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京都地方裁判所 昭和29年(行)5号 判決 1955年12月28日

原告 松浦玲

被告 国立京都大学総長

訴訟代理人 納富義光 外四名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、被告が原告に対し昭和二十八年十二月一日付告示第九号を以てなした放学処分はこれを取消す。訴訟費用は被告の負担とするという判決を求め、その請求原因として、

一、京都大学は学校教育法第二条に基き設立された国立大学であつて原告は同大学文学部学生として在学していたものであるところ、昭和二十八年十二月一日当時の被告学長(後に現在の如く総長と改称される)より告示第九号を以て、学生の本分を守らない行為があつたとして懲戒処分による放学に処せられたものである。

二、而して、右懲戒処分の理由とするところを要約すると、全日本学園復興会議準備会は被告学長に対し、昭和二十八年十一月八日の同会議総会々場として京都大学の法経第一教室の使用許可願を提出したが、被告学長はこれを許可しなかつたところ、十一月七日午後一時二十分頃から大学本部時計台前広場に於て右不許可に対する抗議集会が強行されたものであるが、原告は右許可願の責任者であり、同学会総務部中央執行委員であるに拘らず、

(1)  十一月七日の右抗議集会で議長の役割を果し、

(2)  次で十一月九日法経第一教室で行われた抗議集会に於て、同教室に貼出された集会禁止の掲示を破棄した。

というに在るが、その真相は次の通りであつて、原告には右理由に該当する事実はない。

三、(1)  全国学生自治会総連合(以下全学連と略称する)は学園の自治、学生の生活、勉学の増進を図ることを目的とする全国大学、高等学校の学生自治会の連合体であつて、昭和二十八年九月初頭、全学連中央執行委員会は学園復興の為十一月八日より同月十二日迄の五日間に亘り京都市に於て「学園復興会議」を開催すべきことを決定したので、右大会の諸準備の為在京各加盟大学より夫々準備委員を挙げ大会準備を持つことになつたが、原告も亦京都大学の同学会を代表してその準備委員となつた。

(2)  そこで、右準備会は在京各大学に対し右大会開催の為会場の使用方を懇請することゝし、立命館大学、同志社大学、京都学芸大学、京都工芸繊維大学、京都女子大学等よりは既に許諾を得、京都大学に対しては十一月二日右準備会を代表し、原告名を以て同月八日午前九時より開催すべき右大会々場として同大学法経第一教室の使用願を提出した。

(3)  これに対し、被告学長は同月七日右許可願の件に関し清風荘に於いて極秘裏に学部長会議が開いた。これを察知した原告等同学会の有志数名が同所へ赴いたところ、十二時過ぎ丁度会議を終えた井上学生部長より不許可の決定があつた旨の通知を受けた。

(4)  そこで当日午後一時頃右大会準備委員である原告及び訴外板東慧等は同学会の有志数人と共に右不許可の理由を糺す為京都大学事務局長、庶務課長、会計課長等に面接を求めたところ、右学生のうち、原告及び訴外板東慧、野村和秀、藤沢道郎、細見英の五名のみが学長応接室に於て面談を許された。尤もこの面談は、同日午後一時過頃大学の不許可の方針と交渉経過を聞き知つて愈々不満の念を昂めていた時計台前広場の参集学生達約二百名が直接抗議すべく原告等面談中の応接室へ押かけた為一時打切られるに至つたことはあるが、面談者は右の五名であつてその間増減又は交替なく、原告が終始右五名の面談者中の一員として右応接室に在り、右時計台前広場に於て参集中の一員としてその議長をつとめた事実のないことは関係学生間に周知のところである。

(5)  その後も大学に対する学生等の抗議はつゞけられ、十一月九日午後一時過頃前記広場に於て抗議の為参集せる学生は午後三時頃より法経第一教室に入り集会を続行し、原告は同教室に於ける最初の議長をつとめたが、のち学生荒木和夫に代り同日年後六時頃に至つて右集会を終つたのであるが、その間同教室の正面教壇の右側、扉寄りの箇所に集会禁止の掲示が三度貼り出されたが、初度はその附近にいた数人の学生により除去され、二度目は学生下条一誠によつて、三度目は京都学芸大学々生富部二三枝によつてそれぞれ取去られたのであつて、原告が右集会禁止の掲示を破棄した事実はない。右の如く原告には被告の懲戒事由として挙示せる如き行為が存しないに拘らず、これありとして本件懲戒処分を為した違法がある。のみならず、

四、本件処分は、被処分者である原告に何等の弁明の機会を与えずして為されたものであるから手続上も違反たるを免れない。蓋し「何人もその弁明の機会を与えられないで、その不利益な結果を帰せられることはない」ことは既に英国に於ては法諺とされているところであつて、(イ)非難の対象を明示し、(ロ)防禦に充分な時間的余裕を存し、(ハ)防禦の機会を与えられなければならないのである。このことは我国に於ても同様で、いずれの法域に於ても法規の明文を超えてすべての審理に通ずる「自然的正義の原則」とされているところである。被告は本件処分を含む一連の学内秩序破壊行為者の処分に際し、十一月二十九日懲戒委員会を開き審議の上これを決定したが、その際被処分者に何ら弁明の機会を与えず、たゞ処分請求者より提示された処分事由の存否のみを前提としたのであるから審議の意義は没却せられ学生懲戒手続規定が手続上の要件とする(同規定第一条)同委員会の審議は違法と云うべきである。

以上被告の為した本件処分は、実体上その該当事由なきに拘らず為した違法があるのみならず手続上も違法であり取消さるべきものであるから本訴請求に及んだ旨陳述し、被告の答弁に対し、京都大学に於て学内諸集会を行わんとするには、「学内集会許可願」を提出すべきことは「学内集会規程」によつて義務づけられているところであつて(同規程第四条)、この「集会許可願」なる手続上の責任者が負うべき責任内容は、許可に際し付せられる許可条件を守りそれに違背せざることに尽きるのであつて、他に及ぶものではない。被告が、原告が許可願の責任者であるとの事実を捉えて、そのこと自体を一つの懲戒事由としているところを見れば、被告が不許可とした為に惹起された一連の学生の抗議運動の責任迄をも、許可願責任者としての原告に帰せしめんとしているものと解せられるが、かゝる責任迄をも含むものでないことは前述の通りであるから原告が右許可願の責任者たる事実は懲戒事由と為し得べきものではない。

なお、被告は原告の懲戒処分を重からしめた事由として、原告が屡々行われてきた学内秩序攪乱行為の中心的人物となつていることや、昭和二十七年六月四日吉田分校で行なわれた破防法反対のストライキ決議の責任者として同年六月二十五日譴責処分に付せられていること等を主張するが既に前記処分理由(1) 、(2) の理由なきこと前述の通りであるから、その情状を独立した処分事由として論ずる必要がない旨述べた。

<立証 省略>

被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として、原告主張事実中第一、二項、第三項の(1) 、(2) (但し京都工芸繊維大学が会場使用を許諾したという点は否認する)(3) の各事実及び(4) 、(5) の事実中原告が事務局長等に面接した五名の学生中に終始いたとの点及び原告が集会禁止掲示を破棄したことはないとの点を除きその余の事実を認めるが、原告主張の日時に事務局長等と面接した五名の学生の氏名は不知その他の原告主張事実は否認する。

被告が原告を懲戒処分するに至つた経過は次の如くである。

一、昭和二十八年九月京都市に於て開かれた全学連中央執行委員会に於て全日木学園復興会議を京都市に於て開催することが決定され、この準備の為に全日本学園復興会議準備会が同志社大学内に設置せられた。ところでこの準備会は学園復興会議の会場として京都大学の教室を使用することを計画したが、被告にとつては使用を許すことについて極めて困難な事情があつた。というのはこの会議には全国の学長、教授、学生、労働者、農民、女化人等の代表者多数が集るといわれ、この様な不特定多数人の集会には被告は責任を有し得ないと同時に、特に諸般の状勢から、この集会で再軍備反対等の政治的活動が行なわれ教育基本法第八条に抵触する結果が招来せられる懸念が濃厚であつたからである。従つて被告は教室を会場として使用せしめることは出来ないと云う方針をとり、京都大学の全学々生自治会である同学会の役員に対し一ケ月も前から教室を会場に使用することを許すことはできないから他の会場を考慮する様再三にわたり警告してきた。たまたま十月十三日学部長会議が開かれたが、この方針はこの会議に於ても確認せられた。

然るに右準備会ではその会議に京都大学の教室を使用するとの初志を飜さず、遂に十一月二日付で原告を集会許可願の責任者として法経第一教室を始め数個の大学施設の使用を願出てきた。前述の如く、被告としては既に不許可の方針を決定していたが、学生の特別詮議の要求がなかなか強かつたので、再び十一月七日午前十一時から学部長会議を開き許可問題を討議したが、却つて従来の方針が再確認せられる結果となつた。そこで直ちに十二時過頃この旨を原告や関係学生に通告すると共に、会場を学外に斡旋してもよいと迄云つたが、原告等学生はこれを聞き入れず抗議集会が強行せられる状勢であつたので、掲示及び立看板を要所に立てゝ一般学生に警告した。然るに学生側はあく迄法経第一教室の獲得を叫んで時計台前広場で抗議集会を強行しようとし、七日午後一時頃から約百七十名が被告の禁止を無視して右広場に集合し抗議集会を開いた。原告はその不法集会に於て議長の役割を果したのである。

これより先、学生側から不許可の理由を糺すと云つて京都大学事務局長相良惟一、庶務課長内藤敏夫、会計課長本田要太郎に面接を求めてきたので、五名を限り面接を許し学長応接室に於て面談中であつた。そのうち抗議集会はその余勢をかつて我々も直ちに合流しようとの発議が出て全学生等は本部屋上に押かけ、事務局員の制止をも肯かず廊下に座込み、一部の学生は五名が面談中の応接室へ入つてきた。この時に始めて原告が応接室に現われ面接の中心人物となつたのである。この事実は学生課員数名が現認しているところであつて動かし得ない事実である。かくの如く学生等が被告の退去命令を肯かなかつたので、二度に亘り警察権の発動を見るという混乱が発生した。

翌十一月八日(日曜日)は学園復興会議の第一日目であつた。準備会からの通知によつて他府県の学生多数が午前八時頃から京都大学構内を目ざして集つてきた。守衛は、会場は同志社大学にある。本学では禁止されている旨を説明し、立入を拒絶したが、学生等はこれを肯かず強引に構内へ立入つてきた。殊に原告は百万遍の裏門にあつて、守衛の制止を排して女子学生多数を構内に導入した。午前十一時過には約百五十名に達し不法集会を為した。翌十一月九日午後一時頃、吉田分校生の示威隊が正面より入り学内を示威行進し、時計台前広場へ集り気勢をあげ、二時頃には他大学の学生を交えた約八十名が不法集会を開いた。この日法経第一教室では講義があつたが、その終了を待つて第一教室になだれ込み学生課員の制止にも拘らず教室を占拠して不法に集会を開いた。原告はこの時最初の五分間程議長の役割を果し、その後は経済学部学生荒木和夫と交替した。原告がこの際に、大学職員の貼出した右教室内の集会禁止の掲示を破棄した事実は学生課員が明確に現認しているところである。この不法集会によつて翌日の進学適性検査の準備が妨害された。

更に十一月十一日午後二時半頃から他大学々生を交えた約百五十名が前記広場へ集り不法集会を開き、次で内藤庶務課長に会場問題等で迫り、課長室の電話線二本を切断するの暴挙に出でたが、当日は立命館大学のワダツミ像歓迎示威行進が行われる為、それに合流すべく構外へ出ていつたところ、その途中、所謂荒神橋事件が起つたのである。

二、こと茲に至つては被告としても右の如き一連の学内秩序破壊行為を不問に附し得ないことは当然である。こゝに於て責任学生の責任を追及することゝなり、十一月二十九日懲戒委員会を開きその審議の結果に基き被告(当時服部学長)は十二月一日付で原告を放学処分に、訴外小野一郎、同荒木和夫、同板東慧をそれぞれ無期停学処分に、訴外下条一誠、同池田淳をそれぞれ譴責処分に付した。

而して原告に対する処分理由

(一)  十一月八日の学園復興会議に法経第一教室を使用することについての許可願の責任者であること。

(二)  十一月七日の不法集会に於て議長たる役割を果したこと。

(三)  十一月九日に法経第一教室内に貼出された集会禁止の掲示を破棄したことの三点に在るが、原告が従来屡々行われてきた学内秩序攪乱行為の中心人物となつていることや、昭和二十七年六月四日吉田分校で行われた破防法反対のストライキ決議の責任者として同年六月二十五日譴責処分に付せられている事実等が原告に対する処分を重からしめている旨陳述し、原告主張の懲戒処分手続に違法ありとの点に対し、学生に対する懲戒は教育上の措置であつて、平素より学生の学内に於ける違法な言動について事前に充分な補導を行つているが、懲戒はそれにも拘らずなお犯すところの明白な学生の本分にもとる非行に対して教育上の立場より行うものであるから弁明の機会を与える必要がない。而して具体的懲戒に際しては、教職員から資料を提出せしめ、学部又は学生部でこれを整理の上補導会議(京都大学補導会規程第二条)に付し、懲戒を可とするとの決議が成立した者につき学生懲戒委員会(学生懲戒手続規程第一条)に付する。同委員会は学長の諮問機関であり、議事は慣例上投票を用いず全員一致した意見によつて決定され、この委員会の答申に基き学長が懲戒処分を行うのである。本件懲戒処分に際しては、事前に、原告に対しても集会許可願の出される一カ月前位から学生部長、学生課長等補導責任者より本学教室を全学園復興会議に使用することを許すことが出来ない理由を懇切丁寧に説明した上、他の会場を考慮する様再三に亘り警告してきた。それにも拘らず、原告は不許可になることを知り乍ら十一月二日敢て「集会許可願」を提出し、それが不許可となるや、今度は不許可に対する不法なる一連の抗議活動の中心人物として行動したのである。かような明白な非行を理由として本件処分を行つたのであるから、懲戒に際し原告に弁解の機会を与える必要は毫末もあり得ない旨述べ、

なお処分理由等には処分の根幹的理由を挙示すれば足り、一切の理由をあすまとこはなく列挙する必要はない旨付陳した。

<立証 省略>

理由

京都大学が学校教育法第二条に基き設立された国立大学であつて、原告は同大学文学部学生として在学していたものであるところ、昭和二十八年十二月一日当時の被告京都大学々長より告示第九号を以て、原告に学生の本分を守らない行為があつたとして懲戒処分による放学に処せられたこと、而して右処分理由として右告示第九号の挙示するところは、「全日本学園復興会議準備会は、去る十一月八日の同会議総会々場に法経第一教室の使用許可願を提出したが、本学は既定の方針に従つて不許可とした。理由を明示して会場の変更を促したにも拘らず、十一月七日午後一時二十分頃から本部時計台前広場で不許可に対する抗議集会が強行された。右者、許可願の届出責任者である。且つ同学会総務部中央執行委員であるにも拘らず、前記不法集会で議長の役割を果し、越えて十一月九日法経第一教室で同様の抗議集会が強行されたとき同教室内に貼出された本学の集会禁止掲示を直に破棄し去つたものである」と謂うに在ることろ当事者間に争のないとこである。ところで原告は、被告が挙示する如き処分事由のうち、十一月七日の不法集会に於て議長を為したこと、十一月九日法経第一教室内に貼出された集会禁止の掲示を破棄したとのことはいずれも事実無根であり、又原告が前記学園復興会議会場として右法経第一教室の使用許可願の届出責任者であるとの事実は、京都大学の「学内集会規程」によつて学内集会を行わんとする者に課せられる手続を原告が履践したというにとゞまり、京都大学が不許可とした為惹起された一連の学生の抗議運動の責任にまで及ぶものではないから、これを以て原告に対する懲戒事由と為し得べきものではなく、原告に対する被告の右処分には以上の如き明白重大なる違法がある旨主張し本訴に及んでいるのである。よつて右処分事由の存否につき判断を加えねばならないが、これに先立ちこゝに本件処分が為されるに至つた当時の模様について概観する。全学連(全国学生自治会総連合)は学園の自治、学生の生活、勉学の増進を図ることを目的とする全国大学、高等学校の学生自治会の連合体であつて、昭和二十八年九月初頃京都市に於て開かれた全学連中央執行委員会は学園復興の為同年十一月八日より同月十二日までの五日間に亘り京都に於て「学園復興会議」を開催すべきことを決定した。そこで右大会の諸準備の為在京各加盟大学より夫々準備委員を挙げ大会準備会を持つことゝなり、京都大学の同学会総務部中央執行委員であつた原告(この点は原告本人尋問の結果によつて認められる)も亦同学会を代表してその準備委員となつた。右準備会は在京各大学に対し右大会開催の為会場の使用方を懇請することゝし、立命館大学、同志社大学、京都学芸大学、京都女子大学等よりは使用の許諾を得、京都大学に対しては同年十一月二日右準備会を代表して原告名を以て同月八日午前九時より開催すべき右大会々場として法経第一教室の使用許可願を提出していた。以上の事実は当事者間に争がない。而して成立に争のない乙第一号証の二、同第二号証、同第七号証に証人安田勇、本田要太郎(第一回)、板東慧、藤沢道郎の各証言、原告本人尋問の結果並に弁論の全趣旨を綜合すれば、京都大学に於ては「学内集会規程」によつて学内学生々徒が学内に於て集会を為さんとする場合は学生部を経て、その他の学外団体の集会の場合には事務局を経てそれぞれ集会許可願を学長に提出して集会許可を受けるべきことゝなつており、原告の提出に係る右集会許可願も学外団体である学園復興会議準備会を主催者とするものであるから、事務局会計課を経由して取扱われたのであるが、右許可願は会計課に停滞し容易に許容される気配もなかつたので原告は許可の促進を図る為被告学長、各学部長、学生部長、学生課長、会計課長等に面接を求め集会の趣旨を説明する等して許可を得ることに奔走してきた。しかしながら被告学長はつとに右集会許可願の提出に先立ち右学園復興会議が学内学生のみによる集会ではなく全国的に、不特定多数に及ぶ他校学生々徒や教育関係者、文化人等の学外人の参集が当然に予定せられており且つこれら学外人士をも混える集会に於て党派的政治問題等が取扱われることも懸念せられるとし、かゝる集会が学内施設に於て行われることは集会につき管理責任を有する学長としてその責任を負い難く、学内集会規程第三条に照し許容すべきものでないとの意見の下に、原告その他の学生よりの使用許可要求に対し許可は困難である旨の意こうを洩してきたが、原告等学生の強い要望と学生補導機関である学生部委員会の右集会許否を学部長会議によつて決せられたい旨の希望決議もあり、昭和二十八年十一月七日午前、清風荘に於て学部長会議が開催され協議されたが、その結果は右記見解の如く不許可と決定し、同日午後零時三十分頃その旨正式に学生部長より原告等学生に対し口頭を以て発表せられるに至つたことが認められる。右不許可処分に端を発して、これに対する学生の抗議活動が続発し、その一環として本件に於て処分事由の存否が争われている十一月七日午後一時過よりの時計台前抗議集会及び同月九日法経第一教室内での抗議集会が行われるに至つたのである。即ち証人安田勇、宮本了邦(第一、二回)、佐々木邦彦、森田修、豊田正義、中村光喜、木村孝、田中道七、岡本浩、朝尾直弘、鮎川泰三、太田睦美、伊達勇助、荒木和夫、中村哲(第一、二回)、柴田直秀(第一、二回)、板東慧、藤沢道郎、細見英(第一、二回)、本田要太郎(第一、二回)、内藤敏夫(第一、二回)、西村源次(第一、二回)、相良惟一、佐野正常、広井喜代造、中井洋太、野村秀和、小野博の各証言、原告本人尋問の結果及び検証の結果によれば、原告等学生は右学園復興会議会場として法経第一教室の使用が許可されるや否やについて重大な関心を寄せ学校当局の態度を注目していたが、許可を困難とする学校当局の意向を察知し不許可とせる場合に於ても、なお右学内集会の要望を貫徹しようと予ねて右十一月七日午後一時より京都大学時計台前広場に於て抗議集会を開催すべきことを計画していたが、右不許可の報に接し直ちに右予定の如く時計台前広場に於ける右集会の許可願を同学会名を以て学生課へ提出した。右許可願も不許可とされたが学生等は集会を強行した。同日午後一時前頃より参集学生は次第にその数を増し午後一時二十分頃より集会は開始され立命館大学生約二十名程の参加もあり二百名余の学生によつて時計台前広場に於て学校当局の学園復興会議会場使用不許可処分に対する抗議集会がつゞけられた。右集会の開始と殆んど時を同じうして十数名の学生は大学本館二階の学長応接室に於て当時の事務局長相良惟一、庶務課長内藤敏夫、会計課長本田要太郎に面会を申入れたが、面会者を五名に制限せられた為訴外学生板東慧、細見英、藤沢道郎、野村秀和外一名の五名が選ばれ、これら五名の学生と右事務局長等とによつて学長応接室に於て終始人員に変更、出入なく、学生側より学園復興会議会場使用不許可処分に対する理由を糾明し学校当局の態度を抗議する趣旨の会談がつゞけられたが、午後二時前頃、前記時計台前の抗議集会の参集学生多数が右応接室に於ける抗議に直接加わるべく面会中の室内へ押かけちん入した為室内は混乱を生じ室外廊下にも学生は充満し会談は事実上打切られるに至り、学生等は被告学長の退去命令に従わず為に学校側より警察官の出動を求めて学生達を退去せしめる等の事態が生じ、それ以来数日に亘り学内に於て許可されざる学生側の抗議集会が行われたことが認められる。又証人宮本了邦(第一、二回)、佐々木邦彦、森田修、下条一誠、梶浦道子、松尾孝(第一、二回)、富部二三枝、荒木和夫、高橋哲郎の各証言、原告本人尋問の結果並に検証の結果によれば、昭和二十八年十一月九日も午後二時頃より時計台前広場に於て二千名を超える学生によつて許可されざる抗議集会が強行されたが、同集会は法経第一教室に於て行われている講義が終了するを侍つて議場を同教室に移すことを決議し、右講義終了に先立ち多数学生が同教室へ潜入し午後三時頃講義の終了と同時に、学校側職員より翌十日右教室に於て行う高等学校生徒に対する進学適性検査の準備の為同教室の使用を禁止する旨申入れ極力阻止するを押切り、同教室へ侵入して占拠し同時刻より午後五時三十分頃まで他校学生をも加え三千名を超える多数学生の不法集会が行われた。原告は同教室内での不法集会に於て当初議長を為したが、間もなく学校側が集会を阻止しようとして同教室への送電を絶つた為訴外学生荒木和夫が原告に代り議長となり不法集会をつゞけた。その間学校側職員により二、三度に亘り集会禁止の掲示が同教室の中央演壇と西南出入口のほゞ中間南側通路の壁上部に貼出されたが興奮せる数名の学生によつていずれも即座に破棄されるという事態を生じたことが認められる。以上各認定事実に反する証拠は存しない。

被告学長の原告に対する本件処分事由が、右十一月七日午後一時過よりの不法抗議集会に於て原告が議長の役割を果したこと及び右同月九日の法経第一教室内に掲示された集会禁止の掲示を原告が破棄したことに在り、原告がこれを事実無根として争つていることは既述したところである。よつて右処分事由たる事実の存否について順次判断する。

第一、十一月七日午後一時過よりの右不法集会に於て原告が議長の役割を果したとの点について。

原告は同日時計台前の右抗議集会の行われていた時刻には、右応接室に於ける面接学生五名中の一員として面会していた旨主張する。前認定の如く右学長応接室に於ける面会は右抗議集会と殆んど時を同じうして開始され、右抗議集会の参集学生が直接抗議すべく右面会中の応接室へ押寄せちん入した午後二時前頃打切られ、その間面会学生五名に変更なく終始室内に在り出入したことはなかつたのであるから、若し原告主張の如くであるならば、原告が時刻を同じうして行われた抗議集会の議長を為し得た筈はないのであるからますこの点より判断する。

(一) 学長応接室に於て原告は面会していたか。検甲第一号証写真によれば原告が右学長応接室の個椅子に当時の相良事務局長等と対面して着座していることが認められるが、同写真と証人戸松規の証言を綜合すれば、同写真は新聞社カメラマンである右戸松証人によつて右時計台前抗議集会の学生達が右応接室へ押寄せちん入した後間もなく応接室内の状態を撮影されたものであることが明らかであるから、これのみによつて原告が右面会学生五名中の一員であつたことの証左となし得ない。証人本田要太郎、西村源次、細見英(いずれも第一、二回)の各証言によれば、右面会の申入れは原告によつて為されたことが認められるのであるから面会申入者たる原告が引つゞき面会者として面会学生中の一員に加わつたと推測することは格別不自然とは云えない。而して証人野村秀和、細見英(第一、二回)、池田清美(第一乃至第三回)、板東慧、藤沢道郎の各証言によれば、いずれも原告が面会学生中の一員であつたことを現認している旨の供述が存するからこれら各証言が措信し得るならば原告が面会学生中の一員であつた事実を認めるに足るが如くである。しかしながら前記証人本田要太郎の証言によれば、同証人は京都大学会計課長として国有財産管理の事務を掌り前記の如く学内集会規程により学外団体の学内集会について集会許可事務を取扱つていた関係上原告より届出られた学園復興会議会場使用許可願の手続等に関し原告より屡々面会を求められ、右学長応接室に於ける面会の前日及び前々日にも原告の求めにより三、四時間の長きに亘る面会を余儀なくされ原告を熟知していたこと、しかも右学長応接室に於ける面会の申入れが原告により為されたことを認めているにも拘らず面会学生中に原告はいなかつたというのであり、又前記証人西村源次は、学長秘書としてこれ迄原告より学長に対する面会申入を度々取次いだことがあり平素より原告をよく見知つており本件に於ける面会の申入れも原告より受けこれを取次ぎ、面会申入れの際の原告の挙動につき詳細明確な記憶を有し、取次の返事を申込者の原告に対して為すべく室外廊下に待機中の十数名の学生中に原告を捜したが、原告の姿は見当らなかつた為に右十数名の学生に対して五名に限つて面会する旨の返事を為し、面会が始まつて後にも二度程応接室へ出入することがあつたが原告は面会学生中にいなかつたことを確認している。又証人豊田正義は京都大学担当の新聞記者として原告をよく見知つており同日面会の為学長応接室へ学生が入室するところを目撃していたが、それら学生中に原告の姿を認めず又面会中にも室内をのぞき見たが原告がいなかつた旨供述している。証人内藤敏夫(第一、二回)、相良惟一の各証言も亦等しく面接学生中に原告がいなかつた旨確言している。これら各証言は前記証人野村秀和、細見英、池田清美、板東慧、藤沢道郎の各証言及び原告本人尋問の結果と全く相反するところであるが、作為的に事実を曲げて述べられているとの前提を採らない限りこれら被告側の各証言は、面会申入を為した原告が面会者の一員として面会に加わつたであろうとの推測を打破るに充分であり、原告側の各証人の証言及び原告本人尋問の結果に比して信憑力が勝れているといわねばならない。蓋し、原告側の各証言は例えば、(1) 藤沢証人の証言によれば「午後一時頃に時計台下で学生が集つており、その中に原告がいてこれから事務局長等に理由を聞きに行くというたので自分も二十名位の学生と共に本部二階の学長応接室へ上つて行つた」ということであつて、この証言は他の各証人(板東、細見、野村、池田等)が、午後一時頃原告、板東、細見は本部二階に在つて事務局長等に面会を申入れており、その中細見が同所から時計台前広場に降りて行き参集員の中から野村、池田、藤沢等を二階へ連れて行つたというのと著しく喰違つている。(2) 学長応接室における学生側五名の着席位置の点についても互いに齟齬する。例えば藤沢証人の証言は「藤沢が真中で右に板東と原告、左に野村と細見がいたが或は左右反対であつたかも知れぬ」。また池田証人の第一回証言は「左から原告、野村、藤沢、細見と板東但し最後の二人はどちらが左か右か記憶せぬ」。細見証人の第一回証言は「左から原告、細見、藤沢、板東と野村の順序で最後の二人はどちらが左か右か記憶せぬ」。野村証人の証言は「テーブルの西側に事務局長と向合つて原告、同南側に野村と藤沢と細見、板東が東壁際の長椅子」というように野村と細見の位置について特に不一致が甚だしい。(3) 古松証人の証言によれば、昭和二十八年十二月上旬頃同証人が吉田分校で池田清美等二、三十名の学生より面会を求められて懇談した際話が本件抗議集会当日の学長応接室での面談の件に及んだとき、右池田は「原告が相良事務局長等と交渉していた数名の学生中に居らなかつたことは間違いない。原告と対決してもよい」と発言したので、同証人が「本当に間違いないか、それは大変な発言だぞ」と念を押して聞きかえしたところ、池田は「そうです」と答えた。その翌日池田は同証人に対し、昨日の発言は原告が事務局長等との最初の交渉団の中には居らなかつたということであると前日の発言の訂正を申入れてきた旨供述し池田の発言内容を、面会学生中に原告が全然或いは最初のうちはいなかつたと受取つているに対し、池田証人の証言(第二回)は、学長応接室での面会の時原告自身が事務局長等に面会の申入を為し、既に本部二階に原告が最初よりいたという事実は、右古松証人と面会した頃には一般に知られていたところであつたので、自分が単に「下(時計台前広場)から、二階へ上つて行つた交渉団の中に原告がいなかつた」と述べたのを古松証人がこれを誤解したに過ぎない旨強調している。しかしながら事務局長等に面会の申入を為した者が原告自身であり時計台前広場より数名の学生が交渉員として上つて行く以前より本部二階に原告がいたとの事実はごく一部の者にとつては直接に経験した事実であつたであろうし、本件処分の公表以後には或る程度他にも伝えられたであろう、けれどもこの事実が古松との右面会の当時一般に何人にとつても疑なき明白な事実として了解されていて古松に対しても同様であつたと解すべき格別の事由も存しないにも拘らずこれを当然のことゝし、しかも池田証人が古松証人に対し当時云わんとしたところは要するに、原告が事務局長等との面会の開始前より開始後終了に至るまで終始本部二階に居て面会に加わつており時計台前広場に於ける抗議集会には参加していなかつたとのことであつたのであるから、直截簡明にこのことを申入れゝば足るところ殊更迂遠にも前記の如き言葉を以て申入れている事実(特に二日目の面会は池田の前日の発言についての古松の誤解を解かんが為のものである)よりするもこの池田証人の第二回証言は首肯し難い。)而して前記被告側の各証言が特に作為されたものであるとの事情は本件に於て看取し得ない。結局原告が面会学生中にいたとの事実は、前記原告側の各証言及び原告本人尋問の結果に全幅の信を措き難く、他に右事実を認めるに足る証拠がないのであるから、これを確認することができない。

右の如く原告が学長応接室に於て面会していたとの事実はこれを認め得ないが、このことは原告が時計台前抗議集会に参加していたことを当然に意味するものではないこと固よりであるから、次に処分理由の示す如く原告が右抗議集会の議長の役割を為したか否かについて検討を加えねばならない。

(二)  原告が十一月七日午後一時過よりの時計台前不法抗議集会に於て議長を為したか。

本件各証拠中、証人安田勇、宮本了邦(第一、二回)、佐々木邦彦、豊田正義、小野博の各証言は原告が右抗議集会に参加し中心的位置を占めて議長として役割を果していたことを現認していた旨供述しこれを肯定するものであり、これに反し証人田中道七、岡本浩、中村哲(第一、二回)、朝尾直弘、鮎川恭三、太田睦美、伊達勇助、柴田直秀(第一、二回)、荒木和夫の各証言並に原告本人尋問の結果は原告が右抗議集会に参加していなかつた旨供述しこれを否定している。原告が京都大学同学会の総務部中央執行委員であり、学園復興会議準備会の準備委員として会場使用許可願の届出責任者であり、大学当局の不許可処分に対し不満を有し本件集会当日事務局長等に抗議の為面会を申入れる等抗議に奔走していたことは前述の如くであり、しかも学長応接室に於ける面会に参加していなかつたことは前記認定の通りであるから、右の如き指導的地位に在つた原告が学長応接室に於ける面接に加わらず又抗議集会にも加わらなかつたということは、他に特段の事情がない限り首肯し難く寧ろ右抗議集会に参加していたであろうと推測することは一応もつともなことであろう。しかしながら検甲第二乃至第五号証、検乙第一号証、成立に争のない乙第八号証、証人柴田直秀(第一、二回)の証言、検証の結果を綜合すれば、検甲第二乃至第四号証の各写真が本件抗議集会当日に検甲第三号証、同第四号証、同第二号証の順序で比較的時間を接して午後一時二十分頃より同一時三十分頃迄の間の本件集会を撮影されたものであることを認めることができ、これら各写真の示す本件集会の模様は参集一般学生が大学本部正面玄関を背にし大学正門に面し玄関前の樟の木のある築山一帯に南向半円の形態で集合し、その前方の中心的位置に訴外学生荒木和夫が参集一般学生に向つて立つて話しかけている状態であることが明らかであり、これら写真は右の如く一時二十分頃より一時三十分頃迄の間に於ける集会の各一こまを撮したものではあるがその間これに見られる集会の位置、方向に変動があつたとは考えられず、又本件集会が午後一時二十分頃に開始されたこと前認定の如くであるからこれら各写真の右撮影時間よりするも集会開始後の状態を示すものであることは明らかである。而してこれら写真中のいずれによるも議長乃至司会者として通常占めるであろう中心的位置に原告を見出すことができない(もつともこれら写真は人物の影像に不鮮明なところ多く、又集会の中心的部分を撮影し全体を撮影したものではないから、不鮮明な箇所や撮影されていない一隅に原告がいなかつたとは断言できないが、すくなくとも集会の中心的位置には原告を認め得ない)。従つて原告が本件抗議集会の議長の役割を果したとの事実は右の午後一時二十分頃より同一時三十分頃迄の間については認めることが困難である。しかしながら本件抗議集会が継続されたのは証人中井洋太の証言により当日の撮影にかかると認められる検甲第七号証の一および口頭弁論の全趣旨によつて明らかな如く遅くとも午後一時五十分頃迄であつたのであるから、右一時三十分頃以降集会が打切られる迄の間の本件集会に於てはどうであつたかということにつきなお検討を加えねばならない。本件集会に於て原告が議長の役割を為していた旨供述する前記各証人中、証人佐々木邦彦の証言によれば、午後一時過頃より一時三十分頃迄の集会を目撃していたが、集会は正面玄関に向つての北向半円形の形態で行われ一時二十分頃原告がメガフォンを持つて参集学生に話しかけて集会が開始され引つゞき原告は十分程喋つていた旨供述しているが、この証言は前記認定に反し措信するに足らず且つこゝで検討を加える午後一時三十分頃以後の集会について言及しているものではない。又証人宮本了邦の証言(第一、二回)も、同証人は午後零時三十分頃学生が参集し始める時より集会が終了する迄の間午後一時前の十分間程を除き終始集会場附近に在つて目撃しており、集会は築山樟の木の北側辺りに玄関に面して北向に集合し午後一時二十分頃玄関と築山の中間辺にいた原告の発言によつて開始された旨供述しているが午後一時二十分頃より一時三十分頃迄の集会に関する認識は明らかに右認定に反し採り得ず、爾後の集会の状況に関する部分は後述証人安田勇、豊田正義、小野博の各証言と符合するものがある。けれども集会開始より終了迄終姶北向の集会であつた旨述べている同証人の一貫した統一的認識の前半を捨て後半を拾うが如きことは不自然であつて到底為し得ないところであるから、本件抗議集会に関する同証人の証言は畢竟これを措信し難い。次に証人安田勇、豊田正義小野博の各証言によれば、これら各証人は同日午後一時三十分頃以後の集会状況を間けつ的に目撃していたが、参集学生は築山の樟の木の北側に正面玄関を向い半円形に集合し、玄関車寄せと築山との中間辺りに原告等若干名の学生が参集学生に対して位置し交々発言し原告も同位置で一般学生に向い発言していた旨および当日原告の服装は紺色セーターを着て、ズック靴を履いていた旨供述している。これら証人の目撃した集会は右の如く午後一時三十分頃以降であり、集会の方向は玄関を向つて北向であつたと云うのである。前記認定したように午後一時三十分頃迄の集会は築山樟の木の南側で正門に向い南向に行われていたのであるから、これら証人の証言を正しいものとする為には一時三十分頃以降に集会が築山樟の木の南側から北側え、南向から北向え位置及び方向を変更したとの事実が認められなければならない。証人安田勇佐々木邦彦、田中道七、中村哲(第一回)、太田陸美、伊達勇助、豊田正義、中村光喜、木村孝、小野博、佐野正常の各証言によれば時計台前に於て屡々行われた集会は殆んどすべての場合北向に正面玄関に向つて行われていた事実が認められ、かように北向で行われる場合にも集会開始前には屡々検甲第二乃至第四号証に見られるような南向の形態で気勢を昂め、或は歌唱して一般学生の集会参加を待つ態勢をとることがあつたことも右豊田、中村、小野の各証言によつて認められるところであるから、かゝる例に従つて本件集会の場合にも当初は前記の如き検甲第二乃至第四号証に見られるような南向の形態を以て一般学生の参集を待ち午後一時三十分前後頃より位置及び方向を変えて北向の集会を開始したと考えられぬでもない。前記豊田正義、安田勇、小野博の各証人の他証人中村光喜、木村孝、佐野正常、広井喜代造の各証言にも午後一時三十分頃以後に於て本件集会が北向の形態をとつて行われていた旨の供述が存在する。しかしながら前認定の如く検甲第二乃至第四号証各写真の状態は既に本件集会が始まつて後の状態であつて集会開始前に気勢を昂め集会への参集を待つている状態とは云い得ないのであるから右の推測は当を得ず、既に集会が開始された以後に於て如何なる情況の下に、しかも如何なる事由によつて集会の方向が変更されたかを詳細適確に認定し得る資料がなければならない。この点について本件各証拠上首肯するに足る証拠は存しない。(僅かに証人広井喜代造、豊田正義の各証言中に午後一時三十分前後頃立命館学生約二十名程が正門より入門し集会に参加し来つた直後頃集会が北向となつたことを推測せしめるに足る程度の供述があるにとゞまる)、これに反し前出証人田中道七、岡本浩、中村哲(第一、二回)、朝尾直弘、鮎川恭三、太田陸美、伊達勇助、柴田直秀(第一、二回)、荒木和夫の各証言によれば、同証人等はいずれも本件抗議集会に参加し、集会の開始より終了に至るまでの状況を終始直接に経験していた者達ばかりであつて、集会は終始南向であつて、北向に変更されたことなく原告が集会に参加していた事実はない旨供述しているのである。これら相対立する各証言を比較するとき、前記証人安田勇、豊田正義、小野博の各証言には全幅の信をおくに足りない。而して他に原告が本件抗議集会に議長の役割を為したとの事実を証明するに足る証拠はない。

第二、掲示破棄の点について、

証人宮本了邦(第一、二回)、佐々木邦彦、森田修の各証言及び検証の結果を綜合すれば、学生課長に命ぜられて学生課職員の右佐々木邦彦、森田修の両名は前記の如く法経第一教室内の中央演壇と西南出入口のほゞ中間の南側通路の壁え床上六尺位の高さでもぞう紙半截截大の集会禁止掲示を貼付けたが、佐々木職員の貼付けた第一回の掲示は学生の何者かによつて直ちに破棄され、森田職員の貼付けた第二回目の掲示は貼付けた直後中央演壇と右掲示を貼付けた場所との中間の南側通路付近にいた原告及び訴外学生下条一誠が掲示場所え来り右下条が森田職員を押しやり森田がよろめくその間に原告は掲示を剥取り丸めて捨て去つたことを認めることができる。証人荒木和夫、富部二三枝、梶浦道子、下条一誠、松尾孝(第一、二回)の各証言は集会禁止掲示が三度貼出されそのいずれをも原告は破棄していないとの点に於ては一致しており、各回の掲示の破棄者の点に関しては一回目は下条一誠であり二回目は富部二三枝であり三回目は松尾孝であるに帰するが如くであるが原告の主張するところと齟齬するのみならず前記宮本、森田、佐々木等の証言に比し到底措信し得るに足らず、又証人高橋哲郎の証言によれば原告は同証人と共に掲示を破棄した事実があるがその掲示は法経第一教室の西北入口の扉に貼られた掲示であつて本件処分事由に唱われている室内の掲示ではなかつた旨供述し原告が室内の掲示を破棄した事実はない旨言わんとする如くであるが、同証人は処分理由となつた前記掲示破棄の事実自体について目撃していなかつたのであるから何等前記認定を妨げるものではなく、原告本人尋問の結果中原告が掲示破棄の事実に何等関するところはない旨の供述は証人古松貞一の証言に照し疑わしく又前記認定に反し採り得ない、而して他に前記認定を妨げるに足る証拠は存しない。

以上原告に対する本件処分事由中原告が十一月七日不法集会の議長をした事実は確認するに足りないのであるが、大学の学生に対する懲戒処分は教育施設としての大学の内部規律を維持し教育目的を達成する為に認められる自律的作用に基くものであつて、その処分が全く事実上の根拠を有しないと認められる場合乃至社会通念上著しく妥当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を超えるものと認められる場合を除き懲戒権者の裁量に任されているものと解するのが相当である(最高裁第三小法廷昭和二十九年七月三十日判決参照)、従つて本件に於ける如く数個の処分事由中その一について事実上の根拠を有しないと認むべきものある場合に於ても残余の処分事由につき右の如き懲戒権者の裁量の範囲を超えるものと認め得ない限り処分の違法を来すものとは解し難い。原告が前記の如く同学会総務部中央執行委員たる地位にあり、同学会を代表して学園復興会議準備会の準備委員となり同会議の会場使用許可願を原告名を以て届出で不許可となるやこれを不満として他の同学会幹部等と共に不許可に対する抗議活動に主動的役割を演じ十一月九日法経第一教室での不法抗議集会に参加して学校側職員の集会禁止の申入を無視し、集会禁止の掲示を破棄した事実は前認定のとおりであつて、これに対し為された本件処分は社会通念上著しく妥当を欠き前記懲戒権者の裁量の範囲を超えるものとは認められない。従て本件放学処分は懲戒権者たる被告学長の懲戒権限の裁量範囲内の処分であり、これを違法な処分ということをえないのである。

なお原告は本件処分には被処分者たる原告に何等弁明の機会を与えず為された手続上の違法がある旨主張する。しかしながらかかる機会を与うべきことの当否はともかく機会を与えなかつたとしてもその一事によつて本件処分そのものを違法と見るべき成法上の根拠は存しない。原告主張の如き「何人もその弁明の機会を与えられないでその不利益な結果を帰せられることはない」との他国の法諺を以て直に我成法上の根拠と為し得るものとは解することはできない。以上により原告の本訴請求は失当であるから棄却することゝし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 宅間達彦 木本繁 林義雄)

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