京都地方裁判所 昭和48年(ワ)650号 判決 1977年8月05日
原告 嶋本隆太郎
右訴訟代理人弁護士 高橋進
被告 曽根久郎
右訴訟代理人弁護士 前堀政幸
同 前堀克彦
主文
被告は原告に対し金三三〇万円及びこの内金三〇〇万円に対する昭和四八年六月一五日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを五分しその二を被告のその余を原告の各負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し、金一四七〇万一二六四円及び内金一三三〇万一二六四円に対する昭和四八年六月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 亡嶋本隆久(以下隆久と称す)は昭和(以下に於て省略)二一年一二月二五日に出生した原告の長男であるが、四四年九月二日午前六時五〇分頃京都府相楽郡山城町棚倉国道二四号線において自動車を運転中他車と衝突し負傷した。
2 被告は宇治市老ノ木三一番地において仁心会曽根病院を経営している医師であり、同病院において勤務する数名の医師を雇用している。隆久は救急車により同日午前七時二〇分頃被告病院に運ばれ、同病院において入院加療を受けた。ここにおいて隆久と被告との間に医療契約が成立した。隆久は翌三日午前八時三八分同病院において死亡した。
3 隆久の死亡は、同人の治療に当った被告病院に勤務する医師の診療の際の過失によるものである。隆久は入院時において意識は混濁していたが、血圧八〇乃至一三五、脈搏一〇二でむしろ一般状態は良好であったのに、頭部、胸部等に対する諸検査、診断を行わず、状況判断の無いままただ漫然と輸血、輸液を続け、治療の時期を失したばかりでなく、殺人的大量の輸血、輸液によって脳挫傷の増悪と心臓負担の増大により死をもたらしたものである。その債務不履行の具体的内容は次のとおりである。
(一) 気管切開について
被告は隆久に気管切開を行ったがこれは不要のことであった。この切開は意識の有無に拘らず上気道に障害が存在する場合に止むを得ない処置として実施することが認められているが、本件では病状、診断名、死亡診断書記載の病名より考えて隆久に上気道に障害はなかったに拘らず被告はこれを行ったがこれは全く不要の事で、これによってその後の患者の一般状態、特に左外傷性気胸によって呼吸面積が二分の一になった隆久の予后を悪くした。
(二) 気胸について
元来外傷性気胸は徐々におこるものではなく、殆んど一瞬に起るものであるから、入院時所見には書いてないが隆久は入院時既に左肺に完全気胸を起したものと考えられ、安静と同時に直ちに持続吸引によって排気すべきであったのに被告は隆久を入院当日午後一〇時に至るまで放置しておいた。この一四時間の放置がなければ、その後みられたショック状態はまぬがれていたと思われる。ショック状態を起した胸腔内穿刺は行わない方がよかった。
(三) 輸血について
被告は隆久に入院当日午前九時頃より午後三時ころまでの六時間の間に一六〇〇ccの輸血を実施している。当時隆久には失血によるショック状態は全く見られないから、このような大量の輸血は不必要であるばかりでなく、このため著しい血圧の上昇をもたらし頭蓋内出血が促進され、脳圧上昇と脳浮腫の増強をひきおこし、又高血圧によって心臓が衰弱し、肺水腫を起す原因となった。
(四) 輸液
診療録記載により計算すれば隆久には総量六四四〇ccの輸液がなされているがこのため電解質の平均濃度は一七四(mosm/L)となり、血中食塩が蓄積され、外液量を増加させ浮腫をおこすか、本件患者の末期にみられたように心臓衰弱と肺うっ血をおこし、更に脳圧を昇進させる方向に作用したことが推定される。
(五) 尚被告方の診療録は極めて不備、不正確で、外科病院といっても常勤外科医、しかも手術のできる外科医がおらず必要な場合のみ他の病院から外科医を呼んで手術しているとのことで手おくれによる死亡患者があるといわれ本件でも主治医が判らず、院内で責任逃れのたらい廻しにされた感があり被告の責任は重大である。
4 損害
(一) 逸失利益 八三〇万一二六四円
隆久は死亡当時満二二才で四四年三月立命館大学理工学部を卒業し、同年四月から原告の経営する嶋本電気株式会社の取締役として月給八万円を支給されていた。就労可能年数は四一年であり、生活費として収入の五割を控除してライプニッツ方式により計算すると右金額となる。
960000×0.5×17.2943=8301264
(二) 原告に対する慰藉料 五〇〇万円
一人息子を失った原告の精神的苦痛に対する慰藉料としては右金額を請求する。
(三) 弁護士費用 一四〇万円
原告はさきに調停を申立てたが不調となり本件訴訟代理人に本件訴訟を委任し着手金として一〇万円を支払い、報酬として認容額の一割の一三〇万円を支払う約束をした。
5 よって原告は被告に対し債務不履行に基づく損害賠償として金一四七〇万一二六四円と内金一三三〇万一二六四円に対する訴状送達の日の翌日である四八年六月一五日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否と抗弁
1 請求原因1、2の事実は認める。
2 同3の事実は否認する。
被告病院の富永、大垣両医師が隆久の治療を担当したが両医師とも次のように可能な限りの適切な治療を施しているので責任はない。被告の責に帰すべき事由による死亡ではない。
(一) 当時隆久は頭部、胸部に打撲を受け意識混濁状態にあったので担当医はその原因が頭部打撲によるものと判断し頭部のX線撮影を行った。午前八時五〇分になるも隆久の意識は回復せず呼吸困難な状態にあったので気管切開を施し、胸腔内出血の疑いがあったので出血による心臓圧迫を防ぐため午後一〇時岸智医師の執刀で胸腔内穿刺を行った外、外科的治療、注射等を施用し全身状態の良化を図ったがその効がなかったものである。尚入院時の隆久の一般状態は良好でなく気管支切開、強心剤、酸素吸入、喀痰吸引、輸血、輸液で辛うじて一般状態を維持せしめていたに過ぎない。
(二) 気管切開について
隆久の呼吸は努力性かつ速迫で、意識障害を伴っていたので舌根沈下が考えられるし、全肺野に呼吸音どころか濕性ら音と出血による水泡音が聴取され、意識障害が継続する場合、喀痰喀出どころか気管分泌多量のため呼吸が容易でなく窒息も免れない状態であった。そのため隆久の全身管理の一部として呼吸管理によって患者の呼吸を確保するとともに、呼吸困難から脳挫傷患者にもたらされる脳腫脹、脳浮腫を阻止する効果を有するので、極く初期に行うべき基本的な救急処置であるからそれを行ったものでそこに過誤はない。
(三) 気胸について
外傷性気胸は頭部外傷の場合は中枢部からの呼吸障害を来たすので、気胸を合併する場合は単に持続的吸引にとどめて、中枢性障害の対症療法に全力を注ぐのが通例である。本患者の場合は頭部外傷の程度が強いため、そのショックや脳障害の経過を見たうえで全身状態を考え、一四時間後に胸腔穿刺を行ったもので適切な処置である。その診断を誤ったとか治療時期がおくれたということはない。
(四) 輸血について
患者の外傷度、創の多様性および骨折等の因子を考えれば、外傷部位は勿論のこと広範囲に及ぶ軟部組織においてもかなりの出血および血液のうっ積が当然予想され、循環血液量の減少を補うため輸血は必要であったから二〇時間内に七本程度の輸血は必要であった。
(五) 輸液について
外傷特に骨折を伴う様な組織挫滅の強い患者には早期にかなり多量の輸液を用いなければ効果がなく、出血又は水分蒸失量だけを補うというのではなく、損傷組織に集積した細胞外液を補給、増強して血液量の減少を阻止し、ショックへの移行をくいとめることが必要であったから本患者の場合輸液が不必要に大量使用された事実はない。
3 同4の事実は争う。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因1、2の事実は当事者間に争いがない。
二 《証拠省略》によれば次の事実が認められる。
1 被告の経営する仁心会曽根病院は救急病院の指定を受けているが、当時、被告以外に専任、常勤の医師がおらず、本件に於て隆久が自動車事故で入院した九月二日午前七時二〇分頃、隆久の診療に当った訴外富永芳徳医師は前年一一月に医師免許をとった前夜九時から翌朝九時迄の当直医(週に一回)であり富永医師から翌日になって診療を引継いだ大垣和久医師もそれより約三ヶ月前に医師資格を取得したばかりのパートタイムの医者であり、又後記のごとく翌三日夕方から来て隆久に胸腔内穿刺を行った岸智医師は被告の要請で不定期に招かれる医師であり被告自身外科医師でありながら後記のごとく原告の強い要請にも拘らず隆久が入院後約二五時間して死亡するまで遂に一度も隆久の診療に当らなかった。
尚甲一号証のカルテの中、一枚目表の病名のところは大垣医師が書き(それも二ヶ所左と書くべきところを右と書いている)、四枚目表は岸医師が書いたがその他の部分は誰が書いたかどの医師が当ったか判然せず、特に入院初期の各症状、排尿の状況、出血量、腎機能についての記載がほとんどない。又大垣医師は隆久の頭部外傷はⅡ型からⅢ型に移行したものと判断しているのにカルテにはⅢ型からⅣ型に移行した旨記載されてある等このカルテの記載の中大垣医師が書いたという部分はその当時書かれたものでないという疑が強い。
2 隆久が被告病院に搬入されたとき前記のように富永医師が当直医であったので直ちに診療に当った。隆久の外表面に大きな切開創はなかったが、下顎骨々折、左肋骨々折があった。口から咽頭部分に肺からかと思われる出血があり、又左肋骨々折により胸腔内に出血があると予想されるとともに、上腕から側胸部、前胸部にかけて肺から空気が漏れていることによるとみられる皮下気腫が認められた。意識は混濁していたがショック状態ではなかった。左右いずれかの瞳孔が少し大きく頭部に何らかの障害が予想されたが富永医師にはその判断ができなかった。いずれにしても重篤な状態だったので、院長に電話して外科医師に来てもらうよう連絡するとともに神経学的検査、呼吸、循環の管理につとめ、ブドー糖とビタカンファーの点滴、導尿、血圧測定、輸血の用意のため血液を遠心分離器にかけ交差テストを行った。当初の血圧は一三五と八〇で比較的安定し脈搏は一〇二であった。
隆久は肋骨々折による肺からの出血が口から咽頭のあたりに時々上って来ており、分泌物もかなりのどにたまっていたので富永医師は気管の閉塞を防ぐため吸引を盛んにするとともに酸素吸入を行った。しかし口からの吸引だけでは十分奥まで吸引しきれないのと呼吸管理を充分行うため富永医師は午前八時五〇分気管切開術を行った。同医師はレントゲン検査と輸血は行わなかった。同医師は隆久に一番緊急を要するのは肋骨々折による胸腔内の出血の処理と呼吸管理であると考えて治療に当った。
3 富永医師の当直時間が終ったので同日午前中大垣和久医師が来院し、富永医師の診療を引継いだ。同医師は隆久の全身管理即ち循環管理と呼吸管理を行った。その為輸血、輸液を行うとともに皮下気腫が認められたのでそれが気胸であるか胸腔内出血による血胸かの判断の為同日午後レントゲン写真をとったが同医師は気胸か血胸かの判断は出来なかった。
同医師の診断でも隆久の状態は意識混濁、瞳孔不正であり、その症病名は頭部外傷Ⅱ型からⅢ型へ移行したと判断した。同医師は隆久に脳圧亢進があるとは思わなかったので脳圧の検査は行わなかったし脳挫傷について特別の治療を講ずることはなかった。
4 同日即ち九月二日夕刻になり被告の依頼を受けた岸智医師が他の勤務を終えて来院し隆久の胸部と頭部の状態について大垣医師とともに診察にあたった。その結果脳挫傷がかなり強度であること、胸部に内部損傷があることが疑われたので先ず試験胸腔内穿刺をした結果緊張性気胸が起っていることが判ったので、午後一〇時頃内部の空気を出すため胸腔内穿刺をしてドレナージによる持続吸引を行った。この結果呼吸はやや改善されたように見えた。
術後経過を見るためレントゲン写真をとった。頭部については同人の判断及び脳内出血の有無についての検査ができていなかったので手術等の処置をとることはなかった。
5 隆久の血圧、脈摶、その他をカルテによってみると次の経過を辿った。
時刻
血圧
脈搏
施行した治療方法等
九月二日午前
七時二五分
一三五と 八〇
一〇二
〃三五分
一二〇と 八八
一二六
〃四五分
一五〇と 九〇
〃五〇分
一六〇と一〇五
〃五五分
一一四と 八八
〃五六分
一〇八と 七八
八時 二分
一三〇と 九〇
九六
〃五〇分
一九八と一一〇
気管切開施行
九時三〇分
二〇〇と一二〇
輸血六本と輸液一〇五〇cc
〃五〇分
二一〇と一一〇
一〇時 〇分
一八〇と一〇〇
一一八
〃三〇分
一六八と一一〇
吸引施行
一一時 〇分
一五四と 九二
〃三〇分
一七四と一〇〇
一三六
吸引施行
〃四五分
一五八と一二〇
〃五五分
一三〇と 九八
一二時一五分
一三八と一〇〇
〃三五分
一三八と 九六
一一二
輸血一本
九月二日午後
一時 〇分
一四〇と 八〇
一二六
〃三〇分
一四八と 九八
一一四
〃五五分
一五〇と一一〇
二時 七分
一六〇と 九〇
〃二〇分
一六四と一〇〇
一三六
〃三五分
一八八と一〇〇
一二〇
〃四五分
一八四と一〇〇
一一六
吸引施行
三時 〇分
一八四と一〇〇
一二六
一時呼吸停止あり
〃一五分
一八四と一〇〇
輸血一本
〃三〇分
一七〇と一一〇
吸引施行
〃四五分
一五〇と一一〇
一〇二
四時 〇分
一六〇と一一〇
吸引施行
四時三〇分
一六八と一一〇
〃四五分
一七〇と一一〇
〃五三分
一七〇と一二〇
一一四
五時 五分
吸引施行
〃三〇分
一七〇と一一〇
〃四五分
一六〇と一一〇
吸引施行
六時三〇分
一五〇と一〇五
七時
一〇八と 七〇
〃三〇分
八〇と 五〇
〃五〇分
七五と 五〇
九時一五分
九四と 三〇
一二〇
〃二五分
九八と 六六
一一四
一〇時二〇分
一一六と 五五
ドレーン挿入
〃四〇分
九六と 六八
一一時二〇分
一〇五と 八〇
〃三五分
一二八と 九六
九月三日午前
一時四〇分
一三六と 九四
二時一五分
一八〇と一二〇
一〇八
三時
一四四と 七四
一二〇
四時一〇分
一四二と 九八
五時四五分
一六〇と一一〇
吸引施行
六時 六分
一五〇と一〇五
〃三〇分
一三〇と 九〇
七時
一〇八と 七〇
吸引施行
〃三〇分
八〇と 五〇
八時
瞳孔不同来る
〃三〇分
死亡
6 右の経過中即ち入院当初より死亡時までの約二五時間内に最初は富永医師ついで大垣医師の指示で投与された輸液の量は合計四五〇〇ccであるが、その内脱水剤のマニトール一〇〇〇ccが含まれていた。
又大垣医師の指示で九月二日午前九時三〇分から同日午後三時一五分迄の間になされた輸血量は合計八本で一六〇〇ccであった。隆久の外表面に出血部位は余り認められなかったが、骨折に伴い口腔内および胸腔内に出血がありそれを補うためなされたものであるが、その出血量はカルテによっても明らかでなく、一六〇〇ccという量は大垣医師の推量にもとづく必要量であった。
7 原告は急をきいて二日午前一〇時近い頃被告方へ馳けつけ手術室で隆久を見たが外傷は見当らず顔の状態は青くなく名前を三、四回読んだところ返事はなかったが身体を少し動かした。帰ろうとしている富永医師に怪我の程度をきいたところ頭部と胸部を打っているということであり、どちらが怖いかときいたところ「胸部だ」といい「胸の方は大分おさまって来ました」といって帰って行った。その後大垣医師が来るまで時間がかかったので院長への面会を求めたが取りついでくれず、漸く電話で被告と話すことができたので「帰られた先生に診てもらったら胸と頭を打っているが胸の方が危険だといわれた。胸部なら胸部、頭部なら頭部の専門医に診てもらいたいし院長にも是非診て手当をして欲しい」といったところ、被告は善処を約したが遂に一度も姿を見せず、夕方になって漸く岸医師が来て前記診療を行った。
8 隆久の死亡診断書は長村俊平が作成者となっており、その死亡原因としては頭部外傷Ⅳ型から来た脳挫傷、その他の状況として下顎骨々折、肋骨々折、気胸と書いてある。
《証拠判断省略》
三 鑑定人龍田憲和の鑑定とその証言によれば人体に肋骨々折があり、それが肺を刺した場合、胸腔内に空気と血液が入り気胸、血胸となり、胸腔内の空気は胸膜損傷部位から胸壁軟部組織に入り皮下気腫を形成する、その気胸のうち進行性のものを緊張性気胸といい、その場合は胸腔内持続吸引処置をとって空気を吸引すべきであるが、肺損傷が大きい場合は開胸手術による肺損傷部位の縫合閉鎖、切除を必要とし出血量が大量の場合は開胸術による出血点の処置が必要である。
本件に於て岸医師が二日の午後一〇時頃持続吸引法をとったのは同医師がその時それを必要と考えたためであり、これにより所期の目的を達しているがその時より早い時期に緊張性気胸となっていたかどうかは判らない、緊張性気胸が起っているとき持続吸引法をとるのがおくれると強い循環障害が起って血圧が下り、呼吸困難、酸素不足からのチアノーゼが現われ生命に危険をもたらす、本件のカルテだけでは持続吸引法をとるのが遅れたとは読みとれないという。
又鑑定人森惟明の鑑定とその証言によれば、成人で水分摂取が経口的に行われないときの輸液必要量は二〇〇〇ccである、意識障害のある患者に気胸が合併していると気道確保が困難な上肺での換気量が減少するので輸液をすると脳挫傷がある場合、脳腫脹、脳浮腫を増強し、脳圧血圧の上昇を来たすので前記二〇〇〇ccをこえない方がよい。輸血量も出血量と同じ位がよい、本件の場合約二四時間内に隆久に対してなされた輸血量は一六〇〇cc、輸液量は四五〇〇ccであるが、この中には一〇〇〇ccの脱水剤(マニトール)が含まれているので、腎機能に著しい障害がない場合、水分は一時間もしないうちに尿として出るので三五〇〇ccとみてよい。この程度なら死亡と関係はないであろう、頭蓋内の脳圧が上るとその圧力は抵抗の一番弱い首と頭の接合部の大後頭孔(そこには人間の生命維持に必要な延髄のような中枢がある)を圧迫し、呼吸、心臓停止をもたらす、頭部に挫傷を受けた場合出血があるかないかにより、出血がない場合はそのまゝとし、出血による血腫がある場合はそれを除去せねばならないので脳血管撮影を行うのがよいがその設備がない時は試験のための穿頭術(孔をあけること)を行うのがよい。本件の場合隆久の意識障害が持続していたので強い脳挫傷を受けたと考えられ、仮に脳血管撮影で頭蓋内血腫がみつかり血腫除去を行っても予后は悪かったろうという。
四 そこで前記一、二の認定事実に対し三の鑑定結果等をあてはめ当裁判所は次のとおり判断する。
1 気管切開について
本件に於て隆久は頭部と胸部を打ち当初来意識混濁の状況が続き遂に死亡したものである点よりしてその死亡の主因は頭部挫傷にあったものと当裁判所も考えるが、それにしても患者の呼吸、循環等の全身管理を行うことは必要であったから富永医師の行った気管切開は当時の隆久の一般状態が重篤で、下顎骨々折、肋骨々折等に伴う出血、体液等が咽頭、口腔内に存在しており呼吸困難による窒息死や酸素の供給不足による頭部、胸部等への悪影響を防止するため当然行うべき必要な処置であったからこれを以て不要なことであったという原告の主張は理由がない。
2 輸血、輸液について
富永、大垣両医師の指示による輸血、輸液はその量がこえれば患者の血圧、脳圧を上昇させるものであり、又その通り二日午前八時五〇分の気管切開施行後頃や九時三〇分頃の輸血時に於て隆久の血圧が最高二一〇に達する位上昇しているのであるから血圧胸圧の上昇防止のためそれを考えて慎重に行うべきものであったのに前記医師らがその点に余り注意を払った形跡がないのは同医師らが、隆久の脳挫傷のことを余り考えていなかったためかと思われ、適切を欠くものがあったといわねばならない。輸液の総量四五〇〇ccの中には脱水剤一〇〇〇ccが含まれているからそれを引けば三五〇〇ccだというのは理解できるが、当時の隆久の尿量はどれ位あったか腎臓に欠陥があったかなかったかについてはカルテに一切記載がないから不明であり原告代理人のいうごとく脱水剤といえども体内を通過するものであるから排水されるまで多少とも時間がかゝりその間は血圧、脳圧を上げる作用をしなかったとはいえず、現に輸血、輸液后に血圧が急上昇していること特に二日午前九時三〇分頃から輸血一六〇〇ccと輸液一〇五〇ccを余り時間をかけず一挙に投与したのは血圧、脳圧上昇を促進したと認められるので適切な処置であったとは認められない。
3 持続吸引法について
前記認定のごとく隆久は入院時に皮下気腫が存在したので富永医師は気胸の疑いをもったが、それが進行性のものか否か判断できなかった。通常気胸が存在した場合それが段々空気が漏れて進行し緊張性気胸になるか、漏れが止って緊張性気胸に至らないかはその後の経過観察によらざるを得ず、緊張性気胸に進行したと判断されたときは、持続吸引を行うべきだとされていること前記のとおりで鑑定人龍田憲和の鑑定結果によれば、二日午後にとった最初のレントゲン撮影の写真によれば既に緊張性気胸が判明していることが認められるのでこの頃持続吸引を開始すべきであったと考えられるのに大垣医師はこの判断ができず、又判断は出来ても同医師には持続吸引法を行う技術と経験がなかったものと推測され、二日夕刻岸医師を招いて漸くこの手術を行ったのは少くとも早い処置ではなかったといえる。カルテによると九月二日午後三時頃一時呼吸停止があったことが認められるので持続吸引法はもっと早い時期に行った方がよかったのかも知れない。
4 以上のごとく富永医師の行った気管切開については問題とする余地がない。又輸液、輸血、持続吸引法の施行はそれ自体必要であったが輸血、輸液についてはその総量と九月二日午前九時三〇分頃これを一挙に多量投与したことは問題であり持続吸引法ももっとこれを早く施行した方がよかったものと判断されるのでその限度で被告や被告の履行補助者の処置が適切であったとは認められないが、鑑定人森惟明の前記説明にあるように隆久の意識混濁は当初から続いていてかなり強い脳挫傷を受けていたことが推定され、隆久の救命は所詮難しかったのでないかと認められるので叙上の不手際と隆久の死亡との間に直接の因果関係があったとみることは難しいといわざるを得ない。
5 しかしこのことは隆久又は隆久が意識混濁の状況にあった場合の代理人と目すべき原告に対し、被告に全く債務不履行の責任なしと認めるのは相当でない。即ち本件のごとく患者が重大な傷病を負い被告のような救急病院に搬入されその処置を委ねた場合、患者やその家族は医師に対し速やかに最善の治療方法を採ることを依頼し被告もそれに応じたのであるから被告はそれだけの責任を尽すべき義務があったといわねばならない。このことは救急病院の指定について定めた昭和三九年二月二〇日の厚生省令八号一号が、救急病院の指定規準が「事故による傷病者に関する医療について相当の知識及び経験を有する医師が常時診療に従事していること」と定めていることによっても明らかである。
然るに本件の場合被告は相当な知識経験があるとはいいがたい医師免許取得後一〇ヶ月の富永医師と、医師免許取得後三ヶ月にしかならないパート医の大垣医師に隆久の診療に当らせたのみで責任の所在の明確な常勤の医師に診療させず、原告の強い要請にも拘らず被告自ら外科医でありながら最後まで診療に当らなかった債務不履行がある。原告は隆久が頭部と胸部に傷害を受けていることをきき特に頭部の傷害が生命に危険なことは素人の原告にも判ったので被告に対し速やかに夫々の専門医に診療してくれるよう強く依頼したに拘らず被告は経験の少い大垣医師に診療に当らせたのみであったため同医師は全身管理というありふれた診療方法以上のことが出来ず、漸く夕方になって岸医師を迎えて持続吸引法をとったに過ぎないことは救急病院として適切十分な処置が行われたとは解しがたい。
又前記のように九月二日午前九時三〇分頃から一挙に輸血一二〇〇ccと輸液一〇五〇ccを投与したごときは当直医の富永医師と大垣医師との引継ぎが十分に行われなかったか看護婦が医師の十分な指導管理を受けなかったため隆久の脳挫傷のことを余り考慮せずにこれを投与し、その結果血圧を二一〇迄急上昇させ患者によい結果をもたらさなかったことが疑えるのであってこれも被告の方の診療体制に欠陥のあることを物語っているといえる。
救急病院といえども常に完璧な診療が行えるとは限らないが被告は救急病院を以て任じている以上、患者に対しそれにふさわしい診療体制をとって診療を行い、被告の体制では手に負えぬ患者かどうかを見きわめ、もし被告の方で手に負えぬ患者だと判断したら即刻然るべき医師を招くなりその処理の出来る病院へ送って適切な処置を仰ぐべきであり本件は昼間のことであったからそれが可能であったのにその配慮があった形跡が少く経験の少い大垣医師に荏苒これを委せておいたことは急を要する本件患者に対し責任を尽したとは解しがたい。人間の生命は神秘であり特に年若い隆久に脳挫傷その他についてもっと早く適切な診療が行われたら別の方向を辿ったかも知れないし、所詮死亡は免れなかったにしても更に命永らえたかも知れないのである。医師の責任はその程度に重いといわねばならず、被告はこれを尽さなかったという原告の不満は理由がある。
原告本人尋問の結果によると原告は隆久のこの約二五時間の診療の費用として被告に五〇万円を支払ったことが認められるように被告は救急病院の指定を受けそれを経営している以上、当裁判所の以上の判断はやむを得ない。
従って被告は右の点で不完全履行があるので債務不履行として原告に次の損害を賠償すべきものといわねばならない。
五 損害について
(1) 慰藉料 三〇〇万円
以上説明のごとく被告の処置に不適切のものがあったがそれがなかったら隆久の生命が助かり平均余命に相当する期間生存し得たであろうということも出来ないので隆久が平均余命相当の期間生存し得たことを前提とする逸失利益の請求を認めることはできないが、隆久の診療の委任を受けた被告が当時とった処置は不十分であり不完全履行の責を免れずそれに対する損害賠償は原告に対する慰藉料のみとする外なく、その金額は一切の事情を考え金三〇〇万円を以て相当と認める。
(2) 弁護士費用 三〇万円
本件と相当因果関係のある弁護士費用は右金額を以て相当と認める。
以上の合計三三〇万円
六 以上のごとく原告の本訴請求は被告に対し前記三三〇万円及びこの中の三〇〇万円に対する本件訴状送達日の翌日であること記録によって明らかな昭和四八年六月一五日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を命ずる限度で理由がありそれ以外の部分は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担等につき民訴法八九条、九二条一項本文、を適用して主文のとおり判決する。
尚仮執行の宣言はその必要なしと認めこれを付さない。
(裁判長裁判官 菊地博 裁判官 小北陽三 亀川清長)