大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

京都地方裁判所 平成9年(行ウ)34号 判決 2002年10月24日

原告

甲野春子

原告訴訟代理人弁護士

浅野則明

荒川英幸

佐藤克昭

被告

京都上労働基準監督署長

西口賢一

被告訴訟代理人弁護士

四宮章夫

被告指定代理人

森口季夫

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告が平成四年四月一三日付で原告に対してした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。

第二  事案の概要

本件は、梱包作業員として稼働していた甲野一郎(以下「一郎」という。)がその業務に従事中の平成二年三月一六日午後二時過ぎころに急性心筋梗塞を発症して間もなく死亡したことにつき、一郎の妻である原告が、被告に対し、業務上の死亡であると主張して労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づき遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求したところ、被告が一郎の死亡は業務に起因するものではないとしてこれを支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)をしたため、被告に対し、一郎の死亡は業務に起因するものであると主張して本件処分の取消しを求めた事案である。

一  争いがない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実は、以下のとおりである。

1  原告は、一郎(昭和一〇年六月二日生)の妻であって、平成二年三月一六日当時、一郎の収入によって生計を維持しており、また、一郎の葬祭を行う者であった。

2  一郎は、昭和二九年、大日本印刷株式会社の従業員として採用され、その後、製版会社勤務を経て、昭和六〇年、大日本印刷株式会社の子会社である大日本京都物流システム株式会社(以下「本件会社」という。)の従業員となり、以後、同社の梱包作業員として稼働してきた。

3  一郎は、平成二年三月一六日午後二時過ぎころ、大日本印刷株式会社の京都工場(以下「京都工場」という。)の包装作業場において包装作業等(以下「本件業務」という。)に従事していたところ、急性心筋梗塞を発症して突然倒れ、間もなく同所において死亡した。死亡当時、一郎は五四歳であった。

4  原告は、平成二年六月七日、被告に対し、一郎の死亡は本件業務に起因するものであるとして、労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求したところ、被告は、平成四年四月一三日付で、業務起因性は認められないとしてこれを支給をしない旨の本件処分をした。

このため、原告は、本件処分を不服として、京都労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、同審査官は、平成六年七月二二日付で同審査請求を棄却する旨の決定をした。

そこでさらに、原告は、上記決定を不服として、労働保険審査会に対して再審査請求をしたが、同審査会は、平成九年八月一四日付で同再審査請求を棄却する旨の裁決をし、同裁決書の謄本は、同年九月六日、原告代理人らに送達された。

5  そこで、原告は、平成九年一一月二七日、本件処分の取消しを求めて本件訴訟を提起した。

二  争点及びこれに関する当事者の主張

一郎の死亡が本件業務に起因するといえるか。

(原告の主張)

一郎が従事してきた本件業務と一郎の死亡との間には相当因果関係があり、一郎の死亡は本件業務に起因する。

一郎が急性冠症候群(急性心筋梗塞)で死亡するに至った要因は、本件業務が交替制勤務(深夜労働)であって、一郎にとって過重負荷、過重業務であったこと、しかも、一郎の死亡直前である平成二年一月から同年三月までの時期というのは、本件会社の決算期を控えて非常に過密なスケジュールとなっており、また、本件業務のうち夜勤については二人体制で行わなければならないものであったため、休みが非常に取りにくい状況にあり、本件業務による疲労が回復せずに蓄積したことにある。一郎は、基礎疾病として平成二年一月上旬ころに不安定狭心症を発症していたが、その症状は軽く、安静を保ち、適切な治療を受けておれば、通常の自然的経過では死に至る危険性が高いというような状態ではなかった。しかし、前記のような状況の下、一郎は、それ自体過重負荷であった深夜交替制勤務を含む本件業務に休暇を取ることなく従事せざるを得なかったものであり、特に死亡直前の一週間において深夜勤務に四日間も従事したもので、その死亡は、本件業務に内在する危険が現実化したものというべきである。

(被告の主張)

(1) 「過重負荷による脳血管疾患及び虚血性心疾患等の取扱いに関する報告書」(乙1、以下「専門家会議報告書」という。)によれば、脳血管疾患及び虚血性心疾患等は、動脈硬化等による血管病変又は動脈瘤、心筋変性等の基礎的病態が加齢や一般生活等における諸種の要因によって増悪して発症に至るものがほとんどであるが、この自然的経過中に著しく前記基礎的病態を増悪させる急激な血圧変動や血管収縮を引き起こす負荷、すなわち過重負荷が加わると、その自然的経過を超えて急激に発症することがあるとし、業務による明らかな過重負荷として、①業務に関連する異常な出来事への遭遇、②日常業務に比較して特に過重な業務に就労したことの二つがあるとしている。更に専門家会議報告書は、通常の業務による精神的・身体的負荷の影響は前記基礎的病態の自然的経過の範囲に止まること、過重負荷を受けてから脳血管疾患及び虚血性心疾患等の症状出現までの時間的経過は、脳梗塞や脳出血ではまれに数日経過する場合があるものの、通常は二四時間以内であること、過重負荷の程度あるいはその影響の評価について医学的に具体的尺度をもって示すことは困難であること等を指摘している。その後発表された「脳・心臓疾患の認定基準に関する専門検討会報告書」(乙52、以下「専門検討会報告書」という。)によれば、長期間に亘って疲労が蓄積した場合であっても、心疾患の発症の基礎となる前記基礎的病態がその自然的経過を超えて著しく増悪し、心疾患の発症につながることがあり得るとされており、③長期間の過重な業務も過重負荷にあたることを指摘するに至っている。

心筋梗塞の発症が業務に起因するというためには、以上のような業務上の過重負荷により基礎疾病が自然的経過を超えて著明に増悪し発症したと医学的に認められることが必要である。

(2)ア 一郎は、死亡の前日までに、強度の精神的負荷又は緊急に強度の身体的負荷を強いられる突発的な予測困難な異常事態、急激で著しい作業環境の変化等の異常な出来事に遭遇したようなことはなかった。

イ また、本件業務の過重性についてみると、まず、本件業務の作業内容については、特に神経を使うような作業はなく単純作業であり、精神的にも肉体的にも過重負荷がかかるものとはいえず、また、交替制勤務という勤務体制についても、そもそも心血管疾患の発症と有意の関連性があるとされているに過ぎず、その相対リスクは相当低い。また、日常業務としてスケジュールどおり実施されている場合又は日常業務が深夜時間帯である場合に受ける負荷は、日常業務で受ける負荷の範囲内のものであり、一郎の就労状況は、二週間単位で昼勤六日、夜勤四日、休日四日と決められており、勤務シフトの変更もなく、規則的にスケジュールどおり実施されていたものであり、日常業務で受ける負荷の範囲内のものであったといえる。さらに、本件業務を行う作業環境についても、冷暖房設備が備えられて温度管理がされており、食堂に休憩室が備えられていたことから良好であり、ストレスがたまるような状態にはない。以上からすれば、本件業務が過重であったとはいえない。

そして、本件業務の業務量・業務内容は、一郎の死亡前一週間において特に過重な身体的、精神的負荷と認められるようなことはなく、三日間従事した夜勤については、現実にノルマも与えられず、マイペースで業務に従事できたことから、一郎の従事した夜勤業務は、むしろ精神的負荷が昼勤に比べ低下するものであったし、昼勤であった死亡当日も、午後の作業量は少なかった。労働時間についても、一郎は、死亡前一週間において、死亡当日を含めて、合計二七時間しか就労していなかったものであり、死亡の前日は感冒を理由に有給休暇を取得していた。

以上からすれば、一郎が特に過重な業務に就労したとはいえない。

ウ 一郎は、その死亡前八か月において、勤務シフトの変更もなく、スケジュールどおり本件業務に従事していたものであり、その間特に過重な身体的、精神的負荷はなかった。労働時間についても、死亡前八か月において、一郎は、合計二〇日間の休務日を取得しており、かつ、週の労働時間が四〇時間に満たない週もあり、その不足時間数の合計も二七時間に達し、時間外労働による身体的疲労は、十分に回復されていた。

よって、一郎には疲労の蓄積もなく、長期間の過剰な業務に就労したとはいえない。

エ 一郎は、平成二年一月上旬ころから不安定狭心症を発症しており、心筋梗塞に移行しやすい状態にあったから、直ちに入院して治療を受けるべきであったのであり、昼勤業務にのみ従事するなど交替制勤務以外の就業条件であったとしても、心筋梗塞を発症した蓋然性は高かった。

オ 一郎は、不安定狭心症に罹患していた上に、ウィルス感染による感冒罹患を契機に冠動脈内に血栓が生じて冠動脈が継続的に閉塞され、心筋壊死が起こり、その結果、急性心筋梗塞を発症して死亡した可能性がある。

第三  当裁判所の判断

一  甲1ないし24(枝番を含む。)、乙1ないし53(枝番を含む。)、証人今西楯彦、同中川硯次、同安原正博、同三国幹夫及び同吉中丈志の各証言、原告本人尋問の結果(以下「本件各証拠」という。)並びに弁論の全趣旨によれば、以下のとおり認められる。

1  一郎は、中学校を卒業後、昭和二九年に大日本印刷株式会社に入社し、写真製版の技術者として約二九年間稼働してきたが、所属していた製版部門が昭和五八年に独立して京都製版株式会社となったため、そのころ、京都製版株式会社に再就職という形で異動し、更に昭和六〇年には大日本印刷株式会社の子会社である本件会社に転出した。一郎は、昭和六三年二月二一日以降、本件会社の梱包発送課の特印包装係の労働者として、大日本印刷株式会社の京都工場内で、交替制の深夜勤務を含む本件業務に従事してきた。なお、一郎は、過去に、職場の上司に対して交替制勤務が辛いと訴えて、梱包発送係に配置換えをしてもらったが、すぐに特印包装係に戻されたことがあった。

2  本件業務の内容は、グラビア印刷の巻取り製品の包装作業及び倉庫係への運搬作業である。具体的には、①未包装の巻取り製品を包装作業場まで運搬し、②巻取り製品を包装作業台に積み上げ、③クラフト包装紙またはポリシートで製品を包装し、④包装済みの巻取り製品をパレットに積み上げ、⑤倉庫係までパレット単位で運搬し、また、⑥空になったパレットを回収するというものである。平成二年当時、夜勤時には二人一組で、昼勤時には六人一組でこれらの作業が行われていた。対象となる巻取り製品は、平均一〇ないし二〇キログラムの重さがあり、特に重いものでは約四〇キログラム以上の重さのものもあった。巻取り製品を手渡すための移動にはベルトコンベアが使用されていた。②の作業は、電動式リフターが使用されて行われていたが、多品種・小ロットの製品の場合などパレットに巻数が少ない場合にはセッティングに時間がかかる等の理由で電動式リフターを使用せず、巻取り製品を手で持ち上げることが度々あった。なお、電動式リフターから包装作業台へ巻取り製品を乗せる作業自体は作業員の手で行われていた。また、④の作業は、作業員が製品を手で抱えて体ごとお腹の上に乗せるという方法で行っており、特に機械等は使用されていなかった。積み上げる高さは大体一五〇センチメートルから一七〇センチメートルであった。⑤の作業は、包装済みの巻取り製品をローリフト又はハンドリフトを使用して運搬するというものであり、その途中には長さ15.5メートル、高低差一九センチメートル、傾斜角0.7度の上り勾配の廊下があった。なお、運搬するパレットの総重量は平均一トン前後であった。⑥の作業は、十数枚の空パレットをローリフト又はハンドリフトを使用して一階の空パレットが置いてあるところから二階の包装係の場所まで運んでくるというものであった。

3  一郎の勤務体制は、夜勤を含む二交替の変形労働時間制(二週間単位で昼勤六日、夜勤四日、休日四日。)であり、二組の昼勤及び夜勤の組合せは、以下のとおりであった。

曜日 A組 B組

月  昼  夜

火  昼  夜

水  昼  休

木  夜  昼

金  夜  昼

土  休  昼

日  休  休

月  夜  昼

火  夜  昼

水  休  昼

土  昼  夜

金  昼  夜

土  昼  休

日  休  休

4  昼勤は、所定の勤務時間が午前八時から午後六時までで、所定外の勤務時間が午後八時までとなっており、残業が恒常化していた。休憩時間は、正午から午後一時までとなっていた。

夜勤は、所定の勤務時間が午後八時から翌日の午前六時までで、所定外の勤務時間が午前八時までとなっていたが、残業が恒常化していた。休憩時間は午前〇時から午前一時、又は、午前一時から午前二時までとなっていた。

その他に昼夜とも、二時間毎に一五分程度、一勤務三回程度の小休止があったが、その場に未処理の製品が残っていれば、休憩・仮眠時間にも作業を継続することが多かった。

5  昼勤の作業は、六人一組となって行うため、個々人に対してノルマはなかったが、班全体として作業を進めていく必要があり、できあがってくる製品をできるだけ早く処理して、製品が滞留しないようにする必要があった。また、一郎の所属していた包装係は、作業の最終工程に位置付けられていたため、前工程で作業の遅れが出た場合、品質事故が発見された場合、クレーム情報が入ってきた場合は、当初の業務予定を変更して、緊急の処理として、包装・搬出・納入などを行うということもあった。上司等から仕上がり状態や量についての指摘を受けることもあった。

夜勤の作業は、二人体制であり、昼勤と異なり、前記2の①ないし⑥のすべての作業を一人で行っていた。そして、翌朝にどれだけ製品が仕上がっているかによって夜勤における仕事量が一目して分かる状況であったため、全体の作業量自体は少ないとしても、一人あたりにかかる作業分担は昼勤に比して大きかった。また、夜勤の場合、二人体制であり、休暇を取ることは交替要員の確保など周囲の人に大きな迷惑を掛けることになるため、休暇が非常に取りにくい状況であった。実際にも、夜勤の交替勤務者が休むことはほとんどなかった。

6  一郎が本件業務に従業していた場所は、京都工場C棟二階の作業場で、冷暖房設備が完備されていたが、パイプ椅子が数個あり、中央に灰皿があるだけの喫煙用の休憩場所や食堂内に共通の喫煙所があったが、仮眠室や独立の休憩室はなく、横になって仮眠できるようなスペースもなかった。なお、一郎は、煙草は一切吸わなかった。

(死亡六か月前から二か月前までの一郎の勤務状況について)

7  平成元年九月一八日から同年一〇月一七日まで(死亡六か月前の一か月間)の一郎の勤務状況は、昼勤日数一二日、夜勤日数一〇日、休日八日、総拘束時間二六三時間、総労働時間二四一時間、時間外労働時間六五時間であった。

8  平成元年一〇月一八日から同年一一月一六日まで(死亡五か月前の一か月間)の一郎の勤務状況は、昼勤日数一二日、夜勤日数八日、休日一〇日、総拘束時間237.25時間、総労働時間217.25時間、時間外労働時間53.75時間であった。

9  平成元年一一月一七日から同年一二月一六日まで(死亡四か月前の一か月間)の一郎の勤務状況は、昼勤日数一一日、夜勤日数八日、休日一一日、総拘束時間225.75時間、総労働時間206.75時間、時間外労働時間30.75時間であった。

10  平成元年一二月一七日から平成二年一月一五日まで(死亡三か月前の一か月間)の一郎の勤務状況は、昼勤日数六日、夜勤日数五日、休日一九日、総拘束時間一二八時間、総労働時間一一七時間、時間外労働時間一五時間であった。なお、平成元年一二月二九日から平成二年一月一四日までの一七日間において、一郎は、年末年始の特別休暇(平成元年一二月二九日から平成二年一月四日)、一月七日、一三日及び一四日の休務日並びに一月八日から一二日までの有給休暇を取得した。

11  平成二年一月一六日から同年二月一四日まで(死亡二か月前の一か月間)の一郎の勤務状況は、昼勤日数一二日、夜勤日数八日、休日一〇日、総拘束時間二四一時間、総労働時間二二一時間、時間外労働時間五七時間であった。

(死亡一か月前から死亡当日までの一郎の勤務状況について)

12  平成二年二月一五日から同年三月一六日までの一郎の勤務状況は、以下のとおり、昼勤日数一二日、夜勤日数八日、休日一〇日、総拘束時間232.5時間、総労働時間212.5時間、時間外労働時間56.5時間であった。

(平成二年) 昼夜勤・休務日

勤務時間帯 実労働時間

二月一五日 昼勤

八時〜一九時 一〇時間

一六日 昼勤

八時〜二〇時三〇分 一一時間三〇分

一七日 昼勤

八時〜二〇時 一一時間

一八日 休務日

一九日 昼勤

八時〜二〇時四五分 一一時間四五分

二一日 休務日

二二日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

二三日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

二四日 夜勤明け休務日

二五日 休務日

二六日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

二七日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

二八日 夜勤明け休務日

三月 一日 年休

二日 昼勤

二〇時〜翌八時 一一時間

三日 昼勤

八時〜二〇時 一一時間

四日 休務日

五日 昼勤

八時〜二〇時 一〇時間

六日 昼勤

八時〜二〇時一五分 一一時間一五分

七日 昼勤

八時〜一九時 一〇時間

八日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

九日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

一〇日 夜勤明け休務日

一一日 休務日

一二日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

一三日 夜勤

二〇時〜翌八時 一一時間

一四日 夜勤明け休務日

一五日 年休(感冒を理由とするもの)

一六日 昼勤 八時〜一四時(死亡)

(一郎の健康状態・症状等について)

13  一郎は、昭和六〇年七月一八日(当時五〇歳)の健康診断時に、労作性呼吸困難を訴えた。血圧は一二〇と七〇であった。一般健康診断個人票(乙12)の同日の欄には、ECG(心電図)希望との記載がある。一郎の平成元年七月ころの体重は六八キログラム(身長一六六センチメートル)で、準肥満状態で、準高脂血症状態であった。

14  その後、一郎は、平成二年一月上旬ころ、自転車通勤中に胸部不快感を感じ、同月三一日、花房病院で受診し、「三週間前より自転車で通勤しているが、胸部圧迫がある。」という旨を訴えたところ、同院の花房医師により、「心筋虚血性・僧帽弁膜症の疑い」と診断された。血圧は一〇〇と五〇であった。また、一郎は、このころ、原告に対し、自転車で少し急いで走ったり、階段を上がるとき、胸がキューと締めつけられるように苦しくなるなどと話していた。

15  その後、一郎は、平成二年二月一日及び二日、花房病院において各種検査を受けたところ、以下のとおりの結果であった。

(1) 聴診上、心尖部にⅡ度の収縮期雑音。

(2) 胸部エックス線写真上、心胸比51.5パーセント、軽度の心拡張が認められるが、肺血管の増強は認められない。

(3) 心電図上、心拍数毎分六四拍、T波の増高が認められる。

(4) 血液検査CPK二四一(正常値の1.5倍)、CPK―MB一四(心筋変化正常範囲)

(5) 総コレステロール二〇二単位、リポ蛋白LDL四六五mg/dl、で正常範囲内。準高脂血症状態。

なお、花房病院における一郎に対する治療としては、初期にジゴシン、平成二年二月二八日までペルサンチン(冠動脈を広げ心筋への血液供給量を増やし、また血小板の凝集機能や粘着性を抑えて血栓の発生を防ぐ作用を持つもの)が与えられ、同年三月一四日に亜硝酸剤フランドルテープ(冠動脈を広げて血液の流れをよくし、心筋への血液供給量を増やす作用を有する亜硝酸剤)が投与された。

16  一郎は、平成二年二月八日及び同月二一日にも花房病院で受診し、その後、同月二八日にも同病院で再び受診した。血圧は同月八日が一一〇と七二、同月二八日が一一〇と六四であった。一郎は、同月二八日に受診した際、花房医師に対し、「少しは楽になった」と言っていた。

17  一郎は、平成二年三月一二日、朝からくしゃみや鼻汁が出たことから、出勤する前に京都民医連中央病院で受診したところ、感冒と診断され、同病院の医師から感冒薬を与えられた(血圧九三/五四、体温35.9度)。その後、一郎は、出勤し、午後八時から翌午前八時まで夜勤に就いた。一郎は、同日、原告に対し、「風邪を引いた、しんどい、息苦しい」と訴えていた。

18  一郎は、平成二年三月一三日、夜勤明けで帰宅した後、京都民医連中央病院で再び受診し、咽頭痛・関節痛を訴えたところ、同病院の医師から静脈注射を打たれた(血圧一〇二/五五、体温36.4度)。その後、一郎は、出勤し、前日同様、午後八時から翌午前八時まで夜勤に就いた。

19  一郎は、平成二年三月一四日、自宅に帰ってきた後、夜勤明け休務日を利用して京都民医連中央病院で再度受診したところ、同病院の医師から再び感冒薬を投薬された。一郎は、同日、花房病院でも受診し、胸部不快感を訴えたが、その際、聴診上、心雑音が消失していたため、初診時の雑音は無害性雑音と判断され、左前胸部にフランドルテープを貼付された。

20  一郎は、平成二年三月一五日、感冒を理由に本件会社を休んだ。一郎は、原告に対し、「風邪でしんどい」などと訴えており、この日は結局入浴ができなかった。

21  一郎は、平成二年三月一六日午前七時五五分ころに出勤し、定時の午前八時には本件業務を開始した。一郎は、正午からの昼休みに、たまたま出くわした同僚である今西楯彦に対し、「しんどい。胸が痛い。どこかいい医者おらんか」などと訴えていた。

一郎は、同日午後一時から、作業の打合わせ、説明の後に、本件業務を再開した。その後、実働五時間を経過した午後二時ころ、包装作業に従事していた水上邦雄(以下「水上」という。)が、目の前の製品の包装を終えて、一郎に対し、「品物を上げてくれ」などと言ったところ、一郎が聞こえなかったのか上げなかったので、再度強い口調で言うと、一郎は、「そんなに言わんでも直ぐに上げる。ちょっと待ってくれ」などと返答した。その直後、一郎は、水上にもたれるような形で突然倒れた。

その後、一郎は、駆けつけた産業医によって、心マッサージによる蘇生術が施されたが、間もなく同所において死亡した。一郎の死因は、急性心筋梗塞であった。

(心筋梗塞症、不安定狭心症について)

22  心筋梗塞症とは、心臓に分布する冠動脈の循環障害により、心筋にある程度以上の大きさの限局性心筋壊死を来すものであり、冠動脈の循環障害は、冠動脈硬化部に発生した閉塞性血栓によって惹起される。

不安定狭心症とは、後記のとおり、狭心症の一型であり、心筋梗塞症への進展や急死の危険性が高い症状であり、心筋梗塞症と不安定狭心症は、一括して急性冠症候群と呼ばれる。急性冠症候群とは、心臓に分布する冠動脈の病態に着目した捉え方であり、狭心症不安定化の主たる要因は、冠動脈の動脈硬化巣の粥腫の破裂に伴う血栓形成とされており、冠動脈の病態から見て、不安定狭心症と急性心筋梗塞とはその発生順序が類似している。すなわち、血栓が形成され、血栓により冠動脈内腔が閉塞し、かつその性状が持続的であれば、心筋は壊死に陥り、急性心筋梗塞となり、一方、血栓ができても完全な閉塞に至らず、狭窄に留まっている場合や閉塞が短時間で解消する場合は、狭心症発作のみが起こり心筋壊死はほとんど起こらず、不安定狭心症の状態になる。

23  狭心症の分類について、心筋の酸素の需給バランスに注目した場合には、労作狭心症と安静時(自発性)狭心症に大別され、心筋梗塞症への移行のしやすさという点からは、安定性狭心症と不安定狭心症に分類される。不安定狭心症は、狭心症の中でも心筋梗塞症へ移行しやすい、又は、突然死を遂げる可能性が高い、危険な狭心症を示す概念であり、一〜二か月以内に初めて発作などが生じる新規発現型狭心症と、それまでの狭心症の発作がより軽い負荷で胸痛が出現するようになったり、発作頻度が増加したり、発作の持続時間が延長したりすることの認められる増悪型狭心症に大別される。

24  虚血性心疾患及び心筋梗塞症の危険因子としては、①高コレステロール血症、②喫煙、③高血圧、④糖尿病、⑤家族歴、⑥肥満、⑦高尿酸血症、⑧年齢、⑨ストレス・A型性格、⑩運動不足、⑪男性、以上が主たる危険因子としてあげられている。

二  以上の認定事実を基礎として、争点について更に証拠を検討する。

1 労働者災害補償保険制度の趣旨に鑑みれば、狭心症に罹患していた者が急性心筋梗塞によって死亡した場合、その死亡が業務に起因するというためには、単に業務が心筋梗塞の発症の原因の一つとなったというだけではなく、当該業務の遂行が、その者にとって精神的、肉体的に過重負荷となり、それが、狭心症の自然的経過を超えて増悪させ、又は、当該業務を遂行せざるを得ない状況にあったことから狭心症による治療の機会を喪失させるなどして、その死亡時期を早め、死の結果を招いたといえるなどその死亡と従事していた業務との間に相当因果関係がなければならない。

2 前記認定事実によると、一郎の病状変化は、次のとおりであった。

(1)  昭和六〇年七月一八日ころは、同日に実施された本件会社の健康診断の際に、労作性の呼吸困難を訴えていたことはあったが、それだけで当時の一郎の症状を狭心症の症状(安定労作狭心症)と認めるのは困難である。一郎は、高血圧の傾向はなかったが、すでに、準肥満体の体型で、準高脂血症の状態であった。

(2)  一郎は、平成二年一月上旬の時点において、新規発現型労作狭心症を発症していたもので、それは、不安定狭心症の初期段階(Braunwaldの分類によればクラス1B1の段階。心臓に原因を持つ一次性の不安定狭心症の、新しく起きた発作であり、最小限度の治療しか受けていない状態)であったといえる。この状態は、急性心筋梗塞に移行し易い状態であったもので、安静休養と適切な治療が必要な状態であった。

(3)  一郎は、その後、平成二年二月下旬ころ、安定化に向かう症状を示したが、同年三月一四日ころ、狭心症により再び胸部の圧迫感を訴えるようになって、その症状が悪化し、花房医師から治療としてフランドルテープを胸部に貼付された。

(4)  一郎は、更に、同年三月一二日ころから、感冒に罹患しており、同月一二日、一三日及び一四日の三日間、京都民医連中央病院で受診し、感冒薬の投与を受け、一五日は、そのために休暇を取得した。その後、一郎は、平成二年三月一六日午後二時過ぎころ、急性冠症候群(急性心筋梗塞)を発症して、間もなく同所において死亡した。

3(1) そこで、前記で認定した事実関係の下で、更に各証拠を検討すると、確かに、吉中丈志医師の所見(甲7の1ないし7の3)中には、一郎の急性冠症候群による死亡は、基礎疾病の自然的経過によって起きたものではない、一郎が罹患していた不安定狭心症は軽度のもので、通常の経過ではそれほどリスクの高いものではなく、また、不完全ながらも治療を受けており、急性心筋梗塞で死亡に至った要因は、病気をおして交替制勤務を含む本件業務に従事していたこと以外にはない、との趣旨の部分があり、また、本件業務の内容は、肉体的にも疲労度の高い負荷をもたらす業務であり、更に深夜交替制勤務であり、職場には深夜勤務中十分に仮眠できるような施設もなかったもので、深夜交替制勤務と心血管疾患の発症との有意の関連性を肯認する専門検討会報告書(乙52)もある。更に、一郎の死亡一か月前及び二か月前の時間外労働時間をみると、それぞれ、56.5時間及び五七時間となっており、一郎は、死亡直前期において恒常的に長時間労働に従事しており、また、死亡六か月前から死亡するまでの間も、年末年始の時期を除けば、一郎は恒常的に長時間労働に従事していたものといえる。夜勤が二人体制であったので、休暇も取得し難い状況にあったことも確かである。

(2) しかしながら、一郎が平成二年一月上旬に罹患した新規発現型労作狭心症は、心筋梗塞に移行し易いもので、しかも、一郎は、準高脂血症等の心筋梗塞の危険因子も有していたもので、冠動脈硬化が徐々に進行するなどして、その狭心症が心筋梗塞に移行する危険性は相当あったものというべきである。

そして、本件業務の内容は、夜勤を含む交替制勤務ではあったが、夜勤明けは、一日又は二日の休養時間が確保されていたもので、更に、労働時間についても、平成元年九月から平成二年三月まで、一か月当たりの所定外労働時間は、平成元年九月一八日からの一か月が六五時間であるほかは、六〇時間を超えた期間はなく、年末年始を含んだ平成元年一二月一七日から一か月間が一五時間、平成元年一一月一七日から一か月間が30.75時間であり、更に、死亡前八日間に四日間の休日が確保されている。更に、一郎は、昭和六三年二月二一日以降、約二年間、このような本件業務に従事しており、その間特に勤務シフトに変更はなく、スケジュールどおり実施されていたもので、一郎の死亡前一週間における一郎の労働時間は二七時間に過ぎず、死亡前日は一日休んでいる。以上に鑑みれば、一郎が本件業務に従事したことにより、一郎に精神的・身体的ストレスが過重にかかっていたとまではいうことはできない。

また、夜勤が人間の生体リズム・生活リズムを狂わせ、その結果、心臓血管系の障害を引き起こすか否かについては、それを肯認する上記の専門検討会報告書もあり、その可能性はあるが、前記の判断を左右するまでのものとは認められない。

(3) このようにみてくると、一郎は、狭心症からその病状の自然の悪化により心筋梗塞に移行して死亡した可能性が強く、本件業務の遂行が、一郎にとって、精神的・肉体的に過重負担となり、狭心症の自然的経過を超えて増悪させ、死の結果を招いたものと認めることはできない。

(4) 次に、一郎は、平成二年一月上旬に不安定狭心症の一つである新規発現型労作狭心症を発症し、前記のとおり、心筋梗塞に移行する危険があったものであるから、むしろ、この時点で安静加療すべき状態であったもので、その後に、一郎が本件業務を継続したことが、その治療、安静の機会を喪失させたもので、それによって一郎が死亡するに至ったのではないかが問題になる。

しかし、平成二年一月又は二月に、一郎が花房病院を受診した際、直ちに入院・治療が必要であるとか、絶対安静にするため本件業務に就くことは控えるようにとの指示を受けたことを認めるに足りる証拠はなく、前記認定事実と本件各証拠に照らせば、平成二年二月二八日の時点において、一郎の不安定狭心症の症状は同年一月下旬ころと比較するとやや落ち着いており、安定化に向かう兆候もあったこと、同年一月下旬以降、花房医師による一応の治療を受けており、しかも休日も取得したことが認められ、同年一月下旬ないしそれに近接する時点において、一郎は、直ちに入院、治療をするか、少なくとも連続休暇を取得すべきであったとまでは、本件各証拠上、認められず、また、一郎が職場の状況からそれがどうしてもできない状況にあったとまでは、本件各証拠上、認められない。

(5) 以上のとおり、いずれにしても、本件各証拠を検討しても、一郎の死亡が本件業務に起因するものとは認め難く、これを認めるに足りる証拠はないといわざるを得ない。

三  以上の次第であり、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却すべきであり、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・八木良一、裁判官・古谷恭一郎、裁判官・谷田好史)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例