京都地方裁判所 昭和26年(タ)21号 判決
原告 山川一郎
被告 山川梅子(いずれも仮名)
一、主 文
原告と被告とを離婚する。
訴訟費用は被告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は主文第一、二項同旨の判決を求めその請求の原因として、
一 原告は会社員山川太市の長男に生れ、京都府立医科大学を卒業後同大学に於て研究中、昭和九年二月二十七日医師尾上松男の次女である被告と結婚し、同年五月二十八日婚姻届を為し、昭和十五年十一月迄同棲し、この間昭和十一年二月十一日長男一雄(同年二月二十九日死亡)昭和十二年六月四日次男(次雄昭和十七年十月十八日死亡)が出生した。
二 被告は昭和十六年三月七日原告を悪意を以て遺棄した。即ち、昭和十五年十一月被告は左側に軽症肋膜炎の診断を受けるや、独断で京都府立病院一等室に入院し、その後全治退院の日近きを知るや原告に秘して銀行預金等を引出し、当時野村証券株式会社京都支店に保護預け中の東京電燈株式会社債券額面五千円の被告名義の保管通帳の交付を原告父太市に要求しその返還を受けた上、昭和十六年二月四日原告に無断、実母たけと共に京都市左京区浄土寺真如町の原告留守宅より、被告の持物全部及原告の洋服タンス、医療器具、貴金属、ラジオ、時計、衣類、蒲団、炊事用具に至る迄実家へ運び去り、平然として入院をつづけ、原告は勤務先の職員より右の次第を聞き驚いて帰宅して見ると全く空家同然であつたので仕方なく父母の家に引移つたのであるが、被告及その母の横暴な仕打に堪兼ね同月二十八日以後の入院料の支払を拒絶するや、被告は同年三月七日原告及両親に無断で実家へ退去し、以て原告との婚姻生活を廃絶する意思を表明し現在に至つている、爾来被告は実家にあつて放縦な生活を為し、屡々京都市内に来るも原告方へ寄附かず、月末に至れば書面を以て金銭の仕送りを要求し、送金するも返事なく、昭和十七年十月十八日次男次雄が死亡するや翌日実母たけと共に原告方へ死体を運び込みたるも原告両親、親族、隣人の制止をも聞かずして引揚げその翌日の葬儀には遺骸を火葬場に見送るやその帰りをも待たずして引揚げたのである、然し乍ら原告は隠忍自重し昭和十七年十二月十三日被告の兄彦一を通じて被告に帰宅を求め、又原告の父より畑部五郎及原告の伯父中竹幸男を介して被告に復帰を求めたが、被告はこれに応じないのみならず、実母まさと計り原告の妹花子の婚嫁先等へ悪意に満ちた書面を送つて花子夫婦の離婚を図らんとしたので、原告は遂に離婚を決意しその旨人を介して被告に伝へたのである。
三 仮に右被告の悪意の遺棄が認められないとしても原告と被告との間には婚姻を継続し難い重大な事由がある。即ち、
1 被告は医師尾上松男の次女として裕福な家庭に育ち、原告と結婚当時父松男より原告の父に金三千円贈与した事実があつたので、当初より原告及原告両親を軽蔑し屡々原告及その両親に対し、
「こんな貧乏な家に嫁に来るのではなかつた、自分は騙されてこんな貧乏人の処へ来たのだから別れた方がよい」と放言し、原告日常の身の廻りの世話を為さず、原告の両親と同居するのを嫌い原告に対し両親との別居を強硬に迫つたので、已むなく昭和九年四月頃から京都市上京区紫野柳町、同区紫竹初音町伏見区平田町と転々住居を替へ父母と別居生活を続けて来た、昭和十三年六月当時原告は大連赤十字病院に勤務していたが、遥々原告方を訪ねて来た実母タネを虐待し、その頃被告の父松男が死亡したが、その長男である被告の兄彦一が未だ亡父の医業を継ぐことが出来なかつたので、原告は彦一の懇請により、同病院を辞し同年六月三十日被告の実家へ赴き内科医を開業し原告の収入によつて被告の実家を扶け、医院の信用を維持高揚したに拘らず、被告はその母と計り会計を掌握し、原告に対しその収支を明かにせず恰も原告を使用人の如く待遇し、又被告の母たけは屡々原告に対し「梅子が何時迄も貧乏人で苦しむよりは金持の後妻になつた方がよい」と侮辱したが、原告は被告一家の仕打にも拘らず、彦一の学位獲得を容易ならしめるため同人をして京都府立医科大学解剖学研究室に入室せしむる等被告の実家のため尽したのである。
2 昭和十六年三月六日以来原被告が別居して後被告は、昭和十九年頃当時原告の勤務先である傷痍軍人福井療養所に来り、同所の守衛詰所等に於て大声を挙げて原告を誹謗し、原告の官舎に来り女中の解雇を命じ、官舎内を捜索して原告の衣類を持去り、或いは同療養所に対し原告の俸給の半額を天引送金せよと要求する態度に出たので、原告は遂に昭和二十年八月六日京都地方裁判所に被告を相手取り離婚の訴を提起し、数回の口頭弁論後和解の勧告があつたが、被告は莫大な金員を要求したので昭和二十二年十二月八日訴を取下げた。
3 昭和二十三年十一月十日被告の嫂尾上波子、畑部五郎立会の下に被告と事実上の協議離婚を為したのみならず、昭和十六年三月七日別居以来既に十余年を経過し、その間事実上夫婦生活の実を挙げて居ないし従つて夫婦の愛情消失し、両者の関係極度に冷淡となり婚姻生活は事実上破綻している。
四 以上の如く被告の責任に帰すべき事由によつて原告との婚姻生活を破綻せしめ、多年に亘り原告を孤独と不自由不名誉に陥れて精神的肉体的に筆舌に尽し得ない損害を蒙らしめたのである。仍て昭和二十六年二月十九日京都家庭裁判所へ被告を相手方として離婚の調停の申立をなしたが不調となつたので、本訴を以てここに被告と離婚を求めるに及んだ旨陳述した。<立証省略>
被告訴訟代理人は原告の請求を棄却す、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁として、
一 原告主張事実第一項は之を認める。
二 原告主張事実第二項中、被告が昭和十五年十一月左側軽症肋膜炎のため京都府立病院に入院し、翌年三月七日退院し実家へ引越したこと、昭和十七年十月十八日次男次雄が死亡したこと、昭和十七年十二月十三日原告が被告の兄彦一を通じ被告の復帰方を懇請して来た事実は之を認めるがその余の原告主張事実は之を認めない。
即ち、被告は昭和十五年十一月入院するに際し、原告の指図を受けた事は勿論入院中も毎日原告と食事を共にしていた、又入院の費用は草津町で原告が医院開業中積立てた三井銀行の定期預金三千円を之に当て入院中の附添看護婦の給料、被告の食費は被告の実家から仕送りを受けて支払つていた、又退院後実家へ帰ることについても、原告から、病状により数年間は実家で養生しなければならぬからというので巳むなく別居することにしたので、荷物についても一応之を原告の両親宅へ預つて貰ふやうに原告を通じて話したところ、以前に小火をやつた事があり、年寄のこととて用心も出来ぬから持帰つてくれと言はれたので仕方なく持帰つたものである、被告が実家へ帰つてから原告より五十円宛三回と八十円一回送つて来てくれただけであつたがその都度礼状を出してゐる、二男次雄が昭和十七年十月十六日死亡した際も、病革るや早速原告に急報したが、見舞にも来てくれなかつた、当時被告は微熱があり、次雄の看病や死体の運搬などで疲労してゐたので、医者の注意もあつて一先づ実家に引返したので、この事は原告父太市の許を得てゐる、昭和十七年十二月十三日原告が被告の兄彦一を通じ、被告に復帰するやう申入れて来たので畑部五郎、中竹幸男を介し原告方へ交渉に行つて貰つた処、原告父太市は被告の復帰を拒んだのである、斯様な次第であるから被告は、婚姻を廃絶する意思を以て実家へ帰つたのでは全然ない。
三 原告主張事実第三項は全部之を否認する。
1 被告は同棲中原告に対しては勿論、原告両親に対し貞淑に仕へ原告主張のような暴言を吐いた事実なく、又原告身の廻りの世話は充分努めていた、原告両親との別居は結婚前からの取極めであつた、被告は持参金八千円の中三千円は原告の研究費に之を当て、残り五千円は原告の父太市に通帳のまま預けていた、又草津町に於て医業に従事してゐた間被告家の生活費、雇人の給料等全部之を被告実家の収入で之を賄い、原告の収入には一銭も手をつけた事がない、尤も原告収入中より毎月五十円宛は京都の原告両親に仕送りをし、医業の経費を差引いた残額は全部貯金していた。
2 昭和十八年十二月二十三日原告父太市は島田文男を通じ被告との無条件離婚を迫つて来た、そこで被告は当時原告が勤務していた福井の傷痍軍人福井療養所に至り原告の許へ復帰方を懇請したところ原告も、離婚は自分の意思ではないから父の承諾あるまで暫く待つてくれと言つたのである、昭和二十年八月六日原告は被告に対し離婚の訴を提起し、昭和二十二年八月訴を取下げたが和解に際し原告主張のような莫大な金員を要求した事はない、その際裁判官より父太市の機嫌をとり一日も早く復帰出来るようにせよと言われたので、京都の原告父母の許へ何回もその都度土産物を持参し、家庭内の手伝を為した。
3 昭和二十三年十一月十日被告の嫂尾上波子、畑部五郎立会の下に原告に会つたが離婚を承諾した事はない、又被告は未だ原告に対する愛情を持続して居り破綻は来していない。
四 原告は太田町子なる女性と通じ子供を生ませている、被告はこの事実を知り大いに驚き原告に同棲を求めたが拒絶せられたので巳むなく京都家庭裁判所(福井家庭裁判所より移送)へ扶養料の請求を為した、原告は現在医学博士の学位を有し、奈良県立病院の院長の栄職にあり、かかる地位にあり乍ら右の如く糟糠の妻として内助の効のある孱弱なる女性を長年月飜弄し他の女性と通じ、被告との婚姻関係の廃棄を求めんとするが如きは余りにも横暴な処為と言わなければならない、仍て原告の請求には応じられないと陳述した。<立証省略>
裁判所は職権により証人尾上たけの訊問を為し、京都府立医科大学病院長に対し、調査の嘱託を為した。
三、理 由
一 原告と被告との結婚の事情、別居するに至つた事情及び別居後本件提訴に至る経過について証人椎葉虎造、畑部五郎、川上静子、田上明朗、山川タネ、古賀アキ子、新田英雄、同祐六の各訊問の結果、原被告各本人の陳述の一部並びに成立に争いのない甲第一号証第四号証の一、二、甲第二十三号証、甲第二十六号証、乙第一号証ノ一、二、乙第二号証ノ一、二、乙第三号証ノ一、二、乙第四号証ノ一、二及五、乙第十一号証ノ一、二、乙第十六号証及び当裁判所が職権を以て調査を嘱託した京都府立医科大学附属病院長鯉沼武の回答書を綜合すると次の事実が認められる。
即ち、原告は会社員山川太市の長男として出生し、昭和九年二月二十七日(当時三十歳)椎葉清の媒介により滋賀県栗太郡草津町医師尾上松男次女梅子(当時二十一歳)と結婚し同年五月二十八日その届出を為した。
夫婦の間には昭和十一年二月十一日長男一雄出生(同年同月二十九日死亡)昭和十二年六月四日次男次雄出生(昭和十七年十月十八日死亡)の二児をもうけている、結婚当初夫婦は父母と同居していたが、結婚前の約束により昭和九年六月頃より別に一戸を構へ先づ京都市上京区紫野柳町に同棲することとなつた、結婚に際し被告は持参金として金八千円を原告に交付し内三千円は原告の研究費や生活費に当て、残五千円は東京電燈株式会社の社債券であつて、その預り証は之を原告の父太市に託していた、その後原告は努力の結果昭和十二年医学博士の学位を得たが、これには右被告の持参金による援助が与つて力があつたものである、けれ共被告は裕福な医業の家に育ち、その我儘と放縦が身についていて、実家と婚家の経済力の相違から事々に実家の富を鼻にかけ、つつましい俸給生活を嫌い右述べた持参金を以て原告の学位獲得に寄与した事情もあつて、原告及びその両親を蔑視し原告及びその母親タネに向い、こんな貧乏な家へ嫁に来るのではなかつた等屡々放言した、原被告がその父母と別居して後も被告は原告の身の廻りの世話も行届かず、屡々口実を設けて実家へ帰り洗濯物なども原告の母親に於て之を為し、食事の仕度も怠りがちであつたので、原告は食堂等にて食事するような事が度々あつた、原告は学位を得るや昭和十二年四月大連の赤十字病院内科医長として勤務することとなつたが、昭和十三年六月三十日被告の父松男が死亡し、当時その後継者である被告の兄彦一は未だ学業半ばであつたので、彦一が一人前になるまでその医業を継続する必要から原告は被告の実家のため、右赤十字病院の職を退き滋賀県栗太郡草津町の被告の実家にて医業を開き亡父の医業を継承してその信用を維持した、当時相当の収入をあげていたけれ共被告はその母親たけと共に原告の得た収入を掌握し、原告には単に僅少の小遣銭を与へるに過ぎなかつた、この間原告は、被告の兄彦一に学位獲得を容易ならしめるため、昭和十四年四月京都府立医科大学の研究室へ紹介して入室せしめた、昭和十五年一月右彦一が跡を継ぐことになつたので原被告等は草津を引あげ、京都市左京区浄土寺真如町に移り住み京都府立病院の無給の副手として勤務することになつた、ところが同年十一月頃流産の後が悪く被告は左側に軽症の肋膜炎を患い、最初は自宅で原告が治療に当つていたが幼児をかかへての治療が難しいので、遂に京都府立病院に入院することになつた、原告は経済上二等室を予約したが、被告は女中と次男とを引連れて入院し一等室へ入つた、しかし入院中の諸費用は原告が草津町の被告実家にて医業を継続中その収入より被告が貯蓄していた三千円の中より之に当て、入院中の食事は原告が被告の室に来て共にしていた、入院後は経過順調であつて翌十六年一月頃には退院後の生活について原被告間に折々話合いが行われたが、被告は実家へ帰つて養生するといい、原告は真如町の自宅へ帰ることを勧め互いに意見が一致せずに居る間、同年二月四日原告の不在中に被告は右真如町にある自己の荷物を全部草津の実家へ送りかえさせた、翌三月七日全治退院することとなつたが、自宅へは帰らず次男次雄を引連れて草津町の実家へ引揚げて了つたのである、これより先原告は被告兄彦一よりの要求により先に被告の持参金として預つた東京電燈の社債券五千円の預り証を返却した。
原告は已むなく真如町の家を引払い父母の宅へ同居することとなつたが、被告は実家に居つても屡々京都へ遊びに来たが原告方へは立寄らず、物見遊山に出掛けたりして放縦な生活をつづけていた、原告は別居後被告からの要求により昭和十七年一月頃迄合計二百十円程送金をしていたが、その後は送金をやめて了つた、原告は同年十二月十三日頃、近く福井療養所長として福井県へ赴任するについて、被告の復帰方を被告の兄彦一を通じて要求した、被告の方も復帰の意思があつたので畑部五郎、中竹幸男を介して原告の父太市に復帰方の交渉をしたが太市は被告には悪い癖があるから、それを直さない限り帰つて貰えないと言つて断つた、原告は昭和十八年一月二十九日福井へ単身赴任したが、その後も右畑部や、島田文男、椎葉虎造等を介し原告父太市と被告復帰方の交渉があつたが話は捗らなかつた、被告は原告父太市から復帰を拒絶せられたため焦燥を感じ昭和十九年二月八日被告の嫂尾上波子と二人で福井へ赴き原告に会つたのであるが、原告は父太市の反対もあり、当時妹花子のことで被告の母親たけのため生じた紛争に対する被告への憤慢もあつて同居を拒絶した、又同年三月八日再び被告は景谷昇、井口勝と共に福井の原告方に赴き復帰方の交渉をしたがこの時も原告は父の指図により同居を拒絶した。
その後両者間には交渉途絶し、原告は婚姻を継続する意思を喪い遂に昭和二十年八月六日京都地方裁判所に被告を相手方とする離婚訴訟を提起し、数回口頭弁論を経た上昭和二十二年十二月八日示談調わないため右訴を取下げた。
昭和二十三年十一月十日原告と被告は尾上波子、畑部五郎立会の下に離婚の話を持出したが被告に於て承諾を為さなかつた、昭和二十四年一月頃より原告は太田町子と内縁関係を結ぶに至り両者の間に昭和二十五年二月男子敏孝昭和二十八年一月一日男子義男出生し何れも原告が之を認知している。
昭和二十五年四月五日原告父太市死亡し、同年十月十三日被告より原告に対し福井家庭裁判所に扶養料請求の申立を為し、昭和二十六年二月十九日原告より被告を相手方として京都家庭裁判所に離婚調停申立を為し、同年五月十四日右調停不調となつた。
右認定に反する被告本人及原告本人の供述部分は措信しない。
二 以上認定した事実により原告主張の被告に悪意の遺棄があつたかどうかについて判断をする。
昭和十六年三月七日被告が京都府立病院を退院した当時その病気は全治していた事は右認定の通りである、原告も内科専門の医師であり、殊にその妻の健康については普通の夫以上に知悉していると見なければならない、それで、原告としては退院後の養生は自宅で充分出来ることであり、それが一番良い方法であると判断して帰宅を勧めた、しかし原告としては経済的には何かにつけ被告に負う所が多く、従つてその点に自信が無かつたので強く主張することが出来なかつたことは推測に難くない、被告としては、入院中は女中、看護婦付で一等室を占めぜいたくに慣れているから退院後原告との窮屈な切つめた生活は想像に堪えられなかつたので、経済的に余裕のある実家での養生を選んだのであろうが、夫婦というものは出来るだけ別居生活は避け、喜びも苦労も共にするというのでなければ、ほんとうの家庭を築き上げることは出来ない、気に入らぬ事があればすぐ実家へ帰つて了うというようでは夫婦の真実の愛情は生じない、この場合被告は自己の我ままを通し、原告との協議が充分整つていないにも拘らず、勝手に実家へ帰つてしまつたこと、殊に自己の荷物道具迄も運び去つたということは、原告との同居を拒否したと見なければならない、しかし被告に於て原告との結婚生活を廃絶する意思を有していたかということになると一概にそう断定してしまうわけにはいかない、つまり原告と被告の間には病後の養生をどうするかということでもめていたのであり、入院中両者の関係は一応円満に進行していたのであるから、荷物を持つて無断で実家に帰つたこと、而も持参金として原告方に預けていた五千円の社債も持ち帰つたという事等と外見的に見ると一応廃絶の意思があつたようにも見えるが、真実は、被告の増長したわがままの仕業であつて、夫婦生活についてのしつかりした認識のない被告が安楽な生活を希んでの軽卒な行為であり、結婚廃絶の意思までも有して居らなかつたものと見なければならない、このことは実家へ帰宅後も被告と原告との間には文通もあり、生活費の授受も行われているし、昭和十七年末頃原告からの復帰の要請に対して之に応じて他人を介してではあるが原告方へ復帰方の交渉をしている事実よりして推断出来る。
従つて昭和十六年三月七日、被告に悪意の遺棄ありとする原告の主張事実は之を採用することが出来ない。
三 次に原告主張の婚姻を継続し難い重大な事由ありや否やについて判断をする。
右に述べたように、ほんとうの夫婦生活というものは、夫婦が互いに努力して苦労を共にし、絶えず反省し合い、お互いの個性の成長をはかり、長年月一歩一歩と築き上げて行つて初めて完成するものである、したがつてこれがためには、別居ということは極力避けなければならない、別居生活が反つて夫婦の愛情を濃くするような事はあるがこれは相互に深い理解と愛情があつて、初めてそうなるのであつて相互に愛情の乏しい夫婦が長年月の別居生活をした場合は互いの感情は益々冷却し遂に取返しのつかぬ破綻状態に導くに過ぎない。
被告は婚姻生活の最初から、実家との経済生活の相違から原告並びその両親を軽侮する感情がある、即ち嫁した以上は原告である夫を援け、共にその地位の向上を計ろうとする熱意に欠けている、ということは結局夫に対する愛情に欠けていることである、恋愛によつて自然的に結び付けられたものでない場合は往々にしてある例である、しかし一旦結婚した上は選択は終つている、爾後は二人して人生を開拓して行くより方法はない、そこに人生の歓びが生れて来るのである原告もこの点については反省の余地はある、両親に対する孝養も大切であるが妻に対する態度に優柔不断な点がある、たとえ被告が自己の意思に反し実家へ帰つたとしても、その妻子に対する措置、昭和十七年末頃、被告に復帰を求めた時のやり方、福井へ被告自身が遙々尋ねて来た時の態度など遺憾の点が多い。
しかし乍ら原告は今や全く被告に対する愛情を失い、被告との結婚生活を持続する意思を有していない、而してこの原因は不自然な別居生活が主因をなしていることは明かである、而して現在原告は太田町子と内縁関係を結び二児までもうけている、従つて原被告間の結婚生活は取返しのつかない程度にまで破綻しているのである、被告はこの点につき、原告が妻ある身であるにも拘らず之を差置き他の女性と破廉恥の関係を結ぶは言語道断なりと主張するのである、そこで考えて見るに右述べたように、原被告間に破綻を来した主因は、昭和十六年以来の長年月に亘る別居生活であつて、その別居に至つた事情はむしろ被告の責に帰すべき事由に基くのである、被告がその我儘から無理に別居生活に入り、夫の愛情をつなぎとめるについて何等の方法も講ぜず、昭和十七年末頃原告からの復帰要求に対しても単に他人を介して交渉するが如き態度で終始し真に復帰する意思と熱意があるならばこの絶好の機会を逃さず、自身原告の懐へ飛込む位の熱情を示さなければならない、単に相手の気を引いて見る程度のかたくななやり方では、破綻しかかつていた状態を取戻すことは覚束ない、もともと両者に夫婦としての愛情に欠けているところへ、かかる長年月の別居により、又次男次雄を喪つた事により夫婦間の楔も無くなり、完全に冷却し、遂に昭和二十年八月六日原告より離婚訴訟の提起を見たのであつて、こうして原被告間の溝は愈々深くなつて行き、昭和二十二年一旦訴は取下げたけれ共、昭和二十三年十一月に原告は再び離婚の意思を被告に表明している、而して太田町子との関係が結ばれたのは昭和二十四年一月からであつて、原被告間の夫婦生活が破綻に帰した後の事であるから、この事によつて破綻は来したのではない。
そこで被告は未だこの結婚生活の維持に希望を捨てないようであるが、真の愛情を持つているかどうかは疑わしく、今までの経過に鑑み、原被告の性格の相違、根本的な愛情の欠乏より、将来再び円満な関係に復帰出来る見込みは全然ないと解される。かかる事情にある夫婦をいつまでも法律上夫婦として結びつけて置く事は諸般の事情から見て不合理であり、不可能の事であるから、こういう事情こそ即ち民法第七七〇条第一項第五号に所謂婚姻を継続し難い重大な事由に該当するものと判断する、仍て訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。
(裁判官 山田常雄)