京都地方裁判所 平成20年(ワ)3967号 判決 2010年9月15日
主文
1 被告会社は,原告住民ら各自に対し,16万5000円及びこれに対する平成20年7月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告住民らの被告会社に対するその余の請求及び被告市に対する請求を棄却する。
3 原告会社の請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は,原告住民らに生じた費用の40分の3及び被告会社に生じた費用の23分の3を被告会社の負担とし,原告住民らに生じた費用の40分の37,被告会社に生じた費用の23分の17及び被告市に生じた費用の23分の20を原告住民らの負担とし,原告会社に生じた費用,被告会社に生じた費用の23分の3及び被告市に生じた費用の23分の3を原告会社の負担とする。
5 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
1 被告らは,原告住民ら各自に対し,連帯して110万円及びこれに対する平成20年7月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは,原告会社に対し,連帯して275万円及びこれに対する平成20年7月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
第2事案の概要
1 本件は,都市計画法9条6項所定の第二種住宅地域において,被告会社が建築基準法48条6項に反して工場(以下「本件工場」という。)を操業したことにつき,本件工場の近隣に居住し又は建物を所有する原告らが,本件工場が発した騒音及び悪臭によって,精神的損害又は財産的損害を受けたと主張して,被告会社に対しては不法行為に基づき,被告市に対しては,行政権限の不行使に違法があったとして国家賠償法1条1項に基づき,それぞれ連帯して上記損害の一部(原告住民ら一人当たりにつき110万円,原告会社につき275万円)及びこれらに対する被告会社が本件工場の操業を停止した後の平成20年7月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
2 基礎となる事実(争いのない事実並びに各項末尾掲記の証拠及び弁論の全趣旨によって容易に認定することができる事実)
(1) 当事者等
ア 原告住民らは,いずれも京都市a区b町の住民であり,本件工場に隣接して居住する者である。
イ 原告会社は,不動産の賃貸等を業とする株式会社であり,平成19年3月28日に,本件工場の西側に隣接する賃貸アパートα(以下「本件アパート」という。)を買い受けて所有している者である。本件アパートは,鉄骨造り陸屋根3階建で,1階に1戸,2階及び3階に各4戸の,計9戸からなる。
(甲29,弁論の全趣旨)
ウ 被告会社は,菓子の製造,販売等を業とする株式会社である。
(2) 用途地域の指定及び建築基準法による規制
ア 本件工場の敷地(京都市a区b町c等。以下「本件土地」という。)の東側約3分の2(本件土地がその西側で接する府道d線(通称e街道)から25mを超える部分)及び原告住民らの居住地は,都市計画法9条6項所定の第二種住宅地域に,本件土地の西側約3分の1(前記のe街道から25mまでの部分)及び本件アパートの所在地は,同条7項所定の近隣商業地域に,それぞれ指定されている。
(甲1,2,4,丙21)
イ 第二種住宅地域内では,原動機を使用する工場で作業場の床面積が50m²を超えるもの,及び,原動機の出力の合計が1.5kwを超える空気圧縮機を使用する作業を営む工場の建築が禁止されている(建築基準法48条6項,別表第二(ヘ)項2号,1号(と)項3号(11))。
(3) 被告会社による本件工場の操業と使用制限命令
被告会社は,平成17年2月21日,上記(2)記載の建築基準法による規制に反し,出力合計が1.5kwを超える空気圧縮機を使用し,作業場の床面積が50m²を超える本件工場の操業を開始した。
被告市市長は,平成18年9月19日,被告会社に対し,建築基準法9条1項に基づき,同年10月31日までに違法状態を是正することを命ずる使用制限命令を発令した(以下「本件使用制限命令」という。)が,同日が過ぎても,本件工場の違法操業は継続していた。
被告会社は,平成20年6月23日,本件工場内の機械を,京都市f区に新たに取得した工場(以下「新工場」という。)へ移転させ,本件工場の違法状態は解消した。
(丙9(枝番含む),弁論の全趣旨)
(4) 本件訴訟提起に至る経緯
原告らは,平成19年7月23日,京都簡易裁判所に対し,被告らを相手方として調停を申し立てたが不調に終わり,同年12月10日,京都府公害審査会に対して公害調停を申し立てたが,同調停も平成20年7月9日に不調となったため,本件訴訟を提起するに至った。
3 主たる争点
(1) 被告会社の責任
(2) 被告市の責任
(3) 原告らの損害
4 争点に関する当事者の主張
(1) 被告会社の責任
(原告らの主張)
ア 本件工場の違法操業
被告会社は,平成17年2月21日から平成20年6月23日までの約3年4か月間,第二種住宅地域に指定されている本件土地において,本件工場を違法に操業し,下記イ記載のとおり,原告らの受忍限度を超える騒音及び悪臭を発生させた。その間,平成18年9月19日には本件使用制限命令を出されたにもかかわらず,同命令による是正期限の同年10月31日を過ぎても,本件工場の違法操業をやめなかった。
被告会社は,平成16年5月22日及び同年6月1日に行った本件工場の近隣住民らに対する説明会では,本件土地に工場を建設することを前提にしていたにもかかわらず,同年3月24日に京都確認検査機構から確認を受けた本件工場の建築確認申請書には,主要用途が事務所兼倉庫(自家用)と記載している。また,平成17年1月24日付け確認済証交付にかかる計画変更において,主要用途は事務所兼倉庫(自家用)としたまま,被告会社は,本件土地の南側の土地を賃借し,本件工場の延床面積を975.13m²から1611.76m²に変更した。これにより,本件工場は約1.6倍に増床し,原告らの損害も拡大することとなった。
こうした経緯に照らすと,被告会社は,本件土地が第二種住宅地域内にあり,床面積50m²を超える工場を建築できないことを熟知した上で,当初から本件工場に転用する意図で,建築確認申請書の内容を偽装したといえる。よって,本件における被告会社による建築基準法違反は,故意による計画的なもので,悪質である。
イ 受忍限度
(ア) 本件工場の稼働態様
被告会社は,上記約3年4か月間の長期にわたり,休日を除いて,午前7時30分ころから,本件工場の機械を稼働させ,作業終了時刻は,季節によって午後4時ないし5時30分ころ,12月の繁忙期には午後7時30分ころであった。
(イ) 騒音
本件工場には,午前6時ころから原料等を積載した車両が出入りし,エンジン音,バック時の警報音及びタイヤの通過音を発生していた。また,上記(ア)の機械稼働中は,コンプレッサーの騒音やハンマー音,ダクトの排気音が発生していた。その他,被告会社の従業員は,雑談や作業音等の人為騒音を発生させた。
本件土地と周辺地との境界付近の8地点において被告市が測定した騒音値は,48ないし56デシベルであり,第二種住宅地での騒音の基準とされる50デシベルを超えている。上記測定において,本件工場の西側よりも東側の方が高い数値が測定されているので,本件土地の西側にあるe街道を走る自動車騒音は影響していない。また,本件工場の操業が停止された後に,上記と同じ8地点で騒音測定をしたところ,40ないし55デシベルであったので,本件工場の操業により騒音が発生していたことは明らかである。
原告住民らの中には上記の騒音により不眠や頭痛等の症状を起こした者もおり,本件工場の発した騒音は,受忍限度を超えていた。
(ウ) 悪臭
被告会社は,上記機械の稼働中,排気ダクト及び開放した窓から,焦げたバターのにおいや,ベビーカステラ,キャラメルコーン及びあんこ等の甘味臭を発生させた。
普通の市民生活環境で触れないにおいは異臭と感じるものであり,特に今まで経験しなかった工場からのにおいを忌避するのは当然であろうし,それが違法工場からのものであればなおさらである。上記のにおいも,短時間なら耐えられるが,長時間さらされるのは耐え難い苦痛となる。ベランダに干した洗濯物や寝具にもにおいが移るため,原告住民らは洗濯物や日常寝具の日干しもできず,日中,窓を開けて新鮮な空気を取り込むこともできなかった。原告住民らの中には,一時的ではあるが,頭痛やいらだち等の症状を起こす者もおり,健康を害された。
このように,本件工場の発する悪臭は,原告らの受忍限度を超えるものであった。
(被告会社の主張)
ア 被告会社が建築基準法48条6項及び本件使用制限命令に反して操業をしたことは認めるが,被告会社の工場が発した騒音及び臭気は,下記イに詳述するように,いずれも受忍限度内のものであるから,原告らに対する関係での違法性はない。
なお,被告会社の経営陣は,本件工場の操業後,平成17年5月に被告市の建築指導部から指摘を受けて,初めて,本件工場の建築基準法違反を認識したのであり,同法に違反したことは計画的でも悪質でもない。
イ 受忍限度
(ア) 本件工場の稼働態様
本件工場のうち,被告会社が菓子製造に使用していたのは2分の1から3分の1程度のスペースであり,原動機を使用していたのはさらにその一部にすぎない。
被告会社は,本件工場において,午後5時には機械を停止させていたが,平成17年5月に被告市の指摘を受けてからは,午前9時から午後3時までしか機械を稼働させていない。
被告会社は,被告市の指導に従って,機械の一部を,京都市a区g町にある被告会社の旧社屋(以下「旧工場」という。)へ移転させた。また,夏場でも窓を極力開けないようにして,騒音及び臭気が外部に漏れないよう配慮していた。
(イ) 騒音
本件土地周辺で被告市が測定した騒音の数値は48ないし56デシベルであるが,本件土地の西側にはe街道が走っており,上記数値にはe街道を通過する自動車が発する騒音による影響も含まれている。
また,被告会社が本件工場の操業を停止した後に,同地点で測定した結果は50ないし67デシベルであり,原告らが主張する,本件工場の操業中に測定された値と大差ないか,むしろ操業停止後の方が大きい。よって,本件工場は,周辺道路を通行する車両が発する音響を超えるような騒音を発生させていなかったといえる。
現在操業中の新工場の内部では,機械の稼働中も特に大声を出さなくても会話できる程度の音量しか生じていない。本件工場の外の,さらに壁を隔てた原告らの家屋において,受忍限度を超える騒音が生じていたとは考えがたい。
(ウ) 悪臭
本件工場が発していた臭気は,強烈なにおいと評価されるようなものではない。建築基準法違反と異臭とは無関係であり,受忍限度を超える悪臭は発生していない。
被告会社が,本件工場に消臭用の機械を設置するかどうか検討するため,業者に現場の下見をさせたことがあるが,当該業者の意見でも,この程度の臭気では脱臭機械を設置する意味がないとのことであった。
(2) 被告市の責任
(原告らの主張)
ア 使用制限命令発令義務違反
(ア) 平成17年3月に,原告βが被告市に本件工場の違法操業を通報し,それ以降,原告らは,再三にわたり,被告市を訪問し又はこれに対して手紙を送り,本件工場に対する是正措置を求めた。しかし,被告市は,原告βの通報を受ける以前から本件工場の違法操業を予測しており,さらに,上記のとおり原告らから,再三,是正措置の要求を受けていたにもかかわらず,平成18年9月19日に至るまで,被告会社に対して建築基準法9条1項所定の使用制限命令を発令しなかった。
この間,被告市の職員は,原告らとのやりとりにおいて,「住民の告発がなければ違反は見逃された」,「(是正の期限を示してほしいとの問に対し)それは絶対できない。早く金儲けして出て行ってもらうのが一番よい。」等,市の職員として不適切な発言を行い,また,先方にも営業権がある,被告会社もかなりの出費をしている等,被告会社をかばう態度もみられ,原告らの陳情に対して誠実な対応をしなかった。被告会社代表者は,平成19年4月16日,被告市に対し,「もっと初めから行政処分を行ってもらっていたら,こちらももっと早く対応できたと思う」と述べており,被告市が早期に使用制限命令を発令していれば,本件工場の違法状態はそれだけ早く解消されていたといえる。
被告市は,平成17年5月24日の建設消防委員会で,当時の建築指導部長が被告会社の違反を認める旨の答弁をしていたのであるから,遅くとも同日から相当期間を経過した同年6月1日には使用制限命令を発令すべきであった。よって,上記平成17年6月1日以降,被告市が使用制限命令の発令を怠ったことは,国家賠償法上違法である。
(イ) 特定行政庁は,建築基準法9条1項所定の是正措置命令をいつ発令するかにつき一定の裁量権を有するが,この裁量権は,国民の生命,健康及び財産の保護を図り,もって公共の福祉の増進に資することを目的とする建築基準法の精神に則り,適切に行使されなければならず権限不行使が裁量権の収縮又は逸脱若しくは濫用として国家賠償法上違法となる場合がある。
具体的には,少なくとも,①当該建築物の建築基準法違反の程度が重大であること,②違反内容が形式的な違反にとどまらず,これにより第三者が現実に重大な生活利益の侵害を受けていること,③違反状態解消のための是正措置を執ることに別段の支障がないこと,④建築指導による自主的な違反状態の解消が容易に期待できないこと(業者の悪質性)の4つの要件を満たす場合に,特定行政庁が使用制限命令を発令しないことは,国家賠償法上違法となるものというべきである(東京地裁昭和50年(ワ)第1288号同55年5月20日判決・判例時報981号92頁(以下「東京地裁判決」という。)参照)。
本件で,(ア)記載の経緯等から,上記①ないし④が満たされるのは明らかである。
(ウ) 平成17年5月14日に原告らが被告市を訪問した際,被告市の職員は,本件工場の違反に対し,建築基準法9条1項の是正措置命令及び同条12項の行政代執行を行うことができる旨の説明をした。しかし,本件使用制限命令は,性質上,行政代執行を行うことはできない。
被告市が,行政代執行を伴う是正措置命令権限があるものと誤解していたことが,本件で使用制限命令の発動が遅れた原因の一つになっているという点と,原告らに対し虚偽の説明をしたという点において,被告市の違法性の程度が高められる。
イ 刑事告発義務違反
(ア) 被告会社は,本件使用制限命令による是正期限である平成18年10月31日以降も本件工場を違法に操業していたのであるから,被告会社には建築基準法98条1項1号の罪が成立する。被告市には,刑事訴訟法239条2項により,被告会社を上記建築基準法違反の罪で告発する義務があったのであり,同年11月1日以降,被告市が被告会社を刑事告発しなかったことは違法である。
また,上記ア記載のとおり,被告市は,遅くとも平成17年6月1日には被告会社に対する使用制限命令を発令する義務があり,そこから相当期間(本件使用制限命令の是正期間と同じ42日間とする)経過後の同年7月14日以降,使用制限命令発令義務違反とともに刑事告発義務違反の不作為も違法となる。
(イ) 刑事訴訟法239条2項は,法的義務として,公務員の告発義務を定めている。公務員が,当該公務員の具体的権限に属する事項について,権限を行使したにもかかわらず,相手方がこれを遵守しないときに,当該権限の行使を担保する手段として刑事罰が定められているにもかかわらず告発を怠った場合には,かかる告発の不行使は,これにより損害を受ける国民との関係で,国家賠償法上違法となる。
(ウ) 本件のように,建築基準法9条1項違反に関する同法98条1項1号の罪との関係では,①当該建築物の建築基準法違反の程度が重大であること,②違反内容が形式的な違反にとどまらず,これにより第三者が現実に重大な生活利益の侵害を受けていること,③違反状態解消のために告発することに別段の支障がないこと,④告発しなければ速やかな使用制限命令の実現が容易に期待できないこと(業者の悪質性)の4つを満たす場合には,②記載の重大な生活利益の侵害を受ける第三者との関係で,国家賠償法上違法となるというべきである。
本件では,上記①ないし④のいずれも満たすので,被告市の刑事告発義務違反は,国家賠償法上違法となる。
(エ) 被告市が告発を怠ったため,原告らは,平成19年11月8日に,京都地方検察庁に対し,被告会社を建築基準法違反の罪で告発した。京都地方検察庁は,平成20年9月20日に被告会社を不起訴処分としたが,これに先立つ平成19年12月,担当した検事から,原告らに対し,告発義務のある被告市が告発していない以上,不起訴にせざるを得ないとの説明があった。
したがって,被告市が刑事告発をしていれば,被告会社は,処分を避けるため,直ちに本件使用制限命令に従ったはずである。よって,上記被告市の不作為と,本件工場の操業による原告らの損害との間に因果関係も認められる。
(被告市の主張)
ア 使用制限命令発令義務違反
(ア) 被告市は,平成17年3月3日に原告βから通報を受け,同月24日及び同年4月5日に現場を調査し,初めて本件工場が建築基準法に違反して操業されていることを認識した。
それ以降,被告市は,被告会社に対して口頭又は書面で是正を指導し,違法状態を段階的に解消すべく,被告会社に是正計画案を提出させた。被告会社は,平成17年11月13日に,上記是正計画に従い,本件工場内の機械の一部を旧工場へ移転させた。被告市は,その後も,違法状態の完全な解消のために是正指導を繰り返し,平成18年9月19日には本件使用制限命令を発令し,平成20年6月23日に被告会社は本件工場から新工場への機械の移転を終えて,違法状態が解消されるに至った。
この間,原告らから被告市市長への手紙に対してもその都度回答しているし,原告らが来庁した際も適切に対応してきた。
(イ) 国又は地方公共団体の公務員による規制権限の不行使は,その権限を定めた法令の趣旨,目的やその権限等に照らし,具体的な事情の下において,その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときに,その不行使により被害を受けた者との関係において国家賠償法1条1項の適用上違法となる。(最高裁昭和61年(オ)第1152号平成元年11月24日第二小法廷判決・民集43巻10号1169頁,同平成元年(オ)第1260号同7年6月23日第二小法廷判決・民集49巻6号1600頁,同平成13年(オ)第1194号,第1196号,(受)第1172号,第1174号同16年10月15日第二小法廷判決・民集58巻7号1802頁参照)
建築基準法は,建築物の敷地,構造,設備及び用途に関する最低の基準を定めて,国民の生命,健康及び財産の保護を図り,もって公共の福祉の増進に資することを目的とするものであり(同法1条),同法9条1項及び12項により是正措置命令の権限及び行政代執行の権限が特定行政庁に付与された趣旨も,その行使によってかかる行政目的の達成に寄与することにあるから,特定行政庁は,かかる見地に立った上で,同法に違反する建築物又は工作物の違反内容及び程度,これにより近隣住民の受ける被害の内容及び程度,是正措置命令あるいは行政代執行により建築主の受ける損失の程度,建築主による自発的な違反解消措置の執られる見込み等諸般の事情を綜合考慮した上で,その合理的な判断により,右各権限の行使をするか否か,行使するとした場合はいついかなる方法で行うか等を決すべきものであり,したがって,右各権限の行使及び不行使については,行政庁の広汎な裁量に委ねられているものと解することが相当である(東京地裁昭和57年(行ウ)第130号平成元年2月20日判決・判例タイムズ715号128頁参照)。
そして,特定行政庁が上記各権限を行使することが違反建築物の近隣住民に対する関係で義務付けられ,その不行使が違法と評価されるのは,その違反の程度が著しく,これによって住民に継続的に重大な生活利益の侵害が生じ,違反者が自ら違反状態を解消する見込みが全くない上,特定行政庁の権限行使が容易かつ有効適切で,他に適切な救済手段がないような場合であるなどの例外的な場合に限定されるべきである(東京地裁平成元年(ワ)第11020号同3年8月27日判決・判例タイムズ781号177頁参照)。
以上を前提にすると,本件では,被告市は,上記(ア)記載のとおり,違反状態を容認することなく,適正な時期において,行政指導及び行政処分を行い,粘り強く是正指導を継続した上,原告らに継続的に重大な生活利益の侵害が生じたとはいえず,被告会社が自ら違反状態を解消する見込みが全くないともいえないため,国家賠償法1条1項の適用上違法となるような是正権限の不行使は存在しない。
(ウ) 原告らが引用する東京地裁判決では,特定行政庁が違反建築物について是正措置を執らないことが付近住民等の第三者に対する関係において違法になるのは,原告らの主張する①ないし④の状況が存在するにもかかわらず,⑤違反状態を認識しながらなんらの措置もとることなく,漫然とこれを放置し,違反建築物の存在を容認しているのと同視しうる場合など,その権限不行使が著しい裁量権の濫用に当たることが必要である。また,前記の判決には,原告らの主張する④の要件のうち,「容易」や「(業者の悪質性)」という文言はない。
本件では,原告らに受忍限度を超える損害は生じていないから,②の要件を満たさず,被告市の粘り強い是正指導により,被告会社は是正計画書を提出して工場機械の一部を移転し,最終的に平成20年6月23日には違反状態を完全に解消したのであるから,④の要件も満たさない。被告市は,被告会社に対する是正指導を継続して行っていたことから,⑤も満たさない。
イ 刑事告発義務違反
(ア) 刑事訴訟法239条2項は,訓示規定に過ぎず,法的な義務を規定したものではない。
(イ) 仮に,同条が,公務員が告発することを法的義務として規定したものだとしても,同条は,罪を犯した者に対する刑罰法令の適正かつ迅速な適用実現を目的とするものであり,その犯罪の被害者等の保護を目的とするものではないから,公務員が告発することが,個別の国民に対する関係で作為義務となることはない。したがって,公務員が,その職務を行うことにより犯罪があると思料しながら告発しなかったとしても,国家賠償法上違法とはならない。
(ウ) また,告発は捜査機関に対して犯罪を申告して処罰を求める意思表示に過ぎないから,仮に被告市が告発を行っていたとしても,直接的に原告らの被害が収まるという関係にはない。したがって,被告市が被告会社を告発しなかったことと,原告らの損害との間に因果関係はない。
(エ) 被告市が,本件に関して被告会社を告発しなかったのは,原告らから騒音及び悪臭について苦情が多く寄せられていることを考慮し,原告らの被害を直接的に収めることのできない告発ではなく,上記ア(イ)記載のように,粘り強く指導することによって,製造ラインの一部移転や機械稼働時間の短縮,さらに最終的には違反状態を全面解消することを優先したためである。したがって,被告市には,国家賠償法上違法となるような告発義務違反は存在しない。
(3) 原告らの損害
(原告らの主張)
ア 原告住民らの損害
(ア) 慰謝料
原告住民らは,本件工場が発する騒音・悪臭によって精神的・肉体的苦痛を受け,これを慰謝するには,少なくとも各人につき1か月当たり5万円の慰謝料が相当である。
被告会社は,平成17年2月21日から平成20年6月23日までの約40か月間,本件工場を操業していたので,原告住民らが被告会社に請求できる慰謝料は,1人当たり200万円を下らない。
被告市が,遅くとも平成17年6月1日以降,使用制限命令を発令しなかったことは違法であり,その時点から本件工場の操業が停止されるまで約36か月間あるので,原告住民らが被告市に請求できる慰謝料は,1人当たり180万円を下らない。
(イ) 弁護士費用
請求金額(1人当たり100万円)の1割(1人当たり10万円)が相当である。
イ 原告会社の損害
(ア) 逸失利益
原告会社は,平成19年3月28日に,本件アパートを取得したが,本件工場からの騒音及び悪臭並びに被告会社が本件アパートの東側にプロパンガス6本を設置していたことにより,入居者が退去し,また,新規入居者が集まらず,空室が生じた。
本件アパート各室の賃料は,1階の1室が月16万円,2階及び3階の8室は月4万5000円を下らない。
原告会社が本件アパートを取得してから,本件工場の違法状態による操業が解消されるまでの,本件アパートの各室が空室であった期間及び損害額は,下記表のとおりであり,逸失利益の合計は,537万円となる。
記
部屋番号
空室期間
賃料損失額
101
15か月(H19.4~H20.6)
240万円
201
6か月(H20.1~H20.6)
27万円
202
15か月(H19.4~H20.6)
67万5000円
205
12か月(H19.7~H20.6)
54万円
301
15か月(H19.4~H20.6)
67万5000円
302
15か月(H19.4~H20.6)
67万5000円
303
3か月(H19.4~H19.6)
13万5000円
(イ) 弁護士費用
請求金額(250万円)の1割(25万円)が相当である。
(被告らの主張)
ア 原告住民らの損害
上記(1)(被告会社の主張)イ記載のとおり,本件工場周辺に,受忍限度を超える騒音及び悪臭は生じていない。
イ 原告会社の損害
本件アパートに空室があることと,本件工場の操業との間に,因果関係はない。各室の賃料相当額も否認する。
第3当裁判所の判断
1 上記第2,2記載の基礎となる事実に加えて,各項末尾掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
(1) 本件工場の操業開始まで
ア 本件土地は,原告住民ら居住地に囲まれた1565.20m²の土地であり,西側の513.97m²は近隣商業地域に,東側の1051.23m²は第二種住宅地域に指定されている。被告会社が取得する以前は,駐車場として利用されていた。
本件土地及び本件アパートは,西側に走るe街道(幅員14m)に面しており,本件土地の約105m東にはh通,約110m南にはi通が走っている。
(甲1,2,4)
イ 被告会社は,本件土地を,同所に工場を建設する予定で取得した。
被告会社は,平成16年5月及び6月に,2度にわたり,本件土地の近隣住民に対する説明会を行ったが,その際も,本件土地に工場を建設する旨の説明をしていた。
(原告β,被告会社代表者)
ウ 被告会社は,平成16年3月24日,本件土地につき,主要用途を事務所兼倉庫(自家用),延べ面積975.13m²とする鉄骨造2階建て建物を建設することにつき,京都確認検査機構から確認済証の交付を受けた。
(甲2)
エ その後,被告会社は,本件土地の南側隣接地を賃借し,敷地面積及びe街道への接道幅を拡張した上で,建築物の延べ面積を1611.76m²とする旨の計画変更を行い,同年12月2日に,京都確認検査機構に対し計画の変更確認審査を申し込み,平成17年1月24日,同機構から確認済証の交付を受けた。
上記確認審査の申込書には,建物の用途として,工場に使用する床面積は40.37m²と記載されており,交付された確認済証にも,建物の主要用途は事務所兼倉庫(自家用)と記載されていた。
なお,このときに被告会社が賃借した南側の土地は,現実には本件工場の敷地又はe街道への出入りに利用されず,賃貸借期間も2年間に限定されていた。
(甲3,31,丙1)
オ 被告会社は,上記建築確認に基づき,平成17年2月3日,本件工場を完成させた。本件工場の床面積は,1階797.79m²,2階792.10m²の合計1589.89m²である。
(甲4)
(2) 違法操業発覚の経緯
ア 被告会社は,平成17年2月21日に本件工場の操業を開始した。
当時,本件工場内には,出力3.7kwの空気圧縮機が1階に2台,2階に4台設置され,建築確認申請の際の図面では倉庫とされていた部分が作業場として菓子製造に使用されており,建築基準法48条6項に違反していた。
(甲4,丙14,15,20)
イ 原告βは,平成17年3月3日,被告市都市計画局建築指導部に対し,本件工場の上記違法操業について電話で通報し,同月22日,本件工場の発する騒音及び臭気により周辺住民に被害が出ているため,早急に対処するように願う旨の手紙を送付した。
(丙2(枝番含む),14)
ウ 被告市は,同月24日,本件土地を訪れて本件工場を外部から確認し,被告会社代表者に対して,建築基準法違反の疑いがある旨を伝えた。その際,被告会社代表者から,2階を工場として使用している旨の申立てがあったので,用途違反であり,是正計画を作成して来庁するように指示した。
(丙14)
エ 被告市は,同年4月5日,再度,本件工場を訪れ,本件工場の内部を調査したところ,2階の作業場で洋菓子を製作しているところを確認し,本件工場の建築基準法違反を覚知した。
(丙14)
(3) 原告らの陳情
ア 原告らは,原告βの上記通報以降,原告β及び原告γが中心となり,平成17年3月から同年12月までに少なくとも12回被告市へ来庁し,本件工場からの騒音及び悪臭の被害を訴えるとともに,是正指導の進行状況を問い合わせた。
平成18年以降も,本件工場から新工場へ機械が移転されるまで,原告らは頻繁に被告市を訪れ,又は,電話によって,被告会社に対する指導を求めた。
(丙14)
イ 原告らは,上記の間,被告市に対し,「市長に対する手紙」,「市民の声」等,40通を超える書面による陳情を行った。これに対し,被告市は,被告市市長,都市計画局長,建築指導部長又は建築指導部監察課名義の書面,口頭又は電話で回答している。
(丙14,19)
(4) 被告市の是正指導及び違法状態の解消
ア 被告市は,平成17年3月3日に上記原告βの通報を受けてから,平成20年6月23日に本件工場の機械が新工場へ移転されるまで,少なくとも51回本件工場の現場調査へ赴き,被告会社代表者又は部長に31回来庁させ,本件工場の違法状態を解消するよう,口頭又は文書で指導した。以下,この間の経緯のうち重要なものを示す。
(丙14)
イ 被告市市長は,平成17年5月13日,被告会社に対し,是正勧告を行い,本件工場の建築基準法48条違反を是正するよう指示するとともに,勧告に従わない場合には,同法9条所定の命令等の処分を行う旨を示した。
(丙3)
ウ 被告市は,同月18日,来庁した被告会社代表者に対し,本件工場では50m²までしか作業場には出来ないので,段階的に,旧工場に機械を戻すか,新しい土地を探して機械を移転させ,操業規模を縮小させていくように指導した。
(丙14)
エ 被告市は,同月24日の建設消防委員会において,同月16日に原告βから被告市市議会議長に対してなされた陳情を審議案件とした。その中で,被告市都市計画局建築指導部長は,被告会社が,第二種住宅地域にある本件土地において,作業場の面積が50m²を超えて原動機を使用する本件工場を操業していること,及び,被告市は違反を覚知して,被告会社に対し是正指導を行うとともに,陳情にある騒音や異臭にも対処するよう指導を行っていることを説明した。
(丙4,5)
オ 被告会社は,同年7月から,被告市に対し,工場の移転先を探していること,及び,本件工場で使用しているそばぼうろの製造機械を旧工場に移設すべく準備しているが,2,3か月ほどかかること等を述べ,同年8月9日,これを内容とする是正計画書を提出した。これに対し,被告市は,被告会社に対し,工期を1.5か月程度に短縮すること,着工日を連絡するよう指示したが,被告会社は,同年9月になっても着工時期を検討中であると説明し,同年10月には移設する機械をそばぼうろの製造機から他の機械に変更する旨述べ,ようやく同年10月24日に移転工事に着手し,同年11月13日,せんべいの製造機械を旧工場に移設した。しかし,被告会社は,同月29日,前記機械の跡にパレット(菓子を焼き上げるための容器)を乾燥する機械を搬入したので,その通報を受けた被告市が翌日被告会社代表者を呼び出したところ,同人は,前記の機械は新たな菓子を製造するためのものではない,相当の企業努力をしている,苦情は常識的な範囲を超えているものが多いなどと述べるので,被告市は,同人に対し,建築基準法上の用途違反の重大さの認識が欠けている旨指摘し,いかなる増設も許されない旨指導した。
(丙6,14)
カ 被告市は,平成18年2月,被告会社代表者を呼び出し,工場の移転先の探索状況を尋ね,工場移転の指導について同年6月末を期限として区切ること,併せて旧工場への機械の移設,操業時間の短縮等の是正を考えるよう指示したところ,被告代表者は,もともと本件工場に設置する予定であった水物菓子の機械を旧工場に設置し,その後本件工場の機械設備等を移転するつもりであるなどと述べ,移転先は一生懸命探しているなどと具体的な内容のない説明をするに留まり,更には出資が重なり経済的に苦しい,指示是正を次々と求められることに対して不満がある旨の発言をした。被告市は,同年3月,被告会社に対し,建築基準法違反の完全な是正に向けての是正計画案の提出を求め,被告会社は,同年4月27日,賃借による移転先を探していること,そばぼうろの製造機械を買い換えて旧工場に設置し,本件工場のものを撤去することを内容とする再度の是正計画書を提出したが,同年6月になっても,具体的な移転先の目処もつかないまま推移し,同年7月には,そばぼうろの機械の移転について,一部の機械を残して稼働させることを提案するなどし,同年8月にも,そばぼうろの機械の処分の見通しは立っていないと説明するなどしたため,被告市は,このままでは使用制限命令の処分を行わざるを得ない旨説明した。そうしたところ,被告会社は,同月29日,本件工場から,パレットの乾燥機を旧工場へ移設した。
(丙7)
キ 被告市市長は,被告会社に対し,同年9月11日に使用制限命令予告通知書を発し,同月19日,本件使用制限命令を発令した。本件使用制限命令は,被告会社に対し,同年10月31日までに,本件工場で使用する空気圧縮機の原動機の出力の合計を1.5kw以下にし,原動機を使用する作業場の床面積を50m²以下にすることを命じるものである。
被告会社代表者は,同月12日に上記使用制限命令予告通知書を受けて,同月14日に被告市に来庁し,是正に向けて精一杯努力している旨を訴えたが,被告市の担当者は,既に指導開始から1年半が経過している以上,市として方針の意思表示はしなければならない旨を伝えた。
(丙8,9,14(各枝番含む))
ク 被告市は,同年9月25日,本件土地の入口に,本件使用制限命令の内容を示す標識を設置した。しかし,被告会社は,上記標識を裏向けて公道から見えないようにし,同年12月ころまで,被告市の職員が元に戻しても,被告会社が再び裏向けるということが繰り返された。
(甲5(枝番含む),丙14)
ケ 本件使用制限命令による上記是正期限経過後も,本件工場の違法状態は解消されなかったので,被告市は,平成19年1月9日,被告会社に対し,再度の是正勧告書を送付した。
(丙10(枝番含む))
コ 被告会社は,同年3月29日,被告市に対し,本件工場からもなかの製造機械を旧工場に移転すること,本件工場の機械稼働時間を短縮することを内容とし,そのスケジュールを示した工場設備移設計画を提出した。
被告市は,同年5月9日には,上記もなかの製造機械が移転されていることを確認した。
(丙11,14)
サ 被告会社は,同月30日,被告市に対し,工場移転先の土地が見つかったことを報告し,同年6月14日,移転先の建物賃貸借契約書の写し及び重要事項説明書の写しを提出した。
(丙14)
シ 被告会社は,同年8月13日,工場移転のスケジュールを記載した工程表を提出した。そこでは,同年8月中に建築確認申請を行い,同年10月に着工し,平成20年2月中旬に移転する予定とされていた。
(丙13)
ス しかし,平成19年6月20日,改正建築基準法が施行されたため,建築確認に時間がかかり,平成20年2月14日に確認済証が交付され,結局,同年6月23日に,本件工場の機械が新工場へ移設され,違法状態は解消された。
(丙14)
(5) 本件工場の稼働状況
ア 被告市が,平成17年8月5日に本件工場を調査した際には,午前6時ころにトラックが入庫し,午前7時過ぎに作業服を着た従業員の姿が見られ,機械の稼働音が聞こえ始めた。さらに,午前8時ころになると,菓子作りのにおいが感じられた。
(丙14)
イ 被告会社は,概ね午前9時ころから本件工場の機械を稼働させていたが,それ以前にも,午前7時ころには,原材料の搬入等のトラックが本件工場に出入りしていた。
(丙14,原告γ本人,被告会社代表者)
ウ 原告γは,本件工場の窓が開いているのを発見し,被告会社に対して窓を閉めるよう要求することが複数回あった。
(丙14,原告γ本人)
(6) 騒音
ア 本件工場からは,機械の稼働中,「シューシュー」という空気の圧縮する音がしていたほか,搬入及び搬出の車両が出入りする際に音が発生していた。
(丙14,原告γ本人)
イ 騒音規制
被告市では,騒音規制法及び京都府環境を守り育てる条例に基づき,騒音を規制する区域が指定され,時間帯ごとに騒音の規制基準が定められている。本件土地のある第二種住宅地域では,工場等による騒音の規制基準は,昼間(午前8時から午後6時まで)は50デシベルとされている。
(丙16)
ウ 簡易測定の結果
被告市,被告会社及び原告らは,下記表の年月日欄記載の日に,本件工場の周囲の8地点(北西側から時計回りにAないしHとする。)において,簡易騒音計を用いた騒音測定を行った。各測定値は,下記表のAないしH欄記載のとおりである(いずれも単位はデシベル)。
なお,これらの測定結果には,自動車騒音等の影響も含まれている。
(甲33,乙1,丙15,22)
記
被告市
被告会社
原告ら
年月日
H17.6.15
H21.10.20
H22.1.27
A
56
55~64
49~53
B
55
52~60
44~55
C
55
55~67
37~44
D
52
50~52
43~46
E
50
55
40~46
F
55
50~53
42~48
G
48
54
44~48
H
49
50~57
44~51
(7) 臭気の状況
ア 本件工場の操業中は,あめやカステラ,バター等の菓子特有の甘いにおいが発生していた。
(丙14,15,原告γ本人)
イ 悪臭規制
被告市においては,悪臭防止法4条1項に基づき,同法2条1 項,同法施行例1条所定の特定悪臭物質について規制基準を定めている。しかし,本件で問題となっている菓子作りの過程で発せられる甘いにおいに関して,特段の規制基準は定められていない。
(丙17,18)
ウ 被告市による調査結果
被告市が,平成17年4月5日に本件工場で現場調査を行った際,本件土地周辺では,風向きによってカスタードクリームのような甘いにおいがしていた。
また,同年6月15日に被告市南保健所衛生課が本件工場を訪れた際も,菓子特有の甘ったるいにおいがわずかに漂っていた。
(丙14,15)
(8) 刑事告発
原告らは,平成19年11月8日,京都地方検察庁に対し,被告会社及び同代表者を,建築基準法違反の罪で告発したが,平成20年9月12日,被告会社及び同代表者は不起訴とされた。
(甲23ないし25)
2 被告会社の責任(争点(1))
(1) 上記1(6)及び(7)記載のとおり,本件工場の操業により一定程度の騒音及び臭気が発生したことが認められるが,本件工場の操業が,原告らとの関係において違法というためには,原告らに対する侵害が,社会通念上一般に受忍すべき程度を超えたものであることが必要である。そして,上記受忍限度の判断の際には,侵害行為の態様及び程度,被害の内容及び程度,公法上の規制との関係,地域性並びに被害者の生活状況と侵害行為の関係等の事情を総合考慮すべきである。
(2) 本件では,被告会社が建築基準法に違反して本件工場を操業したことに争いはない上,上記1(1)記載の経緯に照らすと,被告会社は,当初から本件土地に工場を建設する意思がありながら,故意にこれを秘して建築確認申請を行った疑いが濃く,少なくとも重大な過失により上記建築基準法違反に至ったといわざるを得ない。
また,被告会社は,被告市による違法状態是正のための行政指導に対し,一応これに従う態度を取り,是正計画を提出してはいるものの,その内容には具体性がない上,自ら提出した計画であるにもかかわらずこれを遵守するための積極的な努力をした形跡もないまま期限を徒過し,むしろ何とか現状を維持しようとするような言動をとったり,上記1(4)ケ記載の事実のように,被告市の指導に反発する態度をとったり,あるいは上記1(4)ク記載の事実のように使用制限命令を公示する看板を裏向きにしたりするなど,自らが違法状態を現出していることの重大さについての認識を欠く対応をとったことから,違法状態を完全に是正するまでに,初めて行政指導を受けてから約3年3か月もの長期間を要したこと等に鑑みれば,被告会社が行った対応は法をあまりに軽視した悪質なものというほかない。
原告住民らは,被告会社が移転する前から本件土地周辺を生活の本拠としていて,被告会社の本件工場の操業開始当初より,被告市に対して騒音及び悪臭を訴えて是正指導を求めていたが,被告会社の上記のような悪質な対応により,最終的に被告会社が本件工場から機械を移転するまで約3年4か月間の長期にわたり,原告らは上記騒音及び臭気のため,不快感を抱えた生活を余儀なくされたといえる。
(3) 他方,本件工場周辺の騒音測定値は本件工場からの機械移転の前後で大きく変わっておらず,客観的に本件工場からの騒音が,公法上の規制基準を超えていたということはできない。また,本件工場が発する臭気は,菓子特有の甘いにおいであり,これを不快と感ずるかについては個人差が大きいものと考えられるから,一般人をして不快にさせるものとは直ちにいえない。このような趣旨において,上記騒音や悪臭による被害に関する原告γの供述を全て採用することはできない。
しかし,音やにおいによる不快感は,短時間であればともかく,長期間にわたり,日中,継続的なものである場合には,かなりの苦痛となるものと認めるのが相当である。加えて,上記(2)記載のように,本件における侵害行為は態様が悪質であり,原告らが長期間にわたり被害を訴え続けていたこと等に照らすと,本件工場の発した騒音及び臭気は,原告らの受忍限度を超えていたというべきである。
(4) よって,被告会社による本件工場の操業は,原告らに対する関係において違法であったといえる。
3 被告市の責任(争点(2))
(1) 使用制限命令発令義務違反
ア 上記1(4)記載のとおり,被告市は,被告会社に対し,本件工場の違法状態を是正するための行政指導を継続して行ってきた。被告市が本件工場の違法操業を覚知してから,本件是正命令が発令されるまでに約1年10か月を要しているが,その間も,口頭又は文書による是正指導がなされ,被告会社もこれに従う態度を示していたことに照らすと,本件使用制限命令に至るまでの被告市の各措置が,時期を逸し又は不適切なものであったとは認められない。
イ さらに,特定行政庁による建築基準法9条1項所定の是正措置命令等の行使は,当該行政庁の合理的な裁量に委ねられているものである上,右権限は本来的には公共の福祉のためのものであって,特定の個々人の利益のためのものではないことに鑑みると,本件において被告市に是正措置命令を発令することが原告らに対する関係で義務付けられ,その不行使が違法となるためには,その違反の程度が著しく,これによって住民に継続的に重大な生活利益の侵害が生じ,違反者がみずから違反状態を解消する見込みが全くない上,特定行政庁の権限行使が容易かつ有効適切で,他に適切な救済手段がないような場合であるなどの例外的な場合に限定されると解される。
本件において,被告市は上記1(4)記載のとおり,違反状態の是正のための行政指導を継続的に行っており,違反状態の発覚から使用制限命令を発令するまでに約1年7か月を要したとはいえ,それまでに被告会社からも数度にわたり是正計画が示され,被告会社の自主的な解決・処理等の合理的な期待が全く失われていたとは認められないから,使用制限命令の発令が義務付けられるに至っていたということはできず,上記権限不行使をもって違法と解することはできない。
ウ 上記第2,4(2)(原告らの主張)ア(ウ)記載の見解は採用しない。
(2) 刑事告発義務違反
刑事訴訟法239条2項は,「官吏又は公吏は,その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは,告発をしなければならない」と規定している。同条項は,単なる訓示規定ではなく,法的義務として公務員の告発義務を定めたものである。
もっとも,同条項による公務員の告発義務は,公務員が国ないし公共団体に対して負担するものであって,各公務員において告発を行うことが個別の国民との関係で法的に義務付けられるものではないので,告発義務の不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法と評価される余地はない。
よって,被告市の告発義務違反をいう原告らの主張には理由がない。
4 原告らの損害(争点(3))
(1) 原告住民らの損害
ア 慰謝料
上記2記載のとおり,本件工場の発する騒音及び臭気は受忍限度を超えており,原告住民らはこれにより精神的苦痛を受けたことは容易に推測できるところ,原告住民らの精神的損害に対する慰謝料は,侵害行為の態様及び期間,騒音及び臭気の程度,従前の状況等を総合勘案して,1人当たり15万円とするのが相当である。
イ 弁護士費用
原告住民らが本件訴訟の遂行を訴訟代理人らに委任したことは本件記録上明らかであり,本件事案の難易,認容額その他諸般の事情を斟酌して,1人当たり1万5000円を本件工場の操業と相当因果関係にある損害と認める。
(2) 原告会社の損害
ア 証拠(甲34)及び弁論の全趣旨によれば,本件アパートに上記第2,4(3)(原告らの主張)イ(ア)記載の空室が生じていたことが認められるが,かかる空室が生じた理由が,被告が本件工場を操業したためであると認めるに足る証拠はない。
イ これに対し,原告らは,上記第2,4(3)(原告らの主張)イ(ア)記載のとおり主張し,原告会社代表者は,代表者尋問においてこれに添う供述をしているが,同人自身が賃借人から退去の理由を聞いたわけではないこと,被告会社が本件工場の操業を停止した後も,本件アパートの入居者は特段増えていないこと等に照らすと,上記主張ないし供述は採用できない。
ウ よって,本件工場の操業と因果関係のある原告会社の損害は認められないから,原告会社に対する不法行為は成立しない。
5 結論
以上によれば,原告住民らの本件請求は,被告会社に対して1人当たり16万5000円及びこれに対する平成20年7月1日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるから認容し,原告住民らのその余の請求及び原告会社の請求には理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 杉江佳治 裁判官 小堀悟 裁判官 池上裕康)