京都地方裁判所 昭和44年(ワ)1395号 判決 1971年10月12日
原告 坊野遙子
右訴訟代理人弁護士 金川琢郎
同 中元規暉輔
被告 中野蔦恵
主文
被告は原告に対し、金五九万円およびこれに対する昭和四四年一〇月一〇日以降完済するまで年五分の割合の金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は、原告が金二〇万円の担保を供するときは仮に執行することができる。
事実
一、原告の申立
主文第一、二項同旨の判決、ならびに仮執行宣言を求める。
二、請求の原因
原告は、昭和四四年七月二七日、被告から同人の肩書住所地に存在する家屋のうち美容室用店舗の部分約二〇平方米および同店舗に据付けてある美容器具を期間を同年八月一日から昭和四九年七月三一日までの五年間とし、賃料を一か月金二万五、〇〇〇円とし、礼金を六〇万円とし、美容器具使用料を金一〇万円とする約定で賃借し、右契約日に礼金六〇万円を被告に支払った。
原告は、右店舗は従前からよくはやっていたとの被告の説明を信じてこれを借受けたのであるが、そこで美容室を開業してみるとほとんど客はなく、右店舗は従前経営者がしばしば短期間で交替し、近隣の婦人に極めて評判の悪かったことが判明したので、昭和四四年八月末日頃、被告と合意のうえ前記賃貸借契約を解除して右店舗を被告に明渡した。
前記礼金は、いわゆる権利金であって、右店舗の場所的利益の対価またはその賃料の前払的性質を有し、その金額が前記のように賃貸借契約の存続期間に相応して定められている場合にはその場所的利益は期間の経過に応じて償却せられるから、賃貸借契約が期間の中途で終了した場合には、その金額を期間に按分し、右権利金のうち残存期間相当分は返還せられるべきであると解するのが信義則からも合理的である。
そこで、原告は被告に対し、前記礼金から契約終了までの一か月間に相当する金一万円を差引いた残金五九万円の返還および、この金員に対する本件訴状が被告に送達せられた日の翌日である昭和四四年一〇月一〇日以降完済するまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
三、被告の申立
「原告の請求を棄却する。」との判決を求める。
四、被告の主張
請求原因事実のうち、原告主張の日にその主張どおりの賃貸借契約が締結せられ、礼金六〇万円の支払いを受けたことは認めるが、その他の事実は否認し、原告の権利金の性質についての主張は争う。
権利金は賃借物件の場所的利益の対価とともに賃借権譲渡承諾の対価をも含むと解すべきであるが、右礼金は原、被告において返還を要する金員は授受しないことを確認したうえで授受せられたものである。
また、前記店舗は、昭和三七年頃から美容業に供せられ、その営業者に転宅の必要が生じたため賃貸借契約を解約し、次いで被告が自ら美容業を営んだが長女が病気したため廃業したものであって、原告主張のように近隣の婦人に評判の悪い美容室ではなかったところ、原告は、美容業を営む手腕が乏しいか、または営業の努力を怠った末、一方的に右店舗を明渡したものである。
五、立証≪省略≫
理由
前記請求原因のとおりに、賃貸借契約が締結せられ、礼金が支払われたことは被告の認めるところである。
右礼金は、六〇万円という多額であるから、その名義どおり謝礼として贈与せられたものではなく、いわゆる権利金であることはいうまでもない。
そして、土地または家屋の賃貸借契約締結に際して授受せられる権利金の通常の場合の法律的性質については、諸説があるけれども、当裁判所は、要するに賃借権の対価の一部であって、例えば、居住用家屋の場合には賃借人が一旦そこに定住し、店舗用家屋の場合には賃借人が開業準備を終えて営業を常態で継続するなど、賃借人が賃借の目的をいちおう達し得たと客観的に認められる期間を経過する以前に当該賃貸借契約が賃借人の責めに帰すべきでない事由で終了するときは賃借人はその返還を請求することができるが、そうでないときは返還を請求することができないという趣旨で授受せられる金員であると解するのが、信義則に照らして通常の場合の契約当事者の合理的意思に合致すると考える。
本件は美容室用店舗の貸借ではあるが、特に、営業名義、顧客、信用など営業上の利益を付与したことを認め得る証拠はない。また≪証拠省略≫によれば、本件賃貸借契約締結の際、被告は、原告に対し、返還しなければならない権利金は取らないけれども謝礼金は貰う旨告げたことが認められるけれども、≪証拠省略≫によれば、原告はどのような場合にも返還を請求しない旨確約したものではないと認めるのが相当であり、そのほかに本件権利金の性質を前記通常の場合と別異に解すべき資料はない。
そして、≪証拠省略≫によれば、原告は、従前本件店舗では月収一〇万円が挙っていた旨の被告の説明を信じ、その程度以上の収入を期待し、美容営業用として本件店舗を借受けて開業してみたところ、顧客は一日平均約二人、月収約三万円であって、従業員の給料にも不足する有様であり、近隣者からも本件店舗は従前から度々経営者が交替し、顧客は少なかった旨聞いたので、営業継続不可能と判断し、借受けてから約一か月後の昭和四四年八月末日、被告に対し右営業状態を説明して賃貸借契約の解約を申入れ、間もなく本件店舗の鍵を被告に返還し、被告も右申入れを諒承して右鍵を受領したことを認めることができ、この認定に反する証拠はない。
右の事実によれば、本件賃貸借契約は契約締結後僅か一か月で、しかも原告の賃借の目的すなわち美容営業がいまだその軌道に乗らない時期に終了したものであり、その終了原因は、原被告の解除契約であって、原告の責めに帰すべき事由ではないと解すべきである。従って、前記権利金の性質に基づき、被告は、原告に対し本件権利金六〇万円を返還する義務を負っており、本件訴状が被告に送達せられた日の翌日であることが記録から明らかな昭和四四年一〇月一〇日以降その返還を遅滞しているといわなければならない。
そうすると、右金六〇万円のうち金五九万円、およびこれに対する右遅滞日以降民法に定める年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める原告の本訴請求は理由があるから、これを認容し、訴訟費用の負担につき、民訴法九六条八九条を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のように判決する。
(裁判官 東民夫)