京都地方裁判所 平成25年(わ)284号 判決 2015年1月23日
主文
被告人は無罪。
理由
【当事者の主張】
第1検察官の主張(公訴事実)
1 主位的訴因
被告人は,平成25年2月26日午後3時39分頃,大型貨物自動車を運転し,京都市a区bc番地d先の片側2車線道路の第2車両通行帯を,車高が高い中型貨物自動車に追従して北から南へ向かい進行し,第1車両通行帯に進路変更して進行するに当たり,同所は進路前方右側に飲食店等が建ち並んでおり,右側路外施設へ右折進行するため第2車両通行帯上に停止している車両の存在が予測できた上,前記中型貨物自動車によってその前方の同通行帯の見通しが遮られていたのであるから,指定最高速度である50km毎時を遵守するのはもとより,同車の前方の見通しが確保できるまでは,同車が第1車両通行帯へ進路変更するなど不測の事態が生じた場合でも,第2車両通行帯へ進路変更して避けずとも対応できるよう同車から離れて進路の安全を確認しながら進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,最高速度を遵守せず,時速約68kmで進行した上,第1車両通行帯に進路変更後にアクセルを戻して若干減速したものの,同車と離れず,進路の安全確認不十分のまま,漫然同車の左後方約7.6m地点まで接近して進行した過失により,同車が,前方中央線沿いに右折待ちのため停止しようとしたA運転の普通乗用自動車を避けて進行すべく,その進路を若干左に寄せて,その車体の一部を僅かに第1車両通行帯に進入させたことを右斜め前方に認めるや,狼狽のあまり,同車への追突を避けようと右転把して,時速約58kmで第2車両通行帯へ進路を変えて進行し,前記A運転車両を前方約9.9mの地点に迫ってようやく認め,急制動の措置を講じたが間に合わず,同車左後部に自車右前部を衝突させ,その衝撃で前記A運転車両を対向車線へ進出させて,対向車線を進行中のB運転の普通乗用自動車前部に前記A運転車両を衝突させた上,自車を対向車線に進出させ,同車線を進行中のC運転の普通貨物自動車(軽四)右側面に自車前部を衝突させ,前記C運転車両をその後方から進行してきたD運転の普通乗用自動車前部に衝突させ,さらに,対向車線を進行中のE運転の普通乗用自動車(軽四)に自車前部を衝突させ,その衝撃で前記E運転車両を京都市a区be番地F店敷地内まで押し戻し,同車を同敷地内に駐車中の普通乗用自動車に衝突させ,よって,前記E(当時34歳)に胸部打撲の傷害を負わせ,同年3月7日午後0時36分,京都市f区gh丁目i番地G病院において,同傷害に基づく大動脈破裂により同人を死亡させたほか,前記A(当時38歳)に加療約8日間を要する頭部打撲等の,前記B(当時45歳)に加療約1か月間を要する右肘脱臼骨折等の,前記C(当時24歳)に加療約3週間を要する左下腿打撲傷等の傷害をそれぞれ負わせた。
2 予備的訴因
被告人は,平成25年2月26日午後3時39分頃,大型貨物自動車を運転し,京都市a区bc番地d先の片側2車線道路の第1車両通行帯を北から南へ向かい進行するに当たり,同所は道路標識によりその最高速度が50km毎時と指定されていたのであるから,同最高速度を遵守して進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,同最高速度を約15km毎時超える時速約65kmの速度で進行したことに加え,同道路の第2車両通行帯を時速約56kmで進行する車高が高い中型貨物自動車がその進路を若干左に寄せて,その車体の一部を僅かに第1車両通行帯に進入させるのを右斜め前方約7.6mの地点に認めて同車との衝突回避の措置を講ずるに当たり,同所は進路前方右側に飲食店等が建ち並んでおり,右側路外施設へ右折進行するため第2車両通行帯上に停止している車両の存在が予測できた上,前記中型貨物自動車によってその前方の同通行帯の見通しが遮られていたのであるから,第1車両通行帯上で的確な制動措置を講ずることにより前記中型貨物自動車との衝突を回避すべきであり,自車の進路を安易に第2車両通行帯に変更することは厳に差し控えるべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,的確な制動措置を講ずることなく安易に右に急転把し,自車を第2車両通行帯へ進行させた過失により,折から第2車両通行帯上の前方中央線沿いに右折待ちのため停止しようとしたA運転の普通乗用自動車を前方約9.9mの地点に迫ってようやく認め,急制動の措置を講じたが間に合わず,同車左後部に自車右前部を衝突させ,その衝撃で前記A運転車両を対向車線へ進出させて,対向車線を進行中のB運転の普通乗用自動車前部に前記A運転車両を衝突させた上,自車を対向車線に進出させ,同車線を進行中のC運転の普通貨物自動車(軽四)右側面に自車前部を衝突させ,前記C運転車両をその後方から進行してきたD運転の普通乗用自動車前部に衝突させ,さらに,対向車線を進行中のE運転の普通乗用自動車(軽四)に自車前部を衝突させ,その衝撃で前記E運転車両を京都市a区be番地F店敷地内まで押し戻し,同車を同敷地内に駐車中の普通乗用自動車に衝突させ,よって,前記E(当時34歳)に胸部打撲の傷害を負わせ,同年3月7日午後0時36分,京都市f区gh丁目i番地G病院において,同傷害に基づく大動脈破裂により同人を死亡させたほか,前記A(当時38歳)に加療約8日間を要する頭部打撲の,前記B(当時45歳)に加療約1か月間を要する右肘脱臼骨折等の,前記C(当時24歳)に加療約3週間を要する左下腿打撲傷等の傷害をそれぞれ負わせた。
3 過失に関する検察官の主張の要点
検察官が主張する過失すなわち注意義務違反の内容は,次のように整理できる。
(1) 主位的訴因 -最高速度遵守義務違反,車間距離保持義務違反
主位的訴因については,①指定最高速度である50km毎時を遵守して進行すべき注意義務(以下「最高速度遵守義務」という。)があるにもかかわらず,時速約68kmで進行したこと及び②被告人が運転する車両(以下「被告人車両」という。)の右前方の第2車両通行帯を進行していたH運転の中型貨物自動車(以下「H車両」という。)の前方の見通しが確保できるまでは,同車が第1車両通行帯へ進路変更するなど不測の事態が生じた場合でも,第2車両通行帯へ進路変更して避けずとも対応できるよう同車から離れて進路の安全を確認しながら進行すべき注意義務(以下「車間距離保持義務」という。なお,「車間距離」とは通常の用語法によれば,同一進路上の先行車両と後行車両との距離をいうところ,本件においては異なる進路上の先行車両と後行車両との距離を指して用いることがある。)があるにもかかわらず,同車と離れず,進路の安全確認不十分のまま漫然同車の左後方約7.6mまで接近して進行したことである。
(2) 予備的訴因 -最高速度遵守義務違反,第1車両通行帯上での衝突回避義務違反
予備的訴因については,③最高速度遵守義務があるにもかかわらず,時速約65kmで進行したこと及び④H車両との衝突回避の措置を講ずるに当たり,第1車両通行帯上で的確な制動措置を講ずることにより同車との衝突を回避すべきであり,自車の進路を安易に第2車両通行帯に変更することは厳に差し控えるべき注意義務(以下「第1車両通行帯上での衝突回避義務」という。)があるにもかかわらず,的確な制動措置を講ずることなく安易に右に急転把し,自車を第2車両通行帯へ進行させたことである。
(3) 小括
以上のとおり,検察官の主張する注意義務違反の内容は,前記①及び③の最高速度遵守義務違反,前記②の車間距離保持義務違反,前記④の第1車両通行帯上での衝突回避義務違反の3点である。
第2弁護人の主張の骨子
1 最高速度遵守義務違反について
被告人が前記道路において時速約65kmで進行することは交通事故が発生する具体的危険性を内在する行為とはいえないから,注意義務違反はない。
また,仮に,被告人が最高速度である50km毎時を遵守していたとしても,事故を回避することは不可能であったから,時速約65kmで進行していた行為と本件の結果との間に因果関係はない。
2 車間距離保持義務違反について
被告人は,自車の右前方の第2車両通行帯を進行するH車両が,事前に,第1車両通行帯の安全確認及び進路変更の合図をせず,自車に危険を及ぼすような距離及び速度で第1車両通行帯へ進入することまでは予見し得なかった。したがって,被告人にそのような不測の事態までを想定してH車両から離れて進行すべき注意義務はない。
3 第1車両通行帯上での衝突回避義務違反について
H車両が,車間距離が約6.2mしかないのに,進路変更の合図をすることなく第1車両通行帯へ進入したため,被告人は右転把して第2車両通行帯へ進路変更せざるを得ない状況に置かれたのであるから,被告人に第1車両通行帯上で的確な制動措置を講ずることによりH車両との衝突を回避すべき注意義務はない。
4 緊急避難
被告人が右転把し第2車両通行帯へ進路変更した行為は,突然第1車両通行帯に進入してきたH車両と自車との衝突を回避するためにやむを得ずした行為であって,これによって前記被害者らに生じた損害は,H車両との衝突によって発生すべき損害を超えるものではないから,緊急避難が成立する。
5 小括
以上のとおり,弁護人は,検察官が主張する注意義務違反は,注意義務自体が認められないか,これが認められるとしても結果との因果関係を欠き,また,被告人が右転把し第2車両通行帯へ進路変更した行為には緊急避難が成立するため,被告人は無罪であると主張している。
【当裁判所の判断】
第1前提事実
当裁判所が関係証拠により認定した事実は,次のとおりであり,当事者間にも争いがない。
1 本件現場付近の状況について
本件現場は京都市a区bc番地d先の国道1号である。本件現場付近の詳細は,別紙1のとおりである。
国道1号の本件現場付近は,幅員約15.5m,アスファルト舗装の片側2車線の南北に走る直線道路で,見通しは良い。被告人車両が進行していた進路が北から南に向かう片側2車線の道路のうち,走行車線である第1車両通行帯の幅員は約3.24m,追越車線である第2車両通行帯の幅員は約3.25mである。また,道路の西側には幅約4.1mの歩道が,東側には幅約3.5mの歩道がそれぞれ設置されており,路外施設への進入部分を除いて車道と歩道とは防護柵によって隔てられ,道路沿いには店舗,商業ビル等の路外施設が建ち並んでいる。後述のI店やF店は,道路の西側に位置している(甲2)。
本件現場付近の通常時の交通量は非常に多く,最高速度は50km毎時と指定されており,駐車禁止,転回禁止等の交通規制が敷かれている。
2 被告人及び関係車両について
被告人は,26歳の時に大型免許を取得し,それ以来本件当時まで約12年間大型トラックの運転手を職業としており,本件現場付近を含む国道1号もよく利用していた。
被告人車両は,車長11.99m,車幅2.49m,車高3.30m,最大積載量14.5t,車両総重量24.98tの大型貨物自動車であり,本件当時は約12tの荷物を積んでいた。
H車両は,車長8.24m,車幅2.24m,車高3.46m,最大積載量3.95t,車両総重量7.96tの箱型の中型貨物自動車である。
3 本件の状況について
(1) 被告人は,平成25年2月26日午後3時39分頃,国道1号の第2車両通行帯を北から南に向かい,H車両に追従して進行していたが,後述の被告人車両が最初に衝突した地点の約161.7m手前の地点で第1車両通行帯への進路変更を開始し,H車両の左後方の第1車両通行帯を時速約68kmで進行した(なお,H車両の速度については争いがある。)。
J店に設置された防犯カメラは,前記のとおり被告人車両が第1車両通行帯へ進路変更した地点付近を捕捉するものである(以下,同防犯カメラの画像を「J店画像」,同防犯カメラが捕捉する地点を「J店前地点」という。)。
(2) 被告人は,第1車両通行帯への進路変更後間もなく,別紙1の④地点(④地点は,後述の被告人車両が最初に衝突した地点の約79.4m手前の地点。以下,別紙1記載の各地点を示すときは,単に「④地点」などという。また,別紙1の丸数字の各地点は,いずれも被告人車両の運転席の位置を示す。)で,アクセルから足を離し,エンジンブレーキによる減速を開始した。
K店に設置された防犯カメラは,前記のとおり被告人車両が減速を開始した地点付近を捕捉するものである(以下,同防犯カメラを「K店防犯カメラ」,その画像を「K店画像」,同防犯カメラが捕捉する地点を「K店前地点」という。)。
(3) H車両は,対向車線の西側に位置するI店へ右折進入するため中央線上に車体の一部を乗せて停止しようとするA運転の普通乗用自動車(以下「A車両」という。)を左方から追い越すため,交差点内において,左転把した上,その車体の一部を第1車両通行帯へ進入させた(その際のH車両による進路変更の合図の有無及び進入時のH車両の速度については争いがある。)。
被告人は,⑤地点付近に至るころまでには,時速約65kmで進行していたが,H車両が車体の一部を第1車両通行帯へ進入させたのを,運転席から右前方約7.6mにH車両左後部(Ⓑ地点)が位置する距離(被告人車両右前部とH車両左後部との距離は約6.2m〔甲23〕)に認めたため,⑤地点で右転把し,第2車両通行帯へ進路を変更した。その直後,被告人は,⑦地点(⑤地点から約43m進行した地点)において,運転席から前方約9.9m(⊗1地点)にA車両を認めたものの,同車との衝突を回避できず,⊗1地点において,時速約58kmで同車左後部に自車右前部を衝突させた。
L店に設置された防犯カメラは,被告人車両が前記のとおりA車両に衝突した地点付近を捕捉するものである(以下,同防犯カメラの画像を「L店画像」,同防犯カメラが捕捉する地点を「L店前地点」という。)。
(4) 前記(3)の衝突により,A車両は対向車線へ押し出され,その前部を対向車線の第2車両通行帯を対向して進行してきたB運転車両前部に衝突させた(⊗2地点)。また,被告人車両自身も対向車線に進出し,その前部を対向車線の第2車両通行帯を対向して進行してきたC運転車両右側面に衝突させ(⊗3地点),同車を同車左後方の第1車両通行帯を進行してきたD運転車両に衝突させた(⊗4地点)。さらに,被告人車両は,その前部を対向車線の第1車両通行帯を対向して進行してきたE5地点),同車を右側前方の路外施設であるF店敷地内まで押し出し,同車を同敷地内に駐車中の試乗用用車両に衝突させた(⊗7地点)。被告人車両は,最終的に⑫地点付近で停止した。
以上の各衝突により,前記E(当時34歳)は,胸部打撲の傷害を負った上,同年3月7日午後0時36分,同傷害に基づく大動脈破裂により死亡し,前記A(当時38歳)は加療約8日間を要する頭部打撲等の,前記B(当時45歳)は加療約1か月間を要する右肘脱臼骨折等の,前記C(当時24歳)は加療約3週間を要する左下腿打撲傷等の各傷害をそれぞれ負った(以上の被告人車両がA車両に衝突したことに起因する一連の多重衝突並びにこれによる死亡及び傷害の発生をまとめて「本件事故」という。)。
第2事実認定の上で問題となる事項について
1 争点
本件の中心的争点は過失の有無であるが,その判断に先立ち,前提となる事実の中で,争いのある点を検討する。
当事者間で争いのある前提事実は,①H車両による進路変更の合図の有無及び②H車両の速度である。
2 H車両による進路変更の合図の有無について
検察官は,H車両が第1車両通行帯に進入する際に,進路変更の合図を出していたと主張する(第4回公判前整理手続期日)。しかしながら,この主張を立証する証拠はないばかりか,被告人は,公判廷において,H車両は,進路変更の合図をせずに第1車両通行帯に進入してきた旨述べており,これを排斥するような証拠も一切ない。したがって,検察官の前記主張は到底採用できない。
3 H車両の速度について
(1) 検察官及び弁護人の主張
検察官は,H車両は,第2車両通行帯を時速約56.2kmで進行し,第1車両通行帯への進入時に減速した事実はない旨主張する。これに対し,弁護人は,H車両は,第2車両通行帯を時速約60kmで進行し,時速約54.2kmまで減速しながら第1車両通行帯へ進入したと主張している。
H車両が第1車両通行帯に進入したときの速度については,時速約56.2km,時速約54.2kmと各主張には大差ない。むしろ,より重要なのは,H車両が減速したか否かである。
(2) 解析書(甲21)等の概要
検察官がその主張の根拠とするのは,京都府警察本部交通捜査課交通事故鑑識官Mの証言,同人作成の解析書(甲21),回答書(甲22)及び資料(甲25)(以下,これらをまとめて「Mの解析結果」という。)であるから,まず,Mの解析結果の要点を見た上で,その信用性を検討する。
Mの解析結果の概要は次のようなものである。
ア K店画像(1秒ごとに3カット記録されている。)において,被告人車両及びH車両がそれぞれ画面上の等距離を進むのに4カット及び5カットを要していることから,各車両の速度はその反比となる。
そして,被告人車両に登載されたデジタルタコグラフの記録データ(以下「デジタルタコグラフデータ」という。)によれば,K店前地点付近での被告人車両の速度は,時速約68kmと考えられるから,前記のとおりの反比の関係に従い,K店前地点付近でのH車両の速度は,時速約54.3kmと推定される。
(計算式)
18.88 m/s(68 km/h)× 4/5 = 15.10 m/s(54.3 km/h)
イ また,K店画像,L店画像及び被告人立会いの実況見分調書(甲2)を基礎資料とすると,K店画像の特定のカット(カット18)からL店画像の特定のカット(カット10)までの間の被告人車両及びH車両の進行距離は図測によりそれぞれ約53.9m,約46.1mとなる。
そして,デジタルタコグラフデータから被告人車両が前記約53.9mの距離を進行するのに要した時間は約2.95秒と算出され,H車両も同時間で約46.1mを進行したこととなるから,H車両のその区間の平均速度は時速約56.2kmとなる。
(計算式)
46.1 m ÷ 2.95 s = 15.62 m/s (56.2 km/h)
その上で,H車両と被告人車両との車間距離が短くなっていく状況からH車両において急な加減速はないものと考えられるため,H車両は,L店前地点付近に至るまで時速約56.2kmで進行を継続したと推定される。
ウ さらに,K店画像等によって被告人車両が減速を開始した時点における被告人車両とH車両との車間距離が約9.86mと推定されること,前記アのとおりこの時点でのH車両の速度が時速約54.3kmと推定されること,デジタルタコグラフデータによれば,被告人車両の同時点以降の減速度が0.06gであることが分かる。
以上の事情を前提として,H車両が0.06g(ごく緩やかな被告人車両と同程度の減速度),0.15g(緩やかな減速度),0.25g(急制動に至らない通常程度の減速度)の各減速度で減速したと仮定した場合に,被告人車両及びH車両の移動距離及び車間距離がどのようになるか計算すると,いずれの場合についても車間距離がマイナス,すなわち,両車が衝突してしまうという結果になり,その後の状況を客観的に明らかにするL店画像と矛盾する。
エ 以上によれば,H車両が第1車両通行帯への進入時に減速した可能性は極めて低い。
(3) Mの解析結果の信用性について
以下の理由から,前記(2)のH車両の速度解析は,直ちに信用することはできない。
ア まず,前記(2)アの点については,弁護人が主張するとおり,K店前地点付近においては,被告人車両は第2車両通行帯からの車線変更を完了して第1車両通行帯を進行中であり,他方で,H車両は第2車両通行帯を進行中であったのであるから,国道1号の東側に位置するK店に設置されたK店防犯カメラから,第1車両通行帯までの距離と第2車両通行帯までの距離が異なることを考慮すれば,画面上は等距離を進行したように見えても,実際には第2車両通行帯を進行するH車両の方が図測上数メートル長い距離を進行していることになる(別紙2)。
しかし,解析書(甲21)においては,この距離の差が考慮されておらず,この点についての弁護人からの指摘に,Mは,説得的な説明をしていない。そして,他にこれを考慮しないことに合理性があることを示すような証拠は見当たらない。
イ 次に,前記(2)イの計算によって求められるH車両の速度は,あくまでK店前地点付近からL店前地点付近までの区間の平均速度にすぎないから,特定の地点におけるH車両の速度を明らかにするものではない。
そして,H車両が同区間において急減速をしていないと考える理由は,防犯カメラの画像上H車両と被告人車両との車間距離が短くなっていく状況から判断したというものにすぎず,根拠としては脆弱であることを否めない。
ウ 以上の点を踏まえると,前記(2)ア及びイの計算過程には合理的な疑いが残るといわざるを得ず,さらに,前記(2)ウの挙動解析についても,解析の前提となるH車両の初速度につき,前記(2)アのH車両の速度(時速約54.3km〔秒速約15.10m〕)を前提としているのであるから,結局,H車両が第1車両通行帯へ進入したときに減速した可能性は極めて低いとする結論についても,直ちに信用することはできない。
(4) 弁護人作成の解析結果報告書(弁1)の概要及び検討
ア 弁護人は,車両速度及び車間距離に関する解析結果報告書(弁1)において,以下のとおりH車両の速度を解析している。
(ア) 被告人車両は,K店前地点付近では,時速約68kmで進行しているので,K店画像(1秒ごとに3カット記録されている。)上の4カットで進行した距離は約25.185mとなる。
(計算式)
18.889 m/s (68km/h) × 4/3 s = 25.185 m
そして,K店防犯カメラから第1車両通行帯までの距離が約30m,第2車両通行帯までの距離が約33.24mであるから(別紙2上での図測。甲2),この距離の差を考慮すると,被告人車両が進行する第1車両通行帯における約25.185mとH車両が進行する第2車両通行帯における約27.905mがK店画像上では等距離となる(別紙2)。
(計算式)
25.185 m × 33.24 m / 30m = 27.905 m
そうすると,H車両は約27.905mをK店画像の5カットで進行していることになり,その速度は時速約60.27kmとなる。
(計算式)
27.905 m ÷ 5/3 s = 16.743 m/s (60.27 km/h)
(イ) また,被告人車両が減速を開始した時点におけるH車両の速度が時速約60.27kmであり,その時点における両車両の車間距離が約10mであることとデジタルタコグラフデータによる被告人車両の速度変化を前提として,H車両の速度変化の状況を複数仮定して検討すると,H車両が,時速約60.27kmから約1.5秒間で時速約54.2kmまで減速し,その後,その速度を維持したという場合が,被告人立会いの実況見分調書(甲2)にも,L店画像にも矛盾しない。
(ウ) したがって,H車両は,時速約60.27kmから約1.5秒間で時速約54.2kmまで減速し,その後,その速度を維持したという可能性が高い。
イ 弁護人は,前記(3)アに記載の解析書(甲21)の不都合な点についても検討を加えた上で解析しており,その手法や解析結果に不合理な点はない。
検察官は,弁護人作成の解析結果報告書(弁1)は,被告人に有利なK店画像のみを抜き出して速度解析を行っており,他の証拠との整合性を無視しているので信用できないという。しかし,解析結果報告書(弁1)が,K店画像のみならず,被告人立会いの実況見分調書(甲2)及びL店画像をも参照して,H車両の速度解析を行っていることは前記のとおりである。
Mは,J店画像とK店画像とを比較するとその間のH車両の速度は時速約50km強となり(ただし,この点はM作成の解析書〔甲21〕に明示されていない。),前記のとおりK店前地点付近からL店前地点付近までの平均速度は時速約56.2kmであるから,弁護人が主張するようにK店前地点付近のみが時速約60kmとなるのは不自然であると証言する。確かに,解析結果報告書(弁1)においては,J店前地点付近からK店前地点付近までの速度に関しては触れられていないものの,K店前地点付近において時速約60kmであったとしても,それが,Mの計算によるその前後の速度を前提としても不自然,不合理な程に高速であるともいい難い。また,Hは,交差点に入る直前にはハンドルを左に切って,A車両の追越しにかかり始めたことが認められるが,K店前地点付近を通過した後,A車両の追越しにかかったものの,進路前方で停止しようとしているA車両に接近するにつれて,若干速度を緩めた可能性もないとはいえない。そうすると,Mの前記指摘を踏まえても,K店前地点付近で時速約60kmであったという弁護人の速度解析を直ちに排斥することはできないというべきである。
(5) 小括
以上のとおりであるから,H車両の速度に関して,Mの解析結果に基づく検察官の主張を採用することはできず,他方で,弁護人の解析結果報告書における速度解析を排斥するに足る証拠はないというべきである。そうすると,H車両が,K店前地点付近を時速約60kmで進行し,第1車両通行帯へ進入した際には時速約54.2kmまで減速した可能性を否定することはできないのであって,以下においては,被告人に有利なこの速度を前提に検討する。
第3過失(注意義務違反)についての検討
1 はじめに
以上の事実関係を前提として,検察官の主張する最高速度遵守義務違反(【当事者の主張】第1の3①,③),車間距離保持義務違反(同②),第1車両通行帯上での衝突回避義務違反(同④)の有無を,それぞれ検討する。なお,本件事故において生じた結果との関係で直近の過失の問題となるのが第1車両通行帯上での衝突回避義務違反の有無であり,この点が他の義務違反の検討に当たっても問題となり得るので,まずはこの義務違反を先行して検討する。
2 第1車両通行帯上での衝突回避義務違反について
(1) 予見可能性
前記第1の2記載のとおり,被告人は,本件現場付近の国道1号を走行した経験があり,道路沿いに商業施設等が建ち並んでいることの認識やI店に右折進入するために第2車両通行帯に停止している車両を見たこともあったのであるから,車幅2.24m,車高3.46mの中型貨物自動車であるH車両が被告人車両の右前方約6.2mの距離に進入してきた時点で,H車両によって第2車両通行帯の視界が遮られていたとはいえ,その第2車両通行帯上に,路外施設に右折進入するため停止している車両が存在する可能性を予測することができたというべきである。
そうすると,被告人は,H車両が第1車両通行帯に進入してきた時点で,第2車両通行帯に進路変更した場合,第2車両通行帯上で停止中の車両に衝突するなどの事故が生じる可能性があること,また,その事故によって人の死傷結果を生ずる可能性があることを予見し得たと認めるのが相当である。
(2) 結果回避義務
ア 検察官は,前記(1)の予見可能性を前提として,被告人は第1車両通行帯上で的確な制動措置を講ずることによりH車両との衝突を回避すべきであり,自車の進路を安易に第2車両通行帯に変更することは厳に差し控えるべきであったと主張するところ,被告人がH車両との衝突を回避するために第1車両通行帯上で制動措置を講ずることができたはずであるといえなければ,被告人にこれを行うべき注意義務を課すことはできない。
したがって,この点を検討する。
イ まず,H車両は,当初第2車両通行帯を進行していたが,交差点内において,その車両左後部と被告人車両の右前部との距離が約6.2mしかない状況において,進路変更の合図なく,第1車両通行帯に進路を変更したのであり,H車両がそのとき減速していた可能性を否定できないこともすでに認定・説示したとおりである。
これらの点につき,道路交通法30条3号によれば,車両は,交差点内及びこれらの手前の側端から前に30m以内の部分においては,他の車両を追い越すため,進路を変更し,又は前車の側方を通過してはならないとされている(なお,H車両が進路を変更した交差点が同法30条3号括弧書にいう「優先道路にある交差点」であると認めるに足りる証拠はない。)。また,同法26条の2第2項によれば,車両は,進路を変更した場合にその変更した後の進路と同一の進路を後方から進行してくる車両等の速度又は方向を急に変更させることとなるおそれがあるときは,進路を変更してはならないとされていると同時に,同法28条4項によれば,追越しをしようとする車両は,後方からの交通にも十分に注意し,できる限り安全な速度と方法で進行しなければならないとされている。さらに,同法(平成25年法律第43号による改正前のもの)53条1項,2項,同法施行令(平成26年政令第63号による改正前のもの)21条によれば,車両の運転者は,同一方向に進行しながら進路を左方に変える場合には,その行為をしようとする時の3秒前から方向指示器等による合図を行い,その行為が終わるまでその合図を継続しなければならないとされている。
そうすると,H車両の前記のような態様での進路の変更は,道路交通法上複数の規定によって禁止されているものであったということになる。
しかも,これらの交差点内での進路変更禁止,進路変更時の安全確認や方向指示器による合図の実施等の義務は,いずれも自動車運転者にとって極めて基本的な義務であって,自動車交通はこのような基本的な義務に違反する車両が通常存在しないという信頼のもとに成立しているから,Hの前記進路変更は,一般的な自動車運転者が,ほとんど予期し得ない行為であったといわざるを得ない。
また,H車両が第1車両通行帯へ進入した際には,被告人車両とH車両との距離は約6.2mしかなく,被告人車両が,前記認定のとおりの大型貨物自動車であり,運転席の高さからして前方には一定の死角があることや,H車両は被告人車両よりも車高が高く,箱型でもあったことから,直近で見たときはそれなりの圧迫感もあったといえることをも考慮すれば,被告人にとっては,突然極めて至近距離にH車両が進入してきたと認識されたものと考えられる。
さらに,H車両が進路変更をしてきた時点では,H車両のその後の挙動は外形的に明らかではないから,同車の進路変更を認めた被告人には,H車両がその後いかなる進路をとり,いかなる速度で進行するかを瞬時に予測することはほとんど不可能であったと認められる。
ウ ここで,Mは,一般に自動車運転者が,前方に他の車両が進路変更してきた場合に恐怖を感じるときとは,自車と進路変更をしてきた車両との間に速度差があるときであるところ,本件はそのような場合に当たらない旨の証言をする。
しかしながら,他の車両が自車前方の至近距離に進入してきた本件のような場合にそのようなことがあてはまるのか疑問であるし,検察官の主張する事実関係を前提としても,H車両が進路変更した際に,被告人車両は時速約65kmで,H車両は時速約54.2kmでそれぞれ進行していたのであって,速度差があるといえるのであり,Mの供述には理由がない。
エ 以上からすると,被告人は,自車の右前方の至近距離にほとんど予期し得ない態様でH車両が急に被告人車両よりも低速度で進入してきて,その後の同車の進路や速度を予測することもできない状況に置かれていたのである。そのような状況に置かれた場合,たとえ客観的な計算上は,右転把せずとも制動措置を講ずるなどしてH車両との衝突を避けることが可能であったとしても,H車両と衝突してしまうと驚愕,狼狽し,瞬間的に衝突回避のためにハンドルを右に切るという行動に出ることは通常の自動車運転者であっても十分にあり得る,ごく自然な判断・行動というべきであって,このような状況に置かれた被告人が,第1車両通行帯上にとどまって的確な制動措置を講ずることは不可能又は著しく困難であると認められる。
オ これに対し,検察官は,被告人の第2車両通行帯への進路変更の方法が緩やかであること,容易に講じ得るはずの制動措置の痕跡が残っていないことなどを指摘し,一般に狼狽した運転者がとる行動と比較して不自然であって,被告人が狼狽していたとは考えられず,むしろ,Mが公判廷で述べるように,H車両を追い越すために第2車両通行帯に進入した可能性が高いと推測でき,第1車両通行帯上で制動措置を講ずることは容易だったといえるなどと主張する。しかしながら,被告人は,自車の右前方約6.2mという至近距離に,車幅2.24m,車高3.46mの箱型の中型貨物自動車であるH車両が,法律で進路変更が禁止されている交差点内において,進路変更の合図なく突然,自車の進路に進入してきたもので,しかも,そのとき,H車両が時速約54.2kmまで減速しながら,車間距離を縮めつつ進入してきた可能性も否定できないという状況に置かれていたのであるから,既に述べたとおり,これは,通常の運転者であれば狼狽する状況と認められる。そして,検察官が指摘する被告人の進路変更の方法が緩やかであることや制動措置の痕跡が残っていないことについては,被告人が公判廷において,急ハンドルを切ると横転したりする危険もあるので,限度がある急ハンドルだった,そのような急ハンドルの切り方は,職業運転手としての経験から来る感覚によるものであった,また,急ブレーキはすぐ荷物事故につながるのでまず手が動いた,ブレーキでは間に合わないと判断したなどと述べているところ,不自然,不合理な点はなく,その供述によって説明できているといえる。
また,検察官は,被告人は,H車両との衝突を回避する際には,急制動措置を講じなかったが,A車両との衝突を回避しようとした際には,急制動措置を講じたと述べており,一見すると自己矛盾する行動をした旨供述しているとも主張する。しかしながら,被告人が「ぶつかるかもしれないというのと絶対ぶつかるの違い」と述べるとおり,これはH車両との衝突の危険を感じた時点においては,急制動措置を講じても衝突は回避できず,右転把して第2車両通行帯へ進路を変更すれば衝突を回避できると瞬間的に判断して行動し,他方で,A車両との衝突の危険を感じた時点においては,急制動措置を講じても衝突は回避できず,その他にも採り得る衝突回避手段はないと認識し,衝突による衝撃をできる限り緩和するため,急制動措置を講ずることを試みたものと考えられ,この点についても合理的に説明できるというべきであり,検察官が主張するような矛盾はない。
カ 以上のとおりであるから,被告人は,H車両が第1車両通行帯に進入してきたのを認めた時点において,H車両との衝突を回避するために第1車両通行帯上で急制動措置を講ずることは不可能又は著しく困難であったということができる。
(3) 小括
よって,被告人は,H車両が第1車両通行帯へ進入したのを認めた時点において,同車との衝突を回避するために,第1車両通行帯上で的確な制動措置を講ずるべきであったという注意義務は認められず,被告人にこの点に関する過失は認められない。
3 最高速度遵守義務違反について
(1) 注意義務の存否及び注意義務違反行為
国道1号の本件現場付近の最高速度が50km毎時と指定されていることは,すでに認定したとおりである。
道路交通法上の義務が直ちに自動車運転過失致死傷罪における注意義務となるものではないが,道路交通法上の義務は類型的に交通事故の危険性の高い行為を規制するものと考えられること,本件現場付近における最高速度が50km毎時と定められていることを不合理とする事情は一切認められないことからすれば,本件現場付近における道路交通法上の最高速度遵守義務は本件自動車運転過失致死傷罪における注意義務にもなると解すべきであり,被告人は,同注意義務に違反して,本件事故直前には時速約65kmで進行していたものと認められる。
(2) 因果関係
被告人において最高速度遵守義務の違反が存在するとしても、本件事故が同義務違反に内在する危険が現実化したものとは認められないというのであれば,被告人による同義務違反行為と本件事故との因果関係を認めることはできないというべきである。
ところで,被告人車両が第1車両通行帯を進行していたところ,右前方の第2車両通行帯を進行するH車両が,交差点内において,進路変更の合図なく突然第1車両通行帯へ進路を変更し,被告人車両の右前方約6.2mにまで接近してきたために,被告人車両は,H車両との衝突を回避するために,やむなく右転把して第2車両通行帯へ進路を変更し,そのことによって,A車両との衝突に起因する本件事故が発生したものである。
まず,前記2で述べたとおり,H車両が第1車両通行帯に進路を変更してきた際に,被告人が,第1車両通行帯上で制動措置を講ずることで同車との衝突を回避するという手段を採る余地はなく,右転把せざるを得なかったと認められ,また,前記の被告人車両とH車両との位置関係やH車両の速度等に照らせば,仮に被告人がH車両の速度よりも遅い時速50kmで進行していたとしても,同様に右転把して第2車両通行帯に進路変更せざるを得なかったとみるべきであるから,被告人が第2車両通行帯に進路を変更したのは,やはりH車両の進路変更によって余儀なくされたものであると認められる。そうであるから,結局のところ,H車両による進路変更が,本件事故の直接的かつ主要な原因であると認められる。
そして,前記2で述べたとおり,H車両の前記のような進路変更は,一般の自動車交通において当然に存在するような事態ではなく,被告人が最高速度を超過する速度で進行していたこととは全く無関係に生じた事象であって,被告人の最高速度遵守義務違反行為によって誘発されたものでもない。
以上の事情を考慮すれば,被告人車両が最高速度を超過して進行していた行為は一定の危険性を有するものの,本件事故との関係においては,H車両による異常な態様の進路変更が直接的かつ主要な原因であるというべきであって,本件事故は,被告人車両が最高速度を遵守せず進行したことに内在する危険が現実化したものであると認めることはできない。
したがって,被告人による最高速度遵守義務違反行為については,本件事故との因果関係を認めることはできない。
4 車間距離保持義務違反について
(1) 検察官は,本件現場が被告人からみて進路前方右側に飲食店等が建ち並んでおり,右側路外施設へ右折進行するため第2車両通行帯上に停止している車両の存在が予測できたことを前提に,被告人には,H車両の前方の見通しが確保できるまでは,同車が第1車両通行帯へ進路変更するなど不測の事態が生じた場合でも,第2車両通行帯へ進路変更して避けずとも対応できるよう同車から離れて進路の安全を確認しながら進行すべき注意義務があると主張する。そして,検察官は,「警視庁管内自動車交通の指示事項」(執務資料道路交通法解説26条)に依拠して,この注意義務は,具体的には被告人車両右前部からH車両左後部までの距離で少なくとも20m離れるべきことを意味すると主張する。
(2) しかし,道路交通法上,同一の進路(後行車両と先行車両の進路とがその一部又は全部が重なり合っているものをいうと解されている。)を進行する車両間において一定の距離を保持すべき義務は規定されている(26条)ものの,同一の進路を進行しない車両間において一定の距離を保持しなければならないという規定は存在せず,後行車両にそのような義務は課されていない。
これは,一般的に,先行車両が進路を変更する場合には変更した後の進路を進行する後行車両との事故の危険が生じると考えられるものの,このような場合においては,先行車両に安全確認や進路変更合図の義務を負わせることによって危険の回避は図られており,後行車両に対し,先行車両が急な進路変更をすることまで想定して一定の距離を保持するまでの義務を課す必要はないと考えられているからである。
したがって,前記「同一の進路」に当たらないH車両と被告人車両の場合,被告人に道路交通法上の車間距離保持義務は認められない。
(3) 検察官は,道路交通法26条の車間距離の趣旨は,前方の車両が急停止するなど不測の行為に及んだ場合に,後行車両に危険を及ぼすことなく適切な対応を行うに十分な距離を想定しているとして,被告人車両とH車両のように進路が異なる場合にもその趣旨からすれば,車間距離保持義務は認められるという。
しかしながら,前記のとおり,先行車両が進路変更をする場合には,道路交通法上の種々の義務が課されており,それによって,進路変更に伴う危険の回避が図られているのであって,後行車両は,先行車両がそのような義務を果たすものと信頼して進行するのが通常である上,異なる車線上を進行する先行車両との間で,常に一定の距離を保持しておくというのは,かなり困難な運転を強いるものである。
そうであるとすれば,先行車両と異なる進路にある後行車両においては,少なくとも,先行車両が自車の進路に進入してくることがほぼ確実に予測されるような特段の事情でもない限り,先行車両との間で車間距離を保持すべき義務は課されないというべきである。
そうすると,本件においては,H車両が,前記2(2)イで述べたような異常な態様で進路変更をしてきたのであるから,前記の特段の事情は認められず,被告人に,H車両との距離を保持して進行すべき注意義務があったとは認められない。
第4結論
以上のとおりであるから,主位的訴因は,最高速度遵守義務の違反については本件事故との因果関係が認められず,車間距離保持義務の違反については注意義務自体が認められないこととなり,予備的訴因は,最高速度遵守義務の違反については本件事故との因果関係が認められず,第1車両通行帯上での衝突回避義務の違反については注意義務自体が認められないこととなる。
したがって,本件においては,主位的訴因,予備的訴因のいずれについても犯罪の証明がないこととなるから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(裁判長裁判官 市川太志 裁判官 宮端謙一 裁判官 渡邊毅裕)
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