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京都地方裁判所 昭和30年(ワ)911号 判決 1958年12月26日

原告 小川一郎

被告 国 原告仮名

主文

被告は原告に対し金五万円並びにこれに対する昭和三〇年九月七日以降右金額支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

(申立)

原告

被告は原告に対し金一〇五、〇〇〇円並びに昭和三〇年九月七日以降右金額支払に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

被告

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

(主張)

原告

一、原告は昭和八年九月二〇日京都市左京区下鴨高木町一三七番地に出生し、その後同市東山区大和大路七条下る西入辰巳町五九一番地に家族とともに居住し、義務教育終了後は織物業に従事し、現在に至つたもので、これまで何等の刑事上の処分を受けたことはなかつた。

二、訴外細田次雄は原告の身元について知悉しているのを利用し、自己の犯罪の捜査及び審判において原告の氏名、年令等を詐称し、

(一)  昭和二八年六月一六日静岡地方裁判所浜松支部で窃盗罪により懲役一年執行猶予三年の判決の言渡をうけ(右判決は同年七月一日確定した)

(二)  同年一一月六日札幌地方裁判所で窃盗罪により懲役八月の判決の言渡をうけた。(右判決は同年一一月二一日確定した)

そこで原告は不知の間に右の様な前科二犯を有するものとして取りあつかわれ、当時、原告の本籍地を管轄する大阪市此花区役所並びに大阪、静岡及び札幌の各地方検察庁でそれぞれ原告名義の前科人名簿が作成され、右の前科が登載された。

三、昭和三〇年三月五日原告は札幌地方検察庁から京都市松原警察署を通じて前項(二)の事件の訴訟費用二二四〇円を支払うよう請求され、調査の結果はじめて原告が前項記載のように前科二犯の取扱いをうけていることを知り、原告は非常に懊悩し、これの抹消方を交渉し同年四月二八日にいたり札幌地方検察庁より大阪市此花区役所、大阪、静岡各地方検察庁に対し偽称発見に基く前科抹消方の連絡通知が発せられ、前科の記載は抹消されたがその間原告は年少潔白の身として前途を悲観し日夜煩悶して計り知れない精神上の苦痛をこうむつた。

四、細田は自己の犯罪の捜査、審判の過程でその詐称する原告の本籍地番、家族関係等につき実際の原告のそれとは異つた供述をし、又供述相互間にくいちがいがあり、事件の処理にあたつた警察官、検察官及び裁判官が必要な注意をはらい、調査をすれば容易に発見しうるものであつた。

即ち、

(一)  細田は前第二項(一)記載の事件以前、同じく原告の氏名を詐称し、昭和二七年八月一三日窃盗等により静岡家庭裁判所浜松支部で保護処分をうけ保護観察に付せられたのであるが、この事件の捜査審判の過程において、細田の昭和二七年七月二七日付東浜名地区警察署における本籍地、出生地、生年月日、家族関係、学歴等の供述と大阪市此花区役所よりの身上照会書回答、四貫島小学校長よりの学校照会書回答、此花警察署よりの協力依頼書回答の各記載との間にくいちがいがあるのに静岡家庭裁判所浜松支部の調査官及び審判官はこのくいちがいを看過して充分の調査をしなかつたため細田の氏名詐称を発見することができず、

(二)  前記第二項(一)の事件においては

(イ) 静岡地方検察庁浜松支部検察官は前記保護処分のあることを知りながら前記保護事件記録を調査しなかつたため前記の供述のあやまりに気付かず、又原告の氏名を詐称した細田の検察官に対する供述と昭和二八年五月八日の南磐田地区警察署における右細田の供述とは本籍の地番についてくいちがいがあるのにこれを看過し、戸籍照会もなさず必要な調査もせず慢然、警察における供述の地番を真実と認めてこれを起訴状に記載し、

(ロ) 静岡地方裁判所浜松支部裁判官は右検察官より起訴された細田の審理にあたり第一回公判における同人の本籍の供述及び起訴状の本籍の記載と検察官に対する供述調書の本籍の記載の間にくいちがいがあるのを看過し、又前記保護事件のあつたことを知りながらその記録を調査せず、又戸籍照会もなさず、

(ハ) 静岡地方検察庁浜松支部検察官は右事件について静岡地方裁判所浜松支部が被告人に負担を命じた訴訟費用の取立を怠り、よつて細田の氏名詐称の事実を発見することが出来ず、

(三)  前記第二項(二)の事件においては、札幌地方検察庁検察官札幌地方裁判所裁判官は右事件の捜査審理にあたり、司法警察員に対する身元関係の供述、及び検察官に対する身元関係の供述と大阪市此花区役所よりの身上照会書回答及び大阪地方検察庁よりの電報回答の記載とがくいちがいがあるのを看過し必要な調査をしなかつたため細田の氏名詐称の事実を発見することが出来なかつた。

五、細田は昭和二四年四月一九日長浜簡易裁判所で窃盗罪により懲役一年に、昭和二五年六月二日岐阜簡易裁判所で窃盗罪により懲役一年に、昭和二六年九月一五日京都簡易裁判所で窃盗罪により懲役一年の刑に処せられ、それぞれ右刑の執行を受けたものであり、従つて細田の指紋は国家地方警察本部(警察庁)の指紋台帳に当然登載されている筈で、指紋対照の結果容易に氏名詐称の事実を発見しうるものであるところ、国家地方警察本部は東浜名地区警察署の小川一郎名義による指紋照会に対し該当者なしの回答をしていることから察すれば右警察署は細田の指紋を添付しないで単に小川一郎名の指紋を照会したにすぎないものと考えられるのであり過失ある照会と云わねばならず、又仮に指紋台帳に細田の指紋がなかつたとすれば、細田の捜査にあたつた各捜査官が指紋の採取を怠り、又は採取した指紋を国家地方警察本部に送付しなかつたこと等に起因するもので、いづれにせよ、指紋照会の結果細田の氏名詐称を発見出来なかつたと云うことは担当警察官が指紋採取、指紋原紙保管送付に関する国家公安委員会規則に違反した措置をとつたことにもとずくものである。又静岡地方検察庁浜松支部、札幌地方検察庁各検察官はいづれについても指紋照会の手続をしておらず、勿論検察官には指紋採取ならびに保管について法規はないが検察官は犯罪捜査にあたり法律上警察官以上の執務を要求されていることは捜査法一般に予定されているところであり従つて検察官として警察官の指紋照会のない場合には被疑者の前科発見のために自らこれをなさなければならないのである。

六、犯罪人がその氏名を詐称して前科を隠蔽することが往々存することは捜査、裁判の職にあるものの常識であり、右の職にあるものは当然犯罪者の偽名、前科発見に万全の措置を講じなければならない注意義務があるのにかかわらず前記係官等はこれを怠り、前掲の様に原告の氏名を詐称する細田の身元関係の供述相互間及びその他の資料との間にくいちがいがあり綿密に調査すれば偽名を発見し得たにもかかわらず漫然これを看過して必要な調査をなさず又所定の指紋送付、指紋照会等を完全になさなかつたために細田の氏名詐称を発見することが出来ず、前記の様に原告を前科あるものとして前科人名簿に登載するに至らしめ且つ訴訟費用の請求をなして原告の名誉並びに平穏に生活する権利を侵害し、精神上の苦痛を蒙むらせたものであり、これは原告の公権力の行使にあたる公務員がその職務を行うについて過失によつて加えた損害であるから、被告はその賠償につき責任があるもので、原告はその地位経歴に鑑み被告に対し一〇五、〇〇〇円の慰藉料及びこれに対し訴状送達の翌日である昭和三〇年九月七日以降支払済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

被告

〔一〕  認否

一、原告主張事実中第一項、第二項は認める。但し第二項中静岡地方検察庁備付の前科人名簿に登載されたのは原告主張(一)の前科のみである。

二、同第三項中訴外細田次雄の氏名詐称が原告主張の経過により判明したこと及び札幌地方検察庁が原告主張のとおり前科抹消の措置をしたことは認めるが原告の精神的打撃については不知、

三、同第四項第五項中、細田が原告主張の様に静岡家庭裁判所浜松支部で保護処分をうけた事実は認めるがその余は否認、

四、同第六項第七項は争う、

〔二〕  主張

一、本件前科登録の過誤は原告主張の様な担当係官の過失にもとずくものではなく、原告の従兄である訴外細田次雄が原告及びその家族の状況に精通していることを利用し、原告になりすまして係官を欺いたことにもとずくのである。

すなわち、

(一)(イ) 細田は静岡家庭裁判所浜松支部で保護事件審判を受けた際、同裁判所係官に対し、本籍大阪市此花区四貫島宗安町二〇二番地、出生地京都市左京区下鴨高木町一三七番地、氏名小川一郎、生年月日昭和八年九月二〇日と供述したので係官は身元調査を行いその結果をこれと対照したところ内容が合致しており、供述の真実性が認められよつて同裁判所は同人を小川一郎とみとめて保護観察処分に付した。

(ロ) 原告主張第二項(一)の事件についても細田は係官に対し右同様の供述をなし、係官は同人が同地で保護処分をうけていることにより同人を小川と認め、

(ハ) 同第二項(二)の事件についても細田は前同様の供述をなし更に同人が同第二項(一)の前科のあることを自供し、札幌地方検察庁が行つた前科照会及び身元照会の結果と一致したので同人を小川とみとめたのである。

(二) 日常検察庁及び裁判所では極めて多数の被疑者又は被告人を取り扱つているのでその者の自称するところが真実であるかどうかにつき右(一)に述べた以上の立入つた調査をすることが事務的に困難であり本来単に国家機関内部の事務処理の便宜のためになされる前科の登録につきその誤を避けるために敢て一般にそこまでの調査をする必要があるということも出来ないから、本件係官等が右第二項に述べた以上の調査を行わずそのため本件氏名詐称を発見出来なかつたからと云つて、同人等に過失があるとはいえない。

(三) 指紋の採集は実刑を受けた者につき刑務所でこれを行つているほか検察庁において特に必要があると認めた場合に行つている程度であるから、この指紋照会に一般的期待を寄せることは出来ず、従つて被疑者の氏名不詳の場合や前科発見の場合等特別の必要がある場合に被疑者の年令、性質、生活状況、犯行内容その他諸般の状況を考えてこれを行つているのが実務の通常であつて原告主張のように事件一般についてこれをなすべきものとすることは実状に副わず、又本件の具体的な場合について特に指紋照会をしなければならない特別の理由も認められない。

二、原告主張の検察官及び裁判官は原告に対し公権力を行使したことはない、すなわち、

(一) 前記係官は細田次雄の氏名を小川一郎と認めてこの主張のような刑事処分をしたにすぎないのであつてその客体はあくまで小川一郎を名乗る細田であり、原告本人自体を犯罪人として取りあつかつたことはないのである。すなわち被告機関の係員等が原告を逮捕し、取調べをしたりしたこともなければ有罪判決を言渡したものでもなくまして原告自体に前科があるものとしてこれを取扱い、またはその権利又は法律関係に何等の変動を生ぜしめたこともない。したがつて原告に対する権利侵害行為はない。

(二) 前科人名簿には小川一郎なる者が前科のあるように登載されているが、それは細田次雄自身を表示すべきところ、たまたま原告名に誤つて表示したのであつてこれによつて原告を前科人として取扱つたことにはならない。同名簿は国の機関内部の帳簿であり、これにどのような記載があらうと外部に公表すべき性質のものではないから名簿に記載する行為自体が公権力の行使に該当するということはできない。

三、原告は本件前科登録の誤りにより損害を受けたと主張するが、前科の登録はもつぱら国家機関内部における事務処理の便宜のためになされるもので、その記録即ち犯罪人名簿は全く内部的なもので外部には一切公表されることなく、しかもその登録事項は何等の拘束力をももつておらず、誤があればただちに訂正される性質のものであるから、本件の様に誤つた前科の登録がなされ、原告がたまたまこれを知つたことにより若干の不快を感じたとしてもそれだけの事実によつてただちに原告に損害が生じたとはいえない。

(証拠)

原告

一、甲第一号証乃至第四〇号証及び第四三乃至第四五号証の各一、二、を提出、

二、証人小山稔、細田次雄、同大山進、同玉井幸七、原告本人の各尋問の結果を援用、

三、乙号名証の成立を認める。

被告

一、乙第一号証乃至第四号証、第五号証の一、二、第六号証第七号証、第八号証の一、二、第九号証乃至第一四号証、第一五号証の一、二、第一六号証の一乃至四、第一七号証の一、二、を提出、

二、証人滝野正夫の尋問の結果を援用、

三、甲号各証の成立を認める。

理由

一、争いのない事実

原告は昭和八年九月二〇日京都市左京区下鴨高木町一三七番地に出生し、その後同市大和大路七条下る西入辰已町五九一番地に家族と共に居住し、義務教育終了後は織物業に従事し現在に至るまで何等の刑事上の処分をうけたことはなかつた。訴外細田次雄は原告の従兄にあたり、原告の身元について知悉しているのを利用し自己の犯罪の捜査及び審判で原告の氏名を詐称し、

(一)  昭和二七年八月一三日窃盗等により静岡家庭裁判所浜松支部で審判をうけ保護観察に付せられ、

(二)  昭和二八年六月一六日静岡地方裁判所浜松支部で窃盗罪により懲役一年執行猶予三年の言渡しをうけ、

(三)  同年一一月六日札幌地方裁判所で窃盗罪により懲役八月の判決の言渡をうけ、

原告の氏名による前科人名簿が大阪市此花区役所、大阪、静岡及び札幌の各地方検察庁で作成され、静岡地方検察庁の前科簿には前記(二)の前科が、その他の前科簿には(二)、(三)の各前科がそれぞれ登載された。昭和三〇年三月五日札幌地方検察庁係員は京都市松原警察署係員を介し原告に対し前記(三)の事件の訴訟費用の支払を求め、その後の調査の結果細田の氏名詐称が判明し、同年四月二八日詐称発見にもとずく前科抹消の措置がとられた。以上の点は当事者間に争いがない。

二、精神的損害の発生

証人小山稔、原告本人尋問の結果によると、昭和三〇年三月始め、京都市松原警察署警察官が原告方を訪ね札幌地方検察庁より原告の刑事事件の訴訟費用の取立方を委任されたとしてその支払を原告に求めたので、その様な覚えがなかつた原告及び原告の義兄小山稔はこれを拒絶したが、更に数日して警察官は原告に支払命令書を示して誤りでない旨告げた。そこで小山は担当派出署警察官、松原署本署警察官に対し、調査方を求めて奔走し、一方原告は自分が前記の様に前科二犯として登録されていること、更に警察官より訴訟費用を支払わないときは身柄を拘束されることがあると聞かされ、法律に精通しない原告としてはこれを信じ、更に誤が発見されず終生前科人としての取扱いをうけるのでないかと恐れ、極度の不安を感じ、前記の様にこれが細田の氏名詐称にもとずくもので誤りであつた旨を告げられるまで、寝込み、食事も進まず、仕事に手のつかない状態で精神的打撃をうけたことが認められる。

三、過失

(一)  静岡家庭裁判所浜松支部における保護事件関係

成立に争いのない甲第四号証(乙第一号証)甲第六号証(乙第二号証)によれげ細田は昭和二七年七月二十七日、窃盗被疑事件につき東浜名地区警察署で取調べられた際、小川一郎と氏名を詐称する他身上関係につき、本籍地、出生地は何れも大阪市此花区四貫島宗安町一六二番地、昭和八年八月一〇日生、父は六才の時に死亡し、信子という一〇才になる妹、春子という二四才になる姉がある旨述べているのに対し静岡家庭裁判所浜松支部より大阪市此花区役所宛の原告名義の少年の身上調査方嘱託に対する同区役所、昭和二十七年八月五日附作成の回答では、小川一郎の本籍地は前記宗安町二〇二番地、出生地は京都市左京区下鴨高木町一三七番地、昭和八年九月二〇日生とあり、姉春子の記載なく、父の死亡は昭和十四年五月一日、信子の年令は昭和十七年十一月二十三日生れとあつて、前示供述と若干のくいちがいがあること、前示甲第四号証、成立に争いのない甲第八、九号証(乙第三号証)によれば細田は警察官、静岡家庭裁判所浜松支部調査官に対して、経歴として戦災後本籍地でバラツク住居をしていたが昭和二四年一月頃家出し、二、三ケ月後家へ帰つてみると誰もいなかつたので隣家の古物商藤田松男(三十八才)方に間借りしていたところ昭和二七年七月一二日の地震でその家が崩潰したので安治川口の橋下に野宿していた。姉春子は昭和二五年八月頃から岐阜市全宝町一丁目の喫茶店斎藤茂方にやとわれていたので昭和二七年七月一九日頃訪ねていつたが訪ねあたらなかつた旨述べているがこれに対し同支部より此花警察署宛の協力依頼書の回答(昭和二七年八月九日付)では小川姓のものが右本籍地及びその付近に居住していた事実はなく、古物商藤田松男も該当者なく、又地震で崩潰した家は宗安町付近にはないというのであり、又此花区役所に対する協力依頼書の回答(昭和二七年八月十七日付)では小川姓の者は本籍地では市民簿に記載なく、姉春子は昭和二五年一月二五日婚姻届が出ておりその住居地は京都市東山区大和大路七条下る二丁目辰已町五九一番地(即ち原告の現住所である)とされておること、又成立に争いのない甲第五第七号証によれば細田は前示家裁調査官に対し学校関係につき大阪市四貫島小学校に通学し卒業しており、一、二年当時は小沢久子教官、三年上坂三郎教官、四、五、六年は星野政一教官であつたとのべているのであるが四貫島小学校長よりの学校照会書に対する報告(昭和二七年八月八日付)では四貫島小学校には小川一郎という卒業者在籍者なく、当時細田の述べたような教官は在籍せず、当時の六年生受持の教官も小川の記憶はないとあることが認められる。以上の認定事実に反する証拠は存しない。

一般に被疑者、被告人の供述の信用性は犯罪の捜査審判にあたる者としては常に留意し、虚偽の供述を看過することのない様充分注意しなければならないところであり、又犯罪人が他人の氏名を詐称することは、自己の前科を隠し又少年でない者が少年である様みせかけるため、しばしば行われるところであつて、これを看過するときは適切な処分を誤り又被詐称者に不測の精神的不安を与え、名誉を害し不利益をもたらす危険性があるから、この点についても充分に留意しなければならない。尤も虚偽の供述を信用したことについて捜査官に過失ありと云うためにはこれを発見出来る可能性があつたことを必要とするのである。これを前記認定事実についてみるならば細田の警察官及び調査官に対する供述とその他の調査結果の間で、本籍地番、生年月日、出生地、学歴、生活歴についてくいちがいがあり、少くとも学歴、生活歴については細田の供述に疑問があることは明らかであり、少年審判事件ではその性質上、適切な処分を定めるため身上関係、生活歴、生活環境について精密且つ正確に把握することを必要とするのであるから経歴についての細田の供述に疑問が生じた以上、照会の結果にもとずいて更に供述者を追及すると共に関係方面の調査をしなければならないのであり、そうすることによつて本件については細田の氏名詐称の発見が可能であつたものと云うべく、証人細田次雄の尋問の結果によれば細田は右事件において身上経歴等につき深くは聞かれなかつたことが認められ、他に調査をこれ以上なすことが不可能であつたという事情のみとめられる証拠も存しない。そうすると細田の氏名詐称を看過したことについて家庭裁判所係官に過失があつたと認めざるを得ない。

証人細田次雄、同玉井幸七の各尋問の結果によれば、細田はこれより先すでに他の被疑事件で捜査され、本名を以て起訴、有罪判決をうけその指紋は昭和二四年五月滋賀刑務所で、又昭和二五年四月岐阜県警察でそれぞれ採取され、その指紋原紙は国家地方警察本部に保管されていたことが認められるから右保護事件においても指紋照会によつて細田の氏名詐称は判明する筈のものであつた。しかるに成立に争いのない甲第一号証によれば東浜名地区警察署よりなされた小川名義の指紋照会に対して昭和二七年九月三〇日国家地方警察本部は該当者見あたらずとの回答をなしていることがみとめられる。成立に争のない甲第四三号証の一乃至二及び証人玉井の尋問の結果によれば右の誤りはさきに国家地方警察本部に保管されていた細田の指紋原紙は左手指紋番号を23346として分類されていたのに対し東浜名地区警察署で採取した指紋原紙は、その指紋印象が不鮮明であつたため左中指の指紋の分類を誤り、左手指紋番号を24346と分類して検索したためすでに保管されている細田本名による指紋と新たに照会された指紋が同一であることが発見出来なかつたものと認められる。犯罪者に対する指紋の採取、分類、照会等については当時指紋原紙取扱規定(昭和二四年一月一日国家公安委員会規則第一号)によつて規制され罰金以上の犯罪の被疑者を逮捕した場合は必ず指紋を採取し照会及びこれに対する回答をすることが定められており、又指紋原紙取扱細則(昭和二四年一月一日国家地方警察訓令第一号)ではその採取の方法及び鮮明な印象を採取する様留意すべきこと及び分類方法を規定しているのであり、指紋対照は人の同一性識別上最も有力なきめ手であることからしてその採取、分類にあたつては出来うる限り慎重正確に行わなければならないのは当然である。証人玉井は東浜名地区警察において細田の指紋を採取した際、同人の手が荒れていたため鮮明な印象が得られなかつたのであるが、この場合でも専問家が採取すればその悪条件は克服出来たと述べているのであり右警察署係員においてその採取した指紋が完全なものであるかどうかを充分観察し、自己の技術によつては充分な印象を得ることが困難とみとめれば更に指紋採取について高度の技術を有するものに委託することが出来るはずであり、又そうすべきであつたと認められる。又右証人の供述によれば右の指紋原紙の分類の誤りは後に昭和三〇年四月に整理した際には発見されているのであり、当初からも分類不能というわけでもなかつたわけであり、慎重に分類すれば誤りはさけられたと認められ、又左中指を3とするか4とするかについて疑があつたのであるから分類当時3についても念のため検索することによつてさきに保管されていた細田の指紋との同一性も発見され得たと認められるのである。そうだとすれば細田の氏名詐称を看過したことについては指紋の採取分類にあたつた警察係官においても過失があつたとしなければならない。

(二)  浜松及び札幌における刑事事件関係

成立に争いのない甲第一一(乙第五号証の二)、一三、一六(乙第六号証)一七(乙第七号証)号証によれば昭和二八年六月一六日静岡地方裁判所で言渡を受けた第一項(二)の事件においては小川を詐称した細田はその本籍地をはじめ二二二番地とのべ後に二〇二番地と供述しているのであるが、細田はすでに小川姓で同地において保護処分をうけていることでもあり、右の様な地番の差異のみでは氏名詐称の発見が可能であつたとは認められない。又同年一一月六日札幌地方裁判所で言渡を受けた前記(三)の事件については成立に争いのない甲第二八号乃至三一号証、乙第一一、第一二号証によれば細田はその詐称する小川の本籍地の地番を家庭裁判所、警察署検察庁では二二番地と述べているのに対し成立に争いのない甲第一九(乙第八号証の二)、二一(乙第八号証の一)号証によれば裁判所では二〇二番地と述べていることが認められ、成立に争いのない甲第二六、(乙第一〇号証)二七、三三(乙第一四号証)号証によれば大阪家庭裁判所、大阪地方検察庁に対する電報照会では本籍地番は二〇二番地である旨回答され大阪市此花区役所に対する身上照会では本籍地番は二〇二番地、出生地は京都市左京区下鴨高木町一三七、現住所は京都市東山区大和大路通七条下る二丁目辰已町五五一番地である旨回答されていることがみとめられるのであるが、すでに細田は小川名で前科もあることであり、右の様な差異があるからと云つて、ただちにその点を詳しく調査することを期待することも出来ず、果して詐称発見が可能であつたかどうかは疑問であつて未だこの関係においては過失とみとめがたい。

成立に争いのない乙第一六号証の三、四、第一七号証の二によれば右の二つの事件においてはいずれも指紋照会がなされ、小川一郎名で発見した旨の回答があるのみである。証人玉井の尋問の結果によれば国家地方警察本部では指紋照会に対してはまず氏名で検索し、これによつて発見出来なかつたときに指紋番号による検索を行うことになつていたため、氏名検索によつてすでに保管されていた東浜名地区警察署作成の小川名の指紋原紙を発見したのでそれ以上指紋番号による検索を行わなかつたことによると認められるのである。たしかにすべての場合について指紋番号による検索を行えば本件の様な不都合を生じなかつたと考えられるが、最初の分類が正確になされれば本件の場合も防止しうるわけであり、すべてについて番号検索を行わなかつたということのみで過失とみとめることは出来ない。

五、侵害行為

被告は被告機関の係官は何ら原告に対し何ら侵害行為をなしていないと主張する。たしかに捜査官、裁判官が前記の三つの事件で取調べ裁判している者は小川一郎を名乗る細田次雄であつて原告本人自身ではない。しかしその取調べ、裁判されている者の氏名は細田次雄でも架空人でもない、ほかならぬ原告と同一性を有するものなのであり、単に細田が別名、通称を称している場合とは実質的にことなり、この関係においては原告が犯罪を犯した者として名指されることになる、そうして札幌地方検察庁係官は京都市松原警察署係官を通じ原告に対し訴訟費用の請求をなしているのであるから、この関係においては検察庁では明かに原告本人に対し直接刑事事件の有罪者としての取扱いをなしており、その結果前示の様な名誉及び精神的自由の侵害がおこつているのであり、この点原告に対する侵害行為とみとめることが出来る。又小川一郎名義の前科簿は実質は細田の前科を記載したものであるが、同時にそれは細田でない原告のものとして特定されているのであるから全く原告に関係がないものと云い得ない。尤も前科簿それ自体は一般に公表される性質のものでないことは証人滝野正夫の尋問の結果認められるのであり、政府機関内部の記録として保管されているのにすぎないから、その登載自体をもつてただちに原告に対する侵害行為とは云いえないけれども一旦前科簿に登録されると、その後の刑事事件その他において前科あるものであることが一般に知れることがあり、不知の間に不利益な取扱いをうけ、名誉信用を害されることがあり、又本人に真実でない前科を告げられることにより、その者の名誉感情を害することがあるわけである。本件において原告が訴訟費用の請求をうけた際警察官から前科二犯となつていることを聞かされ、名誉及び精神的自由を害されているのであるから、この点においても侵害行為を認めることが出来る。

細田の氏名詐称を看過したことについて過失のあるのは前記保護事件の捜査(特に指紋照会)及び調査審判に関係した係官等のみであるが、この事件において氏名詐称に成功した細田は原告の身上関係について正確な知識を得、その後の事件においては容易に係官を欺いて詐称をつづけたのであつて、一般に一旦氏名詐称に成功して犯罪歴をつくるときは、その後においてその詐称を発見することは通常の過程では困難となるものであるから、本件における保護事件関係の係官の過失はその後における氏名詐称の看過及びそれによる原告の損害と密接な関連をもつているということが出来、原告の損害は結局被告の公権力の行使にあたる係官が職務の行使にあたり違法に加えたものというべきであるから、その損害について被告国はその賠償の責任を負わなければならないことになる。

五、慰藉料額及び結論

原告のうけた精神的損害に対する慰藉料としては原告の地位、苦痛をうけた程度、期間、侵害行為の性質等を考慮し金五〇、〇〇〇円を相当と認める、被告は右金額に訴状送達の翌日であることが本件記録上明かな昭和三〇年九月七日以降右金額支払済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払わなければあない。原告の本訴請求は右の限度において正当であるからこれを認容し、その余は失当として棄却し訴訟費用の負担については民事訴訟法第九二条第八九条を適用し、仮執行宣言はこれを付しないことを相当と認め主文の通り判決する。

(裁判官 石崎甚八 中村捷三 尾中俊彦)

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