大判例

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京都地方裁判所 平成4年(わ)1036号 判決 2000年5月18日

主文

被告人Aを懲役四年六月に、同B、同C、同D及び同Eを各懲役二年六月に、それぞれ処する。

未決勾留日数中、被告人Aに対しては七〇〇日を、同B、同C、同D及び同Eに対しては各二〇〇日を、それぞれその刑に算入する。

訴訟費用は、被告人五名の連帯負担とする。

理由

(認定した犯罪事実)

被告人Aは宗教法人法友之会の二代目教祖であり、同B、同C、同D及び同Eは同会の会員であるが、被告人五名は、F、Gほか同会の会員数名と共謀の上、同会の会員H子が同会の行事等に出席しなくなったのは、同女の兄であるI'ことIの責任であるなどとして、同人を詰問したり、暴行を加えたして心情を告白させ、ざんげをさせようなどと企て、平成二年七月二九日午後三時ころ、京都府宮津市字由良小字岩穴六〇六番地の二所在の「稲荷神社」境内において、右I(当時四八歳)に対し、口々に「何か言え。」などと申し向けながら、右Iの頬部を手で殴打し、次いで、同日午後四時ころ、被告人Aからの「海へ行こう。」との指示の下、右Iを取り囲むようにして、同市字由良小字磯山三九〇八番地一ないし三所在の「脇公園」北東側の丹後由良海水浴場に同人を連れ出し、同海水浴場の通称「汐汲岩」の先端部(西側)から北西方向に約三〇メートル、防波壁から北東方向に約五、六十メートル付近の水深二メートル以上の背が立たない海上まで至ったが、その途中で、右Iの身体を海中に放り投げるか、足払いを掛けるなどして同人を海中に転倒させ、さらに、背が立たない地点に至った後は、口々に、「本心、何でもええからしゃべれ。」などと申し向けながら、こもごも、立ち泳ぎをしていた同人の両肩や頭を手で押さえ込んだり、同人の腹部付近を背後から抱き抱えて海中に投げたり、同人の身体をつかんで海中に引き込んだりするなどの暴行を加えて、同人を海中で溺れさせ、よって、同日午後四時四〇分ころ、右海水浴場において、同人を溺水に基づく窒息により死亡させた。

(証拠)《省略》

(事実認定の補足説明)

第一章争点及び基本的な事実

第一弁護人らの主張

本件公訴事実の要旨は、平成二年七月二九日(以下「本件当日」といい、同日時点のことを「本件当時」という。)、宗教法人法友之会(以下「教団」という。)の教祖である被告人A、同会の会員(以下、単に「会員」という。)の被告人B、同C、同D及び同E(以下「被告人五名」という。)が、J、F及びGら会員数名と共謀の上、京都府宮津市字由良小字岩穴六〇六番地の二所在の稲荷神社(以下「稲荷神社」という。)の境内及び同市字由良小字磯山三九〇八番地一ないし三所在の「脇公園」(以下「脇公園」という。)北側に位置する丹後由良海水浴場(以下「本件海水浴場」という。)の海上で、Iに対し暴行を加えたため、同人は溺水により死亡したというものであるところ、弁護人らは、(一)本件当日、Iが本件海水浴場の沖合で、死亡する事態が発生した時、被告人五名は、同海水浴場でIと共に遊泳中であり、被告人B、同C及び同Dが、遊びやふざけの趣旨等で、水を掛け合ったり、沈め合ったりしたことはあるが、稲荷神社の境内でも、海上でも、被告人五名がIに暴行を加えたことはない、(二)仮に被告人五名らが暴行を加えたことがあるとしても、Iは溺死でなく、心臓麻痺で死亡したものであるから、右暴行とIの死亡との間の因果関係は認められないなどと主張し、被告人五名も公判廷で弁護人らの主張に沿って、Iに暴行を加えた事実はないなどと供述しているので、以下、検討する。

第二証拠によって認められる基本的な事実

関係各証拠によれば、次の各事実が認められ、これらについては被告人五名及び弁護人らも特に争っていない。

一 教団と被告人五名の関係等

教団は、それまで宗教法人霊法会(本部は神戸市。以下「霊法会」という。)に身を置き、昭和四六年に同会を脱退したK子が、自ら初代教祖となって組織した宗教団体であり、昭和五〇年一〇月には、京都府福知山市を本拠として宗教法人の設立登記がなされている。

被告人Aは、K子と行動を共にして霊法会を脱退し、教団に入って平成元年九月には、K子の後を引き継いで教団の二代目教祖となった。被告人Aは、会員からは、「現神」「不動」などと呼ばれており、本件当時もその地位にあったが、本件公判中の平成六年三月末に教祖をやめた旨供述している。

被告人B、同C、同D及び同Eは、いずれも本件当時は会員であったが、被告人Eは、公判廷で、平成三年九月に脱会した旨供述している。

二 教団の活動等

教団の活動は、会員が集まって教祖の説法を聞いたり、会員が打ち明ける悩み事等に対する神仏の声(ご指導)を聞いたりする「法座」と呼ばれる会合が中心で、定期的に福知山の本部で開かれていたが、京都市内の支部等でも支部の会長が主催して法座が開かれていた。また、教団は、平成三年春ころからは、「ふれあい会」と呼ばれる全国的な布教活動を始めている。

平成元年一二月ころ、教団の事業部として、被告人Aが考案したセパレート式の着物を製造・販売する「着物つつみ」(以下「つつみ」という。)が京都市内に発足し、Fがその責任者となり、会員らは、無料奉仕で右事業に協力していた。

教団の関連会社としては、昭和四七年ころ設立された印刷業等を営むA野株式会社があり、同社はその後、土木事業等にも進出している。

三 Iらと教団の関係等

Iは、霊友会に入会している時に、同会に入会していたL子(旧姓はL'。以下「L子」という。)と知り合い、昭和四六年一月に結婚したが、K子に引かれて、L子と共に霊法会から教団に移った。

I及びL子(以下「I夫婦」という。)は、昭和五二年六月に一人息子のMをもうけたが、Mも両親の影響で会員となった。

I夫婦及びMは、本件当時、いずれも会員であり、京都市内に居住していたが、日ごろから法座等には熱心に参加していた。

Iは、霊法会の時代から「I'」と名乗っており、会員からも「I'さん」とか「I"さん」などと呼ばれていた。

Iは、昭和四七年ころ、幻聴により、自ら灯油をかぶった上、火を付けて火傷を負い、手指に障害が残ったほか、顔面や胸部もケロイドで、皮膚の移植手術を受け、昭和五一年六月には、「火傷による両上肢機能障害」で身体障害者一種二級の認定を受けたが、日常生活に支障はなかった。

四 本件当日に行われていた教団関係者による海水浴の概要等

教団の有志は、夏の恒例のレクレーション行事として、平成二年七月二八日及び翌二九日(本件当日)の土日の二日間にわたり、本件海水浴場において海水浴(以下「本件海水浴」という。)を行い、会員やその家族らが参加した。

右参加者の中には、泊まりがけで二日間とも参加する者と、日帰りで一日だけ参加する者とがいたが、被告人五名は、泊まりがけ又は日帰りで、本件当日、いずれも本件海水浴に参加しており、I夫婦及びMは、本件当日のみの日帰りで参加していた。

本件当日の他の参加者には、J、F及びGのほか、被告人Cの妻N子、被告人Bの妻O子、P及び妻Q子、Gの弟R、S、T、U及び妻V子、W子、Fの妻X子、Yらがいたが、I夫婦、F夫婦、P夫婦、被告人B夫婦らのように京都市内の教団支部の関係者も参加しており、被告人Aは、公判廷で、二日間で約六〇人の者が参加した旨供述している。

五 本件海水浴場及びその周辺の状況等

本件海水浴場及びその付近の概況は、別紙「現場見取図」(ただし、同見取図は、平成四年七月当時の概況を表したものである。)のとおりであり、同海水浴場の中心部付近には通称「汐汲岩」(以下「汐汲岩」という。)という岩礁がある。

汐汲岩のほぼ西側の砂浜と国道一七八号線との間には、同国道沿いに脇公園があり、同公園と右砂浜とは防波壁で区切られている。また、脇公園のほぼ東隣には、グンゼ健康保険組合の施設「由良晴海園」がある。

国道一七八号線を挟んだ脇公園の反対側には、稲荷神社があるが、本件海水浴に参加した会員らの手で、平成二年七月二八日から、その境内の広場の右国道側には、食事や雑談をするため、運動会に使用するような大きいテント一張が設置され、また、同神社の参道を挟んだ裏手には、宿泊用の小さいテントが数張設置された。

六 Iが死亡する前後の状況等

Iは、本件当日、本件海水浴場の沖合で急に姿が見えなくなり、その後、浜辺に引き上げられたが、その際、同人は、白いパンツ一枚のみを着用しており、通常の海水浴姿ではなかった。

Iは、同日午後四時四〇分ころ、駆け付けた救急車に乗り合わせていた医師Zにより、意識がなく、触診では脈拍が認められず、呼吸も停止し、瞳孔も散大していることが確認された。

右Z医師は、現場でIに心臓マッサージをした後、救急車に搬入し、心肺蘇生術を施しながら京都府宮津市字鶴賀二〇五九番地の一所在の太田病院に搬送したが、同日午後五時一二分、同病院の医師A1により、最終的なIの死亡確認がなされた。

右のような経過でIは死亡したにもかかわらず、翌日の京都新聞朝刊のIの死亡を報ずる記事は、Iが町内の友人ら二十数人と家族ぐるみの海水浴に来ていた旨の教団に触れない内容で掲載された。

七 本件に関する捜査の状況等

Iの死亡は、当初は、事故死として警察で処理されたところ、教団を脱会したJが、平成四年一月一五日、Iの実妹であるH子に電話をかけて、「自分たちがIを殺したから、警察に届けるように。」などと告げ、H子が、その翌日に知人の警察官に相談したことが契機となって、本件の捜査が開始された。

そして、同年九月二〇日に被告人A、同B、同C及び同Dが、Iに対する殺人罪で通常逮捕され、勾留を経て同年一〇月一一日に本件公訴事実で起訴され、また、同年九月二六日に被告人Eが同罪で通常逮捕され、勾留を経て、同年一〇月一六日に本件公訴事実で起訴された。

J、F及びGも、被告人五名との共犯として逮捕・勾留され、傷害致死罪で起訴されたが、右三人に対しては、要旨、「被告人Aの指揮命令の下、被告人五名らほか教団の会員数名と共謀の上、本件当日の午後三時ころ、まず、稲荷神社境内において、口々に、『何か言え。』などと言いながら、手でIの顔面を殴打し、次いで、『海へ行こうか。』という被告人Aの指示の下に、Iを本件海水浴場の海上に連れ出したが、その途中において、足払いを掛けてIを転倒させたり、その身体を抱き抱えて海中に投げるなどし、さらに、汐汲岩の西北端付近から西方へ約三〇メートル、同海水浴場防波壁から北方へ約六〇メートル付近の水深二メートルを超える背の立たない地点に至るや、同所において、Iを取り囲んだ上、立ち泳ぎしていた同人に対し、『何か言え。』『言わんかい。』などと言いながら、こもごも、その両肩や頭を両手で押さえ、体重を掛けて同人を頭部まで海中に押し込み、その腹部付近を背後から抱き抱えて海中に投げるようにして沈め、海中に潜ってその身体を海中に引き込むなどの暴行を多数回にわたり繰り返して、Iを海中に溺れさせ、よって、同日午後五時一二分ころ、太田病院において、同人を溺水により死亡させた。」との事実が認定され、傷害致死罪で、Jが懲役二年、四年間執行猶予、F及びGが各懲役二年六月、四年間執行猶予の有罪判決を受け、同判決はそのまま確定している(J及びGに対する判決宣告日及び同確定日は、それぞれ平成六年一月二八日及び同年二月一五日、Fに対する判決宣告日及び同確定日は、同年三月二九日及び同年四月一三日である。)。

第二章争点に関する検討

第一判断の基本的手法

一 以下では、弁護人らの主張に沿って、稲荷神社の境内及び本件海水浴場の海上におけるIに対する暴行の有無、Iの死因等を検討するが、Iが死亡する事態が発生した前後の状況等については、被告人五名を含む多くの者の供述(公判調書中の供述部分、捜査段階の供述調書を含む。以下同じ。)が存在するところ、その内容は、被告人五名がその他の会員らと共に海上でIに暴行を加えていたとするものと、そのような事実は全くないとするものとに大別され、鋭く対立している。

二 しかし、被告人五名を含め、右供述をする者は、教団の現役の会員又は元会員であり、現実に刑事責任を問われている被告人五名はもとより、その他の供述者も、教団の教祖であった者が被告人となっているなどの本件事案の性質上、自己の置かれたそれぞれの立場から、虚偽の供述をする可能性が、一般的には否定できない。

三 これに対し、教団との利害関係等を一切持たずに、本件海水浴場に居合わせて、Iが死亡した状況を偶然目撃した一般の海水浴客であるB1、C1及びD1子(以下、それぞれ「B1」、「C1」及び「D1子」といい、この三人を「B1ら」という。)の供述は、その立場の中立性、客観性から、特に重視すべきものと解されるので、以下では、まずB1らの供述内容及びその信用性を検討し、その後、被告人五名を含むその他の者の供述内容及びその信用性を順次検討することにする。

四 なお、弁第一六五号証添付の現況平面図(同図は、本件海水浴場付近の地形等を正確に測定したものと解される。)に表示されている方角等に照らすと、以下で検討する関係者の供述や、実況見分調書の中で、方角につき、例えば、「北」又は「北方」と述べたり、立会人が指示説明をしたり、図面に表示したりしているものの中には、正確には、「北東」又は「北東方向」というべきものが認められ、その余の方角に関する供述や指示説明等についても、同様に、正確な方角より時計回りに約四五度ずれていると解されるものがかなり見受けられるが、この点は、本件の争点に関する判断に特に影響を及ぼさないので、以下では、支障がない限り、便宜、もとの証拠や供述に従って方角を表記することにする。

第二B1らの供述内容及びその信用性

一 B1らの供述内容

1 B1の供述

B1は、本件当日の目撃状況等につき、要旨、次のとおり供述している。

自分は、長女とその夫のC1らと一緒に、本件当日の午後一時ころ、本件海水浴場に来て、砂浜にシートを敷いて休憩場所とした。

同日午後三時ころ、水深が自分の首が海面に出るくらいのところと腰くらいのところとの間で、孫を遊ばせていた時、「ワー、ワー」という声がしたので、その方を見ると、右前方二、三十メートル距離のところで男性一〇人以上が輪になって騒いでいた。その声は、遊び半分にじゃれて出すようなものではなく、力強いものであり、自分がいたところより、少なくとも約一〇メートルは沖合だったので、背の届かない場所だったことはほぼ間違いない。太陽もやや傾き、ぼつぼつ客が帰りかけていた時に、大の大人が輪になって奇声を発していたので、薄気味悪い連中だと思った。そのグループの年齢は、ほとんどが四十代に見えたが、輪の中に女性がいたかは気付かなかったし、輪の中心に攻撃されている男性がいたかどうかも気付かなかった。

自分は、立ち止まってそのグループを注目するのは悪いと思い、また、孫の相手をしていたので、その合間にちらちらと右グループの方を見ていた。

孫の相手を始めて一〇分か二〇分後、騒いでいる集団が自分の方に近付いて来るように思ったので、このような得体の知れない連中と関わり合いになってもいけないと思い、すぐに孫を連れて砂浜のシートに戻った。

しばらくすると、急に静かになったので、グループがいた方を見たところ、沖の方に人影はなく、浜の近くで男性が引きずり上げられようとしているところであった。

自分らがそこへ見に行くと、四十代で肥満体の男性が砂浜に寝かされており、これを約二〇人が取り囲んでいた。中年の男性は、白いパンツを履き、全身が蒼白になり、腹が丸く膨れ上がっていた。

これを取り囲んでいる人垣のほとんどは、先程まで騒いでいた仲間のはずなのに、駆け寄って「大丈夫か。」と声をかける者もなく、人工呼吸もせず、何か覚めたような感じで眺めているように見え、何故応急手当をしないのかとハラハラした。

自分は、見かねて、保母をしている自分の連れに、「人工呼吸ができるなら教えてやれ。」と言ったが、同女はできないということであった。それから間なしに、仲間と思われる男性が、腹部を押したりして人工呼吸を始めた。その最中、だれかが念じているような声も聞いたが、姿は見えなかった。

救急車が来て、溺れた人を運んでいった後、自分らも帰り、翌日の京都新聞の記事で、自分らの見た人が死亡したことを知ったが、大の男が異様な騒ぎ方をしていたこと、全員が常に輪のようになっていたのに、仲間が溺れるのに気付かなかったこと、溺れた人が海水パンツでなく、白のブリーフを履いていたことなどが不自然で、この時の死に方はどうもおかしいと頭の中に引っかかっていた。

以上のような内容の供述である。

2 C1の供述

C1は、本件当日の目撃状況等につき、要旨、次のとおり供述している。

自分は、家族や義父のB1らと一緒に、本件当日の午後一時ころ、本件海水浴場に来たが、この日は日曜日で天気がよく、大変な人出であった。

国道沿いに歩いて西に向かい、汐汲岩の西の砂浜にシートを広げた。普通の人は、汐汲岩の東側のテトラポットで囲まれた方の海水浴場に行くが、汐汲岩の西側の方が海も浜も空いていることを知っていたので、西側に行ったところ、泳いでいるグループは、一、二組しか見当たらなかった。

シートを敷き、全員で泳いだりした後、午後四時前後ころに、自分らは買い物やトイレのために、グンゼ健康保険組合の「由良晴海園」の東隣にある海の家に行こうと歩き出したところで、大声で「ウォー、ウォー」という声が沖の方から聞こえてきたので、何だろうと思って沖を見ると、波打ち際から垂直に一五メートルから二〇メートルくらい離れた辺りで、一塊になっている男たちが見えた。

男たちは、直径約二メートルの円を描くように立っており、体がほとんど触れ合いそうになるくらい隙間なく立っていたので、一〇人前後がそこにいたと思うが、内側は男たちの背に遮られてよく見えなかったので、中心に人がいたかどうかは、はっきり分からなかった。

男たちは、ずっと「ウォー、ウォー」という声を上げていたが、その声は、楽しくてふざけ合っているような声ではなく、喧嘩しているようでもなかったので、「いい年をしたおじさんが、大勢集まって何をしているんだ。あほらしい。」という感じしか持たなかった。

海の家で買い物をし、もと来た道を一五分か二〇分で戻って来ると、浜に人だかりがしており、白っぽいブリーフか海水パンツ姿の中年男性が倒れていた。

その人は、色が青白くなって血の気が失せており、一目で溺れて死にかかっていると思った。

自分は、とりあえずシートの所に戻って、買った物を置いてから、また人だかりのところに戻ると、溺れた人は口元にカニの泡のような白い泡を吹いていた。この泡は、ゴルフボールを二回りほど大きくしたくらいの泡で、口元の左側にべっとりと唇を取り巻いて付いていた。

周りにいた男たちは、口々に「しっかりしろ。」などと言っており、もう一人の男が溺れた人の腹を押していた。周りにいた女の人三、四人くらいが、泣きながら手足をさすっていた。それから約一五分して救急車が来た。

自分が買い物に行く途中で、沖合で一塊になって大声で叫んでいる人たちを見て、その後、人だかりの現場に戻って来るまでの間は、一五分か二〇分くらいであったと思う。

溺れた男性が死亡したことは、翌日の新聞で知った。

以上のような内容の供述である。

3 D1子の供述

D1子は、本件当日の目撃状況につき、要旨、次のとおり供述している。

自分は、夫とC1夫婦、B1ら合計八人で、本件当日の午後一時ころ、本件海水浴場に着き、脇公園を通り抜けて砂浜に下りた。本件海水浴場は、グンゼ健康保険組合の「由良晴海園」の東隣にある「海の家」から東側がメーンとなっており、大半の人がそちらに行くので、自分らは、人が少ない西側へ行き、シートを敷いて落ち着き場所とし、一休みしてから海水浴を楽しんでいた。

そのうち、腹が空いたので、C1夫婦ら三人がブラブラと歩きながら東側にある前記海の家付近にある屋台に行った。その後間もなくと思うが、ふと北東方向を見たところ、海の中に一〇人以上が輪のようになって「ワー、ワー」と騒いでいるのに気付いた。二十代に見える男性も一、二人いたが、三、四十代の男性がほとんどであり、その声は、話し声ではなく、叫ぶような声であった。

汐汲岩の内側か外側かは、はっきり分からないが、グループの人の胸から首付近が波で見え隠れしており、足が海底に届いていたようにも見えたし、立ち泳ぎをしていたかもしれない。そのグループが、浜からその場所に出ていく間のことは、気付かなかった。

太陽がやや西に傾きかけて、肌寒ささえ感じるころで、ぼつぼつ客が帰りかけていた時に、一〇人以上のグループが騒ぎ出したので、いい年をしておかしなことをする人たちだと思った。

中年男性一人の周りを一〇人以上が取り囲むようにして、もっぱら中心の男性一人に攻撃を加えていたが、その方法で今でも強烈に印象に残っているのは、グループの何人かが、その男性を持ち上げて海中に投げ込んでいたことである。「ワー、ワー」という叫び声の中で、グループの男性数人が、一人の男性を抱き上げて横に寝かせたような姿勢にして、海にバシャンと投げ落としていた。その回数は、一〇回まではなかったが、五回前後ではなかったかと思う。

自分は、投げ込む以外の攻撃は見ていないが、それは男性が取り囲まれていたからであり、投げ込むのだけは、数人が近寄った後に対象となった人が、それを取り囲んだ人の頭よりも高くなって放り投げられた時に初めて分かった。

自分は、経験から、頭から落ちると水を飲み込むため、何回もやると溺れる危険性があることを知っており、自分たちが遊びでそのようなことをする時は、投げ込むと、すぐに数人で相手の手や腰を引き上げるなどして助けるが、本件の時は、助ける人はいなかったように思った。それで、危ないことを何回もしつこくやっていると思った。

男性が助けを求める声には気付かなかったが、大の大人が寄ってたかってこのようなことを続けており、とてもじゃれ合っているとは見えず、異様だと思っていた。

自分は、そのグループの方だけをじっと見るのは悪いような気がしたので、自分の連れと時々雑談をしたりしながら、時々ちらちらとグループの方を見ていた。

騒ぎに気付いてから、三〇分前後が経過したころと思うが、突然静かになったので、グループがいた方を見たところ、その何人かが浜の方に向かっており、その前方の波打ち際付近には、男性一人が浜に引きずり上げられているところだった。

自分らが、野次馬根性でそばに行くと、砂浜には、溺れた中年男性が仰向けに寝かされ、それを取り囲むように大勢の人がのぞき込んでいた。その中年男性は、四十代半ばでよく太っており、全身が真っ白で、両手両足をピンと伸ばして硬直していた。白いパンツを履いており、海水パンツではなかった。溺れた人の仲間と思われる人も人垣の中にいたが、すぐに人工呼吸をするでもなく、じっと眺めている時間がかなりあったように思った。

しばらくして、中年男性が、溺れた人の胸を押したり、マウス・ツー・マウスによる人工呼吸を始めたが、最初に胸を押さえた時に、ゴボッと口から水を出し、続いて泡がブクブクと出ていたので、自分は、溺れ死んだ人はこんな状態になるのかと思った。

溺れた人が浜に引き上げられてから、一〇分か一五分くらいして救急車が来たが、救急車が出て行くと、集まっていた人はクモの子を散らしたようにいなくなった。

自分は、あれほど大勢のグループが一団となっていたのに、なぜ仲間が溺れたことに気付かなかったのかと不思議に思ったが、同時に、仲間が全員で攻撃しており、相手の異常を感じれば、すぐに助けるに違いないと思ったから、溺れ死んだ人は、仲間から海に投げ込まれていた人ではなく、取り囲んでいたうちの一人が、酒でも飲んで溺れたのかと思った。

溺れた人が死んだことは、翌日の京都新聞の記事で知った。

以上のような内容の供述である。

二 B1らの供述の信用性

B1らは、いずれも被告人五名やIらとの間、あるいは教団との間に何ら人的関係を持たず、本件当日、本件海水浴場に来て、偶然Iが死亡した現場の状況を目撃したものであって、殊更に虚偽の事実を述べてまで被告人五名を罪に陥れる動機を有していない。

そして、B1らは、平成四年九月下旬から同年一〇月上旬にかけて警察や検察庁で右供述をしているが、同人らは、分からないことや記憶がないことはその旨断るなどしており、嘘を述べている状況は認められない。

また、その内容も、本件当時から右供述時まで二年余りが経過していることなどによるものと思われるが、一部につき曖昧な点はあるものの、自然で迫真性にも富んでおり、かつ、同人らの供述は、部分的な不一致は見られるが、大筋において相互に符合しており、信用性が高いものと解される。

これに対し、弁護人らは、B1らの中で、D1子だけが人を投げ飛ばす状況を目撃しているのは不自然であるなどと主張するが、B1は孫を遊ばせる合間に、C1は買い物等に行く途中に、それぞれ見たものであるのに対し、D1子は、海上の集団の様子等を最もよく観察できる状況にあったと解されるから、D1子だけが攻撃の状況を記憶していたとしても不自然とはいえず、弁護人らの指摘する点は、B1らの供述の信用性に疑いを差し挟ませるものではない。

三 B1らの供述から推認される事実

B1らが、二年以上前の本件当日、本件海水浴場で偶然目撃した場面を、相当詳細かつ具体的に述べていることなどからすれば、B1らが見た出来事は、極めて印象的なものであったと考えられる。

そして、B1らの供述によれば、本件当日、本件海水浴場は、汐汲岩のほぼ東側(舞鶴寄り)は相当混雑していたが、死亡したIがいた汐汲岩のほぼ西側(宮津寄り)は、人が比較的少ない場所であったこと、汐汲岩のほぼ西側の海上で、一人の男性が取り囲まれた上、数人に抱き上げられ横に寝かせたような姿勢にされて、海にバシャンと投げ落とされる暴行を受けていたこと、海上で一人の男性を取り囲む状況は、一五分から三〇分間程度続いたこと、Iが浜辺に引き上げられた後、しばらくの間、Iを囲んでいた会員らは、Iをじっと見ているだけで、人工呼吸等の救命措置に着手しなかったこと、Iは、人工呼吸等をされた時、口元にカニの泡のような白い泡を吹いており、その大きさは、ゴルフボールを二回りほど大きくした程度で、口元の左側にべっとりと唇を取り巻いて付いていたことなどが推認できる。

第三L子及びMの供述内容並びにその信用性

一 L子の供述内容

証人L子は、教団で日ごろ行われていた法座の実態や、本件当日の状況等について、公判廷で、要旨、次のとおり供述している。

1 法座の実態

法座は、当初、初代教祖のK子が主催して皆が一所に集まり、同教祖の話を聞いた後に、小グループに分かれて悩み事や相談事を神仏に聞いて「ご指導」をもらうというものであった。

昭和五六年ころ、法座の中心が被告人Aに代わると、会員を仰向けに寝かせ手で首の所を押さえ、一瞬意識を失わせる「呼吸の情」や、被告人Aが、ロウソクのロウを上半身裸の会員の全身に垂らして因縁等を追い払う「炎の情」も行われた。嫌がる会員もおり、「炎の情」を受ける会員は、熱くて暴れたりしていたが、皆で押さえ付けていた。被告人Aのすることは絶対的で、他の会員が止めることはできなかった。

また、会員同士が叩き合ったり、服を脱がせることもあったほか、黙っている会員に対し、被告人Aが「どう思っているのか。本心を言いなさいよ。」と尋ね、その会員の反応次第では、本心を出させるためには、訳が分からない状態になるまで、あるいは体を使ってくたくたになるまで、周りの会員が、その一人の会員とつかみ合いをしたり、同人を平手で殴ったりしたが、それを終わらせるのは、被告人Aの判断であった。

自分は、「呼吸の情」を一〇回以上受け、「炎の情」も一回受けているし、プロレスの技の「四の字固め」をされたことも数回あり、Iが死亡した後にもあったと思う。

被告人Aは、「現神」と呼ばれており、自分は、被告人Aは霊界のことが全て見えるのだと思っていた。

2 本件当日の状況等

自分は、本件当日、I及びMと共に、Iの運転する車で本件海水浴場に来た。

Iは、前日の晩から水泳パンツやシュノーケル等を準備して楽しみにしていたところ、本件当日は、これらを車に積むのを忘れてしまい、途中で忘れたことに気付いたが、「もう仕方ない。」と言ってあきらめ、自分らは、そのまま向かって、同日午前一一時前ころと思うが、本件海水浴場に着いて、稲荷神社のテント内で軽食を食べたり、海に入ったりした。

午後三時ころ、休憩のため海から上がり、テントのところに行って座っていると、Tか被告人Bが、「H子さんはどうやった。」と話しかけてきた。

Iの実妹のH子は会員で、「つつみ」で着物の仕立ての手伝い等をしていたが、対人関係がうまく行かなくなったことから、平成二年七月一四日及び一五日の着物の展示会以降、教団の行事等に来なくなっていた。

自分は、同月二二日の法座の際、被告人AからH子のことについて聞かれたことがあり、その際、「H子の家に行って様子を聞いてくる。」と返事をしたことから、その結果を聞かれていると思ったが、H子に会ったところ、「教団関係にはもう出ない。」との返事を受けていたので、「あかんかった。」と答えた。

すると、周りにいた誰かが、Iに、「I"さんはどうや。」と聞いたので、Iが「あかんかったんやわ。」などと答えた。

被告人Aが、「L子はどう思う。」と聞いてきたので、自分が「私も主人と同じです。」と答えると、被告人Aは、「この夫婦はおかしいで。」「このまんまではみんなの波から外れている。」などと言い、また、「思いを出せ。」「本心を出せ。」「思っていることを言え。」などとも言った。

自分は、H子は教団に入って日が浅いから、皆と溶け込んでうまくやっていくのはまだ難しいという意味で、「幼稚園生に方程式を解くようなことを言っても分からん。」と被告人Aらに言うと、V子が、「偉そうなことを言って腹立つ。」と言って怒り、Tは、「まだ浅いから、難しいこととか言っても分からんいうことやろなあ。」と言った。

被告人Aは、「もうH子さんのことはいいから、自分の本心を出せ。」と言い、O子が、「喧嘩でも何でもいいから、もうむちゃくちゃ出したらええんや。」と言った。

自分は何が何だか分からなくなってあまり言えないでいると、被告人Cが、「出せ、出せ。」と言って自分の太股を平手で一〇回以上叩いてきた。また、被告人Dと思うが、「出せ。」と言いながら自分の背中を平手で四、五回叩いてきた。

他の者は、周りに集まってきてそれを見ていたが、被告人Aは、「このまましてたら、内臓が破裂するぞ。」などと言った。

最初自分の横にいたIは、被告人Dら何人かと右手の方で取っ組み合いのようなことをしていたが、本心が出ていないとして、自分と同じことをされていたと思う。

自分は、被告人Cと思われる者から後ろを押されて、その者ともう一人の男に抱えられて寝かされ、畳のような薄いござの上に横たえられて、足と頭が出る状態で巻かれ、被告人Aから、「このまま海へ放り込むぞ。」と言われた。

自分は、「やめて。助けて。」などと言い、Iも「L子にするな。」とか言って止めようとしていたが、被告人Dと思われる者らに阻まれていた。

周りには、被告人Aのほか、京都の会員の被告人Bと妻O子、X子、Q子、W子らがいた。

自分は、一、二分間ござで巻かれていたが、被告人Aが、皆に向かって「海へ行こう。」と言うと、誰かがござを外してくれた。

自分は、五、六人に周りを囲まれて浜辺へぞろぞろと歩いていったが、Iも同じように囲まれていた。

自分は、被告人BやTらに囲まれるようにして一緒に海の中へ入ったが、沈められると思い、「いやや。」と言ったものの、右Tに押されるようにして、だんだん深いところに行った。海に入ったのは、午後三時ころ海から上がってから約一時間後であると思う。

自分は逃げたかったが、大勢の人がおり、逃げられないと思うと同時に、これも修行だという気持ちもあって逃げなかった。

沖に行くと、背が届かないところで、自分は、突然、Tから、「本心を出せ。」「何か言え。」と言われて頭を押さえて沈められ、沈められると手が放された。

自分は、被告人Aにバックドロップのようにして後ろから後方に放り投げられたほか、誰かに足を一、二回引っ張られたり、頭を押さえて一〇回以上沈められたが、このうち被告人Bに二、三回、Tに合計三、四回、それぞれ頭を押さえて沈められたのを覚えている。

自分は、「助けて。」「やめて。」などと言ったが、被告人Aらは、「本心を出せ。」、「何か言え。」などと言っていた。

海上で暴行を加えられた時間は、約一〇分間と思うが、沈められたり、浮き上がったりの連続であった。

自分は、被告人Aから、「もう何するんやと力一杯出したらいいんや。」と言われたので、精一杯「何するんや。」と叫ぶと、被告人Aが「もういい。」と言って自分に対する攻撃が止んだ。その場所は、波打ち際から約一〇〇メートルのところではないかと思う。

Iも、自分から三、四メートル(ただし、L子は、この間の距離を「約三〇メートル」とも「約一〇メートル」とも供述する。)離れたところでやられていた。

自分は、無人のビーチマットが浮いていたので、それにつかまって休んだが、Iは、周りにいるたくさんの人に、両手で頭を押さえられたりして、約二〇回は沈められていたと思う。そこは、背が立たない場所であった。足を引っ張ったり、バックドロップをかけたこともあったと思うが、よく覚えていない。

Iの周りには、約二〇人いたのではないかと思うが、被告人A、同B、同C、同D、同E及びJが沈めているのを見たのは覚えている。Iは、「助けくれ。」「やめてくれ。」と叫んでいた。Rが沈められているのも見た。

自分は、Iに対し、「お父さん。出せ、出せ、思い切り出せ。」と言ったが、他の人に対し、Iへの暴行をやめるようには言わなかった。

Iに対する沈め行為の途中で、突然、被告人Bと思うが、「おかしい。」と叫んで、Iを引き上げ、砂浜の方に連れていった。その際、一五人はIの周りを取り囲んでいたと思う。

自分は、何か異変が起きたと思って後から追いかけた。

自分が、最後にIの姿を見たのは、被告人Bが「おかしい。」と言い出す四、五分前に、Iが「助けてくれ。」などと叫んでいた時であり、その後も、「本心を出せ。」などと言いながらと思うが、Iに対する沈め行為は続いていた。沈め行為が終わってから、Iがしばらく元気に泳いでいたということはない。

Iは、陸では半袖Tシャツに長いトレーニングパンツを着ていたが、引き上げられて浜辺に横たえられた際は、上半身裸で、下もパンツ一枚の姿であった。

Iは、身動きをせず、目は閉じていた。被告人Bが、救急車が来るまで、Iに口移しの人工呼吸をしており、心臓マッサージもしていたと思う。

Iの口や鼻の穴からは、少量の泡のような粒のようなものが少し出ていたように思う。

被告人Aら周りの者は、見ていたり、息を吹き返すように祈願して、念力を送るように「句呪」を入れたりしていた。

救急車が来たので、皆でIを救急車に乗せ、自分も同乗したが、車内では医師が注射を打ったり心臓マッサージをしていたと思う。

太田病院に着いたIは、処置室へ入れられ、自分は外で待っていたところ、医師から死亡を告げられたが、死因は溺死と言われたと思う。

同病院内であったか、救急車に乗る前であったかはっきりしないが、被告人Bから、「L子さんは何も知らなかったことにして。」と言われた。自分は、教団でこういうことをやっている時にこういう状態になることが世間に知れたらまずいという意味で被告人Bが言ったものと思ったが、自分も、Iの死亡は、突発的な異変が生じたことによる事故だと思っており、世間に教団のことがそういうふうになるのはよくないと思ったので、「はい、分かりました。」と答えた。

後から同病院に来た被告人Aからも、その玄関を出た所で呼ばれて「おれに恥をかかせるなよ。」と言われたが、自分は、やはり教団のことが表沙汰になってはいけないと思い、「はい、分かりました。」と答えた。被告人Aは、その時、「Mが福知山の本部にいるから電話をしてやれ。」と言ったので、そこの公衆電話から電話をかけて、Iが亡くなったことだけをMに伝えた。

その後、自分は、他の者から事情を聞かれた時にも、警察で事情を聞かれた時にも、「私は近くにいなかったから知らない。」と答えており、Mから、「お母さん、本当はどうやったんや。法座みたいにやっとんやろ。どうやったんや。」と聞かれた時も、「心臓麻痺なんやろう。」と答え、Iの両親から聞かれた時にも、「私は知らん。」と言った。

Iが死亡した約一〇日後に、Iに掛けてあった生命保険の請求手続の件で依頼に行った時、被告人Bから、「今までに、長いことプールなんかに沈んでいる人でも、人工呼吸をしたら息を吹き返したけれども、あれだけ長いことしても吹き返さなかったのは、心臓麻痺か何かだろう。」と言われた。

自分は、Iの「助けてくれ。」「やめてくれ。」という言葉を聞いたが、いつも限界寸前で終わるから、死に至ることはないと思っていたので、急にIに異変が起きたと思った。

Iの通夜に、被告人Aは、他の会員の前で、「自分の空神力で、Iをすばらしいところへ送り届けた。」と言い、自分は、火傷で不自由な体であったIが、死んで元の自由な五体満足な体に戻って、自由に霊界の旅というか修行をしていると聞かされたので、死ぬことは悲しいことであるが、それならよかったなと思った。

自分は、その後も、教団の活動に参加していたが、それは因縁因果が怖かったし、そういう宗教から離れるということは考えられなかったからである。この間、平成二年九月から三回に分けて、Iの死亡により出た生命保険金等から三〇〇万円を教団に寄付したり、三〇〇万円を教団側に貸し付けたりしたこともあった。

平成四年九月二〇日に本件に関して警察に呼ばれたが、その際、警察が、自分の知らないことまで知っていたので、もう知らぬ存ぜぬでは通じないと思い、真実を話そうと思って警察や検察庁で話した。

それ以来教団には全く行っていないが、それは、因縁因果が怖くて教団に頼っていたことを卑怯だと思い、自分の足で歩いて行きたいと思ったからである。

以上のような内容の供述である。

二 Mの供述内容

Mは、教団で日ごろ行われていた法座の実態や、本件当日の状況等について、捜査段階で、要旨、次のとおり供述している。

1 法座の実態

自分は、会員であったI夫婦に連れられて、いつの間にか会員になったが、自分が法座に出始めたころから、「現神」とか「不動」と会員から呼ばれていた被告人Aは、法座で集まった会員らに説法をしたり、修行ということで、裸になった会員にロウソクのロウを垂らしたり、会員の首を絞めて失神させたりすることがほとんどいつもあった。

自分も、一度、被告人Aから、上半身裸で背中や胸、腕、首筋など顔以外の上半身全体にわたって火の付いたロウソクのロウを垂らされた。垂れたロウが熱くてたまらなかったが、他の会員は、大人子供の区別なく順番に同じようにロウを垂らされて我慢していたので、自分も修行だと思って我慢した。

被告人Aが法座で説法をしている時に、何かのきっかけで一人の会員に質問をしてその会員の反応が鈍いと、被告人Aは「おかしい。」と言って責め始め、その人がいろいろ返事をしても責められ続けて、へとへとにさせられ、口だけでは済まずに、周りの会員から責め立てられて、叩かれたり、蹴られたり、プロレスの「四の字固め」のような技をかけられたりした。被告人Aの話では、対象となった人をへとへとにさせることで、最後は皆が穏やかな気持ちになるということであったが、このような暴力は、被告人Aが皆にやめるように言うまで続いた。特にひどい暴力を受けた者で覚えているのはE1子である。

2 本件当日及びその後の状況等

本件当日は、Iの車で、IやL子と一緒に、本件海水浴場に行き、稲荷神社のテントのところに着くと、その中には、被告人Aら三〇人くらいがいた。

自分は、砂浜へ出て遊んだりした後、テントに戻ってテーブルでIの横に座り、何か食べていたところ、向かいに座っていたTが、Iに対して、H子のことにつき、「妹さんはどうなっているんや。何でやめたんや。」という意味のことを言い始めた。

すると、その場にいた他の人も、「兄ちゃんがしっかりしとらんからや。」という意味のことを言い始め、四人くらいの会員がIを取り囲んで話を始めた。

右状況を見た自分は、その当時、叔母のH子があまり教団に出ないことがうわさに上がっていたので、もしかしたら、これから皆がIを責め立てる法座が始まるのではないかという気になったが、口だけでも周りの人に父が責め立てられるのを見るのは嫌だったので、すぐにその場を離れて一人で砂浜の方に出かけていった。多分その場にL子もいたと思うが、はっきりとは覚えていない。被告人Aは、最初にIを取り囲んだ四人くらいの中にはいなかったが、周りを見回した訳ではないので、被告人Aが近くにいたかどうかは分からない。

その後、自分は、砂浜に下りて、汐汲岩から更に右手側のテトラポットが並べて積まれているところに泳いで渡り、同所で一人で沖の方を眺めたりしてぼんやりと過ごしていた。

しばらくすると、自分の左手側が何か騒がしく見えたので、見ると、いつの間にか何人もの会員が集まって海の中に出ているのが見えた。

その集団の中にはL子がいたが、L子は周りを何人かと会員に囲まれており、周りにいた会員は、ほとんどが成人の男性会員であった。その中で名前がはっきり分かるのは被告人Bである。

その集団の中には、サーフボードのようなものやビーチボールのようなものにしがみついている人が何人かおり、ビーチマットに乗っている人もいた。

L子は、その中で手をバタバタさせて溺れているような感じであったが、相当な騒ぎとなっており、かけ声のようなものや、L子の「助けて。」という悲鳴が聞こえてきた。そこは、汐汲岩の先端から約三〇メートルで、水深は背が立たない約二メートルのところであったと思う。

自分は、単に遊んでやっているのではないと思い、何か異様な雰囲気を感じたが、法座の際に、夫婦や親子間で一緒に喧嘩しろと言われて、両方ても責め立てられるという場面を見ており、自分が近くにいると分かると一緒に参加させられ、両親を責め立てなければならなくなると思ったので、すぐにテトラポットの陰に隠れて、自分がいることを会員に気付かれないようにした。

Iの姿は、はっきり確認できなかった(もっとも、Mの供述調書には、I夫婦が取り囲まれているのを見た旨供述しているものもある。)が、その前にテント内でIが責められていたので、当然Iもそこにいるだろうと思った。

自分は、両親が責め立てられていると思うと早く終わってほしかったが、皆はI夫婦のためにやっていることであり、同夫婦が溺れ死んでしまうという考えは全くなかった。

自分は、隠れてから二、三十分くらいはそのままじっとしていたが、その間、「キャー」などという騒がしい声がずっとしていた。

そのうち、騒がしかった集団が静かになったので、そちらの方をもう一度見てみると、I夫婦の姿は見えなかった。

自分は、法座が終わったと思い、集まっている場所に泳いで行くと、ほとんどの人が砂浜の方に向けて泳ぎ出していたので、皆の後を追って砂浜に向かったが、その途中で、Iのような人が何人かの人に運ばれているのが分かった。

Iは、その後砂浜に白い下着姿で寝かされたが、誰かが人工呼吸や心臓マッサージをしており、その横で被告人Aが「句呪」をしていた。

Iは、仰向けのまま何かの拍子ごとに口からゴボッと水を何回か吐き出したが、意識はなく、小さいうなったような声を上げていたような気もする。

しばらくして救急車が来て、Iは病院に運ばれたが、自分はPの車で福知山の教団に戻っていたところ、母から電話で、Iが死んだことを知らされた。

その後、誰が言い始めたか分からないが、会員の間では、「Iが心臓麻痺で亡くなった。」と何人かの人が話していたので、自分は、Iが遊泳中に心臓麻痺を起こして溺れ死んだのかと思ったが、Iの心臓が悪いということは聞いたことがなかったし、直接見てはいないものの、Iが、L子と一緒に沖合で責められて溺れ死んだのではないかという疑いも持っていた。

しかし、L子はIの死因を聞いても、「溺れ死んだ。」というくらいで、何で溺れたかは説明してくれず、自分自身も何も証拠はなかったので、祖父母にさえも言わずにいるうちに、次第に自分も、Iは心臓麻痺で溺れ死んだのかと思うようになっていた。

以上のような内容の供述である。

三 L子及びMの供述の信用性

弁護人らは、種々主張してL子及びMの右供述の信用性を争うところ、たしかに、L子及びMは、Iの肉親であり、Iが真に被告人らの手で死に至らしめられたものとすれば、被告人らに対して憎悪の念を抱くのはごく自然ではある。

しかし、L子及びMの右供述は、細部に食い違いは見られるものの、まず、本件当日、稲荷神社のテント内で、H子が、教団や「つつみ」に参加しなくなった件に関して、I夫婦が他の会員らから追及を受けていたことや、その後、海上でI夫婦(ただし、前記のとおり、Mは、海上でIの姿を確認していないとも供述する。)が会員らに取り囲まれたこと、L子はその際溺れかけて「助けて。」などと悲鳴を上げたことなど、中核部分が合致しており、かつ、海上で一人の中年男性が取り囲まれて暴行を受けていたなどとするBらの供述内容とも整合するものである。

また、L子及びMの右供述は、法座の実態につき、被告人Aが説法をするとともに、修行として、会員を仰向けに寝かせ手で首の所を押さえて一瞬意識を失わせること(呼吸の情)や、ロウソクのロウを上半身裸の会員の全身に垂らすこと(炎の情)が行われていたこと、説法の際、被告人Aが、会員の一人に質問をし、その反応次第では、本心を出させるために、訳が分からない状態になるまで、あるいは、体を使ってくたくたになるまで、殴られたりしたが、それを終わらせるのは、被告人Aの判断であったことなどの点でも、ほぼ一致している上、L子が、太田病院の玄関を出たところで、自分は被告人Aから口止めをされた旨供述する点については、被告人A自身、捜査段階でこれに沿う状況があった旨述べている(検第一六五号)。

さらに、L子もMも、本件当時、教団の熱心な会員であったもので、本件当日、海上において、自分たちの目の前で会員らがIを取り囲んでおり、その後間もなくして、同人が死亡するという事態が発生したにもかかわらず、その後も教団にとどまり、本件について被告人五名が逮捕された平成四年九月ころまで、教団の活動を続け(検第六八号のMの警察官に対する供述調書は、同人が会員をやめる前に作成されたものである。)、この間、L子は、Iの生命保険金等から三〇〇万円を教団に寄付したり、三〇〇万円を教団側に貸し付けたりさえしていたものである。

そして、Mは、右供述をした当時、中学三年生(一五歳)であって、同人が、各供述調書に録取されているような、具体的で迫真性のある虚偽の供述をしたとは到底考えられない。

また、L子は、Iは心臓麻痺による突発事故で死亡したものであると信じ、父親の死因につき疑問を持ったMから、その旨質されたにもかかわらず、Iは心臓麻痺で溺れ死んだとの説明で押し通していたものであり、Mも、Iが沖合で責められて溺れ死んだのではないかという疑いを持ちつつも、祖父母にさえ自分の見たことを話さずにきたものであり、このような経緯に照らしても、L子及びMには、殊更に虚偽を述べて被告人五名を陥れようとする事情は窺われない。

以上に加え、L子やMの右供述には、時間の経過等に起因すると思われる不明確な部分等もある(例えば、L子は、公判廷で、自分が暴行を受けた地点は波打ち際から約一〇〇メートルのところであった旨供述するが、他の関係者の供述内容や汐汲岩との位置関係等に照らすと、記憶違いと思われる。)が、L子もMも、記憶の明確でない部分はその旨断っているなど、慎重に供述している上、それまで口を閉ざしていたが、真実を語ることにした経緯等に関する同人らの説明も自然で、全体的に信用性が高いと解されるから、その信用性を争う弁護人らの主張は失当である。

なお、弁護人らは、本件当日に現場で撮影したとする写真(弁第四号証の一)にMが写っており、同人の供述はこれと矛盾するなどとも主張するが、右写真に写っている人物の特定に関する弁護人らの請求に係る証人ら及び被告人五名の供述が、全体として信用できないことは、後述のとおりであるから、右主張は採用できない。

第四Rの供述内容及びその信用性

一 Rの供述内容

Rは、Gの実弟で、平成三年一二月末まで会員であり、本件海水浴にも参加した者であるが、教団で日ごろ行われていた法座の実態や、本件当日の状況等について、捜査段階で、要旨、次のとおり供述している。

1 法座の実態

自分と兄のGは、叔母の勧めで会員となった両親と共に会員となったが、自分は、会員になって信心すれば幸せになれるとの両親の言葉を信じていただけで、あまり熱心な会員ではなく、仕事上の悩みや人間関係の悩みがあれば、初代教祖のK子に相談するといった程度であった。

法座は、K子教祖が会員に講話をし、会員全員で一つの議題を討論したり、悩み事を相談したりする場であり、両親からは、恩師は生き仏で、その言うことは絶対的で正しいものと聞かされていた。

教祖が二代目の被告人Aに代わってからは、法座のやり方が変わり、暴力的なものになって、法座の際、一人の会員が、被告人Aから、「おかしい。」と言われると、当の本人も、周りの者にも、何がおかしいのか分からないのに、被告人Aから指摘された以上は、「自分の魂がおかしい。」「考え方がおかしい。」と思い、被告人Aから「おかしい。」と指摘された会員に対して、殴る蹴るの暴行が加えられたが、自分は、それは、その会員のおかしい魂を変えるための一つの手段で、その会員のためを思ってやっていると思っていた。

また、被告人Aの指示により、法座に参加している会員は、「おかしい。」と指摘された会員に対して殴る蹴るの暴行を加えたが、それは、被告人Aが見ている以上、真剣にやらなければ、次の法座で「おかしい。」と指摘されて自分や家族が標的にされるからであり、手を抜くことは考えられなかったし、「おかしい。」と指摘された会員の魂を変えるためには、その人のことを思ってやると信じていた。

被告人Aは、法座で、一人の会員に対し、自分の本心を口に出して話していないと追及し、それを口に出させるために他の会員に暴力を振るわせていた。

暴力沙汰が起こるのは、神仏の声を代弁する役の女性(御代)に伺いを立てている時がほとんどで、会員が御代に伺いを立てて話をするが、御代から本心を尋ねられたその会員が一応答えても、御代が、「まだ本心を語っていない。」と言うと、周りにいる会員が、その会員に対して、「まだ出とらん。本心を言え。」などと責め立て、責め立てられた方はどうしていいか分からなくてパニックになることもあった。そこへ被告人Aが来て、「まだ出とらん。腹を出せ。」と言って責めると、周りの会員はますます勢い付いて追及し、それでも答えられないと、被告人Aは、「腹出さんやったら四の字や。」とか「やらな分からんのやな。」などと言って暴力を振るうように会員に指示し、周りの者が勢い付いて「四の字固め」をかけたり、殴る蹴るの暴力を加えるが、時には被告人Aが、対象となった会員を蹴飛ばして見本を示すこともあり、いずれにせよ被告人Aの指示で会員は暴力を加えていた。

自分も暴力を受けたが、それを我慢することで、「いつかは幸せになれる。」と思って法座に出ていた。

法座では、柔道の絞め技のような、手の指で頸動脈を押さえて気絶させ、その気絶した状態が無の境地の実際の経験であるとする「呼吸の情」や、被告人Aが、直径が何センチメートルもある太いロウソクを何本か束ねて持ち、その溶けたロウを会員の背中や胸、頭、顔、首筋等に落として、体に宿った因縁を焼き清めるという「炎の情」をすることもあった。「炎の情」は熱いので、嫌がる会員もいたが、被告人Aの指示で押さえ付けられて受けさせられていた。火傷をした人もいたが、被告人Aは、因縁が悪いから火傷をするなどと言っていた。また、女性会員を裸にして見せ物にすることもあり、F1子が被告人Aの指示で裸にされた時には、自分は同女の夫のG1が暴れないように足を押さえていた。

2 本件当日及びその後の状況等

本件当日、自分の車にGとN子を乗せて、本件海水浴場に向かい、昼前に稲荷神社に着いた。テントの中にいたAにあいさつし、着替えと食事をした後に海に遊びに行った。

その後、水中めがねを取りに戻ると、テントの中から女たちの大きな笑い声がしていたので、尋ねると、「女の人ばかりで法座をしている。不動さんを交えて法座をしている。」などと言われたので、女性だけの法座なら関係ないと思って、水中めがねを取って汐汲岩の方へ行き、カキやウニ採りをし、その後、休憩するつもりで砂浜に戻ると、Fやその娘らがいたので話を始め、一緒に汐汲岩に上ってしばらく話をするなどしていた。しばらく汐汲岩にいたが、その頂上辺りに座ったまま、ふと西側を見ると、まっすぐ二、三十メートルくらい先のところで、会員がじゃれ合って遊んでおり、ゴムボートの乗った被告人Aと、そのボートにしがみついている数名の者、黒い浮き輪にしがみついている者、泳いで何か「ワー、ワー」と言いながら沈め合いをしている者が見えたので、自分も一緒にその遊びの中に入ろうと思って、海に飛び込み、三、四十メートルくらい先のゴムボートのところまで泳いで行った。

自分がゴムボートにたどり着いたところ、被告人Aが、「Rが来たぞ。」と言った。すると、急に、後ろから自分の両肩を押さえるようにして、誰かから海の中に沈められた。自分が、何とか逃れると、また、右背後から頭を押さえ付けられたが、その瞬間にそちらの方を見ると、被告人Dが自分を沈めようとしているのが分かった。必死でもがいて海面まで顔を出し、息を継いだが、また、後ろから抱き付かれるようにして沈められ、二、三回同じようにされた。

最後に被告人Dに沈められた時には、大分深いところまで押さえ付けられたが、この時は被告人Dの方から押さえ付けるのをやめたので、自分は海面に向かって上昇を始めたところ、海面に出る前のところで、三、四メートルくらい先にIが溺れて沈みかけているのが目に入った。その時の自分の頭は、水面から約一メートル入ったところではなかったかと思うが、正確なところは分からない。

自分は、被告人AがIやその他の者に対しバックドロップをしているのは見ていなかった。

Iが海にいることは、この時初めて気付いたが、Iは、両腕をバンザイしている格好で立った状態になり、全く身動きしなかったので、溺れて海中に漂っているのがすぐ分かった。

自分は、息が苦しかったので取りあえず海面に出て息をついでから、Iを助けようと思って再び潜ったが、その時はIを見付けられず、水中のあちらこちらを探し回ったものの、見付からなかった。

自分が海面に顔を出すと、何人もの人が砂浜の方に向けて泳いで行くのが見えたので、自分も後を追うように浜辺に向かった。

Iは、浜辺に上げられて、被告人Bの人工呼吸を受けたが、脈は既になく、口からは泡混じりの水を吐き、その後は食べたものを吐き出していたので、相当水を飲んでいることが分かった。

Iは、到着した救急車で太田病院に運ばれたが、自分は、被告人AとFを乗せ、同人の車を運転して同病院に向かった。その車内で、被告人Aは、Fに、「H1子の件があるから、自分らが宗教団体の仲間であると警察に知れると、変な目で見られるかもしれないので、法友之会の名前を出さず、町内会の知り合いということにしとこか。」と話していた。H1子の件とは、被告人Aの兄嫁のH1子が、被告人Aから暴行を受けたと警察に訴えたというものであり、詳しいことは知らないが、この件で、自分も、K子から相談を受けたことがあった。

太田病院の中に入ると、L子が目を真っ赤にして泣いており、「お父さん、あかんかった。」と言っているのを聞いて、Iが蘇生しなかったことを知った。

その後、自分が福知山の教団に帰ると、その前の駐車場であったと思うが、被告人Aが皆を集めて、「この件については、町内会で遊びに来ていて死んだ事故やから。」と説明していた。

以上のような内容の供述である。

二 Rの供述の信用性

Rは、教団の脱会者であるが、警察官が事情聴取に来るまで、本件がIに対するリンチであるとは知らなかった旨述べているところ、Rが、被告人五名に怨恨等を抱いている事情は窺われないし、虚偽を述べてまで被告人五名を陥れる理由は何ら有していない。

また、その供述内容は、本件の発生から二年以上経過した時点の供述のため、細部に曖昧な点はあるものの、詳細かつ自然で迫真性に富むとともに、はっきりしない点はその旨断っているし、特に、本件当日の海上での出来事の目撃状況は、B1らの供述する状況とも整合しており、信用性が高いと思われる。

第五Fの供述内容及びその信用性

一 Fの供述内容

Fは、J及びGと共に、本件公訴事実と同一の事実で、別途、傷害致死被告事件の被告人として公訴を提起された者で、Fに対しては前記のとおり有罪判決が確定しているが、証人Fは、教団で日ごろ行われていた法座の実態や、本件当日の状況等について、公判廷で、要旨、次のとおり供述している(なお、右供述当時、Fは公判係属中であった。)。

1 法座の実態

自分は、昭和五四年一月に教団に入会し、その後、妻も娘も入会した。K子が教祖の時代にも、法座で、感情が高ぶり、会員同士が頬をぶったりするようなことは時々あったが、被告人Aに代替わりしてからは、それまで分散していたスタイルが、一堂に会するように改められ、被告人Aが選んだ会員に悩みを打ち明けさせるなどして、被告人Aが終わりと判断するまで法座が続けられた。

特に、福知山の本部の法座では、周りの者が対象者に対して「何か言え。」などと言い、時にはエスカレートして、足で蹴ったり、頬をぶつなどのことがあったほか、被告人Aの指示で、夫婦、親子、兄弟間で言い合いをさせることもあったし、全身、素肌の上にロウソクのロウを垂らす「炎の情」や、のどを締め付けて気を失わせる「呼吸の情」も行われた。また、法座で、I1が鼻柱を折られたり、F1子が裸にされたこともあった。

2 本件当日及びその後の状況等

本件当日、自分は、家族らと共に車で行って昼過ぎに稲荷神社に着き、昼食を取ったが、その後、W子から、「H子ちゃんが来なくなったことを相談しといたらどうや。」と相談された。これは和裁の技能を有しているH子が、一、二か月前から「つつみ」に協力に来なくなり、法座にも出なくなって、自分やI夫婦が出てくるように説得しても応じなかったという件であるが、H子が「つつみ」に出なくなった経緯は、京都の会員は皆知っていた。

自分が被告人Aに相談に行くと、被告人Aは、「I"に聞け。」と言い、Iに対して「I"、どうや。」と語りかけて、暗黙のうちに法座が始まった。

自分の経験では、野外で法座が行われたことはなかったが、当時の状況は法座であったと思う。

被告人Aから、「京都のもん呼べや。」と声がかかったが、既に周りには京都の大人の会員はほとんどいたと思う。

周りの者は、Iに対し、「何か言え。」とか「H子ちゃんは何で来なくなったんや。」とか言っていた。

自分は、Iがパニック状態になっていると思い、頬を叩くことで心を鎮静化させようと、「何でもいいからしゃべれ。」と言ってIの頬を一回叩いたが、それでもしゃべらないので、他の人に交代して後ろに下がった。L子は、法座の対象とはなっていなかったように思う。また、I夫婦に言い合いをさせたかとか、L子が簀巻きにされたかについては記憶がない。

その後、被告人Aが、「もう泳ごか。」と言ってテント内の法座は終わったと思うが、「続きは海でやろう。」という意味のことを言ったかどうかは覚えていない。

自分は、もう法座は終わり、本来のレクレーションに戻ったと思って、テントで海水パンツに着替えてから皆に遅れて浜辺に下りたが、本件当日、自分が海に入ったのは、この時が初めてである。

皆はもう浅瀬に入って散らばっていたが、被告人Aの「本心吐かせえ。」と言う声が聞こえてきたので、自分は法座が続くと思った。

被告人Aは、水深が膝から腰にかけてのところにおり、沖合に向かって歩いていた。

その後、水深が腰くらいのところで、Gが、Iを放り投げたが、足払いをして、Iは海中に倒れたが、その際、被告人Aは、Gに対し「今日は元気やないか。」と言っていた。

被告人EやJらも同じようにIを投げ飛ばしていたが、その格好までは覚えていない。また、被告人DもIを放り投げていた。

浅瀬であったか、深いところであったかは記憶が薄れているが、被告人Aが「こういうふうにするんや。」と言って、Iを抱き抱えて後ろに放り投げたこともあった。

自分は、浜辺の膝下のくるぶしまで水に浸る、Iから六、七メートルくらい離れた場所から見ていたが、このようなことが浅瀬で約一〇分間続いた後、被告人Aの「向こうへ行こか。」という趣旨の言葉で、皆が泳いで沖合の方へ向かった。

自分は、法座の続きが沖合で行われると思い、心の中で、危ないことをするなと思った。O子も「何とかならん。」というふうに言い、自分と同じように危険視していた者がたくさんいると感じていた。

結局、浜辺から約五〇メートル沖合の足の立たないところに出て、被告人Aの「広がろか。」との指示でIを中心に輪ができ、Iに対する沈め行為が始まった。

自分やJ、被告人D、同E、同B、G、Pら、その場にいた全員が、「本心、何でもええからしゃべれ。」などと声をかけながら、入れ替わり立ち替わり、Iを押さえて沈めたり、後ろに投げたり、足を引っ張ったりした。被告人AもIに対する沈め行為をしたと思うが、被告人Cについてはその場にいたか記憶がない。

Iを沈める時、沈んだままにならないよう、誰かが交替でIを後ろで支えていたと思うが、Iは苦しそうで、「助けてくれ。」などと言っており、L子もその様子を見ていた。

自分は、被告人Aが神仏と信じていたから、Iが死ぬようなことはないと思ったが、あまりに激しすぎるので、Iを深く沈めないようにし、また、沈めたらすぐにIを浮き上がらせて呼吸ができる時間を長く取るなどの工夫をしようと被告人BやPと打ち合わせ、そのとおり実践した。

自分は、できる限りIを沈める行為はしたくなかったが、被告人Aから「F、行け。」と言われ、Pからも促されたため、拒めなかった。

その後、被告人Aが「I"、見とけ。」と言い、対象がL子に移った。

被告人Aは、「独身のもんがやったらええやんけ。」などと言い、Gから被告人EかJあたりが遊び半分でやっていたと思うが、L子に対する沈め行為は、Iに見せるためのもので、そう激しいものではなく、被告人Aが「L子はもうよい。」と言って、約五分間で終わった。

それから、また、Iに対する沈め行為が始まり、自分は見るに忍びないので一人で浜の方に上がったが、その途中で、Mが汐汲岩の先端に座って心配そうに見ているのが分かった。

自分は、一旦、テントの所に戻ってから、娘たちのいる汐汲岩の方へ向かった。そこにはRらがいたが、Mはいなかった。汐汲岩の先端まで行って、頂上から見ると、Iに対する沈め行為等は確認できなかったが、「ワー、ワー」と同じように声がしていたので、仲間たちはまだ続きをやっていると思った。

自分は、「そろそろ行こうか。」とRに話すと、同人は、長女の婚約者と一緒に海に飛び込んで、「ワー、ワー」やっているところに泳いでいった。

自分は、飛び込みが怖いので、歩いて浜の方へ行ったが、戻るとパニック状態になっており、被告人Bの「引き上げ。」という声が聞こえてきた。

Iが引き上げられ、浜辺に横たえられて、被告人Bが人工呼吸をしていたが、意識は回復せず、口や鼻から海水を出し、鼻からは泡も出ていた。被告人Aらは「句呪」をしていた。

Iは救急車で病院に運ばれたが、その後を追って病院に向かう車中で、自分はTと今後の対策について話をした。

病院でIが死亡したことを聞き、そこを出た時に、外の駐車場と思うが、被告人A、同B、同C、Jらがいるところで、「若い子もかかわってることだから、L子に頼んで事故というふうにしよう。」との話し合いがなされた。その際自分も「青年たちの将来を考えると、表には出せない。」との意見を述べてその場にいた人々の了解を得た。そして、教団のことも一切表に出さないようにしようとして、「Iの住んでいる町内会で泳ぎに来たが、たまたま溺れて亡くなった。」ということにすることになった。

その後、自分は、教団で、「Iは成仏して、いい霊界に送られた。」と聞かされ、それを信じたため、Iが死んだことに疑問を抱かず、警察に捕まるまで真相を話さなかった。

自分は、それまで教団の活動に疑問を持っていなかったが、Iは、本件海水浴場で法座が行われて死亡したと思ったので、こうしたことが二度と起こってはいけないなどと考え、被告人Aの了解を得て、平成三年春ころ「ふれあい会」を作った。

福知山の本部では、過激な法座が多いと聞いたりしたので、これをやめていこうと思った。被告人Aの説くところは非常にすばらしいと認めてきたが、退会者も多く、あまりに苦しみが常時行われるようでは、広がりは出ないと思ったので、「ふれあい会」の中で、多くの人が集まって来て、喜びが広がっていけば、法座も明るく変化していくのではないかと考えた。「ふれあい会」では、会員に暴力的なことをすることは一切ない。自分は、「ふれあい会」の活動に集中し、同会は順調に広がって法座はほとんどなくなった。しかし、「ふれあい会」の運営について、自分は緩やかに教化した方が広がりが出ると考えていたのに対し、被告人Aは性急に教えを広めようとし、以前と同様の教え中心であって、自分とは考え方が合わず、これでは教団の会の体質が変わらず、また過激な法座に戻ってくるのではないかと感じて、平成四年九月一一日ころに本部に脱会届をファックスで送って教団を脱会した。直接被告人Aに会うと、慰留のために過激な法座が行われたり、いろいろなことが起こるので、ファックスにして、自分は一緒に脱会した家族と共に姿を隠したが、現在でも教団に対しても被告人Aに対しても恨みの気持ちは全くない。

以上のような内容の供述である。

二 Fの供述の信用性

弁護人らは、教団の古参会員であったI1及びJ1の兄弟が、同人らの弟K1と師弟関係にあるJと共に、教団内で頭角を現した被告人Aに対して妬みと憎しみを抱き、同被告人を失脚させ、教団を潰すための策動として本件をでっち上げており、警察もこれに乗っているとした上で、逮捕されたFは、自己保身のためにJらの右策動に乗り、警察に迎合しているから、Fの供述は信用できないなどと主張する。

しかし、殺人罪や傷害致死罪が重罪であることは、法律の知識に疎い一般人でも容易に分かると解されるから、Fが、結果的には執行猶予となったとはいえ、どのような処罰を受けるかの見通しさえ立たない段階で、共犯者として処罰されることを覚悟してまで、でっち上げの供述に加担するというのは通常考え難い(ちなみに、Fは、捜査段階では、被告人五名と同一の弁護人らが選任されており、弁護人らは、被告人五名と同様の方針でFに対する弁護活動を行っていたことが窺われる。弁第一二五号証及び第一二六号証)。

また、Fは、本件で平成四年九月二一日に逮捕される直前まで、教団に在籍していて、本件に関する話を他人にしていないとするところ、同人の供述内容及び供述態度からも、教団及び被告人Aに対する怨恨は窺われず、被告人五名を陥れる事情は認められない。

そして、Fは、自然かつ詳細で迫真性に富む供述をするとともに、テント内でL子が簀巻きにされたかや、海上でのI夫婦に対する暴行に際して、被告人Cがいたかについては記憶がないとするなど、記憶に従って供述していることが窺われ、かつ、本件当日の海上における出来事についての供述は、B1らが供述する内容とほぼ整合するものとなっており、信用性が高いと解される。

なお、弁護人らは、浅瀬でIに対する暴行があったとするFの供述は、本件当日、現場で撮影された写真に写っている状況等とも矛盾し、信用できないなどとも主張するが、右主張に理由がなく、Fの供述の信用性を疑わせる事情にはならないことは、後述のとおりである。

第六G及びJの供述内容並びにその信用性

一 G及びJの供述内容

G及びJは、Fと同様に、本件公訴事実と同一事実で、傷害致死被告事件の被告人として公訴を提起された者であり、G及びJに対しても、前記のとおり有罪判決が確定しているが、証人G及び同Jは、教団で日ごろ行われていた法座の実態や、本件当日の状況等について、公判廷で、要旨、次のとおり供述している(なお、右供述当時、G及びJは、いずれも公判係属中であった。)。

1 Gの供述内容

(一) 法座の実態

自分は、昭和五十二、三年に、以前から会員であった両親の関係で教団に入会し、平成三年三月に脱会するまで会員であった。

自分が教団に入った当時、法座は初代教祖のK子の下で悩み事等を相談する場であったが、次第に暴力的になっていき、教祖が二代目の被告人Aに代わると、表立って暴力が行われるようになって、火の付いたロウソクのロウを全身に垂らす「炎の情」や、頸動脈を片手の親指と人差し指で押さえる「呼吸の情」が行われたこともあったほか、被告人Aからの「お前どう思う。」などとの質問に対し、おかしな答えをした全員を対象にして、被告人A自身や同被告人の許可を受けた会員が「四の字固め」などの集団暴力をすることもあった。

K1が死亡した件については、自分は右K1がK子教祖の経営するマンションで高校生らに取り囲まれて法座の対象になっている場に居合わせたが、実際にどのような行為が行われていたかは見ていない。自分は、右K1が同所の敷居で転んで頭をぶつけたと聞いたが、被告人AとK子は、皆にJ1の家の階段から落ちて怪我をしたと口裏合わせをするように言った。

(二) 本件当日の状況等

自分は、本件当日の午前中に本件海水浴場に着き、稲荷神社のテントのところで食事をした後、海水パンツに着替えて浜に下りて、子供たちと遊んでから午後二時前後ころに右テントの方に戻ると、I夫婦が見えた。

自分が、それからしばらく辺りをうろついていると、I夫婦を前にして被告人Aが、「H子ちゃん最近法座にも来んようになったし、『つつみ』の方にも手伝いに来んようになったけども、一体どないなっとんや。説明せえ。」などといった感じで聞いていた。H子は「つつみ」に手伝いのような感じで行っていたと思うが、自分は、H子が、教団や「つつみ」に来なくなったというのは知らなかった。

I夫婦が返事をしなかったので、被告人Aは、「京都のもん来い。」と言って京都地区の会員を呼ばせ、F夫婦、P夫婦、被告人B夫婦らが来たが、地元の被告人C、同D、同E、Y、L1らも近くで聞いていたと思う。U夫婦や被告人Aの妻M1子もいたと思う。

被告人Aは、「この夫婦おかしいで。京都のもん、何か言わせんかい。」などと言って法座が始まった。

自分は、「IはH子の兄であり、H子が出てこないのはI夫婦の因縁がおかしい、魂がおかしいからだ。」という理屈であって、H子の件でI夫婦が法座にかけられるのは正当なことだと思っていた。

京都の会員らは、I夫婦の後ろから、「何か言いな。」とか「しゃべんな。」とか言って背中を小突いたりしていたが、それでもI夫婦が黙っていたので、エスカレートして次第に手を出すようになり、自分も「黙っとったらいかんやろ。何か言いな。」という感じでIの頬を一回平手で叩いたり、L子の太股を平手で一、二回叩いたりした。また、I夫婦が、「馬鹿野郎。」などとの言い合いをさせられたりもした。手を出したのは、被告人C、同D及び同Eで、「言え、言え。」と声をかけていたのは被告人Bであり、全体の命令は被告人Aが出していた。

自分も手を出したのは、傍観しているだけだと被告人Aから自分自身がターゲットにされるおそれがあるからである。

被告人Aが、「二人とも黙っとんやったら、L子を簀巻きにでもしてしまえ。」と簀巻きにして海にでも放り込めと言うような指示をしたので、自分は、被告人C、同Dら四、五人くらいと一緒に、抵抗するL子の両手両足を押さえ付けるような感じで、青いビニールシートでぐるぐる巻いて簀巻きにした。その時、Iは、L子を助けに行こうとしていたと思うが、後ろの方で押さえるなどして行けないようにしていたと思う。被告人Aが、簀巻きにしたL子に対し、「何かしゃべらんかい。」と言うと、L子が「やめて、やめて。しゃべりますから。」と返事をしたので、被告人Aの指示で簀巻きは解かれ、テントの方で法座がさらに一五分か二〇分間くらい続いた。テントの下での法座は、一時間か一時間強は続いたと思うが、そのうち被告人AかYが、「ここじゃ狭すぎる。海に行ってやろうかい。」と言ったので、皆で、海に行く準備をして、ぞろぞろと海岸の方へ向かった。一〇人か一五人は海に入っていると思う。

一緒に行ったI夫婦は、嫌がっているふうには見えなかったが、被告人Aの言うことを拒否できるはずはなかった。

午後三時過ぎか同四時近くになったいたと思うが、帰り支度をしなければならないのと、道沿いの稲荷神社の前でやっていると、皆の声も大きくなっているので目立つということで、場所を変えて海で法座の続きをしようということで言ったのだと思う。

Iは、下は半ズボンみたいな感じで、上だけ脱いで裸で海に入ったと思う。

はっきりとは覚えていないが、他の人から言われると、自分が浜の浅瀬のところで、Iに足払いか何かを掛けて、一回、転ばせたような感じがする。

被告人Aは、小さいゴムボートに一人で乗って沖の方に一番先に着いており、浜の方から皆が泳いでくるのを見ていた。誰かが被告人Aに「ここら辺でいいですか。」と声をかけると、被告人Aの「いや、まだや、まだや。」とか「もっと先や。」というような声が聞こえ、そのままずるずると沖の方へ行った。汐汲岩の先端くらいの、浜から四、五十メートルは離れた沖合に出たところで、被告人Aが「よっしゃ、ここいらでええ。」と合図を送り、法座の続きが始まった。その場所は、自分が沈んでも足が着かないところで、はっきりは分からないが、深さは四、五メートルあったのではないかと思う。

自然に、Iを囲むグループとL子を囲むグループの二つに分かれたが、二つのグループの間は二、三メートルくらいで、自分は、その中間にいて、最初はどちらかと言えばIの方に行った。

Iの方は、周りを六、七人くらいが取り囲むような感じで、自分のほか、被告人D、同C、同E、同B及びJがいたのを覚えている。

被告人Aは、沖の方にいて、それを二〇人近くの子供たちが取り囲んでいた。

L子の周りに何人いたかは覚えていないが、女性が数人付いていたと思う。

L子の方は、途中で被告人Aが「L子の方はもういい。」と指示して、一五分か二〇分で終わった。自分はIの方に集中していたので、「やめて、やめて。」というL子の声は聞こえたと思うが、同女に対して何をしていたかは分からない。

その後、L子を囲んでいた人がIの方に来たか、周りの子供と混ざって眺めていたかは分からない。

Iに対して、最初は、「何しとんねん。」「早うしゃべらんかい。」などと口で言い、肩を握って下に沈める程度のことはしていたが、途中で、被告人Aがゴムボートから下りてきて、「お前ら何やっとんねん。そんなん違うねん。こうやってするのや。」と言って、Iの体の後ろに回って腹部に手を回し、肩に乗せるような感じでそのまま後ろに放り投げるような感じのブレーンバスター(又はバックドロップ)の手本を一回見せ、またゴムボートに乗った。それから、他の者が被告人AがやったようなブレーンバスターをIにかけたり、肩を抱いて沈めたり、足を引っ張って沈めたりした。

被告人Cと同Dは、それぞれブレーンバスターを少なくとも二、三回はやったと思うし、被告人Eと同BもIに手を出していると思う。自分も、Iの肩を押して沈める行為を一、二回はした。

Iは、「やめてくれ。」とか「助けてくれ。」とか言っていたが、沈められて浮き上がってくる都度、同じように沈められた。いつ終わるのか分からなかったが、被告人Aがいるので、Iが死ぬとは思わなかった。

被告人Aは、ゴムボート上でこちらをずっと見ており、「何かしゃべったか。」などと何回か言っていたが、「いや、まだしゃべっていない。」とか、「ほなまだやな。ほな続け。」みたいな感じで話しており、「もうやめとけ。」とは言わなかった。

Iを攻撃している合間に、自分も、後ろから誰かにブレーンバスターをかけられたりした。以前から自分たち兄弟もターゲットみたいな感じになっていたので、ふざけてか一種の練習かでされたのだと思った。このままでは自分が溺れると思ったし、疲れたので、浜の方に帰ってちょっと休憩したが、沖での法座が始まって三〇分間か小一時間は経っていたと思う。自分が浜に上がるまでは、Iは沈んでもすぐに浮かんでくるような感じで、浮かんできたら、「やめてくれ。」「助けてくれ。」などと言っていたが、最初に比べたら浮き上がってくる速度は若干遅くなっていた。

自分が浜の方に泳いで行く時に、誰だったか思い出せないが、何メートルか離れて浜の方に泳いできていた人が一人いた。

自分は、浜に帰ってさぼっていたら被告人Aからまた何を言われるか分からないと思って、砂浜で五分か一〇分休憩してから、再び沖の方に泳いでいった。その途中で、誰かの「I"がおらん。」という声が沖合から聞こえたので、見渡すとIがおらず、何人かが海の中に潜って捜していた。自分は、Iが泳いでいるところを見ておらず、普通に泳いでいたのが突然いなくなったのではなく、沈められる行為が積もり積もって自分で浮き上がれなくなったと思う。

自分が沖に着いたころに、「おった、おった。」という声が聞こえ、誰が引き上げたかは覚えていないが、Iは首から上が水面上に出ていた。自分や、被告人B、同Dら四、五人で、Iの首を持って浜の方に泳いで連れていったが、浜に上げるまではIの意識はあったように思う。

Iは、ズボンが脱げて、下は白いブリーフ一枚であったと思う。

Iを浜に引き上げてから、被告人BがIに人工呼吸をし、被告人AはIの頭のところで「句呪」を入れたりしていた。

Iは、口と鼻から少し水を吐いた後、泡のようなものを口から吐いていたが、心臓マッサージの際には水とかをゴボッと吐いた。

Iを浜に引き上げてから、五分か一〇分経過して、救急車が到着し、Iは病院に運ばれたが、自分も車を運転して、救急車の後を追いかけた。病院には五分か一〇分くらいいたが、その間に、Iが救急車の中で死んだことを聞いた。

警察官が来て事情聴取をするということで、Jと被告人Bが、第一発見者として警察の方に行った。

病院に来た被告人Aは、「Iの魂を呼んで『この世とあの世とどっちがいいか。』というようなことを聞いたら、『このまま生きとってもしょうがないから、霊界に行きたい。』というようなことを言ったので、Iは死んだ。」と自分に話した。

皆で福知山の教団に帰ってきた時に、本件海水浴場に行った二、三十人を前にして、被告人AとK子が、「京都の町内会か何かから遊びに来ていて、溺れて死んだことにする。教団の名前は一切出すな。」と言った。自分は、神仏である被告人Aらの命令なので、口裏を合わせなくてはいけないと思って従った。

自分は、平成三年に、法座で集団リンチを受けて慢性硬膜下血腫で入院したのを機に、このままいたら自分も殺されると思って、正式な脱会届等は出さずに教団をやめたが、その後も本件のことは話していなかった。

しかし、平成四年一月ころ、Jから電話があり、「Iは事故で亡くなったのではなく、自分たちが集団リンチみたいなものにかけて海で溺れさせて殺したことをH子に話した。あの時のことを覚えているのだったら話をしてほしい。」と言われ、自分も、真実を話さなくてはいけない、協力しようと思った。Jからは、「教団を潰したいし、自分の子供を取り返したい。」との話も出ており、自分もこれに賛同した。

以上のような内容の供述である。

2 Jの供述内容

(一) 法座の実態

自分は、霊法会に引き続いて、K子が設立した教団に移り、平成三年になってから脱会を考えるようになったが、同年九月六日に脱会するまで会員であった。

会員をやめたのは、同年九月に入ったころ、被告人Aの命令下に高校生の会員らや、被告人D、被告人Cらから自分が暴行を受けて前歯を三本折る怪我をさせられたこともあり、宗教というものは人の心をなごますものだと思っていたのに、この宗教では、どんどん恐怖の方に陥れられて自分の命も取られるという心理から、K子や被告人Aの言いなりになって、結局は皆が被害者になっていると思ったからである。

初代教祖のK子の時も、同人自身が法座で暴力を振るうことがあったが、昭和六一年五月に被告人AがK子に代わって教団の中心的役割を果たすようになった後の昭和六三年三月ころ、会員のK1が、K子の新宿舎の二階で行われた法座で、被告人Aの指示で集団暴行を受けた上、自分の二人の子と取っ組み合いをさせられ、敷居で頭を打って死んだことがあった。その際、K子は、全員を集めて、「階段から落ちて死んだことにしよう。」と言って、皆で口裏合わせをしたが、後に、「J1の家の階段から落ちたことにしよう。」と話が変わった。

平成元年九月に教祖が実質的に被告人Aに代わると、以前にも増して法座の際の集団リンチが多くなった。被告人Aが、誰か一人をターゲットに挙げて、被告人Aの号令一下に参加者全員が一人を取り囲んで「四の字固め」をしたり、どつき回したりすることがあった。また、K1の妻であるE1子ら女性会員を裸にして振り回したり、ぬれたタオルやサランラップで会員の口や鼻を押さえたりもしたが、法座は、被告人Aが「終わり。」と言うまで続けられた。会員は、勝手にやめると、次は自分がターゲットにされるので、やめることはできなかった。暴力を振るうような法座は、本件でIが法座にかけられて死亡した後も全く変化がなかった。そして、仰向けに寝かせてその首を手で押さえ付けて気を失わせる「呼吸の情」や、大きな火の付いたロウソクのロウを、顔や頭など全身に垂らす「炎の情」も行われていた。

(二) 本件当日の状況等

本件当日、自分がI夫婦を最初に見たのは、午後二時か同二時半ころであったと思うが、その時、I夫婦は、稲荷神社の大きいテントの中でAの前に立たされていた。

自分は、被告人Aにまた因縁を付けられているのかと思っていると、Fがちょこちょこと寄ってきて被告人Aに何か耳打ちをした。耳打ちした内容は分からなかったが、状況からしてI夫婦のことで何か言っているなと分かった。

すると、被告人Aが、「夫婦でちょっと言い合いせえ。」と指示したので、I夫婦は約三〇分間言い合いをしており、自分は法座が始まったと感じた。

他の者は、その周りを囲んで、「もっとしっかり言わんかい。」などと口々に言っていたが、同人らがI夫婦に暴行をしているところは見ていないし、その辺をうろうろしながら見ていたので、自分が最初から最後まで見ていたわけではない。

約三〇分してから、被告人Aが、全員に聞こえるように、「いつまでもこんなことやっとってもしゃあない。海へ行こう。」と言ったが、自分は、被告人Aが「法座は終わりだ。」と言わなかったので、海でI夫婦を沈めるのだと思った。他の者も同じだと思う。

自分は、子供を預けて海に向かった。自分は先頭の方におり、皆はぞろぞろと二、三十人の塊になって自分の後を付いてきていたが、自分の近くには被告人Bがおり、後ろには被告人Dがいたと思う。

自分が先頭で海に入って、へそぐらいの水深のところまで歩いて行った時、被告人Aがビーチマットを漕いで横を追い抜いていった。それまでに、浅瀬のところでL子が暴行を受けていたのは見ていない。

被告人Aに付いて、浜から約五〇メートル離れた、水深二メートル二、三十センチメートルのところに達すると、被告人Aは、「この辺にしようか。」と言った。Iが後を追って泳いでくるのを待ち、Iが来ると、被告人Aは「二手に分かれよか。」と言って、自然に二つのグループに分かれ、S、Uら一五人くらいがL子の方に、自分のほか、被告人B、同D、同C、同E、G、F、Pら十二、三人くらいがIの方に行った。二つのグループの距離は四、五メートル離れており、Iは自分から約二メートル離れたところにいた。

最初は、「I"さん何言うとるんや。しっかり言え。」などと言いながら水を掛ける程度だったが、Iは、「何するのや。」とか「やめてくれ。」などと叫んでいた。全員が立ち泳ぎをしており、被告人Aだけがビーチマットで見ていたが、被告人Aは、途中で「お前ら何やっとるんや。」と言ってピーチマットから下りてきて、Iの後ろに回って腰に手を掛けて、体を沈めて勢いを付けて後ろに投げ飛ばすバックドロップをして、またビーチマットに戻った。周りの者が水掛けばかりやっているので見本を示したものと思うが、それからは周りの者も、Iの肩に両手を掛けて沈めたり、足を引っ張ったりした。

L子は、水を掛けられたり、両肩を持ってぐっと沈められたりしており、叫び声は聞こえたが、内容は聞き取れなかった。被告人Aが、「L子の方はもうええわ。」と指示すると、三〇人近い全員がIの方に集まってきた。

Iに対する暴行は、一人が終わると次の者が代わるというように、入れ替わり立ち替わりで続けられた。

Iは、「助けてくれ。」などと叫んでおり、苦しかったと思う。

自分は、もうやめたいと思い、被告人Aがやめるように言ってくれるのを待っていたが、被告人Aは一向にそう言わずに、「そんなもん、冗談、冗談。何ともない。もっとやれ。」などと言っていた。

自分は、被告人Aが付いている以上、死ぬことはあり得ないと思っていた。

自分は、Iに水を掛けたり、同人の頭を小突いたりしたほか、その両肩に手を置いて沈める行為を三、四回と、後ろからIの腰を持って沈める行為を三回くらいした。被告人Bは、バックドロップを約二回と、肩を押さえて沈める行為を約一〇回していた。被告人Cは、バックドロップを約四回と、肩を押さえて沈める行為を約一〇回していた。被告人Dは、バックドロップを四、五回と、肩を押さえて沈める行為を約一〇回していた。被告人Eは、Iの後ろに回って首に手を回して後ろに引きずり倒すような行為を一回と、肩を押さえて沈める行為を二、三回していた。Fは、肩を押さえて沈める行為を約五回していた。Gは、水を掛けるとか頭を小突くとかいった程度であった。

Iを沈める行為は、L子を沈める行為が終わってから一五分くらい続き、結局、三、四十分くらい続いたように感じる。

Iは、最初のうちは沈めてもすぐに浮かび上がって、「助けてくれ。」と叫んでいたが、時間の経過とともに次第にゆっくり浮き上がってくるようになり、叫び声も出なくなって、せいぜい浮いてから手足をばたばたとゆっくり動かすくらいの状態になった。

被告人Aからの中止の指示が出ないまま、自分がIの頭を小突いて約三メートル離れると、Iの姿が見えなくなり大騒ぎとなった。皆で捜すと、二、三分後に、自分の位置から約五メートルの場所で、被告人Bが「ここにおった。」と叫んでIを持ち上げたので、皆がそこに集まってきた。自分は見ていないが、Iは海中に沈んでいたものと思う。Iの姿が見えなくなる直前に元気に泳ぎ回っていたことは絶対にない。

自分のほか、被告人B、RらがIを浜まで連れて上がったが、被告人Aは後から続いて来た。L子は、自分に対する法座が終わった後は、足の立つところでこちらの様子を見ていた。

Iを浜に引き上げてから、被告人Aの指示で皆が約三〇分間「句呪」をしたが、Iは息を吹き返さなかった。被告人Bは、その間人工呼吸をしており、Iは一升五合くらいの水を吐き、鼻と口からはソフトボールより少し大きいくらいの量の泡を吹いた。

Iは、救急車で太田病院に運ばれたが、その前に現場に来た警察官に対し、自分は、「皆で泳いでいて急にIが沈んで溺れた。」と、とっさの思い付きで説明し、宮津警察署でも、「仲間同士で泳ぎに来て、一緒に泳いでいたIの姿が急に見えなくなり、探したら海中に沈んでいた。」と説明した。宮津警察署でした説明は、病院へ向かう車中か病院かで、被告人Bと相談して考えたものであるが、被告人Aにも病院で「ちょっと事情聴取に言ってきます。内容はこうしときます。」と報告すると、被告人Aは「うん、そうしとってくれ。」と言った。事故死ということにしたのは、被告人Aの指示に基づくものではないし、自分がL子に口止めしたこともない。

自分は、昭和五八年一二月ころ、被告人Aが義姉のH1子に加えた傷害事件で、同女が被告人Aを告訴したにもかかわらず、皆で口裏を合わせて義姉の狂言としてうやむやにしたように、本件でもうやむやにするのはIに申し訳ないと思い、I1に相談した上で、平成四年一月一〇日か一五日かに、H子に電話をして、「お兄ちゃんが死んだ件は、わしらが殺したんや。警察に届けてくれ。」などと話した。

L子やIの両親に話さなかったのは、L子は会員であり、L子を通じて被告人Aらに情報が漏れて口裏合わせをされるおそれがあったからで、教団をやめているH子なら情報が漏れる心配はないと思ったからである。

以上のような内容の供述である。

二 G及びJの供述の信用性

弁護人らは、Jは、被告人Aを個人的に妬んでおり、同被告人に妬みを持つJ1及びI1と共に、同被告人を失脚させ、教団を潰すために策動して本件をでっち上げたもので、Gは、右策動に乗っているなどとして、G及びJの供述は信用できないと主張する。

たしかに、Jが、被告人A及び教団を恨んでいることは、J自身の供述の端々から、被告人Aらに対する恨みが窺われることや、「自分の子供が教団役員のTに人質に取られている。」と述べていることなどからも明らかであるし、弁護人らは教団を潰すための団体が存するなど主張するところ、その点は確認できないものの、何らかの意図でJに資金的な援助をしている者の存在も窺われる。

また、Gも、自分は法座で集団リンチを受けて重傷を負わされたとし、教団を「神仏という言葉を借りてやっているただの暴力集団」と思っている旨供述するとともに、Jから「教団を潰したいし、自分の子供を取り返したい。」との話が出て、これに賛同したことは、G自身が認めるところである。

しかし、J及びGについても、結果的に執行猶予となったとはいえ、殺人罪や傷害致死罪が重罪であることは、一般人にも容易に分かると解されるから、第三者的な立場から被告人Aを殺人罪等で告発したというのならともかく、自分が共犯者として処罰されることを覚悟してまで、でっち上げをしたり、それに合わせて供述するというのは通常考え難い。

そして、その供述内容も、Gが、稲荷神社のテント内でI夫婦がH子の件で追及を受けていたことにつき、「自分はH子が教団等に来なくなったことは知らなかった。」と述べたり、Jが、「テント内でのL子らに対する暴行は見ていない。」と述べたりしているように、被告人五名にとって、むしろ有利に働く供述もしているのであって、殊更に虚偽を述べて被告人らを陥れようとしている状況は窺われず、細部に記憶違いと思われる点(例えば、Gが、被告人Aの妻M1子も本件海水浴に参加していた旨供述する点)や、曖昧な点はあるものの、全体としては自然かつ詳細で迫真性に富んでいるとともに、B1らの供述によって認められる状況ともほぼ整合しているし、教団の名前を出さないで、町内会などで来ていて溺れたことにしようと口裏合わせをしたなどの点も、本件当日に宮津警察署で行われた事情聴取で、被告人Bが、「昔からよく付き合いのあるグループで来ていた。」旨供述していること(検第一七四号)や、前記のとおり、翌日の京都新聞の朝刊で、「町内の友人ら二十数人と家族ぐるみの海水浴に来ていた。」旨の記事が掲載されたこと(検第二〇八号)と符合している。

以上によれば、弁護人らの主張にかんがみ検討しても、G及びJの供述は、右のような客観的に認められる事実と整合ないし符合する範囲においては信用できるというべきである。

第七H子及びI1の供述内容並びにその信用性

一 H子及びI1の供述内容

Iの実妹である証人H子、及び教団が宗教法人として認可された時に、その設立に協力した証人I1(同人はJ1及びK1の実兄である。)は、会員になった経緯や法座の実態、本件についてJから打ち明けられた状況等について、公判廷で、要旨、次のとおり供述する。

1 H子の供述内容

自分は、それまで霊法会に入っていたが、昭和四六年ころ、両親や兄Iと共に、新しい会を作るK子に付いて教団に移ったが、平成二年七月初めに、脱会届は出さずにやめた。

昭和五二年四月に結婚後、約一〇年間は教団の活動には参加しなかったが、昭和六二年四月から再び参加して法座に出るようになったところ、いきなり「四の字固め」をかけられ、また、口で言うより先に、殴る蹴る、叩くなどの行為が毎回行われた。

以前の法座は、悩み事を打ち明けて皆で相談するようなものであったので、内容が随分変わったと思ったが、法座に出ないと、「甥のMを気違いにする。」と被告人Aから脅されていたので、参加を続けていた。

被告人Aにのどを絞められる「呼吸の情」や、下着姿にさせられ、ロウソクのロウを全身に垂らされる「炎の情」のほか、サランラップを顔に掛けて息ができないようにすることなども行われていた。法座は、被告人Aの判断で「やめ。」と言うまで続けられ、他の者が「やめろ。」と言うことは絶対になかった。

被告人Aは、自分が考案したセパレート式の着物「つつみ」を会員に縫わせて、「手の空いている者は手伝え。」と言っていたが、自分はやめる気でいたので、なかなか参加しなかった。

しかし、F夫婦から懇願され、平成元年の半ばか終わりころから参加するようになったが、初めて「つつみ」に手伝いに行った時、和裁を何も知らない人がやっているのを見たため、見かねて毎日のように無料奉仕で行っていた。

被告人Aからは、会う度に、「つつみ、頼むで。」と言われていた。

その後、法座で、F1子やその娘が裸にされて引きずり回されたのを見て、自分の娘の姿と重なり、いつまでも、こんなところに行っていたら、自分の子供らもやられると思い、教団をやめようと思った。

自分は、平成二年六月一八日ころに福知山であった「つつみ」の展示会を最後に参加しなくなったが、Iから、「被告人Aが連れてこいと言っている。」と聞かされたので、「もう、よう手伝わんのや。」と答え、その後、L子が出るように呼びかけてきた時も同様に答えた。

「つつみ」をやめると同時くらいに教団もやめようと思っていたところ、Iから、「被告人Aが呼んでいる。」としつこく言われたので、同年七月二二日の法座には行ったが、その場で、L子は、上半身裸で、下は薄いパンツ一枚で「四の字固め」を長時間受けていた。

自分は、Iが死亡した本件当日の夜、実家に駆け付けて、Iの遺体と共に帰宅したL子に、何があったのかを尋ねたが、L子は「知らん、知らん。」の一点張りであり、Mも「ぼくは遠いとこ泳いでたし。」というだけであった。

同年八月五日に、Iの通夜に来てくれた被告人Aらに礼を言うため教団に行くと、被告人Aは「よく来たな。」という感じでびっくりしていた。午前中は自分が「つつみ」をやめた原因等を話し、午後は法座となったが、その場でL子は「H子さんに悪いけど、死んでくれてよかった。」と言い、被告人Aは「悪う思わんでもええんやで。あれでよかったんや。」と言っていたので、自分はこの二人の会話から、L子と被告人AがIを殺したと思ったが、その時は何食わぬ顔をしてそのまま辛抱していた。

Iの死因については、全然分からなかったところ、平成四年一月一五日にJから電話があり、「H子ちゃん。I"さん、あれ死んだん、溺れたんちゃうでぇ。わしら、Aの命令でやったんや。法座にかけられたんや。すまんなあ。兄さんに悪いことをしたわ。」「わしらが、肩を沈めたり、足引っ張ったりして、上がってきたんを、そうして何回も何回もしたんや。」「初め、『助けてくれ、助けてくれ。』と叫んでいたけど、だんだん声が小さくなって力尽きてごぼごぼと沈んだ。」「H子ちゃん、警察へ言うてや。」などと言ったので、翌日、知り合いの警察官に相談した。

以上のような内容の供述である。

2 I1の供述内容

法座は、当初、暴力的なことはなかったが、昭和五〇年の後半ころから、会員同士が二人で真正面に座り、一人が他方の頬を叩いて、叩かれた方は「ありがとう。」と答えるという「叩き合い」が始まり、その後、エスカレートして、殴り合いや投げ飛ばし合いも行われるようになった。

法座では、被告人Aから、会員が、「何を考えているのか。」と問い詰められて、答えられないと、皆の輪の中で、叩かれたり小突かれたりし、被告人Aが「やめろ。」と言うまで続いた。

法座では、手でのど仏を押さえ、息を止めて失神させる「呼吸の情」や、パンツ一枚になって、ロウソクの熱いロウを全身に垂らす「炎の情」も行われたほか、プロレスの技の「足四の字」をかけたり、口にぬれたティッシュを当てて息をできなくして失神させることもあった。

法座での暴力的行為の指示をするのは、ほとんどが被告人Aで、終わるのも同被告人の判断である。被告人Aは、絶対の仏で、その言葉は絶対服従であるから、他の者がやめることはできなかった。

昭和六三年三月三一日に弟のK1が脳挫傷になり、五日後に死亡したことがあった。自分は死因について不審に思っていたが、K子や被告人Aを信じていたので、自分自身で疑問を打ち消してきた。

平成二年四月に自分が法座にかけられて暴行を受け、傷害を負わされたことがあって、教団を脱会した。

その後、本件海水浴場で、Iが死亡したことを新聞で知ったが、教団の行事のはずなのに、「町内の人と一緒に行った。」となっていたので不審に思っていた。

平成四年一月一五日にJから突然電話があり、同人は、「H子さんの住所を教えてくれ。」「実は、I"さん殺されたんや。海で法座にかかって沈められて死んだんや。わしらが殺したんや。」「自分のやったことはやったこととして償いをしてから次の人生を歩みたい。捕まる覚悟はある。」などと言った。

その後、H子からも、「Jから真相を聞いたがどうすればよいか。」との電話があった。

以上のような内容の供述である。

二 H子及びI1の供述の信用性

弁護人らは、H子は教団潰しに積極的に動いている人物であり、I1はJ1やJと共に教団潰しの先頭に立った人物であるなど主張として、H子及び右I1の供述の信用性を種々争っている。

しかし、法座の実態等についての右供述は、信用性が高いと解されるL子やMの供述する内容とも符合している。

また、H子及び右I1は、本件海水浴に参加しておらず、Iが死亡した時の状況を把握していなかったものであるが、Jから電話で本件に関する連絡を受けた状況等についての供述は、J自身の供述内容とも符合し、かつ、その後に本件に関する捜査が始まった経緯等とも整合している。

そうすると、H子の供述には、「つつみ」の展示会に同女が最後に参加した時期等につき、一部記憶違いと解される点は見られるものの(証人H子は、「同展示会は平成二年六月一八日ころであった。」旨供述するが、弁第八七号証及び第一一九号証によれば、同展示会は同年七月一四日及び一五日に開催されており、H子が、L子と共に同月一五日に右展示会に参加していることが認められる。)、H子及び右I1の供述は、基本的に信用性できると解される。

第八被告人B及び同Cの捜査段階の供述内容等並びにその任意性等

一 被告人B及び同Cは、いずれも平成四年九月二〇日にIに対する殺人の被疑事実で通常逮捕され、勾留を経て、同年一〇月一一日に本件で起訴されたものであるところ、右両被告人の捜査段階における供述経緯及び内容は、要旨、次のとおりである(なお、以下、月日だけの表記があるものは、すべて平成四年である。)。

1 被告人Bの供述経緯及びその内容

逮捕直後の九月二〇日の司法警察員による取調べでは、身上関係の取調べに応じたほか(検第一七三号)、稲荷神社のテント内で、Iを議題の中心とした話し合いがあったこと、I夫婦と一緒に被告人Aらが沖へ出て、浜から沖合約四、五十メートル付近の自分の背が立つか立たないかくらいの水深のところで、皆がI夫婦を取り囲み、同夫婦それぞれに対して手で沈める行為をし、自分も片手でIの頭を上から下に押し付けたりして沈める行為を二、三回したこと、ビーチマットか浮き輪に乗った被告人Aが、Iに対し、「言ったらどうや。」というような言葉を言っていたこと、Iの周りには、被告人Cや、同D、J、Rらがいたこと、誰かが「I"さんの様子がおかしいぞ。」と言ったので、自分がIを救助して浜に連れていき、人工呼吸をしたことなど供述した(検第一七五号)。

同月二一日からは否認に転じ、取調べの際も一切黙秘した。

同月二六日の司法警察員の取調べでは、自分がやった行為は、九月二〇日付けの供述調書のとおりであるとしつつ、殺人ではなく、水中での事故であると思っているなどと供述した(検第一七六号)。

その後、再び黙秘に転じ、同月二九日の検察官の取調べも、身上関係の取調べには応じるものの(検第一七七号)、事実関係に関しては完全に黙秘し、署名指印も拒否した(検第一七八号)。

一〇月八日の検察官の取調べでは、稲荷神社のテント内でI夫婦が話題の中心になっていたか否かや、H子のことが話題になったか否かについては覚えていないこと、I夫婦が法座にかけられた状況はなかったこと、誰かが「海に行こうか。」と言ったので、各自がぞろぞろと海に出たが、I夫婦を取り囲んだ記憶はないこと、自分の背が届くか届かないかくらいのところに行き、自分はそこに行く前かその場所付近で、L子の頭か肩を押さえて、二回くらい顔を海中に一、二秒間沈めたが、他にも沈めていた者がいたこと、その際、L子は、「やめて、やめて。」などと言っていたが、その言い方は緊迫感がない、いたずらはいい加減にやめてほしいといった感じであったこと、L子を沈める理由はないので、面白半分でやった思うこと、会員同士で沈め合いをしており、他の誰かがIの顔か肩を押さえて顔を沈めていたので、自分も二、三回、Iの頭か背中を押さえて、海中に一、二秒間沈めたりしていたが、L子に対する沈め行為との前後関係は明確でないこと、Iが沈められた理由は面白半分だと思うこと、他の誰が沈めていたかは、刑事責任が及ぶことなので軽々しく言えないが、その時に海にいたのは、被告人五名やJ、F、G、Rらであり、大人は全部で二〇人近くいて、子供も何人かいたこと、自分も誰かに沈められており、互いに沈め合いをしていたが、偶然にもIが最も多く沈められたと思うこと、Iは「やめてくれ。」と力強い口調で言っていたが、やめてほしいという緊迫感はなく、「いい加減にやめてくれ。」と怒っているように受け取れたこと、誰かの「おかしいぞ。」などと言う声が聞こえたので行ってみると、Iが仰向けに浮かんでいたこと、近くにいた者らと一緒にIを浜に連れいって自分が人工呼吸をしたところ、Iが口から泡を出したが、その状態ははっきり記憶していないこと、Iは救急車で病院に運ばれたが、自分らが口裏合わせをした記憶はないことなどを供述した(検第一七九号)。

同月九日からは黙秘し、起訴日の同月一一日の検察官の取調べでも黙秘した上、署名指印を拒否した(検第一八〇号)。

2 被告人Cの供述経緯及びその内容

逮捕直後の九月二〇日の司法警察員による取調べでは、身上関係の供述調書の作成には応じたが(検第一八二号)、事実関係についての取調べでは、黙秘権を行使し、署名指印も拒否した(検第一八三号)。

同月三〇日の検察官の取調べでは、身上関係の取調べに応じるとともに(検第一八八号)、事実関係についても、稲荷神社のテント内で雑談をしていたことや、海上で、皆でふざけあって水を掛け合ったり、沈め合ったりしたことを供述した。

その後、再び黙秘に転じたが、一〇月六日の検察官の取調べでは、法座の状況につき、夫婦間や親子間で言い合いをし、その際、周りの会員が「もっと出せ。」というようなことを言ったり、対象者の体をぽんぽんと一人ずつ順番に叩くこともあったが、やってもらう方はありがたい気持ちで受けており、世間でいう暴力ではなく、自分にしてみれば何も後ろめたいことではないなどと供述した(検第一八九号)。

同月七日の司法警察員の取調べでは、本件当日、稲荷神社のテント内で、三〇分から一時間くらい、I夫婦に対する法座的なことがあったが、詳しい内容までは覚えていないこと、自分は、L子に対し「もっとしゃべりな。」というようなことを言って、他の誰かと一緒に、軽い気持ちでビニールシートの上にL子を転がして包み、自分の体を乗せたことなどを供述した(検第一八四号)。

同月八日は黙秘したが、翌九日の検察官の取調べでは、Iの顔や頭に二、三回水を掛け、頭や肩を二、三回押さえてIの頭を海中に沈めたことや、殺意はなかったことなどを供述した(検第一九〇号)。

また、同日の司法警察員の取調べでは、「今日まで、事件のことを話したり途中で黙っていたりしていたが、自分のやったことはすっきりしたいと思う。」などと述べて、殺意がないことを強調しつつ、自分の背が立たない約二メートルの水位のところで、Iを数人で取り組み、交代で水を掛けたり、頭や肩を押し下げて沈めたりし、自分もこれに加わったこと、Iは「やめんかい。馬鹿野郎。」などと叫んでいたこと、L子に対しても同様に水を掛けたり、沈めたりしたことなどを供述した(検第一八五号)。

同月一〇日の司法警察員の取調べは、法座の実態として、「呼吸の情」や「炎の情」が行われることや、エキサイトすると会員同士が肩を叩いたり、体を押すようなことはあるが、それは暴力ではないことを述べるほか、本件当日の状況として、稲荷神社のテント内でI夫婦に対する法座的なことがあったこと、自分はI夫婦に本音を吐かそうと思ってビニールシートにL子を仰向きに寝かせ、同女の首から下を包み込むように巻いたが、その際、同女は「やめて。」と言っていたと思うこと、誰かが「海に行こうか。」とか「泳ごうか。」とか言ったので、沖に出たが、自然に会員が二手に分かれてI夫婦を取り囲み、交代で水を掛けたり、両肩や頭を押して沈めたりしたこと、自分は最初、L子に対して水掛け行為や沈め行為をしていたが、その際、被告人DとRも水掛けをしており、被告人Aが「いやな事は、はっきり言え。言いたい事を言え。馬鹿野郎とか言ってみい。」などと声をかけており、L子は「馬鹿野郎。やめてくれ。」と言ったと思うこと、L子に対する行為が終わり、自分がIの方に行くと、三、四人がIを取り囲んで水を掛けたりしていたので、自分も水掛け行為や沈め行為をしたこと、Iは「馬鹿野郎。やめんかい。」などと言っていたこと、その場所は、足が着かない水深約二メートルのところであり、自分がIに対する水掛け行為等をした時間は約五分間であったこと、「溺れた。大変や。」という男の声がしたので見ると、Iの近くを泳いでいた人が浜の方に泳いでいくので、自分も行くと、Iが仰向けに寝かされ、被告人Bが人工呼吸等をしていたこと、海上でのI夫婦に対する行為は、テント内での法座的なことの続きではなく、テント内はそれで終わり、海は海でまた別に始まったものであること、Iに対する水掛け行為や沈め行為は、連続的なものではなく、間隔が十分にあったから、海にいた者はIが死ぬようなことになるとは思っていなかったことなどを供述した(検第一八六号)。

起訴日の同月一一日は、司法警察員に対する取調べで、被告人五名らの人物像について話をするほか、Iを殺そうと思って殺したのではないことや、これまで黙秘していた理由について供述し(検第一八七号)、検察官の取調べでも、テント内の法座的なものの状況や、I夫婦に対する水掛け行為及び沈め行為などについては、前日の司法警察員に対する供述とほぼ同じ供述をしたが、沖合でのI夫婦に対する行為は、遊び感覚でやったものではなく、法座的なことの続きであったが、海上にいた二、三十分間、始めから最後まで法座的なことをやっていたわけではなく、途中で遊んだりすることもあったことなどを供述した(検第一九一号)。

二 右両被告人の供述の任意性及び信用性

弁護人らは、捜査官らが、当初から予断と偏見を持って、捜査当局の筋書きを押し付けたものであるなどと主張して、被告人B及び同Cの捜査段階の右供述の任意性を争っている。

しかし、被告人B及び同Cは、逮捕された当日から弁護人と接見して黙秘権等の説明を受けたもので、実際に、被告人Cは逮捕直後に黙秘し、被告人Bも翌日から黙秘したほか、その後もしばしば完全に黙秘していたものである。

また、黙秘権を行使せずに作成された供述調書には、捜査官の抱いていた殺人罪の嫌疑を認めるものは一通もなく、全体としては、むしろ殺意を否認する供述調書が一貫して作成されており、その内容からは、殺人罪の被疑事実で取調べを受けた右両被告人が、捜査官の追及に対して殺意はなかったことや、Iに対する沈め行為はしたが、自分たちとしては事故と考えていることなどを理解してもらおうとして必死に弁解している状況が見て取れるし、稲荷神社のテント内で行われたのは「法座」ではなく「法座的なこと」であるとしたり、「他に誰が沈め行為に加担していたかは、刑事責任が及ぶことなので軽々しく言えない。」と述べるなど、言葉を選んで慎重に供述していることも窺われる。

さらに、右同被告人の捜査段階における身柄拘束期間中の留置場からの出入状況(検第二〇二号及び第二〇三号)からは、右両被告人に対する取調べが、多数の実行犯による殺人ないし傷害致死被疑事件のそれとして、過酷なものであったことは窺われないところ、被告人Bについては、同被告人からの体調不良の訴えに応じて二度にわたり医師の診断を受けさせているほか、取調べを休む日も設けている。

そして、右両被告人とも、供述調書の作成中に弁護人の接見を受けているところ、作成された供述調書の中には、途中で接見のため取調べを中断した後、引き続き取調べを受け、最終的に、I夫婦に対する沈め行為等を認める供述が録取されているものもある(検第一八五号)。

ところで、被告人Bは、捜査官が、勝手に調書を取った上、後で訂正してやると言ったり、黙秘すると妻子を逮捕すると脅したりしたので、不本意ながら供述調書への署名指印に応じたなどと、また、被告人Cは、取調べ中に捜査官から暴行・脅迫を受けたため、真意に反して供述調書の作成に応じたなどと、それぞれ公判廷で供述する。

しかし、被告人Bの取調べを担当した証人N1(警察官)及び同O1(検察官)、被告人Cの取調べを担当した証人P1(警察官)及び同Q1(警察官)の供述によれば、取調べに際して右両被告人に暴行や脅迫を加えて黙秘権を侵害するようなことはしていないし、訂正の申立てがあれば、その都度応じるなどしていたというのであり、右証人らの供述は、右両被告人からの申立てに応じて訂正がなされているなど、実際に作成されている供述調書の内容、体裁等にも合致しており信用できる。

これに対し、右両被告人の公判廷における供述は、被告人Bの供述によれば、後で訂正してくれるというので不本意ながら作成に応じたとする供述調書の訂正が、取調べを受ける過程で受け入れられないと分かったはずでありながら、同被告人が、その後の供述調書でも署名指印に応じていること、被告人Cは、希望して供述調書を閲読までさせてもらって署名指印をしていることなどに照らして信用できず、捜査官である右証人らが供述するとおり、右両被告人に対する取調べは、適正に行われたものと認められ、右両被告人の捜査段階の供述の任意性に疑いを差し挟むべき事情はない。

そして、殺人の嫌疑は否認しつつ、稲荷神社のテント内でIを議題にした話し合い又はI夫婦に対する法座的なことがあったことや、海上でI夫婦に対する沈め行為等をしたことなど、不利益な事実を進んで認める右両被告人の捜査段階の供述は、B1らの供述する状況やL子、Mらの供述内容とも整合しており、信用できる。

第九海上でのいわゆる「バックドロップ」の問題

一 弁護人らは、足の立たない海上でバックドロップをすることは不可能であるから、Iに対してバックドロップをした旨のD1子、L子、F、G及びJの供述は不合理である旨主張する。

二 しかし、右のうち、D1子は、そもそも「バックドロップ」という単語は使っていないのであるし、Gも、「ブレーンバスター」と「バックドロップ」という二つの単語を混用している。

また、「バックドロップ」という単語を口にしているL子やJにしても、これを本来の意味で正確に使用しているのか問題がないわけではない。

三 そして、客観的な立場からの目撃者であるD1子は「男性数人が、一人の男性を抱き上げて横に寝かせたような姿勢にして、海にバシャンと投げ落としていた。」旨供述しているところ、一対一で本来のバックドロップを行い得るかについては、検察官の請求に係る実況見分調書(検第二〇七号)と、弁護人らの請求に係る実況見分調書(弁第一八二号証)とで結論が対立しているものの、数人がかりであれば、D1子が供述するような行為を行うことは十分可能であると解され、次々とIに暴行を加えていた被告人らが、その過程において、数人がかりでI夫婦に対して右のような行為を行ったところ、これを関係者が単独で行ったものと記憶違いをしている可能性なども考えられるから、右の点は、Iに対して海上で暴行が加えられたとするD1子、L子、G及びJの供述の信用性に影響を及ぼすものではない。

第一〇弁護人らの請求に係る証人ら及び被告人五名の供述内容並びにその信用性

一 弁護人らの請求に係る証人のうち、証人O子、同T、同N子、同P、同U、同R1、同S1子、同W子及び同F1子(いずれも現役の会員又は元会員。以下「証人O子ら」という。)及び被告人五名が公判廷でしている供述のうち、法座の状況や、本件当日の状況等に関する部分は、供述者間で若干のニュアンスの違い等は見られるものの、その要旨は、ほぼ次のとおり集約できる。

1 法座の状況

法座では、被告人Aに絶対的な権限はなく、会員は自由に意見が言えた。

法座では、夫婦間等で相手の背中や頬を叩く程度のことはあったが、叩き合い等の暴力的な要素は一切なく、被告人Aの指示で暴行が始まったり、同被告人の終わりの指示があるまで続いたりすることもなかった。

「呼吸の情」(又は「真空の情」)や「炎の情」といった修行は、これを受けたいとする会員に対して行われ、被告人Aが無理強いすることはなかった。

2 本件当日の状況等

稲荷神社のテント内では、教団の活動や「つつみ」に参加しなくなったH子の説得に、Iらが夫婦で行かずに、別々に行ったことなどについて、和気あいあいの雑談をしたが、H子が来なくなったことは、全然深刻ではなかった。

右雑談には、最初七、八人加わり、次第に数が増えて約一〇人になったが、ほとんど京都支部の会員だけで話していた。

Gが、「しゃべりな。」という感じでL子の太股を二、三回叩いたり、被告人Cが、冗談半分と言う感じで、ビニールシートでL子を短時間巻いたり、掛けたりしたことはあったが、法座のようなものはなかった。

被告人Aは、麻雀をしたり、キャッチボールをしており、右雑談には何ら関与していなかった。

若い人と思われる者からの「海に行こうか。」の一声に応じて、午後四時ころ、皆が最後の一泳ぎということで、各々ばらばらに海に出たが、その時の状況を写したのが弁第四号証の一の写真であり、会員らがI夫婦を取り囲んだことはなかった。

浅瀬でも沖合でも、互いにふざけ合って、水の掛け合いをしたり、両肩に手を置いて、短時間沈め合いをしたりしたことはあるが、普通の海水浴をしていただけで、I夫婦に暴行を加えたことはなかった。

Iは、沖合で一人で遊泳していたところ、Jが「様子がおかしい。」と言ったので異常に気付き、被告人BらがIを救助した。

浜辺に引き上げられたIに、被告人Bが人工呼吸をするなどしたが、その際、Iは、パチンコ玉大又は小豆大の泡を吹いていた。

教団内部で本件に関する口裏合わせは一切していない。

二 証人O子ら及び被告人五名の右供述内容は、法座の状況についても、本件当日の状況等についても、L子、M、R、F、G及びJ並びにH子及びI1の供述する内容と相容れないものである。

しかし、証人O子ら及び被告人五名の右供述のうち、まず、本件当日の状況等のうち、海上において会員らがI夫婦を取り囲んだり、暴行を加えた事実はなく、普通の海水浴をしていたにすぎないなどとする部分は、海上で異常な状況を目撃しているB1らの供述内容に照らして到底信用できない。

また、稲荷神社のテント内での状況についても、レクレーションで海水浴に来ていた者らが、I夫婦がH子の説得に夫婦そろって行かず、別々に行ったことなどのささいな話題で、約一〇人も同夫婦の近くに集まり、約三〇分間も雑談をしていたということ自体不自然であるし、真に和気あいあいの雑談であるとすれば、GがL子の太股を叩いたり、被告人CがL子をビニールシートで巻いたり掛けたりする事態に至ることも通常考え難い。

そして、L子、F及びH子は、H子が「つつみ」で重要な役割を果たしており、被告人Aも、右事業に対するH子の協力を重視していたが、本件当時、H子は教団の活動や「つつみ」に参加しなくなっていたこと、Fは「つつみ」の責任者として、H子の非協力的な態度を問題に感じて、被告人Aに相談に行くと、同被告人が、「I"に聞け。」などと言い、京都支部の会員がその場に呼ばれてI夫婦に対する法座が始まり、周りの会員が同夫婦を叩いたりしたことなどを供述しているところ、右により認められる事実経過は、前後の状況とも整合する自然なものであり、また、右当時、テント内では、H子が教団の活動や「つつみ」に参加しなくなったことが話題になっていたことは、証人O子や同Tも供述しているが、これとも整合していることにも照らせば、テント内の状況は、証人L子らが供述するとおりの状況であったものと認められるから、和気あいあいの雑談があったにすぎないなどとする証人O子ら及び被告人五名の右供述は、到底信用できない。

さらに、午後四時近くになって、若い人と思われる者の一声で、皆が最後の一泳ぎをしようと海に出たなどとする点についても、それまで自由気ままに海水浴等を楽しんでいた大人の会員までが、そのような一声で大勢最後の一泳ぎに参加するということ自体に不自然な感を拭えないし、同旨を述べる証人Pが、当時疲れていたとしながら、わざわざ海に入った経緯に不自然、不合理な部分があること(証人F及び同Jは、右Pも海上でのIに対する暴行に加わっていた旨供述している。)に照らしても、にわかに信用し難い。

以上に加え、水着を忘れてきたため、それまで泳ぐことをあきらめていたIが、にわかに泳ぐことを決め、海に入って高々三〇分(後述のとおり、I夫婦らは午後四時ころが海上に出て、その後、二、三十分間程度海上にいたものと推認される。)しか経たないうちに、沖合で急に姿が見えなくなり、その後浜辺に引き上げられたが、その際、Iは白いブリーフ一枚の姿であったという経過自体、Iが、その当時、体調不良等を覚えていたとすれば、無理をしてまで泳ごうとは考えなかったと解されること、Iは、身体障害一種二級に認定されているが、一時間程度継続して遠泳する能力を有していたこと、Iに心臓に疾患があった事実は認められず、また当時は飲酒もしていなかったことなどに照らすと、I自身の真に自由な意思に基づく行動及び結果としては信じ難いことなどをも勘案すれば、I夫婦を含む会員らが、稲荷神社のテント内から海上に移動した経緯等を含め、証人O子ら及び被告人五名の右供述は、全体として信用できない。

第一一いわゆる現場写真等の評価

一 弁護人らは、本件当日に本件海水浴場周辺を撮影したものであるとして、弁第一号証ないし第一五号証(弁第四号証の一等の枝番号のあるものを含む。)の写真又はネガを提出し、そのうち弁第四号証の一、第六号証の一及び第七号証の一の各写真(これらの拡大写真である弁第四号証の二、三、第六号証の二、三、第七号証の二、三、第一七号証の一、二、第一八号証、第一九号証及び第五六号証を含めて、以下「本件現場写真」という。)は、L子、F、G、J、被告人五名らが海に入った時の状況を撮影したものである旨主張する。

そして、証人N子は、自己が本件現場写真を撮影したとし、その時の状況につき、弁第四号証の一は、本件当日の午後四時五分ころに、被告人Aを中心に海に入っている会員を撮影したが、そのころ浜辺にいた女性会員らと、「あの沖にいるのが私の主人や。」「あれがAさんやな。」などと言いながら海を見ており、海に入っている者らは、一つの浮き輪に乗ったり、水を掛け合ったりして普通に遊んでいたが、浅瀬でプロレスの技のバックドロップを掛けたり、足を掛けて転ばせたりすることはなかったこと、弁第六号証の一及び弁第七号証の一は、同日午後四時一〇分から一五分ぐらいの間に、ボートに乗っている会員親子(L1及びT1子)を撮ろうと思って連続的に撮影したが、海上には被告人Aらがおり、浮き輪を取り合ったり水を掛け合ったり、人の上に乗ったりして遊んでいるように見えたことなどを供述する。

また、証人N子は、弁第四号証の一(同写真の拡大写真を含む。)につき、左から三番目の人物が被告人Aであり、日付を表す「90」と「7」の数字の間に写っている人物がFであるなどとして、同写真に撮影されている約二〇人の人物をほぼ全て特定するとともに、弁第六号証の一及び同第七号証の一(これらの写真の拡大写真を含む。)についても、被告人五名や、I、L子ら相当数の人物を特定しているところ、人物の特定に関する証人N子の右供述は、証人O子、同P、同W子及び被告人五名の供述内容ともほぼ整合するものである。

さらに、証人N子は、本件現場写真の存在を失念していたが、検察官請求の証人があまりにひどいことを言うので、何かないかと思って探し、平成五年一一月二四日に自宅で祭壇の前の経机の棚から、ネガだけ発見したなどと供述する(証人O子も同旨を述べる。)。

そこで検討すると、まず、証人N子の供述する本件現場写真の発見の経緯は、それ自体に唐突で不自然な感を禁じ得ない上、教団の関係者の間で、右写真は、その存在さえ忘れられていたというのであるから、証人N子を含め、これらの写真に写っている人物を特定している教団の関係者らの供述は、同写真に顔の作りが比較的はっきり写っている者についてはともかく、いかに拡大しても、ほとんど特徴が見られない後ろ向きの人物や輪郭さえはっきりしない人物(特に、弁第六号証の一及び第七号証の一の左後方の沖合に写っている人物)についてまで、その当時、特に印象的な場面として撮影したとも解されず、かつ、撮影から右発見時まで三年余りも経ていながら、関係者の間で、ほぼ完全に一致して明確に人物を特定できるというのは不自然であることに照らしても、にわかに信じ難いというほかない。

加えて、その撮影状況に関して、人物を特定しながら海を見ていたなどとする証人N子の供述は、それが格別印象的な場面ではないと思われるだけに、人物の特定が詳細にできることの不自然さを糊塗するために、いかにも取って付けた説明をしているとの感を否めない。

さらに、証人N子は、本件現場写真の中で、最も人物の特定がしやすい者の一人と考えられる、弁第四号証の一の日付部分の「90」と「7」の数字の間に写っている人物がFであると供述するが、証人F自身、右人物が自分であるか分からないとしているところ、右人物の履いている海水パンツの色調が、証人N子の供述によれば、本件当日午後四時一五分から二〇分くらいの間に撮影されたという弁第一二号証に写っているFが履いている海水パンツの色調とは異なっており、同人がその間に海水パンツを履き替えたことを窺わせる状況が存しないことをも考慮すれば、右人物がFであるとする証人N子の右供述は信用できず、本件現場写真の撮影状況や被写体となっているその余の人物の特定等に関する供述も同様に信用できない。

そして、証人N子についてと同様、証人O子、同P、同W子及び被告人五名の本件現場写真の撮影状況や被写体となっている人物の特定等に関する供述も、やはり全体として信用できないというべきである。

二 弁護人らは、弁第一号証の写真が、午後三時一六分ころから同二二分ころまでの間に撮影されたと解されることなどを根拠に、本件現場写真は、L子、F、G、Jらが海上で暴行が行われたと供述している時間帯に撮影されたものであり、L子らの供述は、本件現場写真と矛盾する旨主張する。

そこで検討すると、まず、弁第一号証の写真が、弁護人らの主張する時間帯に撮影されたものであるとしても、その後に撮影された本件現場写真が、右時間帯以降のいつ撮影されたかについては、本件現場写真の撮影状況等に関する証人N子の供述や、これに沿う証人O子ら及び被告人五名の供述は前述のとおり信用し難く、ほかにこの点を明らかにする証拠はないから、結局不明というほかない。

他方、I夫婦が稲荷神社のテント内から海上に移動した時刻及びその後海上にいた時間等については、関係者の供述内容がまちまちであるが、客観的な立場から目撃したC1は、一塊になっている男たちを見たのは午後四時前後ころであった旨供述しているところ、右供述は、Mが、海上での暴行は、二、三十分間程度であったと供述していること、Iを病院に搬送するための一一九番通報が午後四時三〇分になされていること、被告人五名も、捜査段階や公判廷で、最後の一泳ぎのため海上に出たのは、午後四時ころであった旨供述していることなども併せ考慮すると、I夫婦が被告人五名らと共に海上に出たのは、午後四時ころで、その後、二、三十分間程度は海上にいたものと推認される。

そして、弁護人らの主張するように、その間に本件現場写真が撮影されたものであるとしても、撮影された場面は、そのうちの一瞬を写したわずか三コマに過ぎないのであるし、そもそも教団の関係者が、本件当日、被告人五名による海上での暴行が明白に分かるような写真をわざわざ撮影しており、それにつき弁護人らが証拠調べを請求するとは到底考え難いことも勘案すれば、本件現場写真は、海上でIが暴行を受けたことに関するL子、M、F、G及びJの各供述の信用性を何ら損なうものではないといえ、本件現場写真がL子らの供述と矛盾するとの弁護人らの主張は採用できない。

三 弁護人らは、弁第一二号証の写真に写っているのはFであるが、海上での暴行を途中で離脱した者の表情としては理解し難いなどと主張する。

しかし、右写真を撮影したとする証人N子の撮影状況等に関する供述が信用し難いことは、前述のとおりであって、右写真の撮影時刻は、弁第一号証の撮影時刻以降であるとしか特定できないのであるから、弁第一二号証の写真については、海上に出た後、Iに対する暴行が始まる前に撮影されたとか、テント内だけで法座は終わったと思って、海水パンツに着替え、皆に遅れて浜辺に下りたFが、Iが暴行を受けていることに気付くまでの間に撮影されたなどの種々の場合が考えられるし、弁護人らが主張するように、沖合でのI夫婦に対する暴行からFが離脱した後に撮影されたものであるとしても、Fは、その当時、被告人Aが神仏であると信じており、まさかIが死亡するとは考えていなかったというのであるから、撮影に際して、いつもの癖でピースサイン等のポーズをとったとしても、格別不合理ではない。

四 弁護人らは、その余の写真(弁第八号証から第一一号証まで及び第一三号証)についても、その被写体の人物の表情等を根拠に、被告人五名らがIを沈めるといった犯行中に撮られたものではない旨主張するが、そもそも撮影時刻が明らかでない点は前述のとおりであって、Iに対する暴行が始まる前にこれらの写真が撮られたことも十分考えられる。

そして、弁護人らの主張するように、本件犯行の時間帯に撮影されたものであるとしても、会員らは、日ごろから教祖である被告人Aの主催する「法座」には、客観的に見れば明らかに暴力的な要素があるにもかかわらず、これを肯定的にとらえていたのであるから、Iに対して海上で沈め行為等が行われていても、それが「法座」である以上は、「暴力」と考えないことは十分あり得るし、弁第一二号証のFの写真について述べたように、会員らは、被告人Aが神仏であると信じており、Iが死亡する事態に至るとは考えていなかったと解されるから、これを「脇公園」等から見ている時に、深刻な表情等をしていなかったとしても、格別不合理ではない。

第一二浅瀬における暴行の有無

一 検察官は、本件海水浴場でIが沖合まで連れ出される途中、被告人らは、浅瀬でもIに暴行を加えている旨主張するのに対し、弁護人らは、G、被告人E、同D及びJが、浅瀬で約一〇分間にわたりIに暴行を加えたなどと、検察官の右主張に沿う供述をしているFの供述は、本件現場写真(弁第四号証の一)とも矛盾するし、そのような暴行について述べていないL子、G及びJの供述とも整合せず、信用できないと主張する。

二 そこで検討すると、まず、Fの供述が、右写真と矛盾するとの点については、前述のとおり、同写真の撮影状況や被写体となっている人物の特定等に関する弁護人らの請求に係る証人ら及び被告人五名の供述が、全体として信用できないのであるから、これを根拠にする弁護人らの右主張は採用できない。

三 また、Fの供述がL子らの供述と整合しないとの点についても、L子は、その当時、自分自身も海上に連れ出されていたのであって、Iの状況をつぶさに見る余裕がなかったことは明らかであり、Iに対する暴行を見ていなかったとも考えられるし、Jは、浅瀬での暴行の有無を積極的に聞かれなかったため、その点について供述しなかったとも解される(Jは、右供述当時、自己に対する傷害致死被告事件が係属中であったが、同事件の公判でも、浅瀬における暴行の有無が争点になっていたことが窺われる。検第二〇五号)。

そして、浅瀬での暴行を否認する証人N子らや被告人五名の供述が信用できないことは、前述のとおりであるから、Fの供述がL子らの供述と整合しないとはいえない。

他方、客観的な立場から目撃したG1が、波打ち際から垂直に一五メートルから二〇メートルくらい離れた辺りで、一塊になっている男たちがいた旨(検第二四号の実況見分調書によれば、この辺りの水深は、まだ浅瀬といい得る。)、Gも、はっきりとは覚えていないが、他の人から言われると、自分が浅瀬で、Iに足払いか何かを掛けて、一回、転ばせたような感じがする旨、それぞれ供述しており、これらはFの供述を裏付けるものである。

以上によれば、沖合に達する前に、浅瀬においてもIが暴行を受けていた旨のFの供述は信用できるというべきであるが、同人は、被告人Aが手本としてIを抱き抱えて後ろに放り投げる行為をした場所が、浅瀬であったか、深いところであったか記憶が薄れている旨供述しているように、Fの供述には、時間の前後や、行為主体についての記憶が曖昧になっていることは否定できない。

しかし、浅瀬でも、Iに対して、放り投げるか、足払いをするなどして海中に転倒させたり、放り投げたりする暴行があったという点では、Fの供述は信用できるから、その旨認定すべきである。

なお、右の点は、Fが殊更虚偽を述べているものではなく、時間の経過により、当時の記憶が曖昧になったにすぎないものと解されるから、Fのその余の供述の信用性に影響を及ぼすものではない。

第一三Iの死因

一 B1らの供述、医師Zの供述及び証人A1の供述(もっとも、溺水や狭義の溺死に関する同証人の知識には、一部不正確な点が見受けられることは否定できない。)などによれば、浜辺に引き上げられて寝かされたIは、口元にカニの泡のような細かい粒の白い泡を吹いていたこと、その大きさはゴルフボールを二回りほど大きくした程度で、口元の左側にべっとりと唇を取り巻いて付いていたこと(この点、証人O子、同T、同P及び被告人Aを除くその余の被告人らは、Iが吹いていた泡の大きさにつき、「小豆大」とか「パチンコ玉大」などと供述しているが、B1らの供述に照らして信用できない。)、救急車内で右Z医師がIに心臓マッサージを施したところ、初めの数回は口から水が出たこと、太田病院到着後に、右A1医師が人工呼吸のために気管内に管を挿入したところ、肺から泡が逆流してきたことなどが認められ、これに、Iには循環器系の疾患はなかったことや、本件当時の医師らの判断などをも総合すれば、Iは、溺水による窒息により死亡したものと認められる。

なお、本件当日の午後四時四〇分ころ、本件海水浴場で浜辺に寝かされたIを診察した右Z医師が、いわゆる死亡の三兆候を確認しており、その後も蘇生の兆しを見せないまま搬送先の太田病院で同日午後五時一二分ころ死亡が確認されたという経緯に照らせば、Iは、右Z医師が診察した午後四時四〇分ころ、本件海水浴場において死亡したものと認められる。

二 これに対し、証人U1は、Iは、溺水による窒息ではなく、気道に吸引した海水によって粘膜が刺激を受けて反射的に心停止を起こした水浴死の可能性が高いなどと供述し、同人の作成した意見書(弁第一四〇号証)でも同旨の意見を述べているが、右U1は、溺死かどうかを判断する基準の一つとして、細小白色泡沫が漏れている点を挙げ、溺死の場合にはほぼ必ずこれが見られる旨供述しているところ、右の点に関して最も信用性が高く、かつ、重要と考えられるB1らの供述(特に、「Iは、口元にカニの泡のような白い泡を吹いており、この泡はゴルフボールを二回りほど大きくしたくらいの泡で、口元の左側にべっとりと唇を取り巻いて付いていた。」旨のC1の供述)を前提としておらず、むしろ、細小白色泡沫が見られないとして前記結論を導いており、判断の基礎となる事実の見方に重大な誤りがあるから採用できない。

また、証人V1も、Iは溺死ではない旨供述し、その旨の意見を述べた意見書(弁第一四一号証)を提出しているが、右V1は、本件当日のIの身体的条件が悪かったことなどを前提として右意見を述べているところ、右供述ないし意見は、具体的な診察に基づくものではなく、一般的な可能性を述べたものと解され、本件当時のIの具体的な行動状況や、認定できる周囲の者の行動状況等に照らし、また、右U1の意見にも依拠して判断していることも考えると、採用できない。

第一四被告人五名らの暴行とIの死亡との因果関係

一 弁護人らは、Iが溺れたとされるのは、本件当日の午後四時二〇分過ぎであるところ、FやGは、同日午後四時一五分以降の時間帯のことについては何ら供述していないし、L子も、直前の四、五分の様子は分からないと供述しているなどとして、仮に、被告人五名らがIに対する沈め行為の暴行を加えた事実があったとしても、右暴行とIの死亡との間の因果関係は立証されていない旨主張する。

二 しかし、右主張は、Jの供述が信用できないことを前提にするものであるが、同人の供述が、客観的に認められる事実と整合ないし符合する範囲においては信用できることは前述のとおりであるし、L子も、四、五分前に最後にIの姿を見た後も、「本心を出せ。」などと言いながら、沈め行為は続いていたとしているのである。

三 そして、L子、Mらの供述によれば、教団の日ごろの法座では、被告人Aの指示があるまで、対象となる会員に対する暴行は終わらないものと認められるところ、本件の際、被告人Aが、海上で、Iに対する暴行をやめるように指示した状況はなかったことをも併せ考慮すれば、Iは、最後まで被告人五名らから沈め行為等の暴行を受け続けたものと推認できるから、被告人五名らの暴行とIの死亡との間に因果関係がない旨の弁護人らの主張は失当である。

第一五結論

一 以上の検討により、信用できるこれらの関係各証拠(被告人B及び同Cの捜査段階の一部の供述調書については、検察官の証拠調べ請求が、当該調書の供述者である被告人についてのみなされているので、その関係でのみ勘案する。)を総合すれば、次の事実が認定できる。

すなわち、少なくとも、平成三年春ころ「ふれあい会」が発足する前の教団では、会員らに対して絶対的な権限を有していた被告人Aが、法座の場で、対象となる会員を指名し、その会員に対して、他の会員に「本音を言え。」などと追及的な言動をさせたり、叩き合いと称する暴力を振るわせたりすることが日常的にあったところ、本件当日も、それを法座そのものと見るかはともかく、午後三時ころから、稲荷神社のテント内で、H子が教団の「つつみ」に非協力的な態度をとるようになったことなどを理由として、被告人Aの指示で、他の被告人らや、F、Gらの会員は共謀の上、H子の兄であるIの頬部を手で殴打する暴行を加え、その後、同日午後四時ころからは、Jも加わって、本件海水浴場の沖合まで取り囲むようにして連れていったが、その途中の浅瀬でもIの身体を海中に放り投げるか、足払いを掛けるなどして同人を転倒させる暴行を加えた後、沖合において、立ち泳ぎをしていたIの両肩や頭を手で押さえ込んだり、同人の腹部付近を背後から抱き抱えて海中に投げたり、同人の身体をつかんで海中に引き込んだりするなどの暴行を加えた結果、Iは溺水により本件海水浴場で死亡するに至ったものである。

二 弁護人らは、本件当日が海水浴シーズン最盛期の日曜日で、多数の人出があり、その衆人監視の中で、Iに対する傷害致死罪のような犯行が行われるはずはないなどとも主張するが、本件犯行が行われたのは、海水浴客らが帰りかけていた午後四時ころである上、本件海水浴場は、汐汲岩のほぼ東側(舞鶴寄り)がメーンで、汐汲岩のほぼ西側(宮津寄り)の海域は人出が少なかったこと、被告人らは、客観的に見れば、明らかに暴行であると解されるIに対する沈め行為等を、「法座」であると考え、特段、罪の意識を持たずに行っていたこと、海上での暴行の際は、回りを取り囲むようにしていたため、近くで見ていたB1らにもその状況がよく見えなかったことなども併せ考慮すれば、弁護人らの主張する点は、被告人五名らの本件犯行を認定する上で、何ら妨げになるものではない。

三 なお、Iが、本件海水浴場の沖合で被告人五名らから沈め行為等の暴行を受けた地点に関し、B1は、実況見分の際、目撃した集団の海上における位置として、汐汲岩先端部(北端西側)から西方に約三〇メートル、防波壁から北方に約四八・四メートルの地点を指示し、L子は、実況見分の際、Iに対する法座の最終的な位置として、波打ち際から沖へ約五〇メートルの地点を指示し、Mは、実況見分の際、Iらが集まっていた位置として、汐汲岩から西方に目測約三〇メートル、防波壁から北方に目測約五〇メートルの地点を指示し、Rは、捜査段階で、会員がじゃれ合っていたのは、汐汲岩から西方まっすぐ二、三十メートルくらい先の地点であった旨供述し、Fは、公判廷で、Iに対する沈め行為をしたのは、浜辺から約五〇メートルの沖合であった旨供述し、Gは、公判廷で、Iに対する沈め行為をしたのは、浜辺から四、五十メートル離れた地点であった旨供述し、Jは、実況見分の際、犯行場所として、汐汲岩北端から西方に約三〇メートル、波打ち際から北方に約五〇メートル(防波壁から北方に約六一・一メートル)、水深約二・三メートルの地点を指示し、公判廷でも同旨の供述をしている。

ところで、前述のとおり、関係者の供述や実況見分調書の立会人の指示説明等の中で、方角に関する部分は、正確な方角から時計回りに約四五度ずれていると解されるから、右供述や指示説明等で、「北方」「西方」としている点は、正確には、それぞれ「北東方向」「北西方向」と解される。

次に、I又はI夫婦が暴行を受けていた現場の水深については、関係者らは、「背が立たないところであった。」とか、「自分が沈んでも足が着かないところであった。」とか「水深約二メートルであった。」などと供述したり、指示説明したりしている。

これらの供述ないし指示説明の内容は、現場が海上であるという特殊性や、本件当時から供述時又は実況見分時までに相当の時間が経過して、記憶が曖昧になっていることなどに起因すると思われるが、多少の差異は見られるものの、いずれも虚偽を述べたり、虚偽の説明をしている事情は窺われず、信用できるものである。

他方、平成四年一〇月九日の計測結果によれば、本件海水浴場は、波打ち際から沖合に向かって、浅くなったり深くなったりしながら徐々に水深が増しており、際波壁から垂直に約一〇メートルの位置で水深が約五〇センチメートル、同約二〇メートルの位置で水深約一三〇センチメートル、同約三〇メートルの位置で水深約一〇五センチメートル、同約四〇メートルの位置で水深約一四〇センチメートル、同約五〇メートルの位置で水深約一五五センチメートル、同約六〇メートルの位置で水深二二〇センチメートル、同約六八・五メートルの位置で水深約二七〇センチメートルであったことが認められる。

これらを総合すれば、本件当日、Iが被告人五名らから本件海水浴場の沖合で暴行を受けた地点は、汐汲岩の先端部(西側)から北西方向に約三〇メートル、防波壁から北東方向に約五、六十メートルの地点で、水深二メートル以上の人の背が立たない場所であったものと認定できる(もっとも、前記水深の計測結果によれば、防波壁から垂直に約五〇メートルの位置は水深約一五五センチメートル、同約六〇メートルの位置は水深約二二〇センチメートルとなっているが、右計測をした日が本件当日から二年余り後で、この間に海底の状況等が変化している可能性や、潮の満ち干による水深の変化等(本件当日は、午後二時三〇分が舞鶴湾の干潮で、午後四時ころは、まだ潮がかなり引いた状態であったと解される。)を考えれば、右認定は不合理ではない。)。

四 以上のとおりであって、右認定に反する弁護人らの主張は、これまで個別に検討した以外の点をも含めていずれも採用できない。

(法令の適用)

被告人五名全員に対し

罰条 平成七年法律第九一号による改正前の刑法六〇条、二〇五条一項

未決勾留日数の算入 右改正前の刑法二一条

訴訟費用の負担 刑訴法一八一条一項本文、一八二条

(量刑の理由)

一  本件は、宗教団体の教祖である被告人Aが、信者であるその余の被告人四名らと共謀の上、同じく信者である被害者に対し、その不始末の責任を追及するため、陸上で顔面を殴打する暴行を加えた上、海上に連れ出してさらに集団で海中に沈めるなどの暴行を加え、被害者を溺死するに至らせたという事案である。

二  犯行態様は、神社の境内に設置されたテント内で、約一時間にわたって集団で詰問しながら被害者に暴行を加えた上、皆で取り囲むようにして海上に連行し、まず、浅瀬で暴行を加え、次いで、背が立たない地点で、立ち泳ぎをしていた被害者の両肩や頭を手で押さえ込んだり、腹部付近を背後から抱き抱えて海中に投げたり、身体をつかんで海中に引き込んだりするなどの暴行を二、三十分間にわたって加え、衰弱した被害者を溺水に基づく窒息により死亡させたという、極めて危険かつ卑劣、悪質なものであって、これが教団の「法座」の一環であったとしても、宗教活動として許容される限度を超えていることは明らかである。

三  被害者が右詰問や暴行を受ける原因となったのは、被害者の妹が、宗教団体の行事に出なくなったり、営利事業に協力しなくなったなどというものであるが、被害者自身には全く責任がない事柄であるし、本来、宗教活動への参加不参加は、信仰者の自由意思に任されるものであることは多言を要せず、どのような理由からにせよ、信者が、宗教活動をやめたからといって、当該信者やその身内に責任を取らせるなどというのは論外というほかない。

四  被害者は、当初、妻と共に右テント内で集団リンチまがいの暴行を伴う糾問を受け、その後同女と共に海上へ連れ出されて一緒に暴行を受けたものであるところ、最愛の妻の目前で、四八歳にして人生を絶たれた被害者の無念は察するに余りある。

また、被害者の妻は、教祖という立場を利用した被告人Aから口止めされたため、約一年半にもわたって、一人息子に対してさえ、真実を告げることができないまま、同教祖の下で宗教活動を続けていたものであり、その間の葛藤や同女が味わったであろう苦悩のほどは、真実を知されぬまま、父親の命を奪った者を教祖と仰いで、被害者の死後も宗教活動を続けていた一人息子の心情とともに、想像を絶するものである。

五  被告人らは、その一部の者が、捜査段階で被害者に対する謝罪の気持ちを表すかのような供述をしているものの、公判廷では、いずれも犯行を全面的に否認して、反省の態度を示しておらず、もとより遺族らに対して何らの慰謝の措置を講じていない。

六  被告人Aは、宗教団体の絶対的教祖として本件犯行を主導的に指揮するとともに、他の共犯者らに攻撃の手本を示すなどし、犯行後には口裏合わせ工作もしているのであって、犯情は最も悪く、刑事責任は重大であるが、その余の被告人B、同C、同D及び同Eについても、信者として、教祖の指示に従わざるを得なかった面があるとはいえ、被害者に対し海上で執拗な暴行を加えていることなどに照らしても、刑事責任は重い。

七  しかし反面、被告人B、同C及び同Eには前科がなく、被告人A及び同Dも交通関係の罰金前科しかないこと、被告人らには、扶養すべき家族があり、現在正業に就いていることなど酌むべき事情が存し、また、既に有罪判決が確定している共犯者らとの間の科刑の均衡も考慮する必要がある。

八  そこで、これら諸事情を総合考慮し、主文の刑が相当と判断した。

(裁判長裁判官 榎本巧 裁判官 松田俊哉 裁判官宮本博文は転補のため署印押印することができない。裁判長裁判官 榎本巧)

<以下省略>

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