

エ 両当事者の不利益

本件契約締結時に,解約引金額が35万円であることは明示されており,消費者たる原告に不足の損害を与える心配は全くない。

仮に,原告の請求が認められると,被告は,賃貸借契約時において賃貸収入にも計上し,税金申告もしていた自らの収入を遡及的に失うこととなり,多大な不足の損害を被る。

第3当裁判所の判断

1  本件特約は,法10条に該当し無効か。

(1)  前提事実によれば,原告は法2条1項の「消費者」に,被告は同条2項の「事業者」にそれぞれ該当し,本件契約に消費者契約法が適用される。

(2)  本件特約が民法,商法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し,消費者の権利を制限し,又は消費者の義務を加重する消費者契約の条項といえるかについて検討する。

賃貸借契約は,賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払を内容とする契約であり,賃借人が賃料以外の金銭の支払を負担することは賃貸借契約の基本的内容には含まれない。そして,居住用建物賃貸借の場合の保証金は,敷金と同様,賃料その他の賃借人の債務を担保する目的をもって賃借人から賃貸人に交付される金員であり,賃貸借契約終了の際に賃借人の債務不履行がないときは賃貸人はその金額を返還するが,不履行があるときはその金額中より当然弁済に充当されることを約束して授受する金員を指すことも多く,本件の賃貸借契約書(甲1)5条にも,その趣旨が規定されている。そして,本件の賃貸借契約書を精査しても,保証金がこうした敷金の性格を有することを明確に否定するような規定や,礼金の性格を有することを明確にするような規定は見受けられない。そうすると,本件特約については解約引の意味が,礼金の性格を有することから,実際に要した原状回復費用等のいかんにかかわらず返還を許さない趣旨のものなのか,原状回復にその程度の費用を要することがあることを考慮して,基本的には返還しないが,そのような費用を要しなかったことが具体的に明らかになった場合には,本件特約を適用しないこととするかについて,明瞭な約定がされていたものとは評価し難い。

さらに,将来返還される余地のない礼金を授受することが慣習化していることを認めるに足りる証拠はない。

こうしたことを考慮すると,本件特約は,その法律上の意味合いを明確にしないまま,民法その他公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し,消費者の義務を加重したものと評価せざるを得ない。

(3)  本件特約が民法1条2項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するといえるかについて検討する。

民法1条2項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するか否かは,消費者と事業者との間に情報の質及び量ならびに交渉力の格差があること(法1条)にかんがみ,当事者の属性や契約条項の内容,そして,契約条項が具体的かつ明確に説明され,消費者がその条項を理解できるものであったか等種々の事情を総合考慮して判断すべきである。これを本件についてみると,原告が法律知識を有していたことは認められるが,建物賃貸借上の諸条件(礼金を授受するのが通常かどうか,同種の他の物件と比較して,本件契約の諸条件が有利であるか否か)に関する情報について一般の消費者以上の情報を有していたとは認められず,一般的な事業者と同程度の情報力を有していたとは考えられない。被告は,原告がインターネット等により大量に情報を入手できる旨主張するが,本件全証拠をもってしても,保証金について解約引特約があるかどうか等の詳細な情報をくまなく検索できるかどうかは必ずしも明らかではない。一方,被告は,副業としてではあるが,貸家業を営み,多くの賃借人と契約を締結してきたのであって,日頃からつきあいのある仲介業者から建物賃貸借に関する情報を継続的に得ることができる立場にあり,このような情報に接してきた期間にも差があるものと推認できるのであって,両者の間に情報収集力の格差があることは否定できない。また,本件特約は保証金40万円から解約金35万円を無条件に差し引くものであるが,賃借人として本件物件を借りようとする以上,支払わなければならないものであり,特に本件契約のように4月から入居する場合,賃借人となろうとする者が多数存在することから競争原理が強くはたらく結果,原告としては本件特約について交渉する余地が殆どない。そして,本件特約による解約引額は,保証金の87.5パーセントに相当し,月額賃料の約4か月分にも相当するものであり,保証金,賃料に比して高額・高率であり,消費者である原告にとって大きな負担となる。こうした点を考慮すると,民法1条2項に規定する基本原則に反して消費者(原告)の利益を一方的に害するものと評価せざるを得ない。

これに対し,被告は本件特約の内容について,本件特約は礼金としての性質(賃借権設定の対価)を有すること,また,自然損耗・通常使用による損傷の負担金の性質も有することから合理性がある旨主張する。

しかしながら,前者については一般に考えられている保証金の趣旨と異なること,後者については賃貸借契約は,賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払を内容とするものであるから,賃借物件の使用に伴う自然損耗・通常使用による損傷の負担は原則として賃料で考慮され,賄われるべきものであると考えられることからすると,それらを賃借人に負担させる場合は,その旨が具体的かつ明確に説明され,賃借人がその内容を認識した上で合意されることが必要であり,そうでない以上,民法1条2項に規定する基本原則(信義則)に反して賃借人の利益を一方的に害するものというべきである。

弁論の全趣旨によれば,原告は被告から重要事項説明を受けていたこと,契約書(甲1)に「解約引35万円」の記載があったことが認められ,原告は本件特約の存在自体は認識していたといえる。しかしながら,原告が被告から本件特約の趣旨,すわなち,解約金35万円がどのようにして決められたのか,原状回復費用に充てられるのか,あるいは,礼金の意味を有するのかといった点について,具体的かつ明確な説明を受けていたとは本件全証拠によっても認められない。

したがって,被告の上記主張は採用できない。

(4)  よって,本件特約は,法10条に該当し,無効である。

2  結論

以上の次第であるから,原告の請求は,理由があるからこれを認容することとし,一部棄却された部分(附帯請求の起算日は,支払期限の翌日である平成21年5月27日とするのが相当である)が附帯請求に係るもので,額も少額であることを考慮して,訴訟費用の負担につき民事訴訟法64条ただし書,61条を,仮執行宣言につき同法259条を,それぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 辻本利雄 裁判官 和久田斉 裁判官 戸取謙治)

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