大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

京都地方裁判所 平成20年(ワ)3216号 判決 2009年7月30日

主文

1  被告は、原告に対し、64万4078円及びこれに対する平成20年7月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、これを5分し、その1を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。

4  この判決は、1項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

1  被告は、原告に対し、80万8074円及びこれに対する平成20年7月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  仮執行宣言

第2事案の概要など

1  事案の概要

本件は、三井不動産販売株式会社(以下「三井不動産販売」という。)との間でマンションの賃貸借契約(以下「本件賃貸借契約」という。)を締結し、保証金100万円を交付した原告が、三井不動産販売から本件賃貸借契約の賃貸人たる地位を承継し、敷引特約(以下「本件敷引特約」という。)に基づき保証金のうち60万円を敷引し、また、20万8074円を補修費用、損害金として控除して、原告に差し引き19万1926円しか返還しなかった被告に対し、本件敷引特約は消費者契約法(以下「法」という。)10条により無効である、また、原告負担とされた補修部分は通常使用に伴う自然損耗等であると主張して、不当利得に基づき、80万8074円及びこれに対する保証金返還請求の際に示した支払期限の翌日である平成20年7月8日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

2  前提事実(証拠及び弁論の全趣旨により容易に認めることができる事実)

(1)  原告は三井不動産販売との間で、平成14年5月23日、原告を借主、三井不動産販売を貸主として、以下の内容で本件賃貸借契約を締結した(乙1)。

ア 賃貸借物件 京都市<以下省略>

aマンション514号室

(以下「本件物件」という。)

イ 月額賃料 17万5000円(共益費込み)

ウ 賃貸借期間 平成14年5月23日から平成16年5月31日まで

エ 保証金 預託分 40万円

敷引分 60万円(以下「本件敷引金」という。)

(2)  被告は、平成16年4月1日付で三井不動産販売から本件賃貸借契約の貸主たる地位を承継し、それに伴い、原告と被告との間で本件賃貸借契約にかかる契約書(以下「本件賃貸借契約書」という。)を作成した(甲1、乙2)。

(3)  本件賃貸借契約書には、以下の記載がある(甲1。なお、同契約書中「甲」は賃貸人たる被告のことであり、「乙」は賃借人たる原告のことである。)。

第7条(保証金)

① 乙は、本契約締結時に保証金として標記(5)(本件賃貸借契約書1枚目の(5)の欄)記載の金額(100万円)を甲に預託する。ただし、保証金には利息をつけないものとする。

② 乙に賃料その他本契約に基づく未払債務が生じた場合には、甲は任意に前項の保証金をもって乙の債務弁済に充てることができる。

⑤ 本契約が終了して乙が第21条による本件貸室(本件物件)の明渡しを完了し、かつ本契約に基づく乙の甲に対する債務を完済し、かつ、電気・水道・ガス等の公共料金支払を完了したときは、甲は標記(5)記載の保証金(100万円)のうち標記(5)①記載の預託分(40万円)を乙に返還する。

第21条(原状回復及び明渡し)

⑤ 乙は本契約終了までに本件貸室を明渡さないときは、本契約終了の翌日から明渡し完了に至るまでの賃料の倍額に相当する損害金、並びに共益費、光熱費、給水費等その他必要経費を明渡し完了の際に甲に支払い、かつ明渡し遅延により甲が損害を被ったときは、その損害を賠償しなければならない。

管理物件特約

本物件を退去したる場合、第14条及び第21条に相当する修理義務及び室内の殺菌、クリーニングを乙の負担でするものとする。

(4)  原告と被告は、平成16年5月1日、本件賃貸借契約の更新に伴い、賃料月額を17万円に変更する旨の合意をした(乙3の1)。

(5)  原告は、被告に対し、平成20年6月2日、本件物件を明け渡した。

(6)  原告は、被告に対し、同月29日、本件賃貸借契約締結に伴って支払った保証金100万円を7月7日までに支払うよう請求した(甲3〔枝番含む〕)。

(7)  被告は、原告に対し、同年7月3日、保証金の預託分40万円から原告の故意・過失による損傷部分の補修費用17万5500円、同年6月1日、2日分の賃料の倍額2万2666円の合計20万8074円(消費税9908円を含む)を控除した19万1926円を保証金の返還として支払った。

3  争点及び争点に対する当事者の主張

(1)  本件賃貸借契約に法が適用されるか

ア 原告

原告は個人であるから法にいう消費者であり、被告は事業者である。なお、本件物件の実際の入居者は、原告の妻の両親であるA(以下「A」という。)らであり、Aらの居住用のために本件賃貸借契約が締結された。

よって、本件賃貸借契約は消費者契約であり、法が適用される。

イ 被告

会社の経営者が別宅として賃借し、その家賃が会社の経費かあるいは会社の利益から受ける役員報酬の中から支出されているとすれば、社宅と実質的に異なることはなく、同賃貸借は事業者による賃貸借というべきである。そして、原告は有限会社甲田電工の代表取締役であって、自宅を所有し、本件物件は別宅であるから、本件賃貸借契約は事業者による賃貸借というべきであり、消費者契約ではなく、法は適用されない。

仮に、原告主張のとおり、Aが本来の賃借人であったとしても、Aは不動産取引にも業務上関連があると考えられる建築事務所を営む個人事業主であり、不動産仲介業を営む株式会社b(以下「b社」という。)の紹介で本件物件に入居した以上、本件賃貸借契約の当事者としての立場に法が想定するような格差はあり得ず、あえて自己責任の原則を否定してまで原告を保護しなければならない理由は全くない。

よって、原告は法で保護されるべき消費者たり得ず、法が適用されない。

(2)  本件敷引特約が法10条に該当し無効といえるか

ア 原告

(ア) 建物賃貸借契約は、賃貸人が賃借人に対して建物の使用収益義務を負い、その対価として賃借人には賃料の支払義務が発生する契約であり、それ以外に賃貸人賃借人間に対価関係は存在しない。

保証金は、賃借人に債務不履行責任が生じた場合の担保であり、債務不履行責任が生じなかった場合には、明渡義務の履行が終了すれば当然に賃借人に全額が返還されるべきものである。

また、保証金の中に謝礼という要素を見いだすことはできない。本件敷引特約においては、礼金として表示されておらず、賃貸借契約締結時に支払うものでもなく、本来返還されるべき保証金を返還しないという約定である。本件賃貸借契約書第7条2項でも「乙(原告)に賃料その他本契約にもとづく未払債務が生じた場合には、甲(被告)は任意に前項の保証金をもって乙(原告)の債務弁済に充てることができる」とされていることから、当事者の意思としても保証金が賃料その他賃借人たる原告が負うことのある債務の担保と考えていたことは明らかである。そして、原告は、本件賃貸借契約において、被告から本件敷引金が賃借権設定の対価であるとの説明を受けたことはなく、そのような合意はしていない。

自然損耗・通常使用による損傷は賃料によって回収されるべき費用である。前入居者による通常損耗は賃貸人が前入居者から受け取った賃料で回復するものであって、新たな入居者に通常損耗の回復費用を負担させるのは、賃貸人に通常損耗の回復費用の二重取りを認めることになる。また、高級マンションであるから相応のアップグレードをするという点についても、新たな入居者を探すための営業行為であるから、それを賃借人が負担することには合理性がない。

以上より、本件敷引特約は賃料以外の負担を賃借人に求めるものであり、消費者たる原告の義務を加重する条項である。

(イ) 本件敷引特約は、前記(ア)のとおり、民法が規定した賃料以外の負担を賃借人に求めるものであり、また、保証金の6割を控除する内容であって、賃借人たる原告の不利益は大きい。

よって、本件敷引特約は、民法1条2項に規定する基本原則に反して消費者たる原告の利益を一方的に害するものである。

(ウ) 以上から本件敷引特約は法10条に該当し、無効である。

イ 被告

(ア) 本件物件は本格的地下駐車場や専用エレベーターが設置され、豪華な多目的ホールまで有する高級賃貸マンションであって、被告が賃借人を募集する対象は法人、法人経営者等、年間約1000万円以上の高所得者に限定していた。

そして、新たな賃借人が入居する場合にその都度全面的な改装工事を行っており、通常、保証金以上の費用を投じている。新たな賃借人は全面改装を当然に期待し、それを前提に入居している。このことは、重要事項説明書の物件現況欄に「改装中」、解約引欄に「補修費実費」と記載されていることからも明らかである。

よって、本件敷引特約は、契約当事者が対等の立場で合意した内容であり、不当なものではないから、民法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し、消費者の義務を加重するものとはいえない。

(イ) ある契約条項が、法10条により無効となるのは、個々の契約当事者の立場や契約締結過程、その内容等から、当該契約条項が実質的に民法1条2項の信義則に反するとされる場合のうち、契約当事者の立場の隔たりから情報の質及び量並びに交渉力に大きな格差があり、その条項を是認することが国民生活の安定向上や国民経済の健全な発展をも阻害する要因となり、本来の大原則である私的自治の原則、自己責任の原則を犠牲にしてもなお一方当事者を救済すべき場合に限られる。

(ウ) 仮に、原告主張のとおり、本件物件の入居者がAであったとしても、Aは、長年の友人で不動産仲介業をしているb社の紹介で本件物件に入居しており、原告ないしAと被告との間に法が想定するような情報力等の違いはない。

(エ) 建物賃貸借契約における対価関係の内容は、契約自由の原則の下、当事者が自由に決めることができる事柄であり、賃料支払と居室の使用収益との関係以外に存在しないということはできない。本件賃貸借契約では、保証金を当初から預託分と敷引分とに明確に区分しており、預託分のみを本来の敷金として扱うことを双方が合意していたことは明らかである。原告は、敷引分60万円が返還されないことを理解し、それでも同金員を支払ったのは、以下に述べる本件物件に入居できる権利に対する対価的な意味があり、等価的均衡が保たれていたからである。

本件敷引金は、自己の希望にあった付加価値を伴う本件物件に入居できる権利に対する対価、権利を得られることに対する礼金としての性質を有する。礼金と敷引金は、賃貸借契約締結時に、賃借人から賃貸人に対して交付され、賃貸借契約が終了となっても賃借人に返還されないことを契約締結時に合意しているという点では同じである。また、本件敷引金は、本件物件の高級性、ステータスを維持するための全面改装費用、グレードアップ費用の対価としての性質を有する。つまり、差し引かれる保証金は、その保証金を支払う賃借人自身の使用による損耗とは直接関係しない。

(オ) 仮に、本件賃貸借契約が無効とされると、賃借人の募集を今後は法人か明確な事業者にのみ限定する他なくなり、十分な資力を有し、対等な関係で契約できる立場にある個人が本件物件のような高級マンションに住むことができなくなり、不当性は明らかである。

(カ) 以上により、本件敷引特約は、民法第1条2項に反するものではなく、原告の利益を一方的に害するものではないことから、法10条に該当しない。

(3)  原告が負担すべき補修費、損害金の額はいくらか

ア 被告

(ア) 本件物件の入居期間中に、原告が故意又は過失により損耗させた箇所及び原告が負担すべき原状回復費用は以下のとおりである。

a キャップについて

キャップ5個を紛失しており、原状回復費用として1万円が必要である。

b 襖について

襖に穴が空いており、原状回復費用として9000円が必要である。

c 障子について

障子に穴が空いており、原状回復費用として3500円が必要である。

d 菊割ゴムについて

菊割ゴムを紛失しており、原状回復費用として1500円が必要である。

e キッチン幕板について

キッチン幕板が腐っており、原状回復費用として2万5500円が必要である。

f スライド蝶番について

スライド蝶番の具合が悪く、原状回復費用として4000円が必要である。

g 浴室タイルについて

浴室タイルの一部が欠けており、原状回復費用として9000円が必要である。

h 紙巻器について

紙巻器が割れており、原状回復費用として5500円が必要である。

i クロスについて

クロスに傷があり、原状回復費用として2100円が必要である。

j ドアについて

ドア・ドア枠に傷があり、原状回復費用として3万9000円が必要である。

k 網戸について

網戸に穴が空いており、原状回復費用として4500円が必要である。

l 地袋襖について

地袋襖に傷があり、原状回復費用として4400円が必要である。

m 玄関床タイルについて

玄関床タイルが割れており、原状回復費用として2万5000円が必要である。

(イ) 美装工事について

本件賃貸借契約の管理物件特約として、クリーニング代は原告の負担ですることとされており、原告の負担額として少なくとも3万2500円が必要である。

(ウ) 原告は、明渡し日が予定より2日遅れたため、本件賃貸借契約書第21条5項により、2日分の賃料の倍額2万2666円を支払う必要がある。

イ 原告

(ア) 被告主張の箇所は、以下のとおり、自然損耗、経年劣化に該当するものであるか、あるいは、原告及びAの故意、過失とは無関係のものである。

a キャップについて

キャップは、入居時から5個ともなかった。

b 襖について

襖の穴は、使用しているうちに自然と空いたものである。

c 障子について

障子の穴は、使用しているうちに自然と空いたものである。

d 菊割ゴムについて

菊割ゴムは、入居時から傷んでおり、Aが上等なものに交換して使用していた。

e キッチン幕板について

キッチン幕板は、入居時から壊れていた。

f スライド蝶番について

スライド蝶番は、入居時から不具合があった。

g 浴室タイルについて

浴室タイルは、入居時から割れていた。また、原状回復費用として9000円も要しない。

h 紙巻器について

紙巻器は、不具合はなかった。

i クロスについて

クロスが、はがれていたことについては知らない。仮に、はがれていたとしても自然損耗である。

j ドアについて

ドアの角のすり減りがあるが、入居時から傷んでいたものである。また、使用により多少傷んだとしても自然損耗である。

k 網戸について

網戸に穴が空いていたことは知らない。

l 地袋襖について

地袋襖は、入居時から色あせていた。

m 玄関床タイルについて

玄関床タイルが割れていたことは知らない。また、原状回復費用として2万5000円も要しない。

(イ) 美装工事について

美装工事の費用は、被告が負担すべきものである。

(ウ) 明渡し日時について、原告は被告に対し事前に通知し、被告はこれを了承していたから、被告の損害とはならない。

第3当裁判所の判断

1  本件賃貸借契約に法が適用されるか(争点(1))

(1)  前提事実(1)のとおり、原告は三井不動産販売との間で、平成14年5月23日、原告を借主、三井不動産販売を貸主として、本件賃貸借契約を締結した。

そして、証拠(甲12、証人A)及び弁論の全趣旨によれば、原告が本件賃貸借契約を締結したのは、原告の義父であるAが居住するためであり、実際に本件物件にAが居住していたことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(2)  よって、原告が事業としてでなく、事業のためにでもなく本件賃貸借契約の当事者となっていることから、原告は法2条1項の「消費者」に該当する。そして、被告は同条2項の「事業者」に該当し、本件賃貸借契約に法が適用される。

2  本件敷引特約が法10条に該当し無効といえるか(争点(2))

(1)  本件敷引特約が民法、商法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し、消費者の権利を制限し、又は消費者の義務を加重する消費者契約の条項といえるかについて検討する。

賃貸借契約は、賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払を内容とする契約であり(民法601条)、賃借人が賃料以外の金員の支払を負担することは賃貸借契約の基本的内容に含まれない。そして、居住用建物の賃貸借の場合の保証金は、敷金と同様、賃料その他の賃借人の債務を担保する目的をもって賃貸借契約締結時に賃借人から賃貸人に交付される金員であり、賃貸借契約終了の際に賃借人の債務不履行がない場合は賃貸人はその金額を返還するが、債務不履行がある場合はその金額中より当然弁済に充当されることを約束して授受する金員を指すことが多く、前提事実(3)のとおり、本件賃貸借契約書第7条2項にも、その趣旨が規定されている。

しかしながら、本件敷引特約については、全く返還を許さない趣旨のものなのか、原状回復にその程度の費用を要することがあることを考慮して、基本的には返還しないが、そのような費用を要しなかったことが具体的に明らかになった場合には、本件敷引特約を適用しないこととするかについて、本件賃貸借契約書第7条5項等の規定によっても、明確な約定がされていたものとは評価し難い。

さらに、将来返還される余地のない金員として、本件敷引金のような金員を授受することが慣習化していることを認めるに足りる証拠はない。

以上に述べた点を考慮すると、本件敷引特約は、その法律上の性質ないし意味合いを明確にしないまま、民法その他公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し、消費者の義務を加重したものと評価せざるを得ない。

(2)  本件敷引特約が、民法1条2項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するといえるかについて検討する。

ア 民法1条2項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するか否かは、消費者と事業者との間に情報の質及び量ならびに交渉力の格差があること(法1条)にかんがみ、当事者の属性や契約条項の内容、そして、契約条項が具体的かつ明確に説明され、消費者がその条項を理解できるものであったかといった種々の事情を総合考慮して判断すべきである。

証拠(甲12、証人A)及び弁論の全趣旨によれば、平成14年5月ころ、Aが、長年の友人である不動産仲介業者b社から本件物件を紹介されたことから、本件物件に入居することとしたが、三井不動産販売から、安定した収入がある者を賃借人としてほしい旨要請され、Aの娘婿である原告が賃借人となって本件賃貸借契約が締結されたことが認められる。

このように、原告は、b社を介して本件賃貸借契約を締結したことは認められるが、b社から、建物賃貸借に関する具体的な情報(礼金、保証金、更新料等を授受するのが通常かどうか、同種の他の物件と比較して本件賃貸借契約の諸条件が有利であるか否か)を得た上で、賃貸人が把握していた情報等との差が是正されたといえるかは本件全証拠によっても必ずしも明らかでない。

また、本件敷引特約は、保証金100万円から60万円を無条件に差し引く旨定めているが、賃借人として本件物件を賃借しようとする以上、支払わなければならないものであり、原告としては交渉する余地があったのか疑問の存するところである。そして、本件敷引金(60万円)は、保証金の60パーセント、月額賃料の約3.5か月分にも相当する額であり、保証金、賃料額に比して高額かつ高率であり、原告にとって大きな負担となると考えられる。

イ これに対して、被告は本件敷引金について、礼金としての性質を有すること、また、全面改装費用・グレードアップ費用としての性質を有することから合理性がある旨主張する。

しかしながら、前者については、一般に考えられている保証金の趣旨と異なること、後者については、通常損耗部分の補修のために支出される要素が強く、対象不動産について通常損耗がなかった場合においても良質な居住環境を提供するためにリフォームを行うことを合意していたとか、本件物件を原告へ引渡すのに先立って通常損耗がなかったけれどもリフォームが行われたというような、リフォーム作業が行われることの対価としての意味合いから、その返還を要しない礼金を授受することが適当と見られるような状況が存在したことは、本件全証拠によっても認め難い。

そして、前記の諸事情に、原告は三井不動産販売等から契約内容についてある程度の説明を受け、本件賃貸借契約書に「敷引分 60万円」との記載があることからも明らかなとおり、本件敷引特約の存在自体は認識していたものの、本件敷引特約の法的性質等について、さらに具体的かつ明確に説明されたことは、証拠上認め難く、賃借人がその法的性質等を具体的かつ明確に認識した上で、これを受け容れたとはいい難い。

ウ 上記認定・判断について被告はさらに、本件物件が高級マンションであることや重要事項説明書の物件現況欄に「改装中」、解約引欄に「補修費実費」と記載されていたことなどから、本件敷引金について礼金や全面改装費用・グレードアップ費用としての性質を有していたことを原告が認識し、その上で本件賃貸借契約が締結された旨主張する。しかしながら、被告が指摘する記載それ自体のみから、本件敷引特約の趣旨が一義的に明確になっているとは評価し難く、原告がその文言をもって本件敷引特約の趣旨を具体的に認識したとは認め難い。

エ したがって、本件敷引特約は民法1条2項に規定する基本原則(信義則)に反して賃借人の利益を一方的に害するものと評価せざるを得ず、被告の上記主張は理由がない。

(3)  よって、本件敷引特約は、法10条に該当し、無効である。

3  原告が負担すべき補修費、損害金の額はいくらか(争点(3))

(1)  補修費について

ア 賃貸借契約は賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払を内容とするところ、賃借物件が建物の場合、その使用に伴う賃借物件の通常予想される自然損耗は賃貸借契約の中で当然に予定されているものといえる。そのため、建物の賃貸借においては賃借人が社会通念上、通常の使用をした場合に生ずる賃借物件の劣化又は価値の減少を意味する通常損耗にかかる投下資本の減価の回収は、通常、賃貸人が減価償却費や修繕費等の必要経費分の賃料の中に含ませ、その支払を受けることで行われる(最高裁平成16年(受)第1573号平成17年12月16日判決・判例タイムズ1200号127頁)。

そうすると、賃借人は、賃貸借契約が終了した場合、賃借物件を原状に復して賃貸人に返還する義務を負うものの(民法616条、598条)、賃借人は原則として、通常損耗についての原状回復義務は負わないと解するのが相当である(賃借人は、故意や善管注意義務違反などの過失によって生じた賃借物件の損耗部分については修繕費相当の損害賠償義務を負う。)。

そうすると、賃借人は、民法上、原則として、故意又は過失による損耗部分の回復費用を負担すれば足り、通常損耗の回復費用について賃料以外の負担をすることは要しないといわなければならない。

イ そこで、被告主張の損耗の部分・箇所が、本件物件への入居期間中に原告が故意又は過失によって生じさせたものといえるかを検討する。

まず、本件賃貸借契約の合意内容は、月額賃料が17万5000円(更新以降は17万円)、保証金が100万円という、賃料等が高額なものであったこと、その賃貸広告で「都市生活にふさわしいグレードと機能により従来の集合住宅の概念を超えたライフステージを実現します。」とうたわれているところ(乙18)、こうした宣伝文句とは異なる状態で賃貸目的物を引き渡したりすれば、顧客からの信用や社会的信用を失いかねないところ、そのような実例が存在したことを窺わせるような証拠がないこと、本件物件に係る重要事項説明書中の物件現況欄に「改装中」と記載されていたこと(乙6)を考慮すると、当時の本件物件の賃貸人である三井不動産販売は、入居者が入れ替わるたびに、グレードを維持するための補修・修繕を施した上で、引渡しをしており、補修すべき箇所が場所的に分かりにくい等の特段の事情がない限り、損耗箇所等がない状態の居室を提供してきたこと及び原告の入居前においてもそうした程度の補修・修繕がなされていたことを推認することができる。

これに対し、原告は、入居時にはキャップがなかった、キッチン幕板が壊れていたなどと入居時から損耗箇所が存在していた旨主張し、それに沿う証人Aの供述(証人A、甲12)が存在する。

しかしながら、証人Aは、通常の使用をしていれば生じるはずがないと考えられる襖の穴について自然と空いたなどと明らかに不合理な供述をしている。また、証人Aは建築士の仕事をしていたので建物は大事に使うと供述するのであるが、実際には襖や障子等を故意又は過失によって損傷させたことが明らかであり(乙4、17、20、21)、上記供述は原告側の客観的使用状況と相反するものである。さらに、証人Aは、キッチン幕板等について入居時には壊れていたので管理会社に連絡したと供述するが、上記損耗箇所については浴室のへこみ(乙17)のように裏付けとなる証拠がない。本件物件のグレードは、本件賃貸借契約締結当時の多数ある賃貸物件の中では上のランクであったことは明らかである(弁論の全趣旨)のに、陳述書(甲12)においては、本件物件は中の下の仕様であると強調する等しており、自らの主張に沿って、自己に有利に誇張した供述をする傾向があるといえる。以上の点を総合考慮すると、証人Aの供述(証人A、甲12)は信用できない。

よって、原告の入居時には、原告主張の損耗箇所は存在しなかったというべきであり、他に、原告が主張する上記損耗が存在したことを認めるに足りる的確な証拠はない。

ウ 上記の認定・判断を踏まえ、証拠(乙4、21)及び弁論の全趣旨によると、別紙に記載の各損耗箇所については、当時の賃貸人によって修繕等が行われていたのに、原告(ないしA)の故意又は過失によって紛失・損傷・損壊等が生じたものと認められる(推認)から、原告がその原状回復費用(別紙の各項目の末尾に記載の額を要するものと認める。)の合計14万1330円(消費税5パーセントを含む)を負担すべきである。

エ 上記ウの認定・判断に対し、原告が原状回復費用を負担する必要がないと考えられる箇所は、次のとおりである。

(ア) スライド蝶番について

証拠(乙4、21)によれば、原告の入居期間中に蝶番の不具合があったことは認められる。

しかしながら、蝶番は、「長年使用していると自然とガタが来るもの」(乙21)であるから、通常損耗に含まれ、原告が補修費を負担すべきものとはいえない。

(イ) 地袋襖について

原告の入居期間中に地袋襖の表面が擦り切れていることは乙4添付の写真からは明らかでなく、本件全証拠によっても原告が補修費を負担すべきものとは認められない。

(ウ) 美装工事について

前記アのとおり、原則として、賃借人に通常損耗についての原状回復義務を負わせることはできず、その義務を賃借人に負わせることは、賃借人に予期しない特別の負担を課すことになる。したがって、賃借人にその義務を負わせ得るのは、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか、仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には、賃貸人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められるなど、その旨の特約が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である(最高裁平成16年(受)第1573号平成17年12月16日判決・判例タイムズ1200号127頁)。

前提事実(3)のとおり、本件賃貸借契約書の管理物件特約として、本件物件を退去した場合、修理義務及び室内の殺菌、クリーニングを原告の負担で行うものとする旨が明記されているが、通常損耗を含む趣旨であるのか、あるいは、グレードアップ費用を含む趣旨であるのかが一義的に明白であるとはいえない。そして、本件全証拠によっても、原告と被告との間で通常損耗を原告負担とする明確な合意がされていたとは認められない。

また、証拠(甲1、12、乙1)によれば、原告と三井不動産販売との間では上記管理物件特約の内容については契約内容となっておらず、原告と被告の間で締結・作成された本件賃貸借契約書は具体的な説明なく作成されたものと認められ、この経緯を考慮すると、グレードアップ費用を原告に負担させる明確な合意がされていたとは認められず、他に、この事実を認めるに足りる証拠はない。

よって、美装工事の費用について、原告が負担すべきものとはいえない。

(2)  損害金について

前提事実(3)のとおり、本件賃貸借契約書第21条5項によれば、原告が被告に対し、本件賃貸借契約終了の翌日から明け渡し完了に至るまでの賃料の倍額に相当する損害金を支払わなければならない。

原告は、明渡し日時について、被告に対し事前に通知し、被告は明渡しが遅れることを了承していた旨主張するが、損害金を請求しないことについて被告が了承していたことを認めるに足りる証拠はない。

よって、原告は、本件物件の明渡しに至るまでの賃料の倍額である2万2666円の支払義務がある。

(3)  以上によれば、原告が負担すべき補修費用の額は14万1330円(消費税5パーセントを含む)であり、損害金の額は2万2666円であるから、その合計額は16万3996円となる。

4  結論

上記1ないし3のとおりであるから、被告は原告に対し、原告から受領していた保証金100万円から既返還分19万1926円及び原告が負担すべき補修費用額16万3996円を差し引いた64万4078円(及びその遅延損害金)を支払うべきである。

よって、原告の請求は主文1項の限度で理由があるから、その限度で認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 辻本利雄 裁判官 和久田斉 戸取謙治)

(別紙)<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例