京都地方裁判所 昭和36年(わ)1262号 判決 1962年4月11日
被告人 谷軍平
昭七・二・二五生 無職
谷圭吾
昭一六・七・一五生 無職
主文
被告人谷軍平を死刑に処する。
被告人谷圭吾を懲役拾五年に処する。
被告人両名から、押収してある海軍ナイフ壱挺(昭和三七年押第二九号の一一)を没収する。
押収してある腕時計壱個(同号の一〇)は被害者重村更生の相続人に還付する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人谷軍平は九州の炭鉱地帯の貧家に生れ、小学校卒業後家族と共に転々としながら炭坑夫として働いていたが昭和二九年頃結核を患い、しばらく療養したのち再び炭坑夫あるいは土工として働き、一時は東京、伊勢、岐阜などに出て人夫をしていたが、いずれも永くは続かず、昭和三五年一二月頃長崎県北松浦郡吉井町西立石免の家族のもとに戻りそこで日雇人夫などをしていたものであり、被告人谷圭吾は被告人軍平の実弟で昭和三一年に中学を卒業後、附近の炭鉱の坑夫あるいは大阪、東京に出て人夫などをしていたが、給料が不満でいずれも永く続かず、昭和三三年夏頃前記家族のもとに戻って日雇人央などをしていたものであるが、昭和三六年七月頃大阪によい仕事があるから働かないかという知人の話に応じて被告人両名は義兄山田藤哉及びその子信義と共に大阪に出、さる工場に就職したところ、条件が当初聞いていたものと違うため仕事が厭になり、約一〇日ののち藤哉には黙つて信義と共にそこを飛び出し、しばらく大阪市内で人夫をしたあと京都に移り同年八月四日頃から株式会社名筋工務店に住み込んで働いていたが、やがてそこでも力仕事が厭になつて休みがちとなり、ついに同年一〇月二一日限りで仕事に行かず、京都市で新たな就職先を探したがいずれも断られたため、揃つて九州へ帰ろうということになつたが、所持金乏しく到底旅費には足りなかつたところから、ともかく大阪まで行き改めて何とか考えようと相談の結果同月二五日夜京都を発つて徒歩で大阪に向い、途中野宿して翌二六日夜大阪市此花区春日出町六丁目附近に至り、同夜はそこの空地で眠り、翌二七日も附近をぶらつくうち所持金が合わせて三百円ばかりになつたうえ、雨の降る中で行くあてもないところから自暴自棄の気持となり、正午頃同町下二丁目九番地所在の映画館に入り、午後八時近くまで映画を観ていたが、金策に思い悩んだ末被告人圭吾の発議から被告人両名は山田信義と共謀のうえ、タクシーの運転手から売上金を強取して旅費にあてようと企て、ただちにそこを出、所持金の残りでうどんを食べたのち同町下一丁目一番地吉本煙草店付近路上においてタクシーを待ちながら更に「京都まで行こう」「ナイフがあるからそれで脅かそう、気絶させて取ろう」と相談を重ねたうえ、(昭和三六年一〇月二七日)午後八時三〇分頃同所を通りかかつた商都交通株式会社所属運転手重村更生(当時二四年)の運転する小型タクシーを呼び止め、それに乗車して京都方面に向わせ、途々被告人軍平は犯行を遂げるためには運転手を殺害するも止むなしと意を決し、その機をうかがいながら車を人家疎らな場所へ指示誘導し、やがて午後一〇時過頃京都市南区吉祥院京道町二〇番地先附近にさしかかるや、おりから降雨ひとしお激くし且つ附近に人影のないのをみて停車を命じ、同時に山田信義は車外に出て見張りをつとめる一方、客席にいた被告人軍平においていきなり右腕をまわして背後から同運転手の頸部に巻きつけて絞めつけた。ところが同運転手が激しく抵抗したため、車内助手席にいた被告人圭吾に対しナイフを出すよう命じ、被告人圭吾は同軍平の意図を察しズボンのポケツトから海軍ナイフ(昭和三七年押第二九号の一一)を取り出し刃を起して被告人軍平に渡し、その際これを阻止しようともがく同運転手の腹部を蹴るなどの暴行を加え、被告人軍平においてナイフを左手に握るや頭をシートの背にもたせて上向きにして押さえ込んでいた同運転手の右頸部をめがけて前方から力強く突きさした上左方に引き切り、よつて右頸部刺創、左頸部動静脈切断による失血のため即死させたのち、被告人両名において同運転手の着衣を探索して所持する売上金三百円及びその所有する腕時計一個(時価約四、五〇〇円相当)を強取するとともに、乗車賃一、八九〇円の支払を免れて財産上不法の利益を得たものである。
(証拠の標目)(省略)
(法律の適用)
被告人両名の判示所為は刑法二四〇条後段、六〇条に該当するので被告人谷軍平については死刑を選択し、被告人谷圭吾については無期懲役を選択し、被告人圭吾については犯情にてらし同法六六条、七一条、六八条二号を適用して酌量減軽をして懲役一五年に処することとし、なお主文第三項掲記の物件は被告人両名が本件犯罪行為の用に供したもので犯人以外の者に属しないから同法一九条一項二号、二項によりこれを没収し、主文第四項掲記の物件は贓物であつて被害者に還付すべき理由が明らかであるから刑事訴訟法三四七条一項により被害者重村更生の相続人にこれを還付することとし、訴訟費用については同法一八一条一項但書を適用してこれを被告人らに負担させないこととする。
(被告人両名に対する量刑について)
本件は客に対し原則として運送を拒み得ない立場にあるタクシー運転手を選び、それに客を装つて乗車した上深夜人通りのない場所に誘導して無防備の運転手を数名共同で殺害したもので誠に被告人両名の反社会性を示す兇悪な犯行というほかなく、また被害者重村更生は鹿児島県から大阪に出て運転手として働きながらその月収の一部を両親のもとへ仕送るかたわら、長男であるためやがて郷里へ帰つて両親の面倒をみようと貯蓄に努めていたもので、何らの過失なく一瞬のうちに被告人らの犠牲となつて生命を奪われたものであつて、両親の悲嘆は察するにあまりあり、さらに一般社会の人心とりわけタクシー運転手達に与えたであろう衝撃も無視することができない。また被告人らが本件犯行に至つた動機が郷里へ帰る旅費に窮してこれを得ようとしたことにあることは判示認定のとおりであるが、その原因たるやもつぱら被告人らに勤労意欲がとぼしかつたことに起因するものでことに判示昭和三六年一〇月二五日以後の被告人らの行動は無思慮というのほかなく、同情すべき点は認められず、とりわけ被告人軍平は兄であるにも拘らず年若い弟圭吾、甥の信義らに対してよろしくこれを制止すべき立場にあるにもかかわらずたやすく弟らの提唱に同調して犯行を指導している。しかも前掲谷証言によれば圭吾や、信義は給与を多少とも衣服の購入などにあてるなどしていたのに対し被告人軍平は金が手に入をばパチンコなどに費消し常に無一文に近い状態であつたことが認められるのであつて、本件犯行に至つた責の大半は右軍平自らが負うべきであり、且つ同人は本件において直接手を下していること及びその殺害方法が残忍であること、更には本件犯行当時執行猶予期間中(昭和三五年鳥羽簡裁において窃盗罪により懲役十月三年間執行猶予の刑に処せられている)であつたことをも合わせ考えれば、たとえその生い立ちや公判廷における悔悟の態度がうかがえる点を考慮に入れてもなお同被告人に対しては極刑を科する他はないものといわざるを得ない。一方被告人圭吾は本件犯行の提案者であり、犯行の際の行動において果した役割も被告人軍平に比して必ずしも軽いものとはいえないが、ただ直接殺害行為に出たものでないこと、犯行当時満二〇年に達して間がなかつたこと、非行歴がないことなどを考えれば量刑において被告人軍平とは同一に論じることは相当でないから無期懲役刑を選択して、なお酌量減軽の処置に及んだものである。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 渡辺常造 竹内貞次 青野平)