京都地方裁判所 平成22年(ワ)2589号 判決 2011年5月20日
原告
X
被告
Y1 他1名
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
一 被告Y1は、原告に対し、一八九七万九三〇〇円及びこれに対する平成二一年一〇月二三日以降支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告富士火災海上株式会社は、原告の被告Y1に対する判決が確定したときは、原告に対し、一八九七万九三〇〇円及びこれに対する平成二一年一〇月二三日以降支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
三 訴訟費用は被告らの負担とする。
四 仮執行宣言
第二事案の概要
本件は、原告が、原告の母A(以下「被害者」という。)が後記の交通事故によって死亡したことによる人身損害につき、被害者の唯一の相続人として、被告Y1(以下「被告Y1」という。)に対し自賠法三条本文により、被告富士火災海上保険株式会社(以下「被告富士火災海上」という。)に対しては、被告Y1との間での自動車損害保険契約に基づく賠償金支払い義務による支払いを求める事案である。なお、本件においては、原告が被害者の治療費以外の人身損害に対する賠償金として既払金の五〇万円を除き一九五五万円の支払いを被告らから受ければその余の損害賠償請求をしないとする原告の被告らに対する免責証書が作成され、被告らに交付され、一九九五万円が被告らにより原告に支払われているが、原告はこの免責証書作成に際しての示談契約は錯誤により無効であるなどと主張し、その効力を争っている。
一 前提となる事実
次の事実は、当事者間に争いがなく、もしくは、関係証拠または弁論の全趣旨により容易に認めることができる。
(1) 本件事故
次の交通事故(以下「本件事故」という。)が発生した(甲一、八)。
ア 発生日時 平成二一年一〇月二三日午後八時二八分ころ
イ 発生場所 岡山県井原市高屋町一丁目一三番地六先路上
ウ 事故態様 被告Y1が、普通乗用車を運転中、携帯電話使用により前方不注意で手押し車を押して歩行中の被害者(当時六七歳)に気付くのが遅れて衝突し、救護の措置などをとらずそのまま逃走した。
エ 事故結果 被害者は、間もなく死亡した(争いがない)。
(以下「本件事故」という。)
(2) 相続
原告は、被害者の子であり、原告の他に被害者の相続人はいない。(争いがない。)
(3) 本件免責証書の作成(本件示談)
平成二一年一二月一〇日、原告と被告富士火災海上京都サービスセンター担当者B(以下「B」という。)との間の協議の結果、被告Y1及び被告富士火災海上が連帯して、本件事故による被害者の治療費を負担する他、本件事故による人身損害に対する賠償金一切として、既払金五〇万円とは別に、一九五五万円を支払うことを条件として、原告は被告Y1及び被告富士火災海上に対し、今後損害賠償の請求をしないことを承諾するとの承諾書(免責証書)を原告が署名捺印などをして作成し、被告らに交付した。(以下「本件免責証書」といい、この免責証書の作成・交付を「本件示談」ともいう。)(甲二、三、原告本人、B証人)
(4) 既払金
原告は、被害者の治療費が被告らにより支払われた他、本件事故による損害賠償金として、合計二〇〇五万円の支払を平成二一年一二月一六日までに被告らから受けた。(争いがない。)
二 争点及び争点に関する当事者の主張の概要
本件の争点は、(1)体件示談は無効かどうか、(2)本件示談は被告富士火災海上担当者Bの説明義務・情報提供義務違反により解除されたかどうか、(3)原告の請求できる損害額、(4)過失相殺であり、各争点に関する当事者の主張の概要は下記のとおりである。
(1) 本件示談契約は錯誤により無効かどうか
(原告)
原告は、本件免責証書に署名捺印する際、被告富士火災の担当者であるBから、甲二(対人損害積算明細書)を示され、「これだけが損害になります。」と断定的に言われ、これ以上の損害賠償請求権はないものと認識し、本件免責証書に署名捺印した。
しかし、甲二記載の慰謝料額九〇〇万円は通常の慰謝料基準と比較すると不相当に低額であり、通常の慰謝料額を認識しておれば、示談はしていなかった。また、逸失利益の計算方法も「死亡損害額チェックリスト」とおりであると説明され、それが正しい計算方法であると認識した。別の計算方法があると認識していれば示談しなかった。さらに、今後の示談交渉の余地が残されていると認識しておれば、交渉を続けたが、「これだけが損害になります。」と断定的に言われ、これ以上の損害賠償請求権はないと認識して示談に応じた。
よって、本件示談にあたって、被告富士火災海上は、甲二記載の額しか認容されないと表示し、原告はそのように誤解し、それを前提に示談に応じたものであり、原告の意思とその表示には不一致があり、その意思表示に錯誤がある。かかる錯誤は、原告が正しく認識していれば示談に応じていなかった重要事項であり、一般的にも甲二のような低額では示談していなかったと思われる額であるので、本件示談は無効となる。かりにこれが動機の錯誤に当たるとしても、原告は、甲二の金額が適正な額であるなら、やむを得ないと動機を表示して示談したものであり、無効とすべきである。
(被告ら)
Bは、甲二の損害積算書を原告に示し、各項目毎に説明した上、それが被告富士火災海上の示談に関する提示額であることを明確に示した。原告は、その説明を受けて、Bに対し、「これ以上は無理か」と示談金額の増額を求め、Bは、原告に、「示談金額のこれ以上の増額はできない。」と伝え、原告は、被告富士火災海上提示額を了解して示談に応じたものである。したがって、本件示談に際して、原告の内心の効果意思と表示上の効果意思との間に何らの不一致は生じていない。
なお、上記の提示額は、不当に低額ではない。過失相殺も考慮すれば、むしろ訴訟基準の相当額を上回っている可能性すらある。
以上によれば、原告の錯誤無効の主張には全く理由がない。
(2) 説明・情報提供義務違反に基づく示談の解除の成否
(原告)
被告富士火災海上は、専門的知識と経験を有する保険会社であるから、損害額を提示するに際し、適正に年金喪失額を計算し、逸失利益を計算し、慰謝料その他の損害についても適正に損害を積算し、それらにつき、被害者にその理由も付して説明する義務がある。
しかるに、被告富士海上火災の担当者であるBは、①年金額喪失の計算において、調査を尽くさず、的確な資料に基づかないで、年金喪失額を年額七六万四二〇〇円であるのに、これを四四万八四〇〇円と間違った計算をし、これが適正な損害額であるという誤った説明を原告にした、②年金喪失の計算において、就労可能年数のライプニッツ係数の扱いについて二種類の計算方法があることを説明するなどする義務があったのに、一種類の計算方法を説明し、これが正しく、これ以外の計算方法はないと説明し、この間違った説明により、原告は本来受領すべき金額を下回る示談金しか受領できないという損害を被った、③慰謝料の額について、九〇〇万円が適正な額であり、これ以上の慰謝料は認められないと説明したが、九〇〇万円は自賠責保険の基準であり、任意保険ではもっと高額になること、裁判基準では更に高額となることの説明をせず、説明義務・情報提供義務に違反したのであり、これらの義務違反により、原告と被告らとの信頼関係は失われたので、原告は示談契約を解除できる。原告は、本件訴状により被告らに上記解除の意思表示を行う。
よって、本件示談契約は、解除された。
(被告ら)
①年金額の認定、調査については、被害者側から提出される資料に基づいて、認定がされることが実際には多く、本件においても、原告からの被害者の年金受給の事情の聞き取り及び原告から提出された年金額改定通知書に基づき計算したものであり、②の計算方法及び③の慰謝料金額の水準については、示談交渉において、損害保険会社が提示しようと考えている内容に加えて、さらに、より高額となる他の計算方法や慰謝料額の基準についても説明すべき義務があるかどうかという問題であるが、各保険会社が内部的に定めた基準であり、それ自体監督官庁から是正を求められるようなこともなく、示談解決を行う際に使用していることを監督官庁から承認されているものに従って、積算、提示、説明することで基本的に十分であり、これに加えて、ほかの、より高額になる計算方法や基準等を説明すべき義務はない。
したがって、原告の主張する説明・情報提供義務は認められず、この違反を原因とする解除の主張には理由はない。
(3) 原告が請求できる損害額
(原告)
ア 治療費 被告富士火災海上が支払った額
イ 死亡診断書代 五三七〇円
ウ 葬儀費 六〇万円
エ 逸失利益 一四七〇万三九三〇円
(ア) 就労可能性に基づく逸失利益 一〇〇八万六二五二円
基礎収入を二八三万八〇〇〇円、生活費控除を〇・五、就労可能年数を九年(ライプニッツ係数は七・一〇八)として計算。
(イ) 年金喪失分 四六一万七六七八円
年額七六万四二〇〇円、生活費控除〇・五、平均余命一九年(ライプニッツ係数一二・〇八五)として計算。
(ウ) 上記(ア)及び(イ)の合計 一四七〇万三九三〇円
オ 慰謝料 二二〇〇万円
カ 以上小計(治療費を除く)
三七三〇万九三〇〇円
キ 既払額差し引き
-2005万=1725万9300円
ク 弁護士費用 一七二万円
ケ 請求額
一八九七万九三〇〇円及びこれに対する事故日(平成二一年一〇月二三日)から支払済みまで年五分の割合による金員
(被告)
争う。
治療費は、七万三九六七円、死亡診断書料は、五三七〇円、葬儀費等は二九万九九五八円であり、以上はいずれも実額である。逸失利益は、被害者は無職独り暮らしであったので就労可能性を前提とする逸失利益は認められず、年金喪失分については、生活費控除率を七割ないし八割とすべきであるが、仮に七割とし、原告の主張する年金額で計算しても一二八万八八九九円にすぎない。死亡慰謝料相当額は、二〇〇〇万円程度である。
既払金額は、二〇一二万三九六七円であり、過失相殺を考慮すれば、過払いとなる可能性がある。
(4) 過失相殺
(被告ら)
被害者は、本件事故時、車歩道の区別のある道路の車道を被害者は歩行していて、被告Y1運転の自動車と衝突しており、基本的な過失割合は、被害者三:被告Y1・七である。
修正要素として、夜間で現場は暗かったことから、被告Y1に有利に五%、また、被害者は当時六七歳と高齢であり、被害者に有利に一〇%の各種性が相当である。
以上によれば、過失相殺二五%が相当である。
(原告)
基本的過失割合を被害者三:被告Y1・七とすることは争わないが、修正要素については、被害者は、手押し車を押してしか歩行できない身体状態であったから身体障害者等に該当するものとして二〇%被害者に有利に、被告Y1は携帯電話使用で著しい前方不注意であり、一〇%被害者に有利に、夜間による五%修正を含めて総合すると、被害者側過失は五%にすぎず、被告Y1がひき逃げをしたことを考慮すると、過失相殺は不相当である。
第三当裁判所の判断
一 本件示談契約に関する錯誤無効の成否について
(1) 事実関係
関係証拠(甲二、三、一二、乙四、六、一二、一三、証人B、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
本件事故について、被告富士火災海上においては、当初契約のあった岡山サービスセンターのCというものが担当し、事故関係者から事情を聞き、相続関係の確認及び損害の積算に必要な資料を収集し、その後、唯一の相続人である原告の住む地域に所在する京都サービスセンターで引き継ぐこととなり、平成二一年一一月二〇日ころ、同サービスセンター所属のBが引き継いだ。Bは、同月二五日に自賠責保険の事前相談の書類を送るとともに、原告に電話で連絡をとった。Bは、被告富士火災海上から示談の提案をするが、一か月程度かかると原告に伝えた。事前相談に対する回答は、平成二一年一二月八日ころにあった。その積算額は、総額二〇〇四万円であった。Bは、これを見て、被告富士火災海上の示談案を作った。被告富士海上火災の任意基準で計算すると、死亡慰謝料は、一二五〇万円、葬儀費用は、実額または自賠責規程の六〇万円、逸失利益は年金収入分のみで原告から提出された年金額改定通知書を資料とし、これらを積算すると、自賠責の事前相談回答の二〇〇四万円を下回るので、総額が二〇〇四万円を若干上回る金額となるように明細を作った。具体的には、葬儀費は、六〇万円とし、逸失利益については、年齢別平均給与額で計算して、一〇四四万円を計上し、ただし、年金喪失分は計上せず、慰謝料額を九〇〇万円とし、死亡診断書料五三七〇円、既払額五〇万円で、治療費を除き合計二〇〇四万五三七〇円となる明細書を作成した(甲二)。なお、Bは、入手していた資料から被害者側に過失相殺がいくらか考えられる事故状況であると理解していたが、過失相殺を計算に入れなくても自賠責の回答額で明細が作れること(なお、自賠責保険においては、過失割合七ないし八割程度以上の重過失の場合に限り、重過失減額として損害額の二割ないし三割程度の減額を行うにとどまる。)及び遺族感情を考慮して、過失相殺は、明細書に記載せず、また、提示説明の際にも原告に対して言及しないこととした。
平成二一年一二月一〇日、Bは、事前に約束した上、原告方を訪問し、名刺を差し出し、甲二の明細書を示して、その各項目の説明を順にした。その説明に際しては、原告から特段質問や意見などはなく、一通り説明するのに五分ないし一〇分かかった。説明の際に、Bは、「任意保険」、「自賠責保険」という言葉は使っていないが、被告富士火災海上としての示談の提案として説明し、原告もそのようなものとして、甲二及びそれに関するBの説明を聞いていた。説明が終わった後、説明内容に対する具体的な質問はなく、原告は、Bに対し、「これ以上は無理ですか。」と尋ね、Bは、「当社としてはこれ以上は無理です。」などと答えた。個々の項目の計算方法について質問がされることもなく、また、裁判になった場合はどのくらいの額になるのか、その場合に甲二の提示額と同じくらいなのか、大分違ってくるのかといった話題は、どちらからも全く出なかった。原告は、Bの説明した提示額に了解して、免責証書に署名捺印した。
(2) 錯誤無効の成否について
上記(1)の認定事実によれば、本件示談に際し、Bは、原告に対して、被告富士火災海上の示談の提案として、甲二の明細書を示し、各損害項目について一通り説明をし、その説明に際して、原告から具体的な質問や意見はなく、一通りの説明が終わった後、総額について「これ以上は無理か」といった増額の余地はないのかどうかを確認する問いかけがあり、Bが「当社としてはこれ以上無理です。」などと回答したら、それ以上特に質問も意見も述べることなく、Bが示した被告富士火災海上案で示談に応じる意思を表明して、ただちに、免責証書に署名捺印してBに交付したのであり、これは何ら問題のない納得、了解に基づく示談の調印というべきで、原告に、示談契約における意思に何ら欠けるところはなく、また、無効原因となるような重要な錯誤は見当たらない。なお、交通事故の損害賠償に関する訴訟外の示談においては、任意保険会社が示談する際には、自賠責保険金額より少額の示談(過少示談)はしてはならないとされており、過少示談の場合にはその示談額の提示説明自体が、不相当な示談案の提示、不誠実な説明などと原則として評価されるべきであるが、それを超えて、更に一定程度以上の金額レベルでなければならないとか、裁判で認められる基準に準拠した金額でなければならないなどとする厳格な意味での法的根拠はない。
以上によれば、原告の錯誤無効の主張は理由がない。
二 説明・情報提供義務違反に基づく示談の解除の成否
原告は、Bが、①年金額喪失の計算において、調査を尽くさず、的確な資料に基づかないで、年金喪失額を四四万八四〇〇円と間違った計算をした、②年金喪失の計算において、就労可能年収のライプニッツ係数の扱いについて二種類の計算方法があることなどを説明する義務があったのに、一種類の計算方法しか説明しなかった、③慰謝料の額について、九〇〇万円が適正な額であり、これ以上の慰謝料は認められないと説明したことが、不当であり、重要な説明・情報提供義務違反として示談契約の解除権を生じさせると主張する。ところが、上記一の(1)で認定した事実によると、Bの示談案の説明の際、逸失利益の項目については、Bは、被害者が単身無職者(生活保護制度利用者)であることから、就労等を前提とする逸失利益を算定する基礎がなく、年金喪失分に限られるとするのが順当であると理解しながら、示談提示金額を自賠責の積算額以上に作る必要上、あえて、稼働収入があるないしは家事従事者という前提の逸失利益の算出式を示し、一〇四四万円という多額の逸失利益を示談案の明細に盛り込み、ただし、年金喪失分は計上しないという扱いで明細を作成し、これに基づいて簡潔に原告に説明し、年金喪失分については言及しなかったが、この項日の説明について原告から何ら質問はなく、原告が年金喪失分の扱いについて関心を示した形跡は全くない。このような事情の下で年金喪失分の計算が正確でない、あるいは、その計算方法の説明が不足であるということが示談の効力を失わせる程の重要事項とも、原告の意思決定になんらかの影響を与えたとも言えないことは明らかである。また、慰謝料額についても、保険会社の基準により九〇〇万円という程度の説明をBは原告に対して行い、これについて原告から何らの質問ないし意見はなかったのであるから、同様である。
よって、その余の点について検討するまでもなく、原告の説明・情報提供義務違反を原因とする示談契約の解除の主張には理由がない。
三 結論
以上によれば、本件示談の効力を否定すべき理由は認められず、したがって、その余の点について、検討するまでもなく、本件請求は理由がない。
(裁判官 栁本つとむ)