京都地方裁判所 平成24年(わ)1327号 判決 2013年8月30日
主文
被告人は無罪。
理由
第一本件公訴事実の内容
被告人は、平成一五年二月一九日京都地方裁判所において、窃盗罪により懲役一年二月に、平成一六年七月二〇日同裁判所において、常習累犯窃盗罪により懲役二年に、平成一八年九月二二日同裁判所において、同罪により懲役二年四月に各処せられ、いずれもその頃上記各刑の執行を受けたものであるが、更に常習として、平成二四年九月二七日午後三時頃から同日午後三時四五分頃までの間、住所<省略>所在のa有限会社展示場において、同社代表取締役A管理に係る普通乗用自動車(軽四)一台(販売価格二九万八〇〇〇円)を窃取したものである。
第二当事者の主張及び本件の争点
関係証拠によれば、公訴事実記載の前科がある被告人が更に公訴事実記載の窃取行為(以下「本件行為」という。)に及んだことや、被告人がその行為当時重度精神発達遅滞にあったことが認められ、この点は当事者間にも争いがない。弁護人は、本件行為当時、被告人は精神の障害により事物の理非善悪を弁識する能力(以下「是非弁識能力」という。)及びその弁識に従って行動する能力(以下「行動制御能力」という。)のいずれをも欠き、心神喪失の状態にあったから無罪であると主張するのに対し、検察官は、是非弁識能力及び行動制御能力のいずれも完全には欠如しておらず、心神耗弱の状態にあったと主張する。
したがって、本件の争点は、本件行為当時の被告人の責任能力の有無・程度(心神喪失か心神耗弱か)である。
第三検討
一 問題の所在
公判段階で鑑定人として選任された被告人の精神鑑定を実施した医師B(以下「鑑定人」という。)の鑑定手法や検査方法に特段の問題は認められず、当事者もその信用性を全く争っていない鑑定人作成に係る鑑定書(弁二号証。以下「鑑定書」という。)には高い信用性が認められるところ、それによれば、被告人は、平成二五年三月一一日の検査時点における知能指数(田中ビネー知能検査Ⅴ)IQ二五、精神年齢四歳七か月で、重度精神発達遅滞の状態にあったことが認められる。この結果は、京都市醍醐福祉事務所において平成二一年二月六日付けで判定された被告人に対する障害区分結果(障害程度:A(a3)、重度精神発達遅滞:IQ二一~三五)とも整合しており十分に信用できるものである。そして、鑑定書によれば、被告人には医学的にみて統合失調症等の精神病疾患は認められないから、本件においては、被告人の重度精神発達遅滞が本件行為に及ぼした影響の有無及び程度をどうみるかが問題となる。
二 被告人の日常生活について
鑑定書等の関係証拠によれば、被告人は、日常生活において、平仮名しか読めず、数字はあまり読めないし買物で欲しいものは買えるがお釣りは分からない上、店頭にない商品の注文等につき店員との交渉もできず、社会参加は週に一度生活介護事業所に通所してペットボトルをつぶすなどの単純作業をするだけであったこと、食事摂取、排泄等は自立しているが、それ以上の日常生活のほぼ一切について支援を要する状態にあったこと、施設で女性に好意を覚えると管理者に着替えるところが見たいなどと相談し、拒否されると激怒するなど、願望の実現方法について極めて拙劣であったことが指摘されており、鑑定人は、被告人が自立した社会生活を送るにあたって、必要な知識を習得しておらず、コミュニケーション能力も判断能力も十分には有していなかったとの見解を示している。したがって、被告人の日常生活は、重度精神発達遅滞によってかなりの程度制限されていたとみることができる。
三 被告人の重度精神発達遅滞と本件行為との関連性
(1) 経緯及び動機について
関係証拠によれば、被告人は、自動車好きで従前から自動車の窃盗を繰り返しており、本件行為についても、自動車を運転したくなったことから、自動車を窃取しようと決意し、a有限会社(以下「被害会社」という。)に向かったことが認められる。したがって、検察官が主張するように本件行為の動機は了解可能といえるのであり、鑑定書にも、「被告人は、従来なにか欲しいものがあると我慢できない傾向を有しており、車が大好きでこれまでも繰り返し車の窃盗を行ってきたが、本件犯行もこうした従前の傾向の表れであり、動機は心理学的にも了解可能である。」旨記載されている。しかしながら、被告人は、自動車を運転するやむを得ない理由や必要性があったわけではなく、単に運転したかったという理由以外は見出せないところ、これまでに自動車盗で五回も服役しているにもかかわらず、同様の理由で自動車盗に及んだ点は、自動車を運転したいとの強い欲望を抑えきれず衝動的に本件行為に及んだことをうかがわせており、通常人であれば自制できるはずの単純かつ幼稚な欲望ですら自制が効かなかったことを示しているといえる。このことは、前記のとおり動機について了解可能であるとする鑑定書も更に続けて「ただ、被告人は、自身の願望を実現するために適切な方策を選択することができず、自身の願望をうまく現実社会で実現することができない。こうした能力の欠如は、被告人の重度精神発達障害と密接な関係がある。」と指摘していることとも整合するものであり、本件行為の経緯ないし動機の形成に被告人の重度精神発達遅滞が大きく関わっていることが認められる。
(2) 本件行為の態様等について
関係証拠によれば、被告人は、従前から被害会社で鍵がついたままの自動車があることを知っていたことから、窃盗目的で被害会社に向かい、自動車を盗むために従業員がいなくなるのを待ち、従業員が事務所内に入った隙を見て屋外展示場に展示されていた鍵付きの自動車(以下「被害車両」という。)を窃取したことが認められ、被告人の行動には本件行為実現に向けられた計画性やその動機にかなった合目的性が認められる。しかし、他方で、被告人は、非常に目立つ自転車(ライトやペットボトルなどを使ってさまざまな飾り付けをしてある)で被害会社に赴き、それを同社に止めて被害車両を見ていたこと、窃取後に自転車の回収の必要性を思いついたこと、本件行為後間もなく自転車を取りに被害会社まで戻っていること、被害車両を自宅付近の他人名義の駐車場に駐車させたことも認められる。これらの事実を踏まえると、被告人の行動は全体として見た場合、鑑定人も指摘しているように、本件行為に一定の計画性や合目的性があるにしても、それらは周到な計画性あるいは一貫した合目的性等とはほど遠い、むしろ、極めて稚拙な計画性、場当たり的な合目的性とでも呼ぶべきものと評価すべきであり、被告人の本件行為が重度精神発達遅滞の強い影響下で行われたことをうかがわせている。この点、鑑定人も鑑定書において、「本件犯行には、計画性・合目的性を指摘することができるが、それらは、総じて極めて稚拙な性質のものであり、この稚拙さは、被告人が精神発達遅滞の結果こうむっている社会生活上必要な知識や判断能力の不足を反映している、つまり、被告人の精神発達遅滞と密接に関連しているといえると考える。」と判断している。
四 被告人の重度精神発達遅滞が本件行為に及ぼした影響の有無及び程度
(1) 被告人は、精神年齢四歳七か月、知能指数IQ二五で、重度精神発達遅滞の状態にあったのであり、それにより前記二で認定したような日常生活における制約を受けていたことをも踏まえると、被告人の是非弁識能力及び行動制御能力は相当に低かったものと考えられるから、心神喪失か心神耗弱かについては慎重な検討を要する。
検察官は、本件行為の動機に不自然な点が認められず、態様が計画的・合目的的で違法性を認識した行動も取っているから、被告人の重度精神発達遅滞は本件行為が心神喪失と認められるほどの障害になっているとは考えられないと主張している。
確かに、被告人は、これまでにも自動車盗で裁判を受けて服役したことがあるし、本件行為についても、被害会社の従業員が事務所内に入るのを待って窃取行為に及んだり、被害車両をいったんコンビニエンスストアに止めて被害会社まで自転車を取りに行った後に警察官から車を取っていないかと尋ねられて「知らん」と答えたり、逮捕される直前には警察官から「何をしている。この車をどうした。」などと尋ねられて「この車は買ったものや。俺の車や。」などと虚偽の弁解をしたりしたことが認められ、当公判廷においても、車を取って悪かったですなどと述べて謝罪をしており、本件行為当時から被告人に自動車盗が悪いことであるという一定程度の認識が存在していたことは否定できない。
しかしながら、本件行為の態様等について認められる合目的性については本件行為を含むその前後の被告人の行動を見ると前記三(2)で記示したとおり極めて稚拙な計画性、場当たり的な合目的性としかいえないもので、従業員がいなくなるのを待って窃取行為に及んだり前記のような警察官に対する応答をもって、計画性や違法性の意識に関して、そのまま通常人がそうした場合と同列に論じることはできないし、警察官の職務質問に対する返答を見ても「買った車」などというすぐにうそだと分かるようなうそをついており、鑑定人も指摘するように一見自己防御的な行動に見えるが、あまりに稚拙で自己防御たり得ず、この稚拙さは被告人の精神発達遅滞と密接に関連しているといえる。そうすると、本件において問題となるのは、自動車盗により服役した経験がある被告人にとって自動車盗が悪いことだという認識は体験上培われていたはずであるのに、被告人は、どうして自動車を盗みたいという欲望を自制できず、その欲望の赴くままに行動してしまったのかという点であり、本件行為に被告人の重度精神発達障害が密接に関連していることを踏まえると、被告人は、自動車盗が悪いことであると表面的には認識できるものの、重度精神発達遅滞の状態にあったことによりそれが社会的に許されない違法な行為であり、行ってはいけないということを真に理解できておらず、その違法行為を自制できなかったからであるとみるのが自然かつ合理的である。なるほど、被告人は、被害会社に謝罪の手紙を書いたり、当公判廷において反省の弁を述べたりしているが、他方で、今後は免許を取って車を買うなどとおよそ実現困難な発言をしたり、捜査段階では趣味は車の運転だが免許を持っていないし、運転はいつも盗んだ車でするなどと悪びれた様子が全くうかがえない供述もしており、謝罪や反省をどの程度まで理解して行っているか疑わしいところがあるのであって、むしろ、これまでの前科の経験から捕まったら謝罪や反省の弁を述べればよいと学習し、表面的に行っているにすぎないと考えられる。
この点につき、鑑定人は、鑑定書において、「『車をぬすむことはいいことかわるいことか』と問うと、被告人は『悪いこと』と即時に応じているが、『なにがどう悪いの』と問うても、被告人から応答は得られず、他方、車の窃盗とともに、被告人が若い頃から繰り返していた強制わいせつについては、『いいことか、悪いことか』と問うと、『悪いこと』と応じ、更に『どうして悪いことなの』と問うと『かわいそうやから』と応じている。強制わいせつがある程度抑制できているのに、車の窃盗が抑制できない理由は、『悪いこと』という認識の程度によるのではないかと考える。つまり、車の窃盗に関して、『悪いこと』という認識は、極めて表面的、形式的な認識にとどまるのではないかと考える。このこともまた、被告人の精神発達遅滞と密接に関連していると考える。」と述べており、同旨の見解を示している。そして、被告人が強制わいせつについてある程度抑制できていたのは、被告人に対する生活支援の影響、すなわち被告人の支援関係者が近くにおり適切な支援・指導がなされていたことによるものと考えられる。すなわち、b生活支援センターの介護福祉士Cは、当公判廷において、被告人が平成二三年二月に刑務所を出てきてから本格的な支援を導入し、出所時から通所先や金銭管理も含めて相当の配慮をし、強制わいせつ未遂の前科等に鑑み、その再犯を起こさせないことを念頭において指導をしてきたと証言しており、被告人が強制わいせつについて、それが悪いことであるということをある程度理解し、自制できていたのは支援の効果といえる。これに対し、自動車盗に関しては、前記Cは、被告人の生活範囲に鍵を付けたままの車がそんなにあるということは正直思っていなかったので自動車盗については警戒しておらずその点の指導が不十分であった旨証言しており、自動車盗に関する被告人の悪いことの認識や理解度に強制わいせつとは異なる程度の差があったことをうかがわせていて、前記鑑定人の判断と整合する事情の存在を示している。
(2) 本件行為は、従前から自動車が欲しい、運転したいと思っていた被告人が、被害会社に展示されていた自動車を窃取することを決意し、被害車両を盗んだというものであるが、これまで検討してきたとおり、被告人は、本件行為当時、重度精神発達遅滞の状態にあり、その影響下に本件行為が行われたものである。被告人は、重度精神発達障害により何か欲しいものがあると我慢できず、本件行為のときも自動車盗が悪いことであるという認識はあったものの、その認識は極めて表面的・形式的であり、どうして悪いのか、なぜ許されない行為なのかを理解しないまま本件行為に及んだものと認められる。したがって、被告人は、自動車が欲しいという欲望が優先する余り、通常人であればできるはずの自動車を盗んではいけないという反対動機の形成が、ほとんど不可能であったといえるのであり、それは、被告人が重度精神発達遅滞にあったことに起因するとみるのが適切である。そして、自動車盗が悪いことだとの認識があったとしてもその認識が極めて表面的・形式的なもので、それが社会的に許されない理由を全く理解しておらず、ひいては違法であることを真に理解できていないため、規範に直面して反対動機を形成することがほぼ不可能であるといえるような場合は、弁識能力は無いに等しいといえるのであって、心神喪失と評価するべきである。
そうすると、これまで検討してきたとおり、被告人の本件行為の動機は一応了解可能とはいえるものの拙劣かつ不自然な面があること、本件行為の態様も一見計画性や合目的性があるように見えるものの極めて稚拙で場当たり的であること、窃取行為後の自己防御的な行動についてもあまりに稚拙で自己防御的たり得ないこと、違法性の意識についても表面的な認識にとどまり、真に理解しているとは到底いえないことが認められるのであって、これらの事情を総合的に考慮検討すると、被告人は、本件行為当時、重度精神発達遅滞の状態にあったことにより、是非弁識能力及び行動制御能力が欠けていたのではないかという疑いを払拭することができない。そして、鑑定人も鑑定書において、「本件犯行当時、被告人は重度精神発達遅滞の状態にあった。本件犯行当時、被告人の『悪いこと』に対する認識はきわめて表面的なものにとどまっており、理非善悪の認識能力は、著しく損なわれていた。また、本件犯行には計画性・合目的性・事後の自己防御的な言動が認められるが、いずれもきわめて稚拙であり、本件犯行当時の行動の制御能力についても、上記精神障害によって、同様に著しく損なわれていた。」と判断しているが、前記認定と同趣旨のものと解することができる。なお、検察官は、平成一二年から平成二三年までの裁判ではすべて心神耗弱と認定されていること(この点は、弁護人も争っていない。)を根拠に本件行為当時も被告人は心神耗弱の状態にあったと考えるべきであると主張するが、検察官が指摘する裁判については、少なくとも判決謄本が証拠請求されている平成一五年以降の裁判については、そのすべてが中等度精神遅滞であると認定されていることが明らかであって、重度精神発達遅滞である本件とは異なること、弁護人作成の精神鑑定申立書や検察官の証拠請求によれば、被告人は平成一二年に精神鑑定を受けた後は本件精神鑑定がなされるまでの一〇年以上もの間、平成二三年に実施された捜査機関による簡易鑑定を除きいわゆる正式な精神鑑定は受けていなかったことが認められるから、過去の裁判において心神耗弱と判断されていたことは被告人を心神喪失とする前記認定の妨げとはならない。
以上によれば、本件行為当時、被告人が心神喪失の状態にあったという合理的な疑いが残り、責任能力の点で犯罪の証明が十分でないことに帰着する。
(3) したがって、弁護人の被告人は心神喪失であったとの主張は採用できるのに対し、被告人には心神耗弱の限度で責任能力を肯定し得るという検察官の主張は採用することができない。
第四結論
以上の次第で、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。
(求刑 懲役三年)
(裁判官 市川太志)